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ちゃり鉄30号:旅の概要
「ちゃり鉄30号」ではJR氷見線・城端線、富山地方鉄道本線・立山線・上滝線・不二越線・富山港線・富山軌道線、万葉線高岡軌道線・新湊港線、日本貨物鉄道新湊線といった現役鉄道路線を中心に、富山地方鉄道射水線・笹津線、立山鉄道鉄道線、黒部鉄道鉄道線、庄川水力電気専用鉄道線、加越能鉄道加越線、鉄道敷設法別表第66号線といった廃止路線や予定線の沿線も走った。
今回は存廃議論が取り沙汰されている富山地方鉄道沿線と、JRからの経営移管が決定している氷見線・城端線を巡ることがメインであった。
前者に関しては今回で目的を果たし、内山、越中中村、越中泉、千垣の4駅での駅前野宿も行うことが出来た。
後者に関しては2021年4月~5月に実施したものの雨晴海岸で機材トラブルによって中止となった「ちゃり鉄15号」での走行予定路線でもあった。今回は5年ぶりに訪問計画を立て、早春の立山連峰と雨晴海岸の風景を楽しみにしたのだが、あいにくの雨天。その風景は次回にお預けとなった。但し、雨晴駅での駅前野宿は実施できた。
- 走行年月
- 2026年3月~4月(9泊10日)
- 走行路線
- JR路線:氷見線・城端線
- 私鉄路線等:富山地方鉄道本線・立山線・上滝線・不二越線・富山港線・富山軌道線(本線・支線・安野屋線・呉羽線・富山都心線・富山駅南北接続線)、万葉線(高岡軌道線・新湊港線)、日本貨物輸送新湊線
- 廃線等:富山地方鉄道笹津線・射水線、黒部鉄道鉄道線、立山鉄道鉄道線、庄川水力電気専用鉄道線、加越能鉄道加越線、鉄道敷設法別表第66号線(羽咋=氷見)
- 主要経由地
- 親不知海岸、庄川峡、千里浜海岸、雨晴海岸、五箇山、白川郷
- 立ち寄り温泉
- 北小谷温泉深山の湯、宇奈月温泉総湯、川城鉱泉、日方江温泉、立山温泉ホテルテトラリゾート立山、神通峡春日温泉、氷見温泉有磯湯、鯰温泉、湯の平温泉
- 主要乗車路線
- JE山陰本線・東海道新幹線・中央線・篠ノ井線・大糸線・太多線・福知山線、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、長良川鉄道越美南線、近畿日本鉄道名古屋線・大阪線・なんば線、Osaka Metro四つ橋線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:681.1km/総累積標高差+11311m/-10879m
- 1日目(自宅≧京都≧名古屋≧松本≧南小谷≧北小谷≧糸魚川≧親不知)
(ー/ー/ー) - 2日目(親不知-泊-雁蔵-宇奈月湖-宇奈月温泉=内山)
(63.4km/+2354m/-2206m) - 3日目(内山=電鉄黒部=石田港-生地鼻灯台-電鉄黒部=黒部=電鉄石田=浜加積-川城鉱泉-越中中村)
(66.5km/+280m/-428m) - 4日目(越中中村=電鉄富山・富山駅停留場=岩瀬浜-日方江温泉-滑川=五百石-越中泉)
(81.6km/+231m/-236m) - 5日目(越中泉-寺田=横江…尖山…横江=立山-千垣)
(52.6km/+1807m/-1494m) - 6日目(千垣-岩峅寺=上滝=稲荷町-富山駅停留場=南富山駅前=笹津-神通峡春日温泉-柳瀬=青島作業場-庄川水記念公園)
(89.4km/+957m/-1173m) - 7日目(庄川水記念公園-小牧=青島作業場=庄川町=石動-千里浜海岸-羽咋=氷見=雨晴)
(99.9km/+1492m/-1598m) - 8日目(雨晴=高岡・高岡駅停留場=越ノ潟~堀岡・新港東口=新富山-富山大学前=富山駅停留場-丸ノ内=中町(西町北)-富山=富山口-鯰温泉-海王丸パーク)
(76.9km/+178m/-180m) - 9日目(海王丸パーク-新湊貨物駅=能町-高岡=城端-五箇山-白川郷-御母衣ダム-牧戸-ひるがの高原-北濃)
(150.8km/+4012m/-3564m) - 10日目(北濃≧美濃太田≧多治見≧名古屋≧大阪難波≧梅田・大阪≧福知山)
(ー/ー/ー)
- 1日目(自宅≧京都≧名古屋≧松本≧南小谷≧北小谷≧糸魚川≧親不知)
- 総走行距離:681.1km/総累積標高差+11311m/-10879m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄30号:走行ルート


ちゃり鉄30号:更新記録
ちゃり鉄30号:ダイジェスト
2026年3月~4月の「ちゃり鉄30号」では富山県をターゲットとして、JR氷見線・城端線、富山地方鉄道全線、万葉線といった路線を走ることにした。この他、貨物専用鉄道線や廃線、予定線も含み、走行範囲は、富山県の他、一部、新潟県、石川県、岐阜県にも跨った。
鉄道事情に詳しい人であれば、この時期にこれらの路線を選んだ理由は直ぐに分かるかもしれないが、富山地方鉄道の一部区間の存廃議論や、JR2路線の経営移管などにより、今後数年のうちに、富山県の鉄道事情も大きく変化すると見込まれるからである。
私自身はそういう事情に左右されて取材地域を決めていくのは好きではないのだが、未走行の路線に存廃議論が出ているとなれば、やはり、現役のうちに走りに行きたいとも思う。
それに、この地域は2021年にも「ちゃり鉄15号」で走行する計画を立てていたものの、加賀地方や能登半島の路線を走り終えて氷見線に入り、氷見駅から雨晴駅に辿り着いた日の夜の野宿で、ガソリン燃料の携帯コンロが破損して全身とテントにガソリンが噴射されてしまうトラブルによって、旅を中止した経緯もある。
あれ以来、再訪が叶わぬまま5年が経過したが、この機会に走りに行くことにしたのである。
特に3月から4月となると、雨晴海岸から望む立山連峰の風景も期待される。
SNSの影響で酷い混雑が予想されるものの、風景そのものは素晴らしいということもあり、この時期を選んだ。
結果的には雨晴海岸付近を走った2日間は雨天に見舞われ、立山連峰の風景は全く望むことが出来なかったが、雨の雨晴駅の夜というのも、それなりに様になる鉄道風景だったので、それはそれで良しとしたい。
次の機会に期待しよう。
この他、富山県入りの初日のルートは高山本線経由とし、大阪駅から特急「ひだ」に乗車するつもりで切符の購入まで済ませていたのだが、直前になって猪谷~杉原間の橋梁異常による部分運休が発表され、この計画も台無しになった。
初日は移動日としていて、自宅を早朝に出発し親不知駅まで鉄道移動して終わる計画自体は高山本線のトラブルの影響を受けても変更しなかった。一方で、そのアクセス路として、福井周りと長野・新潟周りの2ルートを検討したが、ここは学生時代長らくご無沙汰している大糸線回りとしたく、長野・新潟周りのルートを選ぶことにした。
結果的に、親不知駅到着の時間を都合したり、大糸線北部での途中下車を組み込んだりするため、福知山~京都~名古屋~松本の各区間を在来線特急や新幹線で繋ぐことになった。
また、帰路は少々無理のある計画だったが、新湊から一気に長良川鉄道の北濃駅まで走り切り、そこで自転車を畳んで輪行で帰宅する計画。これも、名古屋から近鉄特急に乗るというルート設計にして、往復の移動経路に遊びを入れた。
日程的にはやや短期の9泊10日。走行距離も681.1㎞と比較的短く、激しいアップダウンも少ないので、全体的には楽な行程だったのだが、最終日だけ150.8kmの走行距離に累積標高差が±4000m前後という高負荷のルートとなってしまった。
本来なら、もう1日日程を追加して白川郷辺りで1泊するのが適切なのだが、日程の制約故にここを1日で走り切る計画となったのは残念でもある。
いずれここも走り直し。ということで、走れば走るほど、走り直したい場所が増えるのだが、それはそれで悪くはない。
ちゃり鉄30号:1日目(自宅≧京都≧名古屋≧松本≧南小谷≧北小谷≧糸魚川≧親不知)
この旅の1日目は走行行程は含まず、鉄道を使った移動のみである。
私の居住地である福知山からなら、舞鶴・敦賀経由で北陸新幹線に乗るというのが普通だろうが、既に述べたように、高山本線回りの計画がダメになったので、大糸線回りの計画とした。
そのため、福知山駅からは特急「きのさき」に乗車して京都駅に向かい、そこから、東海道新幹線で名古屋駅、中央本線と篠ノ井線を特急「しなの」に乗車して走り抜けて、大糸線の入り口である松本駅を目指す。
関西から上越に向かうなら特急「雷鳥」や急行「きたぐに」を使い、信州に向かうなら特急「しなの」や急行「ちくま」を利用した時代もあったが、それも昔話。
新幹線が開業したりして便利になっているはずなのだが、運賃料金は割増になり乗換えが必要となって、新幹線の経路外を長距離移動する場合には、むしろ不便になっている。鉄道が好きだからこそ鉄道で移動しようと考えるものの、一般的な感覚なら、乗り換えなしで割安な高速バスに人が流れるのは当然という気もする。
特急「きのさき」の福知山駅発車時刻は6時2分なので、その1時間ほど前には福知山駅に到着して自転車を輪行用に解体する必要がある。そんなこともあり、この日は4時過ぎには起床し、4時半には家を出た。
輪行の際には登山用の60Lクラスのバックパックに荷物を移し替え、それを登山のスタイルで背負いつつ、右の肩で輪行袋も背負うというスタイル。この輪行袋の中は車体と自転車周りの装備品のみを入れている。
ロードレーサーなどと違って、太いタイヤにキャリアを装着したグラベルロードは重いので、片方の肩で担ぐことになる輪行袋はできるだけ軽くしておきたいのだ。
そのため、福知山駅と自宅との往復はバックパックを背負って自転車に乗る。わざわざサイドバッグに荷物を移し替えることはしない。
もちろん、60Lクラスのバックパックを背負って本格的なツーリングをすることはないが、自宅との間の往復程度なら、荷物の移し替えの手間と時間を省くために、このスタイルを取っている。
お金がなかった学生時代は、キャリアやサイドバッグが買えなかったので、60Lクラスのバックパックを背負ってマウンテンバイクでツーリングをしたものだが、今考えると、よくやったものだと思う。
周りから見ればおかしな格好だが、幸い、早朝なので誰も居らず、人目に付くこともなかった。
自転車の解体と梱包だけでよいので、作業は20分程度で完了。
5時半には改札を通ることが出来て、十分に余裕をもってホームに上がることが出来た。

京都駅からは東海道新幹線に乗車するのだが、「のぞみ」での移動で京都駅の次が名古屋駅なので自由席に乗車する。
自由席は編成の末端に2両ほど繋がっているだけなので、山陰本線のホームから新幹線口への移動に加え、新幹線ホームの新大阪方末端まで移動する必要があり、肩に荷物が食い込んで赤く内出血する。
自転車を持ち込む際は、進行方向に向かって車両後端の3人掛けの座席に座れるのが理想だが、僅か1区間の移動に過ぎないためここでは指定席は取らなかった。
ただ、懸念していたとおり目的の座席は既に占有者が居て、自転車を置くのは躊躇われる。
結局、最後に乗り込んでデッキに立ったままでいると、車掌から「ここに置けなくもないですね」と、車端部の座席の後ろをご案内いただいたものの、既に座っている人も居るし45分ほどの乗車で降りることになるので、デッキで我慢する旨を伝えた。
こういう時は、時間に余裕があるなら「こだま」を利用すればよいのだが、あいにく、この日は名古屋からの乗り継ぎの関係もあって「のぞみ」を利用。最近はインバウンド旅行者による混雑もあって、輪行で新幹線に乗るのは肩身が狭い。
それでも忍耐の1区間を越えて名古屋駅に到着。
長い編成の末端部ではあるが、外国人観光客のグループが居て、日本が誇る「シンカンセン」を写真に収めていた。

ここで在来線ホームに移動して、特急「しなの」の入線を待つが、合間に小腹を満たすため名古屋駅定番のホームのきしめん屋に立ち寄ってきしめんを食べる。
名古屋駅の到着は8時4分で出発は9時であるから、時間的には十分な余裕がある。きしめんを食べるために早めに到着したのではなく、特急「しなの」も自由席に乗るので、車両後端部のシートを押さえるために早めにホームに並ぶことが目的である。
ホームには、外国人も含めて、一見して特急待ちと分かる観光客が大勢居る。
早めに到着してよかったと思いきや、彼らは反対側のホームに発着する特急「ひだ」を待っているらしく、特急「しなの」の発着ホーム側に並ぶ人は殆ど居なかった。
私が乗車する予定だった大阪発の特急「ひだ」も、予約時点で僅か1席しか空いておらず、間一髪で指定席を確保することが出来た。自由席車両も連結されているものの、福知山駅を朝に出て大阪駅からの「ひだ」に乗車するとなると、大阪駅への到着時刻の関係上、目的の座席は確保できない恐れがあった。
そのために指定席にしたのだが、指定席は車両真ん中の通路側。
デッキに自転車を固定するしかない状況だった。
その後、高山本線の一部区間の運休が発表されたが、これは杉原~猪谷間なので、高山止まりの「ひだ」には影響はなく、高山から乗車する予定だった富山行きの「ひだ」は影響を受けるという、実に不運な状況だった。
結果的に、指定席の払い戻しは手数料なしで処理してもらうことが出来たが、影響を受けない高山までの列車は、名古屋発も大阪発も盛況だ。
信濃路と比べて高山はインバウンド旅行者に人気があるようだが、これは、高山から白川郷や五箇山に向かう世界遺産目当ての観光動線があるのも一因のようである。



インバウンド旅行者や若者グループで満席となった特急「ひだ」を見送り、前後して入線してきた特急「しなの」に乗車。
直前に数名が列をなしたが、こちらは空席が目立つ状況で、目的の座席も押さえることが出来た。しかし何故か、私の周りの車両端部に乗客が集中しており、しかも騒々しい。上司らしい中年男性と部下らしい若い男女の3人組が前列のシートで通路を挟んで座っており、同列の通路向こうにはこれも出張らしい単独男性が1名。3人組が騒々しいのだが、マナーが悪いのは外国人や若者ばかりではなく、どの世代、どの国籍でも、満遍なく存在するように思う。
定刻に出発した特急「しなの」は、金山で追加の乗客を乗せ、中央西線へと入っていく。中央西線は木曽路のイメージがあるが、木曽川に沿うのは中津川駅を越えた先から鳥居峠手前の藪原駅までの区間で、多治見駅に到着する前の定光寺駅や古虎渓駅辺りで展開する峡谷風景は、木曽川ではなく庄内川である。
この両駅も味わい深い駅で、古虎渓駅では学生時代に駅前野宿をしたことがある。
一見すると周りに民家もない僻地のように見えるが、いずれの駅も、少し離れたところに新興住宅地が造成されており、その住宅地の居住者の乗降が多い。
多治見や中津川でサラリーマンが下車していき、先に進むのは観光客らしい中高年夫婦やグループがメインとなるが、車窓にも木曽川が沿うようになり、情緒ある車窓風景が展開するようになる。
いずれこの中央本線も走ることになるが、名古屋方から走り始めても、東京方から走り始めても、塩尻・諏訪にかけて延々と登り勾配が続くし、交通量の多い国道に沿う区間も多いので、自転車の旅は苦労するかもしれない。それでも情緒ある山里の風景が疲れを癒してくれそうだ。
そんな車中の騒々しい3人組は木曽福島で下車していった。観光というよりも出張という身なりではあった。
「ちゃり鉄」に備えて、車両風景を楽しみ駅周辺を観察しながら進むうちに、鳥居峠を越えて塩尻に向かって降り始めた。
鳥居峠の手前までが木曽川流域で、鳥居峠の先が信濃川流域。ここは中央分水嶺の峠である。
乗降の多い塩尻駅を経て松本駅には11時5分着。特急「しなの」の旅は今回はここまで。ここからは、久方ぶりの大糸線に入る。



松本駅での乗り継ぎ時間は4分。11時9分の出発である。
バックパックだけなら問題ないが、自転車を背負っていると移動に時間がかかるのでギリギリである。しかも車両最後尾からの移動になるので、大糸線ホームまで最も遠い位置。
構内放送で大糸線に乗り換える乗客は急ぐようにアナウンスもあり、少々焦るが、前後に大糸線に向かう人の姿もあるので、一先ず、乗り遅れの心配はなさそう。ただ、自転車を積み込めるか心配にもなる。
都会の路線などでは満員で乗り込めないということが、しばしば発生する。
幸い2両編成のロングシート車は座席が全て塞がってはいたものの、ワンマン運転ということもあって後部車両の運転席横のスペースは空いており、そこに自転車を置くことが出来た。ただ、ゆっくりと撮影する余裕はなかった。
この日は平日ではあったが、子供連れの姿も多いし、午前中なのに高校生も多数乗車している。違和感があったものの、よく考えると春休み。
子供の休みに合わせて出かける風情の家族や部活帰りなどの高校生らが乗車しているようであった。
そんな混雑した車中も駅毎に少しずつ人が降りて行き、信濃大町駅付近までに空席が目立つようになってきたが、ここから新たに多少の乗客が乗り込んできた。
私自身もこの辺りで着座。
信濃大町駅までの大糸線は私鉄の信濃鉄道によって開業した区間のため、駅の構造や駅間距離に私鉄の面影が色濃い。同様に私鉄が起源となる飯田線と合わせて、豊橋~糸魚川間を普通列車で繋ぐ旅を実施したら、酔狂ながら面白い旅が出来そうだ。
時刻表で見ても、この両線を繋ぐルートの駅の数の多さは特筆ものである。
しかし、その大糸線も、信濃大町駅から糸魚川駅までは国鉄の手による建設だったため路線の雰囲気が変わる。
大糸線が松本駅と糸魚川駅を結ぶのに松糸線という名称でないのも、松本駅~信濃大町駅の間が私鉄だったという出自によるところが大きい。
信濃鉄道による松本~信濃大町間の開業は1916年7月5日。
これに対し、国鉄の手による信濃大町~糸魚川間の建設は、大糸南線、大糸北線に分けて進められ、大糸南線が1929年9月25日の信濃大町~簗場間の開業を第一期線として、1930年10月25日の神城、1932年11月20日の信濃森上、1935年11月29日の中土という具合に第四期線までの順次開業となったのに対し、大糸北線が1934年11月14日の糸魚川~根知間を第一期線とし、1935年12月24日の小滝への第二期線開業という経緯を経て、最終的に1957年8月15日に中土~小滝間が開通して、晴れて松本~糸魚川間の全通を見た。
この間、1937年6月1日に信濃鉄道の手による松本~信濃大町間が国有化されている。
つまり、大糸線の建設工事中に信濃鉄道区間が国有化され、その国有化から実に20年後に、中土~小滝間の17.7㎞が開通して大糸線全区間が開通するとともに、路線名称も大糸線として整理されたのである。
松本~信濃大町が大糸南線に編入された後、正式に大糸南線と呼称されていたのかどうかはまだ未調査ではあるが、そういう経緯だったことにより、全通時に松糸線に改称されることもなかったのであろう。20年もの間、大糸南線と称されていたのであれば、全通時には「大糸線」とする方が混乱がなくてよい。
それにしても僅か17.7㎞の延伸開通に20年を要したという事実は重い。
それは、この区間が難工事だったことに加え、沿線の旅客需要が極めて小さかったことも物語っており、事実、JR西日本管轄の非電化区間は、度々、災害に見舞われ運休している他、近年では北陸新幹線開業の陰でバス代行による社会実験も行われており路線存続の危機にある。
それはさておき、風景もこれまでの田園風景から里山風景に変わるとともに、所々に残雪が見られるようになってきた。
生憎、天候は曇りがちだったため、楽しみにしていた山岳風景は全く見えなかったが、仁科三湖を車窓に眺めつつ進む区間を中心に、冬の名残を留める早春の車窓風景を楽しむことが出来た。
信濃大町駅までは混雑していたこともあって車窓風景の撮影もままならなかったが、信濃大町駅を出た後は、多少の撮影を行うことが出来た。


大糸線を「ちゃり鉄」で走る場合、この仁科三湖の辺りやJR西日本管轄の非電化区間などで駅前野宿をしたいと思っているので、その適否を調査するという意味でも、車窓に釘付けになる。
簗場駅を越えて青木湖の東岸を周り込み、樹林帯を蛇行しながら降り始めると南神城駅。
この区間で信濃川水系から姫川水系へと転じる。
信濃川も日本海に流れ出すので中央分水嶺ではないのだが、日本一長い河川だけあって、長野県内では枝状に分岐して県北西部の飛騨山脈に谷を刻み込んでおり、青木湖もまた、その源流の1つなのである。
この分水界を越えたところから目に見えて残雪の量が多くなった。
南小谷駅には13時6分着。
ここで電化のJR東日本から非電化のJR西日本へと乗り継ぎになるのだが、1時間37分の乗り継ぎ待ちとなる。
この周辺に温泉施設などはないので1時間37分だと少し持て余すが、昼食を兼ねて街をぶらぶらしながら過ごす計画としていた。ここまで乗ってきたのは結局10人程度だったが、乗り継ぎ待ちは5名ほど。他は迎えの車に乗ってそれぞれ立ち去って行った。



食事をするために街に出てみたものの、駅前はもとより、姫川対岸の集落にも飲食店は少ない。
辛うじて営業していた蕎麦屋に立ち寄ったところ、売り切れで蕎麦はないというのだが、他にお店もないのでここで定番のかつ丼を食べることにした。
若者2組の先客があったが、うち1組はアジア系の外国人の若者たち。こうした地域でも外国人を見かけることが格段に多くなったように思う。
この辺りを歩くのは初めてだが、白馬大池駅の西にある栂池高原スキー場には、金沢に住んでいた時代に家族でスキーに訪れたことがある。
父親の運転で一面真っ白の北陸自動車道を金沢西インターから糸魚川インターまで走り、そこから国道に入って姫川沿いを遡ったので、この南小谷の集落も通過しているはずだ。
あの時、北陸自動車道の親不知付近の景観や姫川沿いの国道の景観には驚かされたものだが、以来、約35年ぶりの来訪。
いずれここを「ちゃり鉄」で走ることになるが、大糸線の現状を考えれば、数年以内には計画を立てることになると思う。
小一時間の散策を終えて駅に戻るが、まだ、時間があるので、駅裏の高台の方にも足を伸ばしたりして過ごす。
乗り継ぎ待ちの人も駅の周辺で見かけるが、それぞれ、暇を持て余している様子であった。




この日は霧雨交じりの曇天で風も強く、気温も低かったので、頃合いを見て駅に引き上げると、程なく、糸魚川からの列車がやってきた。
こちらは単行気動車であったが、意外と乗客が多く、ローカル線で見かけることが少ない若い女性のグループなども居る。
新幹線開業によっても糸魚川方面からの観光流入が根本的に改善している様子はないが、こうして若い女性グループがやってくるというだけでも、効果はあると言えるのかもしれない。
ただ、この駅での乗り継ぎは極めて悪く、それが、鉄道敬遠の一因になっている面もあるだろう。降りてきた人々も、向かい側に停車している普通列車に乗り継ぐのではなく、実証実験中のバスに乗り換えていく。
1時間以上も乗り継ぎ待ちが発生するダイヤなのだから、それは仕方ないと言えるが、経営・投資側にこの路線を維持活用する意思がないことの証左とも言える気がする。民営化とはそういうものなのだから仕方ないし、国鉄を廃して民営化したことの当然の帰結とも思えるが、結局、上下分離化の議論に戻って来るところを見ると、民営化もまた当然のように失敗していると感じている。
少し早めにホームに入り、自転車を車両前部に収めているうちに、その姿を見ていたのか、駅舎で列車待ちをしていた人も、三々五々、ホームの方にやってきて列車に乗り込んでくる。
ここで、同じ列車に乗り合わせてきた男性から声を掛けられ暫し談笑。
お互い同じような嗜好で旅をしていたようで、その男性もまた、自転車輪行をしながら鉄道沿線を走るのが好きなのだという。
鉄道ファンを見かけることは多いが、「ちゃり鉄」のようなスタイルの旅を好む人はあまり見かけないので、話が盛り上がった。


南小谷駅は14時43分に出発。
今回は北小谷駅で途中下車して、近くの道の駅にある「深山の湯」で一浴していく計画としていたので、予め車両前部に座っていたのだ。
もし糸魚川駅まで乗り通すなら、自転車は最後部の運転席横のスペースに収めることになる。混雑する路線の場合、前の方に自転車を置いていると人の通行の妨げになるが、この列車ではそういうことはなかった。
中土駅を出た後は姫川の険しい渓谷を車窓に眺めながら、大糸線最後の開通区間を進んでいく。
実際に車窓風景を眺めてみれば、並行する国道もスノーシェッドを連ねており、この区間の工事が難航したことも、旅客需要が殆どないことも、納得できる。
北小谷駅には14時57分着。
今日のうちに魚津まで行き、明日は富山地方鉄道に乗車するという例の男性に手を振って、一人、駅に降り立った。


「北小谷」という駅名が示すように、ここも小谷村内なのだが、何となく、別の村、別の県に入ってきたような気になる。JRの会社境界を越え、電化区間から非電化区間い入ったからかもしれない。
ここでも1時間39分の乗り継ぎ時間を確保したが、今回は、温泉に入っていくので、時間的には程よい間隔である。
駅に隣接して就労支援センターの建物と数棟の住宅があるが、集落や温泉地は対岸にあり、駅前は閑散とした雰囲気である。
それでも、この日は就労支援センターに人の出入りがあったので、無人峡という感じではなかったし、近くを通る国道はそれなりの交通量がある。
駅の中土方を跨ぐように国道の新小谷橋が架橋されているが、反対の平岩方にも小谷橋が架橋されている。
これらの橋を渡った対岸に来馬温泉や道の駅小谷があり、今回は道の駅に併設されている深山の湯に入る。これも温泉で付近の源泉からの混合泉だという。
この沿線には幾つかの温泉があるのだが、大糸線の駅からのアクセスを考えて、この温泉に入ることにした。
霧雨がぱらつく生憎の天気ではあったが、ブラブラと歩いて温泉まで辿り着き、一風呂浴びて温まったらブラブラと駅まで戻る。多少硫黄の香りがする、温泉らしい温泉で気持ち良かった。
自転車で長旅をする人の中には何日も風呂に入らない人も居るようだが、私は1日1回は風呂に入りたい。体をきれいにしたいというのもあるが、それ以上に、疲れの取れ方が違うからというのもある。
その帰路では南小谷に向かう普通列車が姫川の対岸を登っていくのを撮影。
新小谷橋の上から姫川を眺めると、来し方、南小谷方面は残雪を纏った山並みが、霧雨の向こうに寒々しく煙っていた。
駅に戻って次の列車の時刻を確認し、切符を確認すると、ポケットにも財布にも切符が見当たらない。駅舎の周りやホーム、線路にも落ちていない。となると、深山の湯で着替えた時に落としたのかもしれないが、今から施設に戻って確認する時間はない。
私はちょこちょこ切符を落とすのだが、決まって途中下車のタイミング。
切符を見せて途中下車し、それを一旦ポケットにしまって直ぐに出発していく列車を撮影するので、そのタイミングでポケットにしまったことを忘れてしまい、色々やっているうちに落としてしまうのである。
パスホルダーで良いものを探したいのだが、横長の切符にも使えるような具合の良いものが中々見つからず、同じ失敗を繰り返している。
この時は糸魚川までの区間の800円程度を追加で払えば何とかなるので、仕方ないと諦めて駅前の撮影をしていると、ふと見た先に何かの紙切れが落ちていて、それが私がなくした切符だった。
どうしてそこに落ちていたのか見当もつかないが、雨に濡れてふやけていたものの、何とか使える状態で手元に戻ってきたのでホッとする。際どいタイミングではあったが、出発10分前くらいに切符を見つけられてよかった。
ホームにバックパックや自転車を移動させて待つうちに、姫川の谷間を降ってヘッドライトを灯した普通列車がやってきた。北小谷駅16時36分発。







この先、大糸線は姫川峡谷の核心部を越えて行く。
北小谷駅から暫く右岸側を進むと長い真那板山トンネルに入り、それを抜けたところで左岸側に渡る。この上流付近に白馬温泉や白馬大仏があるが、温泉を通る車道は九十九折りの急登で葛葉峠を越えていた。
この道は現在は県道375号平岩停車場蒲原線となっているが、元々は国道148号線だった。私が家族で栂池高原スキー場に行った当時は、この旧国道を越えていたはずで、朧げに急勾配の雪道を越える道中で白馬大仏を眺めた記憶がある。
今日、国道148号線は複数の長大トンネルでこの難所を潜り抜けている。
平岩駅を出ると対岸に姫川温泉郷を眺める。
河岸近くに立地する古い温泉街だが、河岸はコンクリートで固められており、姫川の暴れぶりが偲ばれる。
この先、平岩駅と小滝駅の間の渓相はとりわけ険しく、鉄道も国道もスノーシェッドや橋梁、トンネルが連続し、所々で見られる渓谷には残雪が大量に残っていた。峡谷沿いに古くから街道が開かれていたものの集落は存在しない。
ここは長野県と新潟県の県境でもあり、日常的にこの付近を往来する生活動線は殆どないことが分かる。
この様相が落ち着くのは小滝駅を出た辺りから。
根知駅を出て大野トンネルを潜ると、少し姫川から離れて支流のニゴリスミ川に沿うようになるが、谷間から出て平野に出てくると、糸魚川市街地に近づいてきたのが車窓風景からも感じられる。
頸城大野、姫川の2駅に停車した後、糸魚川駅には17時21分着。
大糸線の旅を堪能することが出来た。
なお、「姫川」を称する駅は、JR函館本線にも存在した。私にとっては函館本線の姫川駅の方が馴染み深く、何度か駅前野宿で訪れたし、旅情駅探訪記も書いた。既に駅としては廃止されてしまったのが残念である。
大糸線の姫川駅は1986年11月1日の開業で、JR函館本線の姫川駅は1987年4月1日のJR北海道発足時に駅に昇格したが、それまでは仮乗降場で元々は信号場だった。
国鉄時代に同名の駅が存在したのかと思ったが、国鉄時代は駅と仮乗降場の違いがあったので同名でも問題なかったし、それも僅か1年に満たない期間の話。JR発足後は同名駅となったが、会社が異なることから問題にならなかったのだろう。




この糸魚川でも59分の待ち合わせ。
旅の時は安否報告も兼ねて伴侶にこまめに連絡するのだが、「中々、進まないのね」と笑われる。
駅の周辺で夕食を済ませていく予定だったのだが、新幹線駅が開業した割に駅周辺の賑わいは乏しく、この日は人の姿も疎らだった。営業している飲食店も少ない。
店を探しつつ海岸まで辿り着き、そこで展望台に登って夕日を眺めてから駅に戻る。
今日一日、ずっと曇天霧雨のパッとしない天気だったが、海岸から眺める西の空は雲が途切れていたので、明日は予報通りスッキリと晴れてくれることだろう。
結局、目ぼしいお店は見つからず、駅のコンビニで弁当とおにぎりを買って、誰も居ないホームで食べるという、ちょっと侘しい夕食を済ませることになった。
駅舎の建物には大糸線で活躍したキハ52形車両が待合室も兼ねて静態展示されている。
このキハ52形は大糸線の他、飯山線、岩泉線などでも乗車した記憶があるが、私の好きな車両の1つだった。
こうして活用されているのは稀有な例でもあり、また、恵まれた車両だとも思う。
その待合室には女子高生らしい2人が居てスマホをいじっていた。キハ52形には何の興味もなさそうだが、それはそうだろうと思う。




誰も居ないホームで弁当を食べ終えて泊方面に向かう列車の到着を待っているうちに、対向列車の発着もあって、少しずつ、ホームに人の姿が見え始めた。
糸魚川駅は18時20分発。えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの普通列車がこの日の行程の最終ランナーである。
途中、青海駅に停車して2駅先の親不知駅には18時32分着。丸一日移動するだけの行程ではあったが、こういう旅も久しぶりなので新鮮だった。
親不知駅は2007年に自転車の旅で通りかかったことがあるが、通過しただけで駅前野宿などはしたことがなかった。今回の主な訪問先は富山県内の鉄道路線ということにはなるが、初日に訪問を予定している富山地方鉄道本線の宇奈月温泉駅から先は、この時期は黒部峡谷鉄道経由で奥地に抜けていくことが出来ず、折り返しが必要になる。
沿線では内山駅での駅前野宿を計画していたので、その内山駅までの距離なども勘案して、この親不知駅を出発地点として、この日はここで駅前野宿とすることにしたのである。



この親不知駅は現在はえちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの駅となっているが、私にとっては北陸本線の駅という印象の方が強い。
かつては数多くの優等列車が駆け抜けていったであろう駅のホームも、普通列車の往来を待つばかりで持て余し気味であるが、時折通過していく貨物列車が幹線だった時代の面影を今に伝えている。
このように電気機関車が牽引する長大編成の貨物列車が通過することもあり、この付近は北陸本線時代と変わらず電化区間であるが、えちごトキめき鉄道の普通列車は単行気動車化されており、北陸本線時代とは大いに印象が異なる。
ただ、この区間に乗り入れてくるあいの風とやま鉄道の車両は複数車両を繋いだ電車で運転されており、往時の北陸本線の面影を辛うじて今に伝えている。
また、えちごトキめき鉄道は国鉄型車両をJRから引き継いで観光列車として運用に回しているようで、これは勿論、北陸本線時代の姿を今に伝える貴重な姿である。
駅の近傍には歌集落があり、この駅の日常的な利用者は概ねその集落の住民と思われるが、私が下車した列車から一緒に降り立った人は居らず、この駅もまた、利用者は極めて少ない駅だと思われた。
ただ、付近の親不知海岸への最寄り駅であり、栂海新道を経て飛騨山脈主稜線に達する縦走路の日本海側の起点にもなるため、そういった観光目的の人の乗り降りは多少あるのだろう。尤も、この時間に乗降する観光客が居るとも思われない。
明日の朝はこの親不知駅から自転車で走り始めるので、駅の撮影を行いつつ輪行してきた自転車を組み立て、キャリアに荷物を積み替えていく。今日は夕食は済ませているし、明日の朝はパン食で飲み物は駅前の自販機で購入するので、自炊用具もサイドバッグにパッキングしてしまう。
その間、北陸自動車道を通る車の音は間断なく聞こえ、時折、貨物列車が通過していったが、駅前の集落道を通る車はなく、訪れる人の姿は無かった。
列車の発着本数は少なくはないので、その発着の旅にホームに出て撮影するのだが、この駅で降り立つ人の姿は無い。
最終列車は市振方面が22時50分、糸魚川方面が23時40分と遅いので、程々まで撮影を行った上で、遅くならないうちに野宿の寝床に入って休むことにした。




ちゃり鉄30号:2日目(親不知-泊-雁蔵-宇奈月湖-宇奈月温泉=内山)
2日目は走行初日。
親不知駅から親不知海岸を経てあいの風とやま鉄道の泊駅に至り、そこから雁蔵集落に回り道をしつつ、宇奈月湖まで飛騨山脈西麓に沿って登り詰める。
今回は、それ以上奥地には入ることが出来ないので、ここで折り返して富山地方鉄道本線の「ちゃり鉄」に入り、少し降った内山駅で駅前野宿の予定である。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日のルートの序盤は親不知海岸付近のアップダウン。北陸本線旧線の親不知隧道跡付近が標高100m弱でかなり高い位置を通過している。
その後、30㎞~33㎞付近は七重滝や池の原付近のアップダウン。
ここから峠を降って朝日小川扇状地を越えて黒部川扇状地に入り、登り詰めた先が宇奈月湖付近である。これは55㎞付近だ。
そこから一旦降って宇奈月市街地に入り、登り返しを経ながら降っていって内山駅へ。
距離は比較的短く63.4㎞。累積標高は+2354m、-2206mであった。
翌朝はまだ暗いうちから出発準備をする。泊行きの普通列車の始発が5時25分とかなり早いのである。30分前には駅前野宿を片付け、15分前には自転車のパッキングも概ね終了させて始発列車を迎えるようにする。
朝早い駅利用者の利用の妨げにならないようにするための、私なりのルールである。
5時台に親不知駅に発着する普通列車は泊行きが2本で、それぞれ25分発と46分発。
6時台に入って6分の直江津行き、9分の泊行き、41分の直江津行きの後が、54分の金沢行きで3県3鉄道に跨る列車となる。
今回はこの9分の泊行きまで撮影して駅を後にすることにしたのだが、その合間に親不知駅を通過する降り貨物列車も撮影することが出来た。
5時台の駅舎は黎明の大気の底で眠たげな表情。発着する列車にも乗客の姿がなく、さながら回送列車のようであったが、6時台になると辺りはすっかり明るくなり、朝の顔になってきた。
文化財駅舎の親不知駅舎を撮影したりして6時18分発。「ちゃり鉄30号」の実質的なスタートを迎えた。





親不知駅から向かうは西向きなのであるが、私は一旦、逆向きに走って歌集落に入り、その奥に鎮座する羽黒神社に参拝した。
駅前野宿の際には、駅前野宿の一夜への感謝も込めて、出来るだけその駅の所在地となる集落の神社を訪れていくようにしているからだ。
高台にある羽黒神社の境内からは、日本海の荒波を逃れて谷間に身を寄せ合うようにして佇む歌集落の家々の向こうに、北陸自動車道の高架橋を眺めることが出来た。
この境内からの風景も様変わりしたことだろう。
参拝を終えたら再び親不知駅に戻り、今度は西に向かって通り過ぎて、目的地に順行する。
途中、道の駅親不知ピアパークと北陸本線旧線の親不知隧道跡を落石覆いが連続する国道8号線で繋いでいきながら、親不知海岸の名前の由来となった険しい海岸線の様子を肌身に感じていく。
このエリアを自転車で走るのは19年ぶりだが、前回は「ちゃり鉄」以前の旅の道中だった。
険しい海岸風景は当時と変わらないが、北陸新幹線が開業して並行在来線は経営分離されており、地域の交通体系は大きく変貌を遂げた。
道の駅を過ぎて暫く西進した後、国道が鉄道を跨ぎ越す地点があり、この先、市振集落の東端までの区間が、親不知海岸の核心部と言える断崖絶壁区間になる。
国道はトンネルや覆道が連続し、海岸を避けて海食崖中腹にまで逃げているが、それでも平坦地はないため、断崖絶壁を削って難所を克服している。
鉄道はこの区間に旧線と新線があり、新線は長大なトンネルで内陸側を一気に抜けているが、旧線は海食崖の中腹に短いトンネルと橋梁を連ねて抜けていた。
今日、その廃線跡の一部が遊歩道として開放されており、今回はその部分を歩くとともに海岸の波打ち際まで降りる計画としていた。
今回は旧線の「ちゃり鉄」ではないので、この部分は一部の探訪のみではあるが、親不知駅を起点にした理由でもある。



