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ちゃり鉄1号:2日目(矢倉緑地公園-大阪難波駅=三本松駅)
矢倉緑地公園-大阪難波駅
翌朝はまだ明けないうちに起床した。
街はまだ眠りの中。
しかし、次第に夜の闇が薄れ、空に、凛とした青みが差してくる。
「青の時間」と名付けているこの一瞬は、わずか15分程度のことであるが、私の大好きな時間でもある。
寝不足気味だったこともあり、明け方の写真を撮影した後は、テントの中で、ウダウダとまどろむ。旅先でのテントは、我が家のようなもので、寝袋に潜り込んでまどろむ時間は、実に気持ちがいい。

私は、2007年頃から、アライテントのエアライズを旅のテントとして使用している。
エアライズは、テントとしてはスタンダードな構造の自立式ダブルウォール・テントであるが、設営のしやすさや、構造の完成度、オプションパーツの豊富さなどが気に入っている。
冬用外張りを使用すれば冬山などの寒冷・積雪環境でも使うことが出来るし、デラックスフライを使用すれば広い前室を確保することも出来る。スリーシーズンの登山であればノーマルフライが使いやすい。
今回は、オプションパーツのカヤライズを新調し投入することにした。
カヤライズの側壁は全面メッシュであり夏場の野宿にはうってつけだ。ポールやフライと言ったパーツの互換性があるため、元々、エアライズを使っているのであればカヤライズ本体のみを購入すればよい。
雨に降られる心配がないなら、フライを使わず、文字通り蚊帳のように快適に過ごすことも出来る。
この夜も、東屋の下にカヤライズのみを設営したので、7月の野宿にも関わらず快適な一夜を過ごすことが出来た。
外からも丸見えなので、プライバシーが気になるなら、フライを使うことになるが、私自身は、他人の目があるところでテントを張ることが少ないのでプライバシーはあまり気にならない。タープなどと組み合わせればプライバシーの保護と快適性を両立させることも出来る。そういう工夫も楽しいものだ。


やがて、本格的に朝が明け、人が活動し始める気配が漂ってくる。
寝不足の体にまとわりつく睡魔を振り切って出発準備に取り掛かるが、テントの外に出ると今度は、蚊がまとわりついてくる。睡魔とは違い蚊と戯れるのは心地よくない。
その猛アタックに耐えながらさっと撤収を済ませれば、一夜を過ごした我が家は痕跡も残らない。
立つ鳥跡を濁さず。
野宿の旅はこうありたい。
忘れ物等の確認を済ませ、積み荷や足回りのチェックを行ったら、一路、近鉄難波線の大阪難波駅に向けて出発する。5時5分発。



淀川沿いの道を少し遡ると伝法大橋に達する。
そこから上流側を眺めると、淀川の水面ギリギリに、随分、低い鉄道橋が架橋されている。
阪神なんば線、淀川橋梁である。

この橋梁は1924年架橋で、現在の淀川堤防の計画高よりも低い。その為、高潮の時などは橋の袂にある防潮扉を閉鎖し、阪神電鉄も運休する運用がなされているが、防災上の観点から橋梁の架替が懸案事項となっていた。
この旅から半年後の2017年にはこの架替えが発表され、現在、2032年度の完成を目標に橋梁前後の区間の連続立体交差化も合わせて、工事が進められている。
旅の当時は、そういう未来を予想はしていなかったのだが、早朝の淀川を跨ぐ橋梁の姿が印象的で、国道の伝法大橋の上から写真を撮影していた。

淀川橋梁を左手に見ながら淀川を渡り安治川に達すると、大阪市の中心部に向けて左折する。しばらく直進すると、右手の安治川沿いに安治川隧道の入口が見えてくる。
この隧道は、1944年9月に開通した、全国的にも珍しい、川の下を通る沈埋トンネルである。

淀川下流の低湿地に開けた大阪の街は、「浪華の八百八橋」という言葉が示すように、網の目のような水路に多くの橋がかかっているのだが、ここは、橋ではなくトンネルである。
どうして、橋ではなく、地下のトンネルにしたのか?という疑問が湧き上がるが、それは、かつて、水運が盛んだった時代には、水運の妨げになる架橋が困難だったという理由によるらしい。
歴史的には、この安治川隧道付近には源兵衛渡と呼ばれる渡し船が航行していたのだが、交通量が増加したことにより地下隧道が開削されたのだという。源兵衛渡は既に廃止されているが、付近の交差点名にその名残を見ることができる。
以下に源兵衛渡交差点と安治川隧道九条側入口建屋の写真、及び、1911年10月30日発行の旧版地形図を示す。
旧版地形図では、カメラのアイコンの位置が現在の安治川隧道であるが、この頃は、等間隔に、幾つもの渡し舟が運行していたことが地図からも読み取れる。安治川隧道の位置にも渡し舟記号があり、これが源兵衛渡だったと考えられる。地図からも分かるように、この時代にはJR大阪環状線や阪神なんば線は開業しておらず、西成線と呼ばれていた時代の現JR桜島線が開通しているのみであった。

~2020年6月~

現在、安治川隧道は自転車と歩行者専用となっているが、驚くことに、開通当時は、自動車も専用のエレベーターで降下して通行していたという。排気ガス問題やエレベーター待ち時間、国道開通に伴う通行量減少等の理由により1977年に閉鎖され、今は自動車では通行できないものの、自転車と歩行者用のエレベータに隣接して自動車用のエレベータの乗車口が存在している。
こういう場所があると寄り道せずには居れない。サイクリングで通りかかったりすると、必要がなくても対岸に渡ったりする。
だが、大阪湾岸にいくつか残る市営渡船の旅と合わせて、ちゃり鉄での訪問は別の機会に行うこととして、今回は、入り口の撮影だけして、先に進むことにした。


安治川隧道九条側入口
~2017年3月~

~2017年3月~

「建設コンサルタンツ協会Webサイト」
安治川隧道を通り過ぎて更に進むと、独特の風貌のターレーが行き交う、大阪中央卸売市場付近に達した。
大阪市民の台所として、時折、テレビで見かけることもあるが、市民が直接訪れて購入する市場というわけではないので、こうして、市場の様子を間近に眺める機会は意外と少ない。
行き交うターレーを撮影しようとカメラを用意したら、途端に車列が途絶えた。
しばらく待っていても通りかかる様子がないので、市場を眺めながら通過することにしたが、別の路線の取材に訪れる際にでも、じっくりと、写真を撮影してみたい。

「大阪中央卸売市場Webサイト」

「大阪中央卸売市場Webサイト」
旅は一般的には非日常への脱却という性質が強いもののように思う。
私自身、「何処か遠くへ…」という衝動とともに旅に出ることはとても多い。
しかし、少し違う視線から日常生活の風景を眺めてみれば、意外なくらい身近なところに旅情を見出すことも難しくはない。
そういう感性を、私は大事にしたいと思う。
大阪中央卸売市場を後にすると、中之島の端をかすめ、大阪市交通局(現Osaka Metro)千日前線に沿って、近鉄難波線の始発駅、大阪難波駅に到着した。6時5分着。
大阪難波駅=大阪上本町駅
大阪難波駅
早朝の駅付近には、道頓堀界隈から流れ出してくる徹夜明けの若者と共に、気だるい空気が淀んでいた。

「ちゃり鉄1号」は、ここ、大阪難波駅を出発し、近鉄難波線・大阪線の各駅に停車しながら、伊勢中川駅を目指す。
大阪難波駅は、1970年3月15日、近鉄難波線の開通と同時に、近鉄難波駅として開業した。島式ホーム1面と単式ホーム1面の2面3線の地下駅で、阪神なんば線との相互乗り入れが実現するまでは終着駅でもあった。
駅名は周辺地名に由来するが、地名の由来には諸説あり、どれが正解なのかは定かではない。ただし、浪速、浪花、浪華、魚庭などと漢字表記される「なにわ」と結びついた地名であることは確かなようだ。
2009年3月20日、阪神なんば線が開業。阪神電鉄との相互乗り入れが実現したことにより、神戸三宮方面と奈良方面とが直通されるようになり、近畿地方の交通体系に大きな変化が生じたことは、記憶に新しい。
この新線開業に伴って、近鉄難波駅は大阪難波駅に改称され、終着駅から中間駅となったが、現在でも、一部の近鉄列車は、この駅を始発・終着駅としており、JR関西本線、南海電鉄本線、大阪市交通局(現Osaka Metro)御堂筋線・千日前線・四つ橋線が交わる、一大ターミナルであることに変わりはない。
以下に示すのは、大阪難波駅付近から近鉄日本橋駅付近にかけての国土地理院地形図である。
これを見ると、大阪難波駅付近は鉄道駅が集中しており、近鉄難波線・阪神なんば線の大阪難波駅の他、現Osaka Metro、南海電鉄南海本線の難波駅、JR関西本線のJR難波駅が存在していることが分かる。

しかし、南海電鉄本線の難波駅を除いて地下駅であるため、地上付近に鉄道ターミナルの印象はない。
近鉄難波線も、駅ビルが存在することによってそれと分かるものの、むしろ、阪神高速の高架の方が、存在感がある。
なお、なんば駅との表記も見えるが難波駅が正式名称で、なんば駅は駅名標や時刻表など案内に使われる表記である。
記念すべき「ちゃり鉄1号」の始発駅である。
地下にある駅の改札口あたりまで行ってみようか…と思いもしたのだが、自転車を残してその場を離れるのは、ためらわれた。
結局、高架の向こうにある駅ビルの撮影を済ませたら、わずか3分程度の滞在で出発することにした。6時8分発。

