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下沼駅:JR宗谷本線|旅情駅探訪記

JR宗谷本線・下沼駅(北海道:2023年11月)
旅情駅探訪記
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下沼駅:更新記録

公開・更新日 公開・更新内容
2024年1月11日 コンテンツ公開

下沼駅:旅情駅探訪記

2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)

学生時代、最後の夏となった2001年は、北海道の鉄道路線を旅する機会が多くあった。私にとって、北海道は旅で訪れる憧れの地でもあった。

当時は輪行装備を揃える経済的な余裕がなく、旅といえば専ら青春18切符や周遊券を使っての鉄道の旅だったのだが、北海道ワイド周遊券のように使い勝手の良い切符があったこと、夜行列車が比較的多く運行されていたこともあって、20年後の今よりも鉄道の旅は楽しみが多く、ルート選びの選択肢も豊富だった。

そんな中でも宗谷本線は好きな路線だった。

朝礼台と呼ばれる板張りホームだけの無人駅や、貨物車改造の待合室を持つ無人駅が連続し、普通列車の数時間の行程は、退屈する間もなくあっという間に過ぎていくのが常だった。

この下沼駅との初対面は2001年6月の旅のこと。

宗谷本線で3駅、石北本線で3駅の合計6駅が、この年の6月末をもって一気に廃止されることが発表されていたのだが、その廃止日直前になってようやく訪れることができたのだった。

日程が限られていたので、普段あまり使うことのない北海道フリー切符を用いて、特急移動も交えた道内6泊7日の気忙しい旅程で廃止対象の6駅で駅前野宿を行いながら旅をしたのだが、その中で、この下沼駅に停車する機会があったのである。

貨物改造駅舎に衝撃を受けた下沼駅との出会い
貨物改造駅舎に衝撃を受けた下沼駅との出会い
いつか途中下車することを胸に抱きつつ下沼駅を見送った
いつか途中下車することを胸に抱きつつ下沼駅を見送った

停車時間中に車窓越しに眺めるだけだったので、撮影した写真も2枚しかないし、「訪問」と言うべきかどうかも微妙ではあるが、宗谷北線の区間に多い貨物車改造の待合室は印象深いもので、再訪を胸に誓いながら、遠ざかる下沼駅を車窓に見送ったのだった。

2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)

2001年8月は、学生時代最後の夏休みで、東北・北海道を広く旅して周った。

往復経路に当たる地域でも数泊しながら北海道入りする形の旅で、学生時代の旅の最後を締めくくる長旅だった。

この時、もちろん宗谷本線も訪れ、前回、途中下車をすることができなかった下沼駅でも、途中下車を果たすことができた。

この年の宗谷本線では、既に述べたように6月末をもって3つの駅が一気に廃止された。当時は、駅や路線の廃止はそれほど多くはなかったので、一気に6駅も廃止されてしまうのは衝撃だったのだが、今日では一桁多い数の駅が同時に廃止されることも珍しくはなく、旅の計画を立てるにしても、随分寂しくなった。

当時は下沼駅に隣接して南下沼駅があり、この2001年8月の旅では、南下沼駅で駅前野宿の一夜を過ごすことができたのだが、この駅も既に廃止されており、現地にはそれと知らなければ決して分からないような痕跡が残るばかりである。

当時の駅名標には南下沼駅の名があった
当時の駅名標には南下沼駅の名があった

念願の途中下車で駅前に出てみる。

貨物車改造の待合室は、この地方の路線を旅していると見慣れた光景になるものの、見飽きた光景になることはない。もちろん、その多くは古い木造駅舎の建て替えに際し、遊休品となった貨物車を改造して待合室に充てたもので、そこには過疎化やコスト削減といった厳しい現実が染みついてはいるのだが、そういう現実も含めて、旅の情感としては味わい深いものがある。

下沼駅は舗装された道の突き当りに位置し、駅前のロータリーにあたる部分は未舗装の地面となっている。古い写真で見ると、現存する雄信内駅抜海駅のような風格ある木造駅舎がこの敷地に建っていた様子が分かるが、今は敷地に残る基礎の一部に、その面影を偲ぶばかりだ。

初めて見る者に強い印象を与える下沼駅の佇まい
初めて見る者に強い印象を与える下沼駅の佇まい
舗装路の行き止まりにひっそりと駅がある雰囲気は当時から変わらない
舗装路の行き止まりにひっそりと駅がある雰囲気は当時から変わらない

駅のホームに立ってみると幌延方のスロープの先から線路の向こう側に踏み跡が続いていた。

その先に何があるのか気になって線路を渡って足跡をたどると、その足跡は草むらの奥をホームに沿って移動し反対側のホームの末端に続いていた。不明瞭な足跡はそこで再び線路を横切る形で消えていたのだが、それは明らかに獣の足跡で、今から考えれば、恐らくエゾ鹿のそれだったのだろう。

