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雄信内駅:旅情駅探訪記
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2001年6月。私は、1週間ほどの期間を費やして北海道を旅した。
この年の6月30日。宗谷本線の芦川、上雄信内、下中川、石北本線の天幕、中越、奥白滝の6駅が同時に廃止になる予定だったからだ。
廃止間際になって駅を訪れても人だかりに疲れることが多く、本当ならそんな時に訪れたくはないのだが、再訪の機会を望みながらも得ること叶わず、辛うじて確保できた6月初旬に、山口での学会に参加したその足で舞鶴から小樽へと渡ったのだった。
6月という季節柄、青春18きっぷなども使えず、期間が限られていたこともあって特急移動が必要となり、北海道の旅では初めて北海道フリー切符を購入した。
その旅の道中、上雄信内駅を訪問するために下車したのが雄信内駅だった。上雄信内駅で駅前野宿をする予定だったが、停車時刻の都合上、直接駅に降り立つことができず、雄信内駅から歩いて上雄信内駅に向かうことにしていた。勿論、たった今下車したばかりの普通列車も、上雄信内駅を通過するダイヤだった。
幌延方面に向かって出発していく単行気動車の普通列車を見送る。
霧に覆われた北辺の無人駅は6月と言えども薄ら寒く、気動車のエンジン音が遠ざかると、照明が灯り始めた雄信内駅周辺には日暮れの気配が漂い始めていた。
掘っ立て小屋に等しい待合室しかない上雄信内駅より、立派な駅舎が残る雄信内駅の方が過ごしやすい環境ではあったが、既に暮れかけた中、小一時間かけて上雄信内駅まで歩く予定を変えるわけにはいかない。
この旅が終われば、もう、上雄信内駅を訪れる機会は二度とないからだ。
そんなこともあって、雄信内駅は僅かな滞在時間となったが、駅構内の様子と駅舎の写真を数枚撮影することにした。
当時の駅名標を眺めると、両隣は旭川方に上雄信内駅、稚内方に安牛駅が営業していたことが分かる。2022年現在、この両隣の駅は既に存在しない。何気ない駅名標の写真ではあるが、貴重な歴史を語る資料でもある。
雄信内駅の駅舎もまた、宗谷本線の無人駅の中では貴重な木造駅舎で、改築されたものとは言え、路線開業当時の面影を今に伝えている。
この立派な駅舎に駅長以下の駅職員が勤務し、近所の集落の住民や物資が集う場所として機能していた時代。
雄信内駅に限った事ではないが、各地に残る立派な造りの木造駅舎を眺めていると、その地域に鉄道が開通した当時の人々の喜びや期待を、まじまじと感じさせられる。
今では、駅そのものよりも先に周辺の集落が衰退・消滅し、駅や路線の存在意義すらも問われるようになっているが、そこで営まれた人々の暮らしに思いを馳せ、在りし日の姿を偲ぶとともに、記録に残していきたいと思う。
全国各地でローカル線や無人駅の存廃議論が喧しいが、議論の行方がどうであれ、貴重な記録を残す作業を静かに続けていきたいし、旅情ある鉄道沿線の風景が穏やかに持続していくことになれば、それは素直に嬉しい。
この初訪問の当時、そんな気持ちは明確には抱いていなかった。ただ、雄信内駅の佇まいに惹かれ、何時か、この駅で駅前野宿の一夜を過ごしてみたいと感じたことは、記憶の中に鮮やかに残っている。
それが叶うのは20年以上先の事になろうとは想像していなかった。しかし、国鉄末期から今日に至るまでの路線廃止や駅廃止の実態を鑑みれば、令和の時代にこの駅で駅前野宿の一夜を過ごせたことは幸せなことだとも思う。その駅前野宿の一夜については、後ほど触れることにしよう。
初訪問のこの日は、日没までには上雄信内駅に到着する必要もあり、1時間にも満たない滞在時間で、暮れかけた雄信内駅を後にしたのだった。上雄信内駅にどうやって辿り着いたのか記憶はない。線路を歩いたわけではないので、踏み跡のある牧場を突っ切ったのではなかったかと思う。私有地に囲まれていてどこにも行けないと言われる上雄信内駅だったが、立ち入り禁止のような表示は無かったように記憶している。
駅のホームには1基の照明があったが、この照明は日が暮れても点灯することはなく、フィルムで写真を撮影していたこともあって、上雄信内駅の写真は僅かな枚数しか撮影することができなかった。
公的な記録も殆ど残っていない上雄信内駅ではあるが、いずれ、この「旅情駅探訪記」の中で取り上げることにしたいと思う。
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2001年8月には、宗谷本線を再訪する機会があった。
学生時代最後の夏を、北海道東北を巡る3週間余りの旅で締めくくったのだが、その時に乗車した宗谷本線の普通列車が、雄信内駅で特急列車と行き違いをした。その際に、2か月ぶりの雄信内駅を車窓に眺めながら写真を撮影していた。雄信内駅への再訪問であった。
この旅情駅探訪記をまとめるにあたって、これまでに撮影した雄信内駅の写真を整理してみると、日中の明るい時間帯に、晴天下で撮影した写真はこの一枚だけだった。
行き違いの僅かな停車時間の記録に過ぎないが、四季折々の姿を眺めてみたくなる、そんな明るい表情の雄信内駅だった。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
雄信内駅の第三訪は2016年1月の旅。学生時代から15年程を隔てた真冬の出来事だった。
「ちゃり鉄」の旅を始めたのが2016年。