~2020年6月~

~2015年9月~

~2015年9月~

さて、これから走る近鉄難波線は、大阪上本町駅を起点に大阪難波に駅至る、わずか2.0kmの短距離路線で、中間駅は近鉄日本橋駅のみである。また、全区間が地下路線である。
この難波線は、開業当初から、名古屋・伊勢志摩方面への特急列車を除き、奈良線の列車の起点路線として位置づけられており、現在も、全ての奈良線列車は、大阪難波駅を始発、もしくは経由する運行形態をとっている。
実質的には奈良線の都心部延伸線としての使命が濃厚だったわけだが、その建設史は、近鉄の前身である大阪電気軌道時代の1922年(大正11年)の初めての出願から、紆余曲折を経て、日本万国博覧会の開幕に合わせた1970年3月15日の開通まで、実に50年弱の長きに渡る。
このように、都心部への延伸に数十年の年月を要したのは、近鉄の難波延伸に限ったことではなく、他の私鉄路線でも同様であった。その原因とされるのは、市の中心部の地下に新線を通すことの技術的な困難さや、工事や補償に伴う事業費用の大きさではなく、市営モンロー主義とも称される、大阪市の「市営一元化」政策である。
即ち、大阪市は、その歴史の長きに渡って、市内交通の市営一元化を主張し、私鉄の市域中心部への乗り入れを認めなかったのである。同様の交通政策は、東京市内(当時)でも見られた。但し、東京市の関与は受動的だったのに対し、大阪市では積極的だったという点で、両者の性質は異なる。
近鉄難波線に関しては、阪神電鉄西大阪線の延伸とともに、大阪市交通局千日前線の計画ルートと重複する区間が長いため、市営一元化の名目のもと、大阪市は、強硬に反対意見を提出し、その度に、申請は却下されてきた。
その大阪市が自前で建設した千日前線は、終日、4両の短編成が行き交うローカル路線であり、並行する私鉄の代替にはなり得ていない。
もし、千日前線を介して近鉄や阪神が相互乗り入れを行っていたら、千日前線の使命は今とは全く違ったものになっただろう。時代の背景や当時の技術水準の問題もあったのであろうが、古い時代の体質を引きずった交通政策の負の遺産と言うことも出来るかもしれない。
前述のように、2009年3月20日に、阪神電鉄阪神なんば線が大阪難波駅まで延伸し、近鉄と阪神電鉄の相互乗り入れが開始されるようになると、三宮と奈良をつなぐ直通列車が行き来するようになり、近鉄難波線や大阪難波駅には、また、新たな使命が加わることとなった。
この辺の経緯は、鉄道史としては興味深いものであり、その知識を背景に旅をすることで、旅の深みが増すことになるが、詳しい記述は、後の文献調査記録に譲ることとして、ここでは、旅を先にすすめることにしよう。
出発して加速するのだが、次の近鉄日本橋駅と大阪難波駅の駅間距離はわずか800m。陸上中距離の一流ランナーなら、2分かからず到着する距離である。
我が「ちゃり鉄1号」も、十分加速する間もな、走行時間2分で近鉄日本橋駅に達した。6時10分着。
近鉄日本橋駅
ここ近鉄日本橋駅では、大阪市交通局(現Osaka Metro)堺筋線・千日前線が交錯している。駅名の読みは、「にほんばし」ではなく、「にっぽんばし」である。
駅の開業は、近鉄難波線の開業に伴う1970年3月20日で、相対式2面2線ホームを持つ地下駅である。
地名の由来となった「日本橋」は、堺筋を少し北上して道頓堀川を渡るところに架かっており、前掲の国土地理院地図にも表示されている。
私の曽祖母などは、かつて、よく、日本橋のことを「日本一」と言っていたものだが、これは実際、日本橋1丁目の通称として通用しているようだ。
私の幼少期は、日本橋と言えば電気街だった。近年は、その電気街も勢いがなくなり、替わりに、メイド喫茶などが多くなっているように思われる。
ここも、地上付近にあるのは、地下駅や地下街への入り口だけで、駅施設を地上付近で眺めることは出来ない。
駅の入口の撮影だけ済ませて、出発することにした。6時13分発。



~2020年6月~

~2020年6月~
近鉄日本橋駅を出発すると、ルートはにわかに登り勾配になる。上町台地に差し掛かったのである。
上町台地は、大阪市中心部の歴史を語る上で欠かすことの出来ない地域であり、大阪城や四天王寺を始めとする史跡も多く存在している。また、古くは、大阪湾と淀川・大和川水系下流の低湿地とを隔てる半島であったと考えられており、その太古の時代の記憶は、今も、河内という旧国名など、各地に残されている。
自転車で走ると、自動車の時と比べて、より敏感に土地の傾斜を感じ取ることが出来る。
この上町台地に関しては、大阪上本町駅付近を頂点に、近鉄日本橋駅側、鶴橋駅側の双方から登り勾配があるが、実際に走行すると、近鉄日本橋駅側の方が鶴橋駅側の方に比べて、傾斜がきつく感じる。グィッと登り、なだらかに下っていくという実感がある。
国土地理院の地形図で標高を調べてみると、日本橋駅、鶴橋駅付近は、それぞれ4m程度、大阪上本町駅付近では、谷町筋を越えた西側の生玉町に20.5mの水準点があり、すぐ北の東高津町付近に16mの標高点が描かれている。アップダウンの標高差は同じということだが、これは、かつての上町台地が、古大阪湾の水面に囲まれた半島であったという地史から考えれば、当然のことである。
しかし、最低地点から最高地点までの水平距離を比較すると、日本橋駅側は800m程度、鶴橋駅側は1200m程度あり、日本橋駅側の方が急傾斜となっている。
また、色別標高図を表示すると、大阪上本町駅の西~南西にかけて、急傾斜の地域があるのがはっきりと分かる。よく見ると、この地域には寺院の記号が集中して描かれているが、その急傾斜ラインより西側には、寺院記号は殆ど見られない。


これらの事実は、日本橋駅側が、かつての古大阪湾に面した海食崖であったということを示している。
淀川・大和川水系の沖積地であった鶴橋駅側と比べて、海蝕崖であった日本橋側の方が、台地がより強く侵食作用を受けていたということが、暗示されるのである。
私は地質学の専門家ではないが、地図を注意深く眺め、実際の走行時に周辺地形の特徴と地図の表示を比較してみると、地質学的な時間のスケールで景観の成り立ちを理解することが出来るように感じている。
「ちゃり鉄1号」は、かつての海食崖に刻まれた坂道を登り、ターミナルらしい風格の漂う大阪上本町駅に到着した。6時18分着。
大阪上本町駅=布施駅
大阪上本町駅

大阪上本町駅は、1914年4月30日、近鉄の前身である大阪電気軌道時代に上本町として開業した。
現在の駅の位置や構造は開業当初のものとは異なるが、駅が担うターミナルとしての機能は変わらない。
難波線の開業により、奈良線や一部の特急のターミナルとしての機能は大阪難波に移されたが、今も、大阪線のターミナルとして、櫛形7面6線の頭端式ホームの貫禄ある終着駅として機能している。
難波線の地下ホームは、相対式2面2線構造で、1970年3月20日の開業である。
近鉄沿線に住んでいた小学生の頃は、難波や日本橋への行き帰りに、上本町駅で難波線の地下ホームから大阪線の地上ホームに、わざわざ乗り換えたりしていた。
当時は、サボが使われており、ホームの一端には、各種のサボを収めたラックがあったのだが、時折、珍しいデザインや行き先のサボが置いてあり、宝物を見つけたような気分になったものだ。
既に、サボは廃止されて久しく、そういう楽しみは過去のものとなったが、今でも、大阪上本町駅を通ると、意味もなく、地下と地上を行き来している。

~2015年9月~

~2020年6月~
大阪上本町駅は、上本町六丁目にあるため、大阪市民の間では、「上六」の通称が使われることも多い。
また、大阪市交通局(現Osaka Metro)の千日前線や谷町線と乗り換えることが出来るが、地下鉄の駅の名称は、「上本町」ではなく、「谷町九丁目」である。大阪市民による通称は「谷九」である。
谷町線の谷町筋に因んでの命名であろうが、大阪市交通局(現Osaka Metro)と私鉄やJRとの接続駅は、所々で、こうした名称の不一致が見られる。
そこには、市営モンロー主義の影が、感じられなくもない。
なお、大阪難波駅の記述でも触れたように、「大阪上本町」に改称されたのは、阪神電鉄との相互乗り入れ開始を機にしたもので、開業以来の駅名は「上本町」であった。
そんな歴史に思いを馳せながら、今回の旅では、自転車を置いたまま駅構内には立ち入ることは避け、外観を眺めるだけにして、出発することにした。6時22分発。
難波線の旅を終えて、これからは大阪線を走る。
大阪線は、近鉄路線の中でも中核的な幹線で、大阪上本町駅から伊勢中川駅までの108.9kmの路線である。沿線各府県内のローカル輸送の他、名古屋、伊勢志摩方面への遠距離輸送にも活用されており、非常に多くの列車が運転されている。
歴史的には、大阪電気軌道と参宮急行電鉄という2つの鉄道会社によって建設された路線が前身となっており、参宮急行電鉄の名が示す通り、伊勢神宮への旅客輸送を担うことが主な建設目的の一つであった。今日では考えられないことではあるが、そのような目的で、100kmを超える鉄道路線が敷設された時代があったのである。全通は1930年12月20日。大阪電気軌道と参宮急行電鉄の合併により、関西急行鉄道が発足し、布施駅~伊勢中川駅を大阪線としたのは、1941年3月15日のことである。
現在の大阪線のうち、大阪上本町駅~布施駅の区間は、1914年4月30日に開業した区間である。開業当時は大阪線という位置づけではなく、上本町と奈良とを結ぶ大阪電気軌道の一部という位置づけであり、現在の奈良線に相当する区間であった。
その後、近鉄の路線網の拡充に伴い、大阪線に含まれるようになったのは、複々線化された1956年12月8日のことであった。
大阪上本町駅を出発した「ちゃり鉄1号」は、上町台地を下り、鶴橋駅に至る。6時26分着。

鶴橋駅
鶴橋駅は、1914年4月30日開業。島式ホーム2面4線の構造を持つ。
JR大阪環状線、大阪市交通局(現Osaka Metro)千日前線との連絡駅であり、近鉄の駅の中では、乗降車数において、大阪阿部野橋につぐ2番目を記録するなど、主要駅の一つである。
JR大阪環状線の鶴橋駅は1932年9月21日、大阪市交通局千日前線の鶴橋駅は1969年7月25日の開業で、近鉄の鶴橋駅が最も古い歴史を持つ。
JR大阪環状線と近鉄との乗り換えは駅の構内改札を通って行うことができ、両者は十字形に交錯している。地下鉄の駅も含めて考えると3階建てということができよう。
地下路線の難波線と地上路線の大阪線は、鶴橋駅の西側で合流し鶴橋駅に進入する。
ここから布施駅までの区間は、線路名称上は大阪線であるが、運行形態としては、奈良線専用線と大阪線専用線とで構成される複々線区間であり、実質的には重複区間と言うこともできる。
大阪難波駅から名古屋・伊勢志摩方面に直通する特急列車は、鶴橋駅を出て今里駅方に進むと、渡り線を経て、奈良線専用線から大阪線専用線に乗り換えて、各方面へと旅立っていく。鶴橋駅の今里駅方のホームの末端に立つと、間近にその様が見て取れるため、よく、鉄道ファンが陣取っている。
複々線を、列車が頻繁に行き交う様は壮観で、全ての線路に列車が横並びになる瞬間などは、たまらない。

~2015年4月~

~2015年10月~

~2015年10月~

JR大阪環状線がオーバークロスする駅は終日、混雑する
~2020年6月~
駅の周りは、高架下の空間を利用した商店街であり、韓国料理店などが軒を連ねている。
私自身の地元と言えば、この鶴橋駅から布施駅にかけてのエリアとなるのだが、よく言えば賑やか、悪く言えば猥雑な街である。だが、地元を離れて北海道などで生活した経験を踏まえて眺めると、こうした猥雑さも活気として好ましく思えてくる。
この旅では、早朝に訪れたため、鶴橋商店街はまだ開店しておらず、眠ったままだった。6時33分発。



