北星駅:旅情駅探訪記
初訪問 ~2001年6月(ぶらり一人旅)~

北星。
この美しい名前の旅情駅に出会ったのは、2001年6月の旅の道中だった。
この年の6月末日をもって、宗谷本線と石北本線で、3駅ずつ、合計で6駅が一気に廃止されたのだが、それらの駅を巡る旅の道中で、普通列車の車窓から、この魅力的な駅を目にした。
板張りだけの短いホームと、少し離れたところに立つ、木造の待合室。
そして、その待合室に掲げられた「毛織の北紡」と書かれたホーローの看板は、この駅の象徴と言っても過言ではないだろう。
この旅では、廃止される駅の訪問を主な目的としていたため、途中下車をする余裕がなく、車窓に見送るだけだったが、その印象は強く、再訪を決意したのだった。
再訪問 ~2001年8月(ぶらり一人旅)~

再訪と途中下車の機会は、意外と早く訪れた。
2001年8月は、夏の東北、北海道を、3週間近くかけて旅した。その道中で、この旅情駅に降り立つことが出来たのである。
夏草の茂る北星駅は、静かな佇まいで、旅人を迎えてくれた。
駅の周辺には、数軒の民家や小屋が点在し、全くの無人境ではないが、民家の大半は廃屋と化している。かと言って、寂しさや不気味さを醸し出すような雰囲気もなく、長閑で穏やかな空間が広がっていた。
開業は1959年11月1日で、板張りだけのホームから想定される仮乗降場由来の駅ではなく、れっきとした開業当時からの一般駅である。駅の象徴である木造の待合室が、その歴史を物語っている。
北星という印象的な駅名は、周辺地名に由来する。
北海道の地名は、アイヌ語由来のものと、開拓時代に付けられたものとの、二つに大別されるのだが、ここは、後者に該当する。
もともと、名寄市の北部にあるという意味で「北山」と通称されていたところに、輝く「星」の文字を組み込んで、「北星」という地名が生まれたのだと言う。
無人の原野を開拓していった開拓民の夢と希望の光が、夜空の星に託され、地名として残り、ひいては、駅名として残ったのだろう。
駅の待合室に掲げられた北紡の看板には、「毛織の北紡」の文字が書かれているが、実際には、「の」の字は「織」の字の右下に小さく書かれており、「織」の字と「北」の字の間には、社章であろうか、「☆」印のデザインが大きく描かれているため、遠目には「毛織☆北紡」という風に読み取れる。
この「☆」印が、「北星」の駅名とも合致して、実に好ましく感じられる。
辺りの散策を済ませて、その待合室に入ってみる。
古色蒼然といった趣の待合室は、小綺麗に清掃されており、ホッと落ち着く空間である。
窓枠も木製で、アルミサッシのような気密性はないかわりに、アルミサッシにはない温かみが感じられる。
その窓越しに板張りホームを眺めていると、昭和の郷愁に包まれる心地がして、去り難い気持ちにななる。
待合室の隣には、親子のように、木造の便所が併設されていた。勿論、汲取式の古い便所で、むしろ、厠と表現した方が、似つかわしい、そんな施設であった。


鉄道の旅での途中下車では、滞在時間は、列車ダイヤに左右される。
当時のダイヤの詳細な記録はないが、僅かな滞在時間で、駅を後にした。
いつか、こんな旅情駅での一夜を過ごしてみたいと思いながら…。

第三訪 ~2016年1月(ぶらり一人旅)~
2016年1月の北海道の冬の短い一日。とっぷり暮れた夕刻の北星駅に降り立った。学生時代の旅で訪れて以来、実に、15年ぶりの訪問だった。
この日は、念願の駅前野宿。
真冬の北海道ではあるが、旅情駅の懐で過ごす一夜に、静かな喜びを噛み締めていた。

とっぷり暮れた夕刻の北星駅に降り立った
凍てつく駅に降り立ち、見送る単行のキハのエンジン音が聞こえなくなると、辺りには静けさだけが残った。
孤独な時間…。
しかし、明かりの灯る駅は、そんな旅人の孤独に、物言わず寄り添ってくれる。
旅情駅を感じる瞬間だ。

