小和田駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2024年3月14日 | 文献調査記録に情報追加(小和田駅周辺の建設工事に関する記録や、小和田駅舎の新築時期に関する登記簿情報の追加) →小和田駅の沿革 |
2023年9月27日 | 2022年10月、11月の探訪記の追加、コンテンツの構成変更 →2022年10月(ぶらり乗り鉄一人旅)、2022年11月(ぶらり乗り鉄一人旅) |
2月1日 | 2021年12月の探訪記本編完結、既存コンテンツの一部修正 →JR飯田線・小和田駅の旅情駅探訪記 |
1月26日 | 2021年12月の探訪記中編の追加、既存コンテンツの一部修正 →JR飯田線・小和田駅の旅情駅探訪記 |
2022年1月22日 | 2021年12月の探訪記前編の追加、既存コンテンツの大幅加筆修正 →JR飯田線・小和田駅の旅情駅探訪記 |
2021年1月28日 | コンテンツ公開 |
小和田駅:旅情駅探訪記
1998年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
天竜川中流域の深い峡谷はいくつものダムによって形成された湖水を湛えて静かに淀んでおり、激流で名を馳せた昔日の面影は失われたが、今も昔も交通の難所であり、谷間から登り詰めた山腹斜面に僅かな耕地を伴った小集落が点在する印象深い地域である。
この天竜川の左岸に沿ってか細い単線の鉄道路線が伸びている。
JR飯田線である。
豊橋駅から辰野駅に至る195.7kmに94の駅を抱えたこの路線は、元々は、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鐵道、伊那電気鉄道という、直結した4つの私鉄として運行されていた路線で、戦時中の1943(昭和18)年8月1日に、戦時陸運非常体制の一環として4鉄道同時に国に買収され国鉄飯田線となった経緯を持つ。
このうち、三河川合駅と天竜峡駅の間を結んでいた三信鐵道は天竜川が刻んだ峡谷の核心部を行く山深い路線で、左岸の岩壁にへばりつくようにして敷設された沿線はトンネルや橋梁が連続する険路である。
この元三信鐵道の区間に静岡県・長野県・愛知県の三県境界があり、静岡県部分の僅かな斜面に周囲から隔絶した小駅がある。
小和田駅である。
1998年8月、この山中の寂寞境に一人降り立ち、駅前野宿の夜を過ごした。
日が暮れた後の小和田駅に乗降客の姿はなく、出発していく普通列車を見送ると、一人取り残された寂寥感に包まれる。
1998年当時、小和田駅は相対式2面2線の交換可能駅で、駅舎の反対側にある上り線ホームには構内通路を渡ってアクセスする構造だった。
上り線ホーム側から照明に照らされる小和田駅舎を眺める。
佐久間ダムの湖水を挟んだ対岸には県道が通っており、まれに、車やバイクの走行音が聞こえるが、明かりが灯る駅構内から離れれば、夜の帳に包まれた暗闇だけが広がっていた。
周辺の散策は翌朝にすることにして、駅構内をブラブラする。山と湖水に囲まれた小和田駅は、終電が出発した後、嵐気に包み込まれていた。駅前には集落は勿論、民家も存在せず、峡谷の深い闇の中に、そこだけが明かりに灯され浮かび上がっていた
この時刻に小和田駅に一人下ろされることになったとすれば、その雰囲気に圧倒され不安になる人も大勢居るに違いないが、周辺に広がる奥深い山林の闇の中を彷徨いながら、この駅の明かりを見つけたとすれば、ほっと安心することになろう。
現代に生きる私たちは、人為的な明かりが一切ない自然の闇からは、随分と遠ざかった生活をしているが、野宿の一人旅の中では、人里離れた山の中で、一人、テントを張って寝ることも少なくない。そういう経験の中で小和田駅の夜を迎えるとすれば、決して不安を招く不気味な廃墟ではなく、どこかホッとするものを感じさせる、落ち着いた空間だという風に感じるのではないだろうか。
それはとりもなおさず、ここに、明かりが灯り、それ故に、人を感じるからだと思う。
訪れる者も居ない駅舎を照らし続ける灯りは、一人旅の孤独感を掻き立てるが、かつて、この駅の周辺で営まれた人々の暮らしを偲ぶひと時は、郷愁を呼び起こすものであり、どこか、温かみも感じさせる。
尤も、そういう感覚を抱くのは、事前の準備と計画、経験あってのことかも知れない。
この日は、終電を見送った後、駅前の僅かな平地に張ったテントに潜り込み、旅情駅とともに眠りについた。喧騒に眠りを妨げられることもない、静かな夜だった。
翌朝、駅周辺の山々は、その頂きに霧をまとって姿を隠していた。駅の周辺には、昨夜来の嵐気が漂っており、テントの内壁は夜露で濡れている。その濡れたテントから這い出して朝食を済ませ、手早く片づけを済ませる。いつもと変わらぬ駅前野宿の朝のひと時。
荷物の整理が終わった後、駅周辺のトレッキングに出掛けることにした。
かつての集落跡は佐久間ダムの湖底に沈んでしまっているが、僅かに製茶工場の跡などが駅の下の斜面に残っている。
そこから、最寄りの塩沢集落まで通じる道を進んでいくと、途中で湖岸沿いの道が分岐する。
そのまま道なりに進んでいくと、高瀬橋が見えてきた。
高瀬橋は、主塔の銘板によると1957年(昭和32年)1月竣工。かつては、この橋を渡って、中井侍駅に通じる道が続いていた。佐久間ダムの竣工は1956年であるから、この吊橋はダムの竣工後に架橋されたことになる。
元々、天竜川沿いにあった小径は佐久間ダムの竣工と共に湖底に沈んでおり、現在の高瀬橋はその代替に設けられた道が河内川を渡る地点に架橋されたのだが、三輪自動車が通行できるくらいの幅員と構造を持った道は、架橋当時、小和田駅と中井侍駅との間を車両で往来する需要があったということを静かに物語る。それは、旧道時代から龍東線と呼ばれ、天竜川に沿った交易の道として、この地域にとって欠かせない道であった。
なお、「龍東線」呼ばれる道路は、現在は、県道満島飯田線のことを指しているが、この旅情駅探訪記の中では、かつて天竜川左岸(東側)の河畔にあった旧道を指す通称として用いられた、この呼び方を用いることにする。
今も、対岸には道の跡が残っているが、吊橋は崩壊しており、もはや渡る術はない。1998年の訪問当時、既に、崩壊が進んでおり、腐食した踏み板を3分の1ほど渡った地点で写真を撮影し、対岸には渡らずに引き返した。この対岸の道の探索は実に20年余りの時を隔てた2021年12月に行ったが、その記録については中井侍駅の旅情駅探訪記に記載したのでそちらもご覧いただきたい。
フィルムカメラで写真を撮影していた当時、小和田駅周辺の写真はあまり多くは撮影していなかった。劣化したフィルムをスキャンして修復した写真が数枚残っただけだが、小和田駅周辺のかつての姿を記録した貴重な写真となったと思う。
この日は、吊橋から駅に戻り、飯田線の下り列車に乗って駅を後にした。
次に駅を訪れる時も、駅前野宿の一夜を過ごしたい。
そう思わせる、山の旅情駅であった。
2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2001年11月には小和田駅を再訪した。
学生時代最後の野宿旅の道中で飯田線を訪問し、小和田駅の他、為栗駅や金野駅で野宿をしながら、田本駅、中井侍駅など、沿線に数多く存在する旅情駅を訪れたのだ。
この日は、湯谷温泉駅や相月駅などで途中下車しながら、前回同様、日が暮れた後で、小和田駅に降り立った。乗客の中には、駅に降りた私を珍しそうに眺める人も居たが、車掌は慣れているのか、特に興味も示さず、そのまま、出発していった。
