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銀山駅:旅情駅探訪記
2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
「銀山」と言えば?という問いに、人が思い浮かべる答えは何処だろうか。
「生野銀山」、「石見銀山」、「銀山温泉」…。
恐らく、この辺りだろうか。
「銀山温泉」は温泉の方が有名だが、ここも銀鉱山の「延沢銀山」に関連する温泉だ。写真で見る温泉街の雰囲気は情緒があり、私も訪れてみたい温泉地の一つである。
ところで、私自身は「銀山」という地名から駅を思い浮かべる。
JR北海道函館本線の「銀山駅」である。
その名が暗示するように、この駅も銀鉱山に関連しているのだが、それについては、文献調査なども含めて後々述べることにしよう。
2001年8月。
学生時代最後の長旅で、道内の多くの駅で駅前野宿の一夜を過ごすことが出来たのだが、この銀山駅でも、念願の駅前野宿を行うことが出来た。これがこの駅での初めての途中下車でもあった。
集落を見下ろす高台に位置する銀山駅に降り立つと、辺りは既に暮色に包まれており、雨交じりの日暮れは印象的な青い大気に包まれていた。
この旅では、地元京都から青春18きっぷを駆使して鈍行を乗り継ぎ、3泊4日かけて北海道入りした。北海道を目的地とする旅人のほとんどが航空機を使う今日、数日かけて北海道入りする旅は酔狂に思われるかもしれないが、私にとっては、むしろ、旅情あふれる贅沢なひと時に感じられる。
道内に入ってからも、今は亡き姫川駅で一夜を過ごしてから、ようやく、銀山駅に到着した。
合計、4泊5日。銀山駅は、旅の5泊目の野宿地だった。
ニセコ側から山を越えて辿り着いた高原の旅情駅には、他に人の姿もなく、雨に濡れたホームやレールが駅の照明に照らされて、侘しくも美しい情景が広がっている。
駅は無人化されて久しいものの、駅間距離の長い区間でもあり、相対式2面2線の駅構造は残されている。上下ホームを結ぶ構内踏切も現役だ。
駅前野宿の支度を済ませた後、非対称屋根を持つ瀟洒な銀山駅舎を眺めつつ、駅構内をブラブラと散歩する。
青い大気に包まれたひと時は、朝夕の一日二回、訪れることが多い。
いずれも、20~30分のうちに劇的に変化を遂げ、夕方ならとっぷりと暮れていき、朝方なら日の出を迎える。
光学的な観点からこの二つの時間帯を捉えるなら、変化のベクトルが逆向きなだけで他に物理的な差異は無いようにも思えるが、心理的な観点も踏まえた情景として捉えると、両者はそれぞれに異なった印象をもたらすことになる。
つまり、夕方のそれは懐かしい郷愁感を帯びており、朝方のそれは凛とした緊張感を帯びているように感じるのである。
ただ、そのような感じ方の違いはあれども、それぞれに印象深く、駅前野宿で出会うことが出来る最良のひと時であることは共通している。
然別方の駅の外れまで行くと、線路の向こうに踏み跡が見えた。
山に続く踏み跡の先に何かあるのかと気になり、その踏み跡に向かってみたが、どうやら獣道だったらしく、幾らも進まないうちに藪の中に消えていた。
こちら側から駅を眺めると、眼下に広がる赤井川カルデラの風景が美しい。点在する集落の灯が、暮れ行く空の下に瞬いていた。
構内に戻り駅名標などを撮影した後、列車発着の間合い時間を利用して夕食を済ませることにする。
夕食と言っても、バックパッキングの旅では携行できる装備や食材に限りがあり、オートキャンプのようにテーブルや椅子を持ち出しての優雅なディナーという訳にはいかない。せいぜい、アウトドア用のガスストーブでインスタントラーメンを茹でるぐらいだ。
その為、夕食の時間も30分程度で片付けまで終わってしまう。
コンビニ弁当で済ませるならもっと短縮できようが、野宿の夜にコンビニ弁当というのは侘しさ極まるし、都合よくコンビニで弁当が買えるとは限らない。
野宿地に選ぶ駅周辺にコンビニがあることは滅多にないし、商店はおろか、民家すらないことも少なくはない。そうなると、ある程度の食料や水を携行することになるのだが、こうなってくると登山と同様で、インスタント食品やフリーズドライ食品を用いることが多くなる。生ものは水分で重くなるし、携行中に痛んでしまう懸念がある。
