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初田牛駅:更新記録
| 公開・更新日 | 公開・更新内容 |
|---|---|
| 2026年7月 | コンテンツ更新 →「ちゃり鉄18号」での訪問記の追加 →調査記録の追加 →本文構成の変更 |
| 2021年8月20日 | コンテンツ公開 |
初田牛駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
釧路から根室に至る根室本線の東端区間は、道内屈指の無人地帯を行く旅情深い路線である。
宮脇俊三氏が「最長片道切符の旅」の中で、「「釧路本線」と「根室線」に分けたほうが実態に合う線区である」と書いたように、根室本線という名称を冠していながら、釧路~根室間は本線から分岐するローカル線のような旅情に満ちている。実際、この区間には花咲線という愛称まで付けられており、ある意味、釧路までの区間とは別格だ。
宮脇俊三氏はこの区間がお気に入りで、「終着駅へ行ってきます」の中でも、「釧路以遠の一三五・四キロこそ、さい果ての旅情ひとしお深い路線である」という記述とともに、この沿線の車窓風景を描写している。
その記述を追っていくとこんな一文が出てくる。少し長いが引用する。
「さて、厚床を発車した。これから根室までの四五キロは、日本の鉄道路線の中で私のもっとも好きな区間である。
まず、湿原を走る。ヨシの茂る茫洋とした原っぱに葉を落としたヤチハンノキやミズナラが細い枝をくねらせて寒々と点在し、寄生植物のサルオガセにからみつかれて枯れかかったのものある。
湿原が終わり、初田牛を過ぎると、次の別当賀までの右窓に密植されたカラマツやトドマツの林が続く。防雪林か防風林のようだが、ところどころに「防霧保安林」の札が立っている。北海道東部の太平洋岸は、沖合いで暖流と寒流がぶつかり合うので霧が発生しやすく、この霧に災いされて作物が育たないのだという。しのびよる霧を木が防ぐとは根室本線に乗るまで知らなかったことである。どれだけの効果があるものかという気もするが、これだけ盛大に植林してあるからには効き目があるに違いない。左窓にサイロが点々と見え、牧草地が広がっているのは、「防霧林」のおかげなのだろう。しかし、畑は見当たらない。」
氏が旅したのは1983年2月のことであるが、その当時も、いや、建設当時から、この辺りの原野の風景はあまり変化していないに違いない。
そして、ここに登場する初田牛駅は、そんな茫漠たる大地にポツンと佇む原野の旅情駅である。
私が初めてこの駅を訪れたのは学生時代最後の夏。2001年8月のことだった。青春18きっぷを携えて東北・北海道のJR路線を旅する中で、海霧に覆われたこの駅に一人降り立ったのである。
北海道全体の旅自体は1997年8月の夏の旅が最初だったが、その時は、途中下車をするよりも、全線に乗車することに気持ちが向いていて、釧路~根室間の往路では根室に直行して納沙布岬を周り、復路では浜中で途中下車して霧多布岬まで歩いた後、翌日は釧路までヒッチハイクした記憶がある。いずれにせよ、この初田牛駅に停車した記憶はないし、写真も残していなかった。

エンジン音と排気ガスの余韻を残して、キハ54系の単行気動車が原野に消えてしまうと、海霧に覆われた初田牛駅は空気の流れる音が聞こえそうな静寂に包まれた。夏の北海道と言えば爽やかな緑の大地を思い浮かべる人も多いかもしれないが、道東の太平洋沿岸地域は濃い海霧に閉ざされ荒涼とした雰囲気の風景が広がることも多い。港の近くに行けば灰白色の大気に潮の香りが漂い、どこからともなく霧笛が響いてくる。それは、観光パンフレットが宣伝する「夏の北海道」ではないが、私の好きな「夏の北海道」の一コマではある。
初田牛駅のホームに立てば目の前の原野は霧の中に消えており、振り返れば防霧林を背にした待合室が灰白色の大気の中にひっそりと佇んでいた。
根室方には線路に対して直角の向きに駅名標が設置されている。「あっとこ、はったうし、べっとが」という駅名の並びは北海道らしい風情がある。


