ちゃり鉄0号|~「ちゃり鉄」の原点へ~

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各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄0号:「ちゃり鉄」の原点

幼少期の鉄道の記憶

私は、近鉄生駒駅から宝山寺を経て、生駒山上遊園地に至るケーブルカー(近鉄生駒鋼索線)沿線で、乳児期を過ごした。物心つく前の当時の事は、ほとんど何も覚えていないが、断片的な記憶の中には、家の裏手を登り降りするケーブルカーの線路の残像がある。

その後、近鉄大阪線・奈良線の複々線を見下ろす高層マンションの一室に引っ越し、小学4年生までの期間を、過ごすことになった。

乳児期を過ごした近鉄生駒鋼索線の風景  ~2017年3月~
乳児期を過ごした近鉄生駒鋼索線沿線の風景
~ちゃり鉄10号 2017年3月~
今里付近の近鉄複々線区間  ~2015年4月~
今里付近の近鉄複々線区間
~2015年4月~

そういう生まれ育ちがどの程度影響したのかは分からないが、物心ついた時には、既に、鉄道少年になっていて、眼下を足繁く行き交う近鉄電車を、飽きることなく眺めていた。

画用紙で作った手書きのサボを使って電車ごっこをしたり、図書館から借りてきた全線全駅シリーズの本をノートに書き写したり、結構、のめり込んでいたように思う。

休みの日には、祖父母・両親らと、郊外の大型スーパーに自家用車で買い出しに行くのが常であったが、その近くには、近鉄の玉川工場があり、奈良線の車両の他、普段、あまり目にすることのない珍しい車両が留置されていることもあった。

車の窓越しにちらっと見えるその風景を、もっと、じっくりと眺めたくて、親に内緒で、遠出して見学に出掛けたりしたこともある。

駅名を書き写したノート
駅名を書き写したノート
近鉄大阪線のページはボロボロ
近鉄大阪線のページはボロボロ
当時の子供向け鉄道本は、大人顔負けの内容だった ~小学館コロタン文庫「私鉄全百科」より転載~
当時の子供向け鉄道本は、大人顔負けの内容だった 
~小学館コロタン文庫「私鉄全百科」より転載~
私鉄全線の路線図は、今となっては、貴重な資料である ~小学館コロタン文庫「私鉄全百科」より転載~
私鉄全線の路線図は、今となっては、貴重な資料である
~小学館コロタン文庫「私鉄全百科」より転載~

また、当時は、現在のなんばパークスの敷地に大阪球場があり、アイススケートのリンクが併設されていたのだが、小学生低学年の数年間は、そのスケートリンクで日曜日に開催されるスケート教室に参加していた。

実際には、スケートを習うことよりも、自宅の最寄駅から近鉄の難波駅までの往復運賃を親からもらい、公然と近鉄電車に乗ることが出来るのが楽しみだったのだが。

途中の上本町駅では、特に必要もないのに、大阪線の地上駅と難波線の地下駅との間を行き来したりした。

地上駅は、7面6線の頭端式ホームを持つ、近鉄創業以来の歴史あるターミナル駅で、大阪線の短・中距離列車の他、伊勢志摩方面への長距離列車も発着している。

駅の一角には、行き先や列車種別を示したサボがラックに収められていた。

時々、珍しいデザインや行き先のサボが収められていることがあり、見ているだけでも楽しかった記憶がある。

既に、サボは廃止されて久しく、駅名も大阪難波、大阪上本町と改称された。

特に、大阪難波は、阪神電鉄との相互乗り入れにより、終着駅から通過駅となるなど、大きな変化も見られる。

しかし、それぞれの駅の雰囲気は、往時とあまり変わることはなく、上本町駅で、地上駅と地下駅を行き来するのは、今も、変わらない。

伊勢志摩行きの特急が発着し、雰囲気は幼少期とあまり変わらない大阪難波駅 ~2015年10月~
伊勢志摩行きの特急が発着し、雰囲気は幼少期とあまり変わらない大阪難波駅
~2015年10月~
頭端式ホームが今も旅情をくすぐる大阪上本町の大阪線地上ホーム ~2020年6月~
頭端式ホームが今も旅情をくすぐる大阪上本町の大阪線地上ホーム
~2020年6月~

頻繁に行き交う近鉄電車の中では、伊勢志摩方面への特急が大好きだった。

当時、既に古参車両となっていたエースカーは、走行音が他の車両と違ったため、室内に居ても、通過するのが分かった。私は、その風貌から、ムンクの「叫び」の絵を連想したものだ。

スナックカーは、当時、既に営業を休止していたように思うが、スナック部の独立窓や、ニヒルに見える風貌が、高嶺の花に思えた。

そんな近鉄特急の中でも、特に、賢島行き2階建て特急30000系「ビスタカー」は憧れの的だった。

独特の走行音と風貌が魅力だった11400系ニューエースカー ~近鉄Webサイトより転載~
独特の走行音と風貌が魅力だった11400系ニューエースカー
~近鉄Webサイトより転載~
ニヒルな風貌が印象的だった12200系ニュースナックカー ~近鉄Webサイトより転載~
ニヒルな風貌が印象的だった12200系ニュースナックカー
~近鉄Webサイトより転載~
憧れだった30000系ビスタカー ~近鉄Webサイトより転載~
憧れだった30000系ビスタカー
~近鉄Webサイトより転載~

