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ちゃり鉄2号:2日目(東青山駅-伊勢中川駅=賢島駅-賢島港~浜島港-磯笛岬展望台)
東青山駅-伊勢中川駅
東青山駅
翌朝は、空が白み始める黎明の時刻に起き出す。
この日は、近鉄志摩線の五知駅まで進む予定である。出発は5時半頃を予定しているので、起床は4時としていた。昨夜遅かったこともあり、眠気が強かったが、青い大気の底で眠りの中にある東青山駅を見ながら、出発の準備に取り掛かる。
気が付くと、昨夜の男性が、昨夜見かけた時と同じ身なりで、ベンチに座って、こちらを眺めていた。野宿をする装備なども持っていない様子だったので、一晩、着の身着のままで辺りを彷徨いていたのだろうか。一瞬、驚いたが、気付かないふりをして片付けをしているうちに、姿が見えなくなった。旅をしていると、色々な人に出会うものだ。
黎明の青い時間は、直ぐに明けていく。5時頃になると、すっかり明るくなった。空はどんよりと曇っている。もしかしたら、一雨あるかもしれない。
今回の旅でも、我が家は愛用のテント・エアライズ1である。この日は、オプションのカヤライズにデラックスフライ仕様とした。登山などではノーマルフライを使うことになるが、ちゃり鉄の旅であれば、広い前室を確保できる、デラックスフライが使いやすい。
この日は、雨も予想されたのでカヤライズのみの青空テントではなく、フライシートを被せることにしたのだが、幸い、夜中に雨に降られるということはなかった。
風雨の恐れはなかったので、張り綱なども特に使用せずに、地面に置くだけの状態で一夜を過ごした。その為、片付けも直ぐに終わった。
荷物を片付けて、自転車に積み込んだ後は、四季のさとの敷地をしばらく、散策してみることにした。
昨夜は遅くになってから到着し、直ぐにテントを張ったので、敷地を十分に見ることもできなかったからだ。
小綺麗に整備された公園の敷地は広大で、出発前の時間で、全体を見て回ることはできなかったが、敷地には、この付近を通っていた旧線の跡も残されているので、旧線を辿る「ちゃり鉄」を運転する時には、この辺りを再訪することにもなるだろう。
駅に面した敷地の階段を少し上がると、駅を見下ろすくらいの高さになった。
駅は、ホームの照明は点灯しているものの、駅舎の方は消灯していて、まだ、夜明け前の雰囲気だったが、しばらくしてからガラガラと音がした。その音で駅の方を見ると、職員が駅舎正面のシャッターを開き、照明を点灯しているところだった。
東青山駅は、客扱いということでは無人駅であるが、折返し列車が運転されることもあり、運転上の要員が配置されている。この時刻に業務を行うということは、当直業務なのであろう。
少し散策をして、体のウォーミングアップも出来たところで、出発することにする。
自転車に戻り、荷物の積載状況を確認した後、始業した駅の正面で写真を撮影してから、東青山駅を出発する。
近鉄が公表している「駅別乗降人員(平成30年11月13日(火)調査)」によると、東青山駅の乗降人数は37人で、近鉄全駅の中で、西青山駅に次いで、2番めの少なさである。それ故か、早朝の駅前に乗客の姿は見えず、集落からはなれた駅付近まで散歩に訪れるような地元の人の姿も見えなかった。
移転前の東青山旧駅は、「ちゃり鉄1号」のレポートでも記したように、信号場としての性格が強い駅であった。当時の近鉄大阪線は単線区間も多く、東青山旧駅も、西青山旧駅との間に、単線の旧青山トンネルがあり、その前後に位置する信号場として機能していたのだ。そのため、開業当初から、駅の周辺に民家はなかった。
複線の新青山トンネルが開通した現在は、西青山駅とともに移転し、信号場としての機能は必要なくなったが、トンネル内での事故対応などのため、管理拠点としても位置づけられているようだ。私鉄の駅であるにも関わらず、民家から離れているのには、そういう経緯がある。
深夜から早朝までの一夜であったが、次にこの駅を訪れる時は、大阪線の廃線跡探訪を含めて、もう少し時間をかけて探索してみたいと思う。
写真を撮影した後、出発することにした。
件の男性は、その後、姿を見ることはなかった。乗り過ごして、引き返すことも出来なかったのかと思ったが、そうでもなかったようだ。
5時35分、東青山駅発。
駅構内に留置されている工事用車両を横目に見ながら、一路、伊勢中川駅を目指す。その距離は20kmほどで、先週走ったばかりの各駅を通過しながら、回送列車然として走り抜けること65分で、伊勢中川駅に到着した。平均時速20km程度であるが、荷物満載の「ちゃり鉄」での走行スピードとしては、快走である。
伊勢中川駅、6時40分着。
伊勢中川駅=松阪駅
伊勢中川駅
伊勢中川駅まで来ると、いよいよ、伊勢路に足を踏み入れるという気分になる。伊勢中川駅については、「ちゃり鉄1号」の紀行で詳細に書いたので、ご参照いただきたい。
ここでは、その紀行で触れていなかった、地名の由来について、「角川日本地名大辞典 24 三重県(以下、「角川地名辞典 三重県」と略記)」の記述を引用しておきたい。
伊勢中川駅の所在地は、現在地名では、三重県松阪市嬉野中川新町となっているが、参宮急行電鉄の駅として開業した1930年5月18日当時の周辺自治体は、一志郡中川村といった。
この中川村に関して、「角川地名辞典 三重県」の記述を見ると、「明治22年~昭和30年の一志(いちし)郡の自治体名。小川村・野田村・黒田村・見永村・宮古村・天花寺(てんげいじ)村・平生(ひろ)村の7か村が合併して成立。旧村を継承した7大字を編成。はじめ古代の小河郷から小川村と命名したが、のち中村川流域であることにより中川村と決定し、村役場を小川に設置」とある。
「中村川」流域にあるから「中川村」としたというのは、面白い決め方であるが、ややこしくもある。ただし、中村村というのもおかしいし、小川村よりも中川村の方が、「小」より「中」で格上に感じられたのであろうか。
以下に示すのは、国土地理院地形図であるが、伊勢中川駅の南西から北に向かって流れているのが、中村川である。旧村を継承した7大字のうちのいくつかは、現在地名にも残っていることがわかる。
なお、昭和30年、中川村は嬉野町の一部となり、「村制時の7大字は同町の大字に継承。その際小川は中川と改称」とある。この嬉野町が、松阪市他の自治体と合併して、松阪市を再構成することになったのは、2005年1月1日のことである。それに伴い、現在地名は、嬉野〇〇町、という形式になっているのがわかる。
嬉野町自体は、佐賀県嬉野町と1989年11月に姉妹都市提携を結んでいる。
また、伊勢中川駅の北西にある中川短絡線の分岐地点は、それぞれ、宮古分岐、黒田分岐と呼ばれているが、地形図を見ると明らかなように、これは、その分岐点の地名に由来するものである。
さて、今日は、ここから、山田線、鳥羽線、志摩線という3つの路線を走りつないで行くことになるのだが、実際のところ、近鉄路線としては、途中で分岐する路線があるわけでもなく、1本につながった路線で、賢島までつながっている。
それならば、わざわざ、3つの線路名称を使わなくても良いような気もするが、ここに、敢えて、3つの線路名称が用いられているのは、各路線の建設史の中に、その理由がある。
詳細は、文献調査記録に記すことにして、ここでは概略を留めることにするが、まず、これから進行する、山田線について触れておこう。
山田線は、「ちゃり鉄1号」の中でもまとめたように、1930年3月27日、近鉄の前身である参宮急行電鉄(以下、参急と略記)によって松阪駅~外宮前(現宮町)駅間が開業したのが、その始まりである。
その後、同年5月18日に、参急中川(現伊勢中川)駅~松阪駅間、9月21日に外宮前駅~山田(現伊勢市)駅、1931年3月17日、山田駅~宇治山田駅間が開業し、参急中川駅~宇治山田駅間の全線が開通した。営業キロは28.3kmである。但し、建設当時から山田線だった訳ではなく、当時は、桜井駅~宇治山田駅間を結ぶ「参急本線」としての位置付けであった。
参急は、その名が示すとおり、大阪から伊勢神宮へ旅客を輸送することを目的に設立された鉄道会社で、大阪電気軌道(以下、大軌と略記)の子会社である。
この参急本線が、現在の山田線となったのは、参急と大軌とが合併し関西急行鉄道(以下、関急と略記)が発足した1941年3月15日のことである。この際、参急中川駅は伊勢中川駅と改称された。
以下に示すのは、「近畿日本鉄道 100年のあゆみ(近畿日本鉄道・2010年)(以下、百年史と略記)」に掲載された、関急発足前の路線図である。この頃、まだ、鳥羽線は存在せず、志摩線は志摩電気鉄道という別の会社であった。そこだけ見ると志摩電気鉄道は志摩半島にポツンと孤立して存在した鉄道のように見えるが、実際には、この図に掲載されていない国鉄参宮線が既に鳥羽まで開業しており、志摩電気鉄道は、鳥羽で国鉄と連絡する狭軌の鉄道だったのである。
また、山田線の沿線には、松阪電気鉄道や伊勢電気鉄道、合同電気などと言った、今は存在しない鉄道会社線も多数存在していた。これらの路線については、「ちゃり鉄2号」の旅を進めながら、折に触れて、振り返ることにしよう。
6時50分、伊勢中川駅発。
伊勢中川駅から先、宇治山田駅に至る山田線沿線は、伊勢平野の集落をつないで走る為、アップダウンもなく、走りやすい。3.3km。10分の走行で、次の駅が見えてきた。
7時、伊勢中原駅着。
伊勢中原駅
伊勢中原駅は、1930年5月18日、参急本線参急中川駅~松阪駅開通時に、参急中原駅として開業した。相対式2面2線構造で、2005年2月21日までは、有人駅であった。駅舎には、有人時代の痕跡がはっきりと残っている。2021年現在の所在地名は、三重県松阪市嬉野津屋城町である。
駅の名前というのは、その駅が所在する地名に因むものが多い。しかし、地名は不変ではなく、市町村合併などによって、変わることがある。ちゃり鉄のレポートをまとめ始めてから気が付いたのだが、市町村合併によって駅の所在地名と駅名が一致しなくなったケースというのは、結構多いように思う。
さて、この伊勢中原駅にしても、開業当時は、参急中原駅と言う名称であった。「参急」が「伊勢」となったのは、伊勢中川駅と同様、参急と大軌の企業合併による関急発足に伴うものであったので、市町村合併によるものではない。しかし、中原の部分は、会社が変わっても変更されておらず、周辺地名由来なのか?と考えられる。
そこで、国土地理院の地形図を調べてみることにする。以下に、国土地理院の地形図を掲載する。
ここに示した国土地理院の地形図を見ると、駅名のすぐ上に、「嬉野津屋城町」という地名が見えており、伊勢中原駅が「嬉野津屋城町」にあるということは、直ぐに理解できるのだが、地図に載っている範囲に、「中原」という地名が見当たらない事に気が付く。
これはどうしたことであろうか?もしかしたら、この駅名は、地名由来ではないものなのだろうか?