この時の初田牛駅訪問は列車乗り継ぎの合間を利用した短時間のもので、駅前野宿は意図していなかった。この後、花咲駅を訪れ昆布盛駅で駅前野宿の予定としていたからだ。当時はgoogle mapなどもなかったし、道路地図のマップル北海道版などを利用して旅の計画を立てていたのだが、現地を訪れてみると別の場所で野宿した方が良さそうに思えることもあった。
この初田牛駅は駅前野宿の誘惑に駆られる駅だったのだが、「次に訪れた時に野宿しよう」と候補地に挙げるだけにして、予定変更して駅前野宿をすることは無かった。


駅の周辺を少し散策してみる。
南側には広い空き地が広がっていて、その中に未舗装の道が伸びている。その先は十字路になっており、東からやってきて南に直角に曲がっていくのが、道道142号線である。この道道は根室浜中釧路線と言い、その名の通り、根室から釧路までの海岸線に沿った快走路なのだが、北太平洋シーサイドラインとも呼ばれていて、日本離れした海岸風景を楽しみながらのドライブ・ライディングルートである。ただ、釧路~根室間の自動車交通でこの道を通る人は少なく、大半は北の内陸を行く国道44号線を経由するため、道道142号線の交通量は極めて少ない。
十字路を西に入ろうとするとすぐに未舗装路となっており、この先は1軒の酪農家が住む他、人の生活は無く道も行き止まりである。
駅の北側に足を延ばしてみると未舗装の駅前通りの先に同様の十字路がある。東西に延びる道沿いにはかつての集落跡が点在しており、草むらの中に廃屋が朽ちかけている他、初田牛会館の建物もある。だが、殆ど原野に還った様子で集落の痕跡はほとんど見当たらない。
十字路を北に向かえば、右手に電波塔や初田牛神社を眺めつつ、やがて、道道1127号との交差点に出るのだが、交差点西側の道道はスノーシェルターに覆われている。
別に山があるわけでもないのにトンネルがあることに驚くが、これは冬季の地吹雪からの避難用シェルターで、北海道にはこうしたシェルターが随所にある。それだけ冬の気象が厳しいのである。
後年、私は釧路に赴任し社会人生活の何年かを過ごしたが、真冬の地吹雪は凄まじく、当時乗っていた大型RV車のボンネットの先が見えなくなり、車高を越える吹き溜まりが出現するなかをドライブしたこともある。
毎年、遭難事故も発生し、父子家庭の父娘を乗せた軽トラがスタックして動けなくなり、近所に助けを求めに出るも方向を見失い、吹き荒ぶ地吹雪の中、父親の胸に抱かれた娘だけが辛うじて助かり、父親が凍死したという事件もあって、人々の涙を誘った。



駅に戻ると、空気の色が灰白色から青灰色に変わり、待合室に明りが灯っていた。この霧では日没は望むべくもないが、日暮れの雰囲気が色濃くなっている。
これからとっぷり暮れるまでの数時間は、夜明け前から夜明けまでの数時間と同じく、私のもっとも好きな時間で、旅情駅が最も味わい深い表情を見せてくれる。できるなら、このまま、初田牛駅での夜を過ごしてみたかったが、この時は予定変更せずに先に進むことにした。
しばらくすると、原野の向こうから列車の走行音が響きだし、やがて、ヘッドライトの灯りが浮かび上がってきた。到着した列車から降りてくる人はおらず、私以外の乗車客も居なかった。
終始、人の気配を感じないまま初田牛駅での滞在を終えたが、私にとっては居心地の良い旅情駅だった。


