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宇田郷駅:JR山陰本線|旅情駅探訪記

JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
旅情駅探訪記
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宇田郷駅:更新記録

公開・更新日 公開・更新内容
2021年6月13日 コンテンツ公開

宇田郷駅:旅情駅探訪記

2015年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)

京都から日本海沿岸に沿って幡生に至る山陰本線は、長門市~仙崎間の支線2.2kmも含めて、676.0kmに達する長大な路線だ。本線の名の通り、その路線の途中で、幾つもの路線が枝分かれしており、瀬戸内海沿岸を行く山陽本線と並んで、西日本有数の幹線である。

しかし、作家の宮脇俊三が「偉大なるローカル線」と呼んだことからも分かるように、実態は、いくつかの区間に分断された、長大なローカル線で、単線非電化の区間が大半を占めている。京都~城崎温泉間、伯耆大山~西出雲間は電化され、一部複線化もされるなど、近代化されているが、全長から考えると、その割合は少ない。

ひたすら日本海に寄り添って走る気動車列車の旅路は、旅情あふれる旅路でもあり、本線の名に反して、多くの旅人が憧れる路線でもある。

その長大な山陰本線の中で、最後に開通したのが、須佐~宇田郷間、8.8kmであった。

この区間の開通は、1933年2月24日。

それによって、山陰本線(京都~宇田郷)、美禰線(宇田郷~正明市(現長門市)~阿川・正明市~仙崎)、小串線(幡生~阿川)の3路線が直通し、全線を山陰本線としたのであった。山陽本線(神戸~馬関(現下関))全通の1901年5月27日から遅れること、32年余り後のことである。

そんな歴史を秘めた山陰本線の旅の中で、宇田郷駅に降り立ち、駅前野宿の一夜を過ごしたのは、2015年8月のことだった。

この年の夏の旅では、播但線、姫新線、芸備線を経由して九州入りし、福岡、佐賀、長崎の鉄道路線に乗車した後、山陰本線経由で、自宅に戻った。往路では京都~和田山、復路では幡生~福知山(仙崎往復含む)に乗車したので、山陰本線は全線乗車する旅だった。

九州を目的とする旅人が、播但線や姫新線。芸備線、山陰本線を経由することは、まず無いだろうが、そういう寄り道をしながらの旅の方が、旅情を感じるにふさわしいと思う。新幹線や飛行機で、直行直帰というのでは、何だか、味気ない気がする。

さて、そんな山陰本線の旅路。夕刻の宇田郷駅に降り立ったのは私一人だけだった。2両編成の普通列車には、それなりの数の乗客が居たが、他に乗降客の姿はなかった。

JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
夏の日の夕刻。日没間近い旅情駅・宇田郷に一人降り立った

出発していくキハ40系2両編成の普通列車を見送ると、駅の撮影は後回しにして、まず、目の前の海岸に向かった。

宇田郷駅は国道を挟んで直ぐに日本海に面しており、海が間近い。折しも、夏の日本海に沈みゆく夕日が、赤みを増して、今まさに、沈まんとするところであった。

夕日の名所であれば、多くの観光客で賑わうところであろうが、この宇田郷駅は、絶好のロケーションであるにも関わらず、観光要素が一切なく、駅の近くには人影は見られなかった。

たった一人で、海辺の護岸の上に腰掛けて夕日を眺めるひと時。

ちょっと感傷的な気分に浸りつつ、この場所で、駅前野宿の一夜を過ごせる喜びを、静かに噛み締めていた。

誰も居ない駅前の海岸で沈みゆく夕日を眺めた
誰も居ない駅前の海岸で沈みゆく夕日を眺めた

水平線に夕日が沈んだのを見届けた後、一旦、駅に戻った。

残照の中で、駅舎や構内には照明が灯り始めていた。駅前野宿の場合、夕刻から翌朝までの滞在になるが、照明が灯るこの時間帯の駅は、最も、旅情あふれる時間帯でもある。周りに集落のない無人駅であれば、到着してから出発するまでの間に、誰とも出会わないということも少なくない。

旅の計画を練る段階で、駅前野宿をどこにするかを考えるのは、この上ない楽しみであるが、実際に、現地で過ごす一夜も、何にも代えがたい楽しみである。

夕日を受けて静かに佇む木造の駅舎が好ましかった
夕日を受けて静かに佇む木造の駅舎が好ましかった
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
ホームの上を散歩しながら夕涼みのひと時を過ごす

