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大前駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
学生時代最後の夏。
私は、就活や研究活動、部活の遠征の兼ね合いで、関東地方から北陸地方にかけてを、泊りがけで旅をする事が多かった。
就活ともなれば、普通はスーツにビジネス向けのバックを携えて新幹線で移動するという事になるのだろうが、私はバックパックにカメラをぶら下げ、スーツはそのバックパックの中にパッキングして夜行列車で移動するというスタイルだった。泊りがけと言ってもホテルに泊まることはなく、夜行・寝台列車と野宿である。
就活を公務員試験一本に絞っていた私は、採用試験の合格発表の時と二次面接の時の二回、就活で上京しているのだが、そのいずれも、寝台急行「銀河」で東京入りした。
面接での上京時は駅のロッカーにバックパックを預け、スーツに着替えて面接先に伺ったが、試験の合格発表での上京時にはバックパックを背負った私服のままで発表会場を訪れた。
周りにはスーツの若者ばかり。首から一眼レフをぶら下げた私は明らかに場違いで浮いた存在だったが、皆、自分の試験の合否のことで頭が一杯の状況だから、バックパックを背負ってうろついている人間のことなど、一顧だにしない風だったのが有難かった。
合格不合格悲喜こもごもの状況の中、公務員試験予備校の関係者と思しき一団が、不合格者に目星をつけてはビラ配りに勤しんでいた。私はその一団の目の前を通り過ぎたのだが、私の身なり風体を一瞥した彼らは、一様に目を逸らし私にビラを配る者は一人も居なかった。
ところが、合格発表の会場から出てきた時には、私めがけてビラを配ってきた。不合格とでも思ったのだろう。自身の合格を確認した後は、関東甲信越の路線を数日間かけて野宿で旅しながら、岐阜県の研究フィールドに出張する予定だったので、合否確認を済ませて一瞬で会場から出てきた私は不合格者のように見えたのかもしれない。合格者はその足で省庁訪問などを行い自分を売り込んでいくのが常だからだ。周りには携帯電話で忙し気に話している若者が多かったように記憶している。
2001年8月はそんな夏だった。合格発表だったのか二次面接だったのかもう覚えてはいないが、寝台急行「銀河」で上京したことと、甲信越の鉄道路線を乗り継ぎながら研究フィールド入りしたことははっきりと覚えている。
その時、野宿の旅の1泊目に訪れたのが、JR吾妻線・大前駅だった。
当時の吾妻線は115系で運行されており、樽沢トンネル付近の旧線が現役だった時代だ。高崎から乗車した普通列車は、夏の青春18きっぷ通用期間ではあったが、大前まで乗り通した鉄道マニアの姿はほんの数名で、山峡の無人駅は霧空の下、ひっそりと佇んでいた。
大前駅を利用する周辺住民はごく僅かだが、列車の停車時間は長い。
この列車も数十分停車した後、折返しの鉄道マニア数名だけを乗せて、高崎方面へと山を下っていく。駅前野宿の私はその列車の出発を一人見送る。
当時の吾妻線の運行ダイヤの詳細は分からない。ただ、この日、その後の到着列車の写真を撮影していないところを見ると、私が乗車した普通列車が大前駅に発着する最終列車だったような気もする。
夜の帳が降り始める中、大前駅に一人佇む。
駅の周辺は吾妻川の対岸に大前の集落を眺めるロケーション。集落内には嬬恋村役場もあるなど、決して人里離れた山峡ではないのだが、駅に発着する列車は終日で5本程度と少なく、鉄道の利用者は非常に少ない。
駅前には嬬恋温泉「つまごい館」が営業していたと思うが、訪問時は臨時休業していたのか、当てにしていた温泉には入ることができず、更け行く夜を一人ホームで過ごした。
駅名標の傍らには二体の道祖神が鎮座しており、旅情を醸し出している。
万座・鹿沢口側にある大前踏切付近からは、行き止まりの駅の全景を眺めることができた。
何するでもないひと時を過ごした後、駅前野宿の寝床に帰り眠りに就いた。
ここで大前駅の由来について、調べておこう。
駅の開業は1971年3月7日。
当時の国鉄・長野原線の延伸線として、長野原~大前間開通時に開業した1面1線の無人駅である。
「日本鉄道請負業史 昭和(後期)篇(日本鉄道建設業協会・1990年)」の記述によると、長野原線は、この延伸に伴って吾妻線と改称しているが、延伸工事の際の工事線名は嬬恋線であった。
その建設工事史の詳細は文献調査記録でまとめることにするが、概略を記載しておく。
まず、吾妻線の前身となった長野原線は、第二次世界大戦中に、群馬鉱山の鉄鉱石開発のため突貫工事で建設された路線で、1942(昭和17)年着工、1945(昭和20)年営業開始となっている。長野原から群馬鉱山のある太子までは日本鋼管の専用線として同時に開業したのだが、1952(昭和27)年には国鉄に移管され、1971(昭和46)年に廃止されるまで旅客営業も行っていた。
このように、戦時中に軍事目的で建設された長野原線ではあったが、戦後になると、その延伸計画が浮上してくる。
