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初野駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2024年3月20日 | コンテンツ公開 |
初野駅:追憶の旅情駅探訪記
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2001年7月1日。
JR北海道では宗谷本線、石北本線のそれぞれで3駅ずつ、合計6つの駅が同時に廃止になった。近年では2桁に及ぶ駅が一気に廃止されたりもするJR北海道管内ではあるが、2001年当時、6駅同時廃止というのは衝撃的な出来事だった。
宗谷本線では、芦川駅、上雄信内駅、下中川駅。石北本線では、天幕駅、中越駅、奥白滝駅が廃止となったのだが、通常、長期の旅に出ることがないこの時期に何とか都合をつけて渡道し、これまた学生時代には使ったことがなかった北海道フリー切符を使って、特急を活用しながらこれらの6駅で駅前野宿をする旅を行ったのだった。
この旅の道中、宗谷本線の普通列車の車窓から初野駅の写真を2枚だけ撮影していた。
途中下車することもできず、到着時と出発時に撮影したネガが残っていただけだが、私自身がこの駅を撮影した最も古い記録となった。
当時の事は記憶にはないが、撮影した写真を見ると、まだ、ホームに柵は設置されておらず、物置の待合室の脇には数台の自転車が駐輪されていたようだ。
それはとりもなおさず、この駅に通学需要があったという事実を物語っている。
初野駅に廃止の噂も立たない。そんな時代だった。
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
初訪問から2か月後。学生時代最後の長旅で再び北海道を訪れた。
京都から青春18きっぷを使って北海道を往復したこの旅では、約3週間の長い期間を野宿で過ごすことになった。
往復経路もそれぞれ本州を数日掛けて移動する行程だったのだが、2か月前に訪問した宗谷本線や石北本線も再訪し、じっくりと途中下車の旅を楽しむことが出来た。
初野駅でも念願の途中下車。
高齢の単独男性とご夫婦とが一緒に降り立ったのだが、宗谷本線や初野駅は生活の為に欠かせない存在だったことだろう。
駅のホームは「仮乗降場」時代の面影を色濃く残しており、ホームには柵が設けられていない。隣接する紋穂内駅も健在で、駅名標にその名を残していた。
駅は踏切に隣接した場所にあり、周りは農地と樹林に囲まれているが、当時の写真と近年の写真とを比較すると、当時は樹木が成長しておらず、柵がなかったこともあって、駅の雰囲気はもっと開けた感じだったことが分かる。
この時の滞在時間がどれくらいの長さだったのかは、記録が残っておらずはっきりとは分からない。
ただ、西日を受けた駅の雰囲気があまり変わらないうちに上下列車を乗り継いで移動しているので、僅かな滞在時間だったことは間違いない。
音威子府から名寄に向かう列車からは3名の地元の方が下車したものの、名寄から音威子府に向かう列車からの降車客は居らず、乗車したのも私一人だった。
待合室の横には、前回同様、数台の自転車が駐輪されていたので、通学での利用者が居たことは間違いないが、この日は夏休み期間中ということもあって、その姿は見かけなかった。
夏の青空の下で過ごした初野駅のひと時。
今思えば、貴重な時間だったと思う。
2020年10月(ちゃり鉄14号)
初野駅の第三訪は19年の時を隔てた2020年。「ちゃり鉄14号」の旅の道中でのことだった。
この旅では小樽港から苫小牧東港までの間を、羽幌線、宗谷本線、士幌線、広尾線、日高本線に沿って走ったのだが、この宗谷本線でも駅前野宿を交えながら、各駅を巡ることが出来た。
この翌春、2011年3月をもって、宗谷本線では12駅、JR北海道全体では18もの駅が廃止され、日高本線に至っては、路線の大半が復旧することなく廃止する定めにあった。初野駅に隣接する紋穂内駅も廃止対象。