~2020年6月~

鶴橋駅からは、千日前通りに沿って東進する。
地下鉄千日前線はこの千日前通りに沿っており、道路の線形がそのまま、地下鉄の線形でもある。
やがて平野川を渡ると地下鉄の今里駅上のロータリーに出るが、そこから南進し近鉄の高架をくぐった後、高架に沿って東進すると、程なく、近鉄の今里駅に到着する。6時41分着。
今里駅

今里駅は1914年4月30日の開業。地下鉄にも同名の今里駅があるが、地下鉄駅の開業は1969年7月25日で、時代的にはかなり下る。
近鉄の今里駅と地下鉄の今里駅とは1km程度離れており、乗り換え駅という位置づけではない。むしろ、地下鉄の新深江駅の方が、近鉄の今里駅に近接しているのだが、それでも、600m程度離れている。

私の生家は、この界隈である。
かつては、高架下に「ガード下」と通称される商店街があったのだが、その区画は整理され、今では、駐車場や駐輪場となっている。東西に伸びる大阪線に設けられた駅の入口は南に面しており、駅前から南方向の路地に伸びた商店街は、今も、健在だ。
近鉄の高架が行政区界にもなっており、入口のある南側は大阪市生野区、北側は大阪市東成区となる。
複々線区間の駅であり、相対式ホームの間に島式ホームを挟んだ3面4線の堂々たる駅であるが、各駅停車のみが停車するローカル駅である。駅の末端には、よく鉄道ファンが陣取って写真撮影に勤しんでいる。
この駅界隈を、旅人として訪れるのは、これが初めてであった。
なお、この駅は、開業当初は「片江」という名称であったが、1922年には「今里片江」と改称され、1929年に、現在の「今里」と改称された。今里駅を含む、鶴橋駅~布施駅間の複々線化の完了は、1956年12月8日のことである。それを受けて、21日のダイヤ改正から、これまで今里駅を通過していた大阪線列車が停車するようになった。
身近な地元駅にも、歴史が詰まっていることを実感しつつ、6時44分発。



~2015年2月~

今里駅から布施駅にかけての地域も、勝手知ったる地元であるが、旅装束で走ると、景色も違って見える。
国道479号線、通称内環状線を越えると、大阪市から東大阪市に入り、程なく、布施駅である。6時50分着。
布施駅=河内山本駅
布施駅
1914年4月30日の開業当初、「布施」は「深江」と称した。その後、1922年3月には「足代」と改称され、「布施」に改称されたのは1925年9月である。かつての駅名である深江や足代の地名は、今も、布施駅界隈に残っており、大阪市交通局(現Osaka Metro)千日前線には、「新深江」という駅もある。
しかし、周辺に「布施」という地名はなく、現在の市域としては「東大阪市」に含まれている。なぜ、このような駅名となったのであろうか?
歴史的には、駅周辺は、布施村(1889年4月1日)、布施町(1925年4月1日)、布施市(1937年4月1日)と変遷し、東大阪市になったのは、1967年2月1日である。駅名が「布施」と改称されたのは、1925年9月のことであるから、丁度、町制施行に伴って、変更されたことが分かる。
東大阪市になった段階で「布施」の地名は消えたが、町制施行以来、40年以上に渡って親しまれてきた「布施」の駅名は、そのまま残されたということであろう。
東大阪市の市役所などは、布施駅周辺には存在しないため、「布施」を「東大阪」などと改称するメリットよりも、駅名が改称されることのデメリットの方が勝ったということもあるのかもしれない。
いずれにせよ、地名と駅名の不一致として、なかなか、面白い事例である。
ところで、この駅は近鉄大阪線と奈良線が分岐する要衝である。
駅の今里駅方で複々線が上下2階建ての複線高架に変わり、2階部分が大阪線、3階部分が奈良線専用の島式1面2線ホームで、その両側に通過線も備えた大きな駅であるが、鶴橋駅と近接していることもあり、優等列車は一部を除いて停車しない。大阪線~奈良線相互間の乗り換えについては、鶴橋駅経由でも、布施駅~鶴橋駅間の往復運賃が不要となる特例があるなど、興味が尽きない駅である。


大阪難波駅から出発したちゃり鉄号の進行方向に向かって、奈良線の隣接駅は河内永和駅、大阪線の隣接駅は俊徳道駅であり、この両駅をつなぐように南北に走るJRおおさか東線とは、各々の駅で乗り換えができる。おおさか東線は、かつては、城東貨物線と呼ばれる貨物専用線であった。まれに、DD51が牽引する貨物列車が通過するのを目撃したことがある。
地図で見ると、布施を含めた3つの駅でデルタ地帯を形成しており、それぞれの立体関係も表現されていて興味深い。近鉄の路線は、JRおおさか東線を跨ぐように描かれており、実際、そのようになっている。JRおおさか東線も高架路線であるため、高架を跨ぐ高架は更に高くなり、近鉄の高架は13メートルに達する。近くで眺めても、非常に高さがある。
鉄道路線では、後から建設された路線が、先に建設された路線を跨ぐように建設されるのが普通なので、現状から考えると、近鉄の高架がJRおおさか東線の高架よりも、後に建設されたように思われる。
しかし、開業時期で比較すると、近鉄の前身である大阪電気軌道が、この付近の路線を開業した時期の方が、JRおおさか東線の前身である城東貨物線の開業よりも古い。
つまり、大阪電気軌道が地平路線として開業した後に、城東貨物線が高架線として開業し、更に、近鉄時代になって地平路線が高架化されるに至って、城東貨物線の高架を跨ぐように建設工事が行われたということである。

更に注意深く地図を眺めるならば、面白いことに気がつくかもしれない。
大阪線を走る「ちゃり鉄1号」は、大阪上本町駅から各駅に停車して、ここ、布施駅に達した。この次の駅は、俊徳道駅である。
今里駅方から東進してきた線形をたどると、そのまま東進して河内永和駅に向かうのが自然に思えるが、大阪線は、ここで、大きく南方向に転じて、進路は南東に向かう。
線形から見ると、奈良線の方が本線で、大阪線が支線の位置づけにあるように思えるのである。
しかし、現在の路線名称では、大阪線が大阪上本町駅から布施駅を経て、大きく進路を変えて、俊徳道駅に向かい、奈良線は、布施駅から派生して東進する路線となっている。なぜ、このような路線が形成されたのであろうか?
この疑問に答えるには、近鉄建設史を紐解く必要がある。
詳細は、文献調査記録で記述するとして、ここでは概略を述べるにとどめるが、大阪上本町駅の頁で既に述べたように、近鉄の前身である大阪電気軌道が最初に敷設した路線は、大阪線ではなく、現在の奈良線に当たる路線であった。開通は1914年4月30日のことである。
それに対し、布施駅から分岐する路線は、当初、国分線として建設され、1924年10月31日に八尾駅、1925年3月21日に恩智駅まで開業した。八尾駅延伸の段階で、上本町駅~奈良駅間の開通から10年が経過している。
その後、1927年7月1日に、八木線として奈良県の八木駅から延伸してきた路線との間で、恩智駅~高田駅間が接続され、布施駅~八木駅間の全線が開通した。また、開通を機に国分線区間は八木線と改称された。
更に、1929年1月5日には、八木駅~桜井駅間の桜井線が開通し、翌1930年2月1日には、布施駅~桜井駅間を桜井線と改称した。
このように、上本町駅~奈良駅間の既設路線に対し、布施駅から分岐する新設路線として建設が始まった、というのが、大阪線の歴史であり、布施駅で、東から南東に大きく変更される進路に、その歴史が現れているのである。
鉄道史の詰まった布施駅の北口には、いくつかの大型ショッピングセンターがあり、高層階の窓からは、駅を見下ろすことが出来た。子供の頃は、絶好の観察スポットであった。
興味の尽きない布施駅であるが、旅を進めることにしよう。7時発。
高架に沿って進むと、程なく、近鉄の高架がJRおおさか東線の高架をオーバークロスする地点に達する。ここでは、双方に駅が設けられている。俊徳道駅である。7時3分着。
俊徳道駅
俊徳道駅は、1926年12月30日の開業。布施駅から続く高架の先にある2面2線ホームの小駅であったが、2008年3月15日に、城東貨物線がおおさか東線として旅客営業を開始するに当たり、JR俊徳道駅が開設され、JRとの乗換駅となった。駅の近鉄八尾駅方には、アーチ橋が架橋されており、JRおおさか東線は、この下をアンダークロスしている。
駅名は、駅の南にある、俊徳街道に由来する。
近鉄大阪線と奈良線の間を行き来するには、通常、布施駅経由となるが、俊徳道駅ではJR俊徳道駅、河内永和駅ではJR永和駅との間で、JRおおさか東線との乗り換えを行うという、無駄な遊びも楽しめる。尤も、その遊びを楽しむ人は、ごく限られているとは思うが。
JRと近鉄の車両が、高架上ですれ違う光景を撮影しようと、しばらくカメラを構えてみたが、滞在時間中には、そのような光景は見ることが出来なかった。7時8分発。


俊徳道駅を出発すると、程なく、高架が終了し、線路は地平に降りてくる。その先の停車駅は、長瀬駅である。7時11分着。
長瀬駅
長瀬駅は、1924年10月31日の開業。地平の2面2線ホームを持つ。
一駅前の俊徳道駅で交錯したJRおおさか東線にも、JR長瀬駅があり、駅としての開業は2008年3月15日のことであった。ただし、JR長瀬駅は、JRおおさか東線の開業以前は、貨物支線の蛇草信号場であり、信号場としての開設は1943年10月1日まで遡る。
この両駅の間は、700m程の距離である。

長瀬駅は近畿大学への最寄り駅であり、時間帯によっては、学生で賑わうが、この日は、まだ、通学時間帯ではなかったので、駅前には、徹夜明けと思しき学生がたむろしているだけだった。7時17分発。




駅の先に、出発した各駅停車と高架への登りが見える。
長瀬駅から先は、線路に沿った住宅地を走り抜けていく。
一旦、踏切を渡り、線路の南西側から北東側に移り、程なく、弥刀駅に到着する。7時26分着。
弥刀駅
弥刀駅は、1925年12月10日開業。周辺の旧地名に由来する駅名であるが、その名残は、近江堂地区にある彌刀神社などに見ることが出来る。近江堂は、「大水戸」の転訛だと言う。

普通列車のみが停車するローカル駅であるが、以下の詳細地形図で示すように留置線や待避線の他、上り線から下り線への渡り線があり、駅の規模は島式2面4線と、比較的大きい。取材時も、通過待ちで待避線に入った普通列車やアーバンライナーnextの回送車両が見られた。
なお、高安検修センターなどから信貴線に入線する車両は、分岐駅の河内山本駅で上り線から下り線に転線することが出来ないため、一旦、上り線を弥刀駅まで回送されてきて、この駅の南東側にある渡り線を通って下り線に入り、河内山本駅構内の渡り線を経て信貴線に入線するという運用が行われている。

