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峠下駅:旅情駅探訪記
1997年7月(ぶらり乗り鉄一人旅)
「峠」という場所は旅情を感じさせる。
山の此方から彼方に向かおうとする場合、高低差が最も小さくなるように峠を通るのが一般的で、古来より峠は街道の要衝として位置づけられてきた。
交易が主として人力に頼っていた時代。
坂道を登り詰めて稜線の向こう側が開けた瞬間、ホッと一息をついた旅人も多かったことだろう。それは、茶屋を伴った峠が全国各地にあることからも伺い知れる。
峠が国境に位置することも多く、峠を越えて山の彼方に行くことが、故郷との今生の別れを意味することも少なくはなかったはずだ。
文明開化によって日本にもたらされた鉄道にとっても、やはり山越えの道は峠を目指すことが多かった。尤も、隧道掘削技術の発達によって、峠そのものを人道のように越えて行くのは稀で、大抵は、峠直下まで上り詰めた後、短い隧道で此方から彼方に抜けるのだが、隧道に辿り着くまでの遅々たる登りと、隧道内の猛煙、そして峠を下り始めた時の軽やかな惰性運転の切り替わりの様子は、往時の鉄道旅行記に描かれる歴史上の光景ではなく、今日でも気動車が走るローカル線では現実のものとして存在している。
そんな峠越えの鉄路は全国各地にあるものの、「峠」を名乗る駅名が存在する場所となると意外と限られている。
有名なところではJR奥羽本線の峠駅の名を挙げることができようが、それ以外に、南海高野線の紀見峠駅、富士急電鉄の三つ峠駅なども挙げることができる。また、「とうげ」と読むわけではないが、JR山陰本線に梅ヶ峠駅があり、JR美祢線には湯ノ峠駅がある。これらの「峠」は「とう」と読み、中国地方に多い乢(たわ)に通じる。いずれも鉄道の旅で訪れたくなる旅情ある駅だ。
更に、忘れられない旅情駅が北海道にある。
JR留萌本線の峠下駅だ。
初訪問は1997年の夏。
所属する陸上部の遠征と夏合宿が北海道で行われるのに合わせて、道内のJR全路線に乗車する旅を行ったのだが、その時に留萌本線に乗車したのが最初である。
学生時代には何度か北海道を旅していたが、留萌本線に乗車した機会は1度しかなく、ダイヤの関係上、途中下車もままならなかった。当時は、途中下車よりも乗り潰しの方に興味が向いていたこともあり、積極的に途中下車をしなかったせいもある。
峠下駅でも列車の行違いで停車しただけで、途中下車は出来なかった。
深川発増毛行の普通列車の車中から撮影した深川行普通列車の写真が、峠下駅で撮影した唯一の写真であった。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2016年1月。私は初めてこの駅に降り立った。
留萌本線は学生時代に一度乗車したきりで、それも片道。増毛からはヒッチハイクで雄冬海岸を経由して札幌に抜けたので、じっくり旅したことはなかった。
社会人となって釧路に住んでいた2000年代初頭、春山スキーで暑寒別山系や浜益岳を訪れた際に、マイカーで留萌~増毛間の一部の駅を訪れたことはあったが、峠下駅には縁がなかった。
そんな留萌本線の再訪は初乗車から20年近くを経ていた。
真冬の旅の中での初訪問だっただけに、自分一人が途中下車するのだろうと思いきや、この日は、若い男性も一緒に下りてきた。
同じ鉄道ファンなのかと思ったが、写真を撮ったり駅や列車を眺めたりするわけでもなく足早に構内通路を渡り、駅舎の執務室側のドアを開けて中に入っていく。峠下駅はJR留萌本線の深川~留萌間で唯一の交換可能駅。冬季間、除雪作業員が常駐しており、普段は閉鎖されている旧執務室が作業員詰所として使われているのだった。
この真冬の旅では除雪作業員が常駐して、有人時代を思わせる雰囲気になっている無人駅が幾つかあった。いずれも交換可能駅で、私が途中下車した中では、JR宗谷本線の豊清水駅、塩狩駅、JR函館本線の銀山駅などが該当したが、この峠下駅もそうした駅の一つだった。
