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糠南駅:旅情駅探訪記
1997年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
名寄から北のJR宗谷本線は、宗谷北線とも呼ばれ、北辺の荒蕪地を行く、ひときわ旅情深い路線である。
天塩川を母として穏やかに形作られた大地には、一面の牧草地が広がり、遠くに、ぽつりぽつりと、酪農家のものと思われるサイロ付きの家屋が散見される。
コロンというお菓子を思わせる牧草ロールが、そこかしこに転がり、その脇で、乳牛が、白黒まだらな巨体をのんびりと横たえ、思い思いの姿勢で草を食んだりしている。
そして、時折、思い出したかのように車窓に現れる駅は、どれも簡素な無人駅ばかりだ。
そんな宗谷北線の無人駅の中でも、糠南駅は、忘れがたい旅情駅の一つである。
この駅を知ったのは、古く大学生時代、1997年8月の旅の道中でのことだった。
丁度、陸上競技のレースが札幌で開催されるのに合わせ、所属チームの合宿も北海道で行うことになっており、その前後の期間を利用して、初めて夏の北海道を旅したのである。
車両の最後尾に立って、車窓越しに宗谷本線の旅を楽しんでいると、やがて、一両分の長さがあるかないか、といった程度の板張りだけのホームに、鈍行は停車した。
板張りの一角には、一瞬、何かの間違いか?と思わせるように物置があり、これが、待合室なのであった。
あとは、駅名標などの最低限の駅設備。少し離れたところには、朽ちかけた木造待合室が残っていたように思う。
これが、この駅の全て。他には何もなかった。
だが、私にとって、それは感動的な風景だった。
こんな豊かな駅には、滅多に出会わない。
この時は、途中下車の予定がなかったので、写真を撮影しただけで、後ろ髪引かれながら、駅を車窓に見送った。
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
途中下車することが出来たのは、それから4年後、2001年6月のことだった。
折しも、JR北海道では、6月末に、宗谷本線や石北本線で、一気に6駅が廃止されることになっていて、この糠南駅付近でも、隣接する上雄信内駅が廃止されることになっていた。
通常、6月頃に、長い旅に出ることはなかったのだが、駅の廃止の予定を知るにつけ、居ても立ってもいられない気持ちになり、往復とも新日本海フェリーで、北海道を訪れた。
その旅の中で、糠南駅への途中下車の機会に恵まれたのである。
この年は、北海道を旅する間中、エゾ梅雨を思わせるような曇雨天に見舞われ、霧に沈んだ風景の中を旅することになったのだが、霧の北海道も、それはそれで、印象深い。
再訪した糠南駅も、霧深い草むらの中に埋もれるように、しっとりと佇んでいた。
糠南駅のスペック情報的な詳細は割愛するが、開業は、国鉄時代の1955年12月2日に遡る。細かいことを言うならば、この開業は、「仮乗降場」としての開業であって、正式な「駅」としての開業ではなかった。
人口希薄な僻地の鉄道路線では、駅間距離が長く、道路事情や気象事情によっては、最寄りの駅まで通勤通学で通うことが困難な場合がある。
そのような場合に、駅と駅の間に、便宜的に設けられた乗降場が、「仮乗降場」なのである。便宜的なものであるから、駅の施設は最低限のものに限られ、時刻表などに掲載されないものも多かった。
このような背景があるため、「仮乗降場」は、特に北海道に多く存在した。
糠南駅も、その出生が「仮乗降場」としての立場であったため、あくまで、「仮」のものとして駅施設が設けられた。
正式に「駅」になったのは、分割民営化によりJR北海道が発足した1987年4月1日である。駅の維持管理者が変わり、根拠法令が変わったことにより、形式的に「仮乗降場」が「駅」になったのである。
朝礼台とも言われる、一両分の長さもないような板張りホームは、そういった出生秘話を、今に伝えている。
物置は?と言えば、これは、開業当初からのものではない。
地元自治体の幌延町のWebサイトによれば、2015年頃の記事で、「設置から30年近く経過し…」とあることから、1980年代後半に、設置されたもののようである。どうやら、木造の古い待合室が、気象災害で倒壊したため、その代替として、地元の手によって設置されたという経緯があるようだ。
