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ちゃり鉄30号:旅の概要
「ちゃり鉄30号」ではJR氷見線・城端線、富山地方鉄道本線・立山線・上滝線・不二越線・富山港線・市内軌道線、万葉線高岡軌道線・新湊港線、日本貨物鉄道新湊線といった現役鉄道路線を中心に、富山地方鉄道射水線・笹津線、立山鉄道鉄道線、黒部鉄道鉄道線、庄川水力電気専用鉄道線、加越能鉄道加越線、鉄道敷設法別表第66号線といった廃止路線や予定線の沿線も走った。
今回は存廃議論が取り沙汰されている富山地方鉄道沿線と、JRからの経営移管が決定している氷見線・城端線を巡ることがメインであった。
前者に関しては今回で目的を果たし、内山、越中中村、越中泉、千垣の4駅での駅前野宿も行うことが出来た。
後者に関しては2021年4月~5月に実施したものの雨晴海岸で機材トラブルによって中止となった「ちゃり鉄15号」での走行予定路線でもあった。今回は5年ぶりに訪問計画を立て、早春の立山連峰と雨晴海岸の風景を楽しみにしたのだが、あいにくの雨天。その風景は次回にお預けとなった。但し、雨晴駅での駅前野宿は実施できた。
- 走行年月
- 2026年3月~4月(9泊10日)
- 走行路線
- JR路線:氷見線・城端線
- 私鉄路線等:富山地方鉄道本線・立山線・上滝線・不二越線・富山港線・市内軌道線(本線・支線・安野屋線・呉羽線・富山都心線・富山駅南北接続線)、万葉線(高岡軌道線・新湊港線)、日本貨物輸送新湊線
- 廃線等:富山地方鉄道笹津線・射水線、黒部鉄道鉄道線、立山鉄道鉄道線、庄川水力電気専用鉄道線、加越能鉄道加越線、鉄道敷設法別表第66号線(羽咋=氷見)
- 主要経由地
- 親不知海岸、庄川峡、千里浜海岸、雨晴海岸、五箇山、白川郷
- 立ち寄り温泉
- 北小谷温泉深山の湯、宇奈月温泉総湯、川城鉱泉、日方江温泉、立山温泉ホテルテトラリゾート立山、神通峡春日温泉、氷見温泉有磯湯、鯰温泉、湯の平温泉
- 主要乗車路線
- JE山陰本線・東海道新幹線・中央線・篠ノ井線・大糸線・太多線・福知山線、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、長良川鉄道越美南線、近畿日本鉄道名古屋線・大阪線・なんば線、Osaka Metro四つ橋線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:681.1km/総累積標高差+11311m/-10879m
- 1日目(自宅≧京都≧名古屋≧松本≧南小谷≧北小谷≧糸魚川≧親不知)
(ー/ー/ー) - 2日目(親不知-泊-雁蔵-宇奈月湖-宇奈月温泉=内山)
(63.4km/+2354m/-2206m) - 3日目(内山=電鉄黒部=石田港-生地鼻灯台-電鉄黒部=黒部=電鉄石田=浜加積-川城鉱泉-越中中村)
(66.5km/+280m/-428m) - 4日目(越中中村=電鉄富山・富山駅停留場=岩瀬浜-日方江温泉-滑川=五百石-越中泉)
(81.6km/+231m/-236m) - 5日目(越中泉-寺田=横江…尖山…横江=立山-千垣)
(52.6km/+1807m/-1494m) - 6日目(千垣-岩峅寺=上滝=稲荷町-富山駅停留場=南富山駅前=笹津-神通峡春日温泉-柳瀬=青島作業場-庄川水記念公園)
(89.4km/+957m/-1173m) - 7日目(庄川水記念公園-小牧=青島作業場=庄川町=石動-千里浜海岸-羽咋=氷見=雨晴)
(99.9km/+1492m/-1598m) - 8日目(雨晴=高岡・高岡駅停留場=越ノ潟~堀岡・新港東口=新富山-富山大学前=富山駅停留場-丸ノ内=中町(西町北)-富山=富山口-鯰温泉-海王丸パーク)
(76.9km/+178m/-180m) - 9日目(海王丸パーク-新湊貨物駅=能町-高岡=城端-五箇山-白川郷-御母衣ダム-牧戸-ひるがの高原-北濃)
(150.8km/+4012m/-3564m) - 10日目(北濃≧美濃太田≧多治見≧名古屋≧大阪難波≧梅田・大阪≧福知山)
(ー/ー/ー)
- 1日目(自宅≧京都≧名古屋≧松本≧南小谷≧北小谷≧糸魚川≧親不知)
- 総走行距離:681.1km/総累積標高差+11311m/-10879m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄30号:走行ルート


ちゃり鉄30号:更新記録
| 公開・更新日 | 公開・更新内容 |
|---|---|
| 2026年5月17日 |
コンテンツ公開 |
ちゃり鉄30号:ダイジェスト
2026年3月~4月の「ちゃり鉄30号」では富山県をターゲットとして、JR氷見線・城端線、富山地方鉄道全線、万葉線といった路線を走ることにした。この他、貨物専用鉄道線や廃線、予定線も含み、走行範囲は、富山県の他、一部、新潟県、石川県、岐阜県にも跨った。
鉄道事情に詳しい人であれば、この時期にこれらの路線を選んだ理由は直ぐに分かるかもしれないが、富山地方鉄道の一部区間の存廃議論や、JR2路線の経営移管などにより、今後数年のうちに、富山県の鉄道事情も大きく変化すると見込まれるからである。
私自身はそういう事情に左右されて取材地域を決めていくのは好きではないのだが、未走行の路線に存廃議論が出ているとなれば、やはり、現役のうちに走りに行きたいとも思う。
それに、この地域は2021年にも「ちゃり鉄15号」で走行する計画を立てていたものの、加賀地方や能登半島の路線を走り終えて氷見線に入り、氷見駅から雨晴駅に辿り着いた日の夜の野宿で、ガソリン燃料の携帯コンロが破損して全身とテントにガソリンが噴射されてしまうトラブルによって、旅を中止した経緯もある。
あれ以来、再訪が叶わぬまま5年が経過したが、この機会に走りに行くことにしたのである。
特に3月から4月となると、雨晴海岸から望む立山連峰の風景も期待される。
SNSの影響で酷い混雑が予想されるものの、風景そのものは素晴らしいということもあり、この時期を選んだ。
結果的には雨晴海岸付近を走った2日間は雨天に見舞われ、立山連峰の風景は全く望むことが出来なかったが、雨の雨晴駅の夜というのも、それなりに様になる鉄道風景だったので、それはそれで良しとしたい。
次の機会に期待しよう。
この他、富山県入りの初日のルートは高山本線経由とし、大阪駅から特急「ひだ」に乗車するつもりで切符の購入まで済ませていたのだが、直前になって猪谷~杉原間の橋梁異常による部分運休が発表され、この計画も台無しになった。
初日は移動日としていて、自宅を早朝に出発し親不知駅まで鉄道移動して終わる計画自体は高山本線のトラブルの影響を受けても変更しなかった。一方で、そのアクセス路として、福井周りと長野・新潟周りの2ルートを検討したが、ここは学生時代長らくご無沙汰している大糸線回りとしたく、長野・新潟周りのルートを選ぶことにした。
結果的に、親不知駅到着の時間を都合したり、大糸線北部での途中下車を組み込んだりするため、福知山~京都~名古屋~松本の各区間を在来線特急や新幹線で繋ぐことになった。
また、帰路は少々無理のある計画だったが、新湊から一気に長良川鉄道の北濃駅まで走り切り、そこで自転車を畳んで輪行で帰宅する計画。これも、名古屋から近鉄特急に乗るというルート設計にして、往復の移動経路に遊びを入れた。
日程的にはやや短期の9泊10日。走行距離も681.1㎞と比較的短く、激しいアップダウンも少ないので、全体的には楽な行程だったのだが、最終日だけ150.8kmの走行距離に累積標高差が±4000m前後という高負荷のルートとなってしまった。
本来なら、もう1日日程を追加して白川郷辺りで1泊するのが適切なのだが、日程の制約故にここを1日で走り切る計画となったのは残念でもある。
いずれここも走り直し。ということで、走れば走るほど、走り直したい場所が増えるのだが、それはそれで悪くはない。
ちゃり鉄30号:1日目(自宅≧京都≧名古屋≧松本≧南小谷≧北小谷≧糸魚川≧親不知)
この旅の1日目は走行行程は含まず、鉄道を使った移動のみである。
私の居住地である福知山からなら、舞鶴・敦賀経由で北陸新幹線に乗るというのが普通だろうが、既に述べたように、高山本線回りの計画がダメになったので、大糸線回りの計画とした。
そのため、福知山駅からは特急「きのさき」に乗車して京都駅に向かい、そこから、東海道新幹線で名古屋駅、中央本線と篠ノ井線を特急「しなの」に乗車して走り抜けて、大糸線の入り口である松本駅を目指す。
関西から上越に向かうなら特急「雷鳥」や急行「きたぐに」を使い、信州に向かうなら特急「しなの」や急行「ちくま」を利用した時代もあったが、それも昔話。
新幹線が開業したりして便利になっているはずなのだが、運賃料金は割増になり乗換えが必要となって、新幹線の経路外を長距離移動する場合には、むしろ不便になっている。鉄道が好きだからこそ鉄道で移動しようと考えるものの、一般的な感覚なら、乗り換えなしで割安な高速バスに人が流れるのは当然という気もする。
特急「きのさき」の福知山駅発車時刻は6時2分なので、その1時間ほど前には福知山駅に到着して自転車を輪行用に解体する必要がある。そんなこともあり、この日は4時過ぎには起床し、4時半には家を出た。
輪行の際には登山用の60Lクラスのバックパックに荷物を移し替え、それを登山のスタイルで背負いつつ、右の肩で輪行袋も背負うというスタイル。この輪行袋の中は車体と自転車周りの装備品のみを入れている。
ロードレーサーなどと違って、太いタイヤにキャリアを装着したグラベルロードは重いので、片方の肩で担ぐことになる輪行袋はできるだけ軽くしておきたいのだ。
そのため、福知山駅と自宅との往復はバックパックを背負って自転車に乗る。わざわざサイドバッグに荷物を移し替えることはしない。
もちろん、60Lクラスのバックパックを背負って本格的なツーリングをすることはないが、自宅との間の往復程度なら、荷物の移し替えの手間と時間を省くために、このスタイルを取っている。
お金がなかった学生時代は、キャリアやサイドバッグが買えなかったので、60Lクラスのバックパックを背負ってマウンテンバイクでツーリングをしたものだが、今考えると、よくやったものだと思う。
周りから見ればおかしな格好だが、幸い、早朝なので誰も居らず、人目に付くこともなかった。
自転車の解体と梱包だけでよいので、作業は20分程度で完了。
5時半には改札を通ることが出来て、十分に余裕をもってホームに上がることが出来た。

京都駅からは東海道新幹線に乗車するのだが、「のぞみ」での移動で京都駅の次が名古屋駅なので自由席に乗車する。
自由席は編成の末端に2両ほど繋がっているだけなので、山陰本線のホームから新幹線口への移動に加え、新幹線ホームの新大阪方末端まで移動する必要があり、肩に荷物が食い込んで赤く内出血する。
自転車を持ち込む際は、進行方向に向かって車両後端の3人掛けの座席に座れるのが理想だが、僅か1区間の移動に過ぎないためここでは指定席は取らなかった。
ただ、懸念していたとおり目的の座席は既に占有者が居て、自転車を置くのは躊躇われる。
結局、最後に乗り込んでデッキに立ったままでいると、車掌から「ここに置けなくもないですね」と、車端部の座席の後ろをご案内いただいたものの、既に座っている人も居るし45分ほどの乗車で降りることになるので、デッキで我慢する旨を伝えた。
こういう時は、時間に余裕があるなら「こだま」を利用すればよいのだが、あいにく、この日は名古屋からの乗り継ぎの関係もあって「のぞみ」を利用。最近はインバウンド旅行者による混雑もあって、輪行で新幹線に乗るのは肩身が狭い。
それでも忍耐の1区間を越えて名古屋駅に到着。
長い編成の末端部ではあるが、外国人観光客のグループが居て、日本が誇る「シンカンセン」を写真に収めていた。

ここで在来線ホームに移動して、特急「しなの」の入線を待つが、合間に小腹を満たすため名古屋駅定番のホームのきしめん屋に立ち寄ってきしめんを食べる。
名古屋駅の到着は8時4分で出発は9時であるから、時間的には十分な余裕がある。きしめんを食べるために早めに到着したのではなく、特急「しなの」も自由席に乗るので、車両後端部のシートを押さえるために早めにホームに並ぶことが目的である。
ホームには、外国人も含めて、一見して特急待ちと分かる観光客が大勢居る。
早めに到着してよかったと思いきや、彼らは反対側のホームに発着する特急「ひだ」を待っているらしく、特急「しなの」の発着ホーム側に並ぶ人は殆ど居なかった。
私が乗車する予定だった大阪発の特急「ひだ」も、予約時点で僅か1席しか空いておらず、間一髪で指定席を確保することが出来た。自由席車両も連結されているものの、福知山駅を朝に出て大阪駅からの「ひだ」に乗車するとなると、大阪駅への到着時刻の関係上、目的の座席は確保できない恐れがあった。
そのために指定席にしたのだが、指定席は車両真ん中の通路側。
デッキに自転車を固定するしかない状況だった。
その後、高山本線の一部区間の運休が発表されたが、これは杉原~猪谷間なので、高山止まりの「ひだ」には影響はなく、高山から乗車する予定だった富山行きの「ひだ」は影響を受けるという、実に不運な状況だった。
結果的に、指定席の払い戻しは手数料なしで処理してもらうことが出来たが、影響を受けない高山までの列車は、名古屋発も大阪発も盛況だ。
信濃路と比べて高山はインバウンド旅行者に人気があるようだが、これは、高山から白川郷や五箇山に向かう世界遺産目当ての観光動線があるのも一因のようである。



インバウンド旅行者や若者グループで満席となった特急「ひだ」を見送り、前後して入線してきた特急「しなの」に乗車。
直前に数名が列をなしたが、こちらは空席が目立つ状況で、目的の座席も押さえることが出来た。しかし何故か、私の周りの車両端部に乗客が集中しており、しかも騒々しい。上司らしい中年男性と部下らしい若い男女の3人組が前のシートで席を挟んで座っており、同列の通路向こうにはこれも出張らしい単独男性が1名。3人組が騒々しいのだが、マナーが悪いのは外国人や若者ばかりではなく、どの世代、どの国籍でも、満遍なく存在するように思う。
定刻に出発した特急「しなの」は、金山で追加の乗客を乗せ、中央西線へと入っていく。中央西線は木曽路のイメージがあるが、木曽川に沿うのは中津川駅を越えた先から鳥居峠手前の藪原駅までの区間で、多治見駅に到着する前の定光寺駅や古虎渓駅辺りで展開する峡谷風景は、木曽川ではなく庄内川である。
この両駅も味わい深い駅で、古虎渓駅では学生時代に駅前野宿をしたことがある。
一見すると周りに民家もない僻地のように見えるが、いずれの駅も、少し離れたところに新興住宅地が造成されており、その住宅地の居住者の乗降が多い。
多治見や中津川でサラリーマンが下車していき、先に進むのは観光客らしい中高年夫婦やグループがメインとなるが、車窓にも木曽川が沿うようになり、情緒ある車窓風景が展開するようになる。
いずれこの中央本線も走ることになるが、名古屋方から走り始めても、東京方から走り始めても、塩尻・諏訪にかけて延々と登り勾配が続くし、交通量の多い国道に沿う区間も多いので、自転車の旅は苦労するかもしれない。それでも情緒ある山里の風景が疲れを癒してくれそうだ。
そんな車中の騒々しい3人組は木曽福島で下車していった。観光というよりも出張という身なりではあった。
「ちゃり鉄」に備えて、車両風景を楽しみ駅周辺を観察しながら進むうちに、鳥居峠を越えて塩尻に向かって降り始めた。
鳥居峠の手前までが木曽川流域で、鳥居峠の先が信濃川流域。ここは中央分水嶺の峠である。
乗降の多い塩尻駅を経て松本駅には11時5分着。特急「しなの」の旅は今回はここまで。ここからは、久方ぶりの大糸線に入る。



松本駅での乗り継ぎ時間は4分。11時9分の出発である。
バックパックだけなら問題ないが、自転車を背負っていると移動に時間がかかるのでギリギリである。しかも車両最後尾からの移動になるので、大糸線ホームまで最も遠い位置。
構内放送で大糸線に乗り換える乗客は急ぐようにアナウンスもあり、少々焦るが、前後に大糸線に向かう人の姿もあるので、一先ず、乗り遅れの心配はなさそう。ただ、自転車を積み込めるか心配にもなる。
都会の路線などでは満員で乗り込めないということが、しばしば発生する。
幸い2両編成のロングシート車は座席が全て塞がってはいたものの、ワンマン運転ということもあって後部車両の運転席横のスペースは空いており、そこに自転車を置くことが出来た。ただ、ゆっくりと撮影する余裕はなかった。
この日は平日ではあったが、子供連れの姿も多いし、午前中なのに高校生も多数乗車している。違和感があったものの、よく考えると春休み。
子供の休みに合わせて出かける風情の家族や部活帰りなどの高校生らが乗車しているようであった。
そんな混雑した車中も駅毎に少しずつ人が降りて行き、信濃大町駅付近までに空席が目立つようになってきたが、ここから新たに多少の乗客が乗り込んできた。
私自身もこの辺りで着座。
信濃大町駅までの大糸線は私鉄の信濃鉄道によって開業した区間のため、駅の構造や駅間距離に私鉄の面影が色濃い。同様に私鉄が起源となる飯田線と合わせて、豊橋~糸魚川間を普通列車で繋ぐ旅を実施したら、酔狂ながら面白い旅が出来そうだ。
時刻表で見ても、この両線を繋ぐルートの駅の数の多さは特筆ものである。
しかし、その大糸線も、信濃大町駅から糸魚川駅までは国鉄の手による建設だったため路線の雰囲気が変わる。
大糸線が松本駅と糸魚川駅を結ぶのに松糸線という名称でないのも、松本駅~信濃大町駅の間が私鉄だったという出自によるところが大きい。
信濃鉄道による松本~信濃大町間の開業は1916年7月5日。
これに対し、国鉄の手による信濃大町~糸魚川間の建設は、大糸南線、大糸北線に分けて進められ、大糸南線が1929年9月25日の信濃大町~簗場間の開業を第一期線として、1930年10月25日の神城、1932年11月20日の信濃森上、1935年11月29日の中土という具合に第四期線までの順次開業となったのに対し、大糸北線が1934年11月14日の糸魚川~根知間を第一期線とし、1935年12月24日の小滝への第二期線開業という経緯を経て、最終的に1957年8月15日に中土~小滝間が開通して、晴れて松本~糸魚川間の全通を見た。
この間、1937年6月1日に信濃鉄道の手による松本~信濃大町間が国有化されている。
つまり、大糸線の建設工事中に信濃鉄道区間が国有化され、その国有化から実に20年後に、中土~小滝間の17.7㎞が開通して大糸線全区間が開通するとともに、路線名称も大糸線として整理されたのである。
松本~信濃大町が大糸南線に編入された後、正式に大糸南線と呼称されていたのかどうかはまだ未調査ではあるが、そういう経緯だったことにより、全通時に松糸線に改称されることもなかったのであろう。20年もの間、大糸南線と称されていたのであれば、全通時には「大糸線」とする方が混乱がなくてよい。
それにしても僅か17.7㎞の延伸開通に20年を要したという事実は重い。
それは、この区間が難工事だったことに加え、沿線の旅客需要が極めて小さかったことも物語っており、事実、JR西日本管轄の非電化区間は、度々、災害に見舞われ運休している他、近年では北陸新幹線開業の陰でバス代行による社会実験も行われており路線存続の危機にある。
それはさておき、風景もこれまでの田園風景から里山風景に変わるとともに、所々に残雪が見られるようになってきた。
生憎、天候は曇りがちだったため、楽しみにしていた山岳風景は全く見えなかったが、仁科三湖を車窓に眺めつつ進む区間を中心に、冬の名残を留める早春の車窓風景を楽しむことが出来た。
信濃大町駅までは混雑していたこともあって車窓風景の撮影もままならなかったが、信濃大町駅を出た後は、多少の撮影を行うことが出来た。


