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豊ヶ岡駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
学生時代。北海道は、旅の舞台として憧れの地だった。
初めて北海道を訪れたのが1996年12月のことで、それ以来、夏と冬を中心に、何度か旅をすることができた。1997年の8月には、所属する陸上競技部の夏合宿にあわせて北海道入りしたこともあり、合宿明けの帰路を利用してJR北海道の全路線を旅して周ったのだが、その際、JR札沼線にも乗車することが出来た。
当時既に、末端の新十津川~浦臼間は1日3往復というダイヤになっており、札幌からの往復乗車で訪れる時間が取れなかった私は、滝川から歩いて新十津川駅に到着し、そこで一夜を明かして、翌朝9時過ぎの始発列車で札幌に向かったのだった。
樺戸山麓の丘陵地を行く鉄道は、鉄道ファンらしき僅かな乗客の姿しか見られぬまま、札幌まで3時間余りをかけて走る、のんびりとした行程であったが、北海道医療大学駅付近から、がらりと都市近郊区間の様相となり、キハ40系の気動車が、どこか場違いな印象すら与える、そんな変貌を遂げていた。
JR札沼線の再訪は2001年8月のことだった。
この夏は学生時代最後の夏休み。3週間以上の長旅で東北・北海道を広く巡る中、初めて、札沼線沿線のいくつかの駅で途中下車し、駅前野宿も行うことが出来た。その時、駅前野宿の場所として選んだのが豊ヶ岡駅だった。
そぼ降る雨の中、夕刻に降り立った豊ヶ岡駅は、薄暮の青い大気に包まれて静かに佇んでいた。
豊ヶ岡駅はJR札沼線の途中駅だが、日常的な利用者にとっては、「札沼線」よりも「学園都市線」と言った方が通りがよいだろう。
JR札沼線の札幌近郊区間は、北海道医療大学や北海道教育大といった沿線の大学に因んで、学園都市線という路線愛称がついており、通勤通学輸送も多い。
しかし、北海道医療大学駅から先の区間は、1997年の夏の旅で実感したように、樺戸山麓を行く純然たるローカル線で、短編成の気動車が僅かに行き交うだけの閑散路線だった。とりわけ、浦臼~新十津川間は、長らく、1日3往復というダイヤで運行されており、2001年当時もそのダイヤは変わらなかった。
豊ヶ岡駅は、そんな札沼線の末端区間に近い丘陵地帯に、鉄道林に囲まれてひっそりと佇む旅情駅だった。駅名標には「学園都市線」の愛称が入っていたが、この辺りまで、学園都市の旅客需要が及ぶことはない。地元の利用客の姿も皆無で、乗車しているのは鉄道ファンだけというのが、この区間の常であった。
降り立った時に辺りを包んでいた青い大気は、程なく夜の帳に溶け込んでいき、辺りはすっかり暗くなった。雨も上がった駅の周辺には、微かな虫の音だけが響いていた。
「駅前」は、砂利道が遮断機のない踏切で単線を渡っており、少し離れたところに、木造の小さな待合室があった。窓から漏れる明かりは、温かみを帯びた色合いで、孤独な旅の夜を慰めてくれる。豊ヶ岡駅を訪れる旅人の多くは、この待合室に誘われたことであろう。そんな魅力のある小屋だった。
駅の周辺は、鉄道林に囲まれていて隔絶された雰囲気がある。
少し離れたところを農道の跨線橋が跨いでおり、豊ヶ岡駅に降り立った大半のファンは、ここから、カメラを構えたに違いない。
しかし、私が訪れた夏の夜。鉄道は勿論、車での来訪者も、一人も居なかった。1日3往復の路線の命脈は尽きたように思えたが、それでもまだ、廃止の噂は立たない頃だった。
遠く月形市街地の街灯りが、上空の雨雲に反射して、闇夜にほの白く浮かぶ中、独り、夜更けのホームに佇む。それは、至福というに相応しいひと時だった。
