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旧白滝駅:JR石北本線|追憶の旅情駅探訪記

JR石北本線・旧白滝駅(北海道:2016年1月)
旅情駅探訪記
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旧白滝駅:旅情駅探訪記

2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)

2001年6月。学生時代、最後の夏を迎えた私は、新日本海フェリーで北海道に渡り、宗谷本線と石北本線を中心とした、乗り鉄の旅を実施した。

部活が生活の中心だった私にとって、6月というのは、長い旅には出にくい時期だったのだが、この年、わざわざ北海道に出かけていたのには、理由があった。というのも、この年の6月末をもって、宗谷本線、石北本線のそれぞれで3駅ずつ、合計6駅が廃止される事になっていたからだ。

近年のJR北海道では、駅や路線の廃止が加速している。

例えば、2021年春には、日高本線の災害運休区間全線の他、道内各路線で一気に18駅が廃止されるなどしており、北海道新幹線の開業予定区間と、小樽・千歳空港・室蘭~札幌~旭川の電化区間以外は、旅客鉄道全廃というのもあり得る状況だが、2001年当時、一気に6駅が廃止されるというのは、衝撃的だった。

この時、石北本線の中では、石北トンネル前後で連続する天幕、中越、奥白滝の3駅が廃止され、上川~上白滝間には、34kmもの無駅区間が、一気に生じることになっていた。

奥白滝~下白滝間18.8kmの間には、奥白滝・上白滝・白滝・旧白滝・下白滝、と白滝を称する駅が5つ連続しており、ファンの間では「白滝シリーズ」として知られていたのだが、その中で最も奥の原野に佇んでいた、孤高の無人駅・奥白滝駅が廃止されるというのは、未訪問だった私にとって、特にショックを受けたニュースで、無理を押して、北海道を訪れることとなったのである。

よく知られているように、石北本線の白滝~上川間は、当時から超閑散路線で、普通列車は、一日一往復という状況だった。運行形態としては、朝の下り、夕方の上り、それでおしまい。勿論、そんなダイヤで、定期利用できる旅客が居るはずもなく、地元の住民が、鉄道を利用することは、当時から殆どなかった。いや、そもそも、天幕、中越、奥白滝の各駅の周辺には、住民が居なかった。

それらの駅の在りし日の姿を、記録に留める最後の機会として訪れた旅の中で、私は、旧白滝駅の姿も、車窓から眺めていた。

白滝地域の中心地にある白滝駅から遠軽方にある下白滝、旧白滝の2駅は、下りは朝の1本のみであったが、上りは、夕方を中心に3本程度運転されていて、旧白滝駅では、地元の高校生が通学で利用していたようだ。

上川行きの普通列車の車窓から眺めていると、停車した列車の最前部のドアから、1名の女子高校生が下車したのを見て、驚いた記憶がある。

遠軽に通う高校生は、当時から欠かせない定期利用客だった
遠軽に通う高校生は、当時から欠かせない定期利用客だった

この旅では、車窓から1枚の写真を撮影しただけだった。奥白滝駅が廃止になったことから、他の駅の廃止も予想されたものの、日程的に、他の駅で下車したり、まして、駅前野宿をしたりする余裕がなかった。

いつか、再訪して駅前野宿をしたいと思いながら、走り去る列車の窓から、開業以来の歴史を刻む木造の待合室を見送った。

2002年12月(ぶらりドライブ一人旅)

2002年12月、社会人となり北海道に赴任していた私は、仕事の休みを利用して、石北本線の石北トンネル北東山稜に聳える、名峰・チトカニウシにスキー登山に出向いた。

前年の6月に奥白滝駅、中越駅、天幕駅が廃止になったのもあるが、元々、この付近に停車する普通列車は一日一往復というダイヤだった。チトカニウシ登山の為に鉄道でアクセスするのは現実的ではなく、この時は、マイカーに寝具を積み込んで国道の北見峠付近で車中泊し、翌朝、登山に挑んだ。

とはいえ石北本線と無縁な山ではなく、石北トンネルを越えた石狩側の国境付近にある上越信号場が一般駅として旅客扱いをしていた1975年12月25日までは、駅から尾根を伝って山頂に至るルートが有り、山スキーヤーで賑わったと言う。

登山者の記録などを見ていると、1985年あたりでも、信号場勤務の国鉄職員が上越信号場で下車するのに合わせて、下ろしてもらったなどという記述が見られるし、今でも、マイカー登山で、上越信号場付近からスキー登山をしている人はいるようだ。上越ルートがスキー登山のコースとして紹介されている書籍もあったように記憶している。

