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内名駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2021年2月21日 | コンテンツ公開 |
内名駅:旅情駅探訪記
2015年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
広島駅と備中神代駅との間を結ぶ、全長159.1kmの芸備線。
沿線にある備中神代、備後落合、安芸矢口といった駅名が示すように、備中・備後と安芸との間を結ぶこの路線は、私鉄の芸備鉄道と、国有鉄道庄原線、三神線という、3つの路線を前身とするローカル線である。
路線網としての全通は、1936年10月10日、国有鉄道三神線の小奴可駅~備後落合駅間の開通の日(同時に庄原線が三神線に編入)に遡ることができるが、芸備線としての開業は1937年7月1日のことで、芸備鉄道線の買収による国有化・三神線編入と、三神線そのものの芸備線への改称によるものである。
三神線は、「三次」と「備中神代」に由来する路線名であるが、芸備線全通によって、「三次」が経由地となったため、三神線から芸備線と改称されたのである。ただし、「日本国有鉄道百年史 9」の記述によると、建設工事線名は「三新線」であった。
同書には芸備鉄道買収の経緯について、「第64回帝国議会貴族院委員会議事速記録」による三土鉄道大臣の説明が掲載されている。それによると、「本鉄道ノ中、十日市、ソレカラ庄原間十三哩五分ハ三次、新見ヲ連絡スル所謂三新線ノ一部ニ該当スルノデアリマスカラ、之ヲ改築スル為ニ買収スル必要ガアルノデアリマス」とあり、三次駅と新見駅を連絡する路線の建設意図が明瞭である。
しかし、備中神代駅~新見駅間は、1928年10月25日に伯備線の一部として開業しており、三神線の備中神代駅~矢神駅間開業(1930年2月10日)以前のことであるから、開業路線の名称としては、「三新線」が使えず「三神線」となったのであろう。
ところで、大臣答弁に「十日市」とあるように、現在の三次駅は、当時、備後十日市駅を名乗っており、三次駅に改称されたのは、1954年12月10日のことである。「三次駅」がなかったのか?といえばそうではなく、現在の西三次駅が、当時は「三次駅」を名乗っていた。
三次市の成立は、1954年3月31日のことで、それ以前は、三次町、十日市町及びその他の村域に分かれていた。三次町にあったのが旧「三次駅」、十日市町にあったのが備後十日市駅だったのである。
その後、三次町と十日市町やその周辺村域の合併による三次市の成立によって、三次市の中心駅となった備後十日市駅が三次駅と改称し、旧「三次駅」は、西三次駅となったのである。西三次駅への改称は、1954年11月10日のことであった。
いずれにせよ、「十新線」や「十神線」とはならなかった訳で、中々、ややこしい。
この芸備線で、最後に開通した小奴可駅~備後落合駅間を含む東城駅~備後西城駅辺りの区間は、以下に示すように、山麓に沿って随分と回り道をしている。地形図の下の方に見える中国自動車道の線形と比べたら、鉄道路線の大回りぶりが一目瞭然であるが、この区間は、大回りであるのみならず、25km、15kmなどといった、自転車並みの速度制限区間も多く、中国自動車道の高速バスには全く歯が立たない。
色別標高図(マウスオンやタップ操作で切替可能)を見ると、白滝山(1053m)や飯山(1009m)を最高峰とする山塊の北側を、成羽川や西城川に沿って迂回するようなルートになっているが、標高差だけで見れば、東城駅付近から平子駅付近まで、ほぼ東西に抜ける線形で敷設できなかったのだろうかという気もする。
尤も、この付近は、帝釈峡の源流域でもあり、地形が複雑で峡谷も深く、鉄道敷設には不向きだったのかもしれない。長大なトンネルは建設できない時代のことである。
この内、東城駅~備後落合駅間は、芸備線の中でも、最も運転本数が少ない区間で、現在では、単行気動車が1日3往復するだけの、閑散区間である。
内名駅は、そんな区間にある旅情駅である。
初訪問は、2015年8月のことであった。北九州のJR路線を巡る旅の往路、播但線、姫新線、芸備線を経由して九州入りするルートを選び、2日目の夜を、この駅で過ごしたのである。
新見駅から備後落合駅に向かう単行気動車から降り立ったのは私一人。既に日が沈み、暮色に包まれる駅ホームで、去りゆく後ろ姿を見送る。1日僅か3往復のこの区間に於いて、夕刻の備後落合行きは、この方面の最終でもある。この後、備後落合駅から折り返して、新見行きとなって再び駅にやってくるのだが、それで、この駅の一日が終わる。
遠ざかっていくディーゼルエンジンの余韻が山峡に消えると、駅には、静寂と夜の帳だけが訪れる。駅の明かりに照らされる草むした線路が旅情を誘う。旅情駅に一人佇むこの時間は、何にも代えがたい至福のひと時である。
内名駅は、1955年7月20日に、新設開業した1線1面の棒線駅である。
駅は成羽川に沿った谷沿いにあり、現在の地名でいうと、庄原市東城町竹森が所在地であるが、国土地理院の地形図で確認すると、成羽川対岸の集落に内名の表記がある。
