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伊勢鎌倉駅:旅情駅探訪記
2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR名松線。
鉄道ファンや沿線住民でない人の中で、この線路名称を聞いて、沿線イメージがはっきりと思い浮かぶ人は殆ど居ないだろう。
松阪から伊勢奥津に至る43.5㎞の路線は、2022年現在もタブレット閉塞が残る単線非電化のローカル線で、雲出川に沿って遡っていく沿線風景は、懐かしい里山風景を今に留める。
線路名称の由来を語るのは冗長に過ぎるかもしれないが、鉄道ファンにはよく知られているように、松阪と名張とを結ぶという意図から名松線と名づけられた路線である。しかし、現実が示すように、伊勢奥津まで達した鉄路はそこで途絶え、最早、名張まで繋がる見込みはない。
この名松線を旅したのは、学生時代が初めてのことだった。
何故か写真などが一枚も残っておらず正確な時期が分からないが、恐らく、2001年か2002年のことだ。その時、伊勢奥津の他に途中下車したのが伊勢鎌倉駅であった。
棒線ホームに待合室があるだけの山里の小駅は、辺りに田んぼや丘陵が広がり、人の姿も車の往来も見られない、静かな旅情駅だった。
その時の印象は残っていたものの、それ以降、名松線を訪れる機会は少なく、再訪することが出来たのは、2021年12月になってから。そして、この旅では、伊勢鎌倉駅で駅前野宿のひと時を過ごした。
正確には再訪問なのだが、前回の記録が一切残っていないため、この旅情駅探訪記をまとめるに当たっては、2021年12月を初訪問とする。
この日は、前夜を過ごしたJR紀勢本線・波田須駅から、JR参宮線に寄り道して名松線入り。伊勢奥津駅まで足を延ばした後に、折り返してきて伊勢鎌倉駅で下車するという行程で旅をした。名松線内は15時11分松阪発の417Cで伊勢奥津に16時35分着。折返しの17時15分発416Cで伊勢鎌倉17時33分着である。
時刻自体は駅前野宿に適した時刻であったが、季節柄もあって、降り立った伊勢鎌倉駅は、既に、残照も消え、夜の帳に包まれていた。
20年ぶりの駅の様子は、勿論下りの417Cの中からも眺めていた。417Cの伊勢鎌倉発は16時15分で、日の短いこの季節の下車時刻としては丁度よい時刻ではあったが、ここで下車をして、伊勢奥津駅を翌日の朝に訪れるとなると、松阪に戻るのが11時過ぎになってしまう。翌日は、JR武豊線経由でJR飯田線まで足を延ばし、柿平駅で駅前野宿をする予定だったので、11時松阪着では遅すぎる。
かと言って、伊勢奥津駅まで行った上で、明るいうちに伊勢鎌倉駅に到着しようとすると、松阪発13時9分の415Cに乗車し、伊勢奥津折返し15時8分の414Cで伊勢鎌倉駅15時27分着という行程になり、参宮線に寄り道してくることが出来なくなるし、伊勢鎌倉駅の到着が早過ぎる。
そのため、日が没してからの到着になるが、この日のうちに伊勢奥津駅を往復することにして、明るい時刻の伊勢鎌倉駅は、車窓に眺めて一旦通り過ぎることにしたのである。
家城を出た後の417Cには10名弱の乗客の姿があったが、全員が松阪から乗車した観光客らしく、地元の利用者の姿は見られない。伊勢鎌倉駅でも乗降客の姿は無く、揃って伊勢奥津駅まで行くのだろうということは、その雰囲気で感じられた。
伊勢鎌倉駅前に広がる田んぼは、この時期、当然水は抜かれ乾田の状態であったが、数名の人が田んぼで何やら作業をしている様子が眺められた。枯色に包まれてはいるものの、里山風情溢れる情景だ。
この駅は、水田に水が張られた季節に訪れると、それはまた、美しい風景が広がることだろう。写真の中でしか見たことがない風景だが、「ちゃり鉄」の旅では、四季折々、訪れることにしたいと思う。
さて、伊勢奥津駅に到着した乗客は、三々五々、散っていったが、出発時刻になると全員が戻ってきて、見覚えのある顔が車中に並ぶ。私も、旧街道に沿った宿場町の風情を楽しみ、神社にお参りして駅に戻った。