大糸線を「ちゃり鉄」で走る場合、この仁科三湖の辺りやJR西日本管轄の非電化区間などで駅前野宿をしたいと思っているので、その適否を調査するという意味でも、車窓に釘付けになる。
簗場駅を越えて青木湖の東岸を周り込み、樹林帯を蛇行しながら降り始めると南神城駅。
この区間で信濃川水系から姫川水系へと転じる。
信濃川も日本海に流れ出すので中央分水嶺ではないのだが、日本一長い河川だけあって、長野県内では枝状に分岐して県北西部の飛騨山脈に谷を刻み込んでおり、青木湖もまた、その源流の1つなのである。
この分水界を越えたところから目に見えて残雪の量が多くなった。
南小谷駅には13時6分着。
ここで電化のJR東日本から非電化のJR西日本へと乗り継ぎになるのだが、1時間37分の乗り継ぎ待ちとなる。
この周辺に温泉施設などはないので1時間37分だと少し持て余すが、昼食を兼ねて街をぶらぶらしながら過ごす計画としていた。ここまで乗ってきたのは結局10人程度だったが、乗り継ぎ待ちは5名ほど。他は迎えの車に乗ってそれぞれ立ち去って行った。



食事をするために街に出てみたものの、駅前はもとより、姫川対岸の集落にも飲食店は少ない。
辛うじて営業していた蕎麦屋に立ち寄ったところ、売り切れで蕎麦はないというのだが、他にお店もないのでここで定番のかつ丼を食べることにした。
若者2組の先客があったが、うち1組はアジア系の外国人の若者たち。こうした地域でも外国人を見かけることが格段に多くなったように思う。
この辺りを歩くのは初めてだが、白馬大池駅の西にある栂池高原スキー場には、金沢に住んでいた時代に家族でスキーに訪れたことがある。
父親の運転で一面真っ白の北陸自動車道を金沢西インターから糸魚川インターまで走り、そこから国道に入って姫川沿いを遡ったので、この南小谷の集落も通過しているはずだ。
あの時、北陸自動車道の親不知付近の景観や姫川沿いの国道の景観には驚かされたものだが、以来、約35年ぶりの来訪。
いずれここを「ちゃり鉄」で走ることになるが、大糸線の現状を考えれば、数年以内には計画を立てることになると思う。
小一時間の散策を終えて駅に戻るが、まだ、時間があるので、駅裏の高台の方にも足を伸ばしたりして過ごす。
乗り継ぎ待ちの人も駅の周辺で見かけるが、それぞれ、暇を持て余している様子であった。




この日は霧雨交じりの曇天で風も強く、気温も低かったので、頃合いを見て駅に引き上げると、程なく、糸魚川からの列車がやってきた。
こちらは単行気動車であったが、意外と乗客が多く、ローカル線で見かけることが少ない若い女性のグループなども居る。
新幹線開業によっても糸魚川方面からの観光流入が根本的に改善している様子はないが、こうして若い女性グループがやってくるというだけでも、効果はあると言えるのかもしれない。
ただ、この駅での乗り継ぎは極めて悪く、それが、鉄道敬遠の一因になっている面もあるだろう。降りてきた人々も、向かい側に停車している普通列車に乗り継ぐのではなく、実証実験中のバスに乗り換えていく。
1時間以上も乗り継ぎ待ちが発生するダイヤなのだから、それは仕方ないと言えるが、経営・投資側にこの路線を維持活用する意思がないことの証左とも言える気がする。民営化とはそういうものなのだから仕方ないし、国鉄を廃して民営化したことの当然の帰結とも思えるが、結局、上下分離化の議論に戻って来るところを見ると、民営化もまた当然のように失敗していると感じている。
少し早めにホームに入り、自転車を車両前部に収めているうちに、その姿を見ていたのか、駅舎で列車待ちをしていた人も、三々五々、ホームの方にやってきて列車に乗り込んでくる。
ここで、同じ列車に乗り合わせてきた男性から声を掛けられ暫し談笑。
お互い同じような嗜好で旅をしていたようで、その男性もまた、自転車輪行をしながら鉄道沿線を走るのが好きなのだという。
鉄道ファンを見かけることは多いが、「ちゃり鉄」のようなスタイルの旅を好む人はあまり見かけないので、話が盛り上がった。


南小谷駅は14時43分に出発。
今回は北小谷駅で途中下車して、近くの道の駅にある「深山の湯」で一浴していく計画としていたので、予め車両前部に座っていたのだ。
もし糸魚川駅まで乗り通すなら、自転車は最後部の運転席横のスペースに収めることになる。混雑する路線の場合、前の方に自転車を置いていると人の通行の妨げになるが、この列車ではそういうことはなかった。
中土駅を出た後は姫川の険しい渓谷を車窓に眺めながら、大糸線最後の開通区間を進んでいく。
実際に車窓風景を眺めてみれば、並行する国道もスノーシェッドを連ねており、この区間の工事が難航したことも、旅客需要が殆どないことも、納得できる。
北小谷駅には14時57分着。
今日のうちに魚津まで行き、明日は富山地方鉄道に乗車するという例の男性に手を振って、一人、駅に降り立った。


「北小谷」という駅名が示すように、ここも小谷村内なのだが、何となく、別の村、別の県に入ってきたような気になる。JRの会社境界を越え、電化区間から非電化区間い入ったからかもしれない。
ここでも1時間39分の乗り継ぎ時間を確保したが、今回は、温泉に入っていくので、時間的には程よい間隔である。
駅に隣接して就労支援センターの建物と数棟の住宅があるが、集落や温泉地は対岸にあり、駅前は閑散とした雰囲気である。
それでも、この日は就労支援センターに人の出入りがあったので、無人峡という感じではなかったし、近くを通る国道はそれなりの交通量がある。
駅の中土方を跨ぐように国道の新小谷橋が架橋されているが、反対の平岩方にも小谷橋が架橋されている。
これらの橋を渡った対岸に来馬温泉や道の駅小谷があり、今回は道の駅に併設されている深山の湯に入る。これも温泉で付近の源泉からの混合泉だという。
この沿線には幾つかの温泉があるのだが、大糸線の駅からのアクセスを考えて、この温泉に入ることにした。
霧雨がぱらつく生憎の天気ではあったが、ブラブラと歩いて温泉まで辿り着き、一風呂浴びて温まったらブラブラと駅まで戻る。多少硫黄の香りがする、温泉らしい温泉で気持ち良かった。
自転車で長旅をする人の中には何日も風呂に入らない人も居るようだが、私は1日1回は風呂に入りたい。体をきれいにしたいというのもあるが、それ以上に、疲れの取れ方が違うからというのもある。
その帰路では南小谷に向かう普通列車が姫川の対岸を登っていくのを撮影。
新小谷橋の上から姫川を眺めると、来し方、南小谷方面は残雪を纏った山並みが、霧雨の向こうに寒々しく煙っていた。
駅に戻って次の列車の時刻を確認し、切符を確認すると、ポケットにも財布にも切符が見当たらない。駅舎の周りやホーム、線路にも落ちていない。となると、深山の湯で着替えた時に落としたのかもしれないが、今から施設に戻って確認する時間はない。
私はちょこちょこ切符を落とすのだが、決まって途中下車のタイミング。
切符を見せて途中下車し、それを一旦ポケットにしまって直ぐに出発していく列車を撮影するので、そのタイミングでポケットにしまったことを忘れてしまい、色々やっているうちに落としてしまうのである。
パスホルダーで良いものを探したいのだが、横長の切符にも使えるような具合の良いものが中々見つからず、同じ失敗を繰り返している。
この時は糸魚川までの区間の800円程度を追加で払えば何とかなるので、仕方ないと諦めて駅前の撮影をしていると、ふと見た先に何かの紙切れが落ちていて、それが私がなくした切符だった。
どうしてそこに落ちていたのか見当もつかないが、雨に濡れてふやけていたものの、何とか使える状態で手元に戻ってきたのでホッとする。際どいタイミングではあったが、出発10分前くらいに切符を見つけられてよかった。
ホームにバックパックや自転車を移動させて待つうちに、姫川の谷間を降ってヘッドライトを灯した普通列車がやってきた。北小谷駅16時36分発。







この先、大糸線は姫川峡谷の核心部を越えて行く。
北小谷駅から暫く右岸側を進むと長い真那板山トンネルに入り、それを抜けたところで左岸側に渡る。この上流付近に白馬温泉や白馬大仏があるが、温泉を通る車道は九十九折りの急登で葛葉峠を越えていた。
この道は現在は県道375号平岩停車場蒲原線となっているが、元々は国道148号線だった。私が家族で栂池高原スキー場に行った当時は、この旧国道を越えていたはずで、朧げに急勾配の雪道を越える道中で白馬大仏を眺めた記憶がある。
今日、国道148号線は複数の長大トンネルでこの難所を潜り抜けている。
平岩駅を出ると対岸に姫川温泉郷を眺める。
河岸近くに立地する古い温泉街だが、河岸はコンクリートで固められており、姫川の暴れぶりが偲ばれる。
この先、平岩駅と小滝駅の間の渓相はとりわけ険しく、鉄道も国道もスノーシェッドや橋梁、トンネルが連続し、所々で見られる渓谷には残雪が大量に残っていた。峡谷沿いに古くから街道が開かれていたものの集落は存在しない。
ここは長野県と新潟県の県境でもあり、日常的にこの付近を往来する生活動線は殆どないことが分かる。
この様相が落ち着くのは小滝駅を出た辺りから。
根知駅を出て大野トンネルを潜ると、少し姫川から離れて支流のニゴリスミ川に沿うようになるが、谷間から出て平野に出てくると、糸魚川市街地に近づいてきたのが車窓風景からも感じられる。
頸城大野、姫川の2駅に停車した後、糸魚川駅には17時21分着。
大糸線の旅を堪能することが出来た。
なお、「姫川」を称する駅は、JR函館本線にも存在した。私にとっては函館本線の姫川駅の方が馴染み深く、何度か駅前野宿で訪れたし、旅情駅探訪記も書いた。既に駅としては廃止されてしまったのが残念である。
大糸線の姫川駅は1986年11月1日の開業で、JR函館本線の姫川駅は1987年4月1日のJR北海道発足時に駅に昇格したが、それまでは仮乗降場で元々は信号場だった。
国鉄時代に同名の駅が存在したのかと思ったが、国鉄時代は駅と仮乗降場の違いがあったので同名でも問題なかったし、それも僅か1年に満たない期間の話。JR発足後は同名駅となったが、会社が異なることから問題にならなかったのだろう。




この糸魚川でも59分の待ち合わせ。
旅の時は安否報告も兼ねて伴侶にこまめに連絡するのだが、「中々、進まないのね」と笑われる。
駅の周辺で夕食を済ませていく予定だったのだが、新幹線駅が開業した割に駅周辺の賑わいは乏しく、この日は人の姿も疎らだった。営業している飲食店も少ない。
店を探しつつ海岸まで辿り着き、そこで展望台に登って夕日を眺めてから駅に戻る。
今日一日、ずっと曇天霧雨のパッとしない天気だったが、海岸から眺める西の空は雲が途切れていたので、明日は予報通りスッキリと晴れてくれることだろう。
結局、目ぼしいお店は見つからず、駅のコンビニで弁当とおにぎりを買って、誰も居ないホームで食べるという、ちょっと侘しい夕食を済ませることになった。
駅舎の建物には大糸線で活躍したキハ52形車両が待合室も兼ねて静態展示されている。
このキハ52形は大糸線の他、飯山線、岩泉線などでも乗車した記憶があるが、私の好きな車両の1つだった。
こうして活用されているのは稀有な例でもあり、また、恵まれた車両だとも思う。
その待合室には女子高生らしい2人が居てスマホをいじっていた。キハ52形には何の興味もなさそうだが、それはそうだろうと思う。




誰も居ないホームで弁当を食べ終えて泊方面に向かう列車の到着を待っているうちに、対向列車の発着もあって、少しずつ、ホームに人の姿が見え始めた。
糸魚川駅は18時20分発。えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの普通列車がこの日の行程の最終ランナーである。
途中、青海駅に停車して2駅先の親不知駅には18時32分着。丸一日移動するだけの行程ではあったが、こういう旅も久しぶりなので新鮮だった。
親不知駅は2007年に自転車の旅で通りかかったことがあるが、通過しただけで駅前野宿などはしたことがなかった。今回の主な訪問先は富山県内の鉄道路線ということにはなるが、初日に訪問を予定している富山地方鉄道本線の宇奈月温泉駅から先は、この時期は黒部峡谷鉄道経由で奥地に抜けていくことが出来ず、折り返しが必要になる。
沿線では内山駅での駅前野宿を計画していたので、その内山駅までの距離なども勘案して、この親不知駅を出発地点として、この日はここで駅前野宿とすることにしたのである。



この親不知駅は現在はえちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの駅となっているが、私にとっては北陸本線の駅という印象の方が強い。
かつては数多くの優等列車が駆け抜けていったであろう駅のホームも、普通列車の往来を待つばかりで持て余し気味であるが、時折通過していく貨物列車が幹線だった時代の面影を今に伝えている。
このように電気機関車が牽引する長大編成の貨物列車が通過することもあり、この付近は北陸本線時代と変わらず電化区間であるが、えちごトキめき鉄道の普通列車は単行気動車化されており、北陸本線時代とは大いに印象が異なる。
ただ、この区間に乗り入れてくるあいの風とやま鉄道の車両は複数車両を繋いだ電車で運転されており、往時の北陸本線の面影を辛うじて今に伝えている。
また、えちごトキめき鉄道は国鉄型車両をJRから引き継いで観光列車として運用に回しているようで、これは勿論、北陸本線時代の姿を今に伝える貴重な姿である。
駅の近傍には歌集落があり、この駅の日常的な利用者は概ねその集落の住民と思われるが、私が下車した列車から一緒に降り立った人は居らず、この駅もまた、利用者は極めて少ない駅だと思われた。
ただ、付近の親不知海岸への最寄り駅であり、栂海新道を経て飛騨山脈主稜線に達する縦走路の日本海側の起点にもなるため、そういった観光目的の人の乗り降りは多少あるのだろう。尤も、この時間に乗降する観光客が居るとも思われない。
明日の朝はこの親不知駅から自転車で走り始めるので、駅の撮影を行いつつ輪行してきた自転車を組み立て、キャリアに荷物を積み替えていく。今日は夕食は済ませているし、明日の朝はパン食で飲み物は駅前の自販機で購入するので、自炊用具もサイドバッグにパッキングしてしまう。
その間、北陸自動車道を通る車の音は間断なく聞こえ、時折、貨物列車が通過していったが、駅前の集落道を通る車はなく、訪れる人の姿は無かった。
列車の発着本数は少なくはないので、その発着の旅にホームに出て撮影するのだが、この駅で降り立つ人の姿は無い。
最終列車は市振方面が22時50分、糸魚川方面が23時40分と遅いので、程々まで撮影を行った上で、遅くならないうちに野宿の寝床に入って休むことにした。




ちゃり鉄30号:2日目(親不知-泊-雁蔵-宇奈月湖-宇奈月温泉=内山)
2日目は走行初日。
親不知駅から親不知海岸を経てあいの風とやま鉄道の泊駅に至り、そこから雁蔵集落に回り道をしつつ、宇奈月湖まで飛騨山脈西麓に沿って登り詰める。
今回は、それ以上奥地には入ることが出来ないので、ここで折り返して富山地方鉄道本線の「ちゃり鉄」に入り、少し降った内山駅で駅前野宿の予定である。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日のルートの序盤は親不知海岸付近のアップダウン。北陸本線旧線の親不知隧道跡付近が標高100m弱でかなり高い位置を通過している。
その後、30㎞~33㎞付近は七重滝や池の原付近のアップダウン。
ここから峠を降って朝日小川扇状地を越えて黒部川扇状地に入り、登り詰めた先が宇奈月湖付近である。これは55㎞付近だ。
そこから一旦降って宇奈月市街地に入り、登り返しを経ながら降っていって内山駅へ。
距離は比較的短く63.4㎞。累積標高は+2354m、-2206mであった。
翌朝はまだ暗いうちから出発準備をする。泊行きの普通列車の始発が5時25分とかなり早いのである。30分前には駅前野宿を片付け、15分前には自転車のパッキングも概ね終了させて始発列車を迎えるようにする。
朝早い駅利用者の利用の妨げにならないようにするための、私なりのルールである。
5時台に親不知駅に発着する普通列車は泊行きが2本で、それぞれ25分発と46分発。
6時台に入って6分の直江津行き、9分の泊行き、41分の直江津行きの後が、54分の金沢行きで3県3鉄道に跨る列車となる。
今回はこの9分の泊行きまで撮影して駅を後にすることにしたのだが、その合間に親不知駅を通過する降り貨物列車も撮影することが出来た。
5時台の駅舎は黎明の大気の底で眠たげな表情。発着する列車にも乗客の姿がなく、さながら回送列車のようであったが、6時台になると辺りはすっかり明るくなり、朝の顔になってきた。
文化財駅舎の親不知駅舎を撮影したりして6時18分発。「ちゃり鉄30号」の実質的なスタートを迎えた。





親不知駅から向かうは西向きなのであるが、私は一旦、逆向きに走って歌集落に入り、その奥に鎮座する羽黒神社に参拝した。
駅前野宿の際には、駅前野宿の一夜への感謝も込めて、出来るだけその駅の所在地となる集落の神社を訪れていくようにしているからだ。
高台にある羽黒神社の境内からは、日本海の荒波を逃れて谷間に身を寄せ合うようにして佇む歌集落の家々の向こうに、北陸自動車道の高架橋を眺めることが出来た。
この境内からの風景も様変わりしたことだろう。
参拝を終えたら再び親不知駅に戻り、今度は西に向かって通り過ぎて、目的地に順行する。
途中、道の駅親不知ピアパークと北陸本線旧線の親不知隧道跡を落石覆いが連続する国道8号線で繋いでいきながら、親不知海岸の名前の由来となった険しい海岸線の様子を肌身に感じていく。
このエリアを自転車で走るのは19年ぶりだが、前回は「ちゃり鉄」以前の旅の道中だった。
険しい海岸風景は当時と変わらないが、北陸新幹線が開業して並行在来線は経営分離されており、地域の交通体系は大きく変貌を遂げた。
道の駅を過ぎて暫く西進した後、国道が鉄道を跨ぎ越す地点があり、この先、市振集落の東端までの区間が、親不知海岸の核心部と言える断崖絶壁区間になる。
国道はトンネルや覆道が連続し、海岸を避けて海食崖中腹にまで逃げているが、それでも平坦地はないため、断崖絶壁を削って難所を克服している。
鉄道はこの区間に旧線と新線があり、新線は長大なトンネルで内陸側を一気に抜けているが、旧線は海食崖の中腹に短いトンネルと橋梁を連ねて抜けていた。
今日、その廃線跡の一部が遊歩道として開放されており、今回はその部分を歩くとともに海岸の波打ち際まで降りる計画としていた。
今回は旧線の「ちゃり鉄」ではないので、この部分は一部の探訪のみではあるが、親不知駅を起点にした理由でもある。



道の駅を越えて核心部に入っていく直前の山手に、明らかにそれと分かる旧線隧道跡の坑口が見える。これは大崩隧道。坑口に立ってみると出口側の明りが見えているし、車の轍もトンネル内に伸びていた。
通り抜けることも出来そうだったが、今回は坑口のみを撮影して先に進む。
この隧道跡付近から国道も覆道に入り、徐々に高度を上げていく。
風浪川の谷に出たところに親不知記念広場があり、ここから、親不知海岸の核心部を遠望することが出来るが、この付近にある天険トンネルの名が体を表すように、ここから眺める親不知海岸は、どうやっても海岸沿いを通過することが不可能なように見える。
それでも先人はここに道を開き、鉄道を敷いたのだから、その執念と技術には感服せざるを得ない。


