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金華駅:更新記録
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2024年4月4日 | コンテンツ公開 |
金華駅:旅情駅探訪記
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR石北本線。
JR北海道の鉄道路線の中でも、ひと際、旅情深いこの路線には二つの大きな峠がある。石北峠と常紋峠だ。
いずれも北海道の鉄道建設史を語る上で欠かせない峠であり、タコ労働者の悲惨な歴史を秘めた鉄路であることは、鉄道ファンの間では良く知られた事実であろう。
私が北海道の鉄道路線を始めて旅したのは1997年夏の事だったが、その後「最長片道切符の旅(宮脇俊三・新潮社・1983年)(以下、「最長片道切符」と略記)」などを読んだこともあり、石北本線を旅する時には常紋峠を意識するようになった。
2001年6月には、JR北海道の宗谷本線、石北本線で一気に6駅が同時に廃止となった。
石北本線では石北峠を挟んで上川側の天幕駅、中越駅、遠軽側の奥白滝駅の連続3駅が同時廃止となり、長大な無駅区間が生じることとなったため、日程を何とかやり繰りして、この時期の北海道を訪れたのだが、この旅の中で常紋峠を往復で越える機会があった。車窓を意識して常紋峠を越えたのはこの時が初めてだった。
旅のメインは石北峠前後の3駅での駅前野宿にあったので、その野宿と野宿の間に移動する行程で常紋峠を日帰りで往復しただけではあったが、生田原側も金華側も、キハ40系の気動車はエンジン全開で喘ぎながら登っていた。林道が並行する谷沿いに登っていくのだが、ひたすら曲折を繰り返しながら登り詰めていく峠道は印象に残ったものだ。
峠付近に至ると眼前には峠の稜線が迫ってきて、トンネルの存在を予感させる地形になるとともに、進路右側に信号機が現れた。
程なく前方にトンネルが見えてきて、その傍らには×印の付けられた信号機と「常紋」の接近標識があった。
この旅を行った2001年6月段階では、常紋信号場での交換設備の使用は停止されてはいなかったが、信号機が廃止されている状況を見る限り、事実上、使用停止状態にあったのだろう。
507mの常紋トンネル自体は通過するのもあっという間。越えた先ですぐにスノーシェルターに覆われたポイントを越えて金華駅に向かって下っていく。
私自身はこの信号場でスイッチバックでの退避を体験したことはないし、そういう運用の車両を見たこともない。
だが、1950年代から1970年代にかけては、前後の蒸気機関車の撮影に訪れる利用者の為に、この信号場が仮乗降場となり客扱いをしたというのだから、大らかな時代があったものだと思う。
峠を越えた列車はエンジンの唸りも収まり、軽やかに金華駅に向かって降って行った。
北見駅で折り返し、再び常紋峠を越える。
この日は天幕駅での駅前野宿から中越駅での駅前野宿へとつなぐ一日で、常紋峠を訪れるために北見駅を往復したのだった。
沿線の情報をもう少し知っていたなら、北見駅まで行かずに常紋峠の山麓にある金華駅で折り返していたはずだが、今よりも情報入手が難しかった当時、金華駅についての詳細は知らず車中からも駅の撮影は行っていなかったのが残念だ。
復路の常紋峠でも車窓風景を楽しみ、スイッチバックの信号場手前で信号機の撮影などを行っていた。
金華駅に関する旅情駅探訪記ではあるが、この駅はやはり常紋峠と合わせて取り扱いたい。
そういう事もあって、常紋峠を写真に収めた最初の機会となったこの旅の記録をここに収めることとした。常紋トンネルに関しては、既にいくつかの文献にも記載されている通りだが、それらは文献調査記録としてまとめていくことにしたい。
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
前回の旅から2か月後の2001年8月には、学生時代最後の長旅で、東日本・北日本を3週間ほどかけてじっくりと周ったのだが、その際、JR石北本線も再訪問することが出来た。
まずは、釧網本線で網走に入り、そこから特急オホーツクで一気に札幌まで乗り通す形で石北本線全線に乗車した。その後、札沼線の新十津川駅から函館本線の滝川駅までを歩いて繋ぎ、滝川駅から北見駅まで石北本線に再乗車した。そして、北見駅からちほく高原鉄道で池田駅に抜け、そこから滝川駅までの根室本線に乗車して再度滝川駅に到着。ここから再び石北本線に向かい、当時は廃バスが待合室代わりだった生野駅で野宿。その翌日に金華駅を訪れてから旭川駅に戻り、富良野線に向かうというルートで旅をしていた。
中々に複雑なルートで旅したものだが、このルートが既に、過去のものとなっている現実は寂しい限りだ。
この時は、前回2001年6月の旅では通り越していた金華駅で途中下車すべく、旅程を組んでいた。
残念ながら駅前野宿での訪問とはならなかったが、乗り継ぎの間合いとはいえ、金華駅での途中下車は貴重な時間であった。
駅の雰囲気は当時からほとんど変化がないように見える。
横取り線には保線車両が留置されており、常紋峠周辺の保線作業などは、この金華駅を基地として実施されていたのかもしれない。
構内は変則的な単式2面2線構造で、上り線は上下ホームに接するものの下りホーム側は崩されており、客扱いは行われていなかった。この他、既述のように横取り線があり、この時は、保線車両が留置されていた。
上下ホームの間は上り線を跨ぐ形の構内踏切で結ばれており、それがまた、ローカル色を醸し出すのに一役買っていた。
駅前に出てみる。
駅の正面から国道242号線に出るまでの「駅前通り」には、この当時、多くの廃屋が軒を連ねていた。
ボロボロに朽ち果て、歪み、傾きかけた建物が多く、既に集落は終焉の時を迎えているかに思えたものだ。夏とは言えども薄ら寒い雨天だったこともあって、侘びしい印象が強い。
当時の写真には公衆電話機の看板も写り込んでいる。
そういえばまだ、公衆電話はあちこちに設置されていて、テレフォンカードを使って電話を掛けたりした時代だった。
散策を終えて金華駅に戻る。
この時の滞在時間がどれくらいの長さだったのかは、記録を残しておらずはっきりとは分からない。
ただ、折り返し列車の乗り継ぎ時間を利用しての訪問だったので、それほど長い時間ではなかったようだ。
青春18切符が使える期間であったし、当時は北海道ワイド周遊券もあって道内の鉄道の旅は今よりも格段に選択肢が多かったが、それでも関西から北海道を訪れるというのは学生の私にとって容易なことではなかった。この金華駅でも学生時代には野宿で訪れる機会は得られなかった。
とはいえ、僅かな滞在時間ではあったものの、金華集落が栄えていた時代の面影を捉えた貴重な記録となったように思う。
撮影した写真を見ると、列車の出発間際になってホームに出てきた鉄道ファンらしき2人の姿も捉えていた。当時既に、こういった駅を巡る鉄道趣味というのも、静かな広がりを見せ始めていた。