近鉄の特急は全席指定の有料特急なので、普通運賃の切符だけでは乗車することが出来ないのだが、時々、「間違えて乗ってしまった…」という顔をして、難波から上本町まで、上本町から鶴橋まで、というように1区間だけ、コソッと乗り込んだりしていた。

駅員に見つかって怒られたことも何度かある。

憧れのあまり、みんなで小遣いを持ち寄って、親に内緒でビスタカーに乗る計画を立てたりもしたが、毎日の小遣いが10円の小学生に、そんなお金が準備できるわけもなく、近鉄奈良線や生駒線の旅しか出来なかった。

当時の生駒線は、2両編成の旧型車が走る単線のローカル線で、東山駅付近では、物寂しい山間に、無人駅があって、驚いた記憶がある。旅情なんて言葉を知らない当時から、ローカル線は好きだった。

憧れのビスタカーの旅

私の家族は、鉄道には全く興味がなかったので、鉄道に乗ることを目的とした旅行に連れて行ってもらうという機会はほとんど無かったのだが、一度だけ、曽祖母に連れられて、賢島行きの特急「ビスタカー」に乗せてもらったことがある。

この日帰り旅行は、肝心のビスタカーの写真が残っておらず、憧れの2階建て特急は、「2階は揺れるから」という理由で、1階のボックス席での旅となったが、行きも帰りも席に落ち着くことなく車内探検をしてまわり、「車掌に見つかったら怒られやしないか?」と、内心、ビクビクしながら2階席の通路を行ったり来たりしていた。

賢島では、曽祖母が真珠の品定めをしている合間に、辺りの海辺で、図鑑でしか見たことがなかった、毒クラゲの「カツオノエボシ」を発見して興奮し、伊勢市駅を出発した帰りのビスタカーが、国鉄参宮線の気動車と並走する場面に興奮し、始終、興奮しっぱなしだったと思う。

あれから30年余り。

2015年の10月に、近鉄特急に乗る旅をしたことがある。

30年来の念願を叶え、近鉄ビスタカーの2階席で旅した時には、40代目前だった。

西大寺発、橿原神宮前行き。橿原神宮前発、京都行き。京都発、奈良行き。奈良発、大阪難波行き。

同じ編成の列車の、ほぼ同じ席に乗り続けて、2階席を満喫した。休日の朝だったこともあり、他に乗客は居なかった。

旅の日程の都合で、賢島行きのビスタカーには乗車しなかったが、次は、賢島まで、ビスタカーで行ってみたいと思っている。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

30年来の憧れ・近鉄30000系「ビスタカー」 ~西大寺駅・2015年10月~
30年来の憧れ・近鉄30000系「ビスタカー」
~西大寺駅・2015年10月~
40代目前にして初めて、ビスタカーの2階席に乗車した 一階、二階の間の階段部分で写真撮影 ~2015年10月~
40代目前にして初めて、ビスタカーの2階席に乗車した
一階、二階の間の階段部分で写真撮影
~2015年10月~

思い出の鉄道図鑑

祖父には、近所の書店で、鉄道図鑑を買ってもらうことがあった。ボロボロになり補修だらけの図鑑は、今も、私の手元にある。

特急や電車の図鑑が多いが、国鉄にはあまり縁のなかった私にとって、国鉄の気動車特急やブルートレインは、近鉄「ビスタカー」と並んで、憧れの的であった。

キハ82系、「まつかぜ」、「ひだ」、「南紀」、「おおとり」…。

キハ181系、「あさしお」、「はまかぜ」、「しおかぜ」、「南風」…。

ブルートレイン、「日本海」、「ゆうづる」、「あけぼの」、「なは」…。

私の中の、鉄道の旅の原風景は、近鉄の特急や、これらの国鉄型特急とともにある。

継ぎ接ぎだらけでボロボロになった思い出の図鑑達
継ぎ接ぎだらけでボロボロになった思い出の図鑑達
網走特急「おおとり」 ~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
網走特急「おおとり」
~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
偉大な山陰特急「まつかぜ」 ~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
偉大な山陰特急「まつかぜ」
~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
キハ82系特急の代表的風景だった「ひだ」 ~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
キハ82系特急の代表的風景だった「ひだ」
~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
同じくキハ82系の原風景「南紀」 ~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
同じくキハ82系の原風景「南紀」
~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
少し、いかつい風貌が魅力だったキハ181系特急「しおかぜ」~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
少し、いかつい風貌が魅力だったキハ181系特急「しおかぜ」
~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
国鉄経由で富山地鉄に乗入れていた名鉄特急「北アルプス」  ~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
国鉄経由で富山地鉄に乗入れていた名鉄特急「北アルプス」
~小学館学習百科図鑑31「特急列車」より転載~
ブルートレインのテールライトは去り行く時代の後ろ姿 ~講談社パーフェクトシリーズ「ブルートレイン」より転載~
ブルートレインのテールライトは去り行く時代の後ろ姿
~講談社パーフェクトシリーズ「ブルートレイン」より転載~

新幹線とブルートレインの記憶

小学生時代には、もう一つ、思い出に残る鉄道の旅がある。

それは、1983年に開園した東京ディズニーランドへの旅だった。

この旅は、我が家にとっては珍しく、往復とも鉄道を使っての旅だったが、往路は東海道新幹線0系、復路は20系寝台急行「銀河」に乗車した。

夢の超特急だった新幹線0系  ~Wikipediaより転載~
夢の超特急だった新幹線0系
~Wikipediaより転載~
走るホテル「20系」時代の寝台急行「銀河」  ~Wikipediaより転載~
走るホテル「20系」時代の寝台急行「銀河」
~Wikipediaより転載~