2015年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
初田牛駅への旅人としての再訪は、前回の訪問から14年余りを隔てた2015年12月のことだった。
2015年12月から2016年1月にかけて実施したこの旅では、石勝線や室蘭本線の岩見沢~苫小牧間を除く、北海道のJR私鉄全路線に乗車することが出来たのだが、旅の期間を通して道内は吹雪が続き、JR函館本線嵐山トンネル内でのトンネル火災もあって、序盤から予定変更が続いた。
道内初日は留萌本線の増毛駅で駅前野宿の予定だったが、トンネル火災の影響により旭川からやってくる車両が運休したのと吹雪の影響で留萌本線も運休。予定を大幅に変更して根室本線に入り、東鹿越駅で道内初日の駅前野宿を過ごした。そして、二日目の上厚内駅を経て、三日目のこの日、花咲駅での駅前野宿を計画していた。この時、花咲線の区間で花咲駅を駅前野宿地に選んだのは、この花咲駅が2016年3月26日をもって廃止されることが決定していたからだ。
道内の無人駅は2000年頃から次々に廃止されているが、一気に、数駅が廃止されることもある。2021年3月のダイヤ改正で、18もの駅が廃止されてしまったのは記憶に新しい。
廃止が決定されると駅の訪問者も増えてしまい、時には異常な過密状態になったりもするので、元々は廃止報道の後に路線や駅を訪れるのは好まないのだが、社会人になってからは遠方に旅に出る機会も限られ、再訪を果たせぬまま消えていった鉄道風景も多い。
既に、旅情駅として訪れた駅の多くが廃止されており、この旅情駅探訪記でも「追憶の旅情駅」として紹介しなければいけない駅が増えていくのは寂しい限りだ。
この初田牛駅も、結局、駅前野宿の一夜を過ごす機会がないまま、2019年3月16日に廃止されてしまった。2015年12月のこの訪問は、奇しくも、旅人としての最後の訪問となってしまった。
実のところ、2000年代初頭に釧路に赴任していた頃は、この辺りも、ドライブや仕事で何度も通っている。春夏秋冬の道内の鉄道沿線風景を、存分に記録する機会には恵まれていたはずなのだが、仕事で山に行く機会が多くなり、相対的に自転車や鉄道の旅の頻度は低下していた。思うように旅することができない中で、鉄道や自転車の旅そのものへの興味も薄れていた時代だった。
その後、転職し旅を行う生活に戻り始めた時には、北海道は遠い彼の地になり、時間や費用の点で、結局、思うようには訪れることができない場所になってしまっていた。2015年12月から2016年1月にかけてのこの長旅も、転職の合間の有給消化という機会を利用して実現したものだった。
この日の旅では、前夜を過ごした上厚内駅を7時前に出発し、8時半頃には釧路着。かつて生活した街を2時間半ほどかけて徒歩で巡り、11時に出発。花咲線区間を一気に走り抜け根室には13時20分頃に到着した。そして、これまでとは異なり納沙布岬まで足を延ばすことなく10分ほどでとんぼ返りする。
落石から別当賀にかけては、海食崖の上から荒涼とした太平洋を望み、別当賀から初田牛にかけては、クマザサと防霧林の間に湿地性の灌木が茂る素寒貧とした風景の中を駆け抜ける。別当賀を過ぎてからはリュックを背負って前方の昇降口の前に立ち、キハ54系の前面展望を楽しんだ。
左手に「初田牛」と書いた黄色い駅名標識が通り過ぎれば、程なく、道道の踏切を渡り、かつてのポイント跡を通過して初田牛駅に到着する。時刻は14時過ぎだった。
2週間以上に及ぶ旅の期間中、道内のほとんどの地域が吹雪に見舞われていたが、十勝・根釧を巡った3日間は、雪も少ない枯れた大地の中、天候も比較的穏やかだった。




花咲線沿線はモンキー・パンチ氏の出身地でもあり、霧多布岬を舞台にした「ルパン三世 霧のエリューシヴ(2007年7月27日放送)」に因んで、ルパン三世のラッピング列車が運行されていた。それによる観光振興効果はどれほどのものか分からないが、この初田牛駅で降り立ったのは私一人。勿論、乗り込む客も居なかった。
去り行くキハ54系を見送れば、一人佇むホームには静かなひと時が訪れる。
十数年ぶりの訪問ではあるが、前回は濃霧の中での訪問だっただけに、駅の印象は記憶とは異なっていた。地吹雪でも吹き荒れていれば、それはそれで、この地らしい気象だと感じたかもしれないが、そもそも、それでは、運休の可能性がある。
この日は、幸いにも穏やかな天候で気温も氷点下数度。石狩方面の吹雪が嘘のように無風で、真冬の北海道にしては暖かい一日だった。
駅の周辺には積雪は無く、微かに、雪化粧の跡が残っている。地面は凍結しているものの、この冬、この辺りには根雪は降っていないらしい。
今回も、前回と同様、初田牛駅は乗り継ぎの合間の滞在で、1時間ほど過ごすだけだ。当時は、あと3年で廃止になるとは思ってもみなかったが、幸いにも、この時、僅かな滞在時間とは言え、駅の周辺を一通り周ることが出来た。
木造駅舎時代の痕跡を残すコンクリートの土台の上には、前回と変わらず、プレハブ造りの待合室が佇んでいる。出入り口のドアは新しいものに取り換えられたようで、塗装の剥がれなどは無くなっていた。
「駅前通り」に出てみれば、カラマツの植林地を背に見覚えのある十字路が迎えてくれる。これが、初田牛駅前通り。今は跡形もないが、この街路に沿って初田牛の集落が形成されていたのである。