こうした場合、やはり、地名辞典を紐解く必要が出てくる。そこで、「角川地名辞典 三重県」を調べてみることにしよう。
そうすると、過去に中原村という自治体が存在したことがわかる。以下、その記述を引用する。
まず「明治22年~昭和30年の一志(いちし)郡の自治体名。田村・黒野村・津屋城村・須賀領村・算所村の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。村役場を田村の中瀬古に設置。始め田城野(たきの)村と命名したが、のち伊勢平野の中心地にちなみ中原村と決定した」とある。
また、「昭和4年地内を国鉄名松線、同5年参宮急行電鉄が開通し、津屋城に伊勢中原駅を設置」とある。伊勢中原駅は、参急中原駅の誤りであるが、駅開業当初、この周辺は、中原村という自治体だったということが分かる。
ここで登場した名松線は、上の地形図では、伊勢中原駅の西を走っている路線で、現在のJR名松線である。地図には、権現前という駅名が現れている。伊勢中原駅の東を走っているのは、JR紀勢本線である。同じく、六軒という駅名が現れている。この辺りは、鉄道路線の密度が高い地域で、かつては、これ以外に、伊勢電気鉄道(以下、伊勢電と略記)の路線も、伊勢神宮を目指して、紀勢本線の東側を走っていた。
さて、この中原村は、1955(昭和30)年、嬉野町の一部となり、村政時の5大字は、同町の大字に継承された。更に、2005年に至って、嬉野町が松阪市に吸収合併されたことにより、現在の、「嬉野〇〇町」という字名が生まれたのである。
普段、殊更に意識することはないかもしれないが、駅名には、その地域の歴史が詰まっているように思う。
伊勢中原駅のホームに立って眺めていると、名古屋行きの急行が通過していく。
山田線は、大阪方面、名古屋方面と、伊勢志摩方面とを結ぶ列車が運行されており、列車の運転本数は極めて多い。急行が通過していったのも束の間、今度は、賢島行きの普通が到着し、同時に、大阪上本町行きの特急が通過していった。伊勢中原駅に停車するのは普通列車のみだが、この辺りの普通列車は、2両編成で運転されていることが多いようだ。
駅の周辺は、田畑が広がる中に、住宅が点在している。私が駅を訪れた時は、子供を含む数名が、賢島行きの普通列車の到着を待っていた。
普通列車が出発してしまうと、駅には人の姿が無くなった。駅名標を撮影したりするために、駅の中を一人、うろつく。駅には構内踏切があり、上下線の間を行き来することが出来る。近鉄幹線のローカル駅は、相対式2面2線構造の駅が多いが、その中でも、構内踏切を備えた駅というのは、ローカル色が強い印象を受ける。
ひとしきり、駅の構内を散策した後、出発することにする。
7時9分発。
伊勢中原駅からは、一旦、近鉄山田線から離れ、東に進む。JR紀勢本線を渡り、伊勢街道に出たら、そこから街道沿いに南進。三渡川を渡り、市街地の中をジグザグに進んで、県道756号線に出ると再び南進。松ヶ崎駅を跨線橋で渡ってから、橋の下にある松ヶ崎駅に到着した。7時22分着。駅間距離は、4.3kmであった。
松ヶ崎駅
松ヶ崎駅は、相対式2面2線、普通列車のみが停車するローカル駅で、2013年12月21日に無人化されている。駅を斜めに跨ぐ跨線橋が印象的ではあるが、それ以外は、地味なローカル駅の様に感じられる。しかし、この駅は、大変興味深い歴史を持っている。
駅の開業は1930年5月18日。参急本線参急中川~松阪間開通時に開業した。開業時は、参急松江駅を名乗っていて、駅の位置は、現在位置より、0.4km、松阪駅寄りにあった。
開業当時、この付近に、伊勢電という鉄道路線があったことは、伊勢中原駅の所で述べたとおりだが、その伊勢電の路線は、1930年4月1日、参急本線の開通のひと月前に、津新地~新松阪間が開通しており、現在の松ヶ崎駅の位置で、参急本線と立体交差していた。但し、この伊勢電には、立体交差地点付近に、駅は設けられていなかった。以下に示すのは、「百年史」に掲載された1930(昭和5)年当時の、伊勢電気鉄道の路線図である。
伊勢電は、地元資本として、参急の伊勢進出に対抗する経営戦略を採っていたのだが、結局、競争には破れ、1936年9月15日、参急の傘下に入るとともに、参急名古屋伊勢本線となった。
そうなると、同じ参急の路線が、現在の松ヶ崎駅の位置で、立体交差することになる。そのため、参急では、立体交差する位置に、参急本線、名古屋伊勢本線の乗換駅として、松ヶ崎駅を設けるとともに、参急松江駅は廃止した。1937年11月3日のことである。参急松江駅を別の駅と考えるなら、松ヶ崎駅の開業は、1937年11月3日という方が、正確になろう。
その後、関急発足、近畿日本鉄道発足を経て、1961年1月22日、伊勢電に起源を持つ近鉄伊勢線は廃止され、参急本線から改称されていた山田線の単独駅となったのである。以下には、現在の地形図と、それに重ね合わせた鉄道路線図、更に、1937年12月28日発行の旧版地形図を掲出している。それぞれの図幅は少し違う位置だが、対比して見ることが出来て、興味深い。
こうしてみてくると、私が、松ヶ崎駅に到着する前に通ってきた県道756号線は、松ヶ崎駅の位置で山田線と立体交差していることから、伊勢電の廃線跡ではないか?という疑問が湧き上がるが、これは、実際その通りなのである。鉄道を斜めにオーバークロスする道路、という特異な立体交差は、これらが、かつて、別々の鉄道路線であったことの名残なのである。
ところで、鉄道路線同士が立体交差する時、後から建設された路線が先に建設された路線を跨ぐのが普通である。松ヶ崎駅では、伊勢電の廃線跡が山田線を跨いでいるので、伊勢電の方が後から建設されたということになるが、先に述べたように、開業は、伊勢電の方が、ひと月あまり早かった。
つまり、路線そのものの敷設は伊勢電の方が後だったが、開業は伊勢電の方が早かったということになろう。何となく、参急に対する伊勢電の対抗意識が感じられる。
伊勢電起源の近鉄伊勢線に設けられた松ヶ崎駅は、高架上にホームが設けられていたようだが、「ちゃり鉄2号」の旅の中では、その痕跡を確認していなかった。今後、伊勢電跡を走るちゃり鉄号で、是非とも確認したいと思う。
地名と駅名についても確認しておくと、やはり、この松ヶ崎、松江という地名も、現在の地形図には、その痕跡が残っていない。「角川地名辞典 三重県」で調べてみると、明治22年~昭和29年まで松ヶ崎村が、明治22年~昭和23年まで松江村が、それぞれ存在していたことが分かる。松ヶ崎の村名は、この村を構成した松崎浦、松ヶ島、三渡の三村域の古称でもある松ヶ崎や、中心部である松崎浦の通称を取ったものだと言う。松崎浦というように、松ヶ崎村の中心部は、三渡川に沿った伊勢湾沿岸地域であった。
伊勢電は、松ヶ崎に駅を設けなかったが、松江駅を設けていた。参急が開通当初に設けた駅も参急松江駅であったことを考えると、鉄道開業当時は、現在の松ヶ崎駅付近よりも、松江村域の方が発展していたということであろう。
松ヶ崎駅を探索してみる。
無人化された駅は、上下線それぞれに改札口があり、駅のすぐ南側にある松ヶ崎第1号踏切によって、上下線の間を往来することが出来る。
踏切から駅を眺めると、伊勢電の手による路線跡を転用した県道が、斜めに駅をオーバークロスしている様子が、印象的である。折しも、松阪方面に向かう通勤・通学客の姿が散見された。
駅の構内で、駅名標などを撮影していると、まず、宇治山田行きの普通列車が到着した。そして、普通列車が出発し、その姿が、まだ、線路の向こうに消えないうちに、後続の鳥羽行き急行が、徐行しながら駅を通過していった。しばらくすると、今度は、名古屋行き特急が通過していく。やはり、幹線路線の山田線だけあって、列車の往来が激しい。
ひとしきり撮影を終えて、松ヶ崎駅を出発する。7時32分発。
松ヶ崎駅からは、国道166号線に沿って、松阪駅を目指すことにした。
廃線跡である県道を進み、西側から松阪市街地の松阪城跡や本居宣長旧邸を経て、松阪駅に至るルートを走ってもよかったと、後付けで感じているが、「ちゃり鉄2号」の走行当時は、最短ルートを取っていた。
市街地を貫通する交通量の多い国道を進み、標識に従って右折すると、松阪駅に到着する。7時43分着。
松阪駅=明星駅
松阪駅
松阪駅は、この地域の中心都市である松阪市の玄関駅であり、JR紀勢本線の松阪駅と共に、特急も含めた殆どの列車が停車する、主要駅の一つである。近鉄とJRの駅は、それぞれ、隣接しており、相互に乗り換えが可能な構造となっている。
近鉄が2面3線なのに対しJR側は3面4線で、発着番線だけで見ると、JRの松阪駅の方が大型になっているが、発着本数や旅客需要を見ると、圧倒的に近鉄優位である。但し、路線そのものの歴史でいうと、JR松阪駅は参宮鉄道時代の1893年12月31日、近鉄松阪駅は参急時代の1930年3月27日の開業で、40年近く、JR路線の方が古い。
JRの起源には参宮鉄道、近鉄の起源には参宮急行電鉄、という鉄道会社が存在していたことから分かるように、この松阪を通過する鉄道路線は、「参宮」を目的としていた。参宮とは、勿論、伊勢参りのことである。
更に、この松阪駅付近には、今では廃止された鉄道路線も合わせて、多くの鉄道路線がひしめいていた時代がある。
以下に示すのは、松阪周辺の広域地形図で、マウスオーバー若しくはタップ操作で、1930年当時の鉄道路線を表示できるようにしてある。実線は現役路線であるが、近鉄は前身の参急で、JR紀勢本線はまだ国鉄参宮線だった。
点線は廃線である。伊勢電本線が市街地の西側を通って伊勢市方面に伸びており、現在の地図では、車道に転用されていることが分かる。この他、いわゆる路面電車の松阪電気鉄道が、松阪駅を挟んで、北東と南西に路線を伸ばしていた。
松阪が交通の要衝だったということがよく分かる。
ここで、松阪という地名について、「角川地名辞典 三重県」の記述をもとに振り返ってみよう。
「「まつざか」ともいい、古くは松坂とも書く。…中略…地名の由来は、天正年間に当地に築城した蒲生氏郷が、蒲生家が隆盛を誇るところから松の字を吉祥とし、また豊臣秀吉の大坂城の坂を賜ったことにちなむという(三重県の城)。江戸期の文献においても、松阪と松坂の混用が見られるが、「松阪近代略史」によると、大坂が大阪になったことを例にしながら近代以降松阪にしたと言う。また、「まつさか」か「まつざか」かについては、現在、交通関係や電信電話関係でもそれぞれに使用されているが、市としては、「まつさか」を用いることになっている(松阪市史)」
現在の松阪市域は、西の台高山地から東の伊勢湾岸までを含めた広大な地域を含んでいるが、1889年4月1日に、松坂城下の旧町村を中心とした松阪町が発足したのが、「松阪」という地名の始まりである。その後、1933年2月1日に市制を施行し、現在に至るまで、周辺市町村の編入や広域合併によって、その市域が拡大している。
松阪と言えば、現在では、「松阪牛」を思い浮かべる人が多いであろう。また、歴史好きなら、本居宣長を挙げるかもしれない。しかし、「ちゃり鉄」の興味としては、この松阪に至る鉄道敷設の歴史的経緯について、述べておきたい。
この松阪に達した鉄道としては、既に述べたように、現在のJR紀勢本線や参宮線の前身に当たる、参宮鉄道の敷設が最も古く、1893(明治26)年12月31日のことであった。津~宮川間開通に伴うもので、松阪は中間駅の位置付けであった。この参宮鉄道は、その後、1906年3月31日に公布された、鉄道国有法によって国有化が決定し、1907年10月1日に買収され、国鉄参宮線となっている。
この鉄道国有法は、その第一条において「一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス、但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニ在ラス」と規定しているとおり、幹線の国有主義を規定しているのだが、鉄道国有化の是非から路線選定、買収価額や買収年限の決定、財源等、多岐にわたる議論が紛糾し、史上初の乱闘国会を経て議決された法律である。
参宮鉄道に関しても、第22回帝国議会の議事速記録を見ていると、「一地方の交通を目的とする鉄道に過ぎない」として、国有化に反対する意見が出ているのだが、最終的には買収対象とされている。
ところで、この参宮鉄道及び参宮線について、「最長片道切符の旅(宮脇俊三・新潮社・1983年)」に、以下のような記述がある。
「9時10分に多気を発車すると、左へ参宮線が分かれて行く。幅の広い複線用の道床であるが、線路は片側一本しかない。戦争末期、鉄材供出のために単線にされ、そのままになっているのである。それにしても、戦前は参宮線を複線にするだけの客があったのだ」
「参宮」需要がそれだけの規模であったことを伺わせる話である。
実際、参宮鉄道は、1906年12月には、山田~鳥羽間の延長を申請、1907年1月には、複線化と電化の認可を受け、4月には複線化に着工、7月1日には、山田~鳥羽間の延長を免許されている。
しかし、ここで、疑問を抱かないだろうか?