大正時代に制定された改正鉄道敷設法別表では、その第54号において「群馬県渋川ヨリ中之条ヲ経テ長野原ニ至ル鉄道」を掲げており、これが根拠となって長野原線が開通したわけだが、この54号はその後改正を受け、「鉄道敷設法等の一部を改正する法律」(昭和28年法律第147号)において「第54号ノ2・群馬県長野原ヨリ嬬恋附近ニ至ル鉄道」、「鉄道敷設法の一部を改正する法律」(昭和36年法律第142号)において「第54号ノ3・群馬県嬬恋ヨリ長野県豊野ニ至ル鉄道」が追加規定されている。
嬬恋線は、この「第54号ノ2」が根拠となっている。
この嬬恋線の調査線編入は1957(昭和32)年、工事線編入は1959(昭和34)年11月の事であった。
工事は国鉄信濃川工事事務所の手によって1963(昭和38)年8月に開始され、長野原~羽根尾間から着手されたのだが、1964(昭和39)年3月には日本鉄道建設公団に引き継がれ、公団の手によって大前まで開通した。
大前駅の構造には公団建設路線の雰囲気が色濃く出ている。
以下には、地形図と空撮画像の新旧比較図を掲載しておく。それぞれの画像はタップ操作やマウスオーバーで切り替えが可能である。
上記の地形図や空撮画像を見ても分かるように、大前駅は、嬬恋村役場の最寄り駅となるが、鉄道敷設法の改正経緯が暗示するように、元々、この駅を終着駅として路線建設が行われたわけではなく、この先、県境を越えて長野県内まで延伸する予定があった。予定線としては長野市東方の豊野を目指しているが、国会の議事録を調べてみると、これ以外に、渋川から上田を目指す鉄道建設の請願も出されている。
その先への延伸の意図は、大前駅の構造から明らかではあるが、結局、その延伸は行われることなく計画は頓挫した。
以下には、その辺りの概念図を参考に示しておこう。詳細は、資料調査を進めた後に、文献調査記録にまとめる事にする。
「大前」という駅名は地名由来である。その地名の由来に関しての記述を、2つほど、以下に引用する。
出典によって紹介している説が異なるのは、地名に関してはよくあることだ。結局、諸説あって何が正しいのかは分からないという事だが、その諸説を比較検証するのも面白い作業ではある。
なお、嬬恋村の「嬬恋」が「日本武尊」の東征伝説に由来し、鳥居峠で亡き妻弟橘姫を恋しく思ったという故事によるのはよく知られた話である。
さて、大前駅の旅情駅探訪記に戻ることにしよう。
朝の大前駅にやってきた始発列車も115系3両編成だった。地元の利用者の姿は見られなかったが、これが大前駅の日常なのだろうとも思う。
一夜明けたこの日は、一日の晴天を予感させる夏空が広がった。始発列車が到着する時刻では、まだ、日差しも強まってはおらず、高原の駅の爽やかな朝が始まる。しかし、どこからともなくセミが鳴き始め、それとともに、じわじわと気温が上がっていくのを感じた。
周辺集落に足を延ばすことも出来ず、駅の周辺での滞在にとどまったのだが、ホームの外れから西向きに100mほどであっけなく途切れている線路の末端を見ながら、この路線の歴史を思うひと時。
もし、この先の路線が予定通りに延伸していて、信越本線と結ばれていたとしたら、この路線の使命はまた違ったものになったのだろうか。
そんなことを思いながら、出発の時を待つ。
この日はこの後、上越国境を越えて新潟県に入り青海川駅で駅前野宿の予定。日中の上越国境を越える機会は少なく、夕日が望めそうな青海川駅と共に、期待に胸を膨らませながら、駅を後にした。
2022年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
大前駅の再訪は、それから20年余りを隔てた2022年1月の事だった。
2021年から2022年にかけての年末年始は、久しぶりに乗り鉄の旅を楽しんだのだが、その道中で大前駅を訪れ、再び、駅前野宿の一夜を過ごすことができたのだ。
大前駅到着は17時11分。535Mでの訪問だった。
決して遅い時間ではないのだが、1月初頭のこの日は、既に日没時刻を過ぎており、大前駅は既に残照に包まれていた。
この旅では、福知山線で1泊、紀勢本線沿線で2泊してから参宮線経由で名松線に入り1泊。そこから武豊線経由で飯田線に入り沿線で4泊。その後、小海線に入って1泊し、今は亡き碓氷峠越えを偲びながら横川に下って、高崎周りで吾妻線を訪れた。
この日の横軽間のJRバスは軽井沢9時20分発の便で、乗客は僅か数名。横軽間のローカル旅客需要の少なさを垣間見ることになった。鉄道営業当時、横軽間には中間駅もなかったため、JRバスは碓氷峠を通らず、碓氷バイパスで山を下ってしまう。沿線に横軽の遺構を眺めることも出来ず、横川駅まで下って僅かに旧線の跡を車窓に眺めるだけであった。
横川には定刻よりも少し早く9時50分頃に到着。駅から少し離れたバス停に到着した。そこから徒歩3分程度で横川駅に辿り着くと、峠の釜めしの弁当屋などが、朝の支度を始めているところだった。峠越えの鉄道はなくなったが、今も、鉄道によって町が生きながらえている、そんな雰囲気だった。
