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打井川駅:旅情駅探訪記
初訪問 ~1999年3月(ぶらり乗り鉄一人旅)~
学生時代、所属していた部活動の合宿で、毎年春になると高知県に出掛けていた。
今は無き大阪高知特急フェリーに乗船して四国を往復することが多かったが、学生時代の後半は、青春18きっぷを携えて合宿の行き帰りに四国内を少し旅することにしていた。
1999年の合宿明けは四国全土を3日程かけて周ったのだが、その際、JR予土線にも初めて乗車し、この打井川駅で駅前野宿の一夜を過ごした。
この時はいわゆるインスタントカメラしか持っておらず、日没~早朝の滞在となった駅の写真は2枚しか撮影できなかった。その2枚も写真としてはまともなものにならなかったのだが、四万十川の向かいに僅かな民家が見られれるだけの無人駅の姿は印象に残るものだった。
旅の行程は以下のような計画であった。
合宿が明けて解散してから、須崎、窪川と乗り継ぎ、土佐大正まで進む。途中、家地川駅と打井川駅の周辺環境を見極めて、どちらで駅前野宿をするのかを決めた上で、土佐大正から引き返す。
まだ、インターネット環境も今ほど充実しておらず、旅のプランニングは道路地図に頼っていた時代。地図から当たりを付けて候補を幾つか設けて、実際に旅をしながら、どこで駅前野宿をするかを決めるというのが自分のスタイルだった。そして、車窓に眺めた打井川駅を野宿地に決定したのだった。
窪川駅から乗車した単行気動車には、同じ部活の後輩の男女が乗り合わせていた。一つ下の後輩女子と、二つ下の後輩男子。一つ下の後輩女子は私と同学年の男子部員と交際していたはずだが、「どうして、二人で旅しているの?」という詮索は無用。全ては目の前にある通り。お互い気まずく話しかける雰囲気でもない。
土佐大正駅で下車する際、後輩女子は「みんなには内緒にしててね」と一言。二人はそのまま先に進んでいったが、こういう時、男の方はだらしなくて、女の方が堂々としている。ジャニーズ系のイケメン男子は、終始、知らん顔していたが、それから数か月後には、マネージャーの別の女子部員と付き合い始めていた。
それはさておき。
私が土佐大正駅で途中下車したのは、当時携行していた道路地図で駅の近くに温泉記号があったからである。ひと風呂浴びてから打井川駅まで引き返し、駅前野宿するという理想のパターンで旅する予定だった。
だが、実際に駅に降り立ってみても、地図が示した場所に温泉はなく、どこにあるのかも分からなかった。地図の記号の位置が間違っていたようである。
結局、温泉は諦めて、代わりに、打井川駅までの一駅を歩いて移動することにしたのだが、この区間はJRの営業キロでも6.9㎞。蛇行する四万十川に沿った国道だと、8㎞以上の距離がある。歩いて行くには距離があるのだが、案の定、予想以上に時間がかかる。もちろん、大正の市街地を出た後の道中に商店や食堂もなく、夕食も食べそこなった。
暗がりの国道を歩き続け、20時を過ぎてようやく駅に到着。国道から対岸彼方に、駅の明かりを見つけた時には、ほっと安堵したものだった。
携行していたお菓子で侘しい夕食を済ませたら、散歩する余裕もなくすぐに就寝。そして、翌朝は始発で出発。駅の滞在時間は僅かだったし、あまり、その雰囲気を楽しむことも出来なかったが、四国西部を初めて旅した中で、打井川駅は印象に残る駅となった。
再訪問 ~2016年5月(ぶらり乗り鉄一人旅)~
そんな打井川駅を再訪したのは、17年後の2016年5月のことだった。
この年の7月には「ちゃり鉄」の旅とWebサイトの運営を始めたのだが、5月の旅は、それを目前に控えての「乗り鉄」の旅で、四国の鉄道、全路線に乗車した。
この旅の中で、予土線は二度乗り通しているのだが、その一度目は、窪川から松丸まで進んで駅の温泉に入り、そこから引き返して打井川に戻って駅前野宿。翌日、宇和島に抜けるという行程で、二度目は、窪川からホビートレインに乗車して宇和島に抜けるという行程だった。前者と後者の間隔は4日である。