何故なら、先に述べたように、参宮鉄道は、1906年3月の鉄道国有法によって、国有化が決定しているのである。にもかかわらず、路線延長や複線化・電化が、その決定後に、相次いで免許・認可されているではないか。これは、どうしたことであろう。
これについて「日本鉄道史 幕末・明治編(老川慶喜・中央公論新社・2014年)」に興味深い記述があるので、引用したい。
「私鉄買収にあたっての問題は、買収価額の決定方法であった。…(中略)…私鉄各社は益金割合が五パーセントをこえていれば、買収日までの新投資が確実に利益を生むことになったため、一斉に新投資を行って建設費を増加させようとした。清水啓次郎『交通今昔物語』は、この様子を「そこで各鉄道は盛んに増設工事を始めたもので、…(中略)…総武、関西、参宮の各鉄道会社も皆、複線を敷設する。…(中略)…まるで火のついた様な騒ぎ」であったと活写している」
同書によると、建設費の増加率では参宮鉄道の増加率が最も高く、49%であったとある。
つまり、参宮鉄道の複線化というのは、参宮需要に対応するための設備投資ではなく、国有化が決定したことを受けた、買収価額釣り上げのための設備投資であったということである。それ故に、戦争末期、鉄材供出という暴政施行に及んで、惜しげもなくレールを剥がしたのであろう。
鉄道国有法の議論が紛糾したという経緯が暗示するように、ここでは、投資対象としての鉄道という存在が浮かび上がる。国土全体の大局的な交通政策が、利権や私利私欲によって歪曲されていくというプロセスは、明治の昔から令和の現代に至るまで、何ら変わることなく、連綿と続いているように思う。
さて、参宮鉄道や参宮線の話が長くなったが、参急や伊勢電の伊勢進出は昭和初期の話で、明治時代の鉄道国有法の議論とは、直接、関与しない。その代わり、大正末期に制定された改正鉄道敷設法の予定線決定のプロセスが、密接に関連してくる。そして、この改正法で規定された予定路線を根拠とした国鉄名松線が、私鉄である参急や伊勢電と、対比されることになるのである。詳細は、文献調査記録で述べることとして、ここでは、簡単にまとめておきたい。
上に示したのは、「百年史」掲載の「桜井・宇治山田間の路線図(昭和6年)」の引用図である。
これを見ると分かるように、参急の親会社であった大軌は、桜井から高見峠を経て山田に至る路線計画を申請していた。しかしながら、大軌は目論見通りに免許を得られず、代わりに、大和鉄道が桜井~名張~山田間の免許を取得した。そこで、大軌は、子会社の参急を使って、大和鉄道の取得した免許の獲得を狙い、大和鉄道を傘下に収める戦略をとったのである。参急が免許を譲り受けたのは、1926(大正15)年6月14日のことであった。
一方、改正鉄道敷設法の公布は1922年(大正11年)4月11日のことであり、その別表一覧第81号において、「奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道 及名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鉄道 並榛原ヨリ分岐シ松山ヲ経テ吉野ニ至ル鉄道」が予定された。
この前段、「奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道」を根拠として、敷設が開始されたのが、国鉄名松線である。名は名張、松は松阪に由来する路線名であった。当初は、その法律の条文のとおり、桜井と松阪を結ぶことを意図して櫻松線と呼ばれていた。
この名松線は、1929年(昭和4年)8月25日の松阪~権現前間の開業を始まりとして、その後、延伸開業を繰り返していくことになり、1931年(昭和6年)9月11日には、上の図にもあるように、家城駅まで延伸開業している。
しかしながら、この段階で、既に、参急が桜井~宇治山田間を開業しており、名松線の建設意義は失われた。それでも、延伸工事は続けられ、1935年(昭和10年)12月5日には、家城駅 – 伊勢奥津駅間が開業している。そして、そこで、延伸工事はストップし、以後、存廃議論を繰り返しながら、現在に至るのである。
歴史的うんちく話が長くなった。「ちゃり鉄2号」の旅に戻ろう。
松阪駅前は、人の往来も激しく、有人駅でもあるので、駅の構内に立ち入るのは避けて、構外から眺めるだけとなったが、運転本数の割に島式単式2面3線と小さな駅であるため、列車の発着は頻繁である。
駅に隣接する松阪第1号踏切からは、緩やかな曲線に設けられた松阪駅の構内を遠望できた。
ここでは、先輩のJR松阪駅に寄り添う形で、後から、近鉄の松阪駅が設けられたため、近鉄の駅は、JR側の敷地境界に併せて、湾曲する形で設けられているのである。
構内の探索が出来ないため、松阪駅の滞在時間は、わずかとなった。7時46分発。
松阪から東松阪までは、JRと近鉄とが、3複線のように寄り添いながら進んでいるのだが、線路沿いに進む道は無いため、一旦、交通量の多い国道・県道に迂回しコの字を描くようにして進む。
2.5km走って、7時59分、東松阪着。
東松阪駅
東松阪駅は、1930年3月27日、参急本線の松阪~外宮前(現宮町駅)間開通時に開業した、相対式2面2線のローカル駅である。2013年12月21日に無人化されており、2014年2月21日には構内踏切が廃止され、宇治山田方面に向かう1番線側に、東口が新設された。元々、駅に隣接して、すぐ隣に、東松阪第1号踏切があるため、利用者の便宜を図る意味で、構内踏切を廃止して、車道踏切の両側に入り口を設けたということである。2番線側には駅舎があり、構内踏切が廃止されるまでは、こちらが入り口だった。
駅は三重県松阪市大津町久地にあるが、駅名としては、松阪の東という位置関係を反映した駅名と思われる。地理院の地形図には東松阪という記載があるが、特に、「角川地名辞典 三重県」には、そのような地名の記載はなかった。
なお大津町に関しては、「金剛川支流の名古須川流域に位置する。古くは「おおち」といったが、のちに「おおつ」と称するようになった(飯南郡史)。地名の由来は、往古は海浜に位置していたためという(松阪の町の歴史)」という記述がある。
なるほど、現在では、伊勢湾岸から数キロ内陸に位置するものの、東松阪駅付近より下流側の地域は水田が多く、かつては低湿地や海面だったということが、推測される。
地形図で見ると明らかなように、松阪駅からここまで並走してきたJR紀勢本線と近鉄山田線は、この東松阪駅付近から、袂を分かち、離れていく。JRと近鉄の踏切は、それぞれ、100m弱の距離を隔てているものの、お互いの踏切から相手の踏切を見渡すことが出来る。なお、地図はマウスオーバーやタップ操作で切り替えが可能である。
JRの踏切を眺めに行くと、丁度、名古屋行きの快速「みえ」が通過していくところだった。
なお、松阪駅と東松阪駅との間は、近鉄の営業距離で1.6kmであり、東松阪駅付近にJRの駅は設けられていない。JRの次駅は徳和駅で、松阪駅との間は3.0km離れている。地形図では、この徳和駅のすぐ南をオーバークロスする車道が描かれているが、これは、伊勢電の廃線跡である。
東松阪駅に戻り、駅名標などを撮影していると、直ぐに伊勢中川行きの普通列車が到着し、入れ違いで、宇治山田行きの急行が通過していく。
山田線に入って、各駅ごとに、同じような行き違い場面を見ている気がする。それだけ、山田線の運転密度が高いということで、並行するJR線と比べて、多い時では、3倍以上の運転本数となっている。
8時8分、東松阪発。
東松阪から櫛田までの駅間距離は3.9km。近鉄山田線の中では最長である。「ちゃり鉄2号」は近鉄山田線に沿って走ることが出来ないため、一旦、県道37号線側に迂回する。この県道は、近鉄山田線の北側を走っているのだが、櫛田駅に近づくと南南東に進路を変えて、駅の西側で近鉄山田線をオーバークロスするため、櫛田駅には駅の南側からアクセスする4.7kmのルートとなった。8時21分着。
櫛田駅
櫛田駅は、相対式2面2線の駅であるが、その2線の間に、上下各1線ずつの複線の通過線を持っている。この他、下り線側には、工事車両用の留置線もある。
通過列車は、この、ホームのない主本線を駆け抜けていき、駅に停車する普通列車は、本線からポイントを渡ってホーム側の副本線に停車する。
このような構造になったのは1992年3月12日のことで、同時に地下駅舎化されている。
山田線の旅では、これまで見てきたように、ほぼ、一駅ごとに、列車の停車や通過に巡り合っている。その一方で、非常に運転密度の高いこの路線にあって、東松阪駅と櫛田駅の間は、駅間距離が最も長い。
となると、この辺りに、追い抜きが可能な待避線を持った駅を設けないと、普通列車のために、後続の優等列車が徐行を余儀なくされることもありえる。
櫛田駅の構内構造の改良は、普通列車の最大編成(4両)対応の目的もあったようだが、それらに併せて、高速化工事も行ったということであろう。
折しも、「ちゃり鉄2号」の停車中に、その通過線を名古屋行きの12200系特急が通過していった。旧塗色の12200系特急だったが、2021年2月12日に引退した車両で、今ではもう、見ることは出来ない。
さて、この櫛田駅であるが、開業は1930(昭和5)年3月27日で、参急本線松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。
現在の所在地は、三重県松阪市豊原町である。
ここで、地形図を見ると、ふと、疑問を抱く。櫛田駅の東北東には、「櫛田町」という街があるにも関わらず、所在地は、南南西に示された「豊原町」となっているのである。
どうして、豊原町にあるのに櫛田駅を名乗ったのであろうか?