当時は冬道走行用の装備を整えていなかった上に、感染症拡大や会社人事の混乱が重なり、春先と夏の2回に渡って「ちゃり鉄」の旅を中止したため、この10月の旅が最後のチャンスだった。初冬の不安定な気候の中での旅となり、3週間の旅の期間で雨に降られなかったのは僅か3日ほどしかなかったのだが、それでも、消えゆく駅を「ちゃり鉄」で訪れることが出来たのは幸いだった。
初野駅を訪れたこの日は豊清水駅から北星駅までの行程。いずれの駅も、翌春での廃止が決まっていた。
朝から天候が優れず、時折激しい降雨に見舞われる。初野駅も到着前には激しい雨が降っていたようで辺りの地面は濡れていた。
驟雨から逃げるようにして駆け込んだ初野駅の待合室。19年前の佇まいと変わらないことが嬉しくもあり、また、奇跡のようにも感じた。
当初の予定ではここで荷物をデポして函岳を往復することにしていたのだが、函岳への林道は距離が長い上に、風雨や雷を避けることが出来る退避場所がないこともあって、この天候では函岳に向かうのは適切ではない。このまま先に進むとしても、時間がかなり余ってしまう。どうしようかと待合室で計画を検討しているうちに雲の切れ間から日が差し込み始めた。
こんな小さな待合室でも温室のような効果があり、日が当たれば室内は暖かい。外は薄ら寒い天気が続いていたので、ホッと落ち着いた心地がする。
この辺りの宗谷本線では、旅客列車の運行は1日4往復だった。路線廃止が発生する末期のダイヤは3往復以下になることが多く、宗谷本線もまたその前途は厳しい。実際、この初野駅でも、19年前の訪問時とは異なり、待合室の横には1台の自転車も駐輪されていなかったが、それは初野駅に限らず全国各地の無人駅で共通して見られる現象でもある。
穏やかな待合室の中で「頑張れ宗谷本線」のポスターを眺めながら、如何ともしがたい過疎の現実を感じる。
晴れてきたこともあり、写真を撮影するためにホームに出る。
間もなく廃止される紋穂内駅の表示がなされた駅名標を撮影。紋穂内駅は初野駅に到着する前に通ってきたのだが、残念ながら、日程の制約もあって駅前野宿は実現できなかった。駅としての歴史は紋穂内駅の方が長く、仮乗降場として設置された初野駅とは異なり、当初から停車場として設置された由緒ある駅ではあるものの、周辺集落の衰退は激しく駅の周辺に人の生活の気配はなかった。
雨で濡れたホームには秋の日差しが降り注いでいる。
晴れ間が広がって天気が回復するなら函岳を訪れたいところではあるが、この晴れ間は束の間のもので、あちこちに発生している小さな強雨域が上空にやって来ると、再び土砂降りの雨に捕まり、びしょ濡れになってしまう。
宗谷本線を走行中、前方は明るい空なのに異常な冷気を感じて振り返ると、すぐ後ろにどす黒い積乱雲が迫っていて、雲の下にベールのように伸びる真っ白な雨足が、今にも私を襲わんばかりの距離まで近づいているということが何度もあった。
疑似晴天に騙されて遮るもののない函岳への林道に入ってしまえば、激しい雷雨に見舞われて危険な状況に陥ることは目に見えている。
渡道していた3週間のほとんどが、こうした冬型の天候だった。
このまま先に進むのが最善策。それは変わらなかった。
結局、初野駅では10分程度の停車時間で先に進むことにしたのだが、ちょうど、下りの普通列車が到着する時刻で、遠くに気動車のヘッドライトが見えていた。
その列車の発着を見届けてから出発することにする。
到着した列車から下車してくる利用者は居らず、勿論、乗り込む人も居ない。旅情駅の旅は過疎の現実を直視する旅でもある。
スッキリと晴れ渡ってきた空から降り注ぐ陽光は、そんな駅を暖かく包み込んでいた。人の営みが如何に転変しようとも、自然の営みは変わることはない。
走り去る単行の気動車を見送って、「ちゃり鉄14号」も出発。これが、秋晴れの中で初野駅と対峙した最後の機会となった。
2023年11月(ちゃり鉄21号)
2023年11月。
宗谷本線沿線を「ちゃり鉄21号」で走る機会を得た。
11月と言えば本州では晩秋にあたるが、北海道は既に冬。事前にスパイクタイヤを購入・携行し冬用装備を整えての北海道入りとなった。
この旅もまた、消えゆく無人駅を訪れるための旅。