同じ方向に二度も走り抜けたのは、予讃線の新旧両路線や、土佐くろしお鉄道の宿毛駅往復と、予土線の乗り継ぎダイヤとの兼ね合いだったのだが、その分、予土線の旅を堪能することが出来た。
打井川駅での駅前野宿の日。
この日の予土線は、終日強い雨に見舞われていた。窪川から松丸までの道中も、松丸から打井川までの道中も、車窓に叩きつけるような雨が降り、駅前野宿に不安が募る。
日が暮れてから降り立った打井川駅でも、相変わらず強い雨が降り続く中、窪川行の単行気動車を見送りホームの上屋に逃げ込む。時刻は19時20分頃。日の長いゴールデンウィークだったにも関わらず、雨のせいか、既に、辺りは濃紺の宵闇に包まれていた。
雨が降り続く中、ホームの上で写真を撮影する。
打井川駅は1面1線の棒線駅で、写真を撮影することが出来るアングルも限られているのだが、雨に濡れたホームに、駅の明かりが反射して煌めく様は、侘しいながらも絵になる光景だった。
窪川方、宇和島方、それぞれに移動したりしながら、ズームを変えて、何枚も写真を撮影する。
時折、対岸の国道を行く車のライトが明滅する。それも僅かな交通量で、駅の周辺には民家もなく、ひっそりと静まり返っている。
今夜、ここで下りる客は居らず、乗る客も居ないだろう。
それにしてもこの雨。今夜の駅前野宿をどうするか思案に暮れる。
17年前の駅前野宿の時、どこでどういう風に寝たのか記憶がない。
ホームの上屋で寝るわけにもいかないし、ましてこの雨である。屋根があるとは言え、ベンチまで濡れている。他の場所を探したいが、雨が強すぎてホームから離れることも出来ずにいた。
しかし、到着してから30分程が経ち、20時前になると、ようやく小康状態になり、そのまま降り止んだ。駅があるなら駐輪場などもある可能性が高く、ホームから見えない下の道路沿いに、それらが設置されているかもしれない。
対岸には僅かばかりの民家があり、もしかしたら、その集落内に雨をしのげる場所があるかもしれない。
そんなことを考えてホームを辞し、階段を下って道路に出る。
ホームから窪川方に見えていた打井川橋に向かって歩くと、50mほどで、思った通り駐輪場が見つかった。
小さいながらも小綺麗な駐輪場は、比較的新しいものらしく造りもしっかりしていた。幸い、土砂降りの雨の中でも、周りの木々に守られて床面は乾いていた。自転車は1台も駐輪されていなかったので、利用者の邪魔になることもないだろうし、今夜の駅前野宿はここと決めて、早速、テントを設置した。
旅先の「我が家」を確保し、ほっと人心地ついた後、雨上がりの打井川駅周辺を散策してみる。
打井川橋から駅を眺めると、暗闇の中に、そこだけは、明るく浮かび上がっていた。
17年前。土佐大正駅から徒歩で到着した打井川駅は、確か、こんな風に真っ暗な山峡に浮かび上がっていたはずだ。それを見つけた時の安堵感をぼんやりと思い出す。薄暗い国道を歩き続け、遠くに、目的地の駅の明かりを見つけた時の気持ちは、恐らく、そういう旅をした経験が無ければ分からない。
ただ、夜の駅の写真だけを見たら、「こんな不気味なところで寝るなんて」と思うかもしれないが、真っ暗な山の中で、遠くに灯火を見つけた時と同じく、真っ暗な中で駅の明かりを見つけた時、ホッとした気持ちになるのは事実である。そして、いつの間にか、そういう場所で一夜を過ごすことが、無上の喜びとなった。
今夜もまた、雨を避けられる屋根付きの寝床を提供してくれた駅の姿。
明かりが灯る駅の姿は、一人旅の孤独にそっと寄り添ってくれる。
到着時にはまだ、微かに青さを留めていた空も、この時刻になると真っ暗になっていた。
この日は、20時20分頃に窪川行の普通列車が到着する。そして、それが打井川駅に発着する最終列車でもある。
