ちゃり鉄2号|近鉄山田線・鳥羽線・志摩線とあご湾定期船、志摩半島、渡鹿野島

志摩半島・浜島港(三重県:2016年7月)
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅

ちゃり鉄2号:2日目(東青山駅-伊勢中川駅=賢島駅-賢島港~浜島港-磯笛岬展望台)

東青山駅-伊勢中川駅

東青山駅

翌朝は、空が白み始める黎明の時刻に起き出す。

この日は、近鉄志摩線の五知駅まで進む予定である。出発は5時半頃を予定しているので、起床は4時としていた。昨夜遅かったこともあり、眠気が強かったが、青い大気の底で眠りの中にある東青山駅を見ながら、出発の準備に取り掛かる。

気が付くと、昨夜の男性が、昨夜見かけた時と同じ身なりで、ベンチに座って、こちらを眺めていた。野宿をする装備なども持っていない様子だったので、一晩、着の身着のままで辺りを彷徨いていたのだろうか。一瞬、驚いたが、気付かないふりをして片付けをしているうちに、姿が見えなくなった。旅をしていると、色々な人に出会うものだ。

一夜明けた東青山駅は、青い大気の底で、まだ眠りの中
一夜明けた東青山駅は、青い大気の底で、まだ眠りの中

黎明の青い時間は、直ぐに明けていく。5時頃になると、すっかり明るくなった。空はどんよりと曇っている。もしかしたら、一雨あるかもしれない。

今回の旅でも、我が家は愛用のテント・エアライズ1である。この日は、オプションのカヤライズにデラックスフライ仕様とした。登山などではノーマルフライを使うことになるが、ちゃり鉄の旅であれば、広い前室を確保できる、デラックスフライが使いやすい。

この日は、雨も予想されたのでカヤライズのみの青空テントではなく、フライシートを被せることにしたのだが、幸い、夜中に雨に降られるということはなかった。

風雨の恐れはなかったので、張り綱なども特に使用せずに、地面に置くだけの状態で一夜を過ごした。その為、片付けも直ぐに終わった。

広く張り出した前室が使いやすく、「ちゃり鉄」では必須装備となっている
広く張り出した前室が使いやすく、「ちゃり鉄」では必須装備となっている
今回のインナーテントは、オプションのカヤライズで、夏でも快適
今回のインナーテントは、オプションのカヤライズで、夏でも快適

荷物を片付けて、自転車に積み込んだ後は、四季のさとの敷地をしばらく、散策してみることにした。

昨夜は遅くになってから到着し、直ぐにテントを張ったので、敷地を十分に見ることもできなかったからだ。

小綺麗に整備された公園の敷地は広大で、出発前の時間で、全体を見て回ることはできなかったが、敷地には、この付近を通っていた旧線の跡も残されているので、旧線を辿る「ちゃり鉄」を運転する時には、この辺りを再訪することにもなるだろう。

駅に面した敷地の階段を少し上がると、駅を見下ろすくらいの高さになった。

駅は、ホームの照明は点灯しているものの、駅舎の方は消灯していて、まだ、夜明け前の雰囲気だったが、しばらくしてからガラガラと音がした。その音で駅の方を見ると、職員が駅舎正面のシャッターを開き、照明を点灯しているところだった。

東青山駅は、客扱いということでは無人駅であるが、折返し列車が運転されることもあり、運転上の要員が配置されている。この時刻に業務を行うということは、当直業務なのであろう。

四季の里が目の前にあり、公園の玄関口のような東青山駅
四季の里が目の前にあり、公園の玄関口のような東青山駅

少し散策をして、体のウォーミングアップも出来たところで、出発することにする。

自転車に戻り、荷物の積載状況を確認した後、始業した駅の正面で写真を撮影してから、東青山駅を出発する。

近鉄が公表している「駅別乗降人員(平成30年11月13日(火)調査)」によると、東青山駅の乗降人数は37人で、近鉄全駅の中で、西青山駅に次いで、2番めの少なさである。それ故か、早朝の駅前に乗客の姿は見えず、集落からはなれた駅付近まで散歩に訪れるような地元の人の姿も見えなかった。

移転前の東青山旧駅は、「ちゃり鉄1号」のレポートでも記したように、信号場としての性格が強い駅であった。当時の近鉄大阪線は単線区間も多く、東青山旧駅も、西青山旧駅との間に、単線の旧青山トンネルがあり、その前後に位置する信号場として機能していたのだ。そのため、開業当初から、駅の周辺に民家はなかった。

複線の新青山トンネルが開通した現在は、西青山駅とともに移転し、信号場としての機能は必要なくなったが、トンネル内での事故対応などのため、管理拠点としても位置づけられているようだ。私鉄の駅であるにも関わらず、民家から離れているのには、そういう経緯がある。

5時20分過ぎには、荷物の積み込みも終わり、出発準備が整った
5時20分過ぎには、荷物の積み込みも終わり、出発準備が整った
5時に駅舎のシャッターが開き、東青山駅にも新しい朝が来た
5時に駅舎のシャッターが開き、東青山駅にも新しい朝が来た
早朝の東青山駅前には、人の姿は見えなかった
早朝の東青山駅前には、人の姿は見えなかった
駅舎は無人化されており、常駐する係員はホーム上の詰め所に控えている
駅舎は無人化されており、常駐する係員はホーム上の詰め所に控えている

深夜から早朝までの一夜であったが、次にこの駅を訪れる時は、大阪線の廃線跡探訪を含めて、もう少し時間をかけて探索してみたいと思う。

写真を撮影した後、出発することにした。

件の男性は、その後、姿を見ることはなかった。乗り過ごして、引き返すことも出来なかったのかと思ったが、そうでもなかったようだ。

5時35分、東青山駅発。

駅構内に留置されている工事用車両を横目に見ながら、一路、伊勢中川駅を目指す。その距離は20kmほどで、先週走ったばかりの各駅を通過しながら、回送列車然として走り抜けること65分で、伊勢中川駅に到着した。平均時速20km程度であるが、荷物満載の「ちゃり鉄」での走行スピードとしては、快走である。

伊勢中川駅、6時40分着。

工事用車両を横目に、東青山駅を出発する
工事用車両を横目に、東青山駅を出発する
東青山駅から1時間ほど走って、伊勢中川駅に到着
東青山駅から1時間ほど走って、伊勢中川駅に到着

伊勢中川駅=松阪駅

伊勢中川駅

伊勢中川駅まで来ると、いよいよ、伊勢路に足を踏み入れるという気分になる。伊勢中川駅については、「ちゃり鉄1号」の紀行で詳細に書いたので、ご参照いただきたい。

ここでは、その紀行で触れていなかった、地名の由来について、「角川日本地名大辞典 24 三重県(以下、「角川地名辞典 三重県」と略記)」の記述を引用しておきたい。

伊勢中川駅の所在地は、現在地名では、三重県松阪市嬉野中川新町となっているが、参宮急行電鉄の駅として開業した1930年5月18日当時の周辺自治体は、一志郡中川村といった。

この中川村に関して、「角川地名辞典 三重県」の記述を見ると、「明治22年~昭和30年の一志(いちし)郡の自治体名。小川村・野田村・黒田村・見永村・宮古村・天花寺(てんげいじ)村・平生(ひろ)村の7か村が合併して成立。旧村を継承した7大字を編成。はじめ古代の小河郷から小川村と命名したが、のち中村川流域であることにより中川村と決定し、村役場を小川に設置」とある。

「中村川」流域にあるから「中川村」としたというのは、面白い決め方であるが、ややこしくもある。ただし、中村村というのもおかしいし、小川村よりも中川村の方が、「小」より「中」で格上に感じられたのであろうか。

以下に示すのは、国土地理院地形図であるが、伊勢中川駅の南西から北に向かって流れているのが、中村川である。旧村を継承した7大字のうちのいくつかは、現在地名にも残っていることがわかる。

地形図:伊勢中川駅周辺
地形図:伊勢中川駅周辺

なお、昭和30年、中川村は嬉野町の一部となり、「村制時の7大字は同町の大字に継承。その際小川は中川と改称」とある。この嬉野町が、松阪市他の自治体と合併して、松阪市を再構成することになったのは、2005年1月1日のことである。それに伴い、現在地名は、嬉野〇〇町、という形式になっているのがわかる。

嬉野町自体は、佐賀県嬉野町と1989年11月に姉妹都市提携を結んでいる。

また、伊勢中川駅の北西にある中川短絡線の分岐地点は、それぞれ、宮古分岐、黒田分岐と呼ばれているが、地形図を見ると明らかなように、これは、その分岐点の地名に由来するものである。

さて、今日は、ここから、山田線、鳥羽線、志摩線という3つの路線を走りつないで行くことになるのだが、実際のところ、近鉄路線としては、途中で分岐する路線があるわけでもなく、1本につながった路線で、賢島までつながっている。

それならば、わざわざ、3つの線路名称を使わなくても良いような気もするが、ここに、敢えて、3つの線路名称が用いられているのは、各路線の建設史の中に、その理由がある。

詳細は、文献調査記録に記すことにして、ここでは概略を留めることにするが、まず、これから進行する、山田線について触れておこう。

山田線は、「ちゃり鉄1号」の中でもまとめたように、1930年3月27日、近鉄の前身である参宮急行電鉄(以下、参急と略記)によって松阪駅~外宮前(現宮町)駅間が開業したのが、その始まりである。

その後、同年5月18日に、参急中川(現伊勢中川)駅~松阪駅間、9月21日に外宮前駅~山田(現伊勢市)駅、1931年3月17日、山田駅~宇治山田駅間が開業し、参急中川駅~宇治山田駅間の全線が開通した。営業キロは28.3kmである。但し、建設当時から山田線だった訳ではなく、当時は、桜井駅~宇治山田駅間を結ぶ「参急本線」としての位置付けであった。

参急は、その名が示すとおり、大阪から伊勢神宮へ旅客を輸送することを目的に設立された鉄道会社で、大阪電気軌道(以下、大軌と略記)の子会社である。

この参急本線が、現在の山田線となったのは、参急と大軌とが合併し関西急行鉄道(以下、関急と略記)が発足した1941年3月15日のことである。この際、参急中川駅は伊勢中川駅と改称された。

以下に示すのは、「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)(以下、百年史と略記)」に掲載された、関急発足前の路線図である。この頃、まだ、鳥羽線は存在せず、志摩線は志摩電気鉄道という別の会社であった。そこだけ見ると志摩電気鉄道は志摩半島にポツンと孤立して存在した鉄道のように見えるが、実際には、この図に掲載されていない国鉄参宮線が既に鳥羽まで開業しており、志摩電気鉄道は、鳥羽で国鉄と連絡する狭軌の鉄道だったのである。

また、山田線の沿線には、松阪電気鉄道や伊勢電気鉄道、合同電気などと言った、今は存在しない鉄道会社線も多数存在していた。これらの路線については、「ちゃり鉄2号」の旅を進めながら、折に触れて、振り返ることにしよう。

6時50分、伊勢中川駅発。

引用図:鉄軌道線の推移(4):昭和6年4月~昭和14年3月「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鉄軌道線の推移(4)昭和6年4月~昭和14年3月
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

伊勢中川駅から先、宇治山田駅に至る山田線沿線は、伊勢平野の集落をつないで走る為、アップダウンもなく、走りやすい。3.3km。10分の走行で、次の駅が見えてきた。

7時、伊勢中原駅着。

伊勢中原駅

伊勢中原駅は、1930年5月18日、参急本線参急中川駅~松阪駅開通時に、参急中原駅として開業した。相対式2面2線構造で、2005年2月21日までは、有人駅であった。駅舎には、有人時代の痕跡がはっきりと残っている。2021年現在の所在地名は、三重県松阪市嬉野津屋城町である。

有人駅時代の痕跡が残っている伊勢中原駅に到着
有人駅時代の痕跡が残っている伊勢中原駅に到着
駅舎には出札窓口のほか、執務スペースや宿直室もあったのだろうか
駅舎には出札窓口のほか、執務スペースや宿直室もあったのだろうか

駅の名前というのは、その駅が所在する地名に因むものが多い。しかし、地名は不変ではなく、市町村合併などによって、変わることがある。ちゃり鉄のレポートをまとめ始めてから気が付いたのだが、市町村合併によって駅の所在地名と駅名が一致しなくなったケースというのは、結構多いように思う。

さて、この伊勢中原駅にしても、開業当時は、参急中原駅と言う名称であった。「参急」が「伊勢」となったのは、伊勢中川駅と同様、参急と大軌の企業合併による関急発足に伴うものであったので、市町村合併によるものではない。しかし、中原の部分は、会社が変わっても変更されておらず、周辺地名由来なのか?と考えられる。

そこで、国土地理院の地形図を調べてみることにする。以下に、国土地理院の地形図を掲載する。

地形図:伊勢中原駅周辺
地形図:伊勢中原駅周辺

ここに示した国土地理院の地形図を見ると、駅名のすぐ上に、「嬉野津屋城町」という地名が見えており、伊勢中原駅が「嬉野津屋城町」にあるということは、直ぐに理解できるのだが、地図に載っている範囲に、「中原」という地名が見当たらない事に気が付く。

これはどうしたことであろうか?もしかしたら、この駅名は、地名由来ではないものなのだろうか?

こうした場合、やはり、地名辞典を紐解く必要が出てくる。そこで、「角川地名辞典 三重県」を調べてみることにしよう。

そうすると、過去に中原村という自治体が存在したことがわかる。以下、その記述を引用する。

まず「明治22年~昭和30年の一志(いちし)郡の自治体名。田村・黒野村・津屋城村・須賀領村・算所村の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。村役場を田村の中瀬古に設置。始め田城野(たきの)村と命名したが、のち伊勢平野の中心地にちなみ中原村と決定した」とある。

また、「昭和4年地内を国鉄名松線、同5年参宮急行電鉄が開通し、津屋城に伊勢中原駅を設置」とある。伊勢中原駅は、参急中原駅の誤りであるが、駅開業当初、この周辺は、中原村という自治体だったということが分かる。

ここで登場した名松線は、上の地形図では、伊勢中原駅の西を走っている路線で、現在のJR名松線である。地図には、権現前という駅名が現れている。伊勢中原駅の東を走っているのは、JR紀勢本線である。同じく、六軒という駅名が現れている。この辺りは、鉄道路線の密度が高い地域で、かつては、これ以外に、伊勢電気鉄道(以下、伊勢電と略記)の路線も、伊勢神宮を目指して、紀勢本線の東側を走っていた。

さて、この中原村は、1955(昭和30)年、嬉野町の一部となり、村政時の5大字は、同町の大字に継承された。更に、2005年に至って、嬉野町が松阪市に吸収合併されたことにより、現在の、「嬉野〇〇町」という字名が生まれたのである。

普段、殊更に意識することはないかもしれないが、駅名には、その地域の歴史が詰まっているように思う。

伊勢中原駅のホームに立って眺めていると、名古屋行きの急行が通過していく。

山田線は、大阪方面、名古屋方面と、伊勢志摩方面とを結ぶ列車が運行されており、列車の運転本数は極めて多い。急行が通過していったのも束の間、今度は、賢島行きの普通が到着し、同時に、大阪上本町行きの特急が通過していった。伊勢中原駅に停車するのは普通列車のみだが、この辺りの普通列車は、2両編成で運転されていることが多いようだ。

駅の周辺は、田畑が広がる中に、住宅が点在している。私が駅を訪れた時は、子供を含む数名が、賢島行きの普通列車の到着を待っていた。

幹線区間にあり、列車の往来は激しい
幹線区間にあり、列車の往来は激しい
伊勢中原駅で普通列車と特急列車がすれ違う
伊勢中原駅で普通列車と特急列車がすれ違う
賢島行きの普通列車は2両編成が多い
賢島行きの普通列車は2両編成が多い

普通列車が出発してしまうと、駅には人の姿が無くなった。駅名標を撮影したりするために、駅の中を一人、うろつく。駅には構内踏切があり、上下線の間を行き来することが出来る。近鉄幹線のローカル駅は、相対式2面2線構造の駅が多いが、その中でも、構内踏切を備えた駅というのは、ローカル色が強い印象を受ける。

伊勢中原駅の駅名標
伊勢中原駅の駅名標
駅には構内踏切があり、上下線の間を行き来することが出来る
駅には構内踏切があり、上下線の間を行き来することが出来る

ひとしきり、駅の構内を散策した後、出発することにする。

7時9分発。

伊勢中原駅からは、一旦、近鉄山田線から離れ、東に進む。JR紀勢本線を渡り、伊勢街道に出たら、そこから街道沿いに南進。三渡川を渡り、市街地の中をジグザグに進んで、県道756号線に出ると再び南進。松ヶ崎駅を跨線橋で渡ってから、橋の下にある松ヶ崎駅に到着した。7時22分着。駅間距離は、4.3kmであった。

松ヶ崎駅

県道が斜めにオーバークロスする松ヶ崎駅に到着
県道が斜めにオーバークロスする松ヶ崎駅に到着

松ヶ崎駅は、相対式2面2線、普通列車のみが停車するローカル駅で、2013年12月21日に無人化されている。駅を斜めに跨ぐ跨線橋が印象的ではあるが、それ以外は、地味なローカル駅の様に感じられる。しかし、この駅は、大変興味深い歴史を持っている。

駅の開業は1930年5月18日。参急本線参急中川~松阪間開通時に開業した。開業時は、参急松江駅を名乗っていて、駅の位置は、現在位置より、0.4km、松阪駅寄りにあった。

開業当時、この付近に、伊勢電という鉄道路線があったことは、伊勢中原駅の所で述べたとおりだが、その伊勢電の路線は、1930年4月1日、参急本線の開通のひと月前に、津新地~新松阪間が開通しており、現在の松ヶ崎駅の位置で、参急本線と立体交差していた。但し、この伊勢電には、立体交差地点付近に、駅は設けられていなかった。以下に示すのは、「百年史」に掲載された1930(昭和5)年当時の、伊勢電気鉄道の路線図である。

引用図:伊勢電気鉄道の路線図(昭和5年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:伊勢電気鉄道の路線図(昭和5年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

伊勢電は、地元資本として、参急の伊勢進出に対抗する経営戦略を採っていたのだが、結局、競争には破れ、1936年9月15日、参急の傘下に入るとともに、参急名古屋伊勢本線となった。

そうなると、同じ参急の路線が、現在の松ヶ崎駅の位置で、立体交差することになる。そのため、参急では、立体交差する位置に、参急本線、名古屋伊勢本線の乗換駅として、松ヶ崎駅を設けるとともに、参急松江駅は廃止した。1937年11月3日のことである。参急松江駅を別の駅と考えるなら、松ヶ崎駅の開業は、1937年11月3日という方が、正確になろう。

その後、関急発足、近畿日本鉄道発足を経て、1961年1月22日、伊勢電に起源を持つ近鉄伊勢線は廃止され、参急本線から改称されていた山田線の単独駅となったのである。以下には、現在の地形図と、それに重ね合わせた鉄道路線図、更に、1937年12月28日発行の旧版地形図を掲出している。それぞれの図幅は少し違う位置だが、対比して見ることが出来て、興味深い。

地形図:松ヶ崎駅周辺
地形図:松ヶ崎駅周辺
旧版地形図:松ヶ崎駅周辺(1937/12/28発行)
旧版地形図:松ヶ崎駅周辺(1937/12/28発行)

こうしてみてくると、私が、松ヶ崎駅に到着する前に通ってきた県道756号線は、松ヶ崎駅の位置で山田線と立体交差していることから、伊勢電の廃線跡ではないか?という疑問が湧き上がるが、これは、実際その通りなのである。鉄道を斜めにオーバークロスする道路、という特異な立体交差は、これらが、かつて、別々の鉄道路線であったことの名残なのである。

ところで、鉄道路線同士が立体交差する時、後から建設された路線が先に建設された路線を跨ぐのが普通である。松ヶ崎駅では、伊勢電の廃線跡が山田線を跨いでいるので、伊勢電の方が後から建設されたということになるが、先に述べたように、開業は、伊勢電の方が、ひと月あまり早かった。

つまり、路線そのものの敷設は伊勢電の方が後だったが、開業は伊勢電の方が早かったということになろう。何となく、参急に対する伊勢電の対抗意識が感じられる。

伊勢電起源の近鉄伊勢線に設けられた松ヶ崎駅は、高架上にホームが設けられていたようだが、「ちゃり鉄2号」の旅の中では、その痕跡を確認していなかった。今後、伊勢電跡を走るちゃり鉄号で、是非とも確認したいと思う。

地名と駅名についても確認しておくと、やはり、この松ヶ崎、松江という地名も、現在の地形図には、その痕跡が残っていない。「角川地名辞典 三重県」で調べてみると、明治22年~昭和29年まで松ヶ崎村が、明治22年~昭和23年まで松江村が、それぞれ存在していたことが分かる。松ヶ崎の村名は、この村を構成した松崎浦、松ヶ島、三渡の三村域の古称でもある松ヶ崎や、中心部である松崎浦の通称を取ったものだと言う。松崎浦というように、松ヶ崎村の中心部は、三渡川に沿った伊勢湾沿岸地域であった。

伊勢電は、松ヶ崎に駅を設けなかったが、松江駅を設けていた。参急が開通当初に設けた駅も参急松江駅であったことを考えると、鉄道開業当時は、現在の松ヶ崎駅付近よりも、松江村域の方が発展していたということであろう。

松ヶ崎駅を探索してみる。

無人化された駅は、上下線それぞれに改札口があり、駅のすぐ南側にある松ヶ崎第1号踏切によって、上下線の間を往来することが出来る。

踏切から駅を眺めると、伊勢電の手による路線跡を転用した県道が、斜めに駅をオーバークロスしている様子が、印象的である。折しも、松阪方面に向かう通勤・通学客の姿が散見された。

駅は無人化されているが、上下両方に入口がある
駅は無人化されているが、上下両方に入口がある
駅を跨ぐ県道は、かつての伊勢電気鉄道の廃線跡である
駅を跨ぐ県道は、かつての伊勢電気鉄道の廃線跡である
松阪方面に向かう通勤通学客の姿が見られる
松阪方面に向かう通勤通学客の姿が見られる

駅の構内で、駅名標などを撮影していると、まず、宇治山田行きの普通列車が到着した。そして、普通列車が出発し、その姿が、まだ、線路の向こうに消えないうちに、後続の鳥羽行き急行が、徐行しながら駅を通過していった。しばらくすると、今度は、名古屋行き特急が通過していく。やはり、幹線路線の山田線だけあって、列車の往来が激しい。

ひとしきり撮影を終えて、松ヶ崎駅を出発する。7時32分発。

松ヶ崎駅の駅名標
松ヶ崎駅の駅名標
宇治山田行きの普通列車を見送る
宇治山田行きの普通列車を見送る
普通列車を見送って直ぐに鳥羽行き急行が通過していった
普通列車を見送って直ぐに鳥羽行き急行が通過していった
間髪入れずに名古屋行き特急が通過する
間髪入れずに名古屋行き特急が通過する

松ヶ崎駅からは、国道166号線に沿って、松阪駅を目指すことにした。

廃線跡である県道を進み、西側から松阪市街地の松阪城跡や本居宣長旧邸を経て、松阪駅に至るルートを走ってもよかったと、後付けで感じているが、「ちゃり鉄2号」の走行当時は、最短ルートを取っていた。

市街地を貫通する交通量の多い国道を進み、標識に従って右折すると、松阪駅に到着する。7時43分着。

松阪駅=明星駅

松阪駅

三重県下の中核駅である松阪駅の近鉄正面口
三重県下の中核駅である松阪駅の近鉄正面口

松阪駅は、この地域の中心都市である松阪市の玄関駅であり、JR紀勢本線の松阪駅と共に、特急も含めた殆どの列車が停車する、主要駅の一つである。近鉄とJRの駅は、それぞれ、隣接しており、相互に乗り換えが可能な構造となっている。

近鉄が2面3線なのに対しJR側は3面4線で、発着番線だけで見ると、JRの松阪駅の方が大型になっているが、発着本数や旅客需要を見ると、圧倒的に近鉄優位である。但し、路線そのものの歴史でいうと、JR松阪駅は参宮鉄道時代の1893年12月31日、近鉄松阪駅は参急時代の1930年3月27日の開業で、40年近く、JR路線の方が古い。

JRの起源には参宮鉄道、近鉄の起源には参宮急行電鉄、という鉄道会社が存在していたことから分かるように、この松阪を通過する鉄道路線は、「参宮」を目的としていた。参宮とは、勿論、伊勢参りのことである。

更に、この松阪駅付近には、今では廃止された鉄道路線も合わせて、多くの鉄道路線がひしめいていた時代がある。

以下に示すのは、松阪周辺の広域地形図で、マウスオーバー若しくはタップ操作で、1930年当時の鉄道路線を表示できるようにしてある。実線は現役路線であるが、近鉄は前身の参急で、JR紀勢本線はまだ国鉄参宮線だった。

点線は廃線である。伊勢電本線が市街地の西側を通って伊勢市方面に伸びており、現在の地図では、車道に転用されていることが分かる。この他、いわゆる路面電車の松阪電気鉄道が、松阪駅を挟んで、北東と南西に路線を伸ばしていた。

松阪が交通の要衝だったということがよく分かる。

地形図:松阪駅周辺
地形図:松阪駅周辺

ここで、松阪という地名について、「角川地名辞典 三重県」の記述をもとに振り返ってみよう。

「「まつざか」ともいい、古くは松坂とも書く。…中略…地名の由来は、天正年間に当地に築城した蒲生氏郷が、蒲生家が隆盛を誇るところから松の字を吉祥とし、また豊臣秀吉の大坂城の坂を賜ったことにちなむという(三重県の城)。江戸期の文献においても、松阪と松坂の混用が見られるが、「松阪近代略史」によると、大坂が大阪になったことを例にしながら近代以降松阪にしたと言う。また、「まつさか」か「まつざか」かについては、現在、交通関係や電信電話関係でもそれぞれに使用されているが、市としては、「まつさか」を用いることになっている(松阪市史)」

現在の松阪市域は、西の台高山地から東の伊勢湾岸までを含めた広大な地域を含んでいるが、1889年4月1日に、松坂城下の旧町村を中心とした松阪町が発足したのが、「松阪」という地名の始まりである。その後、1933年2月1日に市制を施行し、現在に至るまで、周辺市町村の編入や広域合併によって、その市域が拡大している。

松阪と言えば、現在では、「松阪牛」を思い浮かべる人が多いであろう。また、歴史好きなら、本居宣長を挙げるかもしれない。しかし、「ちゃり鉄」の興味としては、この松阪に至る鉄道敷設の歴史的経緯について、述べておきたい。

この松阪に達した鉄道としては、既に述べたように、現在のJR紀勢本線や参宮線の前身に当たる、参宮鉄道の敷設が最も古く、1893(明治26)年12月31日のことであった。津~宮川間開通に伴うもので、松阪は中間駅の位置付けであった。この参宮鉄道は、その後、1906年3月31日に公布された、鉄道国有法によって国有化が決定し、1907年10月1日に買収され、国鉄参宮線となっている。

この鉄道国有法は、その第一条において「一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス、但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニ在ラス」と規定しているとおり、幹線の国有主義を規定しているのだが、鉄道国有化の是非から路線選定、買収価額や買収年限の決定、財源等、多岐にわたる議論が紛糾し、史上初の乱闘国会を経て議決された法律である。

参宮鉄道に関しても、第22回帝国議会の議事速記録を見ていると、「一地方の交通を目的とする鉄道に過ぎない」として、国有化に反対する意見が出ているのだが、最終的には買収対象とされている。

ところで、この参宮鉄道及び参宮線について、「最長片道切符の旅(宮脇俊三・新潮社・1983年)」に、以下のような記述がある。

「9時10分に多気を発車すると、左へ参宮線が分かれて行く。幅の広い複線用の道床であるが、線路は片側一本しかない。戦争末期、鉄材供出のために単線にされ、そのままになっているのである。それにしても、戦前は参宮線を複線にするだけの客があったのだ」

「参宮」需要がそれだけの規模であったことを伺わせる話である。

実際、参宮鉄道は、1906年12月には、山田~鳥羽間の延長を申請、1907年1月には、複線化と電化の認可を受け、4月には複線化に着工、7月1日には、山田~鳥羽間の延長を免許されている。

しかし、ここで、疑問を抱かないだろうか?