2024年春に廃止が発表されている幾つかの駅を含めて、沿線の無人駅で駅前野宿を行うとともに、既に失われた駅のその後を見届ける旅でもあった。
最近の「ちゃり鉄」は残念ながらそういう旅が増えている。
渡道初日の晩と2日目までは、低気圧の温暖前線に向かって吹き込む南風の影響で温かく、本州と変わらないくらいの気温だったが、塩狩駅での駅前野宿が明けた3日目以降は、一転して冬型の気圧配置となり、予想最低気温は一気にマイナス7度以下となった。
塩狩峠から降って士別市街地に着く頃には雪が降り始め、あっと言う間に積雪。瑞穂駅での一夜で完全に凍結し、真冬のアイスバーンとなっていたこともあり、この日の晩のうちに待合室でノーマルタイヤからスパイクタイヤに換装する作業も行った。ノーマルタイヤとスパイクタイヤを携行して途中で換装するというのは、「ちゃり鉄」の旅としては初めてのスタイルだった。
元々、出発前から氷点下5度以下の気温と風雪は予想されていたので、各行程での野宿地の間隔は短くし、その分を沿線探訪や図書館での文献調査に費やす計画としていたこともあり、自転車で旅するには厳しい条件下でも、概ね、計画通りに旅することが出来たのは幸いだった。
日進駅での駅前野宿の翌日に訪れたのが初野駅。最初で最後の駅前野宿を目的としていたが、折からの風雪もあって、この旅では駅寝が基本となった。
日進駅と初野駅との間は、営業キロ数にして21.7㎞。廃止された駅も含めて訪問対象駅数は7駅。日進駅と初野駅とを含めて9駅。旅の行程としては極めて短いが、実際には、冬季閉鎖の道道を迂回したり、未除雪区間をラッセルしたりで、76.5㎞を走っている。
智東、智南、智北、智西の各集落にあった小学校跡を訪れ、北星駅跡では未除雪の北山地域に分け入り北山小学校跡も訪れた。それでも積雪の為に奥地林道の先にある幾つかの滝などは訪問できなかったので将来の課題としたい。
そんな行程で64.2㎞を走った後、初野駅には14時20分に到着。ここで小休止をした後、一旦、駅を出発して美深温泉を往復し、夕刻に戻ってきて駅前野宿とする計画だ。
14時過ぎの到着時は降雪の中で風景も無彩色。3年ぶりの初野駅は真っ白に雪化粧しており、印象を異にする。一旦待合室に入って今夜の野宿の状況確認も行っておく。
実は、駅に来るまでの間に、鉄道での来訪者のものらしい足跡を見つけていた。駅の周辺でも敷地に足跡が残っていたので、初野駅で下車して美深駅に向かったのであろう。
その来訪者が数時間以内に待合室に出入りしていたらしく床はかなり濡れていた。ベンチの幅も狭いため、この中で野宿するとなると床の濡れをどうにかしないといけない。テント用のフロアマットは持っているのでそれを敷いてしまえば濡れていても平気ではあるが、あまり気持ちのいいものでもないので、後ほど戻ってきた後、拭き取り作業を実施することにした。
外は氷点下の気象条件。日差しのない待合室の中も外気と同じ温度まで冷え込んでいるものの、風に直接吹かれないだけで温かい印象も受ける。
見覚えのある窓辺の千羽鶴もそのままだが、壁面に飾ってあったアニメのキャラクターは消えていた。
3年と言えば、短い期間でもない。
飾りがそのままで残っていることに、むしろ、驚くべきことだろう。
雪に覆われたホームにも上がってみる。
積雪の宗谷本線を旅したことは何度かあるが、この環境の中を自転車で走るのも白装束をまとった初野駅と対峙するのも、勿論、初めてだ。
先行者の足跡が残っていたものの、深々と降り積もる雪はその痕跡を消し去ろうとしている。一晩経てば、全くの新雪に覆われることだろう。
このタイミングでは8分間の滞在時間で初野駅を出発することにした。
美深温泉の往復は片道30分、合計1時間程度。入浴時間を1時間程度と考えて、今から2時間で戻ってくることになるのだが、この時期の北海道の日没は早い上にこの天候。15時半頃にはヘッドライトやテールライト点灯となり、16時を回れば既に真っ暗になっている。
戻ってくる道中が風雪の日没後になるのは分かっているので、このタイミングでは長居は出来ない。
途中、西里集落付近では国道沿いにある西紋神社と旧厚生小学校跡の伝承遊学館を写真に収めていく。
