詳細目次 [閉じる]
抜海駅:旅情駅探訪記
1997年7月(ぶらり乗り鉄一人旅)
宗谷本線の終点、日本最北の稚内駅から2駅南に、抜海という無人駅がある。
北を目指す旅人は、この駅を出ると、いよいよ長旅も終わり。南稚内駅までの区間で海食崖に登った束の間、眼下に広がる日本海や彼方に浮かぶ利尻島に最果ての旅情を感じつつ、下車の準備を始めることだろう。
また、南を目指す旅人は、南稚内を出発し、高台の上から遥かな日本海と利尻島を見送った後、ようやく落ち着く頃合いに、この駅を通過してくことだろう。
この様に、宗谷本線の旅人にとって、ターニングポイントとなる抜海駅ではあるが、稚内や宗谷・野寒布岬、利尻・礼文島を訪れる旅人の数と比して、最北の無人駅であるこの駅を訪れようという旅人は、ごく僅かだ。
私が、初めてこの駅を目にしたのは、1997年7月のことだった。
北海道ワイド周遊券で道内全路線を旅する道中、宗谷本線で稚内を往復する時に、普通の車窓越しに眺めたのだ。
当時は、急行「礼文」や急行「利尻」が健在で、私の乗車した普通も、抜海駅で、急行「礼文」と交換した。
全線完乗に意識が向いていた時代で、駅前野宿や旅情駅訪問には、まだ、本格的に取り組んでいなかったため、多くの旅人と同様、この抜海駅で下車することはなく、車窓越しに眺めただけであった。
それよりも、抜海駅~南稚内駅間にある展望地点で眺める、利尻水道の彼方に浮かぶ利尻島の風景を期待していた。当時は、駅よりも、そういう沿線風景の方に興味を持っていたように思う。
抜海駅に停車していたにもかかわらず、駅舎と反対側で交換した急行「礼文」の写真しか撮影しておらず、駅舎の撮影をしていなかったのが残念だ。
抜海駅を出た宗谷本線の列車は、クトネベツ原野を北に進み、宗谷丘陵を越えて、南稚内駅に達する。その丘陵越えの区間で、宗谷本線は、全線で唯一、日本海を見下ろす海蝕崖の上に出る。最果ての地に、はるばるやってきた実感とともに、旅情を感じるひと時である。
ほんの一瞬で通り過ぎる区間だが、宗谷本線の車窓風景の白眉であり、宗谷本線の旅行記では、必ず登場する区間である。鉄道旅行作家の宮脇俊三氏も、その著作、「終着駅」や「線路の果に旅がある」の中で、この区間を取り上げているが、その書名が示すように、長い旅路の果てに、ほんの一瞬だけ見える、というのが、絶妙なのである。
しかし、往路のこの日は、低気圧の接近で天候が崩れ始めており、利尻水道は高曇りで、利尻島の島影は見えなかった。翌朝の復路も、低気圧通過後の荒天で、利尻島全体を覆うような笠雲の形から、島の存在を感じることが出来ただけで、利尻島を見ることは出来なかった。
この後、1998年2月、2001年6月、2001年8月、2003年5月、2016年1月…と、合計5回も、この付近を通りかかっているのだが、夜行急行「利尻」で通過した1998年2月や、深夜にマイカーで通過した2003年5月は当然のこと、日中に通り過ぎたそれ以外の機会でも、利尻島を見ることは出来ず、初めて、その絶景を見ることが出来たのは、ちゃり鉄14号で訪れた2020年10月。初訪問から実に20年以上が過ぎていた。
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
初めて抜海駅に途中下車したのは、2001年6月のことだった。
稚内に向かう単行の普通を下車して降り立った抜海駅は、霧の原野の中に、しっとりと、静かに佇んでいた。
この初めての途中下車は、宗谷本線で廃止になる3駅の訪問を目的とした旅の道中だった。稚内行きの普通が、稚内で折り返してくるまでの間を利用して、途中下車することが出来たのである。この日の目的地は廃止される予定だった芦川駅で、宗谷本線の旅では珍しく、稚内駅まで行かずに、この抜海駅で折り返した。
鈍行のダイヤの都合上、抜海漁港まで足を伸ばす時間はなかったのだが、海岸沿いの道道まで出て、海岸に広がる沼沢地越しに、北辺の日本海を眺める事はできた。