3年ぶりに降り立った小和田駅は、晩秋の夜の冷え込みに包まれていた。駅の雰囲気は3年前と変わらない。訪れる者も居ない寂寞境を照らし続ける明かりが、孤独な旅人を静かに迎えてくれた。
ここで、小和田駅の歴史を簡単に振り返ることにする。当初、この本編に詳細な文献調査記録も合わせて記述していたが、本編が肥大化して長くなり過ぎるきらいがあったので、文献調査記録は調査記録編に別に章立てすることにして全体を改訂した。
さて「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)」によると、駅の開業は1936年12月30日。旧三信鐵道時代の事だ。隣接する大嵐駅の開業が1936年12月29日のことであるから、この2駅は双子の兄弟のような関係にある。その後、1937年8月20日に小和田~大嵐間が開通したことにより三信鐵道の全区間が開通したのだが、この区間が開通したことにより、現在のJR飯田線にあたる豊橋~辰野間の全区間が開通した。
飯田線そのものの歴史に関してはここでは深入りしないが、豊橋から豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鐵道、伊那電気鉄道の4つの連続する私鉄を経て辰野に達していた鉄道路線は、既に述べたように、全通から約6年後の1943年8月1日、4鉄道同時に国によって買収され国有化されている。
駅名の由来は「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)」によれば、「わだはわたで水たまりの肥沃地のこと。小規模の水田を開墾した集落地名」とある。この記載が、固有名詞としての小和田集落の由来に根差したものなのか、「わだ」という地名一般に関するものなのかは特に記載はない。いずれにせよ、駅名自体は集落名に由来しているもので、必要なのは、その集落名の由来を探ることなのだが、今のところ、入手できた書籍や資料で、それを明示したものはない。
これらについては、今後、継続して文献調査を進めていきたい。
さて、小和田駅は、2008年1月27日に交換設備の利用を廃止し棒線駅となった。その後、上り線側の線路も剥がされている。しかし、2001年の訪問時には、まだ、交換設備も現役で残っていた。
当時、小和田駅が駅として残されていたのは、駅から15分ほど離れたダム湖畔に住む夫婦1世帯や徒歩1時間の塩沢集落の住民の生活のためだった。
車道も通じない当地にあって、郵便局の職員は飯田線を利用して郵便物の配達を行っていたと言うが、飯田線の国有化に関する「鉄道省告示第204号」では、小和田駅は「集荷配達ノ取扱ノミヲ爲サザル停車場」と位置付けられていたことは特筆に値するだろう。
そんな来歴のある小和田駅ではあるが、近隣世帯のご夫婦は既にこの地を去っており、2022年現在、駅周辺に定住者は居らず、最寄り集落である塩沢地区の住民が小和田駅を日常生活で使うこともない。
駅自体が無人化されたのは、1984年2月のことであった。
そんな無人境にも、飯田線の普通列車は律儀に停車していた。
駅としての本来の役割を失った小和田駅ではあるが、近年のブームに乗って、住民の利用が無くなった現在でも駅としては存続している。開業当初からの木造駅舎も健在で、そのことは素直に喜びたいし、維持管理されている人々に感謝したい。
しかし、古い木造駅舎の維持管理に支障が生じれば、全国各地の木造駅舎と同様、簡素な小屋に置き換えられてしまう可能性も高いし、駅そのものが廃止される可能性もゼロではない。
当時既に、こうした駅にもブームの兆しがあったが、ブームはいずれ冷めていく傾向にあるし、マナー問題を引き起こすこともある。
この地に暮らした人々の思いを汚すことなく、末永く、小和田駅が存続していくことを願いたい。そんなことを思いつつ、前回と同じように野宿の眠りに就いたのだった。
翌朝は、出発までの時間を利用して高瀬橋を再訪するとともに、徒歩1時間程度の塩沢集落まで往復してみることにした。
駅前はすぐに斜面となっており、ダム湖畔までの僅かな空間に、かつての製茶工場の跡など、数棟の廃墟が残っている。
また、1993年の天皇皇后両陛下のご成婚時に、話題にあやかって建築された東屋も残っている。
ダム湖畔に降りて上流に向かって歩いていくと、当時はまだこの地で暮らしておられたご夫婦の住宅の手前で、塩沢道と高瀬橋に続く龍東線との分岐に出る。
そのまま高瀬橋に進んでみたが、この3年余りの間にすっかり踏み板が崩落しており、もはや、橋の上に出られる状況ではなかった。風雨にさらされる中央付近ではなく、末端部分がきれいに落ちていたので、事故防止のため人為的に落としたものかもしれない。
高瀬橋から引き返して、塩沢集落への山道を進む。
この道は登山道といった趣であるが、途中、沢を渡るところには吊橋がかかり、桟道部分は鉄製の踏み板が敷かれている。長らくこの沢の名前や吊橋の名前が分からなかったが、文献調査の結果、この沢は不動沢と言い、吊橋は不動沢吊橋という名称であることが分かった。それらについては、調査記録で触れることにしよう。
ところどころ荒れた部分もあり、現代人的な感覚では毎日の通勤通学などで生活利用するには無理があるが、廃道ではなく一定の手入れは行われているようだった。
40分程度歩いて、車道のガードレールの隙間から塩沢集落に躍り出る。車道は林道天竜川線である。
車道側に小和田駅を記した案内標識があったという記憶はないが、手製の看板を見落としていただけかもしれない。
塩沢集落は最盛期には17戸を数えたらしい。文献調査では15戸という数字も見つかった。集落の小学生は、鉄道開通以前は山を越えて門谷にある分校に通い、鉄道開通後はこの山道を通って小和田駅から通学していたと言う。
今、それが出来る子供も親も居ないということは現実が示している。
私が訪問した当時、この集落にどの程度の住民が居たのかは分からないが、バックパックを背負って林道を歩いていると軽トラの男性に呼び止められた。
厳しい口調で「どこから来たのか?」と問われたのだが、「小和田駅から」と答えると表情が和らいだ。どうも、近所で民家の侵入盗が発生したらしく見回りをしていたらしい。一瞬戸惑ったものの、よく考えてみれば、侵入盗にとっては容易な仕事場ということになるのかもしれない。
塩沢集落は急斜面に石垣を築いて僅かな平地を作り、そこに茶畑や民家が点在していた。
高い位置から視界がひらけると、眼下遠くには湖水となった天竜川が横たわり、その対岸には南信の深い山並みが続いていた。
よく目を凝らすと、湖水の畔に崩れかけた高瀬橋の姿も見える。
出発列車の時間を計算して塩沢集落を後にする。
車道の上と下の両方に民家があったはずだが、下方の民家には立ち寄らなかった。当時、住民が居たのかどうかは分からないが、2022年現在、下方の家屋は全て無人となっている。
塩沢から山道を下って河畔の道に戻り、ご夫妻宅を通り過ぎる。
お話を伺いたい気もしたが、お手間を掛けるのも申し訳なく、そのまま、駅に戻る。
2時間程度の散策を終えて駅に戻ると、山の陰になる小和田駅には、まだ、日が差していなかった。早朝の嵐気が残る駅のホームで一夜の余韻に浸る。
写真に残していた当時の駅名標を眺めると静岡県磐田郡水窪町所在となっているが、その後の市町村合併によって、2023年8月現在では静岡県浜松市天竜区水窪町となっている。
静岡県と言えば、南アルプスの稜線が静岡市になっているなど、市制区域の広さが際立つのだが、この小和田駅が浜松市域に含まれるようになったのかと驚かされる。
下り線ホーム側にある三県境の存在を示した木製看板を撮影している内に、豊橋方のトンネルに轟音が響き出した。
消えゆく山間部の集落で営まれた人々の暮らしを、物言わず伝える小和田駅でのひと時。