程なくやってきたキハ54形の普通列車で駅を後にする。いずれまた、この駅で駅前野宿を行ってみたい。そんな思いを抱いていたと思う。
2015年12月~2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2015年12月から2016年1月にかけては、転職の間の有休消化を利用して、久しぶりに長期での鉄道の旅に出ることが出来た。
旅先は北海道。2016年春のダイヤ改正では石北本線で合計4つの駅が廃止されることになっており、かつて白滝シリーズとしてファンを魅了した下白滝、旧白滝、上白滝の3駅と、金華駅が廃止対象となっていた。
JR北海道ではこの前年にも10駅を廃止しており、毎年、多くの駅が消えている。
2016年初頭は、まだ、「ちゃり鉄」の旅を開始する前だったが、近年の北海道の旅では、惜別乗車や惜別訪問が増えているのが残念でならない。
ところで、真冬の北海道を野宿で旅するというのは、一見すると無茶なように思われがちだが、もちろん、きちんとした装備や準備を行っていれば、大きな危険は生じない。とりわけ、この時の野宿の旅は鉄道を利用したもの。日中は鉄道で移動しているし、基本的に野宿場所も鉄道駅の近傍なので、遭難や事故の危険性もなく、寒さ対策さえしっかりできていれば、虫が多くなる夏場よりもむしろ快適だったりもする。
この2015年の旅では金華駅は4度通りかかっているのだが、そのうちの1回は念願の駅前野宿での訪問。そして、それは最初で最後の駅前野宿でもあった。
金華駅訪問の初回は2015年12月。釧網本線から石北本線に乗り継ぎ、常紋峠を越えて今は無き上白滝駅まで向かってそこで駅前野宿をしたのだが、その道中、乗車した普通列車が金華駅で行き違いのため20分程度停車したため、軽く途中下車をすることが出来たのだった。
車内から金華駅の駅名標を撮影した後、時間的に駅前に出るくらいの余裕がありそうだったので、車外に出ることにした。
冬休み期間ということもあってこの日も多くの鉄道ファンが乗車しており、停車中にホームに降り立つ人の姿が途切れることはなかった。
この時期の北海道の列車は、連結器の凍結防止のため、オレンジ色のカバーが被せられているのも特徴で、それは道中の気象の厳しさを物語るものでもあったが、この日は幸いというべきか、気温も0度前後まで上昇しており暖かさを感じるくらいだった。
駅舎の雰囲気も変わらないのが嬉しい。
こうした木造駅舎は全国的に見ても貴重な存在となっており、多くの木造駅舎が老朽化を理由に取り壊され、駅舎とは言えないような待合所に置き換えられてしまう。合理化の観点ではそれも必要なのだろうが、合理化によって諸問題が解決しているのかというと、必ずしもそういう訳ではないのが難しいところだ。
余裕があったので駅前通りの方にも出てみる。
ガチガチに凍結した地面は根雪に覆われ、翌春まで土が見えることはなさそうだが、この日は暖かく日差しも降り注いでいたので、表面は少しずつ溶けだしている気配もあった。
国道側の一画には煙突から煙が立ち昇る民家もあって、この集落が廃集落になったわけではないことを示してはいたが、既に集落の新陳代謝は停止しており、現住世帯が消えた後は、信号場だけが残ることになるのだろうか。
それは一つの鉄道会社や地方自治体だけではどうすることもできない全国共通の課題ではあるものの、その解決に向けた施策が功を奏している地域は殆どなく、むしろ、一極集中が加速しつつも、国土全体は衰退しつつあるというのが現実なのだろう。
振り返って駅舎の方を眺めると、創業以来の姿を今に伝えるいぶし銀の姿が、束の間の陽光を浴びてホッと一息ついている、そんな印象を受けた。
ホームに戻って程なく、常紋峠を越えてきた対向の普通列車が下り線に入線してきた。
上り列車の乗客は皆、列車の到着シーンを撮影しようとカメラを向けている。
金華駅最後の冬。
この駅の鉄道シーンを記録に残しておきたいという気持ちは、私も一緒だった。
入れ違いで上り普通列車が出発する。
この当時は後部の運転台側から写真を撮影できたので、去り行く駅の姿を撮影していた。
下り普通列車からも早速鉄道ファンが降り立ち、駅の撮影を行っているようだった。
常紋信号場への金華側の登路は熊の沢川に沿う谷沿いの道で、西日が射しこまず日陰になっていた。
見覚えのある信号機を過ぎてスノーシェルターに突っ込み、その中でポイント部分を通り過ぎていくのだが、スイッチバックの引込み線の線路は、一部残されたままの状態だった。
引き続き常紋トンネルに入り生田原側の八重沢の谷に出る。
坑口はあっという間に遠ざかっていくが、速度制限の標識が掲げられているのが目に入った。
訪問二度目は上白滝駅から旧白滝駅へと駅前野宿を繋ぐ行程でのことであった。この日も金華駅での停車中に車外に出て写真撮影を行っているが、撮影枚数が少なく、行き違い列車も撮影していなかったので、数分間の単純な停車時間だったのかもしれない。
その後、常紋峠を越える地点では、車内から信号場の信号機や切り替えポイント地点を撮影。
石北本線内の駅で駅前野宿をしようとすると、列車の運行の都合などもあって線内で往復することも少なくない。特に白滝駅周辺の駅を訪れる際にはその傾向が強く、北見側まで足を伸ばした場合は、普通列車で明るいうちに網走まで往復することが難しいダイヤだったため、北見周辺の駅で引き返すことが多かった。
この日は留辺蘂駅で途中下車して駅から少し離れたポン湯三光荘を訪れた後、北見駅で引き返して、東相内駅で途中下車を楽しんでいた。
その後、遠軽駅から下白滝駅での途中下車を経て旧白滝駅に降り立ち、大晦日の夜を過ごしたのだった。
この旅での第三訪は駅前野宿。2016年1月1日の事だった。
到着は20時過ぎで下り普通列車の最終便で降り立つ。もっと早くに到着したい気持ちもあったが、この日は旧白滝駅を出発した後、一旦石北峠の西側まで足を伸ばし、当麻駅や愛山駅、中愛別駅を訪れてから金華駅に戻ってきた。
一駅手前の生田原駅では駅の近傍にあるホテル・ノースキングの温泉と食堂を利用し、一人、新年の旅路を祝う。真冬の北海道の旅だけに、野宿の前に温泉に入って温まっても、すぐに体の芯まで冷えるのだが、それでも温泉に入れるのとは入れないのとでは大違いで、生田原駅前のノースキングは貴重な存在である。
この生田原駅では上下の普通列車が行違う。先に上り普通列車が到着し、遅れて下り普通列車がやって来るというダイヤになっていたのだが、この上り普通列車は一足先に金華駅を出発してきた上りの最終列車で、この日、金華駅から常紋峠を越えて生田原駅に降って来る列車はこれが最後だ。
少し遅れてやってきた下り普通列車に乗車して常紋峠を越える。既に真っ暗で外の景色は見えないが、エンジン音の唸りが響き、トンネルを抜け、ポイントを越えて、降りに転じる一連の変化は車内にいても明確に感じ取ることが出来た。
金華駅には20時27分頃に到着。この日、この時刻に、駅を訪れる者は居ない。
