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法華口駅:旅情駅探訪記
2016年11月(ちゃり鉄7号)
2016年11月、「ちゃり鉄7号」で神戸から播磨にかけての中小私鉄路線や廃線跡などを巡る旅を行った。仕事帰りの夜に自宅から「ちゃり鉄7号」で出発しての前夜泊2泊3日。実質的には1泊2日での旅となったのだが、晩秋の神戸・六甲山系や播磨路を旅する、静かな「ちゃり鉄」の旅だった。
この旅の道中、かつての播州鉄道に起源をもつ北条鉄道、三木鉄道廃線跡、鍛冶屋線廃線跡も、合わせて巡ることが出来た。播磨一円に鉄道網を張り巡らせて、この地域の発展に貢献した私鉄の播州鉄道は、戦時下の私鉄買収政策によって国有化された後、ローカル線として廃線候補に名を連ね、既に廃線として歴史の中で歩みを止めてしまった路線の方が多いが、そんな中、第三セクター鉄道として奮闘している北条鉄道沿線の法華口駅で、駅前野宿の一夜を過ごすことが出来た。
この日は、前夜を過ごした武庫川河川敷から阪急甲陽線を経て六甲山最高峰への急登を越え、神戸電鉄粟生線を巡ったのち、粟生駅から北条鉄道沿線に入った。
秋の日暮れは釣瓶落とし。
駅に到着したのは17時過ぎではあったが、既に丘陵の向こうに日は没し、残照に包まれた法華口駅では、待合室の明かりが灯されていた。
到着時に停車していた客待ちのタクシーが出発した後も、明かりの灯る待合室には人の気配。
駅自体は無人化されているものの、かつての駅務室跡にパン工房が入っており、その工房で働くボランティア駅長目当てに観光客や鉄道ファンが集まる駅でもある。
この旅の前年、乗り鉄の旅で北条鉄道に乗車したことがあったが、その時、車窓に見送った法華口駅には、ボランティア駅長の女性が凛とした姿で立ち、出発する列車から駅が見えなくなるまで、手を振り続けていた。そしてまた、その姿を写真に収めようと、ホームには何人もの男性が、カメラの放列を作っていた。
創業以来の駅舎が残る法華口駅は、かつては、相対式2面2線の交換可能駅で、貨物側線まで備えて賑わった。 「歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道14(朝日新聞出版・2011年)」 に掲載された国鉄時代の古い写真には、タブレット交換で停車する蒸気機関車と駅舎の他、現役で使われていた時代の上り線とホームも写っている。
だが、 「全線全駅鉄道の旅 8(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1982年)」 に掲載された国鉄末期の法華口駅の写真では、気動車が停車する脇の線路は既に剝がされ、雑草が生い茂る上りホームには「守ろう北条線」の看板が見えている。
その後、辛くも廃止バス転換は免れたものの、車両はレールバスに置き換わり、厳しい経営環境は続いている。第三セクターとしての開業当時のレールバスは既に引退しており、現在は、その後継の車両が運用についているが、こうして、車両が更新されているだけでも、奮闘していると言えるかもしれない。
そんな中、無人化から廃止三セク転換と衰退の一途を辿った法華口駅を活性化したボランティア駅長ではあったが、残念ながら2017年10月をもって退任された。それに伴い、駅の利用者も減少傾向がみられるという。観光利用が減少したのであろう。
ただし、駅は、当時の棒線駅から、国鉄時代に戻るかのように、再度、交換可能駅へと変貌を遂げており、こうした前向きな投資が行われるのは、明るい話題でもある。
いずれにせよ、「ちゃり鉄7号」での訪問は、棒線駅時代の姿を記録に留める貴重な機会となった。
駅のホームを散策し、駅名標などを撮影する。
木造の駅舎は開業当初からのもので、プラットホームは2014年4月25日に国の登録有形文化財に指定されている。明かりに照らされた、古びた駅舎の佇まいは、晩秋の暮れ行く空の下、実に好ましい。
