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湯ノ峠駅:更新記録
| 公開・更新日 | 公開・更新内容 |
|---|---|
| 2026年4月26日 | コンテンツ公開 |
湯ノ峠駅:旅情駅探訪記
2000年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
湯の川、湯の滝、湯の峰、湯の山、湯の里、湯郷、湯本、、、。
こうした地名は全国に幾つも存在しているが、いずれも「湯」の文字通り、温泉や鉱泉に関連しており、全国的に知られた温泉郷を形成していることも多い。
しかし、近年はレジャー嗜好の多様化や個人主義の浸透、古びた施設や旧態依然とした経営による「温泉離れ」も加速しており、「温泉」が観光の起爆剤になるということはなくなっているように思う。
一軒宿の温泉ともなれば、元々経営状況が良くはなかったところに、経営者の死亡や災害被災、若しくは物価上昇やコロナ渦などによって致命的なダメージを負い、廃業していくという事例も多い。
SNSでの話題性や大資本による投資が相乗的に作用して独り勝ちに近い状況にある一部の温泉地もあるが、そういったところはインバウンド旅行者も集中して、情緒どころではない混雑を呈することも少なくない。
複数の旅館やホテルが立ち並んだ「温泉郷」が丸ごと廃墟と化した場所もあり、「旅情」の舞台装置はどんどん失われているように感じる。
そんな消えゆく旅情の舞台として、JR美祢線の湯ノ峠駅を忘れることは出来ない。
駅名からして旅情を醸し出すこの駅を初めて訪れたのは学生時代の2000年8月。
青春18きっぷを複数枚携えて、中国地方のJR路線全線乗車の旅を行った時のことだ。
この旅では今はなき可部線の三段峡駅も訪れ、鉄道事業の廃止が決定された美祢線も全線乗車した。
美祢線内では長門湯本駅、於福駅、湯ノ峠駅、美祢駅で途中下車したらしく、フィルム撮影した写真が残っている。この時は於福駅で野宿して道の駅の温泉を訪れたようだが、長門湯本駅や湯ノ峠駅にも温泉があることは、当時携行していたマップルにも掲載されていた。
まだ、インターネット地図がそれほど普及していなかった時代で、マップルが旅の計画や実行には欠かせなかったが、マップルの温泉記号は駅前野宿や途中下車の候補地を探すための目印だった。

湯ノ峠駅では5枚の写真を撮影していた。そのうち、縦構図で撮影していた1枚を除く4枚を、この探訪記で掲載することにした。
2000年当時の湯ノ峠駅の駅舎は2026年の再訪時とあまり変わらない。駅舎の入り口付近にある公衆電話は健在だったが、その横の樹木は伐採されてなくなっていたのが違いと言える。
この時は「湯ノ峠」の地名由来となった湯ノ峠温泉の岡田旅館も営業していて、昼下がりの岡田旅館を訪れ、日帰り入浴をお願いした。
午前中の農作業を終えて訪れたらしい地元の方が数名入浴されていたのを覚えている。
岡田旅館の前の坂道から湯ノ峠駅が遠望できるのも今と変わらず、ちょうど、厚狭方面に向かう普通列車が駅を発着するタイミングだったので、それを写真に収めていた。
当時の詳細な行動記録は残っていないのだが、長門市駅に向かう下り列車を2本乗り継ぐ形での湯ノ峠駅訪問で、その間に湯ノ峠温泉を訪れたものらしく、今となっては貴重な乗り継ぎ・途中下車体験であった。
南大嶺駅から分岐して大嶺駅に向かっていた支線が廃止されたのは1997年。
1990年代末から2000年代初頭にかけて、美祢線では優等列車の廃止や貨物輸送の廃止が続いており、路線の存在意義は薄れつつあったが、貨物輸送が全廃されたわけでもなく、幹線扱いだったこの路線が廃止されるとは全く思っていなかった。



