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下灘駅:旅情駅探訪記
2016年5月(ぶらり乗り鉄一人旅)
ツーリング・マップルというライダー向けの地図がある。
7分冊で全国をカバーするこの地図は私の旅にも欠かせないのだが、その「中国・四国」の巻で、「大洲」の図幅を見ると、伊予灘に面した海岸線を行くJR予讃線に、「海に一番近い駅」と記載された駅があることに気がつく。
下灘駅である。
1986年に内子経由の新線(通称・内山線)が開通するまでは特急も走っていた伊予長浜経由の海岸ルートは、沿線にある喜多灘、伊予上灘といった駅名が示すように、伊予灘を間近に望む風光明媚なルートであり、現在では、観光列車「伊予灘ものがたり」も運行される観光路線となっている。
その海岸ルートの中でも、とりわけ、海が間近に眺められる駅として有名なのが、この下灘駅である。
駅の開業は1935年6月9日。開業当初は終着駅であったが、予讃本線の延伸工事の進展により伊予長浜駅まで開通した4ヶ月後には中間駅となった。かつては、1面2線の島式ホームを持つ交換可能駅だったが、現在は駅舎側の1線が撤去の上、埋め立てられて、1面1線になっている。また、木造駅舎は改装されたものの、開業当初からのものである。
「海に一番近い駅」と呼ばれてはいるが、現在は、駅と瀬戸内海との間が埋め立てられて国道378号線が走っており、「一番近い」という状況は失われている。
しかし、国道開通までは、文字通り、線路脇の崖の下まで瀬戸内海が迫っており、「一番近い」という表現が似つかわしいものだったようである。
私は、2016年5月、四国全路線を周る旅の途中でこの旅情駅を訪れた。
普通列車から降り立った下灘駅からは、伊予灘に沈む夕日が間近に眺められた。
青春18きっぷのポスターにも使われたことのある下灘駅には、満員状態だった八幡浜行きの普通列車からの降車客のみならず、車で来訪したと思われる多くの観光客が押しかけており、列車が停車しているにも関わらず、ホームから線路に降りて記念写真の撮影を行う若者も多数いて、喧騒甚だしい。
鄙びた海辺の旅情駅を想像していた私は、戸惑いを感じた。
しかし、下灘駅のホームから望む印象的な日の入りは、思いがけない喧騒に疲れた気持ちを慰めてくれた。
瀬戸内海に浮かぶ島々が黒い影となって横たわる中、水平線を紅く染めて日が沈んでゆく。
カメラのファインダー越しに眺めるのがもったいないくらい美しい夕景が広がり、私の拙い文章では表現しきれない情景だった。
夕日が水平線に没した後、マイカー組は早々に引き上げたらしく、松山への列車を待つ観光客が残るだけで、喧騒は一気に静まっていった。
暮れなずむ瀬戸内海を眺めながら、日没の余韻が漂う下灘駅で穏やかなひとときを過ごす。
松山への普通列車が出発した後は、駅には地元の方以外、誰も居なくなった。
とっぷり暮れた下灘駅は、夕刻の喧騒が嘘のように静かな旅情駅の佇まいに戻っていた。
眼下の国道を、時折、車が駆け抜けていくが、高台にある駅前の道は旧道になるため、日没後にはほとんど車が通らない。
「国道がなかった頃の下灘駅に、来てみたかったな」と思う。
わずかな乗客を乗せて八幡浜への普通列車が出発していく。
最終列車を見送った後、駅前野宿の眠りについた。
ここで改めて、下灘駅周辺の歴史についてまとめておこう。
駅の開業は既に述べたように1935年6月9日。当時の国鉄予讃本線伊予上灘~下灘間開通時に、暫定の終着駅として開業した。1935年10月6日には下灘~伊予長浜間が開通しているので、終着駅だったのは僅か4か月ほどのことだ。
現在のJR予讃線は国鉄予讃本線を前身としている。ただ、四国の鉄道建設は私鉄から始まっており、讃岐鉄道、伊予鉄道、愛媛鉄道といった地域鉄道が先に形成された後、それらの地域鉄道網を繋ぐ形で、国有鉄道の建設が行われた。その過程で、讃岐鉄道や愛媛鉄道は国有化され、国鉄予讃本線の一部となっている。
予讃本線全体の建設史は文献調査に委ねることとして、ここでは下灘駅を含む区間について概略を述べておく。
「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇(日本鉄道建設業協会・1978年3月)」によると、下灘駅を含む松山~八幡浜間は、建設線名・八幡浜線として、1927(昭和2)年6月に着手し、1939(昭和14)年2月竣功している。
このうち、国鉄の手による建設工事区間は、松山~伊予長浜間6工区、伊予大洲~八幡浜間4工区で、伊予長浜~伊予大洲間は、先に述べた通り、愛媛鉄道を国有化した上で改良工事1工区を設けている。
