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千綿駅:更新記録
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2022年2月14日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ更新 (文献調査記録に鉄道敷設法制定前後の記述を追加) →JR大村線・千綿駅の旅情駅探訪記 |
2021年12月3日 | コンテンツ公開 |
千綿駅:旅情駅探訪記
2015年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
私の手元にある「ツーリングマップル 九州沖縄 2017(昭文社・2017年)」で、長崎県の大村湾沿いのページを開いてみると、「夕暮れ時がベスト 木造駅舎と海のコラボ」などと記されている駅がある。「ツーリングマップル」で特に取り上げられているだけに、バイクのライダーにも人気のある駅だという事が分かる。
この駅の名を千綿駅という。
私がこの駅を初めて訪れたのは、2015年8月の夕暮れ時だった。この日は雲が多く、日没自体は眺められなかったが、残照に照らされた雲が印象的な色彩に染まり、夏の夕暮れを彩っていた。
学生時代、日本全国のJR路線の殆どに乗車し、都道府県では沖縄県と長崎県を除く、45都道府県に足跡を記したのだが、長崎県を訪れることが出来たのは、遠く下った2015年。社会人生活も10年以上を過ぎてからのことだ。
この年の夏、福岡、佐賀、長崎を中心に、九州北部のJR路線に乗車する旅を実施し、学生時代以来、未乗車のままだった、これらの地域の鉄道路線を巡ったのだった。
当時、千綿駅について、特段の予備知識があったわけではないのだが、駅が所属するJR大村線内のどこで駅前野宿するかと事前に調査をした結果、海に隣接したこの駅が良さそうだと目星をつけ、長崎行きの普通列車で訪れることにしたのだ。
降り立った駅には、ドライブで訪れたらしい若者が居て、駅舎やホームで写真を撮っていた。青春18きっぷのポスターにも登場したこの駅は、海の見える駅として知られていて、こうした、鉄道とは無縁そうな若者も訪れる場所となっているようだ。
駅前には交通量の多い国道34号線が通っており、集落にも面しているので、隔絶した秘境感はないものの、木造駅舎の雰囲気も相まって、旅情ある佇まいが好ましい。
赤紫色に染まった空の下、明かりが灯り始めた駅のホームに一人佇み、微かなさざ波の音に包まれるのは、至福のひと時である。
到着してからしばらくは、件の若者たちが駅前やホームで騒いだり、線路に降りてふざけたりしていたので、少々、小うるさくもあったが、彼らが車で走り去った後は、暮れなずむ大村湾を眺める、静かな旅情駅の姿に戻った。
ここで駅の歴史について振り返っておこう。
千綿駅は、1928年4月20日、国鉄長崎本線の途中駅として開業した。単式1面1線を持ち、現在は簡易委託駅となっている。
国鉄長崎本線と書いたが、これは間違いではない。駅の開業当時、現在のJR大村線は国鉄長崎本線を名乗っていた。それに対して、現在のJR長崎本線は、鳥栖~肥前山口と諫早~長崎の両端区間のみが開通しており、肥前山口~諫早の区間は、まだ、部分開通もしていなかった。
そして、この国鉄長崎本線は九州鉄道という私設鉄道を起源に持ち、明治時代にまで遡る歴史を持つ。
この辺りの歴史の詳細については、後の文献調査記録で述べることにするが、1898年に九州鉄道によって敷設された長崎への路線が、1907年7月1日に国によって買収された結果、1909年10月12日には国鉄長崎本線となった。さらに、1934年12月1日の国鉄有明線・肥前山口~諫早間の全通を機に、本線の座をそちらに譲り、早岐~諫早間は国鉄大村線となったのである。つまり、現在の大村線は、昭和初期の25年程を、長崎本線として過ごしたことになる。
福岡、佐賀方面から長崎に至る鉄道を、早岐経由とすることは、距離の面で不利になる。実際、上に述べたように、後年になって有明海沿岸を行く新線が有明線として建設され、その全通を機に、本線としての地位はそちらに移った訳で、当初の鉄道敷設計画が早岐経由となった事には、疑問を生じるのだが、その経緯についても、 文献調査記録でまとめる事にしよう。
いずれにせよ、目の前の非電化単線が、九州の鉄道黎明期には長崎に至る本線に位置付けられ、その発展を担った路線であったのかと思うと、感慨深いものがある。
そう思って駅舎を見れば、これも明治以来の歴史を刻む、趣のあるものに見えるのだが、実は、この駅舎は1993年2月12日に改築されたもので、創業当時の駅舎ではない。しかし、開業当時からの駅舎をイメージしたという現駅舎は、そういう建築物にありがちな、まがい物らしさが無く、落ち着いた佇まいで実に好ましい。
古い木造駅舎が改築されると、元の駅舎の面影が微塵もない味気ない待合室に置き換えられてしまう事が多いのだが、こうした改築は、駅の副次的な機能という点でも望ましいように思う。