標高1445.6mチトカニウシ山に関しては、「新日本山岳誌(日本山岳会・ナカニシヤ出版・2005年)」に、「響きのよいアイヌ語の「チ・トカン・イ・ウシ」は「我ら・射る・いつもする・所」の意味で、狩猟の際、ここで豊猟を占って矢を放ったとか、またどの山が一番高いか背比べを競って矢を放ったとか、アイヌの生活圏に深い関わりを持った山である。安政四年(一八五七)五月、この地を踏査した松浦武四郎の『石狩日記』にもチトカニウシの山名は出てくる」とある。

北見山地・チトカニウシ山(北海道:2002年12月)
北見山地の名峰・チトカニウシ山にスキー登山

前夜は、北見峠が暴走族の雪上レーシング場と化していた。周りでドリフトターンする族車に激突されそうで安眠できなかった為、一旦場所を移動して仮眠し、朝になって峠に戻って単身登山を始めた。

上り始めは陽の光も差していたのだが、山頂に達する頃には吹雪になっていて、景色は望むべくもなかった。スキーはと言うと、シュカブラが発達してガリガリの斜面に刃が立たず、優雅にシュプールを描くこともなく、あちこちに転倒の跡を残して下山することになった。

その帰り道、石北本線に沿った各駅を車で巡ることにして、奥白滝駅跡、上白滝駅を経て、ここ旧白滝駅も再訪することが出来た。昨年夏の訪問時には、車窓から眺めるだけだったので、車での再訪とは言え、駅の姿をじっくりと眺められることは嬉しかった。

真冬の15時過ぎの訪問ということもあって、既に、暮色に染まりつつある旧白滝駅は、昨年夏とは異なり、モノトーンの情景の中に、ひっそりと佇んでいた。

山域はまだ雪雲に包まれているが、山麓では雲の切れ間も覗いており、旧白滝駅の周辺では、雪は降っていなかった。周囲は、雪に覆われているものの、新雪は積もっておらず、駅の周りの樹木も、梢が露出していた。ここ数日、これといった積雪はなかったようだ。

再訪した旧白滝駅は雪の中に静かに佇んでいた
再訪した旧白滝駅は雪の中に静かに佇んでいた
雪原に伸びる一条の線路の彼方に、石北峠が控えている
雪原に伸びる一条の線路の彼方に、石北峠が控えている
旧白滝駅の駅名標
旧白滝駅の駅名標

駅のホームを散策してみる。

利用者は僅かだが、地元の方々が除雪を行い、通学で利用する高校生の足を守っている。開業以来の待合室は、長年の風雪にさらされ、萎びた色合いを醸し出しているが、吹雪の中で列車を待つとなれば、きっと心強い場所であろう。

休日のこの日、駅を訪れる人は居らず、並行する国道も、殆ど車の通行はなかった。

通過列車の時間帯でもなかったため、撮影することも出来なかったが、こうして再訪できたことは喜ばしい。

この日は、ここから、4時間以上かけて、釧路まで帰ることになる。この後、下白滝駅や新栄野駅を訪れての帰路は、まだまだ先が長い。

僅かな滞在時間ではあったが、この姿を目に焼き付けて、駅を後にした。

東の空には日暮れの気配が漂い始める
東の空には日暮れの気配が漂い始める
開業以来、利用客の往来を見守り続ける木造駅舎
開業以来、利用客の往来を見守り続ける木造駅舎
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2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)

2002年12月に、チトカニウシ登山の帰路、マイカーで訪問して以来、旧白滝駅を訪れる機会は無かった。その間、車では、何度か、国道を通りかかり、車窓に駅の姿を眺めたものの、社会人となり、マイカーで出かけるようになっていた北海道時代。私は、仕事柄もあって、相対的に鉄道趣味が薄れており、駅を訪れることも少なくなっていた。

今から振り返れば、貴重な北海道時代に、もっと、鉄道沿線を巡っておけばよかったと思うのだが、過ぎた日は帰らない。

旧白滝駅の第三訪は、実に、14年を経た、2016年1月のことだった。

そして、その訪問は、旧白滝駅を訪れる、最後の機会だった。

2016年3月26日。北海道の遅い冬が明ける前。旧白滝駅は、雪解けを待たずに廃止される。

廃止を目前に控えた最後の大晦日と元日を、私は、この旅情駅での最初で最後の駅前野宿で過ごすことにした。

風雪舞う中、17時前の上り普通列車で降り立った旧白滝駅は、既にとっぷりと暮れており、乗降客の姿は無かった。厳しい環境の中で、老体に鞭打って奮闘するキハ40系の普通列車を見送った後、風雪を避けて待合室に入れば、電球の暖色が旅人の孤独を癒やしてくれた。