一旦ホームに戻り、既に傾きかけた低い太陽を受けて輝く初田牛駅と根釧台地を眺める。
以前、線路と直角に設けられていた駅名標は、線路と平行に設置しなおされていたものの、それ以外の駅施設は殆ど何も変わっていない。
ただ、霧に閉ざされていた前回の訪問とは異なり、西日差す駅の雰囲気は枯色然とはしているもののどことなく明るい。
ホームの上から釧路方を眺めれば、線路は緩やかに曲線を描いており、かつて、そこにポイントが存在していたことがはっきりと分かる構造となっていた。目の前の枯野原には、赤錆びたレールが今も撤去されずに残っている。
木造駅舎が立っていたはずの駅のホームは広く、一般駅として開業したこの駅の来歴を静かに物語っていた。






駅の南の空き地に立って初田牛駅を眺めてみる。
カラマツ林を背にポツンと佇む姿は14年余りの時を隔てても変わらない。
有人時代の空撮画像を眺めると、この駅南の空き地にも複数の建物が見られる。行き違い可能駅だった時代の駅施設と思われるが、勿論、今はその痕跡もない。
道道は片側1車線のしっかりした道ではあるが、交通量は極めて少なく、この辺りを夜にドライブすると、2~3時間、1台の車ともすれ違わないことは珍しくない。



間近から駅のホームを眺めれば、大正時代に築かれた石積みのホームが、数十年の風雪と海霧に耐えた渋みをもって駅を支えていた。西日を受けて静かに佇む駅と対峙していると、過ぎ去りし日々を偲ぶ孤独な老人の姿が思い浮かんだ。
「昔は、この駅にも駅員さんが居て、子供たちや近所の人が、学校や仕事に通ったものだよ」
どこからともなく、そんな独白が聞こえてきそうなひと時だった。


今回は初田牛集落の辺りも散歩してみることにした。
今となっては、地区の公民館である初田牛会館の建物と初田牛神社くらいしか残っておらず、駅前通りの未舗装路の脇には朽ち果てた廃屋が野に還ろうとしていた。
道道1127号線とのT字交差点付近に出ると、「初田牛小学校跡」と記した古びた碑が立っている。
その場所が小学校跡なのかと思っていたが、これは、矢印を伴った案内標識で、その右奥に見える初田牛会館の付近に小学校が存在したようだ。
初田牛地区に関する文書は今のところ入手できていないが、木造駅舎時代の初田牛駅の写真を収めた「初田牛開基100周年記念誌」もあるようなので、今後、文献調査記録の調査課題としたい。
そのままT字路を右折して踏切から駅の方を眺めると、交換可能駅だった頃の配線が一目瞭然だった。



駅の方に引き返して、今度は、北の方に足を延ばして道道のスノーシェルター付近まで行ってみる。
遥かに続く根釧台地は緩やかな起伏が果てしなく続き、牧草地と樹林がパッチ状に広がっていた。これだけの広大な大地だが人の姿は全く見られない。
道道のスノーシェルターは立派なもので、確かに、冬の地吹雪を知るものとしては、幹線道路にこういう避難設備が必要なことが理解できる。ただ、理解できるものの、この道道にそれが必要かどうかは疑わしい。それほどに、この辺りの交通量は少ないのである。
付近の道路交通の中心は北の内陸にある国道44号線にあり、初田牛駅周辺からは見通すことができない丘陵の向こうを走っている。
それなりに交通量のある国道44号線だが、ここまで、車の走行音が響いてくることは無い。
スノーシェルター付近も十字路となっており、初田牛駅前からの通りは、道道を突っ切って牧草地の向こうに延びている。振り返れば、彼方のカラマツ林の陰に初田牛駅の待合室が佇んでいるのが見えた。