実際、この旅の後の2016年12月3日には、駅舎内に個人経営の食堂がオープンしている。
私の訪問はそれ以前のことだったが、人が集う場所としての駅の位置付けを考える時、そうした施設のオープンは望ましいことであるし、それを可能にするためには相応の駅舎が必要になるのは言うまでもない。
創業当時の旧駅舎が、そうした副次利用の任に堪えないとしても、改築に際して、元の駅舎の印象を残すという発想は、他の木造駅舎の改築に際しても、見習ってほしいと思う。
千綿という駅名については「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」に以下の記述があった。
その通り、所在地は、長崎県東彼杵郡東彼杵町平似田郷である。
以下には、この千綿駅周辺の地形図や空撮画像の新旧比較図を掲載する。
「角川日本地名大辞典 42 長崎県(角川書店・1987年)」の記述によると、千綿浦という地名が鎌倉期には登場しており、江戸時代から昭和34年に至るまで、千綿村が存在していたことが示されている。
その記述を要約すれば、千綿駅のある一帯は、鎌倉期から千綿浦として著名で、江戸期には千綿宿として長崎街道の宿駅の一つに数えられた。但し、隣接する彼杵宿や松原宿までの距離が短いこともあり、大規模な宿場とはならず、旅籠程度の機能を果たしたということだ。渓谷美で知られる千綿川は駅の東方から北西にかけての丘陵地を流下しており、江戸時代の文化~天保年間に俳諧で名を馳せた、豊後国日田の碩学広瀬淡窓の残した「遊綿渓記」が、その観光開発の先駆となったとある。ただ、同書にも、地名の由来に関する記述はなかった。
地形図では、千綿駅の北西に千綿宿の地名が見えており、まとまった集落を形成しているように見える。
平似田郷については、九州鉄道の線路敷設と、それを契機とした沿線集落の発展について記述がある他、「昭和3年有識者の奔走により千綿駅開設、翌年千綿郵便局が里郷から駅前移転と中心地の機能を備えてきた」という記述がある。
江戸時代の宿場が彼杵、松原に設けられ、千綿は休憩所程度の宿駅だったのと同様、九州鉄道の開通時にも、駅が設けられたのは彼杵、松原で、千綿には駅は存在しなかった。千綿駅の設置は、路線開通から30年後のことになるわけだが、そこにあった「有識者の奔走」とはどういうものであったか、何故、千綿宿ではなく、少し離れた平似田郷に設けられたのか、幾つかの疑問が湧く。それらについては、文献調査記録で述べることにする。
さて、千綿駅に戻ろう。
到着から20分ほどの間に、赤紫色の空はすっかり暗くなり、青紫色から群青色を経て紺色へ、変化しつつあった。少し離れた場所から駅を眺めると、青みを帯びた大気の底で、2条のレールが、駅の明かりを反射してきらめいていた。
大村線は、長崎と佐世保という2大都市の間を結ぶ列車が運転されていることもあり、千綿駅では、5時台の始発から23時台の最終まで、上下方向とも、それぞれ概ね1時間間隔で発着がある。千綿駅は棒線駅で行き違いが出来ないため、上下の列車は交互に発着することになり、駅に列車が到着する間隔で見ると、30分程度に1回の頻度ということになる。実際には、長崎方の隣接駅である松原駅で、上下列車の交換がなされることが多く、長崎行きが出発した後、10分少々で佐世保行きが到着するというパターンが多い。
駅の周辺に集落が点在していることもあり、これらの集落に、長崎、佐世保から帰宅する通勤通学客の利用が見られた。列車の到着時刻前になると、駅の駐車場に迎えの車が数台入ってきては、家族の到着を待つというパターンが、何度か繰り返される。
しかし、そんな賑わいも20時頃には収束し、21時頃になると乗降客の姿も途絶えるようになった。
列車発着の束の間。駅はエンジンのアイドリング音に包まれるが、その喧騒が走り去ると、駅に訪れるのは夜の帳だけである。
日中から夕刻は観光客で賑わうこの駅も、日没後に訪れる観光客はいない。
その、旅情駅らしいひと時を過ごす。
それは、何にも替え難い、旅の楽しみである。
翌朝は5時台の始発で長崎方面に向かって出発し、諫早から、島原鉄道に乗車する予定である。まだ、発着列車は数本残ってはいたが、朝早くの出発に備えて、駅前野宿の眠りに就くことにした。
翌朝は、まだ、真っ暗な中で起き出して、出発の準備を始める。準備と言っても、朝食を済ませ、荷物をパッキングするだけであるが、1時間程度は要するため、起床は夜明け前の4時過ぎとなったのである。
この時間は、駅の周辺に人の往来はないが、運送業者や新聞配達の車、原付が、時折、駅前の道路を走っていく。
出発準備を済ませて駅舎に入ってみると、温かみのある暖色系の照明に照らされた待合室には、テーブルや椅子が設置され、旅人を迎えてくれる。これも演出の一つではあろうが、駅舎内の明かりは、こうした暖色系のものの方が、心地よく感じる。
駅舎からホームへの入り口に立つと、眼前には大村湾が広がる。数段の階段を登れば、更に視界が広がり、心地よい。
この日は、まだ、夜明け前だったが、大村湾には漁船の明かりが所々に浮かび、その向こうには、西彼杵半島の街灯りも明滅していた。
ホーム側からだと、駅舎を少し見下ろす形になる。
