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尾盛駅:調査記録
文献調査記録
井川発電所工事誌(中部電力・1961年)
中部電力専用線工事
尾盛駅に関する情報は限られているが、「井川発電所工事誌(中部電力・1961年)」の記載によれば、中部電力専用軌道の工事関係者には、「株式会社間組」を筆頭に、「大成建設株式会社、株式会社勝呂組、鹿島建設株式会社、矢作建設株式会社」の5社の名前がある。
また、延長線の新設に関する路線選定に関して、「発電所建設工事現場は、井川ダム、発電所、奥泉ダム、関の沢水路橋、尾盛横坑、発電所の順序で、奥泉取水口、放水路間は圧力トンネルでいずれも大井川右岸にあり…(中略)…また尾盛附近から関の沢を越え閑蔵に達する3トン索道を新設する」との記載がある。
以下に示す地形図をよく見ると、尾盛駅を取り巻く山腹に水色の直線状の破線が描かれているが、これは奥泉ダムから奥泉発電所まで続く導水路で、地下トンネルになっている。唯一、関の沢を渡る地点では、井川線の上流側に導水管の橋梁が架橋されている。関の沢の遡行記録には、この導水管に関する記述が散見される。
「尾盛横坑」とは、この地下導水管の建設工事に関連する坑道と思われるが、実際、現地には、この横坑の跡が残っているようである。次回訪問時には、尾盛駅付近で駅前野宿を行って、この周辺を、じっくりと探査したい。
同書によると、「鉄道工事資材の運搬」に関して、「市代、関の沢間は起伏のはげしい兎道があり、関の沢閑蔵間はほとんど道がなく、閑蔵~井川間は鉄道上方50m位の高さに荒廃した幅員1.5m位の村道があった。大井川は大井川ダムから関の沢までは積載量2トンの小舟を沿岸徒歩による人力の曳航でかろうじてできたが、関の沢から井川ダム地点までは、いわゆる接阻峡と称する急流で航行は不可能である…(中略)…市代関の沢間は兎道を幅員2.700m、最急勾配1/10(径間60mの吊橋を1ヶ所含む)の2トン積オート3輪車道に改良するとともに2トン積小舟を増備する」と記載されている。
ここで登場した「2.700mに拡幅されたオート3輪通行可能な元兎道の車道」というのが、私が踏査した接岨峡温泉駅から尾盛駅までの破線ルートに他ならないだろう。
そして、「セメント、木材、橋梁材などを2トン積オート三輪車、索道を利用して運搬した。ここに忘れてならないのは、運搬道路建設途上の工事材料すなわちセメント、オート三輪、コンプレッサーなどの工事用機械類は殆ど人力によったもので、その労苦は計り知れないものがあった」と記載されている。
「大井川専用鉄道関係建物一覧表」という表も掲載されており、その中に、「停留場建物」の一覧がある。それによると、尾盛駅は、「木造トタン板葺平屋建」で「棟数1」、延床面積が「6.75坪」、請負工事費「67,210円」、竣工年月日「29.4.30」とある。「29」は昭和で、西暦では1954年ということになる。
停留場建物の工事は、千頭駅舎から堂平駅舎までの16施設で合計「7,172,240」円であるから、尾盛駅は、その中でも、最も請負工事費が少なく、それだけ、簡素な工事だったことが分かる。
間組百年史 1945-1989(株式会社間組・1989年)
中部電力専用線工事
間組は、上述の「井川発電所工事誌」の記録に示すように、井川ダムの建設工事の中核を担った。その間組は、社史として百年史を刊行している。その中の1945-1989の巻に、中部電力専用線工事に関連する記述がある。
以下に示すのは、同書に掲載された「大井川水系の電源開発」という図面である。
中部電力による大井川水系の電源開発に関連して、間組は、多数の事業を連続で受注した経緯が示されているが、このうち、大井川ダムより上流の、奥泉発電所、奥泉ダム、井川ダム、井川発電所が、今回の尾盛駅の探訪記に密接に関連する一連施設である。
図面をよく見ると、奥泉ダムから大井川右岸側の山腹地下を通り奥泉発電所に至る導水トンネルも描かれている。先述した、地形図にも掲載されている導水トンネルのことである。
ここで、同書に記された電源開発経緯を引用してみる。
「計画の概要は、大井川中流部に井川ダムを建設することによって総貯水量1億5000万m3の大貯水池をつくり、…(中略)…さらに下流3kmの地点に奥泉ダムを建設し、…(中略)…この水を8kmの圧力トンネルによって発電所に導き、…(中略)…発電を行うというものであった」
ここに登場する8kmの圧力トンネルが、関ノ沢を導水橋で渡り、尾盛駅西方の山腹を貫通する導水トンネルであり、「尾盛横坑」を伴った構造物であったということであろう。
中部電力専用線建設工事に関しても同様で、同社の百年史には、この建設工事の概略が示されているので、それを引用したい。
「[工事用専用軌道の敷設]」には以下の記述がある。
「軌道の新設総延長は17.6km。これを4工区に分けて施工したが、工事区間は人跡未踏の地であり、大井川を縫って30の橋梁を架設し、52の隧道を穿つ工事は難航をきわめた。当社は、最上流部第1工区を担当したため工事用諸機材の搬入にも特別の苦労を強いられた。大井川ダムから上流の川筋は2トン積みの小舟を沿岸から人力曳航するのがやっとの状態で、しかも他社受け持ち現場を通るため利用できない。…(中略)…現地川鳶の力を借りて川床の障害物を除去して水路を開き、船が遡上できなくなる尾盛・閑茂〔ママ〕間に3トン索道を仮設することによって、舟運と重索による資材搬入を可能にし工事を進捗させた」
閑茂は閑蔵の誤記と思われるが、この部分の記述は、「井川発電所工事誌」の記述とも類似している。
4つの工区がどのようなものなのか、記述や図面がないので、この記述だけでは判然としないが、尾盛~閑蔵間の3トン索道の建設主体は間組だったことが分かる。
索道ともなれば、現地で痕跡を探すのも困難であろうが、ともすると、ケーブルの残骸などが、山中に眠っているかもしれない。
この辺りは、改めて、現地を調べてみたいと思う。
本川根町史(本川根町・2003年他)
尾盛駅の周辺の地名由来
本川根町史は、尾盛駅を含む本川根町全体の町史で、大井川鐵道流域の風土・民俗や自然・社会環境を知る上では、一級の資料である。
通史は4巻、資料編は5巻に分かれているが、特に、今回の文献調査では、「通史編3近現代(以下通史3)」、「通史編4民俗(以下通史4)」、「資料編5近現代ニ(以下資料5)」の記述が役に立った。
かなり長い調査記録になるが、以下にまとめることとする。
まず、尾盛駅の駅名についてであるが、直接的に、それについて言及した記述はなかったものの、駅周辺の地名の由来について、「通史4」に手がかりとなる記述があったので、それらを引用したい。
「大井川鉄道井川線の接阻(川根長島)と閑蔵の間に『おもり』という駅がある。大井川右岸のこの地には標高540メートルの円錐形の小山があり梅地・長島の人びとからオモレ山と呼ばれている。この山にはかつて土地の巨木があり、山の神が祀られていた。ある男が、金を所持している修験者(門付僧とも)をこの山で殺して金を奪ったところ、血のついた札が舞い、それが「七代祟れ」と読めたとも、死にぎわに「七代祟れ」と語ったとも伝えられている。人びとは、オモレ山は七代祟るクセ山だと伝え、禁足地とし、木を切ることを謹んだと言う。オモレとは『御森』の意であろう」
