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上有住駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
アリスという言葉の響きは美少女を連想させる。もちろん、「不思議の国のアリス」の影響を受けての事と分かっているのだが、美少女と結びつける頭の中の勝手な妄想は若い頃から変わらない。
鉄道の旅に美少女は縁遠いのだが、ここ、岩手県を走る釜石線の山深い地にも、アリスを名乗る駅がある。
上有住駅である。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道を前身に持つ釜石線は、「不思議の国のアリス」とは無関係ではあるが、どちらも童話だという所に、無理やりではあるが共通点を見出すことも出来る。
私がこの駅を初めて訪れたのは、2001年8月の旅でのことだった。
学生生活、最後の夏休み。北海道・東北を広く回った旅の帰路、釜石線を旅する道中でこの駅に降り立ち、駅前野宿の一夜を過ごしたのだった。
花巻からの普通列車で到着した上有住駅は、既にとっぷり暮れた日没後。降り立った駅には人の姿も気配もなく、夜の帳を友にして一人佇む静かなひと時を過ごした。
釜石線沿線の観光地といえば、一般的には遠野が有名であって、あとは、一気に三陸沿岸に達して釜石から北へ南へと進むルートになるだろう。強いて言えば、陸中大橋駅から上有住駅間のヘアピンカーブと眼下に見下ろす陸中大橋駅の風景を楽しみにする人も居るかもしれないが、それは一部の鉄道ファンに限られることと思う。滝観洞を訪れるために上有住駅で途中下車するという観光客もゼロではないだろうが、かなり少ないだろう。
だが、私にとっては印象に残る駅で、釜石線で駅前野宿をするならこの駅にしたいと、最初から決めていた。この旅では、念願の駅前野宿。
日没後の到着とあっては、あまり遠出することも出来ないが、辺りを散策することにした。
待合室の窓から温もりのある明かりが漏れ出てくるのを眺めながら、駅前の取付道路を下ってみるが、既に辺りは真っ暗だ。もちろん、こんな時刻には、観光鍾乳洞も営業を終了しており、人の姿はない。
白蓮洞に続く山腹に上がってみると、沢を隔てて駅を遠望することが出来た。折しも、釜石に向かう普通列車が停車しており、付近の集落の住民らしい迎えの車が取付道路で待機しているのが見えた。
列車が出発していくと車もすぐに走り去り、辺りは再び静けさに包まれる。前後をトンネルに挟まれた上有住駅は、出発した列車の走行音がすぐにトンネルに消えていくので、瞬く間に静寂がやってくる。
散策はそれくらいにして駅に戻り、一人静かな駅前野宿の一夜を過ごしたのだった。
私がこの旅で上有住駅で駅前野宿を計画したのには、宮脇俊三の著作の影響がある。氏は、その著作の中で何度か釜石線の旅を取り上げており、「線路の果てに旅がある」や「時刻表おくのほそ道」の中で上有住駅が登場する。
その部分を以下に引用してみる。
「遠野を発車すると登りになり、足ヶ瀬を通過する。岩手軽便鉄道時代の終点だった由緒ある駅(仙人峠駅)だが、今は山間の小駅で、急行「陸中3号」は容赦なく通過し、足ヶ瀬トンネルに進入する。ここが釜石線の最高地点で、標高四八〇メートル。
ここからは下り一方となり、トンネルを抜けると、上有住を通過する。駅の近くに滝観洞という鍾乳洞があり、ローカル観光地になっている。北上山地の山襞に設けられた駅のたたずまいは趣があって、好きな駅の一つだ(線路の果てに旅がある)」
「時刻表の巻頭地図だけを見ていると、岩手石橋からどこかへ行くには、盛へ引き返して大船渡線に乗るほかないように思いやすい。けれども、すこし詳しい地図を参照すると、岩手石橋は国鉄釜石線の上有住駅に近く、しかも細いながら車の走れる道の通じていることが分かる。山道だから地図に描かれたよりも曲がりくねっているだろうが、一五キロ以内と思われる。
そこで、釜石線の時刻をしらべてみると、なんと上有住発8時20分の急行「はやちね2号」盛岡行があるではないか。上有住は、険しさで知られる仙人峠の南にある山中の小駅で、およそ急行の停車するような駅ではないのだが、五本ある急行のうち、この一本だけが停まるのである。…中略…
車は北上山地の細い道を上り下りし、約二〇分で上有住に着いた。急な斜面に張り付いたような駅であった(時刻表おくのほそ道)」
なるほど、地図で確認してみると、岩手開発鉄道の岩手石橋駅から五葉山の西麓を抜ける六郎峠を越え、気仙川に沿って遡れば、そこが上有住駅である。そして、気仙川の名から推察できるように、上有住駅前の沢は北上山地を南西に下ったのち南東に進路を変え、広田湾に面した気仙沼に流れ下るのである。
なお、「線路の果てに旅がある」の中で、「岩手軽便鉄道時代の終点だった由緒ある駅(仙人峠駅)」という記述があるが、足ヶ瀬駅が仙人峠駅を名乗っていた時代は無く、両者は別の駅なので、この記述は誤りだと思われる。
降り立った駅前は、取付道路が坂道で気仙川まで下っており、辺りは北上山地の山並みに囲まれた、山峡の寂寞境だった。有人駅時代の上有住駅舎跡地を見ると、急な斜面に張り付いたというより、急斜面に飛び出した駅舎だったことが分かる。現在、この跡地には何も設けられていないが、かえって展望広場のような空間になっている。
翌朝は、山峡の駅に相応しく、嵐気に包まれる朝だった。
昨夜は日没後の到着であったので、十分に駅の様子を観察することはできなかった。そこで釜石への始発列車が到着するまでの間に、駅の探索を行うことにした。
上有住駅は、現在は、1面1線の棒線駅となっているが、かつては島式1面2線の交換可能駅で、既に述べたように駅舎に駅員も配置された有人駅であった。現在の待合室はかつての線路跡に設けられており、ホームに立つと谷側に草生した線路跡が残っている。
現在線の向かい側にも草生した平地の中に、2本の側線が並んでおり、こんな谷あいの山腹地に、よくこれだけの駅施設を設けたものだと思うが、山側の側線は、かつて、駅から数百メートル上流側に存在した大洞鉱山の専用線跡である。大洞鉱山は石灰石の採掘を行っていた鉱山で、滝観洞や白蓮洞という鍾乳洞が存在することと、地質的に見れば密接な関係があるということになる。
以下に示すのは、国土地理院で公開している1977年10月18日の上有住駅周辺の空撮画像である。地形図も重ねて表示してある。この頃には、大洞鉱山への専用線も運行されており、駅舎も健在であった。画像には、当時の駅舎や島式ホーム、側線跡が明瞭に写っているほか、停車中の車両も見える。
また、以下に示すのは、「盛岡鉄道管理局25年史(日本国有鉄道盛岡鉄道管理局・1976年)」に掲載されていた1950(昭和25)年の上有住駅の写真である。山側に留置されている貨物車両の他に、島式ホームの駅舎側にももう一本側線があり、そこに、空の貨車が留置されている様子が分かる。何と、この狭い山腹にあって、合計5本もの線路が敷かれていたことになるのである。写真には、上有住駅舎も写っており、貴重な写真である。
