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中井侍駅:旅情駅探訪記
2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
豊橋から辰野までの195.7㎞に、両端合わせて94駅もの駅を従えた飯田線は、その旅情あふれる沿線風景で旅人を魅了してやまない。ただし、普通列車で乗り通そうとすれば6時間余りの長丁場となり、平均駅間距離が2㎞程度という事も相まって、普通の神経の持ち主なら退屈極まりない路線といえるかもしれない。
私は宮脇俊三の鉄道紀行が好きなのだが、氏の作品の中には何度か飯田線が登場する。
「旅の終わりは個室寝台車」では新潮社編集部の「藍色の小鬼」こと藍孝夫君を「うんざりさせてやろう」という魂胆で飯田線に誘い、「最長片道切符の旅」では「飯田線の全線を各駅停車で乗り通して、欠伸ひとつしないようだったら、鉄道病院行の資格があると言ってよいだろう」などと述べている。
宮脇俊三らしい皮肉の中にも路線愛溢れる表現だが、実際、飯田線を旅していると、目的地までの停車駅の多さに唖然とすることも少なくない。ただ、啞然とはするものの車窓風景を見飽きることがないので、いつの間にか中間駅を全て通り過ぎ、目的地目前となって名残惜しさを感じたりするのである。
私が飯田線を始めて旅したのは1998年8月の事だった。豊橋から飯田線に入り小和田駅で1泊した後、塩尻に抜けてから小海線へと進む行程だった。
小和田駅に関しては、別に詳細な旅情駅探訪記をまとめたのでそちらをご参照いただきたいが、小和田駅での駅前野宿が明けた翌日、まだ原形を留めていた高瀬橋を往復してから駅を出発し、一つ隣の駅に到着した。
山側の座席に座っていた私は、目の前の断崖のような斜面の上に1軒だけ民家がある隔絶したロケーションと、そんな駅に降り立って急な歩道をゆっくりと登っていく高齢女性の姿を目にして驚いた。
凄い駅があるものだ。
その時は車窓から眺めるだけで僅かな停車時間に写真を撮影する余裕もなく、その雰囲気に圧倒されているうちに列車は出発してしまった。それが中井侍駅との初対面だった。
それから3年余り後の2001年11月。学生時代最後の秋に、再び飯田線を旅する機会があったのだが、この時は、小和田、為栗、金野の各駅で駅前野宿をするとともに、沿線の多くの駅で途中下車をした。
この中井侍駅も、その時に初めて途中下車をすることが出来た。
115系の普通列車から降り立った中井侍駅は、前回訪問時の記憶と変わらぬ姿で旅人を迎えてくれる。
この日は、為栗駅での駅前野宿が明けて水窪駅を訪れた後、この中井侍駅にやってきたのだが、列車から中井侍駅に降り立ったのは私一人だった。
出発していく列車を見送ると、駅には自分一人がポツンと残される。だが、念願の中井侍駅で途中下車できた喜びで、寂しさは少しも感じない。駅裏に民家があって、そこに人が住んでいる気配があるというのも影響しているかもしれない。
緩やかな曲線上に設けられた中井侍駅は見通しが悪く、駅の一端に立つともう一端を見通すことはできない。その為、駅全体を確認するために端から端まで行ったり来たりする。ホーム上から眺めてみても、やはり、そのロケーションには圧倒される。
元々、この中井侍駅は私鉄の三信鐵道時代に停留場として設置された。1936(昭和11)年12月30日の事である。
三信鐵道時代の私鉄の鉄道施設について定めた「地方鉄道建設規程」によれば、「旅客又ハ荷物ヲ取扱フ爲列車ヲ停止スル箇所」のうち「転轍機」がないものが「停留場」、「転轍機」のあるものが「停車場」である。転轍機の有無によって停留場と停車場とが区別されているわけだが、これは行き違い設備の有無という事になり、駅の規模の違いを暗示するものである。
一般に行き違い設備のある駅はその設備の操作の為に職員が置かれており規模も大きくなるのに対し、行き違い設備のない駅は職員も居らず規模も小さなものが多かった。
現在の駅名標は「なかいさむらい」と表記されているが、1937(昭和12)年1月22日付官報第3014号によれば、開業当時の読みは「なかゐざむらい」である。解像度の関係で判別しにくいが、該当官報の引用図を挙げておこう。赤枠は私が注記したものである。
引用図:「通達・地方鉄道運輸開始(官報第3014号・1937年1月22日)」