それ以降、北海道の厳しい気象環境の中で、30年以上に渡って、これだけの簡素な構造物が維持管理され、原型を保っているというのは、奇跡のようにも思えるが、それは、地元幌延町や地域住民、そして、物置のメーカーである淀川製鋼所(ヨドコウ)による補修協力などの賜物である。
そして、それが、「旅情」となって、旅の車窓を通して、途中下車に誘うのであろう。
わずかな滞在時間ではあったが、この駅でのひと時は、至福の時間であった。
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
三回目の訪問と言ってよいかどうかは分からないが、2001年8月には、再び、北海道を旅する機会があり、宗谷本線の旅の間に、糠南駅を通過した。
一部の普通列車は、糠南駅を通過するダイヤが組まれており、あいにく、私の乗車した普通列車は、糠南駅には停車しなかった。
その為、通過列車の車窓から、写真を撮影しただけだったが、2ヶ月ぶりの糠南駅は、夏晴れの中、爽やかに佇んでいた。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
学生時代から、真冬の北海道を旅する機会は何度かあった。
実際に北海道に住んでいた数年間には、大型のRV車を運転中に、ボンネットが見えなくなるくらいの、猛烈な地吹雪を体験したこともあるし、放射冷却で冷え込んだ朝には、マイナス30度近い大気の底で、ダイヤモンドダストに包まれたこともあった。
北海道と言えば、夏の爽やかなイメージを抱く人も多いと思うのだが、私が一番好きなのは、真冬の、厳しさと優しさが同居した北海道である。
2015年から2016年の年末年始は、そんな真冬の北海道を、久しぶりに、野宿で旅する機会を得た。旅人として、冬の北海道を訪れるのは、1998年2月~3月にかけての旅以来である。
青春18切符や北海道東北パスで、北に向けて鈍行を乗り継ぐ中、盛岡近郊では、着雪による踏切障害で数十分間の立ち往生が発生し、最後の「ブルートレイン」だった急行「はまなす」で訪れた北海道は、吹雪に加え、トンネル火災が発生するなど、大荒れの様相だった。
旅の後半には、宗谷本線を2泊かけて巡ったのだが、ここ、糠南駅も、訪れることが出来た。
旭川行きの鈍行から降り立った糠南駅は、綺麗に除雪されており、孤独な旅人を迎えてくれた。
この日も北海道は全域で吹雪が続いており、宗谷北線のエリアでも、終日吹雪だった。
そんな中でも、JRの列車は、さしたる遅れもなく定時運行をしており、至るところで、保線作業に従事する職員の姿が見られた。いくつかの駅では、冬期限定の除雪アルバイト募集のビラも見かけた。
企業体としてのJR北海道に対しては、その経営姿勢を巡って厳しい指摘がある。
その全てが的外れなわけでもないだろうし、もっと工夫されて良い部分があるのも事実であろう。
しかし、そのようなことを机上壇上で振りかざす前に、冬期の除雪作業のアルバイトに、従事してはどうか?
どれほどの厳しさの労働を、どれくらいの水準の賃金で、どれくらいの年齢の人々が担っているのか、肌身を持って体感することがあれば、北の大地の鉄道経営の厳しさに対して、温々とした場所から、軽々しく批判することに、違った感じ方が得られるかもしれない。
ここ、糠南駅も、綺麗に除雪されていた。
それは、保守保線に関わる「誰か」のおかげなのである。
吹雪の合間、ほんの一瞬、降り積もる雪の音さえ聞こえてきそうな静寂に包まれた。そこには、人に守られている駅が持っている、温かな旅情があった。
この日は、16時15分発の旭川行きで到着し、18時48分発の幌延行きで出発する計画であった。
吹雪による遅延が心配されたが、いずれの列車も、遅延なく運行されていたことには、驚かされる。
夕刻の到着で、既に暗くなり始めていたことや、折からの吹雪と周辺の積雪の影響もあって、駅から遠くに歩いていくことは出来なかったが、刻一刻と表情を変える駅の佇まいに、しばし、言葉を失いながら、至福の時間を過ごすことが出来た。
時折、踏切の遮断機が降り、通過列車が雪煙とともに高速で通り過ぎていく。