たまに直前の駅で弁当などを仕入れて夕食とすることもあるのだが、その場合、食べ終わった後のごみの処理が面倒だし、冷えた弁当を食べるより、温かいラーメンを食べる方が、気持ちが満たされる。
夕食を済ませて辺りを見回すと、ほんの30分程度の事ではあったが、既に、先ほどまでの暮色は消えて、すっかり暗くなっていた。
時刻は20時前。
この時刻の銀山駅は、小樽方面から倶知安方面に向かう通勤通学利用者の動線に位置しており、4両編成の列車が発着する時間もあった。
車内は程々の乗車率で各車両ごとに乗客の姿が見られる。
銀山駅でも数名の下車があり、それぞれに迎えの車に乗り込むなどして駅を後にしていた。
国土交通省が公開している国土数値情報のデータによると、銀山駅における近年の日平均利用者数は50名~70名前後で推移しており、ローカル区間の路線としては比較的利用者が多い。
しかし、21時を過ぎると列車の編成も2両程度になり、乗客の数も僅かになった。
当時の列車ダイヤの記録は残していなかったが、峠を越えて行く最終列車を見送ったのち、私も駅前野宿の寝床に就くことにした。
雨がちだったこの日、終夜小雨が降り続いていたと思うが、その記憶はない。
さて、ここで銀山駅にまつわる歴史について、触れておくことにしたい。
駅の開業は1905年1月29日で、当時の北海道鉄道の駅として開業した。北海道鉄道の開業は函館側の函館(旧駅)~本郷((現)新函館北斗)、小樽側の然別~蘭島間で同時に行われており、1902年12月10日の事である。
その後、それぞれに部分的な延伸を繰り返しつつ、歌棄((現)熱郛)~小沢間が1904年10月15日に開通したことをもって、函館~小樽間が全通している。北海道鉄道のこの区間は、両端駅名を採って函樽鉄道と呼ばれたりもする。
現在の函館本線は函館~旭川間の路線であるが、小樽~旭川間は官営の幌内鉄道に起源をもつ別の系統の路線として建設されており、いずれもが1907年7月1日に国有化された後、1909年10月12日に函館本線として統合・整理された。
さて、北海道鉄道における銀山駅を含む区間の開業は、この間、1904年7月18日の事で、駅の開業よりも半年弱前の事である。
この時は小沢~山道間の開通であった。山道駅は然別~銀山間に設けられていた駅で、稲穂峠越えの工事用資材の荷受場として、1903年6月28日から1904年7月18日までの1年余りの短期間だけ設けられていた。
現在はその付近で函館本線と国道5号線がクロスしており、国道には「上山道跨線橋」が架橋されているが、100年以上前の仮設駅であるから痕跡は残っていない。
北海道鉄道全線の工事の中で、銀山駅付近を含む倶知安~然別間の第5工区は、倶知安隧道、稲穂隧道の掘削工事を含む難工事の区間であった。
この辺りの建設史の詳細は、文献調査記録としてまとめる事にしたいが、ここでは、簡単に書籍を引用しておこう。以下に示すのは、「日本鉄道請負業史 明治編(鉄道建設業協会・1967年12月)」に掲載された工事概要の抜粋である。この山道駅の性質がよく分かる。
ところで、この「山道」だが、「やまみち」ではなく「さんどう」で、地区の名称である。
現在の国土地理院地形図にはこの名称は出ていないが、旧版地形図には掲載されていたので、以下に掲げておく。この旧版地形図は2022年6月現在の地形図との重ね合わせ画像になっているので、マウスオーバーやタップ操作で切り替えが可能である。
旧版地形図の図幅の上端付近に「上山道」の地名があり、「サンダウ」のルビが振られているのが分かるだろう。丁度、この「道」の字の辺りに山道駅が設けられていたようだ。旧版地形図にはその辺りに建物記号も記されている。
この図幅の測図は大正6年。即ち1917年のことであるから、1904年に廃止された駅周辺施設や民家の情報が残っていたとしてもおかしくはないが、発行自体は1947年と40年以上後のことになるので、この記号がいつ頃のどういった情報を反映したものなのかは分からない。
現在版の地形図を見ても、既に建物記号は消えており、付近には樹林記号が記されているだけだ。
さて、地区の名称に話題が転じたところで、冒頭でも触れていた駅名の由来についてまとめていくことにしよう。
まずは、書籍の引用を以下に掲げる。いくつかの駅名関連書籍を確認してみたが、記述は大同小異だったので、原典とも言えそうな書籍の記述を引用することにした。