そして、「通史4」は、この「オモレ山」は、曲流切断によって出来たと説明している。曲流切断の説明も掲載されているが、その図面を以下に引用する。
これは、大井川中流域、大井川鐵道井川線土本駅付近から分岐する寸又川流域の池ノ谷で見られる曲流切断の模式図と、池ノ谷の遠望写真、及び国土地理院の地形図である。
模式図で見ると分かるように、蛇行する河川の蛇行頸部が、大雨による河川氾濫などによって崩壊し、短絡するようになると、元の蛇行部分が取り残され、やがては、陸地化してしまう。大井川流域には、そのような曲流切断によって生じた地形が随所にあり、町史では、そのうちのいくつかについて言及している。
国土地理院の地形図で見ると、現在は、切断された旧河道部分が、茶畑に転用されている様が分かる。同地形図では、川根小山駅の東側にも、車道分程度の幅で、大井川が蛇行している部分があり、ここも、長い年月のうちには短絡されて、流路が変更されることであろう。
少し話がズレるが、この池ノ谷の曲流跡に存在する山地形は、「宗像神社」を祀る山である。「宗像神社」といえば、福岡県の宗像神社を指しており、この大井川の山間に、宗像神社を祀る山が登場するのは意外な気もするが、それについて「通史4」には、以下のような記述がある。
「池ノ谷の氏神が『宗像』の名を得ていることは、池ノ谷の地が福岡県の宗像大社の沖つ宮の地に当る沖ノ島に通じる島状地形であったことと無縁ではない。切断部が貫流する前から池ノ谷は水輪に囲まれた『島』を連想させたのである。宗像神社も、池に祀られている弁天様もともに蛇を祀ったものだという伝承がある」
曲流切断地形と蛇の伝承については、別の事例もある。
ここに示した地形図は、大井川鐵道大井川本線家山駅周辺の地形図であるが、ここに示された野守の池も、曲流切断によって取り残された、かつての大井川の痕跡である。
野守の池と家山駅との間にある、168mの標高点と神社のある小高い丘を取り巻いて、かつては、大井川が蛇行していたのであろう。
この野守の池については、「通史4」の他、「神と自然の景観論(野本寛一・講談社学術文庫・2006年)」でも取り上げており、詳細は割愛するが、やはり、蛇の伝承が伝えられている。
「池や滝には『ヌシ』がいるという認識は、日本人の環境認識の一つの特徴だといえよう」と筆者はまとめているが、確かに、蛇行著しい大井川の流れと、それが、切断されて残った河跡湖の水たまりから蛇を連想し、貴重な水資源を汚染することの戒めとして伝承が残るということは、説得力がある。
大井川流域には、他にも、随所に曲流切断の痕跡を残す地形が見られる。
以下に示すのは、上から順に、寸又峡周辺、奥泉駅周辺、閑蔵駅周辺の地形図であるが、いずれも、図の中心部分に、旧河道の痕跡が見て取れるだろう。寸又峡の曲流切断の痕跡は、大井川流域でも最大規模のものである。
そして、そのいずれも、曲流切断地形の付近に、神社記号があることが興味深い。
野守の池でも引用したように、日本人の心象風景に、こうした自然地形に対する畏怖の念が根ざしていたことを暗示するものではなかろうか。
この他、現状では切断されていないものの、大井川中流域、大井川鉄道大井川本線の地名駅付近にある、「鵜山の七曲り」でも、地質学的時間スケールの中では、曲流切断が起こって地形が変わるのであろうと思われる。
さて、曲流切断についての寄り道が長くなったが、尾盛駅周辺で、曲流切断によって形成された「オモレ山」があるとすれば、それは、どこであろうか?
改めて、尾盛駅周辺の地形図を眺めてみよう。
この地形図では、池ノ谷ほど、明確な曲流切断の痕跡は見られないが、尾盛駅の南東側と北東側にある沢地形は、尾盛駅付近でつながる流線を持っている。そして、この2つの沢地形に囲まれて、標高575m程度の閉じた等高線が描かれており、ここに、小高い丘が存在することが明示されている。
そして、接岨峡温泉駅から閑蔵駅までの大井川右岸に、これ以外に、曲流切断と思われる地形はない。
この丘地形が、「通史4」に記載された「オモレ山」と考えて問題はないであろう。
以下に示すのは、「通史4」に掲載された、対岸から撮影した「オモレ山」である。稜線が分かりにくいので、稜線を示した画像も付けてある。また、カラーの画像は、2017年6月のちゃり鉄12号で対岸から撮影していた、「通史4」とほぼ同じアングルからのオモレ山の遠望写真である。
池ノ谷の曲流切断地形と比べて、沢地形の傾斜がきつく、明確には分かりにくいが、かつての蛇行部分が曲流切断によって分離された後、本流の下刻が進んで本川位置が低下し、現状のように急傾斜の沢に囲まれた小高い丘として残っているのであろう。
本文で述べたように、「角川日本地名大辞典22 静岡県」には、「上尾茂礼」、「下尾茂礼」という小字が掲載されているが、「通史4」の「オモレ山」は、この「尾茂礼」のことと考えられる。
また、「通史4」には、大正7年の長島英雄氏の焼畑日記が掲載されている。長島という姓から分かるように、この方は、長島集落、現在の接阻区の住民であった。
その日記の中に、「尾森山」、「上尾森山」という地名の記載があり、それらは、焼畑地となっていた。
以下に、1948(昭23)年撮影の空撮画像を再掲するが、本文でも述べたように、この頃既に、尾盛駅周辺に樹木の伐採痕跡が見られる。ただし、1970年代の空撮画像と異なり、1948年当時の伐採痕跡はパッチ状で、焼畑に伴う伐採であったのかもしれない。
これらの、「オモレ山」、「尾森山」、「尾茂礼」という地名が、尾盛駅の駅名の由来と考えて差し支えないであろう。
なお、ここで記した長島英雄氏の焼畑日記の中に、「クリゾーレ」という地名が出てくる。
注意深い読者は、本文で述べた「くりぞうりさわばし」の記述を思い出されるかもしれないが、まさしく、その際に述べた「栗惣礼沢山」の「栗惣礼」を指すものであろう。
これに関して、「『クリゾーレ』の『ソーレ』とは焼畑地名の典型で、部落からは約ニキロ離れており、ここに長島家の山があった」という記載がある。接岨峡温泉駅から「くりぞうりさわ」付近まで、道なりに地形図上で簡易計測すると2キロ弱である。
私が「栗草履」と解釈した「くりぞうりさわ」は、文字通りの「栗」と焼畑を意味する「ソーレ」から来ている地名なのであった。
なお、JR飯田線に大嵐という駅があることをご存じの方もいらっしゃるかもしれない。この、大嵐は「おおぞれ」と読むのだが、その由来もやはり焼き畑にある。「ぞれ」が焼き畑を示しているのである。実際、大嵐駅の南方には「夏焼」集落があった。もちろん、この集落は焼き畑集落であった。
電源開発と井川・奥泉発電所建設工事
さて、今回、私が踏査した、接岨峡温泉駅から尾盛駅に至る歩道跡は、元々は、「井川発電所工事誌」の記述の中でまとめたように、「2.700mに拡幅されたオート3輪通行可能な元兎道の車道」の痕跡であった。
そして、本文で触れたように、「接阻峡遊歩道」は、この時に拡幅整備された車道を、長島ダムの建設に際して、再整備したものであった。