真冬の北海道を走るためには相応の自転車が必要となり、私が使用している現在の自転車では安全に走ることが難しい。その為この旅は鉄道で巡る旅となったのだが、野宿というスタイルは変わらない。
釧路で生活していた数年間を除けば、真冬の北海道を野宿で旅するのは1998年2月の旅以来。
学生時代の前回の旅ではマイナス29℃での野宿の夜も経験した。マイナス15℃まで使える寝袋とスリーシーズン用外張りのメッシュウォールテントに、寒冷地用OD缶を装着したガスバーナーという装備では歯が立たず、痛みを伴う酷寒の中で苦しい夜を過ごした思い出も懐かしい。
そうした経験もあって、この旅では、マイナス30℃まで使える寝袋に冬用外張りを備えた山岳用テント、ガソリンストーブという装備を携行したため、寝袋の中に潜り込めば寒さを感じることもない快適な夜を過ごすことができた。
道内に滞在した3週間余りの期間の大半は吹雪という状況だったが、そんな中でも、鉄道はさしたる遅れもなく走り続けていたことは印象に残っている。
北海道の鉄道経営に対しては厳しい声も少なくはないし、鉄道不要・廃止論も強い。実際、鉄道に乗って旅をしていても、地元の利用客は勿論、鉄道ファンの姿すら見かけないという事も珍しくはない。
しかし、真冬の北海道の厳しい気候の中を旅してみれば、吹雪の中でも定時運行している鉄道の心強さを実感させられる。車の運転を躊躇うような荒れた天気の中でも、鉄道は動いていることが多いし、そうして運行を維持するために、多くの人々が厳しい労働に従事している。
それは、切り捨てるべき経費の無駄遣い、税金の無駄遣いだろうか。
そういう論者には、この厳しい環境の中で鉄道を維持しようとする人々と共に、除雪作業に従事してみて欲しいと思う。実際、この真冬の旅では、幾つかの駅で除雪作業員募集の広告を見かけたし、風雪吹き荒ぶ踏切で列車の通過を見送りながら、除雪作業に従事している人々の姿もたくさん見かけた。
そうした厳しい作業に従事する経験があれば、北の大地の鉄道経営の在り方に対して、違った角度で見ることができるようになるかもしれない。
宗谷本線も3日程をかけて巡ったが、大半が吹雪の中での行程となり陽光を目にしたのは2時間程度しかなかった。乗り降りする列車はどれも、全面に雪をまとって凄まじい形相となりながらも、寡黙に走り続けていた。
この旅では、列車交換の合間を利用した短い時間ではあったが、雄信内駅も訪れることができた。
宗谷本線2日目。
北星駅で念願の駅前野宿の一夜を過ごした後、稚内を往復して豊清水駅を目指す行程で旅をしたのだが、その行程の中で日中と夜の2回、この駅で乗り降りする機会があった。
まずは、稚内を目指す日中の旅路。
雄信内駅に到着した列車の中で、列車交換のために数分間停車するという車内放送がかかった。時刻表を見ても対向列車がやってくる時刻ではないため、列車の遅れや回送列車の走行があるのかと思ったのだが、アナウンスされた停車時間が比較的長かったため、駅前に出て散策するくらいの余裕があった。
早速、カメラを携えて車外に出て駅前まで足を延ばしてみる。
雄信内駅周辺の集落は既に無人となっているが、駅前は綺麗に除雪されており、列車交換が行われる駅には除雪作業員の詰め所も設けられている。ホームには除雪機も置かれていたが、私が訪問した時間帯には、作業員の姿は無かった。
ブラブラと駅前を散策した後、ホームに戻ってみると、稚内方から見慣れぬ車両がやってきた。よく見ると除雪車だ。
その筋に詳しい人ならば、こういった列車のダイヤも把握していて、撮影スポットに陣取って写真に収めようというところかもしれないが、私はその辺は偶然に任せている。
この日は、珍しい光景に出会ったので写真を撮ろうと思ったのだが、既に、数名の鉄道ファンが陣取っており割り込んでまで撮影するのも憚られたので、遠方から接近してくる除雪車の写真を撮影してから列車に乗り込んだ。
程なくして除雪車が行違っていく。
この時間帯、雄信内駅の周辺は降雪も小康状態だったため、雪を蹴散らして驀進するような走行シーンではなかったが、雪国ならではの鉄道風景だった。
除雪車が通過していくと普通列車も直ぐに動き出した。
この後、兜沼駅でも小休止を挟んで稚内駅に到達。当時営業中だった近所の温泉施設で入浴し、街中を散歩してから引き返すことにしたのだった。稚内滞在中の数時間、辛うじて陽光が差していた。
稚内駅を出発した後、夕刻の糠南駅に移動して途中下車し、次の列車が到着するまでの数時間、至福のひと時を過ごした。
既に述べたように、この日の駅前野宿予定地は豊清水駅だった。従って、糠南駅からは旭川方面に向かう上り列車に乗車して移動するという事になるのだが、次の上り普通列車は糠南駅を通過してしまう。
上り普通列車が糠南駅を通過していく前に稚内方面に向かう下り普通列車がやってくるのだが、これは勿論、目的地とは逆向きである。だから、普通に考えるとこの列車に乗車するわけにはいかない。
しかし、この下り普通列車は、次の雄信内駅で上に述べた上り普通列車と行違う。そして雄信内駅には両方の普通列車が停車する。時刻表に示された雄信内駅の出発時刻は両者同時なので、残念ながら下りから上りへ乗り換えることができないように見えるが、実は、乗り換えることができるのである。
というのも、この下り普通列車は、上り普通列車よりも早く雄信内駅に到着し、そこで行き違いのため停車するからである。先着した下り普通列車から後着する上り普通列車に乗り換えることができれば、糠南駅を通過する上り普通列車に乗車して豊清水駅方面に向かうことができる。