そして、この時刻になると、駅に併設して設けられた三重塔もライトアップされ、特徴ある情景となる。この三重塔は、法華口駅の駅名の由来ともなった、法華山一条寺の三重塔のレプリカで、寺院そのものは駅の西方5㎞の山麓にある。
暫くすると、粟生駅方にある踏切の遮断機が下り、警報が鳴り始めた。北条町へ向かう列車がやってきたようだ。
やがてヘッドライトを灯してやってきたのは単行気動車。フラワ2000形と呼ばれる車両で、色違いの3両が在籍している。
ローカル線旅情駅の旅となると、この時刻の単行気動車から駅に降り立つ人が居ないということも多いが、法華口駅は周辺に民家も多く、この気動車からも数人の降車客の姿が見られた。
赤紫から青紫に転じ始めた残照の空を背景に、風格ある木造駅舎と気動車のテールライト。
旅情際立つ瞬間だ。
乗客を降ろすと、気動車はエンジンを唸らせて出発していく。
遠ざかっていく気動車のテールライトをどこまでも見送るうちにも、播州の野辺を包む空の色は鮮やかさを増し、そして深まっていく。
ここは、決して人里離れた僻地の無人駅ではないが、暮れ行く里の旅情駅の風景は、郷愁に満ち溢れていた。
30分程時間が経ち18時前になると、晩秋の空はすっかり暮れていた。
まだ、宵の口ということもあり、付近の道路は行き交う車も少なくはない。畑を隔てた先にはコンビニもあって、僻地の無人駅のような隔絶感はないが、旧線ホーム跡に設けられた遊歩道を歩く人も居らず、駅周辺の空間は、程よい静けさである。
暫くすると、北条町から折り返してきた普通列車のヘッドライトが近づいてきた。
駅のホームには人の姿が見られる。
粟生に向かう列車に乗車するとなれば、粟生から乗り換えて加古川方面に出るのであろうか。粟生は神鉄粟生線、JR加古川線、北条鉄道が混じる交通の要衝ではあるが、街の規模は小さい。或いは、路線内での短距離の利用客が居るのかも居れない。
いずれにせよ、こうして地元の利用客が居るということは、好ましいことである。
列車が出発していくと、束の間の喧騒に包まれていた駅には、再び、静寂が訪れる。
夕刻から宵の口にかけてのこの時間帯。
法華口駅の列車の往来は、上下列車が凡そ30分毎に到着するリズムであった。
18時過ぎの粟生行きを見送ったのち、18時半過ぎには北条町行が到着。その後、19時過ぎには、再び粟生行きが到着する。列車は、早朝の北条町を出発し深夜の北条町に戻るというパターンで、路線内を17往復していて、各方向には毎時1本の運転となっている。これは、ローカル線としては決して少なくないが、第三セクターとしての経営努力の賜物でもある。
以下に示すのは、 「国鉄・JR廃線4000キロ(三宅俊彦・新人物往来社・1999年)」 に掲載されていた北条線廃止直前の時刻表で、「大時刻表(昭和60年3月号)」からの孫引きである。
これを見ると、国鉄廃止当時は13往復で、今よりも4往復少ない。たかが4往復ではあるが、独立した僅か15㎞余りの鉄道として経営していく中で、4往復の増便と言うのは、決して容易なことではない。
そこに、第三セクター鉄道としての経営努力を感じたい。
現在の北条線は単行気動車で捌ける程度の利用者数であり、法華口駅にしても、決して、利用者が多いとは言えない。経営状況は厳しいことには変わりないが、それでも、各列車ごとに、1~2名程度、乗車待ちの利用者の姿が見えたのが嬉しい。
私たち旅人の利用は、所詮は波動利用であって、経営に資する程度は大きくはない。特殊な地域を走る観光鉄道でない限り、やはり、地元の住民に愛され、利用される鉄道でなければ存続は難しい。
18時30分過ぎの北条町行、19時過ぎの粟生行き、それぞれでも、1名ずつ法華口駅からの利用者の姿が見られた。法華口駅から北条町駅方面への利用など、ごく、短距離での利用であるが、地元の足として役立っている証拠でもあろう。
19時過ぎの粟生行きを見送った後、駅の正面口に周ってみた。