翌朝、昨夜来の雨は上がっていたものの曇天が広がり、夏の爽やかな晴天を拝むことはできなかった。しかし、鉄道林の緑に守られた豊ヶ岡駅の佇まいは、決して、旅情を損なうものではなかった。
鉄道林の中を真っ直ぐに伸びる2条の鉄路と、傾いた階段。コンクリート製の簡素なホーム。遮断機もない踏切。
それらは、人を呼び込む観光地の施設ではない。
しかし、観光地には絶対にない魅力を、醸し出していた。
出発前に、もう一度、近くの農道の跨線橋まで歩いて、この駅の姿を眺めることにした。
かつては、ここからも通勤通学の乗客の姿が見られたのであろうが、そうした賑わいは失われて久しく、今後、戻ってくることもないだろう。
来るはずのない人を待って原野にポツンと佇む旅情駅の姿は、私の心に残る夏の思い出となった。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
豊ヶ岡駅を再訪することが出来たのは、2016年1月のことだった。
前回の訪問から14年余り。その間、釧路に住んでいた期間もあったものの、豊ヶ岡駅を訪問するという機会はなかった。
再訪を果たした豊ヶ岡駅は、真冬の吹雪の中、以前と変わらぬ佇まいで、旅人を迎えてくれた。
この冬の旅は、本州からの移動の道中も含めて連日吹雪が続き、3週間程度の旅の中、終日晴れたのは僅か3~4日しかなかった。更に、函館本線の嵐山トンネルで火災も発生し、それによって大幅に予定を変更しただけでなく、伊納駅の訪問を諦めることとなったのだが、結局、その後、訪れる機会を得られぬまま、伊納駅は廃止されてしまった。
この日は、札幌から札沼線の気動車に乗車し、本中小屋で途中下車して中小屋温泉に立ち寄った。この温泉は2001年8月の旅でも訪れた温泉だが、営業を続けていたのが嬉しかった。温泉で温まった体は、本中小屋駅に戻るまでの間、猛烈な地吹雪に晒されたが、防寒装備で身を固めて暖気を逃がさないうちに、何とか駅までたどり着くことができた。
後続の普通列車で豊ヶ岡駅を通り過ぎて新十津川駅まで乗車し、夜の駅の姿を写真に収める。2016年春のダイヤ改正では、浦臼-新十津川間が、3往復から1往復に減便されることが発表されており、札沼線末端区間の廃止が現実味を帯びている時期だっただけに、駅には地元の人の他、愛好家の姿も見られた。
しばしの停車の後、折返しの普通列車に乗って、豊ヶ岡駅まで戻ってきた。JR札沼線の沿線も積雪は50cm以上。豊ヶ岡駅の待合室は、屋根にこんもりと雪帽子を被っていた。そんな雪深い中でも、待合室を照らす明かりは、どこか温かみを感じさせるものだった。
ここで再び駅前野宿の一夜を過ごすことが出来ることに、静かな喜びを噛みしめる。
待合室の中には、除雪用具や車止めが収納されていたが、小綺麗に片付いていて、居心地は悪くない。
当時のダイヤでは1日6.5往復。札幌方面への最終列車が20時3分で、これが私が乗車してきた列車であった。この後、20時18分に浦臼行きが発着して、駅の一日が終わる。
浦臼行きの撮影を行うために、カメラだけを持って待合室から出る。
雪は小降りになっており、踏切からホームを眺めると物音ひとつしない。森閑とした深夜のような雰囲気だった。
近くの跨線橋まで雪道を一人で歩いて行く。除雪も入っているようで、新雪が積もったとは言え、20㎝程度。登山靴を履いていたので支障はなかった。
跨線橋から眺めると、真っ暗な鉄道林の中にポツンとホームの照明が浮かび上がり、遠く、月形市街地の上空は、雪雲が街灯りを反射して赤黒く燃えている。
しばらくすると、原野の彼方に、ヘッドライトの明かりが現れた。
雪は音を吸収するため、列車が近づいてくる走行音は聞こえない。するすると静かに滑り込むように停車し、居るはずのない乗降客を待っていた。
やがて、エンジン音が響きだしたと思うと、気動車はゆっくりと動き始めた。掘割のように除雪された進路を照らして、単行の気動車は浦臼に向かって去っていった。