駅舎から漏れる明かりに、心休まる。
駅前の集落を散策したり、飲み物を購入したりして過ごすうちに、空が白み始めた。
ホームに上がってみると、昨日、駅に到着してからのフィルムを巻き戻していくかのように、少しずつ、空が明るくなっていく。
それでも、薄暮の駅の風景が郷愁を醸し出すのに対し、黎明の駅の風景は静謐さを漂わせている。
駅前野宿では、駅が秘めるこの二つの表情に出会うことが出来る。
まだ眠りの中にある町の片隅で、一人、至福のひと時を過ごした。
東の空には、少しずつ、赤みが差し、日の出の気配が漂ってくる。
5時40分過ぎに到着する始発列車に乗車するため、日が昇ってからの千綿駅を眺めることは出来ないが、最後にもう一度、その郷愁あふれる駅舎を眺めることにした。
駅舎の正面口からホームの方を眺めると、階段の向こうには大村湾と西彼杵半島の山並みが、うっすらと広がっていた。ほんの数十分経つか経たないかのうちに、夜は明けていく。
しかし、明かりの灯る駅は、まだ、眠りの中に居るようだった。
ホームに戻って、始発列車を待つ。
この時刻、他の利用者の姿は無く、赤紫に染まり始めた駅のホームは静けさに包まれていた。
やがて、どこか遠くで踏切の音が響きだし、列車の走行音が聞こえだした。12時間に満たないほどの短い滞在だったが、千綿駅での駅前野宿の一夜は、心に残るものとなった。
次に長崎周辺を訪れる機会があれば、また、この駅を訪れたい。
そう思いながら、旅情駅を後にした。
千綿駅:文献調査記録
本文で、JR大村線が元々は国鉄長崎本線で、その前身には私設の九州鉄道が存在していたという話を紹介した。そこでは、概略を記述するにとどめたのだが、この章では、その歴史を掘り下げることにしたい。参考資料は以下に掲げる。
- 「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)(以下、「百年史2」と略記」)
- 「日本国有鉄道百年史 第3巻(日本国有鉄道・1971年)(以下、「百年史3」と略記」)
- 「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)(以下、「百年史4」と略記」)
- 「東彼杵町誌 水と緑と道 上巻(東彼杵町・1999年)(以下、「町誌上巻」と略記」)
- 「東彼杵町誌 水と緑と道 下巻(東彼杵町・1999年)(以下、「町誌下巻」と略記」)
- 「九州の鉄道100年(守田久盛/神谷牧夫・吉井書店・1988年)(以下、「鉄道100年」と略記)」)
- 「日本鉄道史 幕末・明治編(老川慶喜・中央公論新社・2014年)(以下、「幕末明治鉄道史」と略記)」)
その他の参考資料は、文中で適宜引用を示すことにする。
明治前半の鉄道事情
開国と軌を一にして始まった日本の鉄道の歴史は、明治時代40年余りの間に、ほぼ、現在の鉄道路線網の原形を作り上げるまでに、急速に進展した。
以下に示すのは、「百年史2」に掲載された、「創業時代の鉄道路線図(明治25年度末まで)」である。
20年前の明治5年には、新橋~横浜間に僅か数㎜の赤い線が入っていたに過ぎない日本の鉄道路線図が、この頃既に青森から三原まで繋がっている。明治25年の鉄道総延長は3007.9㎞(百年史3)である。そして、北海道や四国、九州にも、僅かながらではあるが、鉄道路線が敷設されていることが分かる。勿論、まだ、空白地帯も多く、発展途上の様は明確ではあるが、僅か30年ほど前には、帯刀丁髷の武士がチャンバラを繰り広げていたのである。この急速な発展の様子には驚きを禁じ得ない。
引用図:創業時代の鉄道路線図(明治25年度末まで)
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」
さて、この図中、赤い線は官設鉄道であり、青い線は私設鉄道である。
当時の鉄道敷設は、まず、東京と西京(京都)とを結ぶ鉄道路線を建設するという国家プロジェクトとして動き始めた。ここではその詳細には踏み込まないが、その路線選定に際し、東海道を経由すべきか、中山道を経由すべきかという議論が起こり、当初は、中山道経由として着工した経緯がある。その後、計画は東海道経由に変更され、それが実現していくことになるのだが、赤で示された官設鉄道の路線が、東海道周辺だけではなく、直江津から高崎にかけても伸びているのは、こうした事実を物語っている。
明治政府は、鉄道創業以来、幹線鉄道について、国設国営の方針を採ってきた。その辺りの経緯について「百年史2」の記述を引用してまとめておくことにしよう。
しかし、明治初頭に頻発した内乱によって財政事情が悪化した政府には、その方針に反して、全国の主要幹線鉄道を自ら敷設していくだけの体力がなかった。既に述べたように、当初、東西京を結ぶ幹線として計画された中山道路線の一部となる、東京~高崎間の建設工事ですら、明治13年11月9日に認可取り消しとなった事実は、この当時の政府の財政事情を如実に物語る。
