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ちゃり鉄32号:旅の概要
「ちゃり鉄32号」では道南の渡島半島の鉄道路線や廃線・未成線跡と奥尻島の探訪を行った。
走行した路線は道南いさりび鉄道道南いさりび鉄道線、函館市企業局交通部本線・大森線・湯の川線・宝来・谷地頭線といった現役路線をメインとして、JR松前線・江差線、国鉄戸井線、渡島海岸鉄道鉄道線、大沼電鉄鉄道線といった廃線跡、未成線跡も巡った。
計画段階では青函ゾーンに跨る旅や瀬棚線訪問も検討したが、広域になり過ぎたため渡島半島周辺に限ることとなった。
駅前野宿は赤井川駅と渡島砂原駅で計画通りに実施することが出来た。
旅程は道内行程のほぼ全てが曇雨天で、スカッと晴れ渡る日は1日もなかった。出発前からそういう予報が出ていて、旅の間中、好転することはなかったし、渡島駒ケ岳や恵山への登山は雨で中止となるなど、天候にはあまり恵まれない旅路となった。
- 走行年月
- 2026年7月~8月(前夜泊11泊12日)
- 走行路線
- 私鉄路線等:道南いさりび鉄道道南いさりび鉄道線、函館市企業局交通部全線
- 廃線等:JR松前線・江差線、国鉄戸井線、渡島海岸鉄道鉄道線、大沼電鉄鉄道線
- 主要経由地
- 渡島半島、奥尻島
- 立ち寄り温泉
- 知内こもれび温泉、吉岡温泉、松前温泉、松の湯、神威脇温泉、花沢温泉、湯の川温泉永寿湯、鹿部温泉鹿の湯、濁川温泉新栄館、川汲温泉旅館、水無海浜温泉、ゆったり館とどぽっくる、谷地頭温泉
- 主要乗車路線
- JR山陰本線・播但線・山陽本線・東海道本線・東北本線・常磐線・東北新幹線・北海道新幹線・函館本線
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:932.2km/総累積標高差+16508m/-16500m
- 0日目(自宅≧姫路≧寝台特急「サンライズ出雲」)
(ー/ー/ー) - 1日目(寝台特急「サンライズ出雲」≧東京≧仙台≧木古内=渡島知内-イカリカイ駐車公園)
(21.8km/+154m/-154m) - 2日目(イカリカイ駐車公園-…矢越岬…-渡島知内=渡島福島-岩部-渡島福島=松前-松前公園)
(96.5km/+2314m/-2271m) - 3日目(松前公園-松前=原口-上国鉱山跡-鴎島)
(99.1km/+2227m/–2268m) - 4日目(鴎島-…笹山稲荷神社…-江差港~奥尻港-青苗岬-北追岬)
(61.2km/+1476m/-1476m) - 5日目(北追岬-稲穂岬-奥尻港~江差港-江差=上ノ国-夷王山キャンプ場)
(81.3km/+2440m/-2281m) - 6日目(夷王山キャンプ場-上ノ国=木古内=五稜郭=函館・函館駅前=湯の川-湯浜公園)
(111.7km/+1074m/-1242m) - 7日目(湯浜公園-仁山-森=砂原-鹿部=大沼公園-赤井川)
(120.7km/+1472m/-1334m) - 8日目(赤井川-大沼小沼-濁川温泉-渡島砂原)
(108.1km/+1510m/-1621m) - 9日目(渡島砂原-川汲温泉-恵山岬-恵山つつじ公園)
(95.1km/+1935m/-1884m) - 10日目(恵山つつじ公園-御崎-戸井=五稜郭-立待岬)
(69.3km/+1177m/-1231m) - 11日目(立待岬-谷地頭=十字街-…穴澗龍神社…-函館どっく前=函館駅前-函館≧長万部≧小樽-小樽港~新日本海フェリー)
(25.4km/+241m/-272m) - 12日目(新日本海フェリー~舞鶴港-自宅)
(42km/+488m/-466m)
- 0日目(自宅≧姫路≧寝台特急「サンライズ出雲」)
- 総走行距離:932.2km/総累積標高差+16508m/-16500m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄32号:走行ルート


ちゃり鉄32号:更新記録
ちゃり鉄32号:ダイジェスト
「ちゃり鉄32号」では道南の渡島半島の鉄道路線や廃線・未成線跡と奥尻島の探訪を行った。
走行した路線は道南いさりび鉄道道南いさりび鉄道線、函館市企業局交通部本線・大森線・湯の川線・宝来・谷地頭線といった現役路線をメインとして、JR松前線・江差線、国鉄戸井線、渡島海岸鉄道鉄道線、大沼電鉄鉄道線といった廃線跡、未成線跡も巡った。
青函ゾーンを跨いで瀬棚線や弘南鉄道各線、津軽線なども訪問することを検討してみたが、範囲が広くなりすぎて日程的に厳しかったため、渡島半島と奥尻島に走行対象エリアを限定した。
渡島半島の松前方面や奥尻島は約20年ぶり、恵山方面は約30年ぶりの訪問ということもあり、期待に胸を膨らませての旅立ちだったのだが、出発前から「旅程全てが雨と曇りの長期予報で晴れ予報は1日もない」という状況が続いており、実際現地でも「今年は蝦夷梅雨だよ」と地元の方が仰るくらい連日曇雨天が続いて、夏らしい天候には殆どお目にかかれなかった。
渡島駒ケ岳、恵山の登山計画も組み込んでいたが、これらの予定日は行程中でも最も本降りの雨に見舞われて計画中止。
離道当日の昼前になって道南も晴天が広がったが時既に遅し。普通列車の車窓からその風景を眺めるだけだった。
それでも、旅程序盤のイカリカイ、鴎島、北追岬、夷王山のキャンプ場での青空キャンプに際しては、晴天とはいかないまでも、雨に降られずに済んだのは幸いだったと言えるかもしれない。
駅前野宿は赤井川駅と渡島砂原駅。
赤井川駅は2022年の「ちゃり鉄17号」でも駅前野宿をしたのだが、今回も駅前野宿地に選んだ。ただ、残念ながら来春に向けての存廃協議に入っており、これまでの経緯を見ても廃止は免れないであろうから、これが現役時代最後の訪問となるのだろう。
渡島砂原駅も「ちゃり鉄17号」で訪れているが、駅前野宿は今回が初めて。
この駅の初訪問は1997年の夏で、思い入れのある駅なのだが、これまで駅前野宿の機会がなかった。北海道新幹線の札幌開業に伴って砂原線などは旅客営業廃止となる公算が大きいので、今回の旅でも是非とも駅前野宿を行いたかった駅である。
いずれの駅でも天候が悪く雨がちであったし、赤井川駅では猛烈な蚊の襲撃にあって写真撮影もままならなかったが、これらの駅の「旅情」を写真に収められたのは良かった。
ちゃり鉄32号:0日目(自宅≧姫路≧寝台特急「サンライズ出雲」)
出発日は終業後に駅まで送ってもらい、そこから山陰本線経由で北海道とは真逆の和田山駅に向かって出発する。
最近、寝台特急「サンライズ」で関東入りする際は、大阪駅ではなく姫路駅から乗車するようにしているためだ。
運賃は少しだけ高くなるのだが、乗車が1時間早くなることのメリットと運賃が高くなることのデメリットを天秤にかけた結果、前者のメリットを採ることにしたのである。
僅か1時間とは言え、日が変わる前に横になることが出来るのは、翌日以降連日で走り詰めることを考えると重要な違いである。尤も、寝るのが勿体なくて遅寝早起きになるので、どちらにせよ睡眠不足で旅が始まることには変わりないのだが。
福知山駅を終業後に出発して関西圏からサンライズに乗車するためには、他に三ノ宮駅に出るというルートもある。これも面白そうなのだが、このルートはJRだけでは完結せず私鉄の乗り継ぎが必要となるし、運賃や乗車時間の都合上、大荷物を抱えた「ちゃり鉄」の旅での選択肢には入れにくい。
この日は当初は19時38分発の豊岡行き普通列車で出発する予定だったが、伴侶に駅まで送ってもらうことが出来たので、1本早い18時32分発の豊岡行きに乗車することが出来た。姫路駅からの寝台特急への乗車時間は変わらないが、移動に1本分の余裕が出来るのは気持ちの上でもよい。
普段なら通学生で混雑する列車だが、この日は夏休みということもあり駅も車内も静かだった。
京都丹後鉄道のホームには元JR東海のキハ85形車両が出発待ちをしている。この車両での旅は学生時代に何度か経験しているが、当時は新型車両だったものが既に引退して余生を送っていることにはある種の感慨を禁じ得ない。
そんな福知山駅の風景を眺めながら、入線してきた豊岡行きの普通列車に乗車して福知山18時32分発、和田山19時14分着。


ここで播但線の普通列車に乗り換えるのだが、全国的に貴重になりつつあるキハ40系の気動車に乗車できるのが、このルートの楽しみでもある。
ところが駅に降り立ってみると、見慣れないラッピングの車両が停車しているではないか。
これはキハ40系気動車を観光列車に改造した「うみやまむすび」という車両で、播但線の寺前から和田山駅を挟んで浜坂駅までの間で運用されているらしい。
車内は座席配置などが大幅に改良されており、山陰本線で海に面する側の座席は窓に向かって配置されていたりする。知らなければ、乗車してよいのか迷うところだが、勿論、寺前行きの普通列車なので乗車券のみで堂々と乗車してかまわない。
そんな観光列車には通学生や通勤客が僅かばかり乗車して出発待ち。
福知山からの遠距離通学生が居て、この時刻の播但線に乗り換えて生野界隈までの沿線小駅で三々五々、下車していく姿を見かけることも多いのだが、この日は、通勤客の姿の方が多かった。
暮れなずむ和田山駅は19時37分発。


出発して直ぐに真っ暗になったので、折角の観光列車にも関わらず車窓風景は楽しめなかったが、キハ40系らしい重厚なエンジンの唸りが、窓の外に展開している里山風景を思い起こさせてくれる。
途中、新井から生野にかけては、生野峠の長い登り坂を喘ぎ登っている様子が、エンジン音からひしひしと感じられる。窓の外には播但連絡道路を行く車のライトが時折流れていく。
生野峠のトンネルでサミットを越えてそのまま生野駅に滑り込むと、反対側には豊岡行きの特急「はまかぜ」が停車している。「はまかぜ」なのに海岸付近を走るのは須磨海岸だけとなった短縮「はまかぜ」だが、見た所、乗車率ゼロで惨憺たる有様に感じられた。
この時は気にも留めていなかったが、この日の「はまかぜ」に乗客が居なかったことには、重要な理由がある。それは寺前駅に着いてから判明するのである。
駅前野宿で訪れたことのある長谷駅を経て寺前駅には20時30分着。
ここで20時38分発姫路行きの電車に乗り換えなのだが、到着時には車両の姿が見えず遅延しているようだったので、一先ずホームに荷物を置いて折り返し和田山に向かう「うみやまむすび」を撮影する。
ところが、この撮影を行っている合間に構内放送が入り、「野里駅で車両故障が発生したため寺前~姫路間で全線運転を見合わせている。運転再開の見通しは立っていない」という旨の告知がなされて愕然とする。
姫路駅からの「サンライズ」での出発は23時33分。残り時間は3時間である。
ここから姫路駅まで通常のダイヤで50分弱かかる。姫路駅構内では播但線専用ホームから構内改札を抜けて山陽本線ホームに移動することになるし、明日朝の朝食も仕入れておきたいので、少なくとも10分は余裕が欲しい。となれば、実質的には残り2時間以内に寺前駅を出発できなければ、サンライズへの乗り継ぎが出来ないことになる。
乗換えに間に合う列車は本来のダイヤ通りであれば、20時38分発と、21時42分発。
現時点で運転再開の見通しが立っていないなら、20時38分発の列車が数分程度の遅れで駅にやって来る可能性はなく、21時42分発の列車は運休になる可能性もある。
慌ててネット情報を調べると、野里駅での車両故障は夕方17時頃に発生しており、寺前駅到着の時点で既に3時間以上経過しているにもかかわらず運転再開の見通しが立っていないのだから、かなり重度の故障なのであろう。
生野駅ですれ違った「はまかぜ」に全く乗客が居なかった理由もこれで分かった。
この日の「はまかぜ」は播但線の車両故障によって寺前~大阪で運休しており、先の「はまかぜ」は山陰方面からやってきて寺前駅で運転打ち切りとなり、折り返し山陰方面への「はまかぜ」となって運用されていたのである。寺前始発の「はまかぜ」となったわけで、乗客が居なかったのも当然である。
更に具合が悪いことに、寺前駅は営業終了の時間帯に入っており駅には職員が居らず、姫路駅を管轄するJRのお客様センターも営業時間外で、この時間は倒木発見などの緊急通報しか受け付けていない旨、駅の掲示物が告げている。
試しにお客様センターにかけてみても、当然、「只今の時間は営業時間外である」旨の自動放送が流れるばかりで、結論を言えば問い合わせ先はなかったのである。
JRの職員は折り返し和田山に向かう普通列車の運転士だけなのだが、この運転士に事情を話して状況と連絡先の有無を尋ねるも、状況はネットで確認するしかなく、この時間、直通の連絡先はないという回答は同じだった。サンライズに乗り継ぎになるからダメならキャンセルになる点を相談したが、運転再開を待つよう指示されただけだった。運転再開しなかった場合や運転再開しても乗り継げなかった時にどうなるのかは、姫路駅で聞いてくれと言われたが、現時点で姫路駅に連絡する手段はない。姫路駅に業務連絡を入れたりするような対応はしないらしい。
こういう時にイライラしたり職員に詰め寄ったりしても仕方ない。
ダメならダメなのだ。
そう諦めて、構内の撮影を行ったり近くの踏切から撮影を行ったりしているうちに、和田山行きは出発していった。これで、旅を中止してこの日のうちに福知山に戻る選択肢が消滅したことになる。というのも、この列車が和田山で山陰本線に乗り換えて福知山に帰ることが出来る最終列車だったからだ。
もし、このまま運転再開しなければ寺前駅で野宿をすることになるし、運転再開してもサンライズに間に合わなければ、やはりどこかで野宿することになる。
そうなると、結局、翌朝に福知山に帰って「ちゃり鉄32号」は終了。
そういう結論に達していた。
「ちゃり鉄」の旅では頻繁にトラブルに遭遇するので、もはや「恒例行事」。以前ほど動揺することはなくなったが、出発して2時間も経たない間に旅を中止する可能性に直面したのはこれが初めてであった。
そういえば、昨年の夏の「ちゃり鉄27号」では大阪から特急「はまかぜ」・「スーパーおき」を乗り継いで山陰海岸の旅を楽しんだのち、九州に入って日田彦山線の採銅所駅に向かうという初日行程で、鳥取駅から乗り込んだ特急「スーパーおき」が米子駅で運転打ち切りとなったのだった。あの時は少し先の線路に自動車が転落したことが原因。
特急「やくも」も運転されている区間なので、出雲市駅までは代行バスが手配されていたが、出雲市以遠に向かう乗客への代行手段は用意されていなかったし、代行バスで新山口まで行くのも現実的ではなく、自転車がある私は乗車も難しかっただろう。
最終的には、伯備線回りで岡山に出てそこから新幹線で新山口までいく迂回ルートでの振替輸送を便宜的に認めてもらったのだが、それにしても「確認します」と言われただけで回答がなく、米子駅で運転打ち切りになった出雲市行き特急「やくも」が折り返し岡山行きとなって出発する直前に、窓口で直訴してようやく許可を取り付けたのであった。その列車に乗れなかった場合は、やはり、同様にその日のうちに目的駅の採銅所駅に到着できなくなる可能性があった。
猛暑日であったが、運転打ち切りで行き場を失い足止めを食らった乗客には「ホームでお待ちください」というアナウンスがなされていた記憶がある。
そんなことを思い出しながら、ある意味、「ちゃり鉄」らしいエピソードだと感じていた。
21時を回って他の乗り継ぎ客もホームで待ちぼうけする中、缶コーヒーを飲みながらSNSで調べてみると「運転再開」の情報が入ってきた。JR公式情報や構内放送は未だ「見通し立たず」だったのだが、やがてJR公式情報にも20時45分頃に運転再開とのアナウンスが出始め、位置情報アプリをインストールして確認すると列車位置を示すアイコンが動き始めた。
但し、遅れの影響もあるのか、途中駅からアイコンが動かないようになったりして、姫路からの列車もなかなか寺前駅にやってこない上に、先頭の列車は数駅手前で長時間止まった挙句、姫路駅に引き返していった。



そうこうしているうちに、和田山駅からの普通列車がやってきた。21時30分。
この列車は当初予定していた列車で、この列車から姫路行きに乗り継ぐと、サンライズの出発には1時間程度の余裕をもって姫路駅に到着することになるのだが、そうは言っても、播但線回りの乗り継ぎではこれが最終列車でもある。
4~5人の乗客が降りてきて、1人は改札から街に出て行ったが、他の乗客は乗り継ぎ列車が無いことに戸惑った様子を見せつつ、ホームに留まっていた。
私が乗車してきた列車もそうだったのだが、寺前から姫路までの間で夕方以降運転見合わせが続いていたにも関わらず、寺前駅到着前にそれに関する車内放送は一切なかった。
本来の乗り継ぎ列車は21時42分発。これが姫路駅に到着するのが22時25分で、サンライズの乗り継ぎには1時間強の余裕があるため、姫路駅で軽食を購入したりする時間を確保できる計画なのだが、もちろん、乗り継ぎ列車は遅れていて21時42分には間に合わない。
動き出していることは確かなようなので、あとは、寺前駅を何時に出発することが出来るかの問題。最悪、22時半までに寺前駅を出発し、姫路駅までの間を普通の所要時間で走ってくれれば、乗り継ぎ自体は出来そうな状況だったし、先ほど折り返していった列車の後続列車が、2駅ほど隣まで進んできていたので、寺前駅までやってくることは間違いなさそうではあった。
駅の構内放送は未だに「運転再開の見込みは立っていない」と繰り返している。公式の情報は実に錯綜し混乱していたが、これはJR他社でも同じで近年の「ちゃり鉄」では複数回経験している。
結局、折り返し列車は21時50分過ぎに到着。21時42分発から10分程度の遅れだったので、姫路駅からの乗り換えには間に合いそうだった。やってきた列車からは足止めを食らっていたらしい大勢の乗客が疲れた表情で降りてきて、ごく一部は折り返しの和田山行きに乗り継いでいた。
列車は21時55分頃に寺前駅を出発。回復運転をしているのか、随分飛ばしている印象もあった。
途中駅では運転見合わせによって滞留していた利用客も居たはずだが、既に先行する上下列車がそれらを吸収したらしく、多少のダイヤの乱れはあったものの、駅や車両の混雑は収まっていた。もちろん、この列車は一般的な動線とは逆向きの姫路行きなので、乗客の姿は少なかった。
姫路駅には22時42分頃に到着。
当初の計画では22時25分着予定。車両故障がなければ「うみやまむすび」の普通列車からの乗り継ぎで21時25分到着予定であった。
危機的な状況ではあったものの、結果的には計画比で17分遅れに収まったのだから、不幸中の幸いと言うべきか。
「ちゃり鉄」は傍から見ると「楽しそう」に見えるらしいが、トラブルが発生したり体力的にきつかったりで、案外、「心身修行」の要素がある。それにしても、このようなトラブルが発生するとなると、播但線回りも安全とは言い難い。今後の検討課題ではある。
到着した姫路駅の播但線ホームは既に混雑も収まっており、父子が写真撮影をしているなど、ほのぼのとした雰囲気。改札内のコンビニで翌朝の朝食を仕入れ、ホームの蕎麦屋で小腹を満たし、定刻にやってきた寝台特急「サンライズ」に乗車してノビノビ座席に収まって、やっと人心地ついた。
数年前まで、サンライズのノビノビ座席は確保することが難しい切符だった。一部の国のインバウンド旅行者らしい集団が大きなスーツケースで通路を埋め尽くしていることが多く、割安のノビノビ座席は真っ先に押さえられてしまうことが要因の1つだったように思う。
それが昨今の社会情勢の変化を受けて変化し、今回も前回も、ネット予約で座席を確保できたし、当日になってもそれなりに空席がある状態で姫路駅に到着していた。
とは言え「一部の国のインバウンド旅行者」が悪いのかと言えば、そう単純に断言できるものでもない。
受け入れる日本側にも「インバウンド需要」を当てにして、金儲けのチャンスと捉えている大きな流れがあるのは事実だ。富士山に見られるような問題はその典型である。
私は「ちゃり鉄」の中でそれらの問題について何事かを主張する気はないが、常に心に留めておきたいとは思う。
この後、三ノ宮、大阪で空席も埋まっていくが、最後まで数席空いたままで東京に向かうことになる。
いつもなら乗車してから1時間程度は車内探検するのだが、この日は疲れていたこともあり、荷物を置いてトイレを済ませたら、ノビノビ座席に戻って横になることにした。最終的には京都駅を通過する辺りまで起きていたが、そのままいつの間にか眠りに落ちていた。






ちゃり鉄32号:1日目(寝台特急「サンライズ出雲」≧東京≧仙台≧木古内=渡島知内-イカリカイ駐車公園)
さて、前夜泊が明けた1日目は走行初日であるが、今回は珍しく、夕方からの走行開始で、車中泊が明けてからも鉄道での移動が続く。
福知山駅からは山陰本線、播但線、山陽本線、東海道本線、東北本線、常磐線、東北新幹線、北海道新幹線、と乗り継いで木古内駅で下車する。
今年、この経路で福知山から木古内まで移動した人は、恐らく、私以外に居ないだろう。
今年に限らず、そんな人は居ないかもしれない。
最終的には木古内駅から、JR松前線跡を2駅分辿った渡島知内駅跡で途中下車。小谷石のイカリカイ駐車公園まで走ってテント泊野宿の予定である。
この日の走行部分のルート図と断面図は以下のとおり。