束の間、2条の線路が露わになるのだが、深々と降り続く雪は、そんな線路を、いともたやすく隠してしまい、通過列車の痕跡は、すぐに、埋もれてしまう。
埋もれた後の雪の轍を見ていると、それは、あたかも廃線跡のようにさえ思えるが、駅や踏切を照らす明かりが、現役の鉄道施設だということを、主張している。
すっかり暗くなった糠南駅を訪れる者は居ない。
再び強くなり始めた吹雪の彼方から、18時48分発の幌延行き普通列車の前照灯が近づいてきた。
あっという間の2時間あまり。
その余韻を噛み締め、去り難い思いを胸に、糠南駅を後にした。
次に訪れる時は、この駅で、駅前野宿の夜を過ごしたい。
2020年10月(ちゃり鉄14号)
2020年10月。
ちゃり鉄14号で宗谷本線を訪れた。
2021年3月のダイヤ改正で、宗谷本線では、利用者の少ない無人駅が大量に廃止されることになっており、この旅は、失われゆく旅情駅の姿を記録に残す、最後の機会となった。
ここ糠南駅は、幸い、廃止を免れることとなったが、駅が位置する幌延町内でも、近隣の上幌延駅や安牛駅の廃止が決定されており、糠南駅も、決して、安泰とは言えない状況である。
10月の北海道は既に晩秋の気配。不安定な天候の下、前夜を過ごした抜海駅から、宗谷本線を南下し、夕刻にたどり着いた糠南駅は、変わらず静かに佇んでいた。
これまで、糠南駅を訪問する機会は何度かあったのだが、いずれも、短時間の訪問だった。
今回は、駅前野宿。翌朝の出発時間までの間、心ゆくまで、この旅情駅での時間を堪能したい。
手早く野宿の準備を済ませ、駅前を散策してみた。
早くも暮れ始めた暮景の中、時折、遠雷が鳴り響いている。
今夜も、一雨降られることだろう。
駅の周辺は牧草地が広がっており、目に見える範囲に、民家は存在しない。駅前の道を雄信内方面に進めば、行き止まりの手前に、酪農家の民家が1軒あるのみだ。
夕刻から早朝にかけては、愛好家の来訪も滅多に無い。その分、旅情駅本来の雰囲気の中で、至福の時間を過ごすことができる。
程なくして、辺りは、とっぷりと暮れた。
今回も、前回と同様、隣接する踏切から、糠南駅を撮影してみた。この糠南駅の情景をいつまでも残したい。何度訪れても、その様に思う。
しばらくすると、土砂降りの雷雨になった。
東進してきた寒冷前線が通過中らしく、気象アプリで確認すると、強雨を示す赤い表示の真っ只中にいた。嵐の中、物置の待合室に逃げ込むが、倒壊しないか心配になるくらいの風雨に、物置全体がガタガタと揺れる。
それでも、18時8分の稚内行き普通列車は、定時運行をしていた。
待合室の窓越しに普通列車の撮影を済ませ、風雨が落ち着くのを待つ。
真冬には、交通網が麻痺するくらいの暴風雪に見舞われるこの地にあって、長年、維持され続けてきた物置の待合室。これくらいの風雨で倒壊することなどないのだろう。
嵐が過ぎ去った後、待合室を出てみると、雨上がりの夜空には、星がきらめいていた。
程なくして、踏切の警報機が鳴り出し、遮断機が下りた。
しばらくすると、警報音に混じって、遠くから、列車の走行音が近づいてくる。特急「宗谷」だ。
稚内を出発し、札幌に向かう特急「宗谷」は、仕事帰りと思われるビジネスマンらを乗せて、道北の旅情駅を、光陰となって駆け抜けていった。
駅に停車する普通列車は、一日3往復。19時44分の名寄行きが最終である。
単行のキハ54系気動車で運転される普通列車を見送った後、眠りについた。
一夜明けると、昨夜来の雨は上がり、雲は途切れていた。
この日は、早朝に「糠南俯瞰」と呼ばれる高台を訪れて写真を撮影する予定だったので、雨が上がっていてホッとした。
黎明の青い大気が徐々に明けていくと、刻一刻と変化していく夜明けの空の下に、ドラマチックな情景が展開された。
空の色は、群青から薄紫へ、そして、紅から橙へと、変化していく。
前夜の雨で濡れるホームや線路に、その色が反射する情景を、何枚も写真に収めた。
撮影を済ませた後、「糠南俯瞰」に向けて、空身の自転車で出発した。
糠南駅を発着する普通列車は、朝の1往復、昼前後の1往復、そして、夕方~夜の1往復の合計3往復だが、朝の1往復は、6時29分の稚内行き、6時47分の名寄行きで、時間が近接している。