何故なら、先に述べたように、参宮鉄道は、1906年3月の鉄道国有法によって、国有化が決定しているのである。にもかかわらず、路線延長や複線化・電化が、その決定後に、相次いで免許・認可されているではないか。これは、どうしたことであろう。

これについて「日本鉄道史 幕末・明治編(老川慶喜・中央公論新社・2014年)」に興味深い記述があるので、引用したい。

「私鉄買収にあたっての問題は、買収価額の決定方法であった。…(中略)…私鉄各社は益金割合が五パーセントをこえていれば、買収日までの新投資が確実に利益を生むことになったため、一斉に新投資を行って建設費を増加させようとした。清水啓次郎『交通今昔物語』は、この様子を「そこで各鉄道は盛んに増設工事を始めたもので、…(中略)…総武、関西、参宮の各鉄道会社も皆、複線を敷設する。…(中略)…まるで火のついた様な騒ぎ」であったと活写している」

同書によると、建設費の増加率では参宮鉄道の増加率が最も高く、49%であったとある。

つまり、参宮鉄道の複線化というのは、参宮需要に対応するための設備投資ではなく、国有化が決定したことを受けた、買収価額釣り上げのための設備投資であったということである。それ故に、戦争末期、鉄材供出という暴政施行に及んで、惜しげもなくレールを剥がしたのであろう。

鉄道国有法の議論が紛糾したという経緯が暗示するように、ここでは、投資対象としての鉄道という存在が浮かび上がる。国土全体の大局的な交通政策が、利権や私利私欲によって歪曲されていくというプロセスは、明治の昔から令和の現代に至るまで、何ら変わることなく、連綿と続いているように思う。

さて、参宮鉄道や参宮線の話が長くなったが、参急や伊勢電の伊勢進出は昭和初期の話で、明治時代の鉄道国有法の議論とは、直接、関与しない。その代わり、大正末期に制定された改正鉄道敷設法の予定線決定のプロセスが、密接に関連してくる。そして、この改正法で規定された予定路線を根拠とした国鉄名松線が、私鉄である参急や伊勢電と、対比されることになるのである。詳細は、文献調査記録で述べることとして、ここでは、簡単にまとめておきたい。

引用図:桜井・宇治山田間の路線図「近畿日本鉄道 100年のあゆみ・近畿日本鉄道・2010年」
引用図:桜井・宇治山田間の路線図(昭和6年)
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ・近畿日本鉄道・2010年」

上に示したのは、「百年史」掲載の「桜井・宇治山田間の路線図(昭和6年)」の引用図である。

これを見ると分かるように、参急の親会社であった大軌は、桜井から高見峠を経て山田に至る路線計画を申請していた。しかしながら、大軌は目論見通りに免許を得られず、代わりに、大和鉄道が桜井~名張~山田間の免許を取得した。そこで、大軌は、子会社の参急を使って、大和鉄道の取得した免許の獲得を狙い、大和鉄道を傘下に収める戦略をとったのである。参急が免許を譲り受けたのは、1926(大正15)年6月14日のことであった。

一方、改正鉄道敷設法の公布は1922年(大正11年)4月11日のことであり、その別表一覧第81号において、「奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道 及名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鉄道 並榛原ヨリ分岐シ松山ヲ経テ吉野ニ至ル鉄道」が予定された。

この前段、「奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道」を根拠として、敷設が開始されたのが、国鉄名松線である。名は名張、松は松阪に由来する路線名であった。当初は、その法律の条文のとおり、桜井と松阪を結ぶことを意図して櫻松線と呼ばれていた。

この名松線は、1929年(昭和4年)8月25日の松阪~権現前間の開業を始まりとして、その後、延伸開業を繰り返していくことになり、1931年(昭和6年)9月11日には、上の図にもあるように、家城駅まで延伸開業している。

しかしながら、この段階で、既に、参急が桜井~宇治山田間を開業しており、名松線の建設意義は失われた。それでも、延伸工事は続けられ、1935年(昭和10年)12月5日には、家城駅 – 伊勢奥津駅間が開業している。そして、そこで、延伸工事はストップし、以後、存廃議論を繰り返しながら、現在に至るのである。

歴史的うんちく話が長くなった。「ちゃり鉄2号」の旅に戻ろう。

松阪駅前は、人の往来も激しく、有人駅でもあるので、駅の構内に立ち入るのは避けて、構外から眺めるだけとなったが、運転本数の割に島式単式2面3線と小さな駅であるため、列車の発着は頻繁である。

駅に隣接する松阪第1号踏切からは、緩やかな曲線に設けられた松阪駅の構内を遠望できた。

ここでは、先輩のJR松阪駅に寄り添う形で、後から、近鉄の松阪駅が設けられたため、近鉄の駅は、JR側の敷地境界に併せて、湾曲する形で設けられているのである。

構内の探索が出来ないため、松阪駅の滞在時間は、わずかとなった。7時46分発。

駅前から駅名標を撮影
駅前から駅名標を撮影
2面3線の駅に列車が頻繁に発着する近鉄の松阪駅
2面3線の駅に列車が頻繁に発着する近鉄の松阪駅

松阪から東松阪までは、JRと近鉄とが、3複線のように寄り添いながら進んでいるのだが、線路沿いに進む道は無いため、一旦、交通量の多い国道・県道に迂回しコの字を描くようにして進む。

2.5km走って、7時59分、東松阪着。

東松阪駅

相対式2面2線の東松阪駅に到着
相対式2面2線の東松阪駅に到着

東松阪駅は、1930年3月27日、参急本線の松阪~外宮前(現宮町駅)間開通時に開業した、相対式2面2線のローカル駅である。2013年12月21日に無人化されており、2014年2月21日には構内踏切が廃止され、宇治山田方面に向かう1番線側に、東口が新設された。元々、駅に隣接して、すぐ隣に、東松阪第1号踏切があるため、利用者の便宜を図る意味で、構内踏切を廃止して、車道踏切の両側に入り口を設けたということである。2番線側には駅舎があり、構内踏切が廃止されるまでは、こちらが入り口だった。

上下線の入り口は踏切を挟んでそれぞれに設けられている
上下線の入り口は踏切を挟んでそれぞれに設けられている
松阪方面への上り線側に駅舎がある
松阪方面への上り線側に駅舎がある

駅は三重県松阪市大津町久地にあるが、駅名としては、松阪の東という位置関係を反映した駅名と思われる。地理院の地形図には東松阪という記載があるが、特に、「角川地名辞典 三重県」には、そのような地名の記載はなかった。

なお大津町に関しては、「金剛川支流の名古須川流域に位置する。古くは「おおち」といったが、のちに「おおつ」と称するようになった(飯南郡史)。地名の由来は、往古は海浜に位置していたためという(松阪の町の歴史)」という記述がある。

なるほど、現在では、伊勢湾岸から数キロ内陸に位置するものの、東松阪駅付近より下流側の地域は水田が多く、かつては低湿地や海面だったということが、推測される。

地形図:東松阪駅周辺
地形図:東松阪駅周辺

地形図で見ると明らかなように、松阪駅からここまで並走してきたJR紀勢本線と近鉄山田線は、この東松阪駅付近から、袂を分かち、離れていく。JRと近鉄の踏切は、それぞれ、100m弱の距離を隔てているものの、お互いの踏切から相手の踏切を見渡すことが出来る。なお、地図はマウスオーバーやタップ操作で切り替えが可能である。

JRの踏切を眺めに行くと、丁度、名古屋行きの快速「みえ」が通過していくところだった。

なお、松阪駅と東松阪駅との間は、近鉄の営業距離で1.6kmであり、東松阪駅付近にJRの駅は設けられていない。JRの次駅は徳和駅で、松阪駅との間は3.0km離れている。地形図では、この徳和駅のすぐ南をオーバークロスする車道が描かれているが、これは、伊勢電の廃線跡である。

JR紀勢本線の踏切も隣接している
JR紀勢本線の踏切も隣接している
名古屋行きの快速「みえ」が東松阪付近を通過していく
名古屋行きの快速「みえ」が東松阪付近を通過していく

東松阪駅に戻り、駅名標などを撮影していると、直ぐに伊勢中川行きの普通列車が到着し、入れ違いで、宇治山田行きの急行が通過していく。

山田線に入って、各駅ごとに、同じような行き違い場面を見ている気がする。それだけ、山田線の運転密度が高いということで、並行するJR線と比べて、多い時では、3倍以上の運転本数となっている。

8時8分、東松阪発。

東松阪駅の駅名標
東松阪駅の駅名標
伊勢中川行きの普通列車が到着した
伊勢中川行きの普通列車が到着した
普通列車と行き違う宇治山田行き急行
普通列車と行き違う宇治山田行き急行

東松阪から櫛田までの駅間距離は3.9km。近鉄山田線の中では最長である。「ちゃり鉄2号」は近鉄山田線に沿って走ることが出来ないため、一旦、県道37号線側に迂回する。この県道は、近鉄山田線の北側を走っているのだが、櫛田駅に近づくと南南東に進路を変えて、駅の西側で近鉄山田線をオーバークロスするため、櫛田駅には駅の南側からアクセスする4.7kmのルートとなった。8時21分着。

ルート図:東松阪~櫛田間
ルート図:東松阪~櫛田間

櫛田駅

櫛田駅は、相対式2面2線の駅であるが、その2線の間に、上下各1線ずつの複線の通過線を持っている。この他、下り線側には、工事車両用の留置線もある。

通過列車は、この、ホームのない主本線を駆け抜けていき、駅に停車する普通列車は、本線からポイントを渡ってホーム側の副本線に停車する。

このような構造になったのは1992年3月12日のことで、同時に地下駅舎化されている。

櫛田駅は地下通路で上下ホームが結ばれている
櫛田駅は地下通路で上下ホームが結ばれている

山田線の旅では、これまで見てきたように、ほぼ、一駅ごとに、列車の停車や通過に巡り合っている。その一方で、非常に運転密度の高いこの路線にあって、東松阪駅と櫛田駅の間は、駅間距離が最も長い。

となると、この辺りに、追い抜きが可能な待避線を持った駅を設けないと、普通列車のために、後続の優等列車が徐行を余儀なくされることもありえる。

櫛田駅の構内構造の改良は、普通列車の最大編成(4両)対応の目的もあったようだが、それらに併せて、高速化工事も行ったということであろう。

折しも、「ちゃり鉄2号」の停車中に、その通過線を名古屋行きの12200系特急が通過していった。旧塗色の12200系特急だったが、2021年2月12日に引退した車両で、今ではもう、見ることは出来ない。

櫛田駅を通過していく旧塗色の名古屋行き12000系特急
櫛田駅を通過していく旧塗色の名古屋行き12200系特急
相対式2面2線に通過線2本、留置線1本を備えた櫛田駅の構内
相対式2面2線に通過線2本、留置線1本を備えた櫛田駅の構内

さて、この櫛田駅であるが、開業は1930(昭和5)年3月27日で、参急本線松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。

現在の所在地は、三重県松阪市豊原町である。

ここで、地形図を見ると、ふと、疑問を抱く。櫛田駅の東北東には、「櫛田町」という街があるにも関わらず、所在地は、南南西に示された「豊原町」となっているのである。

どうして、豊原町にあるのに櫛田駅を名乗ったのであろうか?

そこで例によって「角川地名辞典 三重県」の記述を追ってみる。

それによると、豊原町も櫛田町も、昭和42年以降の松阪市の町名であると記されているのだが、それ以前は、いずれも、「明治22年~昭和42年の大字名。はじめ櫛田村、昭和32年からは松阪市の大字」となっており、駅が設置された昭和5年当時は、櫛田町も豊原町も、櫛田村の大字だったことが分かる。元々、江戸期から明治22年まで、櫛田村、豊原村が存在しており、それが、明治22年に、他の清水、菅生(すぎう)、上七見の各村も併せて櫛田村となり、旧村名が大字に転化したのである。その後、櫛田村は昭和32年まで存続したものの、その後、松阪市に併合されて、現在に至るわけである。

つまり、櫛田村豊原に櫛田駅が設けられたというのが、設置当初の経緯ということになろう。その後、櫛田村が消えて、櫛田、豊原の大字だけが残ったため、現在のように、地名と一致しない駅名ということになったわけである。

なお、地名の由来として、櫛田は「竹首(たけのおびと)古志比古の本領として竹田の国といわれていたところ、倭姫命巡行の折に、櫛を落としたことにちなむという(倭姫命世紀)」とある。豊原については地名の由来は述べられていないのだが、「かつて参宮街道の宿駅でもあった」とあり、豊原の名のごとく、こちらの方が栄えていたようだ。

それ故か否かはわからないが、現在の近鉄山田線の南側にある豊原町内には、かつて、伊勢電本線が走っており、上櫛田の駅が設けられていた。設置は、参急本線の櫛田駅の設置と同年の1930年のことである。

街道沿いの宿駅として栄えていた町に、村名を冠した玄関駅が設けられたのである。

以下には、それらの位置関係を示した国土地理院地形図を掲載する。マウスオーバー等の操作で、切り替えられるようになっている。

地形図:櫛田駅周辺
地形図:櫛田駅周辺

櫛田駅の東側にある、櫛田第一号踏切から構内の撮影をして、8時27分、櫛田発。

ここからは、南東に進んで櫛田橋で櫛田川を渡り、その後、東寄りに進路を変えて近鉄の線路に近づきつつ、集落の中を走り抜けて、漕代駅に当着する。8時36分着。

ルート図:櫛田~漕代間
ルート図:櫛田~漕代間

漕代駅

漕代駅は、1943年10月23日、関急山田線に新設開業された駅である。相対式2面2線のローカル駅で、2005年2月21日は無人化されている。この無人化と同時期に、構内踏切を廃止した上で、下りの1番線側にも入口が新設された。

従来からの駅舎は上りの2番線側にあり、駅舎前には、多少の車寄せ空間がある。

かつては構内踏切を備えていたようだが、駅のすぐ東側には、漕代第一号踏切があり、構内踏切を廃止しても問題はなさそうである。

相対式2面2線の標準的なローカル駅・漕代駅に到着
相対式2面2線の標準的なローカル駅・漕代駅に到着
上り線側に設けられた漕代駅舎
上り線側に設けられた漕代駅舎
漕代第一号踏切から見た漕代駅構内
漕代第一号踏切から見た漕代駅構内
漕代駅下り線ホームの入り口
漕代駅下り線ホームの入り口

駅に到着した時には、鳥羽行きの普通列車が、構内撮影中には、伊勢中川行きの普通列車が、発着した。伊勢中川行きの普通列車の行き先方向幕は、「中川」となっていた。

しばらくすると、今度は、大阪上本町行きの「ビスタカー」が通過していった。

やはり、「ビスタカー」は格好がいい。

伊勢中川行きの普通列車が発着
伊勢中川行きの普通列車が発着
漕代駅の駅名標
漕代駅の駅名標
下り線ホームから眺める漕代駅構内
下り線ホームから眺める漕代駅構内
漕代駅を通過していく大阪難波行きビスタカー
漕代駅を通過していく大阪上本町行き「ビスタカー」

さて、漕代駅は、三重県松阪市稲木町にあり、やはり、ここでも、漕代の地名は、地図上には現れていない。

「角川地名辞典 三重県」によれば、「平安期に見える郷名」とあり、由来の詳細は分からないが、古い地名ではある。その後、「明治22年~昭和30年の自治体名。…(中略)…村名は、はじめ川中村と内定したが、再検討の結果古代の郷名にちなみ漕代村となる(町村分合取調書。役場は早馬瀬に設置」とある。

関急時代の昭和19年に駅が設置されているから、既に、何例も見てきたように、駅設置当時の旧自治体名を冠した駅名だったことが分かる。

なお、この漕代駅付近の近鉄山田線の南側でも、伊勢電本線が並行していて、役場が設置された早馬瀬付近に、漕代駅を設けていた。その辺りの対比図を、以下に示した。

地元資本の伊勢電は、どちらかと言うと、旧市街地を結んだ線形で路線を敷設しており、名阪から伊勢直通を企図していた参急は、伊勢直達の線形で路線を敷設していたように感じられる。

地形図:漕代駅周辺
地形図:漕代駅周辺

漕代駅、8時46分発。

漕代駅から斎宮駅までは、祓川を渡る他は、街道沿いの集落を淡々と走る形で進み、1.5kmを4分で走り抜けて、8時50分、斎宮着。

ルート図:漕代~斎宮間
ルート図:漕代~斎宮間

斎宮駅

斎宮駅は、相対式2面2線構造の駅で、1930年、参急本線松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。現在の駅舎は1992年に建て替えられたもので、2001年には第三回中部の駅百選にも選定されている。斎宮跡の玄関口であるが、2013年12月21日に無人化されている。史跡に面した駅の北側に、史跡公園口が開設されたのは、2015年3月19日のことであった。

駅の所在地は、三重県多気郡明和町大字斎宮で、松阪市域から多気郡域に入った。

駅名・地名が一致しているが、その由来は、駅の北にある史跡・斎宮跡にある。

この斎宮について、「角川地名辞典 三重県」では、「斎王宮跡」として記述されており、「古代・中世の宮殿・官衙遺跡。…(中略)…歴代天皇の即位ごとに、天照大神の御杖代として伊勢神宮に奉仕する斎王のために設置されたもの…」とある。

斎宮の何たるかを語るには浅学に過ぎるし、この紀行の趣旨からもずれるので深入りはしないが、簡単に述べておくなら、天皇の代替わりの際に置かれて、天照大神の意を受ける依代として、伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女(斎王)が仕えた宮のことで、鎌倉中期まで続いたという。

この斎王宮跡の広がりは、以下の地形図に示す通りで、斎宮駅の北側300mにある「斎王の森」を中心として、東西2km、南北700mに及ぶ。

地形図:斎宮駅周辺
地形図:斎宮駅周辺

さて、この斎宮駅は、伊勢平野の小集落を結んで、淡々と伊勢神宮を目指す近鉄山田線にあって、観光的要素を持った数少ない駅で、駅舎もそういう意図を反映したものとなっている。

元々の駅舎自体は、斎宮とは反対の南側にあり、これは、周辺集落が、近鉄の線路よりも南側にあることを反映していると思われるが、北口に史跡公園口が設置されて、休憩所も設けられている。この休憩所は、地元の明和町の手によるものである。

南口と北口の間には構内踏切があるが、駅自体は無人化されているので、歩行者向けの一般踏切と同じ機能を果たしているとも言える。

私は南口から駅にアプローチしたので、構内踏切を渡って、北口を見に行ったり、上下線ホームをブラブラしたりしながら、構内を探索してみる。

駅の構内そのものは、標準的なローカル駅で、普通列車しか停車しないが、探索中に、宇治山田行き普通列車が発着し、さらに、下り急行・上り特急がすれ違った。

漕代駅付近まで近鉄山田線の南1km弱のところを並走してきた伊勢電本線には、近鉄山田線の斎宮駅の南西に、南斎宮という駅が設けられていたが、山田線は斎宮駅の1kmほど西側から、進路を少し、北寄りに変えるため、少しずつ、伊勢電の廃線跡から遠ざかっていく。

比較的大きな作りの斎宮駅舎
比較的大きな作りの斎宮駅舎
構内踏切から眺める斎宮駅
構内踏切から眺める斎宮駅
斎宮駅の駅名標
斎宮駅の駅名標
上り線ホームから眺めた斎宮駅構内
上り線ホームから眺めた斎宮駅構内
斎宮駅に停車する宇治山田行き普通列車
斎宮駅に停車する宇治山田行き普通列車
特急・急行が、斎宮駅で行き違い
特急・急行が、斎宮駅で行き違い
旧跡を模した作りの下り線側斎宮駅舎
旧跡を模した作りの下り線側斎宮駅舎

駅構内の探索を済ませたら、明星駅に向けて出発する。9時発。

ここから明星駅までは、近鉄山田線に沿う県道428号線をそのまま東進するのだが、明星駅付近で集落内の小道に入るポイントを逸して、一旦、逆戻りするような形で明星駅に到着。9時12分。

ルート図:斎宮~明星間
ルート図:斎宮~明星間

明星駅=宇治山田駅

明星駅

明星駅は、1930年3月27日、参急本線松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。島式2面4線の大型駅であるが、普通のみの停車である。但し、駅に隣接して明星検車区・明星車庫があるため、当駅発着の普通列車の設定がある。

駅の所在地は三重県多気郡明和町大字明星である。

駅名は地名に因むと思われるが、「角川地名辞典 三重県」の記述によれば、明星の地名は「上野の安養寺境内に明星が降りてくるといわれる明星水という井戸があり、その名にちなむという」とある。

現在は明和町の大字であるが、明治22年から昭和30年にかけての参急本線敷設当時は、多気郡明星村であった。その明星村を構成した大字の一つが上野で、駅の西側の地域に当たる。その後、明星村は、昭和33年までの斎明村を経て、以降、明和村の大字となったのである。

なお、下には、明星駅から主に東側の地域の地形図を掲げてあるが、駅の南東に、伊勢市飛地、玉城町飛地の表示がある。明星駅は明和町域にあるが、伊勢市、玉城町との境界付近にあり、そこでは、複雑に飛地が絡み合っている。

手元の資料では、ここに存在する飛地の由来について、詳細は分からなかったが、今後の文献調査の課題としておきたい。

また、この辺りでは、伊勢電本線の廃線跡は、飛地がある丘陵地帯の南側を通っており、近鉄からは離れた位置になっている。

地形図:明星駅周辺
地形図:明星駅周辺

車両基地があることもあって、明星駅は有人駅である。駅も規模が大きいため、構内の様子を眺められる場所が少なかったのだが、一旦、斎宮駅側の斎宮第二十号踏切まで戻ってみると、多数の側線を抱えた駅の様子を遠望することが出来た。折しも、入れ替え作業中の回想車両が、駅構内を徐行しながら、行き来しているところであった。

車両基地も備えた明星駅に到着
車両基地も備えた明星駅に到着
駅周辺には留置線などもあって、施設面積は大きい
駅周辺には留置線などもあって、施設面積は大きい
明星検車区・車庫が駅ホームに隣接している
明星検車区・車庫が駅ホームに隣接している
入出庫車両の入れ替え作業が頻繁に行われている
入出庫車両の入れ替え作業が頻繁に行われている

「明星」というきれいな駅名から、かつて国鉄に存在した、寝台特急「明星」を連想するのだが、この寝台特急は、1986年という比較的早い時期に廃止されてしまった。

9時15分発。

明星駅からは、一旦県道に戻る。そのまま、県道を進んで、明野駅の辺りで、集落の中の小道に入ればよかったのだが、途中で県道からそれて山田線を渡り、北側を走って明野駅に到着した。

実際に走っていると、予定したルートよりも良さそうな道が見えたりすることがあるし、地図ではマークしていなかったルートが見つかったりすることもある。工事で、予定ルートを進めないことも意外とある。

そういう時に、アドリブでルート変更しつつも、上手く予定ルートに復帰するためには、事前調査と、読図力が必要になる。

集落を走って、住宅街の中にある明野駅に到着。9時29分着。

ルート図:明星~明野間
ルート図:明星~明野間

明野駅

明野駅は、1930年3月27日、参急本線の松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。現在は、複線の通過線を間に挟んだ、相対式2面2線構造の駅であるが、この形になったのは、1992年3月14日のことで、同時に地下駅舎化されている。