見てのとおりで木古内からイカリカイ駐車公園まで、ほぼ海岸沿いの平坦路を進んで21.8㎞程度で終了。実測でも21.8㎞であった。
木古内駅から先の松前線廃線跡の経由駅は森越駅と渡島知内駅の2駅。
いずれも遺構は撤去されているが、駅跡に駅名標を模した記念看板があることは確認しているので、それを目標に辿っていき、渡島知内駅跡から先はこもれび温泉に立ち寄って疲れを癒したのち、イカリカイ駐車公園でテント泊である。この公園は2007年以来の野宿なので実に19年ぶりだ。東屋がなく小さな丸石が敷き詰められた平場にテントを張るだけなので、雨に降られそうな場合はその手前にある屋根付きの廃れた展望所を利用するつもりだ。天気予報はパッとせず、降るのか降らないのか微妙なところだった。
「サンライズ」の目覚めはいつものとおり静岡県内。
関西対関東で寝台列車に乗ると、目が覚めた時には関東に居る錯覚が生じるが、だいたい、静岡駅発着の振動で目が覚めることが多く、この日もそうだった。
その後、富士、沼津と停車していくが、既に夜は明けており車窓には朝日が眩しい。
寝不足と胃もたれもいつものとおりで、丹那トンネルを越えるまでは転寝しながら過ごすことが多い。
サンライズの旅での車窓の白眉と言えば、熱海駅から根府川駅付近にかけての駿河湾の朝の風景だろうか。
根府川駅付近にある白糸川橋梁は、私が幼少の頃に飽かず眺めていた特急図鑑の中のブルートレインが、電気機関車に引かれて駿河湾をバックに谷を跨ぐ姿でお馴染みの橋梁。
もちろん、車中からはその橋梁を渡るサンライズ自身の姿を見ることは出来ないが、橋梁の上からは朝日に輝く駿河湾を眺めることが出来る。
このすぐ先に根府川駅があるのだが、東海道本線の「ちゃり鉄」の際には、この辺りで野宿してみたいものである。
根府川駅を越えた後は小田原駅を経て神奈川県の湘南海岸付近内陸へと進んでいく。
この辺りで関東に入ってきたことを実感するのがいつもの「サンライズ」の旅だ。
通勤客で混雑する各駅を悠々と通り過ぎながら、東京駅には定刻の7時8分に到着。回送標識に切り替えられた「サンライズ」を撮影して特急「ひたち」に乗り換える。7時52分発。

東京駅から特急「ひたち」に乗車する人は、その多くが常磐線内の停車駅まで移動する旅客である。
通しで仙台駅まで乗るのは私のような鉄道ファンくらいであり、普通の人は東北新幹線を選ぶだろう。
この日も水戸駅前後やいわき駅前後までの乗客が多く、出発時点ではほぼ全ての座席が予約済みとなっており、私の隣の座席も途中からビジネスマンが乗車してきて、1時間程度座っていた。
途中駅毎に少しずつ人が降りて行き、また、更に少しずつ人が乗って来るが、全体的には減っていき、座席上にあるシートの予約状況を示すランプも空席が目立つようになっていく。私の隣の席も空席となったままだ。
通路を挟んだ反対側の窓際の席には恰幅のいい男性が乗車しているのだが、座席で大声で通話しており、更に機嫌が悪いらしく、通話後にスマートホンを叩きつけたりしている。注文に対する指示を社員が理解していないことに苛立っているようだったが、恰幅の割に肝は小さいようだ。
福島県内では東日本大震災の被災区間を行く。
沿線エリアは少しずつ復興が進んでいるようにも見えるが、駅は元の複線が単線化されている場所も多い。
各駅に停車していく区間もあるが、乗降客にビジネスマンや技術者といった身なりの人が多いのが特徴で、特急だからということもあるが地元の人の姿は意外と少ない。
流出した人口が元に戻るというのは難しいのだろう。
寝不足もあって途中転寝をしながら、「勿体ない」と眠気に抗いつつ相馬駅を出発。これで全ての途中駅の発着を終え、次は仙台駅である。
件の恰幅のいい男性も相馬駅で下車していった。
仙台駅には12時27分着。

ここで1時間強の乗り継ぎ待ちになるので、一旦改札の外に出て駅ビル内の飲食店を物色し、総菜ビュッフェがあったレストランで地鶏のランチビュッフェにした。
今回、こんな計画で渡道したのは東京駅でのサンライズから新幹線への乗り継ぎの都合によるものだ。
これは随分前から変わらないのだが、東京駅に7時8分に到着するサンライズから、その日の北海道新幹線の始発列車への乗り継ぎは間に合わない。
この始発の北海道新幹線新函館行きは新青森以遠の奥津軽いまべつ駅と木古内駅にも停車するので、これに乗車できれば10時40分には木古内駅到着となって具合が良いのだが、東京駅発が6時32分なのである。
この次の北海道新幹線新函館行きは8時18分発、更にその次が9時36分発なのだが、これらはいずれも木古内駅に停車しない。
新青森から先、青函トンネルを越えるには北海道新幹線を利用するしかないが、これら2本の「はやぶさ」に乗車すると、新函館北斗駅で下車することになり、木古内駅からの行程設計を作ることが出来ない。
木古内駅出発に拘ったのは、松前線、江差線、道南いさりび鉄道線、といった各路線を重複なく回るためで、新函館北斗駅で下車すると、どうしてもいずれかの路線区間を重複して走行することになってしまうのだ。
そうなると、この日の4番列車の10時45分発まで待つことになる。この列車は木古内駅に14時48分に到着する。しかし、それだと東京駅での乗り継ぎ時間が3時間37分に及ぶ。
「乗り鉄」の旅であれば、その間に東京周辺の私鉄を巡ってくるオプションを挟めるのだが、「ちゃり鉄」の移動行程だと自転車を携えての移動となるので、乗り継ぎや移動が多くなるのは非常に大変だ。
そこで、常磐線経由の特急「ひたち」に乗車してこの空隙時間を埋めつつ乗り継ぎを最小限にして先に進むことにしたのである。
しかし、ここでも乗り継ぎの問題があって、10時45分東京発の北海道新幹線「はやぶさ」の仙台駅発着は12時15分着、12時17分発というダイヤ。対する特急「ひたち」の仙台駅到着は12時27分。
ここの乗り継ぎが上手くいけば、東京駅での空隙時間帯を潰しながら、14時台には木古内駅に達することが出来る綺麗な計画になったのだが、それも叶わないダイヤであった。
そこで、昼時ということもあって仙台駅で昼食を摂ることにして、13時53分の次の「はやぶさ」に乗り継ぐ計画としたのである。結果的に木古内駅の到着が夕方になってしまうのだが、走行距離が短く、比較的日が長い時期でもあるので、真っ暗になってしまう前には目的地に到着できる計画を作ることが出来た。
こういうのが楽しいか面倒くさいかは人に拠るだろうが、私にとっては楽しい部類に入る。
総菜ビュッフェが食べ放題だったので、それでも遠慮して2往復で済ませてお腹を満たし、仙台駅13時53分発。ここからは一気に木古内駅に向かう。


東北新幹線の車窓は奥羽山脈の風景が楽しみの1つだが、この日は進行方向右側の座席に座っていた上に、反対側の座席の乗客が窓のブライドを下げていたので、山側の風景が全く見えなかった。
途中、デッキで眺めてみたものの、東北北部から北海道南部に前線が停滞する蝦夷梅雨の天気図どおりに、山並みには雲がかかっていて高曇りというか何というか、実にスッキリしない空が展開していた。
盛岡駅を出るとトンネルが連続するようになり、ある意味、新幹線らしい車窓風景になる。
七戸十和田駅の通過などを見送り、南部縦貫鉄道を絡めた青函ゾーンの「ちゃり鉄」の計画を構想したりするうちに、新青森駅を過ぎて津軽海峡が右手に見えてくる。
新青森駅、奥津軽いまべつ駅での乗降は経験したことがあるが、それ以北の青函トンネルは久しくご無沙汰しており、今回はそれも楽しみの1つであった。もちろん、新幹線で青函トンネルを越えるのは今回が初めてだ。
在来線が青函トンネルを越えていた時代には、快速「海峡」でこのトンネルを行き来したものだ。吉岡海底駅で途中下車し、駅員のガイドで構内見学をしたこともある。
青森方から青函トンネルに向かうと、直前に幾つかの小トンネルを越えて行くのだが、先頭の牽引機関車がトンネルに進入する都度、汽笛を鳴らすので、客車内からでも間もなくトンネルに入ることが察せられた。
そして、青函トンネルに入る際には、一際長い汽笛が鳴らされ、トンネルに突入。壁面からの反響音もそれまでのトンネルとは違うので、音だけでも青函トンネルに入ったことが分かって楽しかった。
北海道新幹線「はやぶさ」はそんな時代とは異なり外の音は聞こえないが、在来線貨物列車との供用区間でもあるため速度が遅く、客車時代の旅を何となく思い出させてくれた。
車内放送で青函トンネル進入を察知し、20分程度でトンネル通過。この所要時間は快速「海峡」時代と5分程度しか違わない。
出た先は道南渡島。北海道の台地である。
それと知って見ているが故の思い込みかもしれないが、車窓に展開する森林の雰囲気がこれまでとは違う気がする。
道内もトンネルを連ねて進み、木古内駅には16時17分着。
福知山の自宅を前日の17時半過ぎに出発したので、約23時間かけて「ちゃり鉄」のスタートに立った。

木古内駅に発着する北海道新幹線は1日8往復。うち、朝の降り1番、2番列車と、夜の上り7番、8番列車は区間運転の「はやて」で、盛岡や新青森間の運転。それ以外が「はやぶさ」で東京間の運転である。
東京との間を結ぶ意味合いで言うと1日6往復の閑散路線で、日中に3時間前後、運転間隔が空くタイミングもある。
この日、「はやぶさ」からは他に数名の降車があったように見えたが、写真を撮影しているうちにホームには駅員1名だけになり、こちらが退去するのを待っている様子だったので、急いで撮影を済ませて改札を出る。
外に出ると北海道らしい爽やかな空気。気温は30度に達して居らず、35度を超える地元とは全く違う空気だ。
ここで自転車を組み立て走り始めるのだが、道南いさりび鉄道のホームや乗降口は南側にあるのに対し、私は北側に降り立ったので、駅周辺は閑散としており人影も少なかった。
着替えも済ませて出発時刻は17時23分。
この日の日没時刻は19時前くらいだったが、目的地への到着予定時刻は19時45分。入浴時間40分込みでその設計なので、少し日没後走行になりそうだ。

松前線は国鉄及びJRの鉄道路線として、江差線の木古内駅から分岐して松前駅に至る50.8㎞の路線であった。
1937年10月12日に鉄道省福山線として木古内~渡島尻内間の第1期線が開業し、中間駅の森越駅が設置されたのを皮切りに、1938年10月21日に渡島知内~碁盤坂(後の千軒)間の第2期線、1942年11月1日に碁盤坂~渡島吉岡間の第3期線、1946年12月15日に渡島吉岡~渡島大沢間の第4期線が開業し、1953年11月8日に渡島大沢~松前間の第5期線が開業したことをもって全通を果たした。
予定線としてはこの先、松前~大島までの延伸計画があったものの、建設工事の途中で延伸が凍結され未成線となった。
木古内から分岐する江差線の江差~木古内間と比較した時、路線の旅客需要の面では松前~木古内間の方が大きかったのだが、「路線名」の単位で存廃を検討した末期国鉄経営再建議論によって、松前線は廃止バス転換され、五稜郭~木古内間を含んだ江差線は存続することになったのである。
その江差線もまた、北海道新幹線の開業に合わせて並行在来線としてJRから経営分離される五稜郭~木古内間を失うことで、道内の他の路線と接続しないJR路線になってしまうため、北海道新幹線の開業前に廃止された。
仮に、五稜郭~木古内間が松前線として位置づけられていたとしても、廃止の順序が逆になるだけで、木古内から先の鉄道は廃止されることになったのだろうが、青函トンネルとの関係もあってもしかしたら違う歴史が展開していたのかもしれない。
この日は第1期開業区間を走ることになる。
木古内駅からは海岸沿いの国道に出て進路を西に採る。
空は高曇りで青空の部分もあるが全体にモヤモヤとしており、風景の彩度も低い。それでも、体にボディブローのようにダメージを与え続ける高温多湿環境でないのは良かった。
この日の途中駅は森越駅と渡島知内駅。
勿論それぞれの駅跡で、駅施設の遺構は残っていなかったが、駅名標を模した記念標識があり、渡島知内駅に関しては函館バスの営業所兼車庫となっていた。



知内町内のAコープで食材を仕入れた後、西部山麓にあるこもれび温泉に立ち寄って疲れを癒す。
この位置に温泉や日帰り入浴施設があるというのは、今回の行程では非常に恵まれていた。さもなくば、この日は風呂無しで我慢するか、仙台駅滞在時間中に何とか駅近隣で入浴を済ませるしかなかった。
旅慣れた人の中には何日も風呂に入らなくても平気という人も居るかもしれないが、私は1日1回は風呂に入りたいし、温泉巡り自体が「ちゃり鉄」の1つの目的でもあるので、可能な限り、入浴できることを条件としてルートを設計する。
どうしても見つからない時や登山行程に入る時は例外的に風呂無しを呑むが、そういう時は「ウェットティッシュ」や「タオル」で体を拭く。私はそれを「ウェットティッシュ風呂」や「タオル風呂」と呼ぶことにしている。
特に、その日の行程の終盤に入浴して、1時間程度の間合いで目的地に到着するのが良く、最上は目的地周辺に温泉や入浴施設があって野宿の我が家から徒歩で通えることだが、野宿地は人気のない場所を選ぶことが多いので、そんな巡り合わせにはなかなかお目にかかれない。
こもれび温泉を出た頃には日没時刻も過ぎていて、辺りには夜の帳が落ちてきていた。
薄暗くなり始めていたので1灯点滅2灯点灯で7㎞弱を走って、イカリカイ駐車公園には本格的に暗くなる前に到着した。多少はキャンパーが居るだろうと思っていたが1人の姿もなく、駐車している車もない。意外な思いに包まれながら、青空野宿になるので素早く外張りまでしっかりと張ってテントを設営。残照があるうちに夕食まで済ませることが出来た。
ここまで、森越駅、17時48分着、17時51分発、7.4㎞。渡島知内駅、18時3分着、18時5分発、11.2㎞。こもれび温泉、18時33分着、19時3分発、15.2㎞。イカリカイ駐車公園19時19分着、21.8㎞であった。



夕食を終える頃にはすっかり暗くなっていた。
道南渡島半島。
このエリアでは福島町市街地や大千軒岳でヒグマによる人身食害死亡事件が発生するなどしており、野外活動にはかなりの緊張感も伴う。
道路沿いだから、集落の近くだから、という安心感はなく、何処に出てきてもおかしくはない。
そのため、今回の渡道ではホイッスルと熊避けスプレーを事前購入し携行した。
その効果には疑問を呈する人も居るが、実際に熊対策の現場で仕事をした経験に照らし合わせれば、万全で安全とは決して言えないが、必要最低限の対策だとは言える。
なお、熊鈴は自身の注意力が散漫になり鈴の音で周囲の微妙な音が聞き取れなくなるので、ホイッスルと発声によって熊を回避するようにしている。ホイッスルのような音は野生生物が発することも多いので効果が薄いという指摘もあるため、ベースはホイッスルを拭きながら、特に見通しが悪い場所などを中心に、時折、発声を交えるスタイルだ。
ただ、人を獲物として学習した個体に対して自身の存在を知らしめることは逆効果にもなるため、対策の難しさは感じている。
熊避けスプレーは余程慣れていて、更に、熊の存在を事前に察知していないと、効果的に使うことは出来ない。突発遭遇で襲われた際に、ホルスターから外して、ピンを抜いて、熊の顔面に向けて的確に噴射できる人は恐らくいない。だから、絶対に突発遭遇を避ける必要がある。
その為には、ベアカントリーに入る際には、緊張感を継続し続ける必要があるが、熊鈴は往々にしてその緊張感を阻害する。「鈴が鳴っているから大丈夫」だと油断したり、鈴の音で異音を聞き逃したりするリスクは、残念ながらかなり高いと思っている。
その折り合いとしてのホイッスルと発声、熊避けスプレーであるが、これが完璧だとは決して思えない。
そんなこともあってキャンパーが居なかったのかもしれないが、そういう緊張感を抱きながらも、夜の小谷石集落と矢越岬のシルエットを眺めて20年ぶりの再訪の旅情に浸り、1日目の野宿の我が家に戻って眠りに就いたのだった。

ちゃり鉄32号:2日目(イカリカイ駐車公園-…矢越岬…-渡島知内=渡島福島-岩部-渡島福島=松前-松前公園)
2日目は道南の秘境とも言われる矢越岬周辺の踏査を中心に、北海道最南端の白神岬を経て松前市街地に至り、松前公園付近の東屋で野宿という計画。
渡島知内駅から松前駅までを走り通して、松前線全線を走り終える。
最近の「ちゃり鉄」では珍しく、吉岡温泉ゆとらぎ館と松前温泉の2つの温泉入浴施設に立ち寄っていく計画にもしていた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


序盤は小谷石集落の道道終点から徒歩で矢越岬を目指す行程。断面図では5㎞付近までに現れる急峻な150m弱の2つのアップダウンがその行程だ。
矢越岬に至る車道はなく、陸路も整備された徒歩道はない。
岬に神社と灯台があることは把握しているが、この神社と灯台は渡し船で岬直下の船着き場に渡る以外にアクセスできないようで、歩いて矢越岬に到達したという記録を、現時点では見つけられていない。
だから、矢越岬を目指しても辿り着けそうにないことは分かっていたのだが、海岸付近の断崖を高巻いたりへつったりして辿り着くことが出来ないか、行けるとしてどこまで行けるのかを、自力で探るのが今回の目的だった。
その踏査の後、渡島知内駅から渡島福島駅までは松前線沿線を走り、福島から矢越岬に対して小谷石と対を成す岩部の集落を訪れ、その道中に存在した小集落と廃校跡を巡る。
更に渡島福島から松前までの区間は、白神岬経由で松前線の橋梁跡などを辿っていく行程だ。
朝は4時過ぎには起床するが、この時刻で既に明るくなっている。この時期の函館周辺の日の出時刻は4時半頃だった。
沖合を滑り行く漁船のエンジン音を聞きながら、昨夜は暗くて写真も撮影できなかったイカリカイ駐車公園前の海岸の風景を撮影。
朝食を済ませテントを素早く撤収し、公園脇の洗面所で用便と洗面歯磨きなどを済ませ、5時半には出発する。

この日は朝一の行程が難関であるが、これは「ちゃり鉄32号」の中でも一番の難関である。
矢越岬。
この岬は東の小谷石集落、西の岩部集落との間にある懸崖に囲まれた岬で、車道は勿論、徒歩道ですら存在しない陸の孤島である。両集落との間を結ぶ古い山道などの記録もなく、元々人の往来は稀で、それも船に頼っていたのであろう。今のところ、海岸に番屋集落など、人が定住した集落があったという記録も見つかっていない。
岬には矢越岬灯台と矢越八幡宮があるのだが、それらを訪問するためには船を使い、岬の断崖の下に設けられた船着き場から階段を登ってアクセスすることになる。
その手段を使えば楽に到達できる場所ではあるが、歩いて到達するとなると断崖絶壁に阻まれて道がないのである。
それ故にネット上にも徒歩での到達記録は見当たらず、近くまで達したという記録すらも乏しい。距離で言うと小谷石からは2㎞弱、岩部からは5.5㎞強あり、可能性を探るなら小谷石からのアクセスに限られる。
であれば、何処まで辿り着けるのか、自分で調べることにする。
それが今回の目的である。
とは言え、盛夏の道南の人跡に乏しいエリアである。
興味本位で安易に立ち入りそこで事故を起こしたりすれば、「ちゃり鉄」どころではなくなるし、関係者にも大きな迷惑をかけることになる。それ故、装備と熊対策に関してはかなりの検討を加えてきて、最低限装備すべきものを携行することにしたのである。
このダイジェストでは行程や準備の詳細は割愛するが、写真ベースで概略をまとめておく。
小谷石集落の西端にある車道末端部から少し進んだ地点に枠組みだけになったフェンスの残骸があるので、この手前に自転車をデポして徒歩で海岸沿いを岬に向かう。5時27分発。

このゲートの先にも護岸と草生した道型が残っており、山側裾には崩れかけた古い番屋が数棟残っている。電柱が立って電線も引かれているので、かつてはこの付近にも漁業者の生活があったのであろう。
やがて道型は泥濘と化し、草叢は虎杖も混じって背丈以上になる。
泥濘を避けて進むが、早くもミスをして足首まで浸かってしまい、一瞬ではあるが登山靴の足首側から浸水させてしまう。
この泥濘と藪を抜けた辺りで護岸も尽きるので、岩礫の浜に降りて石伝いに西進する。
距離自体は遠くないので、既に矢越岬の特徴的なふたこぶ地形が見えている。灯台や神社は小谷石集落側からは見えず、突兀とした岬地形は裾野を断崖に囲まれていて見るからに険しい。
個人の記録によってはこの付近で岬の姿を眺めた上で、それ以上の前進を諦めて引き返しているものがあるが、ある意味、正しい判断だと思う。
ゲートから20分ほどで行く手に標高差100m内外の垂直な岸壁が立ちはだかり、泳がずに海岸線を進むことは出来なくなる。
この直前、右手に緩やかな草付き斜面が斜上しており、それを突き上げれば断崖を安全に高巻き出来そうではあるが、登った先で安全に降ることが出来る確証はない。
海岸沿いを進むルートを第一に計画してきたこともあり、私はその草付きを登らずに通過してきたのでこの垂壁の前で進退窮まる。




海岸はオーバーハングも伴った垂壁で、水深はそれほど深くはなさそうだが、濡れずに通過していくことは出来ないため、今回の踏査はここで終わりかと考えたが、斜面側を見ると急峻なガリーが二つの岸壁の間に刻まれており、草付きもあって悪そうだが登ることは出来そうだった。
このガリーを降るのは危険に見えたが、上に抜けた後で小谷石側にトラバースして先ほどの草付きを降れば、このガリーを降る危険は回避できそうだった。
高巻きは簡単なように見えて非常に難しい技術だ。登ることそのものよりも、降れるかどうかの見極めが難しいのだ。
「登ってみたら登れたけど、降ろうとしたら降れなかった」、というケースは多く、無理に降ろうとしたり斜面の途中で進退窮まって力尽きたりスリップしたりして、重篤な転落事故を起こす事例は少なくない。
今回も、直前に草付き斜面を見ていなければこのガリーを登ることは諦めたであろう。
「ちゃり鉄」ではこういう行程を含むためにハイカットでソールの硬いしっかりとした登山靴を履くので、一先ず足回りも大丈夫。
以前は「軽量性」や「軽快性」を重視して軽登山靴やトレッキングシューズ、トレイルランニングシューズでこうしたエリアに入っていたが、滑落やソールの剥離などを経験してから、足回りに対する認識は大いに改めた。
時間的にも余裕は見ているので、意を決してこのガリーを登って上部を探ることにする。
ガリーはかなり急峻で、一般的な登山道ならロープや梯子などが設置されていることだろう。
もちろん、ここにはそういう手掛かりはないので、自分で地形を読んで登るしかない。
沖合には漁船が一艘浮かんで操業していたが、護岸が尽きてからは熊への警戒からホイッスルを吹いて進んできていたので、恐らくこちらの存在には気が付いているだろう。釣り人は立ち入っている様子があるので遠目にはそのように見えていただろうか。
あっという間に高度を上げ、ガリーの底から腹、肩を経て、頂部付近に達する。
高巻きは必要最小限の登りにしておく必要がある。登れば登るほど下降の困難が増すからだ。
その為、やや傾斜が落ち着いた肩付近から矢越岬方面にトラバースできるルートを探ったが、岩尾根を三点支持で越える必要がある上に、尾根の向こうに樹木がないので恐らく崖が続いている。もし目の前の壁をクライミングで越えた先が通過不能で戻ってこなければいけない場合、急峻な草付き横の崖をクライムダウンしてくる必要がある。その為、この付近からトラバースを試みるのは安全ではないと判断。そのまま登り続けて樹林帯の中に入ることにした。
こんなエリアでも四等三角点・小谷石が設置されており、地理院地図に201.8mの標高と三角点記号が記されている。
その三角点は知内町と福島町の町界尾根から東北東に派生する支尾根の末端部にあり、このまま突き上げていくとその緩やかな支尾根の腹に乗りそうだったが、樹林帯の中に明瞭な鹿道がついていたので、尾根まで無駄に登り詰めることはせず、鹿道に沿って岬方面にトラバースを開始した。
鹿道であると判断した根拠は、踏み跡に刻まれた蹄の形状である。