あまりにはっきりとした足跡だっただけに、線路の先に人の生活でもあるのかと思ったのだが、あるのは野生生物の生活だった。

北海道らしい出来事だった。

線路の反対側に踏み跡が延びているのを見つけて辿ることにした
線路の反対側に踏み跡が延びているのを見つけて辿ることにした
グルっと回ってホームの反対側に出た足跡は獣道だった
グルっと回ってホームの反対側に出た足跡は獣道だった

ホームに戻ってしばらくすると、出発の時を迎える。

途中下車の時間は短く、この時は、駅の敷地を離れることもなかったが、いつか駅前野宿で訪れたい。

そんな思いを抱かせるに十分な、静かな原野の「旅情駅」だった。

JR宗谷本線・下沼駅(北海道:2001年8月)
初訪問は短い間だったが思い出深い「旅情駅」となった

2020年10月(ちゃり鉄14号)

下沼駅の第三訪は実に19年の時を隔てることとなった。

2020年10月。

ちゃり鉄14号で稚内から旭川に向けてJR宗谷本線を巡る道中で立ち寄ったのである。

この旅では国鉄羽幌線、JR宗谷本線、国鉄士幌線、国鉄広尾線、JR日高本線という経路で、北海道を縦断した。

感染症がパニックを引き起こしていたこの年。

2度に渡って旅程を延期した後、晩秋の最後の機会になってようやく旅に出発することができたのだが、連日悪天候に見舞われる辛い旅路でもあった。

天候が不安定になるこの時期に無理して旅に出なくても、という声もあるかもしれないが、年が明けた翌春には大量の駅の廃止が発表されており、「次の機会」はもうなかったのである。宗谷本線では、北星駅北剣淵駅をはじめとして一気に11もの駅が廃止される見通し。

近年はインバウンド需要やSNSの普及もあって「旅行」自体に廃れた印象はないものの、「旅情」はどんどん失われている。

下沼駅を訪れたのは、そんな旅路の中。抜海駅から糠南駅に向かう道中のことであった。全体の旅程の長さもあって、この時も下沼駅では駅前野宿の機会は得られなかったが、「ちゃり鉄」での初めての訪問には心躍るものもあった。

その下沼駅には驟雨に追われるようにしてたどり着いた。待合室の中に逃げ込んだ直後に激しい雨に見舞われ、間一髪、ずぶ濡れを免れたのは幸いだった。

15分ほどで激しい雨は上がり、雲の隙間からは青空がのぞき始める。晩秋の宗谷本線は、始終、このような天候だった。

雨上がりのホームに出て駅名標を眺める。

かつて表示されていた「みなみしもぬま」の駅名表示も既にない。この後、その跡地を訪れることになるが、仮乗降場由来の棒線駅は面影を偲ぶことも難しい。

南下沼の文字が消されて駅名標
南下沼の文字が消された駅名標

待合室はというと、地元幌延町の施策もあって2017年に外装修繕などがなされており、「ぬまひきょん」というゆるキャラの設定に合わせたユーモラスなイラストが描かれている。一切の手入れがなされずボロボロに朽ち果てていく駅も多い中、こうした「お色直し」には、何か、ホッとさせられるものがある。

自治体管理に移行した駅の行く末は自治体の意向によって明暗が分かれるが、幌延町内にあっては比較的多くの駅が存続しており、そのことは素直に喜びたい。

19年ぶりの下沼駅は少し垢抜けた雰囲気になっていた
19年ぶりの下沼駅は少し垢抜けた雰囲気になっていた

ホームから駅構内を撮影しようとすると、線路内に見慣れぬ機器が設置されている。そういえば、先ほど豊富方の踏切を渡る際にも、同じような三脚に据えられた機材を目にしていた。

一見するとカメラの三脚のようにもみえるが、回り込んで観察すると、先ほど踏切の方で見かけた機材の方向に向かって、赤いフラッシュライトが点滅している。何らかの測量機器と思われたのだが、それにしては周辺に全く保線作業員の姿がなかったのが不思議だ。

列車運用がない間合い時間での作業だったのだろうが、珍しい駅風景であった。

この日は何かの測定機器が線路上に設置されていた
この日は何かの測定機器が線路上に設置されていた
赤い明滅を遠方の別の危機で測定しているようだった
赤い明滅を遠方の別の機器で測定しているようだった