道の駅を越えて核心部に入っていく直前の山手に、明らかにそれと分かる旧線隧道跡の坑口が見える。これは大崩隧道。坑口に立ってみると出口側の明りが見えているし、車の轍もトンネル内に伸びていた。
通り抜けることも出来そうだったが、今回は坑口のみを撮影して先に進む。
この隧道跡付近から国道も覆道に入り、徐々に高度を上げていく。
風浪川の谷に出たところに親不知記念広場があり、ここから、親不知海岸の核心部を遠望することが出来るが、この付近にある天険トンネルの名が体を表すように、ここから眺める親不知海岸は、どうやっても海岸沿いを通過することが不可能なように見える。
それでも先人はここに道を開き、鉄道を敷いたのだから、その執念と技術には感服せざるを得ない。


この谷を巻いていく部分もよく見ると北陸本線旧線の橋脚や隧道の坑口が見えているが、今回は上から眺めるだけで先に進む。
覆道で更に高度を上げて天険トンネルに入る手前で、右手に親不知観光ホテルが見えてくるが、ここで観光ホテル側に分岐する旧国道に入る。今は、遊歩道化されている道だ。
この分岐の反対側には栂海新道の起点があり、飛騨山脈全山縦走の際の日本海側の登山開始地点になっている。そう遠くない将来に、この縦走は成し遂げたいと思っている。
この旧道を暫く走ると、北陸本線旧線の親不知隧道跡に向かう遊歩道が2か所で山を降っていくので、市振方の入り口から階段を降ってアクセスし、親不知方に向かって隧道跡を抜けた。
旧隧道は照明も完備しており、路盤部分は多少の補修もなされているので歩くのに苦労はないが、備え付けの懐中電灯は光量が不十分なものもあるので、ヘッドライトを携行している方が無難だ。
5分ほどで親不知方の坑口に達すると、小さな沢を挟んで向かい側に風波隧道の落石覆いとその向こうの坑口が間近に見える。この風波隧道は解放されていないが、縄梯子が掛かっていたので、廃線探索家などは坑内に立ち入っているのであろう。
私はこの光景を眺めて写真撮影を済ませたら、道路側から降ってくる階段を伝って水際まで降りてみた。
ここには小さな浜が広がっていて、釣り人が1人居たが、浜の両脇は岸壁に阻まれており、クライミングなしでは移動は出来ない。
浜と言ってもごろた石の浜で砂浜ではなく、歩くのは難儀する。
ふと見ると、市振方の岸壁に古いコンクリート製の階段の残骸が残っていた。
かつては遊歩道が設けられていたようではあるが、既に侵食されて失われており、道の体は成していなかった。
「親不知」とは「親は子を、子は親を、顧みて守る余裕もないほどの難所」というところから名付けられた地名で、「親不知子不知」と表記されたりもするのだが、地形の変化はあるにせよ、こんなところを本当に伝い歩きしたのだろうかと思わせる。
北海道にも蝦夷親不知と呼ばれる交通の難所があるが、その総本山とも言えるのが、この新潟県の親不知子不知の海岸。確かに、凄い景観の海岸であった。





今回は比較的浅い探訪計画だったので、道なき断崖の踏査などは行わず、これで親不知探訪は終了。7時6分着、7時40分発で、6.5㎞であった。
旧道を走り抜けて国道の覆道に戻り、そこからは降り基調になって市振集落の東の端に達して、この天下の険の難所を走り終えた。
国道脇の広場から振り返ると、来し方彼方まで延々と覆道が続いている様が印象的であった。
白髭神社にお参りしてから、市振駅には8時3分着。12㎞。
かつて金沢に住んでいた頃、冬の天気番組で大荒れの実況が流れると、よく、市振駅構内で線路に波が入り込んで北陸本線が運休というニュースが伝えられていた。
その頃から市振駅という名前は印象に残っていたのだが、駅を訪問するのはこれが初めて。新潟県の駅ではあるが、あいの風とやま鉄道とえちごトキめき鉄道との境界駅となっており、管轄はえちごトキめき鉄道である。
構内踏切を伴った市振駅は、ホーム越しに日本海を見渡すことが出来るが、風浪を防ぐための防風防波柵も張り巡らされていて、一望というわけにはいかない。
それでもこの日は穏やかな晴天ということもあり、気持ちの良い旅情駅の佇まいであった。
折しも泊行きの普通列車が2両でやってきて、乗客1名が乗り込むところ。
この駅も親不知駅と同じく文化財駅舎を伴っているほか、構内にあるレンガ造りのランプ小屋も、同じく文化財指定を受けているという。
新潟県最西端のこの駅では、いずれ、駅前野宿を行ってみたいと思う。
市振駅8時21分発。





市振駅を出た後は穏やかな海岸沿いを進み、境川で新潟県から富山県に入る。
この富山県に入って最初の駅、つまり、富山県最東端の駅が越中宮崎駅。
ここも市振駅と同じく、日本海に程近い海岸沿いの駅だが、駅構内からは防砂林などに遮られて海の展望は開けない。
それでも何となく海の気配と潮風の香りを感じる穏やかな駅である。
ここでも隣接する境集落の高台にある境神社に立ち寄ってから、越中宮崎駅には8時45分着。17.2㎞。
列車発着の合間時間だったため、この駅では人の姿は見かけなかった。
駅前から海岸は直ぐで観光交流施設のヒスイテラスを右手に、堤防の向こうには海が見えている。
海岸まで出てみると風光明媚な砂浜が広がり、来し方遠くには親不知海岸の懸崖が連なっているのが見える。
海水浴場も開設される砂浜は、オフシーズンではあるもののヒスイ探しや釣りに興じる人の姿があって、穏やかな朝を迎えていた。
この越中宮崎駅付近には境鉱泉という温泉施設があったが、残念ながら既に廃業。近くに宝温泉という温泉旅館もあるが、こちらは経営者が外国人に変わったとかで、評判はまちまち。
それでも営業している温泉施設があるというのは魅力的で、この辺りの駅は、飛騨山脈の登山も含めて、駅前野宿で何度でも訪れてみたいと思わせてくれる。
越中宮崎駅発8時58分。




続く海岸線の探訪は続く泊駅付近にあるダイヤ海岸までの計画であるが、その途中にある宮崎鼻では山麓の鹿嶋神社と宮崎鼻灯台に立ち寄った。
この鹿嶋神社の裏手から城山に向かう登山道が延びており、その途中で宮崎鼻灯台に分岐するのだが、登山道の入り口付近には北陸本線旧線の宮崎隧道跡が残っていた。
これは事前に調べていなかったので、現地で見つけて驚いた。
旧線は越中宮崎駅から現在は車道となっている道を直線的に進んできて旧宮崎隧道に入り、現在線よりもきついカーブを経て宮崎鼻を抜けていたようだ。
宮崎鼻灯台は樹林に囲まれて展望は開けないが、灯台訪問も楽しみの1つなので、これはこれでよい。登山道の途中には鹿嶋神社の奥宮らしい祠が1棟建っていた。
宮崎鼻を辞した後は海岸に沿って西進し、砂浜が広がるダイヤ海岸へ。
この辺りまで来ると、飛騨山脈から派生する尾根筋から離れ、小川や黒部川などの扇状地に入っていく。
ダイヤ海岸というのはgoogleMapでの表記だが、周辺集落地名は大屋なので、地理的には大屋海岸と書くべきだろう。ダイヤというのはヒスイとの対比で付けられたこじつけ表現という気がするが、一応、地元朝日町観光協会でも「ダイヤ海岸」という表現を使っているようだ。
この海岸付近からは飛騨山脈前衛の山並みが残雪を纏って青空に映えていた。結果的に、この日が一番きれいに山並みを眺められたものの、他の日は霞や曇雨天に祟られ、楽しみにしていた山岳展望は殆ど望めなかった。
その山並みを背景に、田圃の中に印象的な姿で佇んでいた大屋新神明社に参拝し、泊駅には9時52分着。23.8㎞。






泊という地名は全国に存在するが、多くは船の停泊地という意味合いに由来しており、近くに港津を伴っている。
この泊駅も泊町という地名由来で、その泊町自体は、やはり船泊に由来するとする説がある。
ところで「泊駅」というのは全国に3か所あって、他の2か所はJR山陰本線の泊駅が鳥取県、四日市あすなろう鉄道内部線の泊駅が三重県にある。
このうち、山陰本線の泊駅は官設鉄道時代の1905年5月15日の開業で、あいの風とやま鉄道の泊駅は国有鉄道北陸本線時代の1910年4月16日の開業である。
こういった場合、同名駅となって混同されることを防ぐため、後発の富山県の泊駅は「越中泊駅」などと命名されることが多いのだが、そうはならなかった。
その理由は明らかではないが、他にも「大久保駅」のような同様の事例はあるので、必ずしも、同一駅名になることを避けて駅名が決められたわけではないのだろう。
えちごトキめき鉄道とあいの風とやま鉄道の施設管理の境界は市振駅だったが、運行上の境界は泊駅となっており、この日もホームには両鉄道の車両がそれぞれ逆方向への出発待ちで停車していた。
富山平野の東端部に位置することもあり、北陸本線時代からこの駅を始発終着とする列車が設定されていた。その運用は今も続いているのだろう。
穏やかな天気が心地よい泊駅は9時57分発。


ここからは宇奈月温泉に向かって飛騨山脈東側の前衛峰山麓の扇状地を登っていくのだが、真っすぐに宇奈月温泉に向かうと、この日の行程が短くなりすぎる。
そこで、泊駅からは尾根向こうの笹川流域に入り、雁蔵集落から七重滝を経由し、池の原で尾根を越えて扇状地平野に戻って来るという迂回路を辿ることにした。
長閑な山村風景が広がる笹川集落で諏訪神社に参拝し、谷が二股に分岐する雁蔵集落を越えて七重谷川に入る。
この七重谷川の源流部は南保富士に突き上げているのだが、その付近に連瀑があることが地図に示されており、七重滝という地名が付されている。
この七重滝は林道から分岐する小道を辿り、更に登山道を辿って展望地点までアクセスすることになるのだが、地図に示されている実線の車道は滝の手前で消失していた。
展望地点からは梢越しに滝の一部が見える程度。
記録は少ないが沢登りでこの滝を遡行した記録も散見された。
なお「七重滝」のよみは「しっちゃ」であることが図示されている。
この七重滝付近から林道を登り、三峯グリーンランドというスキー場跡地を転用したキャンプ場を過ぎると峠になり三又に出る。左手に進むと南保富士の登山口に至るようだが、ここは右手の廃道のような道に転じて降っていく。
この辺りに池ノ原という地名が付されていて神社記号も記されているのだが、ここはかつて存在した池ノ原集落の跡地であり、石谷神社が現存しているので参拝していく。
ここからは落ち葉や落ち枝などでやや荒れた舗装路を、意外な急勾配で降り、新川小川による扇状地の平野に達する。
石谷神社、11時22分着、11時26分発。34㎞であった。





ここからは山麓に沿って宇奈月湖まで登り詰めていくのだが、最初は朝日小川、その次に黒部川による扇状地を通過する。
中学高校の地理の教科書に出てきた記憶のある地域だが、自転車で走ってみると、意外と傾斜があり、しかも登り勾配が続くので楽ではない。
お昼時ということもあり、朝日町内にあるバーデン朝日に立ち寄りレストランの営業を尋ねてみたが、コロナ禍以降は営業していないとのことで昼食は諦める。温泉も併設しているので入浴していくことを考えたが、この先、宇奈月温泉でも入浴する計画にしていたので、ここは時間を割かずに先に進むことにした。
黒部川が扇状地に流れ出すところに愛本集落があり、ここからは右岸側の県道328号線道を遡っていく。この時期、この先で冬季通行止めになっているのだが、自転車の通行に大きな支障はない様子だったので、そのまま先に進む。
途中、栗虫の集落があり、この集落の奥から音沢までの区間が冬季閉鎖となっているようだったが、自転車はチェーンゲートの脇から抜けられたので、そのまま右岸側を走り切り、音沢からは県道13号線に入る。
この県道13号線に入ると道路は黒部川沿いから斜面中腹に高度を上げていくとともに、スノーシェッドに覆われるようになる。
対岸には県道14号線と富山地方鉄道本線が通っており、折しも、走行中の列車の走行音が聞こえてきたりする。
左岸側にある宇奈月温泉街をパスして、登り勾配のトンネルを越えると、新山彦橋を渡ってトンネルを潜り抜けてきた黒部峡谷鉄道の線路が左手に現れる。
更に登り勾配のトンネルを1つ越えると宇奈月湖展望台に到着。
13時3分、54.6㎞であった。
この宇奈月湖展望台からは更に湖面橋を渡って奥地の尾の沼公園やとちの湯まで車道が通じているが、この時期は冬季閉鎖で通行止めなので、展望台から宇奈月湖の向こうに見える黒部峡谷鉄道の柳橋駅や新柳河原発電所の建物を眺めて引き返す。
黒部湖の展望台には数組のグループが居て散策したりお昼ご飯を食べたりしていた。
13時5分発。




ここから一旦降り、想影橋で左岸側に渡って宇奈月温泉街へ。
宇奈月温泉駅は橋上駅舎であるが、観光地らしい造りになっており、駅前には湯壺があって湯煙が立っている。
駅前からは一旦黒部峡谷鉄道の宇奈月温泉駅方面に進み、足湯を眺めた後は、市街地を見下ろす高台にある宇奈月神社に参拝。
その後、改めて宇奈月温泉駅に戻った。
この時期は黒部峡谷鉄道は冬期運休中で、宇奈月温泉から黒部峡谷方面に足を踏み入れることは難しい。私自身もそうだが、基本的にはここから引き返していくということになる。
それでも駅周辺には多少の観光客の姿があったのは、温泉があるからという特性によるところもあるだろう。
この日は昼食を食べ損なってきたので、この温泉街でお店を探すのだが、休業日の店が多く、辛うじて開いていた店はちょっと外れという感じで、面倒くさそうな応対と高めの価格と少ない量という、有名観光地にはありがちな昼食となった。
まぁ、それでも白魚のかき揚げ丼と汁物で、一先ず、昼食を済ませることは出来た。
順序が悪いが食事の後は宇奈月温泉の公衆浴場である総湯に向かい一浴。ここは観光案内所のある建物に温泉施設も併設されており、見た目は随分と現代的な建物になっている。
温泉で温まった後は、富山地方鉄道本線の「ちゃり鉄」に入るのだが、この日は営業駅としては2駅先の内山駅までなので残り距離も僅かだ。
総湯には13時54分着。15時9分発。58.7㎞。
時間的な余裕もあるので、少し長めに滞在した。
温泉街の中にあるコンビニエンスストアで駅前野宿の食材を仕入れて宇奈月温泉を後にする。





この日の目的地の内山駅までは、2つの貨物駅跡を経て、音沢駅、内山駅の順に停車する。
貨物駅跡は駅跡と言っても何も痕跡は残っていないし、確かな位置も定かではない。事前調査で凡その位置を推定してGPSに落とし込み、現地で地形を見ながら、大体このあたりだろうと検討を付けて写真を撮影する形が多い。
もちろん、位置が特定できる場合はその場所をピンポイントで訪れる。
音沢駅には15時37分着。62.5㎞。
1面1線の棒線駅で、待合室はなくホーム上屋があるのみの簡素な駅だ。
ただ、意外と駅の歴史は古くこの付近の地鉄の前身となった黒部鉄道時代に遡る1923年11月21日の開業である。
このタイミングで元京阪電鉄の10030形車両で運行されている普通列車がやってきたので発着を撮影。塗装は黄色と緑のツートンに変更されており、ファンの間では「かぼちゃ」などと称されることもあるようだが、京阪電鉄時代の面影も残っている。
このタイミングでは電鉄富山行きだったので、降車客は勿論ないし、時間的にも乗車客の姿もなかった。
付近には小さな集落があって民家が点在するが、音沢の集落中心部は黒部川対岸にあり、この駅は内山集落の南端部に位置する。
普通列車の発着を見送って「ちゃり鉄30号」も出発。15時49分発。




音沢駅は内山集落の南外れにあったこともあり、駅を出るとすぐに内山集落中心部に入る。
1㎞も走らないうちに内山駅に到着。15時53分。63.4㎞。
走行初日ということもあってこの日は計画距離も短くしていたので、まだ夕方というには早い時間帯に到着することが出来た。
この内山駅も音沢駅と同じ1923年11月21日の開業。
ただ、こちらは相対式2面1線で駅舎とホーム上屋を備えた構造となっている。
この駅舎は私鉄の駅らしく古色蒼然。
今の駅舎がいつ頃からの建物なのかは現段階では情報がないが、創業当時の駅舎が改修を受けながら使われているのではないかと考えている。
この内山集落付近にはかつて内山村があり村役場も置かれていたことが、旧版地形図で判明している。
この駅については旅情駅探訪記をまとめたいと思っているので、その際にでも詳細が分かれば記したい。
ローカルムードが心地よい内山駅ではあるが、地鉄本線の駅でもあり、列車の運転本数は少なくはない。概ね1時間に1本~2本で、朝は6時台に始発列車、夜は21時から22時にかけて最終列車が発着する。
2駅隣の宇奈月温泉駅で列車が折り返してくるので、宇奈月温泉駅行きが発着して暫くすると折り返してきた富山方面行が発着し、少し間が空いて再び宇奈月温泉行きが発着する、という流れになっている。
到着したタイミングでは16時7分の宇奈月温泉行きが先発する状況。
まだ、駅前野宿の準備を始めるには早すぎるので、自転車や荷物は駅前に留め置いて、着替えだけ済ませて駅の探訪や撮影を行うことにした。
駅舎は出札窓口や荷受台の跡が残っていて、往時の賑わいを偲ばせる。
ベンチには座布団が敷かれ、傘も何本か置かれている。備え付けの本棚もあり、清掃が行き届いていることもあって、地元の愛着を感じる。
駅舎の改札口越しに眺められる上り線ホーム側の上屋は小さな待合室となっていて、これもまた味わい深い。
雪の多い地域だけに、冬場の上り列車待ちの際などは、この待合室も頼もしいことだろう。
駅舎から少し離れた愛本駅方には厠と呼ぶに相応しい便所がある。
女性は利用を躊躇うような造りではあろうが、清掃は行き届いており、この手の便所によくみられるような不潔な印象は少ない。









探訪をしているうちに時間は過ぎ、程なくしてやってきたのは再び10030形。
この時間帯はこの形式の車両が運用の中心にあるようだった。
夕方に差し掛かる時間帯ということもあり、この列車からは地元の方が1名下車してきた。
私鉄は地域のローカル輸送を担う目的で敷設されたものが殆どなので、駅も集落に沿うことが多く、無人駅であったとしてもそれなりの利用があることが多い。ただ、短距離の利用客が多かったり、そもそもの経営基盤が小さかったりするので、経営難にあるのはどこも一緒だ。
この16時7分発の宇奈月温泉行きは、宇奈月温泉駅で直ぐに折り返してきて、16時27分発の電鉄富山行きとなる。
その折り返し列車の発着を見送って暫くすると、16時44分発の宇奈月温泉行きが、10030形車両でやってくる。これは17時5分の電鉄富山行きとなって折り返していく。
ちょうど帰宅の時間帯。運転間隔も短く、列車の往来は頻繁だ。





17時台に入ると辺りにも夕方の気配が色濃くなってくる。
まだ、空は昼間の明るさを保っているが、東に見える山並みはやや赤みを帯び始めており、既に尾根向こうに没して見えない陽光は、既に赤く染まり始めているのだろう。
この時間帯になると地鉄生え抜きの14760形の車両がやってくるようになった。
ファンの間では「大根」と呼ばれたりもするらしいが、私にとっては地鉄車両の代名詞のような存在だ。
旅客動線を考えれば駅に到着してからは宇奈月温泉行きの列車からの降車客がメインということになるが、ここまでは1名の降車を見たのみ。
上下ともそれなりに乗客の姿はあるものの、この駅での乗降客は少ない。
17時22分宇奈月温泉行き、17時45分電鉄富山行き、18時16分宇奈月温泉行き、18時37分電鉄富山行きと4本の列車を見送りつつ、その合間に夕食を済ませ駅前野宿の準備も済ませる。
18時過ぎに日没時刻を迎えるので、18時37分を見送る頃には、既に辺りは群青色の大気に包まれていた。
この時間帯から夜明けにかけての旅情駅の姿と一人対峙できることは至福と言って過言ではない。










この後の列車は電鉄富山行きが19時47分発と20時52分発、宇奈月温泉行きが19時26分発、20時17分発、21時21分発、22時25分発。
宇奈月温泉行きの21時以降の2列車は折り返し運用に該当する列車がないが、これらは回送されることなく宇奈月温泉駅で夜間滞泊し、翌朝6時2分、6時32分に内山駅を出発していく電鉄富山行きとなる。
対する宇奈月温泉行きの始発列車は6時49分だ。
こうした旅情駅では19時頃になるとすっかり人通りも絶え、深夜のような雰囲気になることが多い。
とっぷり暮れた駅で独り写真を撮影したり、旅費精算や旅程確認をして過ごすのだが、駅の周辺集落を散策しに出かけることもある。
空き家も目立つものの、現住民家は窓から明かりが漏れており、家族団欒の雰囲気を感じたりもする。ちょっと侘しくもあるが、一人旅ならではの夜の楽しみでもある。
とは言え、普段見かけない人が夜遅くに集落内を歩いていれば、住民の方に不安を与えてしまうので、行動には注意を要する。
この日は19時47分発の電鉄富山行きの普通列車を撮影したら行動終了。
駅前野宿の寝床に戻って眠ることにした。



ちゃり鉄30号:3日目(内山=電鉄黒部=石田港-生地鼻灯台-電鉄黒部=黒部=電鉄石田=浜加積-川城鉱泉-越中中村)
3日目は地鉄本線内を進みつつ黒部鉄道時代の廃線跡を一部辿り、滑川から生地にかけての海岸線も辿る。
この区間には古い木造駅舎が多く、駅前野宿をどこにするかは楽しくも悩ましい検討課題であったが、滑川市にある越中中村駅を選んだ。
魚津は中学生や高校生の時代に、毎年4月下旬に開催される魚津蜃気楼ロードレースに出場するため、何度も訪れた街だ。
金沢駅からJRの特急で魚津駅までやってきて、ゴール地点の魚津水族館付近まで走り、最寄り駅の地鉄西魚津駅から電鉄富山駅まで出て、そこからJRの鈍行で金沢駅に戻る形でロードレースに出ていた。
大した記録ではなかったものの、当時の中学生の部の大会新記録保持者となるなど、相性の良いロードレースだった。
そんなエリアを「ちゃり鉄」で走ることが出来るのが嬉しく、敢えて、この付近で駅前野宿を行う行程としたのである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


内山駅を出発した後、黒部鉄道時代に存在した石田港駅付近までは、ほぼ一辺倒の降り。
その後は小さなアップダウンがあるものの、標高差は30m内外でほぼ平坦と言ってよい。
この日も駅前野宿地の場所の都合で走行距離は66.5㎞と短め。
余裕のある日程となった。
一夜明けた内山駅はまだ眠りの中にあったが、東の空は青紫に染まっていて、夜明けの静謐な空気が辺りを包んでいた。
駅前野宿では日没から夜明けの時間帯に旅情駅と向き合うことが出来るのだが、それは、一番旅情あふれるひと時でもある。
朝一番の列車は6時2分の電鉄富山行き。
この列車の到着30分前までには駅前野宿を撤収し朝食も済ませる目安で行動するので、起床は4時半頃。
「ちゃり鉄」の朝は早い。
その朝食・撤収作業の合間に、静謐な空気に包まれた内山駅構内を散策しつつ、駅の撮影を行った。



夜から朝にかけての大気の移り変わりも劇的で、ほんの15分程度の間に、その色合いや感触が変化していく。
散策と撮影を終えて撤収と積載を済ませる頃には、駅を包み込んでいた夜の名残を残す青い空気が一掃され、朝の空気に包まれるようになる。
辺りの森からは野鳥のさえずりが聞こえるようになり、活気が満ちてくる。
普段の生活は夜型にシフトしやすいが、「ちゃり鉄」で旅をしていると、朝型の生活リズムに合わせていく方が体に合っているように感じる。
始発列車は6時2分発の電鉄富山行き。
隣の音沢駅付近でタイフォンを鳴らしてくるので、列車の接近を察知することが出来る。
やがてレールを軋ませてやってきたのは元東急の17480形。
昨日の撮影時間中には見かけなかった車両なので、就寝後に宇奈月温泉駅に向かっていったのだろう。
この日は土曜日ということもあり、始発列車に乗車する人は現れなかったが、この列車の発着を待って、「ちゃり鉄30号」も出発することにした。
久しぶりの私鉄の旅情駅での駅前野宿。
味わい深い内山駅でのひと時の思い出を胸に6時4分発。



内山駅を出て黒部川左岸を北上していくと、ちょうど峡谷が開けて扇状地に出る地点に愛本の集落があり、そこに愛本駅がある。
この駅も木造駅舎で黒部鉄道の手によって1923年11月21日に開業。
凝った意匠の駅舎には、この駅を設計した人の思い入れが感じられる。
内部は内山駅と同様の年季ある佇まいだが、こちらの方は天井も高く、大正ロマンを感じさせる構造であった。
この付近は関西電力の発電所や変電所が立地しており、愛本駅に隣接するのは関西電力新愛本変電所。
この愛本駅付近にも小さな集落があるのだが、内山城跡の尾根を挟んで北側にも集落が存在しており、これらを合わせて愛本集落を成している。
駅前には民家が1軒。
駐輪場もあるが自転車は1台も停まっておらず、利用者はごく少ないことが伺い知れる。




愛本駅を出発して、小さなトンネルで内山城跡のある尾根を潜り抜けると、富山平野に戻って来る。
この付近の路線の南側の山並みは飛騨山脈主脈からは外れるが、立山・剱岳から毛勝山、僧ヶ岳、烏帽子山などを経て伸びてくる支脈の末端部である。
この山麓に沿って西北西から西に向かって電鉄黒部駅を目指すのが、この日の序盤行程。
途中、下立、下立口、浦山、栃屋、若栗、舌山、新黒部、長屋、荻生、東三日市を経て、電鉄黒部に達する。なお、下立~三日市(現・JR黒部)間は1922年11月5日の開業で、新黒部駅を除く各駅は、その開業時に設置されている。
下立集落の東口に当たる下立駅に到着するタイミングで山稜線に朝日が顔を出し始め、本格的に1日が始まった。
早朝の青い空気は一蹴され、橙色から金色へと風景が染まっていくとともに、日差しに力強さが増してくる。
ラジオ体操ではないが「希望の朝」という表現が似つかわしい。
下立駅は棒線駅で駅舎はないが、ホームには出入り口が2か所ある横長の待合室がある。この構造の待合室は地鉄に複数あり特徴的だ。
ここでは電鉄富山行きの普通列車の発着の様子も撮影することが出来た。
集落西口に当たる下立口駅との間に下立神社があるので、朝日を浴びて輝く拝殿を訪れて一日の無事を祈願する。
既に富山平野東部に出ており、付近は山村風景から田園風景に変わっているが、神社の周辺は社叢林による神域が保全されていることもあり、神秘的な雰囲気が漂っていることが多い。
神社や小学校跡などを巡るようになったのは、「ちゃり鉄」の旅を始めてからだが、駅と密接な関係を持つ周辺集落の成り立ちを調べていくと、集落成立の初期から、神社や小学校が存在している事例が非常に多い。
それらを含めて訪れていくことが「ちゃり鉄」の旅だと感じている。
この下立口駅は富山方から見て下立集落の入り口という意味合いだろうか。
この駅も棒線駅であるが、少し離れたところにある踏切から眺めた駅周辺の風景も好ましい。







続く浦山駅は木造駅舎を伴った島式1面2線の交換可能駅。
この駅舎も古びてはいるが清掃は行き届いており、荒れた感じはしない。
ホームには小さな待合室が備えられているが、朝日を受けて佇む姿は好ましいものだった。
続く栃屋駅は緑色に塗られた待合室が印象に残る。
棒線駅で駅舎はなく、待合室は1面開放の造りとなっていて、扉を閉じることは出来ないが、待合室内は小綺麗に片付けられており、両隅がやや奥まった造りになっているので、風雪風雨の際も凌げそうではある。
若埜神社に参拝してから到着した若栗駅はこじんまりとした駅舎を伴う棒線駅。但し、駅構内には貨物側線が残されていた。
この若栗駅で時刻表を確認すると、間もなく、電鉄富山行き普通列車がやってくる。
この電鉄富山行きは次の舌山駅で宇奈月温泉行きと行き違い、その宇奈月温泉行きが直ぐに若栗駅にやってくる。
そこで、この2本の列車を撮影すべく、駅での滞在時間を少し延長した。
電鉄富山行きには利用者が1名、宇奈月温泉行きには乗降なし。
それにしてもローカルムードが心地よい鉄道風景であった。
この若栗駅で7時29分着、7時38分発。8.8㎞であった。
それなりの数の駅を経てきたが、私鉄だけあって駅間距離が短く、まだ10㎞未満であった。















若栗駅から舌山駅、新黒部駅の間は駅間距離が短い。
相対式2面2線の舌山駅も古色蒼然と言った感じの駅舎を備えている。駅前は農協の倉庫となっており、駅が集落の物資や人々の集散拠点だった時代の面影が色濃い。
上り線ホーム側には構内踏切を通ってアクセスする構造だが、その構内踏切越しに眺める駅舎の姿は実に味わい深い。
先ほどは若栗駅で上下列車それぞれが交互に発着する様子を撮影してきたが、この舌山駅では交換が行わる。それも興味ある鉄道シーンである。
続く新黒部駅は北陸新幹線の開業に合わせて新設された駅で、2015年2月26日に開業した。北陸新幹線の黒部宇奈月温泉駅の開業は2015年3月14日なので、新黒部駅の方が少し早く開業したことになる。
新幹線開業に伴う新設駅なのであるから、両駅の駅名を同一にすればよいところであるが、新幹線駅の名称として公募採用された「黒部宇奈月温泉」の名称を採用すると、地鉄本線の終着駅である「宇奈月温泉」の名称と混同されてしまう。
そういったこともあり、新幹線の駅名として全国的にも事例が多い、「新」を冠した「新黒部」という仮称駅名がそのまま営業駅名として採用された経緯がある。
一方の新幹線でも「新黒部」は候補に挙がっていたが、ここに駅を設ける理由の一つが地鉄本線と接続して宇奈月温泉や黒部峡谷に接続することにあるため、「黒部宇奈月温泉」という駅名が最多となったのであろう。
新黒部駅はこういう経緯で設置されたこともあり、舌山駅からの営業キロ数が300mしか離れておらず、軌道線を除けば、富山地方鉄道の路線の中で最も駅間距離が短い区間である。
この新黒部駅前には黒部峡谷鉄道の車両が静態展示されていた。
黒部峡谷鉄道は金沢に住んでいた小学生時代に家族旅行で訪れて以来ご無沙汰しており、「ちゃり鉄」での走行は勿論、宇奈月温泉から欅平までの沿線を徒歩で訪れるのも不可能に近いが、立山連峰に抜けるルート計画で登山メインの「ちゃり鉄」で訪れてみたいと思っている。





この新黒部駅付近で北陸新幹線、北陸自動車道の高架を連続して跨ぎ、黒部市の中心市街地に入っていく。
長屋駅ではラッピング塗装が施された14760形車両の発着シーンに遭遇。
一見すると、京王電鉄の中古車両のようにも見えたが、れっきとした地鉄生え抜き車両である。
この長屋駅は1面1線の棒線駅。
ホームに待合室があるが、駅舎と言えるくらいの造りになっている。ただし、改札口や駅務室の跡はないので、設置当初から無人駅だったように見える。
続く荻生駅は一見すると近年の新設駅のように見えるが、駅自体は他の駅と同様、黒部鉄道時代の開業である。
元々は相対式2面2線構造で、線路の北側に駅舎があったようだが、周辺中学校の統廃合に伴う利用者の増加と、踏切通行をなくす便宜から、1面1線化と線路南側への駅舎移転新築工事が行われたのだという。
この供用開始が2019年12月25日のことで、それ故に、近年の新設駅のように見えたのだが、元々は古い木造駅舎が設置されていたようだ。






黒部市の中心地にあるのが東三日市、電鉄黒部の2駅である。
「東三日市」はあるのに「西三日市」や「三日市」はないのが不思議に思えるが、実は、電鉄黒部駅は開業当時は西三日市駅を名乗っていて、電鉄桜井駅への改称を経て現在の電鉄黒部駅に再改称したことによって、東三日市駅のみが存在するようになったのである。また、現在のあいの風とやま鉄道黒部駅は開業当時、三日市駅を名乗っており、黒部鉄道は三日市~西三日市間も1922年11月5日に開業させている。
むしろ、黒部鉄道は現在は黒部駅と称されている三日市駅から宇奈月温泉駅を結んだ私鉄路線だったのである。
つまり、元々は「三日市」、「西三日市」、「東三日市」が存在したわけで、何も不思議なことはないのである。
ただ、そうは言っても現在の電鉄黒部駅と黒部駅の位置関係を考えると、西にある「三日市駅」から東に進んだところに「西三日市駅」、更に東に進んだところに「東三日市駅」が存在したことになり、そこには疑問が生じる。
この疑問を解く鍵は、この「三日市駅」が1910年4月16日に国有鉄道の手で北陸本線の駅として開業したという歴史に秘められている。
国有鉄道によって設置された三日市駅の位置は三日市町の中心地から少し西に外れた位置にあったため、黒部鉄道は国有鉄道の三日市駅を起点として路線を敷設し、三日市町の中心部西側と東側にそれぞれ駅を設けたのである。もし、1駅のみを設けたなら「本三日市駅」などと称していたのではないかと思うが、いずれにせよ、そういう経緯故に、西から順に「三日市」、「西三日市」、「東三日市」の3駅が設けられたのであろう。
この黒部鉄道による路線開業当時、富山、魚津方面から黒部方面に繋がる現在の地鉄本線に該当する路線はまだ開業しておらず、その区間の輸送は国有鉄道の手に拠っていた。但し、滑川~江上(現・新宮川)駅間は立山軽便鉄道の手によって1913年6月25日に開業していた。この立山軽便鉄道は1917年6月26日には立山鉄道に改称しているので、以下では特に断らない限り、立山鉄道という名称で記載する。
イメージとしては国有鉄道の三日市(現・黒部)、滑川両駅から、それぞれ、宇奈月温泉、立山(岩峅寺)に向か小私鉄路線が分岐していたという形になる。
その滑川から黒部鉄道の西三日市までの間は、富山電気鉄道の手によって1936年10月1日までに全通しているが、この時までに、富山軽便鉄道と富山電気鉄道の手によって、富山~滑川間の空隙区間も開業しており、私鉄路線によって富山から西三日市を経て宇奈月温泉に至る路線が全通していたのである。
「三日市」の不思議はそれで解消するが、電鉄桜井や電鉄黒部という駅名への改称はどうであろうか。
これも歴史的な経緯を追いかけると流れが見えてくる。
ここも時系列を整理しておくと、町村制の施行による下新川郡三日市町の発足が1889年。西三日市駅と東三日市駅は、この三日市町時代の1922年11月5日に黒部鉄道の手によって開業している。
その後、1940年2月11日に下新川郡三日市町他の7村が合併して下新川郡桜井町が発足した。
西三日市駅が電鉄桜井駅に改称されたのは1951年6月25日なので、桜井町発足から11年後のことになるが、元々の地名である三日市町は現在まで存続しているので、改称の必要性も強くなかったのであろう。
その後、1954年4月1日に桜井町と生地町が合併して黒部市が発足した。
電鉄黒部駅への再改称は1989年4月1日であるから、ここでは35年のタイムラグがあるが、元々黒部鉄道が起点としていた「三日市駅」は1956年4月10日なって「黒部駅」と改称している。
この時期には「西三日市駅」は電鉄桜井駅に改称されていたが、改称から5年で再び駅名称を解消するというのも混乱を生じることであろうし、既に国鉄駅名に使われている「黒部駅」という駅名を使用することは出来ない。そもそも、自治体名の変遷こそあれ、この付近のローカルな地名は変わらず三日市町である。
それ故、この時期には、西から「黒部」、「電鉄桜井」、「東三日市」という風に、付近の自治体名を遡るような形で駅が存在していたことになる。
そして、この黒部~電鉄桜井間の路線廃止が1969年8月17日のことであるが、既に述べたように、その創業時には三日市から宇奈月温泉を目指した黒部鉄道も、この時期までには富山地方鉄道に統合されており、富山から宇奈月温泉までが1つの鉄道会社の路線として繋がっていた。黒部~電鉄桜井間の創業路線を支線の扱いで存続しておく必要性も乏しかったに違いない。
ダイジェストにしては脱線が長くなったが、このように、地名、駅名、鉄道会社、それぞれの変遷を追いかけていくというのも、「ちゃり鉄」の楽しみである。
電鉄黒部駅、8時46分着、8時53分発。14.1kmであった。