列車の運転本数も少なく、駅は、長時間、静寂に支配される。
そんな中、雪を踏みしめながら、駅近傍を散策した。自分の発する音以外、何も聞こえない。
15年の間に、周辺の集落は、ほぼ、無人と化しており、記憶にあった民家は更地になって、人の気配のする民家は1軒しか残っていなかった。その民家の住民も、生活の足は自家用車であり、この駅を利用する機会は、殆どないのであろう。
それが、北海道の鉄道沿線の実情である。
しかし、それでも駅の施設は維持されており、周辺には除雪などの手が入っている。
人の住む民家の窓から漏れ出てくる明かりには、温もりを感じるが、それと同様、駅の明かりにも、どこか温もりを感じるのは、私だけであろうか。
駅の稚内方にある第2美深名寄線踏切まで歩いていき、駅を眺めると、遠く、名寄市街地の街明かりを反射して、赤黒く燃える低い雪雲の下に、北星駅が、ぽつんと佇んでいた。その孤影にしばし見惚れていると、辺りの寒気が、衣類の中にまで染み込んできた。

散策を終えて、待合室に入ると、ホッと落ち着く心地がした。
木枠の窓越しに、駅の明かりが待合室にも影を落とす。
何するでもなく、その明かりを眺める。
それは、至福の時間である。

ホッと落ち着く、木造待合室の中
宗谷本線は、名寄を境として北側を宗谷北線、南側を宗谷南線と通称することもある。宗谷本線全通までの歴史を振り返れば、盲腸線となった現在の姿からは想像のつかない、紆余曲折を経ていることが分かる。
その詳細をここで述べるのは冗長になるので避けるが、事実として、旭川に近い宗谷南線では、区間運転の普通列車や快速も運行されており、運転本数は少なくないが、宗谷北線は、人口希薄な地帯で、グッと運転本数が少なくなる。
時折、踏切の警報音が鳴り、遠くから、気動車のエンジン音が響いてくる。
しかし、それは、この駅を通過する特急。
既に、すっかり暮れた暗闇の窓の外を眺める乗客は居らず、ここに駅が存在することに気付いている人は、恐らく居ないだろう。

通過列車のエンジン音が聞こえなくなると、駅は、再び、静寂に包まれた。
最終の通過列車を見送った後、駅とともに、眠りにつく。
凍てつく真冬の夜も、寝袋の中に入れば、寒くはない。
心地よい静けさの中で、穏やかな眠りに落ちた。

至福の一夜を過ごし、月が浮かぶ空に青みが差し始めると、この旅情駅にも黎明の兆しが漂い始める。
凛とした静謐な大気の底で、吐く息が瞬く間に凍りつくような、厳しい冷え込みが辺りを覆う。
自分の体温で程よく温められた寝袋から這い出すのを躊躇いながら、しばらく、ウダウダしていたが、意を決して、朝の支度に取り掛かった。
着替えを済ませた後、再び踏切まで歩いていき、宗谷丘陵の麓に伸びる宗谷本線の鉄路と北星駅の構図にしばし見惚れた。
青みがかったモノトーンの情景の中に、駅や踏切の照明が浮かぶ様は、寒さを忘れさせるに十分だった。


待合室に戻り、この駅で過ごした一夜の余韻を噛み締めながら、この駅を舞台にしたドラマに思いを馳せた。


出発の時刻が近付いた。
準備を済ませ、居心地の良い待合室を後にし、ホームに立つ。
空はすっかり明るくなり、低いところを流れるちぎれ雲の上に、巻雲が広がっていた。天気は回復に向かうようだ。
やがて踏切の警報音が鳴り出し、キハのディーゼルエンジンの唸りが聞こえてきた。
宗谷本線・北星駅。
味わい深い一夜を胸に、この旅情駅を後にした。


