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初田牛駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
釧路から根室に至る根室本線の東端区間は、道内屈指の無人地帯を行く旅情深い路線である。
宮脇俊三氏が、「最長片道切符の旅」の中で、「「釧路本線」と「根室線」に分けたほうが実態に合う線区である」と書いたように、根室本線という名称を冠していながら、釧路~根室間は本線から分岐するローカル線のような旅情に満ちている。実際、この区間には、花咲線という愛称まで付けられており、ある意味、釧路までの区間とは別格だ。
宮脇俊三氏はこの区間がお気に入りで、「終着駅へ行ってきます」の中でも、「釧路以遠の一三五・四キロこそ、さい果ての旅情ひとしお深い路線である」という記述とともに、この沿線の車窓風景を描写している。
その記述を追っていくと、こんな一文が出てくる。少し長いが引用する。
「さて、厚床を発車した。これから根室までの四五キロは、日本の鉄道路線の中で私のもっとも好きな区間である。
まず、湿原を走る。ヨシの茂る茫洋とした原っぱに葉を落としたヤチハンノキやミズナラが細い枝をくねらせて寒々と点在し、寄生植物のサルオガセにからみつかれて枯れかかったのものある。
湿原が終わり、初田牛を過ぎると、次の別当賀までの右窓に密植されたカラマツやトドマツの林が続く。防雪林か防風林のようだが、ところどころに「防霧保安林」の札が立っている。北海道東部の太平洋岸は、沖合いで暖流と寒流がぶつかり合うので霧が発生しやすく、この霧に災いされて作物が育たないのだという。しのびよる霧を木が防ぐとは根室本線に乗るまで知らなかったことである。どれだけの効果があるものかという気もするが、これだけ盛大に植林してあるからには効き目があるに違いない。左窓にサイロが点々と見え、牧草地が広がっているのは、「防霧林」のおかげなのだろう。しかし、畑は見当たらない。」
氏が旅したのは1983年2月のことであるが、その当時も、いや、建設当時から、この辺りの原野の風景は、あまり変化していないに違いない。
そして、ここに登場する初田牛駅は、そんな茫漠たる大地にポツンと佇む、原野の旅情駅である。
私が初めてこの駅を訪れたのは、学生時代最後の夏。2001年8月のことだった。青春18きっぷを携えて東北・北海道のJR路線を旅する中で、海霧に覆われたこの駅に一人降り立ったのである。
北海道全体の旅自体は、1997年8月の夏の旅が最初だったが、その時は、途中下車をするよりも、全線に乗車することに気持ちが向いていて、釧路~根室間の往路では根室に直行して納沙布岬を周り、復路では浜中で途中下車して霧多布岬まで歩いた後、翌日は、釧路までヒッチハイクした記憶がある。いずれにせよ、この初田牛駅に停車した記憶はないし、写真も残していなかった。
エンジン音と排気ガスの余韻を残して、キハ54系の単行気動車が原野に消えてしまうと、海霧に覆われた初田牛駅は、空気の流れる音が聞こえそうな静寂に包まれた。夏の北海道と言えば、爽やかな緑の大地を思い浮かべる人も多いかもしれないが、道東の太平洋沿岸地域は濃い海霧に閉ざされ、荒涼とした雰囲気の風景が広がることも多い。港の近くに行けば、灰白色の大気に潮の香りが漂い、どこからともなく霧笛が響いてくる。それは、観光パンフレットが宣伝する「夏の北海道」ではないが、私の好きな「夏の北海道」の一コマではある。
初田牛駅のホームに立てば、目の前の原野は霧の中に消えており、振り返れば防霧林を背にした待合室が、灰白色の大気の中にひっそりと佇んでいた。
根室方には線路に対して直角の向きに駅名標が設置されている。「あっとこ、はったうし、べっとが」という駅名の並びは、北海道らしい風情がある。
ここで初田牛駅の沿革を振り返ってみよう。
駅の開業は1920年11月10日。石積みの見えるホームが物語るように、いわゆる仮乗降場由来の駅ではなく、一般駅としての開業であった。現在のプレハブ型の待合室の敷地には、基礎のコンクリートが残っているが、開業当時は木造駅舎で駅員も配置された有人駅だった。
根室線としての建設当時、この路線は、釧路~厚岸(1917年12月1日)、厚岸~厚床(1919年11月25日)、厚床~西和田(1920年11月10日)、西和田~根室(1921年8月5日)という形で順次開業しており、東釧路、昆布盛、東根室の各駅以外は、開業当初から一般駅として設置されている。