鉄道ファンが大勢この地域に入ってきていたものの、この季節に野宿で旅をする人は極めて少なく、また、レンタカーで周ろうという人も知れている。
車での来訪者が居るかと思っていたが、そんな気配もなく、金華駅の周辺はひっそりと静まり返っていた。
撮影した駅名標には水蒸気が凍り付き、霧氷のように煌めいている。
ここ数日見てきたように、廃止の報道がなされたこともあり、日中の金華駅は結構な賑わいだった。それは、踏み固められたホーム上の雪からも感じ取れる。
この時刻になると、昼間に緩んだ雪が再び固く締まっていく。
登山靴を着用していたが、踏みしめる足元で「ググッ、ググッ」といった感じのくぐもった音を出しながら、雪が固まっていくのが感じ取れる。
私が乗車してきた普通列車は金華駅を出発する下りの最終列車であるが、同時に、一日の最終列車でもある。こうしたタイミングでは時折、運転士からご心配のお声がけをいただくことがあるが、この時は特にそういう事もなく、あっさりと駅に降り立ったように思う。
身なり風体を見れば、野宿の旅人だとすぐに分かるのだろう。近年はそういう旅人の姿も少なくなったように思うが、お互いに出会うことがないだけで、道内各地にそれなりの数の野宿旅行者が居ただろうということは想像が付くし、実際、駅ノートなどにそういう野宿旅行者の書き込みを見かけることも少なくない。
この日は既に食事も済ませてきているし、この後、駅に停車する列車もないので、すぐに野宿の準備を済ませる。
携行していた寝袋はマイナス30度仕様のISUKAのデナリだったので、寒さが厳しくとも寝袋の中に入れば、ほとんど寒気を感じることはなかった。尤も、露出部分は漏れなく痛いくらいの寒気にさらされるので、すっぽりと寝袋の中に入り込んでしまうのだが、呼気が漏れ出ていく部分は凍結しているのが常だった。
学生時代から使っているISUKAのニルギリはマイナス15度仕様。
この寝袋を用いて2月の北海道でスリーシーズンテントでの野宿をしたことがあったが、マイナス29度まで冷え込んだ一夜は、全身を襲う痛みに耐えながらの苦しい夜となったし、寒冷地用のOD缶のガスコンロでも暖を取るには不十分だった。夜中に寝袋にくるまった顔に冷たいものが吹きかかる気配を感じて、驚いて目を覚ましたら、自分の呼気がテントの内壁に届く前に凍結して、パラパラと顔に降りかかってきているのだった。
そんなこともあって、この旅に備えてデナリを新調するとともに、コンロもガソリン燃料のSOTO MUKAストーブに切り替え、エアライズは冬用外張りを携行していたため、寒さ対策は十分だった。
しかし、列車待ちの為にホームに佇んでいる時間は、そういう「寝床」とは違って、衣服の隅々に寒気が進入してくる。
もちろん、それに備えた着衣を身に付けてはいたが、じっとしていると体の節々が痛み出すので、歩いたりスクワットをしたりしながら、最終の特急「オホーツク」の通過を待つ。
通過は21時40分過ぎ。
駅に降り立ってから1時間強の待ち時間。寒さとの戦いはあったものの、最初で最後の駅前野宿の一夜は印象的。かつてはこの駅も夜行列車が通過していたのだが、それも遠い時代の出来事となり、この特急の通過を待って駅は眠りにつく。
光陰となって走り去る特急「オホーツク」を見送り、最後の名残で駅前に出てみると、晴れ渡った空に瞬く星々が、金華駅の最後の冬を見守っていた。
放射冷却での厳しい冷え込みを予想しながら寝袋に逃げ込み、名残惜しさを噛み締めながら眠りについたのだった。
さて、ここで金華駅の歴史について、簡単に振り返っておこう。詳細は文献調査にまとめることとする。
駅の開業は「停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)(以下、「停車場事典」と略記)」によると1914年10月5日。「奔無加(ぽんむか)」駅としての開業であった。
所在地名は官報等の記載によって「北見国常呂郡野付牛村大字野付牛村」とされている。ただし、同書では「官報・法令全書の「野付牛村」が誤り」という注記がある。この注記が大字野付牛村を指すのか常呂郡野付牛村を指すのかが分からないが、「角川日本地名大辞典 1 北海道(角川書店・1987年)(以下、「地名辞典」と略記)」や「留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)(以下、「旧町史」と略記)」の記載も照らし合わせてみると、「常呂郡野付牛村大字生顔常村」というのが正解ということになる。「生顔常」は難読地名だが「もいこつねい」と読む。詳細は文献調査で記載しよう。
「停車場事典」の記載によると一般駅としての開業であったが、この路線は当時、湧別軽便線という国有の軽便線として開業している。
「日本国有鉄道百年史 6(日本国有鉄道・1972年)(以下、「国鉄百年史6」と略記)」によると、この湧別軽便線というのは1910(明治43)年法律第57号で施行された「軽便鉄道法」を根拠として敷設された国有鉄道路線で、「軽便」の名の通り、留辺蘂~社名淵(現・遠軽)間は762㎜の軌間となっていた。これが1067㎜に改軌されたのは同書によると1916(大正5)年11月7日のことである。
したがって、金華駅は奔無加駅として開業してからの2年余りを、軽便鉄道の駅として過ごしたことになる。
以下に引用するのは「湧別線建設概要(鉄道院・1916年)(以下、「建設概要」と略記)」に掲載された開業当時の金華駅の貴重な写真である。その注釈に「四邊鬱蒼タル森林ニシテ木材ノ産出夥シ」とあるように、駅の敷地周辺に大量の木材が積み上げられている様子が往時の繁栄を物語る。ホームの一番奥に見えるのが駅舎であろう。
引用図:奔無加停車場
「湧別線建設概要(鉄道院・1916年)」
このような殷賑を極めた金華駅ではあるが、1975年12月25日には貨物扱いを廃止、1983年1月10日には荷物扱いを廃止しており、その頃既に衰退が加速していたことが窺い知れる。
奔無加駅から金華駅への改称は1951年7月20日の事であったが、駅名の変遷は周辺地名の変遷とは一致しない。
「地名辞典」や「旧町史」の記述によってこの変遷を辿ると、まず、1915(大正4)年4月1日に生顔常村から無華村が分村している。この分村の背景については「旧町史」に以下の記載がある。
先に引用した「建設概要」に掲載されていた奔無加駅の活況は、この当時の町の発展の様を良く表しているが、民間事業者による林業は早くも大正10年代初頭には衰退の兆しを見せていたことが分かる。
一方、記載されたとおり、無華村の発展に伴い、その中心市街地である留辺蘂の名を取って留辺蘂町への町制移行の請願が出され、1921(大正10)年6月15日を以て留辺蘂町が誕生している。
町制施行と林業の衰退は同時であったものの、その後、道路改良工事の実施を転機として1926(大正15)年頃には、再び戸数が2千を越える発展を遂げたことが「旧町史」には記載されている。
ここまでの記述では「金華」という地名が登場していないのだが、それについては「新留辺蘂町史(留辺蘂町・1985年)(以下、「新町史」と略記)」に記載がある。