程なく、高崎からの129M普通列車が到着。9時57分。これが、折返し10時10分発136M高崎行きとなる。
駅の構内で到着列車を待つ。
ドアが開くと一斉に大量の若者が降りてきた。中には小走りで改札を抜けていく者も居る。こんな時間に横川まで大量の若者がやってくるとは予想だにしておらず、最初は状況が呑み込めなかった。
若者たちはいずれも鉄道に興味があるという風ではなく、カップルや数人の集団である。鉄道文化村にやってきたとは到底思えない、そういう若者ばかりだった。
気になって若者たちが向かう先に行ってみると、横軽間のバス乗り場であった。
これで合点。
若者たちは、高崎方面から軽井沢まで遊びに行くのだ。ここでは、そういう旅客需要があるらしい。確かに、高崎から信越本線とJRバスを乗り継いでも片道1時間半程度で、運賃も片道1000円強であるから、週末などにちょっと遠出して遊びに行くという感覚なのだろう。ましてこの時期は冬休み。道理で中高生くらいの若者が多かったわけだ。カップル比率が高かったのも、軽井沢と結びつけて考えれば、容易に理解できる。
それにしても軽井沢からは寥寥たる乗車率のバスだったが、バス乗り場に並ぶ乗客は百人以上で、明らかに1台のバスには乗り切ることができない。積み残しが出るのではないかと思って見ていると、そこはきちんと、2台目のバスが待機しているのであった。
逆方向でよかったと思いながら横川駅に戻り、閑散とした普通列車で一路高崎に向かう。この時、翌日になってこのルートを同じ時間に逆行することになるとは、予想だにしていなかったのだが、その顛末は後ほど示そう。
吾妻線内では、10時44分高崎発の527Mで袋倉着12時36分。半出来温泉で一風呂浴びた後、周辺を軽くハイキングし、14時52分発531Mで万座・鹿沢口14時56分着。そこから折り返し、15時23分発538Mで矢倉着16時7分。駅前散策をして16時30分発535Mに乗車して17時11分、大前着という行程だった。
この旅程は当初予定とは異なるものだったのだが、旅の道中で若干の予定変更を行なって、沿線の下車駅を増やすことにしたのである。結果として大前駅の到着は日没後になってしまったが、翌朝は日の出後の出発になるので、それで良しとした。
到着した大前駅は薄っすらと雪をまとっていた。この年末年始は強烈な寒波の影響で日本海側は大雪が続いていたのだが、関東平野もこの辺りまで来ると、その大雪の影響を感じさせる気象環境となる。そして、この日まで順調に推移していたこの旅も、翌日以降はボロボロになった挙句、中止して帰宅するという結末を迎えるのだが、それは後で述べることにする。
ホームの雪には夥しい足跡が残っている。
これはほぼ全て、この駅を訪れた鉄道ファンの残したものであろう。
この日も、地元の利用者らしい乗客は1~2名の姿を見たのみで、残り、10名ほどの乗客は全て、大前駅を目的にやってきた鉄道ファンだった。
535Mは17時11分に大前駅に到着し、折返し542Mとなって17時32分に大前駅を出発していく。20分強の停車時間。集落まで足を延ばすには時間が足りず、真冬の日没後という事もあり、駅を訪れた鉄道ファンも駅の周辺をブラブラする以外に所在なさげだ。
しかも、冬型が強まってきたこの日、駅の周辺は寒さも厳しく、それに耐えきれず列車内に戻る人の姿も多い。
乗降する地元民の姿は見られなかったが、近所のアパートの父娘が列車見学に訪れており、寒空の下で列車の出発を待っているのが微笑ましかった。
列車は到着後も535Mの表示のままで停車していたが、やがて運転士が反対側の運転席に入って、折返し準備に入った。行先表示は「吾妻線」となっている。渋川までは上越線を走ることもあり、何も考えないで乗り込む乗客の誤乗などがありはしないかと思うが、地元の利用者以外で吾妻線や上越線を長距離利用する乗客は特急や新幹線を利用するのが大半だから、普通列車の運行上は路線名表示でも問題にはならないのだろう。
駅のホームを散策しながら列車の出発を待つ。
駅名標は終着駅のそれである。隣駅は一方のみに表記があり、「万座・鹿沢口」と記されている。
この万座・鹿沢口は、私が子供の頃に見ていた子供向けの鉄道雑学文庫などには、必ず掲載されている駅名だった。曰く、「国鉄の駅名で唯一・を含む駅名」だと。
当時、その意味を十分に理解していたわけではないが、改めて地形図を眺めてみると、万座温泉は嬬恋村の北部・白根山麓にあり、鹿沢温泉は嬬恋村の南西・湯の丸山麓にあるため、この両者は区別する必要があろうし、万座口としても鹿沢口としても、もう一方の温泉地から抗議の声が上がったことだろう。鹿沢口としては大前駅の方がより近接した位置にあるが、交換もできない行き止まりの無人駅では温泉観光地の玄関駅を名乗るには相応しくないということだろうか、駅前にはそういった観光誘致の看板などは一つもない。
以下には、前掲の参考地形図などを再掲しておく。