この谷を巻いていく部分もよく見ると北陸本線旧線の橋脚や隧道の坑口が見えているが、今回は上から眺めるだけで先に進む。
覆道で更に高度を上げて天険トンネルに入る手前で、右手に親不知観光ホテルが見えてくるが、ここで観光ホテル側に分岐する旧国道に入る。今は、遊歩道化されている道だ。
この分岐の反対側には栂海新道の起点があり、飛騨山脈全山縦走の際の日本海側の登山開始地点になっている。そう遠くない将来に、この縦走は成し遂げたいと思っている。
この旧道を暫く走ると、北陸本線旧線の親不知隧道跡に向かう遊歩道が2か所で山を降っていくので、市振方の入り口から階段を降ってアクセスし、親不知方に向かって隧道跡を抜けた。
旧隧道は照明も完備しており、路盤部分は多少の補修もなされているので歩くのに苦労はないが、備え付けの懐中電灯は光量が不十分なものもあるので、ヘッドライトを携行している方が無難だ。
5分ほどで親不知方の坑口に達すると、小さな沢を挟んで向かい側に風波隧道の落石覆いとその向こうの坑口が間近に見える。この風波隧道は解放されていないが、縄梯子が掛かっていたので、廃線探索家などは坑内に立ち入っているのであろう。
私はこの光景を眺めて写真撮影を済ませたら、道路側から降ってくる階段を伝って水際まで降りてみた。
ここには小さな浜が広がっていて、釣り人が1人居たが、浜の両脇は岸壁に阻まれており、クライミングなしでは移動は出来ない。
浜と言ってもごろた石の浜で砂浜ではなく、歩くのは難儀する。
ふと見ると、市振方の岸壁に古いコンクリート製の階段の残骸が残っていた。
かつては遊歩道が設けられていたようではあるが、既に侵食されて失われており、道の体は成していなかった。
「親不知」とは「親は子を、子は親を、顧みて守る余裕もないほどの難所」というところから名付けられた地名で、「親不知子不知」と表記されたりもするのだが、地形の変化はあるにせよ、こんなところを本当に伝い歩きしたのだろうかと思わせる。
北海道にも蝦夷親不知と呼ばれる交通の難所があるが、その総本山とも言えるのが、この新潟県の親不知子不知の海岸。確かに、凄い景観の海岸であった。





今回は比較的浅い探訪計画だったので、道なき断崖の踏査などは行わず、これで親不知探訪は終了。7時6分着、7時40分発で、6.5㎞であった。
旧道を走り抜けて国道の覆道に戻り、そこからは降り基調になって市振集落の東の端に達して、この天下の険の難所を走り終えた。
国道脇の広場から振り返ると、来し方彼方まで延々と覆道が続いている様が印象的であった。
白髭神社にお参りしてから、市振駅には8時3分着。12㎞。
かつて金沢に住んでいた頃、冬の天気番組で大荒れの実況が流れると、よく、市振駅構内で線路に波が入り込んで北陸本線が運休というニュースが伝えられていた。
その頃から市振駅という名前は印象に残っていたのだが、駅を訪問するのはこれが初めて。新潟県の駅ではあるが、あいの風とやま鉄道とえちごトキめき鉄道との境界駅となっており、管轄はえちごトキめき鉄道である。
構内踏切を伴った市振駅は、ホーム越しに日本海を見渡すことが出来るが、風浪を防ぐための防風防波柵も張り巡らされていて、一望というわけにはいかない。
それでもこの日は穏やかな晴天ということもあり、気持ちの良い旅情駅の佇まいであった。
折しも泊行きの普通列車が2両でやってきて、乗客1名が乗り込むところ。
この駅も親不知駅と同じく文化財駅舎を伴っているほか、構内にあるレンガ造りのランプ小屋も、同じく文化財指定を受けているという。
新潟県最西端のこの駅では、いずれ、駅前野宿を行ってみたいと思う。
市振駅8時21分発。





市振駅を出た後は穏やかな海岸沿いを進み、境川で新潟県から富山県に入る。
この富山県に入って最初の駅、つまり、富山県最東端の駅が越中宮崎駅。
ここも市振駅と同じく、日本海に程近い海岸沿いの駅だが、駅構内からは防砂林などに遮られて海の展望は開けない。
それでも何となく海の気配と潮風の香りを感じる穏やかな駅である。
ここでも隣接する境集落の高台にある境神社に立ち寄ってから、越中宮崎駅には8時45分着。17.2㎞。
列車発着の合間時間だったため、この駅では人の姿は見かけなかった。
駅前から海岸は直ぐで観光交流施設のヒスイテラスを右手に、堤防の向こうには海が見えている。
海岸まで出てみると風光明媚な砂浜が広がり、来し方遠くには親不知海岸の懸崖が連なっているのが見える。
海水浴場も開設される砂浜は、オフシーズンではあるもののヒスイ探しや釣りに興じる人の姿があって、穏やかな朝を迎えていた。
この越中宮崎駅付近には境鉱泉という温泉施設があったが、残念ながら既に廃業。近くに宝温泉という温泉旅館もあるが、こちらは経営者が外国人に変わったとかで、評判はまちまち。
それでも営業している温泉施設があるというのは魅力的で、この辺りの駅は、飛騨山脈の登山も含めて、駅前野宿で何度でも訪れてみたいと思わせてくれる。
越中宮崎駅発8時58分。




続く海岸線の探訪は続く泊駅付近にあるダイヤ海岸までの計画であるが、その途中にある宮崎鼻では山麓の鹿嶋神社と宮崎鼻灯台に立ち寄った。
この鹿嶋神社の裏手から城山に向かう登山道が延びており、その途中で宮崎鼻灯台に分岐するのだが、登山道の入り口付近には北陸本線旧線の宮崎隧道跡が残っていた。
これは事前に調べていなかったので、現地で見つけて驚いた。
旧線は越中宮崎駅から現在は車道となっている道を直線的に進んできて旧宮崎隧道に入り、現在線よりもきついカーブを経て宮崎鼻を抜けていたようだ。
宮崎鼻灯台は樹林に囲まれて展望は開けないが、灯台訪問も楽しみの1つなので、これはこれでよい。登山道の途中には鹿嶋神社の奥宮らしい祠が1棟建っていた。
宮崎鼻を辞した後は海岸に沿って西進し、砂浜が広がるダイヤ海岸へ。
この辺りまで来ると、飛騨山脈から派生する尾根筋から離れ、小川や黒部川などの扇状地に入っていく。
ダイヤ海岸というのはgoogleMapでの表記だが、周辺集落地名は大屋なので、地理的には大屋海岸と書くべきだろう。ダイヤというのはヒスイとの対比で付けられたこじつけ表現という気がするが、一応、地元朝日町観光協会でも「ダイヤ海岸」という表現を使っているようだ。
この海岸付近からは飛騨山脈前衛の山並みが残雪を纏って青空に映えていた。結果的に、この日が一番きれいに山並みを眺められたものの、他の日は霞や曇雨天に祟られ、楽しみにしていた山岳展望は殆ど望めなかった。
その山並みを背景に、田圃の中に印象的な姿で佇んでいた大屋新神明社に参拝し、泊駅には9時52分着。23.8㎞。






泊という地名は全国に存在するが、多くは船の停泊地という意味合いに由来しており、近くに港津を伴っている。
この泊駅も泊町という地名由来で、その泊町自体は、やはり船泊に由来するとする説がある。
ところで「泊駅」というのは全国に3か所あって、他の2か所はJR山陰本線の泊駅が鳥取県、四日市あすなろう鉄道内部線の泊駅が三重県にある。
このうち、山陰本線の泊駅は官設鉄道時代の1905年5月15日の開業で、あいの風とやま鉄道の泊駅は国有鉄道北陸本線時代の1910年4月16日の開業である。
こういった場合、同名駅となって混同されることを防ぐため、後発の富山県の泊駅は「越中泊駅」などと命名されることが多いのだが、そうはならなかった。
その理由は明らかではないが、他にも「大久保駅」のような同様の事例はあるので、必ずしも、同一駅名になることを避けて駅名が決められたわけではないのだろう。
えちごトキめき鉄道とあいの風とやま鉄道の施設管理の境界は市振駅だったが、運行上の境界は泊駅となっており、この日もホームには両鉄道の車両がそれぞれ逆方向への出発待ちで停車していた。
富山平野の東端部に位置することもあり、北陸本線時代からこの駅を始発終着とする列車が設定されていた。その運用は今も続いているのだろう。
穏やかな天気が心地よい泊駅は9時57分発。


ここからは宇奈月温泉に向かって飛騨山脈東側の前衛峰山麓の扇状地を登っていくのだが、真っすぐに宇奈月温泉に向かうと、この日の行程が短くなりすぎる。
そこで、泊駅からは尾根向こうの笹川流域に入り、雁蔵集落から七重滝を経由し、池の原で尾根を越えて扇状地平野に戻って来るという迂回路を辿ることにした。
長閑な山村風景が広がる笹川集落で諏訪神社に参拝し、谷が二股に分岐する雁蔵集落を越えて七重谷川に入る。
この七重谷川の源流部は南保富士に突き上げているのだが、その付近に連瀑があることが地図に示されており、七重滝という地名が付されている。
この七重滝は林道から分岐する小道を辿り、更に登山道を辿って展望地点までアクセスすることになるのだが、地図に示されている実線の車道は滝の手前で消失していた。
展望地点からは梢越しに滝の一部が見える程度。
記録は少ないが沢登りでこの滝を遡行した記録も散見された。
なお「七重滝」のよみは「しっちゃ」であることが図示されている。
この七重滝付近から林道を登り、三峯グリーンランドというスキー場跡地を転用したキャンプ場を過ぎると峠になり三又に出る。左手に進むと南保富士の登山口に至るようだが、ここは右手の廃道のような道に転じて降っていく。
この辺りに池ノ原という地名が付されていて神社記号も記されているのだが、ここはかつて存在した池ノ原集落の跡地であり、石谷神社が現存しているので参拝していく。
ここからは落ち葉や落ち枝などでやや荒れた舗装路を、意外な急勾配で降り、新川小川による扇状地の平野に達する。
石谷神社、11時22分着、11時26分発。34㎞であった。





ここからは山麓に沿って宇奈月湖まで登り詰めていくのだが、最初は朝日小川、その次に黒部川による扇状地を通過する。
中学高校の地理の教科書に出てきた記憶のある地域だが、自転車で走ってみると、意外と傾斜があり、しかも登り勾配が続くので楽ではない。
お昼時ということもあり、朝日町内にあるバーデン朝日に立ち寄りレストランの営業を尋ねてみたが、コロナ禍以降は営業していないとのことで昼食は諦める。温泉も併設しているので入浴していくことを考えたが、この先、宇奈月温泉でも入浴する計画にしていたので、ここは時間を割かずに先に進むことにした。
黒部川が扇状地に流れ出すところに愛本集落があり、ここからは右岸側の県道328号線道を遡っていく。この時期、この先で冬季通行止めになっているのだが、自転車の通行に大きな支障はない様子だったので、そのまま先に進む。
途中、栗虫の集落があり、この集落の奥から音沢までの区間が冬季閉鎖となっているようだったが、自転車はチェーンゲートの脇から抜けられたので、そのまま右岸側を走り切り、音沢からは県道13号線に入る。
この県道13号線に入ると道路は黒部川沿いから斜面中腹に高度を上げていくとともに、スノーシェッドに覆われるようになる。
対岸には県道14号線と富山地方鉄道本線が通っており、折しも、走行中の列車の走行音が聞こえてきたりする。
左岸側にある宇奈月温泉街をパスして、登り勾配のトンネルを越えると、新山彦橋を渡ってトンネルを潜り抜けてきた黒部峡谷鉄道の線路が左手に現れる。
更に登り勾配のトンネルを1つ越えると宇奈月湖展望台に到着。
13時3分、54.6㎞であった。
この宇奈月湖展望台からは更に湖面橋を渡って奥地の尾の沼公園やとちの湯まで車道が通じているが、この時期は冬季閉鎖で通行止めなので、展望台から宇奈月湖の向こうに見える黒部峡谷鉄道の柳橋駅や新柳河原発電所の建物を眺めて引き返す。
黒部湖の展望台には数組のグループが居て散策したりお昼ご飯を食べたりしていた。
13時5分発。




ここから一旦降り、想影橋で左岸側に渡って宇奈月温泉街へ。
宇奈月温泉駅は橋上駅舎であるが、観光地らしい造りになっており、駅前には湯壺があって湯煙が立っている。
駅前からは一旦黒部峡谷鉄道の宇奈月温泉駅方面に進み、足湯を眺めた後は、市街地を見下ろす高台にある宇奈月神社に参拝。
その後、改めて宇奈月温泉駅に戻った。
この時期は黒部峡谷鉄道は冬期運休中で、宇奈月温泉から黒部峡谷方面に足を踏み入れることは難しい。私自身もそうだが、基本的にはここから引き返していくということになる。
それでも駅周辺には多少の観光客の姿があったのは、温泉があるからという特性によるところもあるだろう。
この日は昼食を食べ損なってきたので、この温泉街でお店を探すのだが、休業日の店が多く、辛うじて開いていた店はちょっと外れという感じで、面倒くさそうな応対と高めの価格と少ない量という、有名観光地にはありがちな昼食となった。
まぁ、それでも白魚のかき揚げ丼と汁物で、一先ず、昼食を済ませることは出来た。
順序が悪いが食事の後は宇奈月温泉の公衆浴場である総湯に向かい一浴。ここは観光案内所のある建物に温泉施設も併設されており、見た目は随分と現代的な建物になっている。
温泉で温まった後は、富山地方鉄道本線の「ちゃり鉄」に入るのだが、この日は営業駅としては2駅先の内山駅までなので残り距離も僅かだ。
総湯には13時54分着。15時9分発。58.7㎞。
時間的な余裕もあるので、少し長めに滞在した。
温泉街の中にあるコンビニエンスストアで駅前野宿の食材を仕入れて宇奈月温泉を後にする。





この日の目的地の内山駅までは、2つの貨物駅跡を経て、音沢駅、内山駅の順に停車する。
貨物駅跡は駅跡と言っても何も痕跡は残っていないし、確かな位置も定かではない。事前調査で凡その位置を推定してGPSに落とし込み、現地で地形を見ながら、大体このあたりだろうと検討を付けて写真を撮影する形が多い。
もちろん、位置が特定できる場合はその場所をピンポイントで訪れる。
音沢駅には15時37分着。62.5㎞。
1面1線の棒線駅で、待合室はなくホーム上屋があるのみの簡素な駅だ。
ただ、意外と駅の歴史は古くこの付近の地鉄の前身となった黒部鉄道時代に遡る1923年11月21日の開業である。
このタイミングで元京阪電鉄の10030形車両で運行されている普通列車がやってきたので発着を撮影。塗装は黄色と緑のツートンに変更されており、ファンの間では「かぼちゃ」などと称されることもあるようだが、京阪電鉄時代の面影も残っている。
このタイミングでは電鉄富山行きだったので、降車客は勿論ないし、時間的にも乗車客の姿もなかった。
付近には小さな集落があって民家が点在するが、音沢の集落中心部は黒部川対岸にあり、この駅は内山集落の南端部に位置する。
普通列車の発着を見送って「ちゃり鉄30号」も出発。15時49分発。




音沢駅は内山集落の南外れにあったこともあり、駅を出るとすぐに内山集落中心部に入る。
1㎞も走らないうちに内山駅に到着。15時53分。63.4㎞。
走行初日ということもあってこの日は計画距離も短くしていたので、まだ夕方というには早い時間帯に到着することが出来た。
この内山駅も音沢駅と同じ1923年11月21日の開業。
ただ、こちらは相対式2面1線で駅舎とホーム上屋を備えた構造となっている。
この駅舎は私鉄の駅らしく古色蒼然。
今の駅舎がいつ頃からの建物なのかは現段階では情報がないが、創業当時の駅舎が改修を受けながら使われているのではないかと考えている。
この内山集落付近にはかつて内山村があり村役場も置かれていたことが、旧版地形図で判明している。
この駅については旅情駅探訪記をまとめたいと思っているので、その際にでも詳細が分かれば記したい。
ローカルムードが心地よい内山駅ではあるが、地鉄本線の駅でもあり、列車の運転本数は少なくはない。概ね1時間に1本~2本で、朝は6時台に始発列車、夜は21時から22時にかけて最終列車が発着する。
2駅隣の宇奈月温泉駅で列車が折り返してくるので、宇奈月温泉駅行きが発着して暫くすると折り返してきた富山方面行が発着し、少し間が空いて再び宇奈月温泉行きが発着する、という流れになっている。
到着したタイミングでは16時7分の宇奈月温泉行きが先発する状況。
まだ、駅前野宿の準備を始めるには早すぎるので、自転車や荷物は駅前に留め置いて、着替えだけ済ませて駅の探訪や撮影を行うことにした。
駅舎は出札窓口や荷受台の跡が残っていて、往時の賑わいを偲ばせる。
ベンチには座布団が敷かれ、傘も何本か置かれている。備え付けの本棚もあり、清掃が行き届いていることもあって、地元の愛着を感じる。
駅舎の改札口越しに眺められる上り線ホーム側の上屋は小さな待合室となっていて、これもまた味わい深い。
雪の多い地域だけに、冬場の上り列車待ちの際などは、この待合室も頼もしいことだろう。
駅舎から少し離れた愛本駅方には厠と呼ぶに相応しい便所がある。
女性は利用を躊躇うような造りではあろうが、清掃は行き届いており、この手の便所によくみられるような不潔な印象は少ない。









探訪をしているうちに時間は過ぎ、程なくしてやってきたのは再び10030形。
この時間帯はこの形式の車両が運用の中心にあるようだった。
夕方に差し掛かる時間帯ということもあり、この列車からは地元の方が1名下車してきた。
私鉄は地域のローカル輸送を担う目的で敷設されたものが殆どなので、駅も集落に沿うことが多く、無人駅であったとしてもそれなりの利用があることが多い。ただ、短距離の利用客が多かったり、そもそもの経営基盤が小さかったりするので、経営難にあるのはどこも一緒だ。
この16時7分発の宇奈月温泉行きは、宇奈月温泉駅で直ぐに折り返してきて、16時27分発の電鉄富山行きとなる。
その折り返し列車の発着を見送って暫くすると、16時44分発の宇奈月温泉行きが、10030形車両でやってくる。これは17時5分の電鉄富山行きとなって折り返していく。
ちょうど帰宅の時間帯。運転間隔も短く、列車の往来は頻繁だ。





17時台に入ると辺りにも夕方の気配が色濃くなってくる。
まだ、空は昼間の明るさを保っているが、東に見える山並みはやや赤みを帯び始めており、既に尾根向こうに没して見えない陽光は、既に赤く染まり始めているのだろう。
この時間帯になると地鉄生え抜きの14760形の車両がやってくるようになった。
ファンの間では「大根」と呼ばれたりもするらしいが、私にとっては地鉄車両の代名詞のような存在だ。
旅客動線を考えれば駅に到着してからは宇奈月温泉行きの列車からの降車客がメインということになるが、ここまでは1名の降車を見たのみ。
上下ともそれなりに乗客の姿はあるものの、この駅での乗降客は少ない。
17時22分宇奈月温泉行き、17時45分電鉄富山行き、18時16分宇奈月温泉行き、18時37分電鉄富山行きと4本の列車を見送りつつ、その合間に夕食を済ませ駅前野宿の準備も済ませる。
18時過ぎに日没時刻を迎えるので、18時37分を見送る頃には、既に辺りは群青色の大気に包まれていた。
この時間帯から夜明けにかけての旅情駅の姿と一人対峙できることは至福と言って過言ではない。