これが「なかいさむらい」に改められたのは、三信鐵道を含めた飯田線前身の4私鉄が国有化された1943(昭和18)年8月1日の事であるとする情報が文献等にも記されているが、当該国有化に関する「鉄道省告示第204号(1943(昭和18)年7月26日付官報4960号)」によると、この時の駅名の振り仮名は「なかゐざむらひ」となっており通説に疑いがある。こちらの方も以下に引用図を挙げておく。
引用図:「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」
また、この国有化に際して中井侍駅は停留場から停車場に変更されているが、それは、「国有鉄道建設規程」に「停留場」の規定がなく、「停留場」に類する駅は「停車場」に含まれるからである。
更に、同告示には以下のような事も記されている。
引用図:「鉄道省告示第204号(官報第4960号・1943年7月26日)」
この文中、「ニ 前號停車場中取扱範圍ニ制限アルモノ左ノ如シ」とあり、その(七)において「旅客ニ限リ取扱ヲ爲ス停車場但シ旅客ノ取扱區間ヲ飯田線ノ停車場ニ在リテハ船町、下山村ヲ除キ東海道本線濱松名古屋間、飯田線、中央本線上諏訪鹽尻間各驛及篠ノ井線松本驛、…中略…トス」と特記され、中井侍駅もその対象とされている。
即ち、中井侍駅は停車場に位置付けられたものの貨物・荷物の扱いを行わない旅客駅であり、その取扱区間も飯田線内やその隣接路線の一部に制限されていたのである。飯田線でこの制限が撤廃されるのは1971年4月1日の事であるが、同年12月1日には業務委託が終了し無人化されている。
中井侍駅に隣接する小和田駅は、今日では車でたどり着くことが出来ない駅となり、駅周辺の集落も無人化してしまった。小規模ながらも集落が存在する中井侍駅の方が地元の利用者数は多いという状況になっている。
しかし、三信鐵道の建設当時は、むしろ、小和田駅の方が栄えていた。「三信鐵道建設概要(三信鐵道・1937年)」には、停車場表という一覧表があり、小和田駅が停車場で中井侍駅が停留場だったことが示されている。
この表によると停車場と停留場とでは大いに駅施設の違いがある。
小和田駅には側線があり中井侍駅には側線は無い。小和田駅の側線は現存する。また、乗降場も小和田駅は石造で200m、中井侍駅は木造で120mとある。更に、小和田駅には貨物積卸場、本屋、便所、乗降場附属上屋(待合所)、貨物積卸場上屋、ポイント小屋、社宅が備わっているが、中井侍駅には乗降場附属上屋(待合所)しかない。両者の規模も、6坪対2.5坪で、中井侍駅の待合所の方が小さい。
現在の小和田駅からは想像も出来ないが、三信鐵道による開業当時は相当な規模の駅だったのだ。その後、佐久間ダムによる小和田集落や対岸の佐太集落の水没によって、駅は一気に廃れてしまった。それに対し、中井侍駅は当時からあまり駅や駅周辺の様子が変わっていないように思われる。
以下に示すのは、1980年代に出版された書籍に収録されていた、当時の中井侍駅の写真である。引用はそれぞれの写真中に示した。また、3枚目は、大嵐駅~伊那小沢駅の配線図である。
ほぼ同時期と思われるこれらの写真の中井侍駅は、ホーム上の待合室や駅名標だけを捉えたもので、周辺の様子は分からないが、駅裏の民家の様子など現在と大差はない。待合室が今とは違って扉付きだったことや、駅名標が国鉄時代のものであること、そして、ホームに郵便ポストがあったということなどが分かるが、それほど様子は変わっていないだろう。
開業当時は木造の乗降場だったとあるが、この時代にはコンクリート製に変わっており、創業当時の姿は分からない。
引用図:中井侍駅
「信州の駅物語(降幡利治・郷土出版社・1983年)」
引用図:中井侍駅
「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:配線図・大嵐駅~伊那小沢駅
「国鉄全線各駅停車 5 東海道360駅(宮脇俊三・原田勝正・小学館・1983年)」
次に、中井侍駅の駅名の由来について調べてみよう。
現在の所在地名は長野県下伊那郡天龍村平岡であるが、「角川日本地名大辞典 20 長野県(角川書店・1990年)(以下、「角川地名辞典」と略記)」や上述の官報3014号によれば、1936年12月30日の開業当時、周辺自治体は平岡村であり中井侍はその小字であった。平岡村と神原村が合併して天龍村が成立したのは1956(昭和31)年のことである。小字の中井侍は今も存続しており、地名由来の駅という事は分かる。
それにしても「中井侍」という地名は興味をそそる。何か曰くありげな地名である。
しかし、予想に反して、駅名事典の類で調べてみてもその由来は詳らかではない。「角川地名辞典」にも解説は無く、平岡村の小字一覧にその名を見るだけである。以下には、鉄道関連の書籍中に見られる駅名由来の記述を引用しておく。