新大阪駅を出発する時に、動き出した車両に感激し、帰りの「銀河」では、三段寝台の最上段に陣取り、はしゃいだ記憶がある。

帰りの東京駅では、「銀河」に乗り遅れそうになり、京葉線の地下駅から東海道本線の地上駅まで、走りに走った。異常に長く感じた記憶があるが、実際、京葉線から東海道本線への乗り換えは、今でも、同じ駅とは思えないくらい時間がかかる。

息を切らせて「銀河」に飛び乗ると同時、まだ、デッキに居るうちにドアが締まり、出発した。

一夜明けた寝台急行は、朝霧の山里を走っていた。

恐らく、滋賀県内を走っていたものと思うが、寝ても覚めても鉄道に乗車しているという体験は、ブルートレインの旅を、強烈に印象づけるものだった。

この時の旅も、写真はほとんど残っていない。

20系客車に乗った、唯一の機会だったと思うが、その写真が一枚もないのが残念だ。

後年、博多南線で新幹線0系の車両に乗車したり、就活や出張で24系客車の「銀河」に乗車したりする機会があったが、既に、両者とも過去帳入りしてしまい、思い出を追体験する機会は無くなってしまった。

新幹線0系・500系が並ぶ光景  ~博多駅・1998年6月~
新幹線0系・500系が並ぶ光景
~博多駅・1998年6月~
JR東海道本線・大阪駅・寝台急行「銀河」(大阪府:2001年8月)
後年、就活や出張で何度か乗車した24系「銀河」
~大阪駅・2001年7月~

アウトドアの目覚め

私の家族は、いわゆるアウトドア派ではなかったので、子供時代を通じて、家族でキャンプなどをしたことはない。

大阪の自宅周辺は、公園に植えられた木々が「自然」であり、川と言えば、三面コンクリートの護岸に固められた、深緑色のヘドロ臭漂うドブ川だった。

そういう環境の中で、私は、不思議と、外遊びが好きな小学生だった。

公園では木登りをして蝉取りに興じ、自転車に乗れば校区外まで遠出していた。

学校の遠足では、必ず、教師の目の届かない山林に「探検」をしに行った。

毎年夏休みには、祖父母らに連れられて、親戚が住む兵庫県の里山に出かけるのが、恒例行事だったのだが、大阪とは違い、田んぼや畑、山林に囲まれた里山の自然の中で、朝から晩まで、一人で走り回っていた記憶がある。

学習塾に通ったことはなかったが、科学実験を主体とした教室に通っていて、爆弾を作ったり、豆腐を作ったり、学校の休みの期間には、瀬戸内海にある島の合宿所に行って、自然観察をしたりするのが好きだった。

「近所のドブ川」だった城東運河 最近は、水質が改善してきているが…
「近所のドブ川」だった城東運河
最近は、水質が改善してきているが…
ささやかな「自然」だった自宅前の公園 木々の樹形は40年前と変わらない
ささやかな「自然」だった自宅前の公園
木々の樹形は40年前と変わらない

小学5年生になると、父親の仕事の都合で、金沢に引っ越すことになった。

家の近所に田んぼがあり、河川敷の土手に土筆が生えている環境は、私にとっては、魅力的だった。

近所の犀川沿いにはサイクリングロードがあった。

上流に向かえば、奈良岳を水源とする犀川の源流域に達した。自転車で行ける限界の犀川ダムに至る道沿いには、熊走・駒帰などの廃村があった。犀川ダムから奥地に車道は通じておらず、幻の滝・犀滝が掛かる秘境であった。

下流に向かえば、犀川河口の金石港に達した。釣りを覚えたのは、この金石港だった。金石港は、長大な加賀海浜に開かれており、南西に向かえば、福井県に通じる加賀海浜自転車道、北東に向かえば、能登半島に通じる能登自転車道に達することが出来た。

きれいな海も豪雪地帯の山も近い環境の中で、釣りやスキーといった趣味が、私の生活に、新たに加わった。

犀川河畔(石川県:2021年4月)
残雪の残る山並みと犀川大橋(ちゃり鉄15号・2021年4月)
犀川河畔(石川県:2021年4月)
犀川大橋付近から上流の河川敷の眺め(ちゃり鉄15号・2021年4月)
天橋立から新潟への旅の道中で、加賀海浜自転車道を再訪  ~2007年5月~
天橋立から新潟への旅の道中で、加賀海浜自転車道を再訪(2007年5月)
金石港(石川県:2021年4月)
残雪の白山を望む金石港(ちゃり鉄15号・2021年4月)

この時期、国鉄は分割民営化によって消滅し、鉄道を取り巻く社会の情勢は、大転換を迎えていたのだが、趣味が増えて、相対的に鉄道への興味が薄れつつあった私は、そのような変化を知る由もなかった。

陸上競技と自転車と

転校先の小学校ではマラソン大会があり、卒業までに2回、参加した。

1年目は15位、2年目は3位になり、それがきっかけで、中学生になると陸上競技部に入り、長距離を走り始めた。

トラックレースよりロードレースや駅伝が好きだったため、一人で、県外のロードレースに出かけることもあったが、いくつかの大会では、部門別で大会新記録を残すことが出来た。