416Cで伊勢奥津駅を出発した乗客は、全員、417Cで松阪から乗ってきた顔ぶれで、このまま松阪まで戻るようだ。私は、自分の座高よりも高いバックパックを担いで、伊勢鎌倉駅で下車する。それを物珍しそうに眺めてくる人が居る。近年は、同じような旅人の姿を見かけることも少なくなった気がする。
こうして駅に降り立った私は、ひとしきりホームの上で撮影などを行い、荷物を待合室において、田んぼの方に足を延ばすことにした。
ホームの向かいには田んぼが広がっているのだが、直接アクセスする正式な道はないので、一旦、田んぼとは逆の車道側に出て、回り道をしてアクセスする。
ホームの入り口は三段ほどの低い階段と手すりで隔てられ、そこから50mほどの駅前通りを経て、車道のT字路に突き当たる。
一時期、この伊勢鎌倉駅にも駅舎が存在し、駅員が置かれていた時代もあるが、今は、駅前通りにその面影を偲ぶだけである。
田んぼ側に回り込んでみると、高い築堤の上にポツンと佇む駅の姿が目に飛び込んでくる。
この日は、日没後の探訪となり、駅周辺には街灯などの照明がない事もあって、暗闇の中に駅の施設だけが浮かび上がっている。
この冬の旅は、厳しい冬型の気圧配置の中での旅となった。
昨日は、JR紀勢本線の見老津駅から波田須駅までの行程であったが、南紀一円でも降雪があり山地には積雪も見られた。車内で乗り合わせた地元の人々の会話を聞いていると、こんな積雪は30年ぶりくらいだという。
伊勢鎌倉駅にやってきたこの日は、回復傾向にはあったものの、相変わらず北風が強い一日だった。
それが落ち着いたのは、伊勢奥津駅に辿り着いた夕方になってからの事。
伊勢鎌倉駅に降り立つ頃には強い風は収まっていたものの、山間の旅情駅には夜の帳だけでなく冷気も下りてきており、田んぼの中に立って駅を撮影していると、衣服の隙間から冷気が忍び込んでくる。
名松線の列車は、各方向、概ね2時間おきに発着しており、伊勢鎌倉駅付近では、上下列車が交互に1時間程度の間隔で行き交う。私が下車した17時34分発の上り列車の次は18時22分の下り列車。1時間弱の待ち時間があるので、田んぼの中の農道を歩きながら体温を保つ。
待つこと1時間弱にして、伊勢奥津行きの下り419C列車がやってきた。松阪方の雲出川立花橋梁を渡った列車は、ゆっくりと駅構内に進入し停車する。
駅の日平均利用者数は、三重県統計資料によると、2005年に9人を記録して以降、一度も二桁に戻っていない。「美杉村史 下巻(美杉村・1981年)(以下、「村史 下巻/上巻」と略記)」の記録によれば、1954年には95人、1956年には109人を記録しており、往時は、この駅からも多くの利用者が居たのだろう。実際、この駅は当初計画になかったものの、地元請願によって設けられた駅である。
しかし、全国各地のローカル線の例に漏れず、この駅も、周辺の集落が衰退しつつある中で利用者が減り続け、雲出川の氾濫による災害の影響もあって、路線存続が危ぶまれる環境に置かれている。
普段は通勤通学での利用者も、多少は居るのかもしれないが、年の瀬のこの日、地元の利用者の姿は見られなかった。
伊勢奥津に向かって出発する419Cを見送ると、駅には静けさが戻ってくる。聞こえるのは、雲出川のせせらぎの音だけだ。
折返しの418C上り列車は、伊勢鎌倉19時17分発。それが、上りの最終列車でもある。
1時間ほどの余裕があるので、一旦駅前に戻り、サッと夕食を済ませる。
この旅では、久しぶりにガス燃料タイプのストーブを使ったので、食事の準備は手軽になり、1時間のうちに食事を済ませて、食後のコーヒーを飲んだ上に、後片付けも済ませることが出来た。
食事で温まった後、しばらく、待合室で翌日の予定などを確認する。その後、再び、寒空の下に繰り出し、田んぼの方に足を延ばす。
長袖のTシャツの上にフリースを着用し、更に、ライトダウンを着込んだ上に、アウターを羽織っていたのだが、ズボンのチョイスを誤って、裏起毛のないスリーシーズン用を持参してしまったので、下半身から熱が奪われる。
