大畑駅:旅情駅探訪記
初訪問 ~1998年1月(ぶらり一人旅)~

JR肥薩線、大畑駅。
初めて、この駅に降り立ったのは、1998年1月1日のことだった。
南九州の薩摩・大隅両半島と霧島連山を、自転車で走る旅を行った帰路、吉松から、今はなき急行「えびの」に乗車して、この高原の旅情駅で途中下車をしたのである。
当時のダイヤの詳細は記録が残っていないが、夕刻の駅に降り立つと、駅舎側には吉松に向かう普通列車が「いさぶろう」のヘッドマークと正月飾りをつけて停車しており、急行「えびの」の着発を待っていた。
黄昏の大畑駅で、出発していく急行「えびの」を見送る。
続いて、吉松に向けて旅立つ「いさぶろう」を見送ると、束の間の喧騒に包まれていた駅に静寂が戻ってきた。元旦のこの日、夕刻の大畑駅に降り立つ乗客は、他には居なかった。

ループ線の途中にある高原のスイッチバック駅として、唯一無二のこの旅情駅は、訪れる者を魅了してやまない。
大畑駅を含む肥薩線や矢岳越えについての詳細を記述するのは、恐らく、冗長に感じられることであろうが、それを承知の上で、少し、その歴史に触れておきたい。
駅の開業は、1909年12月26日。
駅名である大畑(おこば)の「こば」とは、「焼畑」のことを指すのだと言う。その由来を物語るかのように、現在も、大畑駅のある高原の一帯には、畑地が点在している。
日本の鉄道黎明期を支えた蒸気機関車にとって、矢岳越えの区間は、動力の限界に近い三十パーミルを越える急勾配が連続する難所中の難所であり、ループ線に三段スイッチバックを併設して、ようやく、この険路を克服していた。
しかし、肥薩線は、単線非電化の地方交通線である。幹線でもない路線に、どうして、そこまで投資がなされたのか?という疑問が湧き上がる。
その疑問の答えは、鉄道建設史を紐解く事で氷解する。
即ち、建設当時、現在の肥薩線は、鹿児島本線を名乗っており、れっきとした幹線だったのである。
現在の鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道の海岸線ルートが開通したのは1927年。現肥薩線の山越えルートの開通から、18年も遅れている。その間、この峠越えの難路は、幹線として、多くの旅客や貨物の輸送を支えていた。
幹線であるからには、ループ線や三段スイッチバックを駆使してでも、勾配を克服して線路を敷設せねばならないのである。
矢岳越えの難区間にある肥薩線最長のトンネル・矢岳第一トンネルの出入り口には、北の矢岳側に当時の逓信大臣・山縣伊三郎による「天險若夷」、南の真幸側に完成時の鉄道院総裁・後藤新平による「引重致遠」との扁額が掲げられている。
扁額の意味はそれぞれ、このトンネルのおかげで、「天下の険も夷(岡・平坦地)の若く簡単に越えられるようになった」、「重い物を引いて、遠くに運ぶことができるようになった」といったものであるが、この区間の建設にかかる、国家の意気込みが感じられる。
現在も運行されている観光列車「いさぶろう」・「しんぺい」の名称は、これら建設功労者の名前に由来するのである。
幹線だったという歴史は分かったが、それにしても、何故、山越えのルートが選ばれたのであろうか?海岸線を行くルートならば、これほどまでの急勾配を克服する必要はなかったはずだ。
更に湧き上がるその疑問の答えは、建設当時の日本の国際情勢を鑑みることで見えてくる。
それは、「国防上の理由」、である。
日清戦争前夜の当時、食糧生産地である人吉地方からの輸送や、敵国艦隊の艦砲射撃に対する防御の観点から、強い権限を持った軍部の主導のもと、敢えて山越えルートが選択されたのである。そして、過酷を極めたその建設には、多数の朝鮮人労働者が、強制労働に動員されていた。
海岸線ルートの開通とともに、本線から地方線に格下げされ肥薩線と改称された山越えルートは、その後、日豊本線の開通によって、隼人~鹿児島間が日豊本線に組み込まれることになり、ついには、その路線名称にも関わらず薩摩には至らぬ路線となった。
日本の鉄道黎明期、全国で見られたこのような光景も、歴史の彼方に遠ざかり、今では、静かな高原の旅情駅に残る給水塔や駅舎が、この路線の栄枯盛衰を無言で物語るだけである。
観光客も去って暮れなずむ旅情駅・大畑で一人佇む。
明治の昔に思いを馳せる、静寂の時間。
去り難い思いに包まれながら、次の人吉行きの普通列車で、とっぷり暮れた旅情駅を後にした。

