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青海川駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2023年8月11日 | コンテンツ公開 |
青海川駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
鉄道に対して興味がない人でも海の見える駅には惹かれるらしく、「海に一番近い駅」といった称号を与えられてドライブ中のカップルや女性が訪れたりする駅が全国に幾つかある。
私自身もそういった海が見える駅には旅情を感じることが多く、旅情駅として取り上げたい駅が幾つかあるが、信越本線にある青海川駅もその一つだ。
この海の旅情駅を初めて訪れたのは2001年8月。学生時代最後の夏休みのことだった。
就活のために寝台急行「銀河」で東京入りし、面接を終えた足で学生時代の研究フィールドがあった北アルプス焼岳山麓の研究施設に向かう道中、JR吾妻線の大前駅、JR信越本線の青海川駅、JR氷見線の雨晴駅で野宿をしながら乗り鉄の旅を行ったのだ。
フィルムで写真を撮影していた当時のこと、あまり多くの写真は残してはいなかったが、それでも、念願の訪問だった青海川駅では比較的多くの写真を残しており、駅を通過していく寝台特急「トワイライトエクスプレス」などを撮影していた。
国鉄時代の名残を留める車両や優等列車が運行されていた最後の時代。青海川駅を駆け抜ける名列車を眺める最初で最後の貴重な機会でもあった。
この初めての訪問では夏の夕暮れの青海川駅の姿を堪能することが出来たのだが、天気運に恵まれない私としては、随分運のよいことだったと思う。
降り立った上り線ホームから日本海の方を見やれば、シルエットとなった下り線ホームや駅名標の向こうに、金色に輝く夕日が沈み行こうとしている。
SNSなどなかった時代。
映え狙いの訪問者は一人も居らず、こうした無人駅を訪れるのは私と同じような野宿の旅人が中心だったが、その数は決して多くはなく、旅情駅では静かなひと時を楽しめるのが常だった。
この日も他に訪問者の姿はなく、この素晴らしい風景の中で、一人、駅と対峙することが出来たのだった。
この付近の信越本線は北越鉄道としての敷設当時は今よりも海に近いところを走っており、青海川駅から鯨波駅にかけても、恋人岬の袂を抜ける旧線隧道とそれに続く路盤跡が明瞭に残っている。そしてその路盤跡の一部が旧街道と一体的に遊歩道として整備されており、米山大橋が架橋される前の旧車道に接続している。
この遊歩道を登っていくと青海川駅を俯瞰することが出来るので、カメラを携えてアクセスしてみると、折しも夏の太陽が水平線に沈んで行こうかというタイミングだった。
先ほどまで強く金色に輝いていた太陽が、その明るさを失いながら線香花火の火玉のように真っ赤に燃えて水平線に沈んでいくと、旅情駅には残照のひと時が訪れる。
空の色合いは、紅色から赤紫へ、赤紫から青紫へ、青紫から群青へ、群青から紺色へ、刻一刻と移り変わっていき、いつの間にか誰も居ない構内に明かりが灯る。
このひと時を過ごしたくて駅前野宿で旅情駅を訪れていると言っても過言ではない。
この訪問当時、信越本線の青海川駅を含む区間には、多くの優等列車が運行されており寝台列車も健在だった。それらの長距離優等列車が、夕刻から夜半にかけて次々に青海川駅を通過していくので、駅前野宿の準備や夕食を済ませた後は、再び遊歩道の俯瞰地点に赴き、軌跡となって駆け抜けていく列車の撮影に勤しんだ。
見上げた空にはいつの間にか月が浮かんでおり、米山大橋を照らす橙色の照明や、青海川駅を照らす青白色の照明を前景としつつ、通過列車のヘッドライトが描き出す軌跡も一体となって、印象的な旅情駅の姿を見せてくれた。
青海川駅と言えば青い海を背景にしたホームや駅名標の写真を見かけることが多いが、駅前野宿で訪れた夜の姿もまた、この駅を象徴する佇まいだと感じている。
夜遅くまで撮影に勤しんだ後、駅前野宿の寝床に戻り眠りに就いたのだが、眠ってしまうのが惜しいような勿体ないような、そんな夜だった。
青海川駅の歴史についても、ここで軽くまとめておこう。文献調査を通しての詳細は調査記録にまとめることにする。
「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)」によると、駅の開業は1899(明治32)年7月28日のことで信越本線の前身である北越鉄道時代の事だ。漢字表記は当時から青海川であるが、読み仮名は「あをみがは」で旧版地形図にもその読み仮名で表示されている。
1961年10月1日貨物取扱廃止、1971年12月1日荷物取扱廃止・無人化となっており、幹線に位置する駅の割に無人化は早かった。
その経緯は、この辺りの地誌を紐解いてみると分かる。
柏崎から鉢崎(現・米山)にかけての海岸線は、日本海に面した標高992.5mの独立峰である米山から伸びる山裾が、海食された断崖を形成して日本海に落ち込んでおり、古くは北国街道・米山三里と呼ばれた交通の難所でもあった。