雪が舞う中、旧白滝駅に降り立つ
雪が舞う中、旧白滝駅に降り立つ

木造の備え付けのベンチには、地元の方の手によると思われる飾り付けがあり、そこだけ見れば、いつもの日常の風景のように見えるが、掲示板には、「いよいよ、お別れの時が近づいてしまいましたネ。今まで、たくさんの思い出をアリガトウ…」との手紙が貼られており、「その日」が近づきつつあることを告げていた。

当時、海外メディアや新聞社が、度々取り上げていたのが、この駅から遠軽の高校に通う女子高生の卒業を待って、駅が廃止されるというニュースだった。その話題が広まるにつれ、同時に廃止される下白滝駅や上白滝駅とは異なり、旧白滝駅は、美談の舞台として取り上げられることが多くなっていた。本当に美談だったのかどうかについては、言及するのは避けたい。

いずれにせよ、年末年始のこの日、私が下車してから出発するまでの間に、駅を訪れる人は一人も居らず、旧白滝駅のいつもの姿を見ることが出来たと思う。

ホームの待合室には小さな飾りが置かれていた
ホームの待合室には小さな飾りが置かれていた
廃止を目前に控えた待合室には地元の方の手紙が貼ってあった
廃止を目前に控えた待合室には地元の方の手紙が貼ってあった

旧白滝という駅名は、鉄道の旅を趣味としている身には、独特の響きを感じさせるものだ。

駅の所在地は、北海道紋別郡遠軽町旧白滝で、駅名は、地名に由来するものである。

町域の発展によって、中心地が当初の位置から移動した場合、地名としては、本●●とか元●●という地名に変更される例は比較的よく見られるし、駅名も、それに従って変更されていたりする。

しかし、旧●●駅というのは、耳にしない。現役の駅としては、当時の旧白滝駅のほか、神戸市営地下鉄の旧居留地・大丸前駅くらいだが、この旧居留地・大丸前駅の「旧」と、旧白滝駅の「旧」では、微妙にニュアンスが違う。旧白滝は、それそのものが正式な地名であり、通称以外で「旧」を冠する地名は、全国で20例程度しかない。駅名としては、上記のほか、草軽電気鉄道に存在した旧道駅、旧軽井沢駅の例があるくらいだ。

駅の開業は1947年2月11日のことで、周辺の兄弟駅とは異なり、仮乗降場としての開業だった。終始1面1線で駅舎のない無人駅であり、ホーム上の待合室は開業以来の歴史を持つ。但し、仮乗降場としての出自を持つ故に、その設置に関して、国鉄公式の記録は見つけられなかった。

2016年10月18日の道新Web記事によれば、「開設時には地元住民が寄付を募って旧国鉄に建設資金として提供し、ホームの工事も手伝った」と伝えている。

凍てついたホームに出て、駅に隣接した墓地踏切付近から、この旅情駅の姿を眺めてみる。

並行する国道には殆ど車の往来がなく、付近に散在する民家にも、人の出入りの気配はない。

ホームを照らす照明は1基のみで、待合室の窓から漏れる赤みを帯びた明かりと共に、ポツンと佇む駅を照らしている。

それは、物寂しく侘しい雰囲気ではあるが、明かりが灯るだけで、どことなく、温もりを感じさせるのは、不思議なものだ。

18時過ぎには、札幌から網走への長旅の途にある特急「オホーツク」が、石北トンネルの難所を越えた足取りも軽やかに、遠軽に向かって下っていった。

雪原の中に、ポツンと佇む待合室の明かりが、寂しくも温かい
雪原の中に、ポツンと佇む待合室の明かりが、寂しくも温かい
JR石北本線・旧白滝駅(北海道:2015年)
横風に吹き飛ばされた小雪が舞う中、凍てついた旅情駅の夜が更けていく
ヘッドライトを煌々と照らして、特急「オホーツク」がやってきた
ヘッドライトを煌々と照らして、特急「オホーツク」がやってきた