駅の構造や改造時期は、既に走ってきた、櫛田駅と酷似しており、両駅は、兄弟駅のように考えられる。

駅の所在地は、三重県伊勢市小俣町明野となっていて、明星駅と明野駅の間で、伊勢市に入っている。

南西に大仏山(標高53m)を従えて、宮川沿いに、伊勢湾岸まで広がる平野は、「角川地名辞典 三重県」の記述によると明野ヶ原と言われる標高5~10mの洪積台地である。宮川に近いものの、水利に恵まれず開発が遅れたため、明治期以降は、桑畑として利用されたと言う。大正13年には陸軍明野飛行学校が開校し、第二次大戦後は、その一部を陸上自衛隊航空学校が使用している。昭和35年から53年にかけて、宮川用水が開削されて圃場整備が進み、現在は、水田化が進んでいるが、まだ畑地も多く、この畑地では、大根(伊勢たくあん)やタバコの栽培が盛んだと言う。

以下に明野駅周辺の国土地理院地形図を示すが、駅の北にある陸上自衛隊明野駐屯地や、周辺に広がる水田記号の中に、畑記号が点在している様が、明野ヶ原の歴史と合致する。

地形図:明野駅周辺
地形図:明野駅周辺

明野駅の周辺は住宅地で、週末の午前9時過ぎとあっては、利用客の姿も少なかった。

駅構内には入らず、明星第16号踏切まで足を伸ばして、そこから、駅構内を遠望する。

折しも、上り普通列車が入線し、下りの特急列車が通過していくところであった。

9時35分発。

住宅街の中のローカル駅である明野駅に到着
住宅街の中のローカル駅である明野駅に到着
副本線に入る下り普通と主本線を通過する上り特急
副本線に入る上り普通と主本線を通過する下り特急
櫛田駅と同様の駅構造を持つ明野駅
櫛田駅と同様の駅構造を持つ明野駅

明野駅からは山田線の南側の水田地帯を進み、小俣町の市街地に入って、南東から北東に90度進路を変えたら、程なく小俣駅に当着する。9時44分着。

ルート図:明野~小俣間
ルート図:明野~小俣間

小俣駅

小俣駅は、1931年7月4日、参急本線明野~外宮前(現宮町)間に、新設開業された。相対式2面2線のローカル駅で、2005年2月21日に無人化されている。

駅は、三重県伊勢市小俣町元町にあるが、小俣は「おばた」と読む。

この地名について、「角川地名辞典 三重県」の記述では、「小端・小幡とも書いた。…(中略)…地名の由来については、開化天皇の第2皇子小俣王から名付けられたとも、また外城田川と湯田川の分岐点に位置しているから小俣になったとも、あるいは小墾田から転訛したともいわれ、諸説がある」とある。

以下に示す国土地理院地形図を見ると、小俣駅は、駅の北で分岐する外城田川と、駅の東側を流れる宮川の間に広がるデルタ地帯であることが分かる。

また、駅の南西には、JR参宮線の宮川駅が見えているが、この宮川駅の南に、「離宮院跡」という表示が見える。「角川地名辞典 三重県」によると、「延暦16年伊勢斎宮の離宮院が高河原(伊勢市岩淵町)から当地に遷座して造営されたが、中世末期に衰退し、その土塁跡などが残る」とある。延暦16年とは西暦797年、平安時代のことで、小俣の地名は、平安時代の文献には現れる、古い地名である。

地形図:小俣駅周辺
地形図:小俣駅周辺

駅は、明野駅と同様に、住宅地の中にあり、週末の午前中とあって、この日は、静かな雰囲気だった。

列車を待つ人の姿はなかったが、程なくして到着した伊勢中川行きの普通列車からは、一人降り立つ客の姿があった。

駅のすぐ西側には県道の跨線橋があり、駅を見下ろしている。

駅東側に隣接した小俣第1号踏切から駅構内を見ると、この跨線橋が対称的な駅ホームの向こうに控えていて、幾何学的な造形に見える。

住宅街の中にある小俣駅
住宅街の中にある小俣駅
相対式2面2線のホームは標準的なローカル駅の雰囲気
相対式2面2線のホームは標準的なローカル駅の雰囲気
小俣駅の駅名標
小俣駅の駅名標
伊勢中川行きの普通列車が到着
伊勢中川行きの普通列車が到着
上り線側から眺める小俣駅構内
上り線側から眺める小俣駅構内
小俣第2号踏切から小俣駅を遠望する
小俣第2号踏切から小俣駅を遠望する

東に少し離れた小俣第2号踏切から、小俣駅を遠望して出発する。9時51分発。

宮川を渡る近鉄路線に沿って走ることは出来ないので、少し下流にある豊浜大橋を渡り、県道60号線に沿って、南南東に進む。宮川を渡った辺りから、伊勢市街地に入る。10時4分、宮町着。

ルート図:小俣~宮町間
ルート図:小俣~宮町間

宮町駅

宮町駅は、1930年3月27日、参急本線松阪~外宮前間開通時に、外宮前駅として開業した。その後、同年9月21日には、外宮前~山田(現伊勢市)間が延伸開通したため、中間駅となった。宮町駅への改称は、1933年3月のことである。

1971年12月には、3番線が設置され使用開始されたが、2006年には撤去されており、現在は、相対式2面2線のローカル駅である。無人化は2018年7月28日のことである。

駅の所在地は、三重県伊勢市御薗町高向(たかぶく)。

御薗町域は、2005年11月1日に伊勢市に併合されるまでは、御薗村という独立した自治体を形成していた。一方、近鉄やJR南側の常磐、曽祢、八日市場といった地域は、宮町町域となっている。

外宮前駅が1933(昭和8)年に宮町に改称されたということは、既に述べたとおりだが、その頃、駅周辺は、御薗村域だったことを考えると、宮町と称した理由が、今ひとつ分からない。それまで、外宮前と名乗っていたため、伊勢神宮を連想しない御薗村の村名ではなく、外宮側の宮町の町名を取ったということだろうか。ただ、御薗という地名も、「往時神領だったことにちなむ」と「角川地名辞典 三重県」には記載されている。この辺りは、市史などを紐解きながら調べる課題としたい。

以下には国土地理院地形図を掲載した。マウスオーバー・タップで、近鉄やJR以外にこの地に達していた、伊勢電気鉄道の路線位置と駅に関する地図に切り替えられるようにしている。

「百年史」の記述を調べてみると、伊勢電による駅設置に関しては、「神域の尊厳を冒す」として、宇治山田市議会の議員を中心に、反対意見が続出し、その選定に当たって、議論が紛糾したことが述べられている。詳しくは、文献調査編で述べることにするが、議論の結果設けられた大神宮前駅の位置を考えれば、当時の国鉄や参急と比較して、かなり、外宮に接近しており、確かに、論争を招きそうな位置である。

但し、一世紀近くを経た現在となっては、その痕跡は車道転換されるとともに、ギリギリまで市街化が進んでおり、「神域の尊厳」とは何なのか?という状態ではある。

地形図:宮町駅周辺
地形図:宮町駅周辺

さて、宮町駅は?というと、現在は、無人化もされており、かなり、ローカルな駅の印象である。

かつては、宇治山田方面からの列車が、この駅までやってきて、撤去された3番線に停車して折り返していたようだが、既に、その痕跡は取り払われている。終着駅だった期間もあるが、半年に満たない期間であり、元々、外宮への玄関駅として設置する意図はなかったことが分かる。

カーブ上に設けられた宮町駅
カーブ上に設けられた宮町駅
宮町駅付近で伊勢市街地に入る
宮町駅付近で伊勢市街地に入る

10時7分、宮町発。

この先、駅間距離は短く、伊勢市駅までは1.4km、そこから宇治山田駅までは0.6kmしか無い。

宮町から伊勢市までは、市街地の中を淡々と進む。宮町、伊勢市、宇治山田と、近鉄はクランク状にカーブを繰り返しながら進む。宮町第八号踏切を渡れば、カーブの先に、JRと近鉄の伊勢市駅が見える。

10時15分、伊勢市着。

ルート図:宮町~伊勢市間
ルート図:宮町~伊勢市間

伊勢市駅

伊勢市駅は、1930年9月21日、参急本線外宮前(現宮町)~山田(当駅)間開通時に設けられた駅である。駅自体は、JR参宮線の前身である参宮鉄道時代の1897年11月11日に開業しており、参急の開業は、これから30年余り後のことであった。

現在の駅の所在地は、三重県伊勢市吹上一丁目であるが、参宮鉄道の開業当初は、周辺は宇治山田町であった。そのうち、外宮があるのが山田、内宮があるのが宇治であったため、駅名は山田となったのである。

その後、1906(明治39)年には、宇治山田市となり、1955(昭和30)年1月1日に、伊勢市と改称した。宇治山田という地名の決定については、下の引用図に示す通り、市制施行時に宇治、山田のいずれにするか、伊勢を冠した別の名前にするか、等々、議論噴出、紛糾したようだが、「宇治山田共ニ往古ヨリ稱スル著名ノ冠名ニ付、兩稱ヲ合セテ宇治山田ト撰定ス」、即ち、「宇治も山田も、共に、古くから親しまれた地名である」という理由で、決定したという(宇治山田市史 上巻)。

駅名の改称は、これから4年後の1959年7月15日のことである。

引用図:市町制得失意見(宇治山田市史 上巻)
引用図:市町制得失意見
「宇治山田市史 上巻(宇治山田市・1929年)」

以下に示すのは、伊勢市駅・宇治山田駅周辺の国土地理院地形図である。マウスオーバー・タップ操作で、周辺の鉄道路線の概要図に切り替えられるようにしているが、実線は、近鉄、JRといった現存鉄道で、点線は、既に廃止された鉄道である。廃止鉄道については、廃止時の名前としている。

伊勢電本線に起源を持つ関急の路線は、後に、近鉄伊勢線となるのだが、新松阪~大神宮前間は、関急時代の1942年8月11日に廃止されている。また、三重交通の二見線、内宮線は、いわゆる路面電車であるが、宮川電気から伊勢電気鉄道、三重合同電気、合同電気、東邦電力、神都交通と目まぐるしく変遷して、三重交通時代の1961年1月20日に廃止された。

こうしてみると、伊勢市周辺には、相当に鉄道路線が混み入っていた時代があり、神都交通という社名が存在したことでも分かるように、神都と呼ばれるだけの殷賑を極めたということが分かる。路面電車も神都線の愛称で親しまれたようだ。いずれ、その廃線跡を巡る「ちゃり鉄」号を走らせたい。

現在、これらの鉄道路線は整理され、近鉄とJRのみとなっているが、いずれの鉄道会社も、全ての列車が停車する主要駅で、伊勢参りの伝統は、現在も、続いていると見えよう。

なお、地図の下に掲載しているのは「 図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年) (以下、「伊勢志摩の歴史」と略記)」に掲載された、神都線の路面電車の写真である。私自身は、その現役時代を見たことは無いが、古き良き路面電車の時代が偲ばれる。

地形図:伊勢市駅・宇治山田駅周辺
地形図:伊勢市駅・宇治山田駅周辺
引用図:昭和36年当時の神都線路面電車「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和36年当時の神都線路面電車
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和35年の倉田山停留所と神都線電車「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和35年の倉田山停留所と神都線電車「
図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和35年の外宮前と神都線電車「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和35年の外宮前と神都線電車
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

さて、伊勢市駅は、JRが島式単式の2面3線、近鉄が相対式の2面2線駅となっている。JR側の敷地は、留置線なども備えた大規模なもので、近鉄とJRとの間を結ぶ跨線橋も、かなり長いものとなっている。この駅の構造は、松阪駅と似ている。

宮町第八号踏切から遠望するJR参宮線の伊勢市駅は、広い構内にポツンと短編成の気動車が停車しているのみで、往時の風格は失われて久しいが、古びた跨線橋は、歴史を感じさせる。

JRの伊勢市駅は伊勢市駅南口に面しており、近鉄の伊勢市駅は伊勢市駅北口に面している。運転本数や旅客需要では圧倒的に近鉄優位であるが、伊勢神宮外宮への玄関口としては、南口に位置するJR駅が適切で、北口は反対方向になる。これは、元々、参急が宇治山田駅を伊勢神宮参拝の玄関口と位置付けており、山田駅は、宇治山田駅開業までの暫定ターミナルとして位置付けていたに過ぎない、ということを反映しているようにも思う。

そもそも、30年以上前に建設された国鉄を跨いで、その駅と伊勢神宮外宮との間に駅を新設するというのは、伊勢電の大神宮前駅建設で巻き起こった賛否両論の議論を見ても分かるように、相当に困難なことであった。それ故に、参急の戦略としては、宇治山田駅を玄関駅として、国鉄駅とは別の位置に建設するのが適切であったのだろう。

近鉄の伊勢市駅前に向かってみるが、全列車が停車する割に駅の造りはコンパクトな印象を受けた。相対式2面2線であるから、というのもあるが、駅舎の作り自体も小ぢんまりとしていて、山田線沿線の普通列車のみが停車するローカル駅と大差ないように感じられた。

JR紀勢本線と併設される伊勢市駅
JR紀勢本線と併設される伊勢市駅
伊勢神宮の玄関駅でもある伊勢市駅
伊勢神宮の玄関駅でもある伊勢市駅
特急も停車する中核駅だが、駅自体はコンパクト
特急も停車する中核駅だが、駅自体はコンパクト

10時18分、伊勢市駅発。

いよいよ、山田線最後の区間、宇治山田駅までの0.6km余りである。ちゃり鉄2号では、0.7km。5分間の走行であった。

10時23分、宇治山田駅着。大軌・参急が目指した、伊勢路への路線は、ここで、ゴールである。

ルート図:伊勢市~宇治山田間
ルート図:伊勢市~宇治山田間

宇治山田駅=鳥羽駅

宇治山田駅

宇治山田駅は、1931年3月17日、参急本線山田(現伊勢市)~宇治山田間開通に伴い開業した。山田(現伊勢市)駅の開通の半年後の事である。その後、1969年12月15日の鳥羽線開業まで、40年弱の長きに渡り、終着駅として機能していた。

参急としては、山田駅ではなく、宇治山田駅をターミナル駅として建設し、伊勢神宮参拝の玄関口とするのが最適な戦略であったと述べたが、そのためには、国鉄を跨ぐ必要がある。その為、伊勢市駅の東側で、東北東に進路を取る国鉄参宮線を跨ぎ、南にカーブしながら高架駅に入るという構造を取ったのである。敷地は、1930年に開かれた「御遷宮奉祝神都博覧会」の跡地が利用されたと言う。

高架駅であるということも含めて、当時の参急が威信をかけて建設した駅であるということは、駅の豪奢な作りを見ても分かる。私鉄の駅ではあるが、貴賓室が設けられており、政府要人や天皇の伊勢神宮参拝の際に、乗降駅として利用されているほどである。

この駅の設計は、東武鉄道浅草駅や南海電鉄難波駅を手掛けた、久野節の手によるもので、大正ロマンの雰囲気も残す近代建築だ。2001年12月15に地には国の登録有形文化財に登録され、第1回中部の駅百選にも選定されている。

以下には、伊勢市駅のところで掲載した国土地理院地形図(切替可)を再掲しておく。

地形図:伊勢市駅・宇治山田駅周辺
地形図:伊勢市駅・宇治山田駅周辺
豪奢な作りの宇治山田駅に到着
豪奢な作りの宇治山田駅に到着
駅を建設した近鉄の意気込みが感じられる宇治山田駅舎
駅を建設した近鉄の意気込みが感じられる宇治山田駅舎

ホーム構造は、片面単式・櫛形混在の3面4線高架駅である。櫛形のホームを設けているところが、ターミナル駅らしいが、開業当初から、延伸を意図した構造で建築されており、櫛形の1・2番線が、鳥羽方で行き止まりになっているのに対し、単式を含む3・4番線は、鳥羽方に通り抜けられる構造であった。

参急が駅を開業した当初から、鳥羽方面に延伸する計画があったわけではないが、内宮方面への延伸構想はあったようだ。

この宇治山田駅の開業は、参急や大軌にとって、社運をかけた悲願であった。駅の構造にもそれは現れているが、のみならず、開業当時の祝賀行事の様子などにも、如実に反映されている。

以下に示すのは、近鉄の社史に掲載された開業当時の記録である。最初の3枚は、1990年に発行された「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)(以下、「八十年史」と略記)」に掲載された写真で、4枚目は、「百年史」に掲載された写真である。

1枚目の全通記念のポスターには、「優秀ロマンス・カー連結運轉・煙草ものめ、便所もあります」などと記載されている。また、2枚目は、1931年3月22日に、宇治山田駅前で行われた全通祝賀会の様子で、三重県知事の他、鉄道大臣、逓信大臣の祝辞も披露されるなど、国鉄並みの祝賀会となった。折しも、大軌創業20周年で、この祝賀会は全通と大軌創業20周年を兼ねたものであった。3枚目は、開業当初の宇治山田駅の様子である。駅前はまだ未舗装のように見える。

全通当時のポスター「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:全通当時のポスター
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
全通祝賀会「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:全通祝賀会
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
宇治山田駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:宇治山田駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
宇治山田駅に設置された高架バスターミナル「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:宇治山田駅に設置された高架バスターミナル
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

特筆すべきは、4枚目の写真である。これは「百年史」に掲載されたものであるが、宇治山田駅に停車する特急の向こうに、バスが2台、互い違いの方向で写り込んでいるのが分かる。先にも述べたように、宇治山田駅は開業当初からの高架駅であるが、その高架駅のホームに、バスの姿がある。

「百年史」の記述によると、「当社では、昭和36年4月に宇治山田駅1番ホーム横に高架バスターミナルを設置、特急利用者がすぐに三重急行自動車のバスに乗り換えられるようにするなど配慮した」と言う。駅の開業が昭和6年であるから、これは、その30年後の写真で、1961年のことになる。時代としては、かなり後のことになるのだが、当時は、まだ、鳥羽線開業前であった。

これについて、「志摩地域の観光開発を推進するにあたって、当社の鉄道網には解決すべき問題があった。山田線の終点である宇治山田駅から志摩線の起点である鳥羽駅までの区間では鉄道線を営業していなかったため、志摩方面へはバスで乗り継ぐか、国鉄参宮線を利用せざるをえなかったのである。」と「百年史」には記述されている。

そこで登場するのが、この、1番ホーム横の高架バスターミナルだった。バスは、このターミナル末端の転車台で方向転換し、高架ホームに出入りしていた。バスの転車台というのは珍しい。特急の旅客は、ここで、ホームからバスに乗り換え、鳥羽や賢島方面へと足を伸ばしていたのである。

とは言え、志摩地域の観光開発を目論む近鉄として、当時の三重交通が営業していた志摩線(鳥羽~真珠港間)の路線と、山田線宇治山田駅との間を、他社のバスや国鉄を介して接続させるという状況は、決して望ましいものではなかった。

「百年史」に記載された近鉄の認識について、以下に引用しよう。

「バスでは所要時間や輸送力に限界があり、志摩方面へのスムーズなアクセスを実現するには、宇治山田・鳥羽間を結ぶ当社の鉄道線が必要であった。昭和42年8月、当社は「伊勢志摩総合開発計画」を策定した。これは日本万国博覧会に訪れた多数の内外観光客を伊勢志摩へ誘致するため、この地域の交通体系の確立と観光施設の整備充実を推進する計画であった。当社では伊勢志摩を「万国博第2会場」と位置づけ、特に志摩地域の観光整備に重点を置いた。そして、この総合開発計画の基盤となる鉄道線の整備が、「万国博関連三大工事」の一つである鳥羽線建設および志摩線改良工事であった」

ここで登場した「万国博関連三大工事」とは、「百年史」によると、「近畿日本奈良駅および付近線路の地下移設工事」、「難波線建設工事」、そして、「鳥羽線建設、志摩線改良工事」のことである。難波線については、「ちゃり鉄1号」の紀行の中で触れているので、そちらも参照いただきたい。詳細な文献調査記録は、「ちゃり鉄2号」の紀行の執筆終了後に、「1号、2号」それぞれについて、まとめていく予定である。

以下に示すのは、「百年史」に掲載されている「鉄軌道線の推移(7)」の引用図で、鳥羽線建設直前の時期の近鉄沿線の路線網の概要図である。この時代には、近鉄伊勢線は廃止され、松阪市や伊勢市に張り巡らされていた路面電車網も、大幅に縮小している。高度経済成長期で、車社会への転換が加速していた時期であった。

引用図:鉄軌道線の推移(7)昭和26年4月~昭和36年3月「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鉄軌道線の推移(7)昭和26年4月~昭和36年3月
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

「ちゃり鉄2号」の旅では、宇治山田駅構内へは立ち入っていないのだが、この前年の2015年には、9月、10月と続けて近鉄全線を巡る乗り鉄の旅を行っていた。

同年10月23日に乗車した、京都発賢島行きの「しまかぜ」の前面展望写真では、宇治山田駅に進入する直前の風景を収めていた。櫛形ホームの2番線に停車する、12200系の顔が、ちらりと写っていた。そのひと月前の9月の旅では、宇治山田駅で乗り継ぎの合間に途中下車したのだが、バス乗り場や転車台などは確認していなかったのが惜しまれる。

宇治山田駅で乗り継ぎの名古屋行き急行を待つ
宇治山田駅で乗り継ぎの名古屋行き急行を待つ
~2015年9月25日~
宇治山田駅に進入する賢島行き特急「しまかぜ」の前面展望
宇治山田駅に進入する賢島行き特急「しまかぜ」の前面展望
~2015年10月23日~

宇治山田駅前で、停車中の「ちゃり鉄2号」を写真に収めて、いよいよ、鳥羽線の旅に入ることにしよう。

「ちゃり鉄2号」の当時は、タイヤやスタンド、マッドガード、ペダルなど、細かなところで、今とは違う装備だった。この後、タイヤは耐パンク性の高いシュワルベのマラソン・ツアーに、スタンドもサイドスタンドからセンタースタンドに、ペダルは取外し可能なモデルに、それぞれ変更した。種車のGios Pure Dropも変わっていないが、足回りは、Shimano 105シリーズに変更している。旅の経験を通して、装備を工夫していくのは楽しいのだが、それはそれで、費用もかかるものである。

JR北海道のキハ40系等は、車齢も40年を超えていて維持管理が大変だと言うが、ちゃり鉄号もやはり同じである。

10時33分。宇治山田駅発。

宇治山田駅前に停車する「ちゃり鉄2号」
宇治山田駅前に停車する「ちゃり鉄2号」
ちゃり鉄初期の装備で走っていた
ちゃり鉄初期の装備で走っていた

さて、これから進む鳥羽線は、既に述べたように、1970年3月15日開催の万国博覧会開催に向けて、1960年代に入って急ピッチで建設工事が進められた路線で、その開通は万博開幕直前の1970年3月1日のことであった。但し、宇治山田~五十鈴川間については、1969年12月15日に先行開業している。

1967年9月に、鳥羽線敷設免許と志摩線改良工事施工認可が申請され、わずか3ヶ月後の12月23日に鳥羽線の敷設免許、翌1968年2月に志摩線改良工事認可が下りている。

詳細は、文献調査記録で述べることにするが、鳥羽線工事は4工区に分けて進められ、複線規格・暫定単線で開業している。この内、宇治山田~五十鈴川間は1971年12月25日に、五十鈴川~朝熊間は1975年4月11日に、朝熊~鳥羽間は1975年12月20日に、複線化されている。

「百年史」には、この鳥羽線の路線図が掲載されているので、以下に、引用する。池の浦から鳥羽にいたる区間には、多少カーブが出現するものの、朝熊山山麓を直線的な線形で短絡していく鳥羽線のルートが、よく分かる。

引用図:鳥羽線の路線図(昭和45年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鳥羽線の路線図(昭和45年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

宇治山田を出発した、我が「ちゃり鉄2号」は、近鉄が虎尾山トンネル、永代山トンネルを穿って越えていく丘陵地帯の東側を迂回し、五十鈴川に向かうのだが、途中で、左折箇所を間違えて直進してしまい、近鉄を跨いだところで気が付き、引き返す。GPSを装着して走っているとは言え、車のナビゲーションと違い、常時点灯している訳ではないので、時々、進路を間違えることがある。

山田線沿線は、伊勢平野の只中を突き進んできたので、殆ど、アップダウンの無い地形だったが、鳥羽線沿線に入ると、朝熊山を筆頭に、標高500m前後の低い山の山麓を行くようになるので、細かなアップダウンが出てくる。

「ちゃり鉄2号」の進路そのものは、比較的フラットなのだが、そこから外れると、坂道が多くなる。

五十鈴川駅の手前も小さなアップダウンがあり、築堤上のホームと同じくらいの高さから構内を眺めつつ、少し下って、築堤下の五十鈴川駅に到着する。10時43分着。

ルート図:宇治山田~五十鈴川間
ルート図:宇治山田~五十鈴川間

五十鈴川駅

五十鈴川駅は、既に述べたように、1969年12月15日、鳥羽線の宇治山田~当駅間開通時に開業した。この先、鳥羽駅までの延伸は、1970年3月1日のことである。

駅の所在地は、三重県伊勢市中村町で、島式2面4線、当駅始発終着列車も設定される中型駅である。

下の引用図は、五十鈴川駅で行われた鳥羽線建設・志摩線改良工事竣工記念式典の様子である。近鉄としても、この事業は、伊勢から志摩への進出を果たす意味で、経営上、非常に大きな意味をもっていたことが感じ取れる。左に写っている12200系は、近鉄特急車両型式としては、最多両数を誇った車両で、私が子供の頃は、この形式の特急を頻繁に目にしたものだが、既に引退している。

引用図:賢島行き祝賀列車と五十鈴川駅でのテープカット「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:賢島行き祝賀列車と五十鈴川駅でのテープカット
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

駅名は、付近を流れる五十鈴川から取られていることは、すぐに理解できるが、その駅名の決定経緯については、地元や伊勢神宮内宮なども関係して、複雑な経緯を辿ったようである。それについては伊勢新聞の記事を主体としたWikipediaの記載に詳しくまとめられているので、以下に引用する。Wikipedia内の伊勢新聞の引用明記はここでは割愛した。