駅名や地名の由来は判然としないが、「国鉄全駅ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房)」には、「『芸藩通志』奴可郡竹森村図中に内名谷を見る。内堀村の鉄穴場(カンナバ)址か」との記載がある。
駅のホーム向かいには、1軒の民家があり、敷地内の焚き火の煙が辺りに漂い、幻想的な情景になっていた。
駅の周辺に、他に民家はなく、内名の集落は成羽川を挟んだ対岸に位置するため、駅は訪れる人も居ない、静かな雰囲気である。
19時過ぎの普通列車から降り立ち、駅の周辺を散歩しながら写真を撮影している内に、辺りは、とっぷりと暮れた。駅の周辺以外に、ほとんど明かりが無いため、暗闇の中に、駅の施設や線路だけが浮かび上がっている。
早くも深夜のような様相を呈しているが、時刻は20時過ぎ。都会であれば、これから夜が始まるという時刻であるが、旅情駅の夜は、ホッとする落ち着きと、少しの寂寥感に包まれていた。
駅のホームの向かいには、畑やあぜ道が続いており、その続きに1軒だけの民家や山林が横たわっている。
そのあぜ道の方から駅を眺めてみる。
単行気動車が1日3往復するだけのこの駅も、かつては、複数の車両を連ねた客車列車や優等列車の訪れる駅であった。その名残で、駅のホームは、1両では持て余す長さを持っている。
芸備線そのものは、広島駅から備後落合駅を経て、木次線を経由して、米子駅や出雲市駅を結ぶ、陰陽連絡線としての使命が濃厚な路線であったが、それ以外にも、広島駅~新見駅間を走り通し、伯備線や姫新線に乗り入れるような列車も運行されていた。
例えば、1962年3月15日に運行を開始した準急「たいしゃく」は、広島駅~岡山駅を芸備線と伯備線を経由して結ぶ列車であったし、木次線経由で運行されていた「ちどり」の増発列車として「たいしゃく」と同日に運行を開始した準急「しらぎり」は芸備線と伯備線を経由して、広島駅~米子駅を結んでいた。1972年3月15日には、広島駅~新見駅~津山駅間の急行「やまのゆ」も運行を開始しているが、同日、伯備線経由の急行「ちどり」は廃止されている。いずれにせよ、現在では考えられないルートである。
しかし、その頃には、この山里の旅情駅を、急行列車が通過していたのだ。そんな時代に、この駅を訪れてみたかったと思う。
急行に格上げされた「たいしゃく」の運行区間が広島駅~備後落合駅間に短縮され、この駅を通過する優等列車が無くなったのは、1991年3月16日のことであった。
やがて、備後落合駅方の山間から、鉄路を刻む列車の走行音が響き出した。備後落合駅で折り返してきた新見行きの最終列車である。
時刻は20時半過ぎ。
到着した単行気動車には乗客は居らず、勿論、内名駅からの乗客も居なかった。バスなら、乗降客の居ない停留所は目視確認だけで通過してしまうが、鉄道は、こんな駅でも律儀に停車していく。
しばし、車内の音声アナウンスとエンジン音が駅のホームに喧騒をもたらしていたが、定刻になると、テールランプの軌跡を残して、列車は、ゆっくりと、出発していった。
遠ざかる走行音が山間に聞こえなくなると、駅は、再び静寂に包まれる。私も、駅前の空き地に設営したテントに帰り、駅とともに眠りについた。
翌朝は、5時前には起き出して、出発の準備に取り掛かる。
夏の夜明けは早く、この時間で既に空は明けていたが、昨夜来の嵐気の残る谷あいは靄に包まれており、その白味を帯びた空気の向こうに、青い夏空の気配が漂い始めていた。
青みを残した大気の底で、駅はまだ眠りの中になるかのような表情をしていた。
成羽川の対岸の内名集落の方を見やると、低い丘陵に残る靄の下に、いくつかの民家がひっそりと佇んでいた。
しばらくホームの上で、駅周辺の撮影をしていると、昨夜の名残はいつの間にか消えて、朝日の気配が漂い始める。
6時過ぎの備後落合駅行きの始発で駅を後にするため、駅周辺を散策する時間は1時間程度。集落の方まで出かけるには、少し、時間が心もとなく、駅ホームでの撮影が中心になった。
夜は気が付かなかったが、ホームの待合室の脇には階段があり、その先には、厠という表現が似つかわしい便所があった。そんな便所でも、英文併記なのは、ある意味、新鮮に感じられる。
駅の前後の線路は、いずれも、草むしていて、廃線のようにも感じられるが、車輪に削られる表面が赤錆びていないため、ここが現役の路線であることが分かる。
貨物輸送は言うまでもなく、旅客需要もほとんどない、芸備線の最奥区間であるが、速度制限で低速走行せざるを得ない状況を逆手に取って、里山風景を題材にした観光列車の運行は出来ないものか…と感じたりもする。
しばらくすると、昇り始めた太陽の影響で、辺りの大気が赤みを帯び始める。そして、程なく、新見方の山峡に、列車の走行音が響き始めた。
速度制限区間を徐行して進む列車は、草むした線路の向こうから、ゆっくりと姿を現した。
この日は、この後、芸備線を走り通し、山陽本線を西進して、一気に九州の長崎本線・小長井駅まで旅をする。
ぶらり「乗り鉄」一人旅の道中での訪問となったこの時は、1日3往復の閑散ダイヤに左右される滞在時間となった。集落付近の散策なども十分に行うことが出来なかったが、いずれ、「ちゃり鉄号」でこの駅を訪れたいと思う。
存廃問題も浮上する芸備線の最奥区間であるが、再訪の日まで、路線が維持されることを望みたい。