それにしても、この真冬の旅はトラブル続きだった。
関西から普通列車を乗り継いで北海道入りしたのだが、「ムーンライトながら」で辿り着いた東京駅から東北本線を一気に北上して青森駅に達する2日目の行程では、途中の岩手県内で踏切の着雪障害による列車遅延が2回ほど発生した。
幸い、乗り継ぎ予定だった青森駅からの夜行急行「はまなす」には間に合ったが、廃止前最後の冬休みだけあって寝台や指定席は取ることができず、寒風吹きすさぶホームで2時間以上前から並んで確保した自由席は札幌まで身動きの取れない満員状態だった。しかも、アジア系の外国人観光客が非常に多く、私の座ったボックス席の周りも全て外国人。トイレのために離席して戻ってくると、座席を占領されているなど、マナーの違いもあって心身ともに疲労困憊した。
「はまなす」で道内入りした翌朝からの行程で、真っ先に訪れる予定だったのが留萌本線だったのだが、同日発生した函館本線のトンネル火災の影響で深川~旭川間が終日運休。その影響で、乗車予定だった旭川始発の留萌線列車が運休となり、後続の列車に望みを託したものの、結果的に、留萌本線は吹雪で終日運休となった。
札幌から時計回りに留萌本線、宗谷本線、石北本線、釧網本線、根室本線と周る計画だったのだが、深川以遠の路線のいずれにも乗車できなくなったため、滝川から、辛うじて運行していた根室本線に入り、当初予定とは逆の反時計回りに巡ることにした。この日訪問予定だった伊納駅は、結局、同駅を含む区間の運転が再開されず訪問できなかった。その後、再訪の機会にも恵まれず、とうとう、廃止されてしまったのが残念だ。
また、道東道北を巡る間、帯広から釧路、根室を旅した2日間を除き、道内は1週間以上吹雪が続いた。とりわけ石北本線や宗谷本線は運休にならないのが不思議なくらいの大雪に見舞われた。
宗谷本線の豊清水駅では、最終列車から降り立って駅前野宿の予定だったのだが、駅周辺は2m近い積雪で野営可能なスペースもない。雪洞を掘って泊まることも考えたが、辺りの除雪作業の際に邪魔になる可能性もあるし、最悪、生き埋めになってしまうことも危惧される。止むなく駅の待合室で駅寝することにして詰所の作業員に声を掛けたのだが、何度声を掛けても無視されたため、この駅での野宿を諦め、吹雪の深夜に隣の天塩川温泉駅まで1時間程度歩いて移動した。
その道中、数台の車とすれ違ったのだが、いずれの車もかなり減速し、中には停車する車もあったものの、声を掛けてくれる人は居らず、皆、間隔をあけて通り過ぎて行った。吹雪の深夜に大きな黒い影が道路の脇に現れたのだから、ヒグマと勘違いすることはないにせよ、不気味に感じたことだろう。
ようやく留萌本線に入っても、運休こそ免れたものの相変わらずの吹雪。
そんな中で、増毛駅での駅前野宿を経て、何とかこの峠下駅に辿り着くことができたのである。吹雪の中、乗り継ぎの合間を利用した僅かな時間の滞在予定だったが、真冬のこの駅に降り立つことができて、心は晴れ晴れとしていた。
峠下駅の沿革については調査記録で詳しく調べることにするが、駅名はアイヌ語の「ルチシ・ポク(峠の下)」を起源に持つ意訳地名に由来する。アイヌ語の地名で「ル」音から始まり峠に関連する地名として有名なのは「ルベシベ」で、石北本線の留辺蘂駅は鉄道ファンにも知られているが、この「ルベシベ」は、「越えて下っていく道」といった意味があるようだ。
アイヌ語の音をそのまま地名とした「ルベシベ」とは異なり、「峠下」は意訳された地名である。
同様の例は、根室本線に存在する「大楽毛」と「浜中」にも見られる。「オタノシケ」が「砂浜の・真ん中」を意味しており、「大楽毛」はその音訳、「浜中」は意訳となっているのである。