ここまで述べてきたように、現在の地鉄本線は、この電鉄黒部駅を境に、系譜の異なる鉄道会社によって敷設されてきた。そして、三日市~宇奈月温泉間を開業させた黒部鉄道は三日市~石田港間に支線の石田港線を開業させていた。
そこで、「ちゃり鉄30号」ではこの付近の廃線跡もまとめて走行していくことにしていた。
つまり、西三日市~石田港間と、西三日市~三日市間の、黒部鉄道時代の路線跡である。
と言っても、これらの路線跡の遺構は殆ど存在しないので、車道を伝いながら、場所を想像して進むのみである。
本来の計画では現在線に沿って電鉄石田駅まで走り、そこから一旦「途中下車」して海岸線を生地鼻まで走って生地鼻灯台を訪問。その後、電鉄黒部駅に戻り、黒部鉄道時代の路線跡に沿って、西三日市~三日市~石田港と巡る予定だったのだが、現地で勘違いして、先に西三日市~石田港間を走った後に電鉄石田駅を訪れ、その後、生地鼻灯台経由で電鉄黒部駅に戻り、西三日市~三日市間を辿る意味で黒部駅を経由して、再び電鉄石田駅に戻る、という形で走行した。
GPSにルートは読み込ませていたが、ルートナビは使わないので、錯綜したルートのどこをどう進むのかを読み違えた結果である。
まぁ、それはそれで仕方ないので、良しとした。
電鉄黒部駅を出た後、現在の本線にあった石田信号場跡付近を通過し、それから黒部鉄道支線の堀切、生地口、石田港跡付近を辿ったが、この支線部分は車道転用などもあって殆ど痕跡は残っていない。
石田港駅もその位置を含めて正確な情報が分からず、現在の石田漁港付近を望む地点を概ねの位置と想定したが、実際の駅跡は現在の海岸沿いの道路ではなく、集落道の方にあったようだ。
そもそも、港がある位置に鉄道を敷設したのではなく、鉄道を敷設して海浜開発をしようとする意図があったようで、この鉄道路線が示された旧版地形図を見ると、現在の石田漁港はまだ造成されておらず、石田港駅も石田駅としての表示であった。
ここから振り返ると、遠く、行く方の生地海岸と生地鼻灯台が見えている。弧を描く穏やかな砂浜が印象的であった。


ここからも予定を間違えており、一旦現在線の電鉄石田駅に向かった。
この駅は風格ある木造駅舎を備えているが、開業は1937年5月31日で石田第二信号場としての開業であった。旅客駅への昇格は1940年6月1日で、この時に電鉄石田駅に改称しているが、付近に石田駅は存在せず黒部鉄道の石田港駅と区別するための命名だったという。
ここでは上り列車、下り列車が電鉄黒部駅で行違って、交互に発着するタイミングだったので、停車時間を少し長めにとって、これらの列車を撮影した。
電鉄富山駅に向かう普通列車には、数名の乗客の姿もあった。
ここで一旦「途中下車」して石田海岸に戻り、そこから北上して生地集落にある生地鼻灯台や新治神社を参拝。
この付近の海岸線を走るのは「ちゃり鉄」以前の2007年以来だ。
そこから内陸を南下して電鉄黒部駅に戻り、黒部鉄道創業時のルートを偲んで黒部駅経由で、電鉄石田駅に戻って地鉄本線の「ちゃり鉄」を再開する。
微妙にルートがおかしなことになったが、いずれ走り直すとして、一先ずは、この付近の細々とした路線、廃線跡を繋ぐことが出来た。
電鉄石田駅からは石田神明社、経田海岸を経て経田駅に向かうのだが、穏やかな天候だったこともあり、海岸付近を走るのも心地よい。
経田駅には11時5分着。35.8㎞。
この経田駅の駅舎は黒部鉄道石田港駅を移築したものだという。
駅前には経田神社もあるので合わせて参拝し、10時57分発。















ここからは少し内陸側を進む地鉄本線に沿いつつも、所々、海岸線を走って滑川駅を目指す。
経田駅から新魚津駅の間は魚津海岸に沿って走り、ここで海岸沿いにあるイタリアンレストランのデルフィーノさんに立ち寄ってピザのランチ。
ルート計画を立てる時には事前に飲食店なども調べておき、出来るだけ、地元の方が営業しているお店などに立ち寄ることにしている。
このお店は少しお洒落な佇まいもあって、以前なら気後れして入店を見送るところだったが、最近は自身も図太くなり、また、伴侶とランチに行くことも多くなったので、こうしたお店に一人で入るのにも抵抗は少なくなった。
この時は営業開始の少し前に着いたので、付近の海岸の写真を撮影しながら開店を待って入店。店の前には若い女性2人組が乗った車が居て、同じように回転を待っている様子だった。
店内ではその日のランチメニューから食指の動いたピザを注文。
ウェイターさんは私の格好を見て「自転車ですか?」と話しかけてこられた。
ご自身も自転車に乗られる方らしく、やはり興味を持たれるのだろう。
最近はロードレーサー人口が増えて自転車に乗っている人の姿も多く見かけるが、私は、自転車こそグラベルロードを使っているものの、キャリア装着のオールドツーリングスタイル。
そうなると、ランドナーなどの自転車に乗っていたような人は、途端に口数が増えて自転車談議に花が咲くのである。
そんなこともあって、食後には紅茶のサービスを受けて、良い思い出のランチとなった。
この魚津では魚津しんきろうマラソンという市民マラソン大会が開催されており、私は中学・高校時代に金沢市から遠征してきて数回出場したことがある。大した記録ではなかったものの、中学時代は5㎞の部で大会新記録を作って優勝したこともあり、この地域には思い入れが強いのだが、今回もまた、良い思い出が積み重なった。
道下駅跡付近を経て新魚津、電鉄魚津駅と停車。
あいの風とやま鉄道との接続駅は新魚津駅で、電鉄魚津駅は少し南に離れた位置にあるが、魚津の市街地はこの電鉄魚津駅付近から発展しており、古い地形図を見ると、魚津駅付近は市街地の外れにあったことが分かる。
魚津駅としては官設鉄道北陸線の時代である1908年11月16日に開業した魚津駅が最も古く、富山電気鉄道時代の1936年8月21日に地鉄側の魚津駅が開業した。
電鉄魚津駅の開業は1936年6月5日で、富山電気鉄道の早月(現・越中中村)~電鉄魚津間の延伸開業に伴うものであった。
この時点では国有鉄道の魚津駅と電鉄魚津駅は位置的にも離れていたことから、「電鉄」が冠されて区別されたのであるが、既に述べたように当時の市街地は電鉄魚津駅側に発達しており、寧ろ、こちらの方が街の玄関口として機能していたようだ。
しかし近年は中心市街地の衰退が激しく、玄関駅としての機能は魚津駅側に移っている。
なお、地鉄の魚津駅は1995年4月1日に新魚津駅に改称している。
新魚津駅では元西武鉄道の特急「レッドアロー号」として活躍していた16010形車両の入線タイミングに居合わせることが出来た。私にとっては子供の頃に眺めた特急図鑑に掲載されたレッドアロー号として、西武鉄道の特急車両はこの車両をイメージする。
こうした大手私鉄の譲渡車両は全国の中小私鉄で見かけるが、それもまた、旅情ある風景と言えるかもしれない。
魚津神社では満開の梅の花に春を感じる。魚津は馴染みの街という気がするが、魚津神社は初参拝。馴染みと言っても中学生や高校生の頃に、マラソン大会の遠征で訪れていただけなのだから、魚津神社に参拝していなかったのも無理はない。
魚津神社を出た後は電鉄魚津駅へ。
電鉄魚津駅は一見すると有人駅のようにも見えるが、朝の時間に限っての有人営業のようで、この訪問時は無人状態。
ホームに昇ってみると、並行するあいの風とやま鉄道の複線の横に、地鉄の単線が並ぶ特異な高架景観が広がっていた。
北陸本線時代はこのホームからも特急街道を頻繁に駆け抜ける特急を眺めることが出来たことだろう。
北陸新幹線の大阪延伸が何時のことになるのかは分からないが、延伸開通の折には、「雷鳥」の名称を復活させて欲しいと思っている。
電鉄魚津駅12時52分着、12時58分発。45.3㎞であった。










電鉄魚津駅からはこの日の目的地である越中中村駅を通り過ぎて浜加積駅まで走る。
この日の富山地方鉄道本線の「ちゃり鉄」は浜加積駅。
ここには西魚津、越中中村、早月加積、浜加積の4駅があるが、浜加積駅と越中中村駅が1935年12月13日、西魚津駅が1936年6月5日、早月加積駅が1950年3月23日の開業で、それほど古い時代のことではない。
ただ、ホーム上の待合室のみとなった越中中村駅を除く残りの3駅はいずれも風格ある駅舎を備えており、この路線で駅巡りをする人の目的地となることも多いだろう。
西魚津駅は先に触れた魚津しんきろうマラソンに出場した際、ゴール地点の魚津水族館やミラージュランドから歩いて辿り着き、ここから地鉄に乗って富山駅に出た思い出のある駅だ。
当時の駅の写真などは撮影していないが、JRにはない鄙びた駅舎の雰囲気が好ましく、向かいの築堤上を駆け抜けていく特急などを眺めながら、短編成の地鉄の電車に乗るのは、この遠征の楽しみでもあった。
今回、この西魚津駅付近での駅前野宿も考えたのだが、駅の利用者数や周辺の雰囲気などを踏まえて越中中村駅を駅前野宿地とした。
相対式2面2線構造のホームは構内踏切で結ばれており、改修されながらも以前の雰囲気を留めている駅舎とともに、記憶と違わない落ち着いた駅景観で迎えてくれた。
越中中村駅は田園の小駅という感じで、駅前の広い空き地はかつての施設群の跡地である。開業時は早月駅を名乗っていたが、早月加積駅の開業に合わせて越中中村駅に改称したという経緯があり、早月駅時代の1935年12月13日から1936年6月5日までの間は、終着駅として機能していた。
1面1線のホームに立てば遠くにミラージュランドの観覧車や日本海が見える。
遠目にはホームと小さな待合室、駅名標がポツンと佇むだけに見えてその雰囲気が好ましいが、ここに駅舎があり終着駅として機能していた時代の駅の姿も眺めてみたいものだ。
少し西側にはあいの風とやま鉄道の東滑川駅があり、富山に出るにしても魚津・黒部に出るにしても、所要時間の面でこの付近の地鉄は不利な位置にある。
その為か、この駅の利用者数は1桁台と少なく閑散駅ではある。
とはいえ、今回はこの駅を駅前野宿駅として選んだので、後ほど、戻って来ることになる。
駅周辺には民家が数軒立っているが、駅前の民家は空き家になっているようで、それは駅前野宿にとっては都合が良かった。











あいの風とやま鉄道の東滑川駅に立ち寄って、ちょうどやってきた富山行きの普通列車を撮影した後、早月加積、浜加積の2駅を訪れる。
早月加積、浜加積の2駅も渋みある木造駅舎を伴った駅で、有人時代の面影が色濃い。
昭和と言えば現代から近代に移り変わりつつあるが、その昭和の郷愁溢れる佇まいが好ましい。
この2駅は「加積」という地名を共通に持っている。
地鉄本線には他にも西加積駅と中加積駅があり、この一帯が「加積」と呼ばれる地域だったことが類推されるが、実際、かつては、早月加積村、浜加積村、西加積村、東加積村、北加積村、南加積村、中加積村、山加積村が存在した。
早月加積駅と浜加積駅はそれぞれ、同名村の玄関駅だったわけである。
今日ではその村名は地名からも消えているため、この地に勢力を持っていた「加積」という地名も痕跡は少ないが、滑川駅の南東には加積神社があり、その名を今に伝えている。
浜加積駅では茶髪の若い男性が待合室に居た。
間もなく下り列車が到着するタイミングだったので、その列車待ちなのかと思ったが、宇奈月温泉行きの列車が到着しても乗り込む様子はなく、代わりに若い女性が降りてきた。
この駅で待ち合わせ中だったらしく、二人は連れ立って駅を去っていった。
微笑ましい光景。
そんな鉄道風景もいいものだ。
浜加積駅、14時13分着、14時22分発。53.2㎞










ここからは「途中下車」して滑川漁港を経由して魚津までの海岸線を走る。
富山地方鉄道本線は海岸からは少し内陸に入ったところを走っているので、この付近の海岸風景は眺めることが出来なかった。
駅前野宿地の越中中村駅への到着時刻も、駅前野宿をするには早過ぎるので、このように周回ルートを取りながら海岸沿いを走って魚津市街地まで戻り、そこで川城鉱泉で一浴するとともに付近のスーパーで食材の買い出しを行い、最後に中村集落の神明社にお参りして越中中村駅に到着するという計画であった。
日程に余裕がある場合や行程的に可能な場合は、こういう具合に駅前野宿地を一旦通り過ぎ、周回コースを周ってから夕方になって駅前野宿地に戻るというルート設計をすることも多い。
駅前野宿では日中の明るい時間帯に滞在することが出来ないからだが、実際に現地を訪れてみると野宿には不適切な環境であることも稀にあるので、その際に、場所替えするためのバッファーを設けておくという意味もある。
滑川海岸はサイクリングロードとなっており、海岸では釣りや散策に興じる人の姿が見られた。
途中の滑川海浜公園にはオートキャンプ場も併設されており、この日は2張のテントが設営されていた。
私はキャンプ場を使うことは少ないのだが、明日の日程では海岸付近での野宿を予定しているので、ここも候補地の1つ。
軽く下見をしておいた。
川城鉱泉は魚津市街地に点在する銭湯のうちの1つで、古びた建物ながら鉱泉が湧き出していて味わい深い。この鉱泉は鉄味のする鉱泉らしいお湯で、レトロな館内の雰囲気も相まって良い一浴となった。
観光客が大挙して押し寄せるような銭湯ではないが、一人旅にはこういう銭湯の方が似つかわしく感じるのは、私だけではないだろう。
川城温泉を出たら魚津市郊外のスーパーで食材を買い出し、中村集落の神明社にお参りして、予定通りに越中中村駅に辿り着いた。
16時26分着。66.5㎞であった。




越中中村駅に到着してほどなく、16時36分発の電鉄富山行きの普通列車が発着。
この編成は長屋駅で宇奈月温泉行きとして発着するシーンを撮影したラッピング塗装車両だった。
電鉄富山駅と宇奈月温泉駅との間を数往復する運用についていたのであろう。
今日一日晴天に恵まれていたのだが、この時刻になると空は俄かに掻き曇り、小雨がパラつきだした。
本格的な天気の崩れではなく、局地的な降水のようだが、カメラが濡れてしまうので、傘をさしての撮影となる。
ただ、地面が本格的に濡れてしまうような降り方にならなかったのは幸いだった。
この付近もあいの風とやま鉄道の複線と並行する区間なので、合計3本の線路が走っており、列車の往来は少なくない。
あいの風とやま鉄道の東滑川駅が、越中中村駅から500mほど南西にあるので、その発着列車のヘッドライトが近くに見えるし、地鉄本線の早月加積駅にしても1.2kmの距離にあり、ヘッドライトの明滅を見通すことが出来る。
なお、東滑川駅は元々は早月信号場として1943年10月1日に開設されており、地元請願によって駅に昇格したのは1964年11月20日。
ちょうど中間地点付近に居住していた人々が、富山中心部への速達性を求めて請願運動を行ったのであろう。
長らく、都市間輸送は国鉄~JR、ローカル輸送は富山地方鉄道という住み分けがあったものの、時代の変遷とともに富山地方鉄道の経営は苦しくなり、北陸新幹線の開業と並行在来線の分離によって、それは決定的になった。この並行区間でも存廃議論が出ているのは周知のとおりだ。


暫く驟雨に見舞われていたので待合室に退避していると、不意に若者2名が現れた。
向こうも待合室に私が居るのを認識しているのか、小雨が降る中でも待合室には入ってこなかった。
この2名は川城鉱泉から越中中村駅に向かう道中の早月川付近で撮影している姿を見かけた鉄道ファンで、ホームでも到着する魚津方面行の列車の撮影に興じていた。
予想外の乗客登場に驚きはしたが、結局、彼らが立ち去った後、駅に人が現れる気配もなかったので、この間に待合室で食事や旅費精算、行程整理なども済ませてしまう。
暮れ始めたタイミングでやってきたのは、17時57分発の元西武鉄道の16010形車両。電鉄黒部駅行きの区間列車としての運用に就いていた。
余生を送るといった感じではあるが、こうして現役で活躍している姿を見ることが出来るのは嬉しい。
出来ることなら、この列車で運転されるアルペン特急に乗車しつつ、黒部峡谷から立山連峰にかけての大周遊ルートを歩いてみたいものだ。


この時刻になっても小雨交じり。
雨雲レーダーには雨域として捉えられていないような、そんな雨域が付近に漂っているらしい。
それでも傘を差しつつ、暮れなずむ越中中村駅と対峙し、写真を撮影したりして過ごす。
あいの風とやま鉄道はかつての北陸本線だけあって、特急が走らなくなった今でも、長距離の貨物列車の往来は少なくない。
早月川の方から随分長い編成の列車が橋梁を渡る音が聞こえてきたと思ったら、3つ目のヘッドライトを輝かせて、貨物列車が通過していく。
駅前道路側から駅を眺めると、ちょうど、空を背景にして待合室や駅名標だけが見えるアングルが得られたので、列車の到着待ちをしながら、そのアングルで駅を撮影したりする。
列車の発着は概ね1時間に1本で、18時29分には宇奈月温泉行き、18時36分には電鉄富山行きがそれぞれ発着する。この2つの列車は隣の西魚津駅ですれ違う。
この時刻までは残照の名残もあったのだが、19時台に入るととっぷり暮れており、19時20分の宇奈月温泉行き、19時36分の電鉄富山行きを撮影する頃には、空に残っていた青みも消えていた。
この後、電鉄富山行きは20時36分、21時36分の2本、宇奈月温泉行きは20時20分発、21時20分発の2本、更に電鉄黒部行きが22時52分。合計5本の列車が発着するが、土曜日ということもあり駅の利用者は居ないことが予想されたので、撮影はここまでにして、少し早いが眠りに就くことにした。






ちゃり鉄30号:4日目(越中中村=電鉄富山・富山駅停留場=岩瀬浜-日方江温泉-滑川=五百石-越中泉)
4日目は富山地方鉄道本線を走り切って電鉄富山駅に達し、そこから、富山港線に沿って岩瀬浜駅まで走るのがメイン。
その後、岩瀬浜から滑川にかけての海岸線のどこか適当なところで野宿をする予定にしていたのだが、その適当なところが見つからず、結局、翌日に予定していた滑川~五百石間の立山鉄道廃線跡部分を前倒しして走り、日中に通り過ぎた越中泉駅に向かって駅前野宿とした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日のルートの滑川~上市までの区間は、立山鉄道による開業区間であり、ほぼ、同じ線形となっているが、一部、滑川付近や上市付近で線形の相違がある。
特に顕著なのが上市駅付近で、立山鉄道による初代上市駅はスイッチバック構造を持たず、駅の位置も現在位置より少し北北東にあった。
立山鉄道自体が滑川と立山方面との間を結ぶ目的で敷設された鉄道なのだから、その経由地となる上市付近でスイッチバックしなかったのは当然である。
この上市市街地に向かって富山市街地からの路線を敷設したのが富山電気鉄道で、線形は明らかに上市と富山を結ぶ目的を持ったものであった。
現在の富山地方鉄道本線は、このように、目的の異なる私鉄路線が戦時下の国策によって1つの鉄道会社にまとめられたことによって生まれた路線であるため、今から眺めてみると、都市間輸送にとっては非効率な線形となってしまったのであろうが、それは文献調査の課題である。
断面図は縦スケールが100mまでなので見た目よりも実際の標高差は小さく、最高でも60m強。1日を通して平坦なルートとなったが、停車駅が多かった割に翌日行程の一部も走ったことで、走行距離は81.6㎞となった。
4日目の朝も早い。
5時36分には電鉄富山行き普通列車がやって来るので、5時頃には出発準備を終えておく必要があり、起床は4時頃。
5時過ぎには空に青みが差してきて夜明けの気配が漂ってくるが、待合室や駅構内は照明が灯ったままで、まだ、眠りの中にある。
5時20分過ぎにはあいの風とやま鉄道の下り線側をJR貨物の貨物列車が通過していくが、それから16分後の地鉄の始発列車が到着する頃には、辺りは随分明るくなっていた。
この時間帯の光環境の変化は劇的だ。
あいの風とやま鉄道の普通列車もこの時間帯に始発列車が往来しており、5時35分頃には下り泊行き、5時42分頃には上り富山行きが通過していった。
「ちゃり鉄30号」も待合室や駅構内が消灯した直後の5時42分発。
直ぐ西側で踏切を渡り、はす向かいの民家付近から、この小さな駅の姿を写真に収めて旅立った。





浜加積駅までは昨日のうちに走行済みだが、ルートとしては重なるので、改めて訪問。早朝の時間帯とあって駅の表情も異なるので、こういう再訪問も楽しい。
早月加積駅では宇奈月温泉行きの朝の始発列車がやってきた。6時4分発の列車の撮影を行って出発。
続く浜加積駅でも6時15分発の電鉄富山行きがやってきたので、これを撮影。
この電鉄富山行きは16010形が運用に就いていた。
この日は日曜日ということもあって、いずれの駅、列車にも、乗降客の姿は無かったが、早月加積、浜加積両駅の利用者数は決して少なくはないので、平日であれば通勤通学利用の乗降客の姿も見られることだろう。
この浜加積駅を出た後は、滑川市街地の中心部に入り、滑川駅、中滑川駅、西滑川駅と進む。滑川駅はあいの風とやま鉄道との接続駅で、地下通路を介して乗換えが可能な構造となっているが、この地下通路の完成は2001年6月29日。長らく乗換えの便宜は図られていなかったように見える。
この西滑川駅付近であいの風とやま鉄道との並行区間が終わり、地鉄本線は上市に向けて進路を南南東から南東に転じる。
現在の地鉄本線は越中中村駅から西滑川駅の手前まで、ほぼ、あいの風とやま鉄道の複線に沿っているが、立山鉄道時代の線形はやや異なり、滑川駅を出ると直ぐに国有鉄道の線路から離れ始め、水橋口駅(現・西滑川駅)まで150m弱の距離を隔てて並行していたようだ。
そして、中滑川駅に相当する駅は、一時期、晒屋駅と称されていたようであるが、この辺りの路線の旧線から現在線への推移はまだ未調査。地形図の対比では立山鉄道時代の初代路線は車道転用されているように見えるが、その辺は文献調査課題としたい。
ただ、西滑川駅付近では、旧線のものと思われる路盤跡が明確に残っているように見える。これは後程、写真と共に軽く触れておくことにし、一先ず、ここでは当日の動きに合わせ地鉄本線部分の「ちゃり鉄」ダイジェストとして先に進もう。










創業時は「水橋口」を名乗った西滑川駅は、その名の通り、滑川から水橋に向かう入り口付近に当たるが、ここで進路を90度近く転じた地鉄本線は、西加積、中加積と進んでいく。
既に述べたように、それぞれがかつて存在した西加積村、中加積村の玄関駅だったわけだが、それぞれの自治体名が消えた今日でも、早月加積駅、浜加積駅と同様に、旧自治体の名称を駅名に留めている。
西加積駅は旧版地形図によればかつての西加積村役場付近に設置された駅のようだが、1面1線の棒線駅の周辺は長閑な田園地帯で、役場があったと思わせるようなものは特に残っていない。
ホームの待合室も1面開放の簡素なものだが、他の駅の待合室同様、ベンチには座布団が敷かれており、居心地のよい空間である。
続く中加積駅は線路が南東から南に進路を変えて上市川を渡る直前にある駅で、曲線構造の中の相対式2面2線ホームを持っている。
ここは1965年7月30日に竣工したという薄緑の新駅舎があり、少し雰囲気が異なる。
集落の中心部に駅が設けられたという感じで、近くには古い時代から郵便局もあるようだが、村役場は少し東の赤浜集落付近にあったようだ。
スプリングポイントがローカル風情を演出する中加積駅を出て上市川を私、眼前に近づいてくる北陸自動車道を眺めながら、大永田集落の西にあったらしい大永田駅跡を探る。
正確な位置は分からないが、既存資料から前後の中加積駅、新宮川駅のほぼ中間地点辺りにあったらしいことは分かったので、その付近にある農道との交点の第一大永田踏切辺りと比定して写真撮影した。







新宮川駅は工場の敷地に隣接した1面1線の棒線駅で、江上駅として開業した駅である。
それにしては現在の駅施設は明らかに新しいが、それもそのはずで、北陸自動車道の開業に伴って1975年4月10日に現在位置に移転したのだという。
また、駅前駐車場や待合室も随分新しいのだが、これは、パークアンドライド推進の目的で近年になって拡張整備されたものらしい。
ちょうど宇奈月温泉行きの普通列車が出発していくところだったので、これをカメラに収めた。
上市駅には7時33分着、15.1㎞。
ここはスイッチバック構造故に全ての列車が停車する中核駅である。
駅ビルを伴った大きな駅で上市の玄関口としての貫禄を備えてはいるが、テナントは殆どが撤退してしまって空洞化は否めないようだ。
それでも頭端式ホームに有人改札口、電光時刻表などを備えた、中核駅としての機能は今も残っている。
折しも、電鉄富山行きの普通列車がやってきて、静々とホームに入線していくところ。
その写真を撮影し、改札口からホームを撮影した後、出発することにした。
この上市周辺の駅や線路の転変は、富山地方鉄道の文献調査の課題としては、大変面白いものになるだろう。
上市駅7時45分発であった。






上市からは進路を西向きに転じて富山市街地に向かっていく。
新相ノ木駅は2013年12月26日開業の新駅であるが、元々、この付近には経田駅として開業した旧相ノ木駅が存在した。
経田という駅は魚津市内にも現存しており、黒部鉄道時代の石田港駅舎を移築した駅舎があることは既に述べたとおりだが、この旧経田駅は1931年9月1日に開業した後、現在の経田駅が開業した1936年10月1日に先立って相ノ木駅と改称し、1944年5月18日に廃止されている。
現在の相ノ木駅の位置からは営業キロで0.7㎞東に離れていた。
新相ノ木駅は営業キロでは0.8㎞東に位置するので全く同じ位置というわけではなさそうだが、実質的には旧相ノ木駅の地元要望による復活という位置づけになるだろう。
駅は1面1線の棒線駅だが、施設はやはり新しくパークアンドライドの駐車場なども整えられているところは、新宮川駅とも類似している。
そうすると、現在の相ノ木駅もまた、旧相ノ木駅が廃止された後に設置されたと想定されるのだが、実際その通りで1949年4月15日の開業である。
実際は相ノ木駅の移転という見方もできるだろうが、700m程度の距離を隔てているので同じ駅と見なすべきかどうかは判断の分かれるところだ。
こちらは少し古い時代の駅ということもあり、既に風格が漂い始めていたが、経田地区の中心地としては新相ノ木駅の方が発展している。それもあって、新相ノ木駅の復活・新設要望が地元から出たのだろう。





相ノ木駅を出ると白岩川を渡るが、ここで上市町から立山町に入る。
その立山町の北端にあるのが泉集落で、そこに越中泉駅がある。
この駅も富山電気鉄道の手による1931年8月1日の富山田地方~上市間の開業に合わせて泉駅として開業した。
越中泉駅への改称は書類上1937年9月9日の届け出である。
この駅は泉集落の南端に位置しており、集落の住民の利用がそれなりにあるようだが、駅に隣接する民家は空き家となっていて、その民家の林を背にしていることもあって静かな佇まいであった。
この泉集落の中には弓庄郷神社があるので参拝していく。
弓庄郷というのはかつてこの地に存在した弓庄村の村名に由来すると思われる。
後程訪れることになるのだが、上市から五百石に向かっていた立山鉄道廃線跡にも弓庄という駅があり、現在の地図では辻集落と表示されている。
泉集落は白岩川と栃津川とに囲まれた沖積平野に位置するのだが、この付近一帯がかつての弓庄村域なのであった。
特に駅前野宿は予定していなかった越中泉駅ではあるが、計画検討段階ではこの駅も駅前野宿の候補地として周辺の様子を調べたりしていた。
既に述べたように、この日の実施計画上の野宿予定地で適地が見つからなかったので、結局、この駅まで戻ってきたのだが、それは夕刻のことで、この朝の段階ではそれなりに野宿にも使えそうだと思いながら出発した。
立山線が分岐する寺田駅には8時25分着。19.9㎞。
この駅は本線側の1~2番線と立山線側の3~4番線がそれぞれ相対式2面2線を成しつつ、稜線の間に待合室や土産物屋、信号取扱所などが入る建物が備わって、全体としてはY字構造となった特徴的な構造を持った駅である。
両線の間の待合室等は既に閉鎖されており立ち入りは出来ないが、地鉄の要衝駅として実に貫禄ある佇まいだ。
駅舎は敷地の西側の集落玄関口にあり、改修工事は受けているものの、創業当時の面影を今に伝えている。
この付近は旧寺田村域で、駅名もそれに因むものであるが、立山鉄道時代の寺田駅は今とは随分異なり、立山線の2駅先にある田添駅の東の沢端集落付近にあったらしいことが旧版地形図で把握できる。ただ、この寺田駅は開業時は沢端駅を名乗っており、寺田駅への改称は1921年2月20日頃のようだ。同じ時期に、一つ隣にあった辻高原駅も弓庄駅に改称しているが、ここに弓庄村があったことは既に述べた通りで、この2駅の改称は、集落名から村名への改称を意図したものだったように思われる。「辻高原」は「つじこうげん」ではなく「つじたかはら」で、同様に、辻、高原の2集落を示していた。
なお現在の寺田駅自体も集落としては浦田集落にあり、寺田集落自体はこの南東に少し離れたところにある。
この付近は富山電気鉄道の手によって路線が敷設されたが、現在の本線に当たる区間は既述のとおり、富山田地方~上市間が1931年8月15日に開業しており、この寺田駅もその際に開業した。ここは開業時から「寺田」で、集落名の「浦田」は採っていない。
一方、現在の立山線に当たる寺田~五百石間も1931年8月15日の開業で、その際に、浦田(現・稚児塚)、田添の2駅が開業するとともに、立山鉄道時代の五百石駅が現在位置に移設されている。
そして、この新線の開業に伴って、立山鉄道時代の上市旧駅~五百石旧駅の間は1932年12月20日に廃止された。
1年強の期間、路線が併存したことになる。
色々ややこしいが面白い。
この日は駅は有人営業中だったので、本線での列車行き違いや本線から立山線への乗り換え客の姿を眺めるにとどめて出発することにした。
8時37分発。









寺田駅を出ると直ぐに立山町と舟橋村の境界を越え、この舟橋村内に越中舟橋駅がある。
この舟橋村は日本で最も面積が小さい自治体であるが、富山市のベッドタウンとして発展しており、「村」という印象はない。
独立自治の意識が強い村らしく、明治の町村制施行以来、一度も合併を行っていないため、当時の小区画の村域のままで現在まで存続しているのだが、2026年現在では北陸3県では唯一の村となっている。
駅は舟橋村立図書館が入る他、隣接してパークアンドライドの広い駐車場も整備されており、住民も含めて自治意識の高さが感じられる地域である。
この越中舟橋駅を出て越中三郷駅に到着する手前に市村界があって、富山市内の越中三郷駅に到着する。古くは三郷村だったところで、その後、水橋町を経て富山市に含まれるようになった経緯があり、周辺地名は水橋開発となっている。この「開発」という地名は富山県に多数存在するが、福井県にもある。
鉄道駅としては、地鉄上滝線にズバリ「開発」駅があり、えちぜん鉄道にも「越前開発」駅がある。
読みが「かいほつ」であるところも特徴的だ。
この越中三郷駅は構内の構造が西魚津駅とよく似ており、開業当時の社名と駅名が右書きで記された表札を掲げた駅舎とともに、味わい深い駅風景となっている。
ちょうど上下列車の行き違いのタイミングだったので、それも撮影した。
列車に乗降する人の姿も比較的多く見られたのが印象的だった。
越中三郷駅には、8時56分着、9時7分発。15.4㎞。





越中三郷駅と越中荏原駅との間で常願寺川を渡ると、田園地帯から郊外の市街地に風景も変わる。
越中荏原駅は電鉄富山駅に次いで乗降客が多い駅だという。
それだけに夜間早朝を除いて駅員も配置されており、駅舎は2010年3月19日に改築されている。
開業当時は島村停留場で、島村停車場を経て、1945年9月21日に越中荏原駅となった。現在地名では向新庄であるが、この付近は元々は島村の村域であったことから、開業当時の駅名となったのであろう。荏原はというと、駅の南に荏原新町がある。
所在地名の向新庄を駅名に採用しなかった理由は分からないが、ここから西に隣接して、新庄町域が続いており、そこに、開業当時は西新庄、東新庄の2駅があり、現在は新庄田中、東新庄の駅があるので、混同を避ける意味合いもあったのかもしれない。
それらは本編執筆や文献調査の際の調査課題だ。
続く東新庄駅は緩やかな曲線区間に駅が設けられており、ホームも円弧を描いている。相対式2面2線のホームは構内踏切で接続されており、駅舎も特徴あるデザインとなっている。
1931年8月15日の開業で駅構内の設備も風格を帯びてきているが、それが市街地の中にあるというのも特徴的だ。
到着した時は宇奈月温泉行きの普通列車が出発していくタイミング。
若い女性が1名下車してきたくらいで、休日の昼間ということもあって大きな人の動きはなかった。
上り線ホームでは別の女性が1名、列車の到着を待っている。
のんびりとした午前中のひと時であった。
この先、西新庄駅跡はその付近と思われる場所で撮影を実施。
新庄田中駅は2012年12月21日開業と新しく、1面1線の棒線駅だが周辺は住宅地になっている。
西新庄駅の廃止が1942年10月31日のことなので、復活というよりも新駅という位置づけであるが、工事中の仮称は西新庄駅だったという。
宅地化が進む中で駅空白地になることから、地元からの設置要望が強まった結果だと思われるが、事実確認は文献調査の課題としたい。
不二越線との接続駅である稲荷町には10時11分着。30㎞。
ここは本線側に相対式2面2線、不二越線側に単式1面1線を持つ、複合式3面3線の駅で、車両基地も併設された運行上の要衝となっている。
車両基地には元京阪や元西武の車両が複数留置されていて、見るのも楽しい。
木造駅舎が不二越線側に設けられていて、終日有人駅となっている。
駅の開業は富山電気鉄道時代の1931年8月15日とされているが、この付近の鉄道線自体は1914年12月6日に富山軽便鉄道によって開業している。そしてこの時に稲荷町駅も開業しており、それは旧版地形図でも富山軽便鉄道を引き継いだ富山鉄道時代の駅として記されていることから裏付けられる。何故なら、この時代、富山電気鉄道は未開業だったからだ。
位置関係を比較しても移転の形跡はないので、稲荷町の開業は1914年12月6日とすべきではなかろうか。
それは兎も角、この駅も本線からY字型に不二越線が分岐していく構造となっており、車両基地も伴っていることから、駅としては魅力がある。
今回、駅構内への入場はしていないが、いずれ、乗り鉄の旅などで訪れてみたい駅である。
稲荷町駅発10時14分。











稲荷町駅の次は電鉄富山駅であるが、歴史的にはその間に稲荷鉱泉駅と富山田地方駅が存在した。
今日では著しく変貌を遂げておりその痕跡も残っていないことは把握していたが、稲荷鉱泉駅跡付近では、今も残る「いなり鉱泉」と真新しい北陸新幹線の高架、そして、北陸本線から転じたあいの風とやま鉄道の線路と、地鉄本線が一堂に会する様子を撮影。
富山田地方駅跡は工事の擁壁などに覆われていたが、狭い路地に入って駅跡付近の様子を撮影しておいた。
電鉄富山駅には10時29分着。31.9㎞。
ここは複合商業施設の中に駅が入っているのでビルを撮影するのみ。
北陸新幹線やあいの風とやま鉄道の富山駅、地鉄本線の電鉄富山駅、そして地鉄富山軌道線の富山駅前停留場の3つの駅施設が一堂に会する、名実ともに富山県の玄関口である。
ここからは富山軌道線の富山駅南北接続線を経て富山港線に入って岩瀬浜駅に抜けるのだが、少々早いもののここで昼食。
というのも8番らーめんが駅ビル内に営業しているからだ。
特に8番らーめんに思い入れがあるわけではないのだが、金沢に6年間住んでいて、近くに8番らーめんがあったこともあり、懐かしくて立ち寄る計画にしていた。金沢に住んでいた頃は、1~2回食べに行った記憶があるくらいだが。
チャーハンとラーメンと餃子を注文して、食べ過ぎてパンパンになる。
以前は旅の食事にラーメンを多用していたが、近年はお腹がもたれることが多く、昼食はかつ丼を定番にご飯ものを頼むことが増えている。蕎麦屋に入ることも多いのだが、蕎麦は腹持ちが悪く、これは逆に物足りない。
歳をとったのか体質が変化しただけなのか、よく分からないが、学生時代のように大食いは難しくなっているのは感じる。
店を辞して駅の高架下にある富山駅前停留場から旅を再開。11時1分発。




ここからは富山港線を行くのだがJRから最終的に富山地方鉄道に移管されて駅の数も多くなった上に、富山軌道線とも接続したことで、沿線住民にとっては大幅に利便性が向上したようだ。
近年では都市交通としての「路面電車」が見直されていることもあり、富山の事例も1つのケーススタディとして使わるのではないかと思う。
私は京都市内で7年余りの学生生活を送ったが、あの町も、かつての市電を別の形で復活させ、市内への一般車の乗り入れなどを制限するなどして、「世界遺産」を標榜するに相応しい交通体系の再整備をした方がいいように思っているがどうだろう。
それはさて置き、「ちゃり鉄」で「路面電車」を走る際には、短距離で多数設置される停留場毎に停車することになるので、経由地点数が大幅に増えるとともに、写真撮影などの停車時間も増加することになる。
計画書では概ね1日に40か所上限で訪問計画を立てるのだが、今回の旅では複数の日程でこれをオーバーし、1日分の計画書に2日分のスペースを必要とすることになってしまった。当然、現地でもその都度停車して、写真を撮影するので、大変である。
富山港線もJR時代のそれとは異なり、非常に駅や停留場の数が増えているので、「ちゃり鉄」には時間を要する。
まずは、富山駅前停留場から、オークスカナルパークホテル富山前停留場、インテック本社前停留場、龍谷富山高校前(永楽町)停留場を経て、奥田中学校前駅に達する。
停留場から駅への変化はこの駅を境界として、軌道法が適用される区間と、鉄道事業法が適用される区間とが分離されるからで、ここまでは「ちゃり鉄」でも見てきたように、併用軌道区間となっているが、ここからは鉄道線用区間となる。前身はJR富山港線で、道路越しに富山駅方面を眺めると、歩道転用された廃線跡を見ることが出来る。