同じダム工事であり混同しがちなのであるが、時系列としては、井川・奥泉発電所の建設工事と、長島ダムの建設工事は、その時期も目的も異なるのである。
まず始動したのは、大井川流域における電源開発という国家規模のプロジェクトであり、その中核をなすのが、井川発電所や奥泉発電所の建設であった。
以下に「通史3」の記述を引用してみる。
「電源開発は全国的な課題であった。一九五ニ年(昭和ニ七)七月には通産省などにより電源開発促進法が制定され、…(中略)…、また電源開発調整審議会(電調審)が設置された。これにより電源開発の大枠が整備されたのであった」。
「電調審は同年十一月、『電力五カ年計画(既定案)』を作成し、一九五七年までに全国で五四六万キロワットの電源を開発する計画をたてた。同計画は五三年九月正式に決定し、…(中略)…そのなかに、大井川水系の井川(約五万キロワット)、奥泉(八・七万キロワット)の開発計画があった」。
「ところで中部電力でも、一九五一年十月「中部電力電源開発の基本計画」を作成していた。…(中略)…また、一九五三年には、「電源開発計画と需給バランス」が作成され、…(中略)…水力では大井川開発が中心となり、奥泉、井川、畑薙に大規模貯水池式発電所の建設が予定された」。
同書によると、井川開発計画自体は、「井川梅地計画」として大井川開発の初期から計画されていたと言うが、当初の開発計画では、井川一地点に、ダム水路式発電所を建設するというもので、アメリカの海外技術調査顧問団(OCI)の提言を受けたものであったらしい。この背景には、GHQの後押しによるによる電力事業再編成令、公益事業令の公布(1950年)があるようだ。
こうして動き始めた井川開発計画は、中部電力のもとで検討され、井川ダムのみの建設では、「ダムの高さを一〇メートル高くする必要があり、そうなると水没面積、補償対象戸数が増加する、さらに地質の点でも無理があるということで、井川、奥泉の二地点に発電所を建設する計画とした」のである。
ダム建設は、当然、水没地域の住民の反対運動に直面することになるが、「静岡県の斡旋により、井川ダム対策委員会は反対から条件付賛成となり、①大日道路(静岡ー井川)の完成、②村づくりによる文化水準向上、③村民の納得する個人補償による、現在の生活を上回る民生の安定、の三原則を決議した」。
こうした経緯を経て、1952年12月に着工した井川発電所は、1957年9月に完工した。
この期間中に、中部電力専用軌道の工事があり、尾盛駅の竣工(1954年9月30日)もあったわけであるが、「通史3」には、「ところで井川開発計画から分離された奥泉開発計画は五三年五月に着工した。まず工事用資材運搬のため大井川専用軌道の敷設工事が行われた」とある。
奥泉発電所は、1956年1月に完工しており、その工事期間全体が、井川発電所工事期間に、含まれることになる。
この奥泉開発計画に関しての「通史3」の記述は具体的で、興味深いので、少し長いが以下に引用する。
「すでに奥泉堰堤から千頭までは小規模の軌道が敷設されていたため、その区間の工事は線路床を強化すると共に、期間を七六二ミリから一〇六七ミリに拡げるものであった。奥泉から上流は、鹿島建設、間組、勝呂組(住友建設)、大成建設によりトンネル、橋梁工事が行われ、線路敷設は間組と矢作建設によって行われた。一九五四年九月、千頭から西山沢間が全通した」。
「奥泉発電所工事は間組、大成建設、勝呂組、鹿島建設が担当し、主要機器は東京芝浦電気が受けた」。
これらの建設会社の工事誌などが入手できれば、線路敷設工事の詳細が判明することと思われるが、現状、そういったものが存在するのかどうかの情報も手に入ってはいない。今後の調査課題である。
さて、これらの一大プロジェクトのプロセスの中で、既に述べたように、水没地区の住民補償などが俎上に登り、地元地区と中部電力との間で、各種の覚書などが取り交わされていることは、先述のとおりである。
「通史3」の記述から引用すると以下の通りである。
「犬間地区では、井川ダム建設に賛成を表明すると同時に、地区への配電、電気料金の二割引、林産物の輸送を会社の責任で行うことなどを要求した」。
「一九五二年(昭和二七)十一月、井川ダム建設について、上川根、東川根両村は中部電力と協定書を結んだ…(中略)…まず会社は公共施設費として五五〇万円を村へ支出すること、従業員の地元民優先採用、道路補修などに会社が一定の責任を持つ、などであった」。
「翌十二月、奥泉発電所建設工事についても、上川根村は協定書を結んでいる。道路の開設、小学校増築費用として三五〇万円の支出、流木その他の補償などである」。
「井川ダム建設工事が開始されるとともに、中部電力と地元との間にいろいろな問題が起きてきた。…(中略)…犬間区では、五五年十一月、要望書を中部電力に提出した。基本的には、道路の開設・改修、軌道の利用などで、生活の便宜を優先させるものであった」。
「井川・上川根・東川根の三村森林組合も、要求書を提出している。もちろん林産物搬出に関わる問題が主であった。その内容は、流送にかわるべき搬出設備として取水区間の左岸に四メートル幅の林道を建設すること、取水区間については林産物は軌道のどこでも積み込み作業ができるようにすることなどであった」。
1950年代前半は、高度経済成長期前夜といった時期であるが、地元要望を概観する限り、地元民の生活や産業の便宜を図ることを目的としており、観光開発といった文言は、まだ、表れていない。
観光開発と長島ダム建設工事
大井川流域の観光開発は、1960年代に入って加速していく。
「通史3」でその流れを追うと、まず、1964年に「南アルプス国立公園」が設立され、本川根町域の光岳が指定区域に入った。そのため、本川根町は、登山口に位置づけられることになる。
続いて、1966年、南アルプス前衛の山々や、寸又峡・接阻峡・井川・梅ケ島を含む地域が、「奥大井県立自然公園」に指定され、国鉄の周遊地にも指定された。
この流れを受けて、大井川鉄道では、1969年4月26日から、静岡~千頭間に直通快速電車「奥大井号」が運転を始めた。1973年10月7日には、浜松ー千頭間に直通快速電車「すまた号」も運転を始めている。以下の写真は、「鉄道ピクトリアル436号」に掲載された、国鉄80系電車で運行された「奥大井号」の写真である。
1969年7月15日には、本川根町観光協会が設立されている。その主要事業は以下に示すとおりである。
「観光資源の調査研究並びに開発、観光施設の計画、事業の促進並びに改善、観光地と物産の宣伝、紹介、あっせん、誘致諸設備の整備、観光事業に関する情報の蒐集と通報、観光関係団体との連絡並びに会員相互の親睦」等。
更に、1971年に入ると、農林水産省による自然休養村の指定が始まったが、本川根町では、長島ダムの建設計画も発表された。これ以降、農水行政の自然休養村事業と、河川行政の水源地域開発事業とによって、大規模な観光開発事業が進展していくことになる。
「通史3」の記述を追う。
「自然休養村とは、農山漁村の豊かな自然の保全と活用、農林漁業資源の多目的利用をすることにより、これら従事者の就業機会の増大と所得の向上を図るとともに、都市生活者に休養・レクリエーションの場を提供することを目的としている」。