この後の列車は電鉄富山行きが19時47分発と20時52分発、宇奈月温泉行きが19時26分発、20時17分発、21時21分発、22時25分発。
宇奈月温泉行きの21時以降の2列車は折り返し運用に該当する列車がないが、これらは回送されることなく宇奈月温泉駅で夜間滞泊し、翌朝6時2分、6時32分に内山駅を出発していく電鉄富山行きとなる。
対する宇奈月温泉行きの始発列車は6時49分だ。
こうした旅情駅では19時頃になるとすっかり人通りも絶え、深夜のような雰囲気になることが多い。
とっぷり暮れた駅で独り写真を撮影したり、旅費精算や旅程確認をして過ごすのだが、駅の周辺集落を散策しに出かけることもある。
空き家も目立つものの、現住民家は窓から明かりが漏れており、家族団欒の雰囲気を感じたりもする。ちょっと侘しくもあるが、一人旅ならではの夜の楽しみでもある。
とは言え、普段見かけない人が夜遅くに集落内を歩いていれば、住民の方に不安を与えてしまうので、行動には注意を要する。
この日は19時47分発の電鉄富山行きの普通列車を撮影したら行動終了。
駅前野宿の寝床に戻って眠ることにした。



ちゃり鉄30号:3日目(内山=電鉄黒部=石田港-生地鼻灯台-電鉄黒部=黒部=電鉄石田=浜加積-川城鉱泉-越中中村)
3日目は地鉄本線内を進みつつ黒部鉄道時代の廃線跡を一部辿り、滑川から生地にかけての海岸線も辿る。
この区間には古い木造駅舎が多く、駅前野宿をどこにするかは楽しくも悩ましい検討課題であったが、滑川市にある越中中村駅を選んだ。
魚津は中学生や高校生の時代に、毎年4月下旬に開催される魚津蜃気楼ロードレースに出場するため、何度も訪れた街だ。
金沢駅からJRの特急で魚津駅までやってきて、ゴール地点の魚津水族館付近まで走り、最寄り駅の地鉄西魚津駅から電鉄富山駅まで出て、そこからJRの鈍行で金沢駅に戻る形でロードレースに出ていた。
大した記録ではなかったものの、当時の中学生の部の大会新記録保持者となるなど、相性の良いロードレースだった。
そんなエリアを「ちゃり鉄」で走ることが出来るのが嬉しく、敢えて、この付近で駅前野宿を行う行程としたのである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


内山駅を出発した後、黒部鉄道時代に存在した石田港駅付近までは、ほぼ一辺倒の降り。
その後は小さなアップダウンがあるものの、標高差は30m内外でほぼ平坦と言ってよい。
この日も駅前野宿地の場所の都合で走行距離は66.5㎞と短め。
余裕のある日程となった。
一夜明けた内山駅はまだ眠りの中にあったが、東の空は青紫に染まっていて、夜明けの静謐な空気が辺りを包んでいた。
駅前野宿では日没から夜明けの時間帯に旅情駅と向き合うことが出来るのだが、それは、一番旅情あふれるひと時でもある。
朝一番の列車は6時2分の電鉄富山行き。
この列車の到着30分前までには駅前野宿を撤収し朝食も済ませる目安で行動するので、起床は4時半頃。
「ちゃり鉄」の朝は早い。
その朝食・撤収作業の合間に、静謐な空気に包まれた内山駅構内を散策しつつ、駅の撮影を行った。



夜から朝にかけての大気の移り変わりも劇的で、ほんの15分程度の間に、その色合いや感触が変化していく。
散策と撮影を終えて撤収と積載を済ませる頃には、駅を包み込んでいた夜の名残を残す青い空気が一掃され、朝の空気に包まれるようになる。
辺りの森からは野鳥のさえずりが聞こえるようになり、活気が満ちてくる。
普段の生活は夜型にシフトしやすいが、「ちゃり鉄」で旅をしていると、朝型の生活リズムに合わせていく方が体に合っているように感じる。
始発列車は6時2分発の電鉄富山行き。
隣の音沢駅付近でタイフォンを鳴らしてくるので、列車の接近を察知することが出来る。
やがてレールを軋ませてやってきたのは元東急の17480形。
昨日の撮影時間中には見かけなかった車両なので、就寝後に宇奈月温泉駅に向かっていったのだろう。
この日は土曜日ということもあり、始発列車に乗車する人は現れなかったが、この列車の発着を待って、「ちゃり鉄30号」も出発することにした。
久しぶりの私鉄の旅情駅での駅前野宿。
味わい深い内山駅でのひと時の思い出を胸に6時4分発。



内山駅を出て黒部川左岸を北上していくと、ちょうど峡谷が開けて扇状地に出る地点に愛本の集落があり、そこに愛本駅がある。
この駅も木造駅舎で黒部鉄道の手によって1923年11月21日に開業。
凝った意匠の駅舎には、この駅を設計した人の思い入れが感じられる。
内部は内山駅と同様の年季ある佇まいだが、こちらの方は天井も高く、大正ロマンを感じさせる構造であった。
この付近は関西電力の発電所や変電所が立地しており、愛本駅に隣接するのは関西電力新愛本変電所。
この愛本駅付近にも小さな集落があるのだが、内山城跡の尾根を挟んで北側にも集落が存在しており、これらを合わせて愛本集落を成している。
駅前には民家が1軒。
駐輪場もあるが自転車は1台も停まっておらず、利用者はごく少ないことが伺い知れる。




愛本駅を出発して、小さなトンネルで内山城跡のある尾根を潜り抜けると、富山平野に戻って来る。
この付近の路線の南側の山並みは飛騨山脈主脈からは外れるが、立山・剱岳から毛勝山、僧ヶ岳、烏帽子山などを経て伸びてくる支脈の末端部である。
この山麓に沿って西北西から西に向かって電鉄黒部駅を目指すのが、この日の序盤行程。
途中、下立、下立口、浦山、栃屋、若栗、舌山、新黒部、長屋、荻生、東三日市を経て、電鉄黒部に達する。なお、下立~三日市(現・JR黒部)間は1922年11月5日の開業で、新黒部駅を除く各駅は、その開業時に設置されている。
下立集落の東口に当たる下立駅に到着するタイミングで山稜線に朝日が顔を出し始め、本格的に1日が始まった。
早朝の青い空気は一蹴され、橙色から金色へと風景が染まっていくとともに、日差しに力強さが増してくる。
ラジオ体操ではないが「希望の朝」という表現が似つかわしい。
下立駅は棒線駅で駅舎はないが、ホームには出入り口が2か所ある横長の待合室がある。この構造の待合室は地鉄に複数あり特徴的だ。
ここでは電鉄富山行きの普通列車の発着の様子も撮影することが出来た。
集落西口に当たる下立口駅との間に下立神社があるので、朝日を浴びて輝く拝殿を訪れて一日の無事を祈願する。
既に富山平野東部に出ており、付近は山村風景から田園風景に変わっているが、神社の周辺は社叢林による神域が保全されていることもあり、神秘的な雰囲気が漂っていることが多い。
神社や小学校跡などを巡るようになったのは、「ちゃり鉄」の旅を始めてからだが、駅と密接な関係を持つ周辺集落の成り立ちを調べていくと、集落成立の初期から、神社や小学校が存在している事例が非常に多い。
それらを含めて訪れていくことが「ちゃり鉄」の旅だと感じている。
この下立口駅は富山方から見て下立集落の入り口という意味合いだろうか。
この駅も棒線駅であるが、少し離れたところにある踏切から眺めた駅周辺の風景も好ましい。







続く浦山駅は木造駅舎を伴った島式1面2線の交換可能駅。
この駅舎も古びてはいるが清掃は行き届いており、荒れた感じはしない。
ホームには小さな待合室が備えられているが、朝日を受けて佇む姿は好ましいものだった。
続く栃屋駅は緑色に塗られた待合室が印象に残る。
棒線駅で駅舎はなく、待合室は1面開放の造りとなっていて、扉を閉じることは出来ないが、待合室内は小綺麗に片付けられており、両隅がやや奥まった造りになっているので、風雪風雨の際も凌げそうではある。
若埜神社に参拝してから到着した若栗駅はこじんまりとした駅舎を伴う棒線駅。但し、駅構内には貨物側線が残されていた。
この若栗駅で時刻表を確認すると、間もなく、電鉄富山行き普通列車がやってくる。
この電鉄富山行きは次の舌山駅で宇奈月温泉行きと行き違い、その宇奈月温泉行きが直ぐに若栗駅にやってくる。
そこで、この2本の列車を撮影すべく、駅での滞在時間を少し延長した。
電鉄富山行きには利用者が1名、宇奈月温泉行きには乗降なし。
それにしてもローカルムードが心地よい鉄道風景であった。
この若栗駅で7時29分着、7時38分発。8.8㎞であった。
それなりの数の駅を経てきたが、私鉄だけあって駅間距離が短く、まだ10㎞未満であった。















若栗駅から舌山駅、新黒部駅の間は駅間距離が短い。
相対式2面2線の舌山駅も古色蒼然と言った感じの駅舎を備えている。駅前は農協の倉庫となっており、駅が集落の物資や人々の集散拠点だった時代の面影が色濃い。
上り線ホーム側には構内踏切を通ってアクセスする構造だが、その構内踏切越しに眺める駅舎の姿は実に味わい深い。
先ほどは若栗駅で上下列車それぞれが交互に発着する様子を撮影してきたが、この舌山駅では交換が行わる。それも興味ある鉄道シーンである。
続く新黒部駅は北陸新幹線の開業に合わせて新設された駅で、2015年2月26日に開業した。北陸新幹線の黒部宇奈月温泉駅の開業は2015年3月14日なので、新黒部駅の方が少し早く開業したことになる。
新幹線開業に伴う新設駅なのであるから、両駅の駅名を同一にすればよいところであるが、新幹線駅の名称として公募採用された「黒部宇奈月温泉」の名称を採用すると、地鉄本線の終着駅である「宇奈月温泉」の名称と混同されてしまう。
そういったこともあり、新幹線の駅名として全国的にも事例が多い、「新」を冠した「新黒部」という仮称駅名がそのまま営業駅名として採用された経緯がある。
一方の新幹線でも「新黒部」は候補に挙がっていたが、ここに駅を設ける理由の一つが地鉄本線と接続して宇奈月温泉や黒部峡谷に接続することにあるため、「黒部宇奈月温泉」という駅名が最多となったのであろう。
新黒部駅はこういう経緯で設置されたこともあり、舌山駅からの営業キロ数が300mしか離れておらず、軌道線を除けば、富山地方鉄道の路線の中で最も駅間距離が短い区間である。
この新黒部駅前には黒部峡谷鉄道の車両が静態展示されていた。
黒部峡谷鉄道は金沢に住んでいた小学生時代に家族旅行で訪れて以来ご無沙汰しており、「ちゃり鉄」での走行は勿論、宇奈月温泉から欅平までの沿線を徒歩で訪れるのも不可能に近いが、立山連峰に抜けるルート計画で登山メインの「ちゃり鉄」で訪れてみたいと思っている。





この新黒部駅付近で北陸新幹線、北陸自動車道の高架を連続して跨ぎ、黒部市の中心市街地に入っていく。
長屋駅ではラッピング塗装が施された14760形車両の発着シーンに遭遇。
一見すると、京王電鉄の中古車両のようにも見えたが、れっきとした地鉄生え抜き車両である。
この長屋駅は1面1線の棒線駅。
ホームに待合室があるが、駅舎と言えるくらいの造りになっている。ただし、改札口や駅務室の跡はないので、設置当初から無人駅だったように見える。
続く荻生駅は一見すると近年の新設駅のように見えるが、駅自体は他の駅と同様、黒部鉄道時代の開業である。
元々は相対式2面2線構造で、線路の北側に駅舎があったようだが、周辺中学校の統廃合に伴う利用者の増加と、踏切通行をなくす便宜から、1面1線化と線路南側への駅舎移転新築工事が行われたのだという。
この供用開始が2019年12月25日のことで、それ故に、近年の新設駅のように見えたのだが、元々は古い木造駅舎が設置されていたようだ。






黒部市の中心地にあるのが東三日市、電鉄黒部の2駅である。
「東三日市」はあるのに「西三日市」や「三日市」はないのが不思議に思えるが、実は、電鉄黒部駅は開業当時は西三日市駅を名乗っていて、電鉄桜井駅への改称を経て現在の電鉄黒部駅に再改称したことによって、東三日市駅のみが存在するようになったのである。また、現在のあいの風とやま鉄道黒部駅は開業当時、三日市駅を名乗っており、黒部鉄道は三日市~西三日市間も1922年11月5日に開業させている。
むしろ、黒部鉄道は現在は黒部駅と称されている三日市駅から宇奈月温泉駅を結んだ私鉄路線だったのである。
つまり、元々は「三日市」、「西三日市」、「東三日市」が存在したわけで、何も不思議なことはないのである。
ただ、そうは言っても現在の電鉄黒部駅と黒部駅の位置関係を考えると、西にある「三日市駅」から東に進んだところに「西三日市駅」、更に東に進んだところに「東三日市駅」が存在したことになり、そこには疑問が生じる。
この疑問を解く鍵は、この「三日市駅」が1910年4月16日に国有鉄道の手で北陸本線の駅として開業したという歴史に秘められている。
国有鉄道によって設置された三日市駅の位置は三日市町の中心地から少し西に外れた位置にあったため、黒部鉄道は国有鉄道の三日市駅を起点として路線を敷設し、三日市町の中心部西側と東側にそれぞれ駅を設けたのである。もし、1駅のみを設けたなら「本三日市駅」などと称していたのではないかと思うが、いずれにせよ、そういう経緯故に、西から順に「三日市」、「西三日市」、「東三日市」の3駅が設けられたのであろう。
この黒部鉄道による路線開業当時、富山、魚津方面から黒部方面に繋がる現在の地鉄本線に該当する路線はまだ開業しておらず、その区間の輸送は国有鉄道の手に拠っていた。但し、滑川~江上(現・新宮川)駅間は立山軽便鉄道の手によって1913年6月25日に開業していた。この立山軽便鉄道は1917年6月26日には立山鉄道に改称しているので、以下では特に断らない限り、立山鉄道という名称で記載する。
イメージとしては国有鉄道の三日市(現・黒部)、滑川両駅から、それぞれ、宇奈月温泉、立山(岩峅寺)に向か小私鉄路線が分岐していたという形になる。
その滑川から黒部鉄道の西三日市までの間は、富山電気鉄道の手によって1936年10月1日までに全通しているが、この時までに、富山軽便鉄道と富山電気鉄道の手によって、富山~滑川間の空隙区間も開業しており、私鉄路線によって富山から西三日市を経て宇奈月温泉に至る路線が全通していたのである。
「三日市」の不思議はそれで解消するが、電鉄桜井や電鉄黒部という駅名への改称はどうであろうか。
これも歴史的な経緯を追いかけると流れが見えてくる。
ここも時系列を整理しておくと、町村制の施行による下新川郡三日市町の発足が1889年。西三日市駅と東三日市駅は、この三日市町時代の1922年11月5日に黒部鉄道の手によって開業している。
その後、1940年2月11日に下新川郡三日市町他の7村が合併して下新川郡桜井町が発足した。
西三日市駅が電鉄桜井駅に改称されたのは1951年6月25日なので、桜井町発足から11年後のことになるが、元々の地名である三日市町は現在まで存続しているので、改称の必要性も強くなかったのであろう。
その後、1954年4月1日に桜井町と生地町が合併して黒部市が発足した。
電鉄黒部駅への再改称は1989年4月1日であるから、ここでは35年のタイムラグがあるが、元々黒部鉄道が起点としていた「三日市駅」は1956年4月10日なって「黒部駅」と改称している。
この時期には「西三日市駅」は電鉄桜井駅に改称されていたが、改称から5年で再び駅名称を解消するというのも混乱を生じることであろうし、既に国鉄駅名に使われている「黒部駅」という駅名を使用することは出来ない。そもそも、自治体名の変遷こそあれ、この付近のローカルな地名は変わらず三日市町である。
それ故、この時期には、西から「黒部」、「電鉄桜井」、「東三日市」という風に、付近の自治体名を遡るような形で駅が存在していたことになる。
そして、この黒部~電鉄桜井間の路線廃止が1969年8月17日のことであるが、既に述べたように、その創業時には三日市から宇奈月温泉を目指した黒部鉄道も、この時期までには富山地方鉄道に統合されており、富山から宇奈月温泉までが1つの鉄道会社の路線として繋がっていた。黒部~電鉄桜井間の創業路線を支線の扱いで存続しておく必要性も乏しかったに違いない。
ダイジェストにしては脱線が長くなったが、このように、地名、駅名、鉄道会社、それぞれの変遷を追いかけていくというのも、「ちゃり鉄」の楽しみである。
電鉄黒部駅、8時46分着、8時53分発。14.1kmであった。







ここまで述べてきたように、現在の地鉄本線は、この電鉄黒部駅を境に、系譜の異なる鉄道会社によって敷設されてきた。そして、三日市~宇奈月温泉間を開業させた黒部鉄道は三日市~石田港間に支線の石田港線を開業させていた。
そこで、「ちゃり鉄30号」ではこの付近の廃線跡もまとめて走行していくことにしていた。
つまり、西三日市~石田港間と、西三日市~三日市間の、黒部鉄道時代の路線跡である。
と言っても、これらの路線跡の遺構は殆ど存在しないので、車道を伝いながら、場所を想像して進むのみである。
本来の計画では現在線に沿って電鉄石田駅まで走り、そこから一旦「途中下車」して海岸線を生地鼻まで走って生地鼻灯台を訪問。その後、電鉄黒部駅に戻り、黒部鉄道時代の路線跡に沿って、西三日市~三日市~石田港と巡る予定だったのだが、現地で勘違いして、先に西三日市~石田港間を走った後に電鉄石田駅を訪れ、その後、生地鼻灯台経由で電鉄黒部駅に戻り、西三日市~三日市間を辿る意味で黒部駅を経由して、再び電鉄石田駅に戻る、という形で走行した。
GPSにルートは読み込ませていたが、ルートナビは使わないので、錯綜したルートのどこをどう進むのかを読み違えた結果である。
まぁ、それはそれで仕方ないので、良しとした。
電鉄黒部駅を出た後、現在の本線にあった石田信号場跡付近を通過し、それから黒部鉄道支線の堀切、生地口、石田港跡付近を辿ったが、この支線部分は車道転用などもあって殆ど痕跡は残っていない。
石田港駅もその位置を含めて正確な情報が分からず、現在の石田漁港付近を望む地点を概ねの位置と想定したが、実際の駅跡は現在の海岸沿いの道路ではなく、集落道の方にあったようだ。
そもそも、港がある位置に鉄道を敷設したのではなく、鉄道を敷設して海浜開発をしようとする意図があったようで、この鉄道路線が示された旧版地形図を見ると、現在の石田漁港はまだ造成されておらず、石田港駅も石田駅としての表示であった。
ここから振り返ると、遠く、行く方の生地海岸と生地鼻灯台が見えている。弧を描く穏やかな砂浜が印象的であった。


ここからも予定を間違えており、一旦現在線の電鉄石田駅に向かった。
この駅は風格ある木造駅舎を備えているが、開業は1937年5月31日で石田第二信号場としての開業であった。旅客駅への昇格は1940年6月1日で、この時に電鉄石田駅に改称しているが、付近に石田駅は存在せず黒部鉄道の石田港駅と区別するための命名だったという。
ここでは上り列車、下り列車が電鉄黒部駅で行違って、交互に発着するタイミングだったので、停車時間を少し長めにとって、これらの列車を撮影した。
電鉄富山駅に向かう普通列車には、数名の乗客の姿もあった。
ここで一旦「途中下車」して石田海岸に戻り、そこから北上して生地集落にある生地鼻灯台や新治神社を参拝。
この付近の海岸線を走るのは「ちゃり鉄」以前の2007年以来だ。
そこから内陸を南下して電鉄黒部駅に戻り、黒部鉄道創業時のルートを偲んで黒部駅経由で、電鉄石田駅に戻って地鉄本線の「ちゃり鉄」を再開する。
微妙にルートがおかしなことになったが、いずれ走り直すとして、一先ずは、この付近の細々とした路線、廃線跡を繋ぐことが出来た。
電鉄石田駅からは石田神明社、経田海岸を経て経田駅に向かうのだが、穏やかな天候だったこともあり、海岸付近を走るのも心地よい。
経田駅には11時5分着。35.8㎞。
この経田駅の駅舎は黒部鉄道石田港駅を移築したものだという。
駅前には経田神社もあるので合わせて参拝し、10時57分発。















