「ちゃり鉄」の原点
幼少期の鉄道の記憶
私は、近鉄生駒駅から宝山寺を経て、生駒山上遊園地に至るケーブルカー(近鉄生駒鋼索線)沿線で、乳児期を過ごした。物心つく前の当時の事は、ほとんど何も覚えていないが、断片的な記憶の中には、家の裏手を登り降りするケーブルカーの線路の残像がある。
その後、近鉄大阪線・奈良線の複々線を見下ろす高層マンションの一室に引っ越し、小学4年生までの期間を、過ごすことになった。

~ちゃり鉄10号 2017年3月~

~2015年4月~
そういう生まれ育ちがどの程度影響したのかは分からないが、物心ついた時には、既に、鉄道少年になっていて、眼下を足繁く行き交う近鉄電車を、飽くことなく眺めていた。
画用紙で作った手書きのサボを使って電車ごっこをしたり、図書館から借りてきた全線全駅シリーズの本をノートに書き写したり、結構、のめり込んでいたように思う。
休みの日には、祖父母・両親らと、郊外の大型スーパーに自家用車で買い出しに行くのが常であったが、その近くには、近鉄の玉川工場があり、奈良線の車両の他、普段、あまり目にすることのない珍しい車両が留置されていることもあった。
車の窓越しにちらっと見えるその風景を、もっと、じっくりと眺めたくて、親に内緒で、遠出して見学に出掛けたりしたこともある。



~小学館コロタン文庫「私鉄全百科」より転載~

~小学館コロタン文庫「私鉄全百科」より転載~
また、当時は、現在のなんばパークスの敷地に大阪球場があり、スケートリンクが併設されていたのだが、小学生低学年の数年間は、そのスケートリンクで日曜日に開催されるスケート教室に参加していた。
実際には、スケートを習うことよりも、自宅の最寄駅から近鉄の難波駅までの往復運賃を親からもらい、公然と近鉄電車に乗ることが出来るのが楽しみだったのだが。
途中の上本町駅では、特に必要もないのに、大阪線の地上駅と難波線の地下駅との間を行き来したりした。
地上駅は、7面6線の頭端式ホームを持つ、近鉄創業以来の歴史あるターミナル駅で、大阪線の短・中距離列車の他、伊勢志摩方面への長距離列車も発着している。
駅の一角には、行き先や列車種別を示したサボがラックに収められていた。
時々、珍しいデザインや行き先のサボが収められていることがあり、見ているだけでも楽しかった記憶がある。
既に、サボは廃止されて久しく、駅名も大阪難波、大阪上本町と改称された。
特に、大阪難波は、阪神電鉄との相互乗り入れにより、終着駅から通過駅となるなど、大きな変化も見られる。
しかし、それぞれの駅の雰囲気は、往時とあまり変わることはなく、上本町駅で、地上駅と地下駅を行き来するのは、今も、変わらない。

~2015年10月~

~2020年6月~
頻繁に行き交う近鉄電車の中では、伊勢志摩方面への特急が大好きだった。
当時、既に古参車両となっていたエースカーは、走行音が他の車両と違ったため、室内に居ても、通過するのが分かった。私は、その風貌から、ムンクの「叫び」の絵を連想したものだ。
スナックカーは、当時、既に営業を休止していたように思うが、スナック部の独立窓や、ニヒルに見える風貌が、高嶺の花に思えた。
そんな近鉄特急の中でも、特に、賢島行き2階建て特急30000系「ビスタカー」は憧れの的だった。