だが、そんな鉱山操業の歴史も、今は昔。ホッパー車で賑わった側線は、夏草に覆われていた。
昨夜上った対岸の山腹まで往復してみる。
朝の始発列車は遠野方面への列車で、私が乗車する釜石方面はこの後なので、時間に余裕がある。
山腹から眺めていると、2両編成の普通列車が静々と駅に停車し、出発していった。乗降客の姿は無かったように思う。
このアングルから眺めてみると、上有住駅が島式ホームだった往時の様子がよく分かるし、宮脇俊三が「斜面に張り付いたような駅」と形容したのが頷ける、そんな駅だった。
この日は快晴で、見上げる空と辺りの山並みには日が差しているが、谷底近くの上有住駅は、まだ、日が差し込んではいなかった。西の方を見下ろすと、気仙川に沿った谷の底には、霧が立ち込めているようだった。
駅に戻り、到着列車を待ちながら駅名標や、かつての線路跡を眺めて過ごす。
今朝から、まだ、駅に人の姿を見かけないが、程なく、釜石に向かう普通列車がやってきた。
この旅の当時、ここから大洞鉱山まで専用鉄道が伸びていたということは知らず、駅の周辺を短時間探索しただけだった。この駅の素性を知ったのは、取りも直さず、この旅情駅探訪記の執筆にあたって、文献調査を実施したためであるが、それで理解が深まれば、再訪の機運も高まるというもので、次回は、再び駅前野宿の一夜を過ごしつつ、この周辺探索にも時間を費やしたいと思う。
2017年5月(ちゃり鉄11号)
上有住駅への再訪は、前回の訪問から16年弱を隔てた2017年5月。「ちゃり鉄11号」の旅の道中でのことだった。青森、秋田、岩手の鉄道路線や廃線跡を巡ったこの旅では、JR釜石線も、花巻から釜石に向けて全線を走破した。
上有住駅で駅前野宿をする予定だったこの日は、朝、JR北上線のゆだ錦秋湖駅付近から、北上、花巻を経て、上有住駅に到着するという計画だった。
鉄道での旅ならば、足ヶ瀬駅を出発した後、足ヶ瀬トンネルを経た4.2㎞の行程で、上有住駅に到着する。
しかし、わが「ちゃり鉄11号」は、仙人峠と箱根峠という二つの峠を越える。その距離は実に27.4㎞。鉄道の営業距離の6倍強の距離を、二つの峠を挟んで克服する厳しい行程だった。しかも、ゆだ錦秋湖駅から足ヶ瀬駅に到着した時点で、走行距離は121㎞。そこから、27.4㎞で2つの峠のアップダウンを挟むのだから、体力的には苦しい行程であった。
以下に示すのは、足ヶ瀬駅、上有住駅と、仙人峠、陸中大橋駅、箱根峠の位置関係を示した国土地理院の地形図であるが、足ヶ瀬駅を出たのち、岩手軽便鉄道時代に仙人峠駅があった仙人トンネル付近を経て、ヘアピンカーブとループ橋を備えた急勾配で陸中大橋駅付近まで下り、さらに洞泉駅付近まで下ったのち、箱根峠まで九十九折の山道を登り続ける泣きそうな行程だ。仙人峠から箱根峠までが18.5㎞であった。
一般的には、峠からのダウンヒルは自転車の旅の醍醐味でもある。しかし、その先で大きな峠を越えると分かっている時には、下りも程ほどにして欲しいというのが正直なところ。下れば下るだけ、上りはきつくなる。
他にルートがないわけではないが、そちらを取るにしても、足ヶ瀬駅から平倉駅付近まで戻った上で、赤羽根峠を越えて住田町内に入り、気仙川沿いに上るという大迂回が必要となることには変わりがない。足ヶ瀬駅付近から足ヶ瀬トンネル直上を神楽沢に抜ける栗ノ木峠を越えるのも、自転車同伴では無理で、足ヶ瀬駅と上有住駅との間を隔てる山地の稜線に自転車で越えられる峠道は無いのである。
結局、釜石線を走るのであれば、仙人峠は訪れておきたいという気持ちもあって、仙人峠越えと箱根峠越えを連ねたこのルートを選んだ。
何故、仙人峠にこだわるのか?
寄り道が長くなるが、この仙人峠について、まず「角川日本地名大辞典 3 岩手県(角川書店・1985年)(以下、「角川地名辞典」と略記)」の記述や写真を引いてまとめておく。
「遠野盆地から北上山地の脊梁を越えて釜石に通じる峠。釜石街道が通り、釜石市と遠野市の境界になっている。標高887m。
…中略…遠野盆地から海岸部に通じる峠には、北の界木峠(729m)、笛吹峠(862m)と当峠があるが、当峠は最も険しく九十九曲がりの急坂と称されてきた。しかし、峠は相当古い時代から利用されたといわれ、釜石に通じる重要な峠であった。岩手軽便鉄道(のちの国鉄釜石線)は大正4年、花巻と遠野市上郷(仙人峠駅)までの路線を開通させたが峠を越すことは無理で、釜石鉱山鉄道(大橋~鈴子間)の大橋駅まで鉄索で荷物を送り、人は3時間かかって徒歩で峠越えをした。昭和25年には国鉄トンネルが全通して峠越えがなくなり、さらに同34年約1㎞北に仙人有料道路(現在有料廃止)が完成して現在は廃道になった。
…中略…かつての峠の様子については「奥々風土記」に「東ノ海辺に通ふ上り下り共いとさかしき坂路なり。故レ往来の人いたく苦む故に嶺上に至れは必休息ふめり…義経の腰掛岩というあれと如何なる由にか真偽明ならず」とあり、「遠野物語」にも「登り十五里降り十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり」「仙人峠にもあまた猿をりて行人に戯れ石を打ち付けなどす」と記されている。
…中略…峠名については、昔、麓の千人沢の金山が崩れて千人の金掘りが死亡したことにちなむとか、山に仙人が住んでいたことによる(遠野物語拾遺)などと伝える」
同書には、駕籠によって仙人峠を越えていた大正当時の写真も掲載されている。
なお、「日本山岳ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1997年)(以下「山岳ルーツ辞典」と略記)」によれば、「九十九折の急坂。阻峻を極め、頂上に仙人を祀る堂(『上閉伊郡志』)とある。遷(せん・山)人は不老不死の法を修めた者。北上市仙人峠も「体古仙人の栖居」(『沢内風土記』)」などと記している。
また、「新日本山岳誌(日本山岳会・ナカニシヤ出版・2005年)(以下「山岳誌」と略記)」では、「釜石街道(内陸の遠野盆地から海岸の釜石にぬける道)の要所の峠。北上山地の背骨を越すために、急峻な山道を辿らねばならず難所の峠であった。また、南部藩と仙台藩の界にあり、交易の道でもあった。古くから歩かれていた峠ではあるが、時代の変遷とともにその時々の変わり目がある。源義経の北行伝説があり、長らく人は徒歩か駕籠、荷物は馬か人夫に頼ってきた。…中略…上郷沓掛の登り口の左手に早瀬観音(別名・沓掛観音)があり、途中権現や休息所がある。…中略…峠には仙人神社の跡地と石鉢があり、かつては茶屋もあった。下りは…中略…中仙人茶屋跡がある」などと記されている。