ただ、この駅周辺の過疎化は早く、1964年4月1日には業務委託駅化、1971年には貨物・荷物の取り扱い廃止とともに無人化され、1977年10月24日には現在のプレハブ駅舎に改築されている。
以下に示すのは、1965年8月9日、1978年10月9日撮影の、国土地理院公開の空撮画像である。各図には、同図幅の国土地理院地形図も重ね合わせてあり、マウスオーバーやタップで切り替え可能である。
これを見ると、1965年には、駅の北側に小規模ながら集落が形成されており、駅周辺にもいくつかの建物が見える。これらは、駅に勤務する職員の官舎などと思われる。駅舎は分かりにくいが、1978年の画像と比べて一回り大きく、木造駅舎が写っていることが分かる。
道道は未整備で細い1本道が集落内を通過しているに過ぎない。とりわけ、駅の南側は未開で手つかずの湿地や森林が広がっているように見える。このような土地であれば、鉄道という交通手段は、生活のために欠かすことが出来ず、鉄道駅の周辺に集落が形成されるのは自然なことであろう。
駅の東北東にあるカギ型の行き止まり道は、ここに存在した初田牛小学校への取り付き道路である。この小学校は、1947年9月2日開校、1988年3月31日閉校。40年余り、学校として機能していたことになる。この規模の集落に小学校があったということに驚かされるが、開校以前と閉校以後は、厚床までの8㎞の道のりが通学路になったというのだから、苦労のほどが偲ばれる。
1978年の画像では、道道の整備によって周辺の整備開拓が進んでいる様子が分かるものの、集落自体は規模が縮小しており建物の多くが消失している。この期間に駅の無人化があったことになる。
周辺の地誌にも触れたいところであるが、それは、後ほど、改めて記述することにして、ぶらり一人旅に戻ることにする。
この時の初田牛駅訪問は、列車乗り継ぎの合間を利用した短時間のもので、駅前野宿は意図していなかった。この後、花咲駅を訪れ、昆布盛駅で駅前野宿の予定としていたからだ。当時は、google mapなどもなかったし、道路地図のマップル北海道版などを利用して旅の計画を立てていたのだが、現地を訪れてみると別の場所で野宿した方が良さそうに思えることもあった。
この初田牛駅も、駅前野宿の誘惑に駆られる駅だったのだが、「次に訪れた時に野宿しよう」と候補地に挙げるだけにして、予定変更して駅前野宿をすることは無かった。
駅の周辺を少し散策してみる。
南側には広い空き地が広がっていて、その中に、未舗装の道が伸びている。その先は十字路になっており、東からやってきて南に直角に曲がっていくのが、道道142号線である。この道道は、根室浜中釧路線と言い、その名の通り、根室から釧路までの海岸線に沿った快走路なのだが、北太平洋シーサイドラインとも呼ばれていて、日本離れした海岸風景を楽しみながらのドライブ・ライディングルートである。ただ、釧路~根室間の自動車交通でこの道を通る人は少なく、大半は、北の内陸を行く国道44号線を経由するため、道道142号線の交通量は極めて少ない。
十字路を西に入ろうとするとすぐに未舗装路となっており、この先は、1軒の酪農家が住む他、人の生活は無く、道も行き止まりである。
駅の北側に足を延ばしてみると、未舗装の駅前通りの先に同様の十字路がある。東西に延びる道沿いにはかつての集落跡が点在しており、草むらの中に廃屋が朽ちかけている他、初田牛会館の建物もある。だが、殆ど原野に還った様子で、集落の痕跡はほとんど見当たらない。
十字路を北に向かえば、右手に電波塔や初田牛神社を眺めつつ、やがて、道道1127号との交差点に出るのだが、交差点西側の道道は、スノーシェルターに覆われている。
別に山があるわけでもないのにトンネルがあることに驚くが、これは、冬季の地吹雪からの避難用シェルターで、北海道にはこうしたシェルターが随所にある。それだけ、冬の気象が厳しいのである。
後年、私は釧路に赴任し、社会人生活の何年かを過ごしたが、真冬の地吹雪は凄まじく、当時乗っていた大型RV車のボンネットの先が見えなくなり、車高を越える吹き溜まりが出現するなかをドライブしたこともある。
毎年、遭難事故も発生し、父子家庭の父娘を乗せた軽トラがスタックして動けなくなり、近所に助けを求めに出るも方向を見失い、吹き荒ぶ地吹雪の中、父親の胸に抱かれた娘だけが辛うじて助かり、父親が凍死したという事件もあって、人々の涙を誘った。