JR富山港線時代は、廃止された富山口駅の他、下奥井駅、越中中島駅、城川原駅、蓮町駅、大広田駅、東岩瀬駅、競輪場前駅、岩瀬浜駅の9駅が存在した。時代を遡ると富山口~下奥井間に薬専高前駅が存在した時期もあるし、岩瀬浜駅の先の海岸まで伸びて岩瀬港駅が存在した時代もある。ただ、それらはJR以前の話である。
今日、この奥田中学校前駅から先は、下奥井駅、粟島(大阪屋ショップ前)駅、越中中島駅、城川原駅、犬島新町駅、蓮町(馬場記念公園前)駅、萩浦小学校前駅、東岩瀬駅、競輪場前駅、岩瀬浜駅が営業している。
JR時代の大広田駅は萩浦小学校前駅に改称したので、粟島、犬島新町の2駅が加わったことになる。これらは富山地方鉄道に移管される前の、富山ライトレール時代に新設されたものだ。
下奥井駅はJR時代の相対式2面2線ホームと駅舎は撤去され、千鳥式2面1線ホームに置き換わっている。
続く粟島駅は富山ライトレール時代の新設駅で相対式2面2線の交換可能構造。
ちょうど大阪屋ショップに隣接した場所に駅が設けられており、副名称も「大阪屋ショップ前」となっている。
越中中島駅も千鳥式2面1線に改良済み。富山港線の1線駅施設改良の標準的なスタイルのように思われる。
城川原駅は旧駅舎などは撤去の上、相対式2面2線に車庫への引き込み線や留置線が配置され、沿線の運用上の要衝となっていた。
城川原駅、12時6分着、12時9分発。36.9㎞。




城川原駅から先も千鳥式2面1線の駅と相対式2面1線の駅が組み合わさって短い距離で駅が続く。
犬島新町駅は富山ライトレール時代に新設された千鳥式構造の駅で、続く蓮町駅は旧駅舎は解体撤去されて千鳥式構造に変更されている。
ここでは南富山駅前行きの列車がやってきた。
JR時代とは異なり富山駅を挟んで南北を縦貫する運用が行われることで、利便性も向上している。駅での乗降者数も車内の乗客の数も、JR富山港線時代より多くなっているのは実感できた。
蓮町駅からは国鉄時代に東富山駅との間を繋ぐ貨物専用線があったようで、その痕跡はgoogleMapでも確認することが出来るが、駅周辺には分岐跡などは残っていない。
萩浦小学校前駅は相対式構造で交換可能。ここも歴史は古く、出自は信号所であった。JR時代は大広田駅であったが、地鉄時代に入った2020年3月21日に萩浦小学校前駅に改称した。
旧駅舎は解体されていて現存しない。
ここは現地で気が付いたが、はっきりとした分岐線の跡が残っており、調べてみると貨物専用線がこの先の港湾地区に向かって伸びていたようだ。
なお、蓮町駅と萩浦小学校前駅との間でも、クラレ富山工場への専用鉄道線が分岐していたらしい。
続く東岩瀬駅は旧駅舎が残されており、それに隣接する形で富山港線の低床車用の新駅ホームが設置されている。ここも千鳥式だ。
駅の岩瀬浜方は県道富山魚津線に並行しており、折しも、その街路樹の並木の下を颯爽と列車がやってくるところだった。
こうしてみると富山港線時代よりも運転本数も多くなっている。
ただ、LRT化直後は黒字化したものの、結局、近年は経営赤字が拡大しているようではある。
この東岩瀬駅付近からも太平洋ランダム工場方面に向かう専用鉄道線が分岐していたという。
それらしいおっさんが2面1線のホームにたむろする競輪場前駅を過ぎ、岩瀬諏訪神社を参拝した後、終点の岩瀬浜駅には13時2分着。41.1㎞であった。
レールは駅に隣接する車道の手前で車止めが置かれて途切れているが、ここもその先にそれと分かる曲線状の道路が延びていて、古い地図で確認すると、道路を渡って少し先に進んだところに岩瀬港という駅名が記されたものがある。
また、この岩瀬浜駅に到着する前の岩瀬運河に沿っても専用鉄道線が分岐していたようだ。
こうしてみると、富山港線は旅客需要のみならず貨物需要にも対応する臨海鉄道の性格があったことが分かる。
岩瀬浜駅では富山港線に乗って海を眺めに来たらしい父子連れが居たが、「駅の写真を撮ろうか」と子供を誘う父親を無視して、子供がさっさと行ってしまい、父が写真を撮り損ねているのが微笑ましかった。
岩瀬浜発13時8分。
これで計画上は、この日の「ちゃり鉄」区間は終了し、この先の海岸に沿って滑川方面に進みながら、適当なところで野宿場所を見つける算段だった。














岩瀬浜駅からは岩瀬港方面に伸びていた線路跡を辿ってから岩瀬浜へ。
ここは夏場には海水浴場が開設される場所のようだが、今は早春。
さすがに海に入る人の姿は無かったものの、浜辺には多くの人が繰り出しており、インスタ写真の撮影に余念がない女子高生のグループが居たり、ビーチバレーを楽しむ人が居たり、長閑な休日の風景が広がっていた。
その後、海岸に沿って東進。
海岸の松林の中にある岩瀬八幡宮にお参りした後、富山湾岸に沿って断続的に続く自転車道を走り、公衆浴場の日方江温泉に立ち寄って一浴していく。
富山市内も公衆浴場が多く、それぞれに特色があるので、時期を変えて訪れてみたい。
キャンプ場もある浜黒崎付近の海岸に適当な東屋などがあればそこで野宿をする予定だったのだが、事前調査でも候補地は見つかっていなかった。
更に進んだ水橋や滑川にも幾つか候補地を見つけておいたので、当日の天候なども踏まえて何処かに決定する計画だった。
この日は晴天だったので浜辺にテントを張ってもよかったが、適当な東屋があれば、その下で野宿をする方がよいし、明日の行程を考えると、少し先に進んでもよいという条件だった。
結局、第一候補だった浜黒崎付近は適当な東屋がなかったのと、海岸林内はどこでもテントは張れそうだったが、ゴミがあったりして気乗りしなかったのとでパス。
先に進むことにした。





常願寺川河口を今川橋で渡ると水橋地区に入る。
ここで金刀比羅神社に参拝した後、引き続き海岸沿いを進むのだが、高い防潮堤が張り巡らされているので海は見えない。
上市川を渡った先のいをのみ公園に第二候補の公園と東屋があって、それなりに場所は良かったのだが、隣接する球技場でフットサルの試合が行われていて、人が大勢いる状況だったので、ここもパス。
さらに進んで昨日通った滑川漁港から滑川海岸に入り、滑川海浜公園に到着。
ここはオートキャンプ場があるのだが、広い敷地の中に東屋などがあるのは前日のうちに把握しておいた。
しかし、敷地内には指定場所以外キャンプ禁止の掲示がしてあるし、管理棟に係員も居る状況。自転車のソロツーリングで割高な電源完備のオートキャンプ場を使う気にもなれないので、ここもパス。
結局、候補地全てをパスすることになった。
海浜公園の高台には展望台があるので、そこに登って飛騨山脈の写真を撮影しようと思ったのだが、この日は春霞が強すぎて山は全く見えなかった。
滑川海浜公園で15時25分着、57.5㎞。
さてどうしたものかと思案するが、今朝ほど通った越中泉駅が駅前野宿で使えそうだと感じていたので、結局、滑川から五百石までの立山鉄道廃線跡を今日のうちに走り切り、五百石から越中泉駅に向かう計画にして、追加で20㎞強を走ることにした。
単純走行だけなら17時前の到着になるが、廃線跡の「ちゃり鉄」となるので、途中の駅跡の撮影に時間を要する。
それでも18時前には到着することが出来るだろうと踏んでの決断である。
15時34分発。





滑川駅には15時43分着、59.9㎞。
この日の6時22分に4.6㎞地点として通過しているので、約55㎞を走って戻ってきたことになる。
ここからは、地鉄本線の前身となった立山鉄道廃線跡の「ちゃり鉄」として、旧上市駅跡を経て旧五百石駅跡までを走る計画。
但し、上市までのルートはほぼ地鉄本線と重なっているので、複数の駅を再訪することになる。
15時44分発。
最初の訪問地は晒屋駅跡だが、これは現在の中滑川駅の少し南に位置し、田中新町の交差点がある辺りになる。廃線跡は車道転用されているようで痕跡は残っていないが、滑川駅から分岐して徐々にあいの風とやま鉄道の線路から離れていく車道の線形に、鉄道時代の痕跡が偲ばれる。
水橋口駅と呼ばれていた西滑川駅付近は痕跡は乏しいが、駅のホームから見える田圃の中に、路盤の痕跡と思われる部分が僅かに残っていて、その線部分は灌木が車止めのように成長している。
現在の線形とは異なり、転用された車道の方向に急カーブで曲がっていったようなので、その一部が田圃に僅かな痕跡として残っているように思われた。
西加積駅は旧版地形図で見ると現在の車道を挟んで反対側、つまり、北側に位置したようであるが、今は民家が立て込んでいてその面影は消えている。
中加積駅も駅位置は若干変わった可能性もあるが、ここは旧版地形図で見てもほぼ同じ位置で、僅かなずれは地図の精度の問題のように思われる。
新宮川駅は旧位置から現在位置への移転を示唆する情報もあるが、旧版地形図と対比すると位置の変化はないようにも見える。
そして、この新宮川駅から旧上市駅にかけての線形は現在線とは異なっており、現在駅のやや東側を周り込むような線形を取っていた。
今日、その駅跡と思われる付近は住宅や工場が立て込んでいて正確な場所は分からなかったが、新しいアパート群が建っている一画があり、概ねその付近が旧上市駅に該当するようではあった。
ただ、住宅地の中ということもあり、不審がられる行動も慎むべきなので、ここではアパート周辺を調べるなどといった調査は実施しなかった。
この集落の南に日吉神社があったので参拝していく。この神社は旧駅時代から変わらず鎮座していたことだろう。
その後、現在の上市駅を訪れて先に進むことにするが、このスイッチバックの上市駅自体も、更に東の市街地中心部まで伸びていた時代があった。その痕跡は今では分からない。
上市駅跡16時28分着、16時30分発。68㎞であった。









上市駅跡からは大岩口、弓庄、寺田の3駅を挟んで五百石駅に至るのだが、この付近も一部は車道転用されているものの明確な痕跡は残っていない。
ただ、後で知ったことだが、大岩口駅付近では農地の中にホームの痕跡が残っているという情報もあった。
当日、この付近を通りかかった時は、きょろきょろしながら自転車で走る私を、犬の散歩中の若い女性が怪訝な表情で見てきたので、そそくさと走り過ぎたこともあり、十分な調査が出来なかったのが悔やまれる。
弓庄駅跡も駅前通りが今も残っているものの、当日は人が居て入りそびれた。
近くの辻公園から集落の縁に沿って伸びてきていたであろう線形を想像するにとどまる。
寺田駅跡も同様で現地では何の痕跡も見いだせなかったが、ここでは田圃の中に印象的な佇まいで鎮座する沢端神明宮にお参り。この神社は旧版地形図にも掲載されており、線路は神社の南側を通過していたようである。
五百石駅跡は立山製紙の工場内辺りで、立ち入っての調査は出来なかったが、工場の敷地を外から撮影。
かなりざっくりとした「ちゃり鉄」となったが、在りし日の立山鉄道が長閑な田園地帯を走り抜けていたことは感じられた。
五百石駅跡、17時11分着。17時12分発。77.2㎞。
ここから立山線の現在線に沿って寺田駅方面に向かい、途中から越中泉駅方面に直行する集落道を辿って、越中泉駅には17時27分着。81.6㎞。
結局、滑川海浜公園からは24.1㎞のオーバーランとなったが、日没時刻の前には目的駅に到着することが出来たし、翌日行程に大幅な余裕を持たせることが出来たので良しとする。





越中泉駅はこの日の日中、8時8分着、8時14分発で通り過ぎた。距離にして18.5㎞地点。
それから9時間13分で63.1㎞を走って戻ってきたことになる。
駅は集落の中にあるが、待合室裏と駅入り口向かいの民家は空き家となっていて、待合室向かいの民家は現住民家となっているようだった。
到着したタイミングでは少し離れた民家でも人の出入りがある様子だったので、駅前に自転車を置いてまずは撮影に入ることにした。
まずやってきたのは17時30分発の電鉄黒部行き。続いて17時57分発の電鉄富山行き。
この2本の列車の間隔が空くので、その間に着替えは済ませておく。
目的地に着いたらすぐに撮影ということも多いが、まずは着替えを済ませて体をリラックスさせたい。
18時1分には宇奈月温泉行きがやってきたがこれは16010形。17時57分発の電鉄富山行きとは、隣の寺田駅で行違ってきたようだ。
この時期は普通列車としての運用だけだったが、活躍してる様を見るのは嬉しい。
いつか、この車両に乗車してみたいと思いつつ、その出発を見送る。
この3本の列車に乗降客の姿はなかった。





次の列車は18時49分発の宇奈月温泉行きで、48分の間隔が空くので、この間に荷物の解装・整理と、夕食も済ませておく。
駅前野宿で訪問する駅の場合、夕方以降は帰宅利用の時間帯なので、駅施設で列車待ちをする人が訪れることは殆どない。
列車の発着前に駅前に迎えの車がやってくるくらいだが、越中泉駅の場合は駅前に車を駐車するスペースもないので、そういう車がやってくる気配もなく、時折通りかかる車は、皆、駅を素通りしてた。
そういうタイミングを見計らって夕食を済ませたり、駅前野宿の準備を行ったりするのだが、勿論、周辺に民家がある場合などは、目立たないように行動するとともに、大きな音を立てたりしないように細心の注意を払うことは言うまでもない。
この日の撮影は18時49分の宇奈月温泉行き、19時4分の電鉄富山行き、20時4分の電鉄富山行きの3本で終了とし、19時49分の宇奈月温泉行きのタイミングでは待合室内で精算作業を行っていた。
この列車からは1名の下車があり、待合室の前を通って帰宅していく姿が見えたが、それ以外の列車の乗降はなかった。
駅前には朝の時点から1台の自転車が駐輪されていたが、この自転車は夜になってもそのまま。パンクはしていなかったが、シートに埃が溜まっていたところを見ると、放置自転車だったのかもしれない。
意図せず駅前野宿をすることになった越中泉駅ではあったが、集落の中の駅とは言え、この日は日曜日だったこともあり、静かな旅情駅の雰囲気が好ましかった。
今日のうちに翌日行程の一部分を走ったこともあり、翌日は3時間程度の余裕が生まれた。
その分を横江駅から尖山への軽い往復登山に充てることにして、この日は眠りに就いた。






ちゃり鉄30号:5日目(越中泉-寺田=横江…尖山…横江=立山-千垣)
5日目は立山線探訪の1日。
立山駅から先の立山黒部アルペンルートは冬季閉鎖中のため、岩峅寺駅から立山駅の間は間引き運転が行われるなど、閑散ダイヤとなっているが、寺田駅から立山駅までの全駅と廃駅跡を巡った上で、千垣駅まで戻って駅前野宿の予定である。
当初予定では浜黒崎海岸からの行程だったが、前日のうちに立山鉄道廃線跡の探訪も済ませておくことが出来たので、この日の行程には余裕が生まれた。
天気も1日持ちそうだったので、事前の計画段階で時間的に難しくて割愛した尖山の軽い登山を組み込むことにした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図中、22㎞付近にある顕著なピークが尖山登山の行程で、ここは横江駅に自転車をデポして、徒歩で往復することになる。
39㎞付近にある次の大きなピークは粟巣野集落の粟巣野神社付近。
この付近はスキー場が広がる高原地形と谷沿いの立山線との間を登り降りするのでアップダウンが強い。
尚且つ、上横江、芦峅寺、粟巣野の3つの廃駅を巡っていくので、徒歩での踏査区間も多くなった。
越中泉駅の朝は早い。
始発列車は5時34分発の電鉄富山行きで、この列車と寺田駅で行違う宇奈月温泉行きは5時37分発である。
それに合わせて4時半頃には起床し、朝食と撤収を手早く済ませ、5時30分前にはホームに出て撮影準備に入った。
定刻に往来する上下の始発列車は、いずれも元東急の17480形。
ステンレス車で地鉄においては新型車の印象がある。
この朝の始発列車のうち、電鉄富山方への列車には乗客の姿があったので、片付けを済ませておいてよかったのだが、待合室内に見慣れぬ人影があるのを不審に思ったのか、少し距離を置いたところで列車を待っていらしたようで、申し訳ないことをした。
意図せず駅前野宿をすることになり、気を遣いながらの一夜ではあったが、集落の中の静かな旅情駅であった。
5時47分発。





寺田駅には5時52分着。1.5㎞。
今日はこの寺田駅から立山駅までの「ちゃり鉄」がメインとなる。
早朝のこの時間帯は無人だったので、Y字型に分岐した特徴ある駅構内の写真も撮影することが出来た。
Y字の分かれ目のところに旧待合室と信号扱い所などが入った立派な駅舎があり、向かって左側の本線が順番に上り1番線、下り2番線、向かって右側の立山線が上り3番線、下り4番線。立山線は右側通行での離合となっている。
古くは本線と立山線との間に短絡線を敷設する計画もあり、1960年代頃の空撮画像ではその短絡線の敷地が明瞭に映り込んでいるが、今日では辛うじて痕跡が分かる程度である。
この短絡線に乗降ホームが設けられていたら、非常に面白い駅構造になったと思われるのだが、需要という面で実現は難しいのだろう。
宇奈月温泉駅と立山駅との間を結ぶアルペン特急に乗車すれば、この駅での珍しいスタイルのスイッチバックを体験できるだろうが、ここは、本線列車と立山線列車との間の乗り換えなども体験してみたい駅である。
朝早い乗客が数名駅に現れたタイミングで駅の外に出て、6時10分発の電鉄富山行きと立山行きの行き違いシーンを眺めて出発。立山線の立山行きはこの列車が始発列車である。
「ちゃり鉄30号」は6時14分発。









寺田駅からは稚子塚駅、田添駅を経て五百石駅に達する。
稚子塚駅ではちょうど電鉄富山行きの普通列車が出発していくところ。
この稚子塚駅と田添駅は富山電気鉄道の手によって本線の富山田地方~上市間の開業と同時に開業した。1931年8月15日のことである。
いずれも1面1線の棒線駅で、兄弟駅のような感じである。
それを機に、立山鉄道の旧・五百石駅は廃止されて現・五百石駅に移設された。
この先は立山鉄道が1921年3月19日に立山駅(現・岩峅寺駅)まで開業させていたので、この2駅を挟んだ区間を開業することで立山方面へのアクセスが改善された。
なお、立山鉄道が開業させた立山駅(現・岩峅寺駅)の読みは「たちやま」であった。
この五百石駅は役場も置かれた立山町の中心地である。
五百石という地名は文政時代に開墾された際の石高に由来するというが、鉄道ファンなら、類似の駅名としてJR釧網本線にかつて存在した五十石駅を思い出すかもしれない。あちらは、五十石船が遡ることが出来た地点を指す地名、駅名であった。
私は中学生の時代に、この立山町で開催されていた市民マラソン大会に参加したことがある。当時の大会名は立山アルペンマラソンだったような気がするが、正確には覚えていない。
開催側の内部分裂か何かがあったのか、当日、同じ地域で同じような名前の2つのマラソン大会が開催されていて、関係者らしい人に受付の場所を尋ねたら「うちとは一切関係ありません!」と怒気を孕んだ声で追い返された、そんな思い出のあるマラソン大会である。
今も立山アルペン健康マラソンという大会が開催されているようだが、開催年次を考えると、私が中学生の時に参加した大会とは別の大会、若しくは、名称変更された大会のようではある。
あの時、私は五百石駅で下車したはずなのだが、駅や路線の印象は残っていないのが残念だ。
大きな複合駅舎となった五百石駅では駅舎の写真を撮影し、少し離れた踏切で構内を遠望撮影した。
五百石駅6時40分着、6時45分発。6.3㎞。







五百石駅から岩峅寺駅までの区間は立山鉄道の手によって1921年3月19日に開業している。
この区間には榎町、下段、釜ヶ渕、沢中山の4つの中間駅があるが、これらの駅の履歴は書籍によって揺らぎがある。立山鉄道による区間開業と同時に開業した後、一旦、廃止されて、再開業したという履歴を記したものもあり、書籍によってはその再開業の日付を開業日としたものもある。
その揺らぎは文献調査の課題ではあるが、いずれにせよ、1920年代から1930年代にかけて開業した歴史ある区間、駅である。
常願寺川の扇状地を登っていく立山線の沿線は、五百石駅を出た頃から勾配も顕著になっていく。
車で走ると体感できない程度の勾配だが、自転車で走るとはっきりと感じるし、駅に立って上り、下り、の方向を眺めてみると、水平が確保された駅の前後で勾配が変わる様子がはっきりと分かる。
榎町駅では下り6時52分発の岩峅寺行き普通列車と対面。ここ数日、本線で何度か対面してきた16010形2両編成の列車であった。
この辺りは既に五百石市街地の南縁部に当たり、周囲も田園地帯に戻っている。行く方遥かには残雪を纏った立山連峰が朝靄に霞んでいた。
続く下段駅も榎町と同じように1面1線の棒線駅だが、いずれの駅も、味わい深い木造駅舎を伴っている。
駅に着いて撮影を行っているうちに、富山方面に向かう通勤通学の乗客が10名ほどホームに立って列車の到着を待っていた。月曜日の朝ということもあり、平日の朝の風景が広がっている。









釜ヶ渕駅の方から緩やかな勾配を降ってきたのは先ほどの16010形編成で、岩峅寺駅で直ぐに折り返してきたようだ。この列車は7時14分発の電鉄富山行き。立山線の上り列車は全て電鉄富山行きとなっている。
釜ヶ渕駅は地元の愛着を感じさせる小綺麗な駅舎と構内が好ましい。
かつては相対式2面2線ホームを備えた交換可能駅だったため、当時の上り線ホームが今も残っているが、その部分も含めて花壇が整えられている。
沢中山駅は文献に拠っては沢駅として開業したと記しているものもあり、実際、周辺の集落は、沢集落と中山集落である。
ここは他の駅のような駅舎は伴っておらず、1面1線の単式ホームに小ぶりの待合室が設けられているだけである。
この辺りまで来ると立山連峰の前衛峰の山裾が間近に迫ってきており、田園から里山へと風景が転じる雰囲気がある。
五百石駅からの継続した緩やかな登り勾配を登り詰めて、扇状地の口の部分に至ると岩峅寺駅。7時52分着、13.9㎞であった。






岩峅寺駅は立山線と上滝線の接続駅であり地鉄の要衝である。
立山線側は既に述べたように1921年3月19日に立山鉄道の手によって「立山(たちやま)駅」として開業した。
一方の上滝線側は富山県営鉄道の手によって岩峅寺駅として開業したが、この岩峅寺駅の開業は1921年8月20日であった。
この先、段階的に富山県営鉄道の路線として上横江(旧・横江)、千垣、粟巣野、立山仮駅、立山(旧・千寿ケ原)と延伸開業したが、1937年10月1日に粟巣野駅まで開業した後は、日本発送電を経て富山地方鉄道に移管され、途中、立山開発鉄道が関与した時期も含めて、1955年7月1日に現在線の全線が開業した。
こうした経緯があるため、立山鉄道の立山駅と富山県営鉄道の岩峅寺駅とは、当初は隣接した別の駅となっており、旧版地形図でもその様子が描かれている。
この立山鉄道は1931年3月20日には富山電気鉄道に吸収合併され、その後の1936年8月18日に立山鉄道時代の旧・立山駅を廃止して、富山県営鉄道の岩峅寺駅に乗り入れる形で両駅が統合された。
旧・立山駅は旧版地形図によれば、今の駅前通り付近に駅を設けていたようで、立山線が岩峅寺駅構内北側の社宅踏切付近から駅に向かって右に緩くカーブを切っているのは、この付け替え工事によるものと思われる。
なお、岩峅寺という地名は芦峅寺と同様に、かつての立山信仰の痕跡地名で、この地域が神仏習合の宗教集落だったことに由来する。
単独の「岩峅寺」、「芦峅寺」という「寺」があるわけではなく、それぞれ現在の雄山神社前立社壇、雄山神社中宮祈願殿が、各宗教集落の象徴的存在として、今もこの地に鎮座している。
富山地方鉄道は複数の別の鉄道が合併してできた鉄道ということもあり、こうしたY字型分岐の駅が複数存在するが、どれも鉄道風景として興味深く、旅情を醸し出す。
岩峅寺駅自体は有人駅なので駅構内には立ち入らなかったが、駅周辺の写真撮影を行う。
駅構内を挟む形で上下2か所に踏切があり、横江方には岩峅寺踏切、立山線の沢中山方には社宅踏切があるので、それぞれから遠望写真を撮影する。
社宅踏切側は上滝線側に抜ける車道が通じており、その車道に入ると、Y字分岐を分岐の又の側から眺めることが出来るが、駅の敷地部分は資材置き場になっていた。
雄山神社の前立社壇を訪れるために、岩峅寺駅8時1分発。



神社の入り口付近で上滝線の上滝川橋梁を間近に眺めるので撮影。列車が通過するタイミングであれば、面白い写真が撮影できそうだ。
雄山神社前立社壇は常願寺川右岸の丘陵に鎮座しており、参道には朝の静謐な空気が満ちていた。
私は教義的な宗教信仰を持っているわけではないが、神社の神域には神秘的な雰囲気を感じるし、自然崇拝には感覚的に共感するところがある。
そんなこともあって、「ちゃり鉄」の旅での「途中下車」では、駅周辺集落に鎮座する神社を訪れていくことが多い。
この雄山神社前立社壇は立山信仰の里宮であり、この地から立山を仰ぎ見て遥拝したことが伝えられている。
この日は早朝ということもあり、地元の方がごく少数境内を参拝されているだけ。
雑念多い私でも、こういう場所を訪れると心正す気持ちになるものだから、不思議なものである。
境内を辞して岩峅寺駅に戻り、岩峅寺踏切から写真を撮影して先に進む。駅には電鉄富山駅に向かう立山線列車が停車していた。
雄山神社前立社壇、8時7分着、8時19分発。15㎞。




岩峅寺駅から先は富山県営鉄道によって敷設された路線であることは既述したとおりだが、元々は電源開発を目的として敷設されたこともあり、沿線人口は希薄である。
観光シーズンは立山黒部アルペンルートの入り口として賑わうものの、冬期間を中心に1年のうちの半年近くはアルペンルートが閉鎖される。
沿線にスキー場はあるものの、鉄道利用でスキー場を訪れる者はほぼ居ない。
こうなると、人口が希薄な地域故に定期の旅客需要は激減するため、近年は冬季減便運行がなされており、富山地方鉄道の存廃協議でも廃止が取沙汰されている区間でもある。
ここからは本格的に山間部に入っていくので、車道を走る「ちゃり鉄」でも、勾配が一段ときつくなるのを感じる。
その勾配区間の途中にあるコンビニでこの日の夕食の食材などを買い出し。今日この後の区間内に、目ぼしい商店やスーパーがなかったので、事前調査でこのコンビニを使う計画にしていた。
駅前の登山口駐車場に登山者の姿が見られる横江駅には8時53分着。19.2㎞。駅前の日陰には冬季の除雪残滓が残っていた。
この横江駅は1931年6月1日の開業だが、当初の駅名は尖山駅であった。
その当時から横江駅自体も存在したのだが、その駅は尖山駅から見て600mほど立山寄りにあり集落からは外れていた。
1965年4月15日には尖山駅が横江駅に、横江駅が上横江駅に改称され、その上横江駅は1997年4月1日に廃止されている。
駅は島式1面2線時代の痕跡を留めた単式1面1線構造で、古い木造駅舎とホーム上の待合室を備えている。2線時代は構内踏切で下り線側を渡る構造になっていたのであろう。
木造駅舎は冬季の積雪の影響もあるのか傷みが見られ、待合室内も薄暗くて寒々としていたが、郷愁感あふれる建物。
ホームの木造待合所も落ち着く雰囲気であった。
9時4分には立山行きの普通列車が到着。
この車両はキャニオンエキスプレスとして運用されている20020形で、元西武10000系。ニューレッドアロー号の車両であった。
観光向け車両での運用とは言え、この日はオフシーズンの平日。
車掌も乗務する3両編成に乗客は僅か数名ではあったが、この横江駅でも登山装束の降車客があった。








ここでトレッキング装備を身に付け、尖山往復の軽い登山を行う。
元々、実施計画段階でも検討していたものの、1日の行程の都合上、時間を確保するだけの余裕がなかったために割愛していた行程だ。
昨日、越中泉駅まで先行した関係で、その余裕を確保できたので予定に組み込んだのである。
登山の場合は地形図やコンパスの携行などの準備も必要なので、行程が長い登山をアドリブで組み込むことはないが、尖山であれば、事前にルートを確認していたこともあり、当日の天候と日程次第で組み込んでも問題ないと判断したのである。
横江駅周辺には駐車場が複数あり、登山装束の人の姿が多い。
平日ということもあって中高年登山者の姿が大半だったが、子供を連れた家族連れも1組。確かに子供が登るには適当な山でもある。
集落道から斜面の短絡道、林道と繋ぎ、行く手に尖山の山頂を見つつ林道終点まで進むと、地元の山岳団体のメンバーが集合して登山道手入れの準備中。
その脇から沢筋の登山道に入り、標高450mの等高線を越える辺りまで沢を詰めたら、斜面の巻き道に入る。
幾つかの切り返しをこなしつつ、急登を登り詰めて標高559.19mの二等三角点「布ヶ滝」が設置された山頂に到着。
9時46分着。22.1㎞。
横江駅からの2.9㎞を36分で登ってきたことになる。
山頂からは立山連峰を中心に、まだまだ冬装束の飛騨山脈の山々を眺めることが出来たのだが、この日は生憎、前線の接近もあって上空は白霞が強くスッキリとした山岳景観は望めなかった。
それでも、鍬崎山、立山連峰、大日岳、剱岳、毛勝三山などを写真に収められたのは良しとしたい。実際、翌日以降は3日間程度スッキリしない曇雨天が続いたので、天候悪化が1日早ければ登山自体を取りやめていたことだろう。
眼下の富山平野も一望。
この日は地元の愛好家団体も登ってきていたので、山頂では10数名の人だかりで賑わっていた。
補給を行ったら下山。10時4分発。
復路は往路の途中で見つけていた夏椿峠ルートの標識を辿って下山。こちらは山腹を巻かずに最大傾斜線に沿って降るルートなので急勾配。
もし歩くなら、夏椿峠ルートを登りに使って、下りを地図道にするのが正解という感じであった。
それでも夏椿峠付近から先は台地状の緩やかな起伏を行くので道も穏やかになる。
やがて林道に合流し、来た道を戻って横江駅に戻る。
10時40分着。24.3㎞。合計1時間30分、5.1㎞の道のりであった。
荷物を積み替えて再び自転車スタイルに戻り、補給と写真撮影を済ませて10時52分発。
既に駅ホームは明るい日差しに照らし出されていた。











横江駅から先も勾配区間を進んでいく。
途中、道路工事で片側交互通行の規制箇所があったのだが、その直前で進路右手の空き地に上横江駅の跡が見えてくる。
規制箇所では係員がこちらに合図を送っていたが、その直前で自転車を降りて路肩に駐輪し、草叢に入っていく私を見て、用便とでも思っただろうか。
上横江駅跡は河岸段丘上の草叢といった感じだが、ホームの跡が1面分残っており、その奥には駅施設跡あらしい残骸と平場が残っている。
1921年10月11日に横江駅として開業後、2023年4月20日に隣の千垣駅まで延伸するまでの1年半ほどを終着駅として機能したこともあり構内の跡は広い。
今日、駅跡周辺に集落の建物は存在しないが、これは開業当時も同様。旧版地形図には、僅かな民家が存在したように描かれているが、当時から集落中心地は現在の横江駅付近にあった。
1965年4月15日に上横江駅と改称した後、1997年4月1日に廃止されたのは、そうした立地環境故に利用者が殆ど居なかったからである。
上横江駅跡を出ると県道は立山線をアンダークロスする。
勾配も一段ときつくなるが、それが少し落ち着く辺りに千垣集落が開ける。
ここで白山社に参拝し、集落を抜ける辺りから再び勾配がきつくなって、再び立山線をアンダークロスした少し先に、千垣駅が見えてきた。
傾斜のきつい道路脇の一段下がったところにある千垣駅には11時25分着。28.3㎞。




千垣駅は1923年4月20日に富山県営鉄道の駅として開業した。
当時の横江駅からの1駅間の延伸開業である。
その後、小見(現・有峰口)以降に延伸するのは1937年12月1日まで待つことになるので、14年半ほどを終着駅として機能していたことになる。
現在は1面1線の棒線駅となっているが、向かい側にも駅施設の遺構と思われる構造物が残っており、終着駅時代の面影を偲ぶことが出来る。
駅舎も有人時代の面影が色濃い。
県道側はトタンで覆われているので薄暗いが、ホーム側から明かりが差し込んでいて、居心地は悪くはない。
この日の駅前野宿地はこの千垣駅であるが、一旦、立山駅まで走り切ってから夕方に戻って来る行程。このように行程を組むと、昼間と夕方から夜間、早朝にかけての旅情駅の姿を眺めることができて具合が良い。
この時期は冬季減便ダイヤとなっており、日中は列車の発着がないため駅を訪れる人の姿もなかったが、天候にも恵まれ、残雪を抱く白銀の鍬崎山を眺めながら長閑なひと時を過ごすことが出来た。
11時40分発。






千垣駅からは駅前の登りを引き続き登り、直ぐに常願寺川を渡って右岸側から左岸側に移る。
元々、鉄道路線は右岸側に敷設される予定だったが、有峰ダムの建設工事に伴って資材運搬用に線形変更され、千垣駅のすぐ先の千垣橋梁で左岸側に移ることになったのである。
この左岸にある集落が小見集落で、有峰口駅が設置されている。
この駅は小見駅として1937年12月1日に開業したが、有峰ダム方面への観光誘致を目的に1970年7月1日に有峰口駅と改称した。
特急停車駅でもあり、駅舎は改築・改修によって綺麗になっているが、ホームの待合室は創業当時のままで古色蒼然、趣がある。なお、駅舎は改修を受けているものの、表札は「小見驛」となっている。
ここから有峰ダム方面に向かうと、小見集落の奥にある亀谷集落を越えたら無人境となり、有峰ダム湖畔に出る。
有峰ダムからは岐阜県側に抜けるルートも複数あるが、折立までアクセスして、そこから黒部川源流山域に入山する人が多いだろう。
ただ、この時期はまだ道が冬季閉鎖中であるし、鉄道利用で有峰方面に向かう人は、元々、かなり少ないに違いない。更には鉄道も冬季減便中とあって、駅周辺に人の姿は無かった。
小見集落では小見白山社に参拝。1つ先の本宮集落に進むとその集落の東端にある本宮駅に到着。
ここも1937年12月1日の開業で本宮の名は対岸にある雄山神社中宮祈願殿に由来している。しかし、この集落から中宮祈願殿へのアクセス路はなく、中宮祈願殿への最寄り駅は千垣駅となっていて、駅前から出るコミュニティバスに乗ることになる。
駅は相対式2面2線時代の痕跡が残る1面1線の棒線駅で、駅舎の中には売店の跡も残っていて、往時の賑わいが偲ばれる。
ちょうどお昼時でもあったので、朝のうちに仕入れておいた総菜パンやおにぎりで昼食を済ませる。対岸の芦峅寺集落内には郷土料理店があるようなのだが、この日は定休日で営業しておらず、他には目ぼしい飲食店がなかった。
12時16分発。












現在は本宮駅を出ると立山駅までの間に駅は存在しないが、かつてはこの区間に芦峅寺、粟巣野の2駅があった。
粟巣野駅は1937年10月1日から1954年8月1日までの17年余りの間、終着駅となっていた時代もある。
今回はこの2駅の跡も探索する予定であったが、芦峅寺駅跡は正確な位置もつかめておらず、現地の状況も分からないので、辿り着けるかどうかは不明であった。
芦峅寺駅跡には立山大橋の袂からアクセス。
但し、アクセス路があるわけではなく、事前に目星をつけていた位置で現地の地形を確認し、急斜面を降って河岸と斜面との間にある路盤よりも少し河岸よりに向かい、ちょうど立山線のトンネル坑口が開いている横に辿り着くことに成功した。
ここからは路盤を避けて河岸側の山林内を歩いて上流側に移動。
程なく、見上げる斜面に人口構造物が見えてきて、その地点で斜面を登ってみれば、芦峅寺駅のホーム跡と倒壊した倉庫の建物が見えてきた。
この芦峅寺駅についてはルート変更によって鉄道が通らなくなった芦峅寺駅へのアクセス駅として設置されたというが、実際に架橋されることはなく、代わりに芦峅寺地区からの鉱石の搬出のための貨物駅としての需要が生まれたことにより、索道による搬出・積み込みを行っていた、という情報がある。
現地においてもホームの他にコンクリート製の大きな構造物が路盤よりも川側に残っているのは確認できたので、この情報は信憑性のあるものと判断しているが、図面などを伴った詳細な情報は確認できておらず、また、索道についても旧版地形図では確認できなかった。
帰路も同じルートを辿ったが、こちらからは古い作業道を見つけることが出来た。
既に一部は崩壊していて安全に通行できるような作業道ではなかったが、立山大橋側の取り付き部分には単管による階段も作られており、山林作業や橋梁工事に使われたのかもしれない。
踏査を終えて立山大橋上から立山線を見下ろして撮影を行った後、ホテルテトラリゾートに立ち寄って日帰り入浴。
その後、粟巣野集落に立ち寄って粟巣野神社に参拝。
この付近には複数のスキー場が開設されており、冬季はそれなりに観光客も来るようだが、既にシーズンは終わっており、観光客は殆ど居なかった。
粟巣野集落は台地上にあるので立山駅までの間は基本的に降り基調。
この山麓に粟巣野駅があり、既述のように現在の立山駅が開業するまでの間、終着駅として機能していた。
当時は駅前に集落も形成されていたが、今日、地形図で確認してもそのような痕跡は見当たらない。
この粟巣野駅跡まで作業道が通じているが、冬期間の堆積物で路面状況が悪かったので、徒歩でアクセスし、まずは、駅跡から立山駅方に進んだ山腹にある真川神社に参拝。次いで、芦峅寺駅方に移動してホームが残る粟巣野駅跡を訪問した。
この駅跡には複数の施設遺構が残っているが、現役で活用されている施設もある。建物には特に表示はないが、粟巣野集落の温泉の源泉だという。
このほか、ゴンドラの遺構も残されていたが、これは、かつて存在した索道の跡で、駅とスキー場とを結んでいたらしい。
この探索の間、立山駅に向かう普通列車が粟巣野駅跡を通過していった。
駅の構内は山側だけでなく川側にも広がっており、探索すればそれなりに施設が見つかるのではないかと思うが、既に藪に覆われており、今回はそこまでの探索は実施していない。
真川橋梁を眺めながら真川を渡り、終着の立山駅には15時9分着。44.8㎞であった。