詳細は文献調査にまとめることとするが、「新町史」では行政区の変遷についてまとめている。その中で、1915(大正4)年の無華村分村当時、行政上は「ポンムカ部落」という呼称で金華地区が区分されていたことや、他に13の部落があり、合計14部落で構成されていたことが記されている。
開業当時の駅名が「奔無加」であったことは既に述べた通りだが、先に掲げた1916(大正5)年発行の「建設概要」所収の駅写真のキャプション中の所在地名表記も「無華村」となっており、1914(大正3)年の開業当時の「生顔常村」から1915(大正4)年に「無華村」が分村した歴史的な変遷と食い違う点はない。
しかし、無華村分村当時の14部落では行政上不便を生じたことから、まずは18部落に細分化されており、その際、「ポンムカ部落」は「上奔無華部落」、「奔無華部落」の二つに細分化されている。
この後、1925(大正14)年7月17日の町会で部落規則の一部改正案が提出され、部落名称から「部落」の呼称が除かれ、「上奔無華」、「奔無華」に改められたのだという。
この地区名称に再度変更が加わるのは1940(昭和15)年1月1日の事で、道庁が土地整理のため字名の呼称変更を行った為である。
この際に「上奔無華と東無華二区の一部」が「金華」という地区名に変更され、これを受けて同年4月開催の第三回町議会で区設置規定改正の審議が行われ、行政区を細分化して同年5月1日から施行することが決定したのだという。この行政区の細分化によって「金華」地区には第一区から第三区までの行政区が設けられている。
先に「停車場事典」の記述を引いて「奔無加駅」から「金華駅」への改称が1951(昭和26)年7月20日であったことを述べたが、こうして「新・旧町史」の記述を引いて考証してみると、駅名の変遷は周辺地名の変遷と一致していないことが分かるのである。
例えば、1915年の無華村分村に際して「奔無加」は「奔無華」と変更されていないし、「金華」の字名が誕生した1940年から「金華駅」への改称までは11年余りの年月を経ている。
この辺りは鉄道の管理主体が国であったことも影響しているだろう。周辺地名と駅名がずれている事例は「金華駅」に限ったことではない。
地名の変遷を辿ったところで、駅名は周辺地名に由来していることが分かったのだが、それでは、地名そのものはどういう謂れがあるのだろう。詳細は文献調査の課題として、ここでは簡単にまとめておこう。
まずは「金華駅」の元々の駅名である「奔無加」であるが、これは「ポン・ムカ」と分解できる。
「ポン」は「小さな」といった意味合いで、北海道では比較的多くみられる地名だ。例えば「ポントー」で「小さな沼(「トー」は「沼」を意味する)」や「ポントマリ」で「小さな入江」を意味したりする。漢字表記では「奔」の他に、「本」を充てていることも多く「本別」や「本幌別」などがある。「別」は「川」を意味する「ベツ」に対する当て字なので、「本別」や「本幌別」は「小さな川」を意味することになる。
なお北海道東部・厚岸付近の北太平洋シーサイドライン沿いには「浦雲泊」という地名があるが、これは「ポントマリ」。この付近には難読地名が多いことで知られているが、「奔泊」ならいざ知らず「浦雲泊」で「ポントマリ」とはちょっと読めない。
意味が明快になっている「ポン」に対して「ムカ」は不明瞭である。ここでは「地名辞典」や「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)(以下、「北海道の地名」と略記)」に記載された「無華村」や「無加川」の説明を引用してみる。
「北海道の地名」で「語義ははっきりしない」とあるように、この2つの書籍の解説は、いずれも、明快とは言い難くこじつけ感もあるが、道なき原野を自由に行き来していたアイヌの人々にとって、川の氷結は重要な出来事だったはずで、それを「ムカ」という言葉を用いて表現していたのかもしれない。
地名考証においては伝統的にこの解釈が引用されているようであるが、「永田地名解」というのは「北海道蝦夷語地名解」の事を指していて、永田方正が編纂者だったのである。
これとは別に無加川源流域にある「無華山(1759m)」の山名由来に関しては「新日本山岳誌(日本山岳会・ナカニシヤ出版・2005年)」に以下のような記述がある。
こちらでは水が滲みだすところという意味で「ムカ」を解釈する説をとっているが、「地名辞典」や「北海道の地名」の中の「イトムカ」の解説に、この説は記されていない。
「ポンムカ」というアイヌ語の音に、駅名としては「奔無加」が当てられ、その後、地区名としては「奔無華」となった経緯については調査が進んでいない。ただ、同じ「カ」の音を表す地名として「加」を「華」に変更したのは、美称的な理由によるのではないかと思う。
続いて「金華」の由来であるが、これについては「地名辞典」に以下の解説がある。
なお、「北海道駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)(以下、「駅名起源」と略記)」では以下のような解説となっている。
「駅名起源」の記述では昭和26年7月14日の駅名変更に際し、周辺の金鉱の存在や、「加」と「華」という同音漢字を用いて駅名を「金華」に変更したという説明になっているが、既に述べてきたように、この段階で周辺地名は「奔無加」から「奔無華」を経て「金華」に変更されており、駅名は周辺地名の変遷に合わせる形での後付けの変更だった。
以下には1939年7月発行の旧版地形図、1977年10月4日撮影、1948年5月7日撮影の旧版空撮画像を並べてみる。それぞれの図には2024年3月31日現在の国土地理院のオンライン地図を重ね合わせてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。
旧版地形図をみると「奔無加」駅時代の様子が分かるが、この時代、常紋峠に向かう線路沿いには道がなく、金華集落西の里道脇には学校記号がある。これは、金華小学校を表しているのだが既に廃校となっていて校舎は現存しない。この学校跡は2022年の「ちゃり鉄17号」で訪れているので、その探訪記で述べることにする。
空撮画像では小学校の敷地が道路脇の空き地のように写り込んでいる。小学校跡は高台にあるので、道路からは見ることが出来ず、結構な段数の階段を登らなければいけない。現在の国道242号線は、1948年の空撮画像では未開通だが1977年の空撮画像になると写り込んでいる。
また、市街地の西南西に白く大きな裸地があるが、これが「金華」の地区名の由来ともなった鴻之舞金山金華支山の位置かと思われる。
この鉱山についての詳細は未調査なので、別途文献調査を実施したい。
以下には、駅周辺の空撮画像の拡大図を掲載する。
1948年の写真には興味深い点が幾つかある。
まず、駅前通りを出た西側山腹に金華小学校の校舎が見える。現在の国道に当たる道路は当時は姿がなく、か細い旧道が山麓を走っている。
