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姫川駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
学生時代・最後の夏となった2001年8月は、北海道・東北を旅することにした。
青春18きっぷを4枚ほど携えて周ったこの旅では、JR北海道の全路線に乗車することが出来た。駒ヶ岳山麓を行く函館本線では、姫川駅で駅前野宿をすることにしていたのだが、道内入り初日、函館駅からやってきた原野の「旅情駅」は、訪れる者も居ない静寂の中で、孤独な旅人を迎えてくれた。
既に日は没した後で、夏の空は、赤紫から青紫へと変化しつつ、暮れなずんでいた。構内は照明が灯り、早くも夜の帳が辺りに降り始めている。無人の構内でひとしきり写真を撮影した後、駅前野宿の支度に入った。





この時の旅では、道内入りするのに3泊4日を費やした。烏山線、山田線、津軽線、それぞれの沿線で1泊し、4日目になって青函トンネルを越えて函館入りしたのである。北海道からの帰路も、東北地方を行ったり来たりしながら、合計6泊を費やしたのだが、こうした行程を振り返ると、野宿の貧乏旅行ではなく、随分、贅沢な旅だったと感じる。
函館から札幌に向かう函館本線の道中は、特急列車も行き交う幹線だけあって、列車の運行は少なくはない。しかし、その中で、本州から函館を経て札幌方面に向かう旅客がどれだけ居ただろうか。
当時はまだ、本州からの直通の寝台列車が活躍していたとはいえ、道内に向かう旅客需要に占める割合で見れば、それらは微々たるものだった。「上野発の夜行列車」に乗って、青函連絡船で津軽海峡を渡り、函館から、稚内、網走、釧路と、道内各地に向かった旅人の姿は、今はない。
そして、姫川駅は、そうした時代の変化を、物言わず、眺め続けてきたのだろう。
そんなことを思いながら夕食を済ませる頃には、既に、辺りは、とっぷりと暮れていた。日暮れ時の風景の変化は劇的だ。
しばらくすると、函館に向かう単行のキハ40系気動車が到着。車内に乗客の姿は無く、勿論、駅に乗客が現れることもない。それでも、自動再生の音声が「乗車券をお取りください」と、虚空に向かって叫び続けている。
当時、駅の待合室の表札は「姫川信号場」となっていた。実際、姫川駅は信号所として設けられた。紛らわしいが、その後、国鉄時代のうちに信号場、仮乗降場と変遷し、JR発足時に駅となった。従って、駅というよりも信号場としての機能の方が強いのだが、その関係もあって、頻繁に、列車の行違いが行われる。特に、下り貨物列車と、上り旅客列車との行き違いが多く、この時も、普通列車は長時間停車して、下りの貨物列車との行き違いを待っていた。

姫川駅のホームの長さは、上り線と下り線で極端に異なる。1両分の長さしかない上り線ホームに対し、下り線ホームはその数倍の長さがある。これには、下り線を行く貨物列車と、上り線の旅客列車が行違うという運用の影響もあるのだろう。上り線の貨物列車は、姫川駅を通過せず、海岸周りの砂原線を通過する。
20分程停車していたのだろうか。程なく、駒ヶ岳山麓から下ってきた列車のヘッドライトが視界に現れ、長編成の貨物列車が轟音と共に姫川駅を通過していった。その轟音が遠ざかると、信号機が青に変わり、普通列車のヘッドライトが点灯した。ようやく、出発の時刻を迎えたようだ。
やがて、ディーゼルエンジンの重厚な加速音を響かせながら、キハ40系の気動車は駒ケ岳に向かって登っていった。遠ざかるテールライトを見送ると、いつものことながら、独り取り残された寂寥感が辺りを包む。しかし、明かりの灯る駅は、そんな孤独に物言わず寄り添ってくれる。

その後、夜の駅を一人でブラブラしながら、写真を撮影したりして過ごしていると、下り線に貨物列車が入ってきた。随分、低速で入ってきたと思っていると、やがて、編成全体から「ガシャーン!」という衝撃音が響き渡り、減速し始めた。どうやらここで停車するらしい。
この貨物列車も長時間停車していた。上り列車との行き違いなのであろうが、普通列車が到着する時刻ではないし、上りの貨物列車は、既に述べたように、この区間を通らない。とすれば、上りの特急列車が通過するということになろうが、実際、上野に向かう寝台特急「カシオペア」と、函館に向かう特急「北斗」が、2本続けて通過していった。貨物列車だけに、こうした長時間停車も可能ということだろうが、運転士としては退屈極まりなかろうと思う。
この日は、この後、もう一度、下り貨物列車と上り寝台特急「北斗星」との行き違いがあったのだが、その際もやはり、貨物列車は長時間停車していた。
それらの列車の通過を見送って、眠りに就くことにした。
深夜帯にも貨物列車の通過があったと思うが、記憶は定かではない。