信号場起源の駅を除けば、凡そ、駅あるところには集落があり人々の生活があるものだが、過疎はこういった集落を消し去り、後には、利用者が居ない駅だけが残されることがある。それも束の間、やがては駅も廃止され、人々の暮らしの記憶は失われて行ってしまう。
この付近にあった紋穂内駅もまた、そうした歴史を辿って消えて行ったのだ。
厚生小学校は案外大きな校舎を持っており、それだけの小学生が通学していた時代があったことを物語るのだが、この日、小学校の跡地付近に地域住民の姿は見かけなかった。
美深温泉では1時間強を過ごして冷え切った体を温める。
この温泉は学生時代に訪れて以来2度目。あの時は、紋穂内駅で途中下車し歩いて往復したのだ。
美深温泉の一帯は道の駅やキャンプ場も整備された公園となっている。元々は、蛇行する天塩川に囲まれた氾濫原だった場所だが、河川改修で天塩川が直線化されるとともに、河跡湖となった一帯が再整備されたようだ。同時に、この付近が天塩という地名の由来となった「テッシ」発祥の地として、町指定の史跡にも位置付けられている。その辺の詳細は文献調査記録として別にまとめることにする。
駅に戻ってきたのは16時45分。76.5㎞であった。既にとっぷりと暮れていた。
美深温泉からの帰路は日中よりも風雪が激しくなっていて、じっとしているとあっという間に雪まみれになる。手早く解装して待合室内で荷物を整理し、着替えを済ませるとようやく人心地ついた。
この日の残り列車は、下りの音威子府行きが2本、上りの名寄行きが1本。
駅の利用者が現れる可能性はあるので、待合室の片隅に荷物を整理して妨げにならないようにする。
17時11分には音威子府行きの普通列車が激しい風雪をついて定刻にやってきた。車両はキハ40系。かつては何処でも当たり前に見られたこの車両も、いよいよ、貴重な存在になってきた。
そんな貴重な存在はしかし、宗谷北線区間の短区間をひっそりと往復する運用についており、この日、乗客の姿は見られなかった。
この日、キハ40系は名寄~音威子府間を2往復して仕業を終える。18時27分には先ほどの普通列車が折り返して来て名寄に向かい、20時16分には再度、音威子府行きの普通列車がやって来る。この普通列車は音威子府に到着後、名寄まで回送されてくるのだが、その途中、豊清水信号場で特急列車と行き違いをする。
人の来訪もないので、次の普通列車の到着までに夕食を済ませた。
18時27分の折り返し名寄行き普通列車は定刻にやってきたが、風雪が激しくて外に出るのも躊躇われたので、待合室から撮影を行う。
この列車にも乗客の姿はなかった。
風雪は絶えまなく吹き荒んでいるので、駅の外で長く滞在することはできない。時折、外に出て写真を撮影するのだが、忽ち雪まみれになるので、待合室に戻るとその雪で床を濡らすことになる。出来るだけ床の水気を拭き取っておきたいのだが、なかなか難しく注意していても結構な量の雪を室内に持ち込んでしまう。
ただ、幸か不幸か、気温が低下していくお陰で雪が溶けにくくなっており、清掃用具で待合室の外に掃き出すことが出来るようになってきた。
20時10分頃には駅の外に出て、最終列車の撮影準備に入る。
こうした無人駅では、列車の到着前に家族を出迎えるための車がやって来ることがある。大体、5分くらい前にやってきてエンジンをかけたまま停車しているのでそれと分かるのだが、この日、そういった車がやって来ることはなく、地元の利用者が降りてこないということが予想される。
夏場なら駅寝の旅人が降りてくることもあるが、この季節、この天候では、それもないだろう。
20時16分。こちらも定刻で音威子府行きの最終列車がやってきた。
車内に乗客の姿はなく、もちろん、駅での乗降客もない。
結局、夕方の普通列車が1.5往復する間、初野駅の周辺では誰一人として乗車していなかったということになる。
こんな孤独な旅路を行く列車の運転士は、一体、どんな気持ちなのだろう。
最終列車の出発を見送って待合室に戻り、手早く野宿の支度を済ませる。と言っても、フロアマットを敷きエアマットを膨らませた上に、寝袋を広げて枕代わりの着替え袋を置くだけだ。
