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新改駅:旅情駅探訪記
2000年3月(ぶらり乗り鉄一人旅)
大学時代に所属していた陸上競技部では、春休みの3月に高知県内の複合スポーツ施設で全部員が参加する春合宿を行うのが常だった。
その往復には、今は亡き大阪高知特急フェリーを利用するのが普通だったのだが、鉄道を利用することもできた。合宿前は難しいものの、合宿が終わり帰京する経路では、青春18きっぷを使って、ちょっとした鉄道の旅を楽しむことのできる時期だった。
大学3回生になった1999年には、四国をぐるりと周って帰ったのだが、あいにく、新改駅に立ち寄るルートは通らなかった。この時、土讃線内では、もう一つのスイッチバックの旅情駅である、坪尻駅で駅前野宿をしているのだが、携行していたカメラがいわゆるインスタントカメラで、まともな写真が残っていない。
翌2000年3月の春合宿では、一眼レフカメラを携行して、この新改駅で駅前野宿を行った。
一眼レフとはいえ、ネガフィルムにはコストがかかり、撮影技術もなかったため、あまり多くの写真は残せなかったし、出来栄えも今一つだった。しかし、昨年の坪尻駅と合わせて、今や数少なくなったスイッチバックの駅を訪れ、駅前野宿の一夜を過ごせるのは、何にも代え難い喜びだった。
到着した新改駅は既に暮れて雨の中。明かりが灯る無人境で何枚かの写真を撮影し、待合室のベンチで寝袋にくるまって寝た記憶がある。
新改駅の駅舎は、本線からは離れたところにひっそりと佇んでいるので、通過列車の気配も遠くに感じる。寝袋にくるまってしまえば、早春の山中とはいえ、寒さを感じることもなく、朝まで目が覚めることはなかった。
翌朝は、出発前に駅の周辺を散策する。
嵐気に包まれた駅周辺は、昨夜来の雨の影響もあって、しっとりと湿り気を帯びている。辺りを散策しているうちに、高知方面への下り普通列車が到着し、消灯して通過待ちの体制に入った。
駅の周辺には線路に沿っていくつかの廃屋があり、かつての住民が利用していたのであろうか、踏み跡がそれらの廃屋に通じている。
そのうちの一つを辿りながら、本線を通過していく列車を待つ。
時間的に、登りの特急列車が通過するはずで、しばらくすると、谷を登ってくる気動車の走行音が響き始める。やがて軌跡となって通過していった特急は、駅のすぐ隣の山体に掘られたトンネルに消えていった。
この辺りはトンネルの連続区間で、国土地理院の地形図で数えると、土佐山田~新改間に10箇所、新改~繁藤間に13箇所のトンネルがある。新改~繁藤間が分水界となっており、繁藤駅前を流れる穴内川は、紀伊水道に流れ出る吉野川の支流である一方、新改駅周辺の水系は下流で国分川となり、太平洋に面した浦戸湾に注ぎ込んでいる。
しばらくすると、高知に向かう普通列車が、ヘッドライトの軌跡を描いて、山を下って行った。
さて、ここで新改駅の歴史について記載しておこう。
新改駅は、1935年11月28日に、新改信号場として設置された。当初の読み方は「しんがい」ではなく、「しんかい」であった。駅に昇格したのは、1947年6月1日のことである。その後、1956年12月15日には「しんかい」から「しんがい」に読み方が変更されている。
1970年10月1日には無人化され、駅業務は駅前の商店に簡易委託された。しかし、Wikipediaの情報によると、この商店の閉店に伴い1987年頃には簡易委託も廃止され、完全な無人駅となったようだ。
「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によると、駅名の由来は、「新開・開拓地の意。江戸期に土佐藩の執政・野中兼山が新しく開いた田地もある」と記載されている。
現在の所在地は、高知県香美市土佐山田町東川。地名のどこにも、新改という文字が入らないが、ここは、「角川日本地名大辞典」の出番である。
「角川日本地名大辞典 39 高知県」を開いてみると、東川の地名について「長岡台地の北方に位置し、国分川(新改川)の支流に沿う山村地域。地名の由来は新改川支流で東から流れる川に沿うことによると伝えられている…中略…織豊期から見える地名」とあり、江戸期から明治22年まで東川村が存在し、明治22年から昭和29年までは新改村大字東川、昭和29年以降は土佐山田町大字東川となっていることが示されている。
即ち、信号場としての設置当初、ここは、新改村の村域だったわけで、その名前が取られたとしても、おかしくはないわけである。
それで一件落着と行きたいところだが、周辺の地形図を眺めていると、おかしなことに気が付く。
以下の国土地理院の地形図をよく見ると、新改駅の南西に、土佐山田町入野という地名を挟んで、土佐山田町新改という地名が見えている。
新改村が土佐山田町に吸収合併された際に、新改村の名は消えているのだが、なぜか、土佐山田町新改という地名が残っているのである。そして、その場所は、現在の新改駅からは、大きく隔たっている。
この土佐山田町新改と、新改駅との関係はどうなるのであろうか?