翌朝は雨だった。
早朝の駅は、待合室や構内の照明が灯っており、まだ眠りの中。
傘も無かったため、雨具を着込みながら、駅の周辺で写真を撮影したりしながら過ごす。
早朝の姫川駅では、下りの「北斗星」が通過するはずで、それを待ち構えていると、やがて、構内踏切が作動し始め、駒ヶ岳の方からヘッドライトが近づいてきた。
カメラを構えていると、実は、貨物列車だったということもあるのだが、この時は、予想通り、札幌に向かう「北斗星」が、専用塗装のDD51に牽引されて通過していった。
車中の乗客は、優雅な一夜を過ごし、目が覚めたら車窓には北海道の風景が広がる、そんな、ひと時を過ごしている事だろう。かく言う私は、駅前野宿が明けて、自炊を終えて出発を待つところである。一度は乗車してみたい寝台特急「北斗星」だったが、結局、その機会が得られないまま、ブルートレイン自体が全廃となった。
新幹線には旅情を感じない私だが、寝台特急には憧れとともに旅情を感じる。それとて、「特急」である以上、「鈍行」の旅とは異質なものかもしれないが、「夜汽車」という表現もあるように、寝台特急は、「汽車旅」の範疇に含まれてくるように感じる。
新幹線を「汽車」と表現するのはしっくりこないし、同じ寝台特急でも、近年の超豪華寝台特急は、価格設定や運行ダイヤの面で、「夜汽車」とは全く違う乗り物のように感じるのは、私だけだろうか。



しばらくすると、夜明けの大気が持っている独特の青みが消えて、すっかり明るくなった。待合室や駅構内の照明も消えて、朝を迎えたようだ。
程なく、下り「北斗星」が通過していく。
さすがに人気列車だけあって、1往復のみの運行ではなかった。
その「北斗星」の通過を見送った後、上りの始発列車に乗って、姫川駅を後にした。
この時は、隣の東山駅で下車して、次の下り普通列車の到着までの間、駅の付近を散策する予定だったのだが、下車した頃から本降りの雨となって、かつてのスイッチバックの跡を探索する予定も諦め、駅のホームの下に逃げ込んで雨宿りをする羽目になった。
それでも、東山駅滞在中に、この日3本目の下り「北斗星」の通過を写真に収めることが出来た。
1日3往復の寝台特急。
ブルートレインが輝いていた、最後の時代だったように思う。

2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
姫川駅の再訪問は、2016年1月のことだった。この時は、丁度、転職を間近に控えて、会社の休業期間と有休休暇を組み合わせて北海道を訪れたのだった。
学生時代のような長旅は難しくなったが、転職の合間など、時々、こうした長旅を実施することがあった。当時はまだ、「ちゃり鉄」の旅を始める前であったし、そもそも、真冬の北海道を走行できる自転車を所有していないので、乗り鉄の旅となったのだが、学生時代以来の北海道の長旅は、味わい深いものだった。それと同時に、この年の春を待たずに廃止になる駅も8つあり、それらを巡る最後の旅となった。
この日の到着は、20時頃。森から函館に向かうキハ40系単行気動車の車内には、他に乗客も居らず、森駅で購入したいかめしを頬張りつつ、一駅を旅してきたのだった。
下車した姫川駅にも、当然、利用客の姿は無い。
列車はここで行き違いするらしく、アイドリングしながら下り列車を待っていた。2001年8月の旅でも、同じような光景を目にした。姫川駅の現実的な機能は、設置当初から変わらず、信号場ということなのだろう。
しばらくすると、下りの特急「スーパー北斗」が通過していった。
その通過を見送ったのち、キハ40系の単行気動車は、重厚なエンジン音を無人の寂寞境に残して、駒ケ岳への登路を進んで行った。後には、静けさだけが残った。