この旧白滝という地名についても振り返ってみることにする。

「角川日本地名大辞典 1 北海道上巻(角川書店・1987年)」によると、「昭和44年~現在の白滝村の行政字名。…(中略)…明治35年石上藤蔵が白滝原野最初の特願入地者として入植。同37年白滝植民地が開放されて、同42年から単独入植者による開拓が始まった。翌43年までは湧別村、同年から上湧別村域。白滝原野区画図によると下白滝を含め、4号から19号までの湧別川に沿った地域が40戸に貸付されているが、丸瀬布(まるせっぷ)・遠軽(えんがる)方面からの通い作や返地もあり、大正元年当時は12戸だったという(白滝村史)。同2年旧白滝特別教授場が開設。白滝村の中では最初に開けた地域だが、集落の中心は白滝(字白滝)に移ったため旧白滝と名付けられたもの」とある。

また、白滝については、「現在字下白滝の湧別川に滝があり、白滝と称されていたことから、明治36年植民地設定の際白滝植民地となった」と記述されている。

「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)」では、「村名、駅名、滝の名。名のもとになった白滝は湧別川が滝になっている処で、白滝駅から下白滝駅に行く途中である。車窓から注意していたが激流のところしか見えない。下白滝駅前で聞いたら、道はないが、川に沿って上がっていけばありますよという。たどり着いて見たら、今の姿はいわゆる瀑布ではない。湧別川が巨巌にせきとめられて二流になり、白い水煙を挙げて流れ下っている処だった。昔はあるいはもっと落差があったのかもしれない」と記している。

遠軽町のWebサイトで公開されている「旧白滝村の沿革」には、「上湧別村誌」の引用で以下のような記述がある。

「「滝の下駅より約一里の西方、湧別川の上流にあり両岸高く聳ゆるの間、削れるが如き断崖となり相逼る処、恰も一蹴にして彼岸に及ぶの感あり。湧別川の奔端集まり其の間を穿ち辛じて流れ飛瀑となり白日尚流水濁り、深さ測るべからず、水勢迅風の狂ふに似、泡沫八方に飛散して雲霧を吐き濤声百雷と吼え、為めに双岸の老樹蓊鬱として黙せるものの如し、夏期に入れば附近淡水魚多く、就中鱒魚の躍りて瀑を溯らんとして水に押され、水を離れて飛ぶ事頻なり、実に壮絶快絶、識らず盛夏の苦熱も忘れ仙寰に遊ぶの観あらしむ」とありますが、古老の言によればここを通る人々が飛沫する水しぶきのため、滝つぼ及び岩肌が白く霞んで見えるので、”白滝””白滝”と言って通っていたとのことです。それがいつとはなしにこの付近一帯の地名を「白滝」と称するようになり、昭和21年の開村の際、村名と決しました」

私は、この白滝を現に見たことはないが、調査する限りでは、遠軽町のWebサイトで書かれているように、滝というより函といった表現が適切な、狭隘地のように見える。

なお、白滝村は、2005年10月1日に、生田原町、丸瀬布町とともに、遠軽町に吸収合併されており、現在は、遠軽町の大字となっている。

駅の夜に戻ろう。

20時前、待合室の中でのんびりしていると、遠くから踏切の音が聞こえてきた。普通列車の到着時刻でもないし、通過列車がやってくる時刻でもないので、不思議に思ってホームに出てみると、白滝方から、除雪車両がやってきた。

JR北海道の経営については、厳しい意見もあるが、JRグループの他の会社とは異なり、冬期の保線にかかる経費は莫大なもので、そこに関わる作業員の苦労が偲ばれる。もし、経営について厳しい注文をつけるなら、真冬に募集されている除雪スタッフの作業に従事してみると良いと思う。

JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2015年12月)
旧白滝駅を通過していく除雪列車
国道の路肩表示灯が、無人の原野に明滅していた
国道の路肩表示灯が、無人の原野に明滅していた
JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2015年12月)
厳しい真冬の夜でも、待合室や駅の明かりは人に守られる温もりに満ちていた

20時過ぎ。旧白滝駅に停車する上りの最終列車がやってきた。車両はキハ40系だった。

全国の非電化ローカル線で、普通列車の顔として活躍するキハ40系だが、車齢40年を超えて老朽化が進み、その維持管理も大変なようだ。特に、北海道の場合、冬期の厳しい寒気の中で、車体が凍結と融解を繰り返すことになり、その傷みの進み方も他よりも早いことだろう。車両の保守に携わる職員の苦労も大きいに違いない。

遠軽から白滝までの各駅沿線に帰宅する旅客の足となる列車であるが、大晦日のこの日、車内には乗客の姿はなく、勿論、ここから乗車する人も居なかった。

テールライトは、寡黙に走り去っていった。

JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2015年12月)
旧白滝駅に停車する上りの最終列車がやってきた
JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2015年12月)
車内にも駅にも、乗降客の姿は見られなかった