当時は、鉄道への興味が薄れていたとは言え、県外のレースに参加するときは、北陸本線の特急に乗るのが楽しみだった。

雷鳥、加越、しらさぎ、白鳥、北越といった特急に乗る機会があったように思う。

陸上競技とほぼ同時に、自転車でのサイクリングにも、本格的に取り組むようになり、中学の入学祝いに購入してもらったドロップハンドルのツーリング風自転車で、能登半島1周・2泊3日の自転車の旅に出たこともある。

中学2年の時のこの旅は、初めての一人旅、初めての野宿旅だった。

近所のホームセンターで買った、「緊急用テント」とは名ばかりの、単なる、「底の抜けたゴミ袋」で、輪島、七尾のキャンプ場に泊まりながら、能登半島の名所・旧跡を訪ねて旅をした。

輪島のキャンプ場では、隣の家族から「それがテントか!?」と小馬鹿にされ、漂って来るバーベキューの匂いに腹をすかせつつ、パンをかじるだけの侘しい夕食。

そして、文字通り筒抜けの袋の中で、蚊に刺されまくってボコボコになりながら過ごす眠れない夜。

しかし、そんな旅の方が、むしろ思い出深い。

この旅の道中ではインスタントカメラで写真を撮影し、帰宅してからは、図書館で借りた郷土史や地誌を紐解きながら、紀行を書き上げて、夏休みの自由研究とした。

当時から、単なる旅日記ではなく、歴史や地理の知識を背景にした、紀行を書きたいという思いはあったようだ。

ひと夏をかけて書き上げた思い出の紀行
ひと夏をかけて書き上げた思い出の紀行

私自身は、意識の上では、自分のスタイルは、「旅行」や「キャンプ」ではなく、「旅」や「野宿」だと考えているが、その原点は、この辺りにあるのかもしれない。

大学進学のこと

高校時代は陸上競技に没頭していたが、2年生の頃から大学進学についても考え始めた。

小学生の頃から、自然保護について興味があったのだが、今西錦司の「自然学の提唱」や「自然学の展開」を読んで感銘を受け、氏が在籍した京都大学に興味を持つようになった。

進路を決定づけた、今西錦司の「自然学の提唱」
進路を決定づけた、今西錦司の「自然学の提唱」
続編の「自然学の展開」
続編の「自然学の展開」

まだ、インターネットが普及する前の時代だったため、教師のアドバイスに従い、いくつかの大学の理系学部に手紙を書き、自然保護に関する学問の有り様などについて尋ねてみる。

事務局からパンフレットを送ってくるだけの大学が多かったが、中には、返事がない大学もあった。

その中で、唯一、京都大学は、教育担当の教授が、直筆の手紙と学部生向けのシラバスなどを含めた、一番丁寧な返事をくれたため、それが決め手となり京都大学を志望校に決定した。

高校3年生の春のインターハイ県大会では、レース中に転倒し、全国大会どころか、北信越大会にすら、出場できなかった。進学を目指す高校生は、普通、そこで引退する。しかし、不完全燃焼のまま、高校時代の競技を終える決意がつかず、結局、秋の高校駅伝県大会まで出場した。

母校の教師は、「お前のためを思ってるんだぞ」という前置きとともに、部活をやめるよう忠告をしてきたが、私は、聞く耳は持たなかった。自分の中で燃え切らないものをそのままにして、受験に専念しようとしても、結局、挫折することを自覚していたからだ。恐らく落第することになると知りつつ、高校駅伝まで走って、そこで、高校時代の競技生活を終える意志は固かった。

結果的には、チームのメンバーに恵まれたこともあり、出場記録すらなかった母校で、奇跡的な総合入賞を果たすことが出来た。

一方で受験には失敗し浪人生活が決定。親元を離れ京都で予備校の寮に入ることにした。もし、現役合格をしていたら、地元の新聞社から取材を受ける話もあったのだが、そこで落第するのが私である。

浪人時代の一年は、忍耐の一年ではあったが、最終的には目標を達成し、京都大学に進学することが出来た。

志望動機がはっきりしていたので、現役時代も浪人時代も、いわゆる滑り止め受験ということはしなかった。浪人しても合格できないなら、大学進学を諦めて働くつもりだった。受験スタイルとしては珍しい方だが、そういう「生き方」が私の本質なのだと思う。

向こう見ずで世間知らずだったからこそ、そういう無謀な挑戦を行うことができたのだし、合格したのも、単に運が良かっただけだという、批判めいた事を聞かされることもある。親のすねかじりと揶揄されたこともある。

しかし、私自身は、そういう挑戦を黙って見守り、予備校や進学にかかる費用を捻出してくれた両親には感謝しているし、高校生という未熟な年頃に、自分の一生に大きな影響を与える決断を下し、難しい目標を掲げて達成した自分を誇りに思っている。

その後の人生では、京都大学出身というだけで「凄い」と驚愕されたり、逆に、「学歴が高い割に、こんな事も出来ないのか」と馬鹿にされたり、色々な体験をしているが、そのいずれも、間違っていると思う。

重要なのは、自分がどういう動機で、どんな目標を立て、それを達成するためにどういう道を歩んだか?ということではないだろうか。

「結果」よりも「過程」が大事だと言いたい訳ではない。「結果」はもちろん重要である。しかし、その「結果」は、どういう「過程」を経て生まれたものなのかを見なければ、正しく評価することは出来ないということだ。