「本川根町も観光開発の一つとして自然休養村の指定をうけ、七六年(昭和五十一)年から七九年の間に、その事業を実施することとした」。
「資料5」には、「自然休養村整備事業概要」が掲載されているが、この「自然休養村整備事業」が本文で述べた、「奥大井自然休養村整備事業」のことであり、その事業の一環として、接阻峡温泉「ニュー久保山」が開発・建設されたのである。
「通史3」の記述に戻ると、「梅地・久保山地区に有望な地点があるとのことで温泉掘削が計画され、一九七八年(昭和五十三)二月から掘削工事に入った。重曹泉(ナトリウム炭酸水素塩泉)が湧出し、泉量が毎分一〇〇リットル、温度二五度という結果であった…(中略)…町はこの温泉を観光的に活用するため、水源地域対策事業の一環として自然休養村整備事業を導入し、七八年・七九年度に管理棟、休憩棟、憩いの広場等の整備を進めた。八〇年八月に温泉施設「ニュー久保山」(宿泊定員二〇名)としてオープンし、同年十二月地元に「ニュー久保山運営組合」(六名)を設立し、町の依託により管理運営されることになった」。
「また、集落内に開設された民宿宿泊客の温泉利用に供するため、八二年度梅地に「町営接岨峡温泉会館」を水特法整備計画の中に組み込み、源泉からの引湯(一三六八メートル)工事を行い、翌年完成させた」。
私自身も、ちゃり鉄12号の旅で、尾盛駅探訪の前日、この温泉会館で入湯している。大井川流域の厳しいアップダウン路の走行で疲れた体を癒やす、気持ちの良い温泉であった。泉質から分かる通り、ツルツルの泉質のお湯で、美人の湯とでも称すれば、若い女性の観光客も少しは増えるかもしれない。
ただ、本文でも述べた通り「ニュー久保山」は既に閉館されており、「接岨峡温泉会館」も経営は厳しいようだ。
一方、建設省による「長島ダム建設事業計画」発表は、1971年8月のことであった。もっとも、その前段で、1966年4月頃には予備調査を開始しており、1969年2月、県議会定例会に提出された「第七次静岡県総合開発計画」に大井川の利水計画が記載されていた。この頃から、利水を名目とした新たなダム計画が現れ始めていたのである。
1971年8月23日に建設省が公表した「長島ダム建設事業計画の概要」では、「大井川の総合開発の一環として、本川根町犬間(長島)・梅地地区に多目的ダムを建設、そのダムは洪水調節、不特定用水の確保、かんがい用水、都市用水等の供給を目的とし(通史3)」とある。
電源開発を目的とした井川ダム、奥泉ダムの建設とは異なり、長島ダムは、多目的ダムとして建設されるものであった。
事業地の犬間、梅地地区では、1971年当初、両地区合わせて75戸・287人を数えた。この75戸全戸が、同年8月13日に結成された「犬間・梅地地区ダム対策協議会(地対協)」に参加している。
しかし、地区住民は、その後、33戸・125人と激減しており、1986年9月、地区懇談会の席上で町長より両区統合の提案があり、翌1987年4月1日に接阻区が誕生している。
以降、2002年3月の竣工に至るまで、長島ダムは、実に、30年余もの期間、この地域に様々な問題を生じた。ダム建設計画の存廃問題すら生じ、「幻のダム」との声も出るようになったと、「通史3」には記述されている。
「通史3」や「資料5」に記載された、経緯の詳細をここに記述するのは冗長になるので避けるが、ダム建設に伴う水没地区の補償・移転等の問題を巡って、地元住民や自治体、事業者との間の思惑の違いがぶつかり合い、また、地元住民の間でも、利害関係の程度の差から、建設推進派・反対派の対立や、町内移住派・町外転出派との間で、補償に対する要求の違いが生じ、ダム対策協議会からの脱退者が生じるなどしている。
「通史3」には、「地域振興を求める留村者と移住者間の要求、利害や考え方の違いが、ダム建設の進行するにつれて住民に漸次亀裂を生み出していった」と記述されている。
長島ダムの着工決定は1977年度のことであり、「ダム基本計画」は1978年12月28日に建設省から正式に告示(建設省告示第1985号)されている。
また、地元組織は1977年4月1日に再編されており、水没留村者と非水没者による地域対策協議会、水没、個別移住を目指す移住対策協議会、水没、集団移住を目指す移住同士会の三団体となった。
以下には、「資料5」の記述を中心に、大井川鐵道や尾盛駅にも関連する部分などの整理を試みたい。
1971年10月16日、犬間梅地地区ダム対策協議会から本川根町及び議会に対して、「長島ダム建設計画に対する要望ならびに質問」が提出されている。
1971年11月1日、「長島ダム建設計画に対する意見」として「本川根町の基本的な考え方」が提示されている。この中で、「長島ダムの堤高は長島梅地の集団部落を水没させない程度の高さとし、これを利水ダムとする」、「接阻口付近に洪水調節ダムを築造する」(二段式ダム)という2つの意見が述べられている。これは、「建設省・県の要請と、町の部落を水没させたくない意向との妥協の産物であり、苦心のアイデアである(通史3)」。
本川根町は、この「長島ダム建設計画に対する意見」に地対協の「要望ならびに質問」を付して、同年11月5日、建設省・県に提出している。
接阻口とは、現在の接阻区の上流側を指しており、具体的な場所は明示されてはいないが、注目に値する。
1972年8月14日、建設省中部地方建設局長島ダム調査事務所長から「長島ダム建設計画に関する要望並びに質問について(回答)」が出され、県提出の二段式ダム計画について、「接阻口付近に110mのダムが必要となるが、それに耐えうる強度を持つ岩盤は無い」という理由から、「不可能」の回答が示される。
1972年12月26日、地対協から本川根町長に対して、長島ダム建設実施調査の土地立ち入りについて、条件付きで承諾する決議書が提出される。これによると、本川根町作成の地域開発計画(案)に、次の事項を加えることとして、「梅地林道、峯野、天狗石、湯河内、湖岸道路を結ぶ道路の開設」、「尾盛地区にレクリエーションダムの建設」、「自然保護区域の設定」の3項目が挙げられている。
ここで登場した「尾盛地区にレクリエーションダムの建設」という地元構想は、先に県から提出された接阻口のダム建設構想との類似性から注目に値するだろう。但し、県が洪水調節を目的としていたのに対し、地元はレクリエーションダムと明記している。既に同年8月14日には、上述のように、建設省から、県提出の二段式ダム計画について、「不可能」との回答が出されているにも関わらず、その後、地元は「レクリエーションダム」を要望しているのである。
1973年1月6日、本川根町の「地域開発計画(案)」が公表される。「通史3」の要約を引用すると、「一、部落再建計画、二、交通・通信計画、三、文教・医療計画、四、防災計画、五、産業振興計画等の五項目からなっており、中でも犬間・梅地(長島)地区に最も深く関連していることは第一・第ニ項であり、部落を再建すること、まず水没地となる長島地区の嵩上げをし、集落を再編成し、住宅や道路を整備する計画案であった」。
なお、「資料5」には、計画案が具体的に記されているが、「簡易水道の整備」の項目で、「尾盛地区の水道については、尾盛地区単独に施設する」とあり、この当時、尾盛地区に水道を必要とする部落が存在したことが分かる。