そこで私設鉄道会社の設立を認めて、民間資本を用いてこれらの幹線鉄道を敷設するとともに、その鉄道に対して、政府による保護を与えるという政策転換が行われたのである。その嚆矢となったのは、岩倉具視らによって明治14年1月に興された日本鉄道会社である。会社への特許交付は明治14年11月11日のことであった。
この日本鉄道会社は、最終的には、現在のJR高崎線、JR東北本線を建設したところで、鉄道国有法によって国有化されたのだが、当初の目標は、全国に鉄道網を張り巡らそうとするものであった。その部分に関する記述を「百年史2」から引用する。
まさしく、「日本鉄道」と呼ぶに相応しい規模であるが、その規模だけでなく、官設鉄道として計画されながら政府の財政事情によって断念された、「東京ヨリ上州高崎ニ達」する路線が、日本鉄道による敷設計画に盛り込まれ、実現したという事実は、この鉄道会社が持つ特殊な性質を明確に示している。また、この計画の中に、「豊前大里ヨリ小倉ヲ経テ肥前長崎ニ達」する鉄道が盛り込まれていたことも見逃せない。青森から九州までの鉄道敷設を目論む会社にとって、「長崎」は見逃せない目的地だったわけである。
さて、この日本鉄道会社の成功に触発されたこともあり、明治25年までに、大小さまざまな私鉄が勃興することになるのだが、儲け話に輩が群がるのは、世の常・人の常。この時期に出願された私設鉄道の中には、実現見込みのない投機目的のものも多く、「百年史2」によれば、結局、明治25年までに出願された52社のうち、開業したのは14社にとどまった。それらが、先に示した、「百年史2」の 引用図「創業時代の鉄道路線図(明治25年度末まで)」において、青い線で示された鉄道である。
その中に、九州鉄道という鉄道会社があった。この九州鉄道が、現在のJR大村線につながる鉄道であることは本文で述べたとおりである。次節以降では、いよいよ、この九州鉄道について見ていくことにしよう。
九州鉄道の創設
引続き、「百年史2」の記述を中心に、その要約をまとめていくことにする。
九州における鉄道建設が具体的に動き出すのは、明治16(1883)年7月4日。福岡県令岸良俊介が工部卿佐々木高行宛に「鉄道敷設下調トシテ官員御派遣ノ義上申」と称する上申書を提出し、門司~熊本間の鉄道建設について、調査のために工部省の係官の派遣を求めたことが始まりである。
この上申に対して、政府は幹線官設主義の方針を定め、県令の上申書で述べられた門司~熊本間の路線は幹線であるから政府が経営するという方針を明示した。但し、私設鉄道を全く認めないという事ではなく、「其幹線トナルベキモノハ官設ニ帰シ、支線ノ分ハ人民ノ出願ニ依リ」、即ち、支線に関しては民設を認めるという方針であった。
これに対して、明治19年6月17日、福岡県令安場保和は、門司~熊本(三角)までの鉄道敷設について、資本金確保の目処が付いていること、関係各県で申し合わせが成立していることなど挙げ、政府の保護や詳細な調査に関しては後回しにし、まずは、九州鉄道会社創立による民設の許可を得たいとの趣旨の再上申を行った。
これを受けた政府は、民設許可の方針で鉄道局長官の井上勝に照会した。井上は、日本鉄道会社の先例については、「是ハ其名ハ民設ナレドモ其実殆ンド官設ト異ナルコトナキモノニシテ…中略…此レヲ例トナスハ決シテ得策ニ非ズト信ズ」として、あくまで幹線国設国営の例外とすべきことを主張し、中山道線の建設工事のさなか、九州の鉄道敷設に対して、鉄道局として協力することはできないとしたものの、「今般御下問ノ文面ニ依レバ、已ニ民設許可御内決ノ様ニ見受候。果シテ然ルトキハ最早本局ニ於テ此点ニ付異議ヲ可容儀モ無之候」と政府の民設許可方針には同意している。
こうして政府は、7月6日、福岡県令安場保和に対して、「九州鉄道民設ノ儀ハ発起人等見込相立丸出ツル節ハ其筋ニ於テ調査ヲ遂ケ不都合無之ニ於テハ許可スヘシ但利足保証ノ儀ハ願出ツルト雖モ聞届ケサル儀ト心得ヘシ」と指令した。日本鉄道会社の場合とは異なり、資本金の利息に対する政府保証は行わないとする立場であった。
この「民設許可」の政府方針を受けて、福岡・佐賀・熊本の3県令は、九州鉄道会社創立に向けて動き出す。ただし、この段階では長崎県は関与していなかった。
県令の呼びかけに応じて、各県15人の創立委員が選出され、明治20年1月20日に九州鉄道創立委員会開催。同月25日に「九州鉄道会社創立願」や会社定款その他の3県知事充て提出。と、九州鉄道会社の創立に向けた動きは加速する。
この「九州鉄道会社創立願」を見てみよう。
これによると、この鉄道設立の第一期線として計画された路線は、大半が福岡・佐賀・熊本3県の地域内の路線であり、僅かに、西の早岐港に至る鉄道だけが、長崎県内にまで伸びる計画となっていた。3県関係者によって設立を企図された九州鉄道会社なのであるから、自県の利益に直接関与しない他県内の鉄道敷設に、重点が置かれていなかったのは当然である。
佐賀県が、長崎県にある佐世保の軍港の便益にも寄与することを掲げて鉄道敷設の利を説くのは、当時の鉄道敷設運動の常套手段にも感じられる。長崎県内にある早岐までの鉄道を建設しても、大半は佐賀県内の路線となるわけで、自県内を横断する鉄道路線敷設を敷設するために、その先にある隣県の軍港・佐世保の名前を利用したという一面も垣間見られるように思う。