あっという間に寝る支度は整ったが、この日は特急の通過を撮影するため、まだ、寝るわけにはいかなかった。
近年、北海道の普通列車の運転区間は短く分断されるようになり、「長距離鈍行」の旅情は失われたものの、定時運行の為には合理的かつ必要不可欠で、この風雪の中で遅れることもなく発着していることについては、JR北海道の企業努力がもっと評価されてしかるべきだと思う。
一方、札幌・旭川と稚内を結ぶ特急は、この旅の間中、遅れがちだった。
鹿との衝突は天候を問わずに発生しており、風雪が激しい場合は気象による遅延も加わる。
この日、札幌への特急「宗谷」と稚内への特急「サロベツ3号」はともに遅れていた。
特急「宗谷」は今しがた見送った普通列車と美深駅で行違うダイヤとなっているため、本来なら、普通列車の発着に先立って初野駅を通過していくはずだが、この日は1時間程度遅れており、先に普通列車がやってきた。
JR北海道のWebサイトで遅延情報は出ているので、それを確認しながら通過時刻を予想するものの、正確には把握できないので、雪の中で待ちぼうけを食らう。
結局、特急「宗谷」は1時間以上遅れた21時20分頃になって初野駅を通過していったのだが、風雪の影響でブレが発生し撮影には失敗した。
特急「サロベツ3号」も同じように50分程度遅延。美深駅を21時23分頃に出発するはずだったが、初野駅の通過は22時13分頃となった。
この間、音威子府駅から回想されてきた普通列車の通過も撮影を試みたが、こちらも見事に手ブレで失敗となった。
1時間程度待ち惚けた通過列車の撮影は、ほんの数秒の一発勝負。結局、成功率33%に終わったものの、「サロベツ3号」の通過は撮影できたので満足し、待合室に戻って寝袋に逃げ込み眠りについた。
さて、ここで初野駅の歴史について簡単に振り返っておこう。詳細は文献調査記録としてまとめることとする。
まず、初野駅の開業だが、「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)(以下、「変遷大事典」と略記)」によると、1946年6月に局指定の仮乗降場として開業し、1959年11月1日に停車場に格上げされている。この1959年11月1日は、宗谷本線各地の仮乗降場が一斉に停車場に格上げされたタイミングで、南から北永山、南比布、北比布、東六線、下士別、日進、北星、南美深、初野、下中川、南幌延の各駅が停車場として開業している。この付近を管轄していた旭川鉄道管理局からどのような通達があったのか気になるところだが、有力な資料は見つかっていない。
なお、宗谷本線へのディーゼル気動車の導入は1955年12月1日。南比布、北比布、下士別、糠南といった幾つかの駅が、仮乗降場として開業したのは同年12月2日。その他、多くの仮乗降場の開業が同年以降であることから、宗谷本線の仮乗降場設置は、同線へのディーゼル気動車を契機として進められたことが分かるのだが、初野駅に関しては、これに先立つ1946年には既に仮乗降場として開業している。
これについては「美深町史(昭和46年版)(美深町・1971年)(以下、「美深町史」と略記)」に記載があり、昭和22年5月31日に地区住民が「初野仮乗降場」の設置を陳情したことが始まりで、同年9月には「初野乗降場設置促進期成会」が結成されたこと、地元の陳情に基づいて乗降場設置が認められ、乗降場建設の資材や労力、待合所の建物は地元負担で開業したことなどが述べられている。詳細は文献調査を進めた上でまとめたい。
以下には、同書所収の初野駅の写真を引用する。ホームの様子は2000年代初頭まで変わっていないようだが、開業時の待合室は木造でもう少し大きなものだったことが分かる。写真から受ける印象は、かつて存在した東六線駅や北星駅、現存するところでは日進駅の待合室のイメージと重なるもので、この時代の待合室を訪れてみたかったと思う。
引用図:初野駅ホーム「美深町史(美深町・1971年)」
駅名の由来については「よく分からない」というのが現状である。