列車の到着を待つ間、じっとしていると、風邪をひきそうだったので、一人で田んぼの中の農道を行ったり来たりする。この間、伊勢鎌倉駅前の旧道には1台の車も入ってこなかった。
待つこと十数分で、418Cが折り返してきた。
この時刻になると、名松線巡りの旅人も居らず、伊勢奥津からの乗客の姿も見られなかった。
残すところ、伊勢奥津行きの下り最終列車421Cの発着を待つだけだ。この列車の伊勢鎌倉駅出発時刻は20時5分。418Cとは家城駅で交換してくる。
再び1時間ほどの間合いがあるので、再び、待合室に退避する。
翌日の行程は結構タイトではあるが、伊勢鎌倉駅を夜明け前に出発する始発列車での出発は見送ることにした。日が暮れてからの到着なのに、夜明け前の出発となると、明るい時間帯での滞在が出来なくなるからである。ただ、その分、柿平駅への到着時刻が遅くなり、日没後の到着になってしまった。
野宿で旅する場合、真冬は案外真夏よりも過ごしやすいことも多いのだが、日の短さはどうしようもない欠点である。
20時前には、再び、待合室を出て撮影に向かった。
田んぼの中に立って居ると、時折、航空機の飛行音が聞こえることに気が付いた。伊勢鎌倉駅の付近は航路に当たるらしく、この時刻になっても、頻繁に航空機が飛び交っている。
飛行機とてローカル線はあるだろうが、それにしても、鉄道のローカル線とは、その度合いが異なることだろう。こちらから飛行機ははっきりと認識できるが、むこうから伊勢鎌倉駅を識別することは難しいだろう。
カメラの露光時間を延ばしてみると、その航空機の軌跡が捉えられて、印象的な写真を撮影することが出来た。
20時5分。421Cがやってきた。勿論、この列車も無人だった。伊勢鎌倉駅に発着する最終列車である。
421Cの伊勢奥津到着は20時26分。時刻表を眺めていると、明日の朝の伊勢奥津駅の始発は5時56分であるから、この列車が伊勢奥津駅で一晩留置されて、明日の朝の始発となって山を下ってくるかのように見えるが、実はそうではない。
名松線では、この421Cが20時26分伊勢奥津着、その後の423Cが22時4分家城着という下り列車のダイヤで、それに対応する折返しの上り列車は設定されていない。
となると、行ったきりの列車はそこで留置されるのが自然ではあるものの、経営合理化という観点では、車両を留置して運転士が宿泊するとなると、様々にコストがかかることになる。宿泊施設なども必要になるが、伊勢奥津駅にそう言った施設は設けられていない。その為、伊勢奥津駅に到着する下り最終列車は、そこから家城駅まで回送されて留置され、一夜、滞泊した後に、翌朝に再び伊勢奥津駅まで回送されて、そこからの始発列車となる運用がなされていた。
しかし、名松線では、過去に留置車両の逸走事故が発生している。ここでは詳しくは書かないが、2006年と2009年の2度にわたって、家城駅に夜間留置されていた車両が、下り勾配を数キロにわたって無人で逸走したのである。この事故の原因は、ブレーキの構造上の問題や運転士の作業ミスにあるが、この短期間に2度も同様の事故を起こしたことは重大な問題であり、その対策として、家城駅での夜間留置体制の見直しが進められた。
結果的に、2021年末現在、421Cや423Cは、名松線内で留置されることなく、松阪まで回送される運用となっている。伊勢奥津から松阪までの回送となると1時間以上を要するが、事故防止のための抜本対策と合理化の観点で、そのような運用になっているのであろう。
当然、翌朝の上り始発列車は松阪から回送されてくることになる。伊勢奥津5時56分発の400Cや、家城6時38分発の402Cは、早朝に松阪から回送されてきた車両が、折返しで営業運転に転じる運用となっているのである。
また、伊勢奥津7時31分発の404Cも、それに対応する下り列車は設定されていない。伊勢奥津に到着する下りの始発列車は8時59分着の409Cである。
とすると、この404Cにも回送列車が対応するはずだが、それは、伊勢奥津発5時56分家城着6時30分の400Cが充当されることになろう。家城に到着してから回送列車として伊勢奥津まで折返し、そこから404Cとなって再び家城に向かう、そういう運用がなされているのだろう。