~近鉄Webサイトより転載~

~近鉄Webサイトより転載~

~近鉄Webサイトより転載~
近鉄の特急は全席指定の有料特急なので、普通運賃の切符だけでは乗車することが出来ないのだが、時々、「間違えて乗ってしまった…」という顔をして、難波から上本町まで、上本町から鶴橋まで、というように1区間だけ、コソッと乗り込んだりしていた。
駅員に見つかって怒られたことも何度かある。
憧れのあまり、みんなで小遣いを持ち寄って、親に内緒でビスタカーに乗る計画を立てたりもしたが、毎日の小遣いが10円の小学生に、そんなお金が準備できるわけもなく、近鉄奈良線や生駒線の旅しか出来なかった。
当時の生駒線は、2両編成の旧型車が走る単線のローカル線で、東山駅付近では、物寂しい山間に、無人駅があって、驚いた記憶がある。当時から、ローカル線は好きだった。
憧れのビスタカーの旅
私の家族は、鉄道には全く興味がなかったので、鉄道に乗ることを目的とした旅行に連れて行ってもらうという機会はほとんど無かったのだが、一度だけ、曽祖母に連れられて、賢島行きの特急「ビスタカー」に乗せてもらったことがある。
この日帰り旅行は、肝心のビスタカーの写真が残っておらず、憧れの2階建て特急は、「2階は揺れるから」という理由で、1階のボックス席での旅となったが、行きも帰りも席に落ち着くことなく車内探検をしてまわり、「車掌に見つかったら怒られやしないか?」と、内心、ビクビクしながら2階席の通路を行ったり来たりしていた。
賢島では、曽祖母が真珠の品定めをしている合間に、辺りの海辺で、図鑑でしか見たことがなかった、毒クラゲの「カツオノエボシ」を発見して興奮し、伊勢市駅を出発した帰りのビスタカーが、国鉄参宮線の気動車と並走する場面に興奮し、始終、興奮しっぱなしだったと思う。
あれから30年余り。
2015年の10月に、近鉄特急に乗る旅をしたことがある。
30年来の念願を叶え、近鉄ビスタカーの2階席で旅した時には、40代目前だった。
西大寺発、橿原神宮前行き。橿原神宮前発、京都行き。京都発、奈良行き。奈良発、大阪難波行き。
同じ編成の列車の、ほぼ同じ席に乗り続けて、2階席を満喫した。休日の朝だったこともあり、他に乗客は居なかった。
旅の日程の都合で、賢島行きのビスタカーには乗車しなかったが、次は、賢島まで、ビスタカーで行ってみたいと思っている。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

~西大寺駅・2015年10月~

一階、二階の間の階段部分で写真撮影
~2015年10月~
思い出の鉄道図鑑
祖父には、近所の書店で、鉄道図鑑を買ってもらうことがあった。ボロボロになり補修だらけの図鑑は、今も、私の手元にある。
特急や電車の図鑑が多いが、国鉄にはあまり縁のなかった私にとって、国鉄の気動車特急やブルートレインは、近鉄「ビスタカー」と並んで、憧れの的であった。
キハ82系、「まつかぜ」、「ひだ」、「南紀」、「おおとり」…。
キハ181系、「あさしお」、「はまかぜ」、「しおかぜ」、「南風」…。
ブルートレイン、「日本海」、「ゆうづる」、「あけぼの」、「なは」…。
私の中の、鉄道の旅の原風景は、近鉄の特急や、これらの国鉄型特急とともにある。


~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~

~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~

~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~

~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~

~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~

~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~

~講談社パーフェクトシリーズ「ブルートレイン」より転載~
新幹線とブルートレインの記憶
小学生時代には、もう一つ、思い出に残る鉄道の旅がある。
それは、1983年に開園した東京ディズニーランドへの旅だった。
この旅は、我が家にとっては珍しく、往復とも鉄道を使っての旅だったが、往路は東海道新幹線0系、復路は20系寝台急行「銀河」に乗車した。