そんなことは時刻表には書かれていない。書かれているのは各駅の出発時刻のみである。到着時刻は書かれていないので下り列車が上り列車よりも先着することは分からないはずだが、時刻表を読むことができるようになるとその事実が読み取れる。
ここで注目すべきは、上下双方の列車が隣駅を出発してから雄信内駅を出発するまでの時間差である。この時間差を、上下方向それぞれの方向で他の普通列車と比較した場合、この時刻の下り普通列車は、他の下り列車よりも数分間余計に時間を要していることが分かった。この時刻の下り列車だけが糠南駅と雄信内駅との間で徐行運転をするわけではないから、駅間の所要時間はほぼ同じはずで、出発時刻が遅れるというのはつまり、駅に余計に停車していることを暗示するのである。行違う上り普通列車にはそうした兆候は見られない。となると、上り普通列車は到着して直ぐに出発するということになる。
上記のことから、雄信内駅に下り普通列車が先着し、数分の時間差で上り普通列車が後着。その後、両者が同時に雄信内駅を出発していくという事が分かるのである。列車遅延が発生している場合は、時刻表通りにはいかないが、幸い、この日の宗谷本線の普通列車は定時運行だった。
かくして私は、日の暮れた雄信内駅でこの日二度目の途中下車をした。到着時には上り列車の姿は見えず、構内踏切を渡って上り線ホームに入った後に目的の上り普通列車がやってきた。滞在時間は僅か数分ではあったが、この日の行程を左右する重要な行き違いを、雄信内駅で経験したことになる。
お分かりだろうが、この逆のパターンでの乗り換えは難しく失敗することもあるので、重要な行程でそういう賭けに出ることはない。
なおこの日は予定通り豊清水駅まで移動した。20時過ぎの到着。それが豊清水駅に発着する最終列車でもあったから、運転士からは「大丈夫ですか?」と心配されたが、装備上は問題がないためお礼を言って列車を下りた。驚いたのはその列車に乗車してきた鉄道ファンが居たことである。
さて、降り立った豊清水駅で駅前野宿の準備、という場面だったのだが、雄信内駅と同じく豊清水駅でも列車の行違いが行われており、ポイント保守のため24時間体制で保線作業員が詰めていた。普段は閉鎖されているはずの詰め所の方に明かりが灯り、そこで談笑する男性数名の声がする。駅前には軽トラが停まっているし待合室は除雪機が占領している。
駅前野宿となると除雪作業の邪魔になりかねないので、一言、断りを入れようと詰め所に声をかけるのだが、話し声がやむだけで誰も出てくる気配はない。扉の向こうでじっと様子を伺っているのが感じられる。しばらくすると話し声が聞こえてくるのだが、もう一度、声を掛けても同じだった。
最終列車が出ていった後の駅に人が居て声をかけてくるのだから、「乗り遅れたから最寄り駅まで送ってほしい」といった面倒を持ち込まれるとでも思ったのかもしれない。無視するという意志ははっきりと感じられた。それも無理はないと思う。
結局、そういう雰囲気の中で駅前野宿をすることは諦め、夜の21時を回った段階ではあったが、隣の天塩川温泉駅まで徒歩で移動する決断をした。駅間距離の長い宗谷本線にあって、豊清水駅と天塩川温泉駅との間は3.6㎞と比較的短い。徒歩での移動は迂回が必要となるがそれでも5㎞程度。1時間もあれば移動できる距離である。
吹雪の中、深夜の国道をバックパックを背負って歩いていると、数台の車と遭遇した。
いずれの車も、私の傍を通り過ぎる時にかなり減速し、中には停車した車もあったので、声を掛けられるかと思いきや、そんな車は一台もなかった。確かに、そんな時刻にそんな場所を人が歩いているなどとは思わないだろう。ヒグマが出る季節ではないが、車中から見ると、吹雪の路肩に得体の知れない獣が居るように見えたかもしれない。
22時半頃には天塩川温泉駅に到着した。真っ暗な道の彼方に駅の明かりを見つけた時の安堵感は、何ものにも代えがたい。
畳敷きの休憩スペースがある天塩川温泉の待合室は、疲れた一夜の寝床としては申し分のないもので、思い出深い旅情駅となった。
この時、駅前野宿をしそこなった豊清水駅では、2020年10月の「ちゃり鉄14号」で念願の駅前野宿を果たすことができた。但し、駅そのものは、2021年3月31日に信号場に格下げとなり旅客駅としては廃止されている。
また、同じ旅の中では銀山駅も除雪作業員の詰め所が設けられており作業員が常駐していた。こちらでは、作業員の方から暖かい飲み物の差し入れなどを頂いた。始発列車が到着する前の早朝3時頃には作業を開始されていたが、頭の下がる思いである。
2020年10月(ちゃり鉄14号)
雄信内駅の第四訪は2020年10月。「ちゃり鉄14号」の道中だった。
この旅では、小樽に上陸し羽幌線を辿りながら日本海に沿って稚内まで北上。宗谷本線、士幌線、広尾線と辿って襟裳岬まで遥々南下。日高本線を辿りながら太平洋に沿って北上。苫小牧から離道した。
この年は、5月、8月と立て続けに計画の延期を余儀なくされ、冬が始まる前の最後の機会が10月だった。
2021年3月には一気に18もの駅の廃止が予定されており、加えて、日高本線の鵡川以南の不通区間も、再開されぬまま廃止されることが決まっていたのだが、それらを巡る機会が得られないまま、最後の冬を迎えようとしていたのである。
冬の北海道を自転車で旅することは不可能ではない。しかし、一般的な自転車で旅をすることは難しい。