ここからは少し内陸側を進む地鉄本線に沿いつつも、所々、海岸線を走って滑川駅を目指す。
経田駅から新魚津駅の間は魚津海岸に沿って走り、ここで海岸沿いにあるイタリアンレストランのデルフィーノさんに立ち寄ってピザのランチ。
ルート計画を立てる時には事前に飲食店なども調べておき、出来るだけ、地元の方が営業しているお店などに立ち寄ることにしている。
このお店は少しお洒落な佇まいもあって、以前なら気後れして入店を見送るところだったが、最近は自身も図太くなり、また、伴侶とランチに行くことも多くなったので、こうしたお店に一人で入るのにも抵抗は少なくなった。
この時は営業開始の少し前に着いたので、付近の海岸の写真を撮影しながら開店を待って入店。店の前には若い女性2人組が乗った車が居て、同じように回転を待っている様子だった。
店内ではその日のランチメニューから食指の動いたピザを注文。
ウェイターさんは私の格好を見て「自転車ですか?」と話しかけてこられた。
ご自身も自転車に乗られる方らしく、やはり興味を持たれるのだろう。
最近はロードレーサー人口が増えて自転車に乗っている人の姿も多く見かけるが、私は、自転車こそグラベルロードを使っているものの、キャリア装着のオールドツーリングスタイル。
そうなると、ランドナーなどの自転車に乗っていたような人は、途端に口数が増えて自転車談議に花が咲くのである。
そんなこともあって、食後には紅茶のサービスを受けて、良い思い出のランチとなった。
この魚津では魚津しんきろうマラソンという市民マラソン大会が開催されており、私は中学・高校時代に金沢市から遠征してきて数回出場したことがある。大した記録ではなかったものの、中学時代は5㎞の部で大会新記録を作って優勝したこともあり、この地域には思い入れが強いのだが、今回もまた、良い思い出が積み重なった。
道下駅跡付近を経て新魚津、電鉄魚津駅と停車。
あいの風とやま鉄道との接続駅は新魚津駅で、電鉄魚津駅は少し南に離れた位置にあるが、魚津の市街地はこの電鉄魚津駅付近から発展しており、古い地形図を見ると、魚津駅付近は市街地の外れにあったことが分かる。
魚津駅としては官設鉄道北陸線の時代である1908年11月16日に開業した魚津駅が最も古く、富山電気鉄道時代の1936年8月21日に地鉄側の魚津駅が開業した。
電鉄魚津駅の開業は1936年6月5日で、富山電気鉄道の早月(現・越中中村)~電鉄魚津間の延伸開業に伴うものであった。
この時点では国有鉄道の魚津駅と電鉄魚津駅は位置的にも離れていたことから、「電鉄」が冠されて区別されたのであるが、既に述べたように当時の市街地は電鉄魚津駅側に発達しており、寧ろ、こちらの方が街の玄関口として機能していたようだ。
しかし近年は中心市街地の衰退が激しく、玄関駅としての機能は魚津駅側に移っている。
なお、地鉄の魚津駅は1995年4月1日に新魚津駅に改称している。
新魚津駅では元西武鉄道の特急「レッドアロー号」として活躍していた16010形車両の入線タイミングに居合わせることが出来た。私にとっては子供の頃に眺めた特急図鑑に掲載されたレッドアロー号として、西武鉄道の特急車両はこの車両をイメージする。
こうした大手私鉄の譲渡車両は全国の中小私鉄で見かけるが、それもまた、旅情ある風景と言えるかもしれない。
魚津神社では満開の梅の花に春を感じる。魚津は馴染みの街という気がするが、魚津神社は初参拝。馴染みと言っても中学生や高校生の頃に、マラソン大会の遠征で訪れていただけなのだから、魚津神社に参拝していなかったのも無理はない。
魚津神社を出た後は電鉄魚津駅へ。
電鉄魚津駅は一見すると有人駅のようにも見えるが、朝の時間に限っての有人営業のようで、この訪問時は無人状態。
ホームに昇ってみると、並行するあいの風とやま鉄道の複線の横に、地鉄の単線が並ぶ特異な高架景観が広がっていた。
北陸本線時代はこのホームからも特急街道を頻繁に駆け抜ける特急を眺めることが出来たことだろう。
北陸新幹線の大阪延伸が何時のことになるのかは分からないが、延伸開通の折には、「雷鳥」の名称を復活させて欲しいと思っている。
電鉄魚津駅12時52分着、12時58分発。45.3㎞であった。










電鉄魚津駅からはこの日の目的地である越中中村駅を通り過ぎて浜加積駅まで走る。
この日の富山地方鉄道本線の「ちゃり鉄」は浜加積駅。
ここには西魚津、越中中村、早月加積、浜加積の4駅があるが、浜加積駅と越中中村駅が1935年12月13日、西魚津駅が1936年6月5日、早月加積駅が1950年3月23日の開業で、それほど古い時代のことではない。
ただ、ホーム上の待合室のみとなった越中中村駅を除く残りの3駅はいずれも風格ある駅舎を備えており、この路線で駅巡りをする人の目的地となることも多いだろう。
西魚津駅は先に触れた魚津しんきろうマラソンに出場した際、ゴール地点の魚津水族館やミラージュランドから歩いて辿り着き、ここから地鉄に乗って富山駅に出た思い出のある駅だ。
当時の駅の写真などは撮影していないが、JRにはない鄙びた駅舎の雰囲気が好ましく、向かいの築堤上を駆け抜けていく特急などを眺めながら、短編成の地鉄の電車に乗るのは、この遠征の楽しみでもあった。
今回、この西魚津駅付近での駅前野宿も考えたのだが、駅の利用者数や周辺の雰囲気などを踏まえて越中中村駅を駅前野宿地とした。
相対式2面2線構造のホームは構内踏切で結ばれており、改修されながらも以前の雰囲気を留めている駅舎とともに、記憶と違わない落ち着いた駅景観で迎えてくれた。
越中中村駅は田園の小駅という感じで、駅前の広い空き地はかつての施設群の跡地である。開業時は早月駅を名乗っていたが、早月加積駅の開業に合わせて越中中村駅に改称したという経緯があり、早月駅時代の1935年12月13日から1936年6月5日までの間は、終着駅として機能していた。
1面1線のホームに立てば遠くにミラージュランドの観覧車や日本海が見える。
遠目にはホームと小さな待合室、駅名標がポツンと佇むだけに見えてその雰囲気が好ましいが、ここに駅舎があり終着駅として機能していた時代の駅の姿も眺めてみたいものだ。
少し西側にはあいの風とやま鉄道の東滑川駅があり、富山に出るにしても魚津・黒部に出るにしても、所要時間の面でこの付近の地鉄は不利な位置にある。
その為か、この駅の利用者数は1桁台と少なく閑散駅ではある。
とはいえ、今回はこの駅を駅前野宿駅として選んだので、後ほど、戻って来ることになる。
駅周辺には民家が数軒立っているが、駅前の民家は空き家になっているようで、それは駅前野宿にとっては都合が良かった。











あいの風とやま鉄道の東滑川駅に立ち寄って、ちょうどやってきた富山行きの普通列車を撮影した後、早月加積、浜加積の2駅を訪れる。
早月加積、浜加積の2駅も渋みある木造駅舎を伴った駅で、有人時代の面影が色濃い。
昭和と言えば現代から近代に移り変わりつつあるが、その昭和の郷愁溢れる佇まいが好ましい。
この2駅は「加積」という地名を共通に持っている。
地鉄本線には他にも西加積駅と中加積駅があり、この一帯が「加積」と呼ばれる地域だったことが類推されるが、実際、かつては、早月加積村、浜加積村、西加積村、東加積村、北加積村、南加積村、中加積村、山加積村が存在した。
早月加積駅と浜加積駅はそれぞれ、同名村の玄関駅だったわけである。
今日ではその村名は地名からも消えているため、この地に勢力を持っていた「加積」という地名も痕跡は少ないが、滑川駅の南東には加積神社があり、その名を今に伝えている。
浜加積駅では茶髪の若い男性が待合室に居た。
間もなく下り列車が到着するタイミングだったので、その列車待ちなのかと思ったが、宇奈月温泉行きの列車が到着しても乗り込む様子はなく、代わりに若い女性が降りてきた。
この駅で待ち合わせ中だったらしく、二人は連れ立って駅を去っていった。
微笑ましい光景。
そんな鉄道風景もいいものだ。
浜加積駅、14時13分着、14時22分発。53.2㎞










ここからは「途中下車」して滑川漁港を経由して魚津までの海岸線を走る。
富山地方鉄道本線は海岸からは少し内陸に入ったところを走っているので、この付近の海岸風景は眺めることが出来なかった。
駅前野宿地の越中中村駅への到着時刻も、駅前野宿をするには早過ぎるので、このように周回ルートを取りながら海岸沿いを走って魚津市街地まで戻り、そこで川城鉱泉で一浴するとともに付近のスーパーで食材の買い出しを行い、最後に中村集落の神明社にお参りして越中中村駅に到着するという計画であった。
日程に余裕がある場合や行程的に可能な場合は、こういう具合に駅前野宿地を一旦通り過ぎ、周回コースを周ってから夕方になって駅前野宿地に戻るというルート設計をすることも多い。
駅前野宿では日中の明るい時間帯に滞在することが出来ないからだが、実際に現地を訪れてみると野宿には不適切な環境であることも稀にあるので、その際に、場所替えするためのバッファーを設けておくという意味もある。
滑川海岸はサイクリングロードとなっており、海岸では釣りや散策に興じる人の姿が見られた。
途中の滑川海浜公園にはオートキャンプ場も併設されており、この日は2張のテントが設営されていた。
私はキャンプ場を使うことは少ないのだが、明日の日程では海岸付近での野宿を予定しているので、ここも候補地の1つ。
軽く下見をしておいた。
川城鉱泉は魚津市街地に点在する銭湯のうちの1つで、古びた建物ながら鉱泉が湧き出していて味わい深い。この鉱泉は鉄味のする鉱泉らしいお湯で、レトロな館内の雰囲気も相まって良い一浴となった。
観光客が大挙して押し寄せるような銭湯ではないが、一人旅にはこういう銭湯の方が似つかわしく感じるのは、私だけではないだろう。
川城温泉を出たら魚津市郊外のスーパーで食材を買い出し、中村集落の神明社にお参りして、予定通りに越中中村駅に辿り着いた。
16時26分着。66.5㎞であった。




越中中村駅に到着してほどなく、16時36分発の電鉄富山行きの普通列車が発着。
この編成は長屋駅で宇奈月温泉行きとして発着するシーンを撮影したラッピング塗装車両だった。
電鉄富山駅と宇奈月温泉駅との間を数往復する運用についていたのであろう。
今日一日晴天に恵まれていたのだが、この時刻になると空は俄かに掻き曇り、小雨がパラつきだした。
本格的な天気の崩れではなく、局地的な降水のようだが、カメラが濡れてしまうので、傘をさしての撮影となる。
ただ、地面が本格的に濡れてしまうような降り方にならなかったのは幸いだった。
この付近もあいの風とやま鉄道の複線と並行する区間なので、合計3本の線路が走っており、列車の往来は少なくない。
あいの風とやま鉄道の東滑川駅が、越中中村駅から500mほど南西にあるので、その発着列車のヘッドライトが近くに見えるし、地鉄本線の早月加積駅にしても1.2kmの距離にあり、ヘッドライトの明滅を見通すことが出来る。
なお、東滑川駅は元々は早月信号場として1943年10月1日に開設されており、地元請願によって駅に昇格したのは1964年11月20日。
ちょうど中間地点付近に居住していた人々が、富山中心部への速達性を求めて請願運動を行ったのであろう。
長らく、都市間輸送は国鉄~JR、ローカル輸送は富山地方鉄道という住み分けがあったものの、時代の変遷とともに富山地方鉄道の経営は苦しくなり、北陸新幹線の開業と並行在来線の分離によって、それは決定的になった。この並行区間でも存廃議論が出ているのは周知のとおりだ。


暫く驟雨に見舞われていたので待合室に退避していると、不意に若者2名が現れた。
向こうも待合室に私が居るのを認識しているのか、小雨が降る中でも待合室には入ってこなかった。
この2名は川城鉱泉から越中中村駅に向かう道中の早月川付近で撮影している姿を見かけた鉄道ファンで、ホームでも到着する魚津方面行の列車の撮影に興じていた。
予想外の乗客登場に驚きはしたが、結局、彼らが立ち去った後、駅に人が現れる気配もなかったので、この間に待合室で食事や旅費精算、行程整理なども済ませてしまう。
暮れ始めたタイミングでやってきたのは、17時57分発の元西武鉄道の16010形車両。電鉄黒部駅行きの区間列車としての運用に就いていた。
余生を送るといった感じではあるが、こうして現役で活躍している姿を見ることが出来るのは嬉しい。
出来ることなら、この列車で運転されるアルペン特急に乗車しつつ、黒部峡谷から立山連峰にかけての大周遊ルートを歩いてみたいものだ。


この時刻になっても小雨交じり。
雨雲レーダーには雨域として捉えられていないような、そんな雨域が付近に漂っているらしい。
それでも傘を差しつつ、暮れなずむ越中中村駅と対峙し、写真を撮影したりして過ごす。
あいの風とやま鉄道はかつての北陸本線だけあって、特急が走らなくなった今でも、長距離の貨物列車の往来は少なくない。
早月川の方から随分長い編成の列車が橋梁を渡る音が聞こえてきたと思ったら、3つ目のヘッドライトを輝かせて、貨物列車が通過していく。
駅前道路側から駅を眺めると、ちょうど、空を背景にして待合室や駅名標だけが見えるアングルが得られたので、列車の到着待ちをしながら、そのアングルで駅を撮影したりする。
列車の発着は概ね1時間に1本で、18時29分には宇奈月温泉行き、18時36分には電鉄富山行きがそれぞれ発着する。この2つの列車は隣の西魚津駅ですれ違う。
この時刻までは残照の名残もあったのだが、19時台に入るととっぷり暮れており、19時20分の宇奈月温泉行き、19時36分の電鉄富山行きを撮影する頃には、空に残っていた青みも消えていた。
この後、電鉄富山行きは20時36分、21時36分の2本、宇奈月温泉行きは20時20分発、21時20分発の2本、更に電鉄黒部行きが22時52分。合計5本の列車が発着するが、土曜日ということもあり駅の利用者は居ないことが予想されたので、撮影はここまでにして、少し早いが眠りに就くことにした。






ちゃり鉄30号:4日目(越中中村=電鉄富山・富山駅停留場=岩瀬浜-日方江温泉-滑川=五百石-越中泉)
4日目は富山地方鉄道本線を走り切って電鉄富山駅に達し、そこから、富山港線に沿って岩瀬浜駅まで走るのがメイン。
その後、岩瀬浜から滑川にかけての海岸線のどこか適当なところで野宿をする予定にしていたのだが、その適当なところが見つからず、結局、翌日に予定していた滑川~五百石間の立山鉄道廃線跡部分を前倒しして走り、日中に通り過ぎた越中泉駅に向かって駅前野宿とした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日のルートの滑川~上市までの区間は、立山鉄道による開業区間であり、ほぼ、同じ線形となっているが、一部、滑川付近や上市付近で線形の相違がある。
特に顕著なのが上市駅付近で、立山鉄道による初代上市駅はスイッチバック構造を持たず、駅の位置も現在位置より少し北北東にあった。
立山鉄道自体が滑川と立山方面との間を結ぶ目的で敷設された鉄道なのだから、その経由地となる上市付近でスイッチバックしなかったのは当然である。
この上市市街地に向かって富山市街地からの路線を敷設したのが富山電気鉄道で、線形は明らかに上市と富山を結ぶ目的を持ったものであった。
現在の富山地方鉄道本線は、このように、目的の異なる私鉄路線が戦時下の国策によって1つの鉄道会社にまとめられたことによって生まれた路線であるため、今から眺めてみると、都市間輸送にとっては非効率な線形となってしまったのであろうが、それは文献調査の課題である。
断面図は縦スケールが100mまでなので見た目よりも実際の標高差は小さく、最高でも60m強。1日を通して平坦なルートとなったが、停車駅が多かった割に翌日行程の一部も走ったことで、走行距離は81.6㎞となった。
4日目の朝も早い。
5時36分には電鉄富山行き普通列車がやって来るので、5時頃には出発準備を終えておく必要があり、起床は4時頃。
5時過ぎには空に青みが差してきて夜明けの気配が漂ってくるが、待合室や駅構内は照明が灯ったままで、まだ、眠りの中にある。
5時20分過ぎにはあいの風とやま鉄道の下り線側をJR貨物の貨物列車が通過していくが、それから16分後の地鉄の始発列車が到着する頃には、辺りは随分明るくなっていた。
この時間帯の光環境の変化は劇的だ。
あいの風とやま鉄道の普通列車もこの時間帯に始発列車が往来しており、5時35分頃には下り泊行き、5時42分頃には上り富山行きが通過していった。
「ちゃり鉄30号」も待合室や駅構内が消灯した直後の5時42分発。
直ぐ西側で踏切を渡り、はす向かいの民家付近から、この小さな駅の姿を写真に収めて旅立った。





浜加積駅までは昨日のうちに走行済みだが、ルートとしては重なるので、改めて訪問。早朝の時間帯とあって駅の表情も異なるので、こういう再訪問も楽しい。
早月加積駅では宇奈月温泉行きの朝の始発列車がやってきた。6時4分発の列車の撮影を行って出発。
続く浜加積駅でも6時15分発の電鉄富山行きがやってきたので、これを撮影。
この電鉄富山行きは16010形が運用に就いていた。
この日は日曜日ということもあって、いずれの駅、列車にも、乗降客の姿は無かったが、早月加積、浜加積両駅の利用者数は決して少なくはないので、平日であれば通勤通学利用の乗降客の姿も見られることだろう。
この浜加積駅を出た後は、滑川市街地の中心部に入り、滑川駅、中滑川駅、西滑川駅と進む。滑川駅はあいの風とやま鉄道との接続駅で、地下通路を介して乗換えが可能な構造となっているが、この地下通路の完成は2001年6月29日。長らく乗換えの便宜は図られていなかったように見える。
この西滑川駅付近であいの風とやま鉄道との並行区間が終わり、地鉄本線は上市に向けて進路を南南東から南東に転じる。
現在の地鉄本線は越中中村駅から西滑川駅の手前まで、ほぼ、あいの風とやま鉄道の複線に沿っているが、立山鉄道時代の線形はやや異なり、滑川駅を出ると直ぐに国有鉄道の線路から離れ始め、水橋口駅(現・西滑川駅)まで150m弱の距離を隔てて並行していたようだ。
そして、中滑川駅に相当する駅は、一時期、晒屋駅と称されていたようであるが、この辺りの路線の旧線から現在線への推移はまだ未調査。地形図の対比では立山鉄道時代の初代路線は車道転用されているように見えるが、その辺は文献調査課題としたい。
ただ、西滑川駅付近では、旧線のものと思われる路盤跡が明確に残っているように見える。これは後程、写真と共に軽く触れておくことにし、一先ず、ここでは当日の動きに合わせ地鉄本線部分の「ちゃり鉄」ダイジェストとして先に進もう。










創業時は「水橋口」を名乗った西滑川駅は、その名の通り、滑川から水橋に向かう入り口付近に当たるが、ここで進路を90度近く転じた地鉄本線は、西加積、中加積と進んでいく。
既に述べたように、それぞれがかつて存在した西加積村、中加積村の玄関駅だったわけだが、それぞれの自治体名が消えた今日でも、早月加積駅、浜加積駅と同様に、旧自治体の名称を駅名に留めている。
西加積駅は旧版地形図によればかつての西加積村役場付近に設置された駅のようだが、1面1線の棒線駅の周辺は長閑な田園地帯で、役場があったと思わせるようなものは特に残っていない。
ホームの待合室も1面開放の簡素なものだが、他の駅の待合室同様、ベンチには座布団が敷かれており、居心地のよい空間である。
続く中加積駅は線路が南東から南に進路を変えて上市川を渡る直前にある駅で、曲線構造の中の相対式2面2線ホームを持っている。
ここは1965年7月30日に竣工したという薄緑の新駅舎があり、少し雰囲気が異なる。
集落の中心部に駅が設けられたという感じで、近くには古い時代から郵便局もあるようだが、村役場は少し東の赤浜集落付近にあったようだ。
スプリングポイントがローカル風情を演出する中加積駅を出て上市川を私、眼前に近づいてくる北陸自動車道を眺めながら、大永田集落の西にあったらしい大永田駅跡を探る。
正確な位置は分からないが、既存資料から前後の中加積駅、新宮川駅のほぼ中間地点辺りにあったらしいことは分かったので、その付近にある農道との交点の第一大永田踏切辺りと比定して写真撮影した。