北海道は、アイヌの歴史に触れながら旅することで一味違う楽しみ方が出来るように思う。
峠の下という地名の名付け方はアイヌらしい素朴な発想で、その言われとなった恵比島峠は峠下駅の東方に位置する。以下には、峠下駅周辺と恵比島峠付近の地形図をそれぞれ掲げた。
広域地形図では、峠下駅と恵比島駅との間に、線路が蛇行しながら支庁界を越えている箇所があるが、そこが恵比島峠である。
現在の恵比島峠は道道と留萌本線が越えているが、かつては人跡未踏の地だったという。
そして今日では、留萌本線はもとより道道も交通量僅少となり、石狩地方と留萌地方の間の都市間交通は地図に緑色で描かれた深川留萌自動車道に完全に移行している。
峠下駅の開業は1910年11月23日。明治時代のことで北海道開拓史の一頁に名を刻む歴史ある駅だ。
蒸気機関車の当時、この駅には給水施設が設けられ運転上の重要駅だったが、当時から峠下の集落は数戸の民家と鉄道員やその家族が居住する程度だったらしい。その後、木材や石炭の輸送で発展した時期もあるが栄華は続かず、2023年3月31日をもって、駅のみならず路線そのものが廃止されることになった。
この旅情駅探訪記では、その峠下駅への惜別の思いを綴りたい。
駅舎を出て駅前の道道に出てみたが、アイスバーンとなった道道に車の通行は殆どない。恵比島峠を挟んだ峠下、恵比島の両集落共に住民は極僅かである上に、峠を越える人の往来は元々少ないからだ。
深川や沼田と留萌との間は、先に述べたように深川留萌自動車道を経由した移動がメインとなっており、ドライブなどの目的がなければ、恵比島峠を越えるドライバーは居ないのだろう。
駅舎に戻れば、待合室に鎮座する除雪機が存在感を醸し出している。
利用者が殆ど居ないからこそ待合室に留め置かれるのであろうが、室内にはオイルの匂いが充満し、除雪作業員の往来のためか床もビショビショに濡れていた。
元々、峠下駅で駅前野宿をする予定はなかったが、この状態だと、待合室での駅寝は難しかったかもしれない。
ホームに出ると吹雪は小康状態。綺麗に除雪されたホームは、歩くのには支障がない。
積雪は40~50㎝。屋根にこんもりと積もった雪と軒先のツララが、この地の気候の厳しさを物語る。
日本海側のこの地にあって、多い時には3mを越える積雪に見舞われたこともあるようだ。
駅舎の軒下には手作り風の駅名標が掲げられている。いつ頃からのものかは分からないが、木造駅舎には木製の駅名標が似つかわしい。
本線を名乗ってはいるものの実態は純然たるローカル線の留萌本線だけあって、この駅には構内踏切も残っている。上り線ホーム側から駅の全景を眺めると、モノトーンの風景の中に佇む駅舎の姿が何とも言えず味わい深い。こうした駅舎は、今後、新しく生まれることはないだろう。
空は相変わらず鈍色で天気が回復していくようには見えなかったが、雪雲が薄くなった辺りには僅かに陽光の気配が感じられた。
この日は年明け早々の休日で鉄道ファンの姿も予想されたものの、私が滞在する間中、来訪者の姿は見られなかった。留萌本線の留萌~増毛間の廃止はこの年の12月5日。残り1年を切っていた。
駅の周辺の山林は針広混交林となっているが、広葉樹林は樹齢が浅く木材を伐り出した後の二次林であることが分かる。
この駅からの木材の積み出し量はそれほど多かったわけでもなく、付近の住民が薪炭材として伐り出した山も広がっているのかもしれない。
乗り継ぎ列車までまだ時間があったので、留萌方に見えていた踏切まで足を伸ばしてみた。
この踏切は第10旭川留萌線踏切とある。踏切からは分岐ポイントが間近い。
ポイント保守は雪国の鉄道にとって欠かせない業務で、全自動化が進む現代にあっても人手による作業が必要な場所が多い。切り替え操作自体は遠隔で行うことができたとしても、融雪や除雪の作業がままならないのだ。