1973年、井川線の存続が危ぶまれる中、「井川線存続期成同盟会」が結成され、同3月には、「長島ダムに日本一のアプト式観光軌道を実現させましょう」というビラを作成、配布し、その実現を訴えている。また、5月23日には、同会から町宛に、地元民3225名の署名を付した井川線存続の陳情書も出されている。
同年8月28日には、県から本川根町・地対協宛に「長島ダム関連地域開発基本計画」が提示される。この中で、特筆すべきは、「交通通信計画」として、「井川線については、関係者と協議し措置を決める」として、地元が要望していた廃止回避の可能性が示されたことや、「産業振興計画」として「地区内平田周辺、梅地久保山周辺の二ヶ所をレクリエーション地区として関連施設を整備し、更に国民宿舎についても検討する」と明記されたことであろう。
先の地対協の「尾盛地区のレクリエーションダム」構想と、この「梅地久保山周辺のレクリエーション地区」指定によって、大井川を挟んで、尾盛・久保山の両地区を周回する、観光施設整備の構想が基本計画俎上に乗ったことになる。
その後、計画の具体化に伴って、先述したように、地対協の分裂などが生じるのである。また、長島ダム自体も、1973年に生じた石油ショックなど、世界的な景気後退の影響を受けて、停滞することになるが、1976年4月28日には、長島ダムの建設について、県知事から地元への説明会が開かれ、質疑応答などが行われている。その席で県知事は、「ダムの1979年着工」を表明した他、「井川線は存続する方向で努力する」と明らかにしている。この辺りから、停滞していたダム建設は、再始動し始める。
1978年1月13日、再編された地元三組織の連名で「八三項目の地元要望書が」提出される。この中に、「井川線の付け替え、井川線・平田駅の設置」という要望が明示されている。そして、12月28日、「長島ダム基本計画」が建設省告示第1985号として告示される。
1979年に入ると、「補償」に関する動きが具体化する。
まず、町が「補償調査に伴う確認」として、「井川線の付け替え、国道362号線バイパスの整備」、県・建設省に要望した。対して、3月17日、県・建設省から「補償調査に伴う確認」として、「井川線は付け替え存続、国道362号線バイパスの建設」が回答されている。
ここで、存廃問題に揺れた大井川鐵道井川線の付替存続が明示されたのである。
4月17日には、長島ダムが、水源地域対策特別措置法(水特法)のダム指定を受け、さらに、9月26日、本川根町から建設省への要望書が提出される。ここで、町は、本川根町全域を水源地として指定することなどを求めている。さらに、同年9月28日には、本川根町と建設省との間で、「長島ダム補償調査に関する協定書」が結ばれている。
1981年3月には、「水源地域整備計画」が策定され、30日公示、4月1日整備着手となった。
町が求めた水源地指定に関しては、1981年12月26日に、「長島ダムに係る水源地域整備事業の負担に関する協定について」が、町と県との間で結ばれている。
補償調査が完了し、最初に、補償基準(補償単価)が提示されたのは、1980年12月18日のことであったが、関係団体はこれを受け入れず補償交渉が続き、最終的に合意に達し、調印が行われたのは、1982年3月17日のことであった。
1982年5月から個人補償が開始され、1985年4月5日、建設省・中部電力・大井川鉄道は、井川線一部付け替えに関する基本協定を締結し、1986年には、井川線付替え工事が着工された。アプト式鉄道工事の完了は、1990年3月のことであった。
この工事によって、アプト式鉄道が、川根市代駅から移設改称したアプトいちしろ駅と、川根唐沢駅の代替駅として設けられた長島ダム駅の間に開通した。また、長島ダム湖の湖上を渡る橋梁が架橋され、「レインボーブリッジ」と命名されるとともに、奥大井湖上駅が新設された。更に、犬間駅の代替駅として平田駅が設けられ、川根長島駅は接岨峡温泉駅と改称した。
「資料5」には、1988年7月12日付の「水源地域対策特別措置法(水特法)に係るヒアリング資料(抄)」、「長島ダム二十五年」には1995年3月現在の「水源地域整備計画実施状況」という一覧表がそれぞれ掲載されており興味深い。ここでは、それらを以下に示す。
引用図:水源地域対策特別措置法(水特法)に係るヒアリング資料(抄)
「本川根町史 資料編5 近現代二(本川根町・2005年)」
引用図:水源地域整備計画事業実施状況(平成七年三月現在)
「「長島ダム」二十五年の歩み(静岡県企画部資源エネルギー課・1996年)」
まず、「資料5」の一覧だが、ここまで述べてきた接阻峡周辺の遊歩道や温泉施設の整備計画と事業予算、その他の関連事業費がが計上されている。赤枠は接阻峡周辺のレジャー施設の整備費を強調したものである。
これによると、「水特法スポーツ又はレクリエーション施設事業」として、延長3000m、事業費4000万円の「遊歩道整備事業」と、202m2の浴場を含む7,200万円の「温泉休憩棟整備事業」が、「観光施設整備事業費補助」費目で掲載されている。
また、「長島ダム二十五年」の方の一覧では、整備実施状況として、「遊歩道整備事業」は吊橋や取合道路が総事業費二億円で昭和60年~平成9年の予定工期、「温泉休憩棟整備事業」は浴場202m2が7,140万円で昭和57年~昭和63年の予定工期と、まとめられている。
これは水特法による整備計画の一覧表で、その予定工期から考えると、「温泉休憩棟整備事業」は「接岨峡温泉会館」を指すことが分かる。何故なら、本文で述べたとおり、ニュー久保山の完成は昭和55年、接岨峡温泉会館の完成は昭和58年だからだ。
そして、川根本町商工観光課の説明によると、ここに掲載された「遊歩道整備事業」が、尾盛駅に通じる右岸側の旧遊歩道を指すものである。
私はこれまで、上記の「遊歩道整備事業」について、「これは、接阻峡温泉駅付近から下流に整備された「八橋小道」と呼ばれる周回遊歩道のことであった。」と記載していた。ネットの記事や文献調査からそのように判断していたのだが、「八橋小道」の完成時期は、2008(平成20)年3月のことで、昭和60年代初頭に予算計上されていた事業と結びつくと考えるのは無理がある。
そこに思い至らなかったのは、自身の調査の甘さを実感させられるエピソードであるが、今回、自治体からの回答を得たことで調査を進め、コンテンツを修正することができた。川根本町商工観光課の担当職員の方には、お礼申し上げたい。
以下では、尾盛駅に通じる右岸側の遊歩道のことを「右岸側旧遊歩道」と表示し、「八橋小道」と呼ばれる左岸側の遊歩道のことを「左岸側新遊歩道」と表示して、話しを先に進めることにする。
さらに、この事業費の記述を見ると、気付くことがある。「資料5」では「4千万円」の事業費で計上されていた「遊歩道整備事業」は、「長島ダム二十五年」では「2億円」の事業となっている。これが実際に「2億円」なのだとすれば、事業費が5倍に高騰したことを示唆するし、「2千万円」の誤植だとすれば、事業費が半分に削減されたことを示唆する。いずれにせよ、工事の見積もりが誤っていたことになり、中止を暗示するものである。