2015年当時の宇田郷駅は、開業以来の面影を残す古い駅舎と、上下線の間をつなぐ跨線橋が現役で用いられていた。立派な駅舎は、この駅が有人であった頃の記憶を今に伝える。

2021年現在、既に、この駅舎は解体され、跨線橋も撤去されている。撤去工事は、2018年12月から2019年3月にかけて実施された。交換施設自体は残っているものの、構内信号も撤去されて、実質的に棒線駅化している。取り壊された駅舎の代わりの待合室は、バス停並みの簡素なもので、駅前の海岸沿いには、鋼製の擁壁が建てられて、景観も大きく損なわれている。

駅が廃止されなかっただけでも良かったということかもしれないが、次々に、旅情ある風景が失われていくのは、時代の流れとは言え、複雑な気持ちになる。せめて、ちゃり鉄の旅で少しでも多くの駅を訪れ、その記憶を未来に伝えていきたいと思う。

駅は直ぐに道路に面しており、駅前広場などは無かった
駅は直ぐに道路に面しており、駅前広場などは無かった
補修の跡が目立つものの、有人時代の面影を残していた旧駅舎
補修の跡が目立つものの、有人時代の面影を残していた旧駅舎
駅前には、交通量の少ない国道と、見渡す限りの日本海が広がる
駅前には、交通量の少ない国道と、見渡す限りの日本海が広がる

駅の撮影を終えた後、一旦、海岸に戻った。

今夜の夕食は、この海辺の景色を眺めながら食べることにしようと思う。

道路脇の海岸は護岸に固められており、自然海岸ではないが、目の前には、見渡す限り日本海が広がり、西の方を見やると、無人島の姫島と宇田島が、水平線に浮かんでいる。

護岸沿いに降りる階段の先に、ちょっとした空間を見つけたので、そこで、夕餉の支度に取り掛かった。暮れゆく日本海を見ながらの夕食は、インスタントラーメンにふりかけご飯といった内容だったにもかかわらず、美味しく感じられる。

他に、人の姿は一切なく、国道を通過する車も、ごく少なかった。

駅の西方の日本海には姫島(左)と宇田島(右)が浮かぶ
駅の西方の日本海には姫島(左)と宇田島(右)が浮かぶ
日本海を見下ろしながら夕食の準備
日本海を見下ろしながら夕食の準備
こんなロケーションでの自炊は最高
こんなロケーションでの自炊は最高

夕食を終えて駅に戻ると、駅は、すっかりトワイライトに包まれていた。

山陰本線の中でも、出雲市以西の区間は、とりわけ、鄙びた旅情が強い区間であるが、益田から萩、長門市を経て、幡生に至る最西部区間は、今では、優等列車の運行もない完全なローカル区間となっている。

学生時代には、特急「いそかぜ」や、急行「さんべ」が、まだ活躍していて、この区間を走っていた。しかし、2005年3月1日の「いそかぜ」廃止を最後に、この区間を走る優等列車は全廃された。特急「いそかぜ」は、国鉄塗色のキハ181系で運行されていた、最後の特急だった。

この宇田郷駅を通過していく姿を見てみたかったと思う。

時刻は19時を回り、宇田郷駅に発着するのは、残すところ、上下それぞれ1本ずつの普通列車のみであった。トワイライトは、次第に明るさを失いつつ、赤から紫、そして、紺色へと変化していく。

それとともに、駅の構内照明や信号の明かりが、鮮やかさを増していくように感じられた。

JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
駅に戻れば暮景の中に静かに佇む駅舎が心地よい
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
夕日の赤みが抜けた後、空は、ひと時、紫色に染まる
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
すっかり夜の帳に包まれた宇田郷駅に照明が映える

下り線ホームには、上屋とベンチが一脚設置されていた。

緩やかにカーブした駅構内は、信号や照明の光を反射したレールが、寡黙に煌めいている。

凪のこの日、波濤の音が響いてくることもなく、ホームで佇んでいると、聞こえてくるのは、虫の音だけだった。

私は、駅前野宿の夜に、目的駅に着いてから、別の駅に出かけることは無いのだが、この日は例外で、この後、上下の最終列車に乗車して、益田駅を往復した。買い足したい備品があったため、一旦、都会に出る必要があったのである。