駅に戻ってくると、既に太陽は地平線間際にまで傾いていた。
時刻は15時過ぎであるが、道東の冬の一日は短い。もう間もなく日没を迎えるのである。
穏やかな天候に恵まれ、初田牛駅周辺は年末というのに、晩秋のような雰囲気だった。それがなお一層、郷愁を呼び起こす。


出発間際になって、雲の切れ間から西日がひときわ明るく輝きだした。原野の彼方からは単行気動車の走行音が聞こえてくる。いよいよ、この駅を去る時が来た。
物言わぬ駅は、孤独な旅人の来訪を、輝く夕日の中で見送ってくれるように感じた。
「次にこの辺りを旅する時は、ここで、駅前野宿の一夜を過ごしたい」。
そんな思いを胸に、キハ54系の普通列車に乗り込み、この、原野の旅情駅を後にした。
そして、それが初田牛駅で過ごした、最後のひと時となった。



2019年3月16日。
初田牛駅は利用者減少を理由に廃止された。
今、その駅の跡には、地元の方々の希望で、駅跡を示す記念看板が設置されている。
2022年7月(ちゃり鉄18号)
2022年7月から8月にかけては、「ちゃり鉄18号」の旅でJR札沼線・留萌本線・根室本線を巡った。
この年はその前の5月から6月にかけての「ちゃり鉄17号」でJR函館本線・石北本線・釧網本線を巡ったので、2回続けて北海道入りし、道内路線の「ちゃり鉄」を一気に進めた1年だった。
通常、同じ地域に2回続けて「ちゃり鉄」の計画を入れることはないのだが、道内路線に関しては路線廃止、駅廃止のペースが早く、「次の機会に」と思っていても、その機会が得られぬまま廃止になっていく状況だった。特に駅の廃止に関しては、一度に2桁の駅が廃止される年もあるなど、廃止の速度が加速していた。
そんなこともあって、集中的に北海道の路線を訪れるようにしていたのだった。
根室本線でも幾つもの旅情駅が既に過去帳入りしている。
駅前野宿を行った駅としては東鹿越駅、上厚内駅、尺別駅、花咲駅などが挙げられるが、これ以外にも野花南駅、羽帯駅、直別駅、古瀬駅、糸魚沢駅など、駅前野宿で訪れてみたかった駅が既に失われている。
そして、ここで取り上げている初田牛駅も同様に、既に「追憶の旅情駅」となってしまった。
廃止は2019年3月16日であるから、この「ちゃり鉄18号」での訪問は、それから約3年後のことである。
この日は前夜を過ごした霧多布岬から納沙布岬経由で根室市内までの行程。その中でJR根室本線の浜中~根室間と、根室拓殖鉄道廃線跡の全区間を巡った。また、この翌日は根室市内から厚岸の愛冠岬まで、北太平洋シーサイドラインに沿って走る行程だった。
そういうルート計画だったため、初田牛駅跡は2日続けて訪問しており、自転車の機動性を活かして周辺を広範囲に巡ることが出来た。
初日は根室本線の「ちゃり鉄」として厚床、初田牛、別当賀、と停車していった。
スノーシェルターを走り抜けて到着した初田牛駅前集落の跡は、この日も夏場特有の霧に覆われていてどんよりとした雰囲気だったが、これも夏の道東らしい。
今回はまず、これまで参拝したことがなかった初田牛神社にお参り。
駅前の集落は既に無人化しているが、神社や公民館は現在も手入れが入っていて、酪農などを営む近隣居住者が集うこともあるようだった。
神社の鳥居は原木で組まれており趣がある。