このように、仙人峠は、釜石線全通前は、釜石と遠野を結ぶ陸上交通の重要な峠であっただけではなく、岩手軽便鉄道と釜石鉱山鉄道との間を、索道を介して連絡していた、稀有な鉄道交通の跡地でもある。しかも、時代が下ると、この軽便鉄道や索道は国鉄に買収され、上有住を経由する現在の釜石線が全通するまで、国有索道として経営された。国鉄が索道を営業した事例としては、全国でも唯一のものであるが、その詳細は、文献調査記録で詳述するとして、ここでは、 「図説 宮古・釜石・気仙・上、下閉伊の歴史(金野静一・郷土出版社・2005年)」 に掲載されていた、仙人峠駅の写真と、1935年2月発行の旧版地形図引用しておこう。
まず、上に掲げた写真であるが、右手に見えるのが早瀬川の流れであり、仙人峠駅は、早瀬川の右岸に位置していたことが分かる。そして、駅の敷地内に索道の塔が建っており、行く手の山の山腹にも、次の塔が建っていることが分かるが、これが索道である。
現在の左岸側には、それらしい空き地があるため、ネットの情報では、左岸側が駅跡地であると書いているものもあるが誤りである。跡地は国道敷きに吸収され、その痕跡はほとんど残っていない。
次に下に掲げた、旧版の地形図を眺めてみると、「せんにんたうげ」と書かれた駅が、しっかりと川の右岸に記されており、周辺地名が沓掛であったことが分かる。この沓掛という地名は峠に関連した地名で全国各地にみられるが、鉄道関連で言うと、近鉄志摩線の五知峠の麓に沓掛駅がある他、碓氷峠を越えた先の中軽井沢は、元々沓掛駅と称していた。また、日豊本線の日向沓掛駅は、SLの撮影名所として知られた青井岳の東麓にある。峠越えに臨む旅人、峠越えを終えた旅人、それらが山麓の宿場に集い、草鞋を脱いで壁に掛ける風情が感じられる、いい地名だと思う。
そして、地図には、仙人峠の索道が直線的に山向こうの大橋までつながっており、その間、九十九折の山道が稜線を仙人峠で乗り越えていく様が描かれている。今と違って、徒歩道が太く描かれているが、当時は車道と歩道を区別するほど、道の規格に差が無かったのであろう。
大橋の辺りから北西にはいくつもの鉱山が稼働しており、それらをつなぐ鉱山鉄道の軌道も描かれている。現在、これらの鉱山は閉山しており、かつての栄華を偲ぶことも難しい、草生した荒れ地が広がるだけである。
今回は、時間の都合で探索はしなかったが、次の訪問時には、是非、踏査したい旧峠である。
さて、わが「ちゃり鉄11号」は16時14分、足ヶ瀬駅を出発した。ここから仙人峠駅跡までは、早瀬川に沿った谷あいを進んでいく。所々に軽便鉄道時代の路盤の跡が姿を現すが、道路に吸収されているところもあり不明瞭である。仙人峠駅跡には16時33分着。痕跡を探すも、はっきりとは分からない。ここは、いずれ、旧峠の踏査と合わせて再調査することになるだろう。休憩を終えたら駅跡を出発。16時39分発。
辿るのは国道283号だが、同国道のバイパスである釜石自動車道の開通によって、仙人峠は交通量僅少の峠道となった。1959年9月に開通後、1980年4月まで有料道路だったこの道は、釜石線全通以前は、索道を介して遠野側と釜石側とを連絡していた交通の難所の姿を今に伝えており、峠の釜石側にループとヘアピンカーブを連ねている。
仙人トンネルは全長2528m。途中、一台だけ自動車とすれ違ったが、国道のトンネルらしからぬ交通量であった。自転車でのトンネル通過は緊張するので、交通量は少ない方がいいとは言え、道路維持が心配になるような交通量ではある。
このトンネルの開通により、仙人峠越えの難所は過去の遺物となり、地域の交通体系は飛躍的に改善されたのだが、ループやヘアピンカーブを連ねた急勾配の国道は、現代に至って、再び「仙人峠道路改良整備促進期成同盟会」による改良工事促進の対象となり、釜石自動車道の開通に至ったのである。
以下には、この仙人峠西側、東側の国土地理院の地形図を掲載しておく。特に、東側に見られる国道のヘアピンとループは圧巻であるし、さらに図幅の右下にちらりと顔を出している釜石線の半ループも見ものであろう。いずれにせよ、この国道のトンネルの長さや釜石側の線形を見れば、ここに大正時代の技術で鉄道を敷設しようとするのが、ほぼ不可能だということは理解できよう。
遠野釜石市境の仙人トンネルを越えると、一気に谷底に向かって下っていく急勾配区間が始まるが、見上げる山並みの向こうには、三角錐の美しい山が覗いている。標高1291mの片羽山(雌岳)である。
谷底を見下ろすと、かなりの高度差で、角丸長方形を二つ重ねたような特徴的なループが目に飛び込んでくる。今日は、これから下りだからいいが、これを登ってくるとなると、中々、厳しい行程だろう。確かに、この勾配差を目にすると、1914年という時代に建設された岩手軽便鉄道が、ここに線路を敷設する術をもたなかったことも納得がいく。
既に夕刻となっている中、30㎞弱の峠越えに挑むわけだから、のんびりする余裕もなく、仙人峠から一気に谷底に向かって下っていく。豪快な下りは楽しくもあるが、下った分、全て、登り返しである。
仙人トンネルの釜石側には国土地理院の地形図上に539.4mの水準点記号がある。そこから、ループ内側の端点に430.0mの水準点、陸中大橋駅付近に252.0mの水準点があり、県道167号線分岐付近に145.3mの水準点がある。ざっと400m弱を下るわけだ。そこから登る箱根峠は646mで、仙人トンネル東口よりも100m以上高く、登り返しは500mである。そして、最後の上有住駅は駅下の取付道路入り口で389mとなっている。
今、目に見えるよりも4倍の高度差を下り、5倍の高度差を登る。そういうことになる。
ループの辺りまで下ってくると、勾配は少し落ち着くが、路面に刻まれた黒いスリップ痕は、ここが走り屋たちの遊び場になっていることを如実に物語っている。振り返れば、来し方仙人峠が壁のように立ちはだかっていた。逆行するのはなかなか辛そうだ。
ここまでで随分下った気もするが、高度差は100m余り。ここから更に300m近く下り続けることになる。
しばらく下り続けると、谷が少し開けてきて、その谷あいにどん詰まりのような形で陸中大橋駅が見えてきた。谷底の奥に上り詰めた終着駅のように見えるが、釜石線の線路は、今しがた下ってきた道路の下をループ状のトンネルで潜り抜け、駅の対岸の山腹まで上り詰めていくわけである。
陸中大橋駅は、足ヶ瀬駅から見て上有住駅を飛ばした2つ隣の駅であるから、各駅停車を旨とするちゃり鉄の旅では、ここで立ち寄る訳にはいかぬ。そういうルールで駅を通過し、そのまま下り続けて洞泉の集落の北外れまで来たところで、右折して県道168号線に転じる。途端に1車線の狭い道に変わる。そして、右折直後から登り始め、その後、箱根峠まで、平坦地や下りは一切なかった。
ツーリング装備を満載した自転車での峠の登りというのは苦行である。荷物を捨てたくなるし、もっと軽いギヤが欲しくなる。ただ、勾配がある程度の範囲に収まっていれば、低速でも一定のペースで上り続けることは可能で、むしろ、そうして登り続けるリズムが出来れば、少し楽になる。
最初は沢の奥へ奥へと見通しのきかない暗い樹林帯を進んでいくが、次第に高度が上がっていくと、周辺の樹木の間から、遠くの景色が開けてくる。それで疲れを癒すことができる。