また、伊那史学会発行の郷土誌「伊那」には以下のような小論があったので紹介しておく。こちらの方はそれなりに信ぴょう性は高そうではある。ただ、「いわれている」と結ばれているものの、その出典はないので口伝の類なのかもしれないし、「なるほど!」と思えるほど明快な解説でもない。
こうした山村には落人伝説が付き物で、中井侍にもそうした伝説の類が語られることがあるようだが、落人が形成した集落が自ら「侍」を名乗ることはないだろうし、「侍」が実在した当時、それに因んで地名を付けるほど、その存在は珍しいものではなかったはずだ。
そうなると、元々、地形的な特徴を表す純朴な地名が存在していて、それが後世になって「なかゐさむらひ」に転訛し、そこに「侍」が付会したと考えるのは自然である。ただ、「さなぎ」から「さむらひ」への転訛は、少々無理があるようにも感じる。
駅は中井侍集落の下端に位置し、急傾斜地を削って作られた僅かな平地に設けられているため、集落全体を見渡すことはできない。小和田方の末端に立つと、伊那小沢方に向かって右カーブを描く線路の向こう、遥か高い所に集落の端部を見ることが出来るが、停車中の車内からは見えないため、一見すると山深い崖地に、駅と民家が1軒あるだけにも見える。
立地条件と駅の雰囲気は同じJR飯田線の田本駅と似ているが、視界に民家が入る分、中井侍駅の方が生活感がある。
谷の方に目をやると佐久間ダムの湛水によって湖と化した天竜川が横たわっている。
激流で名を馳せた昔日の面影は偲ぶべくもないが、今も斜面の高い所に点在する斜面集落の暮らしぶりに、その一端を垣間見ることはできる。
ホームをブラブラと散歩していると、豊橋に向かう列車が到着した。当時の飯田線では主力車両だった119系2両編成の普通列車だった。乗降客の姿は見られなかったが、運転士と車掌が合図を取り合いながら、見通しの悪いホームの安全を確認しつつ、旅客扱をしているのが印象的だった。
出発する普通列車を見送ってから、中井侍の集落の方に足を延ばしてみることにした。
集落への道は、駅の北側、伊那小沢口から続いている。駅前までアスファルトの車道が伸びており、こちらが正面口と言えそうだ。駅舎が設けられていた時代はないが、金属製の車止めがあり改札口の跡のようにも見える。
その道を進んで行くと4差路に出る。等高線に沿って走る道は村道で周辺の集落と連絡している。中井侍集落への道はこのまま斜面を登っていく方向に続いており、急傾斜を登っていくとグングンと視界が開けてきた。
見上げると美しく組まれた石垣の上に刈り込まれた茶畑が整然と続き、所々に民家が点在している。その合間を縫うように九十九折の道が続いており、あんな所まで登るのかと思うくらい高い所まで続いている。
振り返って谷間を見下ろせば、ダム湖と化した天竜川が横たわり、その畔の僅かな平地に飯田線のか細い線路と中井侍駅の南端が見えていた。
こんな場所を走っているのかと、改めて驚嘆する。
登るにつれて高度感が増していき、スキー場の斜面を見るかのような感覚になるが、こんな急傾斜地に人々が暮らしているのである。
九十九折りの道を登り詰めると遠く天竜川の上流側が見えてくる。霧を纏った山稜線から降りてくる嵐気で谷も白く霞んでいるが、よく目を凝らすと水神橋が見えていた。
この訪問では、列車乗り継ぎの都合もあって集落上部を行く村道天竜川線に合流する地点まで足を延ばして引き返すことにした。
下りに入ると行く方幾重にも折り重なって道が続いている様が目に入る。
相当な急勾配ではあるが、地区の住民は軽自動車を乗り入れて生活している。冬場の凍結時など難儀しそうだが、きっと、それを克服する生活の知恵があるのだろう。
駅まで戻ってくると、程なく、特急「伊那路」が通過していった。普通列車の運行が中心の飯田線にあって、特急の速達需要はある程度存在するのだろうが、関東・関西・中京圏から飯田に達するには、高速バスが圧倒的に有利で、特急の経営環境は厳しいだろう。それでも通過する車内には程々の利用者の姿が見られた。
特急の通過を見送って後、伊那小沢か平岡辺りですれ違ってきたらしい普通列車が到着する。
この時、中井侍駅には高齢女性の他、数名の利用客の姿があった。いずれも地元の方である。
今では舗装された車道が通じ、交通の不便はある程度解消されたとは言え、生活の上で飯田線の存在は欠かせないだろう。この駅や集落の景観が、穏やかに存続していくことを願いつつ駅を後にした。
2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2021年12月、約20年ぶりに飯田線を再訪した。