「糠南俯瞰」からは、稚内行きを正面に眺めることになるので、6時29分の稚内行きを「糠南俯瞰」から撮影した後、駅に戻り、6時47分の名寄行きを撮影する計画としたのである。
「糠南俯瞰」から撮影をした後、駅に戻るまでの時間的余裕があまりないが、距離的にも3キロ程度で、帰りは下りになるので、十分に間に合うとみた。
「糠南俯瞰」までは、空身の自転車で15分程度。撮影時刻の10分程度前に到着した。
靄がかかって視界が遮られる瞬間もあったが、撮影時刻が近づくと、運良く晴れ渡ってきた。
名寄方の問寒別駅から糠南駅にかけての線路が、朝日の中にきらめいている。
糠南駅で一夜を過ごしてこそ巡り会えるこの絶景に、しばし、立ち尽くした。
やがて、問寒別駅を出発する稚内行きの汽笛が聞こえると、程なくして、眼下の線路を進む気動車の姿が見えてきた。
踏切の警報音が聞こえてくる。
糠南駅に近づいて減速する普通列車が、ジオラマのように見える。朝礼台とも言われる板切れだけのホームは、車両一両分の長さもない。
ファインダー越しに眺める普通列車には、乗降客は居なかった。
始発の撮影を終えたら、すぐに、「糠南俯瞰」を出発して、駅に戻った。帰りは、10分かからない程度だった。
駅は朝日の海の中に輝いている。
駅に戻ると、すぐに、踏切の遮断機が下り、6時47分発の名寄行き普通列車が到着。単行の普通からは、一人の愛好家が、荷物を抱えて下車してきた。
糠南駅での一人の時間もこれで終了。
朝日に輝く列車を見送る。
当初は、これで糠南駅を後にする予定だったのだが、昨夜来の雨と天候不順の中、本日走行予定のルートに含まれる北大中川演習林内の林道状況が悪いことが予想されたため、予定を変更し、林道走行をやめて国道を走ることにした。
その分、走行距離や走行時間が短縮されて、この日の終点・豊清水駅までの行程に余裕が出来たので、滞在時間を延長し、旭川行きの特急「サロベツ」の撮影を済ませてから駅を出発することにした。
まばゆい朝日の中、しばらく、駅周辺を散策する。陽光の中で、糠南駅と対峙するのは、これが初めて。
他の訪問者も居るので、若干、落ち着かない心地がしたが、明るい日差しの中で眺める旅情駅は、爽やかで長閑な印象だった。
やがて、特急「サロベツ」が駅を通過していった。
道北の旅情駅。糠南。
この旅情駅が、末永く維持されることを願いつつ、駅を後にした。
尚、この日は、予定変更の結果として、林道からのアプローチを狙っていた神路駅跡の探索を諦め、対岸から、吊橋跡や集落跡を撮影するだけになったが、実際のところ、現地で撮影を済ませた直後に、嵐になり、ギリギリの際どいところで隧道に避難したため、この予定変更は正解だった。
糠南駅:文献調査記録
幌延町史(白山友正・幌延町・1974年)
「ヌカナン」という地名の由来
糠南駅は本文で述べたとおり仮乗降場として始まった駅だけに、国鉄などの正式な記録を紐解いても、その設置経緯などについては、記録されていなかった。仮乗降場として開業するための地元の請願文書などを入手できれば、糠南駅に関する詳細が分かると思うのだが、残念ながら、インターネットで検索して見つけられるような情報ではないかもしれない。
そこで、基本資料として、地元自治体である幌延町発行の「幌延町史(白山友正・1974年)(以下、町史と略記)」を当たることにした。また、駅名に関連して、いくつかの文献の記載も合わせて、比較検討してみることにする。
まず、本文では触れていなかった、糠南駅の駅名の由来についての文献調査記録をまとめることにしたい。本文で触れていなかったのは、本文執筆当時、有力な資料を入手できていなかったためである。
町史の記載を確認すると、「糠南駅」としての記載はなかったものの、「ヌカナン」という字の由来についてまとめられていた。
それによると、「ノカナン?は鳥が卵を置くところ。すなわち小さい野のこと。更科氏は野原でなく小川の名といい、ノクは卵や睾丸をさす言葉。「駅名の起源」では仕掛け弓(アマッポ)のさわる糸(ノッカ)のあるところという意味。ノッカには野原の上、岬の上の意味もあり、難解な語である。問寒別川の右岸、問寒別の西にある。簡易乗降場糠南がある。漢字に充てて糠南としたのである」とある。