この神社の参道は私が駅前本通りと名付けている集落道から直角に分岐してまっすぐ伸びている。
草生してはいるが四輪車の轍も見られるので、行事の際には鳥居の前まで車でやってくるのだろう。
ここから西の方を見ると民家が1軒。東の方は木の陰に隠れて初田牛会館が見える。ただ、見える建物はそれだけで、あとは一面の草地になっている。かつてはここにも集落が形成されていたのだが、在りし日の姿は想像もつかない。
西の方に見えた民家は比較的しっかりした作りだったので、駅前本通りに出てから西に向かい、その民家も訪れてみた。
遠目には現住民家のようにも見えたが、近くで眺めてみると、やはり空き家。
無住化はそれほど昔のことではないようだが、人の気配は既に消えていた。
それを確認して駅前本通りを戻り、初田牛駅跡を訪問。廃止後の訪問はこれが初めてである。









廃止直前には棒線駅となっていた初田牛駅は、廃止後、信号場などとして活用されることもなく、駅構内は完全に草生した空き地となっていた。
プレハブの待合室は既に撤去されており、駅跡に残っているのは、機械室と駅名標を利用した案内看板、縁石などが取り崩されたホーム跡のみである。
この看板には初田牛駅の来歴の他、往時の駅舎の写真も掲載されている。
この旅の段階では既に把握していたが、初田牛集落の開基百年記念誌に掲載されている貴重な初代駅舎の写真も掲載されているのが嬉しい。
同様の写真は花咲駅跡の案内看板にも掲載されていた。
木造駅舎が建造された当時、集落には人の賑わいがあり、駅は人の集う場所だったはずだ。
その当時と比べて、今の日本は「経済成長」したはずなのだが、全体的には人口が減少しつつ、過疎と一極集中が進むとともに、多くの駅は人の集う場所としての機能を失った。
一部の大都市に人が集中するようになったが、そこは人が多い割に密な繋がりはなく、それでいて、SNSなどで繋がりを求める人は大勢居る。タップ1つで簡単に作られ、タップ1つで簡単に切られる、そんな繋がりを求めるのは、「合理的な選択」を重ねた世の中の姿を象徴しているように感じる。
この初田牛駅も1971年10月2日に無人化されるまでは、多くの鉄道員が勤務し官舎も設置されるような「停車場」であった。
その「停車場」当時の姿を私は見たことはないが、数少ない木造駅舎の写真が醸し出す「情感」は、現代社会から失われつつあるもののように思う。
なお、2026年6月1日に、この初田牛駅に勤務した最後の駅長さんのご家族から、当時の写真を添えてご連絡をいただいた。これについては、後ほど、調査記録編で紹介したい。





初田牛駅の真向かいは道道のT字路。
この交差点の雰囲気は変わらない。
私は初田牛駅での「駅前野宿」はしたことがないのだが、実は、釧路赴任時代、自家用車での深夜ドライブ中、この交差点から駅敷地側の空き地に入り、車の中で仮眠をとったことがある。
今にして思えば、貴重な初田牛駅の深夜の様子を眺め撮影するチャンスでもあったのに、ただ、仮眠だけをして立ち去ったのが悔やまれる。
その空き地側から眺めた駅の様子も大きく変わってはいないが、ホームと待合室が消え去り一面の草叢となった風景は、廃止の現実をまざまざと見せつけていた。




ホーム側に戻って初田牛駅跡を出発する。
次の停車駅は別当賀駅だが、今回は、駅前集落の跡や初田牛会館、初田牛小学校跡にも立ち寄っていく。
駅前集落は既に消滅しているが、草叢を良く眺めてみると、倒壊した建物の残骸が目に入った。
季節柄、草叢が著しく成長していたので、それに埋もれるようにして残っていたが、辺り一面が枯野原となる季節であれば、他にも家屋や建物の痕跡は見つかるかもしれない。
初田牛会館は地域住民が時折訪れるらしく、綺麗に維持されていた。
敷地の片隅には「開基百年之碑」の古い木製記念碑も立っている。
その奥の広い空き地がかつての初田牛小学校跡。
ここもよく調べれば校舎の痕跡が見つかるかもしれないが、霧で濡れた草叢に突入していくのは避けて、遠くから眺めるだけとした。
古い航空写真で校庭が映っていた辺りには、パターゴルフ場として活用されていた時代の旗などが痕跡を留めていたが、そういう集まりも既に絶えてしまったようだ。
最後に初田牛踏切から駅構内の跡を遠望。
線路は駅構内の出入り口で不自然に屈曲しているが、これは、そこにポイントがあったこと、引いては、この駅がかつては交換可能構造を持っていたことを静かに物語っていた。