スパイク・タイヤやディスク・ブレーキなど、相応の装備を備えている必要があるのだが、私の自転車にはディスク・ブレーキは装着できない。その為、冬が始まれば「ちゃり鉄」の旅で訪れることができないし、北海道の遅い冬が明ける頃には駅や路線は廃止された後である。
その為、迷いに迷ったのだが、会社に3週間以上に及ぶ長期休暇の取得を認めてもらった上で、北海道を旅する決断をしたのだった。
その旅の道中で、雄信内駅を二度訪れる機会があった。
一度目は羽幌線の旅を終えた後。天塩から内陸に入ることになるので、駅前野宿地として雄信内駅を選んだ。続く二度目はその二日後。雄信内からオロロンラインを北上して稚内に至り、そこから宗谷本線を旅する道中、抜海駅~糠南駅間を走る行程の中で立ち寄った。幌延駅~雄信内駅間は重複行程となるが、訪問時間が多少異なるので良しとした。
それぞれ異なる日に訪れているのだが、同じ旅の中での訪問ではあるので、これらをまとめて第四訪として扱うことにする。
一度目の到着は18時前。ヘッドライトを点灯しての走行となった。
到着する頃にはすっかり暗くなっており、西の空には残照が残っていたものの、東の空の残照はほとんど消えていた。それでも、駅舎の窓からは明かりが漏れており、無人の集落の中とは言え、ホッと安らいだものを覚える。
この日の行程は、前日から走り続けてきた羽幌線に沿って苫前駅付近から幌延駅までの区間を走り通すのが主目的であった。ところが、その羽幌線は天塩町から幌延町にかけては内陸に向かうため、日本海沿岸を離れるルートを走ることになる。
既に述べたとおり翌日の行程は天塩市街地から野寒布岬に至るオロロンラインをメインとして、稚内駅から宗谷本線に入り抜海駅までの行程としていたので、幌延町から天塩町まで戻る必要がある。
勿論、幌延駅から西や北西に向かい、サロベツ原野を横切ってオロロンラインに出て、そこから海岸沿いに北上するというルートも考えられるが、そうなると、天塩町からサロベツ原野までの区間で海岸線を走ることができなくなる。
小樽市から天塩町まで海岸線を丁寧になぞるルートで走ってきて、この区間だけ内陸を走るというのはしっくりこないし、むしろ、どうしても海岸線を走りたい区間でもあった。
その為、幌延町から天塩町まで戻る計画としたのである。
安直には、幌延町から天塩町まで今来たばかりの道を逆戻りすればいいのだが、それは面白くない。
幌延駅を出発する段階で夕方になっているから、20㎞程度の距離で野宿地を決めたいし、出来れば、駅前野宿としたい。そうなると、上幌延駅、南幌延駅、安牛駅、雄信内駅が候補に挙がるのだが、幌延町から上流の天塩川には橋が少なく、宗谷本線に沿って進むとすれば、雄信内駅付近まで南下しないと天塩川を渡ることができない。
ただし、雄信内駅まで進んでしまえば、そこから西に向かって低標高のロクシナイ峠を越えて天塩市街地に出ることができ、そこからスムーズにオロロンラインに入ることができる。
一見すると無駄なループを描くように見えるが、これが妥当なルートだと思われた。以下にこの地域の参考地形図を掲載しておく。
雄信内駅を出発した後は、既に述べたように稚内駅から宗谷本線に入り、旭川までの各駅に停車していくことになる。その初日は抜海駅での駅前野宿。そして続く二日目は糠南駅で駅前野宿という予定にしていた。
結果的に、出来るだけ行程の重複を避けつつ、雄信内駅、糠南駅という隣接する魅力的な二つの駅で、駅前野宿を行うことができるルート計画となった。
そういったルート設計は「ちゃり鉄」ならではの楽しみであり、見事な計画が出来上がった時の気持ちよさは、しばしば、実際の旅の楽しみをも上回る。
さて、羽幌線の廃線跡を辿りながら苫前から幌延に至る区間は、海岸沿いの美しい所を主体に走る区間ではあったが、この日は嵐の様相で猛烈な風と雨に見舞われた。幸いな事に基調風が追い風方向だったため、走行計画を大幅に妨げられることはなかったのだが、それでも、横風方向に走る区間や、巻き風が起こる区間では、真っ直ぐに走れないような状況だった。
そして、幌延から雄信内にかけては、疲れの溜まった終盤にも関わらず、向かい風方向に走ることになった。ただ、昼過ぎには嵐も過ぎ去り、上幌延駅や安牛駅といった、廃止予定の駅の印象的な暮景を眺めながらの行程が、強い向かい風の中で走る辛さを和らげてくれたのは幸いだった。
残照に彩られた駅風景のドラマはあっという間に終わる。
日没の余韻を伝える水平線近くの紅色は次第に明度を失いつつ青みを帯びていき、空全体が紫から群青へ、群青から紺色へと染まっていく。
西の空の雲の途切れ具合から翌日の晴天を予感しつつ、暮れかけた駅の中で一人静かにドラマに酔いしれる。それは駅前野宿の旅ならではの贅沢なひと時である。
ホームの駅名標は旭川方が「ぬかなん」の表示に張り替えられていた。そこに存在した上雄信内という駅の記憶は、集落と共に消えて行こうとしている。
到着から30分ほど経った18時半頃には、下りの普通列車がやってきた。この列車は雄信内駅に発着する下りの最終列車でもある。
学生時代、雄信内駅では数名の利用者が列車から降りる姿を目にしていた。女子高校生やご老人だったのだが、その姿が印象に残っている。駅前の集落に人が住んでいるのだろうと思ったものだ。
あれから20年余り。既に駅前集落は無人化している。
とはいえ、駅からは道なりに3㎞程度の距離で雄信内の集落がある。