これについて「角川日本地名大辞典 39 高知県」の記述をさらに調べると、新改村について、以下のように記載があった。
「江戸期~明治22年の村名。…中略…明治4年高知県に所属。同22年に新改村の大字となる。…中略…明治22年~昭和29年の長岡郡の自治体名。新改・入野・上蚊居田・久次・平山・東川・曽我部川・陶の8か村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。…中略…昭和29年からは土佐山田町の大字」
つまり、新改駅が所在する大字東川と同じレベルの大字として新改があり、これらは、明治22年までは、東川村、新改村という別々の村であった。それが、明治22年に合併し、新たに新改村を構成。その際、旧村域のそれぞれが大字を形成した。こうして生まれたのが新改村大字東川、新改村大字新改である。その後、昭和29年に土佐山田町に吸収合併されるにあたって、新改村の大字がそのまま土佐山田町の大字に引き継がれた。それによって、土佐山田町大字東川、土佐山田町大字新改が誕生したわけである。
駅名の新改は、明治22年から昭和29年まで存在した新改村に由来するもので、古くから存在し続けている大字新改に由来するものではない。そのため、現存する大字新改とは異なる大字東川の地に、新改駅が存在するということになっているのである。なお、香美市の成立については、ここでは無関係なので、特に扱わない。
駅名について、地形図などを見ながら深く検証していくと、その駅を含む地域の歴史が露わになる。それは、鉄道趣味からは離れた領域になるが、無関係なものではなく、むしろ、鉄道沿線を旅する時の背景知識として、旅に味わいと深みを与えてくれるもののように思う。
さて、新改駅の探訪に戻ろう。
駅の周辺には、現住の民家は存在しておらず、林業家のものと思われる倉庫が、辛うじて現役で利用されているように見える程度である。
ただ、地形図にも見られる廃屋が点在しており、かつて、この駅の周辺でも人々の生活が営まれ、それ故に、信号場が駅に昇格したのだといことが垣間見られる。それらについては、後ほど述べることにするが、こうした廃屋にたどり着く道の跡が所々に残っており、そのうちのいくつかを辿ってみると、少し高い位置から新改駅を見下ろす場所に出た。と言っても、痕跡は獣道以下で、道があるわけではなく、地形を読んで藪を突っ切る必要がある。
泥と草と蜘蛛の巣にまみれて駅に戻り、今度は、ホームの奥まで行ってみる。
線路は、ホームの末端から50mほどで途切れており、草生している。
この辺りは西北西斜面になっていて日当たりが悪い上に、樹林に覆われていることもあって、擁壁なども苔むしている様子だった。
ホームに戻って程なく、乗車予定の普通列車が到着するが、その列車を離れた位置から撮影する。通常なら乗り遅れたら大変とばかり、直ぐに乗り込むところだが、この列車がまだ出発しないことは分かっている。
実にのんびりしたもので、旅の場面としては旅情あるひと時だが、毎日の定期利用でこの待ち合わせとなると、歯がゆい思いをするかもしれない。
しばらくすると、本線を特急が通過していくのだろうが、さすがに、通過するのを待っていては、乗り遅れる危険もあるため、写真撮影もほどほどにして普通列車に乗り込み、この山峡の旅情駅を後にした。
2016年5月(ぶらり乗り鉄一人旅)
新改駅への再訪問は、16年ぶりの2016年5月のことだった。四国の鉄道全路線を巡る旅の中で、坪尻駅とともに再訪を果たし、駅前野宿の一夜を過ごすことができた。
この16年の間に、スイッチバックの駅は、いくつか消えていった。蒸気機関車の時代に、勾配緩和を目的として設置されたスイッチバックは、ディーゼル車の登場とともに不要となり、運転上は、むしろ、邪魔な存在となった。そのため、多くのスイッチバック駅が本線上に移設され、スイッチバックが廃止されている。