初田牛駅跡を訪れたその日は、根室駅まで走り通してJR根室本線の滝川~根室間、全駅の「ちゃり鉄」を終えた後、納沙布岬を周り、根室拓殖鉄道の廃線跡を走って根室市内で野宿。
明けた翌日は、根室から北太平洋シーサイドラインを走って厚岸の愛冠岬付近にある筑紫恋キャンプ場までを走る行程であった。
その根室から初田牛にかけての海岸沿いは段丘が発達していることもあり、海岸線を通しての道路は開かれておらず、線路も車道も内陸の段丘面上に通されている。所々にある湾入地形には大小の漁業集落が点在しているが、そこへのアクセス路は内陸の道路から枝状に分岐している。
道路網が未発達だった時代には、こうした漁業集落の住民の「足」は、それぞれが所有する船が担っていたことだろう。
こうした景観の内でも、特に、落石岬から初田牛にかけての沿岸部は険しく、漁業集落も存在しない。
JR根室本線の列車で旅すると、別当賀駅と落石駅との間で、太平洋を見下ろす高台を走る区間があるが、撮影名所でもあるこの付近の海岸には三里浜の地名が付されており、霧煙る海食崖の下に砂浜が伸びる道東らしい荒涼とした風景が印象的な場所だ。
この日は、風蓮湖や春国岱を訪れた後、内陸の国道44号線を西進し、北側から初田牛に入って太平洋沿岸まで抜けるルートを通った。
国道からの分岐では「初田牛 4km」の左折標識がある。
この道路沿いに酪農家が点在しており、それが初田牛集落の住民ということになる。
駅は廃止されたものの、初田牛集落自体は廃集落とはなっておらず、今も存続している。
緩やかな起伏地にまっすぐに伸びる車道を進み、初田牛駅や駅前集落への分岐を右手に見送って初田牛踏切を渡った後、駅南に面した三叉路を直進して地図にも記された碓氷牧場方面に向かう。ここに記された東部恵茶人神社に参拝するためだ。



このアクセスルートは碓氷牧場の私道のようにも思えたが、特にそれを示すような標識はなく、途中で分岐などもある未舗装路だった。
緩やかな起伏を越えて進んでいくと、やがて霧に包まれた牧草地と酪農家の建物が見えてきて、その一画に神社の鳥居があった。
この神社の沿革などは資料が見つかっておらず不明だが、牧場経営者の私的な造営なのかもしれない。
なお、「恵茶人」は初田牛から西に向かった先にある海岸集落の名前でもある。
この地の入植者自体は古くから居たようで、明治中期後半に玉熊氏が駅逓を営みつつ公用馬の牧場を経営していたのが始まりであり、その後、昭和十年代半ばには、根室の碓氷酒造が玉熊牧場の用地を買い受けて牧場を経営するようになったということが、文献調査で明らかになっている。
これについては、後ほど、調査記録としてまとめよう。
初田牛駅跡付近に戻ってから、道道142号線に入って南下。
ここで初田牛川河口付近のハッタウシ浜、和田牛川河口付近のヲワッタラウシ浜それぞれにある漁業集落を訪れた。
初田牛地区は主に酪農で集落を成しているが、古くから海岸にも漁業集落が存在しており、また、内陸の泥濘地を避けて海岸付近に旧道が開かれていたようでもある。この道は厚岸町榊町から霧多布を経て落石に至る道であったが、その中間付近に当たるハッタウシ浜付近に人馬継立所が設けられ、これが初田牛の地名誕生の地であるともいう。
今日でもこの二つの海岸集落には現住民家があり、ヲワッタラウシ浜に降る途中では、民家の窓からこちらを眺めている住民の方の姿も見かけた。
小学校が廃校となり、駅前集落が消滅し、駅も廃止となった初田牛地区ではあるが、今も人々の生活は続いている。
廃止されてしまえば鉄道ファンが訪れることも少なくなるが、私は「ちゃり鉄」の旅を通して「追憶の旅情駅:初田牛駅」の姿を眺め続けたいと思う。