しかし、この旅では、北海道に滞在した期間を通して天候が悪く、この日も、薄ら寒い霧空の下、利尻島は影も見えなかった。
駅に戻ると、リカンベントバイクの旅人が一名、自転車を畳んで、列車を待っている様子だった。この駅から輪行するところを見ると、鉄道ファンなのかもしれない、と思ったが、周りには興味がない様子で、始終、手元の携帯電話をいじっていたので、特に話しかけることも、話しかけられることもなかった。
列車到着までの時間を利用して、駅の外れの草むらを稚内方まで歩いていき、駅を遠望してみた。
遠くに牧場の建物が見えたものの、人の気配もない侘しい原野にひっそりと佇む無人駅だった。
ここで、駅の沿革を少し振り返ってみよう。
駅は、1924年6月25日開業。宗谷本線全通以前からの歴史ある駅である。開業当時は、宗谷本線ではなく、天塩北線と称していた。
2面2線の相対式ホームを持つが、切り替えポイント間の有効長は非常に長い。かつて、宗谷本線を走っていた貨物列車等の編成の長さを偲ぶことが出来るが、今では、この駅に停車するのは、単行の気動車のみであり、通過する特急でも、その編成は4両程度である。
また、駅周辺の草むらには、かつてあった側線の跡も残っている。
1977年5月25日には貨物扱いが廃止され、1984年11月10日には旅客業務も廃止、1986年には運転扱いの要員配置もなくなり、完全無人化された。抜海の集落は、駅から道なりに2km程度離れており、現在、駅前には1軒の民家が残っているものの、辺りは無人の原野と牧草地や酪農施設が見られるだけである。
ただし、現在でも、冬季には除雪作業に関わる保線作業員が常駐しており、開業以来の歴史ある木造駅舎も、継接だらけではあるが、大切に維持管理されている。
「抜海」という印象的な駅名は、周辺地名に由来する。
現在も、抜海集落の名は、海岸沿いの漁港街に残っているが、この地名は、「パッカイペ」や「パッカイスマ」といいうアイヌ語に由来すると言う。アイヌ語の意味は、「子を背負うもの」、「子を背負う石」だと言い、抜海漁港の外れにある抜海岩が、その発祥である。
アイヌ語の「パッカイ…」に「抜海」という文字が充てがわれた経緯は詳らかでないが、利尻水道の水平線を貫いて、利尻山が天を突く様に聳える様が、「海を抜く」という言葉に通じ、「抜海」という地名に、深い味わいを醸し出しているように思う。
北海道の地名は、アイヌ語の地名に漢字の音読みを当て字した例が多い。大抵は、単なる当て字なのだが、その中にあって、時折、絶妙の当て字地名がある。この「抜海」もそうである。
新興住宅地などに付けられる「希望ヶ丘」と言った類の地名や、観光誘致を目当てにした「中軽井沢」などと言った地名も、巷には溢れているが、この「抜海」の地名には、命名者の深い教養を感じる。
開業当時からの面影を今に伝える抜海駅舎を眺めてみる。
木造の古びた駅舎で、ボロいと形容されてもおかしくはないが、このように、使い込まれて風格の漂う駅舎というのは、作り物では出すことの出来ない渋みが有り、同時に、ホッとする落ち着きがある。
老朽化のために、木造駅舎は次々と取り壊され、かつての面影もない、簡素な待合所に置き換えられてしまう例が多いが、こうした木造駅を大切に残していってほしいと思う。
待合室に入ってみると、木造の心地よい空間が広がっていた。
かつての出札窓口や手荷物扱いの窓口は塞がれてはいるが、金属製の冷たい構造物が少なく、懐かしい感じを受ける待合室だった。
程なく、札幌への特急「スーパー宗谷」が駅を通過していく。札幌への「スーパー宗谷」は先頭車が自由席で、貫通扉の窓の展望を楽しめるので、特急の自由席に自由に乗降できる切符を持っている時には、ここで展望を楽しむことも多かった。
数時間の滞在を終えて、抜海駅を出発する時間が来た。稚内から折り返してきたキハ54単行の鈍行に乗り込んで駅を後にする。