立山駅は1955年7月1日に千寿ケ原駅として開業した。その前年の1954年8月1日には仮駅として立山駅の名称で400mくらい下流に開業している。
立山駅への改称は1970年7月1日。
鉄道史で言うと富山地方鉄道時代の開業であったが、粟巣野駅開業からの期間中、小見~粟巣野駅間を立山開発鉄道が担っていた時期がある。
現状から考えれば立山駅の1歩手前で長く工事が停滞していたように見えるが、これは実際にはそうではなく、粟巣野駅開業当時、この粟巣野駅付近が左岸側の最上流集落であり、現在の立山ケーブルカーは存在せず、もちろん、立山黒部アルペンルートなどもなかったため、延伸する必要がなかったからである。
旧版地形図で見ると、粟巣野駅からは現在も存在する砂防軌道が延びているだけであった。
当時から登山の拠点としての利用はあっただろうが、その拠点集落が粟巣野駅周辺の集落であり、集落の住民や観光利用者もはこの粟巣野駅で乗降すれば事足りていたのであろう。
立山ケーブルカーの免許申請に関連手続きは1952年になされており、開業は1954年8月13日。この免許申請は立山開発鉄道の手によるものだ。
立山仮駅の開業は既に述べたように1954年8月1日であったから、千寿ケ原駅までの延伸開業は、この立山ケーブルカーの開業に合わせたアクセス路線としての意味合いでの開業だったことが分かる。
粟巣野駅の廃止は1988年7月1日のことであるが、それは、立山観光の拠点集落が現在の立山駅周辺の千寿ケ原地区に移ったことの帰結だったのであろう。
この日はまだ春の観光シーズン到来前。温泉がある宇奈月温泉駅とは異なり、アルペンルートへの入り口としての機能が強い立山駅周辺に観光客の姿は殆どなかったが、シーズン到来前の工事関係者やビジネス関係者の姿が見られた。
立山駅の写真を撮影し、自販機で水分補給をして15時17分出発。
いずれ、宇奈月温泉駅と立山駅との間を、黒部峡谷鉄道や登山を挟んで訪問してみたい。


立山駅からは覆道の多い降り基調の道を進む。
芦峅寺集落では雄山神社中宮祈願殿を参拝。
前立社壇では朝の静謐な空気が境内や参道を満たしていたが、中宮祈願殿では夕方の郷愁感ある空気に満ちていた。
千垣駅には15時57分着。52.6㎞。
この日は尖山登山も挟んだが、1日の日程としてはかなり余裕をもって終えることが出来た。難関だった芦峅寺駅跡の探訪も無事にこなせたので、満足感のある1日であった。
到着時、立山町のコミュニティバスが駅前に停車していた。
バスと言ってもライトバンであるが、駅に掲示されている時刻表を見ると、電鉄富山行きの到着時刻の前に駅にやってきて、立山行きの列車の出発時刻後に駅を出発するダイヤで、芦峅寺集落との間を結んでいるようだった。
このタイミングでは16時17分着の立山行きの列車からの降車客を待っている様子。
コミュニティバスの発着時間帯は駅の利用者が居ることも予測して、荷物や自転車は邪魔にならない場所でまとめておくことにした。



この時期の立山線岩峅寺~立山は昼間は減便されていて運行空白となる時間帯があるが、午後は14時台から運転が再開される。
次に到着する列車は16時17分発の立山行きで、以降、17時18分、18時20分、19時20分、20時20分、21時20分と続く。
対する上り列車では15時49分、16時56分、17時56分、18時59分、19時59分、20時59分。
比較的規則的なダイヤで、概ね、電鉄富山行きが出発してから20分程度で立山行きがやってきて、それが立山駅で折り返して40分前後で電鉄富山行きとなって戻って来るというパターンだ。
但し、立山行き21時20分の列車は対応する折り返し列車が無く、朝の始発列車は電鉄富山行きが6時22分発、立山行きが6時44分発となっていることから、立山駅で夜間滞泊して、翌朝の1番列車となって山を降ってくるものと予想される。
比較的早い時間帯に到着したので、千垣集落や芦峅寺集落の住民の利用があるだろう。
野宿の準備はコミュニティバスの最終便が出た後にする必要があるかもしれない。町営のコミュニティバスの最終便は19時21分発なので、それを待って野宿準備をすることとし、夕食は列車発着合間に素早く済ませることとした。
その上で写真撮影も実施。
千垣橋梁を渡る列車の写真撮影も行いたいので割と忙しい。
乗降があるとすれば立山行きからの降車と予想していたが、16時17分発の立山行きからの降車はなく、17時18分、18時20分それぞれから1名の降車があったのみだ。
うち1名は千垣集落の方に降っていった。
もう1名はコミュニティバスで芦峅寺集落に帰っていったように思う。
17時前後と19時前後の2回に分けて、千垣橋梁を通過する列車の撮影の為に、千垣橋梁に向かったが、上下列車の間合いも多少の間隔が空くので、そのタイミングで有峰口駅も訪れる。
千垣駅と有峰口駅との間は、営業キロで0.6㎞しか離れていないので、徒歩でも無理なく行き来できる距離だ。
こうして19時20分発の立山行きが千垣橋梁を渡るまでは駅周辺をウロウロして過ごし、それが過ぎてから千垣駅に戻った。
残すところ上下2本の発着があるが、ここまでの様子を見る限り、この日、この後で乗降はないだろう。
結局、20時20分の立山行きまで撮影し、残り2本の列車の発着を待たずに野宿の準備を整え、眠りに就くことにした。
















ちゃり鉄30号:6日目(千垣-岩峅寺=上滝=稲荷町-富山駅停留場=南富山駅前=笹津-神通峡春日温泉-柳瀬=青島作業場-庄川水記念公園)
6日目は千垣駅から庄川水記念公園までを走る。
走行対象路線は地鉄の上滝線・不二越線・富山軌道線の一部と笹津線廃線跡、庄川沿いにあった砂利専用路線廃線跡である。
一旦富山駅まで降り、その後、笹津まで登り、千里付近から砺波付近に向かって丘陵地帯を越え、庄川峡まで登る、という行程なので、比較的アップダウンが大きい上に、富山軌道線や笹津線廃線跡など、駅間距離の短い部分を走行するので、所要時間が長くなる行程だった。
ルート図と断面図は以下のとおり。


ルート図を見ると割とジグザグとした線形になっているが、この日の計画作成には苦労した。
千垣駅から一旦富山駅付近まで戻った後、笹津線廃線跡に入らずに、射水線廃線跡に向かう計画も考えられたのだが、その場合、新湊付近からの行程設計があまりきれいにならなかった。
また、笹津線廃線跡を辿って笹津まで辿り着いた後、真っすぐに西進すれば目的地の庄川峡付近に達するのだが、経由地となる山田村管内の道路は、この時期、冬季閉鎖区間が多く、スムーズに西進することが出来ない。
冬季閉鎖区間を迂回することになるので距離は伸び、山岳地域を行くのでアップダウンも激しい。
そのため、結局千里付近まで降った後に丘陵越えを行い、庄川沿いに出たら遡るという形で、アップダウンが比較的少ないルートを走ることになった。
また、庄川峡には日帰り温泉施設があるのだが、この日は生憎の休業日。
笹津からの経由地に思ったような入浴施設もなかったので、笹津付近で春日温泉に入るという時刻表になった。
さて、一夜明けた千垣駅は、昨日までの晴天が嘘のように、厚い雨雲に覆われており、既に小雨がパラパラと降って地面も濡れている。
起床は4時半頃で、朝食と撤収を素早く済ませるが、ヘッドライトを灯して駅前のトイレに向かう段階で霧雨に降られていたので、出発前に雨天ライドの装束を固めておくことになった。
10日前後も旅するのであるから行程のどこかで雨が降るのは避けられないが、朝から雨というのは気が滅入る。これを楽しめるようになれば達人というべきか。
6時22分には電鉄富山行きがやって来るが、今日の出発は6時を予定しており、始発列車を見る前には駅を後にすることになる。
夜明けの空は紺色から群青色を経て、紫色に染まることなく青灰色に明けていく。
昨日の16時前に到着してから14時間。存廃議論の渦中にあるとは言え、味わい深い旅情駅は旅の一夜を優しく見守ってくれたように思う。
千垣駅、5時57分発。


この日の最初の「ちゃり鉄」路線は地鉄上滝線になるので、安直には、千垣駅前から岩峅寺駅まで目の前の県道を降れば済む。
しかし、私は一旦逆走し、有峰口駅のある小見集落に向かい、そこから、常願寺川左岸に沿って小集落を繋ぎつつ、その集落内の神社に参拝して横江駅手前で再び常願寺川右岸に渡るというルートで、朝一の行程を走ることにしていた。
この区間には和田、中地山、才覚地、牧、岡田の5つの集落それぞれに神社があるので、それらを巡っていく予定としていたのだが、当日、ルート計画を見落としたらしく、牧の雄山神社は参拝しそこなっていた。
それで天罰が降るということもないだろうが、別の機会に訪れることがあれば、参拝していきたい。
訪問した4社はいずれも参道が苔生しており、参拝者の少なさを感じたが、各集落で手入れは行っているようで、拝殿が荒れているといったことはなかった。
岡田集落付近からは常願寺川の向こうの山並みに突き出る尖山の特徴ある山体を眺め、昨日は陽光に満たされていた横江駅には6時49分着。10.6㎞。
千垣駅と同じく古い木造の駅舎は雨の中で湿り気を帯びていたが、それもまた良い。
雨天の早朝ということもあり、昨日とは違って人の姿もない横江駅は6時58分発。









横江駅からは緩やかな降りを快走して岩峅寺駅に7時5分着。13.8㎞。
今日はここから上滝線に入る。
上滝線は1921年4月25日に南富山~上滝間を富山県営鉄道が開業させたのを皮切りに、岩峅寺駅までは1921年8月20日に開業した。
その後、1942年5月28日に日本発送電、1943年1月1日に富山地方鉄道に経営が移管された路線だ。富山地方鉄道に経営が移管された当時は、この路線が立山線を名乗っており、現在の立山線の寺田~五百石間は五百石線と称していた。
これが現在のように整理されたのは1969年4月1日である。
今日では不二越・上滝線という名称で同一路線のように扱われているが、不二越線の区間である稲荷町~南富山間とは、出自が異なる路線である。
岩峅寺駅付近からは風も強くなってきた。
雨天時は撮影の際に傘を差し、レンズに雨滴が着いたら拭き取る手間が発生するが、愚直に同じ作業を繰り返していく。手を抜いてカメラを内部まで湿らせてしまうと、接点不良などが生じて撮影自体に支障が出るからだ。
それでも雨に風が加わると厄介で、傘が風に煽られてカメラがブレるし、風に吹かれた雨滴がレンズに付着してしまう。
レンズの水滴を拭きながら数枚の写真を撮影して7時10分発。
この先、暫くは常願寺川の扇状地平野を緩やかに降っていくことになるのだが、まず初めに上滝橋梁で右岸側から左岸側に渡る。
そこにあるのが大川寺駅で、後背の河岸段丘上にある大川寺が駅名の由来。ただ、今回は大川寺ではなく駅前の常西水神社に参拝する。
この駅は上滝公園下駅として1929年6月10日に開業した後、1959年1月1日に大川寺公園、1967年10月1日に大川寺遊園と改称し、1997年4月1日に大川寺駅となった。
1面1線であるが、丘陵の末端に覆道状のホームを備えており、駅舎もある。
この駅舎は1976年11月9日の竣工で、上滝橋梁の架け替え工事に伴うものだったという。それ以前の駅舎や線路は現在位置よりも少し北側に位置していたようだ。
ちょうど朝の通勤時間帯ということもあり、7時27分発の電鉄富山行きがやってくるところ。先ほどのキャニオンエキスプレスが来るのだろう。
果たして、その1分ほど前に上滝橋梁の向こうに姿を見せたのはキャニオンエキスプレス車両で、駅では中年男性1名が列車の到着を待っていた。
朝の通勤時間帯の列車ということもあってか、この列車は3両編成で車掌も乗務。
毎日同じ形式の車両で運用されているわけでもないだろうが、鉄道ファンとしては当たればラッキーなパターンだ。
この発着を見送って「ちゃり鉄30号」も出発。
7時16分着、7時31分発。15.2㎞。







上滝駅は常願寺川左岸扇状地の尖部集落の玄関駅で、かつては島式1面2線の交換可能駅だったが、今は1面1線の棒線駅化されている。
駅舎は1958年4月21日に国体開催に合わせて改築されたものだということで、開業当時の駅舎とは異なるが、ホームに残る木造の待合室は、往時の記憶を今に伝えている。
上滝駅では7時40分発の岩峅寺駅が発着するタイミングだったが、その列車の到着を把握しておらず駅に隣接した踏切の方を見に行っていたので、発着シーンは撮影しそこなった。
続く大庄駅も新築駅舎で2006年2月20日の竣工。
これは失火による旧駅舎の消失によるものだという。
構内は相対式2面2線であったが1線化されており、駅舎の対面に残る旧ホーム跡は農協倉庫の敷地に使われている。
駅構内は駅舎建て替えに際して再整備が行われたようで、小振りながら駐車場と駐輪場が整い、記念樹らしい桜の木と共に、駅前の雰囲気を良くしていた。
この駅では列車発着の間合い時間に入ったため男子高校生が1人、列車を待っているだけで他の利用者の姿は無かった。
続く月岡駅は島式1面2線で交換可能駅。
木造駅舎とホーム上の待合室を備えているが、木造駅舎は全体的に改修が行われているように見える。一方、ホーム上の待合室はやや傾いた感じがするもので、創業当時からのもののようだ。
ここでは14760形の電鉄富山行きと、元京阪の10030形ダブルデッカーエキスプレス岩峅寺駅行きとの行き違い。
10030形は京阪電鉄時代の印象のまま。
京都で学生時代を過ごした私は、大学最寄りの出町柳駅から大阪方面に往復するのに、京阪特急をよく使った。座席が空いているなら必ずダブルデッカー車の2階か、先頭車の運転席反対側の最前列窓側に座ったものだ。最前列は人気があって、他が空いているのにわざわざ隣に座られたこともあって驚いたものだ。
大学の後輩の中には、「1階席だと駅のベンチに座ってる女の子のパンツ見えますよ」などとアホな話題で喜んでいる奴もいたが、そんな京阪電鉄時代の塗装のままの列車を見ると、懐かしさがこみ上げてくる。
このダブルデッカーエキスプレスには車掌が乗務していた。
この月岡駅辺りからは増々風が強くなってきており、駐輪場の自転車は総倒れの状態。写真撮影もカメラを風下側に向けないと難しかった。
ただ、富山駅に向かうルートでは追い風になるのは幸いだった。
月岡駅は8時1分着、8時17分発。20.3㎞。









開発駅は単式1面1線の無人駅であるが、かつては2面4線の構造を持っており、今もその痕跡が広い構内に残っている。
木造駅舎も健在だが、駅前の敷地は再整備されており、かつて線路が敷かれていたと思われる部分が駐車場に転用されたりしていた。
この開発駅に着いては、越中舟橋駅の記録の中でも触れたが富山県に多い地名で「かいほつ」と読む。
由来が気になる地名であるが、一般的に類推しやすい「新田開発」などに由来するという説の他に、仏教用語に由来するという説もあり、興味をそそられる。或いは、この両者が混交して名付けられた地名というのが正しいのかもしれない。
続く布市駅は北陸自動車道の直ぐ南に位置する。
富山市の中心市街地はこの北陸自動車道北側に広がっていて、あたかも、北陸自動車道が市街化地域と郊外地域との境界線をなしているかのようだ。
1面1線の棒線駅でホームの待合室と一体化したような駅舎があるが、この待合室は1977年9月1日改築のものだという。
布市駅では駅前の日枝神社にも参拝した。
布市駅を出て北陸自動車道の高架下を潜り抜けていくと、富山市街地に入る。
ここには2003年3月25日に新設された小杉駅があって、付近の高校の通学生などで賑わう。朝の通学時間帯は駅係員も配置されるようだ。
富山で「小杉」という地名から思い浮かぶのは呉羽丘陵北部にある射水市の小杉で、同名の小杉駅があいの風とやま鉄道にも存在するが、上滝線の小杉駅は周辺集落名によるもの。現地では「小杉ってこの辺だったかな?」と疑問に思っていたが、両者には直接的な関係性はない。
月岡駅で出会ったダブルデッカーエキスプレスが岩峅寺駅で折り返してきて、小杉駅に発着するのを見送って出発。
続く上堀駅には8時56分着。25.6㎞。
上堀駅は路線開業当時からの駅であるが、現在の駅は1930年代前半に移設されたものだという情報もある。この移設と元の駅との関係性はよく分からないが、駅舎は開業当時の面影を残しており、地元の愛好家団体によって駅前花壇が整備・手入れされるなど、落ち着いた雰囲気が好ましい。
現在は単式1面1線化されているが、相対式2面2線時代のホームも残っており、構内配線にもその時代の痕跡が見られる。
この駅付近で雨は小康状態になったので、足回りのレインウェア類は脱ぐことにした。
9時10分発。










続いて住宅地の中の朝菜町駅を経て南富山駅に達して上滝線の「ちゃり鉄」は終了。
朝菜町駅は1958年4月5日開業で、沿線の駅としては小杉駅が新設されるまでの間、最も新しい駅であった。
1面1線の棒線駅で、市街化の進展に伴って付近住民の利用の便宜を図るために設けられた駅であろう。
南富山駅には9時25分着。28.2㎞。
南富山駅は不二越線、上滝線、富山軌道線本線が一堂に集う要衝。かつては更に笹津線が笹津まで伸びていた。
駅そのものの起源は1914年12月6日の富山軽便鉄道堀川新駅開業にまで遡ることが出来る。この富山軽便鉄道は不二越線の前身にあたる鉄道で、この時、稲荷町~堀川新~笹津間を開業させた。
この富山軽便鉄道は1915年10月24日には富山鉄道に改称したが、1933年4月20日には堀川新~笹津間が廃止され、富山駅~堀川新間は富南鉄道に譲渡。更には、1941年12月1日に至って、富南鉄道が富山電気鉄道に路線を譲渡して、富山電気鉄道富南線となった。
不二越線が独立した線路名称を持っているのは、こうした出自によるものである。
1915年3月13日には富山電気軌道の堀川新駅前駅が開業。これは「軌道」という事業者名から分かるように、現在の富山軌道線本線の前身となった鉄道だ。
上滝線は既に述べたように1921年4月25日に開業。
この際、駅名を堀川新駅とせず南富山駅とし、両駅は隣接する別々の駅として存在した。ちょうど、開業当時の岩峅寺駅と立山駅のような関係である。
旧版地形図ではこの時代の3駅併存の様子が描かれている者があり興味深い。
これらの駅名が南富山駅に集約されたのは、その戦時統合のさなかである1943年6月11日であった。
現在の富山地方鉄道は多くの中小鉄道が戦時中に国策によって統合されて誕生した鉄道であるが、その歴史が南富山駅には詰まっている。
この駅は後程軌道線本線側を辿って戻って来るので、一旦出発。9時29分発。






不二越線区間は市内電車の雰囲気で、大泉、不二越、栄町の3つの中間駅を挟んで稲荷町駅に達する。このうち、路線開業当時からの駅は不二越駅のみで、開業時は山室駅と称した。不二越駅への改称は1958年4月12日。
大泉駅は1952年9月26日、栄町駅は2019年3月16日に開業している。栄町駅は富山地方鉄道では最も新しい駅である。
中間駅はいずれも1面1線の棒線駅で、路線内での行き違いは出来ない。
不二越駅には駅舎があったようだが、2005年7月26日に県道拡幅工事によって駅舎を取り壊した上で移設されており、現在のようなシンプルな構造の駅になった。
不二越線内では雨は小康状態を保っていたものの、暴風に近い強風が吹き荒れていて、栄町駅では駅の掲示物が飛散している状況だった。
富山駅付近までは追い風になるので走行に大きな支障はないのだが、その後、笹津までの区間では向かい風になる。真っすぐに進めないような風が吹いているので、少々心配になる。
不二越線の「ちゃり鉄」を終えて、稲荷町駅には10時1分着。10時5分発。31.8㎞。
富山駅前には10時16分に到着。34㎞。




富山駅からは富山軌道線本線の「ちゃり鉄」に入り、南富山駅を経由して、笹津線跡に向かう。この先の区間は停留場を中心にたどることになるので駅間距離が短く、時間を要する行程。しかも、この強風でこれからは向かい風。笹津までは20㎞弱あるのだが、昼食も含めて、中々、時間がかかることが予想される。
富山軌道線本線の「ちゃり鉄」は、富山軌道線富山駅南北接続線の富山駅前停留場から開始。
駅前で左折して東進したあと、地鉄ビルの角で南進に転じ、県道43号富山上滝立山線に入る。この道は、今朝方、千垣駅から横江駅に出る際に通った道だ。
この付近は「地鉄ビル前」、「電気ビル前」といった停留場名が示すように、富山駅前の商業ビル群の一画で、折からの強風がビル風として吹き抜けるので、猛烈な向かい風になっていた。
桜橋停留場では、路面電車から降車したビジネスマンが風に煽られて転倒したりしている。
そして、この段階で再び雨が降り出した。
これはもう、最悪の気象条件である。
幸いというべきか、この付近で11時頃からランチにする予定だったので、30分ほどの滞留になるが、目的の店が営業開始するまで待って雨をやり過ごすことを考えた。
そこで先ほど橋の上から満開の桜を眺めた桜橋に戻り、松川河畔の遊歩道を探りに行ったのだが、近くにあった東屋は既にインバウンド旅行者らしい人の群れが雨宿り中で、空きスペースがない。
結局、桜橋停留場前に戻り、オフィスビルの入り口付近で雨宿り。
小降りになったタイミングで走り出して荒町停留場まで進み、この付近にあるアオヤギ食堂で昼食とした。
11時営業開始との情報があったので11時にドアを開こうとしたら、中に店員は居たものの「closed」の標識のまま。11時30分だったかと思って場所を変えて調べているうちに、私の様子を見た店員が中に招いてくださったので事なきを得た。
このお店は事前に調べて目星をつけていた。
カレーの専門店だけあって、普段、自宅で自分で作るものやチェーン店のそれとは違う、拘りある味わい。
この付近の人気店らしく、私が入った後に直ぐに複数の来客があり、あっという間に、店内は8割の入りとなった。
このランチ中に外は薄日が差すくらいの状況にはなってきた。
途中でやってきた店主らしき男性は店先に停めていた自転車に気が付いたのか、支払いを済ませて出発する時に、「よい旅を」と見送ってくださった。
このアオヤギ食堂の少し南に中町(西町北)停留場があり、そこで富山軌道線富山都心線が北向きに合流してくる。
中町(西町北)停留場、11時24分着。11時25分発。36.3㎞。









この中町(西町北)という停留場名が暗示するように、富山軌道線本線には西町停留場もあるのだが、私はこの「ちゃり鉄30号」で西町停留場を素通りしてしまった。
恐らく、交差点直前にある中町(西町北)停留場と、直後にある西町停留場とを同じ停留場と認識してしまったからだろう。
写真も撮らずに素通りして上本町停留場まで進んでしまっていた。
この西町停留場は8日目の行程で富山軌道線富山都心線を巡る際に、偶然、写真だけは撮影していたのだが、これだけ短い距離に複数の停留場が存在すると、中々に、現在位置の把握が難しいことを実感した。
この上本町停留場付近からは都心部のオフィスビル群を抜け、徐々に宅地の広がるエリアに入るのだが、各停留場の構造は同じような構造である。
途中、白山社前停留場の跡地などを通るが、勿論、道路の中央部ということもあって遺構はなく、付近にある越中白山総社にその面影を偲ぶばかりだ。
特徴があるのは堀川小泉停留場で、ここは道路両側の歩道から跨線橋を介して上下の停留場乗降場が繋がっている。他の停留場は千鳥式2面2線なのに対して、ここは相対式2面2線構造である。
大町停留場を越えてすぐに90度で右転すると、先ほど上滝線から不二越線へと走り繋いだ南富山駅が見えてくる。この南富山駅前停留場で富山軌道線本線の「ちゃり鉄」は終了。
11時48分着、11時49分発。38.5㎞であった。








この南富山駅からは地鉄笹津線廃線跡を行く。
この路線は既に軽く触れたとおり、1914年12月6日の富山軽便鉄道による開業まで遡るが、その後、富山地方鉄道時代の1933年4月20日には廃止され、1950年から1952年にかけて再開された後、1975年4月1日に全線が再度廃止されたという経緯を持っている。
この笹津からは神岡鉱山専用軌道が接続し、神岡鉱山からの鉱産品輸送網を形成していたが、現在のJR高山本線に当たる路線が1929年10月1日に笹津まで延伸開業すると、笹津線の経営は一気に悪化し廃止へと舵を切ったのである。
しかし、沿線住民による鉄道復活要望は大きく、戦後になって、富山地方鉄道の手によって路線は復活するが、同時に進んだモータリゼーションの進展によって、結局は1975年4月1日に全線が廃止されたのである。
今日、その廃線跡は車道転用されていて遺構はほぼ残っていないことを確認しているが、神通川扇状地に存在した鉄道沿線の風景を偲びながら笹津まで走るのが、次なる目的である。
この行程は始終、強い向かい風に悩まされた。
幸い、昼食後は天気が一時的に回復しており、雨に降られることはなかったのだが、巡航速度は10㎞前後。下手すると1桁にまで落ち込む強い向かい風の中、四苦八苦しながら緩い登り勾配を走り続けることになる。
駅の跡は事前に調べておいたが、正確な位置は分からず、現地でも推定するしかない場所が多い。記念碑などは残されていないことも調査済みである。
地元の要望によって再開したにも関わらず、再開した時代には既に不要になりつつあり、顧みられることなく廃止されていく鉄道は枚挙に暇がないが、ここもそんな鉄道の1つであった。
南富山駅方から、日本繊維前、袋、赤田、上野、熊野と辿っていくが、線路跡は交通量の多い車道転用されており、面影を偲ぶことは出来ない。
それぞれの駅跡も商業施設に取り込まれていたり、道路拡幅で消えていたりで、往時から残っているであろう神社や交差点の名前で辿っていける程度である。
熊野駅跡付近は富山地鉄建設株式会社の敷地となっており、路線の歴史を知っていれば、ここは明確な駅の痕跡と認識できるだろうが、駅跡を示すようなものは特に残ってはいない。
熊野駅跡、12時38分着、12時39分発。43.1㎞。





この辺りまで来ると天候は回復してきて青空も広がった。
しかし、強風は相変わらずで時速は10㎞前半を越えず、遅々として進まない。
それでも、1つ1つ、駅の跡を辿っていく。
伊豆ノ宮駅跡は何も痕跡がないが、付近には駅名の由来となった伊豆社があるので参拝。
駅はその参道に繋がる脇道の分岐点辺りにあったのだろうか。
この付近から行く手に大沢野の街並みが見えてくる。ここに、大久保町、上大久保、大沢野北口、田村町、大沢野八木山といった駅があり、その南で敷紡前駅を経由して終点笹津駅に入る。
大久保町駅跡は大久保停車場公園として整備されており、沿線では最も駅跡のイメージが濃厚な場所である。
パソコンスクールの敷地付近だという上大久保駅跡を経て、大沢野北口駅跡に至ると、ここもそれらしい公園敷地になっていて、駅跡を推定できる。
田村町駅跡や大沢野町八木山駅跡は明確ではなく、交差点などから位置を推定するのみ。
但し、この大沢野町八木山駅跡から笹津駅の手前までは、明確な廃線跡が残っており、自転車・歩行者専用道路となっている。
かつての線路のイメージを留めているのは、この僅かな区間だけ。
途中、敷紡前駅があった付近には路傍に大きな桜の木が植わっている。往時の駅はこの桜の辺りにあったのだろうか。
区間運休によって閑散としたJR笹津駅には13時34分着。51.6㎞。
この付近から先には神岡鉱山に至る鉱山鉄道が神通川右岸に敷設されており、今もその痕跡を対岸の国道から眺めることが出来るが、今回は「ちゃり鉄」の対象とはしなかった。いずれ、高山本線の「ちゃり鉄」などと合わせて、有峰湖方面の探訪も合わせる形で訪れてみたい。
閑散とした笹津駅の駅舎には中年男性が一人、何するでもなく座っているだけ。
風に悩まされ続けたが、これからは千里付近まで南寄りに進むので、多少はましになることを期待しつつ、一旦、春日温泉に立ち寄るために笹津駅を後にする。13時41分発。










笹津駅から少し南に戻って踏切を渡り、神通川の上流に向かって伸びていく谷間と線路を遠望した後、春日温泉に立ち寄り。13時48分着。53.1㎞。
入浴には早い時間帯なのだが、今日この後の行程で、適切な場所に入浴施設がなかったために妥協した。
尤も、妥協と言っても、温泉そのものに問題はないし、ここまでの行程でも雨と強風で疲れていたので、一風呂浴びてさっぱりするにはよい。
泉質はナトリウム塩化物泉で癖はない。
特徴がないとも言えるが、この後、半日近く走ることを考えると、寧ろ、その方が良い。
ところが、さっぱりして温泉から上がり、脱衣場を出て館内のソファで休憩をしようと思いながら窓の外を見ると、先ほどまでの晴れ間が嘘のような土砂降りの雨になっていた。
「ちゃり鉄」ではよくあるパターンなので驚きはしない。
雨雲レーダーの情報を見てみると、どうやら、寒冷前線が通過した後に小さな雨域が次々とやってくる状況だった。
こうなると、休んでいても回復する見込みはない。
今日の目的地の庄川峡は30㎞以上の距離がありまだまだ遠い。
雨の止み間に走り繋いでいくしかないので、今、土砂降りの雨を降らせている雨域が10分くらいで抜けていくのを待ってから出発することにした。
春日温泉15時7分発。予定よりも長い滞在時間になったが、致し方ない。


ここからは一旦神通川に沿って降り、婦中町に入ったところから西進。千里付近でJR高山線を跨線橋で越え山田川上流域の丘陵越えに入る。
雨は小康状態だが、春日温泉を出るタイミングでの晴れ間は直ぐに掻き曇り、今にも降り出しそうな空模様の中を走ることになる。
富山~笹津間は南行したが、笹津~庄川間は北行から西行となる。南行で強い向かい風だったので風は南寄り。北行から西行なら、追い風から横風基調になるかと思いきや、西寄りに風向が転じており斜め前からの向かい風。
これもいつものことだが、じわじわと体力と精神力を削られる展開だ。
丘陵越えの区間では、最初は県道、途中から国道に入り、その国道で丘陵を越え、となみ野大橋で庄川を越えて行く。
県道には千里トンネル付近の峠、国道には鶚谷付近の峠があり、アップダウンが続くが、山田村内を横断していくよりは個々のアップダウンが小さく、冬季閉鎖区間もないため、迂回が大きくなるがこのルートを辿ることにしたのである。
雨は際どく小康状態を保っていたが、笹津線後半区間の時のような青空は閉ざされ、寧ろ、雲の密度が増している。
天気が回復する時には西に向かうと空が明るくなってくるものだが、天気が悪化する時には西に向かうと空が暗くなってくる。
従って、この後、雨域に突入するのは避けられないのだが、それが目的地到着前か到着後かによって、行程の難度は変わる。
山間部の丘陵越えで数枚の写真を撮影。交通量の多い国道に入ってからは、走行中心に山を降り、庄川を渡っていよいよ最終区間に入る。
この柳瀬付近から、庄川温泉郷の青島付近にあった庄川水力電気専用鉄道線の青島作業場まで、砂利専用軌道が敷設されていた時代があり、旧版地形図にもそれが記されているが、この軌道の詳細な情報は未調査で、かつ、情報が少ないことは把握している。河川改修が行われているので痕跡は残ってはいないが、往時とさほど変わらないであろう庄川の風景を見ながら登っていく。
庄川流域に入ると、風は再び南寄りになって結局向かい風。
どうしてこうなるのか不思議だが、そうなるのだから仕方ない。
しかも、太田橋手前付近まで来て、残り7㎞強というところで、再び土砂降りに見舞われる。
辛くも河川公園のトイレの建物の軒下に逃げ込んで雨の直撃は逃れたが、ここで暫く滞留。15分ほどをロスする。
17時を過ぎて薄暗くなり始めた中、太田橋、雄神橋と進んで、庄川が峡谷めいてくると庄川中学校の敷地に至るが、この一帯にかつての青島作業場があった。
なお、「ちゃり鉄30号」では庄川中学校と庄川の間にある河川堤防道路上を走ったが、分岐していた砂利専用軌道の築堤跡が庄川中学校の西側に僅かに残っているので、この付近の線形は走行した部分とは異なっていたようだ。
対岸には庄川温泉の日帰り入浴施設もあるのだが、この日は休業日。
計画段階からしっくりこない行程だったのだが、終日、雨と強風に祟られて辛い1日であった。
庄川町内のスーパーで食材を調達して、庄川水記念公園の目星をつけていた東屋には17時49分着。89.4㎞。東屋の下は心配したような吹き降りもなく乾燥していたのが幸いだった。こういうパターンで目的地に着いたら、どこもかしこも水浸しで、日が暮れた暗闇と雨の中、野宿場所を探して1時間以上、20㎞近くも彷徨ったこともあったので、雨に降られることもなく乾いた地面が予定通り見つかるというのは、本当に嬉しい。
終日降り続いた雨の影響もあって、水記念公園の敷地に隣接する合口ダム湖の表面には川霧が立ち込め始めていた。
桜祭りの準備が行われていて、あとは開花を待つだけの状態となっていたが、この付近はまだ3分咲き未満といったところで、雨降りだったこともあって、人の姿は殆どなかった。
東屋の下にテントを張り、夕食を済ませる頃にはとっぷりと暮れる。雨の中だと、残照の時間はなくあっという間に暗くなる。
テントの中で精算作業を行っているタイミングで、散歩らしい人影1名と、桜を見に来たらしいカップル1組の気配があった以外、人の気配はなかった。
桜が満開で晴天だったら、訪れる人が多くて野宿は無理だっただろう。
そう考えると、この日の天候も最後の場面では功を奏したと言えるのかもしれない。
この庄川町は中学生の頃、庄川清流マラソンに出場するために訪れたことがある。
当時既に加越能鉄道加越線は廃止されていたので、富山駅からバスで往復したような記憶だが、もしかしたら、石動駅辺りからのアクセスだったかもしれない。
この旅は魚津、立山、庄川と、富山県内のロードレース参加地を巡る旅でもあった。
疲れた一日ではあったが、快適な寝床で穏やかな眠りに就いた。