柿平駅、小和田駅、為栗駅、伊那田島駅で駅前野宿をしながら、青春18きっぷなどを用いて、沿線を行ったり来たりしたのだが、この旅では駅周辺の旧道や廃村探索も行った。
旅の道中、中井侍駅にも立ち寄った。勿論この駅も前回の訪問から20年ぶりであったのだが、駅の様子はほぼ変わらず、懐かしい思い出がよみがえった。
この日は、駅前野宿地の柿平駅を朝に発ち、大嵐駅で途中下車。夏焼集落を見に行くなどして3時間ほどの時間を過ごした。その後、今夜の駅前野宿地である小和田駅を一旦通過して中井侍駅にやってきたのである。中井侍駅でも4時間の余裕をもって、かつて小和田駅との間に架橋されていた高瀬橋までの旧道探索と中井侍集落の散策を楽しむ予定である。
学生時代は、どちらかというと「乗り潰し」に興味が向いていた。フリー切符の類を携えて狭い区間を行ったり来たりすることもあったが、それらは、「途中下車」を目的としたもので、1時間程度の滞在時間で駅を後にすることが多かった。「駅前野宿」も行っていたが、暗くなってから到着し、明るくなる前に出発することも多く、文字通り、駅で一夜を明かすための「駅前野宿」だったと思う。
しかし、「ちゃり鉄」のプロジェクトを構想し始めた頃から、自身の中で意識が変わってきた。
単に、乗車した路線、乗降した駅の数を競うような旅の在り方に疑問を感じるようになったのである。
勿論、会社勤めの社会人としての生活の中で旅をする以上、その期間は限られるから、一つ所にとどまり続けることはできないが、それでも、駅の周辺を半日程度かけて周り、沿線の歴史や風土も調べつつ旅を行いたいと思うようになってきた。帰宅したら調べものをして、その中で発見があれば、再訪して調査をして、という具合に、一つ所に時間と手間をかける旅を行うようになっている。
そんな旅をしていると広く浅い「おすすめ百選」のような記事は書けなくなるのだが、それはそれでいい。そういうテーマのブログは世に溢れていて、私が屋上屋を重ねる必要もない。
それよりも、長い歳月をかけて、唯一無二の「旅情駅探訪記」や「ちゃり鉄」の紀行を仕上げていきたいと思う。
さて、年の瀬のこの日、通り過ぎた小和田駅には20名ほどの乗降客の姿があったが、中井侍駅での乗降客は0であった。車両は213系に変わっており飯田線の車両の印象も随分と変わった。
その普通列車が出発していく姿を見送ったのち、一先ずは、中井侍駅との再会のひと時を楽しむ。
日本海側を中心に大雪に見舞われた2021年~2022年の年末年始の事で、中井侍駅付近でも、時折、降雪が見られる天候だった。
一通りホームを見渡した後、今回は一旦駅を辞することにする。
というのも、高瀬橋や中井侍集落の往復にランニングを組み合わせながら、4時間で周るという計画だったからだ。状況の分からない高瀬橋への廃道探索に関しては、計画通りの進み具合になるとは限らない。そこで時間を費やすと集落に足を延ばす時間が取れなくなるかもしれない。
高瀬橋から戻る際に一度駅を通るので、駅の探索はその時でも十分に間に合う。
そういう訳で、再会の喜びも束の間、足早に出発の用意をして駅を後にした。11時33分出発。
まずは、この時の探索のGPSログ、旧版地形図を示しておこう。図中、オレンジ色の線がGPSログである。旧版地形図の方では、GPSログで示した部分に道路表示があるように見えるが、現存する高瀬橋に通じる龍東線は、佐久間ダム建設後に、水没した旧道を付け替えて敷設したものなので、旧版地形図が示す線形とGPSログの線形とは、実際には一致しない。
なお、「竜東線」という道路名称が現存する県道の名称として使われているが、元々、天竜川の東側、即ち右岸沿いに続いていた小径を呼ぶ通称でもあった。ここでは、その通称としての「龍東線」を意図するものとして、この名称を使うことにする。
また、現行地形図に描かれている平神橋は旧版地形図当時には存在していなかったようだ。「天竜川交通史(日下部真一・伊那史学会・1978年)(以下、「天竜川交通史」と略記)」によると、平神橋は平岡村不当と神原村坂部間に昭和12年に架橋されたとある。旧版地形図の発行自体が1936年、即ち、昭和11年のことであるから、この地図に表示されないのは当然である。
中井侍駅での探索の主目的は高瀬橋までの旧道探索と集落周辺の道の探索。高瀬橋は、図の下の方、支流の河内川が天竜川に流れ込むところに架かっていた。GPSログでは橋のアイコンで位置を表示しているが、現在は崩落しており渡ることはできない。旧版地形図でも、河内川が天竜川に注ぎ込むところに橋の表示があるのだが、これが旧高瀬橋である。勿論、水没しておりその姿を確認することはできない。