当時は、ここで、下り特急「サロベツ」と交換するダイヤが組まれており、我が鈍行も、駅に到着すると、数分間停車していた。
やがて、原野の彼方から、ヘッドライトを輝かせて特急「サロベツ」がやってきた。
その通過を待って、出発信号が青に変わると、ドアが閉まり出発。僅かな滞在時間であったが、いつかまた、再訪したいと思いながら、遠ざかる駅を見送った。
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
前回の訪問から2ヶ月。2001年の夏は、北海道に縁があり、2ヶ月の間を隔てて、再度、訪問する機会に恵まれた。
この時も宗谷本線を旅したが、駅前野宿に選んだのは、南下沼駅と智東駅で、いずれも、今はもう存在しない。
残念ながら、この時は、抜海駅は車窓越しに眺めるだけで、写真も撮影していなかったが、抜海駅~南稚内駅間の車窓風景はカメラに収めていた。
ただし、この時も、晴天とは言え水平線には雲が多く、利尻島の姿を見ることは出来なかった。
利尻島は、いつも、遠かった。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2016年1月には、学生時代以来、14年余りの時を隔てて、久しぶりに、真冬の北海道を野宿で旅した。ほぼ全てのJR路線を巡った他、札幌や函館の市電、地下鉄にも乗る旅だった。
2週間余りの旅の間、道東を回った数日間を除き、全道で吹雪が続き、宗谷本線沿線に足を踏み入れた3日間は、全て、雪の中での旅となったが、天塩川温泉駅と北星駅で駅前野宿を行った。
冬季の宗谷本線は、1998年2月の旅に続いて、これが2度目であるが、前回の旅は、夜行急行「利尻」車中で深夜から夜明け前に通過してしまい、稚内からオホーツク海沿岸に向けて、ヒッチハイクで移動したため、明るい内に冬の宗谷本線を旅するのは、これが最初だった。
北海道の閑散ダイヤでは、明るい内に、多くの駅を巡ることが難しく、駅間歩きをする旅人も多い。とは言え、その駅間距離も長く、結果的に、訪問できる駅が限られる。この宗谷本線もその例に漏れず、沿線の訪問回数の割に、抜海駅で途中下車する機会には恵まれなかった。この旅でも、途中下車は出来なかった。
稚内駅まで往復する往路では、1番線に到着した鈍行の車窓越しに抜海駅舎を撮影した。乗降客は居らず、モノトーンの色彩の中で、駅は眠っているかのようだった。
抜海駅を出発すると、進行方向左側の車窓に目が向く。
やがて、海岸段丘の灌木と笹原の丘陵をかき分けて、右に緩やかにカーブを切ると、海食崖の上に飛び出した。
緩やかな弧を描く坂の下湾の向こうには、宗谷丘陵の低い稜線が続いている。
4度目の訪問ではあったが、期待するまでもなく、この時も、にび色の空の下、利尻水道には、厚い雪雲が立ち込めており、利尻島は望むべくもなかった。
しかし、強風に吹きさらされる北辺の海岸は、枯れた草原と雪原が作り出すモノトーンの情景に覆われており、旅情あふれる情景だった。
稚内市街地を散策中には、雲が途切れ、日も差し始めたのだが、本格的な天候回復ではなく、積乱雲の切れ間の疑似晴天に過ぎず、直ぐに、次の雪雲の下に入って、吹雪となった。
「港の湯」で冷えた体を温めた後、稚内駅に戻り、この日の駅前野宿の目的地である豊清水駅に向けて、上りの鈍行車中の人となる。
復路では、往路とは逆に、進行方向右側に日本海の眺めが展開する。
今度は坂の下湾の向こうに抜海漁港が見える。彼方の空には明るみも差しているが、その手前には、雪のカーテンが垂れ下がっており、物寂しい光景が広がる。
行き交う車も僅かな道道を眼下に眺めつつ、線路は緩やかに左カーブを描いて、日本海に別れを告げる。
勿論、車窓の日本海は、厚い雪雲に閉ざされていた。
日本海と別れた後は、宗谷丘陵の中を緩やかに下り、クトネベツ原野の中に伸びる長い直線区間を、抜海駅に向かって進む。クトネベツとは「クッタル・ペツ」の転訛で、「イタドリのある川」という意味らしい。