そこで例によって「角川地名辞典 三重県」の記述を追ってみる。
それによると、豊原町も櫛田町も、昭和42年以降の松阪市の町名であると記されているのだが、それ以前は、いずれも、「明治22年~昭和42年の大字名。はじめ櫛田村、昭和32年からは松阪市の大字」となっており、駅が設置された昭和5年当時は、櫛田町も豊原町も、櫛田村の大字だったことが分かる。元々、江戸期から明治22年まで、櫛田村、豊原村が存在しており、それが、明治22年に、他の清水、菅生(すぎう)、上七見の各村も併せて櫛田村となり、旧村名が大字に転化したのである。その後、櫛田村は昭和32年まで存続したものの、その後、松阪市に併合されて、現在に至るわけである。
つまり、櫛田村豊原に櫛田駅が設けられたというのが、設置当初の経緯ということになろう。その後、櫛田村が消えて、櫛田、豊原の大字だけが残ったため、現在のように、地名と一致しない駅名ということになったわけである。
なお、地名の由来として、櫛田は「竹首(たけのおびと)古志比古の本領として竹田の国といわれていたところ、倭姫命巡行の折に、櫛を落としたことにちなむという(倭姫命世紀)」とある。豊原については地名の由来は述べられていないのだが、「かつて参宮街道の宿駅でもあった」とあり、豊原の名のごとく、こちらの方が栄えていたようだ。
それ故か否かはわからないが、現在の近鉄山田線の南側にある豊原町内には、かつて、伊勢電本線が走っており、上櫛田の駅が設けられていた。設置は、参急本線の櫛田駅の設置と同年の1930年のことである。
街道沿いの宿駅として栄えていた町に、村名を冠した玄関駅が設けられたのである。
以下には、それらの位置関係を示した国土地理院地形図を掲載する。マウスオーバー等の操作で、切り替えられるようになっている。
櫛田駅の東側にある、櫛田第一号踏切から構内の撮影をして、8時27分、櫛田発。
ここからは、南東に進んで櫛田橋で櫛田川を渡り、その後、東寄りに進路を変えて近鉄の線路に近づきつつ、集落の中を走り抜けて、漕代駅に当着する。8時36分着。
漕代駅
漕代駅は、1943年10月23日、関急山田線に新設開業された駅である。相対式2面2線のローカル駅で、2005年2月21日は無人化されている。この無人化と同時期に、構内踏切を廃止した上で、下りの1番線側にも入口が新設された。
従来からの駅舎は上りの2番線側にあり、駅舎前には、多少の車寄せ空間がある。
かつては構内踏切を備えていたようだが、駅のすぐ東側には、漕代第一号踏切があり、構内踏切を廃止しても問題はなさそうである。
駅に到着した時には、鳥羽行きの普通列車が、構内撮影中には、伊勢中川行きの普通列車が、発着した。伊勢中川行きの普通列車の行き先方向幕は、「中川」となっていた。
しばらくすると、今度は、大阪上本町行きの「ビスタカー」が通過していった。
やはり、「ビスタカー」は格好がいい。
さて、漕代駅は、三重県松阪市稲木町にあり、やはり、ここでも、漕代の地名は、地図上には現れていない。
「角川地名辞典 三重県」によれば、「平安期に見える郷名」とあり、由来の詳細は分からないが、古い地名ではある。その後、「明治22年~昭和30年の自治体名。…(中略)…村名は、はじめ川中村と内定したが、再検討の結果古代の郷名にちなみ漕代村となる(町村分合取調書。役場は早馬瀬に設置」とある。
関急時代の昭和19年に駅が設置されているから、既に、何例も見てきたように、駅設置当時の旧自治体名を冠した駅名だったことが分かる。
なお、この漕代駅付近の近鉄山田線の南側でも、伊勢電本線が並行していて、役場が設置された早馬瀬付近に、漕代駅を設けていた。その辺りの対比図を、以下に示した。
地元資本の伊勢電は、どちらかと言うと、旧市街地を結んだ線形で路線を敷設しており、名阪から伊勢直通を企図していた参急は、伊勢直達の線形で路線を敷設していたように感じられる。
漕代駅、8時46分発。
漕代駅から斎宮駅までは、祓川を渡る他は、街道沿いの集落を淡々と走る形で進み、1.5kmを4分で走り抜けて、8時50分、斎宮着。
斎宮駅
斎宮駅は、相対式2面2線構造の駅で、1930年、参急本線松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。現在の駅舎は1992年に建て替えられたもので、2001年には第三回中部の駅百選にも選定されている。斎宮跡の玄関口であるが、2013年12月21日に無人化されている。史跡に面した駅の北側に、史跡公園口が開設されたのは、2015年3月19日のことであった。
駅の所在地は、三重県多気郡明和町大字斎宮で、松阪市域から多気郡域に入った。
駅名・地名が一致しているが、その由来は、駅の北にある史跡・斎宮跡にある。
この斎宮について、「角川地名辞典 三重県」では、「斎王宮跡」として記述されており、「古代・中世の宮殿・官衙遺跡。…(中略)…歴代天皇の即位ごとに、天照大神の御杖代として伊勢神宮に奉仕する斎王のために設置されたもの…」とある。
斎宮の何たるかを語るには浅学に過ぎるし、この紀行の趣旨からもずれるので深入りはしないが、簡単に述べておくなら、天皇の代替わりの際に置かれて、天照大神の意を受ける依代として、伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女(斎王)が仕えた宮のことで、鎌倉中期まで続いたという。
この斎王宮跡の広がりは、以下の地形図に示す通りで、斎宮駅の北側300mにある「斎王の森」を中心として、東西2km、南北700mに及ぶ。
さて、この斎宮駅は、伊勢平野の小集落を結んで、淡々と伊勢神宮を目指す近鉄山田線にあって、観光的要素を持った数少ない駅で、駅舎もそういう意図を反映したものとなっている。
元々の駅舎自体は、斎宮とは反対の南側にあり、これは、周辺集落が、近鉄の線路よりも南側にあることを反映していると思われるが、北口に史跡公園口が設置されて、休憩所も設けられている。この休憩所は、地元の明和町の手によるものである。
南口と北口の間には構内踏切があるが、駅自体は無人化されているので、歩行者向けの一般踏切と同じ機能を果たしているとも言える。
私は南口から駅にアプローチしたので、構内踏切を渡って、北口を見に行ったり、上下線ホームをブラブラしたりしながら、構内を探索してみる。
駅の構内そのものは、標準的なローカル駅で、普通列車しか停車しないが、探索中に、宇治山田行き普通列車が発着し、さらに、下り急行・上り特急がすれ違った。
漕代駅付近まで近鉄山田線の南1km弱のところを並走してきた伊勢電本線には、近鉄山田線の斎宮駅の南西に、南斎宮という駅が設けられていたが、山田線は斎宮駅の1kmほど西側から、進路を少し、北寄りに変えるため、少しずつ、伊勢電の廃線跡から遠ざかっていく。
駅構内の探索を済ませたら、明星駅に向けて出発する。9時発。
ここから明星駅までは、近鉄山田線に沿う県道428号線をそのまま東進するのだが、明星駅付近で集落内の小道に入るポイントを逸して、一旦、逆戻りするような形で明星駅に到着。9時12分。
明星駅=宇治山田駅
明星駅
明星駅は、1930年3月27日、参急本線松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。島式2面4線の大型駅であるが、普通のみの停車である。但し、駅に隣接して明星検車区・明星車庫があるため、当駅発着の普通列車の設定がある。
駅の所在地は三重県多気郡明和町大字明星である。
駅名は地名に因むと思われるが、「角川地名辞典 三重県」の記述によれば、明星の地名は「上野の安養寺境内に明星が降りてくるといわれる明星水という井戸があり、その名にちなむという」とある。
現在は明和町の大字であるが、明治22年から昭和30年にかけての参急本線敷設当時は、多気郡明星村であった。その明星村を構成した大字の一つが上野で、駅の西側の地域に当たる。その後、明星村は、昭和33年までの斎明村を経て、以降、明和村の大字となったのである。
なお、下には、明星駅から主に東側の地域の地形図を掲げてあるが、駅の南東に、伊勢市飛地、玉城町飛地の表示がある。明星駅は明和町域にあるが、伊勢市、玉城町との境界付近にあり、そこでは、複雑に飛地が絡み合っている。
手元の資料では、ここに存在する飛地の由来について、詳細は分からなかったが、今後の文献調査の課題としておきたい。
また、この辺りでは、伊勢電本線の廃線跡は、飛地がある丘陵地帯の南側を通っており、近鉄からは離れた位置になっている。
車両基地があることもあって、明星駅は有人駅である。駅も規模が大きいため、構内の様子を眺められる場所が少なかったのだが、一旦、斎宮駅側の斎宮第二十号踏切まで戻ってみると、多数の側線を抱えた駅の様子を遠望することが出来た。折しも、入れ替え作業中の回想車両が、駅構内を徐行しながら、行き来しているところであった。
「明星」というきれいな駅名から、かつて国鉄に存在した、寝台特急「明星」を連想するのだが、この寝台特急は、1986年という比較的早い時期に廃止されてしまった。
9時15分発。
明星駅からは、一旦県道に戻る。そのまま、県道を進んで、明野駅の辺りで、集落の中の小道に入ればよかったのだが、途中で県道からそれて山田線を渡り、北側を走って明野駅に到着した。
実際に走っていると、予定したルートよりも良さそうな道が見えたりすることがあるし、地図ではマークしていなかったルートが見つかったりすることもある。工事で、予定ルートを進めないことも意外とある。
そういう時に、アドリブでルート変更しつつも、上手く予定ルートに復帰するためには、事前調査と、読図力が必要になる。
集落を走って、住宅街の中にある明野駅に到着。9時29分着。
明野駅
明野駅は、1930年3月27日、参急本線の松阪~外宮前(現宮町)間開通時に開業した。現在は、複線の通過線を間に挟んだ、相対式2面2線構造の駅であるが、この形になったのは、1992年3月14日のことで、同時に地下駅舎化されている。