~Wikipediaより転載~

~Wikipediaより転載~
新大阪駅を出発する時に、動き出した車両に感激し、帰りの「銀河」では、三段寝台の最上段に陣取り、はしゃいだ記憶がある。
帰りの東京駅では、「銀河」に乗り遅れそうになり、京葉線の地下駅から東海道本線の地上駅まで、走りに走った。異常に長く感じた記憶があるが、実際、京葉線から東海道本線への乗り換えは、今でも、同じ駅とは思えないくらい時間がかかる。
息を切らせて「銀河」に飛び乗ると同時、まだ、デッキに居るうちにドアが締まり、出発した。
一夜明けた寝台急行は、朝霧の山里を走っていた。
恐らく、滋賀県内を走っていたものと思うが、寝ても覚めても鉄道に乗車しているという体験は、ブルートレインの旅を、強烈に印象づけるものだった。
この時の旅も、写真はほとんど残っていない。
20系客車に乗った、唯一の機会だったと思うが、その写真が一枚もないのが残念だ。
後年、博多南線で新幹線0系の車両に乗車したり、就活や出張で24系客車の「銀河」に乗車したりする機会があったが、既に、両者とも過去帳入りしてしまい、思い出を追体験する機会は無くなってしまった。

~博多駅・1998年6月~

~大阪駅・2001年7月~
アウトドアの目覚め
私の家族は、いわゆるアウトドア派ではなかったので、子供時代を通じて、家族でキャンプなどをしたことはない。
大阪の自宅周辺は、公園に植えられた木々が「自然」であり、川と言えば、三面コンクリートの護岸に固められた、深緑色のヘドロ臭漂うドブ川だった。
そういう環境の中で、私は、不思議と、外遊びが好きな小学生だった。
公園では木登りをして蝉取りに興じ、自転車に乗れば校区外まで遠出していた。
学校の遠足では、必ず、教師の目の届かない山林に、「探検」をしに行った。
毎年夏休みには、祖父母らに連れられて、親戚が住む兵庫県の里山に出かけるのが、恒例行事だったのだが、大阪とは違い、田んぼや畑、山林に囲まれた里山の自然の中で、朝から晩まで、一人で走り回っていた。
学習塾に通ったことはなかったが、理科実験を主体とした教室に通っていて、爆弾を作ったり、豆腐を作ったり、学校の休みの期間には、小豆島にある合宿所に行って、自然観察をしたりするのが好きだった。

最近は、水質が改善してきているが…

木々の樹形は40年前と変わらない
小学5年生になると、父親の仕事の都合で、金沢に引っ越すことになった。
家の近所に田んぼがあり、河川敷の土手に土筆が生えている環境は、私にとっては、魅力的だった。
近所の犀川沿いにはサイクリングロードがあった。
上流に向かえば、奈良岳を水源とする犀川の源流域に達した。自転車で行ける限界の犀川ダムに至る道沿いには、熊走・駒帰などの廃村があった。犀川ダムから奥地に車道は通じておらず、幻の滝・犀滝が掛かる秘境であった。
下流に向かえば、犀川河口の金石港に達した。釣りを覚えたのは、この金石港だった。金石港は、長大な加賀海浜に開かれており、南西に向かえば、福井県に通じる加賀海浜自転車道、北東に向かえば、能登半島に通じる能登自転車道に達することが出来た。
きれいな海も豪雪地帯の山も近い環境の中で、釣りやスキーといった趣味が、私の生活に、新たに加わった。