これで、見通しのきかない風雨霧中の日暮れの登りともなると、涙雨に顔を洗われる事態となる。
幸い、この日は、天候にも恵まれ、眼下には、遠くに釜石市郊外の街並みを望み、近くには釜石自動車道の高規格な高架が山体をぶち抜いて走り抜けていくのが見える。そこから響く車の排気音や走行音も、意外に近い距離感で聞こえてくる。釜石自動車道は、丁度、箱根峠の下を通り抜け、上有住駅の近くで滝観洞ICを設置しているのだが、勿論、この旧道を経由する車は一台も居なかった。
そして国道分岐から箱根峠まで、60分程をひたすら登り続けて、仙人峠駅跡からの18.5㎞を1時間27分かけて走破。18時6分箱根峠に到着した。途中、すれ違ったのは一匹の羚羊だけだった。
ここからは、上有住駅まで下り続けることになる。駅の手前の取付道路で登りになるが、それは、問題にはならない。峠で一休みして携行食の羊羹などを頬張り水分補給を行う。
箱根峠からは、愛染山への登山道が続いており、その登山口がある。
寄り道が多くて、何時になったら上有住駅に着くのだとお叱りを受けそうだが、箱根峠や愛染山についても、やはり、文献の記述を留めておきたい。
まず、箱根峠について、「角川地名辞典」の記述によれば、「気仙郡住田町上有住と釜石市甲子町との境にある峠。標高745m。…中略…現在約800m南に県道釜石住田線が通っており、峠道はあまり利用されない」などとある。
「山岳ルーツ辞典」によれば、「ハ(端)・コ(処)・ネ(嶺、根)、もしくはハコ(山神)・ネ(峰)か。ハケ(崖)。ネもあるか」などと記されている。
先に箱根峠は646mと記載したし、実際、現在の国土地理院の地形図でもそのように記載されているのだが、歴史的に見た箱根峠は、現在の県道峠から841.6mの三角点峰を挟んで北側にある鞍部を通っており、現在は、もはや地形図に記載されない廃道となっているようだ。
以下に示すのは、1935年2月発行の旧版地形図であるが、現道はまだ開通しておらず、旧道の登山道が745mの箱根峠を越えている様子が描かれている。地図には、現在の国土地理院の地形図も重ねてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替えられる。そちらを見ると、現在の県道箱根峠の少し西側から北に伸びている車道表示があり、この付近の尾根に設けられた電波塔施設への取付道路を示している。この取付道路が、箱根峠の北で到達する鞍部が旧箱根峠である。
転じて南には、愛染山が聳えている。峠からはその姿は見えないが、少し下った住田町側からは顕著な峰が皆伐地の向こうに横たわっているのが眺められる。
「角川地名辞典」では「あいぜんさん」としており、「標高1,228.5m。南東の五葉山に続く連峰である。美しい山容をなし、釜石地区から見て山が夕日に輝く時は晴れ、山頂に雲がかかる場合は天気が荒れるといわれ、天候予測の指標として住民から親しまれている」などとある。
「山岳誌」の記述では、「釜石からは甲子川の谷間の奥にペン先のように鋭く峻立して見える立派な山であるが、あまり人は登っていない。一方、住田町側は緩やかな傾斜で、一九五五年ごろまでは馬が放牧されている牧場であった。…中略…地元の学校では「西にそびえる愛染の」などと校歌に歌われ、、親しまれている山である」とある。
更に「山岳ルーツ辞典」にも記載があり、「なだらかな山容。山頂に愛染明王を祀る。怒り顔は三つ目で、腕は六本。健康を守る。愛染の「愛」はラブの仏。「染」は染物屋の神」などという。
この峠道もまた釜石から内陸に至る旧道峠だったのだが、遠野を控えた仙人峠と比べて、こちらは、住田町に至る峠ということで、元々、往来も少なかったことだろう。県道も、土砂災害などが発生すれば、長期間閉鎖されそうな、か細い峠道であった。
しかし、「ちゃり鉄号」の旅において、釜石線の足ヶ瀬駅、上有住駅、陸中大橋駅及び仙人峠駅を結ぶに当たっては、この峠道は無くてはならない峠である。
それ故に、わざわざ、頁を割いて言及することにした。
小休止を挟んで、峠を下ることにする。18時13分発。
下るにつれ、左側には皆伐された植林地が広がり、その向こうに、残雪の愛染山が夕日を浴びて赤く色づきながら旅人を見下ろしていた。
峠を下り切り、釜石自動車道の近代的な構造物の登場に戸惑いつつ、気仙川に沿って遡ると、程なく、左手の高みに上有住駅が見えてきた。
最後の取付道路を登り切って、ようやく上有住駅に到着した。18時29分着。
到着した上有住駅は、日の長いこの季節とは言え、既に照明が灯り、夜を迎えようとしていた。
この20年の間に、釜石自動車道が開通して、駅周辺の交通事情は大きく変わったが、釜石線や上有住駅の状況は特段の変化はない。周辺集落は、むしろ、少し過疎化が進んでいるようにも思えた。
季節は5月。8月の訪問だった前回とは異なり、夏草が繁茂する前の側線跡には、2本の側線が静かに眠る様がはっきりと見てとれた。
釜石線は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に因んで、「銀河ドリームライン」の愛称が付けられており、各駅に愛称が付けられている。
上有住駅は、エスペラント語で洞窟を意味する「カヴェルノ」という愛称が付けられており、勿論、これは、近くにある滝観洞や白蓮洞を意図するものである。
駅名標もお洒落にデザインされており好ましい。観光誘致への貢献度は測るべくもないだろうが、こうして、路線を維持しようとする意識が感じられるのは、鉄道の旅をする立場としては嬉しいものだ。鉄道会社や地元が必要としなくなった路線や駅は、無残な状態になっていることが少なくない。
釜石線はローカル線とは言え、三陸方面にアクセスする横断路線としては主要な路線であり、運行本数も少なくない。この日も、釜石方面に3本、遠野方面に2本、列車の発着が残っていた。次の列車は、19時20分過ぎ。釜石方面に向かう普通列車である。
19時頃を境に、夕方から夜に入った。辺りには夜の帳が降りてきて、山は既に、シルエットが浮かび上がるだけになっている。
さて、上有住駅については、まだ、駅そのものの沿革をまとめていなかった。ここで、それについて触れておきたい。
既に周辺情報は述べてきたところであるが、上有住駅の開業は1950年10月10日。国鉄釜石線の足ヶ瀬~陸中大橋間の開通時に開業した一般駅である。
駅の所在地は、岩手県気仙郡住田町上有住字土倉である。
駅名について「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によると、「アリは谷間のこと。そこに住居が出来たことを示す地名。上・下の有住の地名がある」と記載されている。