打井川駅は窪川駅から3駅目ではあるが、元々、この付近と窪川との間に日常的な旅客の往来は無く、列車ダイヤは、朝に土佐大正・江川崎方面に出発し、夕方に窪川方面に戻る動線で作成されている。その為、窪川から宇和島方面に向かう列車は打井川駅では19時過ぎが最終で、自分が乗ってきた普通列車とは土佐大正駅ですれ違っていたようだ。
雨が上がった後のホームに戻ると、まだ濡れてはいたが、水たまりは消えていた。
しばらくホームに佇んでいると、遠くの暗闇に単行気動車の走行音が響きだした。姿は見えなくても、「タタンタタン。タタンタタン」という一定のリズムから、それが単行気動車だという事が分かる。
程なく、ヘッドライトのきらめきをレールに落として、窪川行の最終列車がやってきた。
列車内に乗客の姿は無く、勿論、打井川駅から乗り込む乗客も居ない。それでも、列車は律儀にドアを開閉し、自動再生の音声が、「整理券をお取りください」と虚空に向かって案内をしている。
やがて、エンジンを噴かせて最終列車は出発していく。遠ざかる走行音は、しばらく山峡に響いていたが、やがてそれも聞こえなくなる。
ポツンと、独り残る駅のホーム。
明かりの灯る駅の孤影に、自分の姿が重なる。
さて、そろそろ我が家に帰ることにしよう。
ホームに登る階段を下りて、夜の駅舎の姿をもう一度撮影した後、駐輪場の屋根の下に張った我が家に帰り寝袋に潜り込んだ。駅前の県道55号線を通る車は一台もなかった。
改めて、打井川駅の歴史について振り返ってみたい。
駅の開業は1974年3月1日。旅情駅としてはかなり歴史の浅い駅であるが、開業当初からの無人駅であり、1面1線の棒線駅という構造も変わらない。
予土線そのものは、前身の私鉄である宇和島鉄道による最初の区間開業が1914年10月18日まで遡る。そして、それから40年近く経た1953年3月26日に江川崎まで延伸し、窪川まで結ばれたのは、更に20年以上を経た1974年3月1日。
つまり、打井川駅は予土線の最後の開通区間に設置された新設駅なのである。
全通まで60年もかかった予土線は、その工期の長さが暗示するように当初から赤字路線だったのだが、その建設史については文献調査記録でまとめることにする。
駅の所在地は高知県高岡郡四万十町打井川。駅名は地名に拠っている。
「JR・第三セクター 全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」では、「大正町の南部を流れる打井川は、四万十川の支流である。この川沿いに口打井川、中打井川、奥打井川といった小集落がある。ウツは「狭い谷」のことで、打井川とは「狭い谷川、渓谷」の意だという」との記載がある。
「角川日本地名大辞典 39 高知県(角川出版・1986年)」で更に調べてみると、打井川は「仁井田川(四万十川)に合流する打井川の流域と合流地点の対岸に位置する。山間地域。地名のウツは狭い谷を意味するところから(地名の語源)、狭い谷川の意と思われる」とあり、織豊期から明治22年にかけては、宇津井川村という村名が存在していたことを記している。
近年、この打井川駅は、「海洋堂ホビー館」の最寄り駅として知られるようになり、予土線にも「海洋堂ホビートレイン」が観光列車として走るようになった。この「海洋堂ホビー館」は、2004(平成16)年3月で休校となった旧打井川小学校の跡地を利用した観光施設で、小学校の設置自体は1897(明治30)年のことである。
四万十川を挟んで打井川駅の対岸にある小集落が口打井川で、打井川に沿って遡った所に、中打井川、奥打井川といった集落が存在しているが、これらの集落も含めて、大字の打井川は大正町域に含まれており、駅の鉄道ダイヤに関して既に述べたように、窪川方面よりも大正方面と結びついた地域であった。
以下には、この打井川駅周辺の地形図や空撮画像の新旧対比図を掲載する。図は、それぞれ、切り替え可能である。
新旧地形図を対比しても、打井川駅周辺の集落の様子などは、殆ど変化がない。ただ、旧版地形図を見ると、打井川橋に当たる橋はまだ架橋されておらず、口打井川集落との間に渡し舟の記号がある。この渡し舟は、四万十川の上流にも、他に2か所描かれているのが分かるだろう。