~Wikipediaより転載~

~ 「金沢物語」より転載~

~2007年5月~

~2007年5月~
この時期、国鉄は分割民営化によって消滅し、鉄道を取り巻く社会の情勢は、大転換を迎えていたのだが、趣味が増えて、相対的に鉄道への興味が薄れつつあった私は、そのような変化を知る由もなかった。
陸上競技と自転車と
転校先の小学校では、マラソン大会があり、卒業までに2回、参加した。
1年目は15位、2年目は3位になり、それがきっかけで、中学生になると、陸上競技部に入り、長距離を走り始めた。
トラックレースよりロードレースや駅伝が好きだったため、一人で、県外のロードレースに出かけることもあったが、いくつかの大会では、部門別で大会新記録を残すことが出来た。
当時は、鉄道への興味が薄れていたとは言え、県外のレースに参加するときは、北陸本線の特急に乗るのが楽しみだった。
雷鳥、加越、しらさぎ、白鳥といった特急に乗る機会があったように思う。
陸上競技とほぼ同時に、自転車でのサイクリングにも、本格的に取り組むようになり、中学の入学祝いに購入してもらった、ドロップハンドルのツーリング風自転車で、能登半島1周・2泊3日の自転車の旅に出たりした。
中学2年の時のこの旅は、初めての一人旅、初めての野宿旅だった。
近所のホームセンターで買った、「緊急用テント」とは名ばかりの、単なる、「底の抜けたゴミ袋」で、輪島、七尾のキャンプ場に泊まりながら、能登半島の名所・旧跡を訪ねて旅をした。
輪島のキャンプ場では、隣の家族から「それがテントか!?」と小馬鹿にされ、漂って来るバーベキューの匂いに腹をすかせつつ、パンをかじるだけの侘しい夕食を済ませた。
そして、文字通り筒抜けの袋の中で、蚊に刺されまくってボコボコになりながら、眠れぬ夜を過ごした。
しかし、そんな旅の方が、むしろ思い出深い。
この旅の道中ではインスタントカメラで写真を撮影し、帰宅してからは、図書館で借りた郷土史や地誌を紐解きながら、紀行を書き上げて、夏休みの自由研究とした。
当時から、単なる旅日記ではなく、歴史や地理の知識を背景にした、紀行を書きたいという思いはあったようだ。

私自身は、意識の上では、自分のスタイルは、「旅行」や「キャンプ」ではなく、「旅」や「野宿」だと考えているが、その原点は、この辺りにあるのかもしれない。
大学進学のこと
高校時代は、陸上競技に没頭していたが、2年の頃から、大学進学についても考え始めた。
小学生の頃から、自然保護について興味があったのだが、今西錦司の「自然学の提唱」や「自然学の展開」を読んで感銘を受け、氏が在籍した京都大学に興味を持つようになった。


まだ、インターネットが普及する前の時代だったため、教師のアドバイスに従い、いくつかの大学の理系学部に手紙を書き、自然保護に関する学問の有り様などについて尋ねたりもした。
事務局からパンフレットを送ってくるだけの大学が多かったが、中には、返事がない大学もあった。
その中で、唯一、京都大学は、教育担当の教授が、直筆の手紙と学部生向けのシラバスなどを含めた、一番丁寧な返事をくれたため、それが決め手となり京都大学を志望校に決定した。
高校3年生の春のインターハイ県大会では、レース中に転倒し、全国大会どころか、北信越大会にすら、出場することが叶わなかった。進学を考えるなら、通常は、そこで引退することになっただろう。
しかし、不完全燃焼のまま、高校時代の競技を終える決意がつかず、結局、秋の高校駅伝県大会まで出場し、過去、不出場・最下位という記録しかなかった母校で、奇跡的な総合入賞を果たすことが出来た。
一方で、受験には失敗し、一年浪人することになり、親元を離れ、京都で予備校の寮に入ることにした。
もし、現役合格をしていたら、地元の新聞社から取材を受ける話もあったのだが、そこで落第するのが私である。
浪人時代の一年は、忍耐の一年ではあったが、最終的には、目標を達成し、京都大学に進学することが出来た。
志望動機がはっきりしていたので、現役時代も浪人時代も、いわゆる滑り止め受験ということはしなかった。
受験スタイルとしては珍しい方だが、そういう「生き方」が私の本質なのだと思う。そして、その「生き方」は、就職活動においても、変わらなかった。
この頃は、鉄道やアウトドアからも離れ、陸上競技や受験が、日常生活の中心にあったが、時折、息抜きのために、日帰りで旅をすることがあった。
本格的な一人旅へ
大学に進学すると、生活は陸上競技を中心に回ることになった。
しかし、1回生の夏に発症した腰椎椎間板ヘルニアの影響で、怪我や不調が多く、大学院を卒業するまでの6年間の学生生活において、陸上競技で大成することはできなかった。
結局、ハーフマラソンでの1時間9分7秒が、自己最高記録となった。