地名としては「角川地名辞典」で「地名の由来は不詳であるが、古く鳴石と称していたものが有石となって転訛したものと伝える(県郷土誌)。地内には洞窟が多く、縄文早期の遺跡である蛇王洞洞穴や小松洞穴、ほかに滝観(ろうかん)洞がある。五葉山にも天狗窟と呼ばれる岩窟があり、また禁を犯して登山した老婆を押しつぶしたと伝えられる老婆石がある」としている。
釜石線は、これまで何度か触れてきたように、元々は、岩手軽便鉄道と釜石鉱山鉄道という二つの私鉄路線が、仙人峠の索道で連絡された鉄道路線を前身としている。その詳細は文献調査記録で詳述するが、岩手軽便鉄道は仙人峠の索道とともに1936年8月1日に国有化され、その後、1949年12月20日までに、足ヶ瀬までの全区間で762mから1067㎜への改軌工事が完了している。また、釜石鉱山鉄道に並行して釜石~陸中大橋間が開業したのは1944年10月11日のことで、この段階で、花巻~仙人峠間の釜石線は釜石西線、釜石~陸中大橋間は釜石東線となった。
鉄道省による足ヶ瀬~陸中大橋間の着工は1936年6月のことで、この時までには、上有住駅を経由する現在線のルート選定も済んでいたわけだが、それから全通に至るまでの14年余りの空白は、戦争による中断を物語っている。
こうして時系列を辿ると、岩手軽便鉄道の国有化の前に、既に、足ヶ瀬~陸中大橋間の国鉄工事は着手されていたわけだ。
最終的に釜石線が全通するきっかけとなったのは、1948年9月16日のアイオン台風による山田線の被災で、復旧めどが立たない山田線に代わって、釜石西線の改軌工事と足ヶ瀬~陸中大橋間の工事再開が再開され、上述の通り、1950年10月10日に釜石線が全通したのである。また、この日をもって、旧釜石西線足ヶ瀬~仙人峠間と、仙人峠索道が廃止されている。
歴史の蘊蓄を語る間に、駅はすっかり暗くなった。
19時20分過ぎ、釜石に向かう普通列車が到着する。
2001年に、駅を訪問した時には、夕刻に釜石に向かう列車から数名が降り立ち、駅前で待機していた迎えの車で、帰宅していく様子が見られたのだが、今回は、ゴールデンウィークだからなのか、過疎化の影響なのか、そうした姿は見られなかった。
この日は、この後、遠野行と釜石行が発着する。
駅の時刻表を撮影していなかったのだが、写真の記録で見ると、遠野行が20時9分頃、釜石行が20時25分頃、遠野行最終が21時19分頃、釜石行最終が21時35分頃の発着となっている。
20時25分の釜石行は4両編成。乗客は僅かだったが、釜石線の面目躍如といった感じである。
かつては、釜石線にも急行列車が走っていた。学生時代の頃で、急行「陸中」と言った。2002年11月30日で廃止となり、現在は、快速「はまゆり」に格下げになってはいるが、その「はまゆり」が繁忙期には4両編成で運転されることから、この、普通列車は、快速「はまゆり」の間合い運用なのかもしれない。
もっと遡れば、盛岡発盛岡行の循環急行「五葉」、「そとやま」が山田線、釜石線を走っていた時代もあるし、急行「はやちね」もあった。小学生時代に見た特急・急行百科の、懐かしい記憶である。
そして時代は過ぎ、華やかなりし頃の跡が眠る山峡の寂寞境で、一人、駅前野宿の夜を過ごす。
20時25分の釜石行が出発すると、後は、21時台半ばの遠野行、釜石行それぞれ1本の最終を見送れば、一日の発着が終わる。
周辺の民家はポツポツと窓明かりが灯り、滝観洞前の観光施設にも、宿泊所なのか施設等に明りが灯ってはいたが、駅の利用者が現れる気配はない。
そんな中、駅のホームに一人佇むのは、至福のひと時である。
定刻に到着した遠野行、釜石行は、僅かな乗客を乗せてそれぞれの終着駅への旅立って行き、駅には自分一人が残った。夜の帳と駅の灯りが、そんな孤独に、そっと寄り添ってくれる。
厳しい行程となった一日の余韻を体に感じながら、駅前野宿の寝床に帰り、眠りに就くことにした。
翌朝は、始発列車が到着する前には、上有住駅を出発する。
前日がJR北上線・ゆだ錦秋湖駅からJR釜石線・上有住駅までの146.6㎞(実走148.4㎞)の行程。この日は、JR釜石線・上有住駅からJR山田線・松草駅までの156㎞の行程を予定している。この日の行程は、前日よりも長いのみならず、朝一で箱根峠を越えて陸中大橋駅に下ったのち、三陸海岸のアップダウンを経て90㎞余りで宮古駅に達し、そこから松草駅に到着するまでの60㎞余りが登りという、これまた厳しい行程である。
そのため、上有住駅の出発は5時過ぎとなり、日の当たる時間まで上有住駅に滞在することはできなかった。
当時は大洞鉱山のことも知らなかったため、この時も、鉱山跡の探索などを試みることが出来なかったのだが、いずれ、仙人峠の踏査と合わせて、この辺りの歴史探訪を行いたいと思う。
取付道路の端まで行ってみると、道路は突き当りになって終わっていたが、釜石線は、足ヶ瀬トンネルに向かって緩やかな右カーブと、3つのトンネルを穿って進んでいく様が見える。
振り返れば、取付道路脇に設けられた階段と、かつての駅舎を支えた土台の鉄骨が、あたかも展望台のごとく斜面に張り出しているのが見える。
待合室の部分は2条の線路跡。
保線用のレールだろうか。資材が積み重ねられた駅構内に、辛うじて、往時の面影を偲ぶことが出来た。
その眺めに別れを告げて、5時3分には、この日の旅路に出発した。
上有住駅:文献調査記録
日本国有鉄道百年史 11巻(日本国有鉄道・1973年)
JR釜石線は、本文でも触れてきたとおり、私鉄の岩手軽便鉄道と、釜石鉱山鉄道とを前身に持つ路線で、その建設の根拠法令は、大正11年制定の「鉄道敷設法」別表第8号の2、「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」であるとされる。これには注記が必要なのだが、それは後ほど詳述するとして、ひとまずは、そういうことである。
その岩手軽便鉄道を買収して、仙人峠の索道とともに国鉄釜石西線とする一方、釜石鉱山鉄道に並行する形で、釜石~陸中大橋間の釜石東線が建設され、その後、戦時中断などの紆余曲折を経て、足ヶ瀬~陸中大橋間が上有住経由で結ばれて、晴れて1950年10月10日、全通に至ったものである。
ここでは、日本国有鉄道の手による「日本国有鉄道百年史 11(日本国有鉄道・1973年)(以下、「百年史」と略記)」の記述を引きながら、主に、足ヶ瀬~陸中大橋間の建設工事に焦点を当ててまとめたい。
それによれば、「釜石線は東北本線の花巻から分岐し、遠野・陸中大橋等を経て釜石に達する延長91.4キロメートルの路線で、昭和11年6月工事に着手し、20年6月戦局悪化のため工事中止となり、戦後台風災害によって壊滅した山田線の救援線として23年12月工事を再開し、25年10月全線を開通したものである」という。
この工事・開通の根拠が先の「鉄道敷設法」であるが、「この区間にはこれより前、大正4年岩手軽便鉄道が花巻から仙人峠に至る65.4キロメートルを開業していた。しかし、同鉄道は仙人峠以東の山岳にはばまれて釜石に連絡できずにいた。