この他、駅の周辺には大量の物資が積み上げられているようにも見えるがこれは木材であろう。少し古い時代の情報になるが、「北海道鐵道各驛要覽(札幌鉄道局・北海道山岳会・1923年)」によると、この書籍の発刊当時で市街地の人口は50世帯225人、愛媛団体が入植した上金華で23世帯135人。乗車人員は1921(大正10)年度で5584人、発送貨物は4221tで、うち木材が3173t。到着貨物は97tと記載されている。
また、停車中の長編成の列車の姿も見える。かつての石北本線にはこれだけの長さの列車が運行されていたのかと思うと隔世の感があるが、こうした列車が木材も輸送していたに違いない。
1977年の写真になると、小学校の建物は姿を消している。詳細は別途記載するが、小学校の閉校は1977年3月31日のことであるから、半年経たぬうちに校舎は取り壊されたということなのだろうか。
市街地の建物はむしろ少し増えているようにも見えるが、1970年代から1980年代にかけて進んだ小学校の閉校や貨物・荷物輸送の廃止という事実が示すように、この時代には既に地区の衰退は加速していた。
やや長い寄り道となったが、最後に「新・旧町史」及び、「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)(以下、「日本の駅」と略記)」掲載の金華駅舎の写真を掲載しておこう。
引用図:金華駅
(留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)」
引用図:石北本線・金華駅
「日本の駅(鉄道ジャーナル社・1972年)」
引用図:金華駅
(新留辺蘂町史(留辺蘂町・1985年)」
写真には撮影日時の情報は含まれていないので時系列が分からないが、形状の微細な変化を追いかけると、概ね、発刊年度の古さが撮影時期の古さを反映していると見てよいだろう。
なお、「日本の駅」の情報によると、駅は1934(昭和9)年10月に一部改築がなされたとあるが、撮影時期を考えると、これらいずれの写真もその改築後の駅舎の姿を捉えたものということになるだろう。
さて、旅に戻ることにしよう。
翌朝は予想通り厳しい冷え込みの中で明けた。そらは晴れ渡っており印象的な黎明ブルーの大気が辺りを包んでいる。
駅舎も周辺施設も「キーン」と音鳴りしそうな冷え込みの中でじっと夜明けを待っている雰囲気。明かりの灯る駅施設はまだ眠りの中に居た。
このひと時の駅の姿と対峙したくて駅前野宿の旅を続けているが、真冬の北海道の朝の冷え込みは厳しく、写真撮影を行うために薄手の手袋にしていることもあって指先が痛む。
利用者が居ないということは分かってはいるが、こういう駅でも始発列車の到着前に除雪作業員がやってきて駅の周辺の除雪を行ったりすることがある。その邪魔にならないように野宿装備を手早く撤収しているうちに、辺りは白々と明けてくる。
出発までの間合い時間を利用して駅前通りを国道まで歩いてみると、国道分岐地点付近に「金華停車場線」の町道名称の表示板があった。
この町道名は金華駅が廃止された後も残ることだろう。
そしてこの位置から駅舎方向を眺めると、駅前通りの突き当りに駅があって、道の両側には民家が建ち並んでいた往時の様子が、何となく想像できるのだった。
駅に戻って程なく消灯。
金華駅にも朝がやってきた。
駅舎の周辺から辺りを眺めてみると、煙の立ち昇る民家が数軒ある。この厳しい寒さの中でも、住民の方はいつもと変わらぬ朝の支度を始めているのだろう。
昨夜は暗くなってからの到着だったので、駅周辺を探索する時間もなかったのだが、出発までの間合い時間を利用して駅周辺をブラブラと散策してみる。
駅の近傍には幾つかの明瞭な踏み跡があったので、そのうちの一つを辿ってみると上り線脇のポイント付近に達した。
この旅の期間中、金華駅では常駐する保線作業員は見かけなかったものの、山間部の駅を中心に幾つかの駅では除雪作業員が常駐して除雪作業に当たるとともに、その作業員を募集するポスターなども見かけた。
北海道の鉄道経営に関しては他の地域とは異なる厳しい条件があり、昨今の路線廃止や駅廃止の動きに関しても、単純に鉄道会社の経営姿勢を批判できない事情がある。
ぬくぬくとしたところから安易な批判を繰り広げる前に、こうした厳しい路線維持の作業に従事してみるのもよいだろう。もしかしたら、北の大地の鉄道経営の在り方について、全く違う視点が開けてくるかもしれない。
散策を終えて駅に戻る。
この駅の旅客動線は、朝~午前中が北見方面、午後から夜が遠軽方面という動きになるが、常紋峠を越える日常の移動は殆どなく、それは廃止間際まで北見方面と金華駅とを結ぶ、当駅折り返しの普通列車が運行されていたことでも分かる。
実際には通学需要のある西留辺蘂駅までの乗客を乗せた普通列車が、折り返しの為に金華駅までやってきて、ここから北見方面に引き返していくという事情があってのことだが、信号場としての機能を兼ね備えた金華駅は、地味ではあるものの運行上の要衝ではあった。
始発列車は7時22分発。
実際には2分ほど遅れて7時24分頃にやってきた。
この列車は遠軽駅を出発して網走駅まで足を伸ばす普通列車だ。対する遠軽方面への始発列車は特別快速「きたみ」で9時42分発。
私は始発列車で一旦北見市街地の方に出た後、愛し野駅などでの途中下車を楽しんでから、特別快速「きたみ」に乗車して旭川方面に抜け、この年末年始の旅での石北本線周遊を終える。尤も旅自体は続き、この日は留萌本線に入る予定だった。
後ほど、四度目の金華駅停車でこの駅を訪れるとはいえ、その際には途中下車は出来ず車内から駅を見送ることになる。
最初で最後の駅前野宿は、年末年始という真冬のこととなったが、厳しい寒気の中でも、長年の風雪に耐えてきたいぶし銀の駅舎は、旅人を静かに見守ってくれた。
この次、この地域を訪れる時は、もうここに「金華駅」は存在しない。
そのことに寂しさは尽きないものの、凛とした駅の佇まいを記録に収めることが出来て良かった。
そんな思いを胸に、古豪となったキハ40系の普通列車に乗り込み、金華駅を後にしたのだった。
金華駅を出た後は、一旦、愛し野駅まで進み、そこで途中下車をした。
そして、北見行きの普通列車で北見駅まで引き返したのち、特別快速「きたみ」に乗車して旭川方面に抜ける。
この列車では運転席に立ち前面展望を楽しみながら旭川まで向かったのだが、もちろん、途中で金華駅に停車し、常紋信号場を通過した。
金華駅には鉄道ファンが待ち構えていて、到着する特別快速「きたみ」を撮影していた。
これが、金華駅の現役時代の姿を眺めた最後の機会。
名残惜しい気持ちを胸に金華駅を出発し、常紋峠を越えて旭川に向かったのだった。
JR石北本線・金華駅。
旅を終えて約2か月後の2016年3月26日。利用者の減少を理由に駅は廃止され、金華信号場となった。
2022年6月(ちゃり鉄17号)