新改駅や坪尻駅も、既に、駅としての使命は無きに等しく、いつ廃止されてもおかしくない状況であるが、スイッチバックとともに辛くも存続されていることを、まずは素直に、喜びたいと思う。
この旅では、新改駅に三度も途中下車した。
まずは、訪問初日。土讃線の下り普通列車で阿波池田方面から土佐山田に抜ける途中、15時過ぎに新改駅にて長時間停車。その間に、途中下車して駅周辺を散策した。その後、出発時刻には列車に乗り込み、一旦、土佐山田まで下った後、食料などを買い込んで、改めて、上り列車で新改駅に引き返して、18時過ぎに再び途中下車。その晩は駅前野宿なので列車の出発を見送った。
翌日、朝の上りの始発列車で新改駅を出発、土佐北川駅を訪問し、その後、下りの普通列車に乗って、再び新改駅に到着。長時間停車の合間を利用して散策するとともに、駅前野宿で落としてきたテントのポールを回収する。これが出来なければ、後々の行程に重大な支障を来すところだったので、一安心。出発時刻になって列車に戻り、高知西部に向けて、新改駅を後にしたのだった。
この訪問初日は、爽やかな晴天の中。明るい新緑の新改駅に迎えられて、駅の印象が変わる。
普通列車の最後尾に陣取り、車中からスイッチバックの配線を撮影する。この駅の構造はシーサスクロッシングと呼ばれており、貴重なものである。本線が直線化されているため、通過列車の減速が抑えられている点は、特筆に値するもので、坪尻駅のシーサスクロッシングが高速化工事によって廃止されたのと、明暗を分けた感じになっている。
線路に立ち入って撮影するわけにはいかないし、付近の山に這い上がって撮影するのは、泥と草と蜘蛛の巣まみれになる覚悟が要ることを、経験上、知っている。車中からの撮影はアングルは限られるが、なかなか、貴重なものだ。
スイッチバックして静々とホームに滑り込んでいくと、懐かしい新改駅が、日差しを浴びて佇んでいた。前回の訪問時は雨だったこともあり、どちらかというと、鬱蒼とした印象を受けたのだが、意外に明るい時間帯もあるのだと知る。一度の訪問だけでは、その駅の姿は分からないものだ。
この時の列車はワンマン運転中だったため、ホームに停車した後、運転士は前方の運転台に戻り、ホームに降り立って辺りをウロウロするのは、私一人だった。
しばらくすると、山峡にどこからともなく列車の走行音が響いてくる。新改駅の上り方はすぐにトンネルに入るから、列車の走行音が響いてくるとすれば、それは、土佐山田方からの上り列車である。
程なく、本線上を特急が通過していくのが見えた。
ホームは本線から離れているため、通過列車の音も、少し、遠く聞こえる。
特急を見送れば、我が普通列車も出発の時である。構内の中継信号が停止表示の間に、列車に乗り込んで、一旦、新改駅を後にする。時刻は15時37分頃だった。
駅から本線に入れば、直ぐに、25‰の下り勾配。引上線の末端に来る頃には、本線と引上線の間に、1m以上の高度差が出来ていた。
トンネルの連続する区間を下りつつ、高い位置から土佐平野を眺めて市街地に入ると土佐山田駅に到着。駅前に出て食料補給などをしつつ駅の写真撮影を済ませ、踵を返して上り列車で新改駅に戻ってきたのは、同じ日の18時17分頃。今度の上り普通列車は車掌乗務車で、駅に到着すると、運転士と車掌がホームに降りて、しばし、くつろいでいた。
他に、鉄道ファンらしき男性が一人降り立ったが、こういう時、お互いに距離を保つことが多く、特に会話するということはない。
新改駅が目的駅なのに、一旦先に進んで土佐山田まで往復するというのは、普通の旅人には理解しにくいことかもしれない。
しかし、新改駅で降りても、駅の周りに、コンビニは勿論、商店などは一切ない。旅情駅の風景としては、むしろ、それが当たり前だし、それを期待しても居る。