国鉄は昭和11年花巻・釜石間着工と同時に岩手軽便鉄道を買収し、以後の工事は主として同鉄道の改軌(2.6フィートを3.6フィートに)工事と、仙人峠以東の開通に主力を注いだ。工事を担当したのは盛岡建設事務所であった」とある。
2.6フィートから3.6フィートという表記は分かりにくいが、つまり、762㎜から1067㎜への改軌工事ということである。
岩手軽便鉄道買収後は、その軽便鉄道の路線の改軌工事を主体に、一部、新線建設を行っていくわけだが、「全区間のうち、花巻・遠野間46キロメートルは64パーセントを軽便鉄道の改築とし、残余の花巻・似内間、二日町・綾織間を別線で施工した。遠野以東足ヶ瀬に至る区間は、軽便鉄道線路に並行して新線を選定した」とある。意外と新線区間が多い。
軽便鉄道と狭軌鉄道では車体の規格も違うから、軽便鉄道の線形のままでは狭軌鉄道が走行できない区間もあるだろうし、トンネル断面の問題で、旧線を放棄せねばならない区間もあったことだろう。単純に、改軌工事をすればよいという簡単なものではなかったようだ。
そして、上有住駅付近については以下のような記述がある。
「足ヶ瀬・釜石間のうち軽便鉄道の終点仙人峠と、釜石方大橋との間は標高差300メートルに及ぶ区間で、軽便鉄道買収以前、昭和4年ごろから国鉄によって地形測量が行われていた。
昭和6年ごろに至りルートの起点を仙人峠を廃止して足ヶ瀬に求め、同所から栗ノ木峠を抜き、気仙川の上流大洞に出、左折して土倉峠にトンネルを掘削し、さらに左折して甲子川沿いに山腹を縫い、中仙人沢から半円を描いて陸中大橋に結ぶ線路が有望視され、昭和10年から測量に着手し、6か月を費して現在のルートがほぼ決定された」
以下は、「百年史」に掲載された「 釜石線、足ヶ瀬・陸中大橋間線路選定ルート比較図 」であるが、現在線と類似した比較路線のほか、仙人峠付近に、2つのループ線を連ねた比較線も検討されていたことが分かり、大変興味深い。もし、この線形で工事がなされていたとすれば、日本の鉄道史上でも類を見ない二重ループ線が実現していたわけで、現存すれば、かなり貴重なものとなったであろう。尤も、その大半はトンネルになるだろうから、あまり、風景は望めなかったかもしれない。
その後、釜石線の工事進捗については以下のとおりである。
「昭和11年6月釜石線の難工区間大洞付近に着手したのを最初に14年3月までに6工区、延長51キロメートルが着工された。しかし、日華事変勃発後は各工区とも大幅な工期の繰り延べを余儀なくされた」
「花巻・遠野間の土工は昭和12年6月着工…中略…18年9月17日花巻・柏木平間31.2キロメートルの営業を開始した」
「18年4月釜石・陸中大橋間が、続いて大洞・土倉間、土倉・唄貝間、唄貝・陸中大橋間がそれぞれ着工され、動員学徒、地元民の協力を得て19年10月11日、釜石・陸中大橋間16.5キロメートルが完成した。しかし、その他の区間は20年6月戦局の悪化とともに中止となり、ついに全通を見るに至らなかった」
「開業を見たものは釜石西線花巻・柏木平間(18年9月17日)、釜石東線釜石・陸中大橋間(19年10月11日)のみで、その余は柏木平・遠野間が路盤を完成したほか、遠野・足ヶ瀬間未着手、足ヶ瀬・陸中大橋間は工事中止のため未完成という状態であった」
ここで注目すべきは、大洞・土倉間、土倉・唄貝間、唄貝・陸中大橋間という、現在の上有住~陸中大橋間の区間が、既に戦前に工事着手されている一方で、岩手軽便鉄道の並行別線となる遠野・足ヶ瀬間が未着手だったという点であろう。
開通が最も遅かった上有住~陸中大橋間であったが、その工事着手は戦前のことであり、遠野~足ヶ瀬間よりも早かったわけである。
そして戦後。当初は混乱期の緊縮財政下で新線建設予算も凍結されていたが、釜石線が俄かに脚光を浴びる事件が生じる。
「昭和23年9月のアイオン台風によって山田線松草・蟇目間の線路が寸断流失し、宮古・釜石間の海岸地方と内陸部との連絡が途絶した結果、その救援線として釜石線の完成が要望され、同年12月25日釜石線未完成区間の工事に急遽着手したのであった」
「まず遠野・大洞・唄貝・大橋に工事区を設置し、資材の輸送その他準備に着手したが、山田線不通のため陸路笛吹峠を越えたり、海路釜石に回送するなど困難が多かった。工事のうち遠野・足ヶ瀬間は土工のみであったが、足ヶ瀬・陸中大橋間はトンネル工事が主であった」
「24年12月20日遠野・足ヶ瀬間がまず完成し、翌25年6月10日古比沢・唄貝間が、同月25日大洞・土倉間、唄貝・陸中大橋間が相次いで完成、同年10月10日ようやく釜石線が全通した」
「百年史」によれば、足ヶ瀬トンネルは延長1931mで戦時中に完成、土倉トンネルは延長2975mで、うち2100mが戦時中に完成、残りが戦後に完成している。また、陸中大橋駅を見下ろすビュースポットとして有名な鬼ケ沢橋梁は全長103.3m、施工基面までの高さ54mで戦後完成、蛸壺とも称される第2大橋トンネル延長1281m、曲線半径300m及び250mも戦後完成とある。
さて、こうして「百年史」をベースに、釜石線の歴史について俯瞰してきたわけだが、岩手軽便鉄道の開通が1915(大正4)年、釜石鉱山鉄道の前身となる釜石鉄道に至っては日本で3番目の鉄道として1880(明治13)年に開通しているにもかかわらず、釜石線自体の開通は、昭和25年と随分遅い印象がある。
北上山地を越える路線としては、山田線や大船渡線もあるが、山田線の盛岡~宮古間開業が1934(昭和9)年11月6日、釜石開業が1939(昭和14)年9月17日であり、大船渡線の一ノ関~盛間の全通が1935(昭和10)年9月29日だったから、丁度、これらの路線が全通した頃になって、釜石線の国鉄による工事が始まったということになる。
この辺りの事情を解くヒントは、大正11年制定の改正鉄道敷設法別表にある。
先に触れたように、釜石線の根拠は、同別表第8号の2、「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」であった。
それに対し、山田線は、明治時代の旧鉄道敷設法によって盛岡~陸中山田間が既に建設中であり、陸中山田~釜石間が、改正鉄道敷設法別表第7号、「岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道」として制定されていたのである。
そしてこの第7号は、同時に、大船渡線の盛~大船渡間の延伸の根拠ともなった。
以下に示す2枚の官報は、それぞれ、1892(明治25)年制定の鉄道敷設法、及び、1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法を告示する官報である。文字は小さいが、赤枠内に記載されているのが、本調査記録で括弧書きした部分である。
大船渡線の他の区間は、軽便鉄道法により、1918(大正7)年に一ノ関~気仙沼間が計画され、その翌年に大船渡まで延長されている。
山田線も大船渡線も、1922(大正11)年 の改正鉄道敷設法制定以前の法令に基づいて、既に計画・施工が始まっていた鉄道だったのである。