新旧空撮画像も大同小異だが、打井川橋は架け替えが行われているようで橋の位置が違うほか、所々にみられる耕地の様子にも、若干の違いがみられる。
ただ、いずれを見ても、打井川の流域は狭く小さな谷であり、これが「ウツ」と表現されたという歴史を実感することが出来る。
さて、打井川駅の駅前野宿に戻ることにしよう。
夜のうちに雨はすっかり上がり、夜明け前の打井川駅は、路面も乾き、一日の快晴を予感させる雲一つない空が広がっていた。ホームに上がれば、辺りの山の嵐気と昨夜の雨の名残でしっとりとした空気が漂っていた。
夜明け前の大気は、黒から濃紺、濃紺から群青と明けていき、まだ、青みを残したまま、空が白み始めている。しかし、打井川橋の照明はまだ灯っており、駅の周辺は、まだ眠りの中に居た。
打井川橋を渡って、口打井川の集落まで足を延ばしてみる。
昨夜来の雨で、四万十川は薄く濁っていた。あれだけの雨が降っても、濁流と化していないところが、四万十川らしいとも言える。
四万十川が刻んだ峡谷に比して、打井川の谷は、それと気づかないくらい狭く小さな谷口を開いており、打井川駅や予土線も、か細く小さな存在でしかない。
快適な一夜を与えてくれた駐輪場は、木立の下に見える。寝るという行為に必要なスペースが、如何に小さなものなのか、改めて実感する。
口打井川の集落は、その名の通り、打井川の谷口の真向いにある。集落といっても、民家が数軒あるだけでその規模はごく小さい。鉄道も道路も未整備だった時代、ここで渡し舟に乗って人々が往来したのだろうが、その痕跡は残っていない。
集落内の散歩を終えて、駅まで戻ってきた。
四万十川が刻んだ峡谷の底までは、まだ、朝日が届いていないが、東の稜線は眩しく輝き、辺りの山の頂を照らし始めている。間もなく日の出を迎えるようだ。
擁壁の下から駅を見上げる。
待合室は虚空にせり出しており、何とか駅を設置したという風情である。
ただし、既に述べたように、打井川駅は窪川~江川崎間開通時に設置されており、後付けの駅ではない。周囲に駅設置の適地が無かったという事であろう。
ホームに上がってみると、打井川駅は緑に包まれていた。
程なくして、稜線から朝日が昇ってきた。
物理的な現象としてみれば、朝日と夕日とで何か違いがあるわけではないだろうが、主観的な印象では、朝日には活力や希望がみなぎり、夕日には感傷や郷愁がある。
打井川駅で迎えた朝日も、そんなエネルギーに満ちていた。
ホームにも朝日が差し始め、苔が金色に輝き始める。窪川方は緑のトンネルとなっているが、そこに朝日が差し込み、印象的な風景が広がっている。
駅前野宿で訪れたからこそ出会うことのできる、打井川駅の姿だった。
窪川方の緑のトンネルは、1999年3月の訪問時に撮影した写真を見ると、まだ、トンネルの体を成しておらず、この20年弱の間に樹木が旺盛に成長したことを物語っていた。
印象的な駅の風景を写真に収めているうちに、出発の時刻が近づいてきた。
線路脇に出る杣道からの写真を撮影した後、名残惜しい気持ちを抱きつつ、荷物を背負って列車の到着を待つことにした。
昨日の激しい雨が嘘のように、雲一つない空が心地よい。
今日は、この後、松山市内まで足を延ばし、下灘駅に戻って駅前野宿の予定なのだが、瀬戸内海に沈む夕日を楽しむことが出来そうだ。
ほどなく、緑のトンネルの向こうに始発列車が姿を現した。
存続の危機にある予土線。
次に、駅前野宿で訪れる時まで、この駅も路線も存続していることを望みながら、到着した列車に乗って駅を後にした。
少し感傷的な気持ちで駅を後にしたのだが、乗車した普通列車は無人の貸し切り状態。乗客の代わりに新聞の束が積まれていた。今では、小口貨物の輸送に鉄道が使われるという事も少なくなったが、ここでは、辛うじてその役割を果たしているらしい。
朝日に輝く四万十川を眺めながら、車窓風景を楽しむことが出来た。
続く訪問は、その4日後。