ホームの側から待合室を眺めると、遠くにある民家と駅への取付道路をバックにした駅の風景が目に飛び込んでくる。この風景は何も変わらないのだが、待合室の修繕塗装のおかげもあってか、薄ら寒い曇雨天だったにも関わらず寂しい印象はあまり感じられなかった。

近年では、老朽化した待合室の建て替えが行われることも多く、時には立派な木造駅舎が屋根付きベンチに置き換えられてしまうこともある。

コストカットの行き着く先はそういった味気ない駅の量産ということになるのだろうが、そうしてあらゆる事物に無駄を見出し、コストとしてカットしていく社会というのは、どこか寒々しくて気味悪いもののようにも感じるし、一見もっともらしくコストをカットしているように見えて、その実、カットした分の余剰が社会に還元されることはなく、一部の権力の私腹に収まっているだけというのが現実ではなかろうか。

それはさておき、こうしてイラストを描くということだけでも、駅の印象は随分と変わるものだと、思いを新たにした。

キャラクターが描かれた待合室に地元の愛着を感じる
キャラクターが描かれた待合室に地元の愛着を感じる

下沼駅もかつては木造駅舎と交換設備を伴い、駅員も配置された、立派な「停車場」であった。

その面影は駅構内の両端で緩やかに曲線を描く線形や待合室の周辺に残る旧駅舎の基礎に、辛うじて見出すことができるくらいだ。

旧駅舎は1985年に現在の貨物駅舎に建て替えられたという。

それは私が生まれた後のことではあったのだが、小学生当時の私が道北のこの地の木造駅舎を訪れることなどできようはずもなかった。あと10年、15年早く生まれていれば、という思いを抱くこともある。

線路のカーブに交換可能だった頃の面影を感じる
線路のカーブに交換可能だった頃の面影を感じる
幌延方も同様に緩やかなカーブを描いていた
幌延方も同様に緩やかなカーブを描いていた

改めて待合室に入る。

殆ど何もなくて素寒貧とした貨物車改造の待合室もあるが、下沼駅の待合室は、机が置かれていたり、装飾が施されていたり、ベンチに座布団が置いてあったりで、賑やかだし居心地の良い空間だった。

そして、訪れてみたかった木造駅舎時代の下沼駅の写真が、額に収められて飾られていた。

もはやその時代に戻ることはないだろうが、こうした貴重な記憶を、未来に向けて記録していきたいものだ。

待合室の奥にある倉庫とトイレは施錠されていた
待合室の奥にある倉庫とトイレは施錠されていた
待合室内に掲示されていた木造の旧下沼駅舎の写真
待合室内に掲示されていた木造の旧下沼駅舎の写真

待合室を出て駅前の「ロータリー」から下沼駅を撮影する。

ロータリーといっても、舗装終点から先は土の地面で何かの施設があるわけでもない。時折車が駅前に入ってくるようで、車輪の跡が残っていた。

正面から見ると木製の駅名看板が掲げられているが、これは地域住民の方の手作りのもののようだ。

その駅名看板の下には小さな花壇があり、黄色い花が咲いていた。

そこには、地域住民の方の愛着を感じた。

この日の行程は道半ばで、ここから更に南に向かうことになる。

「ちゃり鉄」の際は、通常5分~10分の滞在で次の駅に向けて出発することになるので、この下沼駅も雨宿りの時間も含めて比較的短い時間で出発することになった。

この駅が健在なうちに駅前野宿で再訪したい。

そんな思いを胸に、この原野の旅情駅を後にした。

下沼駅をモチーフにした「ぬまひきょん」というご当地キャラクターが描かれている
下沼駅をモチーフにした「ぬまひきょん」というご当地キャラクターが描かれている
待合室の前には花も植えられていた
待合室の前には花も植えられていた

出発した後、パンケ沼まで足を延ばした。

この「パンケ」という地名はアイヌ語に由来し「下、下流」を表している。そこから容易に「上、上流」を表す言葉の存在も想像できるのだが、実際、その意味を持った言葉がアイヌ語にはあり、「ペンケ」という音を持っている。

この点を地形図で確認してみよう。

以下に示すのは2024年1月段階の国土地理院地形図の電子版で下沼駅周辺を広域地形図として切り出したものである。

広域地形図:下沼駅周辺(2024年1月)
広域地形図:下沼駅周辺(2024年1月)

これを見ると、下沼駅の西方2㎞程度の距離に「パンケ沼」があり、その北側2㎞程度に「ペンケ沼」がある。先ほどの説明に従えば、「パンケ沼」が「下沼」であり「ペンケ沼」が「上沼」ということになるのだが、もちろん、下沼駅やその周辺の下沼集落の名前はこの「パンケ沼」に由来する。