古いところでは「部落名をそのまま駅名としたが、その由来については明らかでない」という記述が「北海道 駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)」にあるが、この記述自体は誤りで、この地区に「初野」という部落は存在しない。そのことは、先の「美深町史」にもはっきりと「この説はまちがいである」と記載されている。
実際、所在地は2024年3月現在で北海道中川郡美深町字富岡。
開業当時に「初野」という部落名があったのかというとそうではなく、地区名は開業当時から富岡であった。「角川地名大辞典 1 北海道 上巻(角川書店・1987年)(以下、「地名辞典」と略記)」を紐解くと、富岡の地名については以下のような記述がある。但し、初野という地名については記載がなく隣接する斑渓に関する記載があるのみだ。
この点は文献調査が難航している部分だが、「美深ふるさと散歩(美深町郷土研究会・1988年)」によると、以下のような記述がある。
つまり、地元で乗降場設置のための期成会を結成した段階で、「初野」という名称が用いられていたわけで、調べるべきはこの期成会の設置要綱や当局に向けて提出した陳情書ということになろう。
ただ、そういったものが現存するのであれば、既に誰かが調べて情報として公開しているような気もする。それがないということは、史料が散逸して調査できないということかもしれない。
なお、「変遷大事典」には1948年7月1日の時刻改正で「初野線路班」に沿線住民の乗降を目的として列車が停車するようになった事実が記載されている。これについては、「『札幌鉄道局 列車運転時刻表』に掲載(通勤職員、通学生乗降のため下記線路班に列車の一部を停車する) 美深~紋穂内間。起点101粁900米」という記事が付記されていて、現在の初野駅と同じ位置を示している。
なお、これは初野駅に限ったことではなく、同書によると、この時、道内の複数の路線に存在した線路班で同様の便宜が図られたようだ。宗谷本線では北永山と初野が該当するが、例えば函館本線では白井川、賀老、越路その他の記載があり、駅や仮乗降場が設置されたこともない地点の線路班でも乗降の便宜が図られたことが分かる。残念ながら同書中でも、この時の時刻改正に関する札幌鉄道局の通達に関する文書番号の記載はない。
この「線路班」に関しては、「鉄道辞典 上巻(日本国有鉄道・1958年)(以下、「鉄道辞典」と略記)」に以下のような解説があったので引用しておく。
つまり、線路班というのは保線作業に従事する職員組織の最小単位であり、その業務の遂行の為に詰所や材料置き場等の施設を伴っていたということが分かる。そして中間線路班なるものが存在し、駅と駅の間に保線作業のための人員と施設が配置されていたということだ。その職員の通勤や家族の通学その他の便宜を図るために、これらの線路班中に乗降用の施設が設置、若しくは乗降地点が定められていたということであろう。
なお、「上川開發史(鴻上覺一・北方時論社・1940年)(以下、「上川開發史」と略記)」ではその「第三篇現代展望 第二章官公署 第四節名寄保線事務所」に以下のような記述がある。
線路班の前身が線路丁場だったということは「鉄道辞典」に記載されたとおりだが、それらを引き継ぐ形若しくは新設する形で、1922(大正11)年10月1日の段階で、名寄保線事務所管内に74の線路班が設置されたということになる。
「初野線路班」がその当時からのものかどうかは調査が終わっていないが、もしそうだとすると、現在の初野駅付近には元々、中間線路班としての保線作業詰所などがあり、作業員はここで保線車両に乗降したりしていたのだろう。その為の乗降施設があったのかもしれない。
当時は、自動車や車道が普及する以前。
付近の住民にとって、その乗降地点に旅客列車を停車してもらい住民の乗降を許されるならそんなに便利なことはない。
それ故に、「初野線路班」の施設位置に地区住民の乗降の便宜を図るための「仮乗降場」の設置を陳情することになり、その「仮乗降場」の名称を既存の線路班名称から採ったのではないだろうか。
国鉄当局としても、元々、職員やその家族の便宜のために乗降地点を設けているのであるから、そこを一般向けに整備して旅客の便宜を図ったとしても特段の支障は生じないし、経営に資するという判断があったのかもしれない。