駅の構造や改造時期は、既に走ってきた、櫛田駅と酷似しており、両駅は、兄弟駅のように考えられる。
駅の所在地は、三重県伊勢市小俣町明野となっていて、明星駅と明野駅の間で、伊勢市に入っている。
南西に大仏山(標高53m)を従えて、宮川沿いに、伊勢湾岸まで広がる平野は、「角川地名辞典 三重県」の記述によると明野ヶ原と言われる標高5~10mの洪積台地である。宮川に近いものの、水利に恵まれず開発が遅れたため、明治期以降は、桑畑として利用されたと言う。大正13年には陸軍明野飛行学校が開校し、第二次大戦後は、その一部を陸上自衛隊航空学校が使用している。昭和35年から53年にかけて、宮川用水が開削されて圃場整備が進み、現在は、水田化が進んでいるが、まだ畑地も多く、この畑地では、大根(伊勢たくあん)やタバコの栽培が盛んだと言う。
以下に明野駅周辺の国土地理院地形図を示すが、駅の北にある陸上自衛隊明野駐屯地や、周辺に広がる水田記号の中に、畑記号が点在している様が、明野ヶ原の歴史と合致する。
明野駅の周辺は住宅地で、週末の午前9時過ぎとあっては、利用客の姿も少なかった。
駅構内には入らず、明星第16号踏切まで足を伸ばして、そこから、駅構内を遠望する。
折しも、上り普通列車が入線し、下りの特急列車が通過していくところであった。
9時35分発。
明野駅からは山田線の南側の水田地帯を進み、小俣町の市街地に入って、南東から北東に90度進路を変えたら、程なく小俣駅に当着する。9時44分着。
小俣駅
小俣駅は、1931年7月4日、参急本線明野~外宮前(現宮町)間に、新設開業された。相対式2面2線のローカル駅で、2005年2月21日に無人化されている。
駅は、三重県伊勢市小俣町元町にあるが、小俣は「おばた」と読む。
この地名について、「角川地名辞典 三重県」の記述では、「小端・小幡とも書いた。…(中略)…地名の由来については、開化天皇の第2皇子小俣王から名付けられたとも、また外城田川と湯田川の分岐点に位置しているから小俣になったとも、あるいは小墾田から転訛したともいわれ、諸説がある」とある。
以下に示す国土地理院地形図を見ると、小俣駅は、駅の北で分岐する外城田川と、駅の東側を流れる宮川の間に広がるデルタ地帯であることが分かる。
また、駅の南西には、JR参宮線の宮川駅が見えているが、この宮川駅の南に、「離宮院跡」という表示が見える。「角川地名辞典 三重県」によると、「延暦16年伊勢斎宮の離宮院が高河原(伊勢市岩淵町)から当地に遷座して造営されたが、中世末期に衰退し、その土塁跡などが残る」とある。延暦16年とは西暦797年、平安時代のことで、小俣の地名は、平安時代の文献には現れる、古い地名である。
駅は、明野駅と同様に、住宅地の中にあり、週末の午前中とあって、この日は、静かな雰囲気だった。
列車を待つ人の姿はなかったが、程なくして到着した伊勢中川行きの普通列車からは、一人降り立つ客の姿があった。
駅のすぐ西側には県道の跨線橋があり、駅を見下ろしている。
駅東側に隣接した小俣第1号踏切から駅構内を見ると、この跨線橋が対称的な駅ホームの向こうに控えていて、幾何学的な造形に見える。
東に少し離れた小俣第2号踏切から、小俣駅を遠望して出発する。9時51分発。
宮川を渡る近鉄路線に沿って走ることは出来ないので、少し下流にある豊浜大橋を渡り、県道60号線に沿って、南南東に進む。宮川を渡った辺りから、伊勢市街地に入る。10時4分、宮町着。
宮町駅
宮町駅は、1930年3月27日、参急本線松阪~外宮前間開通時に、外宮前駅として開業した。その後、同年9月21日には、外宮前~山田(現伊勢市)間が延伸開通したため、中間駅となった。宮町駅への改称は、1933年3月のことである。
1971年12月には、3番線が設置され使用開始されたが、2006年には撤去されており、現在は、相対式2面2線のローカル駅である。無人化は2018年7月28日のことである。
駅の所在地は、三重県伊勢市御薗町高向(たかぶく)。
御薗町域は、2005年11月1日に伊勢市に併合されるまでは、御薗村という独立した自治体を形成していた。一方、近鉄やJR南側の常磐、曽祢、八日市場といった地域は、宮町町域となっている。
外宮前駅が1933(昭和8)年に宮町に改称されたということは、既に述べたとおりだが、その頃、駅周辺は、御薗村域だったことを考えると、宮町と称した理由が、今ひとつ分からない。それまで、外宮前と名乗っていたため、伊勢神宮を連想しない御薗村の村名ではなく、外宮側の宮町の町名を取ったということだろうか。ただ、御薗という地名も、「往時神領だったことにちなむ」と「角川地名辞典 三重県」には記載されている。この辺りは、市史などを紐解きながら調べる課題としたい。
以下には国土地理院地形図を掲載した。マウスオーバー・タップで、近鉄やJR以外にこの地に達していた、伊勢電気鉄道の路線位置と駅に関する地図に切り替えられるようにしている。
「百年史」の記述を調べてみると、伊勢電による駅設置に関しては、「神域の尊厳を冒す」として、宇治山田市議会の議員を中心に、反対意見が続出し、その選定に当たって、議論が紛糾したことが述べられている。詳しくは、文献調査編で述べることにするが、議論の結果設けられた大神宮前駅の位置を考えれば、当時の国鉄や参急と比較して、かなり、外宮に接近しており、確かに、論争を招きそうな位置である。
但し、一世紀近くを経た現在となっては、その痕跡は車道転換されるとともに、ギリギリまで市街化が進んでおり、「神域の尊厳」とは何なのか?という状態ではある。
さて、宮町駅は?というと、現在は、無人化もされており、かなり、ローカルな駅の印象である。
かつては、宇治山田方面からの列車が、この駅までやってきて、撤去された3番線に停車して折り返していたようだが、既に、その痕跡は取り払われている。終着駅だった期間もあるが、半年に満たない期間であり、元々、外宮への玄関駅として設置する意図はなかったことが分かる。
10時7分、宮町発。
この先、駅間距離は短く、伊勢市駅までは1.4km、そこから宇治山田駅までは0.6kmしか無い。
宮町から伊勢市までは、市街地の中を淡々と進む。宮町、伊勢市、宇治山田と、近鉄はクランク状にカーブを繰り返しながら進む。宮町第八号踏切を渡れば、カーブの先に、JRと近鉄の伊勢市駅が見える。
10時15分、伊勢市着。
伊勢市駅
伊勢市駅は、1930年9月21日、参急本線外宮前(現宮町)~山田(当駅)間開通時に設けられた駅である。駅自体は、JR参宮線の前身である参宮鉄道時代の1897年11月11日に開業しており、参急の開業は、これから30年余り後のことであった。
現在の駅の所在地は、三重県伊勢市吹上一丁目であるが、参宮鉄道の開業当初は、周辺は宇治山田町であった。そのうち、外宮があるのが山田、内宮があるのが宇治であったため、駅名は山田となったのである。
その後、1906(明治39)年には、宇治山田市となり、1955(昭和30)年1月1日に、伊勢市と改称した。宇治山田という地名の決定については、下の引用図に示す通り、市制施行時に宇治、山田のいずれにするか、伊勢を冠した別の名前にするか、等々、議論噴出、紛糾したようだが、「宇治山田共ニ往古ヨリ稱スル著名ノ冠名ニ付、兩稱ヲ合セテ宇治山田ト撰定ス」、即ち、「宇治も山田も、共に、古くから親しまれた地名である」という理由で、決定したという(宇治山田市史 上巻)。
駅名の改称は、これから4年後の1959年7月15日のことである。
以下に示すのは、伊勢市駅・宇治山田駅周辺の国土地理院地形図である。マウスオーバー・タップ操作で、周辺の鉄道路線の概要図に切り替えられるようにしているが、実線は、近鉄、JRといった現存鉄道で、点線は、既に廃止された鉄道である。廃止鉄道については、廃止時の名前としている。
伊勢電本線に起源を持つ関急の路線は、後に、近鉄伊勢線となるのだが、新松阪~大神宮前間は、関急時代の1942年8月11日に廃止されている。また、三重交通の二見線、内宮線は、いわゆる路面電車であるが、宮川電気から伊勢電気鉄道、三重合同電気、合同電気、東邦電力、神都交通と目まぐるしく変遷して、三重交通時代の1961年1月20日に廃止された。
こうしてみると、伊勢市周辺には、相当に鉄道路線が混み入っていた時代があり、神都交通という社名が存在したことでも分かるように、神都と呼ばれるだけの殷賑を極めたということが分かる。路面電車も神都線の愛称で親しまれたようだ。いずれ、その廃線跡を巡る「ちゃり鉄」号を走らせたい。
現在、これらの鉄道路線は整理され、近鉄とJRのみとなっているが、いずれの鉄道会社も、全ての列車が停車する主要駅で、伊勢参りの伝統は、現在も、続いていると見えよう。
なお、地図の下に掲載しているのは「 図説 伊勢・志摩の歴史(伊勢・志摩の歴史刊行会・郷土出版社・1992年) (以下、「伊勢志摩の歴史」と略記)」に掲載された、神都線の路面電車の写真である。私自身は、その現役時代を見たことは無いが、古き良き路面電車の時代が偲ばれる。
さて、伊勢市駅は、JRが島式単式の2面3線、近鉄が相対式の2面2線駅となっている。JR側の敷地は、留置線なども備えた大規模なもので、近鉄とJRとの間を結ぶ跨線橋も、かなり長いものとなっている。この駅の構造は、松阪駅と似ている。
宮町第八号踏切から遠望するJR参宮線の伊勢市駅は、広い構内にポツンと短編成の気動車が停車しているのみで、往時の風格は失われて久しいが、古びた跨線橋は、歴史を感じさせる。
JRの伊勢市駅は伊勢市駅南口に面しており、近鉄の伊勢市駅は伊勢市駅北口に面している。運転本数や旅客需要では圧倒的に近鉄優位であるが、伊勢神宮外宮への玄関口としては、南口に位置するJR駅が適切で、北口は反対方向になる。これは、元々、参急が宇治山田駅を伊勢神宮参拝の玄関口と位置付けており、山田駅は、宇治山田駅開業までの暫定ターミナルとして位置付けていたに過ぎない、ということを反映しているようにも思う。