この両者が何に対する下側、上側となるのかは、地形図の中に答えがある。

よく見ると、ペンケ沼やパンケ沼の西側にサロベツ川という川があり、図幅の下の方で広い川に合流している様が見て取れる。この広い川は天塩川だ。

ここが分岐ではなく合流であることは、三角州や扇状地等の例外を除けば「川が下流に向かって分岐することはない」という地理的知識から判断できる。地形図上に例外的な地形の特徴はないことからも、ここが合流であることは確定できる。

すなわち、サロベツ川は北から南に向かって流れ下っており、下流で天塩川に合流しているのである。事実、地図上には北に上サロベツ原野、南に下サロベツ原野の地名表示もあり、「ペンケ」、「パンケ」の並び順に対応している。

なお、ここでは「下沼」という意訳地名になっているが、「斑渓・班渓」、「辺渓」という音訳地名も多い。宗谷本線に関連するところで、初野駅の東に斑渓集落があり、天塩川沿いに上流に遡った丘向こうには辺渓集落がある。

また、かつてのJR名寄本線には班渓駅があり、国鉄美幸線には辺渓駅があった。

この他、道東の阿寒湖の上流には、イベシベツ川に沿って下流から「パンケトー」、「ペンケトー」という沼が連続しているが、ここでいう「トー」は「沼」を意味するアイヌ語である。

北海道の旅は、こうしたアイヌ語への理解があることで一層深まるように思う。

集落や駅名の由来となったパンケ沼まで足を延ばした
集落や駅名の由来となったパンケ沼まで足を延ばした
この日は風が強く沼は波立って茶色く濁っていた
この日は風が強く沼は波立って茶色く濁っていた

この日のパンケ沼は不安定な天候の下、強風を受けて白波が立っており茶色く濁っていた。

先ほどの驟雨は去って晴天が覗いてはいたものの、本格的な晴れ間というわけではなく、冬の北海道や日本海沿岸地域の天候を思わせるような、雲の切れ間の束の間の青空に過ぎなかった。

強風に吹き飛ばされた波しぶきが飛来してカメラのレンズや衣類を濡らすので、長居することもできず沼を一瞥したところで去ることになった。

遠くに見えるはずの利尻島の姿は、この日は見ることができなかった。

2023年11月(ちゃり鉄21号)

2023年11月下旬から12月上旬にかけて、「ちゃり鉄21号」で宗谷本線沿線を走った。

2020年10月にも「ちゃり鉄14号」で稚内から旭川に向けて走っているので、宗谷本線沿線は2度目の「ちゃり鉄」ということになるのだが、今回は旭川から稚内に向けて走りながら、道北に点在していた中小の鉄道路線跡を巡る旅とした。

この時期の北海道は既に冬の気候。

ノーマルタイヤの自転車で2週間・1000㎞に渡る旅を実施するのは難しい。その一方で本州は晩秋の気候でもあるので、自宅からフェリー乗り場のある舞鶴港までの片道50㎞前後はノーマルタイヤで走ることになる。

そういうこともあって、無雪路面はノーマルタイヤで走り、積雪・凍結路面に入る段階でスパイクタイヤに履き替えるという方法で、なかなか、テクニカルな「ちゃり鉄」を行うこととなった。

スパイクタイヤでの「ちゃり鉄」は初めてになるが、金沢や釧路、福知山といった積雪・寒冷地での生活が合計15年ほどあるので、雪道やアイスバーンそのものには心配はない。出発前の天気予報で、期間中の最低気温は氷点下7度~10度程度。

3シーズン想定の野宿装備では通用しないが、厳冬期の北海道向けの装備を携行しなくても、本州の真冬を想定した装備で十分に野宿が可能だ。

そんな「ちゃり鉄21号」の旅は、道内2日目の士別市街地から本格的に雪が降り始め、以降、最終日まで、大半の区間を圧雪・アイスバーンの下で走ることになった。

下沼駅訪問は旅の終盤。

正確には駅前野宿で訪れた1回目と、その2日後の日中の通過の2回目という形で2回に分けて訪問しているのだが、この探訪記の中では両者を合わせて第4訪とカウントする。

その1回目は宗谷本線沿線の旅から「途中下車」して、幌延町営軌道問寒別線、日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道線という二つの小鉄道廃線跡を巡った1日の終わりに、駅前野宿で訪れた。

全体としては宗谷本線に沿って北上する旅程だったが、この日は、糠南駅から2路線の廃線跡を巡って豊富駅に至り、そこから南下して下沼駅に到着するというルートだった。

到着前には駅近傍の国道脇にある温内神社にも立ち寄る。

「幌延町史(幌延町・1974年)(以下、「幌延町旧史」と略記)」によれば、この神社は明治末に創建され1939(昭和14)年7月に現在地に移設されたとある。祭神は天照大神。