益田を往復して宇田郷駅に戻り、眠りについたのは、21時過ぎであった。

相変わらず、乗降する人の姿は見られなかったが、駅に降り立つと、何だか、懐かしい気がした。

波の音も聞こえない静かな夜が更けていく中、いつの間にか、寝袋の中で眠りに落ちた。

2015年当時は列車の発着もあった下り線ホーム
2015年当時は列車の発着もあった下り線ホーム
緩やかにカーブした宇田郷駅構内
緩やかにカーブした宇田郷駅構内

翌朝は、5時前には行動を開始した。

まだ、明けやらぬ宇田郷駅構内は、夜の名残に包まれていたが、東の空は、地平線に近い部分から赤紫に染まり始めており、夜明けが近いことを感じる。

一見すると、宵のうちの空の様子とそっくりではあるが、早朝の空気は凛気を漂わせており、夕方の空気とは明らかに雰囲気が違う。

早朝の、このピンと張り詰めた空気感は、駅前野宿の朝ならでは。

私の好きな、旅情駅のひと時である。

晴れ渡った空に、今日一日の晴天を確信しつつ、少し、駅の近くを散歩してみることにした。

JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
地平に近い空に赤みが差し、徐々に明けていく宇田郷駅の夜
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
西の空は、まだ、夜の名残が残っていた
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
跨線橋の向こうの東の空に、夜明けの気配が漂ってくる

駅前の国道191号線は、昨日の到着時点で、既に、交通量が少なかったのだが、夜明けのこの時刻は、全く、車の通行がなかった。

駅は、集落と集落の間の無人境にあり、そこだけ見ると、「どうしてこんなところに?」と思わせる場所に設けられている。しかし、鉄道敷設の当時のことを考えれば、陸の孤島のようなこの地にあって、鉄道開通・駅開設に寄せる、人々の期待が高かったことは、容易に想像がつく。

そして、隣接した集落のどちらに駅を設けるかで、誘致合戦も繰り広げられたことであろう。そういう時に、両方の集落の間に駅を設けるという折衷案で決着を付けたということも、よくよく考えられることである。

宇田郷駅から、西に進めば宇田地区に達し、東に進めば惣郷(そうご)地区に達する。

この惣郷地区には、惣郷橋梁があり、その美しい橋梁を行く列車の撮影のため、多くの鉄道ファンが訪れるものの、宇田郷駅は、あまり、話題になることも無い。鉄道を用いるよりも、マイカーで撮影に訪れる人が多いのだろうと思う。

この旅では、惣郷地区の方ではなく、駅前から見えていた宇田地区の方の小さな岬まで、海岸沿いをぶらぶら散歩することにした。

岬を回り込んだ先に集落があるのだが、駅からは直接見えない。

山並みが海岸線に向かって落ち込むわずかな部分に、平地を造成して山陰本線と国道が並走している。かつては、道のない海岸線だったのであろうと、容易に想像される地形だった。宇田郷駅は、そんな山並みの麓に、ポツンと佇んでいる。駅の照明で、そこだけ明るくなっているので、その孤影は、むしろ際立って見えた。

空に浮かぶ雲が赤く燃え始めている。

「モルゲンロート」という言葉を思い出すひと時だった。

穏やかな日本海を望みながらひっそりと静まり返った宇田郷駅
穏やかな日本海を望みながらひっそりと静まり返った宇田郷駅
宇田郷駅は近隣集落からは離れた海岸沿いにポツンと佇んでいる
宇田郷駅は近隣集落からは離れた海岸沿いにポツンと佇んでいる
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
明けゆく空と穏やかな山陰海岸

さて、ここで、宇田郷駅の歴史について、改めて、振り返っておこう。

まず、駅の開業は、1931(昭和6)年11月15日。

先述の通り、山陰本線の全通は、1933(昭和8)年2月24日。須佐~宇田郷間8.8kmの開通によるものだったため、宇田郷駅は、山陰本線全通前に開通した駅である。開業当時は、国鉄美禰線の駅であった。但し、この区間は、工事線名としては、石見益田(現益田)~萩間を結ぶ「萩線」という名称で工事が行われていた。難工事だった、須佐~宇田郷間の工事を残して、萩~宇田郷間が開通した際に、美禰線に繰り入れられたのである。

駅名の由来について「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によると、「現・阿武郡阿武町宇田で、もとの宇田郷村の名をとったもの。ウタゴウとは宇田村と惣郷村が合併してつけられた合成地名」とある。