だが、その後の人生において、「過程」は常に「結果」の後ろに置かれた。成功も失敗も、常に、その「結果」ばかりがクローズアップされ、そこに至る「過程」を深く問われることは殆どない。

そして、私自身も、周囲の評価や世間の常識に捉われ、自分らしい生き方を失っていったように思う。

この頃は、鉄道やアウトドアからも離れ、陸上競技や受験が、日常生活の中心にあったが、時折、息抜きのために、日帰りで旅をすることがあった。

本格的な一人旅へ

大学に進学すると、生活は陸上競技を中心に回ることになった。

しかし、1回生の夏に発症した腰椎椎間板ヘルニアの影響で怪我や不調が多く、大学院を卒業するまでの6年間の学生生活において、陸上競技で大成することはできなかった。

結局、ハーフマラソンでの1時間9分7秒が、自己最高記録となった。

ベスト記録を出したハーフマラソンの一コマ ~大学時代~
ベスト記録を出したハーフマラソンの一コマ
~大学時代~
学生時代最後の駅伝での一コマ  ~大学時代~
学生時代最後の駅伝での一コマ
~大学時代~

その陸上競技部での生活は、春先のトラックレースと合宿、夏の対校戦と合宿、秋の駅伝、冬場のロードレース…と、一年を通して、ポイントとなるレースや競技会・合宿が続き、長期に渡ってトレーニングを休むという期間は取れなかったが、それでも、お盆の時期や年末年始などには、オフの期間があった。

1回生の夏は、名古屋でのトラックレースの後、中央西線や信越本線の鈍行を乗り継ぎ、妙高高原での夏合宿に臨んだのだが、この時の鈍行乗り継ぎの経験は、子供の頃の鉄道熱を復活させるに十分だった。青春18切符という、乗り放題切符の存在を知ったことも、大きなきっかけとなった。

そして、この年の年末年始、部活動のオフの期間を利用して、青春18切符2枚を使った、鉄道の旅に出ることにした。

本州を一周するとともに、青森~函館、下関~博多、岡山~高松の各区間を往復して、北海道、九州、四国にも上陸する旅。北海道、九州は、この旅で初上陸を果たした。

旅のスタートは、古き良き夜汽車の面影を残す、今は無き「新宮夜行」だった。

正確な記録が手元にないため、間違っているかもしれないが、当時は、列車番号2921M「快速」として運転され、新大阪発新宮行きのみで逆方向はなかったと記憶している。

この列車は、「はやたま(当初は「南紀」)」と言う、愛称付きの夜行鈍行客車に起源を持つ、歴史ある鈍行列車であった。

新大阪を23時前に出発し、紀伊田辺で2時間以上停車するとともに、解結作業を行い、その後、白浜でも20分程度停車した後、新宮には5時過ぎに到着するダイヤだった。

釣り人の利用が多いことから、「太公望列車」と称されたり、実際、臨時列車には、「いそつり(後に「きのくに」)」とう愛称が用いられたりもしたらしい。

私が乗車した時も、和歌山辺りまでは、通勤客の乗車が多かったが、紀伊田辺以遠に足を伸ばす乗客は、大きなクーラーボックスを抱えた釣り人や、旅行かばんを抱えた旅人が多かった。

JR東海道本線・新大阪駅・新宮夜行「2921M」(大阪府:1996年12月)
旅のスタートは、古き良き夜汽車の面影を残す、今は無き「新宮夜行」だった
JR紀勢本線・紀伊田辺駅・新宮夜行「2921M」(和歌山県:1996年12月)
紀伊田辺で、2時間以上停車
紀伊田辺では、解結作業も行われていた。
紀伊田辺では、解結作業も行われていた。

旅の概要は以下の通りである。

紀伊半島を一周した後、名古屋から東海道本線を経由して東京に向かい、房総半島に入って、千葉で2泊目。

早朝の新宮駅で国鉄色のキハ28系松阪行普通列車に乗り継ぎ
早朝の新宮駅で国鉄色のキハ28系松阪行普通列車に乗り継ぎ
東海道本線由比付近で富士山を望む名景の中を行く
東海道本線由比付近で富士山を望む名景の中を行く
東京駅では寝台特急「出雲」などを撮影
東京駅では寝台特急「出雲」などを撮影
2泊目は千葉公園にて 酔っ払いがテントの周りで騒いでいた
2泊目は千葉公園にて 酔っ払いがテントの周りで騒いでいた

続いて、房総半島を一周した後、鹿島臨海鉄道経由で、水戸から常磐線に入り、仙台で3泊目。

JR総武本線・銚子駅・特急「しおさい」(千葉県:1996年12月)
特急「しおさい」とスカ色の普通列車が懐かしい銚子駅
JR銚子駅に隣接した銚子電鉄の銚子駅
JR銚子駅に隣接した銚子電鉄の銚子駅
鹿島臨海鉄道で水戸駅まで
鹿島臨海鉄道で水戸駅まで
仙台市青葉通り(宮城県:1996年12月)
クリスマスムードの仙台市街地 酔っ払ったネーチャンにナンパされた

三陸沿岸を縦貫して青森まで進んで4泊目。

仙石線沿線の松島海岸で途中下車
仙石線沿線の松島海岸で途中下車
三陸海岸の鉄道路線を、青森に向けて北上する ~JR気仙沼線・気仙沼駅~
三陸海岸の鉄道路線を、青森に向けて北上する
~JR気仙沼線・気仙沼駅~
盛駅には岩手開発鉄道の旅客車両が留置されていた
盛駅には岩手開発鉄道の旅客車両が留置されていた
JR東北本線・青森駅・寝台特急「はくつる」(青森県:1996年12月)
寝台特急「はくつる」とベイブリッジ
~JR東北本線・青森駅~