しばらくすると、下り最終のオホーツクが雪煙を巻き上げて、旧白滝駅を通過していった。

その後、駅から国道に出て白滝方面まで歩きながら、この旅情駅を遠望してみた。

少し離れると、道路の街灯と見分けもつかず、それと知らなければ、そこに駅があるということに気が付くのは難しい。

21時前になって、白滝から折り返してきた下りの普通列車が、旧白滝駅を通過していった。道内の夜行列車が全廃された今、旅客列車で旧白滝駅を通過するものは、もうない。

横殴りの雪が舞う中、路肩表示の電光掲示だけが明滅する無人の国道を歩き、旧白滝駅に戻る。吹き荒ぶ寒気を避けて待合室に入れば、ほっと落ち着く心地がした。

じっとしていると、着込んだ衣類のわずかな隙間に寒気が忍び込んでくる。この日は、この待合室の中で、一夜を明かすことにして、シュラフの中に潜り込む。

時折、風鳴の音が聞こえ、待合室全体を揺さぶるような風が吹き抜けるが、旅情駅は穏やかに、孤独な旅人を眠りに誘ってくれた。

下り最終の特急オホーツクが雪煙を巻き上げて通過していく
下り最終の特急オホーツクが雪煙を巻き上げて通過していく
白滝駅から折り返してきた下り普通列車が駅を通過していく
白滝駅から折り返してきた下り普通列車が駅を通過していく

翌朝は、7時20分頃の下り始発列車で駅を出発する。この始発列車は、下りの、最終列車でもある。そんな超絶した時刻表で運行される列車があることなど、鉄道に興味のない一般人の大半が知らないことだろう。このダイヤで運行される列車に乗って、每日、高校に通う。その生活に、想像がつくだろうか?

私は、そんな駅に旅情を求めて旅をしているが、それは取りも直さず、過疎化の現実を目の当たりにすることであり、地方のローカル線の置かれている厳しい状況を実感する旅でもある。

そして、その旅の舞台は、次々に失われていく。

まだ明けやらぬ5時過ぎに起床したこの日。6時頃までに出発準備を終えて、少し、白み始めた6時半頃に、意を決して待合室の外に出てみると、周囲は、青い大気の底で、凍りついていた。耳を澄ませば、キーンという音とともに、空気までが凍りつきそうな、そんな厳しい朝だった。

旅情駅で一夜を過ごしたからこそ出会う、夜明け前の表情。

私が一番好きな姿でもある。

待合室の窓ガラスは、私が発した水蒸気が凍結して、すりガラスのようになっている。外気温は、氷点下15度位。冬の北海道の朝としては、決して、低い温度ではないが、野宿で迎える朝となると、体に突き刺すような寒気である。

一夜明けた黎明の寒気の中で凍てつく旧白滝駅
一夜明けた黎明の寒気の中で凍てつく旧白滝駅
JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2016年1月)
夜明け前の一瞬、辺りは、真っ青な大気に包まれた
JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2016年1月)
待合室の窓は、周囲の冷気に晒されて凍りついていた

30分ほどでその青みが消えると、空は、昨日の続きで、どんよりと曇っていた。但し、曇りの朝というのは、放射冷却現象が起こらず、温度の低下は小さい。それで、氷点下15度くらいまでしか下がらなかったのである。北海道で生活している時には、氷点下20度を下回ると、冷えを実感していた。氷点下10度くらいだと、暖かく感じていたものだ。

この旅では、2週間ほど、北海道に滞在したが、帯広から釧路、根室を往復した2日間に太陽を見た以外、ほぼ、吹雪か曇り空だった。

ホームの上に建てられた小さな待合室は、1947年の開業以来、70年近くも、厳しい冬を耐え忍んできた。物言わず、寡黙に、旅客の安全を見守り続けてきた建物は、色褪せて、萎びた表情をしている。もし、人の手入れがなくなれば、数年のうちに倒壊し、原野に帰ってしまうであろう、そんな建物に過ぎない。

しかし、その表情には、この駅を守り続けてきた人々の思いが凝縮されているように感じた。

誰かに見せるわけでもなく、観光客の目に留まることもなく、ただ、黙々と、行き交う人を見守り続けてきたその姿は、旅情駅というに相応しかった。

JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2016年1月)
大気の青みが消えると、曇天の朝がやってきた
駅の周辺には酪農家の民家が点在する
駅の周辺には酪農家の民家が点在する