2022年5月から6月にかけては「ちゃり鉄17号」の旅で、JR函館本線・石北本線・釧網本線の3路線を一気に走り抜けた。ルートは函館から網走経由の釧路行き。青函連絡船が現役だった時代の道内の長距離特急の走行ルートをなぞるような、長途の旅路であった。
旅の期間を通して道内には低温情報が出る気象条件。
道民が「こんなに寒いのは珍しい」というくらいの低温と曇雨天が続き、「ちゃり鉄」の旅も苦しいものになったが、道内の鉄道路線や駅の廃止の勢いは凄まじく、こうした長距離の「ちゃり鉄号」を走らせて、廃止前に何とか各駅の訪問をしておきたかったのだ。
この旅の後半で金華駅も再訪することが出来た。
もちろん、駅は既になく、実際には金華信号場の訪問ということになるが、信号場として存続したことが幸いして、駅舎などは取り壊されることなく、往時の駅の雰囲気を残していたのが嬉しい。
この旅では「ちゃり鉄」の機動性を生かして、これまでの「乗り鉄」の旅では実現しなかった、上金華地区や常紋信号場の訪問も果たすことが出来た。
前夜を奥白滝駅跡付近にある白滝高原キャンプ場で過ごした私は、早朝にキャンプ場を出発。この日の目的地である温根湯温泉を目指す道中の終盤で、金華駅を通過することになった。
白滝高原キャンプ場はこのシーズンの開業2日後ということもあって、広い場内に居たのはソロのオートキャンパーが二人だけ。夜遅くになって、そのうちの一人の連れらしき男性が一人加わったが、私も含めて合計4名という状況だった。
異常に寒冷な気象条件に加えて北見峠付近ではみぞれ交じりの冷たい雨に降られたこともあり、キャンプ場に到着した時は疲労困憊。
このキャンプ場の目玉は、自分で薪を割ってお湯を沸かすところから始める五右衛門風呂だったのだが、沸かすのに手間取って実際に入浴できたのは到着から2時間経過した後だった。
そんな思い出の白滝高原キャンプ場を出た翌日も天候不順の影響は続いていて、厳しい寒さの中での旅路となった。
この旅では生田原駅から金華信号場に向かって国道の峠を越える。
峠の名称は金華峠で、鉄道の常紋峠とは名称が異なる。
よく調べてみると石北本線の常紋峠に沿った林道も道は繋がっていて、自転車で越えることが出来るようだったが、計画段階では確実なことが分からなかったため、この時は、国道で峠を越えた。
峠を降ってすぐのところに上金華林道の分岐地点があり、そこに、この地に入植した愛媛団体の関係者の手による記念碑と、馬頭観音が建てられている。
この上金華林道の奥に上金華地区があり、上金華小学校や部落神社もあったのだが、この日は異常に寒冷な気象だったことと、予定よりも少し遅れていたこともあって、記念碑を撮影するだけにして素通りすることにした。
更に峠を降ると「常紋方面←入口」と書いた標識が路肩にあり、未舗装の林道が奥に延びている。
これが常紋信号場に続く林道で、ここに関しては予定通り信号場まで往復することにする。
連日の悪天候もあって路面状況が心配されたが、信号場跡の施設の維持管理の為に車両が進入することもあるためか、路面状況は比較的よく、25分ほどで常紋信号場跡にたどり着くことが出来た。
信号場手前付近では、林道右の斜面下にスイッチバックの引込み線や信号機が残っており、規模の大きな信号場だったことが窺い知れるものの、既に灌木に覆われ始めており、痕跡は不明瞭になりつつある。
周辺は無人地帯でヒグマ出没の注意標識も立てられている。
私自身は仕事でヒグマに関わったことがあるし、知床山系や日高山系などでテント泊山行の経験もあるが、やはり、ヒグマの気配が強い場所に単身で滞在するのは緊張感を伴う。
異常個体でなければ人の気配を察知したヒグマの方が退避していくものなので、こういう無人地帯に分け入る時には大きな声で「ホイ!ホーイ!」と叫びながら、とにかく、ニアミスを避けるように対策を取る。
学生時代以来、何度も越えてきた峠ではあるが、実際に自分の足で辿り着いたのは今回が初めて。
その感慨に浸りながらも長居するには好ましくない場所でもあったので、素早く探索を済ませることにする。
スイッチバックだった常紋信号場の切り替えポイントは、遠隔管理の導入に伴う無人化などにより雪覆いで守られるようになり、信号場としての機能が廃止された今日に至っても、その施設が残され、維持されている。
その雪覆いの脇には古くからの信号場の管理詰所の建物も残っており、常時使われていることはないにせよ、保線作業の時などには、作業員の休憩場所として使われていそうな雰囲気だった。勿論、建物は施錠されており、中の様子を伺い知ることはできない。
雪覆いの中に進んでみると、やがて本線が見えてきて、生田原側の出口に隣接して常紋トンネルの坑口が姿を見せていた。その隣にはスイッチバックの引込み線跡が伸びている。
配線は金華側の引込み線が2線、生田原側の引込み線が1本だったようである。
以下に示すのは「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」に掲載された常紋信号場の平面図であるが、図面右側が金華側、図面左側が生田原側で、それぞれの引込み線の本数が図面に示されている。
引用図:石北本線・常紋信号場
「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
この信号場や常紋トンネルに関する詳細は、既に多くの文献に記されているので、私がここで改めて紹介するまでもないが、幾つかピックアップして情報を整理したい。
まず、常紋信号場そのものは「停車場事典」の記述によると、1914(大正3)年10月5日に、湧別軽便線の留辺蘂~下生田原(現・安国)間開業に伴って、「常紋信号所」として開業した。
その後、1922(大正11)年4月1日に常紋信号場となり、1951年4月1日頃から局設定の仮乗降場として旅客の取り扱いを開始。1975年7月1日頃まで続いたようだ。
また、信号場のCTC化に伴う無人化は「鉄道公報第9956号(昭和58年1月10日)」によると、1984年のことだという。
なお、「常紋」は常呂郡と紋別郡の郡界に位置することから付けられた名前である。
以下には、この常紋信号場付近の旧版地形図や旧版空撮画像を、2024年3月31日現在の国土地理院地形図と重ね合わせて表示する。これらの図も切り替え可能である。
旧版地形図をみると、この常紋信号場付近には幾つかの建物記号が見えるが、周辺に道は存在せず、鉄道が唯一の交通手段となる隔絶した場所だったことが分かる。
旧版空撮画像では1948年5月7日の段階で既に付近に未舗装の道が現れているが、この時代の常紋信号場には雪覆いの設備はなく、周辺には職員官舎と思われるような建物も複数建っているのが分かる。
1977年9月23日の撮影の空撮画像と比較すると、建物の数や位置に変化が見られ、1977年の方が施設規模が縮小しているように見受けられるが、いずれも雪覆いの設備は伴っていない。
無人化が1984年だったことを照らし合わせれば、無人化による冬季のポイント障害を防ぐために、ポイント全体を覆うような形で雪覆いが設置されたということが分かるだろう。