駅は住宅地の中にあるが、駅の改札は、商店が軒を連ねる路地に面しており、街場の駅といった雰囲気もある。大阪上本町駅行きのホームには、通勤・通学の乗客が見られる中、私は、近鉄八尾駅方に向かって出発する。7時31分発。





弥刀駅を出発すると、「ちゃり鉄1号」は、近鉄大阪線のルートから少し外れて、長瀬川沿いのルートを進む。やがて、近畿自動車道の高架と、中央環状線と通称される府道2号線の大通りを横切る。中央環状線に沿って南西に進むと、久宝寺緑地である。
我が「ちゃり鉄1号」は、逆に、北東に進み、再び高架になった近鉄大阪線に沿って、東に転じると、程なく、久宝寺口駅である。7時37分着。
久宝寺口駅
駅の開業は、1925年9月30日で、現在は、2面2線ホームの高架駅である。
久宝寺口の駅名の由来となった「久宝寺」は、聖徳太子の建立とされているが、伝承であり詳細は分からない。現在は、浄土真宗本願寺派の寺院・顕証寺を中心とする寺内町を形成している。また、久宝寺緑地は、鶴見・大泉・服部の各緑地と合わせて、大阪四大緑地の一つである。小学生時代の母校の遠足で訪れたこともあり、私にとっては、久宝寺よりも、久宝寺緑地の方が馴染み深い。
JR関西本線(通称:大和路線)にも「久宝寺」駅があるが、両駅の間は、市街地を挟んで1.5km程度離れており、乗り換え駅としては機能しない。
この先、JR関西本線と近鉄大阪線は、徐々に距離を縮めながら、近鉄大阪線が大和川を渡る直前で立体的に交錯するまで、概ね並行するのだが、乗換駅は存在せず、かつてのライバル関係を現在に伝えている。
バスの出発を見送った後、高架駅を後にする。7時42分発。



久宝寺口駅を出発した後は、高架沿いに市街地を走る。この辺りは、まだ、市街地のただ中である。
直線状の高架沿いに走ること4分。近鉄八尾駅の駅前広場に達した。7時46分着。
近鉄八尾駅
近鉄八尾駅は、1924年10月31日に、大軌八木線の八尾駅として開業した。その後、1928年8月に大軌八尾駅、1941年3月15日に関急八尾駅、1944年6月1日に近畿日本八尾駅、と改称し、近鉄八尾駅となったのは、1970年3月1日のことである。
なお、JR関西本線にも八尾駅があるが、両駅間は、やはり、1.5km程度離れている。

八尾は、大阪南東部の中核都市で、市制都市である。それに見合うように、駅は、相対式2面2線のホームを持ち、ロータリーのバス停からは、バスが頻発している。高速バスも発着するが、近鉄の列車種別では、普通列車と準急が停車するのみで、急行、快速急行、特急は停車しない。
布施駅や鶴橋駅からも近接しており、この辺りの、速達輸送は、準急が担うということであろう。
八尾の地名の由来について、「角川日本地名大辞典27 大阪府」には、「弓矢の製作技術に秀でた氏族が住したとするものや、旧大和川の流れが鳥の下肢状に何本にも分流したとするものなど、いくつかの伝承がある。また天文22年に三条西公条が八尾木(よおぎ)を訪れた時の「吉野詣記」には、八枚重ねの尾を持ったウグイスがいたことにちなむという話が見える」とある。
駅前で写真を撮影して、出発する。7時51分発。


近鉄八尾駅を出ると進路は東向きに緩やかに左カーブし、生駒山地に向かって直進していくような線形になる。高架から地平に戻って程なく、河内山本駅に到着。7時59分。
河内山本駅=河内国分駅
河内山本駅

河内山本駅は、1925年9月30日に、大阪電気軌道八木線の山本駅として開業した。その後、1932年12月に大軌山本駅と改称された上で、1941年3月15日の関西急行鉄道開業時に、河内山本駅と、再度、改称された歴史を持つ。
例によって地図を眺めてみると、大阪線は、ここから90度ほど南に進路を変更して、生駒山地に沿って、南下していくようになる。
それとは別に、生駒山地に向かって東進していく路線があり、これは、信貴線である。
布施駅周辺の奈良線と大阪線の関係を思い出せば、ここでも、信貴線と大阪線に、同じ関係を見出すことができそうだが、信貴線の開業は1930年12月15日で、大阪線の開業よりも新しい。
改めて、地図をよく見てみると、大阪線が南に向かってカーブしていく途中から、信貴線が東に分岐しており、後付で信貴線が敷設された歴史が現れている。

さて、到着した河内山本駅は、2面4線の大阪線と1面1線の信貴線の、合わせて5線が貫く大形駅である。駅自体も大阪線の線形に合わせてカーブしており、駅東側の踏切からは、ホームの曲線を間近に眺めることができる。
大阪近郊区間になるため、普通、準急のみの停車であるが、列車の往来は激しく、隣接する高安駅の車庫に出入りする回送列車が退避していることもある。この日も、伊勢志摩ライナーの回送列車が停車していた。
駅は橋上駅舎となっており、大きな跨線橋のように見える。



2015年9月には、近鉄全線を巡る旅を行ったが、その際には、信貴線にも乗車した。
1400系2両編成の普通列車が、わずか2駅の線内で折り返し運転を行っているだけのローカル線だが、終点の信貴山口駅からは、ケーブルカーで高安山に登ることができ、長閑な旅を楽しむことができた。
信貴線の線路は、ホームの西側で、直ぐに途切れており、現在は、大阪上本町駅からの直通列車などは運転されていない。検車などで信貴線に出入りする車両は、一旦、弥刀駅まで回送されてから、河内山本駅の東側で、渡り線を経由して信貴線内に出入りするようだ。

~2015年9月~

~2015年9月~
以下に示すのは、この河内山本駅周辺の詳細地形図である。この図と、弥刀駅のページで示した図とを合わせてみることで、信貴線車両の運用が分かる。

まず、信貴線から高安検修センター方面に向かうには、①の信貴線から、②の渡り線を経て大阪線の下り線に入り、河内山本駅でスイッチバックして、③の高安駅方面に向かうことになる。
逆に高安検修センター方面から信貴線に向かうには、③の高安駅方面から大阪線上り線で河内山本駅を通過して、④の弥刀駅まで至り、弥刀駅でスイッチバックして、上り線から下り線への渡り線を経て、大阪線の下り線に入って、河内山本駅に戻る。更に、②の渡り線で信貴線に入り、①の信貴線方面に進むという運用になるだろう。なかなか、複雑な運用ではある。
この日は、信貴線列車はお出かけ中で、滞在中に、駅に発着することはなかった。
駅名は周辺地名に由来しているが、その山本という地名は、「角川日本地名大辞典27 大阪府」によると、「新田開発により当地を開いた山中庄兵衛・本山重英の頭文字をとったことによる」とある。
8時9分発。
高安駅までは、ちゃり鉄の行程で、1キロあまり。
出発すると、加速も程々に、高安駅に到着する。8時12分着。
高安駅
到着した高安駅は、河内山本駅と同様の橋上駅で、両駅は瓜二つである。
実際、開業は1925年9月30日で、河内山本駅と同日であり、橋上駅舎の供用開始も1961年3月で共通している。
この高安駅で分岐していく支線はないが、駅の南側には、高安検車区と高安検修センターが、広大な敷地に広がっており、大阪上本町を発着する普通列車の8割程度が、この、高安駅で折り返している。
高安という地名は、鎌倉時代から見られるようだが、その由来について、詳細はよく分からない。


ところで、駅の南側には、これも、河内山本駅と同様に踏切が隣接しており、ホームに発着する列車の様子がよく見える。普通・準急の停車駅で、大阪の近郊区間でもあり、発着・通過列車は多い。また、検車区に入出場する回送列車も多く見られる。
この時も、検車区に入場する回送列車が停車していた。




踏切から南を見やると、検車区の広大な敷地に留置されている車両が見える。
検車区とはいわゆる車庫であるが、様々な車両を眺めることが出来て、楽しみは尽きない。


検車区に留置されている車両を眺めながら、高安駅を出発する。8時20分発。
高安駅を出発すると、大阪線は、国道170号線(大阪外環状線)を跨ぐために、高架となり、そのまま、恩智駅に到着する。8時30分着。
恩智駅
恩智駅は、大軌八木線時代の1925年9月30日の開業で、当初は、終着駅であった。また、高架化されたのは、1970年のことである。
開業後、恩智駅から先の区間が開業し、高架化もされたため、終着駅時代の面影は残っていない。大阪線の大阪近郊区間では、ここが最後の高架区間でもある。

私は、子供の頃、恩智駅の事を、「おんちえき」だと思って、一人で面白がっていた。
しかし、この「恩智」という地名は、「角川日本地名大辞典27 大阪府」の記載によれば、「『おんち』ともいい、恩地とも書いた」とある。強ち、子供の時の私の感覚は、「音痴」では無かった。
そんな事を思い出しながら、恩智駅を出発する。8時35分発。


恩智駅を出発した「ちゃり鉄1号」は、生駒山地の西側山麓を南に向かって進んでいくが、この辺りまで来ると、住宅地の中に農地も現れ始め、長閑な風景が広がってくる。

夏晴れの空の下、長閑な風景の中をのんびり走り、8時46分、法善寺駅着。
法善寺駅
駅は、1927年7月1日の開業。大軌八木線の恩智駅~高田駅開通時に設けられた駅である。2面2線の相対式ホームで、大阪線の駅の中では、比較的、地味な印象の駅である。
駅名の由来となった「法善寺」は、現存しない。
かつて、当地に存在した「法禅寺」がその由来で、駅の西に現存する「壺井寺」が、「法禅寺」に由来を持つ寺院であるようだ。
普通の他、区間準急も停車するローカル駅で、折しも、この両者が駅に停車中であった。8時49分発。




法善寺駅の次は、堅下駅であるが、この駅間は、600mほどしか離れておらず、「ちゃり鉄1号」も2分の走行で堅下駅に到着した。8時51分着。
堅下駅
堅下駅は法善寺駅と兄弟駅であり、開業日も同じ1927年7月1日である。駅の構造も、2面2線のホームで、地下コンコースと改札口を持つなど、共通点が多い。
駅名は、かつての周辺地名に由来する。
JR関西本線には、柏原駅から2駅奈良県寄りに河内堅上駅があり、それぞれ、堅下村、堅上村に属していた。現在は、柏原市に含まれている。「角川日本地名大辞典27 大阪府」の記述によると、堅下、堅上の地名は、「続日本紀」に初見される古い地名のようだが、「堅」が何を示しているのか、詳細が分からない。同書には、堅上村、堅下村が所属した大県郡が古くは、「片塩」とも称したと記述されていることから、この辺りに手がかりがあるように思われる。


