ちゃり鉄0号|~「ちゃり鉄」の原点へ~

ちゃり鉄.JPメインアイキャッチ画像
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄0号:「ちゃり鉄」の誕生

「旅」から「旅行」へ

旅人として再訪した釧路川と幣舞橋 ~2015年12月~
旅人として再訪した釧路川と幣舞橋 
~2015年12月~

私の社会人生活は、北海道の釧路で始まった。公務員としての最初の赴任先が、釧路だったのだ。学生時代に旅の舞台として憧れた北海道で生活できることは、夢のようで、赴任早々から、あちこち、出かけていた。

休みの前には、車に野宿道具を積み込んで出勤し、退社後、家に帰らず、そのまま、登山などに出掛ける…というように、休みは大抵、出掛けていた。ただ、車を使うことが大半となり、相対的に、自転車や鉄道の旅の頻度は少なくなった。

これには、仕事柄、登山を行うことが多くなったこともあるが、限られた休みの時間を、最大限に利用しようとすると、自転車や鉄道では無理があったというのも、大きな理由だった。

また、当たり前のことだが、学生時代のような10日以上の長旅は、難しくなった。

車を運転すること自体は好きなのだが、車で出かける時には、あまり、「旅」という意識を持てない。やはり、「旅行」になってしまう。

車に自転車を積載して出掛けることもあったが、これは、登山口と下山口とを結ぶ足として自転車を利用したのであって、自転車そのもので旅をする目的ではなかった。

北海道時代はマイカーでの「旅行」が中心となった ~2003年10月 カムエク登山~
北海道時代はマイカーでの「旅行」が中心となった 
~2003年10月 カムエク登山~

言葉としては些細な違いではあるが、この「旅」と「旅行」の違いは、私の中では、大きな違いなのである。

休みは大抵、出掛けていたものの、私の中では、「旅」に出ていないという思いは強かった。「旅」から「旅行」へと、自分のスタイルが変わっていくのを、仕方ないと考えていたように思う。

北海道に住んでいるという貴重な機会だったため、車で旅行しながら、鉄道の駅を訪れたりもしたのだが、やはり、鉄道の旅や自転車の旅と比べると、物足りない感じがしていたものだ。

最後の自転車の旅

2003年の秋には、久しぶりに、自転車での2泊3日の旅を行った。

釧路から、網走、北見、池田と巡り、釧網本線やちほく高原鉄道の各駅に停車しながら、鉄道沿線を走る旅であった。

旅に復帰しようとしていたわけではなく、むしろ、仕事やプライベート環境の変化から、鉄道や自転車の旅を諦めることを覚悟して、そのきっかけとして、短い旅に出たのである。

当時は、「ちゃり鉄」を全く意識していなかったものの、「ちゃり鉄」の原型となったこの旅は、奇しくも、「最後の自転車の旅」を意識して行ったものだった。

「最後の自転車の旅」で訪れた、ちほく高原鉄道・分線駅 ~2003年11月~
「最後の自転車の旅」で訪れた、ちほく高原鉄道・分線駅 
~2003年11月~

社会人生活の転機

公務員としての私は、自然保護の行政事務を中心に、地域振興を目的としたプロジェクトにも関わっていた。よく耳にする「ツーリズム」といった用語が使われる、そういうプロジェクトだった。

それらの事業の多くは、大した成果もないままいつの間にか終わり、しばらくすると、似たようなプロジェクトが、別の名前で繰り返されたりしていたように思う。

理念としては悪いものでなかったと思うが、地元の人々の大半がそうした事業が行われていることに無関心で、盛り上がりにも欠けていたし、必要とされてもいなかったように思う。税金の無駄遣いと言われることも多かったし、胡散臭いNPO等が参入してくることも少なくなかった。

民間の有名起業家が手掛けた成功事例などが取り沙汰され、それに触発された地域振興政策が、あちこちで発生していたと思うが、思惑通り成功する事例は少なく、行政機関の職員としての制約もある中で次第に限界を感じ始めていた。

そんな日々の中で、旅をしたいという思いは強くなっていったが、社会人になるということは、そういう自由な旅を諦めることだという固定観念に縛られていたこともあり、思い切った行動はできなくなっていった。