誰にも出会うことなく過ごしたこの駅での思い出を胸に、下りホームに到着した普通列車で駅を後にした。
2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2021年12月。小和田駅を再訪することが出来た。
前回の訪問から、実に、20年余り。
「ちゃり鉄」という旅に取り組み始めて5年程が経過しているが、この小和田駅を含めた飯田線沿線の第三訪は、自転車のメンテナンスや予算・日程の都合で、「ちゃり鉄」の旅ではなく、久々の「乗り鉄」の旅となった。
その分、駅周辺での機動性には欠ける旅となったものの、元々、飯田線の旧三信鐵道区間は、ツーリング装備を満載した自転車でたどり着くのが困難な立地の駅が多く、「乗り鉄」の旅と徒歩やトレイルランニングを交えた旅の方が適している面もある。尤も、「乗り鉄」の旅となると、駅周辺の探索にかける時間が列車ダイヤに支配されることになるのだが、この旅では、多くの駅でかつてない長時間の途中下車を行いつつ、飯田線沿線を中心にじっくりと旅することとした。
この旅情駅探訪記では、20年ぶりに訪れた小和田駅の記録をまとめることにする。
なお、当初、本編に文献調査記録や現地調査記録を含めて記述していたが、本編が肥大しすぎたので調査記録に関しては、別途、調査記録にまとめ直すことにした。それらについては、調査の進捗に合わせて随時更新していくことにする。
313系の普通列車(554M)で小和田駅に降り立つ。この冬、日本海側は大雪が続いており、JRも運休路線が多かったが、飯田線はその影響を受けてはおらず、雪が舞っていたものの定刻運転していた。私が乗車した列車も、定刻の16時1分に小和田駅を出発していく。
この日の行程は、駅前野宿地の柿平駅を501Mで7時11分発、大嵐駅8時7分着。夏焼集落を訪れて1504Mで10時16分発、相月駅10時33分着。相月集落を散歩して、511Mで10時51分発。中井侍駅11時22分着。旧龍東線を辿って高瀬橋まで往復した後、中井侍集落を探訪し、554Mで15時56分発、小和田駅16時着というものだった。小和田駅で駅前野宿を行い、出発は、翌日の511Mで11時17分を予定している。冬の夕方に小和田駅に到着するため、塩沢集落を訪れるのは翌日の午前中に行うこととして、各駅での探訪時間も十分に確保した。
511Mでは11時17分発で一旦小和田駅を通り過ぎる。その際、ホームには10名ほど乗客の姿があり、数名の下車客もあった。ブームだけに、20年前とは比べ物にならない乗降客数だったのだが、夕刻までに全員が駅から立ち去ったようで、到着した列車に乗り込む人は居らず、降り立ったのも私一人だった。人が多くて騒がしい小和田駅を予想していたが、幸い、静かな小和田駅と再会することが出来た。
効率よく途中下車することを目的としていた以前の旅では、途中下車駅での滞在時間は1時間程度とすることが多かったのだが、「ちゃり鉄」の旅を始める辺りから途中下車に対する考え方も変わり、駅周辺をじっくりと周りたいと感じるようになった。
結果として、この日の旅では、大嵐、相月、中井侍の3駅周辺の探訪しか行っていない。相月駅の探訪時間は十分ではなかったものの、大嵐駅と中井侍駅では、ランニングを交えつつ、比較的遠くまで足を延ばすことが出来た。
訪れることが出来た駅は少なくなったが、こういう旅もいい。
効率性に追われる日常生活から脱却した旅の道中で、自らを必要以上に効率性に縛りつける必要はない。
さて、この20年の間に飯田線でも車両の入換が進んでおり、普通列車は213系や313系に置き換えられていた。かつての115系や119系は2010年代前半で引退しており、車両風景は異なったものとなっている。
駅構内も既述の通り棒線化されており、側線は保線作業用に残っているものの、山側に存在した上り線は撤去されバラストが盛られていた。
駅名標は前後駅名共に変わってはいないが、自治体名は、水窪町から浜松市天竜区と変わっており、平成の大合併の余波をここでも感じる。
開業以来の木造駅舎は健在だった。
棒線駅化されている事実からも分かるように、駅構造の縮小による管理コストの削減という至上命題は、この駅舎に対しても強い圧力をかけているはずで、安全性の問題などが生じれば、間違いなく駅舎は解体され、味気ない待合所、小屋に置き換えられてしまうのであろう。ブームを理由に、現在の駅舎の構造を踏まえた好ましい木造駅舎に建替えられるということはないはずだ。
しかし、そういう側面はともかくとして、現状では人の手によって維持管理がなされている。新建材を用いることのない木製の窓枠などを見ていると、居心地の良い郷愁感が湧いてくるのだが、それは、この建物が維持管理され、現に利用されているからでもある。
同じような建物でも、利用者が居なくなって遺棄され廃屋と化した後、同じような居心地の良さは感じられない。現代社会においては人間関係が人を悩ませることも多いが、本来、人は人を感じることで安らぎを覚え、人を感じないことで不安を抱く、そういう生き物なのだろう。
駅舎内の待合室はホーム側が開放構造になっているため、夏は虫が入り込むし、それ以外の季節は冷気が侵入する。雨風凌げるとは言え、四季を通じて快適な環境だとは言えないのだが、気密性の低いこの木造駅舎は、小和田駅周辺に存在した集落の民家の生活を今に伝える貴重な建物でもある。
駅務室側はカーテンで閉ざされていて中の様子を伺うことはできないが、今でも保線作業の拠点として使われることはあるようで、入り口の施錠は新しいものに置き換えられていた。
駅前には原付の廃車体が遺棄されている。朽ち果てたその車体は、駅舎と共に、小和田駅創業当時からの歴史を伝えるかのようにも思われる。
しかし、この廃車体は、前回の訪問時には、ここには存在しなかった。
そう思って駅前を眺めてみると、トイレや自販機も撤去され、狭い通路状になっていた部分が見通しの良い広場になっていた。
駅前の整備は臨時列車が走るようになってからのことだと思われるが、原付の廃車体は周辺の山林に遺棄されていたものを、誰かが意図的にここに移動させたのだと思う。
すっきりとした駅前から、改めて小和田駅の姿を眺めてみる。
昭和前期までに竣工した木造駅舎は老朽化を理由に次々と取り壊され、無人駅の場合は味気ない小屋に置き換わってしまう事例も多いが、小和田駅の佇まいは変わらぬままであった。
10分程間を置いて天竜峡行きの527M普通列車が到着する。私が乗ってきた554Mと隣の大嵐駅で行違ってきた列車である。
ホームの端から写真を撮影していると、まだ日差しの残る時間帯だったからか、この列車からは手ぶらの男性一人と、ハイキング姿のカップル一組が降り立つのが見えた。
下車客はホームに残ることなく直ぐに駅舎の方に消え、普通列車はしばしの停車の後、出発していった。車内には各車両に10名前後の乗客の姿があったが、大半は旅行客のようであった。
しばしの喧騒が過ぎ去ると、小和田駅には静寂が戻ってくる。
ホームから眺めると西南西側には第四大輪隧道が坑口を開き、その右手に見える山並みは、かつて天竜川の対岸にあった佐太集落跡の後背山地である。文献調査記録にまとめたのだが、この隧道の名前は、かつて、佐太集落の対岸にあった大輪集落に由来する。大輪の地名は地形図上からも消えているが、こうして、飯田線のトンネル名称としてその痕跡を残しているのである。
東北東側には吹雪澤橋梁を挟んで長尾隧道の坑口が見える。その奥には、塩沢集落方面から天竜川に落ち込む尾根の稜線が、夕日を受けて輝いている。そこは県境の尾根であった。