青海川駅自体も谷根川が日本海に流れ出す河口付近に開けた同名集落の小駅であるが、地形図を見ると現在の国道8号線の米山大橋が開通する前の旧車道は、海岸沿いの海食崖から谷根川に沿って谷奥まで迂回しており、そこから谷に沿って河口に向かう枝道沿いに集落が形成される立地。
更に時代を遡った徒歩道となれば、それが既述した北国街道であり、随所に残るその痕跡は海食崖と河口付近の低地との間で登降を繰り返す難路だった。
隣の笠島駅や鯨波駅付近も同様で小集落内の小駅だったのである。
集落人口自体が小規模だったので、この海岸線を縦貫していく鉄道路線の幹線としての機能はさることながら、各駅の貨客需要は決して大きなものではなかったのだろう。
「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1978年)(以下、「ルーツ大辞典」と略記)」による駅名由来の解説は、「古代の豪族、青海族に関連する地名といわれる。青海首(おうみのおびと)は神武天皇の水師提督だった。」とあるが、「角川日本地名大辞典 15 新潟県(角川書店・1989年)」には同種の解説はなくその由来についての記載もなかった。
青海川という地名から集落内を流れる川の名前が青海川なのだろうと考えたのだが、なるほど地形図で調べると谷根川となっており付近に青海川という川は流れていない。むしろ青海から連想する海との繋がりが強い地名だったということになるが、それにしても何故、「青海」に「川」が付いたのだろうか。
なお、青海川駅は現在は柏崎市内に位置するが、同じ新潟県の糸魚川市内には青海駅があり、それぞれ、青海川村、青海村を名乗っていた時期もある。「ルーツ大辞典」によれば、この二つの青海はいずれも青海族や青海首に関連しているようで同根地名と考えられるが、詳細は更なる文献調査を要する。
ただ、その様な交通の難所も鉄道が開通した頃には風光明媚な海岸風景が名勝として取り上げられるようになり、明治期の複数の観光案内書に「福浦八景」という名称で紹介されている。この「福浦」の地名は、現在の国土地理院地形図でも通称・恋人岬の位置に「福浦猩々洞」という海岸洞穴の名称としてその痕跡を留めている。
ここから米山までは10㎞前後の距離があるが、鉄道を利用した場合の米山登山の玄関駅の一つでもある。いずれ米山登山も行って、この旅情駅探訪記にその記録を追加したいと思う。
翌朝は前日の夕日が嘘のように小雨交じりで明けた。青海川駅の名に相応しい青い海は望むべくもなく、真冬を思わせる鈍色の海だったのが残念だ。
それでも、この旅情駅で過ごすことが出来た一夜に満足しながら、乗車予定の列車の到着を待つ。
この当時の青海川駅は旧駅舎が健在だった。
しかし、2007年7月16日に発生した中越沖地震では、青海川駅構内の直江津方で隣接斜面が崩壊し線路や駅施設が埋没した。この復旧工事の際に下り線ホームが移設されるとともに、旧駅舎は取り壊されて現在の駅舎に建て替えられており、質実剛健な造りだった旧駅舎は既にない。
地震発生当時、私は佐渡島から新潟港に戻るフェリーの船上にいた。
船内放送で大規模な地震が発生したことが告げられたが、港湾施設に損傷はなくこのまま新潟港を目指すことや津波の恐れはないことが告知され、ただ事ではないと感じたものだ。
この日は新潟港から北上し岩船から粟島に渡る行程で旅をしていたので道中が心配だったが、被害が大きかったのは中越地方で、下越地方には大きな被害はなかったので、幸いにも旅を続けることが出来た。
後々、青海川駅が被災したことを知った時にはショックを受けたが、駅そのものが廃止されるようなことはなく今日まで存続しているのは嬉しい。
2001年8月の初訪問当時、そんな事件が6年余り後に起ころうとは予想だにせず、青海川の駅の名に相応しい青い海を背景にした駅の姿を眺めたいと思いつつ駅を後にしたのだった。
2022年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
青海川駅の再訪は約20年の時を隔てた2022年1月のことだった。
前回の夏の訪問とは異なり真冬の訪問となったこの時は、冬の日本海の厳しい情景に接するのも一つの目的ではあったのだが、実際にはトラブルが多過ぎて踏んだり蹴ったりの再訪になってしまった。
日の入り前の16時台に青海川駅に到着する計画だったが実際には日没後に到着となった上に、出発も始発列車となったので、明るい時間帯の青海川駅の姿を見ることはほとんど出来ず、単に野宿で駅を利用しただけという形になったのである。
一体どうしてそんなことになったのか。少し前置きが長くなるが、この時に起こったトラブルを予め書いておこう。
この再訪前夜はJR吾妻線の大前駅で過ごした。この時の様子は大前駅の旅情駅探訪記に記したので、そちらも合わせて参照いただきたい。