函館を往復して、青森で5泊目。

快速「海峡」で函館に向け出発 ~JR津軽線・青森駅~
快速「海峡」で函館に向け出発
~JR津軽線・青森駅~
JR津軽海峡線・吉岡海底駅(北海道:1996年12月)
青函トンネル内にあった吉岡海底駅に途中下車
折返し待ちの時間を利用して函館山に登った
折返し待ちの時間を利用して函館山に登った
青森ベイブリッジ(青森県:1996年12月)
青森に戻り、ベイブリッジ付近で野宿

青森から、五能線経由で羽越本線に入り、新潟から、「ムーンライトえちご」に乗車して、車中泊で6泊目。

JR東北本線・青森駅・寝台特急「はくつる」、特急「はつかり」(青森県:1996年12月)
寝台特急「はくつる」と特急「はつかり」
~吹雪のJR東北本線・青森駅~
JR五能線・千畳敷駅
JR五能線・千畳敷駅
JR五能線・大間越~岩館(青森県:1996年12月)
五能線の車窓風景のハイライト 大間越~岩館間
五能線・岩館駅で対向列車と交換
五能線・岩館駅で対向列車と交換

赤羽で「ムーンライトえちご」から下車して、碓氷峠、小海線、篠ノ井線、飯山線経由で、新潟まで舞い戻って7泊目。

碓氷峠を越えた唯一の旅となった ~JR信越本線・横川駅~
碓氷峠を越えた唯一の旅となった
~JR信越本線・横川駅~
JR最高所の駅 ~JR小海線・野辺山駅~
JR最高所の駅
~JR小海線・野辺山駅~
数少なくなったスイッチバック ~JR篠ノ井線・姨捨駅~
数少なくなったスイッチバック
~JR篠ノ井線・姨捨駅~
信濃川・万代橋(新潟県:1996年12月)
万代橋を超えて、白山付近で野宿

新潟から、越後線、信越本線、北陸本線経由で、当時金沢にあった実家で8泊目。

臨時列車の寝台特急「つるぎ」が停車していた ~JR信越本線・新潟駅~
臨時列車の寝台特急「つるぎ」が停車していた
~JR信越本線・新潟駅~
当時は災害で小滝以遠が不通となっていた大糸線を往復 ~JR大糸線・小滝駅~
当時は災害で小滝以遠が不通となっていた大糸線を往復
~JR大糸線・小滝駅~
旧JR信越本線・筒石駅(新潟県:1996年12月)
トンネル内の駅として有名な信越本線・筒石駅
JR北陸本線・金沢駅・寝台特急「北陸」(石川県:1996年12月)
出発を待つ上野行き寝台特急「北陸」
~JR北陸本線・金沢駅~

金沢から日本海沿岸を西進して米子で9泊目。

JR北陸本線・金沢駅・特急「白山」(石川県:1996年12月)
碓氷峠経由で上野に向かう特急「白山」
~JR北陸本線・金沢駅~
北近畿タンゴ鉄道時代の久美浜駅
北近畿タンゴ鉄道時代の久美浜駅
山陰本線・旧余部橋梁
山陰本線・旧余部橋梁
キハ181系特急「いなば」 ~JR山陰本線・米子駅~
キハ181系特急「いなば」
~JR山陰本線・米子駅~

米子から山陰本線を西進して九州博多まで足を伸ばして10泊目。

JR山陰本線・西浜田駅・特急「おき」(島根県:1996年12月)
キハ181系特急「おき」
~JR山陰本線・西浜田駅~
JR山陰本線・石見津田駅・特急「いそかぜ」 (島根県:1996年12月)
キハ181系特急「いそかぜ」
~JR山陰本線・石見津田駅~
暮色の日本海を車窓の友に、山陰本線西部を行く
暮色の日本海を車窓の友に、山陰本線西部を行く
特急「ゆふいんの森」 ~JR鹿児島本線・博多駅~
特急「ゆふいんの森」
~JR鹿児島本線・博多駅~

博多から、山陽本線を東進し、途中、岡山から高松を往復して、大阪で終了。

寝台特急「はやぶさ」と交換 ~JR山陽本線・下関付近~
寝台特急「はやぶさ」と交換
~JR山陽本線・下関付近~
瀬戸内海を望みながら山陽本線を行く
瀬戸内海を望みながら山陽本線を行く
旧駅舎時代の高松駅
旧駅舎時代の高松駅
JR東海道本線・大阪駅・寝台急行「きたぐに」(大阪府:1996年12月)
583系寝台急行「きたぐに」
~JR東海道本線・大阪駅~

都市部の公園などを野宿地に選んでの旅ではあったが、本格的な野宿の一人旅となった。

この旅に備えて、スリーシーズン用の吊り下げ式ダブルウォール・テントと、-15℃対応のフォーシーズン・シュラフとを購入した。中学2年生の時の「底の抜けたゴミ袋」以来、初めての、本格的な野宿装備だ。

テントは既に買い替えたものの、シュラフは今でも現役で使っており、私の持っているアウトドア用品の中では、最も使用歴が長いものとなっている。

野宿経験も少なかったため、冬期の東北での野宿には不安もあったが、テントやシュラフがあれば、高い宿泊費を浮かすことが出来る。初期投資としては割高になっても、ワンシーズン終えれば、十分に元が取れるだろうと、計算しての購入だった。