ホイッスルを吹きながら、時折立ち止まって地形を眺め、ルートを見出す。その見出したルートに沿って鹿道が続いているかどうかを確かめるのも、自分の鑑識眼の精度を試すテストとして捉えている。
これは自身の経験則ではあるが、道なき山中を歩く時は地図で把握している大局的な地形情報と現地で目にする現実の地形情報からルートを判断しつつ、目的のルートに沿った獣道の有無で、その判断の是非を問うことが少なくない。獣道がルートに沿って伸びているなら、局所的な判断は比較的正しいことが多い。
もちろん、私がその地点を歩く目的と獣がその地点を歩く目的は一致しないので、獣道が目的地に通じる道であるとは理解しないのだが、局所的に両者が一致する場合、その局所に於いては地図や地形に対する自分の大局的な判断が正しいケースが比較的多いように思うのである。
それは、野生生物が自然地形の危険度を察知し判断する能力は人間のそれよりも高いだろう、という推測を根拠にしたもので科学的な裏付けなどはない。だから、あくまで経験則ではある。
そして、それはあくまで局所に於いての判断を補強する材料に過ぎないので、獣道に導かれて大局的なルート判断を誤る愚行を犯してはならない。油断しているといつの間にか設定ルートから大きく外れてしまっている、ということも往々にして起こるし、獣道を辿ると断崖に出たり、気が付くと道が消失したり錯綜したり、ということも決して少なくない。
地図や地形から自分の歩くルートを把握するための判断を獣に委ねてはならない。
このトラバースは概ね120mから140m付近で行っており、地形図上で100m付近まで突き上げている断崖記号の少し上を行くものであった。絶妙な位置で高巻くことが出来たように思う。
さて、高巻きには下降が伴う。そして既に述べたように、この下降は極めて危険性が高い。
安全な下降地点を探してやや降りながらトラバースを続けていると、樹林が途切れて視界が広がる地点があった。ここからは矢越岬が一望できる。遊歩道があれば展望地点になるような場所であるが、勿論、この地点からの矢越岬の写真はネットでも見たことがない。
121mの独標が描かれた矢越岬をやや見下ろす形になるので、この位置は130m前後だろうか。
ここから見下ろすと、海岸沿いに岬の基部までは問題なく達することが出来そうだが、その基部から既に見えている船着き場までの部分に足場が見えず、そこで進路を断たれそうであった。尾根通しで行ったとしても岬のコブの手前にある10mほどの垂直な断崖は安全に降ることが出来ず、その地点の高さを考えると海岸沿いに降るよりも格段に危険なように見えた。
今回はクライミングロープは携行していないので、この先で高巻きから尾根通しに転じる案はやはり却下し、海岸に降って基部に達する当初の案で進むことにする。
問題は安全に海岸に降ることが出来るかどうかだが、この地点から安全な下降地点は見通せない。

下降路は岩礫に覆われた古い崩壊地と地形図に現れている沢筋との間の小さな痩せ尾根に見出した。これは地形図からは読み取るのが難しい程度の尾根で、現地で観察して地形図と対比して見出すしかなかった。
崩壊地を横切るので獣道からは外れ、痩せ尾根に乗った後は地形を見て降っていく。
護岸が尽きた地点からここまで、テープなどの残置物は一切目にしていない。
この痩せ尾根を降っていくとやがて断崖の上に出た。
左右ともども沢地形だが、左側、つまり小谷石側は一面を岩礫が埋め尽くした大きな崩壊地の下部で降るのは難儀しそうであったし落石の危険も高かった。右側、つまり岬側は谷になっているので安全に水筋まで降ることが出来れば沢降りとなりそうだった。見える範囲に下降が出来ない滝場もなさそう。
その為、ここからは進路を右の沢筋にとって、安全な場所を探って谷底に降り、水筋に達したらそのまま海岸まで降ることにした。
痩せ尾根末端の確認地点からは安全な下降路はなかったので、右の谷筋に沿って少し登り返しながらルートを探り、風化した不安定な露岩地帯を縫うように降って沢筋に下降。ここからはスリップに注意しながら沢筋を降って海岸に向かったのだが、沢の出口は降れない10mほどの滝場になっていたため、左岸側の草付き斜面を巻き降り、一連の高巻きを終えて海岸に復帰できた。
この下降地点はマムシの巣窟で、10mほどの距離を進む間に5匹も遭遇。私の人生で最も高密度な生息地であった。
高巻き開始が5時50分で下降終了が6時22分、区間距離0.5㎞。
数字だけ見ると大したことがないと判断されそうだが、500mを進む間に、140m程度の高巻きを終えるルートであり、ヒグマ、マムシ、マダニの生息密度が高いという条件もあって、かなりの危険と困難を伴う。
上部にあった岩礫の崩壊地もそうだが、足回りはかなりしっかりした装備にしていないと歩行自体が困難。マムシなどに不意に遭遇して噛まれるリスクを考えると、丈夫な構造でハイカットの登山靴と厚手のゲイターの併用、若しくは、膝丈のフィールド用長靴を履いてくる必要があるだろう。スニーカーやミドルカットまでのトレッキングシューズ、トレランシューズなどは不適切だ。
装備・準備を伴わない立ち入りは死亡事故に直結する上に、帰路も同じルートを辿って戻ることが必須になるので、無理な突破は厳に慎みたい。






さて、ここまで来れば、あとは海岸沿いに岬まで進むのみであるが、高巻き中に遠望したとおり、最後100mほどの距離を残して断崖に進路を阻まれ、そこが最終到達地点になりそうであった。
海岸付近に降り立って間近に岬を眺めるも、その確信は強まるばかり。断崖に足場になりそうな部分が無いことは、寧ろはっきりしてきた。
ここまで来て、岬の灯台や神社には辿り着けずに撤退することになる。
ここから先はそれを確かめるために進むようなものであるが、果たして、岬の基部に達してみても、残り100mは海面と垂直な断崖に阻まれており、そこに見えている船着き場に濡れずに辿り着く陸路はなかった。
最終到達地点はこの矢越岬のふたこぶの間のガリーの付け根。
そこは海岸も深い入り江状になっており、断崖はほぼ垂直に海面に落ち込んで、海岸付近からすぐに2m前後の水深にまで達しているようだった。干潮になったら現れる棚のような構造もなく、登山靴でのフリーのトラバースは不可能。
ふたこぶの間のガリーを登攀して上からアプローチすることも考えたが、「登攀」と表現したように、これは完全なクライミングの領域になるため、その装備を備えていないなら不可能だ。登ることが出来たとしても降ることが出来ない。それが最も危ない。
船着き場はすぐ先に見えていたので、ドライバッグを携行して必要な装備をその中に詰め、ウォーターシューズ等を着用して水に浸かりながら岸壁をへつれば、この日のように波が穏やかであれば突破は出来そうだったが、今回、そのような装備は携行していない。
むしろ、ここまで到達したことは望外の達成。
従って、ここで靴を脱いで上半身裸になって泳ぐとかそういう思い付きの手段に出るのは止めて、潔く撤退すべき場面であった。
6時33分着。ゲートから1.7㎞の行程であった。



さて、帰路も基本的には往路と同じルートで戻ることになる。但し、高巻きの起点とした急傾斜のガリーを降るのは危険なので、その手前にあった草付き斜面までトラバースして、そこを降ることにする。そこは事前に確認してきたとおり。
こういう踏査では「進めるか?」にばかり意思が向いてしまうが、「撤退できるか?」はもっと重要な判断基準である。「進んでこれたのだから撤退できる」わけではない。
小谷石方面には、高巻いてきた懸崖の果ての岩峰が天を衝いて行く手を遮っている。この岩峰は小谷石側からは見えないが、さながら矢越岬のジャンダルムといった感じだ。
高巻きに入る前に振り返れば、船着き場から灯台や八幡宮に登る階段と手摺が見えていた。
海保の巡視や八幡宮の例祭の時は、小舟で船着き場に乗り付けて階段を登るのだろうが、衛星画像で見ると、岬を挟んで小谷石側、岩部側、それぞれに船着き場がある様子。この小谷石側の船着き場よりも岩部側の船着き場と階段の方が衛星画像でもしっかりと見えている他、磯渡しの船は西側、つまり岩部側の船着き場に着くという情報もある。
もしかしたら小谷石側の船着き場まで泳いで上陸しそこから階段を登っても、上部で崩壊していて結局灯台や八幡宮には辿り着けないのかもしれない。
なお、水濡れを覚悟で装備してくるのであれば、高巻き区間も断崖に沿った海岸沿いを進めるのかもしれないが、それも情報がないため分からない。
釣り人の情報を確認すると、この矢越岬付近は断崖がそのまま海中に没するドン深の海で、大物の釣り場なのだそうだが、それは泳ぎやへつりでの到達を更に困難なものにするだろう。ただ、小谷石側は浜が続いている他、岸近くに岩礁が点在しているので、水際からいきなり5m、10mの水深になっているということはなさそうだ。
いずれにせよ、波があると泳ぎや水際のへつりも不可能だ。この日のような凪はそれほど多くもないだろうから、装備を持ってきたとしても越えられないこともあるだろう。
遥かなり、矢越岬。
マムシの巣窟の草付きでは帰路も3匹ほどが日向ぼっこ中。
彼らにとっては、これが生涯最初で最後の「人」との遭遇かもしれない。
滝を高巻いて落ち口に登り、そこから少し遡行して往路を逆行。目印などは何もないので自分でしっかりとルートを把握してくる必要がある。
痩せ尾根に復帰したら急登を登り詰めて崩壊地上部をトラバース。往路の高巻き起点としたガリーの上部をトラバースしてそれよりも小谷石側にある草付き斜面を降っていく。
一度通ってきた道だけに、往路よりは精神的な余裕をもって進むことができ、道中写真も数枚撮影。往路では気が付かなかったが、この復路でのトラバース中に残置虎ロープ2本を見つけた。
いずれも樹幹に深く食い込んでいて相当古くに設置された様子であったが、かつて、この道を辿った人物には親近感を抱いた。恐らくは釣り人であろう。山奥でも海岸でも、釣り人の足跡は驚くような場所にまで伸びている。
草付きはガリーの登降よりも遥かに安全であったが、鹿道と重なっていたこともあって、草が深いところはダニが懸念された。実際、ここで拾ったのかどうかは分からないが、自転車に戻ってダニチェックした際には靴に2匹付いていた。
護岸付近まで戻ってきたらようやく人心地。
朝からどんよりとした天候ではあったが、天気予報や雨雲レーダー、天気図で見る限り、崩れはなさそうだった。現地でも天候は穏やかだったこともあってこの踏査を成し遂げることが出来たように思う。
自転車デポ地点には7時39分着。往復3.5㎞、2時間12分の行程となった。













さて、ダイジェストにしては長文だったことが示すように、この朝の踏査は「ちゃり鉄32号」でも最も難しい踏査となったのだが、この日の行程で見ると全体の5%程度に過ぎない。これから自転車で100㎞弱を走る。ある意味、アドベンチャーレースでありウルトラマラソンである。
ダニチェックを済ませたらGPSをハンドルのマウントに装着し直して出発。
小谷石集落の西端山麓にある小谷石神社で矢越岬踏査の無事に感謝を捧げ、小谷石集落奥の丸山登山口にある矢越小学校跡を利用した矢越山荘を訪問。
矢越小学校は2000年3月の閉校だという。
かつてはこういった集落にも小学校が設置されるほどの若年人口があったのだと思うと、過疎による国土衰退の有様を一層強く感じることになる。


漁港脇にある薬師の湯にも立ち寄って硫黄臭の漂う湯壺を伺う。「湯」と表現されているが、温泉ではなく冷泉で、湯壺に浸かることは出来ない。
ここに温泉があれば最高なのだが、経営難で廃業ということになってしまうのかもしれない。
今や温泉も淘汰の時代で、大資本が入り込む温泉街ならいざ知らず、味わい深い一軒宿の温泉などは次々に閉業している。
旅情ある日本の風景はどんどん失われているように感じるが、「旅情」の定義そのものが変わりつつあるのかもしれないし、そもそも、「旅情」という概念自体が希薄化していってるのかもしれない。

小谷石集落を出た後は、イカリカイ駐車公園を通り過ぎて知内市街地に戻る。
昨日はこもれび温泉のある山麓側の道道531号線を通ってきたが、今日は海岸沿いを進んで北海道電力の知内発電所の脇を通り抜け、渡島知内駅跡に戻る。
渡島知内駅、8時39分着、8時40分発。14.9㎞。

松前線は矢越岬付近を大きく迂回して内陸の福島峠を越えて行く。国道も同様に内陸を迂回しており、矢越岬を挟んで小谷石側の道道531号線、岩部側の道道532号線が、それぞれ盲腸線のような形で最終集落まで開削されているが、この両者を繋ぐ道路の開削計画はないようだ。
この内陸迂回は渡島知内駅と渡島福島駅との間。更に、白神岬付近も渡島吉岡駅と渡島大沢駅との間を内陸の隧道で迂回している。
渡島知内駅と渡島福島駅との間は計画距離で26.8㎞。松前線の営業キロ数は25㎞である。
途中、福島峠を越えて行くのだが、中間駅は重内、湯ノ里、千軒で、千軒駅の先で峠を越えていた。
この区間は当然断面図でも明瞭だが、峠付近の標高は150m超で、知内側と福島側で片勾配となっている。急勾配は福島側で、こちらは峠より知内側にある千軒駅から海岸沿いの渡島福島駅までの間、10㎞弱に渡って中間駅が存在しない区間でもあった。
函館バスの営業所となった渡島知内駅からは知内川と重内川との間に広がる沖積平野を真っすぐに遡り、山並みが平野に降りてくるところにある重内神社に参拝した後、進路を90度ほど左転して重内集落内にあった重内駅跡を訪問。駅は道路と線路が交差する踏切付近にあったようだが、今は、記念標識のみ。但し、前後の路盤跡は藪に覆われながらも明瞭に残っており、標識の周りは草刈りが行われているので、見つけるのは容易だ。


この先は知内川の左岸側を遡っていく。国道は右岸側を通っているので、こちらの交通量は少ない。
昨今のヒグマ事故の報道も頭にあるので、やはり、交通量が少ない山間部の道路の通過には緊張を伴う。特に自転車は走行音が小さいため野生生物側から認識されていないことも多く、山間部の高速での降りなどでは野生生物と突発遭遇することがある。多くの場合、野生生物の方が逃げていくが、それが子連れの母親ヒグマで、子熊と母熊の間に高速で突っ込んでいってしまった場合など、重篤な事故になる可能性も高い。自動車にすらとびかかって来るぐらいなのだから、自転車では太刀打ちできないし、とっさに反転して走り去ることも、防御姿勢を取ることも、熊避けスプレーを噴射することもできない。
その為、この旅では交通量の少ない車道を走るタイミングでもホイッスルや発声を併用した。
突然、という印象で頭上を横切っていく北海道新幹線の高架を抜けた先の集落が湯ノ里集落で、この地名は北海道最古とも称される知内温泉に由来するものだ。ここに湯ノ里駅があったので立ち寄る。
この付近の路盤は舗装化され車道転用されているが、駅ホームなどがあった一角は今もその面影が漂っていて、記念標識も立てられている。
「湯ノ里」。
何とも味わい深い、旅情ある駅名だ。


湯ノ里駅を出た後は集落内の湯ノ里稲荷神社に立ち寄り、集落の西端で国道228号線に合流。この辺りから登り勾配がきつくなる。
右手に知内温泉の標識。入浴していきたかったが、営業時間外だったので今回は見送り。
工業施設が点在する無人地帯を登り詰めて行った先の高原状地形に千軒集落が見えてきたら、国道から集落道に入る。
千軒小学校跡と千軒神社を巡ってから千軒駅跡へ。
ここも広い敷地に駅の面影を偲ぶことが出来るが、記念樹のような白樺の樹の根元にある案内標識は小さな看板風であった。
この千軒駅跡には福島町が管理する大千軒岳登山者休憩所の小さな建物があるのだが、大千軒岳で発生した重篤な登山者の死亡食害事件と、その同一個体によって発生した登山者襲撃事件などを受けて大千軒岳登山道が閉鎖されているため、休憩所も連動して閉鎖され、シャッターで閉ざされていた。
なお、この千軒駅は開業当初は碁盤坂駅を名乗っており、旧版地形図でもその名が見える。駅の開業は1938年10月21日で、第2期線の終着駅としての開業。千軒駅への改称は1972年3月15日のことであった。
千軒というのは大千軒岳由来なのだが、その大千軒岳の山名は江戸時代に開かれた金鉱に由来し、その開発によって千軒の人家があったためだという説がある。




この千軒駅を出た後は知内川の本流を離れて支流の谷を登る。
福島峠への旧道を見送ったら福島トンネルでサミットを越えて福島川水系に入り、支流のその名も峠下川に沿って急勾配で降っていく。
松前線は車道の福島峠よりも西側の低い位置をトンネルで越え、福島川本流沿いの谷に出ていたようで、峠下川の狭い谷を降って福島川と合流した後、谷底平野が広がるようになると、橋梁や築堤などの廃線遺構が所々に見られるようになる。
福島町の北部で北海道新幹線とクロスするが、こちら側は地下を抜けている北海道新幹線を地上でオーバークロスしているので、現地では気が付かない。
河口付近に開けた大きな街を見ながら一旦福島川の右岸側に渡り、福島町役場の敷地に転用された渡島福島駅に到着。役場の敷地の入り口に掲げられた駅跡の標識を撮影して先に進むことにした。
ここまで、重内駅、8時3分着、8時8分発、16.4㎞。湯ノ里駅、8時32分着、8時37分発、22.4㎞。千軒駅、9時28分着、9時33分発、30.2㎞。渡島福島駅、10時30分着、10時35分発、39.6㎞であった。

ここからは一旦松前線を「途中下車」して岩部を目指す。
岩部は矢越岬を挟んで西側にある車道末端の最終集落であるが、その道中に幾つかの小集落や集落跡があり、小学校跡も3か所確認しているので、訪問する計画としていた。
この「ちゃり鉄32号」の旅路の中では、唯一にして随一の晴天が広がったのが、この福島~岩部の往復行程であった。風は東寄りだったので往路は向かい風となりややきつかったが、まず先に岩部集落に直行し、そこから、引き返す形で日出集落、浦和集落の小学校跡を見て回る。



岩部集落は道道532号岩部渡島福島停車場線のどん詰まりにある。最後は短い隧道を抜けており、その先の岩部川の河口付近に身を寄せ合うようにして佇んでいる。
この岩部川の谷を遡ったところに岩部小中学校跡の建物が残っているので、先に小学校跡を訪問し、続いて集落と八大龍王神の標識の有る白鹿松神社を訪れた。
小学校跡は閉校後に宿泊施設として利用されていた時期もあるようだが、そうした利用も途絶えた今日では、既に崩壊が始まっていた。


集落に降ってみても、人の姿は見かけない。
岩部クルーズなども催行されるようになり、今でも2世帯が暮らしているようだが、前回2007年の訪問時には見られたような人の姿が絶えていた。
かつて陸の孤島だった岩部は漁港も備えた集落なのだが、その漁港に漁船は係留されておらず、岩部川の河口は防潮堤で閉ざされていて、その防潮堤の辺りは泥が堆積していた。
ここに自転車をデポして、海岸に降りてみる。
小さな入り江の先には消波ブロックの防波堤があり、古い歩道跡が向かって左側の岸壁に痕跡を残していた。
ここから矢越岬を越えて小谷石まで通じる道があったわけではないのだが、一瞬、それを期待させるような道型の跡であった。
この先はヤスリのような岩場が続いていて、少し先で大きくハングしていたので、無理に突破を試みたりせずそこで引き返した。全体が荒々しいヤスリのよな地形なので、転落や滑落をしたらただ事では済まないだろう。
湾口からは岩部集落を一通り眺めることが出来る。
小中学校があった時代、この岩部の集落にはもっと活気があり、子供の歓声も響いていたことだろう。
この先、そういう光景が戻って来ることは、恐らく、ない。
最後に、白鹿松神社を訪れた。
民家の裏手から参道を登った先に、鳥居と「八大龍王神」と記した石碑があるのだが、敷地は草生していて、手入れの様子はない。
集落の衰退は小学校の廃校に始まり、やがては神社の崩壊へと続いていく。
そんな人の営みの儚さを、神社に招かれた神はどのように眺めているのだろう。
岩部小中学校から岩部集落、11時13分着、11時48分発、52.6㎞であった。






この帰路では日出、浦和にあった小学校跡も巡っていく。
いずれの小学校も海岸ではなく海岸段丘上の高台に設置されていた。子供たちはわざわざこの坂道を登って通学していたことになる。
それは、津波などの災害を避けるための必要に拠ったのであろうが、大切な子供たちの学び舎を安全な場所に築きたいという親心だったようにも感じられる。
浦和小学校が存在した浦和集落は今も人の生活があったが、日出小学校が存在した日出集落は既に廃集落となっており、地名に痕跡を残すのみである。
これらの小学校は、日出小学校が1924年~1977年、岩部小中学校が1900年~1992年、浦和小学校が1889年~1997年という歴史を持つ。
最も最近まで現役の学び舎だった浦和小学校の建物や敷地が最も綺麗な状態で残っており、岩部小学校や日出小学校は木造校舎が既に倒壊し始めていた。但し、日出小学校の体育館はその構造故か、廃校後、半世紀が過ぎようかという今日に至っても、比較的綺麗な状態を保っていたのが印象的だった。