振り返れば、駅は、孤独に原野の中に佇んでいた。
最終列車を見送って駅まで戻ってくると、待合室が静かに迎えてくれた。物言わぬ待合室だが、「おかえり」という声が聞こえてくるようであった。
程なく吹雪になった。
駅のホームに上がって撮影する束の間、足跡が雪の上に残るのだが、風鳴りと共に、サーッという微かな音を立てて、降り積もる雪は見る間に足跡を隠していく。
こんな吹雪の夜も、鉄道は遅れることもなく走り、駅は来るはずのない乗降客を待ち続ける。
旅人の勝手な感傷としては、こんな「旅情駅」を残してほしいと思うものの、営利企業の経営環境として、この現実は如何ともしがたく、JR北海道が、単独では維持が困難と主張するのも、一理あるように感じる。
廃止の方針が示されれば必ず反対の声が上がるが、経営赤字を補填する莫大な資金を提供できる者は居ない。赤字を生み出すJR北海道の経営手法を批判する立場もあるが、もし、舌鋒鋭く批判を繰り広げるのなら、こうした無人駅の維持管理のために、ひと冬だけでも除雪作業に従事してみてはどうだろう。
どれだけの重労働を、どれくらいの水準の賃金で、どれくらいの年齢の人たちが担っているのか。
それを体をもって実感することがあれば、また、別の見方も生まれることだろう。
吹雪を避けて、待合室に帰ることにする。
雪帽子をまとった豊ヶ岡駅舎は、雪の中を子犬のように動き回る旅人を、優しい表情で悠然と見守ってくれていた。
雪を払って待合室に戻ると、人心地がつく。
この夜、そぼ降る雪の中で、駅を訪れる人は勿論のこと、周辺を通りかかる車も、一台も見つからなかった。
降り続く雪の中、一人、静かな眠りに就いた。
ここで、豊ヶ岡駅の歴史について、まとめておくことにしよう。
豊ヶ岡駅の開業は1960年9月10日で、この駅を含む石狩当別-浦臼間の開業(1935年10月3日)から降ること、25年余りたってからのことだった。
札沼線は、その線路名称が物語るように、札幌と石狩沼田を結ぶ路線であったが、石狩沼田と言えば、現在のJR留萌本線にある途中駅であり、全区間に渡って函館本線に並行するこの路線の旅客需要は、建設当時から決して多いものではなかった。事実、戦時中には不要不急路線とされ、線路を剥がされた歴史すら存在する。
建設の背景も含めた札沼線に関する詳しい調査は、文献調査の課題とするが、ここでは、その概略をまとめておく。
桑園-石狩沼田間111.4㎞の札沼線は、札幌方の札沼南線と石狩沼田方の札沼北線とに分かれて建設が開始され、札沼南線は桑園-石狩当別間が1934年11月20日に、札沼北線は石狩沼田-中徳富(現・新十津川)間が1931年10月10日に開通した。
その後、1934年10月10日に、札沼北線の中徳富-浦臼間が延伸開業した後、1935年10月3日に、札沼南線の石狩当別、札沼北線の浦臼間が開通し、桑園-石狩沼田間が全通するとともに、線路名称も札沼線となった。中徳富が新十津川と改称したのは1953年11月3日のことである。
豊ヶ岡駅は、先に触れたように、札沼線最後の開通区間に含まれる駅であったが、最終的に非電化のままま廃止された北海道医療大学-新十津川-石狩沼田間において、最も遅く開業した駅でもあった。地元の請願によって設けられた駅でもあり、当初は、ホームのみが設置され、この愛らしい待合室は、その後、地元の手によって建設されたものだという。
しかし、1972年6月19日には、札沼北線区間の石狩沼田-新十津川間が廃止され、既に、路線の存在意義は揺らいでいた。北海道医療大学-新十津川間の廃止は、それから50年近くを隔てた2020年5月7日のことであったが、むしろ、50年間もよく持ちこたえたものだと思う。
以下に示すのは、豊ヶ岡駅周辺の地形図、空撮画像の新旧比較である。