ここに、石見銀山、生野銀山、延沢銀山と同様に、銀を産出したルベシベ鉱山が登場する。
先の旧版地形図では「上山道」地区の西南西に谷を刻む小渓が記されており、「ルベシベ」の地名が記されている。現代版の地形図で対比すると、この小渓には「ルベシベ川」の名があり、「ルベシベ鉱山」はこの小渓の流域にあったことが窺い知れる。この「ルベシベ鉱山」については、後ほど触れることにする。
銀山駅の現在の所在地は北海道余市郡仁木町銀山。駅設置当時の官報に記載された地名では北海道余市郡大江村であった。大字については官報の記述からは判明しなかった。
私自身は、駅名の由来は駅周辺の地名に由来し、その地名はルベシベ鉱山に由来するということではなかろうかと推測した。即ち、当時の駅所在地の字名が、北海道余市郡大江村大字銀山だったのではなかろうか、と推測したのである。
この辺りをさらに掘り下げるために「角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻(角川書店・1987年10月8日)(以下、「角川地名辞典」と略記)」を参照してみたところ、「銀山」に関しては詳しい記述があった。以下に、抜粋しながら引用する。
この記述によると、先の私の推測通りではなく、先に駅名が決定され、それに従って、駅を中心とした集落に銀山という字名が付いたように見受けられる。しかも、正式な字名として現れるのは、昭和48年という事になる。北海道余市郡大江村だった当時の周辺地域の大字は引用に挙がっている馬群別だったということになりそうだ。
何故なら、実際、先に掲げた旧版地形図には、銀山の字名の表示はなく、近接する地名は馬群別となっているからである。
その辺りの記述を更に角川地名辞典で追ってみる。以下に引用するのは、「銀山」の項目中にある、銀山小学校の来歴に関する記述である。
小学校の校名というのは字名を映し出す鏡だが、これによると、設立から昭和22年に至るまで、現在の銀山小学校は馬群別という校名だったことが分かる。
仁木町のWebサイトに掲載されている「仁木町の歴史(明治・大正)」では、「明治34年銀山小学校開校」とあるので、あたかもその頃から、銀山の地名が周辺に存在したかのように見受けられるが、同じ仁木町のWebサイト内ある「仁木町立銀山小学校」の「沿革」では、「明治34年私立教育所として設立」とあり、角川地名辞典の記述と類似する。なお、同沿革によると、「昭和19年 馬群別・長沢・尾根内の3校を廃止し、「銀山国民学校」を新設」とあり、この時初めて、小学校名に「銀山」が登場した。
更なる詳細を調査するため、私は「仁木町史(仁木町・1968年)(以下、「町史」と略記)」を入手した。その調査記録は文献調査記録にまとめる事にするが、ここでも、概略に触れておこう。
これによると、開拓当時の地名としてはやはり「銀山」ではなく「馬群別」の名が挙げられており、「大字大江村字馬群別」と表現されている。これ以外には「大字仁木村」、「大字大江村」、「大字山道村字然別」、「大字山道村字砥の川」、「大字山道村字上山道」、「大字大江村字尾根内」、「大字大江村字長沢」が挙げられているが、「字銀山」はない。
この馬群別の一地区として「銀山」の名前が登場してくる経緯を「町史」から追ってみた。
まずは郵便局の局名に関する記載が登場する。馬群別には「馬群別局」が在って1904(明治37)年3月25日から業務を開始したことが記されているのだが、これが「銀山局」と改称されたのは1935(昭和10)年と記されている。以下に示すのは「町史」に掲載された旧銀山局の写真である。
引用図:旧銀山局「仁木町史(仁木町・1968年)」
次に、小学校の校名だが、これは時系列に沿って、複数の個所で述べられている。以下に、それらを整理しつつ引用するとともに、同書所収の馬群別小学校の写真を引用掲載しよう。
引用図:馬群別小学校「仁木町史(仁木町・1968年)」
「町史」の記述はかなり具体的であるが、ここでは、一部の引用に留めておくことにしよう。
続いて「市街地が出来る」の項の中で「仁木市街」の記述に続いて、「銀山市街」に関する記述がある。以下にそれを引用する。
この記述からも分かるように、「銀山」の地名は駅の設置が先にあり、それによって生まれた市街地が駅名を冠した部落名を名乗ることによって生じたものなのであった。