常紋信号場やその周辺を撮影した写真は数多いが、以下にはそのうちの数枚を引用する。
引用図:常紋信號所
「湧別線建設概要(鉄道院・1916年)」
引用図:石北本線・常紋信号場
「別冊時刻表Ⅱ列車大カタログ(日本交通公社・1977年)」
信号場そのものを扱ったものとして、2冊の書籍からの写真を引用した。
「建設概要」に掲載された開業当時の常紋信号場の写真では、金華駅の開業当時と同様に、多くの木材が積み上げられている。
この信号場から木材の搬出があったのかどうかは未調査ではあるものの、その物量から考えて鉄道施設の建設用資材とも思えず、やはり、貨物としての積み出しがあったのだろう。
また、「別冊時刻表Ⅱ列車大カタログ(日本交通公社・1977年)」に収められた写真は、常紋トンネルを出た急行「大雪」がタブレットを授受するシーンを撮影したもので、簡易なホームが設けられている様子や、タブレット授受の為に駅員が待機している様子などが分かり興味深い。
仮乗降時代の乗降施設がどういうものだったのかは分からないが、この簡易なホームは乗降の用途にも利用されていたものなのだろうか。
続いて以下に示すのは、「建設概要」に掲載された常紋トンネルの生田原側坑口の写真と、「新・旧町史」に掲載された「歓和地蔵尊」の写真である。
引用図:常紋隧道
「湧別線建設概要(鉄道院・1916年)」
引用図:常紋に建立された地蔵尊
(留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)」
引用図:歓和地蔵尊
(新留辺蘂町史(留辺蘂町・1985年)」
常紋トンネルがどういう歴史を秘めたトンネルだったのかは、ここで敢えて述べるまでもないことではあるし、文献調査にしっかりとまとめたいと思うのだが、タコ労働の犠牲の上に成り立つものだったことはやはり触れておきたい。
ここでは原点となった前掲の「最長片道切符」の記述を引くことにしよう。少し長いが、前後の区間の描写も含めて以下に引用する。
宮脇俊三の沿線風景の描写はシンプルで簡潔なことが多いのだが、ここでは随分と念を込めて記述しており、それだけ、氏の常紋トンネルに対する思いが強いものだったように感じる。
私自身も、学生時代は「乗り潰し」のような鉄道趣味に興味が向いていたが、こういう鉄道史を知るようになって、少しずつ、沿線探訪に対する思いが深まってきた。
鉄道や道路の建設史には、こうしたタコ部屋労働や囚人、外国人捕虜の強制労働の歴史はつきもので、目の前の「素晴らしい」と感じる風景の中に、そういった過去が秘められているということは決して少なくない。
石北本線に関しては、この常紋峠前後の他、石北峠前後の建設でも、同じような歴史が秘められている。
それは飛行機で降り立ち、レンタカーで観光地を回るスタイルの北海道旅行にとっては無縁で必要のない歴史なのかもしれないが、「ちゃり鉄」の旅としてはしっかりと目を向けていきたいものである。
「新・旧町史」に掲載された「歓和地蔵尊」は、この常紋信号場の一画にある。
鉄道建設の過酷な現場で斃れた名もなき労働者達の無念を弔うために、後世の人々によって設置されたのだが、信号場が廃止になり、金華駅も廃止になり、路線そのものの存在意義すら問われるようになった今日、訪れる者はほとんど居ない。
私自身も、林道から線路を挟んだ向こう側にある地蔵尊にたどり着く道が分からず、お参りは断念したのだが、次に峠を訪れる際には、十分な準備を行った上で、お参りしたいと思っている。
この常紋トンネルに関しては、宮脇俊三が引用した「常紋トンネル(小池喜孝・朝日新聞社・1977年)」なども入手しているので、「新・旧町史」の記載なども含めて、別途、文献調査にまとめたいと思う。
常紋信号場を辞しして金華駅に向かう。
林道下にはスイッチバックの引込み線がしばらく続いているが、やがてそれも絶え、気が付くと、本線が随分低い位置を並行しているのが目に入った。
林道から国道に戻り、奔無加川沿いの低地を進むと、やがて小さな集落が見えてきた。
金華集落である。
国道から町道金華停車場線を左に入れば金華信号場にたどり着くのだが、今回は、先に、右手の山腹にある長い階段に取りつく。
登った先にあるのは「金華小学校跡」の記念碑と「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」である。
この「金華小学校跡」や「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」については、「新・旧町史」の記載を引用する形で簡単にまとめておこう。なお、「新町史」の記述によると、金華小学校は「昭和五十二年三月留辺蘂小学校に統合」されて廃校となっている。
常紋トンネルに関する詳細はここでは踏み込まないが、金華駅の「旅情」はこれらの鉄道史とは無縁ではない。この史実を怪綺談として煽り立てるのではなく、また、都合良く見て見ぬふりをするのでもなく、あるがままに受け止めたい。
なお、「旧町史」にはこの「金華小学校」の往時の写真も掲載されている。貴重なものなのでここで引用しておきたい。
引用図:金華小学校
(留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)」
雪が積もっているようにも見えるので季節的には冬場の撮影であろうか。
木造校舎の脇には遊具のブランコがあり、手前に見える踏み台は、恐らく朝礼台なのだろう。
廃校となってから既に半世紀近くが経過しており、現地には建物の痕跡などは残ってはいないが、末期の金華小学校に通った世代は、現在、50代半ばくらい。
機会があれば、当時の学校や集落の様子などを伺いたいものだ。
敷地を辞して懐かしい金華駅前通りに戻ってきた。
前回の訪問から6年余り。
駅は既に廃止されているものの、信号場としての機能は今も残っており、作業員詰所として駅舎も残っていたのが嬉しい。本来なら「信号場」と表記すべきではあるが、この探訪記のなかでは便宜的に「駅」という表記を用いることにしたい。
今回は自転車での訪問ということもあり、駅の周辺集落もこれまでよりは広く探索できる。
ただ、この日は異常に寒冷な気象条件だったことや温根湯温泉までの距離が残っていたこともあり、探索は駅舎周辺に限り、これまで撮影していなかった側線部分や、駅前から南北に伸びている未舗装の通りの撮影を行うだけにした。
駅舎のホーム側はさすがにホームが削り取られており、かつて存在した下り線ホームも姿を消していたものの、駅舎自体は殆ど手が加えられておらず、旅客用の待合室の出入り口が封鎖されているだけであった。
この後、西留辺蘂駅までを「ちゃり鉄」として走行。
そこで「途中下車」して温根湯温泉に至り、温泉街外れの公園の東屋で野宿としたのだった。
翌朝は温根湯温泉の出発時刻を繰り上げて温根湯温泉を出発し、金華駅周辺の探索と、昨日スルーした上金華地区の探索を行うことにした。