なお、「資料5」では、上の引用図以外にもう1ページを一覧表に割いており、そこでは、「ダム事業補償工事」として、「大井川鉄道井川線付替」事業が「多目的ダム建設事業」費目で、4808m、事業費104億円で掲載されている他、「水特法治山事業」として、「長島日影予防治山」事業が「治山事業費補助」費目で、床固工9基の1850万円の事業として掲載されている。
「長島日影」と聞いて、ピンとこないだろうか。
そう、「接阻峡遊歩道跡」にあった、日影山展望台や第二日影橋である。本文では、「日影山にある展望台」と結論づけたが、実際、「長島日影」という整備地名が掲載されているのである。
以上の知見を新たに得たので、ここまでの文献調査記録は、加筆修正を加えることにした。
長島ダムの建設史の方に戻ることにしよう。
「通史3」によると、「まず最初に、八七年(昭和六十二)十月十四日、仮排水路の工事に着工し」たとある。
その後、建設工事が進む中で、1995年4月10日、長島ダムは、「地域に開かれたダム」の指定を受ける。「通史3」の解説によると、「地域に開かれたダム」とは、「地元の市町村の要望に応じて、一般ダムに比べてより開放的な管理をモデル的に実施するダムのことをいう」。
同年8月には、「長島ダム地域整備協議会」が発足し、地域に開かれたダムの整備計画を作成。翌1996年2月7日に国の認定を受けている。この計画の中で、長島ダム周辺地域では、「ダムサイト地区」、「平田地区」、「レインボーブリッジ周辺」、「長島地区」の4地区に分けて、整備を行うこととした。
そして、この「長島地区」の中にも「接阻峡遊歩道」が登場する。
以下に、「通史3」に掲載された図面を引用する。
残念ながら、この図では歩道の詳細は分からない。「接阻峡遊歩道」の引き出し線が指し示すのが、明らかに「右岸側旧歩道」の位置であることから、私は、この計画によって「右岸側旧歩道」が整備されたの判断したのだが、既に述べたように、「右岸側旧歩道」の整備年度は、昭和60年から平成3年にかけてであり、「地域に開かれたダム」整備計画策定以前の事業であった。
思うに、この「地域に開かれたダム」整備計画策定当時は、平成3年までに整備されていた「右岸側旧歩道」を、そのまま、「地域に開かれたダム」整備計画に取り込み、「接阻峡遊歩道」として更に整備を進める計画だったのではなかろうか。
しかしながら、実際には、この歩道は山蛭被害などによって存続させることが難しく、また予算上の問題もあって遊歩道としては破棄され、それに代わる整備事業として「左岸側新歩道」が整備されるに至ったというのが、この付近の歩道整備の変遷史ではないかと考えている。
これについて、「地域に開かれたダム」の事業主体である国土交通省の長島ダム管理事務所にも問い合わせたが、こちらからは返事がなかった。
さて、長島ダムであるが、1998年3月17日、長島ダム本体コンクリートの打設が完了し、2000年10月末、湛水試験開始、2001年3月12日、満水。
完成式典は、2002年3月23日に行われた。
この文献調査記録と同じく、長い長い物語であった。
現地調査記録
2017年6月:接阻峡温泉駅~尾盛駅(接阻峡遊歩道跡)
往路
接岨峡温泉駅をひとしきり撮影した後、駅から見下ろせる集落まで一旦坂を下り、集落内から線路脇に通じる裏路地を通って、尾盛駅方面への破線ルートの入り口に立つ。
線路脇と言っても、線路との間は柵で仕切られているので、通行上の危険はない。
ルートは、国土地理院の地図とは異なり、井川線の27号トンネルの手前、接岨峡温泉側から線路脇に上がり、そのまま27号トンネル方向に並行した後、トンネル脇の山腹をトラバースするように進むが、その後は、概ね地図の示すとおり、線路脇の斜面上を、路盤から20m程の比高を保ってトラバース気味に続いていく。
トンネル脇のルート入口付近は藪が覆っており、道があるように見えないが、そこをかき分ければ、比較的はっきりとした道の跡が続いている。雰囲気としては、森林施業用の作業道の廃道と言った感じだ。
1分ほど歩くと、唐突に「対向車あり」という標識が現れる。「それはないやろ」と突っ込みたくなる標識で、その脇の柵と比べて妙に新しいのも違和感がある。
ただ、文献調査記録で後述するように、接岨峡温泉から尾盛まで自動車が走っていた時代がある。
標識がその頃からのものだとは思えないが、この道を車が通っていたことは、恐らく、間違いないと思われる。
標識を過ぎてからも、道は明瞭に続いている。斜面の下を見下ろせば、井川線の路盤が林間に見え隠れしている。
所々に小さな沢を渡る橋がかけられており、名前を記した標識も立てられている。第一竹の花橋、第二竹の花橋、第一井戸沢橋、第二井戸沢橋…といった名称を確認することができた。
橋の構造は車が通ることが出来るものではなく、あくまで遊歩道のそれであるが、実際、この道は平成一桁の時代に、当時の本川根町によって「接阻峡遊歩道」として再整備されたのだと言う。この「接阻峡遊歩道」の整備に関して、私は当初、「地域に開かれたダム」整備計画に基づく遊歩道であると記述していたのだが、川根本町に問い合わせたところ、それは誤りであった。詳細については文献調査記録で述べることにするが、この部分の「接阻峡遊歩道」は、「地域に開かれたダム」指定以前に、「水源地域対策特別措置法(水特法)」に基づく「水源地域整備計画」の一環として、昭和60年から平成9年までの予定工期で整備されたものである。
ややこしいのは、「地域に開かれたダム」整備計画でも「接阻峡遊歩道」が明示されている点であるが、ここでは、背景の異なる二つの事業予算によって、同名の「接阻峡遊歩道」が、それぞれ異なる時期に、別の場所に整備されたということを述べるに留めよう。
道は自然林が交じる植林地の中を進むので、ところどころ、森林施業に用いられたと思われる小屋などがある。大半は倒壊するなどした廃小屋であるが、中には今でも現役で用いられていそうな、比較的新しい小屋もあった。
淡々と植林地内の杣道のような遊歩道跡を進んでいくと、治山工事跡の開けた斜面に出た。
樹木の梢の上を見渡せば、大無間山へと続く南アルプス深南部の山並みが横たわっていた。
ルートの中で視界が開けたのは、駅付近を除けばこの辺りだけであった。
更に歩みを進めていくと第二日影橋という橋を渡り、地図にも表示されている29号トンネル付近の斜面上部に達すると、斜面を下っていく分岐が現れた。
もっとも、分岐の方に柵がのびており、左カーブを描きながら斜面をトラバースしていく道から分かれて、「斜面を下れ」と暗に示しているのだが、道としてはトラバース道の方が自然であり、地図の破線ルートが示しているのもトラバース道の方である。分岐に標識はない。
柵に導かれて斜面を下っていくと、やがて、林間に木製のテラスの様な施設が見えてきた。明らかに遊歩道に付随した展望施設である。
近づいてみると日影山展望台という標識もあった。「日影山を望む展望台」なのか、「日影山にある展望台」なのか分からないが、大井川の峡谷を挟んだ対岸には、かつて、本川根町が温泉掘削で「ニュー久保山」という施設を建設した経緯がある。