新幹線のように温水で融雪すればいいように思うが、明治時代に敷設されたローカル線にその様な近代的な設備は設置されていないし、莫大なコストをかけて設置するほどの余裕もない。
峠下駅の分岐ポイントもピンクの蛍光テープを括り付けた目印の杭が打たれ、作業員の作業がここに及んでいることが感じられた。この蛍光ピンクのテープは林業でもお馴染みだが、極めて視認性が高く吹雪の中でも見つけやすい。北海道の地吹雪は猛烈で、私自身も、運転する車のボンネットが見えなくなるくらいの地吹雪を何度か経験している。視界が悪い中でのポイント保守は命懸けの仕事でもあるのだ。
峠下駅は千鳥式のホームを持っているので、ホーム上で行き違い列車の撮影を行おうとしても、上手くフレームに収まらないことが多いのだが、この位置からなら綺麗に撮影できる。峠下駅の撮影スポットにもなっているようだ。
モノトーンの駅構内は静まり返っている。孤独に列車の到着を待つ構内信号機の後ろ姿が印象的だった。
駅まで戻る道すがら、この信号機を真横から眺める場所に出た。
着雪を防ぐ覆いが付いた信号機は独特の風貌。脇目も振らずに線路の彼方を見つめ続けるその姿は、渋みをたたえた無口な鉄道員の印象に重なる。
駅に戻ってくると、再び雪が激しく降り始めた。
朝のダイヤを利用して、1時間ほどの滞在で峠下駅を訪れることになったこの日。
留萌~増毛間の廃止を控えて、いよいよ、留萌本線そのものの存続にも黄色信号が灯り始めた頃だったが、まだ、深川~留萌間の廃止は先の事だろうと思っていた。
何時か、この真冬の峠下駅で、駅前野宿の一夜を過ごしてみたい。
そんな感傷を抱きつつ、深川行の列車に乗り込んだ。風雪の恵比島峠は明治の昔からの姿そのままに、人煙稀な無人境が広がっていた。
その後、仕事の都合もあって冬季の再訪や駅前野宿は叶わぬまま、結局、これが最初で最後の冬季訪問になってしまった。
2022年7月(ちゃり鉄18号)
峠下駅の再訪は2022年7月。ちゃり鉄18号の旅で叶えることができた。
ちゃり鉄14号では羽幌線・宗谷本線・士幌線・広尾線・日高本線、ちゃり鉄17号では函館本線・石北本線・釧網本線、ちゃり鉄18号では札沼線・留萌本線・根室本線・根室拓殖鉄道と、毎回1500㎞を超える長距離のちゃり鉄号が連続している近年。
北海道も集中的に訪れているのだが、それは、来年、再来年には駅や路線が廃止されてしまうという、切実な事情あってのことだ。
本来なら、各路線の駅周辺をもっと詳しく探索したいのだが、日程的な余裕がなく連日走り詰めの行程となってしまったことが残念でならない。
それでも、ちゃり鉄で訪れることができたのは嬉しい。
留萌本線・峠下駅。
この駅を訪れるのもこれが最後の機会になる。その機会を、念願の駅前野宿で過ごすことができるのは、幸いではあった。
この日は、前夜を過ごした鶴沼のキャンプ場を朝に発ち、雨模様の中、札沼線の廃線区間を石狩沼田駅まで走り通した。その後、一旦深川駅に戻った上で、留萌本線の各駅を辿って峠下駅までやってきたのである。
賑わった往時を偲ぶべくもない恵比島駅を出発し、恵比島峠のアップダウンを経て峠下駅に辿り着いたのは18時半になろうかという頃合いだった。
この年の北海道は天候不順で、5月~6月にかけて行ったちゃり鉄17号は記録的な寒波と悪天候に見舞われた。続く7月~8月のちゃり鉄18号も前半は悪天候。鶴沼からの行程は石狩沼田駅まで雨に見舞われた。幸い、留萌本線に入る頃には雨は上がったが、夏らしくない低温と強風の中、疲労感の強い行程となった。
辿り着いた峠下駅は前回とは異なり緑の中での対面。ただ、曇り空ということもあって駅舎の渋いイメージは変わらなかった。
詰所も閉鎖され無人駅の姿に戻った峠下駅。
石狩沼田~留萌間の廃止が決定的になった後だけに訪問者の姿も予想されたのだが、この日、駅の周辺に人影はなかった。
駅名標を撮影し待合室に入ると、前回とは違ってガランとした印象を受ける。前回、待合室に鎮座していた除雪機が倉庫に片付けられているからであろうか。