予定ではそこから上越線に入り、上越国境を往復しながら湯檜曽、土合、土樽の三駅を訪問の上、土樽駅で駅前野宿。その翌日に柏崎経由で夕刻の青海川駅に到着して駅前野宿を行う計画だった。日没前の到着になるように計画していたので、天候にもよるが冬の夕暮れ時の青海川駅と対峙できることを楽しみにしていた。勿論、荒天で夕暮れどころではないことも想定してはいたが、それはそれで、日本海に面した青海川駅らしい情景だ。いずれにせよ、冬の青海川駅の旅情ある夕刻の姿を捉えることが出来るだろう。
しかし、この旅の道中は紀勢本線を周った序盤の紀伊半島でも紀伊田辺や尾鷲で降雪、積雪が見られるような状況で、年末年始の上越線内は大雪での運休が続いていた。
年が明けても引き続き上越線が運休していることは掴んでいたのだが、小海線の佐久広瀬駅での駅前野宿が明けてから碓氷峠をバスで下り高崎経由で吾妻線に入った段階では、翌日の始発からの通常運行がアナウンスされていたので、計画通り上越線に入り大雪の上越国境の旅を楽しめるだろうと思っていた。
大前駅での駅前野宿が明けた早朝もJRの運行情報には上越線の運休情報は出ておらず、安心して吾妻線の始発列車に乗り上越線への乗り換え駅である渋川駅に向かったのだが、渋川駅に到着する前に確認すると、上越線は大雪で終日運休するという情報に書き換わっていた。
私が携行していたのは青春18切符だったので、運行していた上越新幹線に乗って上越国境を越えることは出来ないし、そもそも、上越国境の三駅を訪れたいのに新幹線に乗っては意味がない上に、新潟県側に入れたとしても上越線自体が運休しているのだから、目的の三駅を訪れることが出来ないことには変わりがない。
この時、上越線の大雪運休が長期に渡ることの救済措置として、実際には青春18切符で上越新幹線の上越国境区間に乗車することが出来る特例措置が取られていたようだが、それはWebサイトでは告知されず駅で掲示されていただけだったので私は知る由もなかったし、この救済措置自体、年末に限定されていて年始に入ると打ち切られていた。
元々、上越国境で1泊してから青海川駅に向かう予定だったこともあり、通常運行している磐越西線に入って1泊し、そこから青海川駅に向かう代替ルートも検討したものの、実際には前日の行程を長々と逆行して信越本線、しなの鉄道経由で長野駅に出て、飯山線に向かうことにした。雪に強い飯山線には運休や遅れの情報は出ていなかったし、大雪の情景を楽しむ上では飯山線経由も魅力的だったからだ。
思惑通り長野からの飯山線普通列車は定時に出発したのだが、戸狩野沢温泉駅に到着した段階で接続列車は前触れなく運休となっていた。
到着時に車内放送はなく、駅でも何の告知も無かったのだが、待てど暮らせど乗り継ぎ列車がやってこない。飯山線の運行情報にも定時運行と表示されたままだったので疑問に思って駅の職員に尋ねたところ、折返す予定の対向の普通列車がこの先の西大滝駅で大雪の為に立ち往生して運転打ち切りとなったということをあっさりと告げられたのだった。運転再開の見通しなどは一切不明だと言う。
結局、西大滝駅で立ち往生した列車の乗客がタクシーによる代行輸送で戸狩野沢温泉駅までやって来るのを待って、先ほど乗車してきた普通列車の折返し長野行きで戻るしかなかった。
戸狩野沢温泉の一つ先の上境駅まで行くことが出来れば温泉施設で入浴することも出来たのだが、距離的にも天候的にも歩いてそこまで行くのは難しかったし、戸狩野沢温泉駅の周辺でも思うような野宿場所はない。
長野方面に戻ったところで、しなの鉄道の信越国境も大雪で運休していたので日本海側に抜けることは出来ないし、大糸線に向かったとしても、こちらも南小谷駅以北が大雪で運休しており通り抜けは出来ない。
残る選択肢として、長野駅から長野電鉄の旅を挟んで篠ノ井線の姨捨駅に移動して、そこで駅前野宿するというものがあったのだが、翌日になって新潟県側に抜けられる保証がなく、如何にも気乗りしない選択肢だった。今更ながら、磐越西線に回っていればよかったと思ったが後の祭り。この段階ではそれも無理だった。
結局、飯山駅に到着する直前で、上越妙高駅までの一駅間を新幹線でショートカットした上で本日中に青海川駅に移動する案を思いつき、飯山駅で普通列車を降りることにした。
気乗りはしないものの新幹線の切符を追加購入して列車の到着を待つのだが、乗り継ぎのタイミングが悪く1時間程度の待ち時間となってしまう。
そこからトンネルであっさりと信越国境を越えると、新潟県側は嘘のように雪のない景色が広がっており、代わりに強風が吹き荒れていた。こちら側はむしろ強風による越波で海岸線に沿った路線が運休になる恐れもあったのだが、幸い、青海川駅までの区間は通常運行していたので、ズタズタになったこの一日の最後に青海川駅に降り立つことが出来た。時刻は18時20分を過ぎており、当然、辺りは真っ暗で夕暮れの風景など望むべくもなかったし、真冬のこの日、温泉などの入浴施設にも入りそびれた。
到着した青海川駅は波濤砕ける日本海の轟音と、架線を吹き抜ける強風による風鳴りに包まれ、じっと立っていられないような荒れ模様。強風に飛ばされた潮風が横殴りの雨のように吹き付け、空からは時折吹雪が舞ってくる。それでも辺りに積雪はなく信越国境や飯山線の大雪が嘘のようだった。