駅に戻ると、空気の色が灰白色から青灰色に変わり、待合室に明りが灯っていた。この霧では日没は望むべくもないが、日暮れの雰囲気が色濃くなっている。
これからとっぷり暮れるまでの数時間は、夜明け前から夜明けまでの数時間と同じく、私のもっとも好きな時間で、旅情駅が最も味わい深い表情を見せてくれる。できるなら、このまま、初田牛駅での夜を過ごしてみたかったが、この時は予定変更せずに先に進むことにした。
しばらくすると、原野の向こうから列車の走行音が響きだし、やがて、ヘッドライトの灯りが浮かび上がってきた。到着した列車から降りてくる人はおらず、私以外の乗車客も居なかった。
終始、人の気配を感じないまま、初田牛駅での滞在を終えたが、私にとっては、居心地の良い旅情駅だった。
2015年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
初田牛駅への旅人としての再訪は、前回の訪問から、14年余りを隔てた2015年12月のことだった。
2015年12月から2016年1月にかけて実施したこの旅では、石勝線や室蘭本線の岩見沢~苫小牧間を除く、北海道のJR私鉄全路線に乗車することが出来たのだが、旅の期間を通して道内は吹雪が続き、JR函館本線嵐山トンネル内でのトンネル火災もあって、序盤から予定変更が続いた。
道内初日は留萌本線の増毛駅で駅前野宿の予定だったが、トンネル火災の影響により旭川からやってくる車両が運休したのと吹雪の影響で留萌本線も運休。予定を大幅に変更して根室本線に入り、東鹿越駅で道内初日の駅前野宿を過ごした。そして、二日目の上厚内駅を経て、三日目のこの日、花咲駅での駅前野宿を計画していた。この時、花咲線の区間で花咲駅を駅前野宿地に選んだのは、この花咲駅が2016年3月26日をもって廃止されることが決定していたからだ。
道内の無人駅は、2000年頃から次々に廃止されているが、一気に、数駅が廃止されることもある。2021年3月のダイヤ改正で、18もの駅が廃止されてしまったのは記憶に新しい。
廃止が決定されると駅の訪問者も増えてしまい、時には、異常な過密状態になったりもするので、元々は、廃止報道の後に路線や駅を訪れるのは好まないのだが、社会人になってからは、遠方に旅に出る機会も限られ、再訪を果たせぬまま消えていった鉄道風景も多い。
既に、旅情駅として訪れた駅の多くが廃止されており、この旅情駅探訪記でも、「追憶の旅情駅」として紹介しなければいけない駅が増えていくのは寂しい限りだ。
この初田牛駅も、結局、駅前野宿の一夜を過ごす機会がないまま、2019年3月16日に廃止されてしまった。2015年12月のこの訪問は、奇しくも、旅人としての最後の訪問となってしまった。
実のところ、2000年代初頭に釧路に赴任していた頃は、この辺りも、ドライブや仕事で何度も通っている。春夏秋冬の道内の鉄道沿線風景を、存分に記録する機会には恵まれていたはずなのだが、仕事で山に行く機会が多くなり、相対的に自転車や鉄道の旅の頻度は低下していた。思うように旅することができない中で、鉄道や自転車の旅そのものへの興味も薄れていた時代だった。
その後、転職し、旅を行う生活に戻り始めた時には、北海道は遠い彼の地になり、時間や費用の点で、結局、思うようには訪れることができない場所になってしまっていた。2015年12月から2016年1月にかけてのこの長旅も、転職の合間の有給消化という機会を利用して実現したものだった。
この日の旅では、前夜を過ごした上厚内駅を7時前に出発し、8時半頃には釧路着。かつて生活した街を2時間半ほどかけて徒歩で巡り、11時に出発。花咲線区間を一気に走り抜け根室には13時20分頃に到着した。そして、これまでとは異なり納沙布岬まで足を延ばすことなく10分ほどでとんぼ返りする。
落石から別当賀にかけては、海食崖の上から荒涼とした太平洋を望み、別当賀から初田牛にかけては、クマザサと防霧林の間に湿地性の灌木が茂る素寒貧とした風景の中を駆け抜ける。別当賀を過ぎてからはリュックを背負って前方の昇降口の前に立ち、キハ54系の前面展望を楽しんだ。
左手に「初田牛」と書いた黄色い駅名標識が通り過ぎれば、程なく、道道の踏切を渡り、かつてのポイント跡を通過して初田牛駅に到着する。時刻は14時過ぎだった。