大学進学の時に、目標を掲げ克服していった自分と比べて、明らかに、周囲に流されていた自分がいたように思う。

勿論、親の庇護のもとで自分の目標に邁進できた10代半ばと、独り立ちして自分で生計を立てていく20代半ばとでは、置かれた状況は全く異なる。

それにしても私は、周囲の期待や社会の評価、世間の常識に捉われ、自分の思いとは別の次元で、重要な決断を下し、進路を決めていったように感じるのである。旅を続けたいと感じるその感覚を、どこか幼稚な感覚と捉えて、捨てようと意識していた。

結局、行政機関での仕事は、4年程度で終わることになった。

「ちゃり鉄」の誕生

その後、長らく手放していた自転車を買い直して、輪行スタイルで鉄道の旅と自転車の旅を再開するようになったのだが、生活のためには働かなければならない。旅から生活の糧を得ることはできなかったため、仕事の合間に旅に出るという生活は変わらなかった。自然保護とは無関係な仕事に転職した、というだけだったのかもしれない。

当時は、新しい環境の中で、駅伝のように少しずつ走りつないで、日本一周する旅を考えていた。

その第一区は、学生時代の駅伝のゴールだった天橋立をスタートにした。私自身、大学一回生の時に、アンカーとして天橋立にゴールしたのだが、10年、20年かけて日本を一周し、アンカー区間を最後に走って天橋立にゴールする計画だった。

日本一周を目指して走り始めた第一区は、学生時代の駅伝のゴール・天橋立をスタートとした
日本一周を目指して走り始めた第一区は、学生時代の駅伝のゴール・天橋立をスタートとした

2007年のゴールデンウィークに始めたこの旅は、第一区:天橋立~新潟、第二区:新潟~秋田、第三区:秋田~札幌と、順調に走りつないで行ったのだが、そこで、再び、長期間、中断せざるを得なくなった。

結局、旅の時間を確保しようとすれば資金が不足し、資金を用意しようとすれば時間が不足する、二律背反の状況でもがくことになり、旅の再開まで、実に10年近くかかったのだが、その間、幾度かの転職によって環境を整えつつ、まずは鉄道の旅から再開した。

同時に、自転車の旅の計画を練り直し、当初の単純な日本一周ではなく、鉄道沿線に沿って各駅に停車しながら、所々で「途中下車」をして、内陸部の山や沖合の離島にも寄り道をしながら、日本一周をしようと考えるようになった。

そのきっかけとなったのは、「最後の自転車の旅」の記憶だった。

この旅で巡った「ちほく高原鉄道」は、既に、鉄道そのものが廃止されており、「最後の自転車の旅」は、「ちほく高原鉄道」の各駅の姿を記録に残した、貴重な旅となっていたからだ。

変わりゆく日本各地の鉄道沿線風景の「今」を、紀行や写真で「未来」に向けて発信し、次世代に伝えていきたいという思いが、以前に増して強くなっていた。それを「ちゃり鉄」という言葉に託して、実現に向けて進もうと考えるようになったのである。

生計をどうやって立てていくのか?という問題は、依然として解消はしていない。時間的な自由度を高めるために不安定な雇用環境に身を置くことになり、収入は減る一方なので、代替の生計手段を得なければならないが、それは、簡単なことではない。

しかし、Webサイトを立ち上げ、そこでの広告収入によって旅の費用を捻出するなど、以前には考えられなかった選択肢も現れてきた。勿論、現実はそんなに甘いものではなく、自分が公開しているWebサイトの情報は、現状ではほぼ、収入に結びつかない。

だが、図書館に通ったり、古本屋から古書を仕入れたりしながら、他にはない「ちゃり鉄」の紀行を書き上げていくことは、雇われ仕事では得られない楽しみであり、こうした拙い文書でも、興味を持ち、閲覧してくださる読者がいるということは、喜びでもある。

こうして、40年来の紆余曲折を経て「ちゃり鉄」の旅が始まった。

その第1号で何処を走るかは、構想当時から決めていた。

私の鉄道原風景である「難波発賢島行き近鉄特急・ビスタカー」。

そのルートとなる近鉄沿線の各線を辿る旅である。

実際は、2週続けの「ちゃり鉄1号」、「ちゃり鉄2号」の旅となったが、長年の思いを実現し、遥か遠い目標に向けた旅が、2016年7月、いよいよ始動した。

「ちゃり鉄1号」で寄り道 ~青山高原から望む伊勢湾岸~
「ちゃり鉄1号」で寄り道
~青山高原から望む伊勢湾岸~
タイトルとURLをコピーしました