左カーブを切って進入する抜海駅は、日本最北の無人駅に相応しく、荒涼とした風景の中に、静かに佇んでいた。客車列車や貨物列車が行き交っていた時代の面影を残す、長大な駅構内が印象的だ。
停車した抜海駅では、乗降客の姿は見られず、2名の鉄道ファンの姿が見られただけだった。
モノトーンの中、静かに佇む抜海駅に見送られながら、僅かな停車時間で出発した。
いつか、この駅で駅前野宿の一夜を過ごしたいと思いながら。
2020年10月(ちゃり鉄14号)
通算6度目の抜海駅は、ちゃり鉄14号での訪問となった。第五訪となっているのは、夜行急行「利尻」で知らない内に通過した1998年2月の旅を除いているからである。また、2003年5月、暑寒別山地のスキー山行の後、ドライブで通りかかったオロロンラインは、風景の全く見えない深夜のことで、抜海駅にも立ち寄らなかったので、通算にも入れていない。それらも含めると、この付近を旅したのは、7度目ということになる。
初訪問から20年余り。初めての自転車での訪問となったこの日、念願叶って、オロロンラインは快晴となり、海辺を走る間は、常に水平線に浮かぶ利尻島を眺めながらの最高の旅となった。
ちゃり鉄14号、約3週間の旅の道中、24時間の内に一度も雨が降らなかったのは、オロロンラインを走った、この日が唯一であり、この前日も、翌日も、低気圧や前線に祟られ、雷雨の中での走行となったことを振り返ると、20年かかったとは言え、実に運が良かったと言えるのかもしれない。
前夜を過ごした雄信内駅から、ロクシナイ峠を越えて天塩市街地に入り、道道106号・オロロンラインで海岸沿いに出ると、直ぐに、左前方に利尻島の姿が見えてきた。
20年来、一度も目にすることが出来なかった利尻島の姿を、飽きるかと思うくらい眺めながらのライディングとなったが、結局、飽きることはなかった。
浜勇知のコウホネの家を過ぎて、遠目に抜海漁港が見えてくる。漁港の入口の小高い丘の上には、被さるように大きな岩が乗っており、これが、抜海の地名の由来となった抜海岩であった。
抜海の集落を抜けると、抜海駅までは2km余り。
快晴の空の下、昼下がりの長閑な抜海駅に到着した。19年ぶりに「途中下車」した駅には、花壇の手入れをする地元の方2名と、車で来訪したらしい若者1名が居て、ホームで談笑していた。軽く会釈をして、ホームを散策する。
初めて、穏やかに晴れた日中の抜海駅に立つことになったが、これまで抱いていた、「北辺の地の侘しい無人駅」という印象とは違い、長閑で明るく爽やかな印象を受けた。
天候や時刻一つで、風景から受ける印象は、全く違うものになる。だからこそ、同じところを何度でも訪れてみたいと思うのだ。
駅舎は、ところどころ改修され、前回の2016年1月にはなかった倉庫も併設されていた。
駅構内の南寄りには、構内踏切がある。
そこに立って上り方、下り方それぞれを眺めてみるが、低い丘陵と原野に囲まれただけのこの駅で、見上げる空は広かった。
2001年6月の訪問以来、19年余りの月日を隔てて、駅舎の中に入ってみる。
待合室は、ホーム側も駅前側も、雪切り室と呼ばれる小部屋を介しており、冬の厳しさが偲ばれる。
昼過ぎの待合室は、窓から、陽の光も差し込み、明るく、ホッとした雰囲気のままだった。
JRの駅では、近年、ゴミ箱などが撤去されているが、以前、こうした無人駅のゴミ箱には、旅人の持ち込みゴミが溢れて、雰囲気を害していたこともあった。
しかし、待合室内には、ゴミは全く無かった。
駅を維持管理・清掃してくださる地元の方のご尽力の賜物ではあろう。
来訪者が去ると、駅には一人静かな時間がやってきた。
昼下がりのこの時間には、各駅停車の往来はなく、次の列車は6時間後という長閑さだった。13時過ぎには、旭川行きの特急「サロベツ」が通過するはずだったが、この日は、宗谷本線北部区間の保線工事のため日中の全列車が運休し、代行バスが運行されていた関係もあり、特急「サロベツ」も運休していた。