「近鉄側は、当駅の近くの地名「古市」から古市口駅の駅名を予定していた。その後開業直前の1969年(昭和44年)11月となって、駅名を内宮前駅(ないくうまええき)にしようとした。近鉄には古市駅(大阪府羽曳野市)があり、混同を避けるという意味合いもあった。
しかし、駅名を内宮前とすることにより伊勢神宮へ参拝する客のほとんどが伊勢神宮の外宮前(げくうまえ)の駅(伊勢市駅および宇治山田駅)を素通りして直接内宮に行ってしまうことを懸念した伊勢市長が同年11月10日に近鉄側に反対を申し入れ、伊勢市議会も同年11月11日に行われた近鉄対策特別委員会で反対することを決めた。
また、伊勢神宮側(神宮司庁)も駅から内宮まで約2kmも離れており、内宮の近くと思って降車した参拝客に迷惑をかけることを理由に反対した。
試運転の開始直前まで、近鉄側は駅名変更の調整を続け、同年11月21日に近鉄の副社長が伊勢市長と会談し駅名を「五十鈴川(内宮前)」とすることを伝え、市長の了承を得たため運輸省に届け出ることとなり、駅名問題は決着した」

外宮側でも、伊勢電時代の駅の設置に際し、一悶着あったことは既に述べたが、時代が下ったこの頃になっても、やはり、「伊勢参り」は悶着の種になったようだ。

以下に示すのは、五十鈴川駅周辺の国土地理院地形図である。図幅の一番上に五十鈴川駅、一番下に内宮が表示されている。確かに、この距離で「内宮前」を名乗るのは、誤解を招くだろう。

なお、この地図には、この付近での鉄道路線図も重ねて表示してあり、マウスオーバーかタップ操作で切り替えられる。それによると、伊勢市駅付近から伸びてきた三重交通内宮線の軌道線が、五十鈴川駅付近から内宮前まで伸びていた様子も分かる。この三重交通の軌道線は内宮線が1961年1月20日、朝熊線が1962年7月15日に廃止されており、鳥羽線開通時にはその姿を消していた。

地形図:五十鈴川駅周辺
地形図:五十鈴川駅周辺

ところで、当初、検討俎上に上がった「古市口」の駅名に関して、近鉄には現在の南大阪線古市駅との混同を避けるため「内宮前」に変更しようとした、と述べられているが、「古市『口』」という駅名からも分かるように、内宮ではなく古市を指向した駅名であった。しかし、所在地は、古市町ではなく中村町であった。この辺りについて、少し、考察してみる。

「角川地名辞典 三重県」の記述によると、古市の地名について、「江戸期には内宮を冠称することもある(天保郷帳)。明治元年から同22年までは宇治を冠称。江戸期は伊勢内宮の門前町である宇治町の1町。…(中略)…もとは度会(わたらい)郡楠部村の枝郷で、農業が主体であったが、人口が急増して「開発の地面もなく百姓耕作に不足、困窮」し(楠部文書)、農業から伊勢参宮客の接客業に変貌。寛文年間には遊郭が急激に増え、天明期には人家342軒・妓楼70軒・寺3所・大芝居小屋2場の一大歓楽街となる。…(中略)…明治以後の交通機関の変化と山田新町・新道の発展により遊郭は衰退し、火災と昭和20年7月の空襲によってその面影もほとんど消える。…(中略)…近鉄鳥羽線が開通して町の南方を横断する」とある。

以下に示すのは、「角川地名辞典 三重県」に掲載されていた、元遊郭街の町並みである。往時の面影が忍ばれよう。

引用図:江戸期には遊郭として70余軒あった「角川日本地名大辞典 24 三重県(角川書店・1983年)」
引用図:江戸期には遊郭として70余軒あった
「角川日本地名大辞典 24 三重県(角川書店・1983年)」

また、その下に続く3枚の写真は、「伊勢志摩の歴史」に掲載された古市の繁栄を伝える木版画や絵図である。大安旅館は古市にあった有名な旅館でその当時の賑わいの様が感じられる。また、この古市の妓楼で踊られたのが「伊勢音頭」で、参宮者の精進落としの娯楽であった。

間の山は内宮と外宮との間にある浦田坂から尾部坂の間にある丘陵地帯の通称で、上の地形図にも宇治浦田町の地名が見えている。ここから五十鈴川駅の西側の丘陵を越えて行く道が旧伊勢街道で、古市の遊郭はこの街道沿いにあった。

引用図:伊勢大安旅館の木版画「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:伊勢大安旅館の木版画
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:(伊勢音頭踊之図)「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:(伊勢音頭踊之図)
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:(伊勢参宮名所図会)に掲載された間の山「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:(伊勢参宮名所図会)に掲載された間の山
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

一番下に示したのが、1940年7月30日発行の旧版地形図だが、この頃、まだ、鳥羽線は開通しておらず、三重交通の軌道線は合同電気軌道と表示されている。この頃には、御幸道と書かれたバイパス車道が開通しているが、その西側にある古市付近の旧市街地がはっきりと分かる。

そして、古市付近から南南西に伸びているのが内宮への参詣道であった。道の両脇に建物が並ぶが、その背後は山林となっていて、開発が進んだ現代の地形図では消えてしまった、間の山の人の往来の歴史が浮き彫りになっている。

旧版地形図:宇治山田・五十鈴川周辺(1940/07/30発行)
旧版地形図:宇治山田・五十鈴川周辺(1940/07/30発行)

一方、中村の地名について、「地名の由来は「五十鈴川ノ上流ニ宇治ノ市鄽アリ、下流ニ楠部鹿海ノ村邑アリ、其中流ニ居スルヲ名トスルナルヘシ」(勢陽五鈴遺響)。北部御幸通り沿いに鎮座する月読宮は「続日本紀」神護景雲3年2月条に「月読社」とある皇太神宮の別宮。…(中略)…伊勢神宮領」などとある。

先の地形図では、五十鈴川駅の記載のすぐ南に中村町、すぐ東に月讀宮の表示があるが、上記の記載の通り、五十鈴川駅の辺りは、内宮との関係が深い地域であった一方で、古市町の元遊郭街にも近い位置関係であった。図幅に古市町は表示されていないが、駅の北西に隣接している。

これらのことを踏まえると、当初の駅名が「中村」にならずに、「古市『口』」となったのは、かつての遊郭街で殷賑を極め、市街化も進んでいた古市町へのアクセスを意図したからでは無いか?という風にも推測できる。中村では、何とも、特徴がない。

尤も、遊郭街は既に衰退していたし、そこへのアクセスを狙ったネーミングではなかろうが、当初の駅名案が、遊郭街のあった町を指向していたのに対し、その後の「内宮前」という駅名案は、一転して、神域を指向したものとなっていたのが面白い。

神域には遊郭がつきもので、精進と精進落しは表裏一体・密接不可分のように思えるが、駅名の決定に際し、この表裏が現れているように思えて、興味深く感じた。

ところで、宇治山田駅のところでも述べたように、参急は、当初、伊勢神宮内宮への延伸も見据えた構造で駅を建設していた。しかし、その延伸構想は、「余りにも畏れ多い」といったような理由もあって実現することはなかったと、Wikipediaには書かれている。出典がないので、その話の真偽は分からないが、実際に、内宮方面には延伸されなかったし、五十鈴川駅の建設自体も、宇治山田開業から38年も下った時代に、宇治山田~鳥羽間を連絡する鳥羽線の建設プロセスの中で行われたことを考えると、駅の設置当初、近鉄には、内宮への玄関口としての位置付けは、なかったのではないだろうか。

その辺の経緯については、社史の中では追えなかったので、今後の、文献調査課題である。

前置きが長くなったが、五十鈴川駅に到着すると、見慣れない色の車両が停車していた。私は、車両の形式などには詳しくはないが、その色合いなどを見て、かつて存在した車両の復刻塗装版だろうと思った。実際、それはその通りで、大阪線初の特急車として昭和28年に新造された、2250系車両の復刻塗装なのだという。現在の型式では5200系となっており、大阪線・名古屋線の長距離急行に用いられている車両である。

駅付近の丘から五十鈴川駅を眺める
駅付近の丘から五十鈴川駅を眺める
5200系復刻塗装の車両が停車中の五十鈴川駅
5200系復刻塗装の車両が停車中の五十鈴川駅

駅は築堤の上にあり、駅舎は地平にあるので、ホームに達するには、階段を登る必要がある。遠目には、高架駅のようだ。

鳥羽線は、建設時期が新しいこともあり、丘陵地帯をぶち抜いて、高架、切通、築堤等を連ねた、急カーブの少ない線形である。五十鈴川駅付近では、市街地と当地を隔てる丘陵から五十鈴川沿いの氾濫原低地に出る地形となっているため、その高度差を築堤で克服しているのだが、その築堤が尽きると、高架となって進んでいく。

高架ホームの下に設けられている五十鈴川駅舎
高架ホームの下に設けられている五十鈴川駅舎

前年の2015年9月には、この形式の車両に乗って、大阪上本町から五十鈴川駅まで通して乗車した。

その際は、ここから賢島行きの普通列車に乗り継いで、旅をしたのだったが、その際、五十鈴川駅のホームなど、構内の写真も撮影していたので、以下に、それらを掲載する。

この頃は、まだ、特急列車の塗装変更前で、長年、近鉄特急の象徴となってきた、オレンジと紺色のツートンカラーの特急車両が、頻繁に行き交っていた。

2面4線で待避線を備えた五十鈴川駅で折り返しを待つ大阪上本町行き急行
2面4線で待避線を備えた五十鈴川駅で折り返しを待つ大阪上本町行き急行
~2015年9月~
五十鈴川駅を出発する大阪難波行きビスタカー
五十鈴川駅を出発する大阪難波行き「ビスタカー」
~2015年9月~
大阪上本町から乗車してきた急行は、大阪上本町への折返し待ち
大阪上本町から乗車してきた急行は、大阪上本町への折返し待ち
~2015年9月~

「ちゃり鉄2号」の旅路では、駅構内には立ち入らず、朝熊駅に向かって出発する。10時49分発。

そう言えば、伊勢神宮の舞台を訪れて、外宮にも内宮にも訪れることなく、素通りしていた。精進も何もあったものではない。1泊2日の行程では、途中下車をするにしても、場所も機会も限られる。もっと、余裕のある行程で旅を行いたいが、会社勤めをしながらの旅となると、限界がある。中々、思うようにはいかないものだ。この旅では、賢島駅に到着した後、志摩半島を周遊して鳥羽駅まで海岸沿いを走る行程にしていたので、近鉄の各路線沿いを走る区間では、駅の周辺を探索する程度であった。

五十鈴川駅を出発すると、直ぐに、五十鈴川を渡り、東進して田んぼと丘陵を越える。朝熊川沿いに入り、集落内の小道を南進すると、丘陵から飛び出てくるような鳥羽線の高架が眼前に飛び込んでくる。朝熊駅は、この高架の付け根の部分に、切通状の構造で設けられていた。10時59分着。

ルート図:五十鈴川~朝熊間
ルート図:五十鈴川~朝熊間

朝熊駅

朝熊駅は、三重県伊勢市朝熊町小坊山に所在し、1970年3月1日、五十鈴川~鳥羽間延伸開通時に開業した。1975年4月11日には五十鈴川~当駅間が、12月20日には当駅から鳥羽駅までが複線化し、朝熊~池の浦間にあった四郷信号場が廃止されている。

高架の駅は、相対式2面2線で現在は無人駅である。

高架上のホームに上ってみると、緩やかに曲線を描く幅の広いホームが迎えてくれた。曲線区間にあり見通しが悪いこともあって、構内の外れには中継信号もあった。

丘陵の切通に設けられた朝熊駅
丘陵の切通に設けられた朝熊駅
緩やかな曲線を描く朝熊駅のホームは広い
緩やかな曲線を描く朝熊駅のホームは広い
朝熊駅の駅名標
朝熊駅の駅名標
池の浦方を眺める
池の浦方を眺める

五十鈴川方のホーム末端まで行ってみると、下り線に通過列車の案内放送が流れ、赤編成の伊勢志摩ライナーが通過していった。

観光特急の「しまかぜ」の登場によって、花形特急の地位はそちらに譲った形になったが、流線型でスマートな車両は、今もまだ、花形特急の一画を担っているように感じた。

ホームを戻りながら、上りの普通列車と駅名標を撮影していると、再び、下り通過列車の案内放送が流れる。複線電化の幹線だけに、山田線同様、列車の運行が多い。今度は、何が来るのかとカメラを構えていると、再び、伊勢志摩ライナーが通過していった。今度は、赤編成ではなく、黄編成だった。

11時台の鳥羽線には、大阪難波発、京都発、名古屋発の3つの伊勢志摩ライナーが、勢揃いして賢島に向かって駆け抜けていく。賢島駅のホームには、時間帯によって、これらの特急がずらりと並び、壮観である。

五十鈴川方から朝熊駅に進入する伊勢志摩ライナー
五十鈴川方から朝熊駅に進入する伊勢志摩ライナー
伊勢志摩ライナーもその名の通り、この付近の花形列車である
伊勢志摩ライナーもその名の通り、この付近の花形列車である
上りの普通列車が到着した
上りの普通列車が到着した
暫くすると、再び、下り伊勢志摩ライナーが通過していった
暫くすると、再び、下り伊勢志摩ライナーが通過していった
朝熊駅から池の浦方は高架で集落を跨いでいく
朝熊駅から池の浦方は高架で集落を跨いでいく

駅名は、所在地名に由来するが、その「朝熊」について、「角川地名辞典 三重県」の記述を追うと、以下の様であった。

「地名の由来は、弘法大師が山中に求聞持の法を修めた時に朝に熊、夕に虚空蔵が現れたことによるとも(金剛証寺伝)、葦津姫(別名木華開那姫)の通音とするともいう(度会延経の説)。また川の浅瀬の屈曲した地を表わす浅隈にあてた仮字とする度会清在説(旧蹟聞書)があり、「勢陽五鈴遺響」は度会清在説を採用している。…(中略)…朝熊山上に金剛証寺がある。同寺は寺伝によれば欽明天皇の時代に僧暁台により草創、のち空海が大伽藍を建立して金剛証寺と命名、応永年間鎌倉建長寺の僧東岳文昱が再興して禅密兼学になったという古刹」

また、朝熊山(朝熊ヶ岳)の項目に関する記述には以下のような記述があった。

「金剛証寺は、天長2年空海が本尊虚空像菩薩を祀り真言密教道場としたと伝えられる。室町期には本地垂迹と神仏習合のもとに当山と神宮との関係を深め、神宮の丑寅(北東)の方位にあることから神宮の鬼門除けの鎮守寺奥の院とされ、「伊勢へ参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と歌われ神宮信仰と結びついた。大正14年朝熊山登山ケーブルカーが開通し、また内宮前から登山バス道路も建設されて参詣者で賑わった。しかし、昭和17年ケーブルカー廃止、一般参詣者の入参禁止と続き、衰退の一途をたどった。昭和34年9月伊勢湾台風により全山に倒木があり甚大な被害を出した。同39年10月伊勢志摩スカイラインが開通し、再び信仰と観光の山となった。…(中略)…アイヌ語で「あさま」は、日が出てキラキラと光り輝く神を意味することから、山上で日の出を拝し、天照大皇神を太陽神として崇拝・信仰することに由来するともいう」

ここで登場した朝熊山登山ケーブルカーについて、以下の国土地理院地形図を見て欲しい。マウスオーバーやタップ操作で、画像が切り替えられるようにしているが、ここに、朝熊山登山ケーブルカーと呼ばれた、神都交通朝熊線(鋼索線)の路線跡などを図示している。

図幅の関係で、国土地理院地形図の表示は途中で切れているが、山麓の平岩駅跡から沢地形の中を直線で進む車道表示がある。別の縮尺の地形図では、そのまま直線で斜面を登って、途中で別の道と合流する辺りまで、車道表示が続いているのだが、この斜面を直線で登る車道があるはずもなく、その不自然な直線が、即ち、ケーブルカーの廃線を暗示しているのである。

地図を見ると、山頂付近では、特に等高線が密になっており、当時、東洋一の急勾配と宣伝されていたケーブルカーであった。最急勾配は652‰だったという。65.2‰ではなく652‰というところが、ケーブルカーならではである。30度を越えるこんな傾斜、スキー場の上級者コースである。

なお、神都交通朝熊線は1944年1月11日に、戦時中の不要不急路線指定によって休止し、鉄材供出などで線路を剥がされた後、営業再開することなく、1962年7月15日に、三重交通の経営下で正式に廃止されているので、「角川地名辞典 三重県」の記述の「昭和17年ケーブルカー廃止」は誤りと思われる。

地形図:朝熊駅周辺
地形図:朝熊駅周辺

以下に示すのは、「伊勢志摩の歴史」に掲載された朝熊登山鉄道の写真や絵葉書である。絵葉書には、 「伊勢へ参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」のキャッチフレーズも見える。霊峰への参詣を促すにしては、俗化しているきらいもあるが、当時の国民的な信仰の度合いが感じられる。

それにしても、神都や伊勢神宮という神の座の一角を占めた朝熊山へのケーブルカーの線路を、不要不急路線に指定して鉄材供出で線路を剝がし、そのまま廃止に至らしめる戦時体制が抱えた矛盾を、日本国民や指導者は自覚できなかったのであろうか。

引用図:日本最急勾配を誇った朝熊登山鉄道「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:日本最急勾配を誇った朝熊登山鉄道
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:朝熊登山鉄道の車両「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:朝熊登山鉄道の車両
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:ケーブル宣伝絵葉書「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:ケーブル宣伝絵葉書
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

いずれ、これらの地域にも焦点を当てて取材の「ちゃり鉄」号を走らせたいが、「ちゃり鉄2号」の旅では、廃線跡探訪や朝熊山登山は行わず、先に進むことにする。11時8分発。

朝熊駅から池の浦駅までは、概ね朝熊川に沿った谷沿いの道を進むことになる。川に沿って緩やかに登り勾配が続き、伊勢市・鳥羽市の市境付近で峠を越え、下り勾配に転じる。この付近に、単線時代の四郷信号所があった。国土地理院地形図には、建物の記号が描かれており、今も、施設が残っているようだが、「ちゃり鉄2号」では、気が付かず、通過してしまった。

集落内の丘陵地にある池の浦駅には、11時26分着。朝熊~池の浦間の走行距離は6.2kmで、山田線・鳥羽線・志摩線を通して、最も駅間距離が長い区間となった。

ルート図:朝熊~池の浦間
ルート図:朝熊~池の浦間

池の浦駅

池の浦駅は、1970年3月1日、鳥羽線の五十鈴川~鳥羽間延伸時に開業した。1975年12月20日に複線化されるまでは、駅構内に行き違い設備があったが、複線化によって撤去されており、現在は、島式2面2線構造となっている。1998年4月1日無人化。

丘陵地から平地に出るところにあり、緩やかな曲線を描いた高架駅である点など、朝熊駅とは兄弟駅といった雰囲気である。

自転車が放置された駅前から階段を上がってホームに入ると、上り線側には、列車の到着を待つ人の姿が見られた。下り線側は、直ぐに通過列車の案内があり、伊勢志摩ライナーが通過していく。それと入れ違う形で、上り白塚行きの普通列車も到着した。

ホームからは町並みの向こうに海が見える。駅名の由来となった池の浦で、伊勢湾に面した小さな入り江に無人島が点在している様子が遠望できる。

先週の「ちゃり鉄1号」から引き続き走り続けてきて、いよいよ、伊勢志摩にやってきたことを実感する。

丘陵に面した盛土上にある池の浦駅
丘陵に面した盛土上にある池の浦駅
ここでも、下り伊勢志摩ライナーが通過していく
ここでも、下り伊勢志摩ライナーが通過していく
登り普通列車は白塚行きだった
登り普通列車は白塚行きだった
ホームからは遠くに池の浦の海を眺められる
ホームからは遠くに池の浦の海を眺められる

池の浦に関する「角川地名辞典 三重県」の記述を追ってみる。

「度会(わたらい)郡二見町松下の神前(こうざき)岬と対岸の鳥羽市小浜半島に囲まれた入江。古書には「この入江常に風なく、波穏やかにして池水の如く、伊気の浦と命名せられし」(倭姫命世紀)、また「二宮御領伊介御厨」(神宮雑例集)とある。湾口の神前岬は伊勢に向かう海路の難所で、しけのとき、波静かなこの入江が古くから避難場所(風待港)として利用された」

以下に示すのは、同書に掲載された「池の浦を走る鳥羽鉄道(大正初期)」の写真である。鳥羽鉄道は、現在のJR参宮線の前進であり、近鉄鳥羽線とは路線も時期も全く異なるものであるが、池の浦付近の風光明媚な海岸風景は、大正時代の当時から、それほど大きくは変わっていない。現在も、JR参宮線を取り上げる多くの書籍で、この、池の浦付近の風景写真が掲載されている。

「伊勢志摩の歴史」では、昭和44年の国鉄参宮線の写真が掲載されていた。この頃になっても、参宮線では蒸気機関車が現役で活躍しており、1976(昭和51)年3月2日に営業運転が終了した蒸気機関車の歴史を考えると、最末期の姿と言えよう。

「八十年史」には、池の浦付近の高架工事の様子が、写真で掲載されていた。建設工事途中の写真というのは貴重なもので、こうした社史などを追わないと、なかなか、見つけることができない。

引用図:池の浦を走る鳥羽鉄道「角川日本地名大辞典 24 三重県(角川書店・1983年)」
引用図:池の浦を走る鳥羽鉄道(大正初期)
「角川日本地名大辞典 24 三重県(角川書店・1983年)」
引用図:昭和44年当時の国鉄参宮線蒸気機関車(池の浦付近)「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和44年当時の国鉄参宮線蒸気機関車(池の浦付近)
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:鳥羽線池の浦付近「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:鳥羽線池の浦付近
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

近鉄の池の浦駅は、海からは500mほど離れているため、海を眺めるといった風情ではないのだが、曲線ホームの上から、遠くに見える伊勢湾と池の浦の風景は、「ここまで来たか」という旅情緒を掻き立てる。曇天で、夏の海の雰囲気を感じられなかったのが残念だ。

普通列車が出発した後の駅は、人影もなく静かになった。

私も、駅の散策を終えて、出発することにする。11時35分発。

朝熊駅と同様に曲線に設けられた池の浦駅
朝熊駅と同様に曲線に設けられた池の浦駅
上りホームから下りホーム越しに眺める池の浦の遠望
上りホームから下りホーム越しに眺める池の浦の遠望
上り朝熊方は丘陵地帯の切通に続いている
上り朝熊方は丘陵地帯の切通に続いている

池の浦~鳥羽間では、いよいよ、「ちゃり鉄2号」も海岸線に出ることになる。

思えば、「ちゃり鉄1号」のスタートで、大阪湾岸の矢倉緑地公園で野宿して以来、近畿地方を横断する旅路だったため、海とは無縁の行程を走ってきた。

この先は、志摩線に入り、明日は、志摩半島を巡る。志摩半島では、英虞湾定期船や渡鹿野島渡船にも乗船することになるので、海沿いの旅を楽しむことが出来る。天候が思わしくないのが残念だが、こうなったら、雨に降られなければ良しとしよう。

池の浦湾沿いに出ると、海側から、近鉄、JR参宮線、国道が並走する。

国道の交通量は多いが、のんびりと走り抜けて、観光施設が目立つようになると、程なく鳥羽駅に到着する。11時44分着。

ルート図:池の浦~鳥羽間
ルート図:池の浦~鳥羽間
池の浦~鳥羽間では、JR参宮線と並走する区間がある
池の浦~鳥羽間では、JR参宮線と並走する区間がある

鳥羽駅=五知駅

鳥羽駅

鳥羽駅は、三重県鳥羽市鳥羽にある、JR、近鉄の併設駅である。

鉄道駅としての歴史は、圧倒的にJR参宮線の方が古く、起源にあたる参宮鉄道が国有化され、国鉄参宮線となって間もない1911年7月21日に、その終着駅として開業した。1926年8月15日には、東京との直通列車も運行が開始されている。

その後、1929年7月23日には、現在の近鉄志摩線の前身にあたる、志摩電気鉄道の鳥羽~真珠港間が開業している。この志摩電気鉄道は、国鉄と同じ狭軌で建設されていた。当時の状況を考えれば、狭軌で建設するのは当然であった。近鉄は、まだ、前身の大軌時代で、桜井まで開業していたにすぎない。

その後、1944年2月11日には、志摩電気鉄道が三重交通と合併し、更に1964年2月1日には、三重交通から鉄道事業が分社化され、三重電気鉄道となった。そして、1965年、宇治山田まで進出していた近鉄によって、三重電気鉄道が吸収され、近鉄志摩線が誕生したのである。

その後、1970年3月1日、鳥羽線建設工事と志摩線改良工事が竣工、近鉄鳥羽駅も国鉄の北側に新築移転している。以下に示すのは、「八十年史」に掲載されていた、移転工事中の鳥羽駅の写真で、奥に映るのは、旧鳥羽駅であろう。

引用図:建設中の鳥羽駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:建設中の鳥羽駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

更に以下に示すのは、「伊勢志摩の歴史」に掲載された鳥羽駅の写真である。一番上が志摩電気鉄道時代の鳥羽駅で、下の2枚は昭和44年当時の近鉄鳥羽旧駅と国鉄参宮線ディーゼルカーの写真などである。昭和44年撮影の写真は、時期的に見て、上に示した「八十年史」の写真と同時期と思われる。この当時は、まだ、志摩線改軌工事の竣工前で、鳥羽から先は国鉄参宮線の延長線上にあって、狭軌であった。広い構内に積まれた工事資材が、変貌遂げつつある鳥羽駅の様子を物語る。

引用図:志摩電気鉄道鳥羽駅「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:志摩電気鉄道鳥羽駅
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和44年当時の志摩線電車「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和44年当時の志摩線電車
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和44年当時の国鉄参宮線車両と建設中の近鉄鳥羽駅「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和44年当時の国鉄参宮線車両と建設中の近鉄鳥羽駅
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