当初から野宿志向だったわけではなく、天候によっては、カプセルホテルなどを利用することも計画していた。実際、青森での2泊のうち、1泊目はカプセルホテルを利用した。しかし、同性愛者っぽい怪しげな雰囲気の男性が多くて安眠できず、2泊目は、吹雪だったにもかかわらず、青森港で野宿をした。

スリーシーズンテントでは、吹雪がインナーまで舞い込んで来たが、シュラフがしっかりしていたため、寒さも感じず、安眠することが出来た。これは、貴重な体験だ。

青森県観光物産館アスパムを望みながら野宿場所探し
青森県観光物産館アスパムを望みながら野宿場所探し
青森ベイブリッジを望む青森港付近で野宿
青森ベイブリッジを望む青森港付近で野宿

それ以来、野宿のスタイルで旅を続けているが、いつの間にか、それがスタンダードとなり、最も、落ち着く旅のスタイルとなった。テントは、畳一畳分のスペースがあれば十分なので、夕方頃になって、目星をつけていた場所の近くに、人の邪魔にならない場所や素晴らしいロケーションを見つけると、そこで一夜を過ごすというスタイルだ。キャンプ場もたまに使うのだが、割合としては、1割に満たない。

カメラを購入したのも、この旅がきっかけだ。

それまでは、インスタントカメラなどで記念撮影をする程度だったのだが、旅に備えて、CanonのEOSシリーズの一眼レフ中級機を購入したのである。

安いネガフィルムしか使えず、技術も未熟だったので、思ったような写真は滅多に撮れなかったが、表現の幅が広がった。

カメラについては、2001年頃にオリンパスの200万画素のデジタルカメラを使い始めて以降、フィルム写真からは手を引いたが、フィルム時代の写真も数千枚残っており、それらは、数年間かけて、全てデジタル化した。

原風景の喪失

この旅は、私にとって、初めての本格的な一人旅となったが、旅を計画する段階で大きな喪失体験もしている。

それは、子供の頃に鉄道図鑑で眺めていた、国鉄時代の鉄道風景の多くが、既に、失われてしまっていたという体験だ。

新宮夜行から紀勢東線の普通列車に乗り込み、名古屋までの区間の乗り継ぎ計画を立てる中で、私は、憧れのキハ82系特急「南紀」との交換を楽しみにしていた。

しかし、キハ82系は、特急「南紀」を最後に、1992年で定期運用を終了しており、1996年当時、既に、キハ85系の「ワイドビュー南紀」に置き換えられていた。

私は、引退の事実を知らなかったため、時刻表を丹念に読みながら、1本くらい、「ワイドビュー」の記載のない「南紀」が運転されていないか?と探したが、それは、叶わぬ夢だった。

北海道などを中心に、多くの路線が廃止されている事実も知り、私は、大きな衝撃を受けた。

私の中の鉄道原風景は、急速に、失われていた。

それ以降、私は、部活動の合間を縫っては、足繁く、鉄道の旅に出ることになったが、資金的な問題もあり、寝台特急などに乗車する機会はほとんど無かった。

この時期は、地方鉄道の廃止も相次いでいたが、青春18切符や周遊券の類で乗車できないこれらの地方鉄道を旅する機会は少なく、乗車できないまま廃止された路線も多かった。

運よく乗車することが出来た路線も、廃止が報じられた後の乗車となると、惜別乗車の人混みでごった返し、もはや、ローカル線の旅情は味わうべくもない。

登山では、無理な日程で登山を強行することへの戒めとして、「山は逃げない」という言葉もあるが、鉄道の旅に関して言うと、経営難を理由に廃止という選択に「逃げる」ものだと強く実感したものだ。

廃止という選択を、一概に否定することは出来ない。

しかし、失われた原風景は、二度と蘇ることはない。

南部縦貫鉄道・道ノ上駅(青森県:1997年2月)
失われた原風景:南部縦貫鉄道・道ノ上駅
~1997年2月~
南部縦貫鉄道・野辺地駅(青森県:1997年2月)
失われた原風景:南部縦貫鉄道・野辺地駅
~1997年2月~
弘南鉄道・黒石線・川部駅(青森県:1997年2月)
失われた原風景:弘南鉄道黒石線・黒石駅
~1997年2月~
十和田観光鉄道・高清水駅(青森県:1997年2月)
失われた原風景:十和田観光鉄道・高清水駅
~1997年2月~
蒲原鉄道・村松駅(新潟県:1997年2月)
失われた原風景:蒲原鉄道・村松駅
~1997年2月~

「ちゃり鉄」の萌芽

学生時代には、マウンテンバイクを輪行して、鉄道で旅をすることも何度かあったが、特に、鉄道路線に沿って走ることを意識した旅としては、1997年12月の旅が初めてだった。

この旅は、薩摩・大隅半島から、霧島連山を自転車で走る旅であったが、その道中、薩摩・大隅半島に存在したいくつかの鉄道路線の廃線跡を、自転車で巡ったのである。

「ちゃり鉄」という言葉も考えていなかったし、駅の跡を順に巡るという発想もなかったのだが、廃線跡を巡るとなると、自転車を交通手段とするのが、最も、理にかなっていた。