改めて、日差しも温かいホームに出て、のんびりと散策する。
ホーム側の駅舎軒下には、花壇が置かれ、先程まで、地元の方が手入れをしていた。真新しい、鮮やかな花が咲いており、心和む。
駅前から駅舎を眺めてみると、この19年余りの間に、外壁の改修工事が行われており、小綺麗になっていた。駅事務室側は、保線詰所としての利用にとどまるためだろうか、古い板張りの外壁のままで、かつての面影が残っていた。
昼下がりの抜海駅で、20分ほど「途中下車」した後、一旦、稚内に向けて駅を後にする。
一旦というのは、この後、海岸沿いに野寒布岬を回り、稚内駅から宗谷本線を南下する形で、宗谷本線沿いに各駅を辿り、夕刻、再び、この抜海駅に戻ってきて、駅前野宿の一夜を過ごす予定だからだ。
こういう機動性はちゃり鉄の旅ならではだ。
抜海駅を出た後は、富士見地区にある稚内温泉童夢で一風呂浴び、野寒布岬を回り込んで、稚内市街地に入った。稚内港を出港していく利尻・礼文航路のフェリーを左に見ながら、利礼の丘への急登を往復して、稚内駅から宗谷本線の旅に入る。
快晴の利礼の丘は、訪れる人も居ない中、利尻水道越しに、利尻・礼文両島を見下ろす絶景の地だった。手前の稚内公園付近までは舗装され、観光客の姿もあったが、オフロードを進んだ先の利礼の丘まで足を伸ばす観光客は居らず、一人で絶景の中に浸ることができた。いずれ、野宿で訪れたいと思う。
利礼の丘から丘陵を下り、稚内駅から宗谷本線に沿って、一路、旭川を目指す。
南稚内駅を出発して、クサンル川沿いの道道の低い峠を上り詰めると、眼下に、金色に輝く利尻水道が飛び込んできた。
道路沿いにある夕日が丘パーキングに立ち寄り、輝く海原の彼方に浮かぶ利尻島と礼文島の絶景にしばし見惚れる。
宗谷本線の列車の車窓からの眺めではなかったが、20年来、私が待ち続けたこの絶景に、言葉を失い、立ち尽くした。
夕日が丘パーキングを出発し、家路を急ぐ気分で、一路、抜海駅を目指す。
17時過ぎ、クトネベツ原野の途中で、礼文島南端の知床付近に、太陽が没した。この日は、日の出から日没まで、日が陰る時間は、一度もなかった。
残照の利尻水道に見惚れた後、すっかり、暗くなった道のりを、ヘッドライトを点して、抜海駅に向かう。駅に戻ったのは、17時過ぎだった。勿論、この時間、駅には誰も居なかった。
残照暮れなずむ日没直後のひと時は、空の色も、刻一刻と移り変わり、やがて、夜の闇に包まれる。
夕餉の支度に取り掛かる時間だが、それも忘れて、一人、ホームに佇み、この旅情駅の姿を眺める。
陽の光の余韻が残る青紫色の空は、次第に赤みを失い、群青色に染まってゆく。そして、紺色を経て、青みを帯びた黒へと変化していく中、窓明かりの漏れる木造駅舎と、ホームやレールに落ちる照明が、孤独な旅人の感傷に語りかけてくる。
ほんの30分ほどで終わってしまう、このひと時は、何度過ごしても飽きることがない、至福の時間である。
程なく、「とっぷり暮れる」という表現そのままに、旅情駅に夜の帳が下りてきた。快晴の空の下では、放射冷却で急激に気温が下がり、まだ10月というのに、吐く息が白くなった。
やがて、原野の彼方から、鉄路を刻む列車の走行音が響いてくる。札幌に向かう、特急「スーパー宗谷」だ。
18時過ぎ。LEDのヘッドライトを煌々と照らした特急は、2番線を徐行しながら光陰となって駆け抜けてゆく。車内には、乗客の姿も散見されたが、窓の外を眺める乗客の姿はなかった。
札幌への長い旅路に就いた特急のテールライトを見送る。
誰も居ない駅に、一人残るこの瞬間は、少し寂しくもあるが、そんな旅人の孤独を、旅情駅の灯りが、物言わず包みこんでくれる。
特急が通過した後、名寄行きの普通が、同じ2番線に到着する。
意外なことに、この普通からは、大きなリュックを背負った1名の旅人が降りてきた。オフシーズンの平日だけに、鉄道の旅人は居ないだろうと思っていたし、この時刻の抜海駅に降り立つ旅人は、予想していなかった。