函館本線の長万部以南の区間は、普通列車の運転本数で見ると閑散路線ではあるが、貨物列車と特急列車の往来もあるため、列車の運転本数自体は、それほど少なくはない。
駒ヶ岳山麓を行く森~大沼間においては、上りの貨物列車は砂原線を行き、下りの貨物列車のみが姫川駅を通過していくが、特急列車は上下とも姫川駅を通過する運用で、それらの運転停車もあるため、意外と列車の発着は多い。このような運用を行っている理由は、函館本線建設当時の歴史を振り返ることで明らかになる。
以下に示すのは、「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業協会・1978年)(以下、「請負業史」と略記)」に掲載された、「軍川-森間線路増設平面図および縦断面図」という図面であるが、これを見ると明らかなように、姫川駅を通過する函館本線在来線は、砂原周りの海岸線と比べて、アップダウンが激しい上に、駒ヶ岳駅付近をピークとした非対称の両勾配を持ち、そのうち、海岸付近の森から峠に当たる駒ケ岳に至る区間の上り勾配は、かなり急で高度差も大きい。
この区間の勾配緩和の努力は、平面図に見られる屈曲を繰り返す線形にも表れているが、それに加えて、 姫川駅の隣にあった東山駅に、かつてスイッチバック信号場が存在していたという歴史からもうかがい知れる。
引用図:軍川-森間線路増設平面図および縦断面図
「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業協会・1978年)」
さらに、「請負業史」の「函館本線軍川(現在の大沼)-森間線路増設」という節の記述を以下に引用する。
函館本線の輸送力増強のため、函館ー長万部間(一一二・三粁)の複線化が計画された。…中略…軍川-森間は、勾配改良のため別線々増で駒ヶ岳外廻り線(砂原線)を二十年六月に開業、…後略…
以上のうち、別線々増を行った軍川-森間の線路増設工事の概要について記す。
本区間の在来線は、駒ヶ岳西方の裾野にあたる峠を越えている線路で、大沼(現在の大沼公園)から部分的に千分の十六・七の勾配で峠にのぼり、ここから森に向かって千分の二〇の勾配で下っている。この急勾配は、函館本線の輸送上の隘路であり、また、当時北海道の石炭陸送の必要度が急激に増大していたので、線路増設に当たっては、上り線は別線で駒ヶ岳の東廻り(海岸廻り)のルートで増設することになり、昭和十七年七月に着工して、同二十年六月一日に竣工開通した
この駒ケ岳海岸廻りの新線の線路選定は、当初は、森を起点とする渡島海岸鉄道を買収し、これを改築して、その終点の砂原から最高千分の八の勾配で駒ヶ岳の裾野を縫って上り、大沼湖畔を通り軍川に至るもので、在来より約三〇米最高点を低下するものであった。
しかし、青函連絡船一隻分に当る、現車四四両を単位とする長大列車の運転が要求されたため、当初計画の一部を変更して、渡島海岸鉄道の終点である砂原の手前から分かれ(以遠の渡島海岸鉄道の路盤は放棄)、千分の六の勾配で、当初計画とほぼ同様な経過地を経て軍川に至ることとした。この結果、延長は在来線より一二・八粁延伸したが、最高点は六〇米余下がり、牽引定数は連絡線の輸送能力と見合うものとなった。
函館本線軍川(現在の大沼)-森間線路増設
「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業協会・1978年)」
このような経緯で建設された砂原線であるから、現在も、貨物列車の運用上、この区間は、砂原線が上り線、在来線が下り線として位置づけられているのである。
しかし、この別線建設は、昭和20年7月に青函連絡船の大半が空襲によって壊滅し、8月に終戦を迎えたため、実際のところ、軍事的な目的を果たすことはなかった。知られざる函館本線の歴史と言えよう。
さて、この日も、普通列車を見送って1時間ほど経つと、下りの貨物列車が入線し、行き違いのために停車した。