打井川駅を出た後は、下灘駅、土佐穴内駅、鯖瀬駅、佐賀公園駅と駅前野宿を重ね、再び、窪川駅から宇和島方面に抜ける行程で予土線に乗車した。
この時は、鉄道ホビートレインに乗車する。日中に運転される観光列車だけあって、前回の貸し切り状態とは打って変わって、車内は立ち席も出る乗車率だった。
打井川駅にも再度停車。
この日は高曇りの天候で、4日前のような朝日を浴びる風景ではなかったが、四万十川は水流も落ち着き、青緑色を取り戻していた。
今回は、途中下車もせずに、そのまま、駅を見送ったが、去り行く列車の最後尾の窓から眺めていると、途中下車した男性の他に、自転車を押して歩く、地元の人の姿も見えた。
予土線の線路は、四万十川河畔の斜面を削った路盤の上に敷設され、周辺に平地が広がることは少ないが、時々、思い出したかのように小さな平地が開け、そこには、田んぼなどが作られている。
窪川~江川崎間は、車窓に四万十川を眺める核心部分ではあるが、鉄道建設公団によって建設された区間だけあって、四万十川の蛇行には付き合わず、トンネルと橋梁で直線的に進むところも多い。
それでも、四万十川を眺める区間は長く、風景を楽しむことが出来る。
また、蛇行する四万十川に沿った国道などと比べて、鉄道の所要時間が短縮されていることもあって、命脈を保っている側面もある。
いずれまた、この路線も「ちゃり鉄号」で訪れることになろう。
予土線に乗って現地入りし、四万十川に沿った数駅間を、のんびりサイクリングする。
そんな楽しみ方を通して、予土線やその沿線の活性化に貢献出来たら、嬉しいものである。
打井川駅:文献調査記録
本文では、打井川駅を含む予土線の概略について述べた。そこでは、予土線の起源には宇和島鉄道という私鉄があり、その最初の区間の開業が1914年10月18日であったこと、江川崎までの延伸開業が1953年3月26日、窪川までの全通開業が1974年3月1日であったことなどを述べた。
以下では、この予土線建設史や打井川流域の村落形成史について、文献調査記録としてまとめたい。
主要参考文献は以下にリスト表示する。それ以外のものは、文中に適宜、引用を明記する。
- 大正町誌(大正町誌編纂委員会・1970年)(以下、「旧町史」と略記)
- 大正町史 通史編(大正町・2006年)(以下、「新町史」と略記)
- 大正町史 資料編(大正町・2006年)(以下、「新町史資料」と略記)
- 日本鉄道請負業史(昭和(後期)篇)(日本鉄道建設業協会・1990年)(以下、「請負業史」と略記)
- 日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)(以下、「国鉄百年史4」と略記)
予土線建設史
改正鉄道敷設法別表に見る四国南西部の鉄道敷設計画
既に何度か述べてきたように、予土線の建設史は、宇和島鉄道による1914年10月18日の最初の区間の開業から、国鉄による1974年3月1日の窪川全通に至るまで、実に60年もの長きに渡る歴史を持つ。その歴史が暗示するのは、建設史上に存在したであろう幾多の困難であり、存続の危機が囁かれる現状が示すのは、その困難が現代においても続いているという事実である。
ところで、宇和島鉄道による宇和島~吉野((現)吉野生)間の開業は1923(大正12)年12月12日のことであるが、1922(大正11)年4月11日に制定された改正鉄道敷設法別表には、103号線、104号線、105号線という各路線が、四国西部の路線として計画されており、これらは「四国縦貫線」を完成するためのラストピースとして、四国の鉄道建設史において大きな議論を巻き起こした。
以下には、その各路線を主要経由地点と共に図示した。図中、各路線の線形は現在の車道に沿う形で仮定したものである。
この各路線の別表中の記載は以下に示すとおりである。
- 103号線
愛媛県八幡浜ヨリ卯之町、宮野下、宇和島ヲ経テ高知県中村ニ至ル鉄道 及宮野下ヨリ分岐シテ高知県中村ニ至ル鉄道 - 104号線
愛媛県大洲附近ヨリ近永附近ニ至ル鉄道 - 105号線