この時刻になると、ようやく、人通りも少なくなる。
通勤通学での帰宅者も、そろそろ途切れる時間帯である。
私は駅前野宿でテントの中で寝るが、窓から明かりの漏れる法華口駅舎は、温もりを感じさせる光景だった。
この日は、この後、19時半過ぎの北条町行と20時過ぎの粟生行きを迎えた後、駅前野宿の寝床に帰ることにした。駅に発着する列車は23時過ぎまであるが、明日の朝の出発も早い。21時前には就寝することにする。この日、法華口駅に到着してから駅を行き来したのは、ピンク色の車両だけであった。
かつてのホーム跡付近に設けられた遊歩道は静かで、人がやってくる気配もなく、心地よい一夜を過ごすことが出来た。
さて、ここで、法華口駅の歴史についても、まとめておこう。
駅は、1915年3月3日、播州鉄道の粟生~北条間開通時に設置された。開業当時の駅は、粟生、網引、法華口、長、北条町の各駅で、法華口は開業当初からの由緒ある駅である。
播州鉄道の路線網は、加古川水系の舟運を承継する形で敷設されたため、加古川に寄り添う現在の加古川線を筆頭に、廃止された鍛冶屋線は杉原川、三木鉄道は美嚢川に沿っていた。北条鉄道も例外ではなく、上流では下里川、下流では万願寺川に沿っている。
この法華口駅も舟運に替わる貨物扱いがあり、交換可能な相対式ホームに加えて、貨物ホームの跡が残っている。
播州鉄道は、その後、経営難に見舞われて1923年12月21日播丹鉄道となったのち、1943年6月1日、戦時買収によって他の路線もろとも国有化され北条線となった。播丹鉄道の経営には、東急グループの祖となった五島慶太が副社長として関与している。
播丹鉄道時代には、加古川から4両編成のガソリンカーが出発し、厄神で三木行、粟生で北条町行、野村で鍛冶屋行を切り離すという運転も行われていたのだが、加古川直通の運行ダイヤは国鉄末期まで続いており、先に掲げた時刻表でも、2.5往復が加古川発着となっていた様子が分かる。
しかし、自動車社会の到来とともに沿線地域での自動車化が進むことになり、1962年3月1日には法華口の他、網引、播磨下里、長の各駅での貨物扱いが廃止され、更に下る1981年9月18日には高砂線、三木線とともに、第一次特定地方交通線指定を受けるに至る。鍛冶屋線は第三次特定地方交通線の扱いであったが、JRに承継されたのち、1年余りで廃止が決定され、1990年4月1日に廃止されている。
北条鉄道は、最終的には、1984年5月25日に第三セクター転換が決定し、同10月18日、北条鉄道設立。1985年4月1日をもって、国鉄北条線は廃止され、第三セクター北条鉄道に転換されたのである。同じ第一次特定地方交通線のうち、高砂線はJR化の前に廃止され、北条鉄道と同様に1985年4月1日に第三セクターに転換された三木鉄道は、奮戦むなしく2008年4月1日に全線が廃止された。
今や、かつての播州鉄道の路線は、幹に当たるJR加古川線に、枝に当たる北条鉄道だけが分岐する、老木のような有様だ。
以下に掲げる3枚の旧版地形図は、上から1926年8月30日、1969年8月30日、2000年4月1日発行のもので、それぞれ、播州鉄道時代、国鉄時代、北条鉄道時代に対応し、図中の表示にも、それが現れている。
法華口駅から北条町駅側に一つ進むと播磨下里駅があるが、播州鉄道の開業当時、この駅は集落名を採って、播鉄王子と命名されていた。地図中にも「ばんてつわうじ」と記載されている。その後、播丹鉄道時代もそのままだったが、1943年6月1日の国有化に際して、播磨下里駅に改称されている。
法華口駅に関しては、駅名の変遷はないが、周辺集落に関しては、播鉄時代よりも国鉄時代の方が、若干ではあるが、市街化が進んでいるように見える。そして北条鉄道時代までに、下里川が河川改修を受けて直線的な流路に変更されていることが分かるが、集落の規模はあまり変わらず、点在するため池も変化していない。道路については、年を追うごとに新設や改修工事が進んでいる様子が見て取れる。