列車の到着までの時間を利用して、湧別川の方向まで足を伸ばしてみる。

雪に覆われて、河畔までは出られず、目に見えるところにあった建物の辺りから引き返したが、雪原の中に佇む待合室は、遠目には、農器具小屋のようで、駅と知らなければ気が付かないだろう。

除雪もされていない道を歩いて駅に戻り、駅名標を撮影したりして、列車の到着を待つ。

ちゃり鉄号の旅で、冬以外の季節に、石北本線を走りたかったと思うが、会社勤めをしながらの取材は思うに任せず、結局、この駅を、スリーシーズンに訪れる機会が無かったのが、残念だ。

少し離れたところから、雪原に埋もれる駅を遠望する
少し離れたところから、雪原に埋もれる駅を遠望する
一夜を守ってくれた待合室の名残を惜しむ
一夜を守ってくれた待合室の名残を惜しむ
旧白滝駅の駅名標
旧白滝駅の駅名標

7時15分過ぎ、白滝方の踏切が鳴り始め、峠を越えてきた普通列車のヘッドライトが、雪原の彼方に現れた。雪煙を巻き上げて近付いてくる普通列車は朝の始発であるが、この当時は、わざわざ上川から峠を越えて、運転されていた。上川から上白滝までの34kmは、ほぼ、回送列車同然で、石北トンネルを越える運用は、無駄ではなかったのか?という気もする。この列車が、夕方には、石北トンネルを越えて、上川に戻っていた。

朝、遠軽から上白滝まで回送し、そこで折り返して朝の始発にする運用は考えられ無かったのだろうか?

2021年現在、上川~遠軽の普通列車は、11時10分上川発12時41分遠軽着、13時27分遠軽発17時11分旭川着という時刻表で運行されている。

2016年1月1日の朝、到着した普通列車には、鉄道ファンらしき乗客の姿が散見された。石北トンネルを越えてきたキハ40系の車体には、それほど雪塊が着いていないことを見ると、峠はそれほど吹雪いていないのだろう。

石北本線で駅前野宿の旅をする時は、石北トンネルを何度も往来する事が多いのだが、この旅の時も、3回ほど峠を越え、そのいずれも、線路が見えないくらいの吹雪だった。

今日はこの日、遠軽まで下ってから、峠を越えて、上川近郊を往復し、夜は、同じくこの年の春で廃止される金華駅で駅前野宿の予定である。吹雪で運休になると困るのだが、北海道の鉄道は、そうそう簡単に運休にならない。鉄道が運休になる時は、道路も通行止めになるくらい酷い吹雪の時で、そんな時は、まともに外出することもできない。

その車中から、旧白滝駅の姿を眺めることは出来ようが、途中下車をする機会は、もうない。

2016年3月26日。春を待つことなく廃止される旧白滝駅。

最後のその日を、現地で迎えることは無いが、静かな一夜の思い出を胸に、最後の日を静かに迎えたい。

そう思いながら、この旅情駅を後にした。

JR石北本線・旧白滝駅(北海道:2016年1月)
早朝の石北トンネルを越えた下りの始発・最終列車がやってきた
JR石北本線・旧旧白滝駅(北海道:2016年1月)
雪煙を巻き上げながら近付いてくる普通列車
春を待たずに廃止される旧白滝駅に別れを告げる
春を待たずに廃止される旧白滝駅に別れを告げる
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旧白滝駅:文献調査記録

北海道鉄道百年史 上巻(日本国有鉄道北海道総局・1976年)

現在、札幌から網走に鉄道で旅しようと思えば、大半の旅客は、特急「オホーツク」などに乗車して、石北本線経由で網走を目指すことであろう。実際、それ以外の鉄道路線となれば、釧路経由の釧網本線しかなく、距離・時間・運賃の何れをとっても、比較対象にはならない。

しかし、北海道の鉄道建設史を紐解いてみると、石北トンネルを越える現在の石北本線の全通は、1932(昭和7)年10月の事で、網走に達する鉄道路線の建設史としては、後発の路線であった。

以下に示すのは、「北海道鉄道百年史 上巻(日本国有鉄道北海道総局・1976年)(以下、「北海道百年史上巻」と略記)」に掲載された、大正10年の鉄道路線図である。

これを見ると、現在の函館本線や根室本線に当たる路線が全通している様子は読み取れるものの、石北本線は、旭川から遠軽までの区間が、全く抜け落ちており、破線表示の未成線にすら挙げられていない。石北トンネルを穿つ北見峠越えは、それだけの難工事だったのである。