同書によっても、「本線建設の全般的な工事概要については資料がない」とあり、各工区の詳細などは分からなかった。
また、この八幡浜線の区間内、向井原から分岐し内子に至る別線区間(建設線名・内山線)に関しては、「日本鉄道請負業史 昭和(後期)篇(日本鉄道建設業協会・1990年)」によると、1967(昭和42)年2月着手、1986(昭和61)年3月開通、延長25.5㎞の路線であった。
この内山線の建設目的について、同書の記述を以下に引用しておこう。
代替線との位置づけではあったが、実質的には本線の付け替えであり、海岸廻りの旧線は支線の位置付けに転落したことになる。これは、松山~八幡浜・宇和島間の特急で旧線を走るものが1本もない現状を見ても明らかである。
こうなると、海岸廻りの路線沿線では路線廃止に対する危機感が生じて廃止反対運動が起こることになる。また、内山線にしても、国鉄ローカル線の廃止問題が議論される中での新線建設とあって、建設凍結の動きもあった。その為、こちらも凍結反対運動が起こっている。
それらの詳細は、文献調査でまとめる事にするが、ここにも鉄道建設史の歴史が詰まっているのである。
さて、下灘駅の2022年現在の所在地名は、愛媛県伊予市双海町大久保。下灘の文字は無い。
「JR・第三セクター 全駅名 ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」での解説を見てみると以下のとおりであった。なお、連続する伊予上灘駅の駅名解説も合わせて掲載しておこう。
更に「角川日本地名大辞典 38 愛媛県(角川書店・1983年)(以下、「角川地名辞典」と略記)」の記述も調べてみると、以下のようであった。
この経緯から、隣接する伊予上灘駅の現在地名も上灘の名を含まないだろうと思われるが、実際、愛媛県伊予市双海町高岸で推測は正しかった。
即ち、歴史的に存在した自治体名が市町村合併によって消滅し、現在地名と駅名との関係性が見えなくなっているのである。
「角川地名辞典」には灘という地名そのものの由来については解説されていないが、これは、先に掲げた「全駅名 ルーツ事典」の解説が分かりやすい。
全国的にも灘の地名は各地に存在しており、兵庫の灘は、酒や進学校で有名だろう。また、愛媛県内には、宇和郡にも下灘の地名があり、ここもかつては下灘村であった。
さて、「海に一番近い」という下灘駅のキャッチフレーズは、海岸を埋め立てて国道が整備された今日となっては、モノクロ写真の中でしか眺めることが出来ない歴史の一幕になってしまっている。ネットでは個人撮影の写真などが散見されるが、出典の明らかな文献となると、なかなか良いものが見つからない。
以下に示すのは、双海町誌に掲載されていた海岸埋立前の下灘駅付近の写真である。解像度は悪いが、現段階で入手できた文献中の写真としては、唯一のものである。
もう一枚、以下に示すのは、「今昔写語」Webサイトで掲載されていた海岸部埋立前の下灘駅付近の写真である。こちらははっきりとした解像度の写真で興味深いが、出典が明らかでなく、元写真の出所が分からない。
引用図:下灘駅「今昔写語Webサイト」
以下には、「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」に掲載された昭和50年代の下灘駅の写真を引用しよう。この頃には既に、海岸沿いの国道が整備された後で、かつての海岸線の姿は消えてしまっているが、島式ホームに引き込み線を備えていた往時の駅の構造は、まだ、残っている。同書に掲載された配線図も合わせて引用した。
今では、駅舎側の線路が埋め立てられているが、駅の構内には、当時の面影が残っている。
引用図:下灘駅
「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:下灘駅
「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・高野川駅~喜多灘駅
「国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
更に、新旧地形図や空撮画像の比較によって、下灘駅周辺の変遷をたどってみよう。まずは、地形図から見ていくことにする。
以下に示すのは、1936年7月発行の旧版地形図と、同図幅の2022年5月現在の国土地理院地図である。地図は重ね合わせ画像になっているので、マウスオーバーやタップ操作で切り替えが可能だ。