こうして、「旅と鉄道」の組み合わせに、「自転車」が加わることになる。

「ちゃり鉄」の萌芽である。

ところで、廃線跡は、駅施設が交通公園として保存されている場合などを除いて、意図的に保存されていることは少なく、多くの場合、単に放置されているだけだ。

自転車道などに転用されていれば、鉄道時代の面影は色濃く残ることになるが、農地や宅地、自動車道への再開発が行われれば、いともたやすく、解体・整理されてしまい、跡形もなくなってしまう。

既に鉄道としての使命を終えている以上、新たな用途に転用するために、再開発の手が及ぶことは致し方ないことではあるが、在りし日の記憶は、写真や紀行とともに、未来に残しておきたい。

その様な思いを抱くようになったのも、この頃のことである。

しかし、そのような発想自体は、元々、私の中に存在していたのだろう。中学生の時にひと夏をかけて仕上げた旅行記が、その証である。

南薩鉄道・永吉川橋梁跡 ~1997年12月~
南薩鉄道・永吉川橋梁跡
~1997年12月~
大隅線・大隅麓駅跡 ~1997年12月~
大隅線・大隅麓駅跡
~1997年12月~

宮脇俊三の世界

学生時代には、宮脇俊三氏の本も読むことが多かった。

鉄道旅行記の世界に、「鉄道紀行文学」と呼ばれるジャンルを確立した氏の作品は、私にとっても大いに刺激となった。

初めて読んだのは、「最長片道切符の旅」だったと思うが、その軽妙で飄々とした文体は、他の鉄道趣味の旅行記とは一線を画し、思わず引き込まれるような魅力を感じたものだった。

中学二年生の時には既に、紀行を書くという行為を実践していたのだが、自分が書く紀行の理想やイメージは、宮脇作品によって、決定づけられたように思う。

氏の代表作「時刻表2万キロ」
氏の代表作「時刻表2万キロ」
宮脇文学へのきっかけとなった「最長片道切符の旅」
宮脇文学へのきっかけとなった「最長片道切符の旅」

学生時代を終えて社会人へ

学生時代後半に入ると、卒業論文や修士論文の執筆の為に、中部地方にあった研究施設に、泊りがけで出掛けることも多くなる。今西錦司に触発されての進学ではあったが、大学生活の中心は部活動にあり、その合間は「旅と鉄道」が占めていた。

結果として、学問の方も大した成果を上げることはなかったのだが、研究フィールドが山岳地帯にあったおかげで、施設の技官さんに「山仕事」を教えてもらうことが多く、学術研究よりもその「山仕事」の方を熱心に学んだ。

渓流の源頭部の調査のため、ハーネスにザイルを装着して確保されながら、斜面を下降するようなこともあったが、研究そのものよりも、こうした登山用品を装着し使い方を覚える事は、何倍も楽しかった。

技官さんと山を歩きながら、山菜採りなどを覚えたのもこの頃で、沢を登りながら渓流魚を釣り上げ、山菜を採取して、河原でビバークして、山頂を極めるといった登山スタイルを身に付けることになった。

こうした生活と、子供の頃からの興味とが相まって、自然保護に関わる仕事に興味を抱くようになった。

自然保護と言っても、民間企業に属することには興味がなく、大学で研究生活を送るほど、学問的な興味もなかった。研究施設の技官をしながら、アウトドアガイドの手伝いをするといった道も、現実的なところにあったのだが、内心、興味を抱きつつも、その道には進まなかった。

そうなると、専業アウトドアガイドを目指すか、自然保護NPOに就職するか、自然保護行政に携わるか…といったあたりに選択肢が絞られる。

その中で、私が選んだのは、自然保護行政という道だった。

背景として、自然保護行政に批判的な意識を持っていて、批判するより組織内部から改革を!という意識があったことは確かだが、一方で、世間的な評価や生活の安定といったことを考えたのも事実だった。アウトドアガイドやNPOでは、生活が安定しない。そういう気持ちが働いていた。

自然保護に関連する青年海外協力隊の仕事にも応募していたが、こちらも、明確な意識の上で応募したとは言い難く、面接まで進んだものの、そこで、落選した。

勿論、自然保護行政に進むと決めた以上は、公務員試験の対策も行い、世間的に言われるコネ就職など一切無い中で、面接などを通過し、採用されるに至ったのだが、この時の自分の生き方は、大学受験を目指した時の自分の生き方とは違っていたと思う。

もっとも、今、こうした記事を書きながら振り返ってみるとそう見えるだけで、当時は、熟慮の末に、世間一般の常識に従った就職先に落ち着くことに納得していたし、それが駄目なら転職すればいいと、割と、軽く考えていた気もする。

それでも、自分の中には、世間の評価や周囲の期待という、見えない力に引きずられ、流される生き方が生じていたのは事実だろう。

自分の心の奥底にある単純素朴な思いに蓋をして、頭の表層にある常識や理屈に従う生き方。

そんな生き方をしていたように思う。

大学院時代の2年間は、就活、陸上競技の遠征、研究フィールドへの出張などを連続でこなす日程になることも多く、京都や大阪から寝台急行「銀河」で東京に行き、試合や就活を終えた後、夜行列車経由で中部山岳に入り、北陸本線や高山本線で帰京するという生活も常になった。当時は、急行「たかやま」や急行「かすが」、名鉄特急「北アルプス」といった列車が現役で走っており、それらに乗車するのは楽しみの一つだった。

その多忙な生活の中で、6年間の学生時代を終えた。

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