再訪問 ~1999年8月(ぶらり一人旅)~
1999年8月には、大畑駅を再訪した。
鹿児島で行われた学会に参加した後、南九州の鉄道路線に乗る旅を行い、肥薩線やくま川鉄道などにも乗車したのだが、その旅の道中で、駅前野宿の一駅として、この駅を再訪したのである。
前回訪れた時は1月1日であったが、今回は8月。緑が鮮やかな夏の大畑駅であった。

今夜は、駅前野宿の一夜を過ごせるとあって、駅付近を散策する時間にも恵まれる。そこで、駅西方の丘陵から俯瞰する大畑駅と到着列車の光陰を撮影しにでかけた。
フィルム写真時代の当時のことで、傷んだフィルムをスキャンして画像を修正したので、あまりきれいな写真は残っていないが、ループ線を下ってきて、スイッチバックの引込線に入っていく、到着列車の光陰が印象的であった。

駅に戻ると、駅舎周辺は、暮色に包まれていた。
大畑駅暮景。
駅前野宿ならではの至福の時間を過ごすことが出来た。

一夜明けて、早朝の大畑駅に到着した始発列車は、キハ31系の単行気動車であった。
夏の夜明けは早く、始発列車の時間でも、既に、日は高く昇っていた。
駅構内の給水塔や保線詰所を撮影しつつ、駅で過ごすひと時を楽しんだ後、吉松に向かう列車に乗って、駅を後にした。

第三訪 ~2016年12月・2017年1月(ちゃり鉄9号)~
三度目の訪問は、2016年12月29日、及び、2017年1月2日のことだった。
正確に言えば、第三訪、第四訪ということになるが、ちゃり鉄9号の旅の中での訪問であったので、両者をまとめて、第三訪とした。
このちゃり鉄9号の旅では、肥薩線も全駅を訪れたのだが、矢岳越え区間の真幸、矢岳、大畑の三駅全てで、駅前野宿をすることにした。
隣接する三駅に、順番に一つずつ駅前野宿することにすると、その日の行程が間延びしてしまうので、行程的には、複雑に行ったり来たりしながら、三駅全てで駅前野宿できるようにした。この辺りの計画は、作成に苦心したところである。
まず、はじめに矢岳駅で駅前野宿。この日は、桜島を出発してから、大隅線跡を辿り、隼人から肥薩線の各駅を辿って、真幸駅から矢岳駅に到着した。
翌日、矢岳駅から大畑駅を経由して、肥薩線全線を走破し、上田浦駅まで進んで駅前野宿。
更に翌々日、上田浦駅から水俣に進み、山野線跡を巡った後、吉松駅から吉都線に入り、京町温泉駅でちゃり鉄を「途中下車」。真幸駅に登って、駅前野宿。
その後、吉都線を走破し、都井岬、宮崎交通鉄道線跡、妻線跡、横谷峠、くま川鉄道と巡って、大畑駅で駅前野宿。そこから、久七峠を経由して薩摩大口に抜け、宮之城線跡に進む…という行程である。
矢岳駅を出発した12月29日早朝、大畑駅近郊の高原に達すると、眼下には、雲海が朝日に照らし出されて金色に輝く、絶景が広がっていた。

集落を通り過ぎて、しばらく走り、高原の大畑駅に到着した。集落から大畑駅までは、自転車でも結構な距離がある上に、アップダウンも相応で、現在、この駅を定期利用する乗客は居ないように思われる。
開設当時は、急勾配に挑む蒸気機関車の給水や交換のために設けられた、信号所としての役割が強かったことが分かる。
この日の天気は下り坂で、駅に到着する頃には、次第に曇りがちとなってきた。
開業以来の歴史を刻む大畑駅の駅舎とホームの水場を撮影する。
蒸気機関車の時代、人吉からの急勾配を登って、高原の大畑駅に到着した列車からは、多くの乗客が降り立ち、ホーム上のこの水場で、煤けた顔や手を洗ったことだろう。
そんな喧騒も今は昔。真冬の高原駅の朝は、ピンと張り詰めた静寂に包まれていた。

この日は、大畑駅で停車した後、直ぐに出発して、肥薩線に沿って球磨川を下る予定であった。
数日後に再訪する予定であったので、短時間の滞在で駅を後にする。
人吉への道中、駅付近にある人吉梅園を眼下に望む高原の縁に達すると、朝焼けに照らされて金色に輝く雲海が沸き立ち、その彼方に、重畳たる九州山地の山並みが続く絶景が広がった。
しかし、沸き立つ雲が暗示したように、球磨川沿いに下り始める頃には雨が降り始めた。