現在の鳥羽駅は、山手の西側にJR鳥羽駅、海手の東側に近鉄鳥羽駅が設けられている。JR側は0~2番線、頭端式の1面3線で、近鉄側は、3~6番線、島式2面4線構造。松阪駅や伊勢市駅では、JR側の駅の方が大型の構造となっていたのだが、鳥羽駅に至って関係が逆転している。

近鉄鳥羽線の開業と、志摩線の改軌によって、志摩地方への鉄道旅客輸送は、完全に近鉄掌中のものとなった。JR参宮線は衰退の一途を辿っており、2020年3月18日には、JR鳥羽駅は、鳥羽という観光地の駅であるにもかかわらず、無人化された。

「ちゃり鉄2号」では、本来、海手の近鉄鳥羽駅入り口に「到着」すべきであったが、直前の道のりの関係で、JR側の鳥羽駅前に到着する。尤も、ここも鳥羽駅であり、近鉄の鳥羽駅には跨線橋を通ってアクセスすることは可能である。

近鉄、JR併設の鳥羽駅に到着
近鉄、JR併設の鳥羽駅に到着

時刻を考えて、まずは、昼食にしようと辺りを見て回るが、あまり、これといった店が見つからない。そのため、国道を渡って海側に行き、観光施設の鳥羽マルシェなどを覗いてみることにした。

マルシェの中には海産物売り場もあり、朝、水揚げされたばかりの鮮魚が、発泡スチロールの箱に入れて売られている。グレ1匹150円などを値札が付いているが、この安さは、港の直売所ならではのものだろう。他にも、普段、街のスーパーでは目にすることのない珍しい魚などが売られており、見ていて飽きない。

鮮魚を購入して捌いたり下拵えをしたりする為の装備は持っていないし、昼食は、外食するスタイルなので、見物するだけであったが、オートキャンプなどで十分な装備を携行できるのであれば、こうした施設で海産物を入手するのもよさそうだ。

鮮魚店を後にして、飲食店を物色してみるが、ファーストフード系の店が多く、こちらも、これといった店はなかった。結局、レトルトもののカレーと冷凍ものの揚げ物という、味気ない昼飯になる。ただ、海辺でのんびりと昼食したくて、テイクアウトすることにしていたので、メニューが限られたのは致し方ない。

土産物屋の鳥羽マルシェを覗くと、水揚げされた海産物がずらり
土産物屋の鳥羽マルシェを覗くと、水揚げされた海産物がずらり
ファーストフードで昼ご飯
ファーストフードで昼ご飯

食事後、海岸沿いでしばらく休む。

空には雲が立ち込め、海岸風景は無彩色となっていたのが残念でならないが、「鳥羽」の地名が持つリゾートムードは、それなりに感じられた。まだ、夏の観光シーズン前ではあったが、キャリーケースを引きずった観光客の姿も散見される。

難波駅では「賢島行き」、上本町駅では「鳥羽行き」の特急が停車している、というのが、小学生時代の私の感覚で、難波や上本町に行くと、それらの特急に胸を時めかしていたものだ。もちろん、名古屋行きとか、奈良行きもあったが、憧れていたのは、賢島行きや鳥羽行きであった。

当時は、湯の山温泉行きもあり、車両が独特だったので、それも気になっていたが、私が難波や上本町をうろつく時間帯に、湯の山温泉行を見かけた記憶はない。

彼方に神島を望む鳥羽港で一休み
彼方に神島を望む鳥羽港で一休み
曇天でリゾートムードが今一つだったのが残念
曇天でリゾートムードが今一つだったのが残念。向こうに見えるのは坂手島
まだシーズン前だったが観光客の姿も散見された
まだシーズン前だったが観光客の姿も散見された

鳥羽の地名について、「角川地名辞典 三重県」の記述を調べてみると以下の様であった。

「地名は、泊浦・泊がなまったものといわれる。鳥羽と書くようになったのは、氏神賀多神社の縁起を説いた「賀多社古老口実伝」にある、天照大神の八王子神が鷲の羽の舟に乗って児谷(ちごだに)(宮の谷)に天降ったという伝説に由来するといわれる。鳥羽港は天然の良港として古くから栄え、風待ち港として志州四か津の1つであり、江戸期版行の全国港番付表では東の関脇であった」とある。

「志摩の地名の話 (中村精貳・伊勢志摩国立公園協会・1951年)(以下「志摩の地名の話」と略記)」によると、ここが天然の良港であったことを示す、浪静という字名が小浜地区に残っているらしい。

「伊勢志摩の歴史」によれば、鳥羽は、現在の尾鷲市九鬼に起源をもつ海賊の九鬼氏の城下町として栄えた。最盛期は九鬼嘉隆の時代で、織田信長や豊臣秀吉の配下として九鬼水軍として名を馳せたという。鳥羽城の築城は1594(文禄3)年のことであった。その城址公園は現在の中之郷駅付近にある。

そして、天然の良港であったことから、「背後に消費地をもたぬ鳥羽は、商業活動は不振であったが、風待港としてその名が高く、ことにハシリガネといわれた船行遊女は船人たちの評判もよく、しだいにその数も増し「志州の鳥羽浦錨はいらぬ、三味と太鼓で船つなぐ」と、唄われたほどであった(伊勢志摩の歴史)」という。

現在も良港として観光産業中心に栄えており、答志島など、湾内の有人島への短距離航路のほか、伊勢湾に浮かぶ神島や、伊良湖岬への航路も就航している。鳥羽駅付近の海岸からだと、向かい側の坂手島が目立つが、一見したところでは、島なのか半島なのか、区別がつかなかった。沖合遠くには、神島の突兀とした島影が霞んでいる。

以下に示すのは、「伊勢志摩の歴史」に掲載された、大正時代の鳥羽城址や街並みの様子を写した写真で、樋ノ山から撮影したものだとある。国土地理院の地形図と対比させてみると、写真中に相島と書かれている島は、現在の真珠島であろう。

引用図:樋ノ山から見た大正時代の鳥羽城址と街並み「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:樋ノ山から見た大正時代の鳥羽城址と街並み
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
地形図:鳥羽駅周辺
地形図:鳥羽駅周辺

鳥羽駅そのものを鉄道で旅する機会も、これまで、何度かあったが、近鉄での旅路では、鳥羽駅で途中下車をすることなく、賢島駅まで直行していた。途中下車をするとなると、やはり、青春18きっぷを利用してのJRでの旅路で、参宮線の終着駅として、鳥羽駅を往復するということになる。

2015年8月には、近畿地方の海岸沿いを一周する旅路の中、この鳥羽駅にも立ち寄った。

JRは名古屋~鳥羽間を直結する快速「みえ」を運行しており、料金の上で、近鉄に対抗しているが、単線非電化のJRと、複線電化の近鉄との競争は、結果が目に見えており、頻発する近鉄を尻目に、JRのホームは人影も少なく、閑散としていた。

それでも、歴史ある参宮線の旅路は、退屈なものではなく、青春18切符で伊勢を通りかかるなら、用事がなくても立ち寄ることが多い路線である。

JR参宮線の鳥羽駅は行き止まり構造
JR参宮線の鳥羽駅は行き止まり構造
~2015年8月~
近鉄は3番線から6番線が充てられている鳥羽駅
近鉄は3番線から6番線が充てられている鳥羽駅
~2015年8月~
幅広い構内西側にJR、東側に近鉄が出入りする
幅広い構内西側にJR、東側に近鉄が出入りする
~2015年8月~
鳥羽駅発着の特急も多く、ターミナル的な機能も持つ近鉄鳥羽駅
鳥羽駅発着の特急も多く、ターミナル的な機能も持つ近鉄鳥羽駅
~2015年8月~

昼食と休憩を終えたら、鳥羽駅を出発することにする。12時11分発。昼食を食べたにしては、短時間の滞在での出発となった。

さて、これからはいよいよ志摩線に入る。「ちゃり鉄1号」で難波線を出発して以来、大阪線、山田線、鳥羽線と旅をしてきて、最後の路線に入った。

これまでの記述の中で何度か触れたが、志摩線は元々は志摩電気鉄道として始まり、三重交通、三重電気鉄道を経て、近鉄に吸収合併された路線である。

「百年史」によると、志摩電気鉄道としての開業は1929年7月23日。会社の創立総会は1926年5月20日のことで、この時、「志州電気鉄道株式会社」から「志摩電気鉄道株式会社」に商号変更され、工事施行認可は1927年5月13日のことであった。

近鉄への合併は、1965年4月1日で、鳥羽線の開通(1969年12月15日)よりも前のことである。一時期、他の近鉄路線に接続しない、独立した路線だったわけだが、近鉄としてそのような独立路線を建設したわけではなく、志摩地方進出を意図した鳥羽線建設・志摩線改良のプロジェクトの一環として、三重電気鉄道の路線を傘下に収めたということである。

以下に示すのは、「百年史」掲載の1933年の志摩地方の路線図であるが、この図を見ると、鳥羽駅で志摩電気鉄道と国鉄参宮線が接続している様子が分かる。先にも述べたように、実際、鳥羽駅では、相互に直通できる駅構造で、志摩電気鉄道は国鉄と同じ狭軌の路線であった。路線の線形も、小刻みなカーブを繰り返す、ローカル私鉄のそれである。

1970年3月1日に、近鉄鳥羽線が鳥羽まで開通すると、近鉄の一路線となっていた志摩線と接続することになるが、狭軌の志摩線と標準軌の鳥羽線は、そのままでは直通できない。

そこで、近鉄では、1969年12月10日から志摩線を全線休止して改軌工事を施工し、鳥羽線開通と合わせた1970年3月1日に、志摩線の運行を再開した。

なお、志摩線には、賢島駅の先に貨物駅の真珠港駅があったのだが、改軌工事施工前の1969年7月1日に廃止されている。

引用図:志摩電気鉄道の路線図(昭和18年)「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:志摩電気鉄道の路線図(昭和18年)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

もし、この志摩電気鉄道の路線が国鉄に買収され、国鉄参宮線の一部にでもなっていたら、今頃、志摩半島の観光産業はどうなっていただろう。近鉄の進出と比較にならないくらい、衰退していたのだろうか。あるいは、近鉄と参宮線の力関係が逆転していたのであろうか。

当初から電化されていた志摩電気鉄道と、非電化の参宮線が接続するシナリオは考えにくいが、そういう展開もあり得たわけで、勝手に夢想する分には面白い。

一方、以下の図は、史実を示した「百年史」掲載の「鉄軌道線の推移(8)」であるが、鳥羽線開通の時期と志摩線改軌の時期の相違があって分かりにくいものの、昭和40年代頃の近鉄沿線の鉄道の様子が分かる。

近鉄の青色の勢力が拡大するとともに、地方小私鉄が吸収されたり廃止されたりしていることが分かる。この図中で掲載されている、奈良電気鉄道、信貴生駒電鉄、大和鉄道、三重電気鉄道などの小私鉄は、1970年の鳥羽線開業前には、全て近鉄に吸収合併されている。

なんとなく、「〇〇の野望」とか「三〇志」といったゲームで全国統一していく様を思わせるが、実際、会社経営というのは、そういう側面が多いだろう。孫子などを座右に掲げる経営者も少なくない。

引用図:鉄軌道線の推移(8)昭和36年4月~昭和47年3月「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:鉄軌道線の推移(8)昭和36年4月~昭和47年3月
「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

さて、鳥羽駅から中之郷駅までは、ほんのひとっ走り、1㎞しかなく、観光施設に目移りしているうちに到着する。左手には大きな施設が目に入るが、これは、鳥羽水族館で、隣接してフェリー乗り場もある、鳥羽観光の中心地だ。

12時16分着。

ルート図:鳥羽~志摩赤崎間
ルート図:鳥羽~志摩赤崎間

中之郷駅

中之郷駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道鳥羽~真珠港間開通時に開業した。1992年11月6日には、鳥羽~中之郷駅間の複線化が完了するとともに、駅舎が鳥羽寄りに120m移設されて、現在の新駅舎が共用開始されている。

観光施設の目の前にあり、駅舎も白と水色の瀟洒なデザインだが、2011年11月1日には、無人化されており、近鉄と言えども、合理化の波に晒されていることを実感する。

一見すると有人駅だが、橋上駅舎を持つ相対式2面2線構造で、賢島方は単線になる。有人駅時代はエスカレーターも稼働していたのだが、無人化に伴って、封鎖されているようだ。

以下に示す2枚の写真は、ともに「八十年史」に掲載された、中之郷駅付近の写真である。志摩電気鉄道の写真は、近鉄以前のローカル私鉄の面影を今に伝える貴重なものだ。また、埋め立て工事の写真は、現在の形へと変貌する海岸線の姿を記録したものだが、向かいの坂手島の様子とホテルは、今も全く変わらない。

引用図:志摩電気鉄道鳥羽~中之郷間「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:志摩電気鉄道鳥羽~中之郷間
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:志摩線中之郷付近「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:志摩線中之郷付近
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

所在地は三重県鳥羽市鳥羽3丁目だが、「角川地名辞典 三重県」の記述によると、「江戸期~明治11年の町名。江戸期は鳥羽城下五町の1つ。九鬼氏時代の末頃藤之郷から分離独立した。鳥羽城の西方、横町と藤之郷の中間に位置し、地名の由来もこの立地状況にちなむ」とある。

明治期には既に鳥羽町の一部に併合されているが、駅設置の際、鳥羽三丁目では座りが悪く、小字として残っている「中之郷」を起用したのだろう。

以下に示すのは、中之郷駅周辺の国土地理院地形図だが、駅のすぐ前は、埋め立て地や水族館施設となっており、その向こうに鳥羽港がある。海を隔てた向かいにある陸地は、半島状に見えるが坂手島で、これは、鳥羽駅前で見たのと変わらない。

鳥羽水族館の横からは、この坂手島への短距離の渡船が就航していることが地図に示されている。

今回の「ちゃり鉄2号」は、わずか1泊2日の旅になるので、鳥羽湾に浮かぶ有人島に渡ることができず、辛うじて、志摩半島の渡鹿野島に渡るだけの計画になったが、いずれ、このあたりの廃線跡訪問の機会などを利用して、これらの島々にも渡り、野宿の一夜を過ごしたいと思っている。

地形図:中之郷駅周辺
地形図:中之郷駅周辺
水族館などの大型観光施設前にある中之郷駅
水族館などの大型観光施設前にある中之郷駅
白と水色のツートンカラーの橋上駅舎が瀟洒な中之郷駅
白と水色のツートンカラーの橋上駅舎が瀟洒な中之郷駅

さて、中之郷駅。「ちゃり鉄2号」でこの駅を訪問した当時、既に、無人化されていたのだが、駅舎の様子から有人駅だと思い、駅舎内には立ち入らず、隣接する踏切から写真を撮影するだけだった。

丁度、クラブツーリズム専用の「かぎろひ」号が、徐行しながら中之郷駅を通過していくところで、わずかな滞在時間にしては、タイミングが良かった。

賢島方は単線になるのだが、古びた側線も踏切の手前まで伸びていた。

クラブツーリズム専用列車の「かぎろひ」号が中之郷駅を通過していく
クラブツーリズム専用列車の「かぎろひ」号が中之郷駅を通過していく

4分の滞在で中之郷駅を出発。12時20分発。

左手に鳥羽湾を眺めながら、安楽島大橋の分岐を左手に見送って右にカーブする。この安楽島大橋は、明日の午後には、鳥羽に向かう「ちゃり鉄2号」で走行することになる。

にわかにせり出してきた山際を進むと単線が右から近づいてきて、程なく志摩赤崎駅に到着する。12時24分着。

ルート図:鳥羽~志摩赤崎間
ルート図:鳥羽~志摩赤崎間

志摩赤崎駅

志摩赤崎駅は、1949年7月25日、三重交通の駅として新設開業している。志摩線の中では唯一、路線開業時に設けられていなかった駅だ。

安楽島大橋の分岐地点で鳥羽市街地は終わり、そこから先は、賀茂川にそった農村に転じていく。志摩赤崎駅は、その境界に位置するような駅で、一気にローカル色が強まった印象を受けた。

駅構造は相対式2面2線で、これも志摩線で唯一、単線区間の駅となっている。所在地は、三重県鳥羽市鳥羽五丁目であるが、周辺の小字が赤崎であり、それが駅名の由来になっていると思われる。「赤崎」そのものの地名の由来は、「角川地名辞典」でも記載がなかった。

ただ、「志摩の地名の話」には、赤崎について記述があった。「我々の子供の頃には船津から赤崎まで西の山裾の今はびしょびしょに濡れている細い道を迂回させられたものだ。数百年を遡れば赤崎の鼻など不気味なほどの難所であったに違いない。…中略…崖がくずれて赤い土の肌をさらけ出していることの描写である。…中略…とにかく船津赤崎間はそう遠く遡るまでもなく快適な交通路ではなかったようだ。船津の繁栄はそこにあった。伊勢湾から船で来て、ここで草鞋をはいたのではないかと思う」

ここにあるように、赤崎の次の駅が船津なのであるが、埋め立てによって地形が変わった現在となっては、そこに、「船の津」があったということは、想像しがたいことであろう。

さて、この駅も2011年11月1日に無人化されており、駅舎はあるものの、業務用の区画は閉鎖されている。

地形図:志摩赤崎駅周辺
地形図:志摩赤崎駅周辺
単線区間に入って、一気にローカル色強まる志摩赤崎駅
単線区間に入って、一気にローカル色強まる志摩赤崎駅
構内踏切を備えた相対式2面2線駅の志摩赤崎駅
構内踏切を備えた相対式2面2線駅の志摩赤崎駅
志摩赤崎駅の駅名標
志摩赤崎駅の駅名標
志摩赤崎駅は小さな集落内に設けられている
志摩赤崎駅は小さな集落内に設けられている

駅は、構内踏切を備えた構造であるが、駅のすぐ南西にも車道の踏切があり、それに隣接して、保線基地もある。

駅舎側の1番線が下り線、山手の2番線が上り線であるが、ホーム上で通過を見送った上りの伊勢志摩ライナーは、下り線側を走りぬけていった。いわゆる1線スルーと言われる方式で、屈曲したポイントを渡った2番線ではなく、直線的な線形の1番線を「逆走」させることで、通過列車は減速を抑え高速化を図ることができるし、停車列車は駅舎側に停車することで利用客の便宜が図れる。勿論、この駅で行き違いを行う時は、それぞれ、上下線に分かれることは言うまでもない。

こうした運用も鉄道運行の自動制御システムのなせる業だと思うが、それを可能にする、日本の鉄道技術の高さというものは、特筆すべきものだと思うし、顧客サービスの姿勢も凄いと思う。

駅周辺は小さな集落となっており、比較的新しい住宅も立ち並んだ、鳥羽市のベッドタウンといった雰囲気である。対岸には、体育館などの公共施設が立地する他、やはり新しい住宅地があり、そこから橋を渡って、この駅を利用することも可能だ。そうした立地環境のせいか、ローカル色はあるものの、駅の利用者は多いようだ。新設開業の経緯も、そういったところにあるのではないか?と考えているが、これは、鳥羽市史などを紐解いてみないと、分からない。

この日も、下り線ホームに、1人の若者の姿があった。休みの日の昼下がりに、地元の若者が乗車するというのは、ローカル路線としては珍しい方だが、そこはやはり、近鉄という鉄道路線の水準で見れば…という但し書きが必要となるのだろう。

1線スルー方式で駅舎側の下り線を通過していく上り伊勢志摩ライナー
1線スルー方式で駅舎側の下り線を通過していく上り伊勢志摩ライナー
昼下がりの無人駅には列車を待つ若者が一人佇んでいた
昼下がりの無人駅には列車を待つ若者が一人佇んでいた

曇りがちだった天候も回復の兆しが表れ、日差しが出始める。それだけで、沈んだ印象の風景が明るく生き生きとしたものに変わるから、太陽の力は偉大だと思う。12時30分発。

志摩赤崎駅から船津駅の間は、最初、埋め立て地と思われる造成地の縁を通過し、その後、西方の丘陵が川面に落ち込む僅かな平地を、単線と車道とが寄り添うように走り抜ける。再び土地が開けると船津の集落に入り、そのまま、護岸に隣接した船津駅に到着した。中之郷から船津まで、かつては、陸上交通の難所であっただろうと思わせる隘路が点在していた。12時34分着。

ルート図:志摩赤崎~船津間
ルート図:志摩赤崎~船津間

船津駅

船津駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道の全線開業時に開業した。駅舎はなく無人駅で、相対式2面2線構造を持つ。所在地は、三重県鳥羽市船津町浜である。

「角川地名辞典 三重県」の記載によれば、「地名の由来は、当地が賀茂川から鳥羽港に出る入江の港(津)であることによる…中略…三河国・尾張国の荷物船の寄港地としてにぎわった…中略…鳥羽5丁目はもと船津新田と呼ばれた干拓地であった」とあり、以下の国土地理院地形図で見ても分かるように、賀茂川の湾曲部に半島状に飛び出た地形は、船着き場を設ける港というのがよく分かる構造でもある。尤も、津が港を指す言葉だということを知っていれば、「船の津」から容易にその地名の由来を知ることができるかもしれない。

また、「鳥羽5丁目はもと船津新田と呼ばれた干拓地であった」とあるが、干拓される前は、入江や湿地だったと思われる。先のルート図や以下の地形図を見ると、船津駅の北側で、賀茂川の西に干拓地が広がっているが、ここが、鳥羽湾の入江だったと考えると、船津に港が出来る理由がよく分かる。

その船の安全を願ったのであろうか、船津の集落内には八幡神社があり、国土地理院の地形図にも記号が示されている。

それにしても、志摩赤崎駅からの道中では、「埋め立て地と思われる造成地の縁」を通過してきたと先に記載したが、その時に、なんとなくそう感じた感覚は正しかったわけである。

地形図:船津駅周辺
地形図:船津駅周辺

さて、この船津駅は、賀茂川岸壁に沿った無人駅であった。中之郷駅からここまでの道中では、志摩赤崎駅の手前と、船津駅の手前に隘路があり、それが、複線化を妨げた要因のようにも思える。勿論、志摩線内の他の区間に見られるように、短区間の付け替え工事によって線形改良を行い複線化するということも考えられるだろうが、全てを複線化すればいいというわけでもなく、需要と容量との兼ね合いで、最適値があるのだろう。

さて、船津駅の構内を散歩しながら写真を撮影していると、志摩赤崎方の単線区間をゆっくり進んでくる普通列車が目に入る。駅に列車を待つ人の姿は無く、到着した列車から降りてくる人も居なかった。

昼下がりの無人駅は、のんびりとした雰囲気に満ちていたが、それは、賀茂川のゆったりとした流れのせいなのかもしれない。

相対式2面2線で行き違い可能な船津駅
相対式2面2線で行き違い可能な船津駅
賀茂川沿いの岸壁に沿った単線を走ってくる普通列車
賀茂川沿いの岸壁に沿った単線を走ってくる普通列車
船津駅に停車する賢島行き普通列車
船津駅に停車する賢島行き普通列車
船津駅の駅名標
船津駅の駅名標

普通列車の出発を見送ってしばらくすると、再び、志摩赤崎方から、列車が接近してきた。

近鉄車両にしては見慣れない色合いだったため、一瞬戸惑ったが、「しまかぜ」だと気が付いて、慌ててカメラを構える。近鉄の特急と言えば、やはり、オレンジ色と紺色のツートンカラーの印象がある。伊勢志摩ライナーやアーバンライナーのカラーリングは、「特別な特急」のように感じるのだが、「しまかぜ」もそのグループに入るように思う。

船津駅を通過していく「しまかぜ」の写真は、少しブレたものになったが、ハイデッカーの先頭車両を見ると、この旅の1年ほど前に乗車した時の記憶が蘇った。

隣接する国道から船津駅と賀茂川を眺めて、出発することにする。12時41分発。

船津駅に進入する賢島行き「しまかぜ」
船津駅に進入する賢島行き「しまかぜ」
思わず目を奪われるスタイリッシュな「しまかぜ」を見送る
思わず目を奪われるスタイリッシュな「しまかぜ」を見送る
賀茂川沿いの岸壁ぎりぎりに設けられた船津駅
賀茂川沿いの岸壁ぎりぎりに設けられた船津駅

船津駅を出た志摩線は、賀茂川を渡り、左岸から右岸に転じる。「ちゃり鉄2号」はそのまま左岸の国道を進み、加茂駅の対岸に達したところから橋を渡って駅にアクセスする。志摩線内は駅間距離が2㎞未満という区間が多く、志摩赤崎~船津間、船津~加茂間はともに1.6㎞の影響距離となっている。「ちゃり鉄2号」での実走距離は2㎞で、加茂駅に到着した。12時49分着。

ルート図:船津~加茂間
ルート図:船津~加茂間

加茂駅

加茂駅は1929年7月23日、志摩電気鉄道の開通と同時に開業した。1992年から1993年にかけて、この前後の区間で複線化工事が実施され、駅にあった交換設備は廃止されたという。田園地帯に設けられた築堤の上に相対式2面2線ホームがあり、高架駅となっているが、駅舎のない無人駅でもある。

所在地は三重県鳥羽市岩倉町大野となっていて、加茂の地名は見当たらないが、この紀行を読み進めてきた読者ならすぐ気が付く通り、これも旧自治体名である。

「角川地名辞典 三重県」によると、「地名の由来は、伊雑神戸の刀禰職であった賀茂氏が当地に蟠踞していたことにちなむという。…中略…明治22年~昭和29年の自治体名。はじめ答志郡、明治29年からは志摩郡に所属。岩倉・船津・河内・松尾・白木・安楽島(あらしま)の6か村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成。昭和29年鳥羽市の一部となり、村制時の6大字は同市の町名となる」とあり、加茂村の地名が、1889年から1954年まで存在していたということが分かる。その後、鳥羽市への吸収合併により加茂村の地名は消えたが、駅名や川名にその跡を残しているわけだ。