この旅では小和田駅側からも高瀬橋にアプローチしているのだが、そのレポートは小和田駅の旅情駅探訪記に記したので、合わせてご覧いただきたい。
中井侍駅からの距離で比較すると、集落よりも高瀬橋の方がはるかに遠いため、トレイルランニングを交えながら往復することにした。
中井侍駅は、南西側、北東側それぞれに入り口があるが、集落主要部につながるのは北東側の入り口で、こちらは車で駅前まで乗りつけることも出来る。
高瀬橋に向かうなら南西側の入り口から村道に出る方が近いのだが、ここは一旦北東側の入り口から村道との交差点に進み、そこから村道を下流に向かう事にした。帰路は、南西側の入り口から駅に戻ることにしよう。
北東側の入り口から車道に出ると、眼前には飯田線のテンポ淵澤橋梁と新旧の観音山隧道の坑口が見える。現在線は、山側に掘削された新観音山隧道を越えているが、この隧道は1975年9月4日に旧線から切り替えられたものである。
「鉄道廃線跡を歩く Ⅸ(宮脇俊三編著・JTB・2002年)」の記述を以下に引用しておこう。
ここでは昭和22年頃から観音山トンネルに変状が見受けられるようになった経緯が示されているが、1950年に開催された第6回土木学会の「土木学会年次学術講演会講演概要集」の中に、「観音山隧道改築工事について」という講演題目がある。
そこで、国鉄岐阜工事部の職員から説明されている工事の概要を確認すると、「飯田線中井侍ー伊那小沢間観音山隧道(530m)の中央部約100mが被害を受け、変狀激しく剥落相続き列車運轉が危険に曝されるに到ったので、昭和24年8月より第1期35mの改築に着工した」とある他、工法に関する説明の中で「冬季に於けるコンクリート養生状態に対する調査を説明する」といった記述もある。
当初は、改築によって変状を克服しようとしていたようであるが、約30年を経て最終的にはトンネルそのものを掘り直したという事になる。ネット上には、この新トンネルへの付け替えを1974年とする記録も見られるが、出典の明記がなく真偽は分からない。
その辺りは、当局側が出している資料を確認すれば解決することだが、現在は資料が入手できていないので今後の文献調査課題とする。
ところで、観音山隧道にまつわるエピソードは、これだけでは終わらない。
実は、付け替え工事によって遺棄された旧隧道に関しても、三信鐵道による工事段階で掘り直しが行われているのである。これについては、「三信鐵道建設概要(三信鐵道・1937年7月29日)(以下、「建設概要」と略記)」によって、その顛末を確認しておこう。引用には掘り直しの部分のみではなく、その後の顛末も含めて記載した。
三信鐵道全通に向けての最終局面である満島((現)平岡)~小和田間の工事において、このような多重災害に見舞われ中井侍や小和田付近に陸揚場を設けて建設工事を実施しているのである。
観音山隧道に関しては、工事施工途中で地滑りに見舞われ、掘削途中の工程を放棄して、新たに隧道を掘削したという事が書かれている。
新観音山隧道が旧観音山隧道よりも山側に掘削されていることからも類推できるが、旧観音山隧道の工事に当たっても、地滑りを理由に途中で掘り直し工事が行われた際の隧道は、当初の隧道よりも山側に掘られただろう。実際、旧観音山隧道は新観音山隧道ほどではないにせよ、山側に迂回する線形を持っている。
旧観音山隧道の伊那小沢方には、同じく遺棄された第二中井侍隧道があり、更にその先には現在も使用されている第三中井侍隧道がある。そうなると、第一中井侍隧道はどこにあるのか?という事になるのだが、「建設概要」を開いて確認しても、その様な隧道は存在しない。つまり、第一中井侍隧道は、三信鐵道の開業当初から存在しなかったのである。
だが、それは名称の付け方として余りに不自然だ。
恐らく、当初の建設工事では観音山隧道と第一中井侍隧道という二つの短い隧道を、旧観音山隧道よりも川側に、もっと直線的に掘削しようとしていたのだろう。しかし、地滑りによって地盤そのものが失われたため、隧道全体を山側に掘り直すこととなり、第一中井侍隧道との間に存在するはずだった明り区間が失われ、1本の長い隧道となったのだろう。
掘り直した隧道を第一中井侍隧道とせず、観音山隧道とした理由は定かではないが、周辺の地形を眺めると、恐らく、隧道延長としては観音山隧道の方が第一中井侍隧道よりも長くなるはずで、それが理由となっているのではなかろうか。