このルート変更の決定に際して、新潟県側から上越線に再度アプローチして国境の三駅探訪を果たすことを考えていた。この段階で上越線は翌朝から通常運行の見通しとなっていたからだ。但し、そのためには青海川駅を始発列車で出発する必要がある。
明るい時間帯の青海川駅を見ることが出来ないので、苦肉の策として、上越線の探訪を終えた後、青海川駅経由で市振駅まで戻って駅前野宿とすることにして、途中下車の形で日中の青海川駅を訪れる計画とした。
幸い、青春18切符が使えるこの時期、上越線の普通列車は水上まで延長運転を行っており、ダイヤ通りに走ってくれさえすれば、上越国境の三駅を絶妙な乗り継ぎ時間で巡ることが出来るのである。
市振駅方面に足を延ばすことにすると、直江津から西の区間で青春18切符は使えなくなるが、そこは、えちごトキめき鉄道のフリー切符などを併用することで、追加出費を最低限に抑えながら筒石駅などでの途中下車の旅を楽しむこともできる計画とした。湯檜曽、土合、筒石というトンネル内ホームを持つ駅で途中下車する旅を楽しめる日程をアドリブで組み立てたのである。
それで満足して駅の撮影を行うのだが、風が強すぎて三脚でカメラを固定してもブレた写真ばかりになり上手く撮影が出来ない。潮風が吹き付ける中でレンズには直ぐに水滴が付くし、それが海水混じりなのもあって、撮影を行う条件としては好ましくはなかった。
旧街道の歩道まで歩いて行っても、むしろ、吹き曝しになって吹き抜ける風は強まるばかり。
通過列車の時刻を予想してカメラをセットし吹き曝しで待ち続けるのだが、特急は運転距離が長いこともあり予想時刻よりも遅れてやってくる。諦めかけた頃に唐突に列車が現れ慌ててレリーズを押すものの、結局、長時間露光の最中に風に煽られてカメラがブレてしまい出来上がりは失敗作となる。
吹き曝しで粘ってそんな失敗作を連発した挙句、ようやく、何枚かを思い通りに撮ることが出来たので、風邪をひく前に駅に退散する。
この日はあまりに風が強すぎたので駅前野宿ではなく駅寝とした。
ドライブの訪問者も青春18切符の旅人も居なかったが、深夜にJRの保線作業員が巡回してきたので目が覚める。この夜、青海川駅の待合室には暖房が点いていて風浪だけではなく寒さもしのげたのは有難かった。
翌朝は始発列車で駅を後にするのだが、冬の朝ということもあって6時過ぎになっても辺りはまだ暗かった。風浪は相変わらず吹き荒び天候に回復の兆しはなかったが、6時半を過ぎて空が白んできたタイミングで、もう一度旧街道に足を運び、波濤押し寄せる冬の日本海と青海川駅を写真に収めることが出来た。
その後、列車出発までの合間を利用して、米山大橋のたもとにある諏訪神社にお参りしたのだが、その後、駅に戻るタイミングで一眼レフカメラを道路に落としてしまう。
見た目の損傷はなく一安心したものの、電源を入れてもレンズを認識しない。
調べてみるとレンズとカメラの接点異常が起った際のエラー番号が表示されており、レンズ内部で断線が起っているのが濃厚な状況。修理しないと改善することはない故障だった。実際、レンズの繋ぎ直しや電源の入れ直しを何度行っても、エラーは遂に改善しなかった。
仕方なく予備で携行していたコンデジを取り出したのだが、こちらも元々照度センサーが故障しており、適正露出で写真が撮影できない状態だった。何枚か撮影してみたものの露出オーバーで白飛びした写真しか撮影できず何の役にも立たない。悄然として伴侶にメッセを送ると、「スマホのカメラで撮影を続けたらいいじゃない」と励まされる。最近のスマホはコンデジと同じくらいに画質は向上しているし、私が使っていたモデルはライカのレンズを用いたもので写真の画質を売りにしていた。実際にはデジタル一眼と比較すると明らかに見劣りする写真しか撮影できないものだったが、スマホでの撮影に切り替えて旅を続行することにした。
この後の顛末も少し書いておこう。
朝の段階で上越線は通常運行とアナウンスされていたので、予定通り信越本線の始発列車で長岡駅まで移動し、そこから上越線の水上行き普通列車に乗り継いだ。上越線沿線に入ると次第に降雪が強まってきたのだが、特に遅れを生じたり運休の情報がアナウンスされることなく越後川口駅に到着。飯山線の十日町行き普通列車を横目に見ながら出発を待つ。
ところが出発するはずの列車は駅に停車したまま、先に飯山線の十日町行き普通列車が出発していった。
その後で車内放送が入り、先行している普通列車がこの先で立ち往生している関係で、この列車も出発を見合わせていること、立ち往生の為に対向の普通列車も運転を見合わせていることが告げられる。
結論として、越後川口駅から何処にも行けない状態になったのである。この段階で9時過ぎだった。
上越線は運転再開の見通しが立たず、次の飯山線の普通列車は13時過ぎ。
何故、十日町行きの普通列車が出発する前に上越線の運転見合わせの車内放送をしなかったのかと、苛立ちを覚えつつもどうしようもない状況だった。そのうち、同じ車両に乗り合わせていた若い男性のグループが我慢しきれなくなって車内やホームで騒ぎだして尚更苛立ちが募る。車内に残った若者たちはスキー場でナンパが出来なくなったことをしきりに嘆いている。そんなバカげた会話を聞きながら運転再開を待っていると、越後川口駅周辺は吹雪くどころか晴れ上がってきた。運転見合わせが信じられないような晴れ具合である。