~大学時代~

~大学時代~
陸上競技部での生活は、春先のトラックレースと合宿、夏の対抗戦と合宿、秋の駅伝、冬場のロードレース…と、一年を通して、ポイントとなるレースや競技会・合宿が続き、長期に渡ってトレーニングを休むという期間は取れなかったが、それでも、お盆の時期や年末年始などには、オフの期間があった。
1回生の夏は、名古屋でのトラックレースの後、中央西線や信越本線の鈍行を乗り継ぎ、妙高高原での夏合宿に臨んだのだが、この時の鈍行乗り継ぎの経験は、子供の頃の鉄道熱を復活させるに十分だった。青春18切符という、乗り放題切符の存在を知ったことも、大きなきっかけとなった。
そして、この年の年末年始、部活動のオフの期間を利用して、青春18切符2枚を使った、鉄道の旅に出ることにした。
本州を一周するとともに、青森~函館、下関~博多、岡山~高松の各区間を往復して、北海道、九州、四国にも上陸する旅であった。北海道、九州は、この旅が初上陸だった。
旅のスタートは、古き良き夜汽車の面影を残す、今は無き「新宮夜行」だった。
正確な記録が手元にないため、間違っているかもしれないが、当時は、列車番号2921M「快速」として運転され、新大阪発新宮行きのみで逆方向はなかったと記憶している。
この列車は、「はやたま(当初は「南紀」)」と言う、愛称付きの夜行鈍行客車に起源を持つ、歴史ある鈍行列車であった。
新大阪を23時前に出発し、紀伊田辺で2時間以上停車するとともに、解結作業を行い、その後、白浜でも20分程度停車した後、新宮には5時過ぎに到着するダイヤだった。
釣り人の利用が多いことから、「太公望列車」と称されたり、実際、臨時列車には、「いそつり(後に「きのくに」)」とう愛称が用いられたりもしたらしい。
私が乗車した時も、和歌山辺りまでは、通勤客の乗車が多かったが、紀伊田辺以遠に足を伸ばす乗客は、大きなクーラーボックスを抱えた釣り人や、旅行かばんを抱えた旅人が多かった。