かつては、この万座・鹿沢口まで特急「白根」が入っていたが、2022年現在、吾妻線内の特急は「草津」と名乗って全列車が長野原草津口止まりとなっており、両駅の明暗は分かれる。車両も様変わりしており、普通列車は115系から211系に、特急列車は185系から651系へと置き換わった。物議をかもした八ッ場ダムの建設によって、日本一短いトンネルとして有名だった樽沢トンネルも廃線となり、吾妻線の印象は変わりつつある。
この日の高崎からの527M普通列車は、長野原草津口12時5分着、12時24分発で、その間に、上野からの特急「草津1号」の接続があったのだが、12時18分に7両ほどの編成で入線した特急からは、全車両満員の乗客が吐き出され、その大半が、駅前から草津温泉行のバスに乗り換えていたのが印象的だった。乗り継ぎ客を待って停車していた527Mに乗り込んだのは、私が気が付いた範囲で10名も居なかった。
この周辺の温泉地では、草津温泉の独り勝ちというところだろうか。
そんな事を考えているうちに、列車側面の行先表示は、新前橋と変わっていた。先ほどまでテールライトを灯していた車両端部は、ヘッドライトで行方を照らしている。542Mへと変身を遂げたようだ。
もう一度、大前踏切の方に行ってみる。
ヘッドライトが灯った車両を真正面から撮影する。
まだ列車が出発することはないと分かっていても、何か落ち着かない心地がする。あまり、この状況で列車を眺める事がないからだろう。
公団建設の幅広のホームに上がると、既に、折返しの鉄道ファンは全員が車内に戻っていた。
私一人がホームに残り、列車の出発を待つ。
このひと時は、駅前野宿ならではのもので、一人残る寂しさもあるものの、後に残る喜びも感じる。車内の乗客はめいめいにスマホをいじったり、時刻表と思しき分厚い本を開いたりしている。今日一日の行程を振り返ったり、帰路の時刻表を確認したりしているのだろう。
程なく、踏切の警報機が作動し遮断機が下りた。出発の時が来たようである。
そして、542Mは出発の笛の音もなく、静かにドアを閉ざし出発していった。後にはテールライトの光陰だけが残った。
列車が走り去ると、出発を見学しに来ていた父娘も踏切に隣接した団地に帰って行って、駅には誰も居なくなった。森閑とした雰囲気の駅に、夜の帳だけが訪れる。先ほどまで微かに残っていた残照は、既に消えていた。
強い冬型の気圧配置の中での旅となった今回、多くの駅で氷点下まで冷え込んだ。一昨日は伊那田島駅、昨日は佐久広瀬駅での駅前野宿だったが、いずれの駅も、比較的標高が高い地点にあり、冷え込みは厳しかった。
この大前駅も、標高は840.4mある。今夜もまた、氷点下の駅前野宿になることだろう。
食事を済ませた後、駅前から橋を渡って吾妻川の対岸まで足を延ばしてみる。
対岸の河岸段丘の登り坂から振り返って遠望すると、駅は暗がりの中に小さく浮かび上がっていたが、橋の照明が手前に連なっていることもあり、明確には駅と分かりにくい状況だった。
程々の時間を見計らって駅に戻る。最終列車は541Mで19時53分着。これが546Mとなって20時11分に出発していけば、それで大前駅の一日は終わる。
駅に戻りホームの上で待っていると踏切が作動し始め、やがて、レールに煌めきを落として普通列車が入線してきた。
静々と入線、停車した列車の扉が開くと、駅入り口に最も近い扉から地元客らしき1名が降り立ち、足早に歩き去って行った。車に乗った様子がない所を見ると、駅に隣接した団地の住民なのかもしれない。
もう1名、駅のホームに降り立った男性が居たが、こちらは、歩き去る様子がなく鉄道ファンと思われた。
多くの鉄道ファンは昼行性で、日が暮れた後のローカル線は、乗客の姿を見かけないことも多い。この列車にしても、結局、大前駅まで乗車してきたのは2名、折返しの普通列車に乗るのは、その内の1名という事になるのだろう。
折返し列車は546Mとなって高崎まで帰っていく。高崎到着は21時55分である。
20分弱の停車時間があるので、もう一度、吾妻川の対岸まで足を延ばして駅の様子を眺めてみた。
今度は、ヘッドライトや車内灯の明るさもあって、駅の存在が浮き彫りになったが、いずれにせよ、1面1線のホームと待合室だけの簡素な構造の駅は、遠くから見ると目立たない。
群馬県統計年鑑の近年のデータによると、大前駅の一日平均乗車人員は50名前後で推移している。
この旅は年始の正月休みでの訪問となったため利用者の姿を見かけなかったが、平素は通勤通学での需要が多少なりともあるという事だろう。
1名の乗客は駅の周辺をブラブラしたり待合室を覗いたりしていたが、やはり寒気に耐えかねたのか、しばらくすると車中に引き上げていた。日没後に旅をする人の中には、駅寝目的の人も居るのだが、近年はそういった旅人の姿を見ることも少なくなったし、たまに見かけるのは同世代という事も多くなった。
出発時刻が近づいた頃、夜警に回る消防車が駅前まで巡回してきた。
一旦、大前踏切を渡り団地の奥に走り去ったが、そこで方向転換したらしく、戻ってくる気配がある。