2026年1月~2月(ちゃり鉄29号)
美祢線の再訪は2026年1月~2月にかけて。「ちゃり鉄29号」での訪問となった。
そう書けば26年ぶりの再訪という喜びを感じそうなものだが、この再訪は2023年の水害によって長期運休中だった美祢線の鉄道復旧断念とBRT復旧決定を受けてのものだ。
「ちゃり鉄29号」の実施計画段階ではBRTという形でとりあえずは存続が決まっていたものの、先行するBRTの事例を踏まえれば、やはりそれは「鉄道」とは異なるもののように思われるし、BRTとしての再開に向けた再整備で、既存の駅舎などは取り壊しの上、簡素な停留所に置き換えられることも想定される。
美祢線には創業以来の木造駅舎が多数残っていることもあり、それが現存するうちに路線を周っておきたくて、この機会に訪れることにしたのである。
そういう訳だから美祢線の訪問には力点を置いており、厚狭駅から長門市駅を経て山陰本線の支線扱いとなる仙崎駅までの走行を軸に、周辺の私鉄廃線跡の探訪と絡めて、湯ノ峠駅、長門湯本駅、渋木駅の3駅での駅前野宿を実施する計画とした。
列車の発着シーンを見ることは叶わないが、せめて、駅が駅としての機能を辛うじて保っているうちに、その姿を記録に留めておきたい。
湯ノ峠駅と渋木駅は、この旅で2回通っている。
その1回目は1月下旬。
前夜を過ごした長門本山駅付近の本山岬から、厚狭駅に向かい、長門湯本駅を目指す行程で経由駅としたのである。
厚狭駅から湯ノ峠駅に向かうためには、安直には厚狭川の左岸側を通る国道316号線を走るということになるだろうが、「ちゃり鉄」では途中にある鴨ノ庄信号場に停車していくこともあり、鴨庄集落から福正寺集落を越えて湯ノ峠駅に辿り着く右岸側のルートを経由した。
古い書籍にはこの道が国道であったことが記されているので、それらは地誌として文献調査記録で紹介する。
鴨ノ庄信号場付近には沓集落があり、福正寺集落までは林内のちょっとした登り勾配。
福正寺集落は厚狭川による低い河岸段丘面、若しくは、流れ込む支流の沖積低地といった感じの平地にある集落で、水田に民家が点在する長閑な里山風景が展開している。湯ノ峠駅を利用する主な集落の1つであろう。
この福正寺集落の北端に僅かな起伏があり、それを降り始めたところに湯ノ峠温泉として知られた岡田旅館跡の建物がある。「跡」と記したように既に廃業しており、再度の入浴は叶わない。
この温泉の起源についてはっきりしたことは分かっていないが、記録に残る範囲では、大正時代初期に中田繁太郎という人が温泉を掘り設備を整えたことが始まりであり、その中田繁太郎が中心となって土地建物などの一切を提供し、請願によって湯ノ峠駅が設置されたらしい。
これについても調査記録で文献の記述を紹介しよう。
この旅館跡の前にある坂道から湯ノ峠駅を俯瞰遠望することが出来る。
2000年8月にも写真を撮影したその場所から眺めると、休止からの3年弱の間にすっかり草生して、まるで廃駅のようになった湯ノ峠駅の構内が見渡せる。
よく見ると、手提げを携えて坂道を降っていく高齢女性の姿もある。
この湯ノ峠駅は美祢線全線の休止に伴う鉄道代行バスが駅前に入ってくることが出来ないという道路事情もあって、代行バスを通過させるとともに、厚狭駅との間で代行タクシーが運行されていたのだが、その代行タクシーに乗る方なのだろう。
というのも、遠目に見ても余所行きの身なりに見えたからだ。
もし、湯ノ峠駅から長門方面に行くという旅客がいた場合、この代行はどのように運用されていたのかが気になるが、実際には湯ノ峠駅から代行タクシーで厚狭駅に向かい、厚狭駅から代行バスで長門方面に行くという手段しか用意されていないようであった。
果たして、その高齢女性を追い抜いて湯ノ峠駅に到着してみると、駅には代行タクシーが停まっていて客待ちをしていた。
オンデマンドでの運行ではなく、乗客の有無に拠らず決まったダイヤで厚狭駅との間を往復しているようであった。