未開の地に開拓の槌音が響き、鉱山が開かれ道路が開削されるとともに、鉄道が開通し駅が設けられた。その駅から、鉱山で産出された鉱石が積み出されていく。
それは、夢を抱いてこの地に入植した人々にとって、希望の象徴でもあっただろう。
この地には銀の出る山がある。その銀は駅から積み出されていく。
その希望と期待が「銀山」という駅名に託され、人々が集まり、「銀山」の集落が生まれたのである。
1973(昭和48)年に至って、「銀山」が正式に町名となった経緯が、1968(昭和43)年発行の「町史」には記載がなかったのは残念である。
ところで、「馬群別」の地名が銀鉱山に関係するのかというと、実はそうではない。これについては、以下のような記述がある。
アイヌの人々は、鉱山開発や鉱石精錬の知識や技術は持たず、狩猟採集生活の民であったから、その彼らが名付けた地名に「鉱山」は現れない。彼らにとっては、重要な食料であったサケをはじめとする魚が多く獲れることの方が圧倒的に重要であり、それを地名に表した。
そうすると、「「ルベシベ」も「鉱山」には関係ないのではないか?」、という推測が出来るが、これは実際その通りである。
鉄道関係に登場する「ルベシベ」と言えば石北本線にある「留辺蘂」が有名で、これは鉄道関係のみならず、道内に各地存在する「ルベシベ」の親玉ともいえる街である。
この「ルベシベ」。その意味するところについては、幾つかの解釈があるが、「角川地名辞典」には、アイヌ語の「ルペシュペ」に由来し、「山越えの道」といった意味があるとの説が載っている。
そう思って見ると、「留辺蘂」は石北峠や常紋峠の麓にあるし、ここ銀山の「ルベシベ」は稲穂峠の麓にあり、元々、然別と岩内とを結ぶ交易路にあたっていた。
ここで「稲穂峠」という地名が出てきたが、道内には「稲穂峠」を名乗る峠が複数存在する。「ルベシベ」に関連するものとして、この「稲穂峠」の名前の由来にも触れておこう。
以下に示すのは、「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1986年10月31日)」に掲載された「稲穂峠」の解説である。
私は、「稲穂峠」という地名は、アイヌ語由来ではなく開拓民による和製地名だと思っていたのだが、それにしても、開拓当時の北海道で稲作は行われておらず、尚且つ、峠という稲作には適さない場所に「稲穂」という名前が与えられる理由が分からなかった。
しかし、「稲穂」が「イナウ(木幣)」というアイヌ語由来で、それを見聞した和人が、「イナウ」~「イナホ」~「稲穂」と連想するなり伝聞するなりして地名に定着したとすれば、それは尤もらしい。
ここまで、「銀山」の地名の由来は、アイヌ語の元々の地名とは関係がない事を確認してきた。そして、「ルベシベ鉱山」で多くの銀を産出したことや、駅からその銀鉱石を積みだしたことが由来であるという事を確認してきた。
最後に、そのルベシベ鉱山をはじめとする周辺鉱山について、簡単にまとめておこう。詳細は、文献調査で述べることにする。
まずは、「後志國銀山地方鑛山分布圖(鑛物調査概報・農商務省地質調査所・1911年1月)」という図面を引用する。
引用図:後志國銀山地方鑛山分布圖
「鑛物調査概報(農商務省地質調査所・1911年1月)」
縮尺の関係で見にくいが、図幅の中心辺りに「ルベシベ鉱山」の表示があり、その少し下に「銀山停車場」とある。
この図が、「銀山地方鑛山分布圖」と銘打たれていることが象徴するように、銀山駅は、赤井川カルデラに点在した鉱山の中心的存在であった。
以下には、銀山地方の鉱山に関する記述の冒頭部分を引用するが、この文章にもそれが表れている。
さて、ここに述べられた銀山地方は、先の地図が示すように余市川流域であり、赤井川カルデラの一部でもある。鉱山が点在する事と、ここがカルデラの一部である事とは、勿論、密接に結びついているだろう。
そして、余市川の流域には下流から、「然別鑛山」、「ルベシベ鑛山」、「後志鑛山」、「轟鑛山」の名前がある。更には、銀山駅から稲穂峠を越えた先の岩内郡は堀株川流域で、そこに「國富鑛山」がある。
このうち、銀山駅に特に関連があるのは、「ルベシベ鑛山」、「轟鑛山」、「國富鑛山」であった。具体的には、ルベシベ鉱山や轟鉱山で産出した鉱石を、銀山駅から鉄道で国富鉱山に送り、そこで製品に精錬したのである。