そして、程なく、踏切の遮断機が下りて、終電の出発の時刻を迎えた。
駅前の団地にどれくらいの住民が居るのかは分からないが、消灯している部屋も多く、それ程、生活の気配は多くなかった。
そんな駅前の踏切を1基の照明が孤独に照らし、遮断機の警報が赤色灯を明滅させる。
程なく、光陰を残して最終列車546Mが高崎へと旅立って行った。
寒さ募る冬の夜、私も駅前野宿の寝床に帰り、駅とともに眠りに就くことにしたいのだが、この夜は少し懸念事項があり、翌日の予定について検討することにした。
懸念事項というのは、この強い冬型の気圧配置による運休である。
明日は、大前駅を出発した後、水上方面に進んで土樽駅、土合駅と順に途中下車してから最終的に長岡方面に抜けて、青海川駅まで進んで駅前野宿を予定している。
しかし、折からの豪雪の影響で、年末以降、上越線は断続的に運休が続いており、翌日に関しても計画運休が発表されていた。
青春18きっぷで旅していた私は、この時、新幹線振替の措置など情報を入手しておらず、上越国境を越えて新潟入りするのは絶望的な状況だった。仮に、新幹線に乗って新潟県内に入ることができたとしても、上越線は水上~長岡間で運休が続き、それが北越急行線にも波及して十日町~越後湯沢間で運休していたため、結局、高崎から長岡までを新幹線で抜けることになりそうだった。それは避けたい選択肢だった。
バスで県境を越えるというのも、追加出費が必要になるために選択肢から外しており、翌日、青海川駅に辿り着くのは困難な情勢だった。唯一可能性があるとすれば、今朝こえてきた横軽を逆戻りし、軽井沢から長野経由で直江津方面に抜けるルートだが、しなの鉄道を経由することになるので追加出費が必要となる上に、こちらも妙高高原~黒姫間で運休の見込みである。長野回りでは、飯山~上越妙高間の一区間を新幹線に乗るという選択肢が辛うじて残ってはいたが、各路線を中途半端に乗り繋ぐ気乗りのしない選択肢だった。
もし、しなの鉄道の区間が信越本線のままでJRの管轄だったとしたら、運休せずにいたかもしれないが、長野県出資の三セク鉄道であるしなの鉄道となった今日、豪雪の県境を越えて隣県の妙高高原駅までの僅かな乗客を運ぶ意思はなく、早々に、長野県内の黒姫までで運転打ち切りの措置が取られていた。
新幹線が開通することで、青春18きっぷの通用範囲は寸断され、使いにくい切符になってしまった。僅かな三セク区間を通過するだけで、18切符の1日分の料金よりも高い金額を払わなければならず、しかも三セク区間は都道府県単位で運行体系が分断されるので、乗り継ぎに不便が生じたり、割高な短距離切符を購入させられることになったりで、ワイド周遊券のような広域のフリー切符が沢山発売されていた頃が懐かしくもあり、恋しくもある。
しかし、そういう利用者は少数派なのだから仕方ない。乗り降り自由な切符を携えて鈍行に揺られる旅は難しくなる一方だ。お金さえ積めば今でもそういう自由気ままな旅は楽しめるが、「お金さえ積めば」というのは切実な問題であるし、そういう金満旅行は旅情の対極にあるようにも思う。そもそも、路線廃止が相次ぐ現状では、どれだけお金を積んでも不可能なことも格段に増えている。
新潟方面に抜けるのが難しければ、予定を変えて飯山線に入り足滝駅で駅前野宿をするか。この駅はいずれ駅前野宿で訪れたいと思っていたが、今回の旅程に組み込むことができず訪問を見合わせていた。予定変更による不幸中の幸いとして、足滝駅を訪れるのも悪くはない。幸い、元々豪雪地帯を行く飯山線は、この豪雪の中でも運休の予定は出ていなかった。
それにしても、延々と今日来た道を引き返すのはつまらない。しかも、今朝、横川駅で見た通りの混雑状況の中で、バスに乗って軽井沢まで戻る必要がある。大きな荷物を背負った私は、恐らく、嫌悪の対象となる。
一層のこと、関東地方に残る未乗線区のうち、両毛線や水戸線に乗車した上で常磐線を北進し、いわきから磐越東線に入って江田駅で駅前野宿するか。
磐越東線は一度乗り通したことがあるだけで、久しく訪れていないし、乗車時の印象も薄い。磐越東線から磐越西線に抜ければ、翌日には青海川駅に至ることができる。
冬型の気圧配置が強まる中で青海川駅を訪れても、日本海に沈む夕日を撮影することができないだろうから、天候の回復を待つ意味でも、磐越方面を回るのも悪くはない。磐越西線は雪に強い路線で、付近の上越線、只見線、米坂線が運休していても、運転を継続していた。
そういったことをあれやこれやと考えつつ、寒さを忘れて検討している間に、気が付けば22時を回っていた。
結局、上越線の運転再開に期待を繋ぎつつ、横軽を逆戻りして長野に向かい、そこで状況に応じて進む先を決めることにした。結論から言うと、この判断は間違っていたのだが、その時は、それを知る由もなかった。
翌朝、大前駅の始発列車は7時23分発526Mである。
しかし、その時刻に合わせて大前駅に到着する旅客列車はなく、朝の始発列車は回送されてくるダイヤだという事が分かる。