ぶらぶら歩きながら駅舎の方に戻ると、一段高くなったホームから側線と貨物ホームの跡を見下ろすことが出来る。建設工事中は、ここから、工事車両が資材を積んで、中井侍駅の方に向かっていたのだろうか。
三信鐵道の建設工事の概略をまとめた「三信鐵道建設概要(三信鐵道・1937年)(以下、「建設概要」と略記)」には、「停車場表」という一覧があり、それを見ると、小和田駅は、「停留場」より格上の「停車場」で、本屋、便所、乗降場附属上屋、貨物積卸場とその上屋、ポイント小屋を備えた、三信鐵道沿線では規模の大きな駅であった。相対式2面2線の駅構造も開業当時からで、「諸建物表」によれば、31坪弱の社宅もあったとある。
往時の賑わいが偲ばれるが、惜しむらくは、この駅の開業当時の構内写真が見つからないことである。
駅舎に戻ったが、先ほどの3名は散策に出掛けたらしく姿は無かった。
私も、散策がてら、小和田池之神社まで往復することにした。時間的な余裕がないため本格的な探索は明日の予定ではあるが、その下見も意図していたのである。
駅前の坂道を下るとカップルが東屋の中に居た。もう一人の男性の姿は見えない。
彼らが下車した後、駅の下から大きな話し声が聞こえてきたので、3人連れなのかと思っていたのだが、どうも違ったようだ。
坂を下ったところには、向かって左側に製茶工場の跡があり、向かって右側にはその母屋らしき住居の跡がある。そして、その母屋の玄関先を進む苔生した小道が、塩沢集落や高瀬橋に続く小径の入り口である。
この道の探索は明日。
日没間近い今日は、製茶工場の跡を眺めて、一先ず、小和田池之神社に向かうことにする。
工場と母屋は、概ね同時期に建てられ、放棄されたと思われるのだが、工場の方がより簡素な造りだったようで損壊の具合が大きい。壁面は至る所で剥がれ落ち、柱も腐食し、数年のうちには、倒壊するものと思われる。
建物内部には製茶に使ったらしい様々な機械が残っているが、この地を離れる時に、こうした機械が放置されたのは何故なのだろうか。
工場建物の裏側に回り込むと、こちら側では既に一部倒壊が始まっていた。
先に述べたように、昭和31年の佐久間ダムの竣工と湛水を契機として、昭和30年代後半から集落の衰退が始まったとすれば、既に、半世紀以上の年月が流れたことになる。
苔生した石垣と崩れかけた木造建築物は、静かに、その時の流れを刻んでいた。
製茶工場の裏手には沢筋があり、それを渡ると、杣道といった雰囲気で、小径が林の奥へと続いている。沢筋に橋はなく道は一旦途切れるが、この沢筋で道を見失いその先に進めなくなるようなら、素直に止めておくのがよい。
沢向こうの道は概ね地形図の通りで等高線に沿って続いており、所々で堆積物に覆われてはいるものの、歩くのに不便はない。但し、訪れた時の条件によっては、道が荒れていることもあるだろう。
針葉樹と広葉樹が混じる林は林床も開けており、樹木も若いものが多かった。
高瀬橋が越えていた河内川の上流には、かつて、徳久保と呼ばれる炭焼き集落があり、昭和30年代までは僅か1戸ながら定住者も居た。小和田周辺での炭焼きの記録は見つかっていないが、小和田駅から搬出される貨物としては、薪炭が相当な量に上ったという。周辺集落の貴重な収入源として、薪炭の生産があったものと思われる。
この辺りの若い林は、小和田集落の住民の生活のために薪炭林として利用された後の、二次林なのであろう。
かつては天竜川からそれなりの高距を維持しながら続いていたであろう小径も、佐久間ダムの湛水によって、水面を間近に眺めながらの道となっている。
やがて、奥に石垣と建物が見えてきて、小和田池之神社に到着した。
距離にして300m程度。時間にして5分程度の行程だった。
小和田池之神社の縁起については、信頼できる文献が無く詳細は分からない。ネット上には、ダム湛水による小和田集落の水没に伴って、この地に移設されたという話しがあるが、出典の記載がなく詳細が分からない。
また、かつてはこの辺りに小和田池があったのかもしれないが、小和田池に関する記載も見つからない。
ただ、積まれた石垣の様子は、先ほど見てきた小和田駅前の製茶工場裏の石垣と同じぐらいの経年変化を経ているように見える。とすれば、少なくとも小和田駅開業後に設置されたということになるから、旧神社が水没するということになった段階でここに移転されたという説も一理ある。
それを裏付ける僅かな資料として「水没補償実態調査(農林省大臣官房総合開発課 編・農林協会・1955年)(以下「水没補償」と略記)」に貴重な記述があったので、この記述を引用して探訪記を更新しておきたい。詳細は文献調査に記述する。
この「水没補償」には、佐久間ダム建設によって水没する公共施設が関係町村ごとにまとめられており、水窪町に関しては、「夏焼部落神祠(部落有・一棟)」、「小和田部落諏訪神社(部落有・建坪8.51坪)」の記載がある。
2021年12月に実施した大嵐駅周辺の探訪の際、夏焼集落の最上部に鎮座する諏訪神社をお参りしたが、小和田集落の水没地域にも諏訪神社があったのは偶然ではなかろう。何故なら、天竜川は遠く諏訪湖に源を発しており、小和田集落も夏焼集落も、その天竜川の水運の恵みを受けた集落だからだ。その集落の住民が、恵みをもたらす天竜川の源にある諏訪湖を崇め、諏訪神社を祀るのは極めて自然な事である。
現在の小和田池之神社の名称の由来は分からないものの、元々、小和田集落にあった諏訪神社が佐久間ダムによる水没補償を受けて移転したものとみて間違いない。
そんな詮索はともかくとして。
かつての日本では、人が住むところ、どんな僻地であっても神社が祀られていたように思う。否、むしろ、そういった僻地にこそ、神社が祀られたというべきかもしれない。夢見が丘といったような名前の新興住宅地に神社が祀られることはないのとは対照的だ。
人煙稀な自然の只中で生活する時、人は、その心の拠り所として神を祀る社を設け、生活の安堵を祈願し感謝を捧げたのだと思う。それは教義や宗派に彩られた宗教ではなく、人の素朴な信仰だったのだろう。
そう思うと、この小和田に生きた人々の故郷を思う気持ちを感じずには居られなかった。
境内を辞して河畔に下りてみる。
もはや河畔とは言い難いダム湖の水面には、上流からの堆積物が顔を覗かせていた。そこに、激流で名を馳せた天竜川の面影はなく、かつての集落跡は、水没しただけではなく、厚い堆積物に覆われて埋没してしまっている。
天竜川水系のダムはいずれも土砂堆積が著しく、排砂が課題となっているが、それは、自然を人為的に制御することの難しさを思い知らせるとともに、制御できると考えることの思い上がりを暗に示しているようにも感じる。
しかし、よくよく考えてみれば、鉄道の開通自体が、天竜川における水運に打撃を与え、橋梁や隧道によって自然を作り変える営みであった。更に遡れば、中馬による交易が主体だった伊那谷において水運が導入され始めた当初、水運もまた旧来の交易手段に打撃を与える存在として排斥されたし、水運のための川普請は多かれ少なかれ自然を改変する行為であった。
昔の人の営みは自然に溶け込み、現代の人の営みは自然を破壊するものだという主張もよく目にするが、自然というものは人に破壊されるほど柔なものではない。私たちの時間スケールを超越したところで、自ら然るべく移り変わるものではないか。恐らく、人の世の移り変わりなどは、対比して見るまでもなく自然の手の内にあるのだろう。
見上げれば、石垣の上に神の社が佇んでいた。小和田の守り神は、今も、ここに眠る人々を見守っているのかもしれない。
上流の山手を見上げると、稜線は白く雪化粧をしていた。その雪化粧が、夕日に照らされて赤く色づいている。日が沈むにつれて稜線の輝きは狭まっていき、谷間には夜の気配が降りてくる。
そろそろ、駅に戻ることにしよう。