時折、無人駅で、野宿の鉢合わせになることがあるため、この人もそうなのかと、しばらく様子を見ていたが、しばらくすると、迎えの車に乗って駅を立ち去っていった。
抜海の民宿の客なのかもしれない。
名寄への長い旅路に向かう普通列車のテールライトを見送ると、束の間の喧騒も収まり、駅には静けさが戻ってくる。
構内踏切のたもとに立って、何するでもなく、抜海駅を眺める。
この、美しい旅情駅も廃止の対象に挙げられている。
最果ての旅情を求めて、鉄道でこの駅に降り立ち、付近に投宿する旅行客もゼロではない。
その様な、ごく僅かな観光需要や限られた地元民の利用のために、年間数百万の経費を投入するというのは、経営や行政の観点からすれば、無駄なことだろうし、切り捨ててバス転換する方が合理的ということになるのだろう。
しかし、大型の箱物施設に大勢の観光客を呼び込んで、金儲けをすることを第一にした、観光誘致・地域振興が、一体、どれだけ成功しているというのだろう。そのようなプロジェクトを推進し、儲けた人々が、プロジェクトのその後の顛末に、どれほどの責任を果たしているのだろう。
価値観は人それぞれだが、旅情駅の存続に、年間数百万の経費を投入するのは、決して、無駄な投資だとは思わない。誰も利用しない道路や施設に、数十億円を投じるくらいなら、その分を、旅情駅の維持管理に回す方が、余程、有効な使い方なのではないだろうか。
いつまでも、この旅情駅が存続することを願うばかりだ。
名寄行きの普通列車が出発した後は、19時31分に稚内行き、20時31分に幌延行きが発着して、抜海駅の一日の旅客営業が終了する。23時半頃には、稚内行きの特急「サロベツ」が通過するはずだが、その頃には、眠りの中に落ちていることだろう。
手早く夕食を済ませて、稚内行きの最終を待つ。
1時間ほどの間隔なので、丁度、食べ終わって片付けた頃合いに、単行の鈍行が到着した。残り二駅を残して抜海駅でしばし憩う、稚内行きの最終に、乗客の姿は見えなかった。
エンジンを噴かせて遠ざかっていくキハ54単行の鈍行を見送る。
抜海駅を発着する列車も、残すところ、1本となった。
次の列車まで、1時間、間隔が空くので、抜海漁港まで、自転車で出掛けてみることにした。徒歩なら、小一時間かかる距離だが、自転車であれば、ゆっくり走っても10分程度だ。
到着した抜海漁港には殆ど人影もない。港の照明や月光が、穏やかな水面に映り込む、静かな夜だった。
往復の道道は照明もなく真っ暗なので、自転車の照明を遠近2灯の同時点灯にして走るが、車は1台も見かけなかった。
抜海駅に戻ると、駅舎を月が見守っていた。
20時半過ぎ。幌延駅への最終が到着する。
抜海駅を発着する鈍行も、これが、最後。車内に乗客は居らず、勿論、この駅からの乗客も居なかった。
去りゆく普通列車のテールライトを見送り、駅とともに眠りにつくことにする。
23時半頃には、特急「サロベツ」が通過したはずだが、その記憶は定かではない。
翌朝は、昨日の快晴が嘘のように、全天を雲が覆っていた。雨域予報を見ると、間もなく、抜海駅も雨雲の下に入るようだ。朝から雨の中を走るのは、気が滅入るが仕方ない。朝食などを済ませつつ、黎明の旅情駅を撮影する。
まだ、雨は降り出していないが、駅舎の軒下は、夜露で濡れていた。
抜海駅の朝は早い。
5時35分には、名寄行きの普通が到着する。
この時間に、名寄方面に普通で移動する旅客需要がどの程度あるのか分からないが、稚内周辺からの旅客を対象とするよりも、この先の幌延や音威子府付近の通学需要を対象にしたダイヤなのかもしれない。抜海駅を5時36分に出発した普通の、音威子府駅到着は7時41分である。
到着したキハ54単行の普通には、乗客の姿はなかった。
定刻に出発していく普通を見送り、朝の出発の準備に取り掛かる。
程なくして、予報通り、雨が降り出した。