ここで「駅名の起源」が登場しているが、出典を見ると札幌鉄道局の出版となっている。手元にある「北海道駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)」には、糠南駅の記載はない。但し、根室本線にあった野花南(のかなん)駅に関しては、「アイヌ語の「ノッカ・アン」(仕掛け弓のさわり糸のある所)から出たと言われているが、あきらかでない」との記述があり、この辺の記述が混同して記載されているようにも思える。
なお、「仕掛け弓のさわり糸」の記述は、幌延町史、北海道駅名の起源ともに共通しているのだが、これは、「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)」の中でも述べられており、その記述を読むと、「永田方正(北海道蝦夷語地名解・1891(明治24)年)」が原典となっているようであった。
これらとは異なり、「北海道の駅 878 ものがたり 駅名のルーツ研究(太田幸夫・富士コンテム・2004年)」では、「アイヌ語の「ヌプカ・ナン・ペッ」(原野の冷たい川)からでた。昭和30年12月2日仮乗降場として開設」と記述している。
「ヌカナン」地区の開拓史
町史では、その第7章で部落史についてまとめており、そのうち、「第3節 問寒別」で、「ヌカナン」地区を含む、問寒別地区全体の部落史についてまとめられている。開拓史の記述であるため、糠南駅が開業した頃の経緯は分からなかったが、この地区の開拓史についても、町史の記述を引きながら簡単にまとめておきたい。
まず、問寒別地区への入植について、「明治38年春早く、遠藤椛太郎と玉井留三郎の2人は名寄から天塩へ下る川船にわずか許りの世帯道具と開墾道具を積んできて、いまの問寒別南(通称フクロ)へ移住して開墾を始めた。これが問寒別の草分けである」とある。
現在の宗谷本線の前身に当たる天塩線が問寒別まで延伸開業したのが1923(大正12)年11月10日、問寒別~幌延間の延伸開業が1925(大正14)年7月20日のことであるから、1905(明治38)年の入植は、問寒別に鉄道が延伸される18年前のことだったということになる。
その後、「明治44年の末には問寒別南(フクロ)には9戸、問寒別川口から問寒別川ぞいに42戸、ヌカナンに10戸、計61戸が入地しているが、川口で渡船、宿屋、雑貨屋、船乗りなどの4、5戸を除いてはすべて農業移住者で、ヌカナン以外は御料地の小作人であった」という風に、ヌカナン付近にも10戸の入植者がいたと記録されている。
以下に示すのは、1930年発行の旧版の地形図、及び2021年現在の国土地理院地形図である。地図は重ね合わせてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替えることが出来る。
旧版地形図は糠南駅設置前で、当然、駅の名前は表示されていないが、その南の蛇行した川がかつての問寒別川で、天塩川との合流地点に、町史記載の「川口」の地名が表示され集落が形成されていることが分かる。また、「大学林事務所」という表示がヌカナン地区に見える。
重ね合わせてある現在の地理院地形図には、糠南駅や改修後の問寒別川が記載されているが、町史に出てきた「川口」は既に跡形もなく、かつての問寒別川の蛇行跡が三日月湖になって残っていることが分かる。なお、町史では、ヌカナン地区を、問寒別西という区画で記述している。
この「川口」の集落は上述の通り、河川改修工事によって集落があった痕跡は残っていないが、問寒別の開拓史は、鉄道開通までは「川口」を川港とした水運に拠っていた。引き続き、町史の記述を追ってみる。
「宗谷本線が開通するまでは問寒別川口が物資の集散地で、とりわけ木材は問寒別川を流送し、この河口で筏に組んで天塩川を下ったので、川口に明治の末には市街地が形成された。…(中略)…明治40年以降になって、上問寒や中問寒にも移住者が増加したので川口もにぎわいを見せはじめたのであった。大正に入ると木材は最盛期となり、川口の市街地形成は進み、大正3年には北大演習林の派出所、9年には巡査駐在所も設置された。…(中略)…大正8年には川口から問寒別川流域とフクロと併せて35戸、ヌカナン12戸、計47戸が居住している」。