駅に停車するのは普通と区間準急。これも、法善寺駅と同じである。

駅の西500mには、JR関西本線と近鉄道明寺線の柏原駅がある。
乗換駅と言うには、無理のある距離であるが、近鉄の場合、定期乗車券の乗客に限って、運賃が通算される特例が適用される。
また、駅の東側の生駒山麓には、果樹園の記号が多数表示されているが、これらは、ぶどう農園である。柏原市の生駒山麓はぶどうの一大生産地で、その中でも、堅下は、大阪のぶどう発祥の地である。あまり知られてはいないが、大阪は、かつて、ぶどうの生産量、日本一となったことがある。私も、小学生時代に、家族に連れられて堅下のぶどう園を訪れたことがある。

駅の北側には踏切があり、丁度、停車していた区間準急が出発していくのを見送るタイミングであった。
踏切からその列車の姿を追うと、隣の法善寺駅に停車する様が目視できた。8時55分発。


堅下駅から次の安堂駅までの駅間距離も短いが、「ちゃり鉄1号」の走行ルートは、線路沿いから少し外れるため、1キロ強の走行となり、9時、安堂駅着。
安堂駅
安堂駅も、大軌八木線の高田延伸に伴って、1927年7月1日に開業した。1999年12月16日に使用が始められた瀟洒な橋上駅舎を持つ。

駅の南側には安堂第1号踏切があるが、この踏切を渡る車道は、踏切の西側で直角の急カーブを描き、北に向きを変える。踏切前後での無理な線形のように感じるが、その先には、JR関西本線が並行しているために、この様な線形になったのであろう。
近鉄大阪線とJR関西本線の間は、この道路1本を挟んで数十メートルの距離であるが、乗換駅は設けられていない。
JR関西本線の前身である大阪鉄道が、この辺りの区間を開業したのは、1890年9月11日のことであり、開業当初、柏原駅の次駅として設けられた亀瀬仮停車場は、現在の、河内堅上駅よりも奈良県側に位置した。
現在、同区間には、高井田駅、河内堅上駅があるが、高井田駅の開業は1985年8月29日、河内堅上駅は、前身の青谷信号所の開設が1911年11月5日のことである。これらの2駅は、並行区間から外れた奈良県寄りにあり、安堂駅が開業した1927年当時、国鉄関西本線の並行区間には、駅は存在しなかったのである。
近鉄の安堂駅が開業したことにより、国鉄関西本線に乗換駅を設ける動機が生じうるが、国鉄関西本線の柏原駅との距離が短すぎる上に、乗換需要がそれほどあるとも思われない。
結果として、今日に至るまで、この並行区間は、付かず離れずの関係を保ったまま、ついに、交わることはなく推移しているものと思われる。
ところで、JR関西本線を越えて、500mほど西に進むと、大和川河畔に、近鉄道明寺線の柏原南口駅があるが、安堂駅と柏原南口駅間の乗り換えに関しては、堅下駅と柏原駅の場合と同様、定期乗車券の場合に限り、運賃が通算される。あまり需要のなさそうな特例ではあるが、定期の乗り換え客が居るのかもしれない。


夏晴れの午前。気温が上昇する中、駅前の藤棚の下では、地元の方が、涼を求めて一休みしていた。9時4分発。

安堂駅から河内国分駅にかけては、国道を通るのが安直なルート選択となるだろうが、ちゃり鉄での国道通行は、避けられるなら避けたい。
そこで、生駒山麓に沿う道を選んで進むことにしたのだが、この道は、意外とアップダウンがあり、荷物満載の「ちゃり鉄1号」のペダルは重かった。
地図で計測してみると、安堂駅を出発してから丘陵地の上に登る区間では8%程度の勾配であった。この程度の勾配であれば、サドルに座ったまま、登り続けることが出来るものの、久しぶりの自転車での旅ということもあり、時速10キロを下回る鈍足となった。
ヘロヘロになって坂を登っていると、ママチャリのおばちゃんに軽々と追い抜かれた。
一瞬、「えっ!?」と驚いたが、余りにも軽いおばちゃんのペダリングを疑問に思い観察してみれば、おばちゃんが乗っているのは電動自転車であった。電動自転車も、随分普及したもので、山手の住宅地などでは、よく見かけるようになった。
上り坂を終わり、丘の上の平坦路に出ると、あっという間に追いついたのだが、おばちゃんは、何故か対抗心むき出しに、抜かれまいと加速し始めた。自転車やランニングでは、時折、こういう人に遭遇する。
抜くに抜けず、加速できないまま、しばらく、後について走る感じになる。
丘を下り始めると、おばちゃんとも進路を分かち、JR関西本線の下をくぐって、大和川沿いに出た。
国道の国豊橋で大和川を渡る。
西を眺めれば、JR関西本線をオーバークロスした近鉄大阪線を行く列車が、大和川橋梁で大和川を渡るところであった。
東を眺めれば、JR関西本線の快速列車が、大和川右岸に沿って、奈良県に向かって行った。


大和川を渡ると、河内国分駅である。9時18分着。
河内国分駅=大和八木駅
河内国分駅

河内国分駅は、その駅名が示すように、河内国の国分寺に由来する駅名である。1927年7月1日の開業当初は、国分駅と称していたが、1941年3月15日の関西急行鉄道発足時に、河内国分駅と改称された。
現在、国分寺そのものは存在していないが、駅の東方の国分東条(こくぶひがんじょう)町には、河内国分寺跡と比定されている寺院跡がある。

国分は、生駒・金剛山地に峡谷を刻んだ大和川が、金剛山地の西麓を流れてきた石川と合流し、大阪平野に流れ出すところに開けた平地であり、古くは、河内・大和国境、現在は、大阪府・奈良県の府県境に位置する、歴史的な交通の要衝である。
この辺りの地図を眺めてみると、大和川沿いにはJR関西本線や国道25号(奈良街道)が通っており、その南の丘陵地帯を近鉄大阪線や西名阪自動車道、国道165号(長尾街道)が低い峠で越えている。
さらに南に下ると、標高293.6mの寺山と標高473.9mの二上山(雌岳)との間にある穴虫峠を近鉄南大阪線と府県道が越えており、二上山の南側では、歴史的にも有名な竹内峠を南阪奈道路と国道166号(竹内街道)が越えている。
一番北にあるJR関西本線と、一番南にある近鉄南大阪線との間は、狭いところでは、直線距離にして3kmに満たない。また、西名阪自動車道と南阪奈道路との間も、狭いところでは2km程度である。
これほど狭い区間に3つもの鉄道路線や2つの高速道路が密集していることからも、いかに、この地が、交通上、重要な地域であるかが分かるが、とりわけ、近鉄大阪線と南大阪線に関しては、同一鉄道の別路線が近接していながらも、接続することもなく、別々に運行されている点で興味深い。
この2つの路線は、大阪線が標準軌、南大阪線が狭軌で、軌間も異なるのだが、同一鉄道会社の中で、このように、軌間の異なる路線が運行されているのは、これらの路線が、別々の鉄道を起源を持つことに由来する。
少し冗長になるが、その歴史を概観すると、近鉄大阪線は、既に述べたように、大阪電気軌道を起源に持つ路線であり、南大阪線は道明寺~古市間で開業した河陽鉄道を起源に持つ路線である。
大阪電気軌道は、その後、関西急行鉄道を経て近畿日本鉄道となったが、河陽鉄道は、河南鉄道、大阪鉄道、関西急行鉄道と変遷し、最終的に近畿日本鉄道となった。ここで登場した大阪鉄道は、JR関西本線の前身である大阪鉄道とは別の鉄道会社である。
異なる起源を持つ大阪線と南大阪線は、その建設当初から、軌間も異なるライバル路線であったわけだが、現在の路線配置や駅名から、その歴史が垣間見られるのは面白い。

「ちゃり鉄1号」は、そんな歴史的要衝の河内国分駅で小休止を取り、国境越えのアップダウンに備えることにした。5時過ぎの出発から約4時間。燃料補給の時間でもある。
駅に併設された商業施設で軽食を入手し、空腹を満たした後、島式2面4線の大型駅の構内を撮影する。
東口の方は、商業施設が位置する関係で、構内写真の撮影がしにくかったが、急行以下の全列車が停車する要衝駅は、列車の発着も頻繁だった。大阪上本町を始発とする普通列車の中には、河内国分が終点となる列車もある。
20分弱の停車の後、9時37分発。いよいよ、奈良県に向かって、峠越えの道を進むことになる。

ルートは国道165号を経由することになるが、河内国分駅の標高は約20m、この先の峠部で約60m、距離は約2.5kmであるから、勾配は1.6%程度で、それほどの勾配は感じない。ただし、交通量が多く、路側帯が狭いため、走行には気を使う。
緩やかな上り勾配を走行して、大阪教育大前駅。9時46分着。
大阪教育大前駅

大阪教育大前駅は、大阪教育大の移転に伴って、同大学や柏原市の要請を受けて1991年12月6日に開業した駅であり、大阪線の駅の中では、最も新しい。
私が大阪線沿線に住んでいた1980年代には、この駅は開業しておらず、当時、書写した私鉄全線全駅シリーズの本にも、当然ながら、この駅の名前はない。
今でも、大阪線全駅名を暗証することが出来るが、小学生時代に覚えた暗証のリズムでは、「国分、関屋、二上…」と続くため、「国分、大阪教育大前、関屋、二上…」と暗証する際には、違和感を感じる。
駅の新設に伴って、付近の線形改良も行われ、駅開業後1年弱で、従来の玉手山トンネルが新玉手山トンネルに切り替えられた。この旧線の一部は、新玉手山トンネルの八木方出口付近の引込線に、その痕跡を留めているらしく、衛星画像を見ると明瞭だが、「ちゃり鉄1号」の運転当時は、その事実を知らず、引込線に気づくことなく、通過してしまった。

駅からは、歩道橋が、大阪教育大まで続いており、学生の姿が見られた。
辺りには、新しい学生向けのワンルームマンションも見られたが、国道沿いの坂道の上にあり、市街地からも離れているので、自転車などで通学するには不便な立地のように思われた。近鉄を利用して通学する学生が大半なのかもしれない。
比較的新しい、橋上駅舎を眺めつつ、大阪教育大前駅を出発する。9時50分発。

大阪教育大前駅からも、しばらくは上り勾配となる。左手には、西名阪自動車道の柏原インターを眺めつつ、カーブを曲がると、奈良県の標識が見えてきて、峠を意識することのないまま、府県境を越えた。「ちゃり鉄1号」は、いよいよ、奈良県に入った。