1時間ほど経ってから車掌が車内にやってきて乗客に行先を聞いて回るのだが、私の行先は湯檜曽駅。車掌が聞き返してきたほどで、これは予想外の回答だったに違いない。
結局、2時間ほど経ってから運転再開のアナウンスが流れたのだが、この列車は浦佐で運転打ち切り。そこから先の在来線接続はなく、関東方面、新潟方面共に上越新幹線に乗り継ぐように案内される。昨日の朝と同じで上越新幹線に乗ったところで私は目的を果たすことは出来ない。北越急行も六日町と十日町の間で運休していたので越後湯沢まで新幹線に乗っても無意味だし、既に述べたように年が明けた後も上越線は運休が続いていたにもかかわらず、青春18切符での上越新幹線への便乗乗車の特例措置は年末で打ち切られていた。
勿論、JR側が湯檜曽駅までの代替交通を提案してくるはずもなく、対向の普通列車は運休となったので長岡方面に戻ることも出来ず、残された手段は13時過ぎの飯山線の普通列車に乗る事だけだった。
斯様にして4時間余りを越後川口駅で無為に過ごしたものの、飯山線の戸狩野沢温泉行きはこの日は定時運行していたので、飯山線内を往復して上境駅で途中下車、温泉に立ち寄った後、足滝駅に戻ってそこで野宿としたのだった。この足滝駅の夜は素晴らしい光景が広がり、虚しい一日を慰めてくれた。
だが、私のトラブルはこれでは終わらなかった。
翌朝、上越線は始発から通常運行のアナウンス。夜明け前の出発にはなるが、始発列車で越後川口駅に戻れば上越国境三駅の訪問を果たせそうだし、その後、青海川駅を経て市振方面に抜けることが出来る。ここまで来たら、何としても訪問してやるという、そういう気持ちにもなってきた。この日が上越線普通列車の水上駅延長運行の最終日だったので、最後のチャンスでもあった。
予定通り夜明け前の始発列車で暗いうちに足滝駅を出発。この列車は長岡行きだったので、そのまま乗り通して一旦宮内駅まで行くことにした。
この段階でも上越線は通常運行のアナウンスだったのだが、乗り継ぎの合間を利用して宮内駅の写真を撮影するために駅の外に出ようと切符を探すも見つからない。荷物や衣服のポケットの全てをひっくり返しても青春18切符が出てこない。恐らく、昨夜、足滝駅で下車した際に切符を見せた後、写真撮影の為に一旦ポケットに収めた切符を、手袋の出し入れなどのタイミングで落としてしまったのだ。
悄然として駅員に事情を話し足滝駅まで戻ることを告げるも、駅員は運賃に関しては乗車した列車内で相談してくださいという良く分からない回答。肝心の上越線も午前中運休となり、結局、私の願いは最後の最後まで叶うことはなかった。なお、上越線は結果的に終日運休に切り替わっているのだが、復旧への努力をギリギリまで続けた結果だとしても、こういうアナウンスの出し方に翻弄され続けることになった。
越後川口経由で飯山線に入り足滝駅まで戻ることは出来たのだが、運転士に事情を話して停車時間中に待合室などを確認させてもらうも切符は見つからない。運転士は青春18切符の通用期間が残っているのならばと、運賃不問でここで途中下車して切符を探すことも提案してくれたのだが、仮に途中下車したとしても切符が見つかる保証はないし、次の乗り継ぎ列車は4時間後である。
ここで心の糸がぷっつりと途切れ、旅を中止してこの日のうちに帰宅する決断を下した。
勿論、青春18切符を失った以上、ここから自宅の最寄り駅である福知山駅までの切符は買い直さなければならない。乗車券だけ買い直して途中1泊で戻ることも脳裏をよぎったがそんな気持ちになれず、特急を利用してこの日のうちに帰宅することにした。残り通用期間が3日分あった青春18切符を失った上に、追加で1万円以上の切符を買い直して、その日のうちに虚しく帰宅するのである。
カメラを壊し、切符をなくし、目的駅には行けず、失意のどん底で帰宅することになったが、この日から天候は回復。失意の飯山線の車窓には青空に白銀が映える絶景が広がった。辛うじてその写真をスマホで何枚か撮影する。
上越線はこの翌日から終日平常運転に戻っていたが、私はそのニュースを自宅で確認した。自宅周辺も旅に出発した翌日の朝から記録的な大雪に見舞われて、JRは全方向完全に運休していた。私は前夜発で出発して武田尾駅で野宿をしたので旅を継続できたが、翌朝に出発しようとしていたら、福知山駅からはどの方向も運休していたので、どうにもならなかった。
そんな厳しいタイミングで旅に出たのが間違いとも言えるが、会社の休みを利用して旅に出る以上、直前の天候で日程をスライドさせるのは難しい。
いずれにせよ、帰宅翌日は快晴。絶好の旅日和だった。
こんなトラブルも振り返れば笑い話になる。とは言え、同じことは二度と経験したくはない。
2023年7月(ちゃり鉄20号)
2023年7月。ちゃり鉄20号の旅の帰路で青海川駅を訪れて駅前野宿を行うことが出来た。これが第三訪ということになるが、振り返ると過去二回も含めて毎回野宿を行ってきたことになる。