そして、「政府ヨリ特許アランコトヲ請フノ条件」と称した別紙を添付して、鉄道用地の為に利用する官有地の無償交付、政府による民有地の買い上げと払い下げ、鉄道用地の地租諸税免除、会社の払込み済み資本金に対する利息や配当金に対する政府保証などを求める請願を、3県知事を通じて、政府に進達した。県知事から政府への進達は明治20年2月26日である。
なお、社長の人選については、先に明治20年1月20日、九州鉄道創立委員会が開催された折に、官選を政府に請願する決議がなされており、3県知事を通した請願の結果、同年5月24日、農商務省商務局長高橋新吉が、民間人として社長に内定した。
ところが、ここにきて、長崎県内に動きが生じる。
その動きというのは、「九州鉄道会社創立願」が早岐迄の鉄道敷設を第一期の計画としており、佐世保や長崎への鉄道敷設がそこに含まれていなかったことを受けて、明治20年2月15日、長崎県内の6名が長崎県知事宛に「佐世保ヨリ早岐ヲ経テ長崎港ニ達スル一線ヲ布設スベキニ確定」することを求める願書を提出した一件であった。
こうして、九州鉄道会社の設立の計画に関連して、佐世保、長崎間を早岐経由で結ぶJR大村線に該当する路線敷設の計画が浮かび上がってきたわけである。
佐賀から長崎市街地を結ぶとなれば、有明海沿岸に鉄道を敷設しようと計画するのが自然である。そこは経ヶ岳の山裾が有明海沿岸まで達する地域で、鉄道敷設に厳しい条件ではあったが、敷設不可能なわけでもない。
しかし、有明海沿岸経由で長崎市街地までの路線敷設を計画しようとすれば、佐賀県内に既存計画とは別の路線敷設が必要となる。その為には佐賀県側の追加出資が必要となるが、これは長崎県側でどうにかできる問題ではない。まして、長崎県側としては、既に動き始めた鉄道敷設計画に便乗する訳であるから、自県の都合で隣県内の鉄道敷設計画の変更を求めるのは、得策ではないだろう。
それ故に、早岐迄の鉄道敷設計画を活かす形で、佐世保~長崎間を、早岐経由の鉄道路線として結ぼうとしたのではないだろうか。勿論、佐世保と長崎という、県下の主要2都市を結ぶ鉄道路線を敷設することにも、県としての意義を見出すことが出来る。
長崎県知事の日下義雄は、明治20年2月21日、この願書に、3県有志による鉄道敷設計画に佐世保、長崎間を結ぶ鉄道敷設計画も加えることを求める副申をつけて、政府に提出した。
これを受けた政府は、明治20年5月11日、福岡・佐賀・熊本の3県に長崎県を加えた4県で合同して再出願するよう各県知事宛に指令したため、同年6月21日には4県の創立委員60人が熊本に会して、長崎県出願の線路を合併することなどを含めた経営上の要件を議決した。4県知事が、発起人らによる届け出に応じて政府に通報したのは、同年6月29日のことである。
さて、政府では、当初から、私設鉄道に対しては、資本金の利息に対する政府保護を与えない方針であったが、地元4県は、その話は後回しにしてまずは民設の許可を求め、その目処が立つと、結局、保護を求める請願を出すに至った。これは、九州鉄道のみならず、他の地域の私設鉄道についても共通に見られる態度であった。
財政難の政府に代わって民間が資金を提供しつつも、国の主導で幹線敷設・運営を進めるというのであるから、民間側に、提供した資金に関する保護・優遇を求める考えが出てくるのは、当然とも言える。
そのため、政府の中にも私設鉄道に対する一定の保護が必要であるという考えが現れることになる。
明治20年3月には、大蔵大臣松方正義が「九州鉄道特別保護に関スル意見書」を閣議に提出した。その大意は、「政府にとっては特別保護を与えたとしても支出の削減につながり、民間にとっては零細資本を集めて一大事業を成し遂げることが出来るのであるから、一挙両得である」ということだ。
そして、この意見が閣議にも取り入れられて、主要幹線に関する私設鉄道設立に際しては、政府保護を与えるという方針が決定し、九州鉄道や山陽鉄道といった幹線に該当する私設鉄道に対する政府保護が実現することになったのである。
この後、免許交付に至るまでの期間に、陸軍からの意見書、内閣からの指示、といった具体的な計画に対する変更指示があったものの、最終的には、明治21年6月27日に、九州鉄道会社に対して、免許状が交付されている。
以下に示すのは、「百年史2」掲載の「九州鉄道会社免許状」と 九州鉄道工区工費工事期限一覧表」である。
引用図:九州鉄道会社免許状
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」
引用図:九州鉄道工区工費工事期限一覧表
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」
これによると、長崎県に至る鉄道は、佐賀県内の柄崎から大村経由で長崎に至る路線と、その途中にある有田から分岐し早岐経由で佐世保に至る路線とされていた。柄崎は現在の武雄である。この段階では、長崎~早岐~佐世保という当初の路線敷設構想が、有田で分岐して佐世保、長崎を目指す別線として変形されている。