北海道鉄道路線図(大正10年)「北海道鉄道百年史 上巻(日本国有鉄道北海道総局・1976年)」
引用図:北海道鉄道路線図(大正10年)
「北海道鉄道百年史 上巻(日本国有鉄道北海道総局・1976年)」

しかし、同図を見ると、網走そのものに至る鉄道路線は既に開通していることが分かる。

北海道の鉄道敷設は、その厳しい自然環境にも関わらず、全国的に見ても非常に早く、国鉄に関係のある路線としてみると、1880(明治15)年11月28日の幌内鉄道手宮~札幌間の開通に遡ることが出来る。品川~横浜間の仮開業が1872年6月12日のことで、1880年といえば、関東では東京~横浜間、関西では大津~神戸間が開通していたに過ぎない。そんな時期に、小樽~札幌間の神居古潭の海岸を行く鉄道が開通していたという事実は驚愕に値するだろう。この2年後の1882年11月13日には、札幌~幌内間が開通し、幌内線の全線が開通している。

その後、北海道の鉄道は、開拓の使命を帯びて進められ、1916(大正5)年5月29日には、北海道鉄道一千哩祝賀会が開催されている。そしてこの時既に、札幌から網走まで鉄道路線が全通しているのである。

この文献調査記録では、石北本線開通前史として、網走を目指した鉄道敷設の経緯について、「北海道百年史上巻」の記述によって、辿ってみたい。

まず、北海道の鉄道敷設に関する包括的な計画としては、1896(明治29)年5月14日、法律第93号によって公布された「北海道鉄道敷設法」がある。「北海道百年史上巻」には、その制定経緯について詳述されているが、ここでは、そこに踏み込むのは割愛し、法令条文を参照することにしたい。

引用図:北海道鉄道敷設法「官報(第3860号・1896(明治29)年5月14日)」
引用図:北海道鉄道敷設法
「官報(第3860号・1896(明治29)年5月14日)」

官報で赤枠表示した部分は以下の通りである。

「北海道鉄道敷設法

第1条 政府ハ北海道ニ必要ナル鉄道ヲ完成スル為漸次予定ノ線路ヲ調査シ及敷設ス
第2条 北海道予定鉄道線路ハ左ノ如シ
 一  石狩国旭川ヨリ十勝国十勝太及釧路国厚岸ヲ経テ北見国網走ニ至ル鉄道
 一  十勝国利別ヨリ北見国相ノ内ニ釧路国厚岸ヨリ根室ニ至ル鉄道
 一  石狩国旭川ヨリ北見国宗谷ニ至ル鉄道
 一  石狩国雨竜原野ヨリ天塩国増毛ニ至ル鉄道
 一  天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道
 一  後志国小樽ヨリ渡島国函館ニ至ル鉄道」

ここに書かれている路線の内、第2条第二項の「十勝国利別より北見国相ノ内に至る鉄道」や、第五項の「天塩国奈与呂より北見国網走に至る鉄道」というのが、法律制定時に想定されていた、札幌から網走への最短経路である。他に、厚岸から網走に至る鉄道も計画されているが、距離的に見れば、これは、札幌から網走への速達路線というより、釧路から網走に至る鉄道であった。また、第四項には「石狩国雨竜原野より天塩国増毛に至る鉄道」が既に計画されていたことも、目を引く。現在の留萌本線が、この時既に、計画俎上に載っていたのである。

その後、法に基づき、全道の鉄道建設の優先順位を調査することになるのだが、当時の北海道は、現在のように、札幌を中心とした交通体系だったわけではなく、海運環境に恵まれた釧路などから建設に着手すべきという報告がなされている。

「北海道百年史上巻」によれば、臨時北海道鉄道敷設武技師田邉朔郎の復命では、「釧路から帯広を経て旭川に至る線」と「旭川からピップ原野に至る線」が最優先とされ、次いで、「網走から厚岸に至る線」、「釧路から根室に至る線」、「天塩線(旭川から北進して天塩国に入り、頓別平野を経て稚内に至る線)」が挙げられていた。

その後、1896(明治29)年12月には、「田邉技師の復命書により前年北海道庁において刊行した北海道幹線支線鉄道調書に加筆して、新たに「北海道官設鉄道調書」を作成し、これを拓殖務大臣に提出した。この官設鉄道調書は「第1北海道ノ現況及将来」と、「第2鉄道線路及説明」からなり、北海道に必要な鉄道を完成するため第1期鉄道として、拓殖並びに兵備上特に急を要するものとして562マイル、これについで起工しようとする第2期鉄道を442マイルとした」と記されている。