翌日は、この先を回り込んで、門谷への道を探索する予定だったので、少しだけ、神社の先を見に行ってみたが、ピンクテープが続いてはいるものの、ここまでのような明瞭な踏み跡は見えなくなっていた。
それを見届けて来た道を戻る。戻りも5分程の道のりだった。
駅に戻る前に母屋側の探索をすることにした。
母屋の建物は2階建てで屋敷といった佇まい。個人世帯の住居というよりも、工場で働く人々の宿舎も兼ねる、そんな建物だったようにも思える。現地で抱いたこの感想については、この後で、触れることにしよう。
手入れをすれば、まだ、何とか居住できそうにも見えたが、柱や床板の腐食が進んでいて、もう、住むことはできないのかもしれない。
1階部分には川手に向かって突き出した一画があり、そこは、風呂場になっていた。ここも個人の家の風呂にしては立派な造りだった。
内部の写真は撮影していないが、炊事場の土間には複数の竈も設えてあった。
そして、この建物の下手には、ミゼットの廃車体が横になっていた。
「車ではいけない駅」という肩書が付けられる小和田駅だが、かつては駅まで続く車道があり、小和田集落と門谷本村との間を結んでいた。高瀬橋方面の龍東線もオート三輪や馬車なら走れる規格の道だった。そんな時代にはオート三輪が小和田集落を颯爽と行き交っていたのだろう。
駅下のミゼットはいつ頃からここに横たわり、眠っているのかは分からないが、その車体を取り囲むようにして育つ樹木は、この車体がここに停め置かれた当時は、まだまだ幼木だったに違いない。
見上げると、母屋の立派な姿が見える。
夏の夕暮れ時、風呂上りに浴衣をまとい、二階の窓から夕涼みをした住民の姿が目に浮かぶようだった。
ところで、私はここまで、製茶工場と母屋という形で、小和田駅の下に存在する二棟の建物について述べてきた。実際、製茶工場に関しては、小和田駅の開業後に水窪在住の小沢磯平さんがここに製茶工場を開き、周辺集落から集まった茶葉を加工していたという。
詳しくは文献調査記録で述べるが、既に消滅した徳久保集落で昭和30年代まで定住生活を送っていた平沢義一さんの話として、「塩は水窪で買った。昭和八年頃からは小和田駅の小沢商店で買った」という逸話が、 「伊那 通巻864号(伊那史学会編・伊那史学会・2000年)」所収の「峠道で継なぐ駅の旅(十六)~小和田駅から水窪駅 ブナ峠(一)(久保田賀津男)(以下、「峠道の駅旅(16)」と略記)」 の中に掲載されている。
製茶工場跡にレジの残骸がある点を見ると、小沢さんの製茶工場は工場だけでなく小沢商店も併設していたのではなかろうか。レジのある駅側が商店で機械が散乱している川側が工場だったのだろう。店舗兼工場といった建物の中で、茶葉を加工しながら雑貨を商っていた様子が、何となく想像される。
この「昭和八年」の記載については注意を要する。
既に述べたように、小和田駅の開業は1936年12月30日のことで、それは昭和11年だからだ。
正式に開業する3年も前に小和田駅が存在していたことになるのだが、この件に関する信頼できる資料は今のところ見つかって居ない。駅舎の財産管理票にそう記載されているとの情報もあるが、JR東海に問い合わせたところ「分からない」との回答だった。NHKアーカイブスにもその旨の記載があったのでNHKに問い合わせてみたが、こちらからは返信が無かった。
現在のところ、確実な情報は手に入っていないのだが、これについては文献調査にまとめつつ、継続して調査していきたい。
2024年3月1日現在、このように記事を書いていたのだが、3月12日になってちゃり鉄.JPのXアカウントを通して、読者の方から「建物登記」に関する貴重な情報をご提供いただいたため、3月14日付でコンテンツを更新した。
詳細は文献調査記録で述べるが、登記簿上、昭和8年8月に新築されたという記録が残されているのである。興味ある読者は、是非、上記の文献調査記録をお読みいただきたい。
ここまでは製茶工場について、文献の記述を引用しながら、それが史実らしいということを述べてきたが、母屋と表現した方の建物については本当に母屋だったという資料に基づくものではない。
古い時代の私鉄の歴史とあって資料も見つからず、事実そのものには辿り着けていなかったのだが、2022年に実施した飯田市立図書館での文献調査や「建設概要」の諸表の分析によって、ここが「母屋」ではなく元々は三信鐵道の「社宅」だったことが判明したので、この部分についてまとめ直すことにする。詳細は文献調査記録で述べたい。
まずは、従来掲げていた小和田駅建設当時の写真を掲載しよう。写真は「静岡県鉄道写真集(山本義彦監修・郷土出版社・1993年)(以下、「静岡県鉄道写真集」と略記)」に掲載されたものだ。
私はこの写真を元に、斜面中腹の大きな2棟の建物のうち、上側が小和田駅舎、下側が社宅であろうということを述べていた。その根拠は「建設概要」だった。
即ち、「建設概要」中に小和田駅舎の大きさは23.75坪、社宅は30.75坪とあることを根拠に、この2棟の建物の位置関係や集落との位置関係、写真中の大きさの比較から、上の様に推定していたのである。
引用図:愛知県側から眺めた小和田駅付近
「静岡県鉄道写真集(山本義彦監修・郷土出版社・1993年)」
しかし、2022年秋期に訪れた飯田市立図書館で閲覧した「三信鐵道全通記念寫眞帖(熊谷組・1937年)(以下、「寫眞帖」と略記)」の写真で、重要な発見があった。
「寫眞帖」では、同じようなアングルから眺めた建設途中の小和田駅の写真が2枚ある。この内の1枚が、上で掲げた「静岡県鉄道写真集」に引用されたものだ。もう1枚は、これまで「はるか仙境の三信鐵道(13・臨B詰所・2015年)(以下、「仙境鐵道」と略記)」の中で眺めていた以下の写真である。
同じようなアングルから建設中の小和田駅を撮影しているものだ。
引用図:小和田駅北方、吹雪澤橋梁陸揚げの様子
「はるか仙境の三信鐵道(13・臨B詰所・2015年)」
この「仙境鐵道」の写真にはキャプションにある通り建設途中の吹雪澤橋梁や河原に設けられた陸揚施設が写り込んでいるのだが、この橋梁とその前後の築堤の位置を直線的に繋いでいくと、従来、「駅舎」と「社宅」と考えていた2棟の建物よりも上側を路盤が通過していくことに気が付いた。となると、「駅舎」は駅舎ではなく、むしろ社宅になるのではないだろうか。
そこで、この写真の原本となった「寫眞帖」をもう一度よく調べてみると、この写真の説明の中に、今まで見落としていた記述があることに気がついた。即ち、私が従来、「駅舎」と「社宅」と理解していた2棟の建物は、実は、「社宅」と「熊谷組事務所」であるという記述である。
「寫眞帖」は写真そのものにはキャプションが入っておらず、写真に重ね合わせる形の薄紙にキャプションが書き入れられているのだが、そのキャプションページ上で、この2棟の建物の位置にそれぞれ「社宅」と「熊谷組事務所」という記述が入っているのである。
これらの新事実を整理して「寫眞帖」の原版に注釈を入れた図面を作成した。以下に、原版と注釈入の図面とを重ね合わせ写真として掲出する。
注釈図を見ていただくと分かるように、従来、小和田駅舎と考えていた建物は実は「社宅」であり、この写真の撮影時、小和田駅舎はまだ姿を見せていなかった。
但し、「社宅」の位置から小和田駅舎の推定位置まで、明瞭なスロープが見えており、これは、今も現地に残っている小和田駅前のスロープそのものであろう。
「『熊谷組事務所』の大きな建物が現存しないではないか」との指摘を受けるかも知れないが、熊谷組は三信鐵道の工事業者であるから、三信鐵道全通により工事が終わった後、飯場などの工事関連施設は全て撤去したと思われる。