本来であれば西留辺蘂駅から先に進むところだったのだが、やはり上金華地区をスルーしたことが気がかりであったし、金華地区も十分に探索できなかったのが物足りなかったのだ。
幸い、この迂回はそれほど後半行程を圧迫しなかったので、この日も天候不順で薄ら寒い霧雨の天候だったが、この地区を追加調査することが出来た。
最初に訪れたのは金華神社。
ただ、この神社の名称については金華神社が正しいのかどうかが分からない。
というのも「旧町史」では「神社名 玉甲神社 区名 金華三区(信徒十四戸) 祭神 天照皇太神 例大祭 四月二十二日 総代 星 三造」とあり、「新町史」では「昭和五十九年四月現在」として「神社名 山上神社 区名 金華 祭神 大山の神 例大祭 十月十二日 総代 菊池 武男」とあるからだ。
この探訪記では便宜上、「金華神社」と呼ぶことにするが、町史の記載自体にも食い違いがあるので、この辺は更に調査を実施したい。
いずれにせよ、地区を見下ろす高台の位置に神社があるのは確かだが、この神社は既に廃社となっているらしく近年になって人が訪れた痕跡は見当たらなかった。
北見地方は比較的積雪が少ないこともあって、拝殿は腐朽が進んでいるものの倒壊などは免れていた。
しかし、境内を取り巻く石垣などは相当に苔むしており、近くにあった鳥居は既に傾き数年のうちには倒れてしまいそうな状況だった。
この鳥居をくぐって山際に進むと草むらの中に古い階段があった。神社の参道である。
参道からは眼下に金華集落を見下ろすことが出来る。
今では数世帯のみの集落となってしまったが、かつては林業を中心としてそれなりの数の住民が居り、この神社の一角に神を祀って生活の安堵を願ったのだろう。
参道を国道脇まで降って来ると、確かに道路脇から参道があることに気が付くのだが、その場所を知らずに国道を走っていても、この参道は見落としてしまうかもしれない。それくらい、参道の痕跡は薄くなり土砂や草むらに埋もれていた。
ここからは一旦金華集落を離れ、昨日スルーしてきた上金華地区に足を伸ばす。
多少、金華峠を遡る必要はあるが、幸い、道路の傾斜が緩く登りに苦労することはない。
金華峠から上金華林道の入り口までは15分ほど。昨日、写真を撮っただけでスルーした「愛媛団体入植記念碑」の碑文も撮影していく。
碑文の内容は以下のとおりである。
この記念碑から自転車で5分ほど林道を奥に分け入ると、林道脇の笹薮の中に「上金華小学校跡」の記念碑があった。裏に回ると簡単な沿革が刻み込まれている。
辺りは林床を笹に覆われた植林地が一面に広がっており、開拓の時代から今なお林業との結びつきが強い地帯ではあるものの、既に定住者は居らず、かつての定住者の痕跡もまた野に帰していて、簡単には見つけることが出来ない。
林道を少し戻ったところからは上金華原野が一望できるが、この原野の一画にあるはずの社の姿も見通すことは出来ず、笹薮や下草は霧雨に濡れていたこともあって、原野に分け入っての調査は断念した。
林道自体は森林施業で頻繁に使われているらしく、路面状況は良好だったので、また機会を改めて訪問し、奥地探索を行ってみたいと思う。
なお、ここでは「新・旧町史」に掲載された上金華地区に関する情報や、旧版地形図、旧版空撮画像の比較などを加えておくことにする。
上金華地区に関しては「新・旧町史」に以下のような記載がある。本文を掲載写真共に引用する。
引用図:上金華小学校
(留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)」
引用図:俵長官愛媛団体員を激励する
「留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)」
引用図:愛媛団体員幹部(大正五年)(中央団体長宮田仲太郎)
「留辺蘂町史(留辺蘂町・1964年)」
引用図:愛媛県団体入植記念碑
「新留辺蘂町史(留辺蘂町・1985年)」
新旧の地形図や空撮画像の比較は以下に示す。
旧版地形図には現在の国道の道型は無く、上金華林道の位置に里道の表示があり、その里道沿いや少し南側を流れる奔無加川に沿って、幾つかの建物記号が見えている。
これらが愛媛団体の入植者の家屋ということになろう。
詳細版の空撮画像では1970年代に至るまで林道脇に建物が残っていた様子が撮影されている。
確証はないのだが、GPSのログと対比させると現在の上金華小学校跡付近になるので、この建物は上金華小学校跡の建物で、廃校から30年余り後の1970年台初頭まで残っていたのではないだろうか。
上金華地区の探索を終えて金華駅付近に戻る。
これまでは国道側と町道金華停車場線との間を行き来してきたが、今回は、金華集落の北側から南側にかけて、線路沿いに伸びる未舗装路を辿ってみた。
北側には現住の民家はなく点在する民家はいずれも廃屋。ただ、無住となってから30年と経っていないように思える民家も残っていた。もしかしたら、学生時代の訪問当時には、こちらにも居住者が居たのかもしれない。
南側も基本的には廃屋だけであるが、こちらの一画の建物は、旧版の空撮画像にも同じような位置に建物があり、何らかの宿舎跡や作業場跡のようにも見える。
そして更に進んだ突き当りまで行くと、ナンバーを付けた車が2台ほど駐車してあった。この一画には現住の方が居られるのかもしれないが、訪問時には人の生活の気配はなかった。
程なく、列車のエンジン音が聞こえてきたので民家脇に進んでみると、タイミングよく、下りの普通列車がやってきた。ヘッドライトを消灯し停車しているので、ここで交換列車を待つらしい。
数年前までは客扱いしていたのだと思うと、折角、駅施設があるのに勿体ないようにも思うが、それは逆で、駅として営業する方がコスト面で無駄ということになってしまうのだろう。
実際、地域の住民にしても駅を利用することはないのだから仕方ないとは思うが、こうした風景が当たり前になっていくのには寂しさを禁じ得ない。
しばらくしてやってきたのは特急「オホーツク」だった。
この当時はキハ183系の末期で、キハ40系の普通列車と行違う風景も、既に過去帳入りしている。
貴重な交換風景にタイミングよく出会えたのも、この日、日程を変更して、金華駅や上金華部落を訪れたことへの、ささやかなプレゼントだったのかもしれない。
交換の風景を撮影した後、普通列車の出発に合わせて「ちゃり鉄17号」も、この日の目的地である西女満別駅に向かって先に進むことにした。
最後に、金華集落に関しても「新・旧町史」の記述を引いてまとめておこう。金華小学校に関する記述は既に引用したので、ここでは集落に関する記述などを引用する。
「新町史」には鴻之舞金山金華支山の事務所・社宅跡の記念碑の写真が掲載されている。
私は「ちゃり鉄17号」での訪問当時、この記念碑を発見していなかったのだが、かつてオホーツク海沿岸の紋別から鴻之舞金山に伸びていた鴻紋軌道の鉄道線の探訪と合わせてこの金華地区周辺にあった小鉱山の痕跡を辿る旅も行い、記念碑も見つけたいと思う。
引用図:鴻之舞金山金華支山事務所・社宅跡
「新留辺蘂町史(留辺蘂町・1985年)」