姫川駅は、信号場としての機能故に、旅客列車の発着に必要な有効長と比べて、著しく長い有効長を持っている。実際、駅の構内に立ってみると、函館側の分岐ポイントは遠望することが出来るものの、森側の分岐ポイントは、曲線の向こうにあって見通すことはできない。
貨物列車が駅の構内に進入してくる時は、一見すると通過列車のような速度で通り過ぎて行き、事実、先頭の機関車は見える範囲の向こうに消えてしまう。そして、消えた後に制動がかかると、編成全体に衝撃音が響き渡り、徐々に減速しながら最終的には停車する。貨物列車ならではの運転だ。
構内通路を跨ぐ形で貨物列車が停車するので、構内踏切の警報音が鳴り続けることになるが、貨物列車自体は、停車してしまうと静まり返る。足回りの着雪が行路の厳しさを物語る。
古い映画などでは、貨物列車の荷物に忍び込んで旅をするような描写もあったように思うが、コンテナ列車ばかりになった現在の貨物列車の場合、そんな事を企てることも出来ないだろう。
間近に停車する貨物列車を眺める機会は、そんなに多くもないので、真冬の北海道だというのに、寒さを忘れて、その光景を眺め続けた。
10分余り後、函館行きの特急「北斗」が、ゆっくりと上り線を通過していく。
一般の利用客は居ないものの、姫川駅は、信号場として、人知れず寡黙に働き続けていた。
やがて、貨物列車全体に衝撃音が響き渡り、おもむろに動き始めた。停車時も独特なら、出発時も独特で、エンジンの唸りもない中でそろりそろりと動き出し、反射板を掲げた最後尾が暗闇の中に消えていった。

列車交換の喧騒が過ぎ去ると、姫川駅には静けさが戻ってきた。
気温は氷点下ではあったが、道南まで南下してくると、痛みを感じるような冷気は感じられない。周辺の積雪も少なく、内地の冬の夜と、大差はないように感じられた。
真冬の北海道を野宿で旅するのは、1998年の冬以来のことだ。
その時は、マイナス15度仕様のシュラフを使用していたのだが、阿寒湖畔でマイナス29度の夜を過ごした際には、寝袋の中に入っても凍える寒気を防げず、体の末端の痛みに耐えながらの厳しい一夜となった。ガスストーブも燃焼効率が悪く、火力の弱さに悩まされた。
そのため、この旅に備えて、マイナス30度仕様のシュラフとガソリンストーブ、テントの冬用外張りを新調し、投入したのだが、これは正解で、真冬の北海道の野宿でも、全く心配なくなった。
その快適な寝床に潜り込みたい衝動も抱きつつ、駅の構内をブラブラしながら、駅名標を撮影したりして過ごす。この日は、もう1本、函館行きの特急「スーパー北斗」が通過するはずで、その撮影を終えて就寝する予定だったのだ。
眠気と闘いながら、独り待つこと1時間余り。最終のスーパー特急は、ビジネスマンらしき乗客を乗せて、この寂寞境を軽やかに走り抜けていった。
時刻は22時半を過ぎ。この日の仕事を終えて寝床に戻る。
深夜に貨物列車の通過があったかもしれないが、その記憶はなかった。