それから4日後の1月2日、再び、大畑駅に到着した。この日は、妻線の終着駅だった杉安駅跡付近から、村所、横谷峠、くま川鉄道沿線を経由して、夕刻に到着した。今夜は駅前野宿である。
4日ぶりに再訪した暮れなずむ大畑駅。
この日も、観光客の喧騒はなく、静かな旅情駅を堪能することが出来た。

駅付近を散策していると、山峡に列車の走行音が響いてきた。
ほどなく、人吉からの急勾配を登って、単行気動車の普通列車が、ホッと一息つくといった感じで、大畑駅に入線してきた。蒸気機関車の時代が遠ざかり、ローカル線は、気動車の時代になったが、気動車にとっても、矢岳越えの急勾配区間は、厳しい区間であることに違いはない。

車内には観光客らしき乗客が散見されたが、乗降する客はおらず、ほどなく、スイッチバックして、引込線に入っていった。徐行しながら、入線してきたばかりの線路を逆走し、渡り線を通って引き込み線に入っていく様は、スイッチバックならでは。
開業当時の施設が残る駅構内を、スイッチバックで気動車が発着する風景は、今では貴重な風景であり、給水塔や駅舎、ホームの噴水などは、南九州近代化産業遺産群の一つに指定されている。
やがて、汽笛が聞こえ、ループ線を通って吉松方面へ出発する普通列車が駆け抜けていった。しばらく、山峡に気動車のエンジン音が響いていたが、やがて、引込線の向こうの丘の上に、テールライトが見えたのも束の間、エンジン音の余韻を残して、矢岳越えに消えていった。

静けさの戻った高原の旅情駅。暮色に包まれる大畑駅の情景。
久しぶりの駅前野宿の一夜に、明かりが灯ったホームの上で、静かな喜びを噛み締めた。

訪れる者が居ない旅情駅も新年の装いをまとっていた。地元の方の愛着を感じるひと時だ。

暮色の移り変わりはドラマチックだが、一瞬でもある。
駅舎の外に出てみれば、明るい紫色に包まれていた空は、いつの間にか、群青色に染まり、夜の帳が下り始めていた。明かりの灯る旅情駅に、一人佇む至福の時間。夕刻の静けさが心地よい大畑駅。一人旅の時間の中で、私が、一番好きな時間である。


駅付近を散策していると、山峡に列車の走行音が響き始めた。
やがて、ループ線に軌跡を描いて、人吉行きの最終が静かに入線してきた。
暗くなった窓の外を眺める乗客の姿もなく、車内に散見された乗客は、皆、居眠りをしている様子だった。
19時過ぎに人吉方面への最終のテールライトを見送る。
旅情駅の夜には、テールライトが似合う。

20時過ぎには、吉松方面への最終列車が出発した。これが、本日の最終列車でもある。
最終列車を見送った後の駅に一人佇む。
とっぷり暮れた高原の旅情駅に訪れるのは夜の帳ばかり。
ホーム上を、何を思うでもなく、ブラブラしている内に、辺りには寒気が降りてきた。九州とはいえ、高原の駅の冬の夜は、寒さも厳しい。
テントに帰り寝袋に潜り込むと、心地よい暖かさの中で、あっという間に眠りに落ちた。

翌、早朝。
黎明の澄み切った大気の中に佇む大畑駅の情景。
最も旅情駅らしい雰囲気が漂う、日の出前の静謐な時間。
日没後の暮れなずむ時間は、感傷的な気持ちになるが、夜明け前の黎明の時間は、凛とした清々しさを感じる。
ほとんど雲のない群青の空が、水平線から、紅に染まってゆく。今日一日、好天に恵まれそうだ。


やがて、山峡にエンジン音を響かせて、人吉へと下る始発列車がやってきた。
時刻は7時過ぎだが、九州の朝はまだ明けず、辺りは、青い大気の底で、まだ、眠りについている。
始発列車の出発を見送った後、私も、本日の目的地、薩摩高城駅に向けて、まだ明けやらぬ大畑駅を後旅立った。

大畑駅:旅情駅ギャラリー
1998年1月撮影(ぶらり一人旅)





1999年8月撮影(ぶらり一人旅)





2016年12月・2017年1月撮影(ちゃり鉄9号)





















大畑駅:地図画像
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