この記載の内、北大演習林の派出所設置というのは、「幌延町情報ボックス平成29年度版(幌延町産業振興課)(以下、幌延町資料と略記)」他、「札幌農学校・東北帝国大学農科大学の演習林に関する一考察(佐々木朝子・北海道大学大学文書館年報 第14号・2019年)によると、北大トイカンベツ演習林設置(1912(明治45・大正元)年8月)に引き続く派出所の設置(1914(大正3)年7月)のことを指しており、川口に借り上げ庁舎を設置して、助手1名が在勤開始したとある。この当時の川口の隆盛が感じられよう。
なお、トイカンベツ演習林は現在は北大天塩研究林となっているが、先の国土地理院地形図で言うと、糠南駅西側から北に向かって広がる丘陵地帯が演習林に含まれている。
また、地形図に記された糠南駅東方の神社記号は、問寒別神社を表しており、この神社は1910(明治40)年建立とある。同年、問寒別に問寒別特別教授場も開校している(以上、幌延町資料による)。
その後、鉄道開通に伴って、この地域の物流の動きは激変し、それに伴って、人々の生活も大きく変わった。
町史には、「大正12年10月26日、宗谷本線が問寒別まで開通したので、現在の問寒別市街地の形成がすすんだ。反面川口の市街地は消滅した」とある。
その後、問寒別駅付近を中心に市街化が進み、著しく発展した。1929(昭和4)年7月起工、翌1930年9月竣工の、幌延町営軌道問寒別線も、1971年5月31日まで運行されていた。
町史によると、北大演習林の事務所がヌカナンから問寒別市街地の現在地に移転したのは、昭和41年のことであった。
以下に示すのは、町史に掲載された、昭和45年国勢調査に基づく、世帯位置図である。図面左側が問寒別西(ヌカナン)地区、右側が問寒別南(フクロ)地区である。世帯数そのもので見ると、明治大正の頃と大差はないように見えるが、実際、入植当時からの住民も居るようで、町史には、そういった住民の方の座談会の様子も掲載されている。
但し、川口の集落については、勿論、その痕跡は残されてはいないし、各地区も、その後、50年ほどを隔てて、現在では、急激に過疎化が進んでいるように感じられた。「ちゃり鉄14号」の旅で訪れた現地では、廃屋の他、かつての住宅跡地と思われる、荒れ地が点在していた。
以下に示す4枚の画像は、国土地理院で公開している旧版の空撮画像で、上から1947年6月8日、1977年10月9日、2001年8月18日の撮影である。各画像は、ほぼ同じ部分を表示しており、マウスを重ねるかタップをすると、国土地理院の地形図に切り替わるようになっている。また、4枚目のものは、各画像の糠南駅周辺を拡大したものである。
画質の問題もあり、やや見にくいものの、やはり、時代を経るにつれて、入植者の住居が減って居ることが分かる。また、問寒別川は1947年から1977年の間に改修工事が行われており、河道が大きく変わっていることが分かる。この改修工事の影響で、天塩川との合流点にあった川口集落の痕跡は、もはや、消滅していることであろう。
4枚目の画像を見ると、糠南駅設置前の1947年、倒壊した旧待合室時代の1977年の様子は、比較的、はっきりと判別できる。2001年の画像は、元画像の画質の問題で判別できないが、既に、現在の物置に置き換えられた後である。
明治末期から大正にかけて築かれた入植者らの生活を、鉄道の開通は根本的に変えた。そして、100年余隔てた現在、鉄道によって築かれた人々の生活は、道路網の整備と自動車の普及とによって、再び、根本的に変わった。
今や、宗谷本線そのものの存続が議論されるようになっている。
100年後の未来、この地はどういう姿になるのだろうか。
糠南駅:旅情駅ギャラリー
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2020年10月(ちゃり鉄14号)
糠南駅:コメント・評価投票
文献調査記録を含め、内容凄く充実しています。有難うございます。
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。北海道はなかなか訪れることが出来ないのですが、今後、更に調査を進め、少しずつ、コンテンツを充実させていきたいと思います。よろしくお願いいたします。