湯ノ峠駅の駅前にも小さな集落があるが、この集落は駅が設置された後に形成されたものだという。
駐車場の向かいには厚狭川漁協の鑑札受所の札が掲げられた民家があり、2012年3月31日まで切符の委託販売も扱っていたらしい。湯ノ峠駅の無人化は1985年2月1日のことだった。
駅の厚保駅方にある立石踏切まで行き、そこから構内を眺めると、草叢に覆い尽くされた構内は既に廃線同然の様相を呈していた。線路は残っており信号も点灯しているものの、もう二度と、ここに鉄道が走ることはない。
それは物悲しく寂しい光景ではあったが、美祢線そのものが廃止されたわけではないので、駅名標もそのままで駅舎への立ち入りも禁止されていない。それがせめてもの救いと言えようか。
代行タクシーが先ほどの高齢女性1名を乗せて走り去ったのを見計らって、駅舎の方に戻る。


湯ノ峠駅の駅舎は1921年2月10日の開業以来の駅舎で、外壁の改修などは行われているものの、全体的な造りは維持されているようだ。昭和時代の駅舎を撮影した古い文献と比較しても、大きな構造の変化は見られない。
駅舎の入り口や改札口には土嚢が積まれており、改札口からホームへの階段部分には規制線が張られていて、ホームや跨線橋に入ることは出来なくなっていたが、駅舎の内部は綺麗に整理、清掃されており、荒れた雰囲気はなかった。
代行タクシーが運転されていて駅としても営業中だからということもあるだろうが、やはり、駅を維持管理する地元の方の愛着というのも感じられる。
自動車社会の今日にあって、地元の方でも、中高生や高齢者を除く大半は自家用車での移動となり、鉄道を利用する人はごく僅かであることは否めない。まして過疎地ともなれば、何をするにも自家用車が必要不可欠であり、ローカル線が人々の生活そのものを支えるインフラとして機能していないことも事実だ。
それでも、駅を管理している人々の姿を見るにつけ、自分たちの生まれ育った集落にある駅への愛着を感じずには居られないのである。
自分自身が子供の頃にはこの駅から汽車に乗ったという思い出のある方もいるだろうし、大人になって家族を持ってからは子供たちの通学で送り迎えをしたという方もいるだろう。子供たちが成長して地元を離れる時にはこの駅で見送ったという人も居るだろう。
鉄道には乗らなくなっても、その鉄道の駅には思い出があり愛着がある。
そんな人々も少なくないに違いない。
それでも経済的合理性の前では、「赤字路線など廃止にしろ、誰も乗降しない駅など潰してしまえ」、ということになってしまう。私はそれを否定も批判もしないが、率直に言って、淋しく冷たい社会だと感じている。
それはさておき、出札窓口や荷受窓口も往時のまま残されている待合室の雰囲気は、昭和の郷愁感が溢れ、懐かしくホッとする情緒に満ちていた。
駅が無人化される時、駅業務の窓口はベニヤ板などが打ち付けられ閉鎖されてしまうことが多いだけに、こうしてそのままの姿で40年以上も維持されているというのは、珍しくもあり、また、有難くもある。


待合室を辞して駅舎を眺めてみる。
駅舎そのものは前回の2000年8月の訪問時と変わらぬ佇まい。
水害によって浸水したのか、或いは、雨水が流れ込むのか、入り口付近に積まれた土嚢が気になるものの、外回りも荒れた雰囲気はない。
今ではほとんど用をなさないと思われる公衆電話も健在だが、何時の頃からか、公衆電話に備え付けられていたタウンページもなくなり、誰かが使っている姿も滅多に見かけなくなった。
いつの日か、「日本に残る最後の公衆電話機」が生じて、産業遺産になったりする日も来るのだろうか。
この日の訪問は9時50分から10時までの10分間。出発してから27.5㎞地点で日程の序盤であった。
瀬戸内海沿岸の本山岬から中央分水嶺を越えて日本海側の長門湯本駅に向かって駅前野宿の後、明日は、そこから長門市、仙崎、と巡った後、再び中央分水嶺を越えて秋吉台、船木鉄道跡を経て宇部経由で湯ノ峠駅に戻ってきて駅前野宿の予定。
名残惜しいものの、明日の夜から明後日の朝にかけては駅前野宿で再訪できるということもあり、この日は予定どおり10分の滞在時間で出発することにした。