新宮川駅は工場の敷地に隣接した1面1線の棒線駅で、江上駅として開業した駅である。
それにしては現在の駅施設は明らかに新しいが、それもそのはずで、北陸自動車道の開業に伴って1975年4月10日に現在位置に移転したのだという。
また、駅前駐車場や待合室も随分新しいのだが、これは、パークアンドライド推進の目的で近年になって拡張整備されたものらしい。
ちょうど宇奈月温泉行きの普通列車が出発していくところだったので、これをカメラに収めた。
上市駅には7時33分着、15.1㎞。
ここはスイッチバック構造故に全ての列車が停車する中核駅である。
駅ビルを伴った大きな駅で上市の玄関口としての貫禄を備えてはいるが、テナントは殆どが撤退してしまって空洞化は否めないようだ。
それでも頭端式ホームに有人改札口、電光時刻表などを備えた、中核駅としての機能は今も残っている。
折しも、電鉄富山行きの普通列車がやってきて、静々とホームに入線していくところ。
その写真を撮影し、改札口からホームを撮影した後、出発することにした。
この上市周辺の駅や線路の転変は、富山地方鉄道の文献調査の課題としては、大変面白いものになるだろう。
上市駅7時45分発であった。






上市からは進路を西向きに転じて富山市街地に向かっていく。
新相ノ木駅は2013年12月26日開業の新駅であるが、元々、この付近には経田駅として開業した旧相ノ木駅が存在した。
経田という駅は魚津市内にも現存しており、黒部鉄道時代の石田港駅舎を移築した駅舎があることは既に述べたとおりだが、この旧経田駅は1931年9月1日に開業した後、現在の経田駅が開業した1936年10月1日に先立って相ノ木駅と改称し、1944年5月18日に廃止されている。
現在の相ノ木駅の位置からは営業キロで0.7㎞東に離れていた。
新相ノ木駅は営業キロでは0.8㎞東に位置するので全く同じ位置というわけではなさそうだが、実質的には旧相ノ木駅の地元要望による復活という位置づけになるだろう。
駅は1面1線の棒線駅だが、施設はやはり新しくパークアンドライドの駐車場なども整えられているところは、新宮川駅とも類似している。
そうすると、現在の相ノ木駅もまた、旧相ノ木駅が廃止された後に設置されたと想定されるのだが、実際その通りで1949年4月15日の開業である。
実際は相ノ木駅の移転という見方もできるだろうが、700m程度の距離を隔てているので同じ駅と見なすべきかどうかは判断の分かれるところだ。
こちらは少し古い時代の駅ということもあり、既に風格が漂い始めていたが、経田地区の中心地としては新相ノ木駅の方が発展している。それもあって、新相ノ木駅の復活・新設要望が地元から出たのだろう。





相ノ木駅を出ると白岩川を渡るが、ここで上市町から立山町に入る。
その立山町の北端にあるのが泉集落で、そこに越中泉駅がある。
この駅も富山電気鉄道の手による1931年8月1日の富山田地方~上市間の開業に合わせて泉駅として開業した。
越中泉駅への改称は書類上1937年9月9日の届け出である。
この駅は泉集落の南端に位置しており、集落の住民の利用がそれなりにあるようだが、駅に隣接する民家は空き家となっていて、その民家の林を背にしていることもあって静かな佇まいであった。
この泉集落の中には弓庄郷神社があるので参拝していく。
弓庄郷というのはかつてこの地に存在した弓庄村の村名に由来すると思われる。
後程訪れることになるのだが、上市から五百石に向かっていた立山鉄道廃線跡にも弓庄という駅があり、現在の地図では辻集落と表示されている。
泉集落は白岩川と栃津川とに囲まれた沖積平野に位置するのだが、この付近一帯がかつての弓庄村域なのであった。
特に駅前野宿は予定していなかった越中泉駅ではあるが、計画検討段階ではこの駅も駅前野宿の候補地として周辺の様子を調べたりしていた。
既に述べたように、この日の実施計画上の野宿予定地で適地が見つからなかったので、結局、この駅まで戻ってきたのだが、それは夕刻のことで、この朝の段階ではそれなりに野宿にも使えそうだと思いながら出発した。
立山線が分岐する寺田駅には8時25分着。19.9㎞。
この駅は本線側の1~2番線と立山線側の3~4番線がそれぞれ相対式2面2線を成しつつ、稜線の間に待合室や土産物屋、信号取扱所などが入る建物が備わって、全体としてはY字構造となった特徴的な構造を持った駅である。
両線の間の待合室等は既に閉鎖されており立ち入りは出来ないが、地鉄の要衝駅として実に貫禄ある佇まいだ。
駅舎は敷地の西側の集落玄関口にあり、改修工事は受けているものの、創業当時の面影を今に伝えている。
この付近は旧寺田村域で、駅名もそれに因むものであるが、立山鉄道時代の寺田駅は今とは随分異なり、立山線の2駅先にある田添駅の東の沢端集落付近にあったらしいことが旧版地形図で把握できる。ただ、この寺田駅は開業時は沢端駅を名乗っており、寺田駅への改称は1921年2月20日頃のようだ。同じ時期に、一つ隣にあった辻高原駅も弓庄駅に改称しているが、ここに弓庄村があったことは既に述べた通りで、この2駅の改称は、集落名から村名への改称を意図したものだったように思われる。「辻高原」は「つじこうげん」ではなく「つじたかはら」で、同様に、辻、高原の2集落を示していた。
なお現在の寺田駅自体も集落としては浦田集落にあり、寺田集落自体はこの南東に少し離れたところにある。
この付近は富山電気鉄道の手によって路線が敷設されたが、現在の本線に当たる区間は既述のとおり、富山田地方~上市間が1931年8月15日に開業しており、この寺田駅もその際に開業した。ここは開業時から「寺田」で、集落名の「浦田」は採っていない。
一方、現在の立山線に当たる寺田~五百石間も1931年8月15日の開業で、その際に、浦田(現・稚児塚)、田添の2駅が開業するとともに、立山鉄道時代の五百石駅が現在位置に移設されている。
そして、この新線の開業に伴って、立山鉄道時代の上市旧駅~五百石旧駅の間は1932年12月20日に廃止された。
1年強の期間、路線が併存したことになる。
色々ややこしいが面白い。
この日は駅は有人営業中だったので、本線での列車行き違いや本線から立山線への乗り換え客の姿を眺めるにとどめて出発することにした。
8時37分発。









寺田駅を出ると直ぐに立山町と舟橋村の境界を越え、この舟橋村内に越中舟橋駅がある。
この舟橋村は日本で最も面積が小さい自治体であるが、富山市のベッドタウンとして発展しており、「村」という印象はない。
独立自治の意識が強い村らしく、明治の町村制施行以来、一度も合併を行っていないため、当時の小区画の村域のままで現在まで存続しているのだが、2026年現在では北陸3県では唯一の村となっている。
駅は舟橋村立図書館が入る他、隣接してパークアンドライドの広い駐車場も整備されており、住民も含めて自治意識の高さが感じられる地域である。
この越中舟橋駅を出て越中三郷駅に到着する手前に市村界があって、富山市内の越中三郷駅に到着する。古くは三郷村だったところで、その後、水橋町を経て富山市に含まれるようになった経緯があり、周辺地名は水橋開発となっている。この「開発」という地名は富山県に多数存在するが、福井県にもある。
鉄道駅としては、地鉄上滝線にズバリ「開発」駅があり、えちぜん鉄道にも「越前開発」駅がある。
読みが「かいほつ」であるところも特徴的だ。
この越中三郷駅は構内の構造が西魚津駅とよく似ており、開業当時の社名と駅名が右書きで記された表札を掲げた駅舎とともに、味わい深い駅風景となっている。
ちょうど上下列車の行き違いのタイミングだったので、それも撮影した。
列車に乗降する人の姿も比較的多く見られたのが印象的だった。
越中三郷駅には、8時56分着、9時7分発。15.4㎞。





越中三郷駅と越中荏原駅との間で常願寺川を渡ると、田園地帯から郊外の市街地に風景も変わる。
越中荏原駅は電鉄富山駅に次いで乗降客が多い駅だという。
それだけに夜間早朝を除いて駅員も配置されており、駅舎は2010年3月19日に改築されている。
開業当時は島村停留場で、島村停車場を経て、1945年9月21日に越中荏原駅となった。現在地名では向新庄であるが、この付近は元々は島村の村域であったことから、開業当時の駅名となったのであろう。荏原はというと、駅の南に荏原新町がある。
所在地名の向新庄を駅名に採用しなかった理由は分からないが、ここから西に隣接して、新庄町域が続いており、そこに、開業当時は西新庄、東新庄の2駅があり、現在は新庄田中、東新庄の駅があるので、混同を避ける意味合いもあったのかもしれない。
それらは本編執筆や文献調査の際の調査課題だ。
続く東新庄駅は緩やかな曲線区間に駅が設けられており、ホームも円弧を描いている。相対式2面2線のホームは構内踏切で接続されており、駅舎も特徴あるデザインとなっている。
1931年8月15日の開業で駅構内の設備も風格を帯びてきているが、それが市街地の中にあるというのも特徴的だ。
到着した時は宇奈月温泉行きの普通列車が出発していくタイミング。
若い女性が1名下車してきたくらいで、休日の昼間ということもあって大きな人の動きはなかった。
上り線ホームでは別の女性が1名、列車の到着を待っている。
のんびりとした午前中のひと時であった。
この先、西新庄駅跡はその付近と思われる場所で撮影を実施。
新庄田中駅は2012年12月21日開業と新しく、1面1線の棒線駅だが周辺は住宅地になっている。
西新庄駅の廃止が1942年10月31日のことなので、復活というよりも新駅という位置づけであるが、工事中の仮称は西新庄駅だったという。
宅地化が進む中で駅空白地になることから、地元からの設置要望が強まった結果だと思われるが、事実確認は文献調査の課題としたい。
不二越線との接続駅である稲荷町には10時11分着。30㎞。
ここは本線側に相対式2面2線、不二越線側に単式1面1線を持つ、複合式3面3線の駅で、車両基地も併設された運行上の要衝となっている。
車両基地には元京阪や元西武の車両が複数留置されていて、見るのも楽しい。
木造駅舎が不二越線側に設けられていて、終日有人駅となっている。
駅の開業は富山電気鉄道時代の1931年8月15日とされているが、この付近の鉄道線自体は1914年12月6日に富山軽便鉄道によって開業している。そしてこの時に稲荷町駅も開業しており、それは旧版地形図でも富山軽便鉄道を引き継いだ富山鉄道時代の駅として記されていることから裏付けられる。何故なら、この時代、富山電気鉄道は未開業だったからだ。
位置関係を比較しても移転の形跡はないので、稲荷町の開業は1914年12月6日とすべきではなかろうか。
それは兎も角、この駅も本線からY字型に不二越線が分岐していく構造となっており、車両基地も伴っていることから、駅としては魅力がある。
今回、駅構内への入場はしていないが、いずれ、乗り鉄の旅などで訪れてみたい駅である。
稲荷町駅発10時14分。











稲荷町駅の次は電鉄富山駅であるが、歴史的にはその間に稲荷鉱泉駅と富山田地方駅が存在した。
今日では著しく変貌を遂げておりその痕跡も残っていないことは把握していたが、稲荷鉱泉駅跡付近では、今も残る「いなり鉱泉」と真新しい北陸新幹線の高架、そして、北陸本線から転じたあいの風とやま鉄道の線路と、地鉄本線が一堂に会する様子を撮影。
富山田地方駅跡は工事の擁壁などに覆われていたが、狭い路地に入って駅跡付近の様子を撮影しておいた。
電鉄富山駅には10時29分着。31.9㎞。
ここは複合商業施設の中に駅が入っているのでビルを撮影するのみ。
北陸新幹線やあいの風とやま鉄道の富山駅、地鉄本線の電鉄富山駅、そして地鉄市内軌道線の富山駅前停留場の3つの駅施設が一堂に会する、名実ともに富山県の玄関口である。
ここからは市内軌道線の富山駅南北接続線を経て富山港線に入って岩瀬浜駅に抜けるのだが、少々早いもののここで昼食。
というのも8番らーめんが駅ビル内に営業しているからだ。
特に8番らーめんに思い入れがあるわけではないのだが、金沢に6年間住んでいて、近くに8番らーめんがあったこともあり、懐かしくて立ち寄る計画にしていた。金沢に住んでいた頃は、1~2回食べに行った記憶があるくらいだが。
チャーハンとラーメンと餃子を注文して、食べ過ぎてパンパンになる。
以前は旅の食事にラーメンを多用していたが、近年はお腹がもたれることが多く、昼食はかつ丼を定番にご飯ものを頼むことが増えている。蕎麦屋に入ることも多いのだが、蕎麦は腹持ちが悪く、これは逆に物足りない。
歳をとったのか体質が変化しただけなのか、よく分からないが、学生時代のように大食いは難しくなっているのは感じる。
店を辞して駅の高架下にある富山駅前停留場から旅を再開。11時1分発。




ここからは富山港線を行くのだがJRから最終的に富山地方鉄道に移管されて駅の数も多くなった上に、市内軌道線とも接続したことで、沿線住民にとっては大幅に利便性が向上したようだ。
近年では都市交通としての「路面電車」が見直されていることもあり、富山の事例も1つのケーススタディとして使わるのではないかと思う。
私は京都市内で7年余りの学生生活を送ったが、あの町も、かつての市電を別の形で復活させ、市内への一般車の乗り入れなどを制限するなどして、「世界遺産」を標榜するに相応しい交通体系の再整備をした方がいいように思っているがどうだろう。
それはさて置き、「ちゃり鉄」で「路面電車」を走る際には、短距離で多数設置される停留場毎に停車することになるので、経由地点数が大幅に増えるとともに、写真撮影などの停車時間も増加することになる。
計画書では概ね1日に40か所上限で訪問計画を立てるのだが、今回の旅では複数の日程でこれをオーバーし、1日分の計画書に2日分のスペースを必要とすることになってしまった。当然、現地でもその都度停車して、写真を撮影するので、大変である。
富山港線もJR時代のそれとは異なり、非常に駅や停留場の数が増えているので、「ちゃり鉄」には時間を要する。
まずは、富山駅前停留場から、オークスカナルパークホテル富山前停留場、インテック本社前停留場、龍谷富山高校前(永楽町)停留場を経て、奥田中学校前駅に達する。
停留場から駅への変化はこの駅を境界として、軌道法が適用される区間と、鉄道事業法が適用される区間とが分離されるからで、ここまでは「ちゃり鉄」でも見てきたように、併用軌道区間となっているが、ここからは鉄道線用区間となる。前身はJR富山港線で、道路越しに富山駅方面を眺めると、歩道転用された廃線跡を見ることが出来る。






JR富山港線時代は、廃止された富山口駅の他、下奥井駅、越中中島駅、城川原駅、蓮町駅、大広田駅、東岩瀬駅、競輪場前駅、岩瀬浜駅の9駅が存在した。時代を遡ると富山口~下奥井間に薬専高前駅が存在した時期もあるし、岩瀬浜駅の先の海岸まで伸びて岩瀬港駅が存在した時代もある。ただ、それらはJR以前の話である。
今日、この奥田中学校前駅から先は、下奥井駅、粟島(大阪屋ショップ前)駅、越中中島駅、城川原駅、犬島新町駅、蓮町(馬場記念公園前)駅、萩浦小学校前駅、東岩瀬駅、競輪場前駅、岩瀬浜駅が営業している。
JR時代の大広田駅は萩浦小学校前駅に改称したので、粟島、犬島新町の2駅が加わったことになる。これらは富山地方鉄道に移管される前の、富山ライトレール時代に新設されたものだ。
下奥井駅はJR時代の相対式2面2線ホームと駅舎は撤去され、千鳥式2面1線ホームに置き換わっている。
続く粟島駅は富山ライトレール時代の新設駅で相対式2面2線の交換可能構造。
ちょうど大阪屋ショップに隣接した場所に駅が設けられており、副名称も「大阪屋ショップ前」となっている。
越中中島駅も千鳥式2面1線に改良済み。富山港線の1線駅施設改良の標準的なスタイルのように思われる。
城川原駅は旧駅舎などは撤去の上、相対式2面2線に車庫への引き込み線や留置線が配置され、沿線の運用上の要衝となっていた。
城川原駅、12時6分着、12時9分発。36.9㎞。




城川原駅から先も千鳥式2面1線の駅と相対式2面1線の駅が組み合わさって短い距離で駅が続く。
犬島新町駅は富山ライトレール時代に新設された千鳥式構造の駅で、続く蓮町駅は旧駅舎は解体撤去されて千鳥式構造に変更されている。
ここでは南富山駅前行きの列車がやってきた。
JR時代とは異なり富山駅を挟んで南北を縦貫する運用が行われることで、利便性も向上している。駅での乗降者数も車内の乗客の数も、JR富山港線時代より多くなっているのは実感できた。
蓮町駅からは国鉄時代に東富山駅との間を繋ぐ貨物専用線があったようで、その痕跡はgoogleMapでも確認することが出来るが、駅周辺には分岐跡などは残っていない。
萩浦小学校前駅は相対式構造で交換可能。ここも歴史は古く、出自は信号所であった。JR時代は大広田駅であったが、地鉄時代に入った2020年3月21日に萩浦小学校前駅に改称した。
旧駅舎は解体されていて現存しない。
ここは現地で気が付いたが、はっきりとした分岐線の跡が残っており、調べてみると貨物専用線がこの先の港湾地区に向かって伸びていたようだ。
なお、蓮町駅と萩浦小学校前駅との間でも、クラレ富山工場への専用鉄道線が分岐していたらしい。
続く東岩瀬駅は旧駅舎が残されており、それに隣接する形で富山港線の低床車用の新駅ホームが設置されている。ここも千鳥式だ。
駅の岩瀬浜方は県道富山魚津線に並行しており、折しも、その街路樹の並木の下を颯爽と列車がやってくるところだった。
こうしてみると富山港線時代よりも運転本数も多くなっている。
ただ、LRT化直後は黒字化したものの、結局、近年は経営赤字が拡大しているようではある。
この東岩瀬駅付近からも太平洋ランダム工場方面に向かう専用鉄道線が分岐していたという。
それらしいおっさんが2面1線のホームにたむろする競輪場前駅を過ぎ、岩瀬諏訪神社を参拝した後、終点の岩瀬浜駅には13時2分着。41.1㎞であった。
レールは駅に隣接する車道の手前で車止めが置かれて途切れているが、ここもその先にそれと分かる曲線状の道路が延びていて、古い地図で確認すると、道路を渡って少し先に進んだところに岩瀬港という駅名が記されたものがある。
また、この岩瀬浜駅に到着する前の岩瀬運河に沿っても専用鉄道線が分岐していたようだ。
こうしてみると、富山港線は旅客需要のみならず貨物需要にも対応する臨海鉄道の性格があったことが分かる。
岩瀬浜駅では富山港線に乗って海を眺めに来たらしい父子連れが居たが、「駅の写真を撮ろうか」と子供を誘う父親を無視して、子供がさっさと行ってしまい、父が写真を撮り損ねているのが微笑ましかった。
岩瀬浜発13時8分。
これで計画上は、この日の「ちゃり鉄」区間は終了し、この先の海岸に沿って滑川方面に進みながら、適当なところで野宿場所を見つける算段だった。