この時はちゃり鉄20号の旅の帰路でのことなので、自転車そのもので訪れた訳ではなく、青春18切符を使った乗り鉄の旅としての訪問だった。
ちゃり鉄20号の旅は山形・福島・新潟の3県にまたがって幾つかの鉄道路線を巡りつつ、朝日連峰、吾妻連峰、飯豊連峰にも登山する予定での旅だったが、現地入り初日の段階で体調を崩し始めており、猛暑の中で発熱と悪寒を抱え、扁桃炎並みに喉が腫れて水分補給もままならない状態のまま旅を続けるという苦行となった。
結果的に、吾妻連峰と飯豊連峰の登山は中止し、幾つかの探索や周回ルートでの走行も中止するという事態に陥ったのだが、それでも一日当たりの走行距離を100㎞未満に抑えるなどして、ちゃり鉄としての取材対象路線自体は、計画通りに走り切ったのだった。事前の予報と異なり、前夜泊11泊12日の行程で一日も雨に降られなかったのが不幸中の幸いではあった。
青海川駅を訪れたこの日は8日目。災害で運休中のJR米坂線・越後金丸駅から坂町駅までを走り通し、そこでちゃり鉄を終えて青春18切符を使った輪行の乗り鉄旅に切り替え、JR越後線・弥彦線を巡った後で夕暮れの青海川駅に降り立ったのだ。
夏の青海川駅の訪問は2001年以来。海が見える青海川駅はやはり夏に訪れたくなる。
今回は、夕刻から朝までの滞在であるが、これまでお目にかかれなかった「青い海」をバックにした青海川駅の姿と巡り逢えることを期待してきた。天気予報も現地の天気も、それが叶うであろうことを告げていた。
柏崎駅から青海川駅入りしたこの日は、乗ってきた普通列車を見送って程なく、新潟行きの特急「しらゆき」が下り線を駆け抜けていった。上り線ホーム側から下り線ホームを眺めると、夕暮れの日本海をバックに、青海川駅の駅名標が印象的な佇まいで旅人を迎えてくれた。
時刻は18時前。日没時刻を勘案して丁度よいタイミングで青海川駅に降り立つとともに、長らくご無沙汰していた越後線や弥彦線の旅も楽しむ計画を、前夜の越後金丸駅での野宿中に組み立てたのだ。
本来なら、この青海川駅訪問は12日目の夕方の予定で、翌日13日目は富山から高山本線に入り、特急「ひだ」に乗車して大阪経由で福知山に帰る予定だった。しかし、体調不良による登山行程の中止によって大幅に日程を前倒ししてちゃり鉄行程を終了したこともあり、残り期間を青春18切符を使った旅に切り替えるべく、即興で計画を練り直したのである。その効果もあって、青海川駅での駅前野宿の翌日は、前回トラブル続きで挫折した上越線の上越国境の旅を堪能することもできる。
厳しい体調不良が続く中、乗り鉄とは言えど野宿の旅を続けるのは負担ではあったが、自分の体力の限界を見極めながら、旅を継続できたことには満足している。
通過列車を撮影したら諏訪神社を再訪する。
前回、デジタル一眼レフを落とすトラブルに見舞われた神社。同じ失敗を起こさないために、カメラの携行スタイルを大幅に更新してきたし、カメラ本体もEOS kissからEOS 6Dへとアップグレードした。
勿論、今回は落とすこともなく再訪を終えている。
米山大橋の袂に鎮座する諏訪神社の境内から見上げれば、虚空に真っ赤な弧を描く米山大橋が、印象的な姿で迫ってきた。
駅に戻った足で集落外れにある旧街道の西側入り口から海食崖の上まで登ることにした。
ちょうど駅の跨線橋くらいの高さまで登った辺りで、下り普通列車が出発していく場面に遭遇したのでこれを撮影。そのまま遊歩道化された旧街道を登り詰めると酒屋前の一画に躍り出る。
こちら側にアプローチするのは初めてだったが、恋人岬を背景に、手前側には夏草の影に辛うじて駅名標や隧道の坑口が見えていた。
米山駅から鯨波駅に至る区間は、北越鉄道としての開業当時の非電化単線の跡が、現在線に一部吸収されながらも残存している区間で、この青海川駅からも、恋人岬の下を現在線より海に近い位置で潜り抜けていた旧米山第八号隧道の痕跡を眺めることが出来る。旧街道や米山への登山道などを含め、この駅の周辺には広い範囲に渡って現地調査を行いたい課題が沢山あるので、時期を改めて訪れることになるだろう。
米山大橋は歩行者の通行は考慮していないらしく、歩行者通行禁止ではなかったものの路側帯は設けられていない。西側から東側に向けて路肩を示す白線の外側の狭い空間を通過したが、脇を走っていく車の速度も速いので緊張を強いられたし、橋上からはフェンスの網目に遮られて撮影もできなかった。
この米山大橋の東側にはモニュメント的な銘板を設置した小区画があり、そこから青海川駅を安全に俯瞰することが出来る。
この日は、金色に輝く太陽が日本海に煌めきを落とし、念願の美しい夕景が広がっていた。
目を転じて米山大橋の向こうを眺めると、遠く、米山の頂が見えている。
今回はとても踏査するだけの肉体的・精神的な余裕がなかったが、青海川駅から米山薬師と米山駅を結んで青海川駅に戻る三角形は、是非とも歩きたいルートだ。
この俯瞰地点を辞して集落へと降りていく旧車道に入り、100mほどで右下に分岐していく旧街道の歩道に歩を進めると、先ほどとは異なる位置から青海川駅を見下ろすことが出来る。