翌日の夕方には予定通り湯ノ峠駅を再訪した。
この「ちゃり鉄29号」では山口県内の鉄道路線を中心に巡ったのだが、1日で日本海側と瀬戸内海側とを往来する行程も多く、終盤は3日連続で中央分水嶺越えの行程となった。
この日は、長門湯本駅から長門市駅までの美祢線区間を走り切って、美祢線の「ちゃり鉄」を終了した後、美祢線とも関係の深い山陰本線の仙崎支線に沿って仙崎駅を訪ね、山陰本線の長門大井駅付近から山中峠で分水界を越えて瀬戸内海側に戻ってきた。
美祢線沿線の分水界は於福~渋木間にある大ヶ峠である。
なお山中峠も大ヶ峠も「峠」は「たお」と読ませており、中国地方に多い読み方である。
「峠」の読みとしては他に「たわ」もあり、この場合「乢」という漢字が充てられているケースもある。
「湯ノ峠」の場合は「ゆのとう」。同じ山口県内の山陰本線には「梅ヶ峠」と書いて「うめがとう」と読む駅があるが、「峠」に「とう」という読みを当てている事例も西日本中心に複数存在するようだ。
再訪のこの日は途中で大正洞や秋芳洞観光を経て湯ノ峠駅到着は17時2分。96.7㎞となった。日没時刻の前には到着することが出来たので、暮れなずむ湯ノ峠駅と対峙することが出来る。
これが最初で最後の駅前野宿となる可能性が高いが、そのひと時を記憶に刻み込みたい。
この湯ノ峠駅の付近にも山腹に向かって展開する駅前集落が形成されているので、到着後、「部屋着」に着替えを済ませて集落を散策してみる。
駅前集落には廃屋も目立つが、その廃屋の横を急傾斜で登っていく舗装道路を登り詰めると、そこに小さな祠があり、付近には鳥居もある。
この神社は国土地理院地形図には表示されていないし、google Mapなどにも情報は掲載されていない。それ故、全くノーチェックだったのだが、神社が近くにあるならやはり表敬訪問していきたい。
祠には観音像のような石像が祀られていたが、特に扁額などがあるわけでもなく、どういう信仰によるものかは分からない。
隣接する鳥居には「大正十三年三月吉日」の刻印があったが、この鳥居に刻まれた扁額も灌木に遮られてよく見えなかった。
この鳥居の先に社殿があるものと思って登っていくと確かに建物があったのだが、扉を開けてみると古いマンガ本などが山積しているだけの物置だった。
さらにその先に登ってみると、結局、舗装路と合流する形で参道らしい道型は途切れ、その先に「白玉稲荷」と鳥居と社殿があったので、そこをお参りしていく。
鳥居の前にある狛狐は砕石会社が奉納したもののようで比較的新しく、その経営者一族らしい人の名前が連名で刻まれていた。
一帯には特に立ち入りを制限するような看板などは設置されていなかったものの、どうも私有地のような雰囲気。
書籍などを調べてみた範囲では特段の情報はなかったが、駅前の集落は駅の設置と共にできたということは文献に記されており、神社の鳥居に刻まれた「大正十三年」という記述も、概ね湯ノ峠駅の開業時期と一致している。
駅前集落が形成された時期に祀られた神社ということになりそうだが、現時点では詳細は分からない。