雪まみれのキハの顔が冬の厳しさを物語る
第四訪 ~2020年10月(ちゃり鉄14号)~
2020年10月、ちゃり鉄14号で宗谷本線を走った。
5月、8月と計画しながら、社会情勢を鑑みて延期を重ねてきたこの年。最後の機会は10月だった。
会社を長期間休み、訪れたその旅の道中は、連日、雨に見舞われる、初冬の不安定な天候に悩まされたが、それでも、この機会に訪れることが出来てよかったとは思っている。
何故なら、宗谷本線では、2021年3月のダイヤ改正で、一気に、12駅が廃止されることになったからだ。
ちゃり鉄での訪問となると、雪道用の走行装備を備えていない現状、10月あたりが最後の機会だった。
11月下旬から、廃止の3月頃まで、沿線は雪と氷に閉ざされ、私の自転車では、安全な走行が難しい。春になったら…もう、駅は存在しないのである。
だから、気持ちとしては、走れてよかったと思っている。
でも、その一方で、言葉にできない喪失感も抱いている。
旅情駅・北星。
この駅も、廃止対象となった。
ちゃり鉄14号は、在りし日の北星駅の姿を記録に留める、最後の機会になる。それを知りつつ走る旅の行程は、いつもとは違う感傷に包まれながらの旅路となった。
2020年10月。
私は、前夜を過ごした豊清水駅を出発し、10時過ぎにはこの駅に到着した。2016年1月の訪問から、4年余りの時が過ぎた駅は、変わらぬ佇まいで旅人を迎えてくれた。
いや、正確に言えば、窓は、ビニール張りになり、床には、割れたガラスの破片が残っていた。どうも、今年の夏に、何者かによって、破壊されたらしい。
それに驚きはしたが、駅の周りの雰囲気は、変わらなかった。
豊清水駅も、廃止されることが決まっており、二晩続けて、廃止予定の駅での駅前野宿となった。

この日は、本来、函岳をピストンしてから夕刻に北星駅に到着する計画だったのだが、連日の不安定な天候の下、函岳への入り口に当たる初野駅に達しても、天塩山地は雲の中に隠れており、天候の回復ははっきりと確信出来なかった。
雲ひとつ無い晴れ間が広がっても1~2時間の内に、次の積乱雲がやってきて、雷雨の土砂降りになる、そんな天候が続いていたからだ。
函岳に至る林道は、途中から吹きさらしである。
天候さえ良ければ、遮るもののない絶景が広がるはずだが、晩秋の雨天の霧の中ともなれば、何も見えない山頂にたどり着くためだけに、片道30kmを上り続ける苦行になる。まして、雷雨の中で吹きさらしの林道を走るともなれば、被雷の危険すらある。私は、稀有なことに、小学生の時に雷に打たれて軽い火傷をした経験がある。
また、未舗装の林道を30km以上登り続けるには、相当な体力を要するため、ピストンとなる行程ならば、不要な荷物は山麓にデポしていくことになるが、装備を削れば、その分、緊急時の対処が難しくなる。晴天であれば、何とかなることでも、初冬の気象条件下では、そうはいかない。
折しも冬型が強まり、道北は、この秋一番の冷え込みが続いていた。長距離の林道走行中にトラブルに見舞われたら、命の危険が生じる。
「多分大丈夫」と踏み込める状況ではなかった。それでも計画を実行することに拘るのは、意志の強さと言うより、ただの無謀である。
駅は消えてなくなるとしても、山が消えてなくなることはない。
結局、山行は、次の機会に委ねることにして、北星駅に直行することにした。その分、北星駅には、40km余りの短い走行で到着することになったのである。
この日も、途中、次第に天候が回復する兆しが見え、晴れ間さえ広がり始めたが、北星駅に到着する頃には、薄ら寒い曇天に濃い雲が混じり始め、程なく、土砂降りになった。
厄介なことには、宗谷本線沿線を南下中、この雨雲は、何時も、背後から気付かぬ内に接近してきたのである。振り返った時に、背後に真っ黒な雨雲が広がり、白いベールのように土砂降りの雨が近づいてくる様は、絶望的な心地がする。
途中の晴れ間は「罠」だった。疑似晴天に騙されて山中の林道にでも踏み込んでいたら、雨を避ける場所もない山中で、土砂降りに降られていたことだろう。
「毛織の北紡」の看板を眺める間もなく駆け込んだ北星駅の待合室で、濡れた衣服を着替え、ほっと一息をつく。外は台風のような暴風雨になっている。
オンボロの待合室だが、私にとっては、とても心地良い空間である。そして、この日は、頼もしくもあった。