ただし、この図面をよく見ると、上に掲げた鉱山のうち、然別、後志、轟の三鉱山は、「金鑛・銀鑛」を産出する「営業鑛山」の表示であり、国富鉱山は、「金鑛・銀鑛・銅鑛」を産出する「営業鑛山」となっているのに対し、ルベシベ鉱山は、「銅鑛」を産出する「試掘鑛山」の表示になっている。
駅名の由来には「ルベシベ鉱山から多くの銀を産出した」とあるが、実際のところ、ルベシベ鉱山は黄銅鉱の産出を中心とした小鉱山で、銀の産出量は多くはなかった。
その辺りの詳細は文献調査にまとめるとして、ここでは、多少の引用をするにとどめる。
以下に示すのは、「鉱物調査報告 第6号(商工省地質調査所・1925年)」に記されたルベシベ鉱山の概要からの抜粋引用である。
記述は一部の抜粋ではあるが、この「ルベシベ鉱山」が「国富鉱山」の系列にあり、試掘レベルにあったことや、川上坑や川下坑で極僅かな銀の産出があったことが窺い知れる。
ここでは省略したが、この報告の中では、他に、「ルベシベ坑・源坑・常盤坑・瀧ノ下坑・瀧ノ上坑」それぞれの報告も含まれているが、銀を産出するのは「ルベシベ抗」のみであり、その百分率は川上坑よりも一桁少ないものであった。
だが、その産出量が少なかったとしても、銀を産出する山が近くにあり、それが地元の国鉄駅から積み出されていることは、地域の住民にとって、誇りでもあり希望でもあっただろう。「銀山」の駅名・地名には、そういった思いが詰まっているように感じるのである。
ここまで寄り道をしてきたが、最後に、「鉱物調査報告. 第6号 附録図(地質調査所・商工省・1925年)」に収録されている「ルベシベ鉱山地質図」を以下に引用しておこう。
この図中、鉄道を越えて西にルベシベ川を遡行していくと途中で南西と西の二股に出る。その内、南西の沢を登ったところに川上・川下のニ坑があり、それ以外は西の沢を登ったところにあった。下流側からルベシベ坑、常盤・源坑、瀧ノ下・瀧ノ上坑であった。
銀山駅の歴史を語る上で欠かせない「ルベシベ鉱山」であるが、私はまだ、その遺構を探索してはいない。これは、今後の調査課題である。
引用図:ルベシベ鉱山地質図
「鉱物調査報告. 第6号 附録図(地質調査所・商工省・1925年)」
さて、旅の朝に戻ることにしよう。
一夜が明けてみると、銀山駅は小降りになったとは言え、昨夜と変わら小雨・曇天模様。
それでも夜明け前の駅は一瞬だけ青白い空気に包まれ、昨夜来のフィルムを巻き戻すかのような表情を見せてくれた。
やがて、夜が完全に明けきる頃には照明も消え、駅には朝が訪れる。
この日は、函館本線を更に進み一気に宗谷本線まで足を延ばす。
やがてキハ150系気動車が到着した。この列車で出発するのだが、列車はここで行き違いをするダイヤ。出発には余裕があることを把握していたので、列車と駅舎を絡めた写真を撮影してから、車中の人となった。
この頃、函館本線そのものの部分廃止など、夢想だにしなかった。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
銀山駅の再訪は、前回の訪問から15年近く経った2016年1月のことだった。
社会人となって直ぐに北海道に赴任し、道東の釧路で4年近く生活したが、その後、転勤によって離道して以来、北海道はご無沙汰だった。冬の北海道で生活した期間もあったとは言え、真冬の北海道の旅ともなると、1998年以来、約18年ぶりのことであった。
転職を控えて取得した長期休暇を利用し、3週間程度の日程で訪れた北海道は、往路の東北北部から既に吹雪に見舞われており、岩手県内では着雪による踏切支障で普通列車の遅延が相次いだ。
この旅では、道内入りをするのに、今は亡き座席の夜行列車を活用した。関西から関東へは「ムーンライトながら」、青森から札幌へは「はまなす」という乗り継ぎだった。幸い、これらの夜行列車に乗り遅れたり、遅延が発生したりすることはなかったが、この年の春で廃止が決定していた「はまなす」は、B寝台やカーペット席が発売開始と同時に売り切れてしまって確保できず、吹雪のホームに数時間前から並んで確保した自由席は、立ち席も出る超満員の状況だった。しかも、その乗客には鉄道ファンだけではなく、アジア系の観光客が非常に多かった。私の座った自由席のボックスも、ぐるりとアジア系のグループが占領し、深夜まで騒々しくて寝苦しい一夜となった。