都道府県境は、一般的には、分水界などの明瞭な地形的境界に設定されていることが多いが、歴史的な経緯等によって、その原則に合わない境界が設定されていることも多い。
国道165号の大阪・奈良府県境を地図で確認すると、並行する原川は、府県境付近でも源流に達することはなく、奈良県内の関屋駅を越えた辺りで、貯水池と思われる「源流」に吸収されており、国道165号にある田尻峠も、奈良県内の屯鶴峯の東麓にある。
つまり、大阪・奈良府県境は、奈良県側への緩い上り勾配の途中にあることになり、現地を走行してみても、府県境付近で、「峠」を感じることがないのは、当然なのである。
実際には、付近にあるアップダウンによって、奈良県側に入ると、何となく、峠を越えて、下りに入った感じがしていたのだが、正しくは、関屋駅を出て、二上駅に向かう途中で、地形上の分水界を越えていたのである。




府県境を越えて、田尻の交差点に達した「ちゃり鉄1号」は、ここで左折して国道から分かれ、近鉄の踏切を渡って、関屋駅前に出る側道に入る。
この踏切は、「大阪教育大前第3号踏切」と言う。
既に、府県境を越えて、奈良県に入っているのに、「大阪教育大前」を名乗る踏切が、関屋駅の近くにあって、一瞬戸惑う。
実は、近鉄の踏切は、大阪難波駅を起点として、駅から下り方向に向かって、前の駅名を冠して第1号、第2号、…という形で、次の駅の手前まで、機械的に踏切名と連番が割り振られているのである。
その規則が分かっていれば、ここに、「大阪教育大前」を名乗る踏切が現れる理由には納得がいくのだが、知らなければ、戸惑うことだろう。いや、そもそも、踏切の名前に注目などしない…のが、普通か。
因みに、国道165号線では、府県境直前の大阪府内最後の交差点に、「大阪教育大東」と言う名称を付けている。

側道に入って程なく、大阪線では初めて目にする長閑な丘陵風景の中に、関屋駅が見えてくる。10時3分着。
関屋駅
駅の開業は、1927年7月1日で、2面2線の橋上駅舎を持つ、標準的な大阪線のローカル駅である。
上り線側にも下り線側にも入口があるが、車道は下り線側にあり、上り線側は、駅の下り側にある「関屋第1号踏切」から歩道を通ってアクセスする形になっている。



程なく、大阪上本町駅に向かう準急がやってきた。
その準急の発着を眺めた後、長閑な駅を出発する。10時8分発。


関屋駅を出て、右手に分かれていく大阪線を見送ると、「ちゃり鉄1号」は、集落内の狭い道を登ってゆく。入り組んだ集落内の道の上りが平坦に転じる辺りが、大阪平野と奈良盆地の分水界なのだが、現地を走行している時は、その事には気が付かなかった。
丘陵の集落から、平野の市街地に下りてくると、程なく、二上駅に到着する。10時17分着。
二上駅
開業は1927年7月1日。相対式ホーム2面2線で地平駅舎を持つ。折しも、榛原行きの準急が停車中であった。駅周辺は、新興住宅地も造成されており、ベッドタウンとなっている。


駅名の由来は、言うまでもなく、駅の南西にある二上山にあるのだが、同じ、近鉄の南大阪線には、二上山に向かって直線距離で900m程度の位置に二上山駅があり、二上山への登山口としては、二上山駅の方が近い。
二上山駅は、1929年3月29日の開業で、二上駅の開業から1年半ほど後のことであるが、開業当時の大阪電気軌道と大阪鉄道は、お互いに旅客争奪戦を繰り広げたライバル会社同士であり、近接した位置に、似たような名前の駅を設けた理由が、類推できる。



駅周辺の撮影をしていると、今度は、大阪上本町への準急が到着した。
駅の上下両端に隣接して踏切があり、その踏切から駅の様子を撮影して出発する。10時23分発。


二上駅から近鉄下田駅までは、宅地の中を進む。
やがて、高層マンションも現れるようになり、一層、市街化が進む中、近鉄下田駅のロータリーに達する。10時32分着。
近鉄下田駅
開業は1927年7月1日。二上駅と似たようなデザインの地平駅舎に2面2線のホームを持つ。
開業時は、下田駅であったが、1944年6月1日には、近畿日本鉄道発足に伴い近畿日本下田駅と改称され、さらに、1970年3月1日に、近鉄下田駅と改称された。



近鉄下田駅の北北東には、1891年3月1日に大阪鉄道の下田駅として開業した、JR和歌山線の香芝駅があり、両駅間は直線距離で300m程度である。JRの下田駅は、長らく、下田駅を名乗っていたが、2004年3月13日に、香芝駅に改称された。
近鉄下田駅が、周辺に別会社の「下田駅」がないにも関わらず、「近鉄」と冠しているのは、かつて存在したJRの下田駅との区別のためであったのであろう。
香芝は周辺自治体の香芝市にちなみ、下田はその香芝市内の町域の一つである。10時38分発。

近鉄下田駅を出発し、国道165号線沿いに進むと、程なく、JR和歌山線の南馬場踏切を渡る。
ここで南東方向を眺めると、近鉄大阪線がJR和歌山線をオーバークロスしているのが見える。折しも、近鉄列車が、築堤上を通過していくところであった。
北西方向を眺めると、JRの香芝駅が間近に見えた。単線の先にあるせいか、近鉄下田駅よりも、ローカルな印象を受けた。


国道から外れて南に進むと、駅前の植え込みの緑と大きなロータリーが印象的な、五位堂駅に到着する。10時48分着。
五位堂駅
開業は1927年7月1日。2面4線の地上駅で、橋上駅舎を備える大型駅である。快速急行以下のすべての一般列車が停車。駅の西側には、1982年10月に開設された五位堂検修車庫があり、この駅を始発・終着とする列車も設定されている。この検修車庫では、車庫の公開イベントも行われており、鉄道ファンや親子連れで賑わう他、当日は、臨時列車も運行されているようである。
かつて、奈良線沿線の若江岩田駅付近にあった玉川工場は、この五位堂検修車庫の新設に伴って廃止されており、工場跡地は大型のショッピングモールになっている。



駅周辺を散策していると、ホームに見慣れないカラーの列車が停車しているのが見えた。団体臨時列車の「あおぞらⅡ号」だ。ホームでは、若い女性が列車を撮影しているようだったが、それもまた、見慣れない光景だった。検修車庫がある五位堂駅ならではの光景と言えよう。

五位堂駅から700mほど南には、JR和歌山線のJR五位堂駅がある。
ここでは、下田駅の場合とは異なり、JR側の駅が「JR」を冠している。
実際、近鉄の五位堂駅が1927年7月1日に開業したのに対し、JRの五位堂駅は、前身の五位堂信号場の開設が1940年2月8日、駅としての開業は2004年3月13日で、JR駅の方がかなり後輩である。
両駅とも、奈良県香芝市にあるが、近鉄の五位堂駅は香芝市瓦口にあり、JRの五位堂駅は香芝市五位堂にある。「五位堂」を名乗るなら、JR駅の方が相応しいようにも思われるが、近鉄の駅名を決定する際には、論争があったという話もある。JR駅の名称決定にあたっては、香芝市の意向があり、その際、近鉄の駅と区別するために、「JR」と冠したようだ。
鉄道建設史は、かように、ややこしく、それが面白くもある。
なお、この「五位堂」の地名そのものの由来については、「角川日本地名大辞典29 奈良県」によると、「大伴金村の末裔五位殿某に由来するといい、当時はその居住地であったとも、その菩提所法樹寺が建立されたともいう」とのことである。

10時53分発。
五位堂駅から築山駅にかけては、国道165号線が近鉄大阪線に寄り添うようにして進む。
上本町方の五位堂第4号踏切から築山駅を遠望したり、通過する特急「しまかぜ」を撮影したりしながら、築山駅に到着した。11時6分着。
築山駅


築山駅には、築山第1号踏切側から回り込んでアクセスする形になる。駅舎は、国道から踏切を渡った上り線側にあり、下り線側には、跨線橋を渡ってアクセスする形になっている。
駅の開業は1927年7月1日。相対式2面2線ホームである。
駅付近からは、住宅地に遮られて見えないが、駅の周辺には古墳群があり、駅の南には、はっきりとした前方後円墳の築山古墳がある。「築山」の地名の由来は「角川日本地名大辞典29 奈良県」によると、「多くの古墳が築かれたことに由来するという」とある。また、駅前の車道は、駅付近でクランクしており、クランクの一方に築山駅舎、もう一方には商店がある。


当たり前の事だが、地図で見ると、現地の特徴がはっきりと現れている。

近鉄大阪線は、近鉄の中でも幹線中の幹線であり、全線が複線電化されているため、ローカル線風情のある駅というのは少ないのだが、築山駅は、その中にあって、ローカル駅色を感じる駅であった。11時9分発。
築山駅から国道165号線を東進した後、県道に入って南進すると、商業ビルなどが目立つようになり、大和高田駅に到着する。11時17分着。
大和高田駅
大和高田市は、奈良県中和・葛城地域の中核都市であり、奈良県下においては、最も人口密度が高い都市でもある。それを裏付けるように、市域中心部には、近鉄大阪線の大和高田駅の他、JR和歌山線の高田駅と、近鉄南大阪線の高田市駅がある。