更に、地名について、「角川日本地名大辞典 35 山口県(角川書店・1988年)」によると、宇田郷村とは、「明治22年~昭和29年の阿武(あぶ)郡の自治体名。…(中略)…宇田村・惣郷村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。村役場を宇田字新町に設置、大正2年字引地に移転。…(中略)…昭和6年国鉄萩線(現JR山陰本線)の宇田郷駅を、宇田と惣郷の中間に開設。」と述べられており、当時存在した集落の中間に駅を設けたという経緯が記録されていた。

先程の推測は、正しかったのである。

以下に示すのは、国土地理院で公開している空撮画像を、年代順に並べたものである。上から準に、1964年5月7日、1976年10月30日、2014年5月2日撮影のもので、各画像は、マウスオーバー若しくはタップで、同図幅の国土地理院地形図が表示されるようにしてある。

これを見ると、1964年当時には現在の国道はまだ開通しておらず、駅前の海岸も、自然海岸だったと思われる。未舗装の細い道路を挟んで、自然海岸が広がる風景だったのかと思うと、その当時の駅の様子を見てみたいものである。南西の宇田地区、北東の惣郷地区それぞれの様子は、現在と大差ない。

1976年には現在の国道が見えているが、丁度、この頃に、工事が行われていたようである。駅の北東の山の斜面には、いくつもの水田が写っている。これらは全て棚田で、さぞかし壮観であっただろうと思われたが、2014年の写真を見る限りでは、既に、多くが休耕田となっているように見える。

また、駅の周辺には、駅舎以外にいくつかの建物が見られる。国鉄職員の官舎などがあったのかもしれない。

旧版空撮画像(1964/05/07(昭39)):宇田郷駅周辺図
旧版空撮画像(1964/05/07(昭39)):宇田郷駅周辺図
旧版空撮画像(1976/10/30(昭51)):宇田郷駅周辺図
旧版空撮画像(1976/10/30(昭51)):宇田郷駅周辺図
旧版空撮画像(2014/05/02(平26)):宇田郷駅周辺図
旧版空撮画像(2014/05/02(平26)):宇田郷駅周辺図

散歩を終えて駅に戻ってくると、夜の名残はすっかり消えて、照明も消えた駅には、新しい朝が訪れていた。

古色蒼然とした宇田郷駅舎を眺めつつ、一夜の思い出を振り返りながら、出発までのひと時を過ごす。

この後、再訪を果たすまでの間に、駅舎が取り壊されることになるとは、予想だにしていなかった。今はもう、この趣ある駅舎は、存在しない。

やがて、益田方から、鉄路を刻む「タタン、タタン」という走行音が聞こえてきた。その音から、単行気動車なのだろうと、予測していると、その通り、長門市行きの単行気動車がやってきた。

かつては、超大編成の客車鈍行が運行されていた山陰本線のホームは長い。単行気動車では、如何にも分不相応の感は否めないが、それも時代の流れ。変わらないのは、車窓に映る日本海だけなのかもしれない。

長門市行きの普通列車を見送って程なく、となり駅で交換してきたのであろう、上りの普通列車が到着した。こちらは、ローカル線の顔として活躍してきたキハ40系の気動車であった。

国鉄時代の塗色に復元されたキハ40系は、私の中では、国鉄時代の原風景となっているが、そのキハ40系も、新型気動車に置き換えられて、全国各地で、引退がすすんでいる。

この懐かしい風景をいつまでも記憶に留めたい。

そんな思いを胸に、旅情駅・宇田郷を後にした。

6時過ぎになってすっかり明けた宇田郷駅に戻ってきた
6時過ぎになってすっかり明けた宇田郷駅に戻ってきた
古色蒼然とした宇田郷駅舎
古色蒼然とした宇田郷駅舎
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
長門市行きの始発普通列車が到着した
ローカル線の顔となった朱色のキハ40系気動車で旅情駅を後にした
ローカル線の顔となった朱色のキハ40系気動車で旅情駅を後にした
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宇田郷駅:文献調査記録

日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業協会・1978年)

明治から昭和に至る国鉄路線工事に関する記録をまとめた「日本鉄道請負業史」は、国鉄建設工事に関する包括的な記録であり、「日本国有鉄道百年史」とともに、国鉄史に関する第1級の資料である。