ちゃり鉄30号:7日目(庄川水記念公園-小牧=青島作業場=庄川町=石動-千里浜海岸-羽咋=氷見=雨晴)
明けて7日目。
この日は、庄川水力電気専用鉄道線の廃線跡と加越能鉄道加越線廃線跡を巡った後、宝達丘陵を越えて口能登の千里浜海岸を走り、鉄道敷設法別表第66号線(羽咋=氷見)を越えて富山県に戻って、氷見線の氷見~雨晴間を走って駅前野宿という行程。
JR氷見線や城端線は2021年4月~5月にかけての「ちゃり鉄15号」で走行する計画だったが、氷見駅から雨晴駅に至って野宿を始めた段階で、携帯コンロのガソリンがテント内に噴出して、テント、寝袋、衣類、身体などにガソリンが降りかかるとともに、コンロ自体が破損して壊れてしまったため、止む無く旅を中止して帰宅したのであった。
あれ以来の再訪問。
千里浜海岸の走行と合わせて雨晴海岸の風景が楽しみな行程の1つだったのだが、前日に続き、この日も曇雨天の天気予報で、期待していた雨晴海岸からの風景は絶望的だった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は顕著なピークが3か所あるが、序盤部分は、庄川水力電気専用鉄道線の小牧ダム付近までの往復行程のアップダウン。続く30㎞付近から60㎞付近にかけてが1度目の宝達丘陵越え、70㎞付近から90㎞付近にかけてが2度目の宝達丘陵越えである。
石動から千里浜に抜けたのは千里浜海岸を走りたかったのと、羽咋~氷見間の鉄道敷設法別表第66号線を走りたかったためだが、予定線ルートも「ちゃり鉄」で走れるのは、「ちゃり鉄」の旅ならではと自画自賛している。
さて、一夜明けた庄川水記念公園は昨夕来の霧雨の中。天候は全く回復しておらず、湿度は100%に近い状況だった。
それで東屋の下で濡れずに過ごせたし、テント自体も結露などはない状態。
野宿場所としては恵まれていたように思う。
まだ明りの灯る時間のうちに撤収を済ませて5時50分発。
今日は最終的に雨晴駅に向かうのだから、庄川峡からは石動に向かって西進していくのが順当だが、一旦、真逆の山間部に分け入り小牧ダムを訪問する。
加越能鉄道加越線の終着駅であった庄川町駅付近からダム工事専用の鉄道線が延びていて、それが現在の小牧ダム付近に至り沿線に廃線遺構を留めているからだ。
昨日の砂利専用軌道と合わせて、この庄川付近に存在した一体的な鉄道廃線跡を辿っていくのが、今日の第1の目的である。
その小牧ダムまでのルートは急勾配の登り。
朝一で走り始めて直ぐに登り勾配に入り、以降、小牧ダム付近まで基本的に登り続ける。
小牧集落付近にある小牧八幡宮から、庄川対岸の湯山集落と庄川此岸の小牧集落を見下ろし、隧道を越えて小牧ダムには6時13分着。
ダムの堤体の上は自転車や歩行者なら通行できるので、左岸側から右岸側までを往復した。
右岸側には湯山集落から利賀村に向かう県道が通じているが、隘路が急勾配で山中深くに消えていく。この隘路を商用車が大挙して利賀村方面に向かっていったが、ちょうど冬季閉鎖明けの時期ということもあり、道路の点検管理などに向かうのであろうか。
野宿装備満載の自転車で向かうには厳しい利賀村であるが、いずれ、走りに行ってみたいエリアである。
ダムで踵を返し、ここから庄川水力電気専用鉄道線、加越能鉄道加越線と辿って、石動駅まで抜けていく。
この庄川水力電気専用鉄道線は加越能鉄道とは複雑な関係にある。
鉄道史、事業史として眺めるのも面白く、興味深いが、同時に、私利私欲のぶつかり合いの物語でもある。
その詳細には踏み込まないが、水力電気という事業者名称からも分かるように、この鉄道は小牧ダムや小牧発電所の建設の為に設立された鉄道で、浅野総一郎によるものであった。浅野総一郎はJR鶴見線の浅野駅にその名を残す、浅野財閥の創始者である。
1925年1月15日に青島町~小牧間4.7㎞を開業させたのち、1930年のダム竣工を経て、最終的に1939年10月8日に廃止されるまで存在したが、ダム竣工後も存続したのは、加越能鉄道の前身である加越鉄道側との争議を背景とした流木保証契約や、無許可で行われていた沿線住民らの便乗便宜措置などもあったことが要因のようである。
今日、この専用鉄道線の跡は舗装された車道敷きなどに転用されて残っているようなので、小牧ダム側からそれを辿ったのだが、金谷隧道を潜って小牧発電所に達したところで、水圧鉄管を越えて行く橋梁部分が橋脚を残して撤去されており、車道側に戻らなければいけなかった。
その後は車道転用された部分を降ってくるのだが、庄川水記念公園付近に正確な線形が分からない箇所や、私有地を通過するような場所もありそうだったので、結局、水記念公園の園路を再度辿って青島作業場付近に達した。
この付近からはふれあい花街道として自転車・歩行者専用道に転用されており、途中、庄川中学校西側付近で発電設備の部品がオブジェのように飾られた付近で砂利専用軌道の跡らしい築堤が分岐していくのを見送りながら、左にカーブを切って青島の市街地の北円をなぞり、加越能鉄道の終着駅である庄川町駅跡に達する。
途中、青島神明宮に立ち寄って、庄川町駅跡には7時4分着。10.8㎞であった。












さて、ここからは加越能鉄道加越線の廃線跡に入る。
この鉄道は1915年7月21日の砺波軽便鉄道による福野~青島町(後の庄川町)間開業に端を発する鉄道である。当時既に現在のJR城端線に当たる中越鉄道が城端まで開通していたので、その中間駅である福野から分岐して、青島までを結ぶ私設鉄道として設立され、開通したのであった。
ここまで辿ってきた庄川水力電気専用鉄道線は、伏木港に陸揚げした資材を、中越鉄道が国有化されて生まれた氷見軽便線、中越線と、砺波軽便鉄道から改称した加越鉄道を経由して、小牧ダムや小牧発電所の建設工事現場まで送る目的の鉄道であった。
砺波軽便鉄道から加越鉄道への改称は、砺波軽便鉄道と金福鉄道が合併したことによるものであり、金福は金沢と福野を指していた。金沢は加賀であるから、富山の越中と合わせて加越鉄道となったわけだ。
この金福の構想によって福野~石動間が1922年7月22日に延伸開業している。
更に1943年1月1日に富山地方鉄道に合併して同社加越線となった後、1950年10月23日に加越能鉄道が設立され、同社に譲渡されて加越能鉄道加越線となったのである。
加越能鉄道は、勿論、加越に能登を含めた鉄道敷設計画をもって富山地方鉄道を主体とした出資によって設立された鉄道会社であった。
この加越能鉄道は、1959年4月1日には地鉄高岡軌道線と支線区間を譲り受け支線区間は伏木線とした。更に、1966年4月5日には富山新港建設による地鉄射水線の分断を機に、越ノ潟~新湊間を譲り受けこれを新湊線とした。
この伏木線は1971年9月1日廃止、加越線は1972年9月16日廃止。
更に、2002年2月1日、高岡軌道線と新湊線を万葉線株式会社に譲渡して鉄道事業からは撤退したという経緯を持つ。
私が小学生の頃に読んだ私鉄全線百科には高岡軌道線と新湊線時代の加越能鉄道が掲載されていたが、どうして富山にしか路線がないのに、「加越能」なのかと不思議に思っていたものだ。
当時の北陸には、福井の京福電鉄、石川の北陸鉄道、富山の加越能鉄道という具合に、県外にまで勢力を広げることを意図した社名の鉄道事業者が多かった。
私の生まれる前に廃止になった路線ではあるものの、この加越線跡は大半がサイクリングロードに転用されており、直接的な遺構は少ないものの、往時の線形を辿りながら車窓風景を偲ぶ旅は容易である。
庄川町駅跡は既に住宅地に含まれていて痕跡はないがその付近のサイクリングロードには小公園が整備されており、駐輪場などが残っている。
ここからの廃線跡は鉄道特有の緩やかな曲線が見事である。
東山見駅跡はサイクリングロード沿いの空間として残っている。痕跡と言ってもそれだけだが、小さなホームに簡素な上屋があったであろう往時を偲ぶことが出来る。
続く井波駅跡は一転して文化財駅舎が移設されて残っており、物産館やタクシー乗り場として活用されている。
高瀬神社駅跡は文字通り高瀬神社への入り口に面しており、大鳥居が印象的だ。駅跡は広い空き地となっている。
ここでは「途中下車」して高瀬神社にも参拝した。
交差点を渡ったところにあった焼野駅はその駅の痕跡が僅かな空き地となって残っている。
砺波軽便鉄道時代の起点駅であった福野駅は、工場の敷地に取り込まれていて駅の跡を直接訪問することは出来ない。
ただ、直前まで線路の跡を辿ることが出来る。
福野駅はJR城端線の駅として今も営業しているが、かつてはここから加越線が前後に分岐していたわけだ。
駅構内にその痕跡は残ってはいない。
福野駅は7時50分着。7時52分発。18.8㎞。











福野駅から石動駅までの区間は1922年7月22日に加越鉄道として延伸開業している。
当初開業駅は、津沢、藪波、石動の3駅のみであった。
福野駅を出た加越線は城端線に沿って南東側を少し並走した後、築堤に上がって跨線橋で城端線を越え、北西に向かっていく。
この築堤と跨線橋部分はサイクリングロードとして走ることが出来るが、加越線の廃線跡でも雄大な部分だ。
この築堤を降っていくと廃線跡は転用車道に飲み込まれて消失するがこの付近に柴田屋駅跡があった。柴田屋駅は1926年8月15日に安居地口駅として開業し、1929年~1930年頃に柴田屋駅と改称したらしい。
この転用車道はやが右に分岐していくが、田圃の中に直進する線形で再びサイクリングロードとなった廃線跡が現れる。このサイクリングロードが野尻集落で車道と交差する付近に野尻駅跡があったようだが、正確な位置は分からない。開業は1969年4月1日という。
更に進むと緩やかな左カーブを霧ながら国道471号線の歩道部分に廃線跡が吸収される。この付近が本江駅跡。1933年3月15日の開業であった。
この歩道部分は直ぐに終わり、東海北陸自動車道の下を潜る手前で再び廃線跡は国道から左に向かって分岐していく。
津沢集落内にある津沢駅跡は津沢駅児童公園になっているようだが、現地ではポイントプロットの位置が少しずれており、標識もあるこの公園そのものを撮影しそこなって、少し先の場所を駅跡と認識していた。
ただ、偶然、その駅跡に隣接して廃線跡が集落道を横切るところで写真を撮影していた。僅かに映り込んでいるフェンスの内側に公園があり、そこが駅跡だった。この付近の路線史を知らない人が見れば、何故、この公園が「津沢駅児童公園」と名付けられているのか、不思議に思うことだろう。
小矢部川を渡る前後で廃線跡は消失するが、その後は再びサイクリングロードとして復活し、藪波駅跡に達する。ここも小公園になっており、福野~石動間では最も駅跡の雰囲気が残っている。
この先に、1934年7月1日開業の四日町駅と、開業時期・位置不詳の南石動駅があったようだが、凡その位置を推定して写真を撮影。
石動駅には8時52分着。32.2㎞であった。
これで加越能鉄道加越線の「ちゃり鉄」を終了。
路線跡は程度良いサイクリングロードとして残っているので、「ちゃり鉄」としては楽しい行程であった。
庄川町を出る頃には霧雨も上がっており、天気は回復する気配がないものの、一先ず、雨に降られる状況は回避できた。
石動駅自体はあいの風とやま鉄道の駅となっていて、加越能鉄道の痕跡は残っていない。
そして付近には北陸新幹線の高架が出現している。
この付近の鉄道風景は大きく変貌を遂げたことだろう。
石動駅8時58分発。









ここからは宝達丘陵に入って県境と峠を越えて口能登に降っていくのだが、事前の計画段階では冬季閉鎖中の道路が複数あり、宮島峡や宝達山を越えて行くルートの設計が難しかった。
そこで安直ではあるが、国道471号線を主体として短絡する形でこのエリアを抜けることにした。
小矢部市側は道坪野、峯坪野、谷坪野など由来に興味の湧く地名の山村を緩やかに登っていき、論田、岩尾滝といった集落の辺りで小さなピークを越える。
この岩尾滝にはメルヘンチックな建物が突然現れるが、2008年に廃校となった岩尾滝小学校跡だという。今は小矢部市教育センターとして活用されているそうだ。
ここでも過疎の現実を目の当たりにすることにはなるが、施設が朽ち果てていくのではなく今も活用されているというのは、地域の老いではあれ、何か、明るいものも感じられる。
この先で一旦降った後、嘉例谷で登り返して県境峠を越える。
流域も富山湾岸に注ぎ込む小矢部川流域から、口能登海岸に注ぎ込む大海川流域へと移る。
国道471号線に沿って走ったので、石川県内は津幡町からかほく市を経て宝達志水町へと入っていくのだが、かほく市と宝達志水町との間は小さな登り返しがある。
宝達志水町辺りまで出てくると、何となく、日本海の雰囲気を感じつつ進むようになるが、千里浜なぎさドライブウェイの今浜口までは、更にひとっ走りの距離が必要だ。
千里浜なぎさドライブウェイでは今浜口から入り、少し進んだところで写真を撮影。
11時着、60.6㎞だったので、この間28.4㎞に2時間2分を要した計算。丘陵越えなのに平均時速14㎞程度で、降りはなかなか快調だったことが分かる。



千里浜なぎさドライブウェイは正式な石川県道、具体的には293号羽咋宝達志水線や294号黒崎羽咋線の一部でありながら、日本で唯一、一般車や車が波打ち際を走ることが出来る道路である。
この道は金沢に住んでいた小学生時代の家族旅行で初めて訪れて以来、一人旅や友人とのドライブなどで、複数回訪れているのだが、能登半島を代表する海岸景観の1つと言える。
これまでこの海岸に達して通行止めで走れなかったことはないが、今回は、これまでの訪問の中で最も天気が悪かった。
それでも雨は降っていなかったのが幸いで、湿り気が多くて車体が汚れはしたものの、久々の訪問とライディングを楽しむことが出来た。
自転車の走行はロードレーサーなどの細いタイヤだと難しいだろうが、マウンテンバイクなどの太いタイヤなら、アスファルトより抵抗は大きいものの問題はない。
私の自転車は700×47Cのサイズなので、ややめり込み気味になり減速するが、普通に走ることが出来た。
千里浜北口でなぎさドライブウェイを脱し、そのまま羽咋駅に向かうが、途中で千里浜神社に参拝。ここまでの旅の無事に感謝する。
羽咋駅には11時48分着。68.1㎞であった。






羽咋駅からは鉄道敷設法別表第66号線のルートを想定して氷見駅を目指す。このルートは再び宝達丘陵を越えて行くルートとなるが、勿論、経由地点は異なる。
タイミングは丁度お昼時だったので、ここで羽咋駅前の「グリル&ハンバーグNINO」というお店でハンバーグステーキのランチとした。
このお店は、カレーと炊き込みご飯が食べ放題で、サラダを椀1杯に、メインディッシュというランチをやっていたので、私の昼食にはピッタリ。
カレーと炊き込みご飯を頂きつつ、ハンバーグと油淋鶏と焼肉のメインディッシュを楽しんだ。
満腹になって羽咋駅出発。12時17分発。
この予定線の詳細なルートは分からない。
当時の資料などを渉猟しても、具体的な経由地までは分からず、荒っぽい線引きしか出来ないことが多く、このルートも同様だった。
そこで、ここはかなり安直ではあるが、最短距離となる現在の国道415号線を想定ルートとして、途中、神子原集落と棚田を訪れていく計画とした。
棚田というのは一般的に急傾斜地に広がっており、しかも、その高いところまで登って眼下に広がる景観を眺めることになるので、「ちゃり鉄」で訪れるのは苦労する箇所が多い。押し登りが必要となることも多い。
この神子原は地名に惹かれて立ち寄ったのだが、傾斜地に棚田が広がるのどかな山村風景が心地よく、また、八幡社や権現様の神域が印象的だった。
棚田の頂上付近からは碁石ヶ峰への登山路が示されていたが、碁石ヶ峰には石川県立鹿島少年自然の家があり、小学生の時に学校の林間合宿で宿泊した思い出がある。
そんな懐かしさもあって、代掻きの始まる春や、青々と稲が育つ夏、実りの秋など、時期を変えて訪れてみたいと感じる場所であった。
棚田から一旦谷間に降り、飯山川源流を遡ると行く手が開けて県境を越え、氷見市の熊無集落に入る。
峠には茶店があり、少し先で宝達丘陵の展望が開けたので、降りに入る前に写真を撮影。降りに入る直前には道路シェルターがあり、この辺の気象条件が厳しいことが感じられる。
ここからは上庄川支流の谷間に沿って降り基調。豪快に降って谷底平野に達すると、後は緩やかに降り続け、七尾氷見道路の高架下を潜って氷見市街地に入り、目星をつけていたスーパーに立ち寄って食材を買い出す。
氷見駅近くにある有磯の湯には14時42分着。93㎞。羽咋から2時間25分で24.9㎞を走り抜けてきた。
この有磯の湯は前回2021年の「ちゃり鉄15号」でも立ち寄った銭湯。
前回は混雑していた印象があったが、今回はそういうこともなく、のんびりと体を休めることが出来た。
有磯の湯15時31分発。残すところ7㎞程度である。











有磯の湯からは1分もかからず氷見駅に到着。
この氷見駅は中越鉄道時代の1912年9月19日に開業。高岡から延伸してきていた中越鉄道路線の第3期線として、島尾~氷見間の延伸開業に伴って開業した終着駅だ。
既に走ってきたとおり、ここから羽咋までの延伸計画もあったが、それは実現することはなかった。
ホームは頭端式1面2線だが使われているのは1線のみである。他に、かつての留置線も残っているが、既に分岐ポイントは撤去されており、実用されず廃止されている。
中越鉄道は、この日の朝に走ってきた加越能鉄道加越線とも関係が深いことは既に述べたが、歴史的な経緯で言うと、1897年5月4日の黒田仮駅~福野駅間の城端線区間の開業が第1期であり、以降、1897年8月18日に福野~福光間の第2期線、1897年10月31日に福光~城端間の第3期線、1898年1月2日に黒田仮駅~高岡間の第4期線、1900年12月29日に高岡~伏木間の第5期線、1912年4月4日に伏木~島尾間の第6期線、そして1912年9月19日に島尾~氷見間の第7期線という経緯を辿った。
即ち、城端線区間の全通後に氷見線区間が全通したのである。
全線が国有化されたのが1920年9月1日で、この時に、伏木~城端間が中越線、伏木~氷見間が氷見軽便線となった。
当時は高岡駅ではなく、伏木港のある伏木が路線の中核と位置づけられていたわけだ。
この氷見軽便線が氷見線に改称されたのは1922年9月2日で、更に、高岡~氷見間が氷見線となったのが1942年8月1日。
この頃には、鉄道運行の中核駅が高岡駅に移っていたということであろう。
途中駅は越中中川、能町、伏木、越中国分、雨晴、島尾であるが、高岡、能町、伏木が1900年12月29日、雨晴、島尾が1912年4月4日、氷見が1912年9月19日、越中中川が中川簡易停留場として1916年4月1日、越中国分が1953年7月1日という順に開業している。
そんな歴史ある城端線と氷見線であるが、既にJRからあいの風とやま鉄道への経営移管は決定しており、2020年代終盤にはJR路線としては廃止されることになる。
今回は、JR路線としての訪問は最後になる可能性もあると考えての訪問だった。
全線でも16.5㎞の小さな路線の終着駅で1面1線ではあるが、路線の旅客需要はそれなりにあることから、北陸新幹線開業後もJRが経営してきたのであろう。
この日は列車運用の間合いだったので、氷見駅には人の姿は無かった。
この時間帯だと、高岡から氷見に向かって帰宅してくる通勤通学需要が中心となるのだろう。
腕木式信号機がオブジェとして残されている氷見駅の写真を撮影し15時21分発。


氷見駅から雨晴駅までの間は島尾駅を挟むのみ。
氷見海岸、島尾海岸、雨晴海岸、などと呼ばれて、それぞれ、海岸沿いに海水浴場やキャンプ場がある。白砂青松の美しい海岸線なのだが、今回の旅で楽しみにしていた飛騨山脈の姿は全く見えず、昨日来の悪天候で白波が立った富山湾は、冬の海の表情をしていた。
島尾駅では氷見行きの普通列車と行き違い。
この列車からは10数名の降車があり、それなりの旅客需要が伺われる。
島尾駅からは海岸沿いの遊歩道に入り、キャンプ場などを経て雨晴駅に至る。
悪天候の平日ということもあり、各キャンプ場にはほとんどテントは見られなかった。
雨晴駅には16時6分着。99.9㎞。
朝から降り出しそうな空模様ではあったが、運よく雨に降られることなく駅に辿り着くことが出来た。
近年は女岩を望む国道沿いに道の駅が整備され、そこからの風景がSNSでたびたび取り上げられることもあって、インバウンド観光客をはじめとする多くの観光客が押し寄せるようになった。
この時も列車の発着時刻を確かめに駅舎に入ると、10名以上の観光客が列車待ちをしており、委託で配置されている係員に何やら詰め寄っているアジア系の外国人も居た。
お国柄の違いということもあるだろうが、こういう駅で母国語や英語で話しかけて、話が通じないと不機嫌になっている外国人も少なくない。「日本の観光地は外国語対応がなってない」という主張を目にすることも少なくない。
どうしたものかと思う。
まだ、大勢の人の出入りもあるので、駅周辺や道の駅、更に先の岩崎ノ鼻付近での撮影に入ることにしたのだが、駅を出て国道に合流する辺りまで来ると、ポツポツと雨脚が降りてきて、程なく、本降りの雨になった。
今日一日の行程としては運が良かったが、雨雲レーダーで見る雨域は西日本に広く伸びており、明日は再び雨の中での走行となることがほぼ確定した。
このような状況だったのだが、傘は自転車に置いてきてしまったので撮影もままならない。
雨宿りもしながら1時間ほど辺りをうろついて、薄暗くなった頃に駅に戻って来ると、まだ、観光客の姿があった。
雨は結構強まってきていたので、海岸沿いの適当なところでテントを張るのも面倒。
駅舎は夜は無人化されているが、人の出入りは遅くまであるだろうから、駅寝も控えたい。
結局、駐輪場に1台も自転車が無いことを確認して、駐輪場の乾燥したエリアに周りから見えにくい角度でテントを張って野宿することにしたのだが、風も出てきており吹き降ることが想定されたのでフライも張ることにした。
尤も、内部浸水はないので、外が雨降りでもテントの中で過ごす分には問題ない。
この雨晴駅には高校生時代に当時の交際相手とデートで訪れたこともある。あの時の印象と比べてみても、駅構内の様子は殆ど変化がなかった。
晴れた日の日中などはうんざりするような混雑に見舞われることもあるようだが、この日は雨で、しかも夜。
既に観光客の姿もなくなり、明りの灯る駅構内は静かな旅情駅の姿に戻っていた。
雨晴駅は氷見線の各駅の中では最も定期利用客の数が少ない駅でもある。
そんなしっとりと落ち着いた風景を何枚か撮影して、駅前野宿の眠りに就いた。















ちゃり鉄30号:8日目(雨晴=高岡・高岡駅停留場=越ノ潟~堀岡・新港東口=新富山-富山大学前=富山駅停留場-丸ノ内=中町(西町北)-富山=富山口-鯰温泉-海王丸パーク)
8日目は雨晴駅から新湊の海王丸パークまで。
起点と終点だけを見ると、殆ど走らないようにも見えるが、高岡駅や富山駅までの往復経路を含むルートとなるので、日走行距離は76.9㎞あり中距離行程である。
尚且つ、この日は万葉線や地鉄富山軌道線の一部、射水線廃線跡などを走るので、停留場を含めた停車駅の数が非常に多く、中距離とは言え、時間を要する行程である。
一方でほぼ平野部を行くので、アップダウンは少ない。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


同じところを行ったり来たりで、あまりきれいな計画ではない。
実のところ、氷見線、万葉線、射水線、富山軌道線と巡った後、高岡駅に最短経路で戻り、城端線沿線に入る計画も検討をした。翌日は長良川鉄道の北濃駅がゴールとなるため、行程距離のバランスを取るためだ。
しかし、城端線内での野宿適地が見つからなかったこともあり、富山県営渡船と新湊大橋の両方を経由できる海王丸パーク付近を野宿場所とする計画にしたのである。
結果的にこの日が80㎞弱なのに対し、翌日は150㎞強というアンバランスな距離比となったのみならず、翌日は海岸付近から1000m級の峠を越えて行くという高低差も大きな難ルートとなってしまった。
日程をもう1日追加できるなら白川村辺りで1泊するのだが、そうなると予備日のない旅程となりよろしくない。富山県内の行程計画を調整すればよいのだが、それも難しかった。
というわけで、この計画で妥協した。
さて、明けてみると朝から本降り。
駐輪場は野宿を始めた時には乾いていたのだが、やはり予想通り夜の間に一面水浸しになっていた。テント自体は浸水することはなかったが、フライにテンションはかけられなかったので、インナーに貼り付いて側壁は濡れていた。
夜から朝にかけて人の出入りはなかったが、朝早い人が居るかもしれないので、今日も夜明け前に起き出して撤収作業を済ませる。
そういえば、前回の「ちゃり鉄15号」では、旅を中止して雨晴駅から輪行で自宅に帰ったのだが、朝の雨晴駅舎では駅寝の旅人が寝ていた。私が駅舎に入った物音で起き出してきたものの、外のトイレに出入りした後は結局、寝袋に入って二度寝し、自転車を解体する私の横で、鼾を掻きながら寝ていた。待合室にはお酒や食べ物の匂いと体臭が充満しており、胸が悪くなった記憶がある。
それをどうこう言うつもりはないのだが、自分自身はそういう行動は慎むようにしたいと思う。尤も、私はお酒は飲まないのだが。
始発列車は6時17分の高岡行きと6時18分の氷見行き。単線で1分差の出発時刻ということは、この2つの列車は雨晴駅で行違うのである。
なお、高岡行きの最終列車は22時58分なのに対し、氷見行きの最終列車は22時34分。つまり、最終の氷見行きは氷見で折り返し、最終の高岡行きとなって帰っていく。
対する高岡行きの始発列車は6時17分で、氷見行きの始発列車は6時18分。
となると、早朝に高岡から氷見まで回送列車が回送されていき、それが氷見駅で始発の高岡行きとなって折り返してくる運用だということが想定される。
そして、予想通り夜明け前の雨晴駅をこの回送列車が通過していったのだが、通過時刻は予想できなかったため、写真撮影は出来なかった。
6時前には撤収と積載を終えて駅の撮影を開始。
始発列車のタイミングで乗客が現れると予想していたが、結局、この日の朝は乗降客の姿を見ぬまま、上下列車の交換・発着を眺めることになった。
国鉄時代の姿のままで現役で活躍するキハ40系気動車が行き交う姿は、その舞台となるローカル線そのものと同様に、全国的に貴重なものとなった。
氷見線自体は一先ず存続の方向で動いてはいるものの、鉄道風景は変わっていくことだろう。
これも最後の機会になるかもしれない。
そんなことを思いつつ、この朝の交換風景を撮影し、両列車の出発を見送って「ちゃり鉄30号」も出発することにした。
雨が降り続く中、6時34分発。





高岡駅までの間の氷見線の中間駅は、越中国分、伏木、能町、越中中川の4駅。
越中国分駅はホームの雨晴方の末端からすぐ先に富山湾が見えていて、高岡駅からやってくると、いよいよ海岸線に出るという期待が高まる地点にある。
今回は逆に海岸線に別れを告げて内陸に向かうシチュエーション。
ちょうど駅に到着したタイミングで、先ほど雨晴駅で見送った氷見行きの列車が高岡行きとなって折り返してきたので、その列車の発着を撮影。
駅には数名の人の姿があった。
ここから先の氷見線の沿線風景は一気に変貌する。
最初は越中国分駅周辺と同様に田畑が広がる郊外の雰囲気だが、伏木本町付近に入ると市街地の中を行くようになり、やがて伏木駅に向かって右カーブを切りながら伏木港周辺の港湾施設が見えてくるようになると、今度は臨海鉄道のような沿線風景となって能町駅に向かうことになる。実際、能町駅からは高岡貨物駅までのJR貨物専用線が分岐している。
この能町駅を出ると高岡市街地の近郊路線に転じ、越中中川駅を経て高岡駅に到着することになる。
なお、城端線には平日朝に富山駅直通の普通列車が運行されているが、氷見線には運行されていない。
これは、高岡駅での構内配線の違いによる。
つまり、城端線の場合はスイッチバックが不要なのに対し、氷見線の場合はスイッチバックが必要なためだ。
そして、そういう配線になった経緯は、元々、この二つの路線が、伏木港と中越地域を結ぶことを目的とした中越鉄道という1つの鉄道だった歴史を踏まえれば、当然の線形として理解できる。
そんな路線史を思い浮かべながら、雨の伏木駅、能町駅を訪れていく。
伏木駅ではエンジン音が聞こえていて列車が出発していく気配があったので、氷見行きの普通列車が停車していたのであろう。
能町駅は列車運行の間合い時間帯に入ったらしく、広い構内には人の姿は全く見えず、来し方を眺めれば、中越パルプの工場の煙突から白煙が立ち昇る工業地帯の風景が広がっていた。
能町駅を出ると高岡市のベッドタウンといった雰囲気になり、かつては2面2線駅だった越中中川駅を経て高岡駅に到着。
7時51分着。12.5㎞であった。











ここからは万葉線の高岡軌道線と新湊港線に向かう。
2路線が存在するような命名だが、この2路線は1本の路線として繋がっているので、運行上は高岡駅停留場から越ノ潟駅まで乗り換えなしで向かうことになる。
そして高岡軌道線はその名のとおり軌道で大半が併用軌道なのに対し、新湊港線は鉄道線である。
このような状態になったのは歴史的な経緯故で、現在の新湊港線区間である六渡寺~越ノ潟間は、元々は富山地方鉄道射水線の一部であった。それが、富山新港の開削工事によって分断されたことにより、新湊(現・六渡寺)~越ノ潟間が、加越能鉄道に譲渡され、加越能鉄道の高岡軌道線と一体化して運行されるようになったのである。
この分断の際、元々繋がっていた部分を代替するために地鉄射水線には新港東口駅が設けられ、越ノ潟~新港東口間を富山県営渡船が接続することになったが、射水線は新湊市街地からの旅客需要を失うこととなって大幅な旅客減となり、結局1980年4月1日に廃止されることになった。
また、加越能鉄道も鉄道事業から撤退したため、第3セクターの万葉線株式会社が設立されて軌道・鉄道事業を引き継いで今日に至る。2002年4月1日のことである。
今日はこの後、万葉線、富山県営渡船、地鉄射水線跡を繋いで走る。
その万葉線の高岡駅停留場は高岡駅の駅ビルの中。
富山駅もそうだったが、最近は、このように駅ビルの中に路面電車が乗り入れてきて乗換えの便宜を図るような構造の駅が増えてきている。
折り返し待ちの路面電車を見送って高岡駅停留場を出発。7時58分。
末広町、片原町、坂下町、急患医療センター前、広小路と進んでいく。
この広小路停留場の手前までは単線区間で、アーケードのある商店街に沿っている。
末広町は2面1線、片原町は交換可能構造で2面2線だが、ここは停留場の安全地帯やホームがなく路面上のペイントのみ。車道幅が狭いための構造なのだろう。
坂下町と急患医療センター前は千鳥式2面1線構造となっていて、この両停留場の間に行き違い用の交換設備がある。







続く広小路停留場から複線区間になる。
アーケードは坂下町までなので、高岡市街地の中心商店街を出て郊外区間に入り、道路幅も広くなったということだろう。
広小路停留場、8時17分着、8時18分発。14.2㎞。
高岡駅停留場からは1.7㎞地点であった。
広小路停留場からは、志貴野中学校前、市民病院前、江尻、旭ヶ丘、荻布、新能町、米島口と進む。
このうち、江尻と米島口の2つの停留場が相対式2面2線で、他は千鳥式2面2線だった。
市民病院前停留場はハローワークが目の前にあり、市民病院は少し離れている。
市民病院に行く利用者の方が多いだろうが、物理的な実態は職安前停留場だ。
旭ヶ丘停留場ではツーリング装備の自転車で路肩に停まり、傘を広げて写真を撮影する変な旅人を、近所の会社のオフィスで朝礼中の職員全員が眺めてきて恥ずかしかった。この辺りまで来ると郊外住宅地といった感じの沿線風景になってくる。
読みが「おぎの」で少し難しい荻布停留場を出ると、道路と軌道はやや左向きに進路を変え、それに伴って能町の工業地帯の煙突群が見えてくる。
車道からは見えないが、住宅地を間に挟んで少し右手にはJR氷見線が近付いてきており、能町駅の広い構内が展開している。
ここに新能町停留場があり、荻布停留場との間には、2004年まで、能町駅から日本ゼオン高岡工場・日本曹達高岡工場に伸びていた専用鉄道との平面交差があったという。付近に専用線の路盤跡が空き地となって残っているようだが、「ちゃり鉄30号」では注目しなかった。別の機会にでも確認してみたい。
続く米島口は車庫を備えており、停留場手前で右手に入庫線が分岐していく。
この米島口までの区間列車が運転されていて、米島口起点の高岡駅停留場に乗車する場合は、本線上の乗降場ではなく、入出庫線において乗車扱いを行うのだという。
一方、高岡駅停留場から当停留場止まりの列車に乗ってきた乗客は、本線の乗降場で降車するが、入庫車両は二重のスイッチバックで入庫する運用だという。
ここから能町口停留場までは専用軌道区間となるため、車道から軌道が分離していく。また複線から単線へと切り替わる
米島口停留場、8時46分着、8時47分発。16.7㎞であった。









この米島口から伏木に至る加越能鉄道伏木線が1971年9月1日まで存在したが、今回、氷見線との重複もあってその廃線跡は辿っていない。いずれ、機会を改めて訪れたい。
能町口停留場の手前ではJR氷見線や新湊線の線路を高架橋の上から見下ろして進み、地平に降りて能町の交差点に差し掛かると、緩やかな曲線を描く能町口停留場。
ここは相対式2面1線構造であった。
この交差点から併用軌道に戻り、新吉久、吉久の二つの停留場を経て、再び、専用軌道に入って中伏木停留場へと進む。
新吉久停留場は交換可能な相対式2面2線の停留場だが、1面は車道上のペイントのみとなっているのが特徴。隣接する工場の敷地に加越能鉄道のデ5022号車が静態展示されていて、地元の愛着を感じる。
吉久停留場は車道ペイントのみ。この併用軌道区間は車道幅が狭いための措置であろう。
中伏木停留場に向かう途中で再び専用軌道に入り、待合室を伴った中伏木停留場に到着する頃には、周りはすっかり工場地帯になってくる。
進路左手には小矢部川が流れており、その対岸は伏木市街地。川を渡る伏木万葉大橋が間近に見え、広い敷地にかつての貨物線の面影を偲ぶ。
そのまま専用線に沿って港湾地区を縫うように進むと、鉄軌道境界となる六渡寺駅。
この六渡寺駅は1933年12月25日に越中鉄道の新伏木口駅として開業。その後、1934年頃に新伏木港駅、1939年4月1日に新湊駅に改称した後、1943年1月1日に富山地方鉄道射水線の駅となった。
対する高岡軌道線側は1951年4月1日に米島信号場から延伸する形で開業した。米島信号場はその後1951年10月10日に米島口と改称している。
歴史的な経緯で言うと、六渡寺駅は地鉄射水線の駅として富山中心部を志向する鉄道路線の終着駅としての機能が長かったことになる。
その機能が断たれたのが既述した富山新港の開削であり、1966年4月5日に六渡寺~越ノ潟間は加越能鉄道に譲渡され、この付近の鉄道は高岡志向に変化することになった。
現在の六渡寺駅は相対式2面2線に待合室があるのみの小さな無人駅であるが、この付近の鉄道史の歴史を今に伝えている。
六渡寺駅9時25分着、9時28分発。21.3㎞。
この辺りまで来て、昨夕来の雨も概ね小康状態になった。








鉄道線に入っても走行する車両は軌道線と同じなので、駅の構造はそれに合わせたものとなる。ホームが低いことなどが特徴的だ。
砂利専用軌道や庄川水力電気専用鉄道を巡るために中流域の庄川峡付近を訪れた庄川は、この付近で日本海に注ぎ込んでいく。あれから、石動、千里浜、氷見、高岡と巡って、河口にやってきたのかと思うと感慨深いものもある。
鉄道は庄川橋梁で越えており、対岸には庄川口駅がある。
2面1線の無人駅だ。
ここは庄川橋梁を往来する列車の姿を撮影してみたい思って待っているうちに、六渡寺駅側からの列車がやってきたので撮影。
低床車に合わせた高さの低いホームに路面電車が発着していく鉄道風景を楽しむ。
この先は第一イン新湊クロスベイ前、新町口、中新湊、東新湊、海王丸の各駅を経て越ノ潟駅に向かう。
第一イン新湊クロスベイ前駅は1932年11月9日の開業当時は西新湊駅であった。
それから新湊市役所前、射水市新湊庁舎前を経て西新湊に戻った後、2023年9月1日に第一イン新湊クロスベイ前駅へと改称した。
駅の位置も両サイドにあった中学校前駅、女学校前駅との間で転変しており、中々にややこしい。
駅の構造は相対式2面1線で上下ホームそれぞれに待合室が設けられている。
続く新町口駅は書籍によっては1940年~1942年頃に開業した女学校前駅を前身とするように記されているが、現時点で詳細確認はしていないのでそれが正しいのかは分からない。
この駅も相対式2面1線だが、待合室は高岡方の乗降口にのみ設けられている。
些細な事ではあるが、役所庁舎があった第一イン新湊クロスベイ前駅は、駅から高岡方面、越ノ潟方面、双方向に乗車する乗客が居たのに対し、新町口駅では越ノ潟方面には降車、高岡方面には乗車が卓越するという路線の利用動態が、待合室の設置状況に反映しているように感じられる。
中新湊駅は島式1面2線で交換可能。
ちょうど上下列車の交換のタイミングだったので撮影していく。
旧版地形図を確認すると、昭和初期までの越中鉄道時代は、富山方から、この中新湊駅と次の東新湊駅との間にあった新湊東口駅まで線路が敷設されていた。
その間には放生津潟から流れ出した放生津内川あって現在の奈呉の浦付近で海に注いでいた。
今もこの内川は残っているのだが、越ノ潟辺りは堀岡村から続く砂洲地形となっていてそこに集落や鉄道、道路が通っていた。
鉄道は高岡方から新湊(現・六渡寺)までと、富山方から新湊東口までという形で敷設されており、両者は新湊の市街地の手前で東西に相対する位置関係にあったが、長らく接続されていなかったのは、新湊市街地での用地買収や庄川河口の架橋といった課題があったためでもあろうし、旅客動線の上では直通需要がなかったからということもあるだろう。
実際、現在の庄川口~中新湊間の線形は昭和初期頃の新湊市街地の南縁に沿って敷かれていることが分かる。
そして富山新港はこの砂洲を分断して港湾地区を造成する大工事だった。
その辺りは「ちゃり鉄」の文献調査対象として非常に興味が湧くが、ここでは踏み込まない。
中新湊からは一旦北側を迂回し、内川を渡って東寄りに進むと東新湊駅。
ここは日本高周波鋼業の富山製造所玄関といったような場所に存在している。
かつては干潟が広がっていたらしいことが旧版地形図から読み取れる。
東新湊駅から工場にそって少し東に進んで海王丸駅。
ここは1935年頃に越ノ潟口駅として開業した駅が前身となっているようだが、位置は同一ではなく、200mほど西寄りに移設されている。開業は1990年4月1日で、名前のとおり海王丸パークの造成に伴う、アクセス駅としての移転であった。
続いて終点の越ノ潟駅。10時14分着。26.7㎞。