一方で、そういう環境であるが故に、旅情駅での駅前野宿に備えるには、事前に夜と朝の食材を手に入れる必要がある。阿波池田から土佐山田までの区間では、それほど大きな町は通らないし、あまり早い時間から食材などを手に入れると、移動の際の荷物が増えるだけだ。
その為、乗降自由のフリー切符の類を携行している時は、一旦目的駅を通り過ぎて、目ぼしい主要駅まで進んでから、駅前野宿の準備をして、目的駅まで引き返すというプランで旅をすることが多い。目的の駅が初訪問の時などは、下見をするという目的も兼ねている。
最近は、事前に多くの情報を仕入れられるようになったので、当たり外れはあまりなくなったが、それでも、目的駅で降りようとすると、思ったような環境ではなかったり、先客がいて駅前野宿に支障があったりすることがたまにある。そういう場合は、予定を変更して、別の駅で駅前野宿をするということもある。私の旅は、時刻表や計画書を携えての旅で、分単位で予定が決まっているが、その中で、随時、変更を加えながら、全体的に見て目的を果たすというところに、面白みを感じている。
この時、15時台に新改駅に到着しているにもかかわらず、わざわざ、土佐山田駅を往復したのは、そういう事情があったのである。
新改駅の「駅前」は、道路のどんつきである。特に駐車場などがあるわけではないが、転向には十分なスペースがあり、駅前野宿にも支障はない。奥の方は、アスファルトから砂利になり、やがて草むらから山の斜面になる。
駅舎は業務スペースもある比較的新しいものだが、開業当時の駅舎をリニューアルしたもののようだ。
古い時代の写真を見ると、駅前には商店があり、そこが簡易委託駅時代の切符販売所でもあったのだが、閉店とともに簡易委託業務も廃止され、今、その商店の痕跡はない。
駅に通じる道は、駅に行くためだけの道でもあり、駅舎前から急勾配で山を下り、谷向の集落へと続いている。途中、廃屋や工事業者の施設もあったが、民家はなかったように思う。
ホームで休んでいた車掌や運転士が列車に戻り、出発準備に入ると、程なく、本線を下り特急が通過していった。私と一緒に下車した男性は軽装だったので、停車時間だけの滞在だろうと思っていたが、乗り込む様子もない。装備から考えて野宿や駅寝の旅人ではなさそうだが、次の列車で出発するのか、少し気になる。
程なく、阿波池田行きの上り普通列車は、引上線に入ってスイッチバックし、繁藤駅に向かって走り去った。15分ほど停車していたことになる。改めて考えてみれば、それほどの長時間停車でもないが、都会の鉄道ではあり得ない停車時間で、それが却って都会生活の慌ただしさを浮き彫りにする。
さて、この新改駅は、元々、信号場を起源に持つ駅であることは既に述べた。
その後、旅客駅に昇格しているのだが、現在の駅周辺の様子だけを見ると、旅客化の必要性があったのか、疑問を抱くことだろう。そこで、国土地理院の空撮画像を調べてみることにした。
比較に使ったのは、2010年5月2日、1975年11月1日撮影の、2枚の空撮画像である。これ以前の時代のものはモノクロで、解像度もよくないので割愛した。それぞれ、同図幅の国土地理院地形図を重ねてあり、マウスオーバーやタップ操作で、切り替えることができる。
1975年段階で既に無人駅化されており、有人駅時代の様子を知ることはできないが、2010年と比べて1975年当時は、駅周辺の棚田がはっきりしており、引上線の奥や本線わきに表示された建物表示に該当すると思われる建物も、はっきりと映っている。2010年の空撮画像では、それらが撤去された上で周辺が整地されているように見え、実際、現地でその辺りに行っても、深い藪に覆われているだけで、民家の痕跡は見つけられなかった。
また、本線のトンネル脇の民家や分岐地点脇の棚田は、今も廃屋や痕跡となって残っており、かつて、この地で生活していた人々の暮らしに思いを馳せることができる。ポイント付近の棚田跡には、草むらに埋もれるように廃屋が残っていた。