こうした無人駅に利用者がいる場合、駅の駐輪場に自転車やバイクが駐輪されているか、さもなければ、列車の到着時刻に合わせて迎えの車がやってくるのだが、この日、そのいずれも見当たらなかった。だから、列車が到着しても利用者の乗降はない事が予想された。
果たして、到着した列車に乗客の姿は無く、勿論、ここから乗車する利用者が現れることもなく、単行気動車は出発していった。テールライトとアイドリングの余韻を残して。
僅かな地元利用者の姿も消えつつあるローカル線の現状を垣間見る。
列車の余韻が消え去ると、駅に残るのは孤独な旅人と夜の帳ばかり。しかし、そんな孤独にも、明かりの灯る旅情駅は物言わず寄り添ってくれる。
古びた木造駅舎は造り物では醸し出せない渋みを湛えて、フラフラとやってきた旅人を見守ってくれているようだ。
「よう来たな。まぁ、ゆっくり休んでいきな」。
そんな声がどこからともなく聞こえてくるようだ。
気が付くと、上雄信内に続く宗谷丘陵の稜線から満月が顔を覗かせていた。
その抒情的な光景の中に一人佇む喜びを噛みしめつつ、しばし見惚れた。
19時を回った頃だろうか。稚内方にある踏切の作動音が遠くの方で響き始めた。その方向に目をやると赤色灯が明滅している。程なく、彼方の原野を駆け抜けてくる数両編成の列車の走行音が虚空に響きだした。その軽快なリズムは単行気動車のそれとは明らかに異なり、特急がやってくることを告げていた。
少し遅れて無人の駅構内に列車の通過を知らせる放送が流れ、構内踏切が作動し始める。
やがて、彼方から大光量のLEDヘッドライトも誇らしげに、札幌に向かう特急「スーパー宗谷」がやってきた。レールに煌めきを落としながら徐行しつつポイントを渡ってくるその様は、短編成になったとは言え特急の風格を漂わせている。
道内の遠距離輸送においても、鉄道は高速バスとの競争にさらされ苦戦を強いられている。特急と言えど惨憺たる乗車率という事もあるが、通過列車の車内にはそこそこの乗客の姿があった。
札幌へはまだ4時間余りの行程。長途の旅はまだ序盤である。奮闘する特急の姿にエールを送りながら、通過を見送る。
すっかり暗くなった雄信内駅に鮮やかな光陰を残して、「スーパー宗谷」は駆け抜けていった。
特急が走り去った後の駅には、再び静寂が訪れる。
今日、この後、雄信内駅にやってくるのは上りの普通列車が1本と、下りの特急列車が1本。合計2本である。
時刻は19時半過ぎ。
都会とは異なる時が流れているかのようだ。
20時前には名寄方面に向かう上り普通列車が到着した。この列車は上りの最終列車であるとともに、雄信内駅に発着する最終列車でもある。
幌延周辺の各駅では朝に幌延に向かい夕に幌延から帰る動線がある。その為、幌延からやってくる上り最終列車は各駅に帰る旅客を運ぶ最終でもあり、多少は乗客が居ることが予想された。
もしかしたら雄信内駅の利用者も居るかも知れない。そう思っていたのだが、直前になっても迎えの車がやってくる気配はなく、到着した普通列車には乗客自体が無かった。
その普通列車の孤独な姿を見送り、一人、雄信内駅に残る。
いつの間にか、満月が中空近くにまで昇っていた。
この後、駅を通過するのは稚内に向かう特急「サロベツ」のみである。通過時刻は22時半頃。駅には列車発着の空白時間が訪れる。
その合間を利用して、明かりの灯る待合室で、今日一日の行程の取りまとめや明日の行程の確認作業などを行う。
たった一人の旅人を駅舎は黙って見守ってくれる。
JRの駅は無人駅と言えども夜間照明が点灯していることが多い。最終列車が通過した後、1時間程で消灯する駅が多いが、中には、終夜点灯している駅もある。
中小私鉄の場合は、日が暮れた後の駅に照明が灯らないこともあり、経営環境の厳しさを如実に物語るのだが、やはり、明かりが灯る駅というのは、どことなく温もりを感じさせるものである。
コストカットの観点からは、ろくに利用者の居ない駅の照明など、片っ端から消してしまえという主張もあるだろうが、それが現実化した社会というのは、薄ら寒い社会になるのではないだろうか。
この駅や駅舎が穏やかに維持された地域経済の一角で静かに存続していくことを願いたい。
駅前野宿で22時過ぎまで起きていることは滅多にないのだが、この日は、雄信内駅を通過する特急「サロベツ」の姿を眺めたくて、22時半を過ぎても起きていた。
列車の通過は22時50分前と予想して、40分を回ったタイミングでホームに出る。
10月の北海道は既に冬の足音を感じさせる気候で、吐く息は白くなっていた。
空高くに昇った月の明かりを受けて、駅舎の屋根が輝いている。厚く全天を覆っていた雲もすっかり消えて、巻雲が月光を受けて煌めいていた。
感動的な光景だった。
待ち焦がれた特急「サロベツ」通過のショータイムは、僅か数分の出来事。
青白いヘッドライトで印象深い軌跡を描き、特急は稚内に向けて駆け抜けていった。
一日の仕事を終えた雄信内駅舎は、どことなく、ホッとした様子で静かに佇んでいた。
月光に照らされるその姿に見惚れつつ、駅前野宿の寝床に帰り、駅とともに眠りに就いたのだった。
さて、この辺りで雄信内駅やその周辺地域の歴史についても概観することにしよう。
雄信内駅は1925(大正14)年7月20日、宗谷本線の前身である天塩南線の問寒別~幌延間開通時に開業した一般駅である。現在の駅舎は開業当初からのものではなく、1953年11月に改築されたものであるが、創業当初の面影を現在に伝えるものではある。
以下に示すのは「幌延町史(白山友正・幌延町・1974年)(以下、「町史」と略記)」に掲載された雄信内駅の写真である。古い写真ではあるが現在の駅舎の写真で、「町史」編纂の時期に撮影されたものと思われる。駅舎の奥に単行の旧型気動車も横顔を見せている。