これを見ると、旧版地形図には図幅の下の方に「下灘村」の表示が見られる。先に引用した通り、下灘村は1889(明治22)年から1955(昭和30)まで存在した自治体であるから、この図の発行当時は下灘村が健在であった。
日喰、豊田奥西、奥東、上浜、下浜といった集落も当時から存在していたが、上浜、下浜地区にある豊田漁港は、現在のような防波堤を備える前であり、まだ、小規模な漁港だった様子が見て取れる。
そして、下灘駅周辺に目を転じれば、駅の東西で車道が線路を潜って山側に移っており、下灘駅の目の前には海岸線が迫っている様子が示されている。線の太さから立派な道があったように感じられるが、これは「主要なる府県道」の位置付けにあるだけで、幅員そのものを反映しているわけではない。実際は未舗装の1車線道路だった。否、この旧版地形図の時代に、片側二車線の舗装道路など、ほとんど存在しなかった。
この辺りの変遷を、ほぼ同じ図幅で切り出した空撮画像で比較してみよう。
上から、1947年10月7日、1975年3月13日、1986年4月25日、1996年5月23日、2013年3月5日の撮影である。
下灘駅の位置は、この解像度では分かりにくいが、駅の西側にある豊田漁港ははっきりと分かるので、まずは、その変遷を追いかけてみる。
豊田漁港が現在のような形を表すのは、1975年から1986年の間であるが、よく見ると、漁港から東西の海岸線にそって、国道378号が整備されたのもこの10年余りの間の出来事である。国道整備に伴って港湾整備が行われたという事だろう。
以下には、下灘駅周辺を拡大する形で、2022年現在の地形図と、新旧の空撮画像を対比させてみよう。
空撮画像は、1975年3月13日撮影のものと、2000年頃撮影のものとを比較した。
1975年の旧版空撮画像には、下灘駅眼下の海中にある岩礁まで明瞭に映っている。後背の山側は棚状の畑だったのだろうか。その後、海も山も様子が変貌していることは、2枚目の空撮画像が明瞭に示している。
続いて、「双海町誌 改訂版(双海町・2005年)」の記述を以下に引用しよう。少し長いが、この地域の交通が海路、鉄道、道路と変遷してきた記録が分かるので、同書の記述に沿って引用することにした。
この記述を見る限り、下灘駅付近の車道の舗装化は1970年頃に完成し、1975年の国道昇格を機に二車線化が進むことになったようだ。そのプロセスで海岸部の埋め立て工事が進み完成は1993年である。下灘駅直下の埋め立て工事がいつ頃のものなのかは明示されていないが、先に掲げた「国鉄全線各駅停車」の中に掲載された写真が既に舗装二車線化と海岸の埋め立て後の写真であるから、少なくとも、同書が発刊された1983年以前には、下灘駅付近の海岸風景は変貌を遂げていたことになる。
さらに先の空撮画像も検討すると、1948年は未舗装一車線時代、1975年が舗装一車線時代、1986年以降は舗装二車線海岸埋立時代の写真という事になりそうだが、この辺りの事情を鑑みると、1970年代後半には、風光明媚な海岸風景が埋め立てによって変貌してしまったのだろう。
その頃の写真などが見つかれば、この記事を更新して紹介していくことにしたい。
翌朝、誰も居ない海辺の旅情駅で迎える夜明けは、深い群青色に包まれていた。
駅前の道路に沿って数分、駅を見下ろす事ができる西側の高台まで足を延ばしてみた。そこから眼下に眺めた下灘駅は、まだ、眠りの中に居るかのようだった。
黎明の静けさの中、明けゆく空の明かりを反射して二条のレールが伸びる情景は、何ものにも代えがたい感動をもたらしてくれる。
明るくなり始めた頃合いに駅に戻り、小ぎれいに手入れされた下灘駅の駅舎を眺める。
この様に、地元の方の愛着を感じる無人駅は心地よい。
駅前を散歩している内に、夜はすっかり明け、駅のある高台にも日が差し始めた。朝日に照らし出される下灘駅のホームは、海や空の青さに包まれて爽やかだ。
写真撮影をしていると、清掃に訪れた地元の方に声をかけられた。観光客は増えたものの、朝早くに駅に来る人は珍しいとのこと。しばらく談笑した後、八幡浜方面への始発で駅を後にすることを告げ、自宅に戻られるのを見送った。
その後、出発までの合間に、下灘駅に到着した松山行きの始発列車を撮影していると、先程の方が、差し入れのお弁当を作って戻ってこられた。
恐縮しきりだが、ありがたく頂戴する。
旅先での思いがけない好意に、この旅情駅の思い出が、また一つ増えた。
駅に戻ると、程なくして、特急車両を改造した普通列車の姿が見えてきた。
一夜の思い出を胸に、伊予長浜方面への始発列車で、隣の串駅に向けて旅立った。