それぞれの駅の開業は、大和高田駅が1925年3月21日、高田駅が1891年3月1日、高田市駅が1929年3月29日である。利用者数では、大和高田駅が最も多く、高田駅が最も少ない。近鉄の大和高田駅や高田市駅からは、乗り換え無しで大阪市の中心部に出ることが出来るが、高田駅からだと、王寺駅経由で遠回りになる上に、乗換が生じる場合もあり、利便性の面で近鉄には太刀打ちできない。それが、利用者数の差異に如実に現れている。
ところで、大和高田駅は、大阪電気軌道としての開業当初は高田駅を名乗っていた。JR和歌山線の駅名も、大阪鉄道としての開業当初から高田駅であり、開業当初は、隣接しない両駅がともに高田駅だったことになる。
また、大和高田駅は、高田駅としての開業当初は、大軌八木線の終着駅として、八木方面と結びついていた。大阪方面と結びついたのは、恩智駅~当駅間が開業した1927年7月1日のことである。
一方、高田駅は、開業当初から、大阪鉄道の駅として、大阪方面と結びついていた。
そうなると、「高田駅」から大阪や八木方面それぞれに向かう旅客が、2つある駅のどちらから乗車するかを間違えれば、目的地と真逆の方向に進んでしまう時期があったことになる。
加えて、大阪方面への速達路線を開業させた大軌にしてみれば、自社路線の優位性をアピールするために、自社の高田駅をクローズアップする動機も生じるだろう。
それが要因かどうかは分からないが、後輩に当たる大軌の高田駅は、1928年8月に、「大軌高田」駅に改称されている。
これが、現在の「大和高田」駅に改称されたのは、1941年3月15日のことで、大阪電気軌道と参宮急行電鉄が合併し関西急行鉄道が発足した事に伴う改称であった。
高田市駅は?と言えば、この駅は、大阪鉄道の駅として開業した当初は「高田町」駅を名乗っていた。
既に、何度か登場したが、南大阪線に関わる「大阪鉄道」は、現在のJR線のルーツに当たる「大阪鉄道」とは異なる会社である。
「高田町」駅が「高田市」駅に改称されたのは、1948年1月1日のことであり、これは、同日に、地元自治体の高田町が市制を施行し大和高田市に移行したことによる。
駅名が「大和高田市」駅とならなかったのは、当時、既に、大阪線も南大阪線も、近鉄の一路線となっており、大阪線の駅が「大和高田」を称していたため、それとの混同を避けるためであったのであろうが、そうしてみると、「大和高田」の駅名の誕生は、市制施行よりも早かったことになる。
余談だが、JRグループの中には、会津高田(JR東日本只見線)、越前高田(JR西日本越美北線)、陸前高田(JR東日本大船渡線)という様に、「高田」を名乗る駅がいくつかある。
これらは、1900年代に入ってから開業した後発の駅であり、既に存在していた「高田」駅と区別するために、旧国名を冠している。
JR和歌山線の高田駅は、1891年の開業で、「大和」のつかない、「高田」駅であるから、この駅が、最も古い高田駅なのであろう、と思うと、実はそうではなく、かつてのJR東日本信越本線、現在の、えちごトキめき鉄道にある高田駅が、1886年8月15日の開業であり、最も古い。
信越本線は元々は官設鉄道であり、私鉄である大阪鉄道をルーツに持つ和歌山線とは、格が違うのだが、開業当時に遡れば、一方は、新潟県の官設鉄道の駅であり、一方は、奈良県の私鉄の駅であったことになるわけで、同名の「高田駅」が存在していても、問題はなかったのであろう。
ついでに言えば、近鉄にも、かつては、旧国名を冠した「美濃高田駅」が、養老線内に存在した。現在は、養老線が養老鉄道になったため、近鉄の駅ではなくなったが、この両駅を区別するために、車内放送でも、「高田駅」と省略せずに案内していたようである。
高田駅について、長いうんちく話になったが、そうした歴史的変遷を経た大和高田駅は、一部の特急も停車する主要駅であるものの、待避線もない、相対式2面2線のシンプルな高架駅である。
駅舎は複合商業施設となっており、近畿の駅100選にも選定されているのだが、駅前も商業地であり、「ちゃり鉄1号」を停車して、駅構内に立ち入るのは避けることにした。11時22分発。

商業施設が目立つ大和高田駅を出発し、市街地を抜けると、辺りには、水田なども現れ、長閑な風景になってくる。葛城川の堤防上には、踏切があり、ここから八木方面を眺めると、下り傾斜の先に、相対式2面2線のホームを持つ小駅が見えてくる。松塚駅である。11時30分着。
松塚駅

~2015年7月~
松塚駅は、築堤上にホームがあり、駅舎は築堤の下にある。
隣の大和高田駅は、特急も停まる主要駅であるが、この、松塚駅は、日平均の利用者数が1000人未満の小駅であり、周辺の水田風景も相まって、長閑な雰囲気である。2014年12月21日には、無人化されており、大阪上本町駅を出発した「ちゃり鉄1号」沿線で、最初の無人駅である。
駅名は周辺地名に由来しており、「角川日本地名大辞典29 奈良県」の記述によれば、「江戸期の古地図の中に『王塚』という古墳が表されているが、この塚にちなむといわれている(大和高田市史)」のだという。



駅の八木方で車道が線路の築堤下をトンネルで抜けており、その先に築堤と同じ高さの、小高い空き地がある。
そこに登ってみると、松塚駅のホームが間近に眺められた。
しばらくすると、目の前の線路を通って、大阪上本町行きの準急が到着した。
長閑な昼下がりの松塚駅であった。11時36分発。
真菅駅


松塚駅を出ると、すぐ東側の曽我川を渡ることになる。県道側に迂回して、曽我川を越える橋梁の上に登れば、大和の名山が一望された。南西には、金剛・葛城山の山並み、西には、フタコブラクダのような二上山、南東には、吉野の山並みを背景に、畝傍山が見えている。
「ちゃり鉄1号」の行程では、2日目に青山高原道路を走る予定だが、山行は計画しなかった。
いずれ、別の機会にでも、これらの山に登るちゃり鉄を走らせてみたいものだ。



県道から住宅地内に入り、真菅駅。11時48分着。
1925年3月21日に開業した、2面2線ホームの小駅である。住宅地に面した地上駅舎を持つように見えるが、コンコースや改札は地下にある。駅前は、狭い路地となっており、向かいに商店があった。
駅名は、開業当時、真菅村域内にあった事に由来するが、現在は、橿原市域に含まれ、真菅の地名は消えている。
松塚駅と隣合わせであるが、真菅駅の方が、利用者数が多く、駅のホームには、上下線とも、列車の到着を待つ乗客の姿が見られた。11時54分発。



真菅駅から八木駅に向かうには、市街地の中の小道を縫うようにたどるルートもあるが、「ちゃり鉄1号」は中和幹線である県道105号線側を周ることにした。
途中、飛鳥川の流れをまたいだ直後に、電化単線を渡る。
付近には、引込線もあり、工事車両も留置されている。
「はて、こんなところに単線の鉄道なんてあったかな?」と一瞬戸惑ったが、すぐに、新ノ口連絡線であることに気が付いた。
新ノ口連絡線は、近鉄橿原線と大阪線との間を往来するための連絡線で、橿原線の新ノ口駅の南から西に分岐して、近鉄大阪線の八木駅の西側から、大阪線に合流する路線である。


京伊特急や回送列車の一部がここを通過するのみで、一般の旅客列車は通らないため、あまり、乗車する機会はない。
私自身は、京都発賢島行きの「しまかぜ」で、この路線を通ったことがある。
前から2番めの単独席に座っていたため、新ノ口駅から渡り線をまたいで新ノ口連絡線に入り、単線を進んで大阪線へ合流する、珍しいルートの前面展望を楽しむことができた。大阪線への合流地点では、ビスタカーの通過を待った後、右手に八木連絡線を見ながら、複雑な分岐を渡って、八木駅構内へと進入していく。「しまかぜ」ならではの車窓風景であった。

~2015年10月~

~2015年10月~

~2015年10月~

~2015年10月~
新ノ口連絡線を渡り、八木駅北側の住宅地内を進んで、大和八木駅に到着する。12時12分着。
大和八木駅=三本松駅
大和八木駅

大和八木駅は、1923年3月21日、大阪電気軌道畝傍線(現近鉄橿原線)の八木駅として開業した。当時のホームの位置は、現在の八木西口駅の位置である。
その後、1925年3月21日に、大阪電気軌道八木線(現近鉄大阪線)が高田駅から八木駅に延伸し、乗り入れることになり、大阪線の八木駅の原型が出来上がった。
1928年8月には大軌八木駅に改称。
続く1929年1月5日には、八木線が桜井まで延伸されて桜井線と改称されるとともに、八木駅が桜井線上に移転。元々の八木駅は八木西口駅と改称され、畝傍線の単独駅となった。
この段階で、八木西口駅に向かう八木線の旧線は八木連絡線となったのである。
1941年3月15日には、関西急行鉄道が誕生し、桜井線が大阪線に改称されると同時に、駅名も大軌八木駅から大和八木駅に改称された。
新ノ口連絡線の新設は、1967年12月20日のことである。
大和八木駅周辺の地図を見ると、これらの路線の関係が一目瞭然である。

八木連絡線の存在意義は、橿原線と大阪線の間で、列車の往来を可能にすることにある。
現在は、橿原線から、高安検修センターや五位堂検修車庫に回送される車両が通過する路線であり、ここを通る一般旅客向けの列車は運行されていないが、かつては、上本町から橿原神宮方面への直通列車が運行されていた。
しかし、その線形を見ても分かる通り、八木連絡線は、橿原線橿原方面と大阪線大阪方面との連絡線である。橿原線京都方面と大阪線伊勢志摩方面との連絡にこの路線を使おうとすると、八木西口駅でスイッチバックして八木連絡線を通って大阪線内に入り、さらに、大阪線内で再度スイッチバックして、伊勢志摩方面に向かう必要が生じる。
近鉄の社史である「近畿日本鉄道100年の歩み」には、「京都・宇治山田間直通特急を設けるため、新ノ口・大和八木間に約1.6kmの単線短絡線を建設した」とある。これによって、2度のスイッチバックが解消し、「スムーズな運行が可能になった」。
なお、近鉄は、新ノ口連絡線が竣工した3日後の1967年12月23日には、宇治山田駅~鳥羽駅間の鉄道敷設免許を取得している。志摩線の原型となった三重電気鉄道の合併と合わせて、近鉄の伊勢志摩開発計画を推進するプロジェクトの一つが、新ノ口連絡線だったということが分かる。
このように、近鉄史上、重要な位置を占める大和八木駅であるが、現在も高架の大阪線と地平の橿原線が十字にクロスしており、その建設史を垣間見ることが出来る。

時刻は12時過ぎ。駅前のロータリーに戻り、高架の大阪線に発着する列車を撮影してから、高架下の蕎麦屋に入って、昼食とした。
なお、大和八木駅の南口からは、高速道路を通らないバス路線としては日本一の距離を走る、奈良交通の八木新宮線のバスが発着している。大和八木駅を出発して、五条駅を経由し、新宮駅に至るこの路線は、未成路線として有名な五新線を走るバス路線であるが、全線の距離166.8km、停留所数167、運行時間約6時間半という、破格のバス路線である。
橿原市街地にあって、紀伊半島のイメージはない大和八木駅前であるが、紀伊半島を経て、遠く、太平洋ともつながる、交通の要衝である。
蕎麦屋での昼食を手早く済ませ、「ちゃり鉄1号」は出発する。12時36分発。


次の停車駅は、耳成駅であるが、駅に直行する前に大和八木駅の南にある、JR桜井線の畝傍駅に立ち寄ることにした。
畝傍駅は、近鉄の大和八木駅よりも遥かに古く、明治時代の1893年5月23日の開業である。
駅の造りもそれを反映しているかのように重厚な作りであるが、1940年の昭和天皇の橿原神宮行幸に際して建築されたもので、貴賓室まで設けられている。畝傍駅の南西には、駅名の由来にもなった畝傍山があり、その山麓には、神武天皇陵もある。
但し、畝傍駅は、近鉄大阪線や橿原線に比べて不便なJR桜井線の駅であり、1984年10月20日には、桜井線の電化に合わせて、無人化されている。一日平均の乗車人員は500人弱で推移するなど、今となっては都会のローカル駅といった趣きである。

ところで、畝傍駅はJR桜井線の単独駅ではあるが、かつては、近鉄小房線が乗り入れていた。小房線は、現在の吉野線の前身である吉野鉄道が開通させた路線の一部であったが、橿原線や南大阪線の路線網の整備に伴い、1952年9月1日に廃止されている。
この小房線の跡は、地形図を見ると明瞭である。
以下の国土地理院の地形図を見て欲しい。