かくして、現在、小和田駅舎の下にある大きな廃屋については、元三信鐵道の社宅だったという結論に達した。
現地では、製茶工場で働く人の宿舎だったと考えたが、「社宅」という面では当たらずしも遠からず。但し、製茶工場は個人経営であったし、現地の工場の規模を鑑みるとこれほど立派な宿舎が必要だとも思われないので、私の鑑識眼は余り確かではなかったようだ。
三信鐵道の社宅はそのまま国鉄の官舎となったと推定するのが的を射ている気がするが、その後の顛末については、追加で判明した事実はない。この辺りは、調査を深めていきたいと思う。
また、今は樹木に覆われた駅周辺だが、この当時、裸の裸地だったことも分かる。ということは、現在、小和田駅から天竜川の間で育つ樹木の多くは、小和田駅が建設された当時、若しくは、その後に根付いたもので、樹齢で言うと90年前後ということになる。ミゼットの周りに育つ木々は、やはり、小和田駅の開業当時は、芽吹いたばかりの幼木だったのだろう。
旅に戻ろう。
私は、ミゼットの横から、集落の痕跡を求めて河畔に下りてみた。
大量の土砂を含んだ水面はダム特有の青緑色に濁っており、清流らしさは失われている。対岸には3mほどの厚みで堆積物の層が露出しており、それが浸食されていた。時折、その堆積物が崩れる音が山峡に響いていた。
青緑の湖水は間近に見ると意外なほどの流速で流れ下っており、泥濘で滑りやすい岸辺は決して安全ではない。そこは居心地がよいとか気持ち良いとか、そういう感じではなく、何か、本能的な怖さを感じる空間だった。
この水面下数mから十数m付近に、かつての集落が沈んでいる。
しばらく探索してみたが、僅かに、一艘のボートが繋留されているのが見つかっただけで、集落の痕跡は全く見つからなかった。
そして、見晴るかす南信の山並みと雪雲は明度を失いながら赤紫色に染まっていた。
日没を過ぎたようだ。
ボートの繋留地点は沢筋だったので、山手に向かうと製茶工場と社宅の間に出た。
そこから、社宅の周りをぐるりと一回りし、塩沢道を左手に眺めつつ玄関先を経て小和田駅に戻る。
帰り着いた小和田駅には、既に明かりが灯っていた。
駅舎を正面から眺めると、かつての出札窓口が目に入ってくる。
今ではカーテンが閉じられ、人の姿が見られることはないが、この駅舎は小和田集落の栄枯盛衰を眺め続けてきたのだろうと思うと感慨深い。
駅舎にはまだ人は戻ってきていなかった。
既に暮れ始めた中、軽装でどこまで足を延ばしているのだろうかと少し気になり始めたが、一先ず、ホームに上がって、豊橋への特急「伊那路」の通過を迎えることにした。
程なく、駅構内の警報が鳴り始めて、山峡遠くに橋梁を渡る音が響き始めた。
そして、それが一瞬途切れた後、長尾隧道の坑内が明るく燃え上がり、4灯のヘッドライトを灯した特急が、ゆっくりと、小和田駅を通過していった。
車内は空席が目立ったが、帰省の時期でもあり、旅行客の姿が散見された。
日が暮れた後の山峡には、あっという間に夜の帳に下りてきて辺りを包んでいく。
先ほどまで赤紫色だった稜線や雲は、青紫色に転じ、谷間には群青色の大気が充満する。
無人の旅情駅で迎えるこのひと時は、いつも、心に残る。
ただ、ホームや駅前に佇み、写真を撮影し、そのひと時を過ごすだけなのだが、それは、至福と言うに相応しいひと時である。
多くの場合、この時間帯になると駅には誰も居なくなる。実際、この日も駅から人影は消えていた。
しかし、今日は、他に3名の来訪者が居て、駅の周辺を散策しているはずなのである。
この3名は、いずれも下り列車から途中下車してきた。間もなく次の下り普通列車が到着する時刻で、辺りは既にヘッドライトが無ければ行動できないような状態になって居るため、軽装の3名は次の下り列車で去っていくのだろうと思っていたのだが、この時刻になっても戻ってくる気配が無かった。
しかも、高瀬橋の方の遥か遠くから男性の咆哮が聞こえる。何を叫んでいるのかは分からないが、大声を出しながら駅の方に向かって近づいてくる。声の主は手ぶらの男性だということはすぐに分かった。
無人境にカップルの姿が消えて、真っ暗な山中に手ぶらの男性の叫び声が響いている。
こうした旅情駅で、そんな場面に遭遇することは初めてだ。流石にこの状況には薄気味悪いものを感じたが、気を取り直して駅の撮影などに取り組む。
やがて、17時16分発、531Mが到着し、岡谷までの長い道のりに旅立って行った。
訪問者は駅に戻らず、乗降客の姿は無かった。
発着の喧騒が過ぎ去ると、駅には静けさが戻ってくる。先ほどまで青紫から群青へと変化しつつあった空は、いつの間にか紺色になっていた。
微かな残照の気配も、間もなく消えるだろう。
暫くすると、再び、叫び声が山中に響きだした。
それは、駅の近くまで戻ってきており、スタスタと走る音も聞こえる。
この真っ暗な中を、ヘッドライトも持たず手ぶらで叫びながら走る男性と、山中に消えたカップルという状況に、私は不穏なものを感じていた。
程なくして、件の男性は駅舎に戻って来たらしく、ドアを開く音がした。
待合室には私の荷物が置いてある。
この時、消えたカップル以外に、もう一人、駅に人が居るということが分かるはずだ。
どうも落ち着かない心地で過ごしていたが、ホームの末端から周辺の山を見上げると、向かいの稜線の随分高い所に、1灯の明かりが灯っているのが見えた。地図で確かめてみれば、それは、長野県側の途中集落付近だった。集落の建物の明かりではなかったので、林道天竜川線か集落付近の街灯なのだろうが、山中にポツンと孤独に灯る明かりは印象に残るものだ。
駅の構内は上り線側の施設が撤去された関係で、以前よりも暗くなったように感じる。
さて、ホームの末端で撮影をしていると、件の男性がホームに現れた。駅舎付近の階段を上がったところで辺りを窺っていたが、ホームの末端に居た私の姿を見つけたのか、何やら独り言を呟きながら、ふらふらと近付いてきた。
身構えつつ男性の接近を迎えると、少し離れたところから「待合室の荷物の方ですか?」と話しかけてきた。「そうですよ」と答えると、「誰か、遭難してるんじゃないかと思いました」とのこと。荷物は自分のものであることを告げ、心配して頂いたことにお礼を言うと、安心したようで駅舎の方に戻っていった。
「やれやれ」と緊張が解ける。
始終、独り言も呟いていたので、そういう気質の男性だったのだろうが、手ぶらで小和田駅に降り立ち、高瀬橋の方まで足を延ばしたところ、日没を迎えて真っ暗になり、恐怖を感じて、叫びながら駅まで走ってきたのかもしれない。
私も、一旦、駅舎の方に戻り、駅前で写真の撮影などを続けることにした。撮影をしていると、件の男性も駅前に出てきて、暗闇に向かって話しかけている。
ただ、もうそろそろ次の上り列車が到着するにもかかわらず、カップルの方は相変わらず姿が見えない。やはり心配になった私は、ヘッドライトを携えて、高瀬橋の方まで様子を見に行くことにした。そして、坂道を下って塩沢道に向かおうとすると、東屋の暗がりにカップルが居た。
もしかして、野宿をするつもりかと思い尋ねてみると「次の列車を待ってます」とのこと。「そりゃそうだろうな」と一人納得する。
駅には私も含めて変な人が二人も居る。近づくのは怖かったかもしれない。
いずれにせよ、その無事が確認できて私も安心したので駅舎に戻り、ホームの末端で上り列車を待つことにした。
間もなく、17時49分発の562M豊橋行がやってきた。件の3名もホームで列車を待っている。男性は列車に背を向けて点字ブロックの外側に立って居たので、列車が警笛を鳴らす。
暫く停車の後、私一人を残して、列車は走り去った。
色々な人が訪れるものだ。