ところが、この改正鉄道敷設法別表を見ても、「第8号の2」なる号数は記載されていない。あるのは、「8号」のみで、これは、「岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ袰野附近ニ至ル鉄道 及落合附近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道」という、別路線を意図したものだった。
釜石線の別表番号が「第8号の2」という枝番であることが暗示しているのは、この枝番が、法改正によって追加されたということであり、実際、釜石線の追加は、「鉄道敷設法中改正法律」(昭和2年法律第37号)にまで下るのである。冒頭で記した「注記が必要」というのは、そういうことである。
以下に示すのが、その官報告示である。
こうしてみると、山田線が明治時代の鉄道敷設法で、既に予定線に繰り入れられていたというのにも驚くが、民営の軽便鉄道が存在した釜石線沿線が、1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法には繰り入れられず、1927(昭和2)年になって繰り入れられた事情について興味が湧く。
これについては、仙人峠に関する詳しい記述とともに、以下の文献調査記録でまとめることにしよう。
岩手軽便鉄道 歴史拾遺(鉄道ピクトリアル 813号・白土貞夫・電気車研究会・2009年)
上有住駅そのものを扱った寄稿ではないのだが、「鉄道ピクトリアル 813号」の中で、仙人峠について詳しく触れられていたので、ここでは、同書の写真などを引用しながら、これまで述べてきた仙人峠についても、文献調査として掘り下げていきたい。
仙人峠については、既に本文でも触れてきたとおり、釜石線の歴史を語る上で、欠くことのできない峠であった。それが、足ヶ瀬~陸中大橋間の開業に伴って廃止され、同時に、上有住駅が開業した経緯については、既述の通りである。
同書では、「追憶の岩手軽便鉄道」と「岩手軽便鉄道 歴史拾遺」という二つの章で、白土貞夫氏による解説と写真を掲載しているのだが、これらの写真は、大変貴重なものでもあり、引用の形で紹介したい。
まず、「追憶の岩手軽便鉄道」の章では、氏の所蔵する絵葉書が掲載されている。
仙人峠を東西から俯瞰した絵葉書は、国道によって整地された現在の仙人峠西口から想像することも出来ない、当時の仙人峠駅の様子が分かり、非常に興味深い。
西側からの俯瞰写真では、駅構内から山腹に延びる索道が見えているが、その索道ルートの真下に、電光を切って山に取付く道が見えており、これが、仙人峠越えの旧道である。現在も、峠への旧道として、ローカルなハイキングコースとして歩く人がいるようだ。
逆に東側から撮影した写真は、その仙人峠越えの旧道の中腹から俯瞰したものであろうが、上空を行く空の搬器が、往時の峠の姿と機能を今に伝えている。
既に本文でも、郷土出版社の書籍に掲載されていた往時の写真を引用掲載したが、こうした写真は貴重なもので、記録に留めておきたいものだ。
駅は、ホーム1面に駅舎を備え、それ以外に、索道側に貨物積載用の側線とホームを備えたもので、それなりの規模だった様子が分かる。付近には民家や職員住居かと思われる建物もあり、鉄道が公共交通機関として全盛だった時代の栄華が偲ばれる。
仙人峠駅舎の写真も掲載されているが、そこに写る峠越えの旅客と駕籠の様子は、時代を感じさせるとともに、ここが峠越えに備えた前進基地だった事実を物語る。私などは、駕籠に揺られて峠越えなど、気を遣って仕方がないように思うが、当時の世間では、それが当たり前だったのだろう。
「岩手軽便鉄道 歴史拾遺」では、この仙人峠も含めた、岩手軽便鉄道全体の建設史についてまとめられている。
ここでは特に、仙人峠に関する部分で興味の湧く記述について、幾つか引用したい。
まず、索道の構造や機能について以下の記述がある。
「この索道は玉村工務所の単線循環式で、ワイヤーロープ径23㎜、両駅間に30本の支柱を建て、搬器70数個を用い一日10時間運転で、上り(大橋発)40トン、下り(仙人峠発)100トンの荷物が輸送可能であった。所要35分、仙人峠駅構内に70馬力蒸気機関を備えて途中の中仙人に屈折点を置いた。原動機を1923年(大正12)年8月に電力モーターに改めたのは傍系の盛岡電気工業による釜石方面への送電開始に応じたもので、自社線での電気機関車運転も視野に入れた記事が第18回「営業報告」にみられるが夢のまた夢であった」
「索道では新聞、郵便物も運ばれたが、釜石では当日の新聞が午後8時ごろの配達になったという」
大橋側からと仙人峠側からとで、荷物の輸送能力に差があるのは、仙人峠を挟んだ両側の高度差のためである。このことについて、同解説は「両駅間の直線距離は約4㎞ほどだが、標高は仙人峠駅560m、大橋駅254mで高低差は実に306mにも及び、岩手軽便鉄道ではその後も旅客用索道の建設や馬車鉄道案を模索し、岩手県も車馬通行可能な道路建設を目論んだがいずれも実現に至らず、仙人峠の高壁は容易に突破できなかった」と記している。
索道による所要時間35分というのは、かなり快速のように思えるが、この区間を越えた徒歩の旅人はどうだったのかと言うと、以下のような記述がある。
「このように荷物は索道で運搬されたが、旅客は県道とは名ばかりの九十九折の険路5.5kmを約2時間半~3時間かけて歩行するか駕籠に頼らざるを得なかった。道路は仙人峠駅前の小橋を渡れば直ちに西斜面に取り付き、急勾配を約2.1㎞登り頂上に達した。ここに在った茶屋の雲南餅が名物であったという。東斜面はさらに険しい急坂をジグザグに下り中仙人を経由、3.4kmで大橋駅前に到達した。標高差があるので大橋側から登る場合の道程は長く厳しかった」
本文でも掲載した現在の仙人峠の地理院地図を再掲するが、これを見ても、峠の西側と東側で、その道程や傾斜に、随分と差があることが分かる。ちゃり鉄の旅としても、この峠越え道は、是非とも辿りたいと思うのだが、自転車での走行とランニング登山が合わさると、あたかもバイアスロン競技のような高負荷の運動になるので、それに備えたトレーニングが欠かせない。
さて、この駕籠についても、面白い記述があるので引用しておこう。
「駕籠による場合の賃金は植田啓次著『岩手軽便鉄道案内』(大正4年成文社)によれば2円50銭(大正10年頃は6円の記録もある)、花巻ー仙人峠間並等運賃1円14銭、特等1円71銭と比較すれば、きわめて高くそれも「峠の状況を知らぬ者には駕籠一丁を十二円とか十五円とかに取り決めても、途中では歩かせたり酒代を強制する」など昔の雲助同様と1921(大正10)年2月10日付『岩手毎日新聞』は酷評し、同様に同年1月30日付『岩手日報』も「仙人峠の駕籠人夫賃は日本一と称するほど高く」と報じている。それでも個人営業のこの前近代的交通機関は昭和も戦後まで存在した」