国土地理院地形図を見ると、加茂駅の対岸に岩倉町の地名が見え、その岩倉町内から西進する支流が河内川となっている。この河内川流域が、河内町域である。

地形図:加茂駅周辺
地形図:加茂駅周辺
田園を貫く築堤上に設けられた加茂駅
田園を貫く築堤上に設けられた加茂駅
加茂駅の駅名標
加茂駅の駅名標

築堤上の加茂駅ホームに立つと、辺りの水田を見下ろして眺めがいい。天候は再び曇天となり、パッとしないが、晴れ渡っていたら、気持ちのよい駅だろう。

しばらくすると、上りの伊勢志摩ライナーが通過していった。

鳥羽線内では下りの伊勢志摩ライナーが赤・黄・黄の順に通過していくのを見送った。

志摩線に入ると上りの伊勢志摩ライナーが赤・黄の順に通過していった。とすると、もう一本、上りの黄編成の伊勢志摩ライナーと行違うはずだが、駅にいる時でなければ、写真は撮りにくい。果たして、ラスト一本、巡り会うことができるだろうか。

ホーム上には、下り線側だけ待合室があり、上り線は上屋のみとなっている。

普通列車の到着時刻でもないためか、ここでは、人の姿は見られなかった。

加茂駅を通過していく上り伊勢志摩ライナー
加茂駅を通過していく上り伊勢志摩ライナー
複線区間に設けられた相対式2面2線ホームの加茂駅
複線区間に設けられた相対式2面2線ホームの加茂駅
小高い丘陵と水田に囲まれた加茂駅
小高い丘陵と水田に囲まれた加茂駅

薄曇りの中、加茂駅を出発。12時53分。

加茂~松尾間は営業キロ1.4㎞で、これも短距離区間である。

ただし、駅がある右岸側は川や線路沿いに進める道がなく、山の中を迂回する道になるため、一旦、左岸の国道に戻り、松尾駅付近で、再び、右岸に渡るルートで進むことにする。実走1.6㎞で12時59分、松尾駅着。

ルート図:加茂~松尾間
ルート図:加茂~松尾間

松尾駅

松尾駅も、志摩赤崎を除く他の駅と同様、1929年7月23日、志摩電気鉄道開通と同時に開業した一般駅である。当駅前後の複線化は1993年9月11日のことで、その際に、交換設備が撤去され、相対式2面2線構造の現在の形になった。

ここも、加茂駅と同様、駅舎のない無人駅である。

この辺りでは、船津駅と同様に、加茂川が線路に寄り添ってきて、上り線の隣は護岸になっている。

宮脇俊三氏が、その著作の中で、「川が線路に寄り添うのではなく、線路が川に寄り添うのだが、鉄道に乗っていると、川が線路に寄り添ってくるように見える」という趣旨のことを書いていたが、そのフレーズを思い出した。

所在地は三重県鳥羽市松尾町南で、「角川地名辞典 三重県」によると、「地名は地形に起因し、青峰山の尾根が長く北にのびて松山となった所が松尾だという。集落は、松尾・畑ケ茶屋・川合・登・道仏に分かれる」とある。同書によると、江戸期から明治22年まで松尾村が存在し、その後昭和29年までは、加茂村大字松尾、昭和29年から鳥羽市松尾となったという。

従って、開業当初は、加茂村大字松尾だったということになる。

なお、以下に示す国土地理院地形図では、道仏以外の地名が出ている。松尾駅の南西から南に向かって分かれる支流が鈴串川で、道仏は、この鈴串川の上流にある。登の集落は、松尾駅の南に見えている。

青峰山は松尾駅の南西にある標高336.2mの山で、山頂近くには真言宗正福寺がある。この正福寺は志摩第一の巨刹であると、「角川地名辞典 三重県」には記されている。

地形図:松尾駅・白木駅周辺
地形図:松尾駅・白木駅周辺

さて、松尾駅は、駅に隣接して車道踏切があり、南東に続く丘陵のすそ野に広がった松尾集落の入り口にあたる。

ホームの有効長は、志摩線のローカル駅共通仕様で2両分。昼間は、普通列車が1時間に1本程度停車するだけで、その発着時間以外に、利用者の姿を見ることは少ない。

そういえば、志摩赤崎駅で下り線に若者が居たのを見て以来、船津駅、加茂駅、松尾駅と、続けて、利用者の姿が見られなかった。

丘陵に沿った集落内の松尾駅
丘陵に沿った集落内の松尾駅
松尾駅の駅名標
松尾駅の駅名標
松尾駅では再び賀茂川沿いに出る
松尾駅では再び賀茂川沿いに出る
松尾駅は上下ホームの上屋だけで簡素なつくり
松尾駅は上下ホームの上屋だけで簡素なつくり

志摩線内では、普通列車よりも、特急列車の方が頻繁に運転されていて、各駅ごとに特急の姿を見かけているのだが、この松尾駅でも、下りの賢島行き特急が通過していった。

これは、近鉄特急の代名詞ともいえるオレンジ・紺ツートンの編成で、6両編成のうちの後ろ4両が「ビスタカー」だった。私にとっては、賢島行き特急と言えば「ビスタカー」だが、2両+4両の合計6両で運転されている編成が、一番なじみが深い。ただし、2両部分の車両は、幼少期とは異なり、22000系に置き換えられていることが多くなった。この時もそうだった。

その特急の通過を見送って、「ちゃり鉄2号」も出発することにする。13時4分発。

松尾駅に進入してくる賢島行きの特急
松尾駅に進入してくる賢島行きの特急
編成の後ろはビスタカーが連結されていた
編成の後ろは「ビスタカー」が連結されていた

松尾~白木間も駅間距離は1.0㎞でごく短い。

加茂川の左岸に戻り、国道を道なりに進めば、すぐに、大きな駅が見えてきた。右手には、インターチェンジのような線形の道が合流してくるのだが、これは、実際、国道167号線の白木インターチェンジなのである。現在はまだ、国道の位置づけだが、伊勢自動車道の末端区間の暫定無料区間で、延伸工事が進めば、有料道路化されるのだろう。そうなると、近鉄にとっても、厳しい競争相手となるに違いない。

白木駅、13時8分着。

ルート図:松尾~白木間
ルート図:松尾~白木間

白木駅

白木駅は1929年7月23日、志摩電気鉄道の開通と同時に開業している。1970年には改軌工事によって、鳥羽方に0.1㎞移設されており、1993年9月11日には、複線化工事が竣工すると同時に、五知峠を越えていた単線旧線から、青峰トンネルを超える複線新線に切り替えられた。ここで登場する青峰の名前は、松尾駅で触れた青峰山に由来しており、青峰トンネルはその山体を貫通している。

無人化されたのは2005年2月21日。

通過用の主本線に、退避用の副本線を備えた、相対式2面4線構造の中型駅ではあるが、周辺民家はそれほど多くはなく、交通量の多い国道の方が目立っている。

所在地は、三重県鳥羽市白木町細田。「角川地名辞典 三重県」では、地名の由来は書かれていないが、「南北朝期から見える地名」とあり、江戸期から明治22年まで白木村、明治22年から昭和29年までが加茂村大字白木、昭和29年から鳥羽市白木町と変遷していることが記されている。

「志摩の地名の話」では「白木の由来は面白い。言葉としての白と赤は同じだという論理は旧地考から教えられた。赤裸は素裸であり、赤柄は白柄である。つまり赤も白もかざり気のないという意味で同じだという論旨に受け取れた。われわれの白木には赤木岳・赤木滝があった。そしてこのあたりにはアカギが多く茂っていた。「此赤木即此白木ナラム」と旧地考は結んでいる」と記述されている。

地形図:松尾駅・白木駅周辺
地形図:松尾駅・白木駅周辺

白木駅は鳥羽からの営業キロで7.9㎞の位置にあり、全長24.5㎞の志摩線の中では、鳥羽から3分の1程度の距離にある。待避線を備えた駅というのは、志摩線内では唯一であるが、駅の位置関係や、新線付け替え工事が実施された経緯も関係していることだろう。

以下に示す白木駅の写真をよく見ると、面白い駅構造に気が付くのだが分かるだろうか?

白木駅は、下り線ホームが1番線、上り線ホームが4番線で、真ん中の2本の主本線が、それぞれ、2番千3番線となっているのだが、4番線の外側に、5番線と思しき線路が見えている。この線路は赤茶けており使用されている様子はないが、架線も張られており、留置線であることが分かる。

これは、かつて単線時代だったころの名残で、鳥羽方に向かう上り線の跡が、一部、留置線として利用されているのだという。

五知峠に挑む前進基地だった白木駅
五知峠に挑む前進基地だった白木駅
白木駅は主本線を挟んだ2面2線構造で上り側ホームは4番線となる
白木駅は主本線を挟んだ2面2線構造で上り側ホームは4番線となる
白木駅の駅名標
白木駅の駅名標

さて、白木駅のホームに立って、駅構内を撮影していると、下り線側に賢島行きの普通列車が到着した。ホームの有効長は2両分で、列車が停車すると一杯になるが、待避線も兼ねているため、ポイント間の距離は長く、2両編成の普通列車は、ちょこんと停車しているといった感じに見える。

跨線橋も備えた大型駅だが、無人化されており、人の姿は無かった
跨線橋も備えた大型駅だが、無人化されており、人の姿は無かった
広い構内を持つ白木駅に2両編成の普通列車がちょこんと停車していた
広い構内を持つ白木駅に2両編成の普通列車がちょこんと停車していた

白木駅の賢島方には、踏切があり、ここから下り方向を眺めると、左に緩やかにカーブしながら青峰トンネルに向かう現在の志摩線が続くとともに、右側にも緩やかにカーブしながら続く、保線基地がある。これは、単線時代の旧線跡で、この先、五知峠を越えていく路盤の一部が使用されているものだ。

「百年史」の記述では、「白木・五知間および穴川駅付近の2か所では、地形上の制約や地元の条件から線路の増設は困難であったため、トンネル掘削などにより大幅な経路変更を行った。白木・五知間では、青峰山を貫く青峰トンネル(2,700m)を新たに掘削し、別線を設けた」とある。

青峰山は、松尾駅で取り上げたことを記憶している読者も居ると思う。

ここまで見てきた志摩線の複線化工事は、「百年史」によると、1985年に決定されており、輸送力増強等投資計画(第7次~第8次)で主要工事の一つと位置付けたとある。竣工は、1992年から1993年にかけてであった。

私は、「ちゃり鉄0号」の随想の中で、小学生時代に憧れの「ビスタカー」に乗って賢島を往復する日帰り旅行に連れて行ってもらったことを記したが、その当時は、まだ、青峰トンネルは開通しておらず、志摩線も、単線区間が多い旧線時代だったことになる。2015年には、近鉄全線を乗車する旅を2回行ったのだが、その時、昔の朧げな印象と違って、随分開けたように感じた路線が多かったのは、30年の間に、こうした複線化工事が、随所で行われていたからなのだろう。

白木駅の前は国道167号線が走っており、駅に隣接した民家はない
白木駅の前は国道167号線が走っており、駅に隣接した民家はない
五知峠に向かっていた旧線跡が保線基地となっていた
五知峠に向かっていた旧線跡が保線基地となっていた

この先は、新線に沿って進むことはできないため、旧線跡に沿って五知峠を越えていくことになる。13時15分発。

この峠で、鳥羽市から志摩市に入るのだが、峠とはいっても標高は100mに満たず、国道も直線的な線形で軽々と越えていく。

線路の左手には、一段高い位置に旧線の路盤が続いている。架線柱などは撤去されており、草木が叢生しているため、それと意識してみなければ、廃線跡とは気が付かないだろうが、所々で、橋梁跡が顔をのぞかせており、そこが廃線跡であることを伝えている。

路盤跡に上がってみると、単線幅の地面が続く草むらに、辛うじて、かつての面影を見ることができた。

「八十年史」には、志摩線白木付近の改軌工事の様子を撮影した写真が掲載されているが、恐らく、白木~五知間の旧線跡で撮影されたものではないか?と思う。

引用図:志摩線白木付近。軌間拡幅工事「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:志摩線白木付近。軌間拡幅工事
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」

この路盤跡は、五知峠付近では切通となっており、これまでとは逆に、国道から見下ろす形になるが、峠を越えて下り始めると、再び、道路よりも高い位置に復帰する。鉄道の線路跡だけに、勾配の変化は、道路よりも緩やかだ。

以下の地図には、白木~五知間の新線と旧線の概念図を示している。地図は、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。

志摩市の標識を見て下りに転じて直ぐ、左手から近鉄の新線が表れ、五知駅に到着する。13時34分着。

ルート図:白木~五知間
ルート図:白木~五知間
国道167号線に沿って単線時代の旧線跡が続いている
国道167号線に沿って単線時代の旧線跡が続いている
草生したコンクリートの構造物が見え隠れする
草生したコンクリートの構造物が見え隠れする
線路跡に立ってみると、かつての面影が辛うじて残っていた
線路跡に立ってみると、かつての面影が辛うじて残っていた
水路をまたぐ橋梁跡には、鉄道の痕跡が色濃く残っている
水路をまたぐ橋梁跡には、鉄道の痕跡が色濃く残っている
市界となる五知峠を越えて鳥羽市から志摩市に入る
市界となる五知峠を越えて鳥羽市から志摩市に入る
五知峠を切通で抜けた志摩線の旧線跡が、道路わきに続いていた
五知峠を切通で抜けた志摩線の旧線跡が、道路わきに続いていた

五知駅=賢島駅

五知駅

五知駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道の開通と同時に開業した無人駅であるが、青峰トンネル貫通と加茂~五知間の複線化工事の竣工により、1993年9月11日に600m移設されている。

駅舎のない相対式2面2線構造である点は、志摩線の標準的なローカル駅であろう。

所在地は三重県志摩市磯部町五知である。

「角川地名辞典 三重県」によると、「地名の由来については、朝熊(あさま)山の参道にある籠り堂に祀られている五智如来像にちなむという説と地内の小字に北河内・中河内などがあるところから「こうち」が「ごち」に転訛したとの説がある」と書かれている。古くは、五智とも書いたようだ。

「志摩の地名の話」は、後者の説を主体としつつも、「河内を五知と表現するに至ったのは仏教思想が加わっているかと思われる」と記載している。

五智の地名は、室町期から見られるようで、江戸期から明治22年に五知村、明治22年から昭和30年までは磯部村大字五知、それ以降が、磯部町大字五知となっている。

地形図:五知駅周辺
地形図:五知駅周辺
五知駅の駅名標
五知駅の駅名標
青峰トンネルの坑口が間近い五知駅
青峰トンネルの坑口が間近い五知駅
カーブ上の五知駅に停車する伊勢中川行き普通列車
カーブ上の五知駅に停車する伊勢中川行き普通列車

駅は、青峰山の西南西山麓にあり、五知集落とは国道を挟んで対峙する形になっている。駅の周りに民家がないせいか、ひっそりとした印象だが、ホームに上がると、登りの普通列車の到着を待つ若者の姿があった。駅で利用者を見るのは久しぶりだ。

ローカル線の利用者は、高齢者と高校生以下の若者ということが多く、青年世代の若い女性の姿を見る機会が一番少ないように思う。中年男性とかを見かけることもあるが、それは、例外的に、鉄道ファンである場合が多い。

駅は相対式2面2線でホーム上の上屋のみのシンプルな構造
駅は相対式2面2線でホーム上の上屋のみのシンプルな構造
上り線駅前は狭い通路と行き止まりのスペースだけがある
上り線駅前は狭い通路と行き止まりのスペースだけがある

さて、この日の当初予定は、実は、この五知駅までだった。ここで駅前野宿にして、明日、残りの駅を完乗したあと、あご湾定期船に乗船しながら、志摩半島を周遊し、鳥羽までの海岸線を戻るつもりをしていた。ただし、五知駅到着時の条件では、先に進むことも考えるという、2段階の計画にしていたのだ。

到着してみれば、時刻は、まだ13時半過ぎ。駅前野宿に落ち着くには、早過ぎる。

この先、賢島まで走り通すことのできる時間帯であるし、その方が、明日の行程に余裕ができる。

どこまで進むかは、この先の進捗次第だが、あご湾定期船に乗って、浜島港まで渡り、その辺りで野宿適地を探せば、浜島温泉にも浸かることができると考えて、先に進むことにした。

五知駅も、駅前野宿できそうな無人駅だったので、いずれそういう一夜を過ごすこともあるだろう。

13時39分発。

五知駅から沓掛駅にかけては、野川に沿った国道167号線を道なりに下る。志摩線の線路も、道路と並行しており、この区間では離れることがない。

やがて、進路の左下、一段低い位置に駅が見えてきて沓掛駅到着。13時45分着。

ルート図:五知~沓掛間
ルート図:五知~沓掛間

沓掛駅

沓掛駅は、1929年7月23日開業の無人駅で、島式1面2線構造を持つローカル駅である。

志摩線の中では、この沓掛駅と隣の上之郷駅、志摩神明駅が島式ホームを持つが、それぞれ、単線時代に交換設備には交換設備を伴った駅であった。島式ホームでは、上下列車ともポイント前後でカーブを通過することが多く、通過列車は減速を余儀なくされる。そのため、特急などが運転される幹線では見かけることが少ないが、単線のローカル線の場合、相対式ホームに比べて、ホームの設置が簡便なことから、比較的多くみられるように思う。

この沓掛駅も、そういった単線時代の面影を残す駅で、ローカルムードが漂っている。

駅名は周辺地名に拠っており、「角川地名辞典 三重県」の記述によれば、「地名の由来は、当地に古代の駅家があったことにちなむという、古い街道が通る長者屋敷と呼ばれる地が古代の駅舎跡と伝える」という。明治22年までは、沓掛村が存在し、以降、磯部村大字沓掛、磯部町大字沓掛と変遷している。

「志摩の地名の話」では、「民間信仰の一種で路傍の木や石に草鞋や馬の沓を掛けて旅の神の御料として奉納し、或は旅の安全を願い或は足の病の平癒を祈ったものである。われわれの沓掛にもそうした信仰の場があったにちがいないが、今ではこれをつきとめるよすががない」としている。

地形図:沓掛駅周辺
地形図:沓掛駅周辺

到着した沓掛駅では、部活帰りを思わせる地元の中学生がホームにたむろしており、列車の到着を待っていた。上屋だけのホームは簡素なもので、周辺に集落があり民家も見えるが、利用者数は少ない。

しばらくすると、名古屋行きの「ビスタカー」が徐行しながら駅を通過していった。駅は既に複線化された区間にあるので、単線の島式ホームのような徐行は必要ないはずだが、ホームも狭く、単線時代の面影が色濃く残っているためか、通過列車を見ていると単線区間にいるような錯覚を覚えた。

島式ホームでローカルムードある沓掛駅
島式ホームでローカルムードある沓掛駅
名古屋行きのビスタカーが通過していく
名古屋行きの「ビスタカー」が通過していく
上屋だけで待合室もない簡素な沓掛駅
上屋だけで待合室もない簡素な沓掛駅

沓掛駅の構造は至ってシンプルだ。入口は賢島側にあり、下り線の構内踏切を跨いで車道に通じている。志摩線自体は、改軌工事や複線化によって、特急が頻繁に走る路線になったが、特急が通過するローカル駅には、志摩電気鉄道時代の面影が残っているようにも思う。

ホームで駅名標を撮影しているうちに、賢島行きの普通列車が到着する。

中学生たちは、この列車には乗り込まずに、まだ、ホーム上に残っていた。上り列車に乗るということか。

普通列車の出発を見送ったのち、「ちゃり鉄2号」も出発することにした。

13時50分発。

地元の中学生が列車待ちをしていた
地元の中学生が列車待ちをしていた
沓掛駅の駅名標
沓掛駅の駅名標
賢島行きの普通列車が到着
賢島行きの普通列車が到着
下り線側にある構内踏切でホームに出入りする
下り線側にある構内踏切でホームに出入りする

沓掛から上之郷にかけても、近鉄志摩線と並行する国道167号線を進む。

野川流域の平野からは丘一つ隔てたところを越えたのち、集落が現れたら上之郷駅である。

13時56分着。

ルート図:沓掛~上之郷間
ルート図:沓掛~上之郷間

上之郷駅

上之郷駅は1929年7月23日、志摩電気鉄道の全線開通時に、志摩磯部駅として開業した。志摩電気軌道から三重交通時代を通して、志摩磯部駅を名乗っていたが、近鉄時代に入り、1970年3月1日、改軌工事が完了するとともに、上之郷駅に改称している。

駅の構造は隣の沓掛駅と類似しており、島式2線ホームでにベンチを備えた上屋があるだけだが、志摩磯部駅時代には、駅舎もあったという。

この駅から賢島方は単線となっており、志摩磯部駅に至る区間で、川沿いの狭い平地を通過している。

駅の所在地は三重県志摩市磯部町上之郷。

「角川地名辞典 三重県」では「上古は上村(かみむら)と称した。志摩半島中央部、伊雑(いぞ)ノ浦に注ぐ野川下流の平地に位置する。古くは伊雑(いざわ)宮の宮域であったが、次第に門前町のような形で人家がたち、集落を形成した。…中略…地内の伊雑宮は内宮の別宮で、志摩一円の信仰が篤く、…中略…江戸末期は伊雑詣ででの参拝者が多く、宮前には旅館もあってにぎわいをみせていた」とある。

以下に示す国土地理院の地形図には、伊雑宮、それから、対岸の下之郷の大字のほか、図幅の右下に、伊雑ノ浦という地名などが見える。また、下之郷の古称は下之江であったと同書には記されている。

伊雑ノ浦は伊勢湾に面した内湾で、上之郷辺りでもかつては水運の便があったと推定される。

地形図:上之郷駅周辺
地形図:上之郷駅周辺

伊雑宮は伊勢神宮内宮の別宮であった。その歴史について深くは掘り下げないが、かつて、伊雑ノ浦一体が神領で神戸も置かれていたことに鑑みると、水運にも恵まれた内湾に面した肥沃地であったのだろう。以下の写真は、「伊勢志摩の歴史」に掲載された伊雑宮に関連する写真や絵図である。

引用図:伊雑宮宮中之図(神都名勝誌)「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:伊雑宮宮中之図(神都名勝誌)
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:伊雑宮正殿他「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:伊雑宮正殿他
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

到着した上之郷駅には、沓掛駅と同じように、ホームにたむろする中学生の姿があった。

観光列車の「つどい」が駅を通過していく様子を、珍しそうに眺める者も居れば、興味を示さない者も居て面白い。

この駅も、賢島方に入り口があり、構内踏切で道路とつながっているが、駅前は空き地になっていて、国道には隣接していない。ホームは緩やかな曲線を描いている。賢島方にある単線区間からポイントを経て複線になり、沓掛駅に向かっていくので、この駅を通過する列車も徐行しながら進んでいくことになる。

観光列車の「つどい」も、その為かどうか、ゆっくりと駅を通過していった。

中学生たちは、ホームに座り込んで、おしゃべりに余念がないが、カメラを携え、サングラスを着用し、ヘルメットを被った、見慣れないおっさんがホームに上がってきたのを怪訝なまなざしで眺めてくる。そんな中学生を尻目に、駅名標や駅のはずれから見た構内の写真を撮影する。そんな様子を見て、何となく、不審者の正体を察したのか、しばらくすると、興味を失ったらしく、誰も見向きしなくなった。

ホームには、その他の利用者の姿も集まりだしたのだが、こちらは、下り線側を向いており、中学生たちは上り線側を向いている。

そういえば、沓掛駅で見かけた中学生も、下り列車には乗車しなかった。

とすると、次の上り普通列車を待っているということになるが、その間に、私は、沓掛駅から上之郷駅まで走ってきたわけで、結構、長い間、ホームで待っているようだ。

程なくすると、伊勢中川行き普通列車が到着。

中学生たちは一斉に乗り込んでいき、駅には、成人男性二人が残る形になった。下りの普通列車を待つ男性たちは、志摩市街地に出るのだろうか。

観光列車「つどい」が上之郷駅を通過していく
観光列車「つどい」が上之郷駅を通過していく
上之郷駅でも地元の中学生が列車待ち
上之郷駅でも地元の中学生が列車待ち
上之郷駅の駅名標
上之郷駅の駅名標
上之郷駅も島式ホームでローカルムードがある
上之郷駅も島式ホームでローカルムードがある
緩やかな曲線を描く上之郷駅
緩やかな曲線を描く上之郷駅
下りの志摩市街地に向かう利用者も見られる
下りの志摩市街地に向かう利用者も見られる
中学生たちは上りの伊勢中川行きに乗車していった
中学生たちは上りの伊勢中川行きに乗車していった

普通列車の出発を見送り、私も出発する。14時1分発。

志摩磯部駅までは、野川に沿った国道沿いを少し進み、そこから県道61号に沿った脇道に入るルートどりなのだが、途中、道を間違えて半島状の中州を行き過ぎてしまい、少し戻る。

五知駅から、沓掛駅、上之郷駅と、少しずつ開けてきたが、志摩磯部駅付近に至って、大分はっきりとした市街地に入ってきた。14時13分着。

ルート図:上之郷~志摩磯部間
ルート図:上之郷~志摩磯部間

志摩磯部駅

志摩磯部駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道の全通時に、迫間駅として開業した。その後、1970年3月1日の改軌工事竣工に伴い、賢島方に0.2㎞移設されるとともに志摩磯部駅と改称され、交換可能駅になった。現在の駅舎は1994年3月15日に完成しており、同時に、全特急停車駅にも昇格しているが、その後登場した「しまかぜ」や「つどい」は停車しない。2007年3月1日限りで、志摩磯部から志摩スペイン村への直行バスは廃止されており、志摩観光の玄関口としての機能は、鵜方駅や賢島駅に移されている。

駅舎は志摩スペイン村の玄関口として機能していた時代を反映しており、スペイン・アンダルシア地方の建物を模したもので、2000年には中部の駅百選に選ばれている。

駅構造は、単式島式2面3線構造で、うち、島式ホームの東側にある3番線は鳥羽方で行き止まりの留置線で、主に、賢島発着の特急が留置されているようだ。

駅は三重県志摩市磯部町迫間にあり、駅名は地名由来である。

「角川地名辞典 三重県」によって、地名を調べていくと、迫間については、「古くは迫とのみ記し、迫間と書くのは江戸期に入ってからのこと。志摩半島中央部、的矢湾奥の伊雑(いぞ)ノ浦に注ぐ池田川下流と磯部川(神路川)下流とに挟まれた丘陵地に位置する。地名の由来は、谷間の迫った場所にちなむといわれる。」とある。