そもそも、30年以上前に建設された国鉄を跨いで、その駅と伊勢神宮外宮との間に駅を新設するというのは、伊勢電の大神宮前駅建設で巻き起こった賛否両論の議論を見ても分かるように、相当に困難なことであった。それ故に、参急の戦略としては、宇治山田駅を玄関駅として、国鉄駅とは別の位置に建設するのが適切であったのだろう。
近鉄の伊勢市駅前に向かってみるが、全列車が停車する割に駅の造りはコンパクトな印象を受けた。相対式2面2線であるから、というのもあるが、駅舎の作り自体も小ぢんまりとしていて、山田線沿線の普通列車のみが停車するローカル駅と大差ないように感じられた。
10時18分、伊勢市駅発。
いよいよ、山田線最後の区間、宇治山田駅までの0.6km余りである。ちゃり鉄2号では、0.7km。5分間の走行であった。
10時23分、宇治山田駅着。大軌・参急が目指した、伊勢路への路線は、ここで、ゴールである。
宇治山田駅=鳥羽駅
宇治山田駅
宇治山田駅は、1931年3月17日、参急本線山田(現伊勢市)~宇治山田間開通に伴い開業した。山田(現伊勢市)駅の開通の半年後の事である。その後、1969年12月15日の鳥羽線開業まで、40年弱の長きに渡り、終着駅として機能していた。
参急としては、山田駅ではなく、宇治山田駅をターミナル駅として建設し、伊勢神宮参拝の玄関口とするのが最適な戦略であったと述べたが、そのためには、国鉄を跨ぐ必要がある。その為、伊勢市駅の東側で、東北東に進路を取る国鉄参宮線を跨ぎ、南にカーブしながら高架駅に入るという構造を取ったのである。敷地は、1930年に開かれた「御遷宮奉祝神都博覧会」の跡地が利用されたと言う。
高架駅であるということも含めて、当時の参急が威信をかけて建設した駅であるということは、駅の豪奢な作りを見ても分かる。私鉄の駅ではあるが、貴賓室が設けられており、政府要人や天皇の伊勢神宮参拝の際に、乗降駅として利用されているほどである。
この駅の設計は、東武鉄道浅草駅や南海電鉄難波駅を手掛けた、久野節の手によるもので、大正ロマンの雰囲気も残す近代建築だ。2001年12月15に地には国の登録有形文化財に登録され、第1回中部の駅百選にも選定されている。
以下には、伊勢市駅のところで掲載した国土地理院地形図(切替可)を再掲しておく。
ホーム構造は、片面単式・櫛形混在の3面4線高架駅である。櫛形のホームを設けているところが、ターミナル駅らしいが、開業当初から、延伸を意図した構造で建築されており、櫛形の1・2番線が、鳥羽方で行き止まりになっているのに対し、単式を含む3・4番線は、鳥羽方に通り抜けられる構造であった。
参急が駅を開業した当初から、鳥羽方面に延伸する計画があったわけではないが、内宮方面への延伸構想はあったようだ。
この宇治山田駅の開業は、参急や大軌にとって、社運をかけた悲願であった。駅の構造にもそれは現れているが、のみならず、開業当時の祝賀行事の様子などにも、如実に反映されている。
以下に示すのは、近鉄の社史に掲載された開業当時の記録である。最初の3枚は、1990年に発行された「80年のあゆみ(近畿日本鉄道・1990年)(以下、「八十年史」と略記)」に掲載された写真で、4枚目は、「百年史」に掲載された写真である。
1枚目の全通記念のポスターには、「優秀ロマンス・カー連結運轉・煙草ものめ、便所もあります」などと記載されている。また、2枚目は、1931年3月22日に、宇治山田駅前で行われた全通祝賀会の様子で、三重県知事の他、鉄道大臣、逓信大臣の祝辞も披露されるなど、国鉄並みの祝賀会となった。折しも、大軌創業20周年で、この祝賀会は全通と大軌創業20周年を兼ねたものであった。3枚目は、開業当初の宇治山田駅の様子である。駅前はまだ未舗装のように見える。
特筆すべきは、4枚目の写真である。これは「百年史」に掲載されたものであるが、宇治山田駅に停車する特急の向こうに、バスが2台、互い違いの方向で写り込んでいるのが分かる。先にも述べたように、宇治山田駅は開業当初からの高架駅であるが、その高架駅のホームに、バスの姿がある。
「百年史」の記述によると、「当社では、昭和36年4月に宇治山田駅1番ホーム横に高架バスターミナルを設置、特急利用者がすぐに三重急行自動車のバスに乗り換えられるようにするなど配慮した」と言う。駅の開業が昭和6年であるから、これは、その30年後の写真で、1961年のことになる。時代としては、かなり後のことになるのだが、当時は、まだ、鳥羽線開業前であった。
これについて、「志摩地域の観光開発を推進するにあたって、当社の鉄道網には解決すべき問題があった。山田線の終点である宇治山田駅から志摩線の起点である鳥羽駅までの区間では鉄道線を営業していなかったため、志摩方面へはバスで乗り継ぐか、国鉄参宮線を利用せざるをえなかったのである。」と「百年史」には記述されている。
そこで登場するのが、この、1番ホーム横の高架バスターミナルだった。バスは、このターミナル末端の転車台で方向転換し、高架ホームに出入りしていた。バスの転車台というのは珍しい。特急の旅客は、ここで、ホームからバスに乗り換え、鳥羽や賢島方面へと足を伸ばしていたのである。
とは言え、志摩地域の観光開発を目論む近鉄として、当時の三重交通が営業していた志摩線(鳥羽~真珠港間)の路線と、山田線宇治山田駅との間を、他社のバスや国鉄を介して接続させるという状況は、決して望ましいものではなかった。
「百年史」に記載された近鉄の認識について、以下に引用しよう。
「バスでは所要時間や輸送力に限界があり、志摩方面へのスムーズなアクセスを実現するには、宇治山田・鳥羽間を結ぶ当社の鉄道線が必要であった。昭和42年8月、当社は「伊勢志摩総合開発計画」を策定した。これは日本万国博覧会に訪れた多数の内外観光客を伊勢志摩へ誘致するため、この地域の交通体系の確立と観光施設の整備充実を推進する計画であった。当社では伊勢志摩を「万国博第2会場」と位置づけ、特に志摩地域の観光整備に重点を置いた。そして、この総合開発計画の基盤となる鉄道線の整備が、「万国博関連三大工事」の一つである鳥羽線建設および志摩線改良工事であった」
ここで登場した「万国博関連三大工事」とは、「百年史」によると、「近畿日本奈良駅および付近線路の地下移設工事」、「難波線建設工事」、そして、「鳥羽線建設、志摩線改良工事」のことである。難波線については、「ちゃり鉄1号」の紀行の中で触れているので、そちらも参照いただきたい。詳細な文献調査記録は、「ちゃり鉄2号」の紀行の執筆終了後に、「1号、2号」それぞれについて、まとめていく予定である。
以下に示すのは、「百年史」に掲載されている「鉄軌道線の推移(7)」の引用図で、鳥羽線建設直前の時期の近鉄沿線の路線網の概要図である。この時代には、近鉄伊勢線は廃止され、松阪市や伊勢市に張り巡らされていた路面電車網も、大幅に縮小している。高度経済成長期で、車社会への転換が加速していた時期であった。
「ちゃり鉄2号」の旅では、宇治山田駅構内へは立ち入っていないのだが、この前年の2015年には、9月、10月と続けて近鉄全線を巡る乗り鉄の旅を行っていた。
同年10月23日に乗車した、京都発賢島行きの「しまかぜ」の前面展望写真では、宇治山田駅に進入する直前の風景を収めていた。櫛形ホームの2番線に停車する、12200系の顔が、ちらりと写っていた。そのひと月前の9月の旅では、宇治山田駅で乗り継ぎの合間に途中下車したのだが、バス乗り場や転車台などは確認していなかったのが惜しまれる。
宇治山田駅前で、停車中の「ちゃり鉄2号」を写真に収めて、いよいよ、鳥羽線の旅に入ることにしよう。
「ちゃり鉄2号」の当時は、タイヤやスタンド、マッドガード、ペダルなど、細かなところで、今とは違う装備だった。この後、タイヤは耐パンク性の高いシュワルベのマラソン・ツアーに、スタンドもサイドスタンドからセンタースタンドに、ペダルは取外し可能なモデルに、それぞれ変更した。種車のGios Pure Dropも変わっていないが、足回りは、Shimano 105シリーズに変更している。旅の経験を通して、装備を工夫していくのは楽しいのだが、それはそれで、費用もかかるものである。
JR北海道のキハ40系等は、車齢も40年を超えていて維持管理が大変だと言うが、ちゃり鉄号もやはり同じである。
10時33分。宇治山田駅発。
さて、これから進む鳥羽線は、既に述べたように、1970年3月15日開催の万国博覧会開催に向けて、1960年代に入って急ピッチで建設工事が進められた路線で、その開通は万博開幕直前の1970年3月1日のことであった。但し、宇治山田~五十鈴川間については、1969年12月15日に先行開業している。
1967年9月に、鳥羽線敷設免許と志摩線改良工事施工認可が申請され、わずか3ヶ月後の12月23日に鳥羽線の敷設免許、翌1968年2月に志摩線改良工事認可が下りている。
詳細は、文献調査記録で述べることにするが、鳥羽線工事は4工区に分けて進められ、複線規格・暫定単線で開業している。この内、宇治山田~五十鈴川間は1971年12月25日に、五十鈴川~朝熊間は1975年4月11日に、朝熊~鳥羽間は1975年12月20日に、複線化されている。
「百年史」には、この鳥羽線の路線図が掲載されているので、以下に、引用する。池の浦から鳥羽にいたる区間には、多少カーブが出現するものの、朝熊山山麓を直線的な線形で短絡していく鳥羽線のルートが、よく分かる。
宇治山田を出発した、我が「ちゃり鉄2号」は、近鉄が虎尾山トンネル、永代山トンネルを穿って越えていく丘陵地帯の東側を迂回し、五十鈴川に向かうのだが、途中で、左折箇所を間違えて直進してしまい、近鉄を跨いだところで気が付き、引き返す。GPSを装着して走っているとは言え、車のナビゲーションと違い、常時点灯している訳ではないので、時々、進路を間違えることがある。