小和田駅に着いてからというもの、駅前をうろついたりホームを行き来したりして、腰を落ち着けていなかったのだが、ここで、駅舎に戻り一休みする。
雪の舞うこの日、小和田駅も冷え込みが厳しく、ホーム側が開放された駅舎は底冷えがする。
それでも、木造の駅舎の中に一人佇んでいると、気持ちが安らぐ。
駅務室側を見ると、出札窓口の他に荷物窓口もあり、古い公衆電話の標識が時代を感じさせる。
そういえば、かつては、駅前に公衆電話が置かれていることも多かったし、中には、ダイヤル式の古いタイプが残っていることもあった。駅に置かれた公衆電話が、集落の共有財産だったいう時代もあっただろう。
そんな時代には駅に人が集い、様々な人間劇場が繰り広げられたに違いない。
今はもう、この待合室から見下ろす一帯に、生活の明りが灯ることはない。しかし、集落在りし日、駅舎から見下ろすと、日が暮れた峡谷に幾つもの明かりが灯り、竈の煙が立ち上っていたことだろう。
そんな時代に訪れてみたかったと思う。
待合室では、時刻表や地図を開きながら翌日の行程の検討をする。
翌日は午前中に小和田駅周辺を巡り、その後、為栗駅に移動して、万古川沿いに遡ってかつての集落跡を探索することにしている。
強い冬型の気圧配置で積雪も予想され、廃道探索に入るには厳しい天候となるため、万一の予定変更も視野に色々と検討を重ねるうちに、あっという間に1時間以上が過ぎて、次の下り列車の時刻になった。気が付けば、構内の警報が鳴っている。
19時10分の539M上諏訪行き。この列車は、これから4時間近く走って、はるばる上諏訪まで足を延ばす長距離ランナーで、豊橋から上諏訪まで飯田線全線を走破する列車だ。上諏訪到着は23時3分。為栗、田本、金野、千代の各駅は通過するが、小和田には停車する。
この季節のこの時刻。
もう、駅の訪問者もなかろうと、かつての構内通路の手前で列車の到着写真を撮影していると、あろうことか、再び、手ぶら風の軽装の若者の3人組が下りてきた。
若者たちは若者たちで、変な奴が駅に居ると思ったことだろうが、待合室に屯することなく、あっさりと姿を消した。
駅前の廃屋にでも来たのかと思ったが、その辺りをうろついている気配もなく、彼らもやはり、高瀬橋の方まで足を延ばすようだ。
皆、街中をうろつくような格好だったが、これがブームというものなのだろう。
20時過ぎには、飯田に向かう下り特急「伊那路」が光陰を残して駅を通過していく。こちらの方は、飯田への里帰りらしき乗客の姿が散見された。
そのまま、暫く駅のホームに佇み、写真などを撮影する。
20時を過ぎた駅には、既に、昼間の余韻は全くなく、深夜のような静けさが辺りを包んでいた。
積もるほどではないが、時折、小雪が舞う中、遠くから天竜川が流れる音が聞こえてくるのだが、それ以外の音が聞こえないという所が、却って、静けさを強調するようだった。
この後に小和田駅に発着する上り列車は、20時31分発の570M豊橋行を残すのみ。この列車は、若者たちが乗車してきた上諏訪行きの下り539Mと対になる列車で、同じく、千代、金野、田本、為栗を通過するのだが、やはり、小和田には停車する。両者は19時53分の門島ですれ違う。
下り列車は21時29分発の549M天竜峡行きを残すのみ。他に通過列車もなく、この21時29分発が小和田駅の終電である。
若者たちは、20時31分発で水窪や豊橋の方に引き返すのだろうと思っていたのだが、彼らも戻ってこない。今日は、どうも、そういう訪問者と縁がある。
結局、若者たちは、21時前になって戻ってきた。駅のホームで夜景を撮影していると、眼下の道をライトを灯しながら歩いてくる。野宿する装備は持っていなかったし、21時29分発で帰るのだろうが、すっかり暗くなってからの訪問というのは、肝試しでも意図していたのだろうか。
予想していなかったことだけに、彼らが戻ってくる待合室では落ち着かず、立ち去るのをホームで待つことにした。
待合室に戻ってきた若者たちは、そこで何やら騒いでいる。時折、大きな奇声を発したりもしている。彼らにとって、この駅や集落の姿は一体、どのように映っているのだろうか。
この若者たちは21時29分発の終電で去って行った。車内には、僅かに乗客の姿があったように思う。
終電を見送ると、ようやく自分一人になった。場違いな騒がしさが収まった安堵感と、一人取り残された寂寥感とを胸に抱きつつ、手早く駅前野宿の支度をして寝袋に潜り込むことにした。
翌朝の始発は6時43分。
この時期、まだ夜明け前だが、始発までには綺麗に撤収する必要がある。
冷え込みむ中ずっとホームに居たこともあって、寝袋に潜り込んでも中々温まらなかったが、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝。
小和田駅は薄っすらと雪化粧していた。寝袋から這い出して厳しい寒気の中でホームに上がってみると、思わず見惚れてしまうような美しい旅情駅の姿があった。
この日、この時刻に、小和田駅に居なければ、見ることが出来なかった駅の表情。
他に誰も居ない無人境で、一人、その表情に見入る。
小和田駅を訪れる始発列車は、6時43分発の1503M伊那松島行きである。
時刻は7時前。
それほど早い時刻ではないのだが、真冬のこの日、駅はまだ黎明の青い大気の底で眠っている。
もし、小和田の集落で人々の生活が営まれていれば、家々に薪を炊く煙が立ち上り、穏やかな朝の風景が見られたのであろう。
小雪の舞うホームで始発列車の到着を待つうちに、駅の警報が鳴りだし、第四大輪隧道から轟音が響き始める。
それに続いて、隧道の壁面が輝くと、レールに煌めきを落として、列車のヘッドライトが現れた。
普通列車は静かにホームに滑り込んでくる。
この時刻に、小和田駅に乗客が現れることは勿論、列車から誰かが下りてくるということもない。
それでも、列車は律儀に駅に停車し、走り去っていく。
出発した1503Mは、二つ隣の伊那小沢駅で上り始発列車520Mと行違う。
上り始発列車の小和田発は7時5分。1503Mを見送ったのち10分程で、すぐに、520Mがやってきた。
この列車は平岡始発で豊橋には9時33分に到着するのだが、三河地区の朝の通勤通学需要があるようで、4両編成で入線した。
この駅に4両編成の普通列車が入線するということに驚きもあったが、隔絶したように見える小和田駅も、鉄道を利用すれば、豊橋には2時間半、飯田には1時間半程度でたどり着くことが出来る。
文献調査記録にまとめるが、飯田線の付け替え工事が実施される前には、水窪方面から山を越えて小和田駅までやってくる利用者も居たという。そういう時代、この駅も利用者で賑わったことだろう。
年末の冬休みだったということもあろうが、4両編成の車内に乗客の姿は無い。
出発していく普通列車を見送る頃には、小和田駅も朝の表情に変わりつつあった。
ホームから眺めると、南信の山並みは粉砂糖をまぶしたように白く色づいている。
駅名標も1㎝くらいの雪帽子を被っていた。
待合室に戻って準備を行い、不要な荷物は荷物をデポして出発することにする。
今日は、この後、塩沢集落方面から門谷方面まで、旧道探索を行う予定で4時間を確保している。
路面状況が懸念されるが、この積雪量なら問題はないだろう。足回りは防水トレランシューズである「Salomon XA PRO 3D V8 GORE-TEX」にゲイターを装着している。ゴアテックス製のアッパーを使用したシューズは仕様上は浸水の恐れはない。しかし、使用上はどうなのかレビューする意味もあるので、こうした状況も悪くはない。
装備を固めて待合室の外に出てみると、再び、雪が降り始めている。小降りではあるが、昨夜来、断続的に降り続いている。
早朝の大気の色の変化は劇的で、僅か10分程度のうちに、青みはすっかり消えていた。