出札窓口や荷物受けの痕跡が残されているが、その大きさにかつての賑わいを偲ぶ。峠下駅の貨物取扱の廃止は1977年5月25日、荷物取扱いの廃止は1984年2月1日、タブレット閉塞から自動閉塞への切り替えに伴う完全無人化は1998年3月のことであった。
時刻表で確認すると、一日7往復の列車が行き来していることが分かる。長いところで3時間の間隔が開くが、一日1往復とか、3往復とか、そういうダイヤを知っているだけに、7往復なら「少なくない」と感じた。
よく見ると、18時44分には上下の列車が交換するらしい。着替えや解装は後にして写真撮影を続けることにした。
日の長い7月の訪問だけあって、外はまだ明るい。千鳥式配置の相対式2面2線に加え貨物用の引き込み線跡や側線を備えた駅構内は広く、無人の林野に囲まれた空間は見通しがよい。
最初に下り線ホームの末端まで移動し留萌方を眺める。駅舎の向こうに構内信号の赤色灯が灯り、その奥の斜面は道路脇の法面となっている。斜面保護工が施工されているのが目立つが、この斜面から峠下駅を俯瞰することができるようだ。
構内踏切から眺めると駅の北側には空き地の痕跡が感じられる。今では灌木に覆われて定かではないものの旧版空撮画像で確認すると、少なくとも1970年代半ばまではこの奥にも民家が存在し、一帯は開けた空間だったようだ。その様子などは調査記録にまとめる事にする。
構内踏切を渡って上り線ホームの末端に発ち、今度は、深川方を眺める。こちらも構内信号が行く手の安全を守り、その向こうに恵比島峠に続く針葉樹林が黒々と広がっている。
18時43分頃になって、下り留萌行の普通列車がやってきた。ほぼ同時に上り深川行の普通列車もやってきて、寂寞境に束の間の喧騒が訪れる。
そして、手前側に停車していた深川行の普通列車が、エンジンを噴かせ黒煙を吐き出して出発していくと同時に、留萌行の普通列車も前照灯を点灯して出発する。
僅かな停車時間で、普通列車はそれぞれの目的地に向かって出発していった。車中に鉄道ファンらしき姿は見られたが、この駅から乗り込む人は勿論、降り立つ人も居なかった。
喧騒が去った駅に一人残る。
少しの孤独感を交えながらも至福のひと時。
明日の朝まで一人きりでこの旅情駅と対峙できることに静かな喜びを感じる。
構内踏切を渡って駅舎に戻る道すがらホーム脇の側線も写真に収めた。赤錆びた側線ではあるが時折作業車両が留置されることがあるようで、生い茂る雑草が刈り払いされているようだった。
次の列車の到着までは2時間ほどの間隔が開くので、この間に野宿の準備と夕食を済ませる。
19時を過ぎると、いよいよ、日没の気配が漂い始めた。
駅には明かりが灯り、辺りは青い大気に包まれる。
曇天の空に夕焼けの気配が漂うことはなく、空は明るさを失いつつ青紫色から群青色に転じていく。
旅情極まるひと時だ。
上り線ホームを散歩していると駅名標が照明に照らされているのに気が付いた。コストカットの目的でこうした照明は取り外されたりすることが多いが、ここでは、しっかりと維持されているのが嬉しい。
駅に電気が通い明かりが灯るというのは、その駅が生きている証拠だ。廃駅にはそれがない。
誰も利用しない駅に明かりが灯っていることを、無駄なコストと切り捨て経営批判をする立場もあるだろうが、そういう論者は自身の身の回りの無駄なコストを完璧に排除しているのだろうか。無駄か無駄でないかは主観によるところもあるし、そもそも、無駄を完璧に排除した生活を送るのは安らぎのない息苦しいものになるように感じる。
私はこうした駅の姿に旅情を感じ、旅を続けてきたし、これからも続けたいと思う。
この時間帯の変化は劇的で15分程経つとすっかり暗くなった。西の空にはまだ陽光の名残があるが、東の空は群青色に染まっていて、夜がすぐそこまでやってきている。