国道脇に鎮座する神社の周辺に民家はなく、訪れる人の姿も見えなかったが、境内はきちんと手入れされており、今でも参拝する地域の人が居るように感じられた。

国道40号線の脇にある温内神社を訪れた
国道40号線の脇にある温内神社を訪れた
温内神社の社殿は小さいが手入れは行き届いている
温内神社の社殿は小さいが手入れは行き届いている

参拝を終えて国道から脇道に入り、宗谷本線を踏切で渡る。遠くに下沼駅の姿が見えており、既に明かりが灯っていた。

駅前の湧水を汲んで夕刻の下沼駅に到着。15時51分だった。随分早い到着時刻のように感じるが、この時期の北海道は日没時刻が16時頃で、雪が降る気象条件下では15時を過ぎるとヘッドライトの点灯が必要になるくらい薄暗くなる。旅程全体を通して30分から60分くらい、ヘッドライト走行が必要だったのだが、この日は唯一15時台に行動を終了する行程だったので、明るいうちに到着することができた。

今夜は念願の駅前野宿。駅前で湧水を汲むことができる立地というのも嬉しい。

現地にある説明看板には以下のような説明書きがある。

この湧き水は、1954年(昭和29年)頃から自噴している地下水です。湧水量もほとんど変わらず天然ミネラル水としてはほぼ満足する水質と判定されました。(硬度37.4 PH7.2)

今までは無名の湧水で「下沼湧水」又は「サロベツの名水」と呼ばれてきました。このサロベツ地域の開拓者(故)山田権左衛門の名とサロベツを合わせ、今後一層愛される湧水として『湧水サロベツ 権左衛門』と名前を付けました。

湧水 サロベツ権左衛門 説明看板
踏切を渡るところで下沼駅を遠望する
踏切を渡るところで下沼駅を遠望する
駅の近くにある「権左衛門」という湧水
駅の近くにある「権左衛門」という湧水
湧水は勢いよく滾々と湧き出していた
湧水は勢いよく滾々と湧き出していた
湧水サロベツ権左衛門の説明看板
湧水サロベツ権左衛門の説明看板

周辺はサロベツ湿原と呼ばれる低湿地帯であるが、湿地はその辺縁の丘陵部との境目に湧水を持っていることが多く、こうした湧水は、湿原の中を貫流する河川からの氾濫水以上に、湿原全体を涵養する効果が高い。

湧水は凍結した地表よりも深い層から湧き出してくるため真冬でも凍ることはなく、湿原の生態系にとって重要な意味を持つ。

日本最大の釧路湿原では、こうした湧水に集まる水中生物を冬場の糧として、丹頂鶴が絶滅の危機を乗り越えてきたが、サロベツ湿原もまた丹頂鶴の貴重な生息地だ。

今日の日本で生活していて水の確保に困ることは殆どないが、その生活が如何に脆いものであるかは頻発する災害の度に報道される断水や給水の様子を見れば明らかだ。それでも、実際にそういう体験をしない限り実感は湧かないものだし、実感したとして「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のが人の常である。

その点、キャンプ場も使わず野宿で旅をしていると、日々、「水を何処で確保するか?」を考え続けることになる。

とりわけ山岳地域での縦走登山や凍結環境下の長旅のように、「水道を捻れば水が出る」という「常識」が通用しない場合、水場の情報を事前に調査しそこで確実に補給する計画が必要になるし、加えて寒冷地では凍結対策も重要になる。

駅前に湧水がある下沼駅の立地環境は、その点、とても貴重なものであるし学ぶことが多い。そして、こういう学びは楽しいものだ。

この日は終日アイスバーンを走り続けて緊張もしていたので、待合室に入るとホッと落ち着いた心地がする。金属製の貨物車改造の待合室は底冷えがするのだが、下沼駅の待合室は座布団や机が置かれていることもあり、居心地は悪くない。

荷物の整理を済ませ、撮影に備えた時刻表の確認を行う。

この後、下沼駅を通る列車は以下の通り。

上りは、豊富18時25分発の特急「宗谷」、19時5分発の4330D普通列車名寄行き、21時10分発の4332D普通列車幌延行き。

下りは、豊富16時44分発の特急「サロベツ1号」、18時47分発の4331D普通列車稚内行きである。豊富23時7分発の特急「サロベツ3号」は運転設定のない日だった。

「サロベツ1号」が間もなくやってくることが分かったので、夕食などは後回しにして撮影準備のために待合室の外に出る。到着して1時間と経ってはいないが、雪雲が去来する空の下、日没の余韻が漂うことなく既にとっぷりと暮れていた。