こうして「初野仮乗降場」が設置されるとともに、一般住民は「仮乗降場」としての位置づけで、鉄道職員や関係者は「中間線路班の附随乗降施設」の位置づけで、同一の「乗降場」を用いることになったというのが歴史的な経緯ではなかろうか。
この辺りの考察を裏付ける資料を調査していきたいのだが、今のところ、有力な資料は見つかっていない。ただ、地形図や旧版空撮画像を確認したところ、興味深い事実も見つかったので、以下にまとめておく。掲載したのは地形図の新旧比較が2枚。空撮画像の新旧比較が1枚だ。それぞれ重ね合わせずとしてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替えることが出来る。
まず地形図。現在版の地形図は2024年3月17日に国土地理院のオンラインサービスから取得したものだが、縮尺によっては既に初野駅の表示が消えている。
ここには富岡、斑渓の地名が現れているほか、地図中、82mの独立標高点の表示がある交差点の西側に、宗谷本線が南北に走り、道路との交差地点に初野駅が存在したことが分かる。
この道路は旧版地形図に十四線という名称が書かれている。
旧版地形図は初野駅の設置前の地図なので駅は記されていないが、十四線と宗谷本線が交わる交差点の北西角と南東角に建物記号が描かれている。現在版の地形図と比較すると、北西角の建物記号は消え、南東角の建物記号は残っているが、同一の建物かどうかは分からない。
この他、旧版地形図では、駅位置の西北西に神社記号があり、その左上には岡部農場の表示がある。この辺りは、「地名辞典」の記載通りだ。
空撮画像の新旧比較では図幅の中心付近が初野駅の位置である。画像をよく調べてみると、初野仮乗降場が開業した1年後の1947年10月9日現在、十四線と宗谷本線の交差点の北西角には多くの建物が写りこんでいるが、1977年10月22日の写真ではすっかり更地となっており、現在も施設は何も残っていない。
推察の域を出ないが、この空撮画像の建物群や旧版地形図の建物記号は、「初野線路班」の詰所や付随施設だったのではないだろうか。
この辺りの調査は、引き続き継続していきたい。
旅の朝に戻ることにしよう。
一夜明けた初野駅は新たに積もった20㎝程度の積雪に覆われていた。
夜明前から除雪車が行き交っていたので車道は雪が除けられているが、それでも除雪車の車輪の跡のままに路面に残った雪が凍結している。
気温は氷点下7度くらいまで下がっており凍てつく寒さが衣類の中まで忍び込んでくるが、これでも厳冬期の放射冷却の朝の冷え込みと比べれば暖かい。
夜明けの大気は紺色から群青色へと転じていき、踏切付近の照明のオレンジ色が混じって、印象的な光景が展開する。自転車の旅としては厳しい気象条件となったが、この光景の中で初野駅と対峙することが出来て、気持ちは晴れ晴れとしていた。
30分ほど経つと、大気が帯びていた青みが薄れ、曇天の朝に特徴的な、灰白色の空気が広がり始める。モノトーンの情景の中、周辺の鉄道林は霧氷のように新雪をまとっていた。
この夜明け前の時間帯に、2本の回送列車が音威子府に向けて回送されていったが、それらの通過時刻は予測がつかないこともあり、写真撮影は出来なかった。
初野駅の始発列車は7時11分の名寄行き。その後、8時16分の名寄行き、8時26分の稚内行きと続くが、私は7時前には出発するので、これらの列車の発着を見ることはできない。
朝食を済ませ、始発列車到着の60分ほど前までには荷物の片付けも終える。
その後、駅周辺の撮影を行って、6時55分、思い出深い初野駅を後にした。
これが最初で最後の駅前野宿だった。
この日は初野駅から筬島駅までの行程だったのだが、函岳登山はもちろん、それ以外の奥地探訪も、積雪のため大幅に予定変更が必要だった。一方で行程としては余裕もできたので、当初の予定になかった美深町奥地の公徳小学校跡の探訪などを組み込む。積雪状況にもよるが、除雪が入っておれば、到達は可能だ。
初野駅周辺では、一旦、山手の斑渓集落方面に進み、斑渓神社と斑渓小学校跡を訪れる。