時刻表を見ると、長野原草津口、5時22分発520Mと6時4分発522M、万座・鹿沢口、6時48分発524Mも、それに対応する下り列車がない事が分かる。吾妻線の長野原草津口~大前間の下り始発列車は、長野原草津口7時34分発、大前7時54分着の521Mで、この列車は新前橋を6時23分に出発する列車なのである。
この種明かしは、長野原草津口駅にある広い留置線にあり、ここに留置された4本の車両が、それぞれ、朝一で各方面に向かって出発していくのである。
うち、大前に回送されてくるのが1571Mであり、万座・鹿沢口に回送されてくるのが1573Mである。
果たして、大前駅に到着した普通列車は1571Mの列車番号をまとっていた。
列車の到着は6時40分頃で、出発まで40分余りもある。回送列車であるから下車客の姿もなく、運転士一人が無人のホームを行き来しているだけであった。
出発までの待ち時間を利用して、徐々に開けていく駅周辺や待合室の写真を撮影しておくことにした。
氷点下に冷え込む外気の下、駅の待合室にしばらく滞在していると、私自身の体から発せられる水蒸気が窓ガラスなどに氷結して、たちまち、曇ってくる。
駅の待合室は、コンクリート造りの武骨なもので、実用本位の質実剛健な構築物。ベンチは5脚ほど据えられているが、手すりで隔てられたセパレート式のものである。このタイプのベンチは駅寝派にはすこぶる評判が悪いが、逆に、そういう利用者を排除する目的で、こうしたベンチが置かれていることもある。
私自身も駅寝することは多いが、ベンチに寝ることはなく、大抵、床にマットを引いて寝るので、このタイプのベンチに出会っても不満を感じることはない。
駅にはお決まりの駅ノートなども設置されている。
待合室からホームに出ると、寒気が身を切る。
暖房の効いた車中に逃れたい気もしたが、もう少し駅周辺の撮影を続けることにする。
到着した列車に乗り込む乗客の姿は無く、駅周辺に人が現れる気配もない。この駅までは回送列車として送られてきたため、鉄道ファンが乗ってくるという事もなく、大前集落付近で一夜を明かして、始発列車に乗り込もうという熱心なファンも居なかった。
朝から駅のホームをうろついているのは自分一人である。
昨夜から次第に天候は崩れてきており、大前駅にも薄っすらと新雪が積もっている。道祖神も粉砂糖を塗した様に雪化粧していた。
駅の西方、鳥居峠に続く山並みは鈍色の雪雲の下に閉ざされており、国境稜線辺りは雪雲に覆われているのだろうという事が想像される。
駅の東方、関東平野の方向には雲の切れ間も見られるものの、雪雲が頻々と南に千切れて流れ下っており、上越国境の運休は確定的だ。ただ、鉄道の運行情報を見ても、運休情報が上がっていないため、一縷の望みはある。結局、この望みは、この後の旅の間中、裏切られ続けるのだが、兎に角、まだ、運休は確定していないという状況だった。
踏切を渡って停車中の列車を撮影する。
ヘッドライトを灯した列車は、1571Mから546Mへと転身していた。
辺りは少しずつ夜が明けていく。まるで、昨夕からの変化を巻き戻すかのように空の明るみが増していく。夜明け前のこのひと時の凛とした空気感が心地よい。
明るくなった駅前で、集落側の風景を撮影する。
前回訪問時に存在していた嬬恋温泉は跡形もなく消えており跡地は更地になっていた。それでも、かつての源泉は、まだ多少は温泉ガスを噴出しているようで、その辺りを歩くと、微かに硫黄臭が漂っていた。
駅や集落、吾妻川に架かる橋のいずれも、街灯がともっており、夜が明けたとは言え、まだ、辺りは眠りの中に居るかのようだった。
約21年ぶりの訪問となった大前駅は、8月の訪問だった前回とは異なり、冷え込み厳しい冬の表情で旅人を迎えてくれた。次に訪れるのがいつ頃になるかは分からないが、その際には、鉄道が果たせなかった国境越えの区間をちゃり鉄で走り通してみたいと思っている。
さて、この旅のその後を、ここで記録にとどめておこう。
大前駅には関係がない上に、ずらずらと書き綴るだけの記憶なので、読み飛ばしていただいても構わない。
526Mで大前駅を出発した私は、渋川駅に到着する頃には、上越線水上~長岡間の運休の情報をつかんでおり、昨夜の検討の通り、横軽を逆に戻って長野側からアプローチすることにした。心配していた横軽のバスは、案の定、大混雑の状況だったが、若いカップルや仲間連れが多く、私の隣に腰掛ける乗客も居らず空席のまま、積み残した乗客は2台目に誘導されたので、バックパックを膝の上に抱えての峠越えは免れた。
しなの鉄道沿線に入ると平地は晴天。上越線の運休が信じられない天候である。
それでも昨日は真っ白に輝きを放っていた浅間山は裾野を残して雪雲に隠れており、篠ノ井辺りまで北上すると吹雪となった。
長野駅に到着して運行状況を確認すると、しなの鉄道は信越国境で終日運休。
このルートは諦めて、定時運行していた飯山線に入ることにした。上境で途中下車して温泉に入り、その足で足滝駅に向かえば、心地よい駅前野宿となるだろう。雪深い飯山線を旅することができるのも嬉しい。