1936年2月の旧版地形図を見ると、札沼線敷設当時の豊ヶ岡駅周辺には、入植者の住居も道路もなく、樹林のみが広がっていたことが分かる。その後、1940年代にはこの地の開拓が進み、1948年8月31日の空撮画像の頃には、付近の農道も整備され農家のものと思われる民家が点在する様子が見て取れるだろう。ただ、民家が集まった集落を形成することもなく、現在に至るまで、所々に民家が点在する状態が続いている。また、豊ヶ岡駅前の踏切道がはっきりと映っており、跨線橋はまだ架橋されていなかったことも分かる。駅への取り付け道のように思われた砂利道は、実は、かつての豊ヶ丘集落のメインストリートだったわけである。
以下に、豊ヶ岡駅が記されていた時代の旧版地形図や1976年9月28日撮影の旧版空撮画像も掲載しておく。リッチヒルゴルフ場というものが駅の北西の丘陵に見えるが、これは、豊ヶ丘という地名に由来するのであろう。
さて、その地名、駅名の由来である。
これについては、幾つかの書籍で調べてみたがほぼ共通した記述であったので、「北海道 駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・1973年)」の説明を以下に引用しよう。
但し、駅の所在地の地名としては、北海道樺戸郡月形町豊ヶ丘となっており、駅名の表示とは異なる。
「角川日本地名大辞典 1 北海道上巻(角川書店・1987年)」で、もう少し、深堀をしてみると以下の記述があった。
なお、月形の地名の由来は、石狩川の河跡湖の形状に由来するものかと思いきや、樺戸集治監の初代典獄月形潔の姓に由来するものである。
この記述と照らし合わせてみると、既に見た地形図の様子なども、より詳しく理解できよう。
例えば、1936年2月発行の旧版地形図では、この地に入植の形跡は見られなかったが、実際、土地が自作農に開放されたのは昭和11年、つまり1936年のことであるから、同年に発行された地形図に、その表示がないのは当然である。
1948年8月31日の空撮画像は、丁度、豊ヶ丘集落が北海道地力増進総合実践集落に指定される1年前に撮影されたものということになるが、この10年余りの間に、豊ヶ丘は未開の原野から切り開かれた訳だ。
ところで、この記述の中で特筆すべきは、昭和38年に廃止となったという月形炭鉱の石炭搬出ケーブルの存在である。
このケーブルの所在地について、「石炭月形第15号(月形鉱業株式会社・1960年)」に非常に興味深い記述があった。以下にそれを引用する。
この月形炭鉱と豊ヶ岡駅との関係については、月形町史なども調べて深く掘り下げる課題とするが、この記述を読む限り、石狩月形から豊ヶ岡に至る路線中の車窓に、月形炭鉱からの石炭の搬出施設が存在し、分岐線に貨車を連ねて搬出していたと思われるのである。
以下には、1963年6月19日撮影の空撮画像を掲げる。
現在の地形図も重ねてあるが、概ね図幅の中心に豊ヶ岡駅があった。そして、その駅の西方、石狩月形駅に向かって少し進んだところの線路北側に、何やら構造物が見られる。先に掲げた60年代前後の空撮画像を見比べてみても、このような構造物は見られない。
以下に示すのは、該当部分を拡大したものである。
札沼線の線路と豊ヶ岡駅のホームや駅前の砂利道が明瞭に見えるが、同様に、その西側はっきりと映った施設がある。そして、その施設から、図の左上の角に向かって、細い線状の筋が伸びているのが分かる。
これが、上記の月形炭鉱からの運炭索道と、鉄道への積替え施設だった。
ところで、1963年というのは、つまり、昭和38年であるから、石炭搬出ケーブルが廃止になった年である。従って、この空撮画像は、廃止前後の様子を撮影した貴重なものといえる。「石炭月形」の記述と比較して考えてみると、1960年に新たに開かれた搬出施設は、その後、3年の短期間で廃止されたということにもなろう。