辿り着いてカメラを構えていると、北に向かう貨物列車が轟音轟かせて駆け抜けていった。
日本海縦貫線と呼ばれた北陸本線、信越本線、羽越本線を通して駆け抜けていく旅客列車は既に無いが、かつてはここを、特急「白鳥」や寝台特急「日本海」が駆け抜けていた。
貨物列車はそうした長距離優等列車の面影を今に伝えていた。
その貨物列車の通過を見送り、どこで日没を眺めようかと思案しながら浜辺まで降りてくると、今まさに、夏の太陽が赤く燃え尽きながら日本海に没しようとするところだった。
ホームには人だかりがして騒ぐ声も聞こえていたのでそちらには近寄らず、浜辺でこの日没の瞬間を眺める。海に沈む夕日も水平線間際で雲に隠れてしまうことが少なくないが、この日は、沈み行く最後の瞬間まで見届けることが出来た。
その様は、線香花火のそれに似て、見るものに感傷を呼び起こして止まない。
日が没した後、青海川駅に戻ることにした。
ホームで騒いでいた若者の集団は居なくなっていたが、私が青海川駅に降り立った時から居た濃色のサングラスをかけた中年男性が、この時間になっても駅前に停めた車の周りをウロウロしていた。
鉄道ファンの中年男性なのだろうと思っているうちに車に乗り込んでエンジンをかけ始めたので、これで駅を立ち去るのかと思いきや、暫くして現れた時にはスカートにかつら着用で女装していた。
この女装した姿のままで下り線ホームで自撮りを始めたので、私は、写真撮影もままならず、彼が立ち去るのを待ち続けることになったのだが、そうこうしているうちに別の若い男性が現れて、こちらも下り線ホームでカメラを三脚に据え、しきりと自撮りを行っている。
SNS映えということなのだろうが、有名な駅ではこうした人物を見かけることが多くなったように思う。
日没直後は橙色の空気に包まれていた青海川駅も、その色が次第に紫味を帯びてくる。
大気は、橙色から赤紫へ、赤紫から青紫へ、青紫から群青へ、群青から紺へと、刻一刻と彩を変えていき、最後はとっぷりと夜の帳に包まれるのであるが、その間に駅の照明が灯り、寂しくもどこか温かみのある情景が広がる。
旅情駅で過ごす至福のひと時。
多くの場合、この残照の時間帯になると夕暮れ時の喧騒が嘘のように静まり返るのだが、駅前野宿で訪れた自分はそれから翌朝にかけての駅と、一人対峙することが出来る。夜を共にした者同士が共有する特別な思いにも似て、駅前野宿で訪れた旅情駅には特別な思い入れを抱くことが多い。
20年ぶりの夏の青海川駅でもそうしたひと時を期待したのだが、残念ながら、ホームで自撮りに勤しむ人の姿が写真に写り込んでしまうので、広角にして目立たないようにしたり、思ったアングルをずらしたりしながら撮影することになった。
それでも駅を包み込む情景全体は期待通りで、体調不良の心身を随分と癒してくれた。
空に残っていた赤みがすっかり消えて、群青から紺色へと大気が転じ始めた頃合いになって、下り普通列車が到着する。19時48分。時刻表通りだ。
この列車に乗って若者が立ち去ったのだが、女装男性は相変わらず下り線ホームの暗がりに居て、サングラス越しにこちらの挙動を追いかけてくる。
その様が気になりながらも、私も下り線ホームに移動して構内の写真を撮影したりしているうちに、女装男性が車に乗り込む気配があった。やれやれ、これで一人静かな時間が訪れると思いきや、待合室に戻った私が見える位置まで車を数m移動させたまま立ち去る気配がない。
暫くは気にせず翌日の行程検討などもしていたのだが、こちらの様子を窺っているのが露骨だったし、その状態で荷物を駅に残して高台から俯瞰写真の撮影を行うのも不用心ではあったので、待合室を出て、敢えてエンジンをかけたまま停車している車に近付くように歩いて行くと、消灯したまま逃げるように走り去っていった。
一体何がしたかったのか分からないが、これで一人になって以降、この夜に駅の付近にやってきたのは釣り人が一名だけだった。
20時18分の普通列車を高台から撮影するためにヘッドライトを携えて旧街道の坂を登る。
俯瞰地点の場所と列車の進行方向を考えると、軌跡写真を撮影するには柏崎方面に向かう下り列車を撮影するのが具合が良いのだが、20時台に下り方向の列車の発着や通過はなく、その後も21時台、22時台に、普通列車の発着があるだけだ。下りの特急「しらゆき」は、私が駅に到着した直後に通過していった7号が最終である。
対する上り方では、特急「しらゆき」8号が21時台に、快速が22時台に青海川駅を通過していくのだが、俯瞰地点からの望遠レンズでの撮影となると、テールライトの軌跡は光量が不足するように思われたし、そもそも、体調が優れない中で21時過ぎまで蚊の襲来に耐えながら草むらで待機している気力・体力が残っていなかった。
結局、20時18分の普通列車の発着を撮影した後は駅に戻り、瀟洒な造りに改築された駅舎を撮影した後、駅前野宿で就寝することにした。
翌朝は5時前には行動を開始した。
夏の夜明は早く、この時刻で既に、ヘッドライトが必要ないくらい明るくなっていた。
駅前野宿の装備を片付け、駅舎の中で荷物の整理を行っていると、早くも来訪者の車がやって来た。