低い彩度の風景の中、塩沢集落に向かって出発することにした。小和田駅、7時14分発。
小和田駅~塩沢集落
ここからの現地調査に関しては、かなり長編となったため現地調査記録として別にまとめ直すことにした。ここではそのダイジェストを掲載する。
まず、この日の現地調査のGPSログを元に、ルート図と断面図を掲げる。ログは複雑ではあるが小和田駅から塩沢集落周辺を巡り小和田駅に戻る形で調査を実施している。また、3枚目は参考地形図である。このルートで辿る道やランドマークについて簡単にまとめた。記事の中で何度か触れることになるので、その際にここに説明を加えたい。
全体として行程距離12.7㎞、行動時間4時間4分、累積標高差970m前後となった。
小雪の舞う中での出発。
「塩沢まで1時間」の標識を見ながら社宅脇を通り抜けて旧龍東線に入るが、植林地内に入ると積雪も消える。積雪の路面状況が気になってはいたのだが、この状況なら山中の踏み跡でも歩くのに支障はなさそうだ。
旧龍東線を進んでいくと、右手の林の上に廃屋が見えてくる。地形図にも記された廃屋で、石垣を伴ったしっかりとしたものだ。
この辺りは河畔から少し高度が上がり、旧龍東線も両側に石垣を従えて堂々とした風情で続いている。今となっては人々の往来も絶えたが、往時の賑わいが偲ばれる。
小和田集落に最後まで住まわれていた宮下夫妻の旧宅には7時31分着。0.9㎞であった。
宮下夫妻宅付近では、2001年11月と2021年12月とで新旧比較できる写真を撮影していた。2001年11月の写真ではベランダに洗濯物が干してあって、まだ、夫妻が生活されている頃だった。
既に夫妻はこの地を去っており、今は誰も住んではいないが、建物周辺の様子はほとんど変わっていない。
さて、ここまで旧龍東線という呼称を用いてきた旧道だが、実は、現在は浜松市が管理する浜松市道となっていて浜松市の道路台帳上の登録名称は「水窪小和田塩沢線」という。市道としての延長は2179m、最大幅員3m、最小幅員1mである。
過去の経験上、徒歩1時間弱の山道と記憶していたが、実際の距離は2㎞強。そう考えると意外と短いようにも感じる。
以下、この探訪記では「塩沢道」と略称することにしよう。
なお、宮下夫妻宅跡付近から分岐して高瀬橋に向かう路線も、実は浜松市道として登録されていて「水窪高瀬線」というのが登録名称である。こちらは延長423.4m、最大幅員1.8m、最小幅員1.8mである。この道の事は「高瀬道」と呼ぶことにしたい。
以下には、この付近の詳細地形図を掲げておく。ルート図との重ね合わせとしているので、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。
また、参考地形図も再掲する。これら地形図上、338mの独立標高点が描かれているが、その下に示された建物記号が夫妻の旧宅で、少し離れたところに描かれた1棟が先ほど通過してきた植林地内の廃屋だ。
夫妻宅の手前で高瀬道を分岐した後、塩沢道はP338独標付近で小さな峠を越えて不動沢に入る。そして不動沢吊橋で左岸から右岸に渡った後、四等三角点「奥領家(427.9m)」から続く尾根に取り付く。この尾根の取り付き手前で浜松市の通行止め表示のある道が左手に分岐していくが、こえは、「水窪小和田引の田線(延長2296.7m、最大幅員1.8m、最小幅員1.0m)」である。
後ほど、この道の奥から戻ってくることになるのだが、ここでは一旦素通りする。この道は「引の田道」と呼ぶことにしよう。
不動沢吊橋到着は7時36分。1.1km地点。引の田道分岐到着7時39分、1.3km地点であった。
尾根に取り付いてからはグイグイと勾配を登っていくことになるのだが、道型は明瞭でコンクリートの簡易舗装も施されているので、歩くのに支障はない。ただ、この訪問では積雪や落ち葉で滑りやすい状態だった。特に降り向きの場合は転倒に注意が必要だ。
尾根の南側を登っていくと、視界が開けて尾根に乗る。少し平場があって、道は更にもう一段上の登り勾配に転じていくのだが、ここで振り返ると高圧電線の鉄塔が立っており、塩沢道を歩く人の目印となっている。地形図が示すようにここに427.9mの三角点記号があるはずなので付近を探してみると、草むらの中にそれらしき標識が倒れていて、傍に標石が埋められていた。この三角点が四等三角点「奥領家」である。
7時47分着。1.8km地点であった。
三角点尾根を辞すると道は直ぐに登りに転じるが、ここで尾根の北側に降り気味に分岐していく道がある。この道を左に進んでいくと、地図上でも表示のある塩沢下手集落付近に達するのだが、ここは後ほど探索するので一旦見送ることにする。
ここで尾根の南側に入った塩沢道は、尾根からは外れた山腹を巻き気味に登っていく。途中、地形図に記載のない杣小屋や厠が道の脇に現れ、かつての畑の跡らしき石垣が植林地に埋もれるようにして残っていたりする。
最盛期には十数戸を数えた塩沢集落は、現在残っている民家以外にも、この周辺山林に幾つかの民家が点在する、典型的な山岳集落であった。
一部荒れたところもあるが、やがて林道天竜川線の擁壁やガードレールが見えてきて、その隙間から塩沢集落に躍り出た。写真で新旧比較しても、殆ど変わっていない。
8時4分。2.5㎞。
以下には、この区間のルート図や写真などを示しておく。
塩沢上手集落付近
この地点は、林道天竜川線を核として、塩沢集落の現住民家へと続く浜松市道「水窪塩沢線(延長533m、最大幅員6.9m、最小幅員3m)」と塩沢道が合流する四叉路だ。尤も、塩沢道は一見すると杣道にしか見えないので、何も知らなければ三叉路と感じるだろう。
塩沢集落には白山神社があるので後ほど訪れることとして、一旦、林道天竜川線を塩沢橋まで往復することにした。この塩沢橋は不動沢を跨いでいる。先ほど、吊橋で越えてきた、あの不動沢である。
途中、林道天竜川線の山手の方に大きな廃屋が見える。
20年前の初訪問時、ここで軽トラの男性に呼び止められたのも懐かしい。
斜面の下には茶畑の跡が続いており、その先にも、民家の屋根が見えている。勿論、そちらも廃屋である。
塩沢橋から不動沢を辿った上流に向かって、かつては小径が続いており、峠を越えて門谷本村へ通じていたらしい。今では国土地理院の地形図からも消え去ったそういった小径を辿って、塩沢の子供たちは門谷本村の分校まで通学していたという。越える峠は標高1000mあまり。現代的な感覚では想像もつかない生活ではあるが、かつては、そういう地域が全国の至るところにあった。
塩沢橋で8時21分、3.3㎞地点であった。
塩沢橋から塩沢集落に戻る道すがら、林道の上下に残る廃屋も訪れることにした。
林道から見て山側にある廃屋は、納屋を伴った立派な屋敷で2階建てだった。20年前の訪問時で既に廃屋だったかどうかは定かではない。
林道から見て谷側にある廃屋は、林道脇に辛うじて残った石積みから獣道のような踏み跡を辿って辿り着く。入り口付近の倉庫が倒壊しており、その脇を通り抜けて平屋建ての民家の前に立つ。入り口の軒下に付けられた裸電球が苔生しており、ここに人が住まなくなってからの時の流れを感じさせた。
この塩沢集落は、今でこそ、林道天竜川線の上下に集落の建物が存在しているが、元々の道は、今よりも斜面の下側にあり、集落全体が旧道よりも斜面上部に存在したようだ。林道開削によってそういった集落の繋がりは断たれ、いつしか、下手の集落は無人となった。
元々は一つの塩沢集落だったはずで、林道の上手、下手の区別はなかったと思われるが、ここでは便宜上、林道より山側にある現住集落を塩沢上手集落、谷側にある廃集落を塩沢下手集落と呼び分けることにする。