ところが、戸狩野沢温泉駅に到着する頃には猛吹雪。県境を越えてやってくるはずの折返し列車が、この先で立ち往生していて駅に到着しておらず、その列車に乗車していた僅かな乗客はタクシーの代行輸送で駅まで送られてくるという。駅の職員に尋ねても、運休するとも再開するとも回答がなく、結局、戸狩野沢温泉から引き返す以外に手段はなかった。戸狩野沢温泉駅に到着する際にはそんな放送は全くなく、居るはずの乗り継ぎ列車が居ないことで不審に思い、駅の職員に尋ねて遅延情報を知らされるという有様だった。
ここでどうするか。
青海川に抜けることにこだわるなら、飯山から上越妙高まで新幹線でスキップするという手段がある。幸い、新潟県側の越後トキめき鉄道は定時運行していた。或いは、当初、日程終盤で途中下車の予定だけだった姨捨駅に登り、そこで駅前野宿をするという手段もある。
ただ、姨捨駅に向かうにしても時間が余ってしまう上に、吹雪の中で姨捨駅に向かっても、視界が開けないかもしれない。未乗車の長野電鉄に乗って湯田中を往復してから姨捨に向かう計画も考えたが、判断がつかなかった。
迷った挙句、飯山に到着する直前で新幹線利用を決断し、この日のうちに、当初の予定通り青海川駅まで行くことにした。飯山線から新幹線への乗り継ぎが悪く、青海川駅への到着は20時過ぎになるため、勿論、夕日は望むべくもないが、駅の夜景は撮影できる。
青海川駅も大前駅と同じく、20年余り隔てての再訪だ。
こうして、新潟県まで新幹線で突破した。
国境の豪雪運休区間はトンネルで越えてしまい、上越妙高駅に辿り着くと積雪は僅かだった。その積雪も、トキめき鉄道の普通列車で直江津につく頃には消えており、海岸沿いは無積雪である。
列車の遅れもあって21時前に青海川駅までたどり着いたのだが、積雪はない代わりに運休にならないのが不思議なくらいの強風が吹き荒れ、夜景撮影の長時間露光は悉く失敗した。
特急の通過時間などを推定して、駅を見下ろす高台の途中に陣取って撮影を試みるが、列車は遅れて予想した時刻には駅を通過せず、暴風雪の中で風邪を引きそうになりながら待ち続けて撮影した写真は、大半がブレて使い物にならなかった。
それでも旅を続行するべく、この夜も遅くまで計画を練り直した。越後線や弥彦線を巡ってから飯山線に入る計画、上越国境を越えてから飯山線に入る計画の他、上越国境を諦めて磐越西線や磐越東線に転身する計画も、再度、検討した。
上越線は、翌日から運転再開の見込みと出ている。それに一縷の望みをつなぐ。際どいタイミングだが、この豪雪の中で上越国境を越える旅ができれば、土樽駅、土合駅、湯檜曽駅を訪れることができる絶妙の計画も用意できた。
こうして雪深い上越国境を巡った上で、本日途中撤退した飯山線に、越後川口側からアプローチする計画を練り直し、翌朝を迎える。
幸い、上越線は通常運行のサイン。周辺路線に運休情報は出ていなかった。
この目的のために、昨夜遅くに到着した青海川駅を、夜明け前の始発で出発することした。強風のために撮影もままならず、この日の撮影は諦めることにしたのだが、残り日程の中で日中に再訪し、リベンジを図ることにしたのである。
ところが、早朝の青海川神社を訪れた帰り、持参していたカメラをアスファルトに落としてしまう。幸いにもレンズや本体に明らかな損傷はなくホッとしたのも束の間、駅に戻ってカメラのシャッターを押すと、レンズが認識されないエラーが表示される。エラー内容はレンズ側の故障を示しており、通常、自然回復することはない内部の断線などが原因のエラーだった。予備レンズの持参もなかったため、結局、一眼レフは使い物にならなくなった。
サブカメラも持参していたものの、このカメラは元々露出計の調子が悪かったのに加え、しばらく使わなかった間に状況が悪化して、まともに撮影できる状況ではなかった。残るはスマホのカメラのみ。
この状況で旅を続けるかどうか迷ったのだが、その苦境を報告した知人から「スマホのカメラが使えるなら、それで旅を続けたらいいじゃない」と励まされたこともあって、旅の続行を決意した。
青海川駅を出発して長岡駅に到着しても、上越線の運休情報は入っておらず定時運行とのこと。この時の乗車予定は長岡8時37分発の1728Mで、年末年始のこの時期、この列車は越後湯沢~水上間で延長運転していた。それによって、湯檜曽駅、土樽駅、土合駅という順序で、上越国境の三駅を順番に途中下車で巡る旅が可能になるのである。各駅の乗り継ぎ時間も適度で、この筋を見つけた時、私は一人歓喜した。その列車が、今日は定時運行するという。
これで念願叶い、豪雪の上越国境を旅することができる。
1728Mは定刻に長岡駅を出発した。越後川口に近づく頃にはやはり吹雪になってきたが、それでも運休情報は流れないため、安心して乗車しているうちに越後川口に到着。向かい側には飯山線の普通列車が乗り継ぎ待ちをしていた。1728Mの越後川口発は8時59分。飯山線の普通列車は9時3分発である。