福島市街地に戻り予定どおりのお店で昼食。
隣接する道の駅に掲示されていたメニューではカツとじの表示があったので、それを目当てに入店したのだが、店内のメニューにはそれが見当たらず、ご飯ものは焼き飯しかなかった。あとはラーメンなのだが、最近、「ちゃり鉄」の昼食でラーメンを食べると胃もたれ感が強く出るので避けている。
あまり歓迎されている雰囲気もなかったので焼き飯のみ注文。
結局、値段の割に量も少なかったので、後でコンビニで軽食を買い直しかな、と考えつつ退店した。
そういうお店もままある。
集落西の高台にある福島大神宮に参拝した後、白符駅、渡島吉岡駅と巡る。
白符駅付近にも歴史博物館に転用された白符小学校跡があり、白符大神宮があるので巡っていく。駅は集落の中ではなく尾根1つ隔てた隣の沢沿いにありトンネルと橋梁を出た先の築堤の上にあったようだ。
ここも簡易版の案内標識があったが、築堤の藪が濃い上に棘草が多かったので駅跡の階段も途中まで辿って引き返した。
渡島吉岡駅は吉岡集落の西側にあり現在はその跡地に砕石工場が入っているため駅跡を直接調べることは出来ない。ただ、砕石工場の入り口の門扉の脇に案内標識が設置されていたので、それと分かる。
この吉岡集落には青函トンネル関係の地上施設があり、地下には吉岡海底駅も存在した。竜飛海底駅とセットになって、海底探検のドラえもん列車が走っていた時代もある。私は学生時代に吉岡海底駅で下車し、駅員の案内を受けて構内を巡ったことがあったが、竜飛海底駅の訪問は叶わなかった。
両海底駅は純粋な旅客駅ではなく青函トンネルの管理のための地上からのアクセス口や事故発生時の地上脱出口としての意味合いが強かったため、北海道新幹線の開業に先立って2014年3月に廃止された後も、保守・避難用設備として維持管理されており、地上付近には関連施設が存在する。ただ、かつての海底駅部分は通常は立ち入りが認められておらず、イベント開催時等に限って訪問することが出来るようだ。
今回は、往路の北海道新幹線「はやぶさ」の車中から目を凝らして眺めたが、ちょうど、竜飛海底駅と吉岡海底駅があった位置は、トンネル内の照明が前後とは異なる間隔で設置されているので、その存在を偲ぶことが出来た。
渡島吉岡駅跡を訪問した後は、吉岡温泉ゆとらぎ館で一浴。
アメニティ類は備えられていないが、入浴料金も安く、自転車の旅にとってはありがたい。一部例外はあるが、北海道の入浴施設は比較的安いところが多いように感じる。
白符駅、13時49分着、13時52分発、66.6㎞。渡島吉岡駅、14時6分着、14時7分発、69.7㎞。吉岡温泉ゆとらぎ館、14時8分着、14時42分発、69.9㎞であった。







渡島吉岡駅から先の松前線は白神岬を避けて内陸を白神トンネルで抜けていた。その遺構が山中に眠っていることであろうが、沿線は採石場の私有地となっている場所もあり、通り抜けも出来ないので、大人しく白神岬経由で松前側に抜けていく。
吉岡の集落を出た後も吉野、松浦という海岸集落が続いているが、松浦集落を出た辺りで海岸集落が尽き、覆道や隧道が連続する区間に入っていく。
途中、松浦にある白神神社にお参りし、北海道最南端となる白神岬には、15時11分着。77.3㎞。
地形や気圧配置の影響もあったのだろうが、この日は東風が非常に強く、隧道脇の記念碑のある駐車場は風に煽られる状況だった。幸いだったのはその強風が追い風になっていたことで、今回の旅は終始曇雨天だったものの、風は比較的追い風基調の場所が多かったように思う。
この白神という地名は福島町と松前町に跨って存在しており、町界尾根に電波施設や一等三角点のある白神岳352.4m、福島町には白神トンネル、松前町には白神岬や白神川、白神集落や白神小学校がある。
ただ、こうして列挙してみると、白神は松前側の地名という気もする。
全国的には秋田青森両県に跨る白神山地が知られているが、地名の由来は同じではなく、ここではアイヌ語由来だとする説もあるようだ。
北海道最南端とは言え観光地的な要素は殆どなく、直ぐ近くにある白神岬灯台もゲートで塞がれており、長居する人も少ない。
天候が穏やかならこの岬の駐車帯の片隅でテント泊などしてみたい気もするし、計画段階では野宿の可能性も残してきたのだが、この日は風が強かったこともあり、このまま予定どおり松前まで走る。
遠目に微かに見える津軽半島を見やりながら、白神岬15時15分発。






白神岬を出た後は東風の影響が少なくなり、海も穏やかになった。
この地域の卓越風向は分からないが、海岸線の地形も岬の東側と比べてなだらかになる。
トイレやベンチが設置された白神岬展望広場を越えた先で白神集落に入るので、ここでは白神小学校跡を訪問。ここではキタキツネが1匹いて、旧校舎の前の草むらで遊んでいたが、私に気が付くと慌てて逃げて行った。
この白神小学校の閉校は2013年3月31日であった。
この白神集落の北側にあるスズキノ沢川の上流付近で吉岡峠を越えてきた松前線は、海食崖台地上を荒谷、大沢と結んでいき、小河川が海食崖台地を刻んで谷を作っているところに、橋梁跡を残している。
荒谷川に架橋されていた荒谷川橋梁の跡は松前線の沿線遺構としてもよく知られたものであろう。
1997年夏の初訪問の時には道路を跨ぐ部分を残して、橋桁も残されていたが、今日では突兀とした橋台が残るのみである。
荒谷川橋梁の手前の海岸集落内で荒谷稲荷神社を参拝し、荒谷川橋梁の下を潜り抜けて沢奥から海食崖台地に登ったところにある小さな集落の敷地に渡島大沢駅があった。
現在は個人宅の敷地のようにも見えた上に、藪が酷くてアブも大量に飛んでいたので、記念標識を撮影して少し藪を探った程度で撤退。今もホームの跡が残っているようだが、発見には至らなかった。
渡島大沢駅は荒谷川付近にあり、そこから、ヒジノ下川を経て大沢川と寺沢川が交わる辺りに大沢集落がある。古くは荒谷村、大沢村が存在していた。
この大沢集落付近ではなく荒谷集落付近に渡島大沢駅が設けられた理由は未調査。文献調査課題になりそうだ。
渡島大沢駅、15時49分着、15時55分発、83.3㎞。






渡島大沢駅跡を辞し、再び海岸の国道に戻って大沢集落に入ったところで、大沢川を遡って松前温泉に立ち寄り。この日、2湯目の温泉である。
最近は1日1湯を目標に温泉や銭湯などに立ち寄る計画を立てることが多いが、日程に余裕があるなら、午前と午後、お昼と夕方などで2湯くらい立ち寄っていくのもよい。かつては3湯、4湯と巡ることもあったが、最近では著名な温泉地の外湯巡りなどを除けば、そんな数の入浴を計画することは少ない。
松前温泉を辞した後は、及部駅を経て松前駅に達し、JR松前線の「ちゃり鉄」を終了した。途中、松前駅付近を一旦通り過ぎて市街地郊外のスーパーに立ち寄り、そこで食材を調達してから松前駅に到着した。
及部駅は松前手前の最後の駅であったが、道路転用されたことも影響されているのか、案内標識も含めて痕跡が残っていなかった。
松前駅は松前市街地を橋梁で跨ぎ、松前城の敷地をトンネルで抜けた先にあったが、跡地には記念碑が設置されており小公園になっている。線路の路盤や敷地は道路や宅地に転用されたらしく、何となく面影が残る廃線跡や未成線跡には、新しい住宅などが建っている。
この先も延伸計画があり工事にも着工していたものの、戦時中断などの紆余曲折を経て未成線となり、今は一部に橋梁や築堤、護岸、隧道の跡を留めている。
松前温泉、16時10分着、16時59分発、86.9㎞。及部駅、17時7分着、17時8分発、89.4㎞。松前駅、17時39分着、17時41分発、95.2㎞であった。
最後に、松前公園内の目星を付けていた東屋に向かい、そこで行動終了。
春は桜の名所として賑わうようだが、この日は広い公園の敷地に殆ど人の姿がなかった。
到着時はまだ明るかったので着替えや荷物の整理だけを済ませて暫し待機。日が暮れた頃を見計らって野宿の準備を済ませ、早朝からハードだった一日を終えた。



ちゃり鉄32号:3日目(松前公園-松前=原口-上国鉱山跡-鴎島)
3日目は松前公園から上ノ国の夷王山キャンプ場までの計画であったが、当日、上ノ国到着時刻が比較的早く、行程的に余裕があった。
翌日4日目は朝から江差に向かい、奥尻島へのフェリーに乗船する前に郊外の笹山に登って笹山稲荷神社を参拝する予定にしていたのだが、その行程がややタイトだったこともあり、3日目のうちに江差まで走って鴎島でテント泊とし、5日目に奥尻島から戻ってきた際に予定の鴎島ではなく、上ノ国まで走ってきて夷王山キャンプ場でテント泊とすることにして、計画を調整した。
松前から原口までは松前線未成線に沿った旅路。
途中、上国鉱山跡にも立ち寄るが、既に人が住まない廃集落となったエリアへの立ち入りなので、緊張を要する。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は松前半島西岸を北上する行程。
矢越岬のような道路のない海岸線は無いのだが、海食崖を避けて段丘上を行く区間が多いので、案外アップダウンは多い。こういう行程は累積標高差も大きくなり意外と疲れるのだが、風景が良いことが多いのでそれが救いだ。
松前線未成線の跡は松前町域の原口までで、上ノ国町域に入ってからは一層鄙びた西海岸をひたすら北上する。
石崎からは内陸に寄り道して上国鉱山跡を訪れるが、この石崎と松前との間を結ぶ道道607号石崎松前線は、上国鉱山の鉱山集落があった早川の先から及部川上流の三又付近まで、長距離に渡って閉鎖されており、峠付近から大千軒岳に至る2本の登山道も閉鎖されたままだ。中間部分には林道で接続された未成区間もあるが、その未成区間が崩落し始めており、熊害の多発という事情もあって、やがては消えゆく定めにあるようだ。
この日の出発は5時13分。
かなり早い時刻ではあるが、既に夜は明けており辺りは明るい。
松前公園からは松前神社や松前城跡を巡った後、松前駅跡に戻ってから松前線未成線の「ちゃり鉄」に入るのだが、直ぐに松前港に向けて「途中下車」もする。
松前藩の歴史についてはここで深入りはしないが、アイヌの台地である北海道において、松前は古くから津軽海峡を挟んだ内地の影響を受けており、そのルーツは中世にまで遡る。
松前城は北海道では唯一の日本式城郭でもある。
その一帯が桜の名所としても知られる松前公園となっているが、敷地は広大で寺社仏閣も多い。
市街地と共に1泊してゆっくりと周るのもよいだろうが、今回は早朝に松前神社や復元天守を訪れるだけにして、松前城跡の訪問を終えた。
早朝ということもあり殆ど人の姿は無く、地元の方が犬の散歩やウォーキングをされているのを少し見かけた程度であった。



松前城跡を出た後は松前駅跡を経て松前線未成線の「ちゃり鉄」に入るが、松前市街地を出る前に松前港に立ち寄って、松前灯台と厳島神社を訪問。
今にも降り出しそうなどんよりとした空模様で心配になるが、レーダーで見る限り近くに雨域はないので本降りに見舞われることはないだろう。
灯台周辺の港湾地区には漁船の陸揚げ設備があってレールが敷かれている。
これを「鉄道」と見做すわけではないが、レールがあると反応してしまうのはある意味職業病かもしれない。
松前線の未成線には館浜、小島、江良、大島の4つの予定駅があった。延長距離は約24㎞。
工事には着工しており、一部に橋台や隧道、築堤跡が残っているようだが、駅予定地に痕跡が残っているという情報はなく、正確な駅予定地についても分からない。情報は事前収集したが、出典記載のない情報や個人の推定による情報も多く、また、限られた出典を基に位置を机上調査しても、明らかにおかしな場所を指しているケースもあったので、正確さの保証度は低い。
ただ、「ちゃり鉄」の取り組みとしては、個々の鉄道遺構の詳細な場所の特定や発見よりも、沿線全体としての鉄道の記憶を辿ることに主眼があるので、考古学的な正確さを求める必要はないと考えている。
松前灯台を出た後は、この日の昼食をコンビニで仕入れてから先に進む。
「ちゃり鉄」は朝晩はテントで食べるが、昼食は自炊ではなく出来るだけ地域の飲食店を利用することにしている。
ただ、ルートによっては飲食店はおろか、集落すらほとんどないエリアを1日走ることもあるので、そういう場合は、事前に食料を仕入れておかなければならない。著しい時には、前日の日中に、翌々日の朝食までの食材を仕入れるというケースもある。
登山行程なら寧ろ食料の携行が当たり前になるが、自転車で1日かけて100㎞程度走る場合にも、そういうエリアが存在するというのは、慣れていなければ驚愕の事実かもしれない。
今回は、昼食のみの確保で済む計画なので、まだ、余裕がある方ではある。
食料を仕入れた後は上ノ国に向けて松前半島西岸に踏み出していく。


まずは館浜駅が予定されていた館浜集落を目指すのだが、この間にある大尽内川、小尽内川を渡る地点に未成線の橋台が残されている。
松前駅を出た後の松前線は現在の国道228号線とクロスして海岸側に出てきた後、折戸浜付近では海食崖の縁に沿って計画されていたようだ。大尽内川の渡河地点に構築された橋台は、海岸に並行に走る国道に対して斜めに作られており、あたかも高架橋で国道を跨いで折戸海岸との間を結ぶような構造になっているが、もちろん建設当時に現在のような国道はなかったので、この橋台は大尽内川と付近の里道を跨ぐ意図で設けられていたものであった。
ここから少し進んだ地点には小尽内川が日本海に注いでおり、そちらにも橋台や橋脚が残っている。
この2か所の遺構は国道からの観察も容易で、松前線未成線の遺構としては随一のものである。
海側を見晴るかすと、沖合には大ヒヤク島を従えた渡島小島が浮かんでいる。
今日の前半行程ではこの渡島小島が「車窓」の友である。




海岸集落の館浜に到着したら、段丘上を通されていた松前線未成線跡まで坂を登る。
この途中に地域のコミュニティセンターに転用された館浜小学校跡があり、入り口の門柱が残されていた。この小学校の閉校は2013年3月31日だという。
坂を登ったところがT字路になっており、ここで左折した先の小学校裏の敷地付近に館浜駅が予定されていたというのがネット上の情報なのだが、それを裏付ける資料は示されていない。
私が確認できた資料では、館浜駅の予定地はもっと北西に進んだ戸長川辺りに位置することになるのだが、それは駅位置を示す里程からの概算なので、それも正しいとは言い難いし、その付近まで足を伸ばしてみたが、館浜集落からは不自然に距離が離れているので、ネットの情報のとおり、館浜小学校裏辺りに駅が予定されていたと見るのが自然な理解かもしれない。
なお、この付近では路盤が農道転用されたようで道路の線形が概ね未成線の線形と見て間違いない。これについては旧版地形図に示された建設路線の記号と現在の道路標示が一致するのが根拠だ。
この農道を先に進んでもよいのだが、海岸沿いを走りたいので段丘上からは降り、舘浜稲荷神社を参拝した後、国道から更に海岸寄りにある集落道に入って先に進む。
空は高曇りで海の色も彩度が低いが、沖合の渡島小島と大ヒヤク島はしっかりと見えており、望遠レンズで覗くと漁港の灯台も見えている。渡島小島と渡島大島はいずれも無人島ではあるが、漁業従事者が緊急避難等で寄港することが出来るように漁業施設が整備されているのである。
館浜、6時24分着、6時25分発、10.2㎞であった。





続く予定駅は小島駅だが、その手前で札前集落を通過していく。
この付近では国道が海食崖の段丘面上を走っており、海岸集落である札前集落は段丘面下の海岸線に沿っているので、国道から分岐して集落道に入る。
札前集落では集落の南端付近にある二ツ岩からの渡島小島、中心部にある海渡神社、北端の海岸付近からの渡島小島などを撮影。
旧版地形図で見るとこの集落にも学校記号があるのだが、詳しい情報がなく学校跡なども特定できなかったので、今回は訪問していない。
この札前集落の北に妻内川を挟んで展開するのが赤神集落で、かつては赤神村であったため、赤神川、赤神神社、赤神漁港と言った名前が残っている。
ただし、この地区にある小学校は小島小学校となっているほか、松前町役場支所も小島支所となっている。予定駅名も小島駅であった。
不思議に思って調べてみると、この付近の根部田村、札前村、赤神村、茂草村、雨垂石村などが1923年4月1日に合併して小島村を形成しており、その小島村が松前町、大沢村、大島村と1954年7月1日に合併して松前町を形成したことで、小島村の名前が消失。それ以前の旧村名は小島村の字名になっていたことから、そのまま松前町の字名として現在に引き継がれたということになるようである。
してみれば、松前線未成線の建設工事中は小島村域だったわけで、駅名が小島駅と予定されていたのも納得がいく。
その小島駅の予定地と目される場所は赤神村に隣接する雨垂石村域の静浦集落付近にあり、現地は児童公園となっていた。
小島小学校、赤神神社、静浦浅間神社なども巡って、小島駅予定地付近の探訪は終了。
なお、この浅間神社のある小さな谷あいの民家脇に橋台跡と思われる構造物が残っている。
小島、7時13分着、7時15分発、19㎞であった。







小島を出た後は江良に向かう。
その途中で茂草集落、清部集落に立ち寄り、茂草荒神神社、清部八幡神社と清部小学校跡を巡る。
ところが茂草荒神神社はルート計画を誤っていて、神社裏の高台を行くルートで設計してしまったので、眼下に神社の屋根を見下ろすことは出来たが、境内に入ることが出来なかった。引き返すことも考えたが、既に高台の国道に取付くための登り途中だったこともあり、ここは通過した。
茂草集落は茂草川の河口付近に開けた小集落だが、既に述べたように、小島村成立以前は茂草村が存在していた。
清部集落も海岸集落であるが、ここでは、海食崖斜面が緩やかなこともあって、海岸に沿った集落道と台地上の国道との間の斜面に集落が展開している。
斜面付近にある清部八幡神社に参拝した後、国道を横断して高台にあった清部小学校跡を訪問。
この小学校は1881年にまで遡る歴史を持ち、閉校は2004年3月31日。
味わい深い木造校舎や体育館などが今も残っており、校庭の入り口には門柱も残っている。
比較的規模の大きな小学校ではあったが、過疎の波には到底抗うことは出来ず、廃校のやむなきに至った。
清部集落を出た後は高野、大津という小集落を経て江良に至る。
ここには江良駅が予定されていた。
入り口にあたる大津には大島中学校跡があるので立ち寄っていく。
中学校があったということは、この江良がそれなりの規模の市街地だったことの証明でもあるが、それが廃校になり現在は大島小学校だけになっているので、やはり、衰退の流れの中にある。
この江良集落では江良駅予定地付近の他、江良小学校と江良八幡神社とを訪れる計画にしていたのだが、地図を読み違えていて、同じ道に沿って存在すると思っていた小学校と神社が、崖の上と下に分かれていたので、小学校側からアクセスした私は神社を探して右往左往した。
江良駅予定地も正確な場所は分からない。
ただ、江良集落に入る直前、大島中学校の対岸の海食崖中腹に未成線の隧道ポータルが痕跡となって残っているらしいが、この時期は蔦草に覆われていて目視確認することは出来なかったし、背丈を越える草むらに突っ込んでいく気にもなれず、遠望するだけで終わった。
旧版地形図で確認すると、江良八幡神社と思われる神社記号よりも山手の位置から原口方面に向かって建設線の表示がなされているのだが、実際に神社がある位置と比較してみると少々無理がある。
恐らく、今の国道沿いくらいの位置が路盤の予定地だったと思われるのだが、そこまでの詳細な調査は出来ていない。今回は、国道から大島小学校に向かう入り口付近を駅の予定地と推定して写真を撮影するにとどまった。
なお、大島小学校や松前町役場大島支所という施設名に見られる大島は、かつて存在した大島村に由来し、その大島村は1915年4月1日に江良町村、原口村、清部村が合併して成立したものであった。集落名の江良は大島村の字名だったものが、1954年7月1日の松前町成立に伴って、そのまま松前町の字名に転じたもので、この時、大島の地名が消えたものの、役場支所や小学校の名前として残っているのであろう。これは、小島村を巡る経緯と同様だ。
この小島村、大島村が、沖合に浮かぶ渡島小島、渡島大島を意味しているのかというと、そうではなく無関係だという記述もネット上にある。その辺りは文献調査が必要かと思われる。
江良、8時13分着、8時14分発、29.7㎞であった。







江良の次は未成線の終点であった原口である。
二越集落付近で大島市街地を出ると、その後、原口までまとまった集落はない。
途中、二越川、奥末川を越える地点では国道は架橋されているが、その架橋地点からは前後の海食崖を見下ろすことが出来、一部、未成線の路盤と推定される構造物を遠望することが出来る。一部は国土地理院の地形図にも図示されているので、対比してみると面白い。
ただ、今回は植物の繁茂が激しい夏場ということもあり、海岸に降りてそれらの構造物を探ることは控えた。奥末橋の直下には未成線の橋台が1基残っているようだが、これは風景に気を取られて見落としていた。次の機会に探訪しようと思うが、こういう場所がどんどん増えていくのは嬉しい悲鳴でもある。
この辺りまで来ると、渡島小島は既に視界後方。海食崖の向こうに大ヒヤク島と共にその島影を見せてくれているが、随分と遠方になった。
変わって視界側方には渡島大島が微かに見えているのだが、50㎞程度も離れているため、はっきりとは見えない。
この2島は基本的に一般人が立ち入ることが出来ないが、イベントなどでたまに渡ることが出来るようなので、いずれ、訪問してみたいとは思っている。
原口集落も海岸集落なので国道から分岐して集落道に入るが、分岐して直ぐのところには高台側の集落があり、ここに原口小学校跡である松前町交流の里づくり館がある。原口小学校は1882年開校、2008年3月31日閉校であった。
そして、国道からの集落道と交わるもう1つの集落道があって、どうやらこちらが未成線路盤を転用した道路のようである。
その道路は交流の里づくり館の北側集落内に少し伸びたところで行き止まりなのだが、この辺りに原口駅が予定されていたようだ。
ここから坂を下ると郵便局や漁港のある海岸側集落に入り、漁港付近に流れ出す原口川の奥に原口八幡神社がある。
松前線の未成線はこの原口を目標として着工したのだが、沿線山間部で産出されるマンガン鉱などの鉱物資源の搬出を目的としていた。
実際、ここまでのルートで山地から流れ出す幾つかの河川の上流には小さいながらも鉱山があり、旧版地形図に示されたものもある。赤神集落に流れ出していた赤神川の上流にあった赤神鉱山などが分かりやすい。
今日ではその鉱山道自体も草むらの中に消失しており、地図には徒歩道の表示すらない。
ヒグマが多いエリアということもあって踏査は極めて困難。もちろん、今回も計画には組み込まなかったし、組み込んでいても藪が深すぎて現地で断念していたであろう。
原口駅予定地に関しては「ちゃり鉄32号」の実施段階では正確な場所を把握しておらず、漁港前のバス停付近をそれと仮定して写真を撮影していた。実際には、原口小学校跡付近が予定地だったと見て間違いなさそうである。
漁港付近でのタイムスタンプは、原口9時着、9時1分発、38.5㎞であった。