通過列車の撮影の際は長時間露出にして軌跡を撮影するのが好きだ。

所持しているレンズの光学性能の限界も理由の一つではあるが、駅や待合室、構内照明の「静」と通過列車の「動」を対比して撮影することで、却って、「旅情駅」の夜を包み込む静寂が際立つからでもある。

こうした写真は、鉄道写真の教科書では典型的な失敗例とされていることもあるし、印象的な作例として紹介されていることもある。正解はないのだろう。

この日もアングルを考えて色々歩き回るのだが、ここでは待合室の正面から撮影する珍しいアングルを採用した。

程なくして通過していく特急「サロベツ1号」。

光のショータイムはほんの一瞬だが、思ったような仕上がりで撮影できたのを確認し、満足して待合室に引き上げる。

JR宗谷本線・下沼駅・特急「サロベツ」(北海道:2023年11月)
光陰となって駆け抜けていく特急「サロベツ1号」

次の列車は特急「宗谷」で18時30分過ぎの通過が見込まれる。

時間があるので、この間に夕食も済ませることにする。

30分に一度くらい、窓の向こうに光るものの気配を感じる。

大体、湧水の前で転回しているが、時折、駅前に入ってきて転回し湧水の前まで戻る車もある。水を汲みに来る人は結構多いようだ。

そのうち、1台の車がやってきて駅前に停車した。戻っていく気配がないのでもしかしたら駅の撮影に来たのかもしれない。待合室の外を歩く人の気配があったが、待合室に入ってくることはない、数分滞在した後、走り去っていった。

その後、同じように待合室の外まで車がやってきた。この車からは男性が待合室に入ってきた。

愛好家が駅の撮影に来たのかと思っていると、実は地元の方で、「今夜豊富で飲むから帰りに汽車で戻って来れるか見に来ました」とのこと。豊富から下沼への普通列車は1日4往復しかないが、その内の2往復が夜間帯にある。先ほど整理した4330Dと4332Dだ。19時5分発の4330Dの前は11時26分発の4326Dで7時間半の空きがある。

時刻は既に17時を回っているので、豊富で飲んで帰って来るなら21時10分発の4332Dしかない。

男性はそれを確認されているが、随分と器用な使いこなしだし、飲酒運転をせずに汽車を使うと考えるところは、当たり前のようで立派な事だと思う。

こちらは色んな荷物をひけらかしているので恐縮しつつも、旅の最中であることなどを告げ、暫し雑談。

その後、男性は帰って行かれた。

それ以降は駅前に入ってくる車もなく静かなひと時が過ぎていった。

上り特急宗谷の通過を皮切りに、下り最終の稚内行き4331D普通列車と、上り名寄行きの4330D普通列車の発着を撮影する。いずれの列車もキハ54形の単行で車体は雪まみれ。北辺の地の旅路の厳しさを物語る。車内には乗客の姿は無かった。

そんな孤独なランナーを見送りホッとした様子の下沼駅を、この夜も明るい月が見守っていた。

はるばる札幌に向かう特急「宗谷」の通過を見送る
はるばる札幌に向かう特急「宗谷」の通過を見送る
JR宗谷本線・下沼駅(北海道:2023年11月)
雪まみれの4331Dが稚内に向かって出発していく
JR宗谷本線・下沼駅(北海道:2023年11月)
名寄に向かう4330Dも凍り付いていた
JR宗谷本線・下沼駅(北海道:2023年11月)
この夜の下沼駅も月に見守られていた

この後、最終の4332D幌延行きを待つことにしたのだが、金属製の車掌車改造駅舎はかなり冷える。じっとしていると全身が凍えてきて風邪を引きそうだったので、寝袋にくるまって横になりながら、列車の到着を待つことにした。

しかし、結局そのまま寝入ってしまい、最終列車の発着は上の空だった。出発する最終列車の出発音を遠くに感じながら朦朧としていると、人が入ってきた気配がある。最初は脳が覚醒しておらず事態が呑み込めなかったのだが、話しかけられている声でようやく覚醒する。

最終列車が出発する前に寝てしまわぬように注意していたのに迂闊だった。

時折ある警察官の巡視と職務質問かと思って起き上がると、先ほどのご近所の男性だった。

豊富での飲み会を終えて予定通りの列車で下沼駅に帰って来られたのだ。

寒いだろうからと、温かい飲み物とお弁当まで差し入れして下さった上に、「直ぐ近所だから」と明日の朝、朝食に来るようにお誘いまで受ける。

まだ半分寝惚けながらも恐縮。ただ、翌朝も6時半には下沼駅を出発し、夕方16時半頃まで90㎞前後を走る予定があるため、朝食のお誘いはお礼を言ってお断りした。

男性は無理にとは言わず外で待っていた車で帰って行かれる。

長年の経験の中でトラブルになったことは一度もないとは言え、駅前野宿や駅寝でこうしたご好意に接する機会も多くはない。それだけに、この冷え冷えとした一夜に頂いた好意には、感謝の気持ちが沸々と湧いてきた。