この駅も新港造成に伴って移転などが行われたようで、現在位置には1966年4月5日に移転している。
なお、鉄道駅の名称は「越ノ潟」であるが、地名や渡船場の名称は「越の潟」である。
ここからは堀岡発着場までの県営渡船を利用する。
次の出港は10時37分で、ここまでほぼ予定通り。
渡船場には他に利用客の姿は無く、次に乗船する船は既に着岸していて、乗船開始待ちという状況だった。この日は「海竜」が運用に就いているようだった。
越ノ潟駅は1面1線でホーム待合室を備えた小さな終着駅だが、1面2線時代だった頃の面影が残っている。
到着時には列車の姿がなかったが、渡船場の建物で休んでいるうちに、いつの間にか高岡からの列車が到着していた。
ただ、この列車からの降車はなく、知らぬ間に現れた若い女性が1名乗車して出発を待つのみ。
晴れていれば、新湊大橋や渡船を巡る家族連れなども居そうだが、平日でこの天候とあっては、そんな人の姿も見られなかった。
ほどなく出港時刻。
県営渡船は私1人を乗せて堀岡発着場に向かって出港していく。
新湊大橋の開通によって廃止も噂された渡船であるが、徒歩や自転車で新湊大橋を渡って往来するというのは、日常的には大変なことで、今も無料の渡船として存続しているのが嬉しい。
越の潟発着場を10時37分発。堀岡発着場には10時42分に着岸した。
ここでは直ぐに折り返し運用に入るようだったが、入れ違いで乗船する人の姿は無く、無人のままで「海竜」は越の潟に引き返していった。










さて、ここからは富山地方鉄道射水線の廃線跡に入る。
この廃線跡も概ねサイクリングロードとして再整備されているので、往時の車窓風景を偲びながら「ちゃり鉄」で旅することが出来る。
堀岡発着場前の広場付近からスタートする廃線跡は、そっくりそのまま新港東口駅跡の位置を示しており、右側に立っている建物付近に駅舎があったようだ。
この先にも線路が続いていたはずだが、その延長方向には工場があってその敷地には入ることが出来ない。集落をぐるっと回ってみると、工場敷地の西側に、越の潟まで繋がっていた頃の廃線跡遺構である橋台が、工場の擁壁のようにして残っているのが確認できた。
かつて、この先の海中にも残っていたらしい橋台跡は撤去されているようだが、岸壁には射水線の記念モニュメントが設置され、線路をイメージしたレールとタイルが埋め込まれているようだ。
再び、新港東口駅跡に戻って射水線跡に向かって出発。10時50分発。
ここからの射水線は海岸よりも少し内陸側を東進しており、堀岡、射北中学校前、海老江、練合、本江、打出、和合ノ浦、四方と続き、四方から進路を右に90度曲げて南進に転じる。
それぞれの駅の跡は事前にある程度調べてGPSデータとしてプロットしていったものの、正確な位置が分からないものや、現地で比較すると位置がずれているものもあった。
中でもホーム跡が残っている海老江駅跡に関しては、駅跡の位置よりも少し先の車道交差点付近をプロットしていたため、現存するホーム跡を見落としてしまった。
駅の遺構としては射水線沿線で最もはっきりした遺構だったので残念ではあるが、一先ず、その付近で写真は撮影していたので良しとした。
駅跡を示す標識などがあればいいのだが、廃線跡が路盤の雰囲気を残したサイクリングロードとして残っている事実だけでも満足すべきところかもしれない。
沿線随一の拠点駅であった四方駅跡には11時32分着、11時33分発。35.2㎞。
駅は広い敷地を持っていたようだが、跡地は幼稚園の敷地などに取り込まれており、それと分かる痕跡はなかった。ただ、90度の急カーブはサイクリングロードとして明瞭に残っており、車輪を軋ませながら列車が行き来したであろう往時の面影を偲ぶことが出来た。












この四方駅跡から先、新富山にかけては住宅地や車道に飲み込まれて廃線跡は判然としない。
その中で、四方駅の次にある鯰鉱泉前駅跡は、駅のホームがあった位置が空き地や駐車場に転用されながらも残っており、往時の面影を留めていた。
ここでは一旦通り過ぎていくが、この日の入浴はこの鯰鉱泉を選んだので、後ほど、周回ルートを通って戻って来る。
布目、八町、百塚の駅跡も、現地には痕跡が残っていない。
線路跡を転用した車道と集落道の交差点付近に駅が設けられていた事例が多いのだが、事前プロットの精度が悪く、交差点の手前か向こうかの違いで、位置を詰め切れていない箇所もあった。
ただ、この付近までは田畑が広がる田園風景が主体であった。
八ケ山駅跡にはホームの屋根や駅舎への階段が残っているという情報もあったのだが、今回は、現地へのアクセス路がロープで閉鎖されていたこともあり、直前の道路脇から路盤跡を遠望したに留まった。
この部分は車道で西側を迂回し、八ケ山公園の南側で再び廃線跡に合流するが、この付近から先は市街地化が進んでおり廃線跡も不明瞭になる。
一時期、この廃線跡をバス専用道路にした時代があるようで、今も「バス専用道」とか「地鉄バス」といった表示の痕跡が残る看板が立っている場所もある。
さらに進むと北陸本線や高山本線を跨いでいた地点に出るが、この付近の橋梁の築堤は宅地化や北陸新幹線の工事によって跡形もない。
そして、その先で県道を横切って富山北口駅跡に入るが、ここも宅地化によって全く痕跡は残っていないようだ。私はこのタイミングで近くにあったかつやに入って昼食としたので、富山北口駅跡付近の訪問をすっぽかしてしまった。
まぁ、現地に行っても痕跡は何も残ってはいないのだが、こういう市街地の廃線跡などでは、時折、意図せず経由地を通過してしまうミスがある。
新富山駅には12時40分に到着して射水線廃線跡の「ちゃり鉄」を終了。43.1㎞であった。駅跡には高層マンションが建っており、敷地は再整備されて痕跡は何も残っていなかった。
新富山発12時41分。








ここから暫くは、富山地方鉄道富山軌道線を走ることになるが、本線や富山駅南北接続線は既に走行済みなので、呉羽線、安野屋線、支線、富山都心線の順に巡る計画である。これで、富山軌道線各線も走り終えることになる。
最初に走るのが呉羽線なのだが、この路線は富山大学前停留場と安野屋停留場との間を結ぶ1.4㎞の路線で、中間停留場は「トヨタモビリティ富山Gスクエア五福前」という非常に長い名称の停留場のみである。そして、この停留場と安野屋停留場との間に神通川を渡る富山大橋があり、富山の軌道風景の象徴的な一場面となっている。
呉羽線はその名の通り、元々は呉羽丘陵の山麓にある呉羽公園までの路線であったが、太平洋戦争末期の混乱や富山空襲の時期に休止や廃止が相次ぎ、現在の富山大学付近までの区間に短縮されている。
現在の終点は富山大学前停留場であるが、この停留場は1954年3月20日に球場前停留場として開業しており、元々の大学前停留場は更に300mほど進んだ富山大学正門付近にあり、1916年11月22日の開業時は聯隊前、1940年9月18日の改称時には五福と停留場名が付されていた。
今日では正門位置から300m離れている不便さや周辺環境の変化もあって、大学関係者らから延伸要望なども出ており、地鉄も延伸費用を負担しないことを条件として延伸そのものには前向きな姿勢だという。
大学付近ということもあって学生の姿が目立つ富山大学前停留場で停車中の車両を撮影したら、出発して富山市都心部に向かう。
途中、富山モビリティ前の停留場を撮影した後、富山大橋を渡るのだが、ここは橋を渡る軌道列車を撮影しておきたく暫く停車。
頻繁に目にしている印象があるのに、いざ、カメラを構えていると中々姿を現さず、姿を現すと車両に車が被って失敗。想定よりも長く待ってから都心部に向かう列車の後姿を撮影することが出来た。
立山連峰などは相変わらず雲の中。今回も縁が薄かった。
安野屋停留場で呉羽線から安野屋線に入るのだが、特に境界となるようなものや特徴はなくそのまま進む。
安野屋線は丸ノ内停留場と安野屋停留場との間を結ぶ0.6㎞の路線で間に諏訪川原停留場を挟んでいる。
0.6㎞しかないので、諏訪川原停留場を経由しても、あっという間に丸ノ内停留場に到着する。
丸ノ内停留場着、13時6分。45.7㎞であった。







この丸ノ内停留場付近で安野屋線と富山都心線が合流し、支線となって富山駅前に向かっていくが、富山都心線と安野屋線の列車は直通できない線形である。ちょうど、富山都心線に向かう連接車両が発着するところだったので、その様子を撮影して出発。13時9分。
「丸ノ内」という停留場名から察せられるように、ここは富山城跡の一画。
天気は良くないのだが、ここ数日で桜の開花が進んだようで、城跡の一帯も桜が満開であった。
支線は富山駅前停留場と丸ノ内停留場との間を結ぶ1㎞の路線で、中間停留場は県庁前、新富町であるが、歴史的には他の複数の停留場があったり、移転や改称があったようだ。今回、そういった停留場跡は位置が特定できなかったこともあって、停車対象とはしなかった。
相対式2面2線の県庁前停留場を過ぎ、千鳥式2面2線の新富町停留場まで来ると、目の前にはJR富山駅の駅ビルが間近に見えている。
ここから直進すれば富山駅停留場に入り、右折すれば電鉄富山駅・エスタ前停留場に入る。その部分にある富山駅前中央交差点付近の線形はデルタ構造になっており、3方向そうれぞれからお互いに直通できる構造である。
今回はこの交差点で引き返して丸の内停留場に戻り、そこから富山都心線に入ることにする。
その途中、松川を渡る安住橋付近では、松川河川敷の公園沿いにある満開の桜を眺める人が多く居た。
私もここで満開の桜や観光船、路面電車の撮影を行った。
丸の内停留場には13時31分着。47.6㎞。








富山地方鉄道の富山都心線は丸の内停留場と西町停留場との間を結ぶ0.9㎞の路線で、国際会議場前、大手モール、グランドプラザ前の3つの停留場を挟んで中町(西町北)停留場で本線と合流する。循環路線を形成しており、丸の内から中町に向かう一方通行の単線だ。
この路線は都心線という名称どおりにオフィス・商業ビル群の間を縫っているが、廃止された旧支線の一部を復活させた路線でもある。
現在は道路幅の狭いエリアを通行することもあって単線となっているが、将来的な複線化を意図して地中埋設物は移設されるなどの措置は取られているという。
かつて全国各地にみられた路面電車は交通渋滞の激化と引き換えに廃止され、地下鉄へを置き換えられたが、今日、一部には復活の動きがみられる。
富山市内での取り組みは先に見た富山港線の事例と合わせて先進的なものではある。
なお、都心線は丸の内停留場と西町停留場との間を結ぶ路線ということになっているが、西町停留場と西町交差点の位置関係の都合上、富山駅方面に向かう一方通行の都心線列車は西町停留場の富山駅方面ホームに停車することが出来ず、中町(西町北)停留場に停車して乗降上の接続を行っている。その辺はなかなかややこしい。
この路線の開業は2009年12月23日で、正式な営業運転は翌12月24日開始。中町(西町北)停留場は2013年5月17日開業で、それまではグラントプラザ前停留場が西町停留場との乗り継ぎ停留場であったという。
富山城跡を間近に眺める国際会議場停留場から、大手モール、グランドプラザ前の商業施設を眺めて都心を周回する沿線は、再整備を伴っての復活路線ということもあり新しい街並みのイメージであった。
中町交差点では本線走行時に見落としていた西町停留場を偶然写真に収めていた。
中町(西町北)停留場付近から総曲輪通りのアーケードを眺め、桜満開といった感じの富山駅前に戻って今回の富山地方鉄道各路線の走行は終了。
13時58分着、50.3㎞であった。







富山駅は14時1分に出発。
ここからは途中、鯰温泉に立ち寄って一浴した上で、野宿予定地の海王丸パークを目指すのだが、他に幾つかの経由地がある。
最初に、JR富山港線の廃線跡で富山地方鉄道富山港線には置き換わらず廃線化された富山口駅跡付近を訪れた。
駅跡は駐車場に転用されていて駅施設の遺構は何もなく、また、記念碑のようなものも立っていないが、一部に踏切跡と思われる線路跡が残っているほか、本線から分岐して緩やかにカーブしていた線形そのままに駐車場となっている一帯には、その道の経験者なら一見して「廃線跡」と分かる雰囲気が残っていた。
昼前に射水線の「ちゃり鉄」で停車した鯰温泉には14時43分着。60.7㎞。
鯰温泉付近には温泉旅館と日帰りの公衆浴場とがあり、駅は温泉旅館に面して設置されていたが、公衆浴場はこの温泉旅館に隣接した別棟の建物であった。
富山にはこうした日帰りの温泉施設が多数あるが、その多くは、スーパー銭湯などではなく公衆浴場に類するものであり、アメニティを求めて訪れる施設でもない。
好悪賛否は分かれるだろうが、私は、寧ろ、こういう地元の人が通う公衆浴場の方が「ちゃり鉄」の旅には相応しいように感じている。
この日も地元の顔なじみが集うといった感じの鯰温泉で小一時間の入浴を楽しんだ。鉄分が豊富な鉄鉱泉で特徴のある泉質であった。
15時35分発。
この鯰温泉からは一旦神通川河口付近を見に行き、そこから海岸沿いの車道や遊歩道に沿って海王丸パークまで移動する。
この付近は午前中に射水線の「ちゃり鉄」でも通っているのだが、射水線の廃線跡は海岸線から少し内陸を通っていたこともあり、海岸風景は望むことが出来なかった。
そのため、この日の計画を再考するにあたって、神通川河口付近から庄川河口付近までの海岸線を辿る計画を立てたのである。
同じようなところを走るが、それぞれ、目的と「車窓」風景がことなるので良しとした。
神通川河口付近は北陸電力の富山火力発電所の敷地となっていて、特に展望施設や観光施設のようなものはない。
一帯は立ち入り禁止の標識なども多く、釣り人のものらしい自動車の轍が伸びてはいるものの、どこまで立ち入ってよいのかがよく分からないし、それほど景観が開けるわけでもなかった。
そのため、神通川の河口そのものには至らず、その少し手前にある運河付近から海岸や火力発電所の煙突を眺めて引き返した。




ここからは八重津浜、海老江海浜公園を経由して新湊大橋に向かう。
海岸沿いは遊歩道や公園が整備されていて、自転車なら通しで走り抜けることが出来た。
振り返ると先ほど間近に眺めた火力発電所の煙突の向こうに、数日ぶりに姿を現した飛騨山脈の姿が見えるが、稜線付近はまだ雲に覆われたまま。今回もまた、富山湾越しの飛騨山脈とは縁がなかった。
途中、射北中学校付近で買い出しの為にスーパーに立ち寄った後、新湊大橋の堀岡方に到着するタイミングで、富山新港を出港していく中国の貨物船の大きな姿が目に入る。
歩行者や自転車は午前中に使った富山市営の渡船を使うことが一般的であろうが、この新湊大橋も、前後に設けられたエレベーターで橋脚の上部まで昇り、車道下に設けられた専用通路を通って行き来することができる。
私は復路は新湊大橋を渡る計画としていたので堀岡側のエレベーターで歩行者・自転車通路まで昇ってみた。
上に着くとちらほら人の姿があったが、ここを渡ることが目的というよりも、ここでウォーキングをするのが目的といった感じの人の姿が多く、後は地元の若者2名が自転車を押して渡ってくるところだった。
自転車の走行は禁止されているので緩やかな弧を描く通路を押して歩く。
途中、この通路の写真を撮るために、先行する人影が弧の向こうに消えるタイミングを待って撮影を行ったりした。
新湊大橋には16時53分着、17時7分発で、73.4㎞。
越の潟側に降り立つと、行く方右手は海王丸パークで、頭上は新湊市街地に向かって降っていく車道の高架が威容を呈していた。
海王丸パークには17時10分過ぎには到着したが、野宿場所は現地を見て決める計画。
公園は立派な割にあまり利用者が居ないことは事前に調査済みであったが、この日は犬の散歩中の人の姿もあり、まだ、野宿を始めるわけにはいかない。雨風を凌げそうな場所自体は多いのだが、人目に付きにくい場所となると意外と少なく、また、人の出入りが少なくなる時間を待つ必要もあった。
結局、30分ほど敷地内を周った後、人の姿が見えなくなったタイミングで野宿場所を決定し、準備に取り掛かった。
近くには「恋人の聖地」と書かれたオブジェもあったので、日没後の方が人の往来があることも予想されたが、時折、散歩の人や若者のグループがやってくるくらいで、それほど人の往来はなかった。暫く天候が悪かったこともあり、それほど外出する人が多くなかったのかもしれない。。
ここ数日は雨がちな夜だったが、久しぶりに晴天での穏やかな夜を過ごすことが出来た。気が付くと東の空には満月が昇ってきていた。長丁場になる翌日は晴天に恵まれそうだ。











ちゃり鉄30号:9日目(海王丸パーク-新湊貨物駅=能町-高岡=城端-五箇山-白川郷-御母衣ダム-牧戸-ひるがの高原-北濃)
翌9日目。
この日は実質的に「ちゃり鉄30号」の最終日。長良川鉄道の北濃駅での駅前野宿となるが、翌日は北濃駅から地元の福知山駅まで鉄道移動となるからだ。
序盤は今回の旅での最後の「ちゃり鉄」路線となるJR新湊線とJR城端線沿線を巡り、そこから五箇山、白川郷、ひるがの高原を抜けて北濃駅までの長途の旅路である。
本来であれば城端線沿線からスタートするか、白川郷付近で野宿するか、いずれかにして距離を短縮すべき場面なのだが、生憎、会社休みの都合などもあってこの日のルート設計は上手くいかなかった。
雨天時は城端から北濃に抜けず金沢方面に抜けた上で野宿を行い、福井県経由で帰宅する腹案も用意しての旅だった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は150㎞を超える行程であるが、累積標高差も登りで4000mを超える。これは今回の行程では群を抜いて厳しい行程であるばかりでなく、近年の「ちゃり鉄」の行程で比較しても厳しい行程だ。
断面図60㎞付近の顕著な峠は五箇山トンネル付近。海抜0mの海王丸パークから600m付近まで登っていく。ここは600mを超えるような断面図となっているが、これは地形図の標高を拾っているからで、実際の五箇山トンネルは600m弱だ。
とは言え、0mから600m弱まで、基本的には登り一辺倒である。
その後、折角稼いだ標高を吐き出しながら300m付近まで降り、そこから庄川に沿って小刻みなアップダウンはあるものの、基調としては登り続けることになる。
これが地形的に降りに転じるのはひるがの高原の中央分水界を越えてからなので、60㎞付近まで登り続けた後、10㎞程度降り、そこから70㎞弱登り続けることになる。
最後は15㎞程度の降りだ。
そのため、計画段階での到着予定時刻も20時18分。走行予定距離は151.5㎞となった。
計画としては完全に失敗なのだが、到着後に自転車を畳んで輪行の準備を行い、翌朝は始発列車で「乗り鉄」の旅を始めるので、今回はこの計画で実施とした。
さて、懸念された当日の天候はというと、昨夜眺めた満月が暗示したとおり、絶好の晴天。雨なら計画変更を余儀なくされただけにほっとしたが、それはそれで、少々不安も残る長丁場の始まりである。
さて、この日は長丁場ということもあり出発も早く5時発。
真っ暗なうちに朝食と撤収を済ませて出発する。
真っすぐに高岡駅に向かって最短距離で城端線沿線に入りたくなるところだが、私はそういうルートは取らずに、一旦、海岸沿いに庄川河口付近まで迂回し、この付近にある奈呉の浦や六渡寺海岸付近の伏木指向灯も訪れた後、万葉線の中伏木駅付近から貨物専用のJR新湊線の廃線跡部分と現役路線部分を訪れるルートを取った。
伏木には加越能鉄道伏木線の廃線跡もあるが、ここまで巡ると到着計画が21時台にまでずれ込むことになるため、それは次の機会に見送ることにする。
このルート。よくよく考えると、庄川の河口から延々と登り続けて源流の1つであるひるがの高原を1日で越えて行くというルート。最近はそんな走り方は滅多にしないのだが、我ながら酔狂なルート設計としたように思う。
この新湊周辺には周辺の民間工場への専用引き込み線の跡なども随所に残っており、それらの廃線跡も複数の箇所で目に入ったが、事前に調査していたものでもなかったので、通過時に写真を撮影するにとどめた。
家々の屋根の上に顔を出した朝日を眺めながら、万葉線高岡軌道線の中伏木停留場付近を通り過ぎ、伏木万葉大橋の傍を走り抜けると射水市から高岡市に入る。
新湊線は高岡貨物駅付近からが現役路線であるが、その先も暫く線路は続いており、やがて道路に分断されて途切れている。
かつての貨物線用鉄道なら、一般旅客の便乗を認めていて乗降場まで備えたものもあったが、今日ではそういうことはなく、JR新湊線も高岡貨物駅がある他に駅の施設はないし、高岡貨物駅も部外者の立ち入りが出来るような施設ではない。敷地の外から高岡貨物駅の建物を撮影して先に進む。
能町駅の手前で氷見線と合流したら新湊線の「ちゃり鉄」は終了。
その後は高岡駅まで移動して、「ちゃり鉄30号」では最後の走行路線となるJR城端線沿線に入る。
高岡駅着6時36分、発6時38分。15.8㎞であった。









JR城端線は既に述べてきたように私鉄の中越鉄道を起源とする路線で、JR氷見線と一体となって、伏木港と中越地域とを結ぶことを目的として敷設された。
いずれも1920年9月1日に国有化され、当初は伏木~城端間の中越線と、伏木~氷見間の氷見軽便線となっていた。
城端線区間においては、黒田仮駅と福野駅間が第1期線として1897年5月4日開業。福野~福光間が1897年8月18日に第2期線として延伸開業、福光~城端間が1897年10月31日に第3期線として延伸開業。そして黒田仮駅と高岡駅との間が1891年1月2日に第4期線として開業したことで高岡駅接続を果たした。
氷見方面への延伸は1900年12月29日の高岡~伏木間開業が第1期線である。
最初の停車駅である新高岡駅は2015年3月14日に北陸新幹線の長野~金沢間延伸開業に合わせて新設された駅であるが、所在地は高岡市下黒田。
歴史的に中越鉄道が黒田仮駅を基点として福野、城端方面まで開業したことを鑑みると、この新高岡駅は黒田仮駅の復活かと思ったのだが、当たらずしも遠からず。実際の位置は少しずれているが、新高岡駅を間近に眺める集落地の中に、中越鉄道黒田駅跡を示す記念標識と解説板があるようだ。「ちゃり鉄30号」では訪れていなかったので、次回の課題である。
続く二塚駅は1899年4月3日に開業した。ただし、この二塚駅は現在位置とは異なっており、営業キロで言うと400mほど城端寄りの位置にあったようである。
その旧二塚駅は1902年5月15日付で廃止されているが、1914年2月20日に至って簡易停車場として現在位置に復活した。初代駅と現在駅は「ふたつか」であるが、2代目開業当時は「ふたづか」と読み、「ふたつか」への改称は1917年4月1日のことであった。この時、同時に簡易停留場に位置づけが変更されている。
駅への昇格は国有化に伴うもので1920年9月1日。
このような経緯を見ると簡素な駅だろうと思いきや、その後、1957年2月の砺波製紙(現・中越パルプ工業)の操業開始までの間に駅の取扱い範囲が拡大するとともに駅長も設置されるようになり、二塚駅南方で分岐して工場敷地に向かう専用鉄道線まで敷設された。
簡易停車場としての開業だったことを鑑みれば、この時期をピークとして大いに発展した出世駅だったことが分かるが、その栄華も1990年代から2010年代にかけての貨物輸送の縮小、廃止の流れによって終焉を迎えた。
今も駅構内には単式島式2面3線の旅客線の他、貨物専用線の側線が残っているが、それらは使われることなく草叢の中に赤錆びた姿を晒している。
この日は城端方面への列車の発着に居合わせたのでそれを撮影。
島式ホーム側には大きな椿の樹と年季の入ったホーム上の待合室が残っていて趣がある。
駅の南側では今も中越パルプの工場に向かっていた専用線が往時の姿のままで残っていて、今でも貨物列車がやってきそうな雰囲気がある。
この先、第1期線の終着駅として開業した福野駅までの間に、林、戸出、油田、砺波、東野尻、高儀、の6駅が存在するが、第1期線開業当時に設置されたのは戸出、砺波及び終点の福野駅で、それ以外の駅は林駅が1956年11月19日、油田駅が1900年12月29日、東野尻駅が1951年8月10日、高儀駅が1899年5月30日であった。また、砺波駅は出町駅として開業した後、1954年11月10日に砺波駅に改称した。
砺波駅の北には出町中央という地名が残っているが、中越鉄道開業時のこの付近は砺波郡出町であり、周辺町村が合併して砺波町が発足したのは1952年4月1日。更に砺波市の発足は1954年4月1日であった。砺波駅への改称は砺波市発足に伴うものだったことが分かる。
林駅との間で高岡行きの普通列車と行き違い、林駅では1面1線のシンプルな駅と対峙。待合室はガラスの面積が大きく明るい印象の建物に建て替えられていて、1面1線の棒線駅とは言え、寂れた雰囲気ではない。周辺は田園地帯が続いている。
戸出駅には7時38分着。24.3㎞。
時間的に高岡、富山方面への通勤旅客が本格的に動き出す頃で、踏切から眺めた駅には多くの乗客がいて、高岡方面への普通列車に乗り込むところであった。
この駅は簡易委託駅でもある。
列車の出発を見送った後、少々気温が上がってきたこともあって、私も防寒用に着用していたレインウェアを脱ぐ。
戸出駅発、7時53分。













戸出駅の次は油田駅。読みは「ゆでん」ではなく「あぶらでん」である。所在地は砺波市三郎丸だが、印象に残る油田の駅名はかつての村名に由来する。なお、この「油田村」という自治体は栃木県や新潟県などにも存在した他、読みが「あぶらた」ではあるが千葉県にも存在した。
富山県の油田村に関しては、鎌倉時代の資料で既に油田条という表記があるらしく、歴史の古い地名である。
しかし、時代背景を考えると分かるように、この「油田」は「ゆでん」としての油田とは関係はなく、「燈明油」に関係があるらしい。
少し調べてみると、隣接する戸出が「灯油田」で「といで」という地名だったことや、「燈明油」を採るためのえごま畑や菜の花畑が広がっていたことから「あぶらだ」と呼ばれていたところ、駅名決定に際して誤って「あぶらでん」という読みが採用された、などという話があるようだ。なお、戸出の西には「油屋」という地名もある。
思わず由来を調べたくなる駅名で、ネットでも多くの記事を見つけることが出来る。
なお、この戸出駅と油田駅との間で砺波市に入る。
続いて砺波駅。
ここは既に述べたように出町駅として開業した後、砺波市の発足に合わせて砺波駅と改称した。
砺波と言えば散居村が有名で、地理の教科書にも出てくるぐらいだが、城端線に沿って走っている限りでは、その「散居」の様子ははっきりとは分からない。
ここは散居村を高台から眺める展望台などを訪れてみたいところである。
砺波駅は城端線の中核駅で、相対式2面2線ホームと保線用側線を備えた業務委託駅である。
この駅は駅前のロータリーと近くの踏切からの遠望写真を撮影するにとどめた。
砺波駅、8時24分着、8時27分発。31.1㎞。




続く東野尻駅は林駅と同じく昭和世代の開業駅で、地元の要請によるものだ。
そういった出自もあって1面1線の棒線駅で、待合室も林駅と同じタイプのものに建て替えられている。
行く方には石川県から岐阜県にかけての県境山地が、残雪を纏って横たわっているのがはっきりと見えるようになってくる。あの山並みの懐をこれから越えて行くのである。
高儀駅は書籍によっては1899年5月30日の開業であるが、1902年5月14日には中越鉄道の手によって、二塚停車場と同時に廃止届が提出された。ただ、どういう経緯かは未調査だが、実際に廃止になったのは二塚停車場のみで、高儀駅は廃止されなかった。
この駅も地元の強い要請や寄付によって開業した駅で、元々は2面2線構造を持った有人駅でもあった。今も構内にはホーム跡が残っていて、往時の面影を偲ぶことが出来る。
ここからは南砺市に入る。この南砺市のエリアは広く、石川、岐阜両県の県境までの山間部を含んでいる。
2日前に加越能鉄道加越線の「ちゃり鉄」として発着した福野駅には9時6分着。37.9㎞。
今度は城端線の「ちゃり鉄」としての発着だが、曇雨天だった2日前とは打って変わって快晴。天気によって駅の印象は全く異なるものなので、こうして、何度でも訪れてみたくなる。
駅前で写真を撮影したら直ぐに出発。9時7分発。
2日前には加越能鉄道加越線の廃線跡を通って城端線をオーバークロスしたが、今日は城端線に沿った車道を通って加越線の廃線跡をアンダークロスして先に進む。





福野駅からは城端線の進路がやや南南西から南西寄りに転じるので、進行方向に医王山の姿が現れる。
この医王山は金沢市街地からもよく見える山で、金沢に住んでいた頃はこの山まで自転車で走りに行ったりもしていた。
標高は1000m弱であるがスキー場が開かれた山でもあり、石川県側からも林道が山頂近くを通って富山県に伸びているのが見える。
一度、真冬に行けるところまで自転車で登り、その先の峠を目指したことがあったが、未除雪の積雪に阻まれて引き返したのも懐かしい。
富山県側はスキー場が開発されているので、冬でもアクセスはたやすい。
東石黒駅は1951年8月10日開業で、3つ手前の東野尻駅、2つ先の越中山田駅と同じ開業日である。この3駅はいずれも1面1線の棒線駅で駅構造も似ており、三つ子駅である。
眼前の医王山は増々大きくなっている。
続く福光駅は沿線の要衝駅の1つで簡易委託の有人駅でもある。高儀駅から南砺市に入っているが、その南砺市役所は福光に置かれていて市の玄関口としての機能も併せ持つほか、東海北陸自動車道にも福光インターチェンジが設置されている。かつては国鉄やJRバスの路線が発着する自動車駅でもあった。
駅舎を撮影した後、近くの踏切から構内を遠望撮影したが富山方面への列車を待つ人の姿が多数見られた。
続いて越中山田駅。
ここも既に述べたように1951年8月10日の開業で東野尻駅、東石黒駅との三つ子駅で、ホームの待合室も共通仕様だ。
山田という駅名はかつて存在した山田村に由来するが、富山県内には他にも山田村が存在していた。
ちょうど3日前の行程で笹津から庄川に抜ける際、牛岳山麓の直達ルートを抜ければ旧山田村域を通ることになったのだが、それは現在の富山市域に含まれる旧山田村域で南砺市域に含まれる旧山田村域とは繋がっていないし、自治体としても別の自治体だった。前者は2005年4月1日に富山市へ、後者は2004年11月1日に南砺市に吸収合併される形で消滅しているが、それまでの一時期、富山県内には二つの山田村が存在していたことになる。それでも混乱は生じなかったのであろう。
到着時にはちょうど城端に向かう下り普通列車が停車中。行く先に聳える山並みは庄川水系との間を隔てる山脈で赤祖父山から高清水山、高落場山といった1000m超級の山が連なっている。
今日はこの後、その一角の高落場山1122mの山腹を五箇山トンネルで越えて行く。行く手の山並みの中腹を超える標高まで登り、そして、その半分ほどを吐き出し、最終的には山並みの高さを超えて行くことになる。
城端線の「ちゃり鉄」は残すところ城端駅までの1区間だが、この日の行程としては城端駅までで3分の1の距離に過ぎない。
駅手前にある是安踏切からの遠望写真を撮影して、終着駅の風情ある城端駅には10時8分着。49.6㎞であった。
この城端駅は駅前野宿などで訪れて駅の夜の姿も眺めてみたいのだが、生憎、駅前野宿は難しい立地だし近くに適当な公園もない。
越中山田駅の駐輪場はガラガラだったので、自転車が停まっていない区画を使うか、城端市街地の公園の一画を使うという案はあるものの、いずれにせよ、今回はその計画を実施に移すことはなかった。
南砺市の旧利賀村域の山間部は訪れてみたい山間集落や廃村、峠が沢山あるので、時期を見計らって訪れることもあろうし、その時に、実現してみたいものだ。
天候もよくのんびりムードの城端駅は10時16分発。ここからは本格的な山間部に分け入り、それが終点の北濃駅まで続くことになる。








城端から先は五箇山トンネルに向けての登り一辺倒で、勾配も一気にきつくなる。その勾配が始まろうかというところに城端の市街地があり、善徳寺があるのでお参り。城端は元々は土豪の出城があって城ヶ鼻と称していたところ、この善徳寺が福光から招請され移転してきたことにより門前町として発達。城ヶ鼻が城鼻、城端と転じたと言われている。
こじんまりとしながらも趣ある門前町の街並みが保存されており、城端線に乗ってゆっくり探訪するのもよさそうな一帯であった。
この先の山間部では飲食店も少なくなるので、城端市街地で昼食を済ませていく計画にしていたのだが、時間的に早かったため目的の店はまだ営業開始前。
この日の残り行程の長さや標高差を考えると、ここで開店待ちをするよりは先に進み、適当なところで適当な店を見つける方が得策。そのまま店の前を素通りし城端市街地を抜けた。
この城端市街地から先は国道304号線を通って五箇山に抜けていくが、山麓までは山田川の扇状地を一直線に登り詰めていき、山腹に取付くと山襞を縫うようにカーブを繰り返しながら勾配を増して登っていく。
この道の交通量はそれほど多くはなかったのだが、この日は、ライダースーツに身を包んだ単独のライダーが居て、山麓と五箇山トンネル付近との間を、時速100㎞を超えるのではないかというくらいの猛スピードで何往復もしていた。
そのエンジン音が辺りに響き渡るので接近には容易に気が付くが、向こうがこちらを認識するタイミングが適切だとは限らない。
コーナーをギリギリのラインで走り抜けていくので、見通しの悪い左カーブでは追突されるリスクもあって緊張を要した。
途中、大鋸屋展望所に立ち寄って小休止。ここからは砺波平野南部を斜めから見下ろすことが出来た。
相変わらずライダーが爆音高速走行する登路を喘ぎ登っていくと、徐々に残雪の稜線が近付いてくる。この辺りの1000m超級の稜線は尾根筋の直下付近まで水平に林道の道型が入っており、幾つかの送電鉄塔も立っている。
今は積雪期ということもあり、それらの道型付近まで達するのは困難だが、国道304号線にしても、五箇山トンネル開通前は稜線直下まで登り詰めて細尾峠で山並みを越えていた。
そして、近代以前の街道もこの付近の二ッ屋川から谷を遡って峠に達し、五箇山の各集落に降っていて、その際に雪崩などで遭難が多発した谷には人喰谷という名称まで付いている。
そんな先人の苦労の一旦を自転車で登る私がどれくらい実感したと言えるかは分からないが、11時21分に五箇山トンネル3072mの城端側坑口に到着。57.8㎞。
細尾峠に向かっていた旧道が未除雪の残雪に埋もれながら右手の谷間に消えていくのを眺めながらトンネルに突入する。11時22分発。



トンネル掘削技術の進歩により全長3㎞に及ぶ一般車道トンネルは近年では珍しくなくなってきたものの、自転車で越えるには長大であることには変わりないし、走行は避けたい場所の筆頭でもある。
季節、天候、日程、道路状況等が許すなら旧道を越えて行きたいところでもあるが、今回は調べるまでもなく冬季閉鎖中で旧道を越えることは出来ない。
さて、トンネル内を自転車で走行した経験がある人なら同じ感想を抱くだろうが、トンネル内では自動車の走行音が壁面に反響し、前後どちらの入り口から自動車がトンネル内に進入してもその瞬間から轟音が響き渡る。
反響の影響もあって距離感が掴めず、特に、後続車の接近には気を遣う。
こういう時に走りながら振り返って後ろを確認したりすると、頭の動きに釣られて車道側にフラフラと寄ってしまったりするし、その僅かな瞬間に前方から車が近付いてきたり、道路の段差や障害物が目の前に現れたりもする。
私はバックミラーの類を色々試行した結果、現在はヘルメットに装着するタイプのミラーを若干カスタマイズして使うスタイルを最適解として使用しており、これを通して、視線移動だけで後続車の接近も察知できるので、後方確認は随分容易にはなった。
更にトンネルや夜間・雨天走行時など、視界不良条件下での視認性を高めるために、リアキャリアには自動点灯式のテールライトを3つ装着しており、うち1つはリフレクター機能も付いたものを採用。サイドバッグにもリフレクターが付いたものを使用。衣類は蛍光色や白色、明るい水色やオレンジ色を、視界の状況に合わせて着用、といった具合に、様々に対策を講じているし、自身が自動車を運転する時には、サイクリストの見えやすさを色々な観点でリサーチする習慣も欠かさない。
それでも脇見運転や煽り運転の車に追突されたり接触されたりするリスクはゼロにはならない。時には2mも離れない位置を速度差100㎞近くで追い抜いていく車もあるが、その原因が分からないだけに恐怖は否めない。
接触すればもちろんだが、接触しなくても通過後の巻き風で車道側に振られることが多く、その直後に後続車が高速で通過するような状況だと極めて危ない。
パッシングやクラクションでそういう運転を事前に察知できた場合は、車道脇に設けられていることが多い歩行者用の通路に退避することもあるが、それが幅1m未満ということも少なくない。
五箇山トンネルも歩行者が歩くトンネルではなく、自転車は車道を走るのが原則ということもあって、路側の歩道部分は狭かったため車道通行で越えることにした。
幸い、この日は通行量が少なかったし、山麓から度々すれ違っていたライダーもトンネルに入る頃には休憩に入ったのか、姿を見なくなっていた。
そんなこともあって、このトンネル内で追い抜いて行った後続車は1桁台だったように思う。
途中、覆道箇所があり、自転車や歩行者であれば覆道の外に出ることが出来た。
ちょうど後続車が接近しているタイミングだったので、ここで覆道に設けられた外部連絡通路に退避して停車し、覆道の外に出てみた。
そこは地図にも示されているように、人喰谷に沿って登ってきた旧道がヘアピンカーブを描いて谷を越えて行く地点で、コンクリートの駒止めが急勾配の道の谷側に続く険路の途中であった。
道には残雪と崩土が大量に残っており、このルートに立ち入ったとしても自転車での安全な走行は難しい状況であった。
この旧道を走行するなら、冬季閉鎖が解除され障害物の除去作業が行われた直後の初夏の時期か、降雪前の晩秋辺りが良いだろう。真夏は真夏で厳しい登路に見えた。
再びトンネル内に戻り、ちょうどやってきた3連の自動車を見送った後、走行再開。
五箇山側の坑口の先はダイレクトに梨谷大橋に繋がっており、トンネル内部からもその様子が感じられる。
11時38分にトンネルを抜けて梨谷大橋橋上に出た。
途中、人喰谷への寄り道もあったが16分で走り抜けたことになる。
ここも南砺市に含まれてはいるが、かつては平村だったエリア。
スキー場が直ぐ近くにあるくらいなので富山県でも有数の豪雪地帯であり、この日も目に見えて残雪の量が多くなった。
梨谷大橋の上から梨谷川を見晴るかして出発し、左右にカーブを切ると梨谷トンネル。
これを越えると庄川流域の山腹高くに出て眼下に視界が広がるとともに、豪快な降りが始まる。
この降り途中にある来栖集落を過ぎた地点から側道にそれ、少し進んだ先に世界遺産指定を受けた相倉集落を訪れていく。
相倉集落には11時50分着。64.9㎞であった。