転落防止を呼びかけるポスターなどは、前回の訪問時にも掲示されていたものだ。流石に、色あせてはいるが、変わらぬ佇まいが好ましい。
こんな待合室を好ましいと感じるかどうかは、人それぞれであろうが、私とても、「廃駅」に、同じ様な好ましさを感じることはない。
世の中には、「廃墟」趣味もあるが、廃墟の醸し出す雰囲気は、「寂しさ」、「悲しさ」、「儚さ」や、時に「不気味さ」であって、旅情駅の持つ「郷愁」、「懐かしさ」とは、明らかに違うように感じる。
そして、この北星駅は、「懐かしさ」に溢れているように思うのだが…。
やがて雨がやみ、雲にも切れ間が出てきた。
今日は、この後、日進駅まで進んでから山間に分け入り、サンピラー温泉を往復するが、明日の朝まで、丸一日近くを、この駅で過ごすことになる。
これが、最後の機会である。心ゆくまで、駅のひと時を堪能したい。
10時半ごろ、北星駅を通過する特急「宗谷」を撮影する。名寄駅方の長い直線の彼方から、特急のヘッドライトが近付いてくる様は、絵になる情景だ。

特急が通過して10分ほど立つと、先程までの嵐が嘘のように、爽やかな秋晴れが広がった。待合室の赤い屋根や看板が青空に映え、濡れたホームには、空が写り込んでいる。
穏やかな日差しの中、北星駅の姿を眺めるひと時。
四季折々の風景を眺めてみたかったな、と思う。


11時前に、一旦駅を離れ、名寄郊外のサンピラー温泉まで往復した。往復35km程度の距離。途中、智東駅跡と、日進駅を通る。
往路は晴れていたものの、温泉に浸かっている内に雨が降り出し、温泉を出ると小雨。
温泉を出ると雨が降るというのも、この旅のお決まりのパターンだった。
往路は、天塩川を渡り左岸側の智恵文市街地を経由し、帰路は、天塩川沿いに右岸側の林道を経由した。林道は、翌朝のルートとして通行可能かどうか、勾配の具合や路面状況を確認する目的で、温泉往復の軽装で乗り込んでみたのだ。
天塩川を渡った対岸の道道付近から北星駅付近を遠望すると、駅前にある倉庫の赤い屋根が、丘陵の麓に僅かに見えていた。
帰路の林道は、地図で計測するよりも距離感があり、北星駅側に向かって下り勾配が多い印象だった。野宿装備を満載した状態では、通過に苦労することが分かったため、翌日は、智恵文市街地を迂回して進むことにした。




14時過ぎに北星駅に戻る。
この時も、駅に着く直前に、雨が降り出した。毎日、こんな具合である。
駅に戻ってすぐ、名寄行きの普通列車が到着する。第2美深名寄線踏切から撮影していると、軽装の旅人が一人下車してきた。次の列車で旅立つのだろうか?少し気になりながら、小雨を避けて待合室に戻ると、こういう駅には珍しく、一人旅の若い女性だった。


私は、人見知りなところもあり、あまり人に話しかけるということはないのだが、周りに人の居ない無人駅の待合室に、若い女性と二人で居て、一切無言というのは気味が悪いだろうと思い、「どちらから?」と話しかけてみた。
聞けば関東地方から宗谷本線や石北本線の駅巡りをしに来たとのことで、宗谷本線の駅の廃止のこともよくご存知だった。
私が昨夜を過ごした豊清水駅に、一昨日の最終で降り立ったらしく、近くの民泊施設への連絡が取れず、最悪駅寝になるところだったと言う。もし同じ日に巡り合わせていたら、どうなっていたことやら?
しばらく、談笑した後、めいめいに、駅巡りを楽しむことにした。この時、私は、カメラや三脚以外の荷物は、駅に残していた。
しばらくすると、10月6日、7日の2日間、ノースレインボー車両で代走運用されていた特急「サロベツ」がやってきた。踏切から望遠レンズで撮影すると、圧縮効果もあって、印象的な写真を撮影することができた。