引用図:雄信内駅
「幌延町史(白山友正・幌延町・1974年)」
現在の雄信内駅は相対式2面2線駅であるが、かつては、単式島式2面3線駅で駅舎の稚内方には貨物側線もあった。この貨物側線は現在も残っており、時折、保線車両が留置されることがあるようだが、島式ホームに備えられていた副本線は撤去されており、現在は、草生した荒れ地にその名残を感じるだけである。ただ、この夜は、そこに側線や副本線があるという事には気が付かなかった。
立派な駅舎が物語るように、雄信内駅も昭和中期までは駅前集落と共に栄えた。
以下に、「町史」に掲載されていた「各駅の利用状況」の一覧表を引用する。幌延町内の駅は、現在は幌延駅を除いて無人化されているが、当時は、仮乗降場以外の各駅に駅員が配置され、旅客扱のみならず貨物扱も行っていた。
この中に雄信内駅も掲載されている。
1966(昭和41)年度の乗車人員が35,849人。一日平均では98人。町内では幌延、問寒別に続く第3位の数値である。それ以外に、貨物扱も16,813(単位不詳)とあり、こちらは、幌延に続く第2位の数値だ。
引用図:各駅の利用状況
「幌延町史(白山友正・幌延町・1974年)」
しかし、道路網の整備が進むとともに、皮肉なことに集落そのものの衰退が始まり、1982年3月29日貨物扱い廃止、1984年2月1日荷物扱い廃止、1984年11月10日無人化、1986年11月1日完全無人化と推移して現在に至る。
以下には、「町史」、「新幌延町史(幌延町・2000年)(以下、「新町史」と略記)」に掲載された、「世帯および人口の推移」の表をそれぞれ掲載する。
引用図:世帯および人口の推移
「幌延町史(白山友正・幌延町・1974年)」
引用図:世帯および人口の推移
「新幌延町史(幌延町・2000年)」
雄信内駅は北海道天塩郡幌延町字雄興が所在地で、表は雄興地区の推移を示したものであるが、1911(明治44)年にはタンタシャモナイ地区の13戸を中心に17戸が入植していた。タンタシャモナイは上雄信内駅が設けられていた地区で、雄興地区への入植は、天塩川の水運を通じてタンタシャモナイ地区から始まったのである。
その後、世帯数の推移としては、1932(昭和7)年の62世帯をピークとして緩やかに減少し、1965(昭和40)年の50世帯224人を最後に200人を割り込み始めた。1975(昭和50)年には26世帯84人と100人を切り、雄信内駅の無人化直後の1985(昭和60)年には15世帯50人にまで減少している。
以下に示すのは「町史」に掲載の雄興地区の概略図で、1970(昭和45)年国勢調査時の38世帯の分布を示したものだ。これによると、雄信内駅周辺には25世帯が居住していたという事が分かる。
2018年5月発行の幌延町広報誌「ほろのべの窓」によると、「かつて、この地区には旅館・豆腐店・料理店・工務店・鉄工所などが在り、昭和45年には食料品店・鮮魚店・菓子店・日通が営業していたそうですが、現在では、ほとんど面影もありません。昭和57年に小学校が閉校、昭和59年に駅窓口が無人化されています」と綴られている。
引用図:雄興地区の概略図
「幌延町史(白山友正・幌延町・1974年)」
資料は1995(平成7)年の3世帯16人を最終値としているが、この段階で雄信内駅付近には1世帯が居住していたに過ぎない。以下に示す、「新町史」掲載の図面がそれを物語っていよう。この図は平成7年の国勢調査による世帯位置を示したものである。「新町史」の記載を更に調べると、住民基本台帳上、1996(平成8)年には2世帯15人となっている。この1年に減少した1世帯1人が、駅前集落の最後の住人である。
引用図:雄興地区の概略図
「新幌延町史(幌延町・2000年)」
先に、学生時代の雄信内駅で女子高生やご老人の利用者の姿を見たことを述べたが、そこでは駅前集落に人が住んでいるのだろうと思ったことを記した。
しかし、こうして資料を紐解いてみると、2001年の旅で見かけた雄信内駅の利用者は、駅前集落の住民ではなかったという事になる。
ところで、上に述べたように、雄信内駅の所在地は幌延町字雄興で、駅周辺は幌延町字雄信内ではない。
以下に示すのは雄信内駅周辺の広域地形図であるが、駅のある雄信内駅の東方に雄興という字名が表示されており、駅の南には東雄信内という地名が表示されている。
天塩川を渡った先に東雄信内があることから、隣接地名に因むという理解も出来ようが、この地形図で注目したいのは、雄信内駅の南を蛇行しつつ流れる天塩川に、市町村境界が敷かれていることである。この市町村境界は東雄信内という地名の左側で奇妙に屈曲しているが、それは市町村境界設定当時の天塩川の流路を示している。ショートカットするような現在の流路は河川改修によるものだ。
雄信内駅と東雄信内地区の間に市町村境界の表示がなされていることから分かるように、東雄信内は天塩町に属しており幌延町には属していない。
また、ここに東雄信内があるということは、雄信内はその西側にあるはずで、上記の広域地形図では、蛇行した旧河道の西側、国道沿いに広がる網目状の道路付近が雄信内市街地である。雄信内市街地もやはり天塩町に属している。
開業当時の文書を辿ってみると、1911(大正25)年7月16日付の鉄道省告示第123号で「大正十四年七月二十日ヨリ天鹽南線問寒別幌延間鐵道運輸營業ヲ開始ス其ノ停車場及哩程左ノ如シ」として、「雄信内 天鹽國天鹽郡幌延村」とある。なお、駅名のふりがなは「をのつぷない」だ。字名は記載されていない。