一方、磯部については、「通称先志摩半島のつけ根、伊雑(いぞ)ノ浦周辺一帯に位置する。「志摩国旧地考」によれば、「按ルニ地名ヲ磯部ト称スルハ古ヘ磯部氏人ノ家居セルヨリ起レル」という。内宮別宮伊雑宮の膝下、伊雑神戸(いざわのかんべ)の地。…中略…「志陽略志」答志郡村里条によれば、五智・沓掛・山田・上之郷・恵利原・迫間(はざま)・築地(ついじ)・穴川・下之郷の9か村を磯部九郷と称しているが、このうち沓掛・山田の両村は中世末期に上之郷から分村したものという」とある。

その後、江戸期には磯部組という行政単位が存在し、明治22年から昭和30年にかけては、磯部村が存在。上之郷・下之郷・飯浜・山田・沓掛・五知・迫間・築地・恵利原・穴川・坂崎の11か村が合併して成立し旧村名を継承した11大字を形成。村役場を上之郷に設置したのだという。

昭和30年には、磯部村・的矢村・神原村の一部が合併して磯部町が成立。磯部町役場は迫間に置かれていた。そして、2004年10月1日に志摩市が誕生し、現在、自治体としての磯部町は消滅している。

1929年の志摩電気鉄道の開通時、先に訪れた上之郷駅は志摩磯部を名乗っており、現在の志摩磯部駅は迫間駅を名乗っていたのだが、当時は、上之郷に磯部村役場があり、そこが、志摩磯部を名乗ることに合理性があったし、迫間についても大字名由来ということで分かりやすい。

その後、1970年代にまで下ると、磯部町の成立とともに中心地域が迫間に移っており、磯部町役場も迫間に設けられていたのであるから、迫間を志摩磯部に改称した上で、初代の志摩磯部駅を大字名の上之郷に改称することに合理性があった。

駅名変遷の謎を探るのは、複雑で難しいが、楽しい作業でもある。

地形図:志摩磯部駅周辺
地形図:志摩磯部駅周辺

さて、志摩磯部駅は、既に述べたように、志摩スペイン村への玄関口としての機能も果たしていたのだが、現在は、その機能が鵜方駅に移っている。

志摩スペイン村への距離は、志摩磯部駅からと鵜方駅からでは大差ないものの、志摩市の中心部という意味では、鵜方駅の方が主要駅になる。さらに、志摩半島各地へのアクセスという点でも、市域中心部にある鵜方駅を拠点とする方が、利便性が高い。近鉄としても、若干ではあるが、営業距離の長くなる鵜方駅からバスを発着させた方が旅客運賃の上でメリットがあるし、スペイン村へは志摩磯部、それ以外の観光地へは鵜方と機能分散させるよりも、集約化した方が効率的なのだろう。

社史を探しても、特にそのことに関する記述は見られなかったが、志摩地方の観光施設経営の戦略見直しの中で、合理化が図られたのだろうと予測している。

現在も特急停車駅ではあるが、駅施設の雰囲気に比して、駅の利用客は少なく、駅前も少し閑散とした印象のある志摩磯部駅だった。14時16分発。

城を模した観光駅舎風の志摩磯部駅
スペイン風建築を模した観光駅舎の志摩磯部駅
志摩磯部駅は志摩市街地にあり相対式ホーム
志摩磯部駅は志摩市街地にあり相対式ホーム

志摩磯部駅からも県道61号線沿いを進み、丘陵地帯に掘られた穴川トンネルに隣接した穴川駅には、14時23分に到着した。

ルート図:志摩磯部~穴川間
ルート図:志摩磯部~穴川間

穴川駅

穴川駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道の全通時に開業した。その後、1970年3月1日に、近鉄経営下での改軌工事によって賢島方に0.3㎞移転した後、1993年6月1日には、穴川トンネル経由の複線新線上に再度移転。相対式2面2線の高架駅へと変貌した。

志摩電気鉄道時代の駅とは異なり、近鉄時代の駅であり、高架駅ということもあって、志摩線の駅ではあるが、鳥羽線の駅を思い出させるような構造の駅である。

駅の所在地は三重県志摩市磯部町穴川で、志摩磯部駅のところで触れたように、穴川という大字は、磯部九郷の一つとして、古くから存在していたようである。

「角川地名辞典 三重県」に記載された穴川の地名に関する記述を要約すると、「穴河とも書く。池田川河口に位置し、的矢湾奥伊雑(いぞ)ノ浦に面する。室町期から見える地名。江戸期から明治22年までは穴川村、昭和30年までは磯部村大字穴川、昭和30年以降は磯部町大字穴川」と変遷していることが分かる。磯部町が志摩市に含まれるようになった経緯は、既に述べたとおりである。

以下に示す切り替え可能地形図では、新線・旧線及び新・旧穴川駅の位置を記してある。

地形図:穴川駅周辺図
地形図:穴川駅周辺図

こうしてみると、旧線の急カーブ具合や、狭隘部の通過具合が一目瞭然で、よくこんなところに線路を通したなという気にもなるが、志摩電気鉄道時代の建設技術では、穴川トンネルの掘削は難しく、このような線形になったのだろう。

「鉄道廃線跡を歩くⅣ(宮脇俊三・JTB・1997年)」では、志摩線内の白木~五知間、穴川駅周辺、賢島~真珠港間の廃線跡が取り上げられており、旧線跡に残っていた旧穴川駅ホームなどもそのまま残っていたようだ。しかし、その後、整地され、今では、ホーム跡はなくなっているようである。

引用図:旧線時代の穴川駅跡「鉄道廃線跡を歩くⅣ(宮脇俊三・JTB・1997年)」
引用図:旧線時代の穴川駅跡
「鉄道廃線跡を歩くⅣ(宮脇俊三・JTB・1997年)」

さて、その穴川駅に上がってみると、丘陵に穿たれた穴川トンネルに下り方を突っ込む形でホームが設けられており、緩やかな曲線を描きながら、高架が伸びている。相対式2面2線駅で、入り口の様子を見る限りでは当初は有人駅だったようだが、現在はその施設は全て閉鎖されており、無人化されている。

ホームには下り列車を待つ乗客の姿があり、間もなく到着した賢島行き普通列車からは、親子連れが下車してきた。それなりに乗降客があるようだが、駅の周辺には民家が散在している程度で、利用客はさほど多くなさそうだ。

さて、この穴川駅であるが、鉄道以外でも興味ある歴史がある。

というのは、近鉄のグループ会社である志摩マリンレジャー株式会社の前身にあたる志摩観光汽船株式会社が、1958年4月に、穴川から渡鹿野島とを結ぶ定期航路の運航を開始し、その後、に近鉄志摩観光汽船株式会社時代の1985年7月1日に撤退するまで、航路が開かれていたからである。

この辺りの記述は、「磯部町郷土史(磯部町郷土史刊行会・1963年)(以下、「磯部町郷土史」と略記)」の記述などによって追うことになるが、この旅の後半、2日目の行程では、渡鹿野島に渡る予定をしているので興味が湧く。

郷土史によれば、「穴川、的矢、三ケ所、渡鹿野の各港を巡回する発動機船の、巡行回数と、その乗降人員等に付て記す。1 渡鹿野航路と称せられ、穴川発し、的矢、三ケ所、渡鹿野を巡遊す。午前五回午後四回。下りは渡鹿野発し、三ケ所、的矢、穴川と巡遊す。午前三回午後六回。2 志摩観光汽船株式会社の営業開始せられたのは昭和卅三年四月からである。3 穴川的矢間三十分、的矢三ケ所間五分、三ケ所渡鹿野間十分、渡鹿野穴川間四十五分である。(一日平均約一九〇人)」とある。

穴川港自体は、上述のように既に航路が廃止されているが、三ケ所、的矢、渡鹿野の航路は、今も、県道船などとして営業されている。

以下に示すのは、「志摩の地名の話」に掲載された穴川港の写真で「舩のりば」という看板の下に渡鹿野の文字が半分ほど見えている。干潟のような湾奥から湾口にある渡鹿野島まで、小型船が就航していた様子が分かり興味深い。

こうしたローカル航路も、鉄道のローカル線以上に早く、全国規模で消えているのが残念だ。

引用図:穴川港「志摩の地名の話(中村精貳・伊勢志摩国立公園協会・1951年)」
引用図:穴川港
「志摩の地名の話(中村精貳・伊勢志摩国立公園協会・1951年)」

尤も、その辺りの事実は、執筆にあたって判明したもので、旅の当時は、そういった認識はなかった。「ちゃり鉄」の旅では、同じ路線を再度走ることも多くなるが、そういった機会に、より深く、鉄道沿線を旅することができるだろう。

有人時代の施設が残る穴川駅
有人時代の施設が残る穴川駅
穴川駅の駅名標
穴川駅の駅名標
鳥羽線の駅と似た半高架の穴川駅
鳥羽線の駅と似た半高架の穴川駅
ここでも駅利用者の姿が見られた
ここでも駅利用者の姿が見られた
賢島行きの普通列車が到着
賢島行きの普通列車が到着

ホームで賢島行きを見送ったら、「ちゃり鉄2号」も出発である。14時29分発。

この後、旧線跡やホームを見に行く興味も湧くが、当時は、そういう予備知識がなく、県道に戻って丘陵を越え、志摩横山駅に直行した。丘陵を越えると志摩市街地に入り、にわかに、都会めいてくる。

途中から国道167号線に入り、しばらく近鉄と並走した後、志摩線が左にそれていくのに合わせて、国道から脇道に入ると、志摩横山駅に到着。14時40分。

ルート図:穴川~志摩横山間
ルート図:穴川~志摩横山間

志摩横山駅

志摩横山駅は1929年7月23日、志摩電気鉄道開通時に、鵜方口駅として開業した。その後、1946年12月に志摩横山駅に改称している。相対式2面2線駅で、1970年3月1日に改軌工事竣工、1993年6月1日に複線化という流れを経ているのは、志摩線の各駅と共通である。

所在地は三重県志摩市阿児町鵜方である。駅周辺の地形図に横山の地名はなく、この駅が志摩横山に改称された理由は分かりにくいが、近隣の国道交差点は横山口と言い、駅の西南西には標高203.2mの横山が、その名の通り、横たわっている。小字としての横山もあるが、これが駅周辺の小字なのか、横山の山頂付近の小字なのかは調査が付いていない。

「角川地名辞典 三重県」の記述では、「展望台からの眺望は絶景で、遠く紀伊山脈・熊野灘を望み、眼下に大小無数の島々、真珠筏、複雑に入り組む英虞(あご)湾の美景が広がる。…中略…近年登山道路も整備され絶好のハイキングコースとなっており観光客も多い。山名は、沖合いから見ると横に長く見えることによると伝えられる」とある。

即ち、鵜方口という地味な名称から、有名観光地の横山展望台への入り口を意識した駅名に改称したのではないか?と思われるのである。実際、横山展望台は、英虞湾を眺める展望台の中では、最も有名な展望台と思われ、志摩横山駅から徒歩で往復するのも、ハイキングとしてみれば、無理のない距離である。なお、付近を走る三重交通のバス停の名称は「横山登山口」である。

地形図:志摩横山駅・鵜方周辺
地形図:志摩横山駅・鵜方周辺

到着時、下り線を賢島行きの伊勢志摩ライナーが通過していった。

ここまでくると、目指す志摩地区も目前。目的地によっては、賢島まで行かずに、次の鵜方で下車する乗客も居ることだろう。

ただし、志摩横山駅自体は、相対式2面2線でホーム上屋のみの無人駅であり、市街地の中にあるとはいえ、ローカル駅である。

この時刻、利用者の姿は見られなかった。都市部になると、鉄道以外にバス路線も充実しているため、公共交通の利用は分散するのかもしれない。

志摩横山駅を通過していく伊勢志摩ライナー
志摩横山駅を通過していく伊勢志摩ライナー
市街地の中の小無人駅で上屋だけの志摩横山駅
市街地の中の小無人駅で上屋だけの志摩横山駅
志摩横山駅は複線区間にあって相対式ホーム
志摩横山駅は複線区間にあって相対式ホーム
志摩横山駅の駅名標
志摩横山駅の駅名標
駅は志摩市街地の中にある
駅は志摩市街地の中にある

伊勢志摩ライナーの通過を見送ったら、すぐに出発する。14時44分。

15時前になると、夏とは言え、夕方の雰囲気が少しずつ出てくる。

今日のこの調子なら、賢島駅まで走り通した後、浜島港までの英虞湾定期船に間に合いそうだ。

志摩横山から鵜方までは、国道167号線、260号線とつないで、指呼の間である。14時49分。鵜方駅着。

ルート図:志摩横山~鵜方間
ルート図:志摩横山~鵜方間

鵜方駅

鵜方駅は1929年7月23日、志摩電気鉄道開通時に開業した。1970年3月1日の改軌工事竣工から、1988年3月6日、志摩神明までの複線化、1993年6月1日、志摩磯部までの複線化と進み、1994年3月27日には、橋上駅舎化されている。

駅は島式1面2線で、「しまかぜ」も含む全ての列車が停車する志摩線の中核駅で、志摩市の玄関口でもある。

所在地は三重県志摩市阿児町鵜方。地名由来の駅名であることが分かる。

「角川地名辞典 三重県」の記述で、鵜方の地名について調べると「地名の由来は、往古は鵜方浦が深く湾入して干潟の芦原となっており、そこに多くの鵜が生息していたため鵜潟と呼ばれ、鵜方と書かれるようになった」とある。実際、現在は志摩市の中心部として繁栄しているものの、1960年代に開発されるまでは、駅の南側は一帯が水田だったという。

以下に示すのは、「伊勢志摩の歴史」に掲載された鵜方浜の巡行船の様子である。未開発だったころの鵜方の様子が垣間見られる写真である。

引用図:昭和30年頃の鵜方浜と巡行船「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和30年頃の鵜方浜と巡行船
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

「志摩の地名の話」では「鵜方は古く渦見潟と称したといわれ、この方も潟であることは疑う余地がない。ただ渦見には私は文字通りには承服しがたい。…中略…潮の干満により多少の環流は起こるだろうが、渦という激しさには遠い。それに渦見潟とは原始地名としえは低徊趣味が濃きに過ぎる。やはり現用の鵜に関連のある鵜住潟が本意ではなかったか」としており、私も、その解釈がしっくりくる。

なお、町名の阿児(あご)は、湾名の英虞(あご)と通じるが、古く奈良期には、網児という地名が見られる他、「日本書紀」持統天皇6年に「阿胡行宮」とあるのが初見とも記されており、いずれにせよ、由緒ある地名である。

「志摩の地名の話」では「ユヒはその組織員が対等の相助組織であるが、之に対し親分子分関係の労務制度はタコであり、田子ノ浦がそれを示している。之が漁業に採用されたものがアゴ(網子)である。田子・網子の子は労務供給者を意味する。…中略…英虞は、この網子に縁をもつもので、万葉集の網児之山などは語源を見透しの表現である」と、その由来について説いており、面白い。

鉄道建設史にはタコ部屋労働という劣悪な労働環境の話が登場することが多いが、私などは、この「タコ」のことを「蛸」のイメージで見ていた。「蛸壺」のように狭苦しい居住区に押し込められた労働環境から想起したイメージである。こうして地誌を紐解いていくと、自分の浅学ぶりを実感する。

地形図:志摩横山駅・鵜方周辺
地形図:志摩横山駅・鵜方周辺

さて、鵜方駅は、志摩市中心部に位置する玄関駅として、先述のように、志摩スペイン村などへのバス便も発着する観光拠点となっている。

賢島も観光拠点ではあるが、賢島が、どちらかというと、賢島ブランドであるのに対し、鵜方は、志摩地域全体への玄関と位置付けられているように感じる。

折しも、上りの「しまかぜ」が鵜方駅に停車していた。

賢島行き「ビスタカー」が憧れの的だった私にとって、その後継となる「しまかぜ」もまた、憧れの特急であり、幸いにも、最も運転距離の長い、京都~賢島間の「しまかぜ」に2015年に乗車する機会があった。

近鉄では、やや陳腐化し始めた名阪特急「アーバンライナー」の置き換えに、「ひのとり」という新型特急を導入したりしているが、この辺の戦略のうまさは、近鉄ならではだと感じる。

踏切で待っていると、「しまかぜ」が出発していった。しばらく、伊勢志摩を訪れる機会がないが、再訪する時は、「ビスタカー」や「しまかぜ」で訪れたいと思う。

志摩市の中心部にあたる鵜方駅
志摩市の中心部にあたる鵜方駅
鵜方駅に停車中の「しまかぜ」
鵜方駅に停車中の「しまかぜ」
スタイリッシュな先頭車は新しい近鉄車両の象徴
スタイリッシュな先頭車は新しい近鉄車両の象徴

さて、主要駅の鵜方駅ではあるが、主要駅だけあって有人駅であり、駅構内の探索は控えて先に進む。14時53分発。「ちゃり鉄」の旅では、主要駅ほど停車時間が短くなる傾向がある。

鵜方駅からは、国道167号線に戻り、丘陵を越えていく。鵜方駅の南を流れる川の対岸には、川向井という地名もあり、安直だが、分かりやすい地名である。

志摩市街地は、鵜方駅周辺にまとまっており、丘陵を越えたあたりでは、再び、水田も現れて長閑なローカルムードが戻ってくる。国道から左折して脇道に入ると、程なく、志摩線の途中駅としては最後の志摩神明駅が見えてきた。15時5分着。

ルート図:鵜方~志摩神明間
ルート図:鵜方~志摩神明間

志摩神明駅

志摩神明駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道全通時に開業した。1970年3月1日の改軌工事竣工以降、1988年3月6日に鵜方までが複線化、1990年12月8日に賢島までが複線化され、志摩線末端区間の複線化も完了している。

駅は島式1面2線で、ローカル色が濃い無人駅である。

所在地は、三重県志摩市阿児町神明。地名由来の駅名である。

「角川地名辞典 三重県」では、「地名の由来については、江戸期までは神明浦(しめのうら)と呼ばれており、神領目録には記載がないが、浜の一部に注連縄を張って禁漁区とし、そこで採れたナマコを伊勢神宮や伊雑(いざわ)宮へ貢納していたことから「しめのうら」と称したと伝えられる」とある。

江戸期から明治22年までは神明浦村、その後、明治30年までは鵜方村大字神明浦となり、昭和29年までは神明村となった。その後、昭和30年1月1日に阿児町大字神明となっている。

志摩神明駅自体は、里山風情の風景の中にあり、海が近い雰囲気はないのだが、地形図で見ると明らかなように、英虞湾の奥深くに位置していて、かつては、低湿地だったと思わる場所にあたる。実際、駅の裏には海の名残と思われる池が残っていて、志摩電気鉄道の築堤によって、海と切り離された形になっているように思われた。

地形図:志摩神明駅周辺
地形図:志摩神明駅周辺
島式ホームに戻ってローカルムード漂う志摩神明駅
島式ホームに戻ってローカルムード漂う志摩神明駅
賢島行きの普通列車が到着
賢島行きの普通列車が到着
志摩神明駅の駅名標
志摩神明駅の駅名標

到着した志摩神明駅は、人影もなく、静かな佇まいだった。

しばらくすると、賢島行きの普通列車が到着。意外にも数名の降車客の姿があった。志摩市街地からの帰りであろうか。但し、観光客らしい姿の若い女性二人組も下車してきて驚く。賢島ではなく、この駅で下車する観光客が居るのだろうか。

駅の構内の撮影を済ませて戻ると、先ほどの下り列車から下車した女性二人は、上り線で列車を待っていた。どうも、乗り越してしまったということらしい。

「ちゃり鉄」の旅で訪れるローカル駅で、キャリーバッグなどを引く若い女性の姿を見ることは、殆どなく、ごく稀に見かけるとしても、こうした、ハプニング客である場合が多い。

折角の無人駅。これを機会に楽しめばいいと思うが、全く興味もない様子で、自分の趣味とは最も遠いところにいる人種のように感じた。

志摩神明駅は市街地から外れた長閑な田園地帯にある
志摩神明駅は市街地から外れた長閑な田園地帯にある
若い女性が降りてきたが、この駅で引き返すようだ
若い女性が降りてきたが、この駅で引き返すようだ

もう少しのんびりと駅の取材を行いたかったが、若い女性が居る周りを、カメラを抱えてうろつき回っては不審者扱いされそうだし、残すところ賢島駅まで。念願の賢島行き「ちゃり鉄」号の旅を締めくくるべく、志摩神明駅を出発することにした。15時11分発。

賢島駅までは、国道167号線を進むのみ。この国道は賢島島内で終点である。

賢島は、その名の通り、かつては志摩であったが、現在は、2本の橋梁が架橋されており「陸続き」となっている。わが「ちゃり鉄2号」も、細い水道を賢島橋で渡って賢島に入り、緩やかな右カーブを経て、線路が分岐していく様子を、志摩神明第5号踏切から眺めつつ賢島駅に到着した。15時20分着。

ルート図:志摩神明~賢島間
ルート図:志摩神明~賢島間

賢島駅-賢島港~浜島港-磯笛岬展望台

賢島駅

大阪難波駅を出発し、2週にわたり走り続けてきた「ちゃり鉄1号・2号」の旅も、いよいよ、賢島駅に到着した。頭端式4面5線を持つ大型駅で、踏切から眺めるとズラリと並んだ特急列車が壮観である。

賢島駅は、1929年7月23日、志摩電気鉄道の終着駅として開業した。

「阿児町史(阿児町史編纂委員会・2000年)」や、「図説伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・1992年)」によると、当初は、賢島駅までの開業予定はなく、現鵜方駅である鵜方浜を終着駅とする予定であったが、現在の東京急行電鉄の前身である目黒蒲田電鉄幹部からの「参宮客を英虞湾まで誘致しなければ利益が見込めない」という指摘を受け、英虞湾に浮かぶ無人島であったかしこ島まで延伸し、そこに、真珠港駅を設けることにしたのだという。これを契機に、かしこ島は賢島と表記されるようになり、観光開発が始まった。

また、「角川地名辞典 三重県」の「阿児町」の地誌編によると、「志摩電鉄の開通」の項目で、「明治44年に国鉄参宮線が鳥羽まで延長されるや志摩にも鉄道敷設の話がおこった。たとえば国鉄南島線の志摩横断、軽便鉄道を鳥羽~鵜方間に通す期成同盟会などの計画などである。ところが大正12年8月鵜方の森本確也が発起人となり、志摩郡内の町村長とはかって志摩電気鉄道敷設免許申請書を提出した。それによると鳥羽から鵜方村英虞湾に至る鉄道を敷き、鵜方に本社を置くことであった。しかし磯部村の作田久治の反対や、参宮客を誘致するには鵜方浜より賢島が有利であるとの意見も出され、鵜方村は大きく揺れた。このため村当局は、村民感情の緩和を図るため、志摩電鉄に補償金を要求して、ようやく紛糾も集結し、昭和4年7月23日に鳥羽~賢島間に電車が通じた。その後三交志摩線、三重電気鉄道、近鉄志摩線、近鉄賢島線と名称が変わっていった。志摩電鉄は近鉄が買収するまでは地域住民の生活路線であったが、以後は観光路線となってその性格を一変した」とある。

ただし、ここに登場した、近鉄賢島線という呼称は、近鉄の社史などには登場せず、その出典は分からない。

駅の所在地は三重県志摩市阿児町神明である。

「角川地名辞典 三重県」の記述によると、「面積0.68㎢。賢島大橋(全長153m)および賢島橋により本土とつながっている。享保3年の指出帳には「かしこ山」とある。農民が今の賢島橋の下を干潮時、徒で渡っていたので「かちこえ山」と呼び、後に転訛したといわれている。当島は、昭和4年志摩電気鉄道の終点所在地となるまでは、松林とわずかの水田のみの無人島にすぎなかった。電車開通とともに開発が始まり、特に第2次大戦後、伊勢志摩国立公園に指定されてから急速に進んだ」などとある。

もとが無人島であったため、「賢島」という正式な地名はなく、小字一覧では「かしこ」という表記になっている。

「志摩の地名の話」には、この賢島の地名について「この島ははじめカチコエヤマ(徒越山)と呼ばれたが、エとヤとの競合からエが消えてカチコ山となり更にカシコ山に転訛したのであろう。もと耕地があったということが往来に関連した言葉を地名にまで推薦するに効果的な推進力となったと考えなければならぬ。それを賢などという文字に代えてしまったことは後人の徒らなさかしらに過ぎない」と記している。

私自身もそうであったが、賢島が徒越山の転訛だと認識する観光客は如何ほど居ることだろう。

地形図:賢島駅周辺
地形図:賢島駅周辺

さて、この賢島を一大観光地に仕立て上げた志摩電気鉄道当初の開業区間のうち、貨物駅として開業した真珠港~賢島間は、1969年7月1日、同年12月10日から開始された改軌工事に先立って廃止されたが、これは、狭軌から標準軌への改軌に伴って、国鉄参宮線への貨物列車の乗り入れが不可能になるためであった。

1970年3月1日には、村野藤吾設計による現行駅舎が完成し、1993年9月21日には、現在の頭端式4面5線ホームが完成している。

以下に示す3枚の引用図は、「伊勢志摩の歴史」、「八十年史」、「百年史」に掲載された志摩電気鉄道の賢島駅の建設当時の写真、建設途中の近鉄賢島駅や、改良工事の概要、旧ホーム時代の様子である。志摩電気鉄道の駅建設当時の写真を見ると、ここが芝刈り山に過ぎなかった時代の面影が感じられる。