高知県江川崎附近ヨリ窪川ヲ経テ崎山附近ニ至ル鉄道 - 105の3号線
高知県窪川附近ヨリ中村ニ至ル鉄道
これらを見ると、103号線の一部と105号線の一部が予土線に該当する路線であり、大正時代には既に、現在の予土線に該当する路線が鉄道敷設法に掲げられていたことが分かる。
なお、105の3号線として掲げられた窪川~中村間の旧JR中村線、現在の土佐くろしお鉄道中村線は1953(昭和28)年8月1日の鉄道敷設法改正によって加えられた路線である。
しかし、これだけの候補路線があるとなると、それぞれの予定線沿線地域で誘致合戦も繰り広げられるであろうし、そもそも、この別表中の予定線は、建設可能性を度外視して机上計画された政治的リップサービスの集成版だった一面もあり、実際の建設線選定に当たっては全国至る所で我田引鉄の議論が噴出した。
この地域での議論はどうだったのか。「旧町史」を紐解きながら辿ることにしよう。
大正町誌に見る予土線建設運動の黎明期
「旧町史」では、その「第十一章 通信・交通・運輸の発達」において、597頁~617頁の20頁に7節を設けて予土線の建設史をまとめている。以下、その記述に沿う形で建設史を概観していくことにしよう。
まず第一節である「鉄道と土佐」の冒頭から眺めてみよう。時代は明治時代に遡る。
この記述は、明治時代、日本の鉄道が黎明を迎えた頃の四国の状況を端的に表している。
当時の明治政府は、富国強兵・殖産興業の政策のもと、幹線官設の方針で鉄道敷設を進めようとしていたのだが、実際には、財政的な問題もあって官設は捗らず、政府の優遇を得た私設鉄道によって敷設された幹線も多い。現在の東北本線が日本鉄道、山陽本線が山陽鉄道、鹿児島本線が九州鉄道によって敷設されたのが、その良い例である。
その幹線整備に対しては、1892年(明治25)6月21日に公布された「鉄道敷設法」が法的根拠となった。同法はその第一条で「政府ハ帝国ニ必要ナル鐵道ヲ完成スル為漸次豫定ノ路線ヲ調査シ及敷設ス」と定め、第二条で「豫定鐵道線路ハ左ノ如シ」として、14路線・33区間が掲げた。
四国に関しては、「四國線」として、「香川縣下琴平ヨリ高知縣下高知ヲ經テ須崎ニ至ル鐵道」、「徳島縣下徳島ヨリ前項ノ線路ニ接續スル鐵道」、「香川縣下多度津ヨリ愛媛縣下今治ヲ經テ松山ニ至ル鐵道」の3区間が制定されている。現在の路線で言うと、土讃線の一部、徳島線、予讃線の一部ということになる。
幹線級の土讃線、予讃線と、主要都市の徳島を土讃線に結びつけるための亜幹線としての徳島線が、官設の予定線に位置付けられたということになる。この段階では、予土線は勿論、四国西部の鉄道は予定すらされていなかった。
以下に示すのは、「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」に示された、「創業時代の鉄道線路図(明治25年度末まで)」という図面であるが、「鉄道敷設法」が敷設された1892(明治25)年度末現在の、日本の鉄道路線が一覧できる。
図中、赤で示されているのが官設鉄道、青で示されているのが私設鉄道である。
引用図:創業時代の鉄道線路図(明治25年度末まで)
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」
一見して分かるように、この当時、四国で開業していたのは、讃岐鉄道(丸亀~琴平間)、伊豫鉄道(高浜~松山間)のみであり、いずれも私設の短距離の鉄道に過ぎなかった。これに対して、「鉄道敷設法」が「四國線」の敷設を予定したのだが、政府による第一期の敷設路線を定めた第七条には、四国の路線は一つも取り上げられることはなく、以後、官設の観点からは冷遇されることになる。
「旧町史」の冒頭、1909(明治42)年10月になって予土連絡の鉄道敷設運動が始まったとあるが、この間、1906年(明治39)年3月31日には鉄道国有法が制定され、進捗が芳しくない官設鉄道の敷設に代えて、私設鉄道を買収することによって国有鉄道の拡充が図られた。