先に、「私などは、駕籠に揺られて峠越えなど、気を遣って仕方がない」と記したが、現代風に言うならばボッタクリの独占事業者が蟠踞していたわけで、気を遣うどころの話ではなかったのかもしれない。ただ、こうした交通機関が、戦後まで残っていたというのには驚かされる。
まだ、この地域の郷土史の調査に着手していないが、それらを紐解けば、仙人峠の駕籠についても、さらに興味深い記述や写真が入手できることだろう。
さて、こうした仙人峠であったが、いつまでも索道と徒歩連絡で済ませるわけにはいかず、花巻~釜石間鉄道全通を望む機運は高まっていった。しかし、仙人峠越えの鉄道建設は、岩手軽便鉄道という小さな民間企業の手に負える工事ではなく、国に対する陳情という形で、その機運は醸成されていく。
ここで、先の「日本国有鉄道百年史 11巻」に関する文献調査記録の最後に取り上げた話題、つまり、「人煙稀な地を行く山田線が、明治時代には既に国による建設予定線に加えられていたにも関わらず、民営の岩手軽便鉄道が開業していた釜石線が、大正期に至っても予定線にすら加えられず、全通が昭和にまでずれ込んだ理由」について、「岩手軽便鉄道 歴史拾遺」の記述を引用しつつ、その背景をまとめていくことにしよう。
「花釜線と通称されたように岩手軽便鉄道は、最終的には花巻ー釜石間を鉄道で結ぶ目的のため、難関である仙人峠を越える方策を前述のように色々と考究した。トンネル開削案も工事費の見積もりは莫大で一民間企業の手には負えなかった。そこで大正中期になると仙人峠トンネルを含む仙人峠ー大橋間鉄道を政府で敷設するよう地元代議士を通じての運動が始まった。当時の総理大臣は岩手県選出の原敬であったが、陳情にはまったく冷淡であったという。山田線建設にはきわめて熱心であった原が、花釜線を無視したのはトンネル東側の中仙人ー大橋間のルート設定が技術的に非常に困難であることが表面上の理由だが、実際は過去の選挙で関係者が支援しなかったことが大きな理由と伝えられている」
白土貞夫氏によるこの解説は、引用元などが明記されていないので、真偽のほどは不明ではあるが、公式の文書などに残る話でもないため、根拠を探しても文書の記録は見つからないかもしれない。とは言え、我田引鉄とも称された当時の鉄道建設運動に関連して、様々な利害得失や政治的思惑が関与して、全国各地で無茶な計画が実行に移されたことは論を待たない。
岩手県の北上高地を横断する各路線についていえば、山田線建設の議論もそうであるが、釜石線を挟んで南側にある、大船渡線建設の議論もそうであろう。
ここでは、それらの路線にまつわる物語について詳述しないが、いずれも、その建設に際して、特筆すべき歴史があるように思う。
さて、釜石線に話を戻すと、続いて以下の記述がある。
「この情勢に1922(大正11)年沿線町村長などが仙人道開削期成同盟会を結成し、会社とともに各方面への陳情を続ける一方で、会社は国鉄に本格的調査を依頼した。調査結果は第26回「営業報告」に記載があるが、足ヶ瀬駅東方に金山駅を設けて起点(花巻起点39哩58鎖)とし、仙人峠直下をトンネルで抜けた東側の甲子駅でスイッチバック、さらに大きく円形を描きなか〔ママ〕ら山を下り釜石鉱山鉄道唄貝駅南方で接続する7哩24鎖の路線で電気動力、1067㎜軌間、最急勾配40‰とされ、建設費は約300万円、762㎜軌間のままであれば250万円と算定されたが、独力での調達は至難の業であった」
「1925(大正14)年に取締役の瀬川弥右衛門が貴族院議員となった頃から、仙人峠トンネル鉄道建設運動は、次第に岩手軽便鉄道全線の国有化へと方向が切り替わっていくが、これが実を結び1927年第52回帝国議会では「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」が改正鉄道敷設法別表に予定線として追加され、さらに1929年第56回帝国議会では建設線に決まった。関連して岩手軽便鉄道買収案も何度か提案と未成立をくりかえした末に1936年第69回帝国議会において買収が決定、同年8月1日実施となった。買収価格は169万5,424円であった。こうして岩手軽便鉄道は国鉄釜石線(1944年10月11日釜石東線開通以降は釜石西線となる)として生まれ変わった。しかし実質的な変化はなく引続き軽便のままで、魚沼線営業休止後は国鉄唯一の762㎜軌間の営業路線としてその後15年間も存続することになる」
こうして国有化なった岩手軽便鉄道改め釜石西線であるが、釜石東線との間を結ぶ路線選定は、既述の通り、岩手軽便鉄道の国有化に先立って行われていた。最終的には、足ヶ瀬トンネルと土倉トンネルを穿って陸中大橋付近でヘアピンカーブを描く現在線に決定されていたのだが、以下には、その比較図を引用する。先に引用した「釜石線、足ヶ瀬・陸中大橋間線路選定ルート比較図「日本国有鉄道百年史 11(日本国有鉄道・1973年)」」とは細部で異なっており、比較検討案として挙がっていた甲子駅付近はヘアピンカーブとループ線の間に挟まれたスイッチバック駅として予定されていたことになっている。
もし、この線形で建設工事が行われていたとしたら、JR肥薩線の大畑駅と並び、2大スイッチバック駅と称されていたかもしれない。
この、路線選定の経緯や、その後の建設中断と再開の経緯については、既に「百年史」の節でまとめた既述の通りであるので、引用は割愛するが、最後に、釜石線全通前後の様子と仙人峠駅の写真について引用して、この文献調査記録を終えることにする。
「こうして柏木平ー遠野間14.8kmは1949(昭和24)年12月10日1067㎜軌間線が開業、逆に軽便線は同日から遠野ー仙人峠間に路線を短縮し、さらに翌年10月9日限りで索道とともに廃止された。翌日からはD50の牽く列車が上有住経由で花巻ー釜石間90.2㎞を約3時間40分で結び、当時の新聞は祝賀列車や式典の模様を大きく伝えたが、岩手軽便鉄道以来、40年近くを走った軽便線最後の様子は報じられていない」
上有住駅:旅情駅ギャラリー
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2017年5月(ちゃり鉄11号)
上有住駅:コメント・評価投票
宮沢賢治生誕の日という事で、昔合宿で良く通った上有住の写真を見ていてこのサイトにたどり着きました。素晴らしい詳細なレポートです。
下記の私のTwitterのリンクに昭和52、53年当時の上有住駅の写真があります。
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。今日が宮沢賢治生誕の日だったのですね。
また、Twitterのお写真も拝見いたしました。昭和52、53年当時となると、私はまだ赤ちゃんの自分ですが、とても貴重なお写真ですね。別途、Twitterの方にもご連絡させていただきたいと思います。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。