2週間以上に及ぶ旅の期間中、道内のほとんどの地域が吹雪に見舞われていたが、十勝・根釧を巡った3日間は、雪も少ない枯れた大地の中、天候も比較的穏やかだった。
花咲線沿線は、モンキー・パンチ氏の出身地でもあり、霧多布岬を舞台にした「ルパン三世 霧のエリューシヴ(2007年7月27日放送)」に因んで、ルパン三世のラッピング列車が運行されていた。それによる観光振興効果はどれほどのものか分からないが、この初田牛駅で降り立ったのは私一人。勿論、乗り込む客も居なかった。
去り行くキハ54系を見送れば、一人佇むホームには、静かなひと時が訪れる。
十数年ぶりの訪問ではあるが、前回は濃霧の中での訪問だっただけに、駅の印象は記憶とは異なっていた。地吹雪でも吹き荒れていれば、それはそれで、この地らしい気象だと感じたかもしれないが、そもそも、それでは、運休の可能性がある。
この日は、幸いにも穏やかな天候で気温も氷点下数度。石狩方面の吹雪が嘘のように無風で、真冬の北海道にしては暖かい一日だった。
駅の周辺には積雪は無く、微かに、雪化粧の跡が残っている。地面は凍結しているものの、この冬、この辺りには根雪は降っていないらしい。
今回も、前回と同様、初田牛駅は乗り継ぎの合間の滞在で、1時間ほど過ごすだけだ。当時は、あと3年で廃止になるとは思ってもみなかったが、幸いにも、この時、僅かな滞在時間とは言え、駅の周辺を一通り周ることが出来た。
木造駅舎時代の痕跡を残すコンクリートの土台の上には、前回と変わらず、プレハブ造りの待合室が佇んでいる。出入り口のドアは、新しいものに取り換えられたようで、塗装の剥がれなどは無くなっていた。
「駅前通り」に出てみれば、カラマツの植林地を背に見覚えのある十字路が迎えてくれる。これが、初田牛駅前通り。今は、跡形もないが、この街路に沿って、初田牛の集落が形成されていたのである。
一旦ホームに戻り、既に傾きかけた低い太陽を受けて輝く、初田牛駅と根釧台地を眺める。
以前、線路と直角に設けられていた駅名標は、線路と平行に設置しなおされていたものの、それ以外の駅施設は、殆ど何も変わっていない。
ただ、霧に閉ざされていた前回の訪問とは異なり、西日差す駅の雰囲気は、枯色然とはしているもののどことなく明るい。
ホームの上から釧路方を眺めれば、線路は、緩やかに曲線を描いており、かつて、そこにポイントが存在していたことがはっきりと分かる構造となっていた。目の前の枯野原には、赤さびたレールが、今も撤去されずに残っている。
木造駅舎が立っていたはずの駅のホームは広く、一般駅として開業したこの駅の来歴を、静かに物語っていた。
初田牛という駅の来歴については既に述べたところであるが、ここで、駅名や地名の由来について調べてみよう。
まず、駅名に関する記述はいくつかの書籍から引用比較できる。
まず、「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によれば、「オ・ハッタラ・ウシ(川口が淵になっているところ)の音訳といわれる」とある。
同じ年に出版された「北海道の駅878ものがたり駅名のルーツ探求(太田幸夫・富士コンテム・2004年)」も「アイヌ語の「ハッタラウシ」、すなわち「オ・ハッタラ・ウシ」(川口にふちのある所)からでた」としている。
もっと古い「北海道駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)」でも、「アイヌ語の「ハッタラウシ」、 すなわち「オ・ハッタラ・ウシ」(川口にふちのある所)からでたもので、現在も川口が深いふちとなっている」とあり、いずれの解釈も共通している。
地名としての解説書では、「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)」に「永田地名解は「ハッ タウシ。葡萄を取る処。厚岸村アイヌ村田紋助云ふ。ハッタウシは葡萄を取る処の義なりと、今此説に従ふ。根室郡穂香村アイヌ村田金平はハッタラウシにて淵の義なりと云ふ」と書いた。…中略…どっちが正解なのか今となっては分からない。古い松浦図はハッタウシなので、それが原形だとするならば前説に従うべきか」とある。