さて、この区間は、「建設概要」によれば「下第五工区・下第六工区甲」で、竣工が1936(昭和11)年12月の竣工となっている。同じ12月に「下第七工区甲・下第六工区丙」が竣工しているが、こちらは、天龍山室~大嵐間の工区であった。そして、最後の開通区間が、小和田~大嵐間の「下第六工区乙」で、竣工が1937(昭和12)年7月のことであった。
門谷川橋梁上での締結式の様子が各種書籍で引用されているが、私も、小和田駅の旅情駅探訪記に引用したので、興味ある方はそちらもご一読いただきたい。
中井侍駅付近の船荷の荷上場はもはやその痕跡もなかろうが、知られざる中井侍駅の歴史である。
駅への取付道路を登っていくと、100m行かないうちに四叉路に出る。左右に横断する道路が村道天龍左岸線で直進して斜面を登っていく道路が集落への取付道路である。ここでは、一旦右折して村道天龍左岸線に入ることにする。
今しがた登ってきたテンポ淵沢沿いの取付道路を右下に眺めながら、水平に取り付けられた天龍左岸線を歩いていくと直ぐに視界が開ける。少し高い位置から新旧の観音山隧道を見下ろすことになるが、旧隧道に隣接した斜面にはブルーシートがかかっており、表層の崩壊が続いているのが垣間見られた。
さらに天竜川の方に視線を移せば、眼下には中井侍駅のホームや待合室が見える。その向こうには、茶畑や竹林を挟んで、天竜川の流れが横たわっていた。
佐久間ダムの湛水もこの辺りで尽き果てようという所ではあるが、堆積物で埋め尽くされた天竜川に、激流で名を馳せた昔日の面影は残っていない。ただ、見下ろす傾斜のきつさは、この谷の深さを今に伝えている。
駅を眼下に見送りながら歩みを進めていくと、程なくして分岐が現れる。この分岐は以下に示すように、国土地理院の地形図にも表示されており、進行方向に向かって左手に上っていく道が不生集落への取付道路で、向かって右手にトラバースしていくのが歩いてきた村道である。GPSのログが重なって見にくいが地形図では、316mの標高点のすぐ西側で分岐が描かれている。
分岐地点の村道側には通行止めを暗示するバリケードが道の脇に置かれていた。置き方から考えて通行を禁止する意図は感じられなかったが、実際のところ、村道側に車両の通行跡があまり無く、落ち葉や枯れ枝が降り積もって、長らく使われていない様子だった。
私は、この旅に出る前の事前調査で、村道に崩落があり通行止めになっていることは把握していた。ただ、その通行止めの程度によっては、徒歩や自転車なら問題なく通過できる場合も多い。その為、通過できることを前提として踏査に訪れたといういきさつがあり、ここで路面の状況が変わることについては想定の範囲内ではあった。
村道をしばらく進んで行くと、不生集落を下から見上げる地点に出た。茶畑越しに民家が見える。畑や建物の様子を見る限り、ここでは人が生活しているようだった。
不生集落の下を通過して程なく車道の崩壊地点に出る。
ここは斜面崩壊によって飯田線にも影響が及んでおり、飯田線自体は復旧したものの、斜面を横断していた道路は消失していた。車両の通行は不可能な状態ではあったが、工事用足場を伝って崩壊部分を横断することはできるようだったので、そのまま先に進む。
そして程なく、平神橋への村道と、高瀬橋への旧道との分岐に出た。この分岐も明瞭で、旧道は未舗装路となって斜面を斜めに上っている。平神橋への村道は舗装路のまま、下り坂となって橋に向かっていた。平神橋は帰路で訪れることとして旧道に入る。11時50分着発。駅から1.4㎞地点であった。
以下には、この場所の地形図、旧版空撮画像をGPSログと共に表示した。各図は重ね合わせになっており、マウスオーバーやタップ操作でGPSログのないデータと切り替えが可能である。
こうしてみると、地形図上、旧道部分には道路表示は無いものの少し等高線の幅が広がった部分として明瞭であり、旧版空撮画像でも道型がはっきりと映っている。地形図の等高線の数値は図幅の範囲には表示されていないが、この道型は概ね標高300mの等高線に沿っており、上流側では300m~310m、下流側では290m~300m程度の範囲にある。地形図上の道幅はスケールと対比して見ると20m程度ありそうだが、勿論、こんな場所に20mもの幅員を持った道があったわけではなく、標高差10mの範囲が20mの幅で広がっているという事である。ただ、等高線の間隔が他よりも明確に広いという事が、そこに、歩道表示すらされない道の痕跡が存在することを暗示しているのであり、それを読み解くのが地図読みの楽しい所である。