その内、「大正・昭和(前期)編」において、宇田郷駅を含む区間の記録が掲載されているので、ここでは、その記録を取りまとめておきたい。

まず、宇田郷駅を含むこの区間は、本文でも触れた通り、「萩線」という建設工事線名で扱われていた。以下、本文を引用しながらまとめることにする。

「萩線は、山陰本線石見益田(現在の益田)を起点として西進し、須佐、奈古を経て萩に至る延長六一粁四〇四米の鉄道である。萩以西は、当時すでに長門線として開通していたので、この萩線の開通により山陰本線は全線開通となった。この全通は、京都を始点として日本海岸を走る縦貫線を完成し、下関と結ぶことによって運輸交通上に多大の効果をもたらした」

「本線は、明治四十四年第二十八議会の協賛を経て、大正十年七月鉄道省告示第八十二号により山口建設事務所所管に編入され、同十一年七月測量を開始し、当初は全線を八工区に分けて大正十二年一月に益田方の第一工区、翌十三年六月には萩方の第八工区から工事に着手したが、昭和二年八月に工事計画上の都合から、第二工区から第七工区までを十工区に分けて全線を十二工区にして請負に付し、昭和八年ニ月二十四日に全線が開通した」

この十二の工区の内、須佐~宇田郷間は第五~第七工区、宇田郷~木与間は第九工区であった。第八工区が抜けているのだが、工事施工上、第八工区は萩~東萩間となっている。

各工区毎の請負者は、第五工区が羽原音次郎、第六工区が西本健次郎であった他、第七工区から第十ニ工区までが間組であった。各工区毎の工事概要も掲載されているので、以下にまとめよう。

「第五工区は、須佐~蟶潟間の延長一粁二六〇米の線路で、昭和六年二月二十四日に着手し、翌七年八月九日竣功した。…(中略)…須佐橋りょう(鈑桁径間十六米、八米、工形径間五米各一連)の根掘りは、地下水位が高かったため、湧水量が多く困難な工事であったが無事故で竣功した」

蟶潟は難読の地名であるが、「まてがた」と読む。

「第六工区は、蟶潟~名振間の延長三粁四四〇米の線路で、昭和二年十二月二十一日に着手し、同五年四月十七日に竣功した。本工区の主な工事としては、本線中最長の大刈ずい道(延長二粁二一四・七米)である。…(中略)…本ずい道の東口からの掘さくは機械掘りで施工したが、…(中略)…掘さく進度は、一日最大一〇・一米で、一日平均三・四七米であった。西口からの掘さくは手掘りにより、一日最大三米、一日平均〇九八米であった」

この時代でも、手掘り掘削が行われていたのは驚くが、機械掘削と比べると、その掘削進度は3分の1程度の早さであったことも分かる。

「第七工区は、名振~宇田間の延長三粁一〇〇米の線路で、昭和六年二月二十四日に着手し、翌七年十月一日に竣功した。…(中略)…惣郷川橋りょう(鉄筋コンクリートスラブ径間九米六連、八・七米一二連、七・四米)の橋台、橋脚の井筒基礎施工中に再三激浪に襲われたが、幸いに被害が少なく竣功した。また、名振ずい道(延長七五五米)は、堅い安山岩であったが節理が多く湧水も多かったが順調に竣功した」

以下に示すのは、同書に掲載されている惣郷川橋梁の建設当時の写真である。

この鉄筋コンクリートラーメン構造は、2001年、土木学会推奨土木遺産に指定されている。その指定理由は、「波打ち際に美しい曲線を描く、景観に優れた鉄道用のRCラーメン橋」とのことである。

私は、まだ、この橋梁を探訪していないのだが、山陰本線をちゃり鉄で走る時には、宇田郷駅の再訪とともに、この橋梁もじっくり探訪してみたい。

引用図:惣郷川橋りょう「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業境界・1978年)」
引用図:惣郷川橋りょう
「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編(日本鉄道建設業境界・1978年)」

宇田郷~木与間については、第九工区であるが、それについては、以下のような記述となっている。

「第九工区は、宇田~木与間の延長六粁一〇〇米の線路で、昭和四年三十日に着手し、同六年三月十五日に竣功した。…(中略)…また、京都起点五五五粁二〇〇米付近の左側は以前から大崩と言われていた箇所で、施工中の豪雨の際に地辷りがあり、頂部に数条の亀裂を生じたので危険部分の土砂を取除き防護工として栗石張りを施工した」