岩瀬浜駅からは岩瀬港方面に伸びていた線路跡を辿ってから岩瀬浜へ。
ここは夏場には海水浴場が開設される場所のようだが、今は早春。
さすがに海に入る人の姿は無かったものの、浜辺には多くの人が繰り出しており、インスタ写真の撮影に余念がない女子高生のグループが居たり、ビーチバレーを楽しむ人が居たり、長閑な休日の風景が広がっていた。
その後、海岸に沿って東進。
海岸の松林の中にある岩瀬八幡宮にお参りした後、富山湾岸に沿って断続的に続く自転車道を走り、公衆浴場の日方江温泉に立ち寄って一浴していく。
富山市内も公衆浴場が多く、それぞれに特色があるので、時期を変えて訪れてみたい。
キャンプ場もある浜黒崎付近の海岸に適当な東屋などがあればそこで野宿をする予定だったのだが、事前調査でも候補地は見つかっていなかった。
更に進んだ水橋や滑川にも幾つか候補地を見つけておいたので、当日の天候なども踏まえて何処かに決定する計画だった。
この日は晴天だったので浜辺にテントを張ってもよかったが、適当な東屋があれば、その下で野宿をする方がよいし、明日の行程を考えると、少し先に進んでもよいという条件だった。
結局、第一候補だった浜黒崎付近は適当な東屋がなかったのと、海岸林内はどこでもテントは張れそうだったが、ゴミがあったりして気乗りしなかったのとでパス。
先に進むことにした。





常願寺川河口を今川橋で渡ると水橋地区に入る。
ここで金刀比羅神社に参拝した後、引き続き海岸沿いを進むのだが、高い防潮堤が張り巡らされているので海は見えない。
上市川を渡った先のいをのみ公園に第二候補の公園と東屋があって、それなりに場所は良かったのだが、隣接する球技場でフットサルの試合が行われていて、人が大勢いる状況だったので、ここもパス。
さらに進んで昨日通った滑川漁港から滑川海岸に入り、滑川海浜公園に到着。
ここはオートキャンプ場があるのだが、広い敷地の中に東屋などがあるのは前日のうちに把握しておいた。
しかし、敷地内には指定場所以外キャンプ禁止の掲示がしてあるし、管理棟に係員も居る状況。自転車のソロツーリングで割高な電源完備のオートキャンプ場を使う気にもなれないので、ここもパス。
結局、候補地全てをパスすることになった。
海浜公園の高台には展望台があるので、そこに登って飛騨山脈の写真を撮影しようと思ったのだが、この日は春霞が強すぎて山は全く見えなかった。
滑川海浜公園で15時25分着、57.5㎞。
さてどうしたものかと思案するが、今朝ほど通った越中泉駅が駅前野宿で使えそうだと感じていたので、結局、滑川から五百石までの立山鉄道廃線跡を今日のうちに走り切り、五百石から越中泉駅に向かう計画にして、追加で20㎞強を走ることにした。
単純走行だけなら17時前の到着になるが、廃線跡の「ちゃり鉄」となるので、途中の駅跡の撮影に時間を要する。
それでも18時前には到着することが出来るだろうと踏んでの決断である。
15時34分発。





滑川駅には15時43分着、59.9㎞。
この日の6時22分に4.6㎞地点として通過しているので、約55㎞を走って戻ってきたことになる。
ここからは、地鉄本線の前身となった立山鉄道廃線跡の「ちゃり鉄」として、旧上市駅跡を経て旧五百石駅跡までを走る計画。
但し、上市までのルートはほぼ地鉄本線と重なっているので、複数の駅を再訪することになる。
15時44分発。
最初の訪問地は晒屋駅跡だが、これは現在の中滑川駅の少し南に位置し、田中新町の交差点がある辺りになる。廃線跡は車道転用されているようで痕跡は残っていないが、滑川駅から分岐して徐々にあいの風とやま鉄道の線路から離れていく車道の線形に、鉄道時代の痕跡が偲ばれる。
水橋口駅と呼ばれていた西滑川駅付近は痕跡は乏しいが、駅のホームから見える田圃の中に、路盤の痕跡と思われる部分が僅かに残っていて、その線部分は灌木が車止めのように成長している。
現在の線形とは異なり、転用された車道の方向に急カーブで曲がっていったようなので、その一部が田圃に僅かな痕跡として残っているように思われた。
西加積駅は旧版地形図で見ると現在の車道を挟んで反対側、つまり、北側に位置したようであるが、今は民家が立て込んでいてその面影は消えている。
中加積駅も駅位置は若干変わった可能性もあるが、ここは旧版地形図で見てもほぼ同じ位置で、僅かなずれは地図の精度の問題のように思われる。
新宮川駅は旧位置から現在位置への移転を示唆する情報もあるが、旧版地形図と対比すると位置の変化はないようにも見える。
そして、この新宮川駅から旧上市駅にかけての線形は現在線とは異なっており、現在駅のやや東側を周り込むような線形を取っていた。
今日、その駅跡と思われる付近は住宅や工場が立て込んでいて正確な場所は分からなかったが、新しいアパート群が建っている一画があり、概ねその付近が旧上市駅に該当するようではあった。
ただ、住宅地の中ということもあり、不審がられる行動も慎むべきなので、ここではアパート周辺を調べるなどといった調査は実施しなかった。
この集落の南に日吉神社があったので参拝していく。この神社は旧駅時代から変わらず鎮座していたことだろう。
その後、現在の上市駅を訪れて先に進むことにするが、このスイッチバックの上市駅自体も、更に東の市街地中心部まで伸びていた時代があった。その痕跡は今では分からない。
上市駅跡16時28分着、16時30分発。68㎞であった。









上市駅跡からは大岩口、弓庄、寺田の3駅を挟んで五百石駅に至るのだが、この付近も一部は車道転用されているものの明確な痕跡は残っていない。
ただ、後で知ったことだが、大岩口駅付近では農地の中にホームの痕跡が残っているという情報もあった。
当日、この付近を通りかかった時は、きょろきょろしながら自転車で走る私を、犬の散歩中の若い女性が怪訝な表情で見てきたので、そそくさと走り過ぎたこともあり、十分な調査が出来なかったのが悔やまれる。
弓庄駅跡も駅前通りが今も残っているものの、当日は人が居て入りそびれた。
近くの辻公園から集落の縁に沿って伸びてきていたであろう線形を想像するにとどまる。
寺田駅跡も同様で現地では何の痕跡も見いだせなかったが、ここでは田圃の中に印象的な佇まいで鎮座する沢端神明宮にお参り。この神社は旧版地形図にも掲載されており、線路は神社の南側を通過していたようである。
五百石駅跡は立山製紙の工場内辺りで、立ち入っての調査は出来なかったが、工場の敷地を外から撮影。
かなりざっくりとした「ちゃり鉄」となったが、在りし日の立山鉄道が長閑な田園地帯を走り抜けていたことは感じられた。
五百石駅跡、17時11分着。17時12分発。77.2㎞。
ここから立山線の現在線に沿って寺田駅方面に向かい、途中から越中泉駅方面に直行する集落道を辿って、越中泉駅には17時27分着。81.6㎞。
結局、滑川海浜公園からは24.1㎞のオーバーランとなったが、日没時刻の前には目的駅に到着することが出来たし、翌日行程に大幅な余裕を持たせることが出来たので良しとする。





越中泉駅はこの日の日中、8時8分着、8時14分発で通り過ぎた。距離にして18.5㎞地点。
それから9時間13分で63.1㎞を走って戻ってきたことになる。
駅は集落の中にあるが、待合室裏と駅入り口向かいの民家は空き家となっていて、待合室向かいの民家は現住民家となっているようだった。
到着したタイミングでは少し離れた民家でも人の出入りがある様子だったので、駅前に自転車を置いてまずは撮影に入ることにした。
まずやってきたのは17時30分発の電鉄黒部行き。続いて17時57分発の電鉄富山行き。
この2本の列車の間隔が空くので、その間に着替えは済ませておく。
目的地に着いたらすぐに撮影ということも多いが、まずは着替えを済ませて体をリラックスさせたい。
18時1分には宇奈月温泉行きがやってきたがこれは16010形。17時57分発の電鉄富山行きとは、隣の寺田駅で行違ってきたようだ。
この時期は普通列車としての運用だけだったが、活躍してる様を見るのは嬉しい。
いつか、この車両に乗車してみたいと思いつつ、その出発を見送る。
この3本の列車に乗降客の姿はなかった。





次の列車は18時49分発の宇奈月温泉行きで、48分の間隔が空くので、この間に荷物の解装・整理と、夕食も済ませておく。
駅前野宿で訪問する駅の場合、夕方以降は帰宅利用の時間帯なので、駅施設で列車待ちをする人が訪れることは殆どない。
列車の発着前に駅前に迎えの車がやってくるくらいだが、越中泉駅の場合は駅前に車を駐車するスペースもないので、そういう車がやってくる気配もなく、時折通りかかる車は、皆、駅を素通りしてた。
そういうタイミングを見計らって夕食を済ませたり、駅前野宿の準備を行ったりするのだが、勿論、周辺に民家がある場合などは、目立たないように行動するとともに、大きな音を立てたりしないように細心の注意を払うことは言うまでもない。
この日の撮影は18時49分の宇奈月温泉行き、19時4分の電鉄富山行き、20時4分の電鉄富山行きの3本で終了とし、19時49分の宇奈月温泉行きのタイミングでは待合室内で精算作業を行っていた。
この列車からは1名の下車があり、待合室の前を通って帰宅していく姿が見えたが、それ以外の列車の乗降はなかった。
駅前には朝の時点から1台の自転車が駐輪されていたが、この自転車は夜になってもそのまま。パンクはしていなかったが、シートに埃が溜まっていたところを見ると、放置自転車だったのかもしれない。
意図せず駅前野宿をすることになった越中泉駅ではあったが、集落の中の駅とは言え、この日は日曜日だったこともあり、静かな旅情駅の雰囲気が好ましかった。
今日のうちに翌日行程の一部分を走ったこともあり、翌日は3時間程度の余裕が生まれた。
その分を横江駅から尖山への軽い往復登山に充てることにして、この日は眠りに就いた。






ちゃり鉄30号:5日目(越中泉-寺田=横江…尖山…横江=立山-千垣)
5日目は立山線探訪の1日。
立山駅から先の立山黒部アルペンルートは冬季閉鎖中のため、岩峅寺駅から立山駅の間は間引き運転が行われるなど、閑散ダイヤとなっているが、寺田駅から立山駅までの全駅と廃駅跡を巡った上で、千垣駅まで戻って駅前野宿の予定である。
当初予定では浜黒崎海岸からの行程だったが、前日のうちに立山鉄道廃線跡の探訪も済ませておくことが出来たので、この日の行程には余裕が生まれた。
天気も1日持ちそうだったので、事前の計画段階で時間的に難しくて割愛した尖山の軽い登山を組み込むことにした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図中、22㎞付近にある顕著なピークが尖山登山の行程で、ここは横江駅に自転車をデポして、徒歩で往復することになる。
39㎞付近にある次の大きなピークは粟巣野集落の粟巣野神社付近。
この付近はスキー場が広がる高原地形と谷沿いの立山線との間を登り降りするのでアップダウンが強い。
尚且つ、上横江、芦峅寺、粟巣野の3つの廃駅を巡っていくので、徒歩での踏査区間も多くなった。
越中泉駅の朝は早い。
始発列車は5時34分発の電鉄富山行きで、この列車と寺田駅で行違う宇奈月温泉行きは5時37分発である。
それに合わせて4時半頃には起床し、朝食と撤収を手早く済ませ、5時30分前にはホームに出て撮影準備に入った。
定刻に往来する上下の始発列車は、いずれも元東急の17480形。
ステンレス車で地鉄においては新型車の印象がある。
この朝の始発列車のうち、電鉄富山方への列車には乗客の姿があったので、片付けを済ませておいてよかったのだが、待合室内に見慣れぬ人影があるのを不審に思ったのか、少し距離を置いたところで列車を待っていらしたようで、申し訳ないことをした。
意図せず駅前野宿をすることになり、気を遣いながらの一夜ではあったが、集落の中の静かな旅情駅であった。
5時47分発。





寺田駅には5時52分着。1.5㎞。
今日はこの寺田駅から立山駅までの「ちゃり鉄」がメインとなる。
早朝のこの時間帯は無人だったので、Y字型に分岐した特徴ある駅構内の写真も撮影することが出来た。
Y字の分かれ目のところに旧待合室と信号扱い所などが入った立派な駅舎があり、向かって左側の本線が順番に上り1番線、下り2番線、向かって右側の立山線が上り3番線、下り4番線。立山線は右側通行での離合となっている。
古くは本線と立山線との間に短絡線を敷設する計画もあり、1960年代頃の空撮画像ではその短絡線の敷地が明瞭に映り込んでいるが、今日では辛うじて痕跡が分かる程度である。
この短絡線に乗降ホームが設けられていたら、非常に面白い駅構造になったと思われるのだが、需要という面で実現は難しいのだろう。
宇奈月温泉駅と立山駅との間を結ぶアルペン特急に乗車すれば、この駅での珍しいスタイルのスイッチバックを体験できるだろうが、ここは、本線列車と立山線列車との間の乗り換えなども体験してみたい駅である。
朝早い乗客が数名駅に現れたタイミングで駅の外に出て、6時10分発の電鉄富山行きと立山行きの行き違いシーンを眺めて出発。立山線の立山行きはこの列車が始発列車である。
「ちゃり鉄30号」は6時14分発。









寺田駅からは稚子塚駅、田添駅を経て五百石駅に達する。
稚子塚駅ではちょうど電鉄富山行きの普通列車が出発していくところ。
この稚子塚駅と田添駅は富山電気鉄道の手によって本線の富山田地方~上市間の開業と同時に開業した。1931年8月15日のことである。
いずれも1面1線の棒線駅で、兄弟駅のような感じである。
それを機に、立山鉄道の旧・五百石駅は廃止されて現・五百石駅に移設された。
この先は立山鉄道が1921年3月19日に立山駅(現・岩峅寺駅)まで開業させていたので、この2駅を挟んだ区間を開業することで立山方面へのアクセスが改善された。
なお、立山鉄道が開業させた立山駅(現・岩峅寺駅)の読みは「たちやま」であった。
この五百石駅は役場も置かれた立山町の中心地である。
五百石という地名は文政時代に開墾された際の石高に由来するというが、鉄道ファンなら、類似の駅名としてJR釧網本線にかつて存在した五十石駅を思い出すかもしれない。あちらは、五十石船が遡ることが出来た地点を指す地名、駅名であった。
私は中学生の時代に、この立山町で開催されていた市民マラソン大会に参加したことがある。当時の大会名は立山アルペンマラソンだったような気がするが、正確には覚えていない。
開催側の内部分裂か何かがあったのか、当日、同じ地域で同じような名前の2つのマラソン大会が開催されていて、関係者らしい人に受付の場所を尋ねたら「うちとは一切関係ありません!」と怒気を孕んだ声で追い返された、そんな思い出のあるマラソン大会である。
今も立山アルペン健康マラソンという大会が開催されているようだが、開催年次を考えると、私が中学生の時に参加した大会とは別の大会、若しくは、名称変更された大会のようではある。
あの時、私は五百石駅で下車したはずなのだが、駅や路線の印象は残っていないのが残念だ。
大きな複合駅舎となった五百石駅では駅舎の写真を撮影し、少し離れた踏切で構内を遠望撮影した。
五百石駅6時40分着、6時45分発。6.3㎞。







五百石駅から岩峅寺駅までの区間は立山鉄道の手によって1921年3月19日に開業している。
この区間には榎町、下段、釜ヶ渕、沢中山の4つの中間駅があるが、これらの駅の履歴は書籍によって揺らぎがある。立山鉄道による区間開業と同時に開業した後、一旦、廃止されて、再開業したという履歴を記したものもあり、書籍によってはその再開業の日付を開業日としたものもある。
その揺らぎは文献調査の課題ではあるが、いずれにせよ、1920年代から1930年代にかけて開業した歴史ある区間、駅である。
常願寺川の扇状地を登っていく立山線の沿線は、五百石駅を出た頃から勾配も顕著になっていく。
車で走ると体感できない程度の勾配だが、自転車で走るとはっきりと感じるし、駅に立って上り、下り、の方向を眺めてみると、水平が確保された駅の前後で勾配が変わる様子がはっきりと分かる。
榎町駅では下り6時52分発の岩峅寺行き普通列車と対面。ここ数日、本線で何度か対面してきた16010形2両編成の列車であった。
この辺りは既に五百石市街地の南縁部に当たり、周囲も田園地帯に戻っている。行く方遥かには残雪を纏った立山連峰が朝靄に霞んでいた。
続く下段駅も榎町と同じように1面1線の棒線駅だが、いずれの駅も、味わい深い木造駅舎を伴っている。
駅に着いて撮影を行っているうちに、富山方面に向かう通勤通学の乗客が10名ほどホームに立って列車の到着を待っていた。月曜日の朝ということもあり、平日の朝の風景が広がっている。









釜ヶ渕駅の方から緩やかな勾配を降ってきたのは先ほどの16010形編成で、岩峅寺駅で直ぐに折り返してきたようだ。この列車は7時14分発の電鉄富山行き。立山線の上り列車は全て電鉄富山行きとなっている。
釜ヶ渕駅は地元の愛着を感じさせる小綺麗な駅舎と構内が好ましい。
かつては相対式2面2線ホームを備えた交換可能駅だったため、当時の上り線ホームが今も残っているが、その部分も含めて花壇が整えられている。
沢中山駅は文献に拠っては沢駅として開業したと記しているものもあり、実際、周辺の集落は、沢集落と中山集落である。
ここは他の駅のような駅舎は伴っておらず、1面1線の単式ホームに小ぶりの待合室が設けられているだけである。
この辺りまで来ると立山連峰の前衛峰の山裾が間近に迫ってきており、田園から里山へと風景が転じる雰囲気がある。
五百石駅からの継続した緩やかな登り勾配を登り詰めて、扇状地の口の部分に至ると岩峅寺駅。7時52分着、13.9㎞であった。






岩峅寺駅は立山線と上滝線の接続駅であり地鉄の要衝である。
立山線側は既に述べたように1921年3月19日に立山鉄道の手によって「立山(たちやま)駅」として開業した。
一方の上滝線側は富山県営鉄道の手によって岩峅寺駅として開業したが、この岩峅寺駅の開業は1921年8月20日であった。
この先、段階的に富山県営鉄道の路線として上横江(旧・横江)、千垣、粟巣野、立山仮駅、立山(旧・千寿ケ原)と延伸開業したが、1937年10月1日に粟巣野駅まで開業した後は、日本発送電を経て富山地方鉄道に移管され、途中、立山開発鉄道が関与した時期も含めて、1955年7月1日に現在線の全線が開業した。
こうした経緯があるため、立山鉄道の立山駅と富山県営鉄道の岩峅寺駅とは、当初は隣接した別の駅となっており、旧版地形図でもその様子が描かれている。
この立山鉄道は1931年3月20日には富山電気鉄道に吸収合併され、その後の1936年8月18日に立山鉄道時代の旧・立山駅を廃止して、富山県営鉄道の岩峅寺駅に乗り入れる形で両駅が統合された。
旧・立山駅は旧版地形図によれば、今の駅前通り付近に駅を設けていたようで、立山線が岩峅寺駅構内北側の社宅踏切付近から駅に向かって右に緩くカーブを切っているのは、この付け替え工事によるものと思われる。
なお、岩峅寺という地名は芦峅寺と同様に、かつての立山信仰の痕跡地名で、この地域が神仏習合の宗教集落だったことに由来する。
単独の「岩峅寺」、「芦峅寺」という「寺」があるわけではなく、それぞれ現在の雄山神社前立社壇、雄山神社中宮祈願殿が、各宗教集落の象徴的存在として、今もこの地に鎮座している。
富山地方鉄道は複数の別の鉄道が合併してできた鉄道ということもあり、こうしたY字型分岐の駅が複数存在するが、どれも鉄道風景として興味深く、旅情を醸し出す。
岩峅寺駅自体は有人駅なので駅構内には立ち入らなかったが、駅周辺の写真撮影を行う。
駅構内を挟む形で上下2か所に踏切があり、横江方には岩峅寺踏切、立山線の沢中山方には社宅踏切があるので、それぞれから遠望写真を撮影する。
社宅踏切側は上滝線側に抜ける車道が通じており、その車道に入ると、Y字分岐を分岐の又の側から眺めることが出来るが、駅の敷地部分は資材置き場になっていた。
雄山神社の前立社壇を訪れるために、岩峅寺駅8時1分発。