さて、先にこの付近の路線建設史について触れたが、改めて、姫川駅そのものの歴史も振り返っておくことにする。
既に述べたように、姫川駅は、1913(大正2)年8月1日、姫川信号所として開設された。その後、1922(大正11)年4月1日には、姫川信号場に改称している。この改称の経緯について、明確に示した資料はない。ただし、私は、以下のように推測している。
まず、姫川信号所の開設当時、駅施設の建設に関して規定していた「鉄道建設規程(逓信省令第33号・明治33年8月10日)」の該当条項を以下に引用する。
これによると、現在の信号場に該当する施設は、「信号所」と呼ばれていたことが分かる。
第十六條(聯絡所及信號所)
停車場外ニ於テ鐡道線路カ聯絡スル箇所ハ信號常設ノ場所ト爲スコトヲ要ス
閉塞式ヲ施行スル線路ニ於テ停車場ヲ二箇以上ノ區間ニ區分スルトキハ該區間ノ境界點ニ信號所ヲ設クルコトヲ要ス第十七條(鉄道ノ聯絡及交叉)
「鉄道建設規程(逓信省令第33号・明治33年8月10日)」
停車場内ニ於テ二箇以上ノ鐡道線路カ同一軌道ヲ列車ノ發箸ニ共用スルカ又ハ同平面ニ交叉スルトキハ之ニ関聯スル轉轍器及常置信號機ハ相互聯動ノ装置タルコトヲ要ス
前項ノ場合ニ於テは必要ニ應シ避難側線ヲ設クルコトヲ要ス
鐡道線路ハ停車場、聯絡所若ハ相當ノ設備アル信號所ノ外ニ於テ平面交叉ヲ爲スコトヲ得ス
本條第一項及第二項ノ規定ハ聯絡所ニ於ケル鐡道線路ノ聯絡及交叉ノ場合ニ之ヲ準用ス
続いて、「国有鉄道建設規程(鉄道省令第2号・大正10年10月14日)」の該当条項を以下に引用する。
ここでは、「信号場」という用語が「停車場」の種別の一つとして定義されており、「信号所」は「信号場」とは別の定義を与えて区別されている。
第四條
停車場トハ左ノ各號ニ掲タルモノヲ謂フ
一 驛
列車ヲ停止シ旅客又ハ荷物ヲ取扱フ爲設ケラレタル場所
二 操車場
驛ニ非スシテ列車ノ組成又ハ車輌ノ入換ヲ爲ス爲設ケラレタル場所
三 信號場
驛又ハ操車場ニ非スシテ列車ノ停止、行違又ハ待避ヲ爲ス爲設ケラレタル場所第五條
「国有鉄道建設規程(鉄道省令第2号・大正10年10月14日)」
信號所トハ停車場ニ非スシテ手動ノ常置信號機ヲ取扱フ爲設ケラレタル場所ヲ謂フ
これらの規程の変遷を見ると、「姫川信号所」が設けられた当時、「鉄道建設規程」上は確かに施設の位置付けは「信号所」であったのだが、1920(大正10)年10月14日の「国有鉄道建設規程」によって、従来の「信号所」は「信号場」として再定義され、「信号所」とは区別された。そして、その規程を受けて、年度が改まった1922(大正11)年4月1日に、「姫川信号所」は「姫川信号場」に改称したのであろう。施設の実態が変わったということではなく、背景となる「規程」の変更に合わせた改称だったと思われる。
その後、国鉄時代の1951年5月19日頃に「姫川仮乗降場」となり、1987年4月1日、JR北海道の発足に伴って、正式に「姫川駅」となった。「仮乗降場」への格上げについては、記録が不明瞭で調査を要する。当時の地元新聞の記事などを探せば、何か判明するかもしれない。
こうして、施設の位置付けとしては出世してきた姫川駅であるが、その実態は信号場であり、「仮乗降場」として旅客扱をしていた時期があったとはいえ、信号場職員の家族を含めた、ごく一部の地域住民の便乗乗車が実態であっただろうと思われる。
そんな変遷を経た姫川駅ではあるが、結局、昨今のJR北海道の経営改善策の一環で、2017年3月4日をもって旅客扱いが廃止され、信号場に格下げとなった。再訪から1年余り後のことだった。
以下には、この姫川駅の地形図や空撮画像を、新旧比較で示した。旧版空撮画像には1940年代のものもあったのだが、解像度が悪いため掲載は見合わせた。鉄道線路や姫川駅周辺の様子は、1966年の空撮画像と同様だったが、周辺の開拓は進んでおらず、原野が広がっているように見受けられた。

地形図:姫川駅周辺

旧版空撮画像:姫川駅周辺(1976年10月5日撮影)