原口を出た後は渡島半島西部を北上し上ノ国を目指すことになるが、途中、石崎集落から内陸に入り、石崎川中流域にあった上国鉱山跡を訪問する。
この区間で松前町から上ノ国町へと町界を越えることになるのだが、集落は少なく国道も海食崖の上を行く。
松前町と上ノ国町の町界もこの区間にあり、願掛沢という沢に沿って境界線が引かれている。
ここに願掛1号橋という国道橋が架橋されており橋上が町界。
海側に深い谷を刻んで願掛沢が流れ降っているのだが、その先の日本海には左遥かに渡島小島、右遥かに渡島大島が見えている。渡島大島は陸地からの距離が遠いため、山頂部が僅かに見えているだけだし、霞んでいてはっきりと見えたことはない。この日も辛うじて輪郭をなぞることが出来る程度であった。
この願掛沢を越えた所から上ノ国町小砂子に入るのだが、少し進んだところで日方泊岬の灯台を前衛にした小砂子集落が見えてくる。この付近を走るのは20年来だが、前回、この集落を目にした時には、その佇まいにハッと心を掴まれた。
今回はスッキリとした晴天ではなかったものの、やはり、美しい集落と灯台の風景が広がっていて、心躍る。
小砂子集落は灯台が立つ日方泊岬の台地の上と、岬の北東側の海岸沿いに開けた小さな集落だが、ここにも稲荷神社があり小学校もあった。小砂子小学校は1884年開校、2012年休校。閉校としなかったのは漁業従事者の子供達の将来の入学が想定されたためだというが、実質的にはそのまま閉校となったようである。
前回の訪問時は灯台にだけ立ち寄って通過したが、今回は「ちゃり鉄」としての訪問。高台から漁港側に降って小砂子稲荷神社を参拝し、台地に登り返して小砂子小学校跡も訪れた。
とは言え、この集落は純然たる漁業集落で観光施設の類は一切ない。野宿での訪問もしてみたいのだが適地もない。だからといって、集客用施設が必要だとも思わない。
「ちゃり鉄」の旅で訪れるなら、むしろ、こういった集落の方が、より一層、旅情を感じられるのは確かだ。
最後に地区の集会場として活用されている小学校跡を訪れて小砂子集落を後にする。
小砂子小学校跡、9時41分着、9時46分発、45.2㎞であった。








小砂子集落から先も国道は海岸段丘の上の高いところを通過しており、付近に海岸集落はない。
アップダウンも続く国道を北上していくと、右転しつつ石崎川に向けて降り始め、河口に開けた石崎集落に入る。
ここで石崎八幡神社を参拝し、国道228号線から道道607号石崎松前線に入り、閉鎖ゲート前の早川集落跡と上国鉱山跡に向かう。
上国鉱山は1939年創業の鉱山でマンガンの他、金、銀、鉛、亜鉛などを産出したという。閉山は1986年のことであるから、比較的、新しい鉱山だったと言えるだろう。
石崎市街地の最終民家を過ぎた後は、もう、現住民家が存在しないことは事前調査済み。石崎川に沿って採石場なども存在するので、全く、人の気配がないわけではないし、道道も片側1車線のしっかりとした道ではあるが、やはり、人が活動しないエリアの奥深くに立ち入るのは緊張する。
突発遭遇を防ぐためにホイッスルを吹きながら進んでいくと、ウォーキングをする高齢男性とすれ違った。地元の方だろうが、彼にとっては歩きなれた道なのかもしれない。
緊張しながら走り続けるうちに、右手山腹に上国鉱山跡の象徴とも言うべき焙焼炉の跡が見えてきた。
夏草が旺盛に繁茂していて間近に眺めたりするのは困難であったため、道路付近からの遠望写真撮影で済ませたが、往時は、この焙焼炉付近を中心に、周辺一帯に早川集落が形成され小学校もあった。
今日、その面影は殆どない。
石崎川はこの早川集落跡付近で小砂子川を分けており、その小砂子川の流域にも鉱山が点在していた。
坑道踏査などは難しい季節ではあったが、道路付近に残る鉱山施設跡を確認しに、小砂子川流域にも入る。
なお、この小砂子川と先ほど訪れた小砂子集落との間にどういった関係があるのかは分からないが、小砂子川源流域には三等三角点小砂子があり標高479.2m。そのピークから南西に伸びる尾根の先に日方泊岬と小砂子集落があるので、「小砂子」はこの三角点ピークの山に由来する地名なのかもしれない。
この小砂子川流域では幾つかの排水処理施設の他、50m坑跡が残っており、今も排水処理が行われている。更に奥地に足を伸ばせば他にも廃坑や鉱山施設が残っているようだが、今回の踏査は自転車でアクセスできる場所に限定したのでこの付近までにして引き返す。
その道すがら、道道との三叉路に出る手前にあった鉱山関係の事務所跡らしい建物を探ってみた。
ここも夏草に覆われて大変ではあったが、早川集落跡に残る数少ない建物である。
2000年代初頭の訪問記を見ると、小学校の校舎なども残存していたようだが、それらは撤去されていて既に現存しない。もし、徒歩での踏査を実施するなら春先に計画するのが良いだろうが、それにしてもヒグマの危険性はぬぐい切れない。万全の対策・装備が必要となることは当然である。
上国鉱山跡10時49分着、早川集落跡11時5分発、60.2㎞~61.7㎞でこの付近で1.5㎞程度の範囲を走行した。




上国鉱山跡を辞した後は再び石崎集落に戻り、そこから国道228号線に復帰して海岸線の北上を続ける。
この区間に汐吹集落、扇石集落、木ノ子集落などの海岸集落があるので、これらの集落を辿り、集落の鎮守社や小学校跡を辿っていく。
汐吹集落と愛宕集落は汐吹漁港付近で隣接しており、愛宕神社や滝沢神社は愛宕集落地区内にある。
滝沢神社では地元の方が拝殿の清掃をされており、参道の写真を撮影している私を手招きして下さっていたので、普段は閉じられている拝殿にも上がってお参りする機会に恵まれた。
7月下旬から8月上旬にかけて、この付近では夏祭りが各地で開催されるようで、それに備えた拝殿の清掃や準備をなさっていたようで、お茶をいただく。
この旅では熊スプレーを携行し、ウェストベルトに装着していたので、それにも直ぐに気が付かれた。
ここ数年の熊害多発を受けて駆除が進んだこともあり、このエリアではそれほど多く出没はしていないが、風力発電施設が山地に作られるようになってから、里に熊が出るようになったとも仰る。樹木の伐採などによるのかを尋ねたら、そうではなく、低周波だとの回答。
そういう言説の科学的な裏付けの有無は知らないが、地元の方の感覚というのは傾聴に値するものだ。
実際、この「ちゃり鉄32号」では風力発電施設が近くにある夷王山キャンプ場でテント泊をしているが、風力発電施設の風切り音は、やはり、耳障りなことは間違いないし、一体の樹木が伐採されてしまうことによって、熊や野生生物の生息に大きな影響を与えることは間違いないだろう。
暫し歓談の後、滝沢神社を出発。
出発間際にはもう1本、お茶をいただき恐縮しきり。
滝沢神社は愛宕集落の斜面中腹にあるので、もう一度、海岸付近に降って北進。
途中、木ノ子集落に入った辺りで広域避難所となった滝沢小学校跡の建物が見えてくる。
小学校の施設は廃止になった後も地域の集会所などに転用されたり建て替えられたりして、人が集う場所として機能し続けることが多い。
公的施設だからという現実的な理由もあるだろうが、その地域に生まれ育った人々の愛着の念も感じられるだけに、こうした施設を訪れていく旅は旅情深いものがある。
木ノ子集落付近まで来ると国道東側の後背山地も随分と低くなり、地形は緩やかな丘陵状になる。
大安在川の河口を越えた後は穏やかな海岸沿いを眼前の洲根子岬に向かって進み、岬の台地上に展開する大崎集落では、洲根子岬と大崎稲荷神社を巡る。
洲根子岬からは来し方渡島半島西岸の海岸線を遥かに見渡すことが出来る。この日はスッキリとは晴れず、上空1000mにも満たない低い位置に低層雲がかかっていたこともあり、大千軒岳を名主とする山岳地域は雲に隠れており、海を見渡しても沖合に浮かぶはずの離島がいずれも見えなかった。
大崎稲荷神社12時38分着、12時40分発、80.8㎞。










洲根子岬を周り込んだら、上ノ国の市街地と江差の鴎島が見えてくる。
高台から一旦海岸の原歌集落に降り西宮神社を参拝した後、大澗ノ崎にある道の駅「上ノ国もんじゅ」に立ち寄る。
ここで昼食にしても良かったのだが、この日は携行食で済ませる計画で既に走りながら食べてきたので道の駅自体はスルーし、大澗ノ崎にある神の道と名付けられた遊歩道を散策。
ここには海食崖と岩礁が広がっているのだが、その一画に鳥居の据えられた海食洞があり、風景の象徴となっている。
この日は晴天とはいかなかったものの海は穏やかだったので、太公望が釣り糸を垂れていた。
「ちゃり鉄」では装備面で難しいのだが、車で移動するテント泊の旅をするなら、焚火と共に釣りは楽しみたいと思う。
観光客の姿も多い道の駅を後にし、上ノ国八幡宮を参拝。
これでこの日の主要訪問地は全て周ったことになるので、夕食を買い出して花沢温泉に向かい、一風呂浴びてから夷王山キャンプ場に登ってテント泊というところだったのだが、行程的には上ノ国八幡宮で13時22分着、13時25分発、84.8㎞。まだ、かなり時間の余裕がある。
翌日は朝のハートランドフェリーに乗船して奥尻島に渡るのだが、その前に江差の東部に控える笹山に登り、山頂付近の笹山稲荷神社を参拝したい。
フェリーの時間に間に合わなければいけないこともあり、朝の出発を5時に設定していたのだが、今日中に江差まで走ってしまって朝の時間に余裕を持たせる方が賢明でもある。
ということで、この日は上ノ国を素通りして江差まで向かうことにした。
この2日後、奥尻島から戻ってくる日は江差の鴎島での野宿の予定だが、その計画を変更して夷王山キャンプ場まで走って野宿とする。
この計画変更によって、江差の銭湯である松の湯に立ち寄ることが出来る。松の湯は2日後が生憎休業日だったのだ。
花沢温泉はこの日は通過するが、2日後に入浴。
こうしたアドリブで具合よく計画変更していくのも楽しい。





上ノ国から先は木古内、函館方面からの道路交通も合流する為、交通量が多くなる。
右手にはJR江差線の廃線跡も現れ、上ノ国町と江差町との町界を越えた先の椴川では、椴川橋梁跡が進路右手に残っているのが目に入った。
途中、八大龍王神八江聖団江差本宮という巨大な鳥居と拝殿を備えた神社に立ち寄り、更に江差市街地で買い出しを済ませた後は、市街地後方の丘の上に鎮座する桧山護国神社を参拝。
山を降って銭湯の松の湯に立ち寄って汗を流す。
「ちゃり鉄」の楽しみの一つが温泉・銭湯巡りなのだが、より一層、鄙びた味わいがあるのが銭湯だ。
一般的な観光客が立ち寄らないような、地域の銭湯を訪れるのは、ローカル線の駅巡りにも通じる楽しみがある。
残念なのは、こうした地域の銭湯も全国的に失われつつあるということだろう。
その意味で、この日、計画変更で松の湯に立ち寄ることが出来たのは、実に恵まれていた。
松の湯14時58分着、15時30分発、97.3㎞。





松の湯を出たら鴎島に向かい、15時47分着。99.1㎞。
キャンプ場は鴎島の海食崖台地北側にあり、長いスロープを登らなければいけないので、広大な敷地の割に利用者は少なく、この日もざっと見渡した限りで10張りもないくらいだった。
ただ、海の眺めが良くて平坦な場所は既に押さえられてしまっており、場所を探して自転車を押し歩いたのち、島の北端部に良さそうなスペースを見つけたのでそこにテントを張った。
16時半頃には一通り落ち着いたので、カメラを携えて鴎島一周の散歩に出る。
島は南北に長い形状をしており周囲は海食崖に囲まれている。
キャンプ場やグランピングエリア、灯台があるのは北側で、南側は遊歩道があるものの、滞在用施設などは整備されていない。
鴎島での野宿は学生時代以来なので約30年ぶり。
天気が良ければ紺碧の日本海が広がる絶景なのだが、残念ながら、この日は曇天で夕日も期待できなかった。
南側の遊歩道から戻って来ると奥尻島からのハートランドフェリーが江差港に入港するところだった。
ハートランドフェリーは1日2便で、奥尻島側から江差港を往復する運用。午後の便は折り返し奥尻島への最終便となる。
以前は瀬棚航路もあり、私は瀬棚航路で奥尻島に渡ったのだが、2026年現在は江差航路のみが運行されている。
鴎島灯台や厳島神社を巡った後、テントに戻って夕食を済ませ、一日の精算を終える頃には夜の帳がテントを包み込んでいた。
30年前にどのあたりでテントを張ったのか記憶はないが、あの時は、翌朝、街中でおばさんに「朝食食べた?うちで食っていきな」と朝食をご馳走になり、松前方面へヒッチハイクで旅をしたのだった。
そんな学生時代の旅を思い出しながら、心地よい眠気に包まれていつの間にか眠りに落ちていた。









ちゃり鉄32号:4日目(鴎島-…笹山稲荷神社…-江差港~奥尻港-青苗岬-北追岬)
4日目はいよいよ奥尻島に渡る。
朝一番で笹山稲荷神社を登山参拝した後、9時40分の午前便で奥尻港に渡り、島の南半分を巡って北追岬で野宿の予定だ。
奥尻島は20年ぶり。
北海道の有人離島に渡る機会には恵まれていないのだが、これまで唯一、渡ることが出来た島で、あの時は稲穂岬で野宿をしたのであった。
今回は島内2泊にしてじっくり回ることも考えたが、行程全体の制約もあって2泊での訪問は叶わなかった。
ただ、2日目の離島を午後便にしたことによって、前回は実現できなかった神威山訪問なども行うことが出来た。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。



この日はフェリー航路を挟んでいるので、断面図は2枚に分けている。
1枚目は鴎島の海食崖から降りて笹山稲荷神社を往復して奥尻港に戻る過程が見事に現れている。笹山の標高は611mであるから、概ね断面図が示す標高も正しい。
2枚目は奥尻島の南半分。75m付近をピークとした小刻みなアップダウンが続く様子が見て取れる。この手の断面図を示す現地は走るとハードなことも多いのだが、久しぶりの奥尻島をのんびりと走ったこともあり、ハードさはそれほどでもなかった。
上ノ国から江差まで前日のうちに移動しておいたとは言え、9時40分のフェリー出港前に登山を終えて戻って来る計画なのだから、朝は早立ちする方がよい。
そういうこともあって4時過ぎには撤収を開始し、元の予定よりも早い4時54分には鴎島を出発。
これだけ早い時間でも、釣り人は複数居た。夜釣りの人も混じっていることだろう。



ここからは、一旦江差市街地を北に抜け、豊部内川に沿った谷あいを遡っていく。
道路は舗装路だが、ゴルフセンターの敷地付近からは未舗装になり、無人地帯に分け入る。
ヒグマの報道は聞かないエリアだが、ホイッスルを吹きながら警戒して進み、笹山稲荷神社の山麓鳥居前には5時29分着。5.6km。
ここで林道は二股に分かれており、参道の鳥居はその中間に位置する。参道を辿るのなら、この鳥居を潜って進むことになるのだが、その情報が事前に得られず、笹山登山道はこの二股を左手に進んだ荒れた林道の突き当りの小さな広場から始まるという情報を得ていたため、左側の林道を探る。右側の林道は地図で見た限り、少し先の砂防ダムらしき場所で終わっているので、この時点ではノーマークだった。
左手の林道は車での通行の記録も目にしたものの、現地で見る限り、藪が濃すぎて自転車を漕いで登るのは躊躇われた。
その為、本来の登山口地点よりもかなり降ったこの二股で自転車をデポして徒歩行程に切り替えることにしたのだが、それはそれで時間的な余裕を失うので、果たしてフェリーの時間までに下山できるか気になるところであった。
この左股沿いには幾つか水源施設があったので、管理車両が入ることもあると思われたが、進むほどに藪が濃くなり、自動車での進入は難しく廃道化しているようにも見えた。
沢筋を詰めた先で車1台分程度の平場に突き当たると、そこが、当初計画での登山口。
ピンクテープがこの先の登山道の存在を知らしめてくれるが、この様相だと、登山道自体もあれている可能性が高い。
沢筋はこの先で更に二股に分かれており、左手には元山登山口の看板がある。
ここを右手に進み、小さな丸太橋を渡ると斜面に取付く。この先、403m独標尾根までは電光を切って斜面を登っていくようだ。
斜面に取付くと予想に反してしっかりとした道型が現れ、順調に高度を稼いでいく。




尾根筋に出ると明瞭な林道と合流するが、山腹を巻きながら進む林道から分かれて尾根筋を登り詰めていく場所もある。
比較的歩きやすい場所も多いので、序盤の遅れを取り戻すべく、ハイペースで登り詰めていく。
頂上まで1.2㎞の標識がある地点から、再び林道と分かれて山腹を巻くようになるが、この先は道が沢筋に入って不明瞭な個所もあり、道型を探して彷徨う地点もあった。
やがて小さな沢筋を越える地点に小詞が見えてくる。
事前にマークしてはいなかったが、これは十和田神社のようである。
この十和田神社を過ぎて視界が開けてくると山頂の雰囲気が出てくるが、笹山の名前通りの笹原が広がり、ルートが不明瞭になる。
ここもロープなどが張られてはいるのだが、笹に覆われて埋もれてしまっているので、足元の刈り込み跡を探りながら、笹原を泳ぐようにして進んでいく。
辺りは濃霧に包まれており、笹に付いた水滴で衣類はビショビショだ。
レインウェアを装着するべきだったが、時すでに遅し。
それでも笹薮漕ぎを終えて山頂付近の平場に達すると、先ほど分かれた林道が合流してきて、程なく笹山山頂に到着。6時45分着、10.1㎞。4.5㎞を1時間12分で登ってきたことになるので、徒歩の登山としてはかなり軽快なペースであった。
山頂には神社の社務所らしき建物の他、ご神体らしき巨岩の脇に拝殿が設けられていて、元山に続く稜線沿いには山小屋もあったが、こちらは閉鎖されていた。
神社関係者が祭事の時などに使うのであろう。
ネット上の記録では軽トラがこの山頂付近まで登ってきている写真も見られるので、登山途中に何度か交わった林道を登ってきているらしい。
霧に包まれた山頂は風も吹き抜けていて体が冷える。
拝殿で笹山登山の無事に感謝を捧げ、体を冷やしきらないうちに下山することにした。
登り行程の所要時間を考えれば、フェリーの時間には余裕をもって江差港まで戻れそうではあった。
笹山稲荷神社、6時49分発。





帰路は往路の笹薮を戻らずに、林道伝いに山麓に降ることにする。
この林道は地図には表示されていないが、途中で合流した場所の位置関係を考えると豊部内川に向かって降っていくことは明瞭だった。
もしかしたら、自転車をデポした二股の右手側林道に向かって降っていくのかもしれない。
もちろん、闇雲に降っていくのは危険なので、GPSのログで現在位置を確認しながら降っていく。
この林道は403m独標付近から沢筋に入って詰めてきた参道とは異なり、545m独標尾根付近を周り込んで尾根伝いに高度を下げていく。
笹山山頂から南にある502m三角点に続く尾根付近までは霧の中だったが、そこから右に転じて545m独標に降り始めた辺りで霧の下に戻り、風も収まって体が冷えるのを防ぐことが出来た。
道型はかなりの急勾配で斜面を降っており、4輪駆動の軽トラなどでなければ登降は困難だろう。
所々で往路の参道と交わりながら軽快に降っていくうちに、往路では見かけなかった幾つかの鳥居も見つかる。
鳥居自体は随分古い時代のもので、倒壊しているものもある。
往路の登山道が本来の参道かと思っていたが、そうではなく、本来の参道は403m独標付近から登山口の二股にかけての尾根筋に沿って伸びていたようである。
林道自体はその参道に絡みながら、山腹を巻いたりしつつ山頂稜線に突き上げるように、後年になって整備されたのであろう。
してみると、往路で辿った左側の林道は水源施設の管理用道路で、その突き当りから笹山、元山に直登するルートが後年になって開かれたと見るのが正解なのかもしれない。
途中、サダサ川から突き上げてきた往路の登山道を見送ると、林道は、サダサ川と金堀ノ沢との間の尾根に沿って進むようになる。概ね、二股から右手の何処かに降り立つことは確認できたので、往路のサダサ川沿いの林道には戻らず、このまま尾根筋の林道を降る。
降り立った地点は二股から右手の林道に入って100mほど進んだ地点。二股には逆行する形で合流するのでここでヘアピンカーブを描いて二股に戻る。
道端に積まれた土嚢の上にはマムシが1匹。
今回はマムシによく出会う旅だった。
笹山登山口には7時46分着、7時48分発。14.8㎞。多少迂回した分、登りよりも0.2㎞長い行程となったが、57分で降ってくることが出来た。



ここからは江差港に程近い姥神大神宮を参拝して笹山登山の無事に感謝を捧げ、奥尻港には8時6分着。
時間的な懸念もあった笹山登山だったが、十分な余裕をもって港に到着することが出来た。とは言え、夷王山キャンプ場からの行程だったら時間的にはギリギリになってしまっていただろう。昨日の行程変更は功を奏したと言える。
ウェア類は下山とその後の走行で概ね乾いたが、足回りはかなり湿っていたので、ここで靴を脱いで手入れを始めたところ、シューズや靴下から合計14匹ものマダニが出てきた。
これらを取り除き、念入りに確認してから再着用。夏場の藪漕ぎのリスクを再確認したのであった。
港でコーヒーなどを飲みながら船待ちする間に、大きな汽笛の音がしてフェリーが入港してきた。
夜行列車がほぼ全廃となり、ローカル線も次々に消えている今日、船は旅情に溢れた旅の交通手段として随分と貴重になったが、その船もまた、廃止や減便が相次いでいる。
離島航路は有効な代替交通がないために廃止できずに存続している面もあるが、それでも航路パターンが減少したり、便数が減ったりしている。
奥尻航路もかつては瀬棚、江差の2つの港から出ていたが、今では江差航路のみの運行で1日2往復。
それなりの数の島民が居るので航路自体が廃止されることはないだろうが、過疎化と交通機関の経営難の問題はここでも色濃い。
それは兎も角、フェリーは構内でダイナミックに旋回し船尾側から着岸。奥尻島から本土への旅客貨物が一斉に下船してきた。