その経緯は詳らかではないが、いざ、県内への鉄道敷設実現となった時、長崎と佐世保を結ぶ県内完結の路線を敷設するよりも、それぞれの都市に、福岡・佐賀方面から速達する路線を敷設することを優先したいという意向が働き、それが、有田での分岐という形で現れたのかもしれない。若しくは、早岐から大村に至る海岸部分の路線敷設が難しく、その部分を避けようとしたのかもしれない。
ところで、この路線分岐に関しては「町誌上巻」にも興味深い記述があったので以下に引用する。
この記述と現地の地形図を参照する限り、「百年史2」に掲載された九州鉄道の第9工区の敷設計画28.5マイル(45.9㎞)は、柄崎~有田~川棚~彼杵~大村という経路を示すように思われる。地図上で経路を概算してみると50㎞程度になるが、計画段階の荒っぽい路線図では46㎞弱の路線として定められたのであろう。
そして、その敷設計画が固まる前に、柄崎~嬉野~彼杵~大村という短絡経路が検討されたという事だが、これは嬉野の反対によって立ち消えになったという事である。嬉野町史の記載であるから間違いない事と思うが、近年は、こうした鉄道敷設反対運動は伝説に過ぎないとする説も出ているから、真偽のほどは分からない。
鉄道から外れた嬉野へは、その後、肥前電気鉄道という鉄道が開通している。それも廃止されたものの、令和の現代に至って、嬉野には西九州新幹線の新駅が予定されている。
明治の九州鉄道の鉄道敷設計画が、令和のJR九州の鉄道敷設計画として甦った訳だ。
九州鉄道の建設(明治25年まで)
さて、こうして4県合同で政府に働きかけ、免許取得に漕ぎつけた九州鉄道であるが、いざ、着工という段階になって、ひと悶着生じることになる。
というのも、先の「九州鉄道工区工費工事期限一覧表」に掲げたように、第1~第3工区と、第6工区は明治21年7月に同時に工事着手する予定だったのだが、折からの不況によって、これら4工区の同時着工に見合うだけの株金募集が困難な情勢となったからである。
そうなると、どこから着工するのかを巡って、各県・関係者間で利害対立が生じることになる。熊本や佐賀の発起人は脱退を示唆し、社長は辞任を宣言するなど、大荒れというか、醜態というか、そういう争いを繰り広げた後、最終的には、第3工区から工事に着手するという事で、決着することになった。着工は明治21年9月である。
その後、第2・第1工区、第4・第6工区が順に開通し、明治24年7月1日、門司~熊本間195.4㎞が全通した。
佐賀に至る第5工区は、用地買収に手間取り、明治23年11月にようやく完了。同年12月1日に建設工事を開始し、明治24年8月20日になって、鳥栖~佐賀間24.7㎞が全通した。
この時までの既設路線と未成線の様子について、「百年史2」掲載の「九州鉄道路線図」を以下に引用する。他の未成線と比べても、長崎県への到達は前途遠しといった状況であった。
引用図:九州鉄道路線図
「日本国有鉄道百年史 第2巻(日本国有鉄道・1970年)」
この間、明治23年には経済恐慌が発生し九州鉄道も経営難に陥る。そのため、門司港~熊本、鳥栖~佐賀の上記区間を何とか開業させたのち、新規の延伸着工に着手できない状況となった。その時の状況について、 「百年史4」には、以下のような記述がある。
この不況は、独り九州鉄道の経営に打撃を与えたのみならず、当時勃興しつつあった各地の私設鉄道に対しても打撃を与えることとなった。そして、その打撃に対して、経営者や投資家の中には、鉄道国有化を求める動きに出る者も現れ始める。好況時には私設鉄道開業の権利を求め、不況時には私設鉄道の国有化を求める訳であるから、随分身勝手な話ではあるが、それが資本主義というものの一面でもあろう。
そして、こうした動きは、政府が従来からとってきた幹線官設主義を更に推進するものとなり、「鉄道敷設法」の制定へと続いていくのである。次節では、この「鉄道敷設法」の制定経緯と、その中で定められた長崎県に至る鉄道の扱いについてまとめていくことにしよう。
鉄道敷設法の制定
この節では、まず、「百年史2」の記述を引用しながら、鉄道敷設法制定に至る当時の状況について整理することにする。少々長い引用になるが、当時の状況を的確にまとめているので、一部を省略しつつ、以下に示す。
こうした時代背景のもと、明治24年12月、政府は、第2回帝国議会に「鉄道公債法案」と「私設鉄道買収法案」とを提出する。
この中で、両毛・甲武・関西・大阪・山陽・讃岐・筑豊興業の各社と並び、九州鉄道も買収候補とされる。8社の延長は820.5㎞であった。
だが、ここでも、政府提出の法案は、すんなりと採決されるわけではない。その議論の過程について、ここで深く掘り下げることはしないが、官設鉄道、民設鉄道、いずれにしても、一長一短がある中で、それぞれを主導したい勢力が衝突することとなり、第2回帝国議会では両法案は否決されるに至る。
続く、明治25年6月の第3回帝国議会で、再び、両法案が提出されるが、再び両法案とも否決される。但し、今回は、両法案を折衷する形で「鉄道敷設法案」が提出され、これが可決される。この審議過程の中で、「私設鉄道買収法案」が含んでいた重要な私設鉄道に対する政府の強制的な協議買収の規定は、「政府が必要と認めた場合に会社と協議ののち帝国議会の協賛を求める」という形で「鉄道敷設法案」に取り込まれることとなった。