神社を辞して湯ノ峠駅に戻って来ると、駅の構内照明が灯っていた。
既に廃駅のような姿となった湯ノ峠駅ではあるが、こうして照明が灯る様を見ていると、ここがまだ、駅としての機能を果たしていることを感じもするし、列車が行き交った往時の姿を辛うじて留めていることを実感する。
これが廃駅ともなれば、照明が灯ることはなく、夜間は廃墟のような佇まいを呈して野宿地とするのもあまり心地よくないケースが多い。
夜の駅に発着する列車のテールライトを眺めるのが好きなのだが、それはもう叶わないにしても、こうして来るはずのない乗客を待って、孤独に佇む湯ノ峠駅の姿と対峙できたのは良かったと思う。


散策がてら、もう一度、湯ノ峠温泉跡を訪れてみた。
温泉旅館としては廃業したものの、住民はまだこの地に居住されているようで、隣接する家屋にも明りが灯っている。
暮れなずむ山里で家々の窓から漏れてくる明りを眺めつつ、独り、野宿の夜を過ごすのは物寂しくもあるが、旅情極まるひと時でもある。
昨夜、駅前野宿で訪れた長門湯本温泉では、大手企業の参画による活性化が進められており、長年親しまれてきた公衆浴場である恩湯も新しい施設に建て替えられていた。
この活性化プロジェクトに関しては賛否両論あって、情緒が失われたという指摘もある。
私自身もかつての恩湯や温泉街の情緒とは異なるものを感じたのは事実だが、一方で、インバウンド旅行者や若いカップルが温泉街を歩いている姿を見ると、「情緒」の感覚そのものも時代と共に変遷していくことや、その変遷に馴染めないものは衰退していくということも、ある意味納得できる。
湯ノ峠温泉は末期は地元の方を中心とした日帰り入浴施設となっていて、旅館としての営業は行っていなかったようだが、その日帰り入浴だけでは経営は成り立たないであろうし、この地で旅館経営をするということもまた、極めて難しいことだろう。
「古き良きもの」が失われていくように感じることが多くなったが、それもまた、時代に取り残されつつある私自身の老いのせいかもしれない。





旅館前を辞して駅に戻る道すがら、道路脇の山腹の一段低いところにある湯ノ峠湧水にも立ち寄った。
湯ノ峠温泉が温泉だったのか鉱泉だったのかに関して、古い文献では記載が分かれるのだが、最近の情報では鉱泉だったとの記載になっている。この湯ノ峠湧水の水は触ってみるとほのかに温かみを感じる程度の水温。湧水にありがちなキンキンに冷えた手触りではなかったのだが、湯ノ峠温泉で湧き出していたものと水源は同じなのかもしれない。これについては調査記録でまとめよう。
湧水の脇には祠が祀られており、地元の方によって維持管理されているようであった。
さらに降ると湯ノ峠駅構内の空き地が右手に広がる。
今では雑然とした草叢になっているが、車道側には側線、厚狭川側には本線があって、鉄路としては繋がった状態を維持している。
記録によると湯ノ峠駅で貨物扱いは行われたことがないので、この草叢に眠る側線は貨物用の側線ではないと思われるが、敷地の広がりや本線との関係を考える安全側線とも思われず、保線車両などが入り作業資材の積み下ろしなどを行ったことはあるのかもしれない。
駅に戻ってくる頃には夜の帳が辺りに降りてきていた。