山田線沿線は、伊勢平野の只中を突き進んできたので、殆ど、アップダウンの無い地形だったが、鳥羽線沿線に入ると、朝熊山を筆頭に、標高500m前後の低い山の山麓を行くようになるので、細かなアップダウンが出てくる。
「ちゃり鉄2号」の進路そのものは、比較的フラットなのだが、そこから外れると、坂道が多くなる。
五十鈴川駅の手前も小さなアップダウンがあり、築堤上のホームと同じくらいの高さから構内を眺めつつ、少し下って、築堤下の五十鈴川駅に到着する。10時43分着。
五十鈴川駅
五十鈴川駅は、既に述べたように、1969年12月15日、鳥羽線の宇治山田~当駅間開通時に開業した。この先、鳥羽駅までの延伸は、1970年3月1日のことである。
駅の所在地は、三重県伊勢市中村町で、島式2面4線、当駅始発終着列車も設定される中型駅である。
下の引用図は、五十鈴川駅で行われた鳥羽線建設・志摩線改良工事竣工記念式典の様子である。近鉄としても、この事業は、伊勢から志摩への進出を果たす意味で、経営上、非常に大きな意味をもっていたことが感じ取れる。左に写っている12200系は、近鉄特急車両型式としては、最多両数を誇った車両で、私が子供の頃は、この形式の特急を頻繁に目にしたものだが、既に引退している。
駅名は、付近を流れる五十鈴川から取られていることは、すぐに理解できるが、その駅名の決定経緯については、地元や伊勢神宮内宮なども関係して、複雑な経緯を辿ったようである。それについては伊勢新聞の記事を主体としたWikipediaの記載に詳しくまとめられているので、以下に引用する。Wikipedia内の伊勢新聞の引用明記はここでは割愛した。
「近鉄側は、当駅の近くの地名「古市」から古市口駅の駅名を予定していた。その後開業直前の1969年(昭和44年)11月となって、駅名を内宮前駅(ないくうまええき)にしようとした。近鉄には古市駅(大阪府羽曳野市)があり、混同を避けるという意味合いもあった。
しかし、駅名を内宮前とすることにより伊勢神宮へ参拝する客のほとんどが伊勢神宮の外宮前(げくうまえ)の駅(伊勢市駅および宇治山田駅)を素通りして直接内宮に行ってしまうことを懸念した伊勢市長が同年11月10日に近鉄側に反対を申し入れ、伊勢市議会も同年11月11日に行われた近鉄対策特別委員会で反対することを決めた。
また、伊勢神宮側(神宮司庁)も駅から内宮まで約2kmも離れており、内宮の近くと思って降車した参拝客に迷惑をかけることを理由に反対した。
試運転の開始直前まで、近鉄側は駅名変更の調整を続け、同年11月21日に近鉄の副社長が伊勢市長と会談し駅名を「五十鈴川(内宮前)」とすることを伝え、市長の了承を得たため運輸省に届け出ることとなり、駅名問題は決着した」
外宮側でも、伊勢電時代の駅の設置に際し、一悶着あったことは既に述べたが、時代が下ったこの頃になっても、やはり、「伊勢参り」は悶着の種になったようだ。
以下に示すのは、五十鈴川駅周辺の国土地理院地形図である。図幅の一番上に五十鈴川駅、一番下に内宮が表示されている。確かに、この距離で「内宮前」を名乗るのは、誤解を招くだろう。
なお、この地図には、この付近での鉄道路線図も重ねて表示してあり、マウスオーバーかタップ操作で切り替えられる。それによると、伊勢市駅付近から伸びてきた三重交通内宮線の軌道線が、五十鈴川駅付近から内宮前まで伸びていた様子も分かる。この三重交通の軌道線は内宮線が1961年1月20日、朝熊線が1962年7月15日に廃止されており、鳥羽線開通時にはその姿を消していた。
ところで、当初、検討俎上に上がった「古市口」の駅名に関して、近鉄には現在の南大阪線古市駅との混同を避けるため「内宮前」に変更しようとした、と述べられているが、「古市『口』」という駅名からも分かるように、内宮ではなく古市を指向した駅名であった。しかし、所在地は、古市町ではなく中村町であった。この辺りについて、少し、考察してみる。
「角川地名辞典 三重県」の記述によると、古市の地名について、「江戸期には内宮を冠称することもある(天保郷帳)。明治元年から同22年までは宇治を冠称。江戸期は伊勢内宮の門前町である宇治町の1町。…(中略)…もとは度会(わたらい)郡楠部村の枝郷で、農業が主体であったが、人口が急増して「開発の地面もなく百姓耕作に不足、困窮」し(楠部文書)、農業から伊勢参宮客の接客業に変貌。寛文年間には遊郭が急激に増え、天明期には人家342軒・妓楼70軒・寺3所・大芝居小屋2場の一大歓楽街となる。…(中略)…明治以後の交通機関の変化と山田新町・新道の発展により遊郭は衰退し、火災と昭和20年7月の空襲によってその面影もほとんど消える。…(中略)…近鉄鳥羽線が開通して町の南方を横断する」とある。
以下に示すのは、「角川地名辞典 三重県」に掲載されていた、元遊郭街の町並みである。往時の面影が忍ばれよう。
また、その下に続く3枚の写真は、「伊勢志摩の歴史」に掲載された古市の繁栄を伝える木版画や絵図である。大安旅館は古市にあった有名な旅館でその当時の賑わいの様が感じられる。また、この古市の妓楼で踊られたのが「伊勢音頭」で、参宮者の精進落としの娯楽であった。
間の山は内宮と外宮との間にある浦田坂から尾部坂の間にある丘陵地帯の通称で、上の地形図にも宇治浦田町の地名が見えている。ここから五十鈴川駅の西側の丘陵を越えて行く道が旧伊勢街道で、古市の遊郭はこの街道沿いにあった。
一番下に示したのが、1940年7月30日発行の旧版地形図だが、この頃、まだ、鳥羽線は開通しておらず、三重交通の軌道線は合同電気軌道と表示されている。この頃には、御幸道と書かれたバイパス車道が開通しているが、その西側にある古市付近の旧市街地がはっきりと分かる。
そして、古市付近から南南西に伸びているのが内宮への参詣道であった。道の両脇に建物が並ぶが、その背後は山林となっていて、開発が進んだ現代の地形図では消えてしまった、間の山の人の往来の歴史が浮き彫りになっている。
一方、中村の地名について、「地名の由来は「五十鈴川ノ上流ニ宇治ノ市鄽アリ、下流ニ楠部鹿海ノ村邑アリ、其中流ニ居スルヲ名トスルナルヘシ」(勢陽五鈴遺響)。北部御幸通り沿いに鎮座する月読宮は「続日本紀」神護景雲3年2月条に「月読社」とある皇太神宮の別宮。…(中略)…伊勢神宮領」などとある。
先の地形図では、五十鈴川駅の記載のすぐ南に中村町、すぐ東に月讀宮の表示があるが、上記の記載の通り、五十鈴川駅の辺りは、内宮との関係が深い地域であった一方で、古市町の元遊郭街にも近い位置関係であった。図幅に古市町は表示されていないが、駅の北西に隣接している。
これらのことを踏まえると、当初の駅名が「中村」にならずに、「古市『口』」となったのは、かつての遊郭街で殷賑を極め、市街化も進んでいた古市町へのアクセスを意図したからでは無いか?という風にも推測できる。中村では、何とも、特徴がない。
尤も、遊郭街は既に衰退していたし、そこへのアクセスを狙ったネーミングではなかろうが、当初の駅名案が、遊郭街のあった町を指向していたのに対し、その後の「内宮前」という駅名案は、一転して、神域を指向したものとなっていたのが面白い。
神域には遊郭がつきもので、精進と精進落しは表裏一体・密接不可分のように思えるが、駅名の決定に際し、この表裏が現れているように思えて、興味深く感じた。
ところで、宇治山田駅のところでも述べたように、参急は、当初、伊勢神宮内宮への延伸も見据えた構造で駅を建設していた。しかし、その延伸構想は、「余りにも畏れ多い」といったような理由もあって実現することはなかったと、Wikipediaには書かれている。出典がないので、その話の真偽は分からないが、実際に、内宮方面には延伸されなかったし、五十鈴川駅の建設自体も、宇治山田開業から38年も下った時代に、宇治山田~鳥羽間を連絡する鳥羽線の建設プロセスの中で行われたことを考えると、駅の設置当初、近鉄には、内宮への玄関口としての位置付けは、なかったのではないだろうか。
その辺の経緯については、社史の中では追えなかったので、今後の、文献調査課題である。
前置きが長くなったが、五十鈴川駅に到着すると、見慣れない色の車両が停車していた。私は、車両の形式などには詳しくはないが、その色合いなどを見て、かつて存在した車両の復刻塗装版だろうと思った。実際、それはその通りで、大阪線初の特急車として昭和28年に新造された、2250系車両の復刻塗装なのだという。現在の型式では5200系となっており、大阪線・名古屋線の長距離急行に用いられている車両である。
駅は築堤の上にあり、駅舎は地平にあるので、ホームに達するには、階段を登る必要がある。遠目には、高架駅のようだ。
鳥羽線は、建設時期が新しいこともあり、丘陵地帯をぶち抜いて、高架、切通、築堤等を連ねた、急カーブの少ない線形である。五十鈴川駅付近では、市街地と当地を隔てる丘陵から五十鈴川沿いの氾濫原低地に出る地形となっているため、その高度差を築堤で克服しているのだが、その築堤が尽きると、高架となって進んでいく。
前年の2015年9月には、この形式の車両に乗って、大阪上本町から五十鈴川駅まで通して乗車した。
その際は、ここから賢島行きの普通列車に乗り継いで、旅をしたのだったが、その際、五十鈴川駅のホームなど、構内の写真も撮影していたので、以下に、それらを掲載する。
この頃は、まだ、特急列車の塗装変更前で、長年、近鉄特急の象徴となってきた、オレンジと紺色のツートンカラーの特急車両が、頻繁に行き交っていた。
「ちゃり鉄2号」の旅路では、駅構内には立ち入らず、朝熊駅に向かって出発する。10時49分発。
そう言えば、伊勢神宮の舞台を訪れて、外宮にも内宮にも訪れることなく、素通りしていた。精進も何もあったものではない。1泊2日の行程では、途中下車をするにしても、場所も機会も限られる。もっと、余裕のある行程で旅を行いたいが、会社勤めをしながらの旅となると、限界がある。中々、思うようにはいかないものだ。この旅では、賢島駅に到着した後、志摩半島を周遊して鳥羽駅まで海岸沿いを走る行程にしていたので、近鉄の各路線沿いを走る区間では、駅の周辺を探索する程度であった。