不況のあおりを受けて始まった「鉄道国有化」の議論ではあるが、実際に、「国有化」の話が具体化していくと、そこで買収方法や価格を巡る利害対立が生じ、また、議論の最中に不況から回復する兆しが見え始めると、やはり買収には反対するという勢力が息を吹き返す。そうした中で、妥協の産物として、「鉄道敷設法」が制定されるに至ったのだが、会社との協議や帝国議会の協賛が必要とされたとは言え、政府の幹線官設主義を強化する礎になった事は間違いない。
続いて、この「鉄道敷設法」制定の経緯を、長崎県に関連する部分に絞って、まとめていこう。
第3回帝国議会に提出された「鉄道公債法案」は、その第一条で「鉄道公債ハ左ニ記載スル鉄道ヲ布設シ竝軍用停車場及其接続支線ヲ設備スル費用ニ充ツル爲メ三千六百萬円ヲ限リ明治二十五年度ヨリ九箇年内ニ漸次募集スルモノトス」と、鉄道公債の発行に関する目的と金額、年限を定めている。即ち、国による鉄道敷設を公債によって行うための根拠法という位置付けである。
以下には、この鉄道公債法案の第1条、および「鉄道公債法案理由書」の必要部分の抜粋を示す。
引用図:鉄道公債法案第1条ほか
「第3回帝国議会衆議院議事速記録第4号(明治25年5月11日)」
これを見るに、「佐賀県佐賀より長崎県佐世保に至る鉄道」が鉄道公債による敷設路線として予定されていることが分かる。
その理由も「鉄道公債法案理由書」の中に記載されているのだが、それによると、九州鉄道が佐賀以西の工事施工を行うことが出来ず、軍事上、喫緊の課題であるから国によって敷設するという。この段階では、国としては鉄道公債によって軍港・佐世保までの鉄道敷設を意図していたことが注目される。
ところで、この第3回帝国議会では、上記の「鉄道公債法」ではなく「鉄道敷設法」が制定されたことは既に述べた。
「衆議院議事速記録第17号 明治25年6月2日 鉄道公債法案 第一読会(以下、「衆速17号」と略記)」の記録によると、「鉄道公債法案私設鉄道買収法案審査特別委員会」において、同年5月14日、16日に、政府提出の「鉄道公債法案」の質疑応答があり、続く24日に、委員会案を起草する為に5名の委員を選挙。更に、26日、27日でこの特別委員会の起草案が決議されたという事が書かれており、この特別委員会の起草案がつまり、「鉄道敷設法案」である。
「衆速17号」によると、「鉄道公債法案」と「私設鉄道買収法案」に加えて、議員から提出された別の三法案を折衷して「鉄道敷設法案」としたものだという。
「鉄道公債法案」については、法案中の6路線そのものについての異議はないが、日本全体の鉄道敷設という方針が立っておらず、工事の着手順序も漠然としていることから否決。「私設鉄道買収法案」については、鉄道敷設を進めていく中で実際の経験上から国有私有の宜しきに従っていく方針を定めるのがよいとして否決。その他の議員提出三法案も一長一短であるので、これらの長所を採って短所を捨てたものを併せて、新たな一法案を作成したという経緯が述べられている。
特別委員会の審議資料は第1回と第2回しか確認できておらず、その2回分の議事録を確認しても、「鉄道公債法案」が「鉄道敷設法案」に修正された経緯は詳らかではない。この点は、今後の調査課題としたい。
また、この審議の進め方や法案の修正については、衆議院の中で異論も出され「馬鹿野郎メト大呼スル者アリ」と書かれるなど議論紛糾している。だが、最終的には採択されており、ここでは、その異論については踏み込まない。
いずれにせよ、当初の「鉄道公債法案」と比べて、格段に広範囲な鉄道敷設を定めた「鉄道敷設法案」がここに登場することになる。
「鉄道敷設法案」は16条からなり、その第1条で法律の目的を「政府ハ帝国ニ必要ナル鉄道ヲ完成スル為漸次予定ノ線路ヲ調査シ及敷設ス」としており、第2条で予定線を定めている。そして第4条で「鉄道事業ニ要スル費用ハ公債ヲ募集シテ之ニ充ツ」とあり、この法案が「鉄道公債法案」の拡張修正版であることが暗示されている。また、「私設鉄道ノ処分」に関して第11条から第14条までで構成される第3章を設け、ここで、「私設鉄道買収法案」の内容をも包含する法律案となっているのである。
この「鉄道敷設法案」の第7条では、「第一期鉄道ニ於テ其實測及敷設ニ著手ス」として至急敷設が必要な路線を6路線挙げている。この6路線は、「鉄道公債法案」に記載された6路線に若干の追加を施したものである。
この6路線に「近畿豫定線、近畿線、山陰山陽聯絡豫定線」の内の一部路線を加えた合計9路線が、最終的な「鉄道敷設法」の第7条路線、即ち、第一期線となったのである。
以下に示すのは、「鉄道敷設法第7条」の条文である。
引用図:鉄道敷設法第7条
こうしてみると、第一期線には「九州豫定線ノ内佐賀懸下佐賀ヨリ長崎懸下長崎及佐世保ニ至ル鐵道及熊本懸下熊本ヨリ三角ニ至ル鐵道」が挙げられていることが分かる。