野宿の準備や夕食で忙しい時間帯でもあるが、このひと時を写真に収めるため、食事を中断して写真撮影を行ったりする。ほんの一瞬だけ訪れる感動的な光景をしっかりと目に焼き付け、写真に残しておきたい。
19時半頃には野宿の準備と夕食の後片付けも終わった。あとは21時前に発着する上下の最終列車を待って今日一日のちゃり鉄の旅を終える。
20時前になると辺りはとっぷり暮れていた。空は紺色に染まっており、大気の青っぽさも消え失せている。その分、駅の照明が暗闇に映え印象的な光景になる。
ファンに人気のある駅でも、夕方から早朝にかけては誰も居なくなるのが普通である。学生時代には駅寝の旅人も多く見かけたが、年々、そう言うスタイルの旅人は減っているように感じる。一方で、SNSが普及したことにより、こうした駅の訪問記や写真は、学生時代とは比べ物にならないくらい豊かになった。個人が所有する国鉄時代の写真が公開されていることもあり、集めることができる情報の質・量ともに向上している。惜しむらくは、そうした時代の流れの中にあって、肝心の鉄道路線や駅そのものの廃止に歯止めがかからないことだろう。
峠下駅はそんな人の世の移ろいに我関せず。静かに落ち着いた雰囲気の中で最終列車の到着を待っていた。明かりの灯る駅舎の表情は優しげだ。
列車到着までの合間を見て、腹ごなしに近くに見えていた踏切まで足を伸ばす。
この踏切は第10旭川留萌線踏切。
橙色の灯火に照らされた踏切から遠望すると、暗闇の中に峠下駅がポツリと佇んでいた。
駅に戻って15分程で最終列車の到着時刻になった。踏切の警報機が鳴りだし、山峡に列車の走行音が響いてくる。この時刻も上下列車が峠下駅で行違う。ほぼ同時に入線した普通列車が、それぞれにホームに停車し乗降客を待っている。留萌行の下り普通列車には乗客の姿は無かった。
最終列車のテールランプが旅情駅の夜景に映える。それは遠く過ぎ去っていく時代の後ろ姿なのかもしれない。
虚空に自動放送の音声が響いていたが、ふいにその音が止む。側灯が消灯し一瞬の間を置いてエンジンの噴射音が響き渡った。いよいよ、出発の時を迎えたようだ。
上り列車が一足先に動き出したらしく、ハイビームで前方を照らしながら峠に向かって加速していく。この列車にも乗客の姿は無かった。寂しいが、それが留萌本線の実態でもある。
列車の走行音が山峡の彼方に消えると、峠下駅の一日が終わる。
結局、18時半頃に駅に到着してから20時45分の最終列車を見送るまで、乗降客は勿論、一人の訪問者も居なかった。
峠下駅で過ごす夜は、これが最初で最後。
名残惜しくて上下のホームを行ったり来たりする。
同じ場所を何度も訪れたりする話をすると、「それの何が楽しいの?」と問われることがある。「一度訪れたら十分だろう」と言われることもある。
しかし、四季折々、時刻によって、天候によって、駅が見せてくれる表情は全く違う。
何度訪れても飽きることはないし、前と同じ景色が広がっていることもない。
芽吹きの季節。錦秋の季節。まだ、訪れたことのない時期の峠下駅を見てみたかったが、それはもう、叶わない。
長年の風雪に耐えた孤独な駅舎の姿を目に焼き付けて、旅情駅と共に眠りに就いた。
翌朝、天候は回復する気配無く曇天の中で明けた。北海道の夏の朝は早く4時過ぎには明けていた。
今日はここから増毛駅までの区間を走る。その後、少し戻った信砂川沿いを遡って御料峠を越え、札沼線沿線の新十津川グリーンパーク付近で野宿の予定。雨予報ではなかったものの、終日曇りの予報で写真撮影には不適当な条件だった。
峠下駅も夏の爽快な空は望むことができず、彩度の低い風景の中にあった。
この日は休日とあって、5時過ぎには駅前に車が進入してくる気配があったので、野宿の後片付けを急ぐ。やがて三脚を携えてホームの方に入っていく人の姿が見えて、一人過ごす峠下駅のひと時は終わりを告げた。