鉄道開設当時、道路網は今よりはるかに貧弱だったわけで、信号場と言えど、ここに鉄道が通うということは、住民にとって、何にも代えがたい安心につながったに違いない。また、信号場が開設されたとなると、信号場勤務の国鉄職員が居たはずで、その職員向けの官舎もあったと思われるが、古い画像を見ても判然としなかった。
さて、列車が出発してしまえば、辺りは、ひっそりと静まり返る。この季節は、まだ、虫の音も少ない。日の長い季節とは言え、既に暮れ始めており、駅は明かりが灯り始めた。
日没間際から夜明けにかけての駅の姿が好きで、わざわざ、駅前野宿などをして、その姿を見に行くのだが、その時間帯に駅を訪れる鉄道ファンは少数派で、駅寝で旅をする人が、時折現れるくらいである。ただ、そういう人と鉢合わせることもあり、それはそれで気まずい。
私自身は、JR三江線の江津本町駅で駅前野宿をした時、雨を避けて待合室で過ごしていると、最終列車から2名の旅人が降り立ち、狭い待合室の中で3人、一言も会話が生まれることなく一夜を過ごすという経験があった。うち1人はゲップをしたり放屁をしたり、深夜に蚊を退治しようと動き回ったり、散々な夜であったが、今ではそれも笑い話である。
暮れ始めた駅の撮影をしていると、先ほどの列車で下車した男性が、一定の距離を保ちつつ、ウロウロしているのが目に入る。向こうは向こうで、「変な奴が居る」と思っていたかもしれない。
日暮れの空の色は、黄金色から茜色へ、茜色から青紫へ、青紫から群青へと、刻一刻と変化していく。
大気が青みを帯び始める頃には、駅の明かりが灯り、旅情駅の夜が始まるのだが、これから夜明けにかけてのひと時が、私の最も好きな時間帯でもある。「青の時間」と呼ぶことにしているのだが、日没後の青の時間と、夜明け前の青の時間では、同じような色合いの大気の中にいても、空気感は違う。
日没後のそれは「遠き山に日は落ちて…」という郷愁を誘うもので、夜明前のそれは凛と張り詰めた静謐さを感じさせるものだ。
暮れかけた駅の周辺を散策しながら、今日一日の旅の余韻に浸る。
朽ちかけた廃屋に人が住んでいた頃、この時間になれば、窓から明かりが漏れ出ていたのであろうか。
ポイント付近で普通列車の到着を待っていると、程なく、トンネルから轟音が響きだし、やがて、光陰を残して、単行の気動車が引上線に入っていった。スイッチバックして駅に停車した普通列車の行先表示は、須崎となっている。
時刻は19時半過ぎ。
これから高知市街地を越えて、土佐西部の須崎まで行くとは、結構な長旅である。普通列車は、今度は、通過待ちをすることなく、直ぐに出発していった。
駅を出発する気動車を眺めると、件の男性が、いつの間にか乗車しているのが見えた。
駅に残ったのは、夜の帳と私だけだ。
当時の時刻表の詳細は記録が残っていないのだが、この後、発着する列車の撮影を行っていないところを見ると、恐らく、19時半頃の須崎行き普通列車が、駅に発着する最終列車だったのだろうと思う。
2021年現在では、上りは3本で最終が18時27分。下りは4本で最終が19時35分となっている。2016年当時も、同様のダイヤだったと思われるが、上りの始発に関しては、2021年現在、始発が13時53分となっている。6時16分に土佐山田を出る阿波池田行き普通列車が新改駅を通過しており、ここは、当時のダイヤと大きく変わっている点だと思われる。
20時前には、本線を通過していく特急をホームから撮影した。
それを最後に、駅前野宿の眠りに就いたようで、以降の撮影記録は残っていない。
翌朝は、5時過ぎの上り特急「しまんと」の通過で始まる。
5月とあって、この時刻には既に空が白んでいるが、辺りの空気には夜の名残が少し残っており、まだ、青みがかった大気が漂っていた。
特急「しまんと」がテールライトの軌跡を残してトンネルに消えていくのを見送って、早朝のホームに戻ってみる。