1928年の旧版地形図や、1966年の旧版空撮画像を見ると、姫川駅の周辺には建物がいくつか存在していることが分かる。1966年当時は、仮乗降場として機能していた時代と思われるが、駅周辺に施設が多く、国鉄職員の官舎などもあったのだろうと思われる。
その後、1976年までには、駅の付属施設も整理が進み、2012年に至っては、現在同様、待合室と機械室が残るのみとなっている。ただ、駅の周辺は、意外と民家も多く、全くの無人境という訳ではないことも分かる。
これら地域の住民の利用があれば、駅としての存続も可能であったかもしれないが、森市街地までは、直線距離で3㎞ほどしか離れていないため、自動車が普及した今日となっては、不便な鉄道を利用して通勤通学する住民も居ないだろう。
駅の所在地は、北海道茅部郡森町字姫川で、地名由来の駅名を持っていることが分かる。
「姫川」という地名は、アイヌ語地名とは思えないため、開拓期に名付けられた地名だと思われるが、意外にもその由来は明らかではない。例えば、「角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻(角川書店・1987年)」の記述は以下の通りである。
昭和14年~現在の森町の行政字名。もとは森町大字森村の一部、中ノ川・臼巻沢・柏木岱・森川など。明治初期に尾白内川に姫橋があり(函館県統計表)、同24年姫川教授場(明治36年姫川特別教授場となり、大正13年廃校)が開校していることから、この頃からの地名と思われる。…中略…大正2年姫川信号所設置。…後略…
「角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻(角川書店・1987年)」
「北海道 駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)」では駅名の由来については一切記載が無かった。
この他、「JR・第三セクター 全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」や、「北海道の駅 878ものがたり 駅名のルーツ探求(太田幸夫・富士コンテム・2004年)」の記載を、それぞれ以下に引用する。
姫川は、本州ならば「女川」、つまり、おとなしい川の意である。宮城県牡鹿郡女川町を流れる女川を参考にしたものという。
「JR・第三セクター 全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」
近くの川の名からとった。尾白内川が姫川(おとなしい川の意)だったのかもしれない。大正2年8月1日信号場として開設された。
「北海道の駅 878ものがたり 駅名のルーツ探求(太田幸夫・富士コンテム・2004年)」
前者は、「姫川は、本州ならば「女川」、つまり、おとなしい川の意」としているが、新潟県の糸魚川に流れ下る大糸線沿いの姫川は、その名に似合わず暴れ川で、度々災害を引き起こしている。後者は、「信号場として開設」という誤記がある。いずれも、少し、頼りない。
この他、「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)」も調べてみたが、「姫川」の記載はなく、辛うじて、「尾白内川」についての言及はあったものの、「潮の入る川」とか「川尻に岩のある川」といった解釈を併記しながら、「なお考えたい」とするに留まる。ただし、ここでは、「おとなしい川」という意味は記されていなかった。
これらの詳細は、今後の文献調査の課題とすることにして、姫川駅の一夜に戻ろう。
翌朝は、5時過ぎに起床し朝の支度を始める。
6時過ぎには函館に向かう始発列車が到着するので、それまでには、朝食を済ませ荷物を片付けておきたい。居心地のいい寝袋の中から、氷点下10度近くの冷気の中に出ていくのは辛いが、のんびりしていては列車の到着時刻に間に合わない。意を決して脱出し、朝の支度に入った。
温かい朝食を腹に入れる頃には、ようやく体温も上がり、厳しい寒気に耐えられる状態になった。
辺りはまだ夜の表情で、明かりの灯る駅は、眠りの中に居る。一日のうちで、最も気温が下がる時間帯。露出部分には、寒気がヒリヒリと突き刺さる。
6時過ぎになると、時刻表通り、函館に向かう始発列車が到着した。しかし、この列車に乗客の姿は無く、駅に乗客が現れることもなかった。
停車した普通列車はヘッドライトを落とす。この列車も、ここで行き違いをするらしい。まだ、札幌行きの特急が通過する時刻ではないから、下りの貨物列車がやってくるのだろう。
旅客駅としての機能は殆ど潰えた姫川駅ではあるが、こうしてみると、信号場としては、十分に機能しているように思われる。ただ、北海道新幹線が開通した後、並行在来線となる函館本線は、その存廃自体が議論の対象となっている。貨物輸送が行われる長万部以南の区間が廃止されることはないだろうが、特急の往来が無くなった後、信号場としての使命が残るのかどうかは、分からない。
駅の訪問当時、その翌年に廃止されるとは思っていなかったのだが、昨今のJR北海道の無人駅整理は凄まじく、2021年3月には、一気に18もの駅が廃止されてしまった。利用実態を見れば、それも致し方ないと思うものの、寂しさは禁じ得ない。
明け方の列車交換は、5分程の時間で行われた。
下り貨物列車が光陰を残して通過していくと、普通列車もヘッドライトを灯し、駒ケ岳に向かって走り去った。
今日はこの後、駒ケ岳方面に一駅移動して、東山駅に立ち寄る予定にしていたが、姫川駅に停車する普通列車の姿を撮影するために、この列車には乗車せず、歩いて東山駅まで行くことにしていた。幸い、東山駅から折り返す下りの普通列車の時間には、十分な余裕があった。
始発列車が走り去った駒ケ岳方面の空を見上げると、雲に覆われて真っ暗な中にも、所々、雲の切れ間から、紺色の空が覗き始めている。しかし、駅の周辺は深夜のような様相で、あたかも二度寝といった雰囲気だ。