「北海道百年史上巻」には、「第2鉄道線路及説明」が掲載されているが、その中から、網走を志向する鉄道路線計画を拾っていくと、「第一期鉄道」として、「釧路ヨリ厚岸ニ至ル鉄道 二十七理」、「厚岸ヨリ標茶ニ至ル鉄道 二十七理」、「標茶ヨリ網走ニ至ル鉄道 六十五哩」があり、「第二期鉄道」として、「利別太ヨリ相ノ内ニ至ル鉄道 八十九哩」、「奈与呂ヨリ興部ニ至ル鉄道 五十五哩」、「興部ヨリ湧別ニ至ル鉄道 二十八哩」、「湧別ヨリ網走ニ至ル鉄道 八十四哩」がある。

これらの路線計画を後の路線名に当てはめていくと、根室本線・標津線・釧網本線、池北線・石北本線、名寄本線・石北本線というルートが想定されていたことになるが、当然、建設・開業当時の路線名は異なるものであった。

こうして、北海道の鉄道建設は、民間の鉄道会社から官設鉄道主導に転換し、進展していくのである。

以下に示すのは、「北海道百年史上巻」に掲載された「線路略図(明治40年7月1日現在)」である。

この段階でも網走への鉄路は建設開始には至っていないものの、札幌から名寄・旭川・落合までの区間と、釧路から帯広間が開通していることが分かる。

引用図:線路略図(明治40年7月1日現在)「北海道鉄道百年史 上巻(北海道鉄道総局・1976年)」
引用図:線路略図(明治40年7月1日現在)
「北海道鉄道百年史 上巻(北海道鉄道総局・1976年)」

となれば、南回りの路線は、落合~帯広間の接続と、池田付近から分岐して、相ノ内に至る鉄道建設の必要が生じ、北回りの路線は、名寄から分岐して、興部・湧別を経て、網走に至る路線の鉄道建設が必要となるわけである。この頃には、大雪山系を縦断横断する鉄道建設の計画は、まだまだ、検討俎上に上がっては来ない。

まず、南回りの路線は、既設線の旭川~落合間と、釧路~帯広間とを結ぶ、十勝線(落合~帯広)が1907(明治40)年9月8日に営業開始しており、これによって、旭川~釧路間が釧路線となった。更に、釧路線池田から分岐し網走に至る網走線が、1911(明治44)年9月25日までに池田~野付牛(現北見)間で、1912(大正元)年10月5日までに野付牛~網走間で開業し、全線が開通している。

また、下富良野線(滝川~下富良野(現富良野))が1913(大正2)年11月10日に開業しており、この開業によって、旭川~下富良野間が富良野線となり、滝川~下富良野~釧路間が、釧路本線となった。

一方、北回りの路線建設は大正時代に入ってからのことで、湧別軽便線(野付牛~下湧別)の開業は1916(大正5)年11月21日、名寄線(名寄~中湧別)の開業は1921(大正10)年10月5日のことであった。

こうしてみると、現在の石北本線の内、網走~遠軽間の路線は、そのまま、中湧別~興部~名寄という方向性をもって開業したことになり、遠軽でスイッチバックして旭川方面に向かう現在の路線は、まだ、この地には現れていなかった。

なお、この当時、旭川~上川間には、ルベシベ線が開業(1923(大正12)年11月15日)しており、石北西線と呼ばれていた。

この後、石北トンネルを挟んだ東西から石北東線、石北西線の工事が施工され、石北線が全通するとともに、既設の遠軽~網走間が石北線に組み込まれ、石北本線が誕生するのだが、その部分の経緯については、奥白滝駅に関する追憶の旅情駅探訪記の中で、改めて触れることにしようと思う。

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旧白滝駅:旅情駅ギャラリー

2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)

聞こえてくるのは、凍てついた雪面を踏みしめる音だけ
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駅を照らすたった1基の照明に、横殴りの雪が吹き付ける
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鉄道に並行する国道にも、殆ど、車の往来はない
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待合室から漏れる明かりは、ほっとする温かみに満ちていた
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国道から雪原越しに眺めた旧白滝駅の孤影
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凍てつく朝も、待合室の明かりは温かい
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青い大気の底で、駅は、まだ眠りの中
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モノトーンの情景の中で新しい朝を迎えた
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新年を迎えたこの日も、北辺の空は、雪雲に覆われていた
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早朝の石北峠を越えて朝の始発列車がやってきた
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冬の厳しさに耐えて走り続けるキハ40系
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