いただいた飲み物やお弁当は、一夜で凍り付くのは目に見えていたので、温かいうちにいただく。

それで体も温まり、再び目覚めることなく、深い眠りに落ちたのだった。

ここで下沼駅の歴史について簡単に振り返っておきたい。詳細は文献調査に委ねることとする。

駅名の由来については「パンケ沼」にあることを既に述べた。

「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)」によると、下沼駅の開業は1926年9月25日のことで、当時の国有鉄道天塩線幌延~兜沼間の延伸開通に伴う一般駅としての開業であった。

その後、1977年5月25日には貨物取扱、1984年2月1日には荷物取扱が終了して、同年11月10日に無人化されている。

現在の貨物駅舎への建替えは道新2017年9月27日版によると1985年のことであった。

その後、下沼駅を巡って大きな変化はなかったのだが、2016年以降、JR北海道の経営合理化政策の対象として全道的に旅客需要の小さい無人駅の廃止が進む中で、下沼駅も廃止対象として掲げられることとなった。

結局、こうした無人駅については廃止するか、さもなくば、自治体が管理するかの二者択一が迫られることとなり、自治体毎の思惑によって命運が分かれることとなった。

下沼駅に関しては地元幌延町が管内の無人駅の管理・活用に前向きなこともあって、幸いなことに存続している。2017年の6月から8月にかけては、待合室の外装塗装の修繕も行われているが、その際には、この駅をモチーフにして設定された「ぬまひきょん」というユーモラスなゆるキャラが描かれている。

こうした小さな取り組みを「ちゃり鉄」を通して支援したいと思う。

旅に戻ることにしよう。

夜明け前の黎明の青い大気の底でまだ眠りの中に居た。

とはいえ、下沼駅の朝早い。夜明け前の6時16分には名寄行きの4324D普通列車が発着し、7時7分に稚内行きの4321Dが発着する。この両者は雄信内駅で行違うのだが、その雄信内駅には、明日の夜、駅前野宿で訪れる予定だ。

この日は、下沼駅を出発した後、昨日通った豊富市街地を経て稚内市域の沼川まで走り、そこから幌延に向かって簡易軌道幌沼線のルートを辿る。

天候は曇り時々雪。激しい地吹雪にはならないだろうが、遮るもののない丘陵地帯を走ることになるため、吹雪による視界不良や積雪が懸念される。

そんな中でも走行距離は90㎞程度になるため、6時半頃には出発する予定だ。

張り詰めた冷気の中で下沼駅の夜明けがやってきた
張り詰めた冷気の中で下沼駅の夜明けがやってきた
訪れる者も居ないホームに孤独な足跡を刻む
訪れる者も居ないホームに孤独な足跡を刻む
明かりの灯る待合室はどこかホッとさせられる
明かりの灯る待合室はどこかホッとさせられる

そうこうしているうちに1台の車がやってきた。列車発着の時間でもないので水汲の車だろうと思っていたのだが、ヘッドライトで待合室を照らしたまま動かない。そうかと思うと、待合室の外で行ったり来たり、ライトを付けたり消したり、走り去ったと思ったら戻ってきたり。こちらの様子を伺っている雰囲気だったが、こちらからは相手の車内の様子が良く分からないので気味が悪い。向こうは向こうで待合室の中に人影が見えて不気味だったかもしれない。

6時16分には定刻でやってきた4324Dの出発を見送る。まだ明けきらぬ時刻ということもあって、駅には明かりが灯り、まだ眠りの中に居るかのようだった。

JR宗谷本線・下沼駅(北海道:2023年11月)
早朝6時16分には下沼駅を出ていく4324D普通列車名寄行き

始発列車の発着を見送ったら、「ちゃり鉄21号」も準備を済ませて出発する。6時46分発。

最後に下沼駅舎や構内の写真を撮影して駅を後にする。

まだ眠たそうな「ぬまひきょん」を一瞥して、初めての駅前野宿の思い出を胸に、沼川に向けてペダルを漕ぎ出した。

下沼駅の待合室を正面から
下沼駅の待合室を正面から
「ぬまひきょん」が眠たげに横たわる
「ぬまひきょん」が眠たげに横たわる
最後に駅の構内を見渡して出発することにした
最後に駅の構内を見渡して出発することにした