フェリーの接岸時刻は9時15分頃で、出港時刻は9時40分。
僅か20分余りの間に、乗下船が完了するのだから、手際の良さには感服する。
港には乗船待ちの車両、二輪車、自転車、一般旅客が居るが、この日は自転車の私が一番先に車両甲板に誘導された。他に原型積み自転車での乗船客の姿は無かったので、私1人が船内に入ることになる。
誰も居ない船室に上がり、雑魚寝式の二等船室を眺めた後は、開放デッキに上がって出港までのひと時を過ごす。
この頃には車両の積み込みが始まっており、見ていると、輪行自転車を抱えた男性がターミナルビルに歩いていく姿も見えた。
車両の積み込みが一段落した頃になって徒歩での一般旅客が乗船開始。
団体客が居るようで列をなして乗り込んでいた。
それまで人の姿がなかった開放デッキにも観光客らしき人の姿が現れるとともに、程なく、定刻を迎えて出港。もやい綱が解かれて奥尻港に向けてゆっくりと進み始めた。
9時40分発。



出港後は低速で江差港内を進む。
鴎島や江差市街地を眺めながら、しばし、本土に別れを告げる心地になる。
港入口の赤灯台を越えると、いよいよ江差港外。
港湾入口の灯台の色は、入り口から奥に向かって右側が赤色で赤色発光、左側が白色で緑色発光と決まっている。当たり前のことだが、その規則と目の前の風景の一致を確認していくのも楽しい作業だ。
港外に出ると船は針路を北西にとって一直線に奥尻島に向かう。
遠ざかる鴎島や江差市街地の奥には、先ほど登山を終えてきた笹山周辺の山塊が霧に包まれながら横たわっているのが見える。
左舷船尾から右舷にかけては、洲根子岬から江差を経て尾花岬にかけての北海道本土の陸地が見えており、遊楽部岳周辺の大きな山塊も厚い雲に覆われながら横たわっている。
左舷はるか遠くには辛うじて渡島大島の島影が見えているが、こちらも望遠レンズで撮影してみると山頂付近が雲に覆われていた。
出港して20分ほど経つと微かに奥尻島の島影が前方に見え始め、40分ほど経った10時20分頃になると、その島影がはっきりとしてきた。
9時40分に江差港を出港して奥尻港には11時50分に入港するので、2時間10分の船旅。
出港時から30分程は開放デッキにも観光客らしき人の姿が絶えなかったが、1時間も経つと人影も疎らになる。
かくいう私は、この2時間の間、トイレと飲みものの調達以外、ずっとデッキに居た。5時間くらいまでの航路であれば、風雨寒冷の気象条件でもない限り、大体、デッキで過ごすことが多い。
11時頃になると、右舷側に大きな山並みが見えてくる。水際には崖が見えている箇所が多いが、ちょうど帆越岬から尾花岬にかけての海岸線で、北海道本土最西端の難所だった地域だが、今は長大なトンネルが開通して、車でなら難なく通り抜けることが出来るようになった。
それでも尾花岬などは未だに陸路でのアクセス路がなく、ネット上にはいくつもの探訪記が掲載されている。
私自身も今回、矢越岬と合わせての到達を目論んだのだが、日程的な余裕もあってここまで足を伸ばすのは断念した。
近年有名になった太田山神社もあるので、そう遠くないうちには踏査したい地域である。








11時20分頃には船室を巡回してみたが、乗客の過半数は昼寝。めいめいにスペースを確保して横になっており、寝息が聞こえてきそうなくらいの静けさに包まれていた。
カメラのシャッター音も気になるくらいだったので、撮影はほどほどに控えて再びデッキへ。
デッキの方が落ち着くというのは、ある種の特異体質なのかもしれない。
残り10分ほどとなって既に奥尻港やその周辺の街並みが近くに見えている。
途中、青空が広がる場面もあり、奥尻島は本土の曇天から解放されて晴天かと期待したのだが、残念ながら、奥尻島に近づくにつれ本土と同じような鈍色の空に覆われてしまった。
奥尻港の白色灯台を左手に見ながら港内に周り込み、ご当地キャラの「うにまる」が迎える岸壁に横づけになろうかという頃合いを見て、下船準備の為に船室に戻る。
二等船室も既に下船準備を始めた乗船客で混雑していた。車両甲板に降りても、自転車は乗船時と同様に1台だけ。輪行の男性は輪行のまま乗船したらしい。
下船時は乗船時とは逆の順序で、自転車は最後の下船。
車両が全て出て行った後に、自転車を押して約20年ぶりの奥尻港に上陸した。11時50分着。






今日は、これから午後の半日で奥尻島の南部を時計回りに周回し、青苗岬を経て西部の北追岬に向かう。ここは近くに神威脇温泉があり、サイトは小さいがキャンプ場もあるので、自転車ツーリングでの野宿場所としては最も好ましい。
ただ、サイトが小さいだけに、先行者で既に満員になっていないかが心配であった。
奥尻港のある奥尻地区は町役場も置かれた奥尻島の中心地で、島で唯一のコンビニであるセイコマートもある。
奥尻港を11時58分に出発した後は、お昼時だったのでこの市街地の食堂に入って昼食。
船の中で見かけた人の姿もあり、皆、奥尻島らしいメニューを注文されていたが、私は定番のかつ丼を注文。この後も自転車で走るので、胃もたれしない程度でカロリーや蛋白質をしっかり摂取できるメニューとして、価格もお手頃なかつ丼を選ぶことが多い。以前はラーメン類も多かったのだが、最近は胃もたれすることが多く、注文することは少なくなりつつある。
食堂を出た後は、直ぐ近くにある鍋釣岩を訪問。奥尻島のパンフレットに使われることも多い、象徴的な奇岩である。
奥尻島の観光に際しては日帰りの弾丸訪問というのもよくあるようで、午前便で島に渡り、午後便で島を後にするというスタイルになるらしい。
その弾丸訪問なのかどうかは分からないが、フェリーで見かけた数名が鍋釣岩に向かって小走りで移動している姿も見かけた。
鍋釣岩で写真を撮影した後は、島の東岸に沿って南下していく。こちら側が卓越風に対する風下側になる関係もあって、西岸側と比べて地形は多少穏やかだ。
海岸沿いには赤石、山ヶ岬、恩顧歌、松江、初松前といった集落が並び、最南端が青苗集落。ここは集落というよりも市街地というのが似つかわしい規模であるが、1993年7月12日の北海道南西沖地震による津波で大きな被害を被ったエリアでもある。
「恩顧歌」は興味をそそる地名でアイヌ語の「オンコ・ウタ(イチイのある浜)」に由来するという説などもあるようだが、「ウンコ・ウタ」「ウンユ・ウタ」などの別の音を起源とする説もあるらしく、確定的なことは分からない。
赤石、松江、そして青苗の手前山側にある富里の各集落では、集落の鎮守社にもお参りしていく。赤石神社を参拝して自転車に戻るタイミングで、軽装のロードバイクの男性が追い抜いて行ったが、身なりが江差港で見かけた輪行の男性と同じだったので、島に到着してから自転車を組んで走り出したようだった。
青苗岬では奥尻津波記念館や徳洋記念碑の建つ広場を一巡し、高台にある青苗岬灯台を訪問。この灯台も津波で被災、倒壊したが、海上交通の安全上、重要な灯台でもあり、1994年3月には再建されたという。
観光俗化はしていないが、敷地への立ち入りは禁止されていないので、間近に灯台を眺められる。
青苗岬灯台13時42分着、13時44分発。37.6㎞。








青苗市街地では先ほどのフェリーから降りてきたらしい、バイクライダーも数名見かけたが、地区の住民の方はあまり見かけなかった。この日は日曜日であり、尾昼下がりだったこともあって、外に出ている人が少なかったのかもしれない。
灯台のある高台にも住宅地が広がっており、比較的新しい民家もある。
被災後に高台移転した世帯が居るのかもしれない。
東日本大震災の津波被災地でもそうだが、高台移転する世帯もあるものの、被災地域に戻って生活を再建する世帯もあり、対応はそれぞれだ。
漁港側の住宅地内には震災により焼失したが、クラウドファンディングで再建された青苗事代主神社があるので参拝していく。
ここから奥尻島西岸を北上していくのだが、青苗地区の少し北側には奥尻空港があり、その敷地から海岸側の群来岬付近にも大寺屋敷、防風濱といった番屋集落があったらしいことが古い地形図に掲載されているので跡地を眺めに行く。
この番屋集落跡へのアクセス路は、旧奥尻空港の滑走路を横切りつつ、新奥尻空港の滑走路の脇を抜ける未舗装の作業路の末端付近にあり、一帯は牧草地や草地となっていた。
特に跡地を示すようなものはなく、古い地図に載っていたような徒歩道も消失しているので、未舗装路から先の草地に立ち入るなら藪漕ぎが必須である。情報として現物は未確認ではあるが、実際にこの地に寺院が建立されていた時代もあるらしく、それが「大寺屋敷遺跡」として、奥尻島観光協会のパンフレットに紹介されているという。ただ、この寺院も移転しているようなので、草地に立ち入っても建物の痕跡を見つけたりすることは難しいだろう。
この辺りは米岡集落となるが、遠く、青苗岬方面を遠望することが出来る。気象条件が良ければ、渡島半島や室津島、渡島大島なども一望できるようだ。
引き返して道道に戻った後、奥尻空港にも立ち寄った。
この空港は1日1往復が発着するだけの空港で、私が訪問したタイミングでは人影は全くなかった。
とは言え、発着に際して職員が業務を行うはずで、1日1往復の空港の維持管理業務がどのような体制で行われているのかは興味が湧く。
後に神威山登山の際に案内して下さった自衛官の方から伺った話だが、函館便がメインで丘珠便が週1便のみなので、利便性には劣るとのことだった。




ここから北に向かって千畳集落を過ぎると千畳浜に向かって降り、あとは海岸沿いの道をアップダウンを交えながら北上していく。海岸に出た後は、今日の目的地である北追岬と神威脇温泉のある湯浜に至るまで集落はない。
現在の千畳浜は何処を指して「千畳」なのかが分からない。
そこで調べてみると、元々、ここには海食棚が広がっており、鴎島の千畳敷と同じように、「千畳」の名に相応しい風景が広がっていたらしいが、北海道南西沖地震による沈降によって海中に没したため、今のような礫浜の景観になったのだという。
この先、無縁島、平島、ホヤ石、モッ立岩と奇岩景観が続くが、無縁島の対岸付近には23.3mにも及ぶ津波が押し寄せたという。
既に道路も直されており、そんな津波に洗われた歴史は分からなくなっているが、「千畳浜」という地名はそれを静かに今に伝えている。無縁島の少し南には円弧を描く長い砂浜が広がるので、私はそこが「千畳浜」なのだと思っていたのだが。
無縁島、ホヤ石の辺りには奇岩景観が続き、山側からはホヤ石川が日本海に流れ降ってくる。
この川の源流は自衛隊の奥尻駐屯地付近なので、遡行していくということは出来ないが、河口付近は意外にも険しい渓相を呈していた。
ホヤ石は奥尻島本土側の断崖との間の小さなコルで抜けていくが、間近に眺めると柱状節理が発達していて特徴的だ。
ここに柱状節理があるということは、これも火山活動の痕跡。実際、奥尻島には地熱発電所もあり、目立たないものの火山活動に由来する島である。
ホヤ石の肩を過ぎた駐車帯から振り返ると、無縁島、平島、ホヤ石が一望できた。天気がよければ紺碧の海が広がっていただろうから残念ではある。
ここから神威岩を越えて北追岬に至るまでの区間は、人の生活の気配が全くない海岸である。
途中、イチモツに見立てたモッ立岩や海鳥のコロニーが見える神威岩が旅人を迎えてくれる。
交通量も僅少ではあるが、地元車の他、他府県ナンバーの車が数台行き来していた。
神威岩を越えると短い鴨石トンネルを潜り、神威脇集落との間にある北追岬の高台を越える。
国土地理院の地図ではクズレ岬となっているが、現地には北追岬の標識があるので、ここでは北追岬の呼称を採用した。
野宿予定地の北追岬キャンプ場には15時29分着。57.7㎞。
既にオートキャンパーのものらしいテントが1張あり、軽自動車が1台停まっていて、男性が一人乗り込んで車を出すところだった。
テントの持ち主が神威脇温泉にでも行くのだろうと思いながらその車を見送り、自身のテントを何処に張ろうかと考えたのだが、敷地のトイレ側で最初に選んだ場所はアブが飛んでいたのでとりやめ、岬の先端のオブジェの傍の狭い平地にテントを張ることにした。
場所的には既にあるテントの傍に張ってもよいのだが、他に誰も居ない環境を好んでテントを張ったのかもしれず、近くに張るのは躊躇われたし、景観的に目に入る場所も避けておきたかった。
そんなこともあり、岬側に少し進んだオブジェのある場所を選び、草叢に隠れるようなアングルでテントを張ることにした。
岬の先端側になるので強風が吹くと心もとないが、幸い、曇天でパッとしないながらも大きな崩れはなさそうだし、ペグもしっかり刺さるので、張り綱を最大限張れば多少風が吹き抜けても凌げるだろう。
20分ほどでテントを張り終え、必要な装備だけ持って神威脇温泉に向かうことにする。16時発。














神威脇集落への道すがら、山麓にある少彦名神社に立ち寄って参拝。
その後、漁港脇にある神威脇温泉で一浴。
番頭の女性に「初めてですか?」と問われたので、「20年ぶりです」と答えると、入浴場について丁寧に教えてくださった。少し混雑しているかもしれない、とのことだったのだが、手前側にある高温泉の方に入ると他には誰も居らず、途中、地元の方が1名来られたくらいで、のんびりとお湯を楽しむことが出来た。
前回は2007年秋の訪問だったが、ここで一浴してから結局汗まみれになって稲穂岬まで走って野宿したのだった。
今回は、2㎞弱しか離れていない北追岬が野宿場所なので、時間に余裕があることもあってのんびりできる。
熱めのお湯を楽しんで神威脇温泉を辞し、ブラブラと北追岬の「宿」に帰る。
神威脇温泉、16時7分着、16時44分発。59.3㎞。
北追岬一帯は公園として整備され、幾つかのオブジェも展示されているので、それらを見て周りテントに戻ったが、オートキャンプらしいテントの主はまだ帰ってきていないようだった。
16時59分着、61.2㎞。
これで、この日のライディングは終了である。




テントに戻って夕食を済ませた頃になって、オートキャンプの主が戻ってきた。
到着時に出て行った男性が主かと思っていたが、そうではなく別の2人組がワンちゃんを連れてのキャンプをしているようだった。歯磨きや用便の為にトイレに行くついでに挨拶をしておく。
「テントサイトが埋まっていたら」と心配したものの、結局この日、他にキャンパーがやってくることはなく、時折、ドライブの人が立ち寄るくらいであった。
奥尻島内には4か所のキャンプ場がある。
1か所は20年前に使った稲穂岬の賽の河原キャンプ場で、そこから東岸を南に向かって奥尻港に向かう途中にあるのが東風泊キャンプ場。更に、奥尻港を越えた先の赤石にあるうにまるキャンプ場。そして西岸唯一の北追岬のキャンプ場だ。
施設が整っていることや港が近いということもあって、オートキャンパーの利用が一番多いのはうにまるキャンプ場だと思わるが、私は北追岬のこのキャンプ場の雰囲気が一番良いと感じたし、島内唯一の入浴施設でもある神威脇温泉まで自転車で往復することを考えれば最適とも言える。
その辺はキャンプのスタイルにもよるのだろうが、私は他に誰も居ない場所で寝ることが殆どなので、事前の計画段階から北追岬が最も良いと感じていた。ただ、サイトの狭さ故、複数のキャンパーが居る場合、近接してのキャンプになることを懸念していたのだが、それは杞憂であった。
テントに戻って精算などをした後、カメラを携えてもう一度展望地点に向かう。期待は薄いが、日没間際に水平線辺りで太陽が見えるかもしれない。それを撮影しに行くのである。
オートキャンプのお二人とワンちゃんに挨拶をして展望地点に向かい、日没までしばらく滞在してみたが、結局、一瞬神威山に赤光が差したくらいで沈む夕日は眺められなかった。辛うじて水平線付近が赤く染まった日没の風景を撮影してテントに戻る道すがら、夕食も終えて寛いでいらっしゃったお二人に話しかけ、結局、焚火とお茶の御馳走にあずかりながら2時間ほど話し込んだ。
私は専ら自転車や徒歩での野宿なので、オートキャンプの経験はない。
身近にキャンプ仲間が居るわけでもないし、家族の中にもキャンプ愛好者は居ない。
そもそも、「一人旅」が自分のスタイルなので、誰かとオートキャンプをするということもないだろうが、将来的にはオートキャンプを楽しんでみるのもよいと思う。焚火も久しぶりだが、煙の匂い、熾火の雰囲気は、「ちゃり鉄」の旅にも取り入れたいものである。
この旅では、前日の滝沢神社でも地元の方にコーヒーやお茶をいただいたし、人と話す機会が多かった。一人で黙々と走り続ける「ちゃり鉄」ではあるが、こうした出会いもまた、旅の良い思い出になるものだ。
お二人は暫くここで滞在してキャンプを楽しむという。
私は翌朝、計画通り早朝に出発して神威山や稲穂岬を巡り、午後便で江差に戻って夷王山キャンプ場まで走る。
21時になって神威脇集落から時報が聞こえてきたのを機に、お礼を言ってテントに引き上げ心地よい眠りに就いたのだった。





ちゃり鉄32号:5日目(北追岬-稲穂岬-奥尻港~江差港-江差=上ノ国-夷王山キャンプ場)
5日目は奥尻島最高峰の神威山を訪問した後、稲穂岬経由で奥尻港に戻り、そこから江差港に渡って、JR江差線の「ちゃり鉄」に入る。
この日は1駅間、江差駅跡から上ノ国駅跡まで走って、夷王山キャンプ場に登って野宿の予定。
幸い、天候はスッキリしないものの曇天で安定しており、降られる心配はなさそうだった。
神威山を訪問と表現したのは、ここが航空自衛隊奥尻駐屯地の基地内にあって、通常の登山での探訪は出来ないからだ。そんな場所を訪問できたのは、自衛隊基地に事前申請を行ったからなのだが、それもネットの情報によって意図せず広まり、自衛隊としても受け入れるようになったというのが実態らしい。
江差に戻った後は、当初予定では鴎島泊であったが、翌日、江差線、道南いさりび鉄道線、函館市電湯の川線などを経由して湯の川温泉までの「ちゃり鉄」行程となることや、3日目の行程を変更して鴎島まで進んで野宿したこともあり、元々3日目に野宿予定であった上ノ国の夷王山キャンプ場まで走ってから野宿とする計画に変更したことは既述のとおりである。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。



断面図1枚目の大きなアップダウンはそれぞれ、勝澗山、球島山、神威山を示している。この3か所が奥尻島の標高3傑ということになる。
断面図2枚目の終盤は夷王山キャンプ場付近である。
奥尻島の幌内谷から勝澗山への登りは、前回の旅では非常に苦しく感じたのだが、2度目ということもあって、今回は意外と楽に感じた。自転車が2代目になり、ギア比がワイドレシオになってパワーが上がったこともあるかもしれない。
この日の出発は5時半予定。10時に神威山訪問の為に自衛隊基地を訪れる計画としているので、それまでに、幌内谷や勝澗山を巡っていく計画である。
オートキャンプのお二人はまだ眠りの中だし、お供のワンちゃんも一緒にお眠り中。
音を立てないようにテント脇を通過し、岬の写真を撮影して北追岬を後にする。
5時29分発。
空はスッキリと晴れていてやっと快晴になりそうな気配だ。
ここから海岸沿いに屏風立岩を訪れ、幾つかの短いトンネルを越えた先の幌内海岸に向かう。
幌内海岸にはかつて温泉を備えた国民宿舎「幌内荘」があったが、津波被害によって休業の後、復旧されないまま廃業、取り壊しとなった。
そして、この幌内海岸から幌内川を遡った谷間には幌内鉱山があり、小学校や神社も備えた集落が存在していた。
今回は、この幌内鉱山跡も軽く踏査する予定を組んでいたので、幌内荘跡で今も湧き出す温泉に触れてから谷奥に向かい、閉鎖ゲートの奥にある鉱山跡を訪れてみたが、集落跡地は地熱発電所の敷地に取り込まれており、幌内川沿いにあったはずの集落や関連施設の跡も、深い夏草に覆われて定かではなかった。
地熱発電所は無人施設ではあるが、蒸気が噴出していて、近付いていくと何かのエンジン音が谷間に響いているかのようにも錯覚した。ちょうどこの日は航空自衛隊の奥尻駐屯地をこの後で訪問する予定だったので、もしかしたら、自衛隊機が上空を飛んでいるのかと思ったのだが、そうではなく、発電所の蒸気の噴出音だったのである。
幌内川はこの集落跡地・地熱発電所付近で二股に分かれている。古い集落道は左股に沿って勝澗山の方に伸びていたが、現在の地図に示された林道は右股に沿って伸びている。ただ、この林道は既に廃道化していて、発電所を過ぎたところからすぐにブッシュに行く手を遮られた。
鉱山の詳細情報も乏しく、主にネットの情報が中心となるが、明治期に鉱山が発見され採掘が始まったものの、幌内の小学校は大正14年には閉校となっているらしく、現地にも一見して分かるような痕跡はなかった。
実際には精錬施設跡などが残っているようなので、藪の薄い時期に踏査すれば、それなりに遺構が見つかるかもしれない。
幌内集落跡、6時29分着、6時31分発。7.6㎞。なお、堂々のゲートから集落跡となる地熱発電所付近までの往復は徒歩とした。