以下に示すのは、「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」に掲載された「西日本の私設鉄道路線図」で、鉄道国有法による国有化が進んだ1906(明治39)年段階の西日本の鉄道敷設状況を示したものである。
引用図:西日本の私設鉄道線路図
「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」
この図の四国部分を眺めると、1892(明治25)年の「鉄道敷設法」制定以後、四国で新たに登場したのは徳島鉄道(徳島~船戸間)のみで、それ以外は、既設の讃岐鉄道の丸亀~高松間の延伸、伊予鉄道の幾つかの支線延伸のみであった。官設鉄道は全く敷設されておらず、讃岐鉄道と徳島鉄道が国有化されたことによって、四国内に国有鉄道が生まれたに過ぎない。
なお、讃岐鉄道は、丸亀~高松間を1897(明治30)年2月21日に開業させた後、1904(明治37)年12月1日に山陽鉄道に買収され、その山陽鉄道が1906(明治39)年12月1日に鉄道国有法によって国有化されている。
また、徳島鉄道は、1900(明治33)年8月7日までに徳島~船戸間が開通した後、1907(明治40)年9月1日に鉄道国有法によって国有化されている。
いずれにせよ、幹線敷設も程遠い状況で、とりわけ、高知県には鉄道が全く存在していなかった。
そういった背景の中で、予土連絡線構想が生まれたという事である。
続く「旧町史」の記載は、後藤新平に対する地元の熱烈な歓迎の様子を伝えている。以下にそれを引用しよう。
ここに記された歓待の様子は、現代の感覚からすると異常とも思えるが、昭和初期戦前までの日本では、当たり前に見られた地域の姿でもあった。熱を帯びたその記述にその一端が垣間見られる。
「旧町史」の記述は、ここから一気に昭和初頭に飛んでおり、大正年間の動きについては殆ど触れていない。それをまとめた文献なども入手はできていないのだが、勿論、大正年間にも四国に鉄道を敷設しようとする動きは続いていた。
それを探るために参照したのは帝国議会の議事録や「国鉄百年史4」である。
ここからは、一旦、「旧町史」の記述を離れ、上記の資料を紐解きながら、予土線建設に向けた動きを追うことにしよう。
帝国議会議事録や国鉄百年史に見る四国の鉄道敷設の動き
既に述べたように、四国の鉄道敷設計画自体は、1892年(明治25)6月21日公布の鉄道敷設法の中に、四國線として盛り込まれてはいた。従って、その当時から、四国に鉄道を建設する動きが無かったわけではない。ただ、第一期線には一つも盛り込まれなかったことが象徴するように、政府のレベルではそれを実現しようとする動きにまでは結びついていなかった。政府の消極的な姿勢については「旧町史」の記述として引用した通りである。
となれば当然、早期に四国に鉄道を敷設するよう、国に求める動きが出てくることが予想される。
その発端がどこにどういう形で現れたのかは分からないが、鉄道敷設法の中で「四國線」という名称が使われていることを踏まえて調べてみると、「四國鐵道第一期線ニ繰上ノ請願」という形で、1896(明治29)年1月27日の第9回帝国議会貴族院に請願が上がっていることが分かった。
1892年(明治25)6月21日に公布された「鉄道敷設法」から下ること3年半余り。時期的に見て、最も初期の鉄道敷設請願に当たると思われるので、ここからスタートし、昭和初期に向けての帝国議会議事録を順に追いかけてみることにする。
以下に、上記請願に関連する議事速記録を掲げる。図中、赤枠で囲った部分が該当する請願を取扱った部分である。
引用図:四國鐵道第一期線ニ繰上ノ件
「第9回帝国議会貴族院議事速記録第8号(明治29年1月27日)」