一旦寒気を避けて待合室に逃げ込む。狭い待合室ではあるが、それだけに、暖気で温まるのも早い。室内でスクワットなどをしながら全身で発熱するうちに、底冷えは収まった。テントの中だと、さすがに、そういう訳にはいかず、ガソリンストーブを燃焼させても、暖気はすぐに逃げて行ってしまう。そのため、悪天候時や寒冷地での野宿の際は、建物内で過ごせるなら無理せず逃げ込むことも多い。
しばらく室内で過ごしながら、この日の行程などをおさらいし、意を決して外に出てみると、既に夜の闇は消えて、夜明け前の群青色の大気が辺りを包み込んでいた。時間にして僅か15分程度のことであるが、日没後や夜明け前の大気の変化は、いつも、劇的だ。
黒から紺、紺から群青と変化した空は、この後、晴れていれば青紫から赤紫へと変化していく。しかし、この日は、あいにくの曇天で、群青から青紫を経た後、赤みを帯びることなく、灰色に変化していく気配があった。
それでも、一日のうちでも最も研ぎ澄まされ、凛気漂う静謐な時間帯。その一時を、「旅情駅」で過ごすことが出来るのは、至福である。



この後の行程は、東山駅までの徒歩である。JRの営業距離としては4.1㎞となっているが、蛇行しながら勾配を抑えつつ峠を登る鉄道路線に対し、主要ルートとなる国道5号は直線的な線形で登っていくため、距離は短い。駅から国道に出るまでに迂回が必要となるが、所要時間は1時間程度と見込んで、7時前に出発することにしていた。
もっと暗いうちに出発すれば、余裕をもって東山駅に辿り着くことが出来るが、そうなると、朝の姫川駅の姿を見ることが出来ない。
冬の朝は遅いため、7時前まで出発を後らせたとしても朝日が昇る前ではあるが、明るくなってからの姫川駅を眺めた後で出発したかった。
駅前野宿では、日中の明るい時間帯に駅を訪れることが出来ないのが唯一の欠点だが、そういった場合でも、日中に訪れた後に一旦駅を離れ、夕方以降に戻ってくるという形で旅することが出来れば、駅でのひと時を存分に味わうことも出来る。
「乗り潰し」に気持ちが向いて、途中下車をするよりも効率よく乗りこなすことに重点を置いていた時代もあったが、「ちゃり鉄」の旅を始めてからは、「旅情駅」で過ごすひと時を大切にしたいという気持ちが、強くなった。
惜しむらくは、JR北海道の普通列車のダイヤでは、そういう旅を楽しむ余地がほとんどない事だ。
そして、全国各地の「旅情駅」は、まるで逃げ水のように、「ちゃり鉄」の旅が実現する前に、次々に消えていく。
この姫川駅も、「ちゃり鉄」の旅で訪れることは、出来なかった。



出発前、もう一度、駅の構内を歩いてみた。
かつて、姫川駅の周辺に沢山あったであろう鉄道施設も、今では痕跡ばかりとなり、建物としては待合室と機械室が残るのみである。
その待合室も、元々は、職員の詰め所だったと思われる建物で、旅客駅に格上げされた際に、その一画を便宜的に待合室として改修し、開放したもののようだ。
この冬の旅では、道内の多くの駅で、ポイント保守のため保線作業員が24時間体制で常駐する姿を見たが、元々積雪の少ない道南の姫川駅では、そういった作業員が常駐するということもなく、ここに滞在した間に、誰一人、訪れた者は居なかった。
それでも、姫川駅は、信号場としての役目を、寡黙に果たし続けていた。
構内踏切から上り方向を見晴るかすと、砂原岳の頂が駅を見下ろしている。この風景は、きっと、大正時代からほとんど変わらないのだろう。変わり行くのは、人々の営みだけだ。
最後に、待合室の前の広場から、この姫川駅を眺めて出発することにした。待合室も構内も、まだ照明が灯り、明けきらぬうちの出発となったが、真冬の一夜をここで過ごすことが出来たのは、幸せなことだったと思う。
待合室の屋根の向こうには、駒ヶ岳の山頂が、樹林の上に顔をのぞかせていた。
駅前の未舗装道路は、この季節は凍結した上に雪に覆われていた。利用者は居ないとはいえ、保線作業員などが訪れることもあるようで、道は除雪され圧雪状態。歩行に苦労することはなかった。1㎞程度進むと農道との分岐に出る。ここには、姫川駅を示した手製の標識が掲げられていた。
2017年3月4日。姫川駅は、利用者僅少を理由に乗降場に格下げとなった。
それは、開業以来、姫川駅が担ってきた、本来の役割に戻ったということなのかもしれない。




姫川駅:文献調査記録
資料収集中
姫川駅:旅情駅ギャラリー
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)












2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)