札幌に到着した後の道内初日は、留萌本線に入り増毛駅付近で野宿の予定だったが、この日発生した函館本線納内~伊納間の嵐山トンネルの火災と、道内全域の吹雪とにより、留萌本線や函館本線の深川~旭川間は運休。滝川まで進んだところで進退窮まったが、幸い根室本線は通常運行していたので、道内を時計回りに巡る予定を大幅に変更して、根室本線側から反時計回りに旅をすることにした。
そんな道中で銀山駅を訪れたのは旅も終盤に入ってから。
銀山駅での野宿に続いて、小幌駅、姫川駅で野宿した後、苫小牧東港から離道する予定で、道内滞在も残り、3泊4日となっていた。
この日は、前夜を過ごした札沼線の豊ヶ岡駅から札幌に出て、千歳線の植苗駅、美々駅を訪れた後、小樽側から銀山駅に辿り着いたのだった。札沼線を抜けるのが昼過ぎということもあり、日の短いこの時期、19時20分過ぎに到着した銀山駅は、既に、とっぷりと暮れていた。
小樽~長万部間の函館本線は、支線が分岐し優等列車がが駆け抜けた時代も遠ざかり、純然たるローカル線となっているが、それでも小樽~倶知安間はそれなりの旅客需要がある。この時も、車内には少なからぬ数の乗客の姿があった。
銀山駅で降り立ったのは、私を含めて数名。
意外に感じたが、銀山駅は山麓の集落や赤井川方面の集落の利用者が多い駅でもある。とは言え、皆、早々に迎えの車に乗り込んで、あっという間に立ち去って行く。峠を越える普通列車を見送ると、いつものことながら、駅には自分一人がポツンと取り残されるのだが、この日は、もう一名、バックパックを担いだ男性の姿があった。その足元は素足にサンダル履きだった。
待合室に入って荷物を降ろした後、件の男性も待合室に入ってくるだろうと思いきや、一向にその気配はなく、驚いたことに待合室の作業スペースの方に人の気配があった。駅舎の隣には軽自動車も停まっていたし、どうやら、除雪作業員が詰めているようだった。
この旅では、数日前に豊清水駅でも同じように除雪作業員が宿泊勤務に当たっているのに遭遇した。その時は、20時過ぎになって最終の普通列車で駅に降り立ったのだが、入れ違いで鉄道ファンらしき男性が列車に乗車してきた。軽装だったので同じ野宿の旅人でないことは明らかだったが、驚かされたものだ。勿論、この季節、この時刻の豊清水駅に、最終列車から降り立つ乗客が居るという事の方が驚愕に値することで、私自身は運転士から「大丈夫ですか?」と声を掛けられた。
待合室には大型の除雪機が置かれ、駅の周辺は雪に閉ざされている中、普段は無人のはずの作業員控室の方から談笑する声がする。どうやら、行き違い施設のある豊清水駅では、ポイント保守の為に除雪作業員が当直勤務に当たっているようだった。この冬、道内の多くの駅で除雪作業員募集のチラシを見かけたが、そうした人々が、勤務に当たっているのであろう。
駅前野宿をするにしても駅寝をするにしても、除雪作業に差し障りがあってはいけないので、一言断りを入れようと控室のドアをノックしてみるのだが、話し声が止んで様子を伺う気配がするだけで応対してはもらえなかった。
二度ほど同じことを繰り返したものの応対は無く、そんな雰囲気の中で野宿をする気も失った。確かに、最終が出た後の真冬の無人境の駅に、訳の分からない人間が居て話しかけてくるのである。幽霊と思うことはないにせよ、厄介を持ち込まれたくない心理から、無視しようとするのも理解はできる。まして、彼らは駅係員でもない。旅客に応対するのは彼らの仕事ではない。
結局、21時を回ったところではあったが、隣の天塩川温泉駅まで移動することにした。
駅間距離の長い宗谷本線にあって、天塩川温泉駅と豊清水駅との間は3.6㎞しかない。車道は迂回しているので5㎞程度あるが、それでも1時間前後で到着できるだろう。気乗りのしない移動ではあるが、是非に及ばず。意を決して吹雪の中を歩きだした。
途中、国道をトボトボと歩いていると、数台の車とすれ違った。いずれの車も、私の傍で減速していく。中には、反対車線で停車した車もあった。内心、声を掛けてくれるのか?と期待したが、そんなことはなかった。
吹雪の深夜に、民家のない地帯を、黒い影が蠢いているのである。ヒグマが出る季節ではないにせよ、見通しの悪い車からは、得体の知れない獣に見えたのだろう。
結局1時間余りを要して、天塩川温泉駅に到着した。暗闇の彼方に駅の照明が見えた時の安堵感。畳敷きのスペースがある天塩川温泉駅の待合室に入った時の安らいだ気持ちは、今でも忘れられない。