私が初めて賢島駅を訪れたのは、小学生低学年の時代だった。曾祖母に連れられて憧れの「ビスタカー」に乗って訪れた賢島駅は、現在の頭端式ホームに改良される前で、年代的に「百年史」に掲載されたのと同じ構造だったはずだ。

写真は残っていないが、おぼろげな記憶の中の賢島駅は、確かに、この写真のような構造だったように思う。

引用図:建設中の志摩電気鉄道賢島駅「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:建設中の志摩電気鉄道賢島駅
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:建設中の賢島駅「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:建設中の賢島駅
「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)」
引用図:賢島駅改良工事「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:賢島駅改良工事
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

さて今日の賢島駅。隣接する志摩神明第5号踏切からは、4面5線の賢島駅を見渡すことができる。現在駅は南側の1番線から4番線までが特急・団体専用ホームで、北側の5番線が普通列車の専用ホームである。

駅舎としては、南口、北口を兼ね備えているが、志摩観光の拠点としては北口が玄関口として機能しており、大型バスの発着も可能なロータリーが整備されている。南口は志摩電気鉄道時代からの駅であり、現在の南口に隣接して旧駅舎が職員詰め所として残されている。駅前は賢島港に続く観光店舗街である。

駅は傾斜地に設けられており、南口は一段下がった所にある。かつての普通列車専用ホームは、この一段下がった所に設けられていたのだが、現在は、その跡地に高架の1番線2番線が設けられており、旧線時代の面影はない。

いよいよ、終着駅の賢島に到着
いよいよ、終着駅の賢島に到着
志摩観光の中心駅らしく立派なつくりの賢島駅
志摩観光の中心駅らしく立派なつくりの賢島駅
旧駅舎に隣接した賢島駅南口はローカルムード
旧駅舎に隣接した賢島駅南口はローカルムード

賢島駅のホームには、頻発する特急列車が常時数本停車しており、ファンの心をくすぐる。

「ちゃり鉄2号」での到着時は、「ビスタカー」2本、「しまかぜ」2本が停車中だった。

この前年の2015年10月に、「しまかぜ」に乗車して訪れた時は、2本の「しまかぜ」と2本の「伊勢志摩ライナー」が停車しており、スター勢揃いといった様子であった。

「しまかぜ」は、京都、難波、名古屋と賢島とを結ぶ3系統が運転されているが、この賢島駅では、3系統が並ぶ光景は見られない。イベント時には見られるようだが、日常の風景としては、2本が居並ぶといった感じである。

そうであったとしても、やはり花形特急。

ホームに停車しているだけで様になる。

この日は、「ビスタカー」も停車していて、憧れの姿を目に焼き付けることができた。近年は、賢島行きの「ビスタカー」の運行も減っているし、この記事の執筆に前後して、2021年8月7日には、12200系特急のラストランが催される。バリアフリーや多国籍対応など、近年の需要から考えれば、「ビスタカー」とて、安泰ではない。

いずれ、「ビスタカー」にも引退の日がやってくることは分かっているが、その前に一度、賢島行き「ビスタカー」の旅を堪能したいものである。

普通列車よりも特急列車の発着の方が多い賢島駅
普通列車よりも特急列車の発着の方が多い賢島駅
居並ぶ特急列車は壮観
居並ぶ特急列車は壮観
出発を待つ「しまかぜ」とビスタカー
出発を待つ「しまかぜ」と「ビスタカー」
近鉄志摩線・賢島駅(三重県:2015年10月)
2015年10月の訪問時は、「しまかぜ」と「伊勢志摩ライナー」が並んでいた

さて、大阪難波駅から賢島駅を目指した、「ちゃり鉄1号」、「ちゃり鉄2号」の旅は、ひとまず、この賢島駅到着をもって、完結する。もちろん、「ちゃり鉄2号」の旅では、この後、志摩半島を周遊して鳥羽に戻るまでの1日余りの行程が控えているが、賢島駅が節目になることには違いなく、この先のルートは、「途中下車前途」ということになる。

ここまでの走行を振り返ると、まず、近鉄公式の営業キロ数として、難波線2.0㎞、大阪線108.9km、山田線28.3㎞、鳥羽線13.2㎞、志摩線24.5㎞で合計176.9㎞の行程であった。それに対し、「ちゃり鉄1号」、「ちゃり鉄2号」での該当区間の走行距離は、合計で222.3㎞となった。結構、迂回距離があったことを実感する。

さて、賢島駅で居並ぶ「しまかぜ」や「ビスタカー」を撮影した後は、この日の野宿予定地である浜島温泉に向かう。

五知駅での駅前野宿の予定を変更し、賢島駅まで進むと決めた段階で、予め調べておいたのは、あご湾定期船の浜島航路の時刻だった。

英虞湾には、志摩マリンレジャーが運営する定期航路が2ルート就航しており、今回の旅ではそれらに乗船する予定にしていた。2ルートのうちの1ルートは賢島港~間崎島~和具漁港を結ぶルートで、もう1ルートは賢島港~御座漁港~浜島港を結ぶ航路だ。

このうち、浜島航路は1日3往復+浜島~御座の1往復で、運行本数が少ないが、時刻表を調べると、16時5分賢島港発、16時30分御座漁港発、16時40分浜島港着という便があり、これに乗船できれば、17時前といういい時間帯に浜島港に到着することができる。

ちゃり鉄の旅ならではの楽しみの一つが、こうした中小航路への乗船で、自動車やバイクでの旅では、この楽しみ方はできない。

五知駅から先に進むと決定した段階で、この便に乗船できるように賢島港に到着することが必要となったのだが、幸い、15時20分賢島着という具合に、良いダイヤで走行することができた。

賢島港まではほんの数百メートル。かつてあった真珠港駅跡までの探索もしたいところであったが、旅の実施当時、その予定は組んでおらず、賢島駅の取材を終えた後は賢島港に向かい、船の到着まで、港周辺をのんびり散策することにした。賢島駅15時28分発。賢島港15時30分着。

賢島港

さて、賢島港は観光汽船乗り場といった風情で、桟橋1本に、数隻の小型船が係留されているだけのこじんまりとした港だ。桟橋には1隻の船が係留されており、これが、私の乗船する浜島航路の船であった。乗員の姿もなく、乗船開始はまだ先のようだ。

少し離れたところには英虞湾クルーズの観光船乗り場があり、観光客は全員そちらに向かう。この定期船乗り場を訪れる人の姿は無い。

ここは、それらの観光客向けの航路ではなく、先志摩の住民が、海を渡って賢島駅から近鉄に乗る、そのための航路であり港であるといった風情である。

しばらくすると、和具航路の船が到着し、桟橋のもう一方に着岸した。数名の下船客が居たように記憶している。

現れた船員に、自転車の扱いを聞いたところ、そのまま積み込めばよいとのこと。荷物を取り外したりする手間が掛からなくてよかったが、積み込みは大変そうでもある。

行き止まりの賢島港の奥に鮮やかなカラーリングの小型船が居並ぶさまは、何となく、近鉄の賢島駅の風景と似ているように感じた。

以下に掲載したモノクロの写真は、 「志摩の地名の話」 に掲載されていた、かつての賢島港の写真で、近鉄賢島駅も旧駅時代だったと思われる。

賢島港に係留中の和具航路定期船
賢島港に係留中の浜島航路定期船
自転車はこのままで乗船する
自転車はこのままで乗船する
英虞湾定期船賢島港の風景
英虞湾定期船賢島港の風景
引用図:賢島港「志摩の地名の話(中村精貳・伊勢志摩国立公園協会・1951年)」
引用図:賢島港
「志摩の地名の話(中村精貳・伊勢志摩国立公園協会・1951年)」

さて、これから乗船するあご湾定期船は、正式には志摩マリンレジャー株式会社が運行するあご湾定期船のことを指す。賢島~御座~浜島航路と、賢島~間崎~和具航路があり、それぞれ、35分から40分、25分程度の所要時間である。

浜島航路は一日3往復と御座~浜島間の1往復、和具航路は9往復の運航となっている(平成22年2月1日改訂の時刻表)。

会社名としてマリンレジャーを名乗っているように、鳥羽湾やあご湾で観光船の運行を主に手掛ける企業であるが、その中にあって、あご湾定期船は地元の方のための足として、ローカル輸送も行っている航路である。ただ、近年は観光利用以外に地元民の利用も殆どない状態だったようだ。

かつて、志摩半島一円には、湾内の小集落や外海に面した岬の小集落を結ぶ航路がいくつか運行されていた。穴川駅のところで触れた穴川~的矢~三ケ所~渡鹿野の巡行船もその一つであったが、道路交通網の整備とともにこれらは衰退し、離島を結ぶ航路以外は、ほとんど残っていない。

そんな中で、あご湾定期船には賢島港を発着する2ルートが運行されていたので、「ちゃり鉄2号」ではこれらにも乗船し、船旅を楽しむことにしたのである。

以下に示すうちの上の写真は、「近鉄百年史」に掲載された賢島駅と賢島港の写真であるが、賢島港の湾奥にあるのが定期船乗り場で、湾口にあるのが観光船「賢島エスパーニャクルーズ」の乗り場である。

賢島港の話が「近鉄百年史」の中に登場するのには理由があって、それは、志摩マリンレジャーという会社が、近鉄グループに属するからなのである。

写真の下の図表は「近鉄百年史」掲載の海運会社の沿革図である。

引用図:賢島駅と賢島港「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:賢島駅と賢島港
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:海運会社の沿革「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」
引用図:海運会社の沿革
「近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)」

ここに掲載されているのは、近鉄グループが関与した、若しくは、関与している海運会社の履歴であるが、志摩マリンレジャーは1927年4月15日に設立された真珠湾交通株式会社に起源をもち、その後、企業合併などに伴って、志摩航運株式会社、志摩観光汽船株式会社、志摩勝浦観光汽船株式会社、近鉄志摩観光汽船株式会社、を経て、志摩マリンレジャー株式会社に至っている。図表には、さらに細かい経緯が掲載されているが、ここでは割愛する。

穴川航路が志摩観光汽船によって運行されていたことは既に述べたが、近鉄グループの海運事業はこれらにとどまらず、勝浦方面や伊勢湾に進出した時期もあるし、もっと驚くのは、四国、九州界隈のフェリー事業にも資本参加しており、うち、国道九四フェリーに至っては、現在も、資本参加が続いている点である。近鉄という企業グループの経営領域の広さがよく分かる。

ただ、これらの海運事業は、鉄道事業以上に経営が難しく、全国的に見ても衰退の流れが激しい。

近鉄グループにしても、伊勢湾フェリーや四国の汽船会社に関しては譲渡しており、規模は縮小している。折しも、この記事を執筆している2021年には、9月30日付であご湾定期船の浜島航路が廃止されることとなっており、再乗船は果たせぬまま、また一つ、ローカル航路が消えていくことになる。元々、利用者が減少していた中、コロナウイルスの蔓延がとどめを刺したようだ。

この「ちゃり鉄2号」での乗船は、貴重な機会となった。

さて、賢島港では、和具航路を行く「おくしま」が出港していくところであった。

バックして港内で方向転換し、船首を港外に向けたら、ゆっくりと進んでいく。水しぶきを巻き上げての高速運行をするわけではなく、湾内をのんびりと航行していくという感じで、出港していった。この便に、乗客の姿は見えなかった。

観光船の発着を眺めたりして時間を過ごしながら、賢島港内を散策し、澄んだ湾内を眺める。

小学生時代の私は、曾祖母に連れられて憧れの特急「ビスタカー」に乗って賢島を訪れたはずだが、その時、恐らく、この湾内を散策したはずだ。しかし、どこをどう歩いたのかは思い出せなかった。あの日、毒クラゲのカツオノエボシを見付けた港内には、別の種類の小さなクラゲが、ふわふわと水中を舞っているのが見えた。

出港する船は一旦バックして方向転換する
出港する船は一旦バックして方向転換する
間崎島経由で和具港に向かう定期船を見送る
間崎島経由で和具漁港に向かう定期船を見送る
港外に向かって航行していく定期船
港外に向かって航行していく定期船
港内には、他にも数隻の定期船が係留されていた
港内には、他にも数隻の定期船が係留されていた

これから乗船する浜島航路は、英虞湾奥の無人島や岬を縫って湾口の御座漁港に寄港した後、湾口を横切って浜島港に達する航路である。

かつては、御座、浜島間に奥志摩フェリーが就航し、英虞湾一周を車で行うことも出来たのだが、1967年から1989年の20年余りの運行で廃止されている。ちなみに、国道260号線は御座から海を渡って浜島へと続いており、現在も、一部地域で見られるように、フェリーが国道の代わりとなっていた。フェリー廃止の理由は、台風によって座礁した船体を修復することが出来なかったからだという。

ルート図:賢島~御座港~浜島港間
ルート図:賢島~御座漁港~浜島港間

程なくして、出港の時間を迎えた。16時5分発。

乗船したのは私一人。

自転車を後部甲板に積み込み、船室の上にある展望デッキに上がり、貸し切りクルーズの状態で、賢島港を出港する。浜島航路の船は「おおさき」号であった。

先に出港していった「おくしま」号と同様、港内で方向転換して船首を港外に向けたら、ゆっくりと進んでいく。港外で多少加速したものの、のんびりとした速度で進んでいくのは、却って、心地よい。

湾内は、湖のようでもあるが、昔、地理の教科書でならった「リアス式海岸」の言葉を頭に思い浮かべながら、多島海の眺めを楽しむ。至る所に真珠養殖の筏やブイが浮かんでおり、船は、それらの間を縫って進んでいくのだが、時折、こんな近い位置を進むのかと思うくらい、接近することもある。

水面下の様子は分からないし、海図といったようなものの見方や、航路標識の知識もないのだが、操舵する船員にとっては、通いなれた道なのであろう。

浜島航路の定期船に乗船し、賢島港を後にする
浜島航路の定期船に乗船し、賢島港を後にする
この日の浜島航路の乗船客は自分一人だった
この日の浜島航路の乗船客は自分一人だった
港外に向かって方向転換が完了
港外に向かって方向転換が完了
真珠養殖の筏の合間を縫って、英虞湾内を航行する
真珠養殖の筏の合間を縫って、英虞湾内を航行する
湾内の随所に養殖の部位が浮かんでいる
湾内の随所に養殖のブイが浮かんでいる

出港して間もなく、前方に見えていた横山島と多徳島が近づいてくる。

「シマダス(日本離島センター・1998年)(以下、「シマダス」と略記)」によると、横山島は「賢島の南400mの海上に浮かぶ小島。民宿旅館を営む1世帯5人が住む。島への行き来は電話をすれば自前の船ですぐ迎えに来てくれる。島までは約1分の船旅だ。「石山荘」は、奥志摩ならではの「離島の風情」がただよい、ふるさとへ帰った気分でくつろげるアットホームな憩いの宿。伊勢志摩の中にあって知る人ぞ知るちょっとした穴場だ」とある。面積は0.06㎢。多徳島は「賢島の賢島港の南約0.7㎞、あご湾内にある面積0.04㎢の無人島。…中略…かつては「田どく山」と呼ばれていた。明治26年、真珠王・御木本幸吉がこの島に本真珠養殖研究所を設立し、3年後には半円真珠の特許を得た。同32年、農商務大臣曽禰荒助が、当時真珠養殖で脚光を浴びていた御木本真珠養殖場を視察の折に現島名にするよう指導したという。十数年前まで国立真珠研究所の臨界実験所が置かれていた。またキャンプ場が設置され、小中学生を対象としたキャンプ訓練が行われていたこともある」という。

地形図:多徳島・横山島周辺
地形図:多徳島・横山島周辺

横山島の石山荘は、航路からもよく見えており、一度宿泊してみたいと思わせる光景であったが、多徳島の施設は、航路から見て反対側に位置しており、直接見ることはできない。ただ、横山島から送電線が伸びていて、多徳島にも何らかの施設がある様子がうかがえた。

「伊勢志摩の歴史」には、明治40年頃の多徳島の様子が掲載されており、真珠養殖の研究施設が何棟も建っている様子が見える。位置関係的に、横山島からの撮影ではないかと思う。

「志摩の地名の話」には多徳島について「明治以後田徳島が多徳島と改まり(時の農商務大臣曽禰荒助の命名という)我々の村では警官と一部の教員しかヨウフクを着ていなかった時代に、この島でかつかつたる撞球の響が聞かれたのはまことに驚異に値する事象ではあった。しかしこれはあくまでも一個の事業場としての発展にすぎなく、事業の方針に従って浮沈興亡する運命をはじめから担っていた。だから事業の重点が大崎に移ると、もとの島には徒らに夏草が生い茂ってただ昔の夢の跡をしのぶよすがとなっている」とある。

引用図:明治40年ごろの多徳島「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:明治40年ごろの多徳島
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

多徳島の西側の水道を回り込んでいくと、前方には集落を伴った島影が見えてくる。あご湾内の架橋されていない有人島としては最大の間崎島である。間崎島については、明日、和具航路に乗船する際に寄港する予定だが、島に関する記載も、その折に触れることにしよう。

間崎島の島影の向こうには、遥か遠くに白いアーチ状の建造物が見える。これは、志摩パールブリッジで、丁度、その橋の下をくぐった奥に和具浦の船乗り場がある。

旅館のある横山島(左)と多徳島(右)
旅館のある横山島(左)と多徳島(右)
英虞湾外に向けて、多徳島の北側を回り込む
英虞湾外に向けて、多徳島の西側を回り込む
間崎島を回り込むと、遠くに、志摩パールブリッジが見えていた
間崎島を回り込むと、遠くに、志摩パールブリッジが見えていた

「さきしま」は間崎島の西湾上を進んでいくが、ここまでくると、進行方向右側は合歓の里などのある志摩半島本土、左側は先志摩が横たわる風景になる。行く手遥かには、御座岬も見え始めた。

先志摩の先端には御座の集落と御座漁港が英虞湾に面して立地し、その奥に、少し離れて烏帽子のような形をした岬が突き出ている。この突端の最高所は標高85.2m。三角点が位置して黒森と書かれている。明日は、和具港に渡った後、御座岬も巡ることになるが、今日は海上からその姿を眺める。

「ちゃり鉄」の旅では、鉄道沿線から途中下車して岬を巡るのも大きな楽しみの一つである。岬の突端まで鉄道が通じているということは稀なので、探訪するなら自転車が必須だ。しかし、岬を巡るとなれば、当然、陸の上から海を眺めることになるので、こうして、海の上から陸を眺めることができる機会は珍しく、それが、定期船の上からとなると、全国的にも数少ない。

御座

眺めるうちに、御座漁港がぐんぐん近づいてきて、「さきしま」号も徐行体制に入った。漁港を取り囲むようにして防波堤があり、その先端には赤色の灯台がある。灯台の色は決まっていて、海側から見て右側が赤色で赤色発光、左側が白色で緑色発光となっている。従って、目に入った赤色灯台は、それが、港の右手にあたることを示しているわけだ。

港内に入ると、かつてのフェリー乗り場跡に着岸する。現在は小さな漁港といった風情で、ここからカーフェリーが運航していたとは信じがたいが、跡地ははっきりとフェリーの乗り場が存在していたことを示していた。

陸の上には係員が一人いて、綱を引っ張って着岸作業を行っていた。ここから乗船してくる客は居ない。港には釣り人が居て、この船を見ている人も居る。珍しく客が居ると思っていたのだろうか。

港の外を見渡せば、遥か、志摩の山並みが英虞湾の向こうに横たわっている。今回は、高い位置から英虞湾を見下ろすことが出来なかったが、次回、この辺りを訪れる時には、2~3泊して、じっくりと回ってみたい。

長閑な漁港風景を眺めているうちに出港。賢島港と同様に、港内で旋回して出発する。波止場の上では、釣り人がこちらを眺めていた。

地形図:御座岬・御座漁港周辺
地形図:御座岬・御座漁港周辺
行く手には英虞湾の港外と御座岬が見えてくる
行く手には英虞湾の港外と御座岬が見えてくる
御座岬を背にした御座漁港が近づいてきた
御座岬を背にした御座漁港が近づいてきた
沖合いから眺める御座漁港
沖合いから眺める御座漁港
漁港という言葉がぴったりな御座漁港内
漁港という言葉がぴったりな御座漁港内
御座漁港の浜島航路乗り場
御座漁港の浜島航路乗り場
漁船が係留され波止場に釣り人の姿が見える長閑な風景
漁船が係留され波止場に釣り人の姿が見える長閑な風景
英虞湾と志摩の山並みを見晴るかす
英虞湾と志摩の山並みを見晴るかす
かつて浜島港を結んでいたフェリー乗り場の跡を見ながら出港
かつて浜島港を結んでいたフェリー乗り場の跡を見ながら出港
突堤には釣り人の姿が見える
突堤には釣り人の姿が見える

御座漁港の外に出ると、左手はもう英虞湾外で外海の太平洋である。広い海原の向こうに陸地は無く、進めば黒潮が流れる沖合いに出て、本土からは離れていく一方だ。

この辺りでも漁業用のブイは至る所に浮かんでいて、船は、器用にそれらの合間を縫って進んでいく。

御座漁港から対岸の浜島にある矢取島まで、直線距離で2㎞に満たない。

航行時間も10分程度だし、走れば、10分かからない。

見る見るうちに浜島の陸地が近づいてきた。

港外に出ると、すぐそこは、太平洋が広がる
港外に出ると、すぐそこは、太平洋が広がる
湾口のこの辺りにも漁業用施設が至る所に見られる
湾口のこの辺りにも漁業用施設が至る所に見られる
ブイの合間を縫って航行
ブイの合間を縫って航行

浜島

浜島港の入り口には、矢取島があり、島の上には浜島灯台がある。この浜島灯台が英虞湾の左入口、御座岬灯台が英虞湾の右入口の灯台である。そのため、浜島灯台は、漁港の防波堤突端の灯台とは異なり、外洋に向けた大型のものである。

なお、御座漁港と呼び、浜島港と呼ぶ場合、漁港と港は何が違うのか?と疑問を抱くが、これは、単なる呼称の違いではなく、港湾施設を所管する省庁の違いであり、根拠法令の違いということになる。すなわち、漁港は「漁港漁場整備」法に基づいて整備が行われ農林水産省管轄であるのに対し、港は正確には港湾で「港湾法」に基づいて整備が行われ国土交通省管轄となる。漁港は漁業従事者の船舶が占用するのに対し、港湾は漁業以外の船舶も利用するため、一般に港湾の方が規模が大きく、浜島港は三重県内では唯一の避難港にも位置付けられている。

確かに、街の規模も港の規模も、浜島港の方が大きい。

以下に示すのは、「伊勢志摩の歴史」に掲載された昭和初期の浜島港の様子であるが、この時既に大型の港町を形成しており、志州四箇津として鳥羽、安乗、越賀と共に江戸時代頃から反映していた。

引用図:昭和初期の浜島港「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」
引用図:昭和初期の浜島港
「図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年)」

ただし、旅客航路の需要ということで言えば、浜島港から御座漁港を経由して賢島港に至る旅客需要はほとんどないと思われる。なぜなら、陸続きで国道が走り、車で容易に到達できるからだ。

従って、浜島港を発着するあご湾定期船は、御座漁港との間の往復利用を対象としたものであろうし、夕方の一往復が浜島~御座間の区間運行なのも、それを反映したものであろう。

とはいえ、この日、御座漁港からの乗船客は居なかったので、そういう利用も、殆どないのが現実ではないかと思われる。

地形図:浜島周辺
地形図:浜島周辺

港の入り口にある矢取島と浜島灯台を回り込むと、浜島の街を眺めつつ港内に入った。間もなく、あご湾定期船の旅も終わる。ここで、これまで探索していなかった船内を取材するが、そうは言っても、船室と後部甲板を撮影すれば、それで終わりだった。

船室は、やはり船旅だけあって、ソファも備えたゆったりしたものだったが、乗客の姿は無く、操舵士が一人、舵を操っているだけだった。

後部甲板には、プラスチック製のベンチも置かれていて、自転車なら数台を乗せられる余裕があった。

琵琶イチ、淡イチなど、一周サイクリングの有名コースもあり、淡イチにいたっては、明石港から岩屋港までの旅客船に、数十台の自転車が積み込まれることもあるくらいだが、ここでは、そういう光景もない。志摩イチと称して近鉄特急でのアクセスとともに売り出せなかったものかと思いもするが、やはり、それは難しいことなのであろう。

矢取島と浜島港灯台
矢取島と浜島港灯台
陸繫島になった矢取島を回り込んで浜島港に入港
陸繫島になった矢取島を回り込んで浜島港に入港
他の乗客の姿もない船内
他の乗客の姿もない船内
ベンチが備え付けられた後部甲板
ベンチが備え付けられた後部甲板
自転車は後部甲板に原形積載できた
自転車は後部甲板に原形積載できた

浜島港に到着し下船する。16時40分着。

こちらも、フェリー乗り場の跡が残っていたが、港に人の姿は無く、営業所のように見える建物も閉鎖され、係員はいなかった。御座行の出港は16時45分。到着して数分後には出港するのだが、客が現れることもなく、無人の「おおさき」号は、御座漁港に向かって出港していった。

我が「ちゃり鉄2号」は、浜島港にて一休みする。

浜島は「角川地名辞典 24 三重県」の記述によれば、「地名の由来は地形にちなむという」とあるが、「志摩の地名の話」によると、「浜島の由来については御座村旧記に神功皇后御座に御幸の時、この地の士高円が白米(誤植ではない)を献じたので爾来飯米島(はまじま)と呼ぶようになったとある」という説も紹介されている。尤も、著者自身が、「地名にはこういう類の話がつきものでその構造はどこでも大同小異である。醇朴な我々の祖先は文字通りの浜島、この平明率直な名で十分満足していただろうと思うのである」とも述べており、同感である。

さてこの浜島では、温泉も湧いており、入浴する予定である。温泉を探しながら出発することにした。浜島港16時50分発。

フェリー乗り場の跡が残る浜島港に上陸
フェリー乗り場の跡が残る浜島港に上陸
浜島航路もまた海のローカル線だった
浜島航路もまた海のローカル線だった