「本川根町史 資料編5 近現代ニ」や「「長島ダム」二十五年の歩み(静岡県企画部資源エネルギー課・1996年)(以下、「長島ダム二十五年」と略記)」によると、「ニュー久保山」の完成は1980(昭和55)年2月のことで、「自然休養村事業」に静岡県の「水源地域対策事業」を導入して整備したとある。また、「水特法整備計画」に基づいて1983年には、「ニュー久保山」の源泉から引き湯した「町営接岨峡温泉会館」が梅地に建設されている。
ただし、「ニュー久保山」は既に廃業しており、2015年2月には、「本川根町」を継承した「川根本町」の議会で解体が議決され、現在は施設跡が残るだけである。「町営接岨峡温泉会館」は今も営業しているが、経営環境は厳しいようだ。
以下に示すのは、町史に示された図面の引用図である。
「角川日本地名大辞典22 静岡県」の本川根町梅地の小字一覧にも久保山という地名が見える。後掲する「くりぞうりさわ」付近の地形図では、接阻峡温泉の地名と温泉マーク、604mの標高点が見える一角である。施設名は字名に由来したのであろう。
さて、この日影山展望台。展望台とは名ばかりで、実際には樹木に遮られて展望は開けない。整備した当時は展望が開けていたのかもしれないが、樹冠越しに見える対岸は「久保山」という字だったことを考えると、ここは「日影山を望む展望台」では無いと考えるのが妥当と思われる。
さらに角川の地名辞典をよく調べると、本川根町犬間には、「竹ノ花」、「井戸沢」といった小字が見られる。これらは、既に辿ってきた歩道跡にあった小さな沢を渡る小橋の名前と一致している。「日影」という小字は記載されていないのだが、「清水日影」、「鳶巣日影」、「栃久保日影」、「村上日影」などの小字の他、「日影平」という小字も見られる。また、既に見たように、日影山展望台への分岐の直前には「第二日影橋」という小橋もあった。
日影山展望台のある辺りの斜面は、北向き斜面で「日影」方向であるから、この辺りの小字に由来すると考えると、「日影山にある展望台」と解釈するのが妥当なところかもしれない。
展望が開けず、訪れるものも居らず、一休みしたくなる雰囲気でも無かったので先に進む。
行政などの手によって整備された歩道には、よく、展望台が作られるが、整備が終わった後に、維持管理に予算を割くことは少ないため、樹木の成長などによって展望が失われ、誰も訪れない廃墟になってしまう例も多い。
かと言って、維持管理の目的で樹木を伐採するとすれば、自然破壊と批判されるご時世でもある。
下手に整備して放置するくらいなら、むしろ、一切整備しない方が望ましいのだが、行政機関で仕事をしていると、整備を望む声にも耳を貸さねばならない。
維持管理を嫌って堅固な構造物を設ければ、今度は、過剰整備と言う声が上がり、整備不良で事故が起これば、管理責任が問われる。
批判をするのは簡単だが、矛盾する要求を快刀乱麻を断つように解決するのは難しい。
それはさておき、展望台の脇の道は、更に斜面を下り、井川線の路盤と同じ高さまで達するが、そこで、地図にも示された大きな沢を渡る吊橋が現れる。
大井川源流域で見られる、簡易な吊橋ではなく、かなり堅固な構造物である。この歩道を整備した地元自治体の意気込みが感じられる吊橋である。
大井川鐵道の車窓からも、はっきりと見えることだろう。
吊橋を渡り終えて、更に道なりに進むと、2つ目の吊橋が現れる。この吊橋には、「くりぞうりさわばし」という名称がついている。銘板も付いており、それによると、本川根町の施工で、竣工は1991年3月とのことである。
「くりぞうり」の漢字表記はないが、沢が突き上げた稜線上には、標高1293.9mの三角点があり、栗代山と呼ばれている。稜線の反対側の谷を刻むのは、栗代川である。また、尾盛駅から大無間山に続く廃登山道は、尾栗峠で稜線に突き上げている。
そういった点を踏まえると、「くりぞうり」は「栗草履」なのであろうと感じた。
しかし、「角川日本地名大辞典22 静岡県」の記述によると、本川根町犬間の小字一覧に「栗惣利」とか「栗惣礼沢山」という地名が見える。接岨峡温泉駅から尾盛駅付近まで、大字犬間であるので「くりぞうり」は、「栗惣利」、若しくは、「栗惣礼」と漢字表記されるのであろう。そして「栗惣礼」は「くりぞうれぃ」が訛って「くりぞうり」と読むのではなかろうか。
というのも、この小字一覧に、「尾盛」の名は見えないのであるが、「上尾茂礼」、「下尾茂礼」という名が見えるのである。もし、「礼」を「り」と読む法則を適用すれば、「尾茂礼」は「おもり」となり、これが、「尾盛」の駅名の由来だとすることに、筋道が立つ。
この辺の経緯については、「本川根町史」を読み込むことで、回答が得られたのだが、その記述の詳細は、文献調査記録で述べることにしよう。
なお、尾栗峠の名前の由来は定かではないが、尾盛の「尾」と、栗代の「栗」に由来する地名なのではないか?と推察している。
「くりぞうりさわばし」を越えると、工事に使われたのだろうか、小型ミキサーが廃棄されているのを横目に、今しがた下ってきた分をきっちりと登り返し、斜面をトラバースしてきたと思われる破線ルートに復帰する。
地図で見ると、茶畑の記号が3つ描かれ、山腹斜面に飛び出した、小さな台地がある辺りである。
地図記号とは異なり、茶畑は見られないが、代わりに、廃小屋や石垣の跡が散見され、人の生活の痕跡が濃厚な一帯である。
以下に、国土地理院が公開している旧版の空撮画像と、対応する国土地理院地形図を重ねて示す。
上から順に、1948年9月30日、1970年10月21日、1976年10月7日の空撮画像で、1948年9月30日の写真は井川線開通前、1970年代の2枚は井川線開通後である。
これらと地形図とを見比べてみると、茶畑記号の一帯や尾盛駅周辺は、1948年当時から、森林が切り開かれ開墾されていた様子が分かる。
また、1970年代の2枚を見れば、尾盛駅西方の山腹は、樹木が伐採された跡が明瞭に分かる。
更に、以下に示すのは、1976年の旧版空撮画像の茶畑記号付近を拡大したものである。
これを見ると、大井川鐵道の線路に並行して走るかつての車道や茶畑が、より明瞭に分かるであろう。茶畑の南側に刻まれている谷が、「くりぞうりさわ」である。
茶畑跡から先は、地図の破線がなくなっているのだが、実際、現地でも、道は不明瞭になってくる。岩盤を削った道の跡を追うことは出来るが、落石や崩土、落ち葉や枯れ枝など、様々なものが堆積し、分かりにくくなる。
更に進むと、地形図上に示された777mの標高点のある尾根を32号トンネルがくぐる真上の、小さな平坦地に出る。ちょっとした盛り上がりもあるが、これが、自然の造形なのか、人為によるものかは分からなかった。
車の通る道があったらしいという情報を元にすれば、人為的に整地をしたり、斜面を削ったりした跡とも考えられるが、そういった痕跡は見つからなかった。
尾根を回り込むと斜面は北向きになるが、地図でも示されたとおり、この辺りの斜面は急勾配で谷に落ち込んでいる。
そして、平坦地を出て程なく、道路の痕跡が、完全に崩壊して消失している地点に出た。崩壊地の対岸には、道の跡が続いているのが見て取れるが、崩壊地そのものは5m程度あり、斜面側の岸壁をへつるにしても、転落した際の安全性が確保できないため、フィクスロープが必要と思われる。