讃岐鉄道の丸亀~高松間の延伸開業が1897(明治30)年2月21日、徳島鉄道の最初の開業区間である徳島~鴨島間の開業が1899(明治32)年2月16日であるから、この請願が出された1896(明治29)年当時、香川、徳島の鉄道に関しては、鉄道敷設法制定当時から何等の延伸もなかったという事になる。独り、遠く離れた松山の地で、伊予鉄道が孤軍奮闘、郊外路線や市内路線を延伸させていたに過ぎない。
そんな状況の中で提出された請願は「徳島縣徳島市通町平民森六兵衛外三十八名呈出」とあるように、徳島から上がったもののようであるが、徳島地域の鉄道敷設を特別に望むものではなく、鉄道敷設法に定められた四國線を第二期線から第一期線に繰り上げることを要求するものであった。ただ、その四國線に徳島からの鉄道が含まれていたことは、既に見てきた通りではある。
この請願に対して貴族院では異議は提出されず、原案通り可決されている。
ところで、この請願は鉄道敷設法に関連したものであって、国による鉄道敷設計画の第一期線に繰り上げることを要求したものであるが、実際に1899(明治32)年に開通したのは、私設の徳島鉄道による路線であった。
その徳島鉄道の開業経緯を見ると、この当時の政府の私設鉄道敷設許可に対する姿勢が浮き彫りになる。ここでは、「国鉄百年史4」の記述を引きながら、その設立・開業の経緯を概観してみる。
徳島県知事による副申書は、この出願の主目的が徳島市と吉野川流域地方の開発発展のためのものであることは明瞭である。終点付近にある高知・香川両県に通じる交通の要衝について述べてはいるものの、当初の出願区間は予定線に組み込まれていた土讃線への接続を意図したものではなかったからだ。ただ、接続に含みを持たせることによって、免許下付の可能性を高めようとする意図があったように思われる。
この出願は、そもそも、「鉄道敷設法」で予定された四國線の一部に該当する鉄道を私設鉄道として敷設しようとするものであった。従って、「鉄道敷設法」の建前から言えば、この免許申請は却下となるはずだが、実際には、上に述べたように、「鉄道敷設法」によって予定された路線の一部について、私設鉄道による敷設を認める法律を別途制定し、それを根拠に免許を与えているのである。
以下に、その法律に関する官報を引用しよう。赤枠で囲った範囲が該当の法律を示している。
引用図:明治29年法律第77号
「官報第3829号(1896年4月8日)」
この法律では四国内の予定線の内2路線の一部区間に関して私設を認めているのだが、その内の後段で、「香川縣下琴平ヨリ高知縣下高知ヲ経テ須崎ニ至ル鐵道ニ徳島縣下徳島ヨリ接續スル鐵道線中徳島縣下徳島ヨリ川田ニ至ル鐵道」が掲げられている。既に見たように、これは徳島鉄道による当初の免許区間である。
なお、法律はさらに続けて、「政府ハ前項ノ許可ヲ與フル場合ニ於テ徳島縣下徳島ヨリ高知縣下高知ヲ経テ須崎ニ至ル聯續線路ノ全部ノ敷設貫通ヲ妨クルノ虞ナカラシメンカ爲相當ノ條件ヲ附スヘシ」と定めており、この許可が単に徳島鉄道の出願区間のみを意図したものではなく、将来的な予定線への接続と、高知方面須崎までの全通を意図したものであることを明確に示している。
ここで法律が求めた条件については、「日本鉄道史 中巻(鉄道省・1921年)」の記述を引用しておこう。以下、赤枠の範囲が該当の条件を示している。
引用図:「徳島鉄道・免許状下付及特別条件(日本鉄道史 中巻・鉄道省・1921年)」
ここに登場した「山田野地村」は現在の土佐山田町のことであり、徳島鉄道の免許下付に際しては、川田~土佐山田の延伸と、土佐山田~須崎間の敷設を視野に、出願手続きと敷設路線の譲渡に関する条件を定めている。
このように、当時の政府は「鉄道敷設法」上の予定線の一部について、将来的な国有化(買収)を視野に入れつつ私設鉄道としての開業を認める方針を持っていた。それは民間資本にとっても、投資対象としての鉄道敷設の魅力を高めるもので、それらの利害関係が交錯する中で、各地で鉄道敷設の運動が起こっていたのである。
~続く~
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