神社の入り口付近で上滝線の常願寺川橋梁を間近に眺めるので撮影。列車が通過するタイミングであれば、面白い写真が撮影できそうだ。
雄山神社前立社壇は常願寺川右岸の丘陵に鎮座しており、参道には朝の静謐な空気が満ちていた。
私は教義的な宗教信仰を持っているわけではないが、神社の神域には神秘的な雰囲気を感じるし、自然崇拝には感覚的に共感するところがある。
そんなこともあって、「ちゃり鉄」の旅での「途中下車」では、駅周辺集落に鎮座する神社を訪れていくことが多い。
この雄山神社前立社壇は立山信仰の里宮であり、この地から立山を仰ぎ見て遥拝したことが伝えられている。
この日は早朝ということもあり、地元の方がごく少数境内を参拝されているだけ。
雑念多い私でも、こういう場所を訪れると心正す気持ちになるものだから、不思議なものである。
境内を辞して岩峅寺駅に戻り、岩峅寺踏切から写真を撮影して先に進む。駅には電鉄富山駅に向かう立山線列車が停車していた。
雄山神社前立社壇、8時7分着、8時19分発。15㎞。




岩峅寺駅から先は富山県営鉄道によって敷設された路線であることは既述したとおりだが、元々は電源開発を目的として敷設されたこともあり、沿線人口は希薄である。
観光シーズンは立山黒部アルペンルートの入り口として賑わうものの、冬期間を中心に1年のうちの半年近くはアルペンルートが閉鎖される。
沿線にスキー場はあるものの、鉄道利用でスキー場を訪れる者はほぼ居ない。
こうなると、人口が希薄な地域故に定期の旅客需要は激減するため、近年は冬季減便運行がなされており、富山地方鉄道の存廃協議でも廃止が取沙汰されている区間でもある。
ここからは本格的に山間部に入っていくので、車道を走る「ちゃり鉄」でも、勾配が一段ときつくなるのを感じる。
その勾配区間の途中にあるコンビニでこの日の夕食の食材などを買い出し。今日この後の区間内に、目ぼしい商店やスーパーがなかったので、事前調査でこのコンビニを使う計画にしていた。
駅前の登山口駐車場に登山者の姿が見られる横江駅には8時53分着。19.2㎞。駅前の日陰には冬季の除雪残滓が残っていた。
この横江駅は1931年6月1日の開業だが、当初の駅名は尖山駅であった。
その当時から横江駅自体も存在したのだが、その駅は尖山駅から見て600mほど立山寄りにあり集落からは外れていた。
1965年4月15日には尖山駅が横江駅に、横江駅が上横江駅に改称され、その上横江駅は1997年4月1日に廃止されている。
駅は島式1面2線時代の痕跡を留めた単式1面1線構造で、古い木造駅舎とホーム上の待合室を備えている。2線時代は構内踏切で下り線側を渡る構造になっていたのであろう。
木造駅舎は冬季の積雪の影響もあるのか傷みが見られ、待合室内も薄暗くて寒々としていたが、郷愁感あふれる建物。
ホームの木造待合所も落ち着く雰囲気であった。
9時4分には立山行きの普通列車が到着。
この車両はキャニオンエクスプレスとして運用されている20020形で、元西武10000系。ニューレッドアロー号の車両であった。
観光向け車両での運用とは言え、この日はオフシーズンの平日。
車掌も乗務する3両編成に乗客は僅か数名ではあったが、この横江駅でも登山装束の降車客があった。








ここでトレッキング装備を身に付け、尖山往復の軽い登山を行う。
元々、実施計画段階でも検討していたものの、1日の行程の都合上、時間を確保するだけの余裕がなかったために割愛していた行程だ。
昨日、越中泉駅まで先行した関係で、その余裕を確保できたので予定に組み込んだのである。
登山の場合は地形図やコンパスの携行などの準備も必要なので、行程が長い登山をアドリブで組み込むことはないが、尖山であれば、事前にルートを確認していたこともあり、当日の天候と日程次第で組み込んでも問題ないと判断したのである。
横江駅周辺には駐車場が複数あり、登山装束の人の姿が多い。
平日ということもあって中高年登山者の姿が大半だったが、子供を連れた家族連れも1組。確かに子供が登るには適当な山でもある。
集落道から斜面の短絡道、林道と繋ぎ、行く手に尖山の山頂を見つつ林道終点まで進むと、地元の山岳団体のメンバーが集合して登山道手入れの準備中。
その脇から沢筋の登山道に入り、標高450mの等高線を越える辺りまで沢を詰めたら、斜面の巻き道に入る。
幾つかの切り返しをこなしつつ、急登を登り詰めて標高559.19mの二等三角点「布ヶ滝」が設置された山頂に到着。
9時46分着。22.1㎞。
横江駅からの2.9㎞を36分で登ってきたことになる。
山頂からは立山連峰を中心に、まだまだ冬装束の飛騨山脈の山々を眺めることが出来たのだが、この日は生憎、前線の接近もあって上空は白霞が強くスッキリとした山岳景観は望めなかった。
それでも、鍬崎山、立山連峰、大日岳、剱岳、毛勝三山などを写真に収められたのは良しとしたい。実際、翌日以降は3日間程度スッキリしない曇雨天が続いたので、天候悪化が1日早ければ登山自体を取りやめていたことだろう。
眼下の富山平野も一望。
この日は地元の愛好家団体も登ってきていたので、山頂では10数名の人だかりで賑わっていた。
補給を行ったら下山。10時4分発。
復路は往路の途中で見つけていた夏椿峠ルートの標識を辿って下山。こちらは山腹を巻かずに最大傾斜線に沿って降るルートなので急勾配。
もし歩くなら、夏椿峠ルートを登りに使って、下りを地図道にするのが正解という感じであった。
それでも夏椿峠付近から先は台地状の緩やかな起伏を行くので道も穏やかになる。
やがて林道に合流し、来た道を戻って横江駅に戻る。
10時40分着。24.3㎞。合計1時間30分、5.1㎞の道のりであった。
荷物を積み替えて再び自転車スタイルに戻り、補給と写真撮影を済ませて10時52分発。
既に駅ホームは明るい日差しに照らし出されていた。











横江駅から先も勾配区間を進んでいく。
途中、道路工事で片側交互通行の規制箇所があったのだが、その直前で進路右手の空き地に上横江駅の跡が見えてくる。
規制箇所では係員がこちらに合図を送っていたが、その直前で自転車を降りて路肩に駐輪し、草叢に入っていく私を見て、用便とでも思っただろうか。
上横江駅跡は河岸段丘上の草叢といった感じだが、ホームの跡が1面分残っており、その奥には駅施設跡あらしい残骸と平場が残っている。
1921年10月11日に横江駅として開業後、2023年4月20日に隣の千垣駅まで延伸するまでの1年半ほどを終着駅として機能したこともあり構内の跡は広い。
今日、駅跡周辺に集落の建物は存在しないが、これは開業当時も同様。旧版地形図には、僅かな民家が存在したように描かれているが、当時から集落中心地は現在の横江駅付近にあった。
1965年4月15日に上横江駅と改称した後、1997年4月1日に廃止されたのは、そうした立地環境故に利用者が殆ど居なかったからである。
上横江駅跡を出ると県道は立山線をアンダークロスする。
勾配も一段ときつくなるが、それが少し落ち着く辺りに千垣集落が開ける。
ここで白山社に参拝し、集落を抜ける辺りから再び勾配がきつくなって、再び立山線をアンダークロスした少し先に、千垣駅が見えてきた。
傾斜のきつい道路脇の一段下がったところにある千垣駅には11時25分着。28.3㎞。




千垣駅は1923年4月20日に富山県営鉄道の駅として開業した。
当時の横江駅からの1駅間の延伸開業である。
その後、小見(現・有峰口)以降に延伸するのは1937年12月1日まで待つことになるので、14年半ほどを終着駅として機能していたことになる。
現在は1面1線の棒線駅となっているが、向かい側にも駅施設の遺構と思われる構造物が残っており、終着駅時代の面影を偲ぶことが出来る。
駅舎も有人時代の面影が色濃い。
県道側はトタンで覆われているので薄暗いが、ホーム側から明かりが差し込んでいて、居心地は悪くはない。
この日の駅前野宿地はこの千垣駅であるが、一旦、立山駅まで走り切ってから夕方に戻って来る行程。このように行程を組むと、昼間と夕方から夜間、早朝にかけての旅情駅の姿を眺めることができて具合が良い。
この時期は冬季減便ダイヤとなっており、日中は列車の発着がないため駅を訪れる人の姿もなかったが、天候にも恵まれ、残雪を抱く白銀の鍬崎山を眺めながら長閑なひと時を過ごすことが出来た。
11時40分発。






千垣駅からは駅前の登りを引き続き登り、直ぐに常願寺川を渡って右岸側から左岸側に移る。
元々、鉄道路線は右岸側に敷設される予定だったが、有峰ダムの建設工事に伴って資材運搬用に線形変更され、千垣駅のすぐ先の千垣橋梁で左岸側に移ることになったのである。
この左岸にある集落が小見集落で、有峰口駅が設置されている。
この駅は小見駅として1937年12月1日に開業したが、有峰ダム方面への観光誘致を目的に1970年7月1日に有峰口駅と改称した。
特急停車駅でもあり、駅舎は改築・改修によって綺麗になっているが、ホームの待合室は創業当時のままで古色蒼然、趣がある。なお、駅舎は改修を受けているものの、表札は「小見驛」となっている。
ここから有峰ダム方面に向かうと、小見集落の奥にある亀谷集落を越えたら無人境となり、有峰ダム湖畔に出る。
有峰ダムからは岐阜県側に抜けるルートも複数あるが、折立までアクセスして、そこから黒部川源流山域に入山する人が多いだろう。
ただ、この時期はまだ道が冬季閉鎖中であるし、鉄道利用で有峰方面に向かう人は、元々、かなり少ないに違いない。更には鉄道も冬季減便中とあって、駅周辺に人の姿は無かった。
小見集落では小見白山社に参拝。1つ先の本宮集落に進むとその集落の東端にある本宮駅に到着。
ここも1937年12月1日の開業で本宮の名は対岸にある雄山神社中宮祈願殿に由来している。しかし、この集落から中宮祈願殿へのアクセス路はなく、中宮祈願殿への最寄り駅は千垣駅となっていて、駅前から出るコミュニティバスに乗ることになる。
駅は相対式2面2線時代の痕跡が残る1面1線の棒線駅で、駅舎の中には売店の跡も残っていて、往時の賑わいが偲ばれる。
ちょうどお昼時でもあったので、朝のうちに仕入れておいた総菜パンやおにぎりで昼食を済ませる。対岸の芦峅寺集落内には郷土料理店があるようなのだが、この日は定休日で営業しておらず、他には目ぼしい飲食店がなかった。
12時16分発。












現在は本宮駅を出ると立山駅までの間に駅は存在しないが、かつてはこの区間に芦峅寺、粟巣野の2駅があった。
粟巣野駅は1937年10月1日から1954年8月1日までの17年余りの間、終着駅となっていた時代もある。
今回はこの2駅の跡も探索する予定であったが、芦峅寺駅跡は正確な位置もつかめておらず、現地の状況も分からないので、辿り着けるかどうかは不明であった。
芦峅寺駅跡には立山大橋の袂からアクセス。
但し、アクセス路があるわけではなく、事前に目星をつけていた位置で現地の地形を確認し、急斜面を降って河岸と斜面との間にある路盤よりも少し河岸よりに向かい、ちょうど立山線のトンネル坑口が開いている横に辿り着くことに成功した。
ここからは路盤を避けて河岸側の山林内を歩いて上流側に移動。
程なく、見上げる斜面に人口構造物が見えてきて、その地点で斜面を登ってみれば、芦峅寺駅のホーム跡と倒壊した倉庫の建物が見えてきた。
この芦峅寺駅についてはルート変更によって鉄道が通らなくなった芦峅寺駅へのアクセス駅として設置されたというが、実際に架橋されることはなく、代わりに芦峅寺地区からの鉱石の搬出のための貨物駅としての需要が生まれたことにより、索道による搬出・積み込みを行っていた、という情報がある。
現地においてもホームの他にコンクリート製の大きな構造物が路盤よりも川側に残っているのは確認できたので、この情報は信憑性のあるものと判断しているが、図面などを伴った詳細な情報は確認できておらず、また、索道についても旧版地形図では確認できなかった。
帰路も同じルートを辿ったが、こちらからは古い作業道を見つけることが出来た。
既に一部は崩壊していて安全に通行できるような作業道ではなかったが、立山大橋側の取り付き部分には単管による階段も作られており、山林作業や橋梁工事に使われたのかもしれない。
踏査を終えて立山大橋上から立山線を見下ろして撮影を行った後、ホテルテトラリゾートに立ち寄って日帰り入浴。
その後、粟巣野集落に立ち寄って粟巣野神社に参拝。
この付近には複数のスキー場が開設されており、冬季はそれなりに観光客も来るようだが、既にシーズンは終わっており、観光客は殆ど居なかった。
粟巣野集落は台地上にあるので立山駅までの間は基本的に降り基調。
この山麓に粟巣野駅があり、既述のように現在の立山駅が開業するまでの間、終着駅として機能していた。
当時は駅前に集落も形成されていたが、今日、地形図で確認してもそのような痕跡は見当たらない。
この粟巣野駅跡まで作業道が通じているが、冬期間の堆積物で路面状況が悪かったので、徒歩でアクセスし、まずは、駅跡から立山駅方に進んだ山腹にある真川神社に参拝。次いで、芦峅寺駅方に移動してホームが残る粟巣野駅跡を訪問した。
この駅跡には複数の施設遺構が残っているが、現役で活用されている施設もある。建物には特に表示はないが、粟巣野集落の温泉の源泉だという。
このほか、ゴンドラの遺構も残されていたが、これは、かつて存在した索道の跡で、駅とスキー場とを結んでいたらしい。
この探索の間、立山駅に向かう普通列車が粟巣野駅跡を通過していった。
駅の構内は山側だけでなく川側にも広がっており、探索すればそれなりに施設が見つかるのではないかと思うが、既に藪に覆われており、今回はそこまでの探索は実施していない。
真川橋梁を眺めながら真川を渡り、終着の立山駅には15時9分着。44.8㎞であった。














立山駅は1955年7月1日に千寿ケ原駅として開業した。その前年の1954年8月1日には仮駅として立山駅の名称で400mくらい下流に開業している。
立山駅への改称は1970年7月1日。
鉄道史で言うと富山地方鉄道時代の開業であったが、粟巣野駅開業からの期間中、小見~粟巣野駅間を立山開発鉄道が担っていた時期がある。
現状から考えれば立山駅の1歩手前で長く工事が停滞していたように見えるが、これは実際にはそうではなく、粟巣野駅開業当時、この粟巣野駅付近が左岸側の最上流集落であり、現在の立山ケーブルカーは存在せず、もちろん、立山黒部アルペンルートなどもなかったため、延伸する必要がなかったからである。
旧版地形図で見ると、粟巣野駅からは現在も存在する砂防軌道が延びているだけであった。
当時から登山の拠点としての利用はあっただろうが、その拠点集落が粟巣野駅周辺の集落であり、集落の住民や観光利用者もはこの粟巣野駅で乗降すれば事足りていたのであろう。
立山ケーブルカーの免許申請に関連手続きは1952年になされており、開業は1954年8月13日。この免許申請は立山開発鉄道の手によるものだ。
立山仮駅の開業は既に述べたように1954年8月1日であったから、千寿ケ原駅までの延伸開業は、この立山ケーブルカーの開業に合わせたアクセス路線としての意味合いでの開業だったことが分かる。
粟巣野駅の廃止は1988年7月1日のことであるが、それは、立山観光の拠点集落が現在の立山駅周辺の千寿ケ原地区に移ったことの帰結だったのであろう。
この日はまだ春の観光シーズン到来前。温泉がある宇奈月温泉駅とは異なり、アルペンルートへの入り口としての機能が強い立山駅周辺に観光客の姿は殆どなかったが、シーズン到来前の工事関係者やビジネス関係者の姿が見られた。
立山駅の写真を撮影し、自販機で水分補給をして15時17分出発。
いずれ、宇奈月温泉駅と立山駅との間を、黒部峡谷鉄道や登山を挟んで訪問してみたい。


立山駅からは覆道の多い降り基調の道を進む。
芦峅寺集落では雄山神社中宮祈願殿を参拝。
前立社壇では朝の静謐な空気が境内や参道を満たしていたが、中宮祈願殿では夕方の郷愁感ある空気に満ちていた。
千垣駅には15時57分着。52.6㎞。
この日は尖山登山も挟んだが、1日の日程としてはかなり余裕をもって終えることが出来た。難関だった芦峅寺駅跡の探訪も無事にこなせたので、満足感のある1日であった。
到着時、立山町のコミュニティバスが駅前に停車していた。
バスと言ってもライトバンであるが、駅に掲示されている時刻表を見ると、電鉄富山行きの到着時刻の前に駅にやってきて、立山行きの列車の出発時刻後に駅を出発するダイヤで、芦峅寺集落との間を結んでいるようだった。
このタイミングでは16時17分着の立山行きの列車からの降車客を待っている様子。
コミュニティバスの発着時間帯は駅の利用者が居ることも予測して、荷物や自転車は邪魔にならない場所でまとめておくことにした。



この時期の立山線岩峅寺~立山は昼間は減便されていて運行空白となる時間帯があるが、午後は14時台から運転が再開される。
次に到着する列車は16時17分発の立山行きで、以降、17時18分、18時20分、19時20分、20時20分、21時20分と続く。
対する上り列車では15時49分、16時56分、17時56分、18時59分、19時59分、20時59分。
比較的規則的なダイヤで、概ね、電鉄富山行きが出発してから20分程度で立山行きがやってきて、それが立山駅で折り返して40分前後で電鉄富山行きとなって戻って来るというパターンだ。
但し、立山行き21時20分の列車は対応する折り返し列車が無く、朝の始発列車は電鉄富山行きが6時22分発、立山行きが6時44分発となっていることから、立山駅で夜間滞泊して、翌朝の1番列車となって山を降ってくるものと予想される。
比較的早い時間帯に到着したので、千垣集落や芦峅寺集落の住民の利用があるだろう。
野宿の準備はコミュニティバスの最終便が出た後にする必要があるかもしれない。町営のコミュニティバスの最終便は19時21分発なので、それを待って野宿準備をすることとし、夕食は列車発着合間に素早く済ませることとした。
その上で写真撮影も実施。
千垣橋梁を渡る列車の写真撮影も行いたいので割と忙しい。
乗降があるとすれば立山行きからの降車と予想していたが、16時17分発の立山行きからの降車はなく、17時18分、18時20分それぞれから1名の降車があったのみだ。
うち1名は千垣集落の方に降っていった。
もう1名はコミュニティバスで芦峅寺集落に帰っていったように思う。
17時前後と19時前後の2回に分けて、千垣橋梁を通過する列車の撮影の為に、千垣橋梁に向かったが、上下列車の間合いも多少の間隔が空くので、そのタイミングで有峰口駅も訪れる。
千垣駅と有峰口駅との間は、営業キロで0.6㎞しか離れていないので、徒歩でも無理なく行き来できる距離だ。
こうして19時20分発の立山行きが千垣橋梁を渡るまでは駅周辺をウロウロして過ごし、それが過ぎてから千垣駅に戻った。
残すところ上下2本の発着があるが、ここまでの様子を見る限り、この日、この後で乗降はないだろう。
結局、20時20分の立山行きまで撮影し、残り2本の列車の発着を待たずに野宿の準備を整え、眠りに就くことにした。
















~ダイジェスト続く~