道道側のゲート前に停めた自転車に戻り、勝澗山に向かって登り始める。
2007年にここを登った時はかなりの難所に感じていたのだが、自転車が変わり、足回りのコンポーネントもShimanoの105系からGRX系となったことで、重量物を積載した状態での登攀性能が向上したこともあり、楽とはいかないまでも以前よりは坂道での肉体疲労が軽減されるようになった。
尤も、その分、高速走行の上限速度が低下したが、ツーリング車であることを考えれば、ロードバイク並みのスピードを出す必要はなく、オフロードでの登りなど、厳しい条件での登攀性能が向上する方が良い。
この登路は勝澗山西部から北部にかけての山塊を巻くように登っていくのだが、幌内海岸から蚊柱岬、磯谷岬、ナカハマ岬、湯ノ岬、勝澗岬を経て滝ノ澗岬を越えるまでの長い区間で、海岸部分を迂回している。
古い時代の地形図で見てもこの部分に海岸を通す道は描かれておらず、ナカハマ岬付近に美ノ歌、勝澗岬付近に勝澗、滝ノ澗岬付近に滝ノ澗といった、番屋集落が描かれている程度である。
中でも美ノ歌集落は山手からの集落道が描かれておらず、専ら船で周辺と往来した集落だと思われる。
また、勝澗岬には勝澗山の東方から沢筋に沿って達する徒歩道が描かれており、その途中に鉱山記号が記されている時代もあるが、現在の地理院地図にはその痕跡は全く残っていない。
途中、美ノ歌付近からは眼下の海岸線や遠く稲穂岬までを見渡すことが出来る。奥尻島にはヒグマは生息していないので、害虫を避けられる季節にこの付近の鉱山跡や海岸線を踏査する試みを実施してみたいとも思う。
道道最高所付近を越えて勝澗山への入り口に到着。この頃には、先ほどまでのスッキリとした晴天が俄かに掻き曇り、昨日来のどんよりとした空に変わってしまっていた。
ここから先は砂利道となっていることもあり、自転車はデポして勝澗山を往復。
この山は奥尻島で2番目に高く、三等三角点勝澗山が設置された標高427mの山である。
とは言え、濃い笹薮に覆われた視界のない山頂で一般的な登山者が登る山ではないし、そもそも、登山道もなく道道からの標高差も100mほどで、登降欲をそそられる山でもない。
私自身も事前調査で濃い藪漕ぎが必要になることは把握していたので、夏のこの時期に登山することを躊躇う気持ちもあったが、今回は神威山への訪問も含めているので、球島山と合わせて、奥尻島の3高峰全てを巡る計画としていたのであった。
果たして、古い土取場の脇からアプローチした勝澗山は、山頂付近が密な笹薮に覆われていて、虻がブンブン飛び交う「難所」であった。その藪の中に埋もれた三角点を見つけ出した後は早々に退散。
自転車のデポ地点まで戻ってゲイターなどを外しながら、念入りにダニチェックも行ったが、ダニが吸血する哺乳類なども少ないためか、ここではダニは見かけなかった。
勝澗山、7時52分着、8時10分発、17.2㎞であった。






勝澗山を降った後は計画では神威山に向かうことにしていたが、ここまで順調に来ていたこともあり、神威山に直行するには時間が早過ぎる。
神威山は航空自衛隊奥尻駐屯地の基地内にあるため、自由に訪問できるわけではなく、職員の随行が必要で、その事前申し込みでの訪問予定時間は午前10時としていた。早く着いたら着いたで待っていたら良いのだが、先方の都合もあるだろうし、あまり早く着きすぎてもよくない。
その為、順番を入れ替えて先に球島山を訪れ、そこから神威山に向かうことにした。
同じ場所の往復が長くなるが、行程全体では余裕が生じることになるので、これがベストであろう。
その球島山までは大きく降って登り返しとなるのだが、今回は往復行程なので、大きく降って登り返し、再び降って登り返した後、更に神威山まで登り詰める形になる。
神威山手前は未舗装区間もあると聞いているので、登り返しの多さはやや気になる。
その球島山には球浦開拓の高原を越えて行く。
「開拓」という地名が示すように、この一帯は、なだらかな高原台地を切り開いて牧草地等にした開拓地なのだが、大正時代の地形図などを確認するとまだ開拓は行われておらず、球島山の南西鞍部付近に鉱山記号があって、東海岸からの徒歩道が描かれている。
もちろん、この鉱山記号の跡地も、今は定かではない。
ここも詳しい記録が残っておらず、詳細は未調査であるが、戦後開拓による開拓地で、しかも開拓は不成功に終わったようだ。小学校などもあったようだが、
球島山には8時51分着、24.9㎞。
ここは一等三角点「球島山」が設置されており、標高は369.3mである。
晴れていれば、奥尻島の展望台として絶景が広がるようだが、この日は既に曇天に覆われてしまっており風景の彩度は低い。
それでも、奥尻港付近の鍋釣岩や行く方神威山周辺の自衛隊施設が一望できる。稲穂岬は手前の山並みに隠れて見えない位置関係だったが、その向こう、奥尻海峡を隔てて北海道本土の山並みが見えていた。先ほど藪を漕いできた勝澗山も見えている。
空はどんよりと曇っていて、今にも降り出しそうな雰囲気だった。
9時1分発。




球島山から球浦開拓を登り返し、更に自衛隊駐屯地への取り付け道路に入る。
この道路は途中までは町道だが、その先で自衛隊基地の専用道路になっている。
事前に案内担当の職員の方から「未舗装区間がある」と聞いていたので、それなりに意識して計画を立てていたが、登りに関してはそれほど急勾配ではないと考えていた。
しかし、これは誤りだった。
町道が分岐して専用道路に入ってもしばらくは舗装路が進んでおり、所々で降り勾配もあったりする。神威山三角点は575.6m。駐屯地入口のゲート付近は516.9m程度。それに対して、町道分岐点付近に345m独標、その先に331m独標がある。
この331m独標付近を直前の最低鞍部とすると、ゲートまでで185.9mの標高差があることになり、これは結構大きな標高差だ。しかも、その内の登り部分の一部が10%超の急勾配の未舗装路だったため、自転車を漕いで登れなかった。
舗装路であれば十分間に合う見積もりだったのだが、未舗装路で漕いで登ることが出来ず、押し歩きにしても砂利道で車輪が横滑りして、上手く進めない。
10時待ち合わせに遅れる焦りの中、汗まみれになって自転車を押して登っていると、たまに通りかかる自衛隊関係車両から怪訝な眼差しが向けられる。
それでも何とか時間前の9時56分にはゲートに到着。35.8㎞。球島山の展望台から10.9㎞の距離があった。
既に門衛には伝わっていたようで、身分証を提示して担当者が迎えに来るのを待つ段取り。
駐屯地内は自由行動は出来ず、迎えに来られた方と一緒に車に乗り込み三角点に向かう。
三角点は本来最高地点に設置されるものであるが、駐屯地では施設整備の為に盛土されたこともあって、実際の最高地点は584m独標付近となる。現地でも担当の方からその旨の説明があった。
基地施設の撮影も許可されないので、神威山一等三角点のみをクローズアップして撮影。
これで所与の目的は果たしたことになるが、まだ、滞在予定時間は余っていたため、ヘリポートに移動して、そこで施設や奥尻島全体関するご説明もいただいた。
眼下の基地施設内では、若手自衛官の体力測定のランニングが行われていて、監督者などが並んで測定する中を数名が走り抜ける様子も見える。
駐屯地は災害時や緊急時に機能停止してはいけないため、基地内で独立して生活できるだけの設備や備蓄があり、また、島内で急患の救急搬送が発生した時には、このヘリポートからドクターヘリで本土に搬出するのだという。ただ、奥尻島内での急患は滅多に発生しないとのことだった。
その他、近年は陸海空それぞれに募集定員割れも発生するようになっており、国防の観点からも対策が必須で、職員の福利厚生の向上などに取り組んでいるというような話もあった。
なお、神威山訪問に関しては登山系Webサービスでの投稿をきっかけに、「事前申請をすれば三角点訪問が出来る」という情報が一気に広まり、ここ数年で訪問者数が急増しているとのこと。自衛隊の活動に対する広報的な意味合いもあって、事前申請制による案内を行っているようでもあり、帰り際にはお土産としてメダルやクリアファイル等をいただいた。
最後にゲートまでお見送りをいただき駐屯地を後にする。10時18分発。



さぁ、これでこの日の大きな計画は概ね終了。
あとは、稲穂岬から奥尻島北部東岸沿いを南下し、適当なところで昼食を食べて、15時出港のフェリーに乗船するのみである。
球浦開拓から滝ノ澗までの区間は定住者もいないエリアで、冬期間は閉鎖される。短区間ではあるが未舗装の部分もあり、奥尻島内でも最も人の気配が少ないエリアだ。
北海道本土であれば緊張を要するエリアであるが、奥尻島にはヒグマは居ないので、そういう恐怖感は無いのが幸い。緑のトンネルのような区間もあって、心地よく山を降っていく。
滝ノ澗岬付近で海岸に出るのだが、この辺りまで降ってくると、一時的に雲が途切れ、青い海原が広がった。
冬の日本海などであれば、鈍色の空の下、波濤荒れ狂う海の風景が展開するのも旅情があるが、夏の旅ならば、やはり海沿いは晴れていて欲しい。
小さな岬を越えた先が海栗前集落で、地理院地形図には「のなまえ」のルビがある。難読地名の1つであろう。「海栗」は「うに」とも読むのだが、アイヌ語でウニは「ノナ」というので、「ノナ・オマ・イ(ウニがあるところ)」の音に和訳を当てて「海栗前」としたという説がある。
この海栗前集落の北に稲穂集落があり、そこに鴎埼神社や稲穂小学校跡があるので立ち寄っていく。稲穂小学校跡は稲穂ふれあい研修センターとして、歴史民俗資料展示室に転用されているが、奥にある体育館や校庭跡が、一見して学校跡地なのだということを知らしめてくれる。
立ち入り禁止になっていた灯台を見送って稲穂岬には11時26分着。55.5㎞。





稲穂岬は道南五大霊場の1つにも数えられており、岬の北端には地蔵堂と賽の河原がある。
「ちゃり鉄」の旅では何百キロもの距離を走ることになるが、その道中の至る所でお地蔵さんを目にするし、古い峠越えの道などでは峠に忘れ去られたように佇む姿と出会うこともある。
信心というほどのものは持ってはいないが、そういう時には、何かふと、道中の御加護に感謝したい気持ちが湧いてくるものだ。
今ほど文明が発達していなかった時代の人々にとっては、その感覚はなお一層、強く感じられたことであろう。
稲穂岬にはキャンプ場や土産物屋もあるのだが、この日はまだ午前便のフェリーが着岸したばかりということもあって観光客の姿もなく、広い敷地に居るのは私と土産物屋の店員のおばさん達だけであった。
ひとしきり賽の河原を巡った後、11時36分、稲穂岬を出発しようと思ったのだが、折角なのでここの土産物屋に併設の食堂で昼食を食べていくことにした。
店内では客待ちのおばさん達が4名。
着座するとやはりウニを勧められるが、私は実のところ、ウニが苦手で普段は好んで食べることはない。ここでもウニを食べるつもりはなく煮魚の定食を注文したのだが、昨日、北追岬で出会ったお二人からも話を聞いていたし、おばさんのおすすめもあって、半身のウニ単品も注文。
「好きな味」というわけでもなかったが、安いウニにありがちな、独特の生臭さや磯臭さがなく、苦手な私でもそれなりに食べられるウニだった。
そういえば、新卒で赴任した釧路在住時も、厚岸に出張に行った際、地元の方に勧められて生牡蛎を食べたことがある。厚岸と言えば牡蛎というくらいなので、これも苦手だったものの、初めて食べてみたところ、やはり、生臭さが少なくてそれなりに美味しかった。以来、好んで食べることは少ないものの、機会があれば普通に食べるようにはなった。
ウニもそうなるのかもしれない。
なお、前回の野宿時にあった東屋は撤去されていた。





稲穂岬からは奥尻島北部の東岸を南下していく。対岸には北海道本土大成区の山並みが見えるが、山頂部分はここ数日来変わらず雲をまとっていた。
稲穂岬灯台は照射灯も併設されているので、直方体の基部の上に灯光器が据え付けられた特異な形状。
下から眺めた写真を撮影して先に進む。
奥尻港までの間に、勘太浜、宮津、東風泊の各集落で、それぞれの鎮守社を参拝していく。
宮津は「お宮のある港」の意味になるが、そのお宮は「宮津弁天宮」。小さな漁港とその脇の小高い岩場の上に鎮座するお宮の姿が印象に残る場所で、私と入れ違いに訪問する観光客の姿もあった。
東風泊は「やませどまり」と読む。「やませ」は地理の教科書にも出てくる北日本特有の寒冷湿潤な東風のことで、海霧を伴って冷涼な気候をもたらすことが多い。
この「ちゃり鉄32号」の旅での天候不順も「やませ」の影響が強く、風向は東風が卓越していた。
その東風の「やませ」が吹いた時に風待ちする港という意味での和製地名とも読み取れるが、アイヌ語由来という説もある。
東風泊を出ると奥尻港が見えてくる。
午前便が着岸して折り返し待ちの奥尻港を一旦通り過ぎて、奥尻町中心部の澳津神社を参拝した後、奥尻港に戻って今回の奥尻島訪問が終了。13時29分。67.9㎞であった。








出港時刻は15時なので1時間半ほどの余裕がある。
この間に港周辺の写真を撮影したり、軽く散歩をしたり、飲み物を買って飲んだりしながら、暫し、休憩。「ちゃり鉄」では日中の行程でゆっくりすることが少ないので、こうした待ち時間は案外貴重である。
ターミナルにはそこそこの人の姿。
稲穂岬以降は晴天が広がってきたこともあって、気分も晴れてくる。惜しむらくは、奥尻島を去る時間になって晴れてきたことであろう。今日であれば、北追岬から日本海に沈む夕日を眺めることが出来たように思う。
復路でも一番最初に乗船。14時20分には船内に案内された。
他に原型自転車で乗船する人は居なかったので、私1人が先に乗り込む。
車両甲板に自転車を固定してもらうのを見送って誰も居ない船室に入り、そのまま開放デッキに出て出港の仕業を眺める。
車両の乗船は14時25分頃には始まり、最後に徒歩客の乗船が14時30分頃から始まった。
デッキでその動きを眺めていたが、この旅では初めて「暑さ」を感じて、港に到着した後に保温用に着用していたレインウェアを脱いだ。やはり夏はほどほどに暑いのが夏らしくてよい。
出港は定刻15時。
20年ぶりの奥尻島に別れを告げる。朝と同じように気持ちの良い晴天が広がった。青空と青い海の彼方に遠ざかっていく奥尻島。次に訪れるのはいつ頃になるのだろう。





途中、遥か遠くの海上でイルカの群れが海面を跳ねているのを目撃したが、距離が離れすぎていたのとタイミングが合わなかったのとで、撮影することは出来なかった。
本土側の陸地も最初は朧げにしか見えていなかったが、近づいてくると、鴎島灯台なども判別できるようになる。ただ、後背の山地は相変わらず雲を纏っており、上空の水蒸気の多さは相変わらずなのだろう。
鴎島を周り込んで赤灯台を越えると江差港内。約30時間ぶりに北海道本土に戻ってきた。
本来の計画では、ここから北の繁次郎温泉を往復して鴎島で野宿の予定だったのだが、3日目のうちに江差までやってきて、市街地の松の湯に入った後に鴎島に泊ったことは既に述べた通り。
この日はその3日目にスルーしてきた花沢温泉に入って夷王山に登って野宿である。
着岸が17時10分ということもあり、時間的な余裕がないために、江差港は17時16分発。



ここから市街地の南外れにあったJR江差線の江差駅跡に向かい、そこから1駅間、上ノ国駅跡までの区間を走る。
JR江差線は過去に2度乗車したことがあるが、いずれも学生時代のことで、社会人になってからは再訪の機会が得られなかった。
廃止直前に「ちゃり鉄」で訪れる計画を作っていたにも拘らず、トラブルで旅立つことが出来ず、結局、最後の機会を失って終わってしまったのだった。
江差駅跡には17時27分着、69.8㎞。
駅跡は市営住宅地に転用されていて面影は消えているが、辛うじて線路の一部などを使用した記念公園が残されており、かつての駅前ロータリーとともに、在りし日の記憶を今に伝えていた。
17時31分発。
ここから海岸沿いの道を快走して上ノ国駅には17時50分着。76.1㎞。途中、3日目にも撮影した古櫃川橋梁跡や椴川橋梁跡などを再度撮影した。
上ノ国駅跡は商工会の建物に置き換わっており、駅の面影は消えている。記念碑のようなものもなかったのだが、これは上ノ国町内にあった他の駅跡でも同様だった。自治体の意識の差とも言えるだろう。
17時52分発。
上ノ国駅跡に隣接するスーパーで食材を買い出し、夷王山山麓にある花沢温泉に立ち寄り、疲れを癒してから夷王山まで一登り。
花沢温泉は入浴料200円と格安で、温泉施設も小綺麗で気持ちが良い。
番頭のおばさんは腰に携行していた熊スプレーに気が付いて話しかけてこられたが、今年はかなり対策をして駆除もしたので、町内では熊害は発生していないとのことだった。
やはり、地元の方は見る所が違うものだ。
花沢温泉は20m弱、夷王山のキャンプ場は190m弱なので、170mを登ることになる。
18時43分には温泉を出発して登りに取り掛かり、3.3㎞を30分かけて夷王山キャンプ場には19時13分到着。
既に日没時刻を過ぎてはいたが、残照が残るうちに到着することが出来た。
高原状の夷王山山頂付近ということもあって、風力発電施設が林立しており、風も強くてやや寒いくらい。
夷王山キャンプ場は窪地部分と上ノ国から江差にかけての海岸風景が見下ろせる丘陵部分の2か所に広がっているが、窪地側には1~2張程度、丘陵部分でも5張り程度で、いずれもオートキャンパーのみ。バイクや自転車のキャンパーの姿は無かった。
風の強さを考えてやや林地側の区画にテントを張ったが、風が収まる分、蚊が飛んでおり、設営や出入りの最中に刺されてしまう。炊事の間にテント内に5匹ほども招いてしまっていたようで、精算作業中にブチブチ刺されてしまい退治するのに苦労した。
風力発電機の風切り音が響く中でのテント泊。
野生生物にとってみれば、風力発電の為に森が切り開かれ、風切り音が鳴り響き、鳥類はブレードに接触するバードストライクの脅威にさらされる。
自然に優しいはずの風力発電施設は、太陽光発電施設や原子力発電施設と並んで、「自然に優しい」という宣伝文句の矛盾を突き付けてくるのだが、さりとて、「電力」なくして現代文明は成り立たず、この「ちゃり鉄」の取り組みも成立はしない。
妙案は浮かばないのだが、人為対自然という観点で見ること自体が誤りで、人間の文明活動もまた、宇宙全体の広がりや時間軸の中で繰り広げられる「自然の営み」なのかもしれない。ただ、その人間のスケールに於いて人間自身が困ることになる、というのが、環境問題の本質的な姿なのだろうか。
そんなことを考えつつ、寒いくらいのテントの外で江差方面の夜景を撮影。
テントに戻ろうとすると、晴天の夜空に月が浮かんでこちらを見下ろしていた。
天候はパッとしなかったものの、初日からここまで、屋根のない場所でのテント泊が多かっただけに、雨に降られなかったことは幸いだった。
シュラフカバーだけでは少し肌寒いような夜だったが、蚊を退治した後は穏やかな眠りに就くことが出来た。








ちゃり鉄32号:6日目(夷王山キャンプ場-上ノ国=木古内=五稜郭=函館・函館駅前=湯の川-湯浜公園)
6日目は松前半島側の「ちゃり鉄」を終えて函館市街地の湯の川温泉までの行程。
この行程でJR江差線、道南いさりび鉄道線、函館市電の大森線と湯の川線を巡る。今回の「ちゃり鉄32号」では初めて、現役の鉄道路線を走る日程でもある。
市電沿線を含むため停車駅の数もかなり多いし、計画距離も107.5㎞。ここまでの行程の中では一番長い。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


途中、37㎞付近にある非対称な峠地形が吉堀峠で、ここは日本海側と津軽海峡側との分水界でもある。
その後は津軽海峡に面した海岸線を行くので標高差は小さい。距離が長い割には走りやすい区間も多いだろう。
JR江差線は国鉄時代の存廃議論の当時から、木古内~江差間の輸送密度の低さを指摘されていたが、この吉堀峠が旅客動線の衝立となっていたことは分かりやすいし、ここに支庁界、現在の振興局界があることもそれを裏付けている。
現在、道道は新吉堀トンネルで峠を越えているが、地理院地形図を拡大してみると、旧道の痕跡が地形図に表れている。ただ、この旧道部分は既に道路標示も消えていることから閉鎖されているのは明らかで、計画でも旧吉堀トンネルを越える計画は立てず、実際、現地でも新トンネル側を通過した。
夷王山の出発は6時を予定。元々の計画は鴎島発5時30分だったので、上ノ国駅跡発6時21分の当初計画に合わせて出発をやや後ろにずらした形だ。早く出ても良かったのだが、この日の昼食予定地の通過時刻の関係もあって、6時発としたのである。
早朝の夷王山キャンプ場から遥か眼下遠くに鴎島や江差の市街地、笹山付近の山並みが見える。
相変わらず雲が多くスッキリとは晴れない雰囲気ではあるが、さりとて、降り出しそうな天気でもない。翌日からは雨予報に変わっていたので、今日一日降られなければ幸いと、出発準備に取り掛かり、5時54分に出発。
まだ、周りのテントは動く気配がなかったが、たまに、近くのトイレを使う人が居る様子だった。
山からは道の駅側に降って夷王山を周回。途中、夷王山神社に立ち寄る予定にしていたのに忘れてかなり降ってしまい、登り返しも面倒だったので割愛した。私は時折そういうミスをする。
上ノ国駅跡には6時15分着。4.9㎞。ここから、江差線の「ちゃり鉄」に戻り、以降、函館市電の湯の川停留場まで、長々と各駅停車で進むことになる。
上ノ国町内には、上ノ国駅の他に、中須田、桂岡、宮越、湯ノ岱、神明の5駅が存在した。
それらを順に巡っていったのだが、いずれの駅も施設などは取り壊され空き地になっており、記念碑のようなものも一切整備されていなかった。
こういうのは自治体の考え方次第というところもあり、鉄道に愛着を持たない自治体は跡地をきれいさっぱり撤去してしまうケースも多い。
上ノ国町がどうなのかは分からないが、国鉄時代から存廃議論の俎上に乗りながらも2014年まで存続してきた路線のその後にしては寂しいものもあった。
上ノ国駅跡から中須田駅跡にかけては、「車窓」右手に来し方夷王山の姿が見える。
風車の林立する丘の上の草地の一画がキャンプ場で、その向こうに見える円錐状の頂きが夷王山であろう。
中須田駅跡、桂岡駅跡、宮越駅跡、いずれも、駅の位置を事前確認して訪れているのでそれと察知することが出来たが、何も知らずにこの地を訪れても、ただの空き地にしか見えない。
辛うじて、前後の路盤がまだ鮮明に残っているので、そこに「廃線」を感じることが出来るし、桂岡駅手前の苫符川には橋梁跡も残っていた。撤去作業が進む江差線廃線跡ではあるが、橋梁跡は比較的多く残っていた。撤去工事の費用が大きいのであろう。
宮越駅跡付近では宮越集落の鎮守社である稲荷神社を参拝。
この時、集落内に小学校跡と思しき建物を見つけたので訪れてみると、やはりそれは宮越小学校跡であった。
木造の小さな校舎と体育館、そして狭い運動場だけの、「分校」といった風情の小学校跡だったが、1998年3月末の閉校というから、私の学生時代前半にはまだ現役の小学校で、子供たちが通っていたことになる。
その時代の子供達も既に30代。
1990年代も随分遠い時代になったと感じるのは、私自身が歳をとったせいだろうか。
宮越駅と湯ノ岱駅との間には、愛好家らの手による模造駅の「天ノ川駅」もあったが、勿論、江差線の廃線と共にその跡地も更地になっていた。