ここで、1728Mに異変が生じる。定刻を過ぎても出発しないのである。そうこうしているうちに、飯山線の普通列車が出発していく。さらに20分程度待ったころ、車内放送が入り、この先で先行列車が立ち往生しているため、この列車も運転を見合わせるというのである。運転再開は未定。立ち往生の影響を受けて折返し方向の列車も運転しておらず、飯山線も9時3分の次は13時10分であった。
こうして越後川口駅から移動する手段が断たれた。
結局、2時間以上待った挙句、1728Mは浦佐まで運転してそこで運転打ち切りするとの車内放送が入る。途中、車掌が車内の乗客に行先を聞いて回っていたが、青春18きっぷで湯檜曽に向かうという私の存在は抹殺されて、何らの措置も取られることはなかった。
同じ車両には、単独男性が3名ほどの他、スノーボードに出掛けるらしい若者の集団が乗り合わせていたが、退屈を持て余した若者たちが、車内や車外で大騒ぎを始める。雪合戦をしたり、ナンパできないと嘆いたり、騒々しい事限りない。
浦佐まで行っても、そこからは新幹線しか使えず、関東方面に抜けても上越線は水上以北で運休するので意味がない。
諦めて飯山線に切り替え、昨日引き返した戸狩野沢温泉まで乗り通した後、足滝駅に戻って駅前野宿する計画に切り替えた。
幸い、飯山線は通常運行しており、戸狩野沢温泉から引き返して上境駅で温泉に立ち寄った後、足滝駅に辿り着いて駅前野宿を行うことができた。
降り立った足滝駅は、思わず声を上げるくらいの美しい風景。
散々な一日だったが、この美しい旅情駅の光景に心も癒され、疲れを忘れることができた。
この夜も改めて計画を練り直し。三度目の正直で、明日、もう一度上越線にトライする計画を立て、その後、青海川から筒石、親不知方面に抜けることとした。この段階で、上越線は始発から通常運転の予定が発表されていたのだ。
翌朝は、上越線トライのため、5時台の始発で足滝駅を出発する。足滝駅も明るい時間帯を見ないままの出発となった。
日程的に、これが最後のチャンスだった。幸い、JRのWebサイトでは始発から通常運転とのアナウンスが出ている。しかし、越後川口駅に到着する頃には、午前中運休の表示に切り替わってしまい、これで、予定は台無しになった。
潔く諦めて宮内駅まで進み、ここから青海川方面への普通列車を待つために途中下車する。そして、駅の撮影を行うために改札を出ようとして、切符が無くなっていることに気が付いた。
探し回ったものの切符は見つからない。
昨夜、足滝駅に降り立つ時には切符を見せて下車しているから、落としたとしたら足滝駅周辺という事になる。足滝駅から宮内駅に至る車中では、切符は一切触っていなかった。
これで、青海川方面に抜ける計画もダメになり、2時間ほどかけてやってきた道のりを、そのまま逆戻りすることになった。
駅員に相談したところ運賃等の支払いについては、列車の運転士に相談してくれと言うよく分からない回答。
結局、そのまま足滝駅まで引き返し、車内で運転士に相談の上、停車時間中にホームの待合室を確認させてもらうことにした。
足滝駅では、付近の集落まで足を延ばして写真撮影を行っており、その際、切符をポケットにしまっていた記憶があるので、最悪、駅の外で切符を落とした可能性もあるのだが、滞在時間の長さから考えると、待合室に落としてきたこともあり得る。
それで足滝駅の停車中に待合室を確認する時間を取ってもらえれば、切符を回収できる可能性があったのだ。
しかし、待合室に切符は落ちていなかった。
運転士は、「残りの通用期間があるなら、運賃はいらないからここで降りてもいいですよ」と仰ったが、私は、旅を断念することにした。駅から集落まで探しに行ったとしても、見つからない可能性も高いし、見つかったとしても、次の列車は4時間後で、この日は、殆ど行動できなくなっていた。
トラブルはまだ終わらず、この列車が戸狩野沢温泉に到着すると、その先で除雪支障があり、運転取り止めが告げられる。辺りは、嘘のような快晴である。
長野行きの普通列車だったにもかかわらず、戸狩野沢温泉で運転打ち切りとなり、長野方面の乗客はタクシー代行運転に切り替えられた。
このタクシーはJRが用意したタクシーで、長野駅まで向かうのかと思いきや、豊野駅で下ろされた。運転士は、「ここから先はしなの鉄道に乗ってください」と言い、長野まで行かないのかと詰め寄る同乗者に対しては、「それはJRに聞いてください」と言うだけだった。
こうして、長野に辿り着いた私は、駅で事情を話し、長野から自宅までの乗車券、特急券などを買い直して、残り2日間の予定を切り上げてこの日のうちに帰宅することにした。さすがに、その帰路で途中下車の駅前野宿をするだけの気力は残っていなかった。
この帰宅翌日、上越線やしなの鉄道沿線は、全線で始発から通常運転していた。
2021年は5月に転職したこともあり、ガソリンバーナーの不具合で中止したちゃり鉄15号の旅以来、半年ぶりの旅だったのだが、前回にも増して酷い状況の中で、再び、旅を中止することになった。
そんな苦い思い出ではあるが、こうして振り返ってみると、面白い旅の記憶ではある。
ただ、もう一度同じ体験をするのは、御免こうむりたい。