いずれにせよ、この後から明日の早朝にかけて、伊勢鎌倉駅を3本の列車が通過していくことになる。今夜は松阪に向かう回送列車が通過していき、明日の早朝には伊勢奥津に向かう回送列車が2度通過していくはずである。
20時5分発の421Cを見送った後、その折返しの回送列車を撮影すべく、その通過時刻を予想することにした。駅を通過する列車の光陰を、長時間露光で軌跡として捉える狙いである。
ネット上には、やはりというべきか、そういう情報を調べた個人サイトが散見されたので、それも参考にしつつ予想してみる。
伊勢鎌倉~伊勢奥津間は、営業運転で凡そ20分を要している。上りと下りで、所要時間には大差ないので概算で往復40分。但し、回送列車は途中駅での停車が無いから所要時間40分弱と見込む。
伊勢奥津駅に到着した列車は、そこで営業運転を終了するので、5分程で折り返すことも出来よう。営業運転では30分程度停車していることが多いが、そんなに長く停車することはないはずだ。
そうすると、概ね45分前後で伊勢鎌倉駅を通過するのではないかと予想された。計算すると、伊勢鎌倉駅の上り回送列車の予想通過時刻は20時50分頃となる。
そう見込んで、時間調整をしてから、20時40分くらいに撮影地点に戻ったのだが、何と、目的の回送列車は、21時20分頃になってやってきた。しかも、通過するものと思っていたのに、伊勢鎌倉駅で一旦停車した。40分ぐらい待ち惚けた上り回送列車の撮影は見事に失敗。寒空の下でくたびれ儲けに終わった。
回送列車の出発を見送り、駅前野宿の寝床に戻る。冷え切った体は中々温まらなかったが、いつの間にか眠りに落ちたようだった。
ここで、伊勢鎌倉駅の歴史について、簡単にまとめておくことにしよう。名松線の歴史も含めた詳細は文献調査記録の課題とする。
まず、駅の開業日だが、これは、1935年12月5日の事で、家城~伊勢奥津間開通時に開業した。開業当初からの棒線駅で、無人駅としての開業であったが、その後、ごく短期間だけ、駅員が配置された時期がある。その経緯について、「村史 下巻」の記述を以下に引用する。
ここに記されたように、開業以後、終戦直後にかけては、伊勢鎌倉駅や比津駅は無人駅であった。その後、駅舎の地元寄付により駅員配置が叶ったわけであるが、それも4年程の短期間で取り止めになっている。
駅員引き上げの理由については「鉄道の都合により」としか言及がないが、駅員が配置された昭和22年から駅員が引き上げられた昭和26年の間は戦後の混乱期であり、国鉄は、国営組織から独立採算制の公共企業体組織へと移管した時期でもある。その過程で、各種規則・細則類の改正も行われており、それらが関係しているように思われる。
これに関しては、駅の設置や改廃に関する官報告示・公示も手掛かりになりそうなので、以下に引用する。
引用図:「鉄道省告示第560号(官報第2674号・1935年11月30日)」
引用図:「運輸省告示第248号(官報第6212号・1947年9月27日)」
引用図:「日本国有鉄道公示第307号(官報第7469号・1951年11月30日)」
まず、鉄道省告示第560号であるが、これによると、伊勢鎌倉駅と比津駅に関しては、設置当初、当時の国鉄参宮線津~山田間と、国鉄名松線内に発着する短距離旅客のみを取扱うことになっていた。これは両駅が無人の簡易駅だったため、そこから乗車する乗客の運賃精算は車内で車掌が行うことになり、その業務の都合上、近距離切符の発券に限定されたということであろう。
続いて、運輸省告示第248号では、晴れて伊勢鎌倉駅を含む数駅での旅客取扱区間の制限が撤廃され、手荷物や小荷物の取扱が始まっている。有人化するとの記述はないのだが、この時に有人化されている。
更に、日本国有鉄道公示第307号において、この手荷物や小荷物の取扱が廃止されているが、これは取りも直さず、無人化されたということである。
そして、これらの告示・公示の主体が三者三様となっており、組織の改組や法令規則類の改正が続いていたということが暗示される。戦中戦後の混乱の様子は「町史」の記載に示された通りだ。