下沼駅の再訪は、その2日後のことだ。

下沼駅を出発した後は、沼川駅跡から幌延駅跡までを、簡易軌道幌沼線のルートに沿って走り、そのまま、南幌延駅まで走って駅前野宿とした。

その翌日は南幌延駅から雄信内駅までを雄信内市街地、天塩市街地を巡る周回ルートをとりながら走り、いくつかの学校跡や神社などを巡った。

そして2日後のこの日は、雄信内駅から抜海駅までを走る。その途中で下沼駅を再訪したのだ。

途中、下沼小中学校跡にも立ち寄った。詳細は文献調査記録にまとめるが、「幌延町旧史」によると1904(明治37)年頃に有志によって建設された学校が起源となっており、1906(明治39)年5月20日には、温内簡易教育所として正式に認可されたとある。温内の地名は温内神社にその名残を見ることができる。

この「温内」が「下沼」に転じたのは1925(大正14)年4月1日のことで、下沼駅の設置に伴い、下沼尋常小学校と改称された経緯が記されている。

下沼駅がこの地の中心として機能していたことを偲ばせるエピソードだ。

この下沼小中学校の閉校は「新幌延町史(幌延町・2000年)」によると、1982(昭和57)年3月31日のことであった。

敷地は作業事務所に転用されていたが、その一画に、草むらと雪に埋もれるようにして門柱が残っていた。

下沼小学校跡は作業事務所に転用されていた
下沼小中学校跡は作業事務所に転用されていた
作業事務所の一画に残る下沼小学校跡の門柱
作業事務所の一画に残る下沼小中学校跡の門柱

下沼駅に到着すると、ちょうど、稚内行きの4325D普通列車が停車中だった。

自転車を停車しようとする間に列車は出発してしまい、ホーム側で撮影することはできなかったが、正面から自転車にまたがった状態で撮影することはできた。

2日ぶりの下沼駅は、相変わらずの鈍色の雪雲の下で静かに佇んでおり、駅に人の姿はなかったが、新たに積もった雪の上には幾筋もの車輪の跡が刻まれており、ホームにも除雪の跡がある。

私の滞在時間中、駅を管理する方の姿は見かけなかったが、待合室内に整理整頓された除雪用具は、この駅を維持管理する人の存在を物語る。

駅前の湧水にその名を遺す山田権左衛門が拓いた下沼の地は、下沼駅を玄関口として時を重ね盛衰の物語を紡いできた。その物語に思いを馳せながら、この原野の旅情駅が穏やかに存続していくことを願いつつ、北に向かって駅を後にした。

ちょうど稚内行き4325D普通列車が停車中だった
ちょうど稚内行き4325D普通列車が停車中だった
2日ぶりの下沼駅は変わらぬ雪空の下
2日ぶりの下沼駅は変わらぬ雪空の下
「ぬまひきょん」と向き合う
「ぬまひきょん」と向き合う
この日もいつもと変わらない静かなひと時が流れていた
この日もいつもと変わらない静かなひと時が流れていた
机やベンチの座布団に地元の愛着を感じる
机やベンチの座布団に地元の愛着を感じる
掲示物も多くて賑やかさを感じる待合室
掲示物も多くて賑やかさを感じる待合室
踏切から下沼駅を遠望して抜海駅に向けて旅立った
踏切から下沼駅を遠望して抜海駅に向けて旅立った
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下沼駅:旅情駅ギャラリー

2020年10月(ちゃり鉄14号)

間近で見ても何の機器かは分からなかった
間近で見ても何の機器かは分からなかった
テーブルなども置かれて居心地の良い待合室
テーブルなども置かれて居心地はよい
窓の数も多くて明るい印象の待合室
窓の数も多くて明るい印象
20年前にあった暖房用の燃料タンクは既に撤去されていた
20年前にあった暖房用の燃料タンクは既に撤去されていた

2023年11月(ちゃり鉄21号)

下沼駅に到着した稚内行き4331D普通列車
下沼駅に到着した稚内行き4331D普通列車
凍てつく下沼駅で列車の到着を待つ
凍てつく下沼駅で列車の到着を待つ
どこか遠くの世界に旅立っていけそうな下沼駅の月夜
どこか遠くの世界に旅立っていけそうな下沼駅の月夜
この朝も深々と粉雪が降り続けていた
この朝も深々と粉雪が降り続けていた
一夜を過ごした「旅情駅」ともしばしのお別れ
一夜を過ごした「旅情駅」ともしばしのお別れ
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下沼駅:コメント・評価投票

4.5
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2024/03/08

Rated 5.0 out of 5
2024/02/05

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