「角川地名大辞典 1 北海道上巻(角川書店・1987年)」の記載も大同小異で、「地名アイヌ語のハッタウシまたはハッタラウシにより、ハッ・タ・ウシ・イ(葡萄を・採る・いつもする・所の意)あるいはハッタラ・ウシ・イ(淵が・ついている・ものの意)に由来する(北海道蝦夷語地名解・北海道の地名)。昭和40年代は酪農の機会化が進み、国有林の払下げもあって酪農基盤は増大された。道道落石厚床線も整備され、鉄道の利用者減少、国鉄合理化のため初田牛駅は同46年から無人化された。同47~48年、駅から浜中の海岸に通じる産業開発道路(道道初田牛浜中線)が建設された」などと記載されている。
霧に覆われるこの大地に、本当に葡萄が育ったのかは分からないが、いずれにせよ、アイヌの時代から現代に至るまで、生活するには厳しい気候風土ではある。
駅の南の空き地に立って初田牛駅を眺めてみる。
カラマツ林を背にポツンと佇む姿は14年余りの時を隔てても変わらない。
先に掲げた1965年の空撮画像では、この駅南の草むらにも、建物の影が見受けられる。行き違い可能駅だった時代の駅施設と思われるが、勿論、今はその痕跡もない。
道道は片側1車線のしっかりした道ではあるが、交通量は極めて少なく、この辺りを夜にドライブすると、2~3時間、1台の車ともすれ違わないことは珍しくない。
間近から駅のホームを眺めれば、大正時代に築かれた石積みのホームが、数十年の風雪と海霧に耐えた渋みをもって駅を支えていた。西日を受けて静かに佇む駅と対峙していると、過ぎ去りし日々を偲ぶ孤独な老人の姿が思い浮かんだ。
「昔は、この駅にも駅員さんが居て、子供たちや近所の人が、学校や仕事に通ったものだよ」
どこからともなく、そんな独白が聞こえてきそうなひと時だった。
今回は、初田牛集落の辺りも散歩してみることにした。
今となっては、地区の公民館である初田牛会館の建物と、初田牛神社くらいしか残っておらず、駅前通りの未舗装路の脇には、朽ち果てた廃屋が野に還ろうとしていた。
道道1127号線とのT字交差点付近に出ると、「初田牛小学校跡」と記した古びた碑が立っている。
その場所が小学校跡なのかと思っていたが、これは、矢印を伴った案内標識で、その右奥に見える初田牛会館の付近に小学校が存在したようだ。
初田牛地区に関する文書は今のところ入手できていないが、木造駅舎時代の初田牛駅の写真を収めた「初田牛開基100周年記念誌」という書籍もあるようなので、今後、文献調査記録の調査課題としたい。
そのままT字路を右折して踏切から駅の方を眺めると、交換可能駅だった頃の配線が一目瞭然だった。
駅の方に引き返して、今度は、北の方に足を延ばして、道道のスノーシェルター付近まで行ってみる。
遥かに続く根釧台地は、緩やかな起伏が果てしなく続き、牧草地と樹林がパッチ状に広がっていた。これだけの広大な大地だが、人の姿は全く見られない。
道道のスノーシェルターは立派なもので、確かに、冬の地吹雪を知るものとしては、幹線道路にこういう避難設備が必要なことが理解できる。ただ、理解できるものの、この道道にそれが必要かどうかは疑わしい。それほどに、この辺りの交通量は少ないのである。
付近の道路交通の中心は、北の内陸にある国道44号線にあり、初田牛駅周辺からは見通すことができない丘陵の向こうを走っている。
それなりに交通量のある国道44号線だが、ここまで、車の走行音が響いてくることは無い。
スノーシェルター付近も十字路となっており、初田牛駅前からの通りは、道道を突っ切って、牧草地の向こうに延びている。振り返れば、彼方のカラマツ林の陰に、初田牛駅の待合室が佇んでいるのが見えた。
駅に戻ってくると、既に太陽は地平線間際にまで傾いていた。
時刻は15時過ぎであるが、道東の冬の一日は短い。もう間もなく、日没を迎えるのである。
穏やかな天候に恵まれ、初田牛駅周辺は年末というのに、晩秋のような雰囲気だった。それがなお一層、郷愁を呼び起こす。
出発間際になって、雲の切れ間から、西日がひときわ明るく輝きだした。原野の彼方からは、単行気動車の走行音が聞こえてくる。いよいよ、この駅を去る時が来た。
物言わぬ駅は、孤独な旅人の来訪を、輝く夕日の中で見送ってくれるように感じた。
「次にこの辺りを旅する時は、ここで、駅前野宿の一夜を過ごしたい」。
そんな思いを胸に、キハ54系の普通列車に乗り込み、この、原野の旅情駅を後にした。
そして、それが初田牛駅で過ごした、最後のひと時となった。
2019年3月16日。
初田牛駅は、利用者減少を理由に廃止された。
今、その駅の跡には、地元の方々の希望で、駅跡を示す記念看板が設置されている。