次に、駅名の由来についてまとめておく。
駅の所在地は三重県津市美杉町八知。設置当時は、上の引用図にもあるように、三重県一志郡八知村であった。
以下に示すのは、2022年現在の地形図と、1937年発行の旧版地形図、及び、1964年5月9日撮影の旧版空撮画像である。旧版地形図と旧版空撮画像は重ね合わせてあるので、タップ操作やマウスオーバーで切り替え可能である。
これを見ると、雲出川に沿った北側の隣接集落が立花、南側の隣接集落が広、小西となっている。立花は雲出川立花橋梁、小西は雲出川小西橋梁として、名松線の橋梁名称にその名を刻んでいる。鎌倉という地名は書かれていないが、駅名以外に県道の鎌倉トンネルにその名が刻まれている。
鎌倉という印象的な地名だけに、由来がはっきりしているものと思ったのだが、「角川日本地名大辞典 24 三重県(角川書店・1983年)」にも鎌倉の地名の掲出はなく、僅かに、美杉村大字八知の小字一覧の中にその名を見るのみである。
「八知」に関しては、「古くは八智とも書く。雲出川上流域の細長い盆地に位置する。地名の由来は、谷地・山麓の小谷の口、盆地のくぼんだ奥地に立地することにちなむ」とあり、「八知村」として、「江戸期~明治22年の村名。一志郡のうち。津藩領。須淵〔ママ〕・市場・大野・大御堂・橘〔ママ〕・小田・新堂・比津・小西・老鹿野の集落からなる(三国地誌)」などとある。須淵、橘は、2022年現在の国土地理院地図の表記では、須渕、立花となっている。
これについては、「町史」を調べてみても同様で、「鎌倉」は旧八知村の小字一覧に掲載されているのみであった。
「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)」では、「ここの集落は四方を山で囲まれた狭谷にある。鎌倉とは、釜のようになった谷をいう」とある。確かに、地形的には雲出川が蛇行して峡谷を刻む地点であり、その地形に因んだ地名が付くのは自然なことである。
鎌倉と聞いて思い浮かぶ神奈川県の鎌倉と、歴史的なつながりがあるわけではないが、地形的な特徴から名付けられた点においては、共通するものがあるという事になろう。
今後、名松線の歴史も含めてさらに調査を進めることにして、旅の道中に戻ることにしよう。
翌朝は、5時過ぎに起床して片付けに入る。寒気が厳しく、寝袋の口を絞って眠り込んでいたため、自らの呼気に含まれる水蒸気が寝袋に凝結して、顔周りが湿っていた。冬の北海道などであれば、更に、それが凍結しているものだが、持参した温度計は2度くらいを示しており、凍結するには至らなかった。
寝袋から這い出して朝食を済ませ、荷物を撤収する。外気温は氷点下まで低下しているようだ。その作業の合間に、朝一の回送列車が駅を通過していく。この列車も、駅で一旦停車をしてから伊勢奥津駅に向かって行った。
伊勢鎌倉駅の始発列車は、6時15分の家城行きであるが、その列車が到着する30分ほど前までには、片づけを済ませておきたい。こうした無人駅でも、駅の管理は地元住民が委託を受けて行っていることが多く、朝の始発列車が出発する1時間ほど前にやってきて、清掃や除雪などの作業をされる姿を目にすることもよくある。その時に、駅前野宿で鼾をかいて眠りこけているというのは、好ましい姿ではない。その為、始発列車が到着する30分前までには、パッキングを終了するようにしているのである。
6時前には出発準備を整えて、待合室に荷物をデポした。この時期、夜明けは7時過ぎなので、駅の周辺はまだ眠りの中。人が活動をし始める気配もなかった。
やがて、山峡に列車の走行音が響き始める。どこか遠くで、踏切の警報音が鳴っている音も聞こえる。始発列車がやってきたようだ。
この始発列車に乗車すると、家城で402Cに乗り継いで松阪到着が7時15分。この次の列車では、松阪到着は8時56分であるから、通勤通学で松阪まで通うとなると、この列車に乗らなければ始業時刻に間に合わないことも多いだろう。伊勢奥津からとなると5時56分発という事になるが、その厳しさが、一桁の利用者数という形で現れているように感じられる。