続く3枚の空撮画像は、1961年6月6日、1980年10月2日、2009年5月12日の撮影で、国鉄時代から北条鉄道時代のものである。播州鉄道時代の空撮画像があれば、地形図と対比できて面白そうだったが、残念ながら、手に入らなかった。
空撮画像では、街の規模にはあまり変化がなく、60年代から80年代にかけてで、道路網が整備され、河川改修が進んだことが分かるが、80年代以降は、大きな変化は見られない。
駅の所在地は、2021年現在で兵庫県加西市東笠原町沖となっている。
播鉄が駅を設置した当時は、周辺は兵庫県加西郡下里村東笠原であったが、その後、下里村が北条町に取り込まれ、さらに、北条町が加西市に取り込まれ、地名が変遷している。一方、法華口駅の駅名自体は、既に何度か述べたように、西方5㎞程度の山中にある法華山一条寺に由来するもので、所在地周辺の地名の変遷には「我関せず」、初心を貫いている。
ただし、寺院までは5㎞程度も離れていて、「法華口」と言っても入り口駅としての機能は無きに等しい。近年はむしろ、駅北東の鶉野にある鶉野飛行場跡へのアクセス駅として認知され始めている。
鶉野飛行場は、海軍飛行場として訓練基地や特攻隊基地としても利用されていたが、国鉄北条線時代の1945年3月31日には、ここを飛び立った試験飛行中の紫電改が、エンジントラブルによって網引~法華口間に不時着し、その際、北条線の線路を破損した。その直後、付近を通りかかった列車が脱線し、パイロットを含め死者11人、負傷者104人を出す事故が発生した。これは、北条線列車脱線転覆事故として知られるが、戦時中の海軍機による事故だけに、隠蔽され公にはされなかった。手元にある「日本国有鉄道百年史」の中でも、触れられていない。
そんな歴史を秘めた鶉野飛行場跡であるが、近年は、加西市による観光施設整備が進んでおり、加西市地域活性化拠点施設として「soraかさい」という愛称も決定したようだ。こうした動きに伴って、法華口駅から鶉野飛行場跡までのシャトルバスも運行されるようで、それが駅の活性化につながるのであれば、好ましいことではある。
そんな戦時の記憶を今に伝える法華口駅の夜明け前。5時過ぎには起きだして出発の準備に取り掛かる。初冬のこの時期、5時過ぎはまだ、深夜の様相。食事や片づけを終えて6時前になると、ようやく、黒から紺色に、変化し始めた。
この時刻に、北条町からの始発列車がやってくる。
播磨下里方から、朝もやの中を進んでくる気動車のヘッドライトが眩しい。
駅には利用者の姿は無く、網引方の踏切の警報機が、寝覚めぬ街に響く中、始発列車は車内で眠りこけた僅かな乗客を乗せて、出発していった。
この日の出発予定は6時半過ぎ。
先ほどの粟生行きの始発列車が、北条町行の始発列車として引き返してきて、出発するのを見送ってから、「ちゃり鉄7号」も、播磨下里駅に向かって出発する。
6時前には濃紺だった空も、6時半頃には、青紫色に染まっていた。
明かりの灯る駅はまだ眠りの中に居るようで、利用客の姿も見られない。
程なくして、踏切の音が街に響き始める。まだ、踏切待ちをする車もない、夜明け前の街に、粟生で折り返してきた北条町行の始発列車がやってきた。この車両は、昨日目にしたものと同一のピンク色の車両。
この列車も乗客は少なかろうと思いきや、鉄道ファンらしき数名の乗客が、通路に立って前方を眺めているのが見えた。
乗り通しの旅なのか、折り返してきて下車するのかは分からないが、法華口駅での乗降客は現れず、単行の気動車は足早に出発していく。
ディーゼルエンジンを噴かせて走り去っていくテールライトを見送る頃には、6時半前になっていた。
今日はこの後、北条町まで走ったのち、三木鉄道跡に戻ってから鍛冶屋線跡に向かい、最後は篠山線跡を巡って、天王峠を越えて自宅まで戻る行程で、日没後の帰宅になる予定。
日の出の時刻までのんびりしていたかったが、出発を後らせるわけにもいかず、まだ明けやらぬ法華口駅を後にしたのだった。