GPSログでは写真を撮影した分岐地点を「!」で表示している。位置的には「平神橋」の名称表示の右上にある「!」記号の位置であるが、丁度、飯田線不當隧道の中井侍方坑口付近に当たる。
現地では旧道はやや斜上していき、村道は明確に下っているのだが、地形図上でもその特徴は現れている。
興味深いのは、2022年8月現在の地形図に示された平神橋の位置と1976年の旧版空撮画像に移り込んだ平神橋の位置の違いである。
これについては後ほど改めて触れるが、既に触れてきたように、1936(昭和11)年に架橋された平神橋は、当初から現在位置にあったわけではなく、旧版空撮画像を見る限り、少なくとも3回、その位置が変わっている。現地ではそういう予備知識は無かったので旧橋の構造物を探索することはしていなかったが、偶然にも1976年の空撮画像に映っている2代目と思われる平神橋の位置では、対岸に架空電線が伸びていた関係で写真を撮影していた。GPSログではそこにも「!」の表示を残してある。地形図上では「平神橋」の表示の真下、岬状の尾根部分に示した「!」がそれである。
以下、道中で撮影した写真を見ながら先に進んで行くことにしよう。
まず分岐地点。
写真では、何となく未舗装の旧道の方が上っていて舗装された現道の方が水平にトラバースしているように見えるが、勾配としては現道の下り勾配の方がきつかった印象がある。
地図に道路表示がなされてないものの、現地で見失うことのない明瞭な分岐であり、林道として今でも利用されているかのような状態である。
しかし、直ぐに落ち葉の堆積に覆われてしまい、廃道然とした風景に変わる。
その一方で道の様子とは場違いな新しい電柱が登場し、奥へと続いている。
電柱があるという事は、その奥に民家や集落が存在することを暗示するのだが、進んだ先にそういったものがない事は事前に把握済みなので、この電柱の登場には疑問を感じつつ進んで行く。道自体ははっきりとしており、崩落もなく歩きやすい。
そして程なく、電線が対岸に渡っている地点に出た。2.0km。11時56分着発。GPSログ付きの地形図と旧版空撮画像を重ね合わせで再掲しておこう。
先に触れたように、この位置は、結果としては、2代目平神橋が架橋されていた地点である。空撮画像の撮影時期は1976年で佐久間ダムによる湛水後の事であり、現地を調べれば、恐らく、吊橋の主塔の痕跡などが斜面に眠っているはずだが、この時は、電線が対岸に渡っているという事を認識しただけであった。
ここまでの旧道で電柱が奥へ奥へと続いていることに違和感を感じていたが、実際のところ、電線はこの位置で対岸から此岸に渡ってきて、旧道を一部経由して、不生・不当・中井侍といった各集落に給電すべく伸びているのであろう。私は、電力の供給方向を逆向きに辿ってきたという事になると思う。
そのように判断した理由は、先の地形図にある。
もう一度地形図を眺めてみて欲しいのだが、天竜川を挟んだ右岸側に送電線の表示があるのに対し、左岸側には送電線の表示は見当たらない。
実際には、小和田駅の旅情駅探訪記でも触れた、川根平岡線という送電線網が左岸側を通過しているのだが、この図幅の辺りでは、図幅外の標高800mを越える尾根筋を通り越しており、中井侍集落はともかくとして不当・不生の各集落に送電するにしては水平にも垂直にも距離が離れすぎている。
それに対し、右岸側の送電線からであれば、天竜川を渡って容易に送電できそうである。
それ故に、ここに元々存在していた吊橋の構造を転用する形で送電線が敷設され、それと前後する形で平神橋が架け替えられたのだろう。実際には、吊橋の老朽化による架け替え工事に付随して、吊橋の基礎構造を転用した送電線整備が行われたと見るのが正しいかもしれない。
いずれにせよ、ここまでに見てきた電柱の新しさを考えても、旧版空撮画像を眺めてみても、この送電線の整備は1976年以降の事であるのは明らかだ。
そして、この地点を境に、旧道は一気に廃道らしさを増すことになる。電柱や電線も奥には続いていない。それは、電柱・電線の保守点検のための人の出入りが、この地点より先に及んでいないことを示すものであり、この先に人の生活がない事を暗に告げている。
ただ、廃道らしさを増すとは言え、道型ははっきりしており、幅員としては3~5m程度、路肩構造も明瞭である。所々に倒木があったり、落石が転がっていたりするだけで、歩きやすい道が続く。
続くランドマークは法面崩壊地点である。2.1㎞。11時58分着発。
この崩壊地の位置と旧版空撮画像についてもGPSログ付きで再掲する。旧版空撮画像では、崩壊がこの当時から生じているかどうかを判別することはできなかった。