雨具を着込み、特に、足回りの防水を念入りに確認する。一日中、雨の中を走り続けると、どんなに防水を行っても、自分の発する汗などの影響もあって、濡れてしまうことが多いのだが、とりわけ、車輪が弾いた水を浴び続ける足回りは、中までぐっしょりと濡れてしまう。
最近は、防水用のゲイターを装着した上で、防水靴下を履いているので、靴の中まで浸水しても、比較的、濡れている感触は少ないのだが、やはり、走行中に爪先が冷えてくる。靴は、普通のトレイルランニングシューズで、アッパーなどは防水生地ではない。
ネットに溢れるおすすめ記事などでは、「全く濡れない」などと言って、防水商品を紹介しているが、アフィリエイトで売ることを目的とした記事なので、その情報は、余り信用できない。
自分の使い方に合わせて、実際に試してみるのが一番だが、高価な製品は、そう簡単に買えないので、試行錯誤も難しい。
この旅でも、連日、雷雨に降られて、濡れては乾き、乾いては濡れるというのを繰り返した。10月の北海道では、防水性と速乾性、そして、万一、濡れた時に体を冷やさない保温性が重要だ。
出発準備を終えて、最後に、もう一度、駅の周辺を散策する。
雨の中、抜海駅は、昨日とは打って変わって、青みがかったモノトーン情景の中に、沈んでいた。
自転車で旅をする以上、晴れていて欲しいのは山々だが、これも抜海駅らしい雰囲気だと思う。
廃止対象となり、地元と自治体・JRとの間で議論が続く抜海駅。
もしかしたら、もう、この駅と再会する機会はないのかもしれない。
そう思うと、去り難い気持ちがこみ上げる。
開業以来、幾年の風雪を耐え忍んできた抜海駅舎を、もう一度、眺めてみる。
木造駅舎は、静かに、何も語らない。
余計な装飾は一切ないが、こんなに素晴らしい風景を、「観光地」で見かけることは、殆どない。
最後に、もう一度、駅舎の中に入ってみた。
ホームと待合室を隔てる雪切り室。冬の厳しさを物語るスペースに一人佇むと、ここを行き交った人々の姿が、目に浮かぶ。
春夏秋冬の抜海駅を訪れることが出来るだろうか。
明かりの灯る待合室を一通り撮影し、後ろ髪を引かれながら、一夜の思い出を胸に、抜海駅を後にした。
抜海駅は、2020年3月27日に、「宗谷本線活性化推進協議会」によって、廃止が容認された。協議会が廃止受け入れを表明したのは、抜海駅を含む、宗谷本線の11駅で、これ以外に、2駅が、「廃止の方向で検討しており、町民説明会で決定する」とされていた。
この協議会は、沿線自治体によって運営されており、JR側が廃止を求める29駅に対する回答として、11駅の廃止容認を表明したのであった。
廃止容認の表明は、上にもあるように、「町民(住民)説明会を通して決定する」というプロセスを経ているが、廃止対象の駅は、そもそも、その駅を利用する住民がほとんど居ない駅であり、説明会を開くまでもなく、駅の命脈は尽きていたのかもしれない。
2020年12月9日には、JR北海道が、「来春のダイヤ見直しについて」というプレスリリースの中で、「ご利用の少ない駅の見直し」として、正式に管内18駅の廃止を表明した。
宗谷本線に於いては、最終的に、12駅が廃止決定となった。
しかし、この決定に、抜海駅は含まれなかった。
地元自治体による「住民説明会」での決定を経て、廃止が容認される建前ではあったが、抜海駅に関しては、その「住民説明会」で、地元住民の理解が得られなかったため、2021年度は、稚内市による維持管理に移行するとともに、今後も、存続の是非について、議論を続けていくこととされたのである。
そうなると、3月27日の「宗谷本線活性化協議会」の廃止容認は、一体何だったのか?という疑問が湧き上がるが、私は、この旅情駅探訪記の中で、その様な、泥臭い議論について私見を述べることは避けようと思う。
事実として、抜海駅の存続が決定したことを、素直に、喜びたい。
そして、今後も、抜海駅が末永く存続し、地元に愛される駅として、その旅情ある姿を留めてくれることを願うばかりである。