国土地理院の地形図で見ると、出雲市以西の山陰海岸の中でも、確かに、江崎~須佐~宇田郷~木与~奈古と続く各駅間は、小さな半島状の地形が連続しており、鉄道建設上は、難所であったのだろうと思わせる。反面、車窓風景は風光明媚で、旅情あふれる区間でもある。じっくりと、ちゃり鉄で訪れるのが楽しみである。

間組百年史(間組百年史編纂委員会編・ 1990年)

さて、「日本鉄道請負業史」で見たように、宇田郷駅周辺の鉄道建設に当たっては、間組が工事を請け負っている。そこで、「間組百年史」を紐解いてみると、この区間の工事に関しても、頁を割いて解説している。

それらの記述を引用しながら、この区間の工事に関して振り返ってみたい。

まず、間組百年史では、「長門線」、「萩線」とに項目を分けて、記述されている。

本文などでも既に述べてきたことであるが、開業前の路線名では、京都方から、山陰本線、美禰線、小串線という路線名で営業していたのであるが、これらは、営業線名であり、上に上げた「長門線」、「萩線」というのは、営業開始前の工事線名であった。

この内、長門線は小串~萩間、萩線は萩~石見益田(現益田)間の路線の工事線名であった。なお、長門線区間に含まれていた長門市は、当時は、正明市(しょうみょういち)と呼ばれていた。

以下に示すのは、同書に掲載されていた「長門線・萩線路線図」である。これらの2線は、概ね、山口県内の山陰本線に該当する区間であったことが分かる。

引用図:長門線・萩線路線図「間組百年史 1945-1989 (間組百年史編纂委員会編・ 1990年)」
引用図:長門線・萩線路線図
「間組百年史 1945-1989 (間組百年史編纂委員会編・ 1990年)」

さて、宇田郷駅に関しては、萩線区間に含まれ、十二の工区に分かれたうちの、第七工区、第九工区の境界であったことは、上述の「日本鉄道請負業史」の記述で見てきたとおりである。間組と萩線との関係は、以下の記述のとおり整理される。

「当社は大正13年5月12日、山口建設事務所における第8工区入札に本店工事係主任の渡辺藤平が出張して落札し、大正15年7月には隣接する第12工区を、ついで第11、10、9、7工区と連続6工区の受注に成功した。最後の第7工区の工事が竣工するのは昭和7年10月であるから、ほぼ8年余りに渡る長期工事となった」

工事は、萩市街地側から工事が進み、第8工区、第12工区、第11工区、第10工区と進捗、第9工区の工事を経て、宇田郷駅に至るのである。このあたりの記述を追ってみる。

「そして木与から宇田郷までの6kmが第9工区で、昭和4年、山陰の春もたけなわの4月30日に着工した。沿岸を走る県道に沿って山腹を切り取ったり、隧道を穿ったりする6.1kmの工区である。第9工区も鉄道側の無監督工区であったから、ベテラン穴田長蔵が現場を指揮し、…(中略)…飯吉精一が着任して現場の施工力を補強した」

ここで、「無監督工区」という言葉が出ているが、これについて、同書では、長門線第9、第10工区の施工に関する記述の中で、以下のように説明している。

「山口建設事務所は試験的にこの工区に鉄道省側の工事監督官をおかず、現場監督まで施工者側に任せることにした。この方式は、満鉄や朝鮮鉄道局で行われて一定の実績をあげていたので、内地でも採用しようとの議論が生じたためかと思われる」

請負事業者としては、現場監督まで任せられて、工事が行いやすくなるのかと思いきや、実際には、苦労のほうが勝ったようで、同書では、現場に赴任した飯吉精一の次の回想を掲載している。

「萩線の現場の半分は鉄道省の監督がいなかった。施工能力と責任感を認められて任される無監督現場はかえって辛い、良心的よりさらに良心的ならざるをえない…(中略)…監督官がついていれば、組員は『ちょっとむこうへ昼飯にいってきます』ですむことが、監督官がいないばかりに誰かが居残らねばならなかったりして、不経済なことおびただしい。商売にならない。鉄道省のほうでも役職を減らしたりするのは得策ではないから、かんとくなしはここだけでおしまいになった」

なるほど、そういうものなのか、と思わせるエピソードではある。

さて、宇田郷駅までの第9工区の竣工は、既に見たように1931(昭和6)年3月15日のことで、駅開業(同年11月15日)の8ヶ月前のことであった。この竣工間近になって、反対側の須佐側からの工事も開始される。こちら側の建設工事の様子を以下に引用してみよう。