時刻は17時30分を過ぎた頃合い。
駅に到着してからの30分ほどを、周辺散策で過ごしたことになる。
駅には代行タクシーの運行時刻表も掲出されていたが、この時間帯は代行タクシーの発着もないようなので、手早く駅前野宿の準備と夕食を済ませることにした。
夕食と言ってもパスタを茹でてソースで和え、茹で汁で粉末スープを溶き、スーパーで買った生野菜と総菜を並べるだけなので、準備から食べ終わりまで30分もあれば充分である。
食器類は水洗いできないことが多いので、最後はパンで拭き取って食べ除菌タイプのウェットティッシュで仕上げる形。
これで30年。一度も食中毒や下痢などは起こしていない。
SNSに投稿するための「ソロキャンプ」ではないし、これが自分の旅に一番合ったスタイルでもある。
食事を終えて少し休憩し18時30分頃になって駅前に戻ってみると、既にとっぷりと暮れていた。この間、駅前の民家の方が駅前広場に車を駐車していたが、それ以外に人の出入りはなかった。
次の代行タクシーが来るのを見計らって一旦駅を離れ、厚狭川の対岸から駅の様子を撮影する。
途中、立石踏切や橋上からも駅を眺めるが、草叢が闇に紛れて見えなくなる分、夜景の方が現役の駅としての姿をはっきりと見ることが出来る。
何処からともなく「タタン、タタン」と列車の走行音が聞こえてきて踏切の警報機が作動し、エンジン音と制動音を響かせつつ列車が停車しそうにも見えるが、勿論、もう二度とその風景を見ることは出来ない。
それもで、こうして湯ノ峠駅の夜の姿と対峙することが出来たのは嬉しい。
代行タクシーが再び厚狭駅に向かって走り去ったのを確認して駅に戻る。
戻りがてら、上り線のホームを覗いてみると、来るはずのない乗客を待ち続けるベンチと駅名標の孤独な姿を、駅の照明が優しく照らしていた。
湯ノ峠駅は厚狭駅から1駅目ということもあり、元々の列車発着数は決して少ないわけではなく、代行タクシーも夜遅くまで運行されているようではあったが、この時間帯に入ると利用者は居ないので、この日の行程の整理を済ませたら駅前野宿の寝床に入って眠ることにした。





翌朝。
まだ、辺りが夜の空気に包まれている時刻には起き出して駅前野宿の片付けと朝食を済ませる。朝食は数個の総菜パンとインスタントのホットコーヒー。手軽に済ませられるのと、普段の食生活に近いということもあって、最近は専らこのスタイルである。
たまにキャンプ場などを使うと、いつも自分が一番早くに行動し始めるし、他の人が起き出す前に出発してしまうことも多い。
そこに特別な意図があるわけではなく、駅前野宿の場合、5時台には始発列車が発着することもあるので、その30分くらい前までには、野宿の片付けと食事を終えておくという「ちゃり鉄」の生活スタイルに、日程全体を合わせている結果である。
「旅の時だけ早起きし直ぐにハードな走行に入る」というパターンだと、身体への負荷が気になるので、普段の生活もこの「ちゃり鉄」のスタイルに合わせ、早朝に起床し出勤前にトレーニングを済ませるようにしている。
そういう生活にどれだけの効果があるのかは分からないが、トレーニング効果もあって、50代目前にしてフルマラソン3時間を切れる体力を維持できているのは確かだし、それくらいの体力がないと「ちゃり鉄」を走り切ることが出来ないのも事実だ。
この時期の日の出は7時15分前後だったが、6時半を過ぎる頃には空が白み始めて朝の気配が漂ってくる。とは言え、駅は明りが灯ったままで、まだ集落と共に眠りの中に居た。

駅舎を出て立石踏切辺りまで散策しつつ、写真を撮影する。
東の空は徐々に群青色から赤紫色に変化しつつあるが、踏切から眺めた駅構内はまだ、夜の大気の底で眠っていた。
ホームの駅名標やベンチも孤独に佇んでいる。
駅舎に戻ってこの日の行程を確認しつつ、再度、駅舎の内部の撮影も行う。
15分くらい駅舎に滞在するうちに辺りはヘッドライトが要らないくらいに明るくなっており、小綺麗に片付けられた駅舎の中にも、朝の気配が漂ってきてはいたが、構内照明の灯る駅はまだ、眠たげな表情のままだった。
出発は7時3分。ほぼ予定どおりの時刻である。
集落はまだ起き出しておらず、駅前の道路を通る原付や車も見かけないが、対岸の国道を通る車の気配はあった。
出発直後の朝一の行程では、湯ノ峠駅から鴨ノ庄信号場付近まで引き返し、そこから西進して談合峠を越え、長門鉄道の起点だった小月駅を目指す。
最後に湯ノ峠温泉の坂道からもう一度駅を眺めて、この旅情駅に別れを告げた。