では、駅の開業当時から周辺は字雄興だったのかと調べてみると、この雄興という字名は、1959(昭和34)年4月1日に旧字名を変更して生まれたものだという事が「町史」に記載されている。
それによると、字雄興は従来の字「新雄信内1条通1~3丁目、新雄信内2条通2~3丁目、新雄信内、字タンタシャモイ、字タンタシャモナイ、字オヌプナイ、字ペンケオーカンラオマプ」を統合して新設されたものだという。そして、字に含まれている俗称地名として「新雄信内、雄信内、タンタシャモナイ」が挙げられている。
詳細は文献調査記録でまとめる事とするが、元々、天塩川の水運によって天塩町域に入植がはじまり集落が形成され雄信内と称した。雄信内はアイヌ語では「オ・ヌプ・ウン・ナイ」で「川尻に原野のある川」といった意味である。雄信内駅周辺では、上雄信内駅があったタンタシャモナイ地区が先に開かれたということは既に述べたとおりである。勿論、入植当時に鉄道は存在しない。
その後、現在地に雄信内駅が設けられることになるのだが、その当時は駅周辺の幌延村域も雄信内(オヌプナイ)と呼ばれていた。つまり、周辺地名由来の駅名だったという事だ。
こうして鉄道駅が設けられると、天塩川畔から駅周辺へと人や物資の流れが変わり、駅周辺が新市街地として発展し始める。その辺りの経緯が、新雄信内という字名に反映されている。1条通、2条通という字名に駅周辺の賑わいが象徴されていよう。
その後、1959(昭和34)年の字名変更の際に、従来から存在していた字名を統合し、天塩町雄信内と区別するために「雄信内」の「雄」を取って「雄々しく興る」として「雄興」とされたのだという。
なお、駅名は「おのっぷない」であるが、市街地名は「おのぶない」であり、字名は「オヌプナイ」である。
そんな集落史を雄信内駅は決して語らないが、そこには人々の夢や希望、生活の跡が刻み込まれているように思う。
旅に戻ることにしよう。
翌朝は5時前には起床して出発の準備を始める。
初冬を思わせる冷気が辺りを包み込む中、明かりの灯る駅は、まだ、静かな眠りの中にある。
東の空は紺色から群青色へと変化しつつあり、水平線の近くは白み始めていた。振り返って西の空を眺めれば、昨夕、残照に彩られていた空に月が浮かんでいた。
このひと時の風景の変化は劇的で、見飽きることがない。
朝の支度の合間に空を眺めてみると、ほんの20分ほどの間に青みが薄れ、青紫色に転じている。水平線に近い所に浮かぶ雲には赤みもさしており、微かに日の出の気配が漂い始める。
構内通路に立って下り方を眺めてみると、遥か彼方に赤信号が灯り、列車の行く手の安全を守っていた。
駅前野宿の一夜を守ってくれた駅舎や構内には明かりが灯り、まだ、眠たげな表情だ。
6時前になると俄かに周囲の気配が変化し始めた。青みを帯びていたはずの大気が、急に赤みを帯び始めたのである。
異変に気が付いて駅の構内に戻ってみると、東の空が燃えていた。低い所に浮かぶ積雲が、水平線から昇る朝日を受けて黄金色に輝いている。2条のレールが空の輝きを反射して煌めいている。
劇的な夜明けの光景に言葉を失い、誰も居ない雄信内駅のホームで立ち尽くした。
振り返って西の空を眺めると、燃える東の空とは対照的に、静かに夜が明けていた。地上付近は微かに靄を湛えつつ、空は薄っすらと淡い色彩に彩られている。
駅舎も消灯したようで、眠り足りない表情ながら朝を告げている。
東の空は刻一刻と変化しつつ、時の経過とともにその明度を増していく。上雄信内に続く稜線に朝日が昇るのを、今か今かと待ち望む。
この日は、6時に出発する予定だったのだが、この光景に心を奪われ、少し出発を遅らせることにした。
西の空に浮かぶ雲は、高い所が白く輝き始めており、駅周辺の日の出も間もなくだ。
よく見ると、その雲間に見え隠れしながら、一晩雄信内駅を照らし続けた満月が、西の空に沈んで行こうとしていた。
そのまま、太陽が駅を照らす時刻まで滞在したい気もしたが、この日の行程も長い。目的地の抜海駅に到着するのが日没後になってしまわないよう、6時20分前に出発することにした。
昨日の到着時刻は日没後だったため、駅舎をじっくり眺めることができなかった。
駅周辺はまだ朝日が差し込まず、二度寝の雰囲気ではあったが、駅前野宿の一夜を見守ってくれた駅舎に感謝しつつ、その印象的な姿を目に焼き付ける。
翌日の午後には再びこの駅を通る予定だが、やはり駅前野宿が明けた朝は、駅を去り難い思いがする。
ペダルを踏みこみ、駅前通りを交差点まで進んでから、もう一度、駅を眺めてみた。
かつては、この道の両側にも民家が立ち並び、駅を中心とした集落の賑わいがあったのだろう。交差点はT字路となっており、一方は雄信内市街地や幌延市街地へ、もう一方は上雄信内へ続く。
その道の両側にも民家が軒を連ねていたはずだが、無人となった民家の多くは、その後、崩壊・撤去され、今では、僅かばかりの廃屋や廃倉庫が残るだけである。
この日は、まずは雄信内市街地の方に進路を取って西に進み、低いロクシナイ峠を越えて昨日通り抜けた天塩市街地を目指す。
明けきらぬうちに雄信内駅を出発したが、ロクシナイ峠の麓に辿り着く頃には、朝霧の立ち上る牧草地を陽光が照らし、希望に満ちた旅路の朝となった。
昨日、嵐の中で走ったことが嘘のような快晴となり、天塩市街地に着いてから野寒布岬に回り込むまでの間、常に利尻島の姿を眺めつつ走る最高の旅路となった。