特急が通過した後、駅に戻る。
一人旅の女性は、駅ノートを読んでいた。
軽装なので駅寝するつもりではないだろうと思いつつ、この後どうするのか聞くと、15時9分の稚内行きで出発し、美深で旭川行きの特急「サロベツ」に乗り換え、そのまま、石北本線の特急に乗り換えて北見まで行くのだそうだ。
明日は、石北本線の生野駅を探訪するのだと言う。
再び雨が降り出したため、待合室から出ることも出来ず、そのまま、談笑して時間を過ごす。
稚内行きの普通列車も撮影したかったのだが、駅を後にする女性とホームに立ち話をしていると、撮影する暇はなかった。最後に、このWebサイトのURLを伝え、デッキで手を振る女性を見送った。
旅先での人との出会いは、一期一会であるが、いつも、旅のいい思い出になる。
今回も、旅情駅にふさわしく、いい思い出になった。その時は、そう思っていた。
駅には、この他にも、車での来訪者が散見されたものの、待合室には誰も入っては来なかった。誰かがいる気配がすれば、中々、入りにくいものかもしれない。
いずれにしても、この駅を訪れるということは、それなりに、鉄道に愛着があるはずだが、そういう人ですら、車で来訪するのが現実である。
踏切の辺りに居た車での来訪者も去ると、旅情駅には、私一人が残った。少し寂しいこのひと時を味わいたくて、旅しているのだと改めて思う。
雨上がりの道を踏切まで歩いていくと、宗谷丘陵の錦繍が、西日を受けて輝いていた。
北星駅と言えば、「毛織の北紡」の待合室が象徴的だが、踏切から眺めたこの姿も、私の好きな北星駅である。

しばらくすると踏切の警報機が鳴り出して、美深駅方から列車の走行音が近付いてくる。程なく、LEDのヘッドライトも誇らしげに、特急「サロベツ」が北星駅を通過していった。
先程の女性は、車窓に流れる北星駅の姿を見送っていることだろう。

去りゆく特急「サロベツ」の走行音が、丘陵の彼方に消えていくと、駅には静かな時間が戻ってくる。
彼方の丘陵の山腹には、霧が立ち昇る。
「むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ」
私の好きな百人一首の一句を思い出す。

日暮れの時間を迎えた北星駅で何するでもなくホームに佇む。
夕暮れの西日が茜色に染まり始める頃、散策がてら、駅の近くにある、北星八幡神社まで行ってみた。
社殿などはなく、地神と刻まれた石碑と鳥居が建つのみで、訪れる人も居ない神社だったが、かつては、この地の守り神として、地域の住民の信仰を集めたのであろう。


散策を終えて、駅に戻る。
秋の北海道の一日は短く、17時前後に日没を迎える。16時51分の音威子府行き普通列車が到着する頃には、辺りは、既に暮色に包まれていた。単行のキハ54系から下車する人は、誰も居らず、乗り込む人も、勿論居ない。
駅に発着する普通列車も残すところ2本。
だが、その2本も、この駅での乗降客を見ることはないだろう。


音威子府行きの普通列車が出発して程なく、暮れなずむ北星駅にも明かりが灯った。
北星駅で過ごす、最後の一夜。
残念ながら、雲が広がり始め、トワイライトタイムを迎えることもなく暗くなったが、これが最後だと思うと、一層強い、郷愁に包まれる。


この夜は、雨を避けて木製駅舎の中で、駅寝することにした。夕食を済ませて駅前に出てみると、雲が途切れて星が瞬いていた。
辺りには、夜の帳とともに、寒気も降りてくる。ライトダウンを着込んでいても、衣服の隙間に冷気が入り込んでくる。冬はもうそこまで来ているのだろう。
とっぷり暮れた夜のしじまに、北星駅はぽつんと佇んでいた。東の空には、いつの間にか月が昇り、孤独な旅情駅を見守っていた。

普通列車の発着を見送った後、稚内行きの特急「宗谷」が走り去ると、駅は、眠りにつく。
北星駅で過ごす、最後の夜。
名残惜しさを噛み締めつつ、駅とともに眠りについた。

一夜明けると、黎明の青い大気が、北星駅を包んでいた。
朝5時過ぎ。
名寄駅方から、回送列車が駅を通過していった。
早朝の静謐な大気の中、青い大気の底で静かに佇む北星駅。宗谷丘陵の麓の原野に佇む旅情駅は、まだ眠りの中に居るようだった。