旅の概要は以下の通りである。
紀伊半島を一周した後、名古屋から東海道本線を経由して東京に向かい、房総半島に入って、千葉で2泊目。




続いて、房総半島を一周した後、鹿島臨海鉄道経由で、水戸から常磐線に入り、仙台で3泊目。




三陸沿岸を縦貫して青森まで進んで4泊目。


~JR気仙沼線・気仙沼駅~


~JR東北本線・青森駅~
函館を往復して、青森で5泊目。

~JR津軽線・青森駅~



青森から、五能線経由で羽越本線に入り、新潟から、「ムーンライトえちご」に乗車して、車中泊で6泊目。

~吹雪のJR東北本線・青森駅~



赤羽で「ムーンライトえちご」から下車して、碓氷峠、小海線、篠ノ井線、飯山線経由で、新潟まで舞い戻って7泊目。

~JR信越本線・横川駅~

~JR小海線・野辺山駅~

~JR篠ノ井線・姨捨駅~

新潟から、越後線、信越本線、北陸本線経由で、当時金沢にあった実家で8泊目。

~JR信越本線・新潟駅~

~JR大糸線・小滝駅~


~JR北陸本線・金沢駅~
金沢から日本海沿岸を西進して米子で9泊目。

~JR北陸本線・金沢駅~



~JR山陰本線・米子駅~
米子から山陰本線を西進して九州博多まで足を伸ばして10泊目。

~JR山陰本線・西浜田駅~



~JR鹿児島本線・博多駅~
博多から、山陽本線を東進し、途中、岡山から高松を往復して、大阪で終了。

~JR山陽本線・下関付近~



都市部の公園などを野宿地に選んでの旅ではあったが、本格的な、野宿の一人旅となった。
この旅に備えて、スリーシーズン用の吊り下げ式ダブルウォール・テントと、-15℃対応のフォーシーズン・シュラフとを、購入した。中学2年生の時の「底の抜けたゴミ袋」以来、初めての、本格的な野宿装備だった。
テントは、既に、買い替えたものの、シュラフは、今でも現役で使っており、私の持っているアウトドア用品の中では、最も使用歴が長いものとなっている。
野宿経験も少なかったため、冬期の東北での野宿には不安もあったが、テントやシュラフがあれば、高い宿泊費を浮かすことが出来る。
初期投資としては割高になっても、ワンシーズン終えれば、十分に、元が取れるだろうと、計算しての購入であった。
当初から野宿志向だったわけではなく、天候によっては、カプセルホテルなどを利用することも計画していた。実際、青森での2泊のうち、1泊目はカプセルホテルを利用した。
しかし、同性愛者っぽい怪しげな雰囲気の男性が多くて安眠できず、2泊目は、吹雪だったにもかかわらず、青森港で野宿をした。
スリーシーズンテントでは、吹雪がインナーまで舞い込んで来たが、シュラフがしっかりしていたため、寒さも感じず、安眠することが出来た。


それ以来、野宿のスタイルで旅を続けているが、いつの間にか、それがスタンダードとなり、最も、落ち着く旅のスタイルとなった。
カメラを購入したのも、この旅がきっかけだった。
それまでは、インスタントカメラなどで記念撮影をする程度だったのだが、旅に備えて、CanonのEOSシリーズの一眼レフ中級機を購入した。
安いネガフィルムしか使えず、技術も未熟だったので、思ったような写真は滅多に撮れなかったが、表現の幅が広がった。
カメラについては、2001年頃にオリンパスの200万画素のデジタルカメラを使い始めて以降、フィルム写真からは手を引いたが、フィルム時代の写真も数千枚残っており、それらは、数年間かけて、全てデジタル化した。
原風景の喪失
この旅は、私にとって、初めての本格的な一人旅となったが、旅を計画する段階で、大きな喪失体験もしている。
それは、子供の頃に鉄道図鑑で眺めていた、国鉄時代の鉄道風景の多くが、既に、失われてしまっていたという体験であった。
新宮夜行から紀勢東線の普通列車に乗り込み、名古屋までの区間の乗り継ぎ計画を立てる中で、私は、憧れのキハ82系特急「南紀」との交換を楽しみにしていた。
しかし、キハ82系は、特急「南紀」を最後に、1992年で定期運用を終了しており、1996年当時は、既に、キハ85系の「ワイドビュー南紀」に置き換えられていた。
私は、引退の事実を知らなかったため、時刻表を丹念に読みながら、1本くらい、「ワイドビュー」の記載のない「南紀」が運転されていないか?と探したが、それは、叶わぬ夢であった。
北海道などを中心に、多くの路線が廃止されている事実も知り、私は、大きな衝撃を受けた。
私の中の鉄道原風景は、急速に、失われていた。
それ以降、私は、部活動の合間を縫っては、足繁く、鉄道の旅に出ることになったが、資金的な問題もあり、寝台特急などに乗車する機会はほとんど無かった。
この時期は、地方鉄道の廃止も相次いでいたが、青春18切符や周遊券の類で乗車できないこれらの地方鉄道を旅する機会は少なく、乗車できないまま廃止された路線も多かった。
運よく乗車することが出来た路線も、廃止が報じられた後の乗車となると、惜別乗車の人混みでごった返し、もはや、ローカル線の旅情は味わうべくもなかった。
登山では、無理な日程で登山を強行することへの戒めとして、「山は逃げない」という言葉もあるが、鉄道の旅に関して言うと、経営難を理由に廃止という選択に「逃げる」ものだと強く実感した。
廃止という選択を、一概に否定することは出来ない。
しかし、失われた原風景は、二度と蘇ることはない。