五十鈴川駅を出発すると、直ぐに、五十鈴川を渡り、東進して田んぼと丘陵を越える。朝熊川沿いに入り、集落内の小道を南進すると、丘陵から飛び出てくるような鳥羽線の高架が眼前に飛び込んでくる。朝熊駅は、この高架の付け根の部分に、切通状の構造で設けられていた。10時59分着。
朝熊駅
朝熊駅は、三重県伊勢市朝熊町小坊山に所在し、1970年3月1日、五十鈴川~鳥羽間延伸開通時に開業した。1975年4月11日には五十鈴川~当駅間が、12月20日には当駅から鳥羽駅までが複線化し、朝熊~池の浦間にあった四郷信号場が廃止されている。
高架の駅は、相対式2面2線で現在は無人駅である。
高架上のホームに上ってみると、緩やかに曲線を描く幅の広いホームが迎えてくれた。曲線区間にあり見通しが悪いこともあって、構内の外れには中継信号もあった。
五十鈴川方のホーム末端まで行ってみると、下り線に通過列車の案内放送が流れ、赤編成の伊勢志摩ライナーが通過していった。
観光特急の「しまかぜ」の登場によって、花形特急の地位はそちらに譲った形になったが、流線型でスマートな車両は、今もまだ、花形特急の一画を担っているように感じた。
ホームを戻りながら、上りの普通列車と駅名標を撮影していると、再び、下り通過列車の案内放送が流れる。複線電化の幹線だけに、山田線同様、列車の運行が多い。今度は、何が来るのかとカメラを構えていると、再び、伊勢志摩ライナーが通過していった。今度は、赤編成ではなく、黄編成だった。
11時台の鳥羽線には、大阪難波発、京都発、名古屋発の3つの伊勢志摩ライナーが、勢揃いして賢島に向かって駆け抜けていく。賢島駅のホームには、時間帯によって、これらの特急がずらりと並び、壮観である。
駅名は、所在地名に由来するが、その「朝熊」について、「角川地名辞典 三重県」の記述を追うと、以下の様であった。
「地名の由来は、弘法大師が山中に求聞持の法を修めた時に朝に熊、夕に虚空蔵が現れたことによるとも(金剛証寺伝)、葦津姫(別名木華開那姫)の通音とするともいう(度会延経の説)。また川の浅瀬の屈曲した地を表わす浅隈にあてた仮字とする度会清在説(旧蹟聞書)があり、「勢陽五鈴遺響」は度会清在説を採用している。…(中略)…朝熊山上に金剛証寺がある。同寺は寺伝によれば欽明天皇の時代に僧暁台により草創、のち空海が大伽藍を建立して金剛証寺と命名、応永年間鎌倉建長寺の僧東岳文昱が再興して禅密兼学になったという古刹」
また、朝熊山(朝熊ヶ岳)の項目に関する記述には以下のような記述があった。
「金剛証寺は、天長2年空海が本尊虚空像菩薩を祀り真言密教道場としたと伝えられる。室町期には本地垂迹と神仏習合のもとに当山と神宮との関係を深め、神宮の丑寅(北東)の方位にあることから神宮の鬼門除けの鎮守寺奥の院とされ、「伊勢へ参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と歌われ神宮信仰と結びついた。大正14年朝熊山登山ケーブルカーが開通し、また内宮前から登山バス道路も建設されて参詣者で賑わった。しかし、昭和17年ケーブルカー廃止、一般参詣者の入参禁止と続き、衰退の一途をたどった。昭和34年9月伊勢湾台風により全山に倒木があり甚大な被害を出した。同39年10月伊勢志摩スカイラインが開通し、再び信仰と観光の山となった。…(中略)…アイヌ語で「あさま」は、日が出てキラキラと光り輝く神を意味することから、山上で日の出を拝し、天照大皇神を太陽神として崇拝・信仰することに由来するともいう」
ここで登場した朝熊山登山ケーブルカーについて、以下の国土地理院地形図を見て欲しい。マウスオーバーやタップ操作で、画像が切り替えられるようにしているが、ここに、朝熊山登山ケーブルカーと呼ばれた、神都交通朝熊線(鋼索線)の路線跡などを図示している。
図幅の関係で、国土地理院地形図の表示は途中で切れているが、山麓の平岩駅跡から沢地形の中を直線で進む車道表示がある。別の縮尺の地形図では、そのまま直線で斜面を登って、途中で別の道と合流する辺りまで、車道表示が続いているのだが、この斜面を直線で登る車道があるはずもなく、その不自然な直線が、即ち、ケーブルカーの廃線を暗示しているのである。
地図を見ると、山頂付近では、特に等高線が密になっており、当時、東洋一の急勾配と宣伝されていたケーブルカーであった。最急勾配は652‰だったという。65.2‰ではなく652‰というところが、ケーブルカーならではである。30度を越えるこんな傾斜、スキー場の上級者コースである。
なお、神都交通朝熊線は1944年1月11日に、戦時中の不要不急路線指定によって休止し、鉄材供出などで線路を剥がされた後、営業再開することなく、1962年7月15日に、三重交通の経営下で正式に廃止されているので、「角川地名辞典 三重県」の記述の「昭和17年ケーブルカー廃止」は誤りと思われる。
以下に示すのは、「伊勢志摩の歴史」に掲載された朝熊登山鉄道の写真や絵葉書である。絵葉書には、 「伊勢へ参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」のキャッチフレーズも見える。霊峰への参詣を促すにしては、俗化しているきらいもあるが、当時の国民的な信仰の度合いが感じられる。
それにしても、神都や伊勢神宮という神の座の一角を占めた朝熊山へのケーブルカーの線路を、不要不急路線に指定して鉄材供出で線路を剝がし、そのまま廃止に至らしめる戦時体制が抱えた矛盾を、日本国民や指導者は自覚できなかったのであろうか。
いずれ、これらの地域にも焦点を当てて取材の「ちゃり鉄」号を走らせたいが、「ちゃり鉄2号」の旅では、廃線跡探訪や朝熊山登山は行わず、先に進むことにする。11時8分発。
朝熊駅から池の浦駅までは、概ね朝熊川に沿った谷沿いの道を進むことになる。川に沿って緩やかに登り勾配が続き、伊勢市・鳥羽市の市境付近で峠を越え、下り勾配に転じる。この付近に、単線時代の四郷信号所があった。国土地理院地形図には、建物の記号が描かれており、今も、施設が残っているようだが、「ちゃり鉄2号」では、気が付かず、通過してしまった。
集落内の丘陵地にある池の浦駅には、11時26分着。朝熊~池の浦間の走行距離は6.2kmで、山田線・鳥羽線・志摩線を通して、最も駅間距離が長い区間となった。
池の浦駅
池の浦駅は、1970年3月1日、鳥羽線の五十鈴川~鳥羽間延伸時に開業した。1975年12月20日に複線化されるまでは、駅構内に行き違い設備があったが、複線化によって撤去されており、現在は、島式2面2線構造となっている。1998年4月1日無人化。
丘陵地から平地に出るところにあり、緩やかな曲線を描いた高架駅である点など、朝熊駅とは兄弟駅といった雰囲気である。
自転車が放置された駅前から階段を上がってホームに入ると、上り線側には、列車の到着を待つ人の姿が見られた。下り線側は、直ぐに通過列車の案内があり、伊勢志摩ライナーが通過していく。それと入れ違う形で、上り白塚行きの普通列車も到着した。
ホームからは町並みの向こうに海が見える。駅名の由来となった池の浦で、伊勢湾に面した小さな入り江に無人島が点在している様子が遠望できる。
先週の「ちゃり鉄1号」から引き続き走り続けてきて、いよいよ、伊勢志摩にやってきたことを実感する。
池の浦に関する「角川地名辞典 三重県」の記述を追ってみる。
「度会(わたらい)郡二見町松下の神前(こうざき)岬と対岸の鳥羽市小浜半島に囲まれた入江。古書には「この入江常に風なく、波穏やかにして池水の如く、伊気の浦と命名せられし」(倭姫命世紀)、また「二宮御領伊介御厨」(神宮雑例集)とある。湾口の神前岬は伊勢に向かう海路の難所で、しけのとき、波静かなこの入江が古くから避難場所(風待港)として利用された」
以下に示すのは、同書に掲載された「池の浦を走る鳥羽鉄道(大正初期)」の写真である。鳥羽鉄道は、現在のJR参宮線の前進であり、近鉄鳥羽線とは路線も時期も全く異なるものであるが、池の浦付近の風光明媚な海岸風景は、大正時代の当時から、それほど大きくは変わっていない。現在も、JR参宮線を取り上げる多くの書籍で、この、池の浦付近の風景写真が掲載されている。
「伊勢志摩の歴史」では、昭和44年の国鉄参宮線の写真が掲載されていた。この頃になっても、参宮線では蒸気機関車が現役で活躍しており、1976(昭和51)年3月2日に営業運転が終了した蒸気機関車の歴史を考えると、最末期の姿と言えよう。
「八十年史」には、池の浦付近の高架工事の様子が、写真で掲載されていた。建設工事途中の写真というのは貴重なもので、こうした社史などを追わないと、なかなか、見つけることができない。
近鉄の池の浦駅は、海からは500mほど離れているため、海を眺めるといった風情ではないのだが、曲線ホームの上から、遠くに見える伊勢湾と池の浦の風景は、「ここまで来たか」という旅情緒を掻き立てる。曇天で、夏の海の雰囲気を感じられなかったのが残念だ。
普通列車が出発した後の駅は、人影もなく静かになった。
私も、駅の散策を終えて、出発することにする。11時35分発。
池の浦~鳥羽間では、いよいよ、「ちゃり鉄2号」も海岸線に出ることになる。
思えば、「ちゃり鉄1号」のスタートで、大阪湾岸の矢倉緑地公園で野宿して以来、近畿地方を横断する旅路だったため、海とは無縁の行程を走ってきた。
この先は、志摩線に入り、明日は、志摩半島を巡る。志摩半島では、英虞湾定期船や渡鹿野島渡船にも乗船することになるので、海沿いの旅を楽しむことが出来る。天候が思わしくないのが残念だが、こうなったら、雨に降られなければ良しとしよう。
池の浦湾沿いに出ると、海側から、近鉄、JR参宮線、国道が並走する。
国道の交通量は多いが、のんびりと走り抜けて、観光施設が目立つようになると、程なく鳥羽駅に到着する。11時44分着。