ホームの照明は、この時刻には既に消灯されていたが、朝が来たから消灯したというより、昨夜の最終列車通過後に、タイマーで消灯されたのかもしれない。実際、駅舎の照明は点灯したままで、まだ、眠りの中にいるようだった。
6時前にはすっかり明るくなっていた。
そこで、始発到着の前に、辺りの探索を行ってみる。
付近の廃屋に通じる踏み跡は随所に残っている。今では、道の体をなしていないものの、かつては、ここを住人が往来していたのだろうと、往時を偲ぶ。
トンネルを出たところの本線わきには、短いホームが残っているが、これは、通票授受のための職員用ホームの跡だという。
本線脇の廃屋辺りから、山側の藪を泥と草と蜘蛛の巣にまみれながら、引上線の方にたどってみる。既に記したように、1970年代頃の写真には、この奥にも民家が存在していたように見えるからだ。そこに至る道の痕跡が残っていないかと探ったものの、そういうものは存在せず、民家があったと思われる地点までたどり着いても、深い藪と草むらに遮られて、痕跡は何も見つけられなかった。線路脇から場内信号と駅方向を撮影して引き返す。かつての住民は、この下の本線側からアクセスしていたのかもしれないし、若しくは、引上線を歩いていたのかもしれない。
苦労して駅まで戻り、駅名標を撮影する。
この駅での滞在時間も残り少なくなった。ポイント付近の斜面下側にある、棚田の跡などに足を延ばしてみると、そこにも、草むらに埋もれるような廃屋があり、生活の痕跡も色濃く残っていた。
アンパンマン車両を先頭にした、上りの特急「南風」が足早に駆け抜けていく。蒸気機関車や旧式のディーゼル機関車の時代、土佐山田からの急勾配を上る列車は、この山中の寂寞境で、ホッと一息ついていたことだろうが、車両性能が向上した現在、特急はおろか、普通列車ですら、この駅を通過していくものがある。
駅に戻り、体に付いた植物の種や蜘蛛の巣を払いながら、ここで過ごした一夜の思い出に耽る。次の訪問がいつになるかは分からないが、その時まで、この旅情駅が存続していることを願いたい。
程なく、山峡にディーゼルエンジンの音がこだまし始める。阿波池田行きがやってきたようだ。
バックパックを背負って入線してくる普通列車を迎える。
乗り込もうとすると、行商人のように大量の荷物を抱えた男性が降りてきた。荷物は、整理されておらず、一度で下ろしきれない量を、何度も何度も運び出しているのだが、なぜか、浮き輪があったり、ボロボロの傘が何本もあったり、段ボールやブルーシートが裸で放り出されたり、浮浪者風の旅人のようだった。
全ての荷物の搬出が終わるのを待って、車中の人となり、この旅情駅を窓辺に見送った。
阿波池田行きの車中で荷物を整理していると、いつも、バックパックのサイドポケットに収めているテントポールが無くなっていることに気が付いた。テントポールが無くなったとなると、駅前野宿にとっては致命的だ。
この日は、土佐北川駅まで舞い戻って途中下車してから、下り普通列車に乗り込んで、高知西部に向かう。その際に、再び新改駅に停車する。
時刻表から推定するに5分程度は停車しそうだったので、停車中にテントを張った場所を探せば見つかる気がした。しかし、先ほどの男性が、恐らく、駅前で野宿体制に入っているだろう。もしかしたら、私の落としたテントポールを見付け、アイテムに加えてしまっているかもしれない。
なんとなく落ち着かない心地の中、土佐北川駅の訪問を終えて、1時間ほどで新改駅に戻ってきた。
今度は、前面窓付近から、スイッチバックを眺めつつ、駅に滑り込む。バックパックを車中に残して、カメラを携えて再び途中下車。
テントポールを回収しに駅前に出ると、砂利道の奥の草むらの中に、先ほどの男性の家が出現していた。大量の傘とブルーシートでくみ上げた家の中に、男性が居たのかどうかは分からないが、これだけの荷物を抱え込んで旅をするというのは、どういう心境なのだろう。家には浮き輪も立てかけられていた。この山の中で、浮き輪は何に使うのだろうか?と気になったが、話しかけることはせずに、ポール探しに入る。