~1997年2月~

~1997年2月~

~1997年2月~

~1997年2月~

「ちゃり鉄」の萌芽
学生時代には、マウンテンバイクを輪行して、鉄道で旅をすることも何度かあったが、特に、鉄道路線に沿って走ることを意識した旅としては、1997年12月の旅が、初めてだった。
この旅は、薩摩・大隅半島から、霧島連山を自転車で走る旅であったが、その道中、薩摩・大隅半島に存在したいくつかの鉄道路線の廃線跡を、自転車で巡ったのである。
「ちゃり鉄」という言葉も考えていなかったし、駅の跡を順に巡るという発想もなかったのだが、廃線跡を巡るとなると、自転車を交通手段とするのが、最も、性分にあっていた。
こうして、「旅と鉄道」の組み合わせに、「自転車」が加わった。
「ちゃり鉄」の萌芽である。
ところで、廃線跡は、駅施設が交通公園として保存されている場合などを除いて、意図的に保存されていることは少なく、多くの場合、単に放置されているだけである。
自転車道などに転用されていれば、鉄道時代の面影は色濃く残ることになるが、農地や宅地、自動車道への再開発が行われれば、いともたやすく、解体・整理されてしまい、跡形もなくなってしまう。
既に鉄道としての使命を終えている以上、新たな用途に転用するために、再開発の手が及ぶことは致し方ないことではあるが、在りし日の記憶は、写真や紀行とともに、未来に残しておきたい。
その様な思いを抱くようになったのも、この頃のことである。

~1997年12月~

~1997年12月~
宮脇俊三の世界
学生時代には、宮脇俊三氏の本も読むことが多かった。
鉄道旅行記の世界に、「鉄道紀行文学」と呼ばれるジャンルを確立した氏の作品は、私にとっても大いに刺激となった。
初めて読んだのは、「最長片道切符の旅」だったと思うが、その軽妙で飄々とした文体は、他の鉄道趣味の旅行記とは一線を画し、思わず引き込まれるような魅力を感じたものだった。
中学二年生の時には既に、紀行を書くという行為を実践していたのだが、自分が書く紀行の理想やイメージは、宮脇作品によって、決定づけられた。


学生時代を終えて社会人へ
学生時代後半に入ると、卒業論文や修士論文の執筆の為に、北アルプスにあった研究施設に、泊りがけで出掛けることも多くなった。
今西錦司に触発されての進学ではあったが、大学生活の中心は部活動にあり、その合間は「旅と鉄道」が占めていた。
結果として、学問の方も大した成果を上げることはなかったのだが、研究フィールドが北アルプス山麓にあったおかげで、施設の技官さんに、「山仕事」を教えてもらうことが多く、学術研究よりも、その「山仕事」の方を熱心に学んだ。
崩壊地の源頭部の調査のため、ハーネスにザイルを装着して、確保されながら、斜面を下降するようなこともあったが、研究そのものよりも、こうした登山用品を装着し、使い方を覚える事は、何倍も楽しかった。
技官さんと山を歩きながら、山菜採りなどを覚えたのもこの頃で、沢を登りながら渓流魚を釣り上げ、山菜を採取して、河原でビバークして、山頂を極めるといった登山スタイルを身に付けることになった。
こうした生活と、子供の頃からの興味とが相まって、自然保護行政への、批判的興味を抱くようになった。
立場としては、「批判的」であったため、行政批判の立場で仕事をすることも考えられたのだが、安全な立場から行政を批判するという態度に与することにも抵抗があった。
結局、私が選んだのは、「批判をするより、自ら変革の力となりたい」という考え方だった。安全な、組織外から批判するのではなく、批判の対象に自ら飛び込み、内から変えていこうと、考えたのである。
私の就活は、「自然保護行政」を目標としていたため、手段としては、公務員試験に限られることになり、民間企業を訪問することもなかったし、公務員試験合格後も、省庁訪問でいくつもの組織を訪れるということはなかった。
例外的に、青年海外協力隊の採用試験にも応募していたのだが、これも、マダガスカルでの自然保護行政機関への派遣を目的としたものだった。
就活、陸上競技の遠征、研究フィールドへの出張などを連続でこなす日程になることも多く、京都や大阪から寝台急行「銀河」で東京に行き、試合や就活を終えた後、夜行列車で北アルプス入りし、北陸本線や高山本線で帰京するという生活も常になった。
その多忙な生活の中で、充実した学生時代を終えた。