五箇山・白川郷の世界遺産は五箇山の相倉・菅沼集落と、白川郷の荻町集落の3つの集落からなる文化遺産であり1995年に登録された。
ここで世界遺産云々に関する薀蓄は語らないが、合掌造りの民家が集う山里が、人々の生活が維持された状態で今日まで残っているということは確かに貴重な事であるし、昔話の挿画や古い写真、映像で眺めた日本の原風景を彷彿させるのは確かだ。
実は、私は有名観光地を訪れるのはあまり好きではない。
混雑に興醒めするからであり、世界遺産ともなれば尚更だ。
例えば富士山には登ってみたいと思うが、近年の混雑ぶりを見るとその気持ちは削がれるし、人の登らない季節に適切な準備を整えて登りたいと思うが、事故の多発によりそういう社会情勢でもなくなってきた。
この五箇山、白川郷に関してもその危惧はあり、実際、外国人観光客を主体とした大勢の観光客の姿があって、それらの人が映り込まないタイミングでの写真撮影は難しかったが、景観そのものは素晴らしいと思うし、厳しい環境の中で集落を維持されてこられた住民の方にも敬意を表したい。
最近の国際情勢の影響もあって、ここでは欧米系や南アジア系の外国人観光客の姿が多いように感じられたが、彼らの視線は茅葺民家に注がれていて、集落内の神社にお参りし、お辞儀をして鳥居を潜り抜けたり拝殿の前で礼に則って参拝する私の姿を、怪訝なまなざしで眺めてくる一団もあった。
昼時だったので昼食を済ませていくつもりだったが、やや混雑している雰囲気だったので、それは見送り先に進むことにした。この先、コンビニなどが無いことは把握しているが、世界遺産集落ではない一般集落で一般人向けの定食屋などもあるだろうから、走りながら見付けたところに適当に立ち寄ればいいし、最悪、途中で食べることが出来なくても大丈夫なくらいの携行食は装備している。
のんびり過ごすのもよいが、それなりに観光客が居てのんびりというムードではないし、そもそも、この時刻でも今日の行程の半分も走っていないので、それほど余裕があるわけでもない。ここは先を急ぐが勝ちと判断した。
相倉集落、12時18分発。


相倉集落からは中畑や下梨といった集落を経由して庄川の谷間に降り、そこからは庄川温泉郷方面から庄川に沿って遡ってきた国道156号線に入る。
五箇山というのはこの地域の集落の総称で、世界遺産集落はそのうちの2つに過ぎない。
庄川河畔沿いや、その支流の谷沿い、山腹に複数の集落や集落跡が点在しているのだが、その内の1つである上梨集落では白山宮に参拝した後、営業していた郷土料理屋に立ち寄って昼食とした。
山菜蕎麦と炊き込みご飯に豆腐と山菜の小鉢などのセットメニューだった。この日の行程の昼食としては少々物足りない量だったが、この地域の名産らしい豆腐の小鉢が付いていたのでそれを味わった。時刻は13時前だったが、私が入店した直後に営業は終わることにしたらしく、店主の奥さんか知り合いらしい女性が来て、私の退店待ちといった雰囲気になった。この日はそういう日だったのか、元々、そういうお店だったのか。
この上梨集落の対岸にある田向集落には流刑小屋もあるので昼食後に訪問。
世界に誇る日本の原風景が残る山里は、その環境の厳しさもあってかつては流刑の地であった。藩命によって庄川には橋がかけられず、一人では渡ることが出来ない篭を渡しに使わせたという。なるほど、庄川の少し下流、下梨集落の対岸東側には篭渡という集落があるし、更に下った先には渡原という集落もある。橋を架けられない庄川にあって、渡しの存在は地域住民にとっては重要な存在であり、それがこうした地名に残っているのであろう。
なお、流刑にも幾つかの種類があり、軽い方から、集落内に限って出歩ける平小屋、一歩も出歩けないお縮小屋、小屋の中に更に狭い檻を作って閉じ込める禁錮の三種類があったのだという。お縮小屋と禁錮は牢番が小屋の柱の穴から食事を差し入れるだけであったというが、この厳しい山間の地にあってそうした流刑に処せられた罪人にとっては、想像を絶する厳しさであっただろう。
光が強ければ影もまた深い。
観光という脚光を浴びる地で、光を浴びることが出来ない流刑小屋を訪れるという経験。それは「ちゃり鉄」の旅としては大変意義深いもののように感じられた。
昼食を終えて上梨集落を出ると、合計3つの橋で左岸から、右岸、左岸、右岸と転じるが、これは庄川が刻んだ渓谷の難所を避けて国道が迂回しているからで、よく見ると急崖の難所に続く旧道が見えている箇所もある。
この付近は国道156号線に入っているが、道路は庄川に連なる発電用のダムを越える地点で一気に標高を上げ、その後、ダム湖に沿ってしばらくは平坦な道を進み、やがて湛水線を越える地点辺りから緩やかな登りが復活し、次のダム地点で再び一気に標高を上げるというパターンで、階段状に登っていく。
最初の小原ダムの手前で右岸側の小原集落に渡り、そこから小原トンネルを介してダム湖上に出る。
このダム湖を西に進んだところに五箇山の2つ目の世界遺産集落である菅沼集落があるのでここも立ち寄っていく。
13時21分着、75.8㎞。ちょうど、この日の行程の半分くらいの位置まで辿り着いた。
この菅沼集落は元々は庄川河畔の河岸段丘上に開けた集落であった。
今日では小原ダムによって庄川が堰き止められてこの付近はダム湖の様相を呈しているが、水没を免れたのは幸いであった。
荻町集落や相倉集落と比べると小規模な集落で、それに応じてか、観光客の数も比較的少なかったが、河畔に開けた明るい雰囲気の集落で、移住者なのか元からの居住者なのか分からないものの、小学生くらいの子供たちが集落内を自転車で走り回り、自宅らしい民家に駆け込んでいくのが印象的であった。
この菅沼集落では城端駅前で見た中年カップルの姿を見かけた。向こうも向こうでこちらに気が付いたかもしれない。
観光客の喧騒が少ない分、2人でゆっくり訪れるにはよい雰囲気の集落であった。
13時38分発。




この菅沼集落を出た辺りで庄川沿いの遡行路は南進に転じる。それと同時に東海北陸自動車道が現れ、以降、鳩谷ダム付近まで付かず離れず国道沿いに見え隠れする。
その東海北陸自動車道の五箇山ICを越えたところで進路右手にブナオ峠を越えて刀利ダムに通じる富山県道54号線が分岐していくが、この県道のブナオ峠~刀利ダム間は開かずの県道としても知られており、既に峠付近で崩落が進行していて廃道化している。
いつか抜けてみたいとも思っているが、廃道化した道をツーリング装備の自転車で越えて行くのは現実的ではなく、荷物をバラして何往復かして崩壊地を越える必要があり、それは果たせないかもしれない。
県道分岐のすぐ南では西側にある両白山地山麓のタカンボースキー場を見送り、赤尾ダムの登りで一段登って岐阜県境に差し掛かる。
進路右手からその名も境川が合流してくる地点が富山~岐阜県境で、境川を遡った先の桂湖を経て境川源流から笈ヶ岳に至る谷に沿って県境が伸びている。笈ヶ岳も無雪期の登山ルートがなく、日本二百名山中で一二を争う難関として知られている。境川沿いに遡行していくのも困難で、一般的には残雪期に石川県側から登られる標高1841mの山である。
もちろん私も未踏だが、「ちゃり鉄」との絡みで言えば、ブナオ峠からの山中泊1泊2日等の行程で狙ってみたい山だ。
今回はそんな夢想を胸に巡らしながら、先を急ぐ。
境川方面に向かうであい橋を越えた先の火の川原橋橋上で富山岐阜県境を越える。
この先暫く、庄川が県境となるのだが、事前にそれを下調べしていたわけではなかったので、この段階では富山県に別れを告げて岐阜県に入ったと思っていた。
白川郷まで15㎞。高山まで93㎞の標識も見える。
ここは飛越峡とも呼ばれる峡谷地帯で、旧道は蛇行する庄川が刻んだ谷に沿って伸びていたが、国道は峡谷を橋で跨いで直線的に越えて行く。
庄川が県境になるので、右岸側の富山県と左岸側の岐阜県とを行ったり来たりすることになるのである。
途中、飛越橋からは東側に成出ダムを間近に眺めるが、こうした中規模ダムを越える度に標高は上がっていくし、その直前には必ず急登がある。
そして合掌大橋を越える所で最後の県境を越えて富山県とはお別れ。県境ラインは、この合掌大橋東の庄川蛇行部から無名の小さな谷に沿って尾根筋に登っていく。
その先、彼岸の芦倉集落、此岸の椿原集落、対岸の有家ヶ原集落と見送って椿原ダムに至り、長大な新内ヶ戸トンネルと飯島トンネルを越えて行く。
この両トンネルの間には長い覆道区間があり、ダム湖と化した庄川と地形に沿って伸びていた旧道越しに、残雪の飛越国境山地を眺めることが出来た。
自動車なら走り抜けてしまう場所だけに、「ちゃり鉄」ならではの楽しみ方が出来た。
飯島トンネルでゾウゾウ山の下を潜り抜けると白川郷中心地に出て、俄かに都会めく。
もちろん、それは比較の問題であり、都会と言うような規模ではないのだが、五箇山からここまでの集落の規模と比べれば、都会と言ってよい街並みであった。
白川郷中心部を抜けて、橋を渡った右岸側にある世界遺産の荻町集落には14時59分着。95.1㎞であった。






荻町集落は五箇山・白川郷の世界遺産3集落の中では最大規模を誇る集落で、相応に観光客の数も桁違いに多かった。
大阪からの特急「ひだ」も高山本線の運休が発表される前に予約しようとした段階では、通路側に2席しか空きがない状態であったし、今回、名古屋駅経由で特急「しなの」に乗車するために列車待ちしていた際も、先行して出発する高山行きの特急「ひだ」はほぼ満席状態であった。
高山がインバウンド旅行者を含めて人気が高いこともあり、他の2集落と比べて規模も大きく、高山駅前からバス直通でのアクセスが比較的容易な荻町集落に観光客が集中するのであろう。
白川郷のインターチェンジが近く、北陸東海両方面から自動車でのアクセスが容易である点も拍車をかけているように思う。
混雑は予想通りであったが、ここは一先ず城山天守閣の展望台に登って写真を撮影したい。
山麓の和田家住宅付近のバス停付近に自転車を置き、展望台まで徒歩で往復することにしたが、沿道は途切れることなく人人人。それも圧倒的に外国人観光客が多いのが印象的であった。
私はツーリング装備のままで往復したので、周りの観光客とは異質な存在であったが、坂道にバテている人も多く、変な人間がスタスタ坂道を登っている姿を顧みる人も少なそうなのが助かった。
5分ほどで展望台に到着し、ここから定番の構図で数枚の写真を撮影。
このアングルから人気のない静かな雰囲気を撮影するのは無理があったが、天気も良かったので、それなりに、満足のいく撮影が出来た。
広角で見た時に遠方に横たわっている白銀の山並みは、集落道との関係で見ると三方崩山から奥三方岳であろうと思われた。両白山地から延びる支尾根上の山で平瀬から登山道が付いている。
あの山も登ってみたい、などと色々に浮気心が浮かんでくるので、何時まで経っても「ちゃり鉄」の旅は終わりそうではないが、それはそれでよい。
展望台を辞して自転車に戻る道すがら、集落内の撮影を試みるが、何処で切り取ろうとしても人の姿が映り込んでしまう。僅か1枚、一瞬の隙に人が映り込まないアングルでの撮影を行うことが出来たが、ここはまぁ、人の賑わいを撮影するということでもよいのかもしれない。
金沢に住んでいた小学生時代に家族旅行で訪れたことがあるはずだが、展望台には登らなかったような気もするし、あまり、記憶が残っていない白川郷。
今回は、余裕があれば、五箇山から白川郷の間の何処かで野宿してみたかったのだが、それはまたの機会の楽しみとして出発することにした。
白川八幡神社にも参拝して白川郷を出発したのは15時28分であった。この時点で95.8㎞。残り約55㎞。まだ、4時間以上かかる見込みである。





白川郷を出発すると直ぐに鳩谷ダムを越えて鳩ケ谷貯水池の西岸を行くようになる。
沿道は再び無人峡に戻り、水没した旧道を付け替えた国道は湖岸から少し距離を置いた森林の中を行くようになる。
途中、野谷橋からは西に雪稜を見上げる。両白山地の野谷荘司山付近である。
この両白山地の稜線に遮られて既に日陰となった部分も多く、辺りには夕方の空気が満ちてくる。
湛水線を越えて庄川が再び変わらしくなると、左岸に保木脇、右岸に木谷の集落が現れ、再び左岸に大きな集落が見えてくると、それが温泉地でもある平瀬である。
16時11分着。107.6㎞。まだ、40㎞強の距離がありひるがの高原越えが待っている。
ここで小休止して水分補給。
平瀬からは三方崩山への登山道が伸びているほか、大白川沿いに遡って大白川ダムに至れば、白山への平瀬登山口に達するので、登山の拠点としても使われる集落だが、この日は観光客の姿もなく、静かな雰囲気が好ましかった。
16時18分発。
平瀬を出発して右手に大白川を見送ると御母衣、牧の集落を経て、御母衣ダムに達する。
このダムは奥只見ダム、黒部ダムと並んで日本三大ダムとも呼ばれる日本屈指の規模のロックフィルダムで、ダム湖の規模も大きく多くの集落が水没した。
ここでその歴史には踏み込まないが水没地域から移植された荘川桜が、静かに水没した山村の記憶を物語っている。
この御母衣ダムによって生まれた広大な御母衣湖沿岸は無人峡が広がっており、支流の谷沿いに点在した集落も、悉く水没、または廃村となった。東岸奥地にある六厩川や森茂川沿いの廃道や廃集落、そして六厩川橋などは、その道の趣味の人々にはよく知られている。
今回は既に夕方に差し掛かっていることもあり、比較的平坦な道が長く続く西岸道路を足早に走り抜けていくが、途中、福島谷の合流する付近では、険阻な連続覆道区間が展開していた。その連続覆道も谷を越えた南側は廃道として閉鎖されており、新道は福島保木トンネルで山体を貫いていく。
その後は暫く湖岸や覆道を走り、尾上郷川が合流する地点で深く湾入した湖水を渡る。ここには尾神橋が架橋されている。尾上郷と言い、尾神橋と言う、その表記の差異については、何か理由がありそうだがまだ調べていない。
この尾神橋橋上で白川村から高山市に入るのだが、高山市は広大過ぎてここから高山市に入るという実感に乏しい。むしろ、旧自治体である荘川町に入るというイメージである。
なお、荘川町は庄川流域にあるものの「庄川」ではなく「荘川」と記載した。
これは、元々、荘川の地名が中世の荘園に由来する地名として先にあり、現在の庄川が、かつては雄神の庄を流れる川という意味で雄神庄川と名乗っていたという経緯が背景にあるようだ。
時系列的には、荘川の地名が古くから存在したところ、雄神庄川が転じた庄川となり、更には下流に庄川の地名も起こったということである。音が同じなので分かりにくいが地名としてはルーツの異なるものであった。
この尾神橋を渡った辺りの湖面には、ダムの水位低下によって水没集落の痕跡が見えているようだった。よく調べてみると、これはこの付近にあった尾上郷森林鉄道の木材集積場の施設跡で、顕著に判別できる2つの大きなプール上の遺構は木材貯蔵用の水槽の痕跡だという。
この水位低下は渇水の影響かと思っていたがそうではなく、尾神橋の架け替え工事と道路の線形改良工事のための水位調節の結果のようで、随分、貴重なタイミングでこの地を走ることが出来た。
尾上郷森林鉄道に関しても、いずれ、その廃線跡探訪を行ってみたいものだ。
ここから少し先に進むと荘川桜の移植先の公園が整備されている。
ここで荘川桜の物語に深く踏み込むのは避けるが、もちろん、御母衣ダムによって水没する集落にあった桜の巨樹を移植したもので、このダムを巡る水没補償の物語を象徴する存在である。
富山市街地では満開を迎えていた桜も、この山間の地にあっては開花の気配もなく、遅い春を迎えようかという佇まいであった。
ここで小休止を挟み、荘川桜や付近にある御母衣電源神社を参拝したのだが、この電源神社の前の道路脇からインクラインがダム湖に向かって敷設されているのに気が付いた。
これは事前調査も行っていなかった遺構で大変興味深く、幾つかのアングルで写真を撮影。
その敷設時期や目的などは現時点では調査が終わっていないが、現地ではインクラインの先に水没した旧道と橋の遺構が現れて、印象的な風景となっていた。
この地に生まれ育った人々にとって、この風景はどのように映るのだろう。
各地の大型ダムの湖畔には、水没集落の住民らの手による記念碑が建てられていることも多いが、「望郷」の文字を目にすることも少なくない。
電源開発という国家の至上命題の前に、山間部の僻地集落の人々の生活はひとたまりもなく、時には分断工作なども伴って翻弄され尽くすが、そんな人々の諸々を「望郷」の二文字は包み込んでいるような気がする。
荘川桜公園には17時15分着、17時28分発。121㎞であった。












ここから庄川左岸を御母衣ダム湖に沿って遡り、岩瀬橋で右岸の岩瀬集落側に渡る。
この付近が湛水線の上限となっているが、この日は水位が低かったこともあり、普段は水没している水面下の峡谷が露になって、独特の景観を呈していた。
ここから牛丸集落を経て牧戸集落に到着。
この牧戸は高山方面とひるがの高原との分岐点にあたり、かつてはJRバス名金線の停留場もあった。
私自身はこの牧戸を自転車で走るのは2回目。
1回目は学生時代のことで、岐阜県の上宝村にあった大学の観測施設と京都の自宅との間を、トライアスロンモデルの自転車で往復した時のことだった。
往路は高山本線に沿って高山に入り、そこから平湯峠を越えて上宝村に入ったのだが、途中、下呂温泉でツエルトビバーグをした。
復路は上宝村から平湯峠を越えて高山に出て、そこから松ノ木峠を越えてひるがの高原に入り、長良川沿いを降って京都に向かった。
昼過ぎに出て途中ビバーグも考えたが、夕方からは雨天走行となってびしょ濡れ状態だったこともあり、結局、夜通し走り続けて翌早朝に京都の自宅に到着したのだった。
途中、2度もパンクを経験し雨の中でチューブラータイヤの交換に手間取った上に、深夜の琵琶湖畔では雷雨の中での走行となるなど、非常に辛い道中だったが、松ノ木峠から牧戸を経由してひるがの高原に入る辺りでは比較的順調だった。
この復路の走行距離は300㎞を越えており、宿泊を挟まない1度の走行距離としては私の生涯記録である。
ただ、これをその年の春のインカレの1か月ほど前にやったので、インカレのハーフマラソンは散々な結果に終わった。当然と言えば当然だが、当時は、そんな無茶をすることが少なくなかった。
あれ以来の牧戸を今回は御母衣ダムの方から通過する。
昼食が少なかったことや携行食を概ね消費してしまったこともあり、この牧戸付近では開いていた商店で菓子パンを購入。ラストのひるがの高原越えに備える。
「備える」とは言え、実は牧戸からひるがの高原にかけての登りはそれほどきつくない。牧戸の三叉路付近で777m程度であるが、そこから道路に沿って、791m、807m、814m、862m、875mの独標が記されており、高原南端に当たる875m独標付近が中央分水嶺となっている。この間、約9㎞であるから、平均勾配に直すと1%程度。
庄川河口付近から牧戸までの126.6㎞で777mを登り詰めてきた分、最後の最後は楽になる峠越えなのである。
なお、ひるがの高原自体は庄川の支流である御手洗川の源流域に当たり庄川水系。庄川本流は地図上ではめいほうスキー場の北にある山中峠付近に源流をもつように描かれている。
逆に、ひるがの高原から北濃駅までの降りは急勾配で、875mから北濃駅の445m付近までを約14㎞で降る。平均勾配は2.4%となるが、その大半は前半部分で降り切るので、最急勾配はもっときつい。
ちなみに、ルートによって違いはあるが、長良川の河口からひるがの高原まで走っても大体150㎞程度なので、こちらがわのルートだと、最後の最後に急登が待っているという感じになる。
ひるがの高原には御手洗川の渓谷を登り詰めた先で、「ポンッと高原に躍り出る」感じで到着。既に日没時刻は過ぎており、暮れなずむ高原の街が迎えてくれた。
この付近に862mの独標があるので、分水界の875m地点までは緩やかに登り勾配が続くが、この862m独標付近で高山市から郡上市に入る。
左手にはひるがの高原スキー場があり、新開地という地名が付いている。
高原開拓の歴史を感じさせる地名だが、関西、特に神戸界隈で生活したことがあると、神戸高速鉄道の新開地駅を思い浮かべるかもしれない。
ひるがの高原自体では野宿や探索を行ったことがなく、今回もまた素通りであるが、冬はスキー、夏は避暑、といった感じで、観光客の来訪も少なくないだろう。東海北陸自動車道によってアクセスが良くなったので、関西圏でも主にスキー場の広告などを見かけることが多いエリアである。
なお、ひるがの高原はひらがなで「ひるがの」と書かれることが多いが、漢字表記は「蛭ヶ野」。
その字が明確に示すように、開拓期のひるがの高原は高原湿地に蛭が沢山生息しており、それが地名の由来となったようだ。
もちろん、そんな地名のままでは観光誘致どころではないので、この地の開拓と観光開発に当たって、排水改良を行うとともに、地名をひらがな表記にしたという背景がある。
ひるがの高原には雲雀ヶ丘という地名もあるが、「蛭ヶ野」が改まって「希望ヶ原」とか「夢之原」のような地名になったりしなかったのは幸いと言うべきか。
既に薄暗くなりかけているので先を急ぐ気持ちもあるが、元々、日没後走行を想定していたこともあって急く気持ちを抑え、中央分水界付近にあるひるがの白山神社に参拝。この日一日の行程の無事に感謝を捧げ、残り行程の無事もお願いした。
その後、高鷲スノーパークのゲレンデを抱く大日ヶ岳の山並みを遠望してから、最後の降り区間に入った。
ひるがの白山神社、18時21分着、18時24分発。134.9㎞。




降りに入れば、ここまでで蓄積した位置エネルギーを一気に解放していくのだが、との途中で、夫婦滝なる案内看板も見つけて立ち止まったりする。
残念ながら、既に照度が足りず、滝の見物は見送ったが、その先にはスノーシェッドが続いているので、ヘッドライトで照らされた行く方の道の状況を撮影しておいた。
この日の行程は強硬行程で当初から出来栄えの悪さを感じてはいたが、最終盤の降りに入ってから、湯の平温泉に立ち寄って一日の疲れを癒すことが出来る日程と出来たのは幸いだった。
平瀬あたりで入浴することも考えたであろうが、その後の距離の長さを考えると、ひるがの高原を登り切った後に入浴できるというのは理想的である。
その湯の平温泉には18時44分着。144.3㎞。
到着時には父子1組が居たが、その2人と入れ違いで湯船に入った後は、他の来訪者もなく、この日の疲れをじっくりと癒すことが出来た。
この日の夕食は北濃駅到着後にいつもの通り、自炊する計画だった。近くにコンビニもある立地なので、食材の買い出しにも不便はしない。
だが、時刻が時刻だし、北濃駅に到着してから自転車を解体する作業時間なども必要になることを考慮して、湯の平温泉の向かいにある食事処ぐぅ~という定食屋で夕食も済ませることにした。
郡上市は「けいちゃん」というみそ味のホルモン焼き肉が名物らしくて、この店も「けいちゃん」が名物だという。そして数組の客がそれぞれに鉄板を囲んでいた。
私も食欲がそそられたが、少し時間がかかりそうだったので、ここは唐揚げ定食で済ませることにした。お腹も満たして19時37分に退店。
一旦、国道沿いのコンビニに立ち寄って翌朝用のパンを購入し、北濃駅に向かって出発する。コンビニがあるのが意外な場所だが、近くに東海北陸自動車道の高鷲インターチェンジがあり、周辺のスキー場や高原避暑地への観光客が通る場所にあるから、コンビニ経営が成り立つのであろう。
既にとっぷり暮れた中を降り切り、長良川沿いに出てからは緩やかな勾配を軽快に飛ばして北濃駅には19時59分に到着。150.8㎞であった。




当初の到着予定時刻よりも遅くなったものの、20時前に到着出来たおかげで、この日、北濃駅に発着する最終列車の撮影には間に合った。
着替えたり荷物を整理したりするほどの余裕はなかったので、一先ず駅舎の隣にある駐輪場に自転車を立てかけ、カメラを持って構内で待ち構えていると、「北濃」の表示を掲げた普通列車が静かに入線してきた。
北濃駅に発着する列車は1日5本~7本。土日祝平日の違いによって差異がある。
この日は金曜日だったので通常なら6本なのだが、春休み期間中だったこともあって日中の観光列車が2本発着するため、1日では7本の発着。
最終は今しがた到着した20時4分着の北濃行きでこれが折り返し20時11分発の美濃白鳥行きとなる。長良川鉄道の公式サイトの時刻表でも、「美濃白鳥駅で乗換え」の表示がある。
しかし、到着した列車は「美濃太田」の行先表示を掲げて停車している。
土曜休日運転の最終列車は20時2分発で、これは美濃白鳥駅での乗換え表示はなく美濃太田行きとなっている。
この日は平日だったが春休みだったので、もしかしたら、例外的に美濃太田駅まで同じ車両が直通していたのかもしれないし、時刻表の上では別列車だが、車両番号が変わるだけで同一列車として運用される関係で、行先表示が最終目的地の美濃太田になっていたのかもしれない。若しくは、乗換え列車と一体として扱われて美濃太田行きとなっていたのだろうか。
その答え合わせは翌日になって出来た。
いずれにせよ、この列車が美濃太田駅にこの日のうちに到着できる最終列車になることには変わりない。
そして、その列車に乗り込む人は居らず、この列車から降りてきた人も居なかった。
春休みではあったが鉄道ファンの姿もない。
私は「ちゃり鉄」で「駅前野宿」をしたりするので、夜の駅に滞在することも多いのだが、一般に、鉄道ファンであれ鉄道旅行者であれ、わざわざ、夜の駅に鉄道でやってくるケースは非常に少ない。あるとすれば、廃止直前の混雑期くらいで、あとは、学校が休みで青春18きっぷなどのフリー乗車券類が沢山発売される時期に、稀に、駅寝の旅人が最終列車で降りてくるくらいだが、近年はフリー乗車券で使い勝手の良いものが減っていることもあり、そういう場面にも滅多に遭遇しなくなった。
今回、白川郷や御母衣ダム湖畔、ひるがの高原などで野宿を行い、午前中の列車に間に合うように北濃駅に到着して、そこから列車に乗車して帰るという計画も考えたのだが、やはり、この北濃駅では駅前野宿をしたかった。
旅情駅に発着する最終列車のテールライト。
それは私が大好きな鉄道風景であり、野宿の一人旅の風景でもある。
折り返しの列車は定刻に出発。
エンジン音と排気の余韻を残して、旅情駅の一日も静かに幕を閉じた。
北濃駅には駅舎に飲食店も入居しているので、時間的に余裕があるなら駅で夕食としても良かったのだが、今回は、到着時間が読めなかったこともあって先に済ませてきた。
最終列車が出発した後もしばらくはお店の方に人の気配がしていたので、野宿の支度は後回しにして、待合室の明りを利用しながら先に自転車の解体と輪行準備を済ませた。明日は始発列車に乗車して駅を後にするので、乗り遅れないように今夜のうちに準備を済ませておくのがよかった。
そうこうしているうちにお店の方も無人になったようなので、駅前野宿の準備も済ませて眠ることにした。
長い一日ではあったが、湯の平温泉でいい感じに体を温めた後、比較的短い時間で輪行や野宿の準備まで済ませられたので、穏やかな眠りに就くことが出来た。




ちゃり鉄30号:10日目(北濃≧美濃太田≧多治見≧名古屋≧大阪難波≧梅田・大阪≧福知山)
10日目は北濃駅から美濃太田、多治見、名古屋・近鉄名古屋、大阪難波・なんば、梅田・大阪、福知山、という乗り継ぎや乗換えで自宅に戻る。
大人しく戻るなら、美濃太田から岐阜、米原、京都経由というルートを選ぶことになるだろうが、敢えて近鉄の旅を組み込んだ。
朝は5時過ぎには起床。
既に辺りは明るくなっているので、直ぐに朝食を済ませ野宿の装備も撤収した。
昨夜はとっぷり暮れてからの到着になったので駅周辺の撮影を行う余裕はなかったが、今日は7時10分の出発まで余裕があるので、その間に、駅の周辺も一通り巡って撮影を行う。
早朝の駅は駅舎内もホームも照明が灯っていて、まだ、眠たげな表情だった。
昨日の晴天が嘘のように朝から雨模様で地面は濡れている。時折、激しく降るタイミングもある。北濃駅の手前のどこかで野宿をしてきたなら、最後の最後に雨に降られたことになるので、昨夜のうちに到着しておいてよかったと思う。
御母衣湖畔の荘川桜はまだ開花前だったが、この辺りでは既に開花が進んでおり、満開ではないものの5分から7分咲きと言ったところ。駅構内は日当たりの関係もあるのだろうが苔生したところが多く、桜の淡い桃色との対比が美しい。この時期ならではの光景と言えるかもしれない。
北濃駅の開業は1934年8月16日。鉄道省越美南線の美濃白鳥~北濃間延伸開通時に開業した駅である。駅名は当時の北濃村に由来しており、村役場は長滝集落付近に置かれていた。
この越美南線が越美北線と結ばれて越美線となることを意図したものであったことは言うまでもないが、それは実現することなく越美南線は第三セクターの長良川鉄道に移管された。
かつては国鉄バスやJRバスが越美北線の九頭竜湖駅と越美南線の美濃白鳥駅との間を連絡していたがそれも2002年に廃止され、今日では、越美北線、越美南線ともに路線廃止の議論が俎上に乗っている。
いつまでこの鉄道風景が維持されるのかは分からないが、それはさておき、こうして駅前野宿で訪れることが出来たのは幸いであった。


















駅の撮影を行っているうちに始発列車がヘッドライトを灯してやってきた。6時54分美濃白鳥発、7時4分北濃着の701列車である。
車両は観光仕様の「ながら」。
この車両で美濃太田駅まで行けるのだから運が良い。
そして、この車両は502形であった。昨日、最終列車としてやってきた車両も502形だったので、昨夜の疑問は「北濃駅を最終列車で旅だった場合、美濃白鳥駅で乗り換えて美濃太田駅まで行くことになるが、最終列車の行先表示は美濃白鳥ではなく美濃太田とされていた」ということだった。
というのも、昨日の最終で20時過ぎに北濃駅を出発していった車両が、朝の始発として7時過ぎに北濃駅に戻ってくるためには、美濃白鳥駅で夜間滞泊されていたと考えるのが最も合理的だからだ。
実際、土曜休日、平日のダイヤの区別なく、6時54分美濃白鳥発、7時4分北濃着の501列車と、7時10分北濃発、9時24分美濃太田着の6列車が設定されている。6時54分以前に美濃白鳥駅に到着する列車は存在しないので、これは美濃白鳥駅に夜間滞泊していた車両と考えるのが一番自然だ。
車庫のある関駅からの回送列車が早朝に美濃白鳥駅にやって来ると考えることもできるが、その列車が乗客の少ない美濃白鳥~北濃間だけ旅客営業運転を行うのはおかしく、また、関駅から美濃白鳥駅までの距離を考えると、そんな長距離の回送列車を早朝に走らせるとも考えられない。
調べればわかることではあるが、時刻表などからも概ねの推測ができるし、そういう推測も推理小説のようで面白い。
出発時刻に合わせて他の利用者も来るだろうと思っていたが、この日は土曜日だったためか、元々、定期旅客は居ないのか、北濃駅から乗り込んだのは私1人だった。
7時10分。定刻に美濃太田行きの6列車は出発。






美濃太田までは2時間14分の旅路。
長良川の景観を楽しめる区間は山田駅から湯の洞温泉口駅の間辺りで、橋梁やトンネルも連続するが河岸ギリギリを行く区間もある
この日は雨だったが、列車に乗車しているなら、雨の峡谷風景も悪くない。
北濃駅から白山長滝駅を経て美濃白鳥駅に到着するまでは他の乗客は見られなかったが、美濃白鳥駅では数名の乗車があった。
メインカメラはデジタル一眼レフで、静穏モードもあるとは言え、静かな車内で写真を撮影すると、シャッター音が耳障りになるかもしれない。
車窓風景も撮影したかったが、他の乗客への配慮もあって、基本的には眺めて過ごすことにする。辛うじて、山田~自然園前などの一部の区間では他にも写真撮影をしている人が現れたので、数枚撮影することが出来た。
美濃白鳥駅以降は、ポツポツと乗客の姿が見られるようになり、郡上八幡駅や美濃市駅のような主要駅では、それなりの数の乗車があった。
所々で行き違いが行われていたが、タイミングが調整されていて、待ち時間が殆どないので、美濃市駅以外では車外に出ての撮影もできなかった。
関駅では既にホームに停車している車両に増結され、この先は2両編成となって進む。但し、ワンマン列車の運用で無人駅では前側の車両の扉しか開かないので、乗客は1両目に集中しており、関駅を含めて2両目に入って来る乗客はそれほど多くはなかった。
ここからは美濃太田駅に向かって東進する。
現在の状況だけ見れば、どうして岐阜市街地ではなく反対側の美濃太田に向かうのかと線形の不合理を考えそうだが、元々は名鉄美濃町線が存在して岐阜市街地の市内線と一体的に美濃町や関の市街地との間を結んでいた。
この美濃町線の起源は美濃電気軌道で、1911年2月11日には神田町~上有知間を開業させていた。神田町は後の岐阜柳ヶ瀬、上有知は後の美濃町である。対する鉄道省の越美南線は1923年10月5日に美濃太田~美濃町間が第1期線として開業。
この10年強の敷設時期の違いによって、越美南線は岐阜方ではなく美濃太田接続ということになった。関から東に向かわずに南下して鵜沼で高山本線と接続する線形も考えられそうだが、ここには各務原市と関市と境界をなす標高300m内外の山地が東西に横たわっていて、山地を迂回せずに鵜沼に抜けるためには隧道掘削が必要となる。
その山並みを避けて西に向かうと美濃電気軌道の既設路線と競合するため、東に迂回するのが妥当であり、その進路上にある美濃太田から関市を経て長良川上流方面に向かう路線として計画されたのであろう。
関市からは一気に混雑度を増して美濃太田駅着。9時24分。
後ろの車両は扉が開かない上に輪行自転車を抱えた大荷物。キャッシュレス決済の都合もあり最後に下車した。



乗り継ぎ時間は12分だったが、精算に手間取る乗客が複数居たこともあり、太多線乗換えはギリギリ。
それでも写真撮影は済ませて9時36分、美濃太田発。
この太多線もそれなりに複雑な出自を持っており、起源は私鉄の東濃鉄道が1918年12月28日に敷設した新多治見~広見間にある。
この路線が1926年9月25日に国有化されて太多線となり、広見~美濃太田間が1928年10月1日に延伸開通したことで太多線が全通した。
この際、旧東濃鉄道の敷設区間は軽便規格から狭軌に改軌されている。
なお、新多治見は1926年9月25日に多治見へ、広見は1982年4月1日に可児へ、それぞれ改称しているほか、東濃鉄道の手による敷設区間の内、広見~御嵩間は、今渡線として延伸してきた名鉄路線と一体化して名鉄広見線となっている。こうした経緯を経ているため、名鉄広見線は現在の可児駅付近でスイッチバックする線形を持っているのである。
なお路線名や地名の「広見」は残ったが、名鉄側も駅名は新可児駅になっており、広見駅という名称は消えている。
太多線は短距離の路線ではあるが、その中にもこうした歴史が詰まっている。鉄道史というのも大変興味深く、調べ甲斐のある分野だ。
この太多線の旅を終えて10時5分に多治見駅着。
ローカル線の旅はここまでで、そこからは10時11分発の中央線の列車に乗って名古屋駅には10時57分着。
お昼を食べて12時発の近鉄特急「ひのとり」に乗車し、大阪難波駅には14時7分着。
この後、地下鉄で大阪駅に移動して、15時21分の丹波路快速に乗車し、地元の福知山駅には17時32分に到着。駅の王将で夕食も済ませ、自転車を組み立ててバックパックを背負って自宅まで帰り、無事、「ちゃり鉄30号」の旅を終えたのであった。