夜半の雨が上がり、霧が沸き立つ中で明けゆく、晩秋の北星駅の朝。朝礼台とも呼ばれる板切れだけのホームが、北辺の大地の風景に似つかわしい。
駅前野宿で一夜を明かしたからこそ巡り会える、旅情駅の姿に、暫し、見惚れる。


消灯し新しい朝を迎えた北星駅は、昨夜来の雨にしっとりと濡れていた。
やがて、原野の彼方から、列車の走行音が響き出した。まだ、始発の時刻には早い6時前。回送列車がやってくるのであろう。
踏切でカメラを構えていると、原野の彼方から、回送列車のキハ40が近付いてくる。北星駅を通過するキハ40の姿も、これで見納めだ。



回送列車を見送ると、いよいよ、出発の時間が迫ってきた。
生憎、再び雨雲が広がり始め、ポツポツと雨粒が落ちてくる中、去り難い気持ちでホームに立つ。
もう二度と見ることの出来ない北星駅の風景を目に焼き付ける。
厳しい冬が明けた令和3年3月。北星駅は雪解けを待つことなく廃止される。
1959年11月1日の開業から60年余り。北辺の大地にあって、幾多の風雪を乗り越えてきた、この味わい深い待合室も、やがて、思い出の中の風景となる。
この駅が廃止される「その日」を、静かに見守りたい。
万感の思いを残して、思い出の北星駅を後にした。




この物語には、余談がある。
出発した後、智恵文の集落まで辿り着くと、例によって横殴りの雨になった。
商店の軒先で雨宿りをしている内に、体が冷えてきたので、自販機で、温かい飲み物を買おうと財布を開くと、5円玉しか入っていなかった。4千円ほどのお金を持っていたはずなのに、一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
昨日、サンピラー温泉に入った時には、レストランで食事もしたし、間違いなくお金はあった。その後、財布の中から札や100円以上の硬貨が無くなったのだとすれば、北星駅の駅舎の中に荷物を残して撮影にでかけた、僅かな時間しかあり得ない。そして、その時間に、財布を触ることが出来たのは、駅で出会った、あの若い女性しか居なかった。
にこやかに談笑し、手を降って別れたあの女性が、盗んだのか…と思うと、駅の窓ガラスが割られていたことも含めて、言いようのない怒りが満ちてきた。長い旅の経験の中で、お金を盗られたのは、初めてのことだった。
しかし、小雨になった中で走り出すと、憤りで熱くなった気持ちも落ち着いてきた。
目の前の人のお金を盗んで、平然と笑顔で話せるのは、これまでにも、幾度となく、盗みを働いているからだろう。今頃、上手く行ったと、馬鹿な男だと、ほくそ笑んでいるのかもしれないが、天網恢恢疎にして漏らさず。
悪事の入口は広く、出口は狭い。やがて、その報いを受ける日が来ることになろう。
もし、その悪行を悔いて改める日が来るのなら、過去の過ちを責めるより赦せばいい。
いずれにせよ、旅の思い出を汚すに値しない、小さな出来事だ。
因みに、この数日後の襟裳岬では、自販機に千円札を「盗まれ」、商品は出てこないし、お札も戻ってこなかった。試しに100円玉を入れると、それだけは、きちんと認識していたが、お札に関しては、エラーを表示して、だんまりを決め込む態度だ。生憎、早朝の出発前だったので、土産物屋も開いておらず、泣く泣く、出発した。
最終日の園部駅では、普通列車の乗換の合間に購入したポテトチップスの袋を、カラスに「盗まれた」。目の前で、ポテトチップスの袋を加えて、悠然と飛び去るカラスに、怒鳴るわけにもいかず、ただ、呆然と、見送るしかなかった。
よく、盗まれる旅だった。
今では、それも笑い話である。
北星駅:旅情駅ギャラリー
2001年8月撮影(ぶらり一人旅)






2016年1月撮影(ぶらり一人旅)





月光の下、無人の駅を照らし出す灯りには、どこか、温もりがある





じっとしていると痺れるような寒気に包まれる











2020年10月撮影(ちゃり鉄14号)































北星駅:地図画像
国土地理院地図画像

空撮画像