梱包を済ませた荷物を自転車に積載し、出発準備を終えた後、出発予定時刻まで少し余裕があったので、もう一度駅を一通り撮影するために構内に入った。
1月の訪問だった前回とは異なり駅の周辺は緑が深いが、夏の青空の下であれば、もっと鮮やかな緑が映えたことだろう。そんな峠下駅の表情も眺めてみたかった。
構内通路から駅舎と上り方を眺める。
先にホームに入った男性は撮影準備に余念がない。まだ始発列車の時刻ではないのだが、留萌発深川行の始発列車となる車両が深川から回送されてくるらしく、その通過時刻などを教えていただく。
そういえば、昨夜も最終列車が過ぎた後、列車の通過音を寝袋の中で聞いて驚いた。
合理化によって留萌駅での車両の留置が無くなり、深川発留萌行の最終列車は、留萌駅に到着した後、深川駅まで回送される。翌朝は深川駅から留萌駅まで回送され、そこで深川行の始発列車となるのである。こうした回送ダイヤは公開されていないので、鉄道ファンはあの手この手でダイヤを予想したり入手したりするらしい。
男性は駅舎側にスタンバイしているので、私は撮影の邪魔にならないよう上りホーム側に移動して、その回送列車の通過を見送った後、予定より20分遅れて峠下駅を出発することにした。
やがて山峡にどこからともなく列車の走行音が聞こえてくる。
「タタン、タタン」と響く走行音は、やってくる列車が単行であることを物語る。
やや遅れて留萌方の踏切の警報機が鳴りだして、男性の予想時刻ピッタリにヘッドライトを点した回送列車がやってきた。
減速しながら駅を通過していく気動車を見送る。峠下駅を行き交う列車の姿を見るのも、これが最後となった。
通過を見届けてから私もちゃり鉄18号に跨り、出発することにした。
準備をしていると先ほどの男性から声を掛けられた。
聞くと留萌本線には古くから通っていらっしゃるという。そんな古き良き時代をご存じなのは羨ましい。留萌本線に通い詰めて作成したという手製の時刻表もいただいた。市販の時刻表にはない回送列車のダイヤ情報も記載されており、愛着のほどが感じられる。
私も旅の趣旨を話し、しばし談笑した後、お互いの無事を願いつつ別れを告げた。
去り際に駅舎の隣にあった荷物倉庫の写真も撮影した。冬の間活躍した除雪機はここに収められているという。
駅を辞し道道を少し進んだのち、第10旭川留萌線踏切を渡って峠下小学校跡地に向かう。
この踏切から峠下駅の姿を眺めたのが、正真正銘、最後の機会となった。
峠下小学校跡地には通信アンテナ塔が立っていたが、かつて存在した小学校の建物は既に撤去され跡地は広い空き地となっていた。重機も入って整地されており、ここに小学校があったということは、そうと知らなければ気付くことは出来ないだろう。
敷地外れの一画にはかつての職員宿舎が残っていた。
もはや、この建物に人が住むこともないのだろうが、今も市有財産として管理されている事だろう。いずれ、撤去されるのかもしれない。
この敷地の外れには峠下神社もあったはずで、2023年3月現在でも国土地理院の地形図には記号が描かれている。ただし、既に現地に社殿は存在しないようだ。
峠下の集落は、峠下駅を中心として恵比島峠側、幌糠側の両方に点在している。まとまった集落は形成しておらず、今は、ポツリポツリと民家が存在するだけだが、往時の峠下駅前には小規模ながら市街地が形成され商店などもあったらしい。
これらの集落の跡や、峠下~恵比島間の半ループ部分から留萌川に沿って上流の豊平炭鉱まで続いていた軽便鉄道の痕跡については、ちゃり鉄18号では十分な調査を実施できなかった。
今後、この探訪記の中で文献調査を実施した上で、改めて現地調査を実施する予定だ。
ただ、その時にはもう、峠下駅は存在しない。
2023年3月31日。
峠下駅は留萌本線石狩沼田~留萌間の廃止と共に、113年の歴史に幕を下ろす。
私は「その時」をこの探訪記と共に静かに見送りたいと思う。