辺りをよく見ると、かつて、ここには桟道状の吊橋があったのか、それらしき残骸やワイヤーが、力なく斜面に垂れ下がっている。
先程の尾根まで戻って、崩壊地を高巻く事も考えたが、ここでは、少し戻ったところから、斜面を下り、崩壊地の下の急斜面をトラバースして突破することができた。
1つ目の崩壊地を越えて、道跡に復帰したのも束の間、間髪入れずに2つ目の崩壊地が現れる。
こちらの方が、崩壊の規模も、斜面の傾斜・高度差も大きく、万事休す…と暫し立ち尽くした。
眼下には、かなりの高度差と急傾斜の先に、井川線の線路が見えている。
崩壊地に向かって、いつ、誰が設置したのか分からないトラロープが、垂れ下がってもいたが、全体重を預けてぶら下がる代物ではない。
結局、ここでも、少し戻った地点から、クライミングの要領で斜面を下り、今度は、対岸の道に復帰せず、斜面を下って、線路脇まで達した。
子供の頃から木登りが好きで、登山を始めた流れで、クライミングもするようになったのだが、クライミングでは、登るよりも降る方が、圧倒的に難しい。
掴んだ灌木が体重を支えきれるのか、足元の地面が崩れることはないのか、三点支持で探りを入れながらの、緊張する下降であった。
接岨峡温泉から続いていた破線ルートの息の根を止めたのは、恐らく、この2つの崩壊地であろう。
線路脇の一段高い斜面をトラバースしていくと、そのうち、崩壊地を越えてきたと思われる道の痕跡が現れる。
程なく、線路の路盤の周りに、広い空間が現れるようになり、緩やかな曲線を描く井川線の線路に沿って、駅が近づいてきたことを予感させる雰囲気になる。地図では、32号トンネルを出た辺りから、線路は直線状に描かれているが、実際には、この区間にも緩やかなカーブが存在している。
やがて、地図上で水線が描かれている沢の上流部に当たる、樽沢橋梁と書かれた短い橋を渡る辺りで、尾盛駅が見えてきた。既に何度か取り上げた小字一覧では、「樽沢」の名は見えないが、「樽口」、「大樽口」の名が見える。
接阻峡温泉の27号トンネル脇を出発したのが、6時31分。「駅前」の廃屋脇に辿り着いたのが、7時26分。55分での到達となった。
復路
駅に意識が傾いていた往路とは異なり、帰路は、道の周辺の様子を観察しながら歩く。
駅の構内の外れには、大きな石垣の構造物が残っている。
現地にも、その正体を示す根拠は残っていなかったが、かつて尾盛駅にあったという、学校の敷地跡と言う話もある。
線路脇の来た道を戻っていくと、勾配標が現れる辺りから、何となく、右側の斜面に取り付く道の痕跡が見えてくる。獣道がそう見えているだけかもしれないが、所々に、養蜂の巣箱が見られることから、恐らく、人道の跡と見て、間違いないだろう。
やがて痕跡が明瞭になってくると、中部電力の敷地境界標識や、打ち捨てられた梯子が出てきたりする。登山道よりは不明瞭で、獣道よりは明瞭という程度の道だが、往路で迂回した2つ目の崩壊地に、逆からアプローチする形になっている。
駅を後にして7分程度で、2つ目の崩壊地の「対岸」に辿り着いた。
こちら側から眺めても、やはり、通過不能であることには変わりがない。
往路と同様に斜面を迂回するため、急斜面を下るのだが、丁度、井川線の32号トンネルの上に出る。
下から眺めると、完全に、クライミングを要する岩壁であったが、ここでは、トラロープ脇に「筋」を見出して、フリークライミングで道に復帰した。トラロープに体重を預けるのは危険なので、それには頼らず、岩の裂け目や凹凸を使って登る必要があるが、最後、路面に出る部分が渋くて、緊張を強いられた。
垂れ下がった木製桟道の残骸をよく見ると、「加圧式クレオソート」の文字や、「静岡木材防腐株式會社」の文字が見えた。クレオソートというのは、タールを主成分とする木材防腐用剤である。
陥没地点を過ぎて、来た道を引き返す。
往路で見た集落跡と思われる地点まで戻ってくると、往路では気が付かなかった石垣や小屋の跡があった。中には、現在も使われているのではないか?と思うような、比較的新しい小屋もあった。
往路では、線路脇の2つの吊橋を通る遊歩道跡を通ってきたが、復路は、このまま、地図上に示された破線後のルートに沿って進むことにする。
往路と復路とを合わせて、尾盛駅に至るルートの全容を把握することが出来るだろう。
トラバース路をそのまま進むと、程なく、「くりぞうりさわ」の上流を横切る地点に出る。
沢沿いに辿り着いた道は、沢地形の中に消えており、痕跡は分からなくなる。
対岸を眺めてみると、なんとなくそれらしい痕跡が見いだされたので、そこを目指して沢を渡るが、その際に下流側を眺めると、急勾配の渓流の先に、滝の存在を暗示する落ち込みがあり、視界が開けて井川線の線路が見えた。
かなりの急勾配である。
「くりぞうりさわ」を越えると、もう一つの沢を横切るまでの間に、尾根をトラバースすることになるが、この部分は、崩壊した瓦礫に覆われた斜面となっており、道の痕跡は跡形もない。斜面自体は少しずつ植生も回復してきている様子だったので、新しい崩壊地ではなさそうだが、立木に激突して止まったと思われる巨大な落石などもあり、通過には緊張を強いられる。
途中、斜面に古いレールが1本、転がっていた。
前後の様子から考えて、この辺りに、軌道があったとは考えにくく、恐らく、かつて存在したはずの車道の一部として利用されていたものが、斜面崩壊に伴って流出し、辛うじて斜面途中にとどまっているというのが、実態であろう。
崩壊地を越えると、造林作業道跡と思える程度の広い区間も現れるが、すぐに、次の沢に飲み込まれて、再び道は消える。
こちらの沢は、古い土石流の跡が顕著で、流木なども多く、荒れた様相である。
この沢辺には、小さな小屋があり、何やら赤い文字でメッセージが書かれている。よく見ると、「カメラ見テルワサビトラナイデ下サイ」と訴えている。
今はどうかは分からないが、かつては、山葵を栽培していたのであろう。
カメラがあったのかどうかは定かではない。
沢を越えて程なく、道は、「接阻峡遊歩道跡」に合流する。
往路では、荒れた印象を受けたが、復路でここまで戻ってくると、「いい道」と感じるようになっていた。
接阻峡温泉駅の先の27号トンネル脇には、8時37分に戻ってきた。2時間前の出発段階では、まだ、日も差さず、集落も眠っているかのようだったが、この時刻になると、駅のある谷間にも日が差し込み、明るい雰囲気になっていた。
ただし、まだ、始発列車までは時間があるため、駅界隈に人の姿は見られなかった。
崩壊地や沢筋の通過で時間がかかり、復路は61分かかった。
次に尾盛駅を訪れる際も、このルートを通ることになるのだろうが、できれば、大無間山にも足を伸ばし、南アルプス深南部山行を楽しみたいと思う。
今日は、ここから、閑蔵駅、井川駅と辿って、井川線を走破した跡、堂平駅までの廃線を走り、更に、大井川源流の二軒小屋付近まで足を伸ばす予定である。
歩道の入口脇に停車中のちゃり鉄号に乗り込んで、出発した。
なお、後ほど、閑蔵駅で、靴の中に入り込んだゴミを取り除こうとしたら、靴下に張り付いたヤマビルも転がり出てきた。ヤマビルの多い山域だけに、歩行の際は、装備に注意が必要だろう。