第3回帝国議会当初の政府案では、佐賀県・長崎県に関わる鉄道として、「鉄道公債法案」において「佐賀~佐世保間」の鉄道建設を予定していたものが、最終的には「鉄道敷設法案」において「佐賀~佐世保・長崎」を予定する形に変更されている。
その経緯の詳細は、「鉄道公債法案私設鉄道買収法案審査特別委員会」での審議過程に回答があるものと思われるが、前述の通り、十分な資料が得られておらず、個別の具体的な議論は分からない。ただ、この委員会の第1回会合(明治25年5月14日)の記録を確認すると、陸軍所属の政府委員から全国に渡る路線追加の希望が出される中に「有田~長崎」の希望も出されている。
それ以外の部分においても、軍部の意向というものが多分に反映されており、それは、海岸を避けた内陸部を縦貫する鉄道敷設を求めるものであった。
以下の2枚の引用図は、「衆速17号」の中で、第一期線選定経緯について述べた部分のうち、九州本島内の鉄道について言及している部分を赤枠で示したものである。
引用図:「第3回帝国議会衆議院議事速記録第17号(明治25年6月2日)」
引用図:「第3回帝国議会衆議院議事速記録第17号(明治25年6月2日)」
これによると、長崎選定の経緯は経済上の理由から、佐世保選定の経緯は軍事上の理由からという事が分かる。また、九州本島内では熊本から三角に至る路線も第一期線となっているが、これは、三池炭鉱の石炭輸送に関連したもので経済上・軍事上の理由となっている。
勿論、こうした選定の影に、地域からの陳情・請願があったものと思われるが、それらに関する資料は手に入っていない。
いずれにせよこうした議論を経て、明治25年6月21日法律第4号で「鉄道敷設法」が公布されたのである。
九州鉄道の佐世保・長崎開業
さて、長引く不況下で鉄道敷設法制定当時、九州鉄道の路線拡張は滞っていた事は既に見てきた通りであるが、そうしている内にも、各工区の工事竣工期限が迫ってきた。その為、九州鉄道は明治28年2月27日になって、逓信・大蔵両大臣に対して、工区割の変更と竣工期限の変更とを出願している。
ここで第9工区(柄崎~大村間、28.5哩・45.9㎞)については、第9工区(柄崎~川棚間、16.5哩・26.6㎞、竣工期限・明治30年6月)と第15工区(川棚~大村間、12哩・19.3㎞、竣工期限・明治30年12月)とに分割されている。また、第10工区(大村~長崎間、25哩・40.2㎞)と第11工区(有田~佐世保間、13.25哩・21.3㎞)については、いずれも、明治29年6月に竣工期限が延期されている。
これらの変更出願は、明治28年11月13日に大蔵大臣、同年12月13日に逓信大臣から認可されているのだが、それに先立って、更に、工区割・竣工期限の変更を計画し、明治28年12月2日に両大臣に再出願を行っている。その経緯を「百年史4」から引用する。
この工区変更出願によって、現在の大村線に当たる路線が、明確に敷設計画に現れたのである。
この竣工計画は、その後、第9工区を明治30年6月に、第10・11工区を明治30年12月に、第16・17工区および第12工区(宇土~三角)を明治30年12月に、それぞれ竣工期限の再延長が出願されており、それぞれ認可されている。
それだけ、工事が難しかったという事でもある。
以下、「百年史4」の長崎線建設に関する記述を引用して、九州鉄道による長崎開業の経緯をまとめよう。
ここに誕生した佐世保~早岐~長崎間の鉄道であるが、明治31年当時の設置駅は、佐世保、早岐、南風崎、川棚、彼杵、松原、大村、諫早、大草、長与、道ノ尾、長崎((現)浦上)の各駅で、まだ、この旅情駅探訪記の主題である千綿駅は登場していなかった。彼杵~松原間の営業キロは8.9キロであるから、当時としては、標準的な駅間距離だったように思われる。
以下に示すのは、 「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」 に掲載された、「九州の施設鉄道路線図」で、時期的には明治39年以前の鉄道路線の様子が示されている。
引用図:九州の施設鉄道路線図
「日本国有鉄道百年史 第4巻(日本国有鉄道・1972年)」
鉄道敷設法の制定により、法的には、九州鉄道の長崎佐世保線の区間は、国による敷設の可能性も含め、早急に敷設すべき路線に位置付けられていた訳だが、ここまで見てきたように、実際の敷設は国の手に依ることなく、九州鉄道自身の手に依って成し遂げられた。
しかし、この後、明治30年代に入って再び襲来した恐慌の影響もあって、日露戦争開始直前の時期にかけての私設鉄道の発展は、滞ることになる。そして、このような状況の中で、再び、鉄道国有化の議論が巻き起こってくるのである。
次節では、この鉄道国有化の動きと、九州鉄道の国有化までの動きをまとめ、国鉄長崎本線誕生の歴史を見ていくことにしよう。
~以下、調査・執筆中~
千綿駅:旅情駅ギャラリー
2015年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
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