結局、この始発列車にも乗客の姿は無かった。
次の列車は7時50分発の404C。2時間弱の余裕があるので、再び、駅周辺の撮影などを行いながら過ごすことにする。
現在の伊勢鎌倉駅の待合室は、1998年頃に改築されたものらしく、それ以前は、木造の待合室があったという。既に述べたとおり、1937年には木造駅舎も設けられていた訳だが、こうした木造建築は既にその痕跡を留めていない。
待合室の中は、数台のベンチが設置されており、その背面側には掲示物が掲げられている。全体としては南東に向いて開いており、日中は日も差し込んで、穏やかな雰囲気になることだろう。
地元の方が共用する傘立てや本棚、掃除用具などが、待合室の片隅に、小綺麗に整理されていた。
新建材を使用した建物は味気ない一面もあるが、日々の利用者にとっては、古めかしい木造駅舎よりも、気密性が高く清潔感のある、こうした建物の方が望ましいかもしれない。
待合室の外に出てみると、ようやく、空が濃紺に色づき始めていた。東寄りの空には微かに赤みも加わっている。この黎明のひと時は、駅前野宿で過ごしてこそ味わうことが出来る、最良のひと時でもある。僅か30分程の事ではあるが、静謐さと凛気漂う空気の中、誰も訪れない静かな駅と一人対峙する。
しばしホームで佇んだのち、駅前から、田んぼの方に回り込むことにする。一日のうちでも、夜明け前は、最も厳しく冷え込む時間帯。氷点下数度の気温は、体の抹消に突き刺さるような刺激を与える。
北海道に住んでいた頃は、真冬に氷点下15度を下回ると厳しい寒さを感じ、氷点下5度くらいだと暖かいと感じていたものだが、体は普段の生活温度に順応するらしく、久しぶりの氷点下野宿となったこの日は、冷え込みも厳しく感じた。
田んぼ側に回り込む頃には、空は一段明るさを増していた。この時間帯の空の色の移り変わりは劇的だ。
田んぼの側から眺める駅の風景も、暗闇を背景としていた昨夜とは異なる印象を与えてくれる。明かりが灯る駅は、始発列車が出発し後とは言え、二度寝しているかのような表情だった。
待合室の背後には、鎌倉集落の住宅跡が見える。現在、民家は3軒存在するが、そのうち2軒は廃屋となっており、居住者が居るのは1軒のみであった。先に示した旧版地形図や旧版空撮画像から見ても、その様子は大きくは変わっていない。
主たる利用者は、立花集落や小西集落の住民だったのだろう。
駅の松阪方には、雲出川立花橋梁が架橋されていて、そこで、雲出川の右岸側から左岸側に転じている。県道から田んぼに続く農道は、この雲出川立花橋梁の下を雲出川と並んで潜っている。
農道の入り口には車両進入禁止の看板などが置かれていたが、さもありなん。車で来訪して写真を撮影する人々が、農道に駐停車して農作業の妨げになることが多いのだろう。
「ちゃり鉄」では、そうした問題に直面することは少ないが、私有地への無断立ち入りなどには、気を付けたいものだ。
田んぼは石垣で区画されており、緩やかな棚田状を呈していたが、雲出川の氾濫原に開かれていることもあって、1枚1枚が大きな面積を持っていた。駅の周辺には桜の木も植わっており、その開花の時期から、田植えの頃、青田広がる盛夏から、黄金色に色づく秋まで、四季折々、美しい里山風景の中に佇む駅を眺めることが出来る。
今回は、真冬の訪問となったが、「ちゃり鉄」での訪問の際は、また、違った季節に訪れてみたいと思う。
駅の照明は7時に消灯した。
まだ、眠たげな雰囲気ではあるが、明かりが消えれば、朝が来たという気持ちになる。
程なくして、本日2本目の回送列車がやってきた。これは既に述べたとおり、伊勢奥津5時56分発の400Cとして伊勢鎌倉駅を6時15分に出発していった列車の折返しである。
ヘッドライトを輝かせた普通列車は、雲出川を渡った後、減速して駅に進入し、やはり一旦停車する。一見すると営業運転のように見えるが、カーテンが下ろされた車中は消灯されており、回送列車であることが分かる。
その出発を見送ってから駅に戻った。