前夜の野宿跡を見ると、草むらの中に取り残されたテントポールの袋が横たわっていた。幸い、アイテムにはならなくて済んだようだ。
忘れていったことを詫びながら、無事、回収できたことで一安心し、停車中の普通列車の撮影を行ってから、車中に戻る。
この時は、3分程度の短い停車時間だった。実に際どいところだった。
左手に引上線を見送りながら、再度、新改駅に別れを告げ、県西部に向かって出発したのだった。
新改駅:文献調査記録
日本国有鉄道百年史 9(日本国有鉄道・1972年)
坪尻駅の旅情駅探訪記にも記したのだが、土讃線の建設工事記録に関しては、「日本国有鉄道百年史 9(日本国有鉄道・1972年)(以下、国鉄百年史と略記)」の中に、まとめられている。
以下、その既述を引用しながら、新改駅周辺の線路敷設に関しても、とりまとめることにしよう。なお、土讃線全体に関する概要のまとめについては、坪尻駅で記載したものと同じものを再掲することにした。
まず、土讃線全体の既述についてであるが、それについては、以下のようにまとめられている。少し長いが引用する。
「土讃線は、開通の時期から見て多度津・琴平間、土佐山田・須崎間、琴平・阿波池田間、阿波池田・土佐山田間、須崎・窪川間の五つに、また地形状と機能状からは多度津・阿波池田間、阿波池田・土佐山田間、土佐山田・窪川間の三つに分けられる」。
「開通の経過としては、多度津・琴平間は、当初讃岐鉄道として明治25年5月丸亀・琴平間が開通していたが、次いで琴平・土佐岩原間は、土讃北線としてまず琴平・讃岐財田間が大正12年5月、次いで猪ノ鼻隧道の完成とともに昭和4年4月佃まで開通、更に昭和6年9月三繩まで開通した。南からは、高知線として須崎・土佐山田間が着工され、大正13年3月須崎・日下間、同年11月高知まで、翌14年12月土佐山田まで開通した。そして、土讃南線土佐山田・土佐岩原間は昭和5年6月角茂谷まで開通し、次いで角茂谷・大杉間が昭和7年12月、大杉・豊永間が同9年10月開通し、昭和10年11月豊永・三繩間が開通して南北両線が連絡し全通した」。
「須崎から西は窪川線として昭和10年11月起工されたが、本期末において一部工区のみ工事中で大部分は起工に至らなかった。なお、窪川線と江川崎線とを結んで将来四国西南環状線が予定されていた」。
これらの記述によれば、新改駅は、土讃南線としての建設工事線に含まれていたことが分かる。
土讃北線・南線という建設工事線名については、同書に以下のように示されている。
「本線敷設は遠く明治25年法律第4号旧鉄道敷設法中「香川県下琴平ヨリ高知県下高知ヲ経テ須崎ニ至ル鉄道」として取り上げられ、大正8年法律第20号をもって同法第1期線として追加されたものである。その後、大正12年4月13日鉄道省告示第61号をもって高知県下東豊永において本線を2分し、琴平・東豊永間を土讃北線、山田・東豊永間を土讃南線とした」。
以下に示すのは、同書に掲載された「土讃線線路図」の引用図である。幾つかの駅名が現在とは異なっている他、新改駅は信号場と表示されている。新改駅の隣に天坪という駅名が見えるが、これは、現在の繁藤駅である。また引用中の「東豊永」は「土佐岩原」のことである。
このうち、土讃南線に関しては、「国鉄百年史」によると、7の工区に分けられていたようだ。
新改駅に関しては、第1工区と第2工区付近に当たるが、「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業協会・1978年)(以下、請負業史と略記)」の記述も併せて調査すると、第1工区に含まれることが分かる。