地図の中心付近にある「縄手町」の「手」と「町」の文字の間辺りから、左斜下に向かって緩やかにカーブを描きながら伸びる細い線上の道路が描かれ、その道路に沿って立ち並ぶ建物の記号も示されている。これは、ここに、かつて存在していた小房線の線路跡を転用した道路と、線路脇に立ち並んでいた、現存する住宅を示している。
この道は、「文化ホール」の「ホ」の字を貫いて、国道169号線に合流する地点で途切れており、その先には学校を隔てて、現在の近鉄橿原線の線路が描かれているが、道路や学校の整備に伴い、区画整理が行われ、廃線跡が消失したものと思われる。
近鉄小房線は、その前身の吉野鉄道時代は大軌畝傍線と接続しており、今では、この畝傍線も廃線跡となっている。
「ちゃり鉄1号」の旅では、小房線の取材は予定していなかったので、畝傍駅に立ち寄っただけで先に進んだが、いずれ、この付近の路線跡もちゃり鉄で走ることになるだろう。
近鉄史を振り返る上で、非常に興味深い大和八木駅周辺を探索した後、近鉄大阪線の線路付近に戻り、八木第7号踏切越しに大和三山の一つ、耳成山を眺めて東進すると、程なく、耳成駅に到着する。12時55分着。

耳成駅
耳成駅は、大軌桜井線の中間駅として、1929年1月5日に開業した。相対式2面2線ホームの地上駅であるが、改札は地下にある。大阪線の一般駅としては、標準的な作りの駅である。



駅の周辺は閑静な住宅地といった趣き。駅の大和八木側には、八木第10号踏切が隣接しており、ここから、駅構内の様子が間近に眺められる。
昼下がりの駅構内には、列車を待つ人の姿が散見された。


耳成駅の下り側にある耳成第1号踏切からも駅構内を眺めて、出発。12時59分発。
耳成駅から大福駅にかけても、長閑な郊外の住宅地の中を進む。
道路からは直接は見えないが、すぐ南をJR桜井線が並行しており、この先、桜井駅に向けて、少しずつ、近鉄の路線に近づいてくる。
途中、桜井線側には、香久山駅がある。勿論、大和三山の一つ、天香久山にちなむ駅名であろう。
のんびり走って、大福駅。13時6分着
大福駅
大福駅は、耳成駅と兄弟駅で、開業も同日、1929年1月5日である。相対式2面2線の地上駅である点や、地下改札を持つ点、駅の上り側に隣接して踏切(耳成第7号踏切)がある点も共通している。
ただ、2013年12月21日には、無人化されており、この点は、耳成駅と異なる境遇だ。大阪上本町から進んできて、松塚駅に続いて、2つ目の無人駅である。


駅の北には、東新堂という地名が見える。この地名のある集落の70mを示す標高点を通って、南南東から北北東に抜ける県道があるが、この道は、かつての大和鉄道の廃線跡を転用した車道である。桜井駅に向かって、緩やかにカーブする線形が、かつての鉄道跡であることを物語っている。
この東新堂には、大和鉄道の東新堂駅が存在していたが、大軌桜井線の大福駅開業に先立つ1928年12月19日までは、大福駅を名乗っていた。
集落名で考えると、東新堂駅への改称は妥当なところであろう。
もっとも、今では、大和鉄道の廃線跡は、痕跡も僅かである。

また、大福駅に隣接する耳成第7号踏切から南を見ると、もう一つ、踏切が見える。JR桜井線の大福踏切である。
JR桜井線の香久山駅までは、道なりに進んでも500m程度の距離であるが、次の桜井駅では、近鉄大阪線とJR桜井線の駅が隣接しているので、近鉄の大福駅とJRの香久山駅との間で乗り換える旅客は居ないだろう。

この辺りのローカル駅は、大阪方面からの準急がカバーしている直達エリアであり、「ちゃり鉄1号」の停車中にも、大阪上本町行き、榛原行きの準急が発着していた。



ここでも、下り側にある大福第1号踏切から駅構内の様子を撮影して出発することにした。13時11分発。
沿線は桜井市街地に入っており、住宅が建て込んでくると、大きなロータリーを伴った桜井駅に到着する。13時22分着。
桜井駅
桜井駅は、奈良盆地の東南端に位置し、古くから交通の要衝として栄えた。また、桜井市域も、JR桜井線が「万葉まほろば線」の愛称を持つように、歴史ある古墳、神社が多い。
駅の歴史としては、明治時代の1893年5月23日、JR桜井線のルーツに当たる大阪鉄道の高田駅~桜井駅間開業にまで遡る。
近鉄の桜井駅としては、その起源を1909年12月11日の初瀬軌道・桜井駅~初瀬駅間開業に求めることができよう。
この他、廃止された鉄道路線としては、大和鉄道が1923年5月2日に、味間駅~桜井町駅間を開業させているが、この桜井町駅は、桜井駅には隣接していなかった。桜井駅乗り入れが実現したのは、1928年5月1日である。
大正時代に策定された鉄道敷設法によれば、国が建設すべき路線として、その第81号で「奈良県桜井ヨリ榛原、三重県名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道 及名張ヨリ分岐シテ伊賀上野附近ニ至ル鉄道 並榛原ヨリ分岐シ松山ヲ経テ吉野ニ至ル鉄道」が予定されており、該当する路線として、近鉄大阪線・山田線、伊賀鉄道、JR名松線が開業している。
但し、国による建設は、未完成に終わった国鉄名松線(現JR名松線)のみであった。名松線の「名」は「名張」、「松」は「松阪」に由来しており、「名張ヲ経テ松阪ニ至ル鉄道」がその根拠であった。
なお、この内の「榛原ヨリ分岐シ松山ヲ経テ吉野ニ至ル鉄道」は鉄道敷設の実績がないが、現在の地名でいうと、榛原~大宇陀~吉野を結ぶ鉄道計画であった。
国土地理院の地図を眺めてみると、県道に転換された大和鉄道跡が、桜井駅から西側で、北北西に向かってカーブしていく様が見て取れるが、初瀬軌道の跡は、ほとんど痕跡を留めていない。

そんな歴史を思いながら辿り着いた桜井駅は地平のJR桜井線と、高架の近鉄大阪線が隣接する大型駅である。JRが南側、近鉄が北側を並行しているため、駅の南口、北口も、それぞれの鉄道会社の表玄関になっている。
両駅の様子は、JR桜井線の西栄町踏切から眺めることが出来る。



南口と北口の間を行き来して、写真撮影などを行った後、出発する。13時35分発。
桜井駅を出発した「ちゃり鉄1号」は、大和朝倉駅に向かう途中で、水分補給のために、ルート変更をして、幹線道路の県道105号線に出た。ドラッグストアで補給をした後、出発したのだが、ここで、大和朝倉駅への意識が飛んでしまい、道なりに、長谷寺駅方面に進んでしまう。
結局、来た道を逆走したり、集落の中で道を間違えて右往左往したりしながら、高台の大和朝倉駅に、33分も掛かって到着する。14時8分着。
なお、桜井駅から初瀬駅までを結んでいた初瀬軌道の路線は、1928年1月8日、大軌に経営統合され、大軌長谷線となったのち、参宮急行電鉄(参急)の桜井駅~長谷寺駅間と並行することから、1938年2月1日に廃止されている。
この初瀬軌道の路線は、桜井駅を出た後は、しばらく現在の大阪線と同じ様に初瀬川の左岸を走り、北口、外山(とび)、宇陀ヶ辻という駅が設けられたようだ。宇陀ヶ辻の次は慈恩寺駅で、初瀬川を渡った右岸側に移っている。丁度、現在の大阪線、大和朝倉駅の対岸に当たる。
そして、そのまま、黒崎駅を通過して、終点の初瀬駅に達するのだが、このルートは、概ね現在の国道165号線に沿っており、かつては、初瀬川の右岸と左岸に、2つの鉄道が走っていたということが分かる。
現在、この初瀬軌道の跡は、桜井駅付近に橋台跡が残っている程度だという。
参急の新設予定路線(現在の近鉄大阪線)と並行するにも関わらず、大軌が、このような短小路線の鉄道を合併した理由については、参急という鉄道会社の性質や、大軌の経営戦略に言及する必要があるが、それらは、資料調査編に譲ることとして、旅を先に進めよう。

大和朝倉駅
大和朝倉駅は、1944年11月3日、近鉄大阪線の駅として新設開業した。島式2面4線ホームの地上駅で、橋上駅舎を持つ。1996年3月15日に待避線が設けられ、その後、当駅で折り返す準急や普通列車が運転されるようになった。2018年3月17日には、急行停車駅にも格上げされており、出世駅とも言えよう。
駅は、初瀬川とも称される、大和川中・上流域境界の扇状地左岸の高台に位置しており、橋上駅舎の入り口からは桜井市街地が一望できる。
駅の南口側から駅を観察していると、榛原行き準急と大阪上本町行きの特急が行き違った。14時16分発。




大和朝倉駅を出ると、近鉄大阪線は、初瀬川(大和川)左岸の山腹を、大築堤で登っていく。
国土地理院の地図データを用いて概算すると、大和朝倉駅は標高94m、長谷寺駅は標高184m。駅間の営業距離は3.7kmであるから、この区間の平均勾配は、約24‰ということになる。実際の最急勾配は33‰に達するようだ。
下の断面図は、「ちゃり鉄1号」の2日目の全体断面図と、大和朝倉駅~榛原駅間の断面図である。
この図を見ると、大和朝倉駅から榛原駅にかけての勾配のきつさが一目瞭然である。大阪湾岸の矢倉緑地公園を出発してから大和朝倉駅まで、70km弱の距離で約100m登ってきたのだが、ここから、10km程度の間に、これまでの2.5倍に当たる約250mを一気に登り詰める。
断面図はちゃり鉄の走行ルートの断面図なので、近鉄大阪線の勾配とは異なるが、大和朝倉駅を出てから、榛原駅西方の、その名もずばり、西峠に至るまで、徐々に傾斜を増しながら、上り勾配が続いていることが分かる。
途中、長谷寺駅付近でアップダウンがあるが、これは、初瀬川沿いの低地を進む国道から、長谷寺駅のある山腹までの登り降りを表している。
30‰と言えば、蒸気機関車時代には、スイッチバックを設けて、何とか克服していた限界勾配である。
電車の近鉄にとっては、軽々と越えていく峠道であるが、「ちゃり鉄1号」にとっては、蒸気機関車と同じく、勾配の厳しさを身に感じる峠道である。


しかし、この区間は、近鉄沿線の撮影名所の一つでもあり、初瀬川沿いの棚田と大築堤上を行く近鉄車両との風景が絵になる。
並行する道がないため、交通量の多い国道を進むしか無いのだが、時折、山麓側に伸びる農道に立ち寄って、近鉄大阪線の撮影を行いつつ、のんびりと登っていく。
国道からだと、大築堤は見上げる角度になり、清々しい夏空の下に、時折、近鉄の車両が駆け抜けていくのが見える。