昨夜は撮影できなかった駅名標を撮影し、改めて駅のホームから周りを見渡す。日の出の時刻ではあったが、雲に覆われて朝日の気配はなく、薄ら寒い朝だった。
伊勢鎌倉駅付近では雲出川が大きく蛇行しており、丁度、駅は蛇行部分の氾濫原に位置する。下流側に雲出川立花橋梁、上流側に雲出川小西橋梁が架橋され、眼前には田んぼが広がり、その向こうに雲出川を隔てて丘陵が横たわっている。
下流側の立花集落は樹林に遮られて見えないが、上流側の広集落は対岸になだらかな農地を挟んで見えている。既に改築されているものの、かつては茅葺だったのかと思わせるような、古風な民家が佇む姿は、里山風情に溢れていた。
この旅では、鉄道のダイヤの都合で日中に訪れることはできなかったが、日が差す明るい時刻の伊勢鎌倉駅を訪れてみたくなる。
出発までの時間を利用して、駅前の散策も行うことにした。
現在のホームは、駅前通りの突き当りから低い階段を隔てて直接つながっており、有人時代の面影はない。ただ、その駅前通りを県道側から眺めると、何となく、有人時代の雰囲気が感じられる。それは、駅というよりも停車場という言葉が似合う、そういう雰囲気だ。そんな駅も少なくなった。
駅前の県道を渡った先には、斜面を登る林道があるので、そちらの方に上がって駅を俯瞰してみた。
電線や灌木が邪魔をして、それほど視界は広がらなかったが、かつての鎌倉集落の雰囲気を感じ取る。
駅前の廃屋は2軒あるが、向かって右側の廃屋は無人になってから相当な年月を経ているようで、外壁も破れ室内が丸見えの状態になっている。
こうした廃屋の多くは、室内に生活用具が残ったままになっている。それは、後片付けを行う間がないまま住人が居なくなった事実を物語るが、その家族親族らが、住居の後片付けを行わないのか、不思議な気もする。
廃屋の隣には、これも時代の遺物となりかけた公衆電話が残っていた。
立花集落の方まで足を延ばしてみると、かつての立花橋は橋台を残して撤去され、少し下流側に架け替えられていた。この集落には、ある程度まとまった数の民家があり、伊勢鎌倉駅を利用する主要な集落と思われる。
蛇行する雲出川の上流側を眺めれば、そこには雲出川立花橋梁が川を跨いでいた。
立花集落から反対側、小西、庄屋出の集落方向に足を延ばすと、谷が開けた先に、集落が見えてきた。
ここには雲出川小西橋梁が架かり、名松線は左岸側から右岸側に転じていく。
その対岸に広の集落が見えているのだが、付近に車道橋などは無く集落に達するには、小西集落側に回り込まなければならない。この後の出発時刻を考えると、集落まで足を延ばしている余裕はないので、ここまでにして引き返す。
雲出川の河畔を行く道なりに戻っていると、名松線の橋梁を間近に眺める位置で、護岸を下りる梯子が設置されているのが目に入った。
丁度、名松線の線路が目の高さにあり、珍しい位置から橋を眺めた後、梯子を下る。そこは護岸になっており、コンクリートで固められた小さな堰堤になっているが、緩やかにカーブする橋梁の真下からの眺めは、新鮮な風景だ。
建設されたのは、昭和初期。
それから手直しはされているものの、橋脚には、風雨にさらされ続けた風格が出始めている。
橋梁を7時30分過ぎに出発し、駅に戻る。
既にまとめてある荷物を確認して、列車の到着を待つ。出発は7時56分だ。
冬の日没後から朝早くまでの滞在となった伊勢鎌倉駅。前回訪問時の印象は殆どなかったが、朧げな記憶の中の里山風情は、変わらぬままであった。
今回は、「乗り鉄」での訪問で、駅周辺を十分に探索する時間もなかったのだが、いずれ、「ちゃり鉄」で訪れる時には、その建設史の最初に呼ばれていた櫻松線の名を辿って桜井と松阪の間を走り、全通果たせなかった歴史を繋いでみたいと思う。
やがて、雲出川小西橋梁を渡って404Cがやってきた。次に訪れる日を楽しみにしつつ、無人の列車に乗り込んで駅を後にした。
伊勢鎌倉駅:文献調査記録
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素敵ですね
ちゃり鉄.JP
ありがとうございます。