そんなことが数日前にあったので、ここでも最悪、移動が必要になるかもしれないと思いながら、詰め所の方に声を掛けると、この日は温かく迎え入れてくれた。
待合室の中で寝たらいいこと、始発前の明け方に作業を始めるが気にしないで寝ていたらいいことなどを伝え聞き、その後、待合室で野宿の支度をしていると、寒いだろうからと、温かい飲み物まで差し入れていただいた。
その行為に恐縮するとともに、こうした厳しい環境で業務に携わる人々のお陰で、鉄道が維持されていることに感謝の念を抱く。勿論、そこには人件費というコストがかかり、それ故に、JR北海道の経営は大変厳しい。赤字削減の至上命題を達成するために、駅や路線の廃止を求める声も強い。
だが、そういう人々には、一度でもいいから、こうした除雪作業に従事して欲しいと思う。現にこうした厳しい労働に携わる多くの人々、僅かとは言え駅を利用する人々を前に、面と向かって同じことを言えるのか。もしかしたら、違う考え方も出てくるのではなかろうか。
ひと段落着いたところで、駅構内を散策することにした。
今夜は駅寝することにしたと言っても、最終列車が出るまでは待合室で寝るわけにはいかないし、旅情駅で過ごす一夜は寝不足になるほど、気持ちが高揚するものでもある。それに、この日は、もう一名、野宿をしそうな人物の姿があった。それも気になる。
ホームに出て辺りを見回してみたが、先ほどの男性の姿は見えない。もしかしたら、付近の住民だったのかもしれないが、それにしても、地元民がこの季節に素足で歩くとも思えないし、背負っているバックパックからは住民とも思えなかった。時折、そういう風変わりな人物を見かけることがある。
駅は相対式2面2線構造を持っており、行き違い可能な構造であるため、照明の数も多く明るい。
集落の最高地点に鎮座する銀山駅の構内に立つと、同じ平面上に民家は存在せず、宵闇に包まれていたのだが、この時は、機械室に明かりが灯っていて、遠目には駅の執務室のようにも見えた。有人時代の銀山駅は、木造駅舎の窓から執務室の明かりが漏れる、温かみのある情景だったのではないだろうか。
駅の西側は稲穂山稜の山肌が迫っていて、その山体が黒い影を落としているだけだが、駅の東側は足元に銀山の集落を見下ろし、遠くには赤井川へと続く街灯りが雪の中で明滅していた。
駅の上り線ホームの谷側には作業路があり、然別方にある分岐ポイントまでが除雪されていた。駅に詰めている除雪作業員は、ホームや駅舎周辺の除雪作業の他、このポイントの保守をするのが重要な務めである。
鉄道は一般的に雪に強く、レールが全く見えないような状況でも脱線することなく走るのを見ると驚かされるのだが、ポイント部分はアキレス腱となっており、雪氷が詰まってポイントが切り替わらなくなる故障が発生することがある。
今日では、こうしたポイントの切り替え制御も全自動化されているとは言え、降雪地帯のポイントの保守作業は自動化されることなく、今でも、人の手によって行われている。それは危険な重労働であり、人知れぬ孤独な作業でもあろう。
旅人は雪の鉄道風景に旅情を感じるが、その根底で感謝の念を忘れないようにしたいと思う。
再び駅の構内に戻り、到着列車を待ちながら駅の姿を写真に収める。
ホームには自分の足跡だけが刻まれて、それが、降りしきる雪に覆われて次第に不明瞭になっていく。
構内踏切の部分に立って見渡せば、夜の帳に包まれた旅情駅を風鳴りが包み、雪だけが舞っていた。
しばらくすると、駅に人の姿が現れた。先ほどから姿が見えなかった男性ではなく、別の男性だったが、車などではなく徒歩で駅までやってきたようだ。ヘッドホンで両耳を塞ぎながら、ポケットに手を突っ込んで猫背気味に歩く姿や、下りホームの中ほどで座り込む姿から、若者のようにも思えた。
意外な事に驚きもしたが、こうして利用者が居るという事は、駅にとっては好ましいことでもある。
程なく、何処にいたのか件の男性も現れた。相変わらず素足にサンダルの姿で、雪の降りしきる中をやはり下りホームに向かって行く。上着も半纏のようなもので、バックパックに見えたのは、大きな背負い袋といった感じのものだった。
この時刻の旅情駅にバックパッカーが現れると、反射的に野宿者と判断してしまうのだが、実際には、その次の列車などで立ち去ってしまう人が殆どだ。単に駅に立ち寄りたかっただけなのかもしれないし、私の姿を見て野宿を諦め立ち去ったのかもしれない。