「昭和6年2月24日、第7工区の宇田郷ー須佐間3.1kmも着工した。この工区には惣郷川橋梁と尾無隧道88m、名振隧道755m、大刈隧道2215mなどがあり苦労の多い現場であった」

「惣郷川橋梁工事は惣郷川が日本海に注ぐ河口に、地表面から約15mの高さで全長189mの橋を架ける工事であった。線路が著しく海岸に偏り、日本海の強風や高い波にさらされるため防錆・対蝕の必要が生じて、鉄筋コンクリート構造となり、また施工上でも様々な工夫がこらされた。…(中略)…昭和7年8月、半径600mのゆるやかな曲線をえがきながら、あたかも海上を行くかのような鉄道橋が完成した。そして同年10月にはすべての工事が竣工する」

この一連の記述の内、「第7工区の宇田郷ー須佐間3.1km」と云う記述は、正確には、「宇田郷ー名振」であり、間組が施工したのは、名振隧道、惣郷川橋梁、尾無隧道であって、大刈隧道は西本健次郎の請負によるものであったから、間組百年史の記述には、やや誇張が含まれる。しかし、いずれにせよ、間組が、山陰本線全通の最後の要石を打ち込んだことには、変わりないであろう。第7工区の竣工は、正確には、1932(昭和7)年10月1日のことであった。全通は、翌1933(昭和8)年2月24日のことであるから、宇田郷駅は、開業から1年3ヶ月余りを、終着駅として過ごしていたことになる。

なお、同書には、「日本鉄道請負業史」に掲載されていたのと同じ、惣郷川橋梁の写真が掲載されている。施工した間組にとっても、この橋梁は、百年史に特筆すべき実績だったのだろう。

最後に、須佐~宇田郷間の核心部分の国土地理院地形図を以下に示す。地形図は、マウスオーバー若しくはタップ操作で切り替わるようにしてある。

蟶潟から金井崎、黒崎、弁天崎を経て宇田郷に至る区間は、地形図にある屏風岩の地名が暗示する通り、断崖絶壁の連続する難所であり、大刈隧道、名振隧道、尾無隧道の3つの隧道と、惣郷川橋梁を連ねて、克服していた。

現在、この区間に並行する、大刈峠越えの県道の曲折を見ると、この区間の鉄道開通が、地域にとって、如何に重要なものだったか、想像されよう。

しかし、海岸からはるか内陸を緩やかな線形で通り抜ける国道が開通すると同時に、交通体系は、自動車へとシフトし、今は、僅かばかりの乗客を乗せた気動車が行き交うだけローカル区間となった。

そんな人の営みはいざ知らず、トンネルの合間に車窓に映る、紺碧の日本海は、今も昔も、変わらない。

広域地形図:須佐~宇田郷間広域図
広域地形図:須佐~宇田郷間広域図
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宇田郷駅:旅情駅ギャラリー

2015年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)

遮るもののない海原に夏の夕日が沈んでいく
遮るもののない海原に夏の夕日が沈んでいく
宇田郷駅のホームからも日本海が間近に眺められる
宇田郷駅のホームからも日本海が間近に眺められる
跨線橋で上下線ホームが結ばれていた2015年当時の宇田郷駅
跨線橋で上下線ホームが結ばれていた2015年当時の宇田郷駅
20時前になると、空は紫紺に染まっていた
20時前になると、空は紫紺に染まっていた
訪れる者も居ないホームで一人佇む至福のひと時
訪れる者も居ないホームで一人佇む至福のひと時
白々と明けてゆく宇田郷駅
白々と明けてゆく宇田郷駅
上り線ホームには待合室が設けられていた
上り線ホームには待合室が設けられていた
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
常夜灯のように、無人の駅を照らし続ける照明が印象的
JR山陰本線・宇田郷駅(山口県:2015年8月)
明るみの差す東の空に、夜明けの気配が近づいてくる
赤み差す空の下で宇田郷駅の夜が明けていく
赤み差す空の下で宇田郷駅の夜が明けていく
下り線から眺める宇田郷駅構内
下り線側から眺める宇田郷駅構内と長門市方の眺め
下り線側から眺める宇田郷駅構内と益田方の眺め
下り線側から眺める宇田郷駅構内と益田方の眺め
長門市に向かう始発の単行気動車を見送る
長門市に向かう始発の単行気動車を見送る
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