1997年の7月に初めて道北を旅して以来、20年以上にわたって6回も道北を旅しているにもかかわらず、一度も姿を見ることができなかった利尻島を、終日、全く遮られることなく眺め続ける旅路だった。
その旅の様子は「ちゃり鉄14号」の紀行にまとめる事にしたいが、抜海駅の旅情駅探訪記にも簡単にまとめたので、そちらもご覧いただければ幸いである。
翌日の15時過ぎには、再び、雄信内駅に戻ってきた。
昨日の快晴が嘘のように、この日は朝から雨天。雄信内駅に辿り着く頃には雨は上がってはいたものの、午後の日差しを浴びて佇む雄信内駅の姿を眺めるという目的は果たせず、曇天の空の下に佇む雄信内駅との再会となった。
この「ちゃり鉄14号」の旅では、3週間を超える日程の中で、終日雨に降られなかったのが、1日しかなかった。その1日がオロロンラインを走った昨日だったのは幸運だったとも言えるかもしれない。
この日の滞在は10分を予定。残すところ、廃止された上雄信内駅跡を経て糠南駅まで2駅の行程であるが、上雄信内駅から糠南駅まで天塩川右岸を直達するルートは、走行可能かどうかが分からない未舗装林道を通る必要があるため、通過を見合わせることにした。
その為、上雄信内駅から雄信内駅を経て雄信内市街地まで引き返した上で、天塩川左岸の国道を迂回して、問寒別市街地を経由して糠南駅に至るという、相当な大回りルートを通ることとなった。JRの営業キロでは5.7㎞のところ、「ちゃり鉄14号」は11.8㎞の迂回をすることになる。
結果的に、まだ1時間以上の行程が残っているため、長居はできないが、やはり、この駅との再会は嬉しい。
明るい時間帯の駅舎内も、改めて眺めてみる。
俄雨がぱらつく曇り空の下では少し無彩色な印象ではあったが、待合室の広さや、出札・荷扱い窓口の大きさにかつての栄華の跡が偲ばれる。
冬季には除雪作業員の詰め所となっている雄信内駅は、駅務室側のスペースも活用されており、待合室の天井に沿った配管は、詰め所で使われる暖房排気のためのものである。
その暖房に火が灯るのも間もなくだ。
駅構内も改めて散歩してみる。
当時の駅名標には安牛駅の表示があるが、これも既に過去のものとなり貴重な記録となった。
稚内方のホーム末端まで歩いてみると、暗い時間帯には見えなかった側線が分岐していることに気が付いた。今でも稀に保線車両が留置されることがあるようだが、往時の雄信内駅では、この側線を利用して木材をはじめとした貨物の輸送が行われていた。
構内線路の有効長も非常に長く、ポイント部分の構内信号は、旭川方も稚内方も遥か遠くに見える。それは、この駅を通過した列車の編成の長さをそのまま物語っている。
今は、短編成の気動車が僅かな乗客を乗せて行き交うだけだが、長大編成の客車列車が行き交っていた時代の雄信内駅を訪れてみたかったと思う。
雄信内駅の駅舎は、厳しい北海道の環境で維持されている貴重な木造駅舎でもある。産業遺産として維持・保存されていくことも含めて、末永く残って欲しいものだ。
ホームから駅舎を眺めると、その向こうの駅前にある廃屋の屋根が見え隠れする。
その様子は雄信内駅と瓜二つ。という事は、雄信内駅も維持管理の手が無くなれば、同じように朽ち果てていくのだろう。
駅が設けられてここに集落が生まれた。その集落は駅よりも早く無人となり、痕跡すら消えようとしている。
そうした人の営みを、雄信内駅は黙って見守り続けてきたのだろう。
曇りがちな空に束の間の晴れ間が広がり、薄日が差し始めた。
僅かな滞在時間にもかかわらず、陽光を受けて輝く駅の姿を見ることができて、気持ちが和らぐ。
原野に真っ直ぐに伸びる鉄路は、北海道らしい風景。3週間も旅すれば見飽きるだろうと言われることもあるが、そんなことは決してない。
行く方、上雄信内駅跡に続く稜線は、穏やかに横たわっているが、天塩川に裾野を削られる丘陵地帯は、かつては交通の難所であり、度々、災害にも見舞われた。
下平隧道の開削によって旧線は廃棄・車道転用され、鉄道不通の事態も過去のものとなったが、今、その難所を行く人の姿は極めて少ない。
雄信内駅の駅舎に掲げられた駅銘板は堂々とした立派なもので、雄信内駅を強く印象付ける。近くで眺める駅舎は、色褪せた塗装が剥げかかっており傷みも激しいが、風雪に耐えて幾年、いぶし銀というに相応しい佇まいだ。
駅舎の隣に植えられた針葉樹は「町史」の古い写真には写っていない。後に植樹されたものだろうが、年老いた駅と共にこの集落の盛衰を見守っているようだった。
この訪問の時間帯には列車の往来はなく、誰も居ない静かな雰囲気の中で駅と対峙することができた。
昨日と同じように、駅前通りを進んでT字路の交差点に出てから、もう一度、駅の姿を眺める。
この後、上雄信内駅を訪れた後、この駅前を通って糠南駅に向かうことになるが、これでしばし、雄信内駅とはお別れだ。
次に訪れるのがいつ頃になるかは分からない。
道北に点在する鉄道廃線跡を巡る「ちゃり鉄」の旅で、いずれ訪れることにはなるが、その日まで、この駅舎が残っていることを願いつつ、駅を後にした。
この先、上雄信内駅跡との間は、かつての線路跡を転用した車道となっている。進路の右手に天塩川の眺めを見ながら穏やかな丘陵の裾野を進むが、緩やかにカーブを描く下平橋梁の跡は、ここが交通の難所だった時代の名残である。
振り返ると、天塩川の流れと下平橋梁が西日に輝いていた。
天塩川の流れは、この地に暮らした人々の営みなど我知らずといった風情で、悠久の時を刻んでいた。