下の写真は、閉山から約5年後の豊ヶ岡駅周辺の空撮画像であるが、この頃で既に、施設の痕跡は消えつつある。
勿論、それから50年余り隔てた2016年には、もはや、その痕跡は現地に残る施設の土台ぐらいで、空撮画像では灌木に覆われて、識別は不可能である。
豊ヶ岡駅と言えば、跨線橋から撮影した写真で取り上げられることが多い。以下に引用したのも、そうしたものの一つである。
勿論、このような風景が旅人を惹きつけることは論を待たないし、私自身も、この風景に魅力を感じて、何度でも訪問したいと思っていた。だが、こうした運炭施設が存在していたという歴史は全く知らなかった。
こうして「追憶の旅情駅探訪記」を執筆するに当たって、豊ヶ岡駅に秘められた歴史を知ることになり、「ちゃり鉄」の旅の奥深さを感じることになった。
惜しむらくは、その歴史の知識を背景に再び豊ヶ岡駅を訪れ、駅前野宿の一夜を過ごす機会は、もう二度とないということだ。
引用図:鉄道林の中の豊ヶ岡駅
「歴史でめぐる鉄道全路線 24(朝日新聞出版・2009年)」
豊ヶ岡駅の一夜に戻ることにしよう。
吹雪を避けて待合室で過ごした一夜が明け始めても、石狩平野に雪は降り続き、豊ヶ岡駅は、黎明の青い大気の底で、ひっそりと眠りの中にあった。
かつて、豊ヶ丘集落に通じるメインストリートだった駅前の道は、新たな新雪の中に埋もれている。
しかし、厳しい冷え込みの中にあっても、明かりの灯る駅には、どこか、温もりがある。
この瞬間の豊ヶ岡駅に巡り合えたことに、一人、静かな喜びを噛みしめる。
朝食も済ませ、荷物を片付けた上で、もう一度、跨線橋まで足を延ばしてみることにした。
待合室の外に出ると、分厚い雪雲の下とは言え、周囲は随分と明るくなっている。跨線橋までは5分ほどの道のり。昨夜の足跡は、既に新雪の下に埋もれて見えない。相変わらず雪は降り続き、跨線橋の上に立つと、吹き付けるような瞬間もある。
鉄道林に囲まれた豊ヶ岡駅は、青灰色のモノトーンの情景の中に、ひっそりと静まり返っている。グリーンスリーブスの調べが脳裏に浮かぶ中、この情景を一人眺める。
望遠レンズでこの情景を撮影している間に、吹雪が強まってきた。
始発列車の到着も間近い。駅に戻ることにしよう。
朝が訪れるとともに、夜の名残の青い大気は消えていく。そして、雪雲の下では、灰色の空気に包まれていく。今日も、北海道は終日、雪に見舞われることだろう。
乗り鉄の旅で訪れたこの冬、豊ヶ岡駅の周辺の探索することはできなかったが、その分、じっくりと、駅の一夜を味わうことが出来た。
学園都市線の表示がある駅名標は、どこか、ちぐはぐな印象も与えるが、その学園都市に生活する人々の中で、いったいどれほどの人が、札沼線が秘めた歴史を知っている事だろう。そもそも、札沼線という正式名称すら知られていないのではないだろうか。
程なく、朝の始発列車がやってきた。7時42分発、浦臼行きである。
今日はこの後、周辺を行き来した後、新十津川駅まで往復し、その後、札幌に戻る。昨夜の訪問と今朝の訪問とで、新十津川駅の夜と朝の顔を眺めることにしたのである。
次は、春か秋など、これまで来たことがない季節に訪れてみたいと思いつつ、思い出深い駅を後にした。
そして、それが、豊ヶ岡駅で過ごした最後のひと時となった。
2020年5月7日。豊ヶ岡駅は、北海道医療大学-新十津川間の廃止とともに、その歴史に幕を閉じた。
豊ヶ岡駅:文献調査記録
資料収集中
豊ヶ岡駅:旅情駅ギャラリー
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
豊ヶ岡駅:評価投票
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