男性が一人降りて駅の方を見に行った後、車に戻ってそのまま動く気配がなかったが、暫くすると数名が降りてきて女性の声もする。「着替えなきゃ」という声もしたので、てっきり、海水浴に来た若者のグループなのかと思いきや、女性2人をモデルにした撮影会を行うグループで、上り線から下り線ホームに跨って、盛大にモデル撮影を始めてしまった。
モデルの女性は下り線の駅名標の辺りでポーズを決めたり、ホームを走ったりしており、それを上り線側から2名の男性が撮影している。
私は撮影を諦めて下り線側の跨線橋の下のベンチに腰かけて、軽食を頬張りながら海を眺めて過ごすことにした。
幸い30分程で彼らは立ち去り、誰も居ない早朝の青海川駅と一人対峙するひと時が訪れたので、その機会を利用して駅の撮影を行うことにした。
空の色彩は、昨日の夕暮れから夜までのフィルムを巻き戻すかのように変化しながら、徐々に明度を増してくるのだが、夕方の変化が感傷的な雰囲気を伴うのに対して、早朝の変化は静謐な雰囲気を伴う。
この時刻に駅に訪問者が居るということも少なく、駅前野宿だからこそ見ることが出来る駅の姿だ。
旅客列車の発着にはまだ少し早い時間帯だが、照明は消えて青海川駅にも朝が訪れる。
5時22分には下り貨物列車が北に向かって駆け抜けていく。時間帯的に往年の名列車・「きたぐに」を思わせる貨物列車だった。
海食崖の下に位置する青海川駅に陽光が差し込むのは案外遅く、6時前になってようやくホームを照らし始める。
出発は7時5分で、長岡方面への始発列車に乗車する。
まだ1時間ほどあるので、駅前通りを谷根川に沿って少し上流に遡ってみると、河口付近の米山大橋とは別の大きな橋梁が谷と青海川集落を跨いでいる。
これは北陸自動車道。
現在の青海川集落はこれら二つの橋梁に見下ろされた独特の景観の中にあるが、勿論、かつては米山三里の険しい海岸を避けた小さな谷間に、身を寄せ合うように家々が立ち並ぶ集落だった。
旧街道は海岸沿いの海食崖を縫って進み、旧車道は谷奥を迂回しながら海食崖と海食崖の間を結んで続いており、谷奥から海に向かって枝道が延びて集落内を貫いていたのだろう。
そんな時代の青海川駅も訪れてみたかった。
駅に戻ると丁度下りの貨物列車が通過していくところだった。
私は貨物列車の運用に詳しくはないのだが、旅客列車の運行時間帯を避けた夜行列車として関西方面から夜通し走ってきたのだろう。
駅に戻ってくると、大きなリュックを抱えたトレッキングスタイルの男性が現れて、三脚を据えながら駅の撮影を始めた。時刻は6時過ぎだが、やはりこの駅は人気があるのか、駅そのものを目的として訪れる人が多いようだ。
しばらくすると中年カップルも現れて記念撮影を始める。
男性の方は「こんな景色に何の興味もない」と文句を言いながら、記念撮影をする女性について回っている。女性の方はそんな男性の不平不満にはお構いなしで撮影を行っていたが、私は暫し撮影中断。
更にもう一人、単独の男性が車でやってきて、駅の撮影を始める。
6時過ぎというのになかなかの賑わいだ。
6時半頃には新潟方面に向かう快速列車が駅を通過していくのだが、不平不満を口にしていた男性が駅名標の前に立っていたので、仕方なくその状態で写真を撮影する。
こういう時は、鉄道ファンではない一般人の方が、案外、周りを顧みない行動をする事が多いように思う。
接近する列車の撮影に夢中になるあまり白線の外側ギリギリに立ち続けて列車を緊急停止させたり、踏切の反対側に居る仲間と合流するために列車が20mほど手前まで接近しているにもかかわらず遮断機を潜り抜けて線路を横切ったり、或いは、ホームから線路内に降りてふざけながら記念撮影をしたり。
そういう場面に何度か遭遇したが、いずれも鉄道ファンではなく単なる通りすがりの一般人だった。
撮影を行っているカメラの前に無遠慮に立ちはだかってみたりするのも、鉄道ファンというよりも一般人の方が多いように思う。
ルールとかマナーとかそういうものを訴えるつもりもないが、そもそも、大して鉄道に興味がない人々にとっては、そんなものが存在すること自体、考慮の対象外なのかもしれない。
それでも7時前になると、再び誰も居なくなった。
乗車予定の列車は7時5分発。
僅かな時間ではあるが、この時間に念願の一枚も撮影することが出来た。
青い海を背景にした青海川駅の駅名標。
架線柱の影が写り込んでしまったものの、私の中の夏の青海川駅のイメージに合う一枚だ。
南東北から福知山に帰るのであれば、このまま日本海に沿って西進していくのが順当なルートではあるが、北陸新幹線の開業によって在来線は寸断され、青春18切符では直江津~金沢間を抜けることが出来ない。旅情ある日本海縦貫線の旅がしにくくなった嘆きはあるが、この日は、前回の訪問で挫折して終わった上越線の上越国境の旅を楽しむこと事にしていた。この様子なら予定通りに旅を楽しむことが出来るだろう。
いずれまた青海川駅を訪れて米山登山も含めた広範囲な現地調査を行う構想を練りながら、定刻通りにやってきた下り始発の普通列車に乗り込んで駅を後にしたのだった。