この先、江差線は幾つかの橋梁で蛇行する天ノ川を跨いでいくが、第一天ノ川橋梁跡はやや高いところを行く道路側から俯瞰できることもあり、江差線の廃線跡風景としては随一のものであった。
湯ノ岱集落ではまず稲荷神社を参拝。
続いて消防署の分遣所となった湯ノ岱駅跡を訪問。
ここも駅であったことを示すようなものは何もない。
7時42分着。7時43分発。22.9㎞。
湯ノ岱駅は2001年8月の旅で途中下車し、近くの湯ノ岱温泉を訪れた思い出のある駅だった。
今回、湯ノ岱温泉の再訪を期したのだが、残念ながら、行程の都合で朝の通過となったため、温泉に入ることは出来なかった。
その替わり、前回は訪れていなかった河川敷の温泉を訪問。
周りから丸見えなのはともかく、湯温も低く「ぬるい」といった程度。ここで「入浴」するのは躊躇われるが、それでもしっかりとした温泉臭と着色があった。
続く神明駅は天ノ川流域の支流である神明ノ沢川に入ったところにあった。2001年8月の旅ではこの神明駅で駅前野宿を行った。今は跡形もない。駅は沢の入り口付近にあり、集落は上流に向かって展開していたが、既にその大半は無住化しており、神社記号がある地点より下流側に数軒の現住世帯があるくらいになっている。上流で二股になって更に奥地まで道があるようだが、既に無住地帯になっていることもあり、ヒグマの危険性も考えてむやみな立ち入りは慎むことにした。
とは言え、この神社記号が示している稲荷神社は訪れる計画としていたのだが、神社自体も既にご神体は移されており拝殿は倒壊しつつあった。参道は辛うじて道型を推定できる程度で鳥居は倒壊したのか見つからなかった。藪を掻き分けての夏場の訪問だったので尚更判別が難しかったようにも思う。
その往復路で沢側に小学校跡らしい建物を見つけたので立ち寄ってみると、これがやはり神明小中学校跡であった。開校は1948年のことで湯ノ岱小学校の分教場としての位置づけ。戦後開拓の進展によるものであったが、その開拓は成功することはなく1977年には閉校。29年という短期間で歴史に幕を下ろしたことになる。
戦後開拓によって人々が入植したこの地も、学校が消え、神社が消え、鉄道が消え、集落そのものも消えようとしている。それでも、地区の自治会館に愛犬を連れた女性が佇み、愛犬の毛づくろいをしていた。
傍から見れば「僻地」と呼ばれるような集落でも、そこに生まれ育った人々の様々な思いが息づいている。その思い出を静かに残していきたいものである。
神明駅跡、8時3分着、8時5分発、27.3㎞。







神明駅~吉堀駅間は営業キロ数でも13.2㎞離れていた。
今回の「ちゃり鉄」では18㎞強の行程。
途中、吉堀峠を越えて行くのだが、ここは2016年11月30日に新吉堀トンネルが開通し、それまでの吉堀トンネルルートは旧道となった。
江差線は天ノ川本流ではなく、支流の鯎川を遡った先から吉堀峠直下の木古内側に抜けていくのだが、道道は天ノ川本流を遡って膳棚集落付近を通過し、その先の源流域まで谷筋を辿る。
膳棚集落と表現はしたが、既にまとまった集落の体は成しておらず、広い範囲に現住民家が数軒点在しているという状況だ。
古い時代の地図を見ると、この吉堀峠を越える里道の他に、鯎川を遡った先の稲穂峠を越えて木古内側との間を結ぶ徒歩道も描かれているが、この徒歩道は現在の地理院地形図には描かれておらず、鯎川の下流側の道は消失しているようである。
2026年現在、この付近の江差線の痕跡は空撮・衛星画像には残っているが、アクセス路のない部分も多く、
これらもいずれは消失して、ここに鉄道が通っていたという記憶も消え失せてしまうのであろう。
道道の新吉堀トンネルを越えた先から、JR江差線の廃線跡が間近に現れて、以降、付かず離れずの距離を保ちながら木古内川に沿って谷を降っていく。
所々、落石覆いや橋梁が残っているのが見える。
木古内町内の廃線区間では吉堀駅、渡島鶴岡駅の2つ駅が存在していたが、これらは今も駅の姿を留めていて、吉堀駅跡はホームと待合室、そして開業記念碑や記念樹、渡島鶴岡駅跡はホームが道南トロッコ鉄道のホームとして今も使われている。
吉堀駅跡に残るホームや待合室はいずれは撤去されてしまうだろうが、開業記念碑や記念樹くらいは残って欲しいものである。
渡島鶴岡駅跡は観光トロッコの拠点として整備されているが、この日は営業日ではなく、観光客の姿もなかった。
その渡島鶴岡駅を出た先では道道右側に郷土資料館の建物が見えるが、こちらも鶴岡小学校跡を転用したもの。閉校は2011年3月31日のことであった。
「ちゃり鉄32号」の起点となった木古内駅には9時53分着。52.5㎞。





木古内からは道南いさりび鉄道の道南いさりび鉄道線に入る。
この路線は北海道新幹線の新函館北斗開業に伴って経営分離されたJR江差線を引き継いだ第三セクター鉄道である。とは言え、走っている車両はJRから譲渡されたキハ40形であり、JR時代の江差線の印象は強い。
1990年代終盤から2000年代初頭にかけて、この区間を何度か列車で往来したことがあったが、快速「海峡」や寝台特急「日本海」など、客車列車での旅となったことも少なくなかった。
少し高いところを行く客車列車の車窓から津軽海峡を眺めながら進む旅路は、遥々、遠いところまで来たという旅情に溢れていたものだ。
新幹線開業に伴って、そうした旅情は失われてしまったが、これも時代の流れということなのだろう。
なお、第三セクター化に際して中間駅は全て無人化されたが、今でも一部の駅では簡易委託が行われ、地元の方が駅の管理に就いている。
今回の旅では、この6日目にして初めて、線路のある現役路線の「ちゃり鉄」に入ったのだが、次の現役路線の「ちゃり鉄」は道内最終日の11日目。廃線や未成線が多くなった「ちゃり鉄」でもあった。
木古内駅から上磯駅までは海岸線を行く区間が多く、津軽海峡や函館山を眺めながらの走行となる。
1つ目の札苅駅は簡易委託駅で、曜日時間限定で地域の方が駅の管理業務を行っているようだが、この日は夏休みということもあって無人だった。
千鳥式2面2線のホームで撮影を終えて戻って来ると、待合室には地元の方が3名ほど集まっていて、ベンチに腰掛けてお話し中。
軽く挨拶をして駅前に停めた自転車に戻り、出発準備をしていると、「もうすぐ貨物列車が来る」と声をかけられた。
貨物列車のダイヤまでは押さえていないので撮影は偶然に任せているのだが、本州との間を結ぶ貨物列車がやって来るなら、是非とも撮影したい。
それで待合室に戻って列車待ち。
お菓子やコーヒーをいただきながらお話を伺うことになった。
てっきり、この方々も列車待ちなのだろうと思ったのだが、それにしては、次の列車まで随分と時間がある。話を伺うと、列車に乗るのではなく、毎日散歩がてら駅までやってきて、ここで井戸端会議をしているのだという。
地元の方でも、日常的に列車を使うのは通学の学生くらいで、車を運転できる大人は滅多に使うことがなく、後は、病院などに通う少数の高齢者が時々使う程度。どこでも同じ、ローカル線の利用実態を伺ったりもするが、用もないのに人々が駅に集い、井戸端会議をする、というのも悪くはない。駅とは本来、そういう場所だと思うのだ。
「子供は居るのか」、「仕事は何をしているのか」、などと色々聞かれもするが、今回は12日ほどかけて渡島半島をグルグルと周っており、今日は湯の川温泉まで走るということを告げると、「あんた、きっとどこかの会社の社長だべ?」などと言われたりもする。旅先で「社長」とか「お偉いさん」と呼ばれることも増えた。40歳になった頃、旅を終えた鹿児島中央駅で「学校休みか?」と30代の男性に聞かれたこともあるが、50代を迎えて流石に「学生」と間違えられることはなくなった。多少は貫禄がついたと喜ぶことにしておく。確かに、そんなに長い間、会社を休んで旅ができると聞けば、そう思われるのも無理はない。
さて、「もうすぐ」と呼び止められて戻った駅舎なのだが、結局、貨物列車が来たのは40分後。
構内放送がかかったのを合図にホームに出て待っていると、函館方面から本州に向かう貨物列車が汽笛を鳴らしてやってきた。
かつて、ここを駆け抜けた寝台特急や客車列車を思いながら、長い貨物列車の通過を見送り、井戸端会議の皆さんに挨拶をして出発。
札苅駅、10時15分着、10時56分発。56.9㎞。


札苅駅から海岸集落を走り10分ほどで到着した、続く泉沢駅では駅のホームの花壇の手入れをしている地元の方がいらっしゃる。ここも簡易委託駅である。
駅は札苅駅と同じ千鳥式ではあるが、島式単式2面3線の構造が特徴的だ。
駅で撮影を行っているうちに、再び本州方面への貨物列車が通過していく。
既に本州との間を結ぶ旅客列車がここを走ることはなくなったが、今も鉄道貨物輸送の大幹線としての地位は揺らぐことなく、1日に何本もの貨物列車が走り抜ける様は、鉄道のもつ使命の一端を思い出させてくれる。
この駅では私と入れ違いに千羽鶴を届けに来たご夫妻が居た。
周辺の駅でも同じ千羽鶴を見つけたので、各駅にそれらを届けていらっしゃるのだろう。
釜谷駅は貨物車改造の待合室を持つ相対式2面2線の無人駅。
ここは無人駅だが駅前の広場には車が2台停まっていて、1台は鉄道ファンらしく場所取りをしている気配がした。ホームに上がってみると待合室にも女性が居て、列車を待っているようだった。
上下のホームは構内踏切で繋がっておりローカル色を醸し出す。
人の気配のする待合室に入るのは気が引けたが、一声かけて覗いていく。
貨物車改造の待合室は無機質な造りの場合も多いのだが、この待合室内には机なども置かれていて、地元の方々の愛着が感じられた。貨物車駅舎にしては珍しく簡易委託が行われていたため、その面影が残っていたように思う。
朝から辿ってきた上ノ国町内の区間などは、記念碑すら立てられない不遇の扱いに寂しい思いもしたが、やはり、こうして地元の方の愛着があるとホッとするし、それが旅情を一層味わい深いものにしてくれる。
釜谷駅を出た辺りで行く手前方遥かに函館山が見えてくる。客車列車の車窓から眺めていると、いよいよ函館までやってきたことを実感する辺りだった。
幾つかの小さな岬を越えて小さな湾奥に入ると渡島当別駅。トラピスチヌ修道院の最寄り駅で、札苅駅でも「トラピスチヌ行くの?」と聞かれたくらい。この辺りでは有名な観光地である。
駅もそれを意識した造りとなっているが、現在は無人駅で、駅舎内に郵便局が併設されてはいるものの、鉄道施設部分は閉鎖されたキオスクなどが、少し寂しげな雰囲気だった。
相対式2面2線ホームが跨線橋で繋がった構造を持っているが、それ以外に側線も備えており、この日は保線車両が留置されていた。
泉沢駅、11時7分着、11時18分発、60.7㎞。釜谷駅、11時29分着、11時35分発、63.9㎞。渡島当別駅、11時56分着、12時4分発、69㎞。
この日は木古内駅を出た辺りにあるお店に立ち寄ってお昼を食べるつもりだったのだが、調子よく走って来たこともあって目的のお店は開店前。結局そのまま走り続けてここまで来たが、国道沿いには他に目ぼしいお店がなかったこともあり、ここまでお昼は食べそこなっていた。








渡島当別駅を出ると茂辺地駅との間で葛登支岬を周り込んでいく。ここに葛登支岬灯台があるので立ち寄っていく。
灯台も「ちゃり鉄」で訪れたいランドマークの1つ。英訳すると「LightHouse」だが、やはり「灯台」という表現の方がしっくりくる。
今回の旅では矢越岬まで肉薄しつつも撤退したが、そこにも矢越岬灯台がある。
陸路では到達しにくい場所、出来ない場所も多く、また、一般的に観光開放されていない灯台が多いので、好きでなければわざわざ訪れる機会もないだろうが、人知れず海の安全を見守り続ける寡黙な姿は、各地の灯台に残る灯台守の物語も相まって旅情を感じさせてくれる舞台装置である。
葛登支岬灯台は比較的アクセスしやすい方ではあるが、それでも観光開放されているわけではないので、草刈りが追い付いていないこの時期、背丈を越える虎杖の藪を掻き分けての訪問であった。
茂辺地川の河口集落に設けられた茂辺地駅には12時38分着。74.3㎞。
ここも簡易委託駅であるが訪問時は無人時間帯で、列車の発着もなかったため、駅の周辺に人の姿は無かった。
島式単式2面3線の構造を持つが、駅全体を跨ぎ越える跨線橋から各ホームにも降りることが出来る、特徴ある姿をしている。
「茂辺地」は「もへじ」で、何となくユーモラスな駅名・地名であるが、元々は茂別村に属しており、「モペッ(静かな・川)」、「ムペッ(塞がった・川)」といったアイヌ語起源の地名だとする説がある。
津軽海峡を挟んだ青森県の下北半島基部には野辺地という地名があるが、地名の成り立ちは同根で、北東北にもアイヌの人々の生活があったことを今に伝えている。
この茂辺地駅がある茂辺地集落には北斗星広場があり、寝台特急「北斗星」の車両2両が静態展示され、宿泊施設としても活用されている。
雨ざらしなので保管状態はよいとは言えないが、今も現役で宿泊施設として活用されている数少ない事例。
私は寝台特急「北斗星」に乗車することは出来なかったが、ブルートレインの旅路はどれも思い出に残るものばかりだ。
この北斗星の車両も眺めてから茂辺地を後にした。
茂辺地駅12時46分発。




茂辺地駅から先は矢不来、館野といった集落を経て函館湾奥の函館市近郊市街地に達する。
矢不来付近の岬地形を越えて行くと、上磯付近から先の市街地が見えてくるようになる。右手は函館湾を挟んで函館山がいよいよ大きくなってくる地点だ。
館野付近からは上磯の太平洋セメント上磯工場が眼前に現れてくるとともに、木古内からずっと続いてきた進路左側の海食崖台地が果てて函館の沖積平野に出て行く。
太平洋セメントの長大な海上桟橋の下を潜り抜けて上磯駅到着。13時18分着、13時24分発。82.6㎞。
上磯駅から五稜郭駅の間はこれまでの区間とは異なる函館市の近郊区間といった雰囲気で、市街地の中を行くようになる。
太平洋セメントの工場を間近に眺める屈曲ホームの上磯駅では、地元の若者が列車待ち。ホームに現れた変な姿のおっさんに怪訝の眼差しを送ってくる。
上磯駅は13時24分発。
駅付近にも飲食店が幾つかあったのだが、市街地に入ったこともありラーメン屋の「山岡家」にでも立ち寄っていこうという気持ちになっていたので、これらの飲食店を見送って先に進む。
この辺り、いさりび鉄道の線路に並行する車道はないので、国道228号線を進みながら駅の位置で脇道に入り、駅を出たら国道に戻るという形で進んでいく。
清川口駅ではキハ40形を改良した観光仕様の「ながまれ号」が発着。駅舎も「ながまれ号」に合わせて塗装変更されていた。
久根別、東久根別、七重浜と、市街地の駅を順に辿るにつれ、少しずつ函館市中心部に近づいていく。
久根別駅と七重浜駅は交換可能な構造だが、東久根別駅は1986年11月1日に臨時乗降場として開業した経緯もあり、単式1面1線で当初からの無人駅。団地に面しているが貨物車改造の小さな待合室があるのみだ。
山岡家と思って走っていると意外と見つからないもので、結局昼食を食べないまま五稜郭駅に到着。
14時32分着、14時34分発。94.6㎞。











五稜郭駅は函館本線との接続駅でJRの函館貨物駅への貨物専用線も分岐している関係で、構内は非常に広い。
貨物列車の往来も頻繁なので、駅の北側にある跨線橋から眺めていると楽しい。
これで道南いさりび鉄道全駅の「ちゃり鉄」も終了。
このまま函館駅前まで南下して、そこから、函館市電の大森線、湯の川線を辿って湯の川温泉まで走る。
お昼ご飯は延々と食べそこなってきたが、携行食も持っているので、ハンガーノックで走れなくなるようなことはない。時間も時間なのでそれで済ませてしまうことも考えて走っていると、「すき家」があったので、妥協して軽く食べていくことにした。
ところが、この「すき家」を出て1㎞も行かないうちに「山岡家」があった。
これも何とかの法則と言うのだろうか。
函館駅には15時着。98.5㎞。
今日はここから湯の川まで走るので、駅前でのんびりすることもなく写真撮影を済ませたら直ぐに出発する。15時3分発。


函館駅前停留場から湯の川停留場までの間には、両停留所を含めて17の停留場がある。
そのうち、函館駅前停留場と次の松風町停留場との間が大森線で、松風町停留場から湯の川停留場までの間が湯の川線である。大森線が僅か1区間しかないが、かつては松風町停留場から宝来・谷地頭線の宝来町停留場に向かう東雲線が存在しており、大森線は本線側と東雲線、湯の川線との間を接続するための路線として機能していた時代があったからだ。
そして、松風町から海岸付近に進んだところが大森町で、付近の浜は地理院地形図で大森浜と記されている。大森線はこの大森町から取られた路線名称のようである。
松風町停留場からは湯の川線に入るが、分岐路線が無くなったこともあり、鉄道史に興味がなければ、ここで路線の名称が変わることには気が付かないだろう。
路面電車の停留場と言うのはバス停と同じように200m~500mくらいの感覚で並んでいる。
「ちゃり鉄」ではその都度停車し、停留場の前後で写真撮影を行って進むことになるのだが、大体、都市部の交通量の多いところを走るので、写真撮影時は歩道側に退避するなど苦労する。
しかも、ツーリング装備の自転車で沿線を走る旅人もそうそう居ないだろうから、時折、好奇の眼差しを浴びることがあって恥ずかしい。
1~2停留場毎に谷地頭や函館どっく前に向かう列車とすれ違うが、どの列車もそれなりの乗車率だ。
五稜郭公園前停留場付近で90度ほど右転して進路が変わるが、かつてはここから分岐して西に向かう宮前線という路線もあった。その宮前線はガス会社前停留場で、五稜郭駅前まで伸びていた本線と合流していたのだが、今日、函館駅前~五稜郭駅前の本線も廃止されていて、その痕跡は残っていない。
都市部では高度経済成長期に路面電車が一斉に廃止され、地下鉄や路面バスに置き換えられたところが多い。交通渋滞の緩和や地下鉄化による定時・高速運行を意図したものが多かったが、「観光」や「環境」を意図した都市再生のために、市街交通を制限した上で、路面電車に回帰する行政施策があってもよいと思うし、それは一部の都市では実現してもいる。
厳密には鉄道と軌道とで法的な位置づけも異なるのだが、鉄道好きとしては嬉しい傾向。
私などは京都や神戸、奈良などは、市内交通に路面電車を復活させたらどうかと思っている。








五稜郭公園前停留場からは針路を東寄りに採って進む。この辺りが函館駅前から湯の川に向かう中間地点付近だ。
更に進んでいくと競馬場前停留場があるがその次には駒場車庫前停留場がある。
駒場と言うのは軍用馬などの育成牧場に因んだ地名で、大正期の古い地形図を見ると、この付近に「鍛錬馬場」の表示がある。
それらが形を変えて競馬場となり、地名となり、停留場名として今日に至る。
なお、駒場車庫前という停留場名が示す通り、ここには駒場車庫があるが、かつては柏木町や梁川町に車庫、営業所があり、駒場には工場のみが存在していたようである。それらが、合理化の為に駒場に集約されたことによって、今のような形態になったようだ。
更に時代を遡ると、1934年3月21日の函館大火による新川車庫の消失によって、代替施設として現在値に設置されたらしいが、ここではその詳細には踏み込まない。
湯の川温泉街の入り口にあたる湯の川温泉停留場から経て湯の川停留場には16時15分着。105.7㎞。ここでは先に湯の川鎮守の湯倉温泉を参拝し、その後で「終点」の湯の川停留場を訪れた。
複線が単線化して頭端式の停留場に列車が入線し折り返していく様は、路面電車独特の「終点」風景だ。
この日は湯の川温泉街の「何処か」で野宿をする計画としており、事前に幾つか候補地を見つけておいたので、それらを巡って場所を決めることにする。湯の川16時28分発。
途中、買い出しも行い、浜辺、温泉街の中の公園、その他を見て回るが、目星を付けていた温泉街の湯浜公園は、東屋下のベンチに腰掛けて読書中の人が居たので一旦スルー。近くの漁港の東屋を見に行くと寝ている人が居てここもスルー。その後、函館空港付近まで足を伸ばしてみたが、これといって良さそうな場所はなかったので、温泉街に引き返す。
計画段階から分かっていたことだが、函館は意外と野宿に使えそうな公園や東屋が少ない。
とは言え、湯浜公園の東屋は日が暮れたら人の気配もなくなりそうだったので、先に公衆浴場の永寿湯温泉に向かって一浴することにした。
ここは湯舟が二つあるが、高温湯と低温湯に分かれており、低温湯も結構な高温。高温湯に至っては歯を食いしばって浸かるような高温である。
地元の方が行く銭湯で観光客が好んで訪れるような場所ではないが、「ちゃり鉄」の旅で訪れるなら、スーパー銭湯の類よりもこうした公衆浴場の方が似つかわしい。
折角だから、高温泉にも浸かって茹で上がり、肌がヒリヒリする状態で外に出た。
永寿湯温泉、17時16分着、17時55分発。111.2㎞。
湯浜公園に戻ってもまだ先ほどの人が居たが、東屋の下からは移動していたので、そそくさと東屋の下に入り、適当に着替えなどを済ませてしまう。
そのうち、件の人も居なくなり、薄暗くなってきたので、さっと野宿の準備と夕食を済ませた。
その後、テントの中で精算などを済ませつつ、スマホをいじっていると、近くに人の気配。スマホを消すと直ぐ近くのベンチに男性が座っていて、暗闇からこちらの様子を伺っていた。
今回はアライテントのカヤライズを使用しており、雨の心配もなかったので外張りを貼らずにカヤライズ本体だけにしていたのだが、カヤライズはその名のとおり蚊帳状なので、夜になってテントの中で明りを灯していると、恐らく外から丸見えである。
覗かれたところで害はないのだが、あまりに近い場所からこちらの様子を伺ってるのが気になったので低い咳ばらいをすると、慌てて立ち去って行った。
学生時代などは旅先で同性愛者に近づいてこられたこともある。
見るからに自転車旅行中のテント泊で、若者だと思っていたのかもしれないが、咳払いの声がおっさんだったので、逃げて行ったのかもしれない。
その後は、公園の近くの道路を歩く人の気配があるくらいで、特に気になるようなこともなく眠ることが出来た。











~続く~