斑渓は「パンケ」と読むことが多く、アイヌ語では「ペンケ」と対になって、下、上を示している。下沼駅の旅情駅探訪記に記載したとおり、下沼はパンケ沼若しくはパンケトーに由来しており、サロベツ川に沿って「下流側の沼」を意味している。勿論、パンケ沼の上流側にペンケ沼が存在していることは、地形図を見れば一目瞭然だ。
翻って美深町にある斑渓は天塩川に沿って下流にある支流の谷に当たり、天塩川上流に当たる尾根向こうの支流の谷には「辺渓(ペンケ)」がしっかり存在している。
北海道の旅は、アイヌ語の地名に対する理解が深まると、グッと奥行きが増すように思う。
美深町立斑渓小学校は「美深町史」によると、1912(明治45)年7月16日に「美深尋常高等小学校十四線特別教授場」として開校したという。現在も敷地跡には門柱や体育館の建物が残っていたが、この体育館は1960(昭和35)年9月の新築だという。
手元の「美深町史」は1971(昭和46)年発行のものなので廃校に関する情報はないが、1970(昭和45)年4月現在で2学級、41名の児童が学んでいたようだ。
この小学校の廃校は1976(昭和51)年3月31日であった。
現地には美深町史跡としての案内標識が設置されている。
更に奥に進むと車道から斑渓神社の参道が分岐していくが、地図と現地を対比してそう判断しているだけで、神社への道は雪原となっていて定かではない。
ただ、入り口付近には山林防火の旗がはためき、その奥の丘陵の稜線には植林地の一画に明瞭な針葉樹林の塊がある。恐らくは、そこが社叢林だったはずだ。
そう目星をつけて膝上ラッセルで雪原を突っ切り山麓にたどり着くと、目星通り雪に埋もれた道型や水路橋があった。
倒木が邪魔をする参道を登っていくと社叢林と想定したところに鳥居があり、苦労した甲斐もあったと神社境内に入ることが出来たのだが、敷地は既にもぬけの殻。詳細は文献調査で調べたいが、2020(令和)2年には廃社になったようである。
小学校が廃校になり神社が廃社となり、そしてまた、鉄道駅も廃止された。
その現実の重さを感じながら、一人社叢林の中にたたずみ、鳥居から眼下の平原を見下ろす。
人々の生活の転変はいざ知らず、この山林や大地は悠久の時を刻んでいくのだろう。
参道を下りて車道の分岐まで戻り、丘陵を見上げる。
来し方、雪原に足跡が刻まれ、先ほどまでいた社叢林の跡が黒々と私を見下ろしていた。
ここからの帰路でもう一度、斑渓小学校跡を通りかかるので、先ほど撮影していなかった標識を撮影。
道中は除雪されてはいるものの路肩には除雪屑が積もり、タイヤ痕が凍り付いているので、スパイクタイヤと言えども、見た目以上に走りにくい。雪が消えている車道中央部を走るのだが、時折大型車も通りかかるので、前後の確認が必要となる。しかし、走りながら振り返るとバランスを崩して転倒しそうになる。
この旅では、出発前にヘルメットに装着したバックミラーが破損したため、ノーミラーでの走行となったのだか、後方確認には難渋した。
一見すると滑りそうなツルツルに磨かれたアイスバーンの方が、スパイクが効いてスリップしないというのは意外な発見だった。
斑渓地区を一巡して初野駅には7時55分に戻ってきた。奥地探訪に1時間を費やしたことになる。
すっかり明るくなった初野駅だが、曇天のこの日は出発時と同じようにモノトーンの情景の中に居た。
これが初野駅との最後のひと時。
次に沿線を訪れる時、ここに初野駅は存在せず、その痕跡は既に跡形もなく消え失せているのだろう。
このまま通過するつもりだったのだが、名残惜しさもあって、一旦自転車を下りて、もう一度ホームに上がることにした。
今朝から雪は降っていないので、朝方に自分が残した足跡がそのまま残っている。
この先、廃止に向けて訪問者の数も増えてくることだろうが、混雑する前に、静かな初野駅とじっくり向き合うことが出来て良かった。
最後にホームから駅名標を撮影して駅を後にした。
JR宗谷本線・初野駅。
北辺の地にあって住民の生活を支えた小さな乗降場は、2024年3月16日、利用者の減少によって、地域の人々に見守られながら75年の歴史に幕を下ろした。