「請負業史」の記述によれば、新改駅に隣接したトンネルは、第1工区に含まれる武屋敷隧道(229.3m)で、そこから、第一無暮野、第二無暮野、第一大石、第二大石、第三大石の5つのトンネルを抜けたところまでが第1工区に含まれると詳述されているからだ。
以下に示すのはこの付近の国土地理院地形図で、マウスオーバーかタップ操作で、周辺のトンネルや路線の概念図と切り替えられるようにしている。
この付近のトンネルの多さが一目瞭然だが、新改駅の北東、地図に土佐山田町東川の地名が横書きされている所に、第三大石トンネルがあり、そのトンネルを出て、林道と交わる手前の明かり区間が、工区界に当たる。
土佐山田~角茂谷の区間の開通は1930年6月21日のことで、新改信号場の開設が1935年11月28日のことであるから、土讃南線第1工区や第2工区の施工時には新改信号場付近が工区界になる必然性がなく、国分川の源流に当たり、川沿いに遡ってアクセスできた場所に、工区界を設けたということだろう。
「国鉄百年史」と「請負業史」の記述を比較すると、地名の記述に相違がみられ、前者では、第1工区が東川~土佐山田間、第2工区が平山~東川間とあるのに対し、後者では、第1工区が平山~土佐山田間、第2工区が角茂谷~平山間となっている。それ以外の工区の区間表示も、それぞれ、系統的にずれているのだが、「国鉄百年史」の第2工区の平山~東川間という記述は、明らかに誤っているため、「請負業史」の記述の方が正しいと判断したい。ただ、それでも、トンネルの位置から考えると、第1工区と第2工区の境目は、大字東川に位置するはずで、隣接する大字平山の名前になるのは、おかしい気がする。
その辺は、両者とも誤りがあるということなのかもしれない。
いずれにせよ、新改駅を含む土讃南線第一工区は、25‰の勾配が連続する区間に、合計16箇所、延長3113mの隧道を連ね、山岳地帯にあって道路を利用できなかったため、索道を架設して諸工事材料を運搬したと、「国鉄百年史」や「請負業史」には記載されている。
また、土讃南線全7工区の工事は、全て、鉄道工業株式会社が請け負っており、請負額は634万8千円であった。当時としては、一社の請負額としては大工事であったということが、「請負業史」に記載されている。
今となっては、そのような線形が高速化の妨げとなり、特急と言えども高速バスに太刀打ちできる状況ではないが、先人が苦労して切り開いた鉄路には、高速道路にはない旅情があり、普通列車でのんびりと旅するには似つかわしい。
それのみならず、貴重な産業遺産であると言っても過言ではないだろう。
「ちゃり鉄」の旅が、こうした路線沿線の活性化につながり、穏やかな存続に貢献する機会となれば、幸いである。
新改駅:旅情駅ギャラリー
2000年3月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2016年5月(ぶらり乗り鉄一人旅)
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古い記憶なので頼りないですが、1996年か1997年くらいに訪れたのですが、夕方だったと思いますが、引き上げ線と本線の間に家屋がありまして煙突か何かから煙が出ていて、こんな場所に人が住んでいるんだなあと、思った覚えがあります。
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。
96年から97年頃となると、私が初めて新改駅を訪問した時期の数年前くらいですね。
確かに付近には今でも草むらに埋もれるような廃屋が数軒ありますので、当時は人の生活があったように思います。
こうした駅は専ら秘境駅としてもてはやされてはいますが、駅があるということはそこに人の暮らしがあったということでもあるので、その貴重な記憶や記録が散逸しないうちにまとめておきたいですね。