件の男性の姿を見ても、真冬の北海道で野宿する装備ではなかったので、駅を訪れたかっただけのように思えた。
私にとっては何の違和感もない事だが、この時期の北海道で野宿をする感覚の方が、ある意味、珍しいものなのかもしれない。
19時45分頃になって、然別方面への普通列車が到着した。
先ほどの2名はこの列車に乗車し、入れ替わりで子供と大人、合計4名ほどが降りてきた。
この時刻の銀山駅の旅客動線は、小樽・余市方面からの帰宅客がメインではあるが、倶知安から帰宅するという旅客も少なくはない。意外にも利用者が多いことに、内心、ホッとした気持ちにもなる。
家族連れは駅前に停めた自動車で立ち去って行った。
次の列車は20時半頃に到着する。
寝袋に入って休みたい気もしたが、銀山駅を出る最終列車は23時台で、それまでは、寝るわけにもいかない。じっとしていると寒気に襲われるので、ブラブラと駅下の集落まで足を延ばしてみることにした。
この時刻、雪は小康状態となり、詰め所の作業員も仮眠しているのか、駅の周辺は静まり返っていた。
雪は音を吸収する性質があるため、無風の雪景色の中に居ると、驚くほど静かだ。
自分の足音や吐息だけを耳に感じながら、凍える寒気の中で、ひっそりとした集落の中をブラブラと散策する。20時前後というのに集落は静まり返っており、窓明かりが漏れてくる民家も少ない。寝静まっているのか、空き家になっているのかは分からなかったが、空き家の多い限界集落が醸し出すような寂しい雰囲気ではなかった。
眼下には銀山市街地のナトリウムランプが際立ち、そこから道道沿いに続く街並みが、遥か遠くに延びている。
見上げれば、集落の照明で橙色に染まった雪原の向こうに、銀山駅が静かに横たわっている。
それは旅情駅と呼ぶに相応しい光景だった。
夜更けの集落を歩き回るのも程々にして、体が温まったところで、駅に戻ってきた。
20時半頃に到着予定の上り普通列車を撮影しておきたい。
風とともに雪も止んだ駅構内は、空気が凍り付く音さえ聞こえてきそうな静寂に包まれていた。
雪に覆われたホームにはいくつもの足跡が残っていたが、そのホームの末端まで歩いてみると、自分の足跡以外、残ってはいない。
然別方から小沢方を望むと、右カーブで見通しが悪いため中継信号機が設けられており、誰も居ない暗がりで、寡黙に「停止」を告げていた。
構内踏切に立って然別方を眺めれば、銀山駅が最もそれらしい姿を見せてくれるように感じ、暫しその姿に見惚れた。
やがて、遠くの方から列車の走行音が聞こえてきた。
この当時の時刻表の記録は残していなかったのだが、2022年現在、20時台に銀山駅に到着する上り列車は、遥々、長万部まで足を延ばす。確か、この列車もそうだったのではないかと思う。
乗客の大半は倶知安、ニセコ辺りまでで下車してしまい、その先まで足を延ばす人は殆ど居ないだろう。そんな中、これから山線の核心部分を越えて行く旅路は、厳しいものに違いない。
程なく、構内踏切も作動し始め、駅に束の間の喧騒が訪れた。
列車の発着を下り線ホームで迎える。
この列車からは誰も降りてくることはなく、勿論、新しく乗り込む乗客の姿もなかった。
暫しの間、「整理券をお取りください」という自動音声が辺りに響いていたが、その音がふいに途切れた後、少し間を開けて出発の警笛が鳴り響き、普通列車はエンジンを噴かせて稲穂峠越えの険路に旅立って行った。2両編成の車内には、数名の乗客の姿があった。
この後、銀山駅には上り2本、下り1本、都合3本の普通列車が発着する。
それらの発着を写真に収めて、23時台の上り最終列車を見送ってから眠る予定だったのだが、次の列車が来るまでの間、寒気を避けるために寝袋にくるまっていたところ、いつの間にか寝てしまい、肝心の最終列車の出発音で目を覚ました。
その間、乗降客が居たのかどうかは分からないが、待合室に出入りする人は居なかったようだ。
夢現の中で出発していく普通列車の音を聞いたが、時計を見ると23時を回っており、最終列車が出て行ったことは認識したので、結局、そのまま眠ることにした。厳冬期用に購入した寝袋は使用想定温度マイナス30度のもので、真冬の北海道と言えども、寒さを感じる夜は殆どなく、この日も気持ちのいい温もりの中で、あっという間に深い眠りに落ちた。
~続く~
2022年5月(ちゃり鉄17号)
~執筆準備中~