崩壊自体はそれほど大きな規模のものではないが、崩壊した岩盤が道型を完全に塞ぐ程度には堆積している。通過するのにそれ程の苦労は必要としないが、崩壊地だけに落石の危険もあり、注意を要する箇所ではある。
この辺りは、道路の開削当時から岩盤を掘削し、石垣を築き上げて路盤を確保した様子が見て取れる。特に、崩壊地を通り過ぎた後に振り返ってみると、数mの高さで積み上げられた石垣が、岩盤の崩落にも耐えて堆積物を支えていることが見て取れる。
この崩壊地を越えると、道は再び穏やかな様相に戻り、水平もしくは多少下り気味に斜面をトラバースしていく。
続いて、地図に表示のない無名の小橋を渡る。2.4km。12時2分着発。
以下にはこの区間の地形図と旧版空撮画像をそれぞれGPSログ付き、ログなしに分けた重ね合わせ画像で掲載した。橋の位置は、画面左上の「!」で示した崩壊地から、300mほど東南東に進んだ位置に示した橋マークの地点である。
等高線からは、この辺りで襞状に連なる幾つもの沢を旧道が横切っていることが明瞭に読み取れる。飯田線はこの先で明り区間を介してそれらを越えているが、旧道の橋の辺りでは不当隧道で山体を貫いており地上には現れない。
コンクリート製の欄干を備えた小さな橋で銘板は特になかったように思う。
沢を越えて進むと、地形図から予想されるように、きっちりと飯田線が姿を見せる。ここは中井侍方の不当隧道と小和田方の第三途中隧道との間の明り区間である。以下に地形図を掲載するが、図幅左上のカメラマークの位置である。
また、「途中」というのは地名であり、地形図上では旧版地形図の時代から地名として明記されている。下に掲げる地形図では、図幅右上の所に神社記号を伴った集落が存在していることが分かる。2.6km。12時6分着発。
この明り区間から第三途中隧道尾根を越えて進むと炭小屋澤橋梁が出現し、飯田線は更に第二途中隧道へと続いている。
旧道と飯田線との間は20m内外の高度差があり線路は見上げる形になる。
さらに第二途中隧道と第一途中隧道の間の明り区間を眺めつつ先に進むと、大きな尾根を越えて行く箇所に達する。便宜上、この尾根を第一途中隧道尾根と呼ぶことにする。
第一途中尾根は地形図上で岩崖の表示が連続していることが暗示するように、この先では落石や堆積物で道が荒れてきて、遂に大崩壊地点に出る。
地形図では「天竜川」の表示のすぐ左岸側に連なった「!」のうち、最初に登場するものが崩壊の開始位置、2番目に示されたものが崩壊の終了位置である。
開始位置には3.014km。12時14分32秒着。GPSのログを確認すると、それまで時速3~5㎞程度で歩いてきたのが、ここに達して、時速1㎞未満に減速している。回復するのは3.054km。12時16分27秒。ここが崩壊の終了位置である。
この2点を示すログの数値の差を取ることで崩壊地のおおよその距離と通過時間を計算すると、距離40m、通過時間1分55秒という事になる。こうしてみると容易に通過したように感じられるが、現地での体感は100mに15分程度を要したくらいの感覚だった。つまり、距離も時間も過大評価をしていたという事である。
これは結構重要な経験だ。
道迷いに端を発する山岳遭難事故では、「道が分からない」と認識した途端に、体感する距離や時間の感覚が大きくずれていくものらしい。実際には100mくらいしか進んでいないのに1㎞くらい歩いた気持になるし、10分しか経過していないのに60分くらい経ったように感じる。そうして現実よりも過大に実感することで「焦り」の感覚を生じる。
この感覚が怖いのは、「元来た道をはっきりと分かる地点まで戻る」という重要な判断を妨げる方向に働くことである。
ほんの100mなのに1㎞と感じ、ほんの10分なのに60分と感じると、元に戻るのは大変な事のように錯覚し、「先に進めば何とかなるのではないか」という全く根拠のない楽観主義にすがるようになるのである。こうして誤った判断を繰り返すと、事実と認識の差は益々拡大し、取り返しのつかない事になる。
私も、この崩壊地を通過する際に、軽く、その感覚に見舞われた。
まず、崩壊の程度であるが、山体全体が広範囲に崩壊しており道型は完全に埋没していて全く判別できない規模のものだ。地形的にはほぼ水平に進んだ先に続きがあるはずなので、先を見通しながら進んで行くのだが、軽自動車くらいの大きさの巨岩も転がっていて、目論見通りには前に進めない。歩けそうな筋を選びながら進むことに捉われると、進むべき筋を見失ったりもする。
既に灌木が繁茂し始めており、崩壊によって堆積物は安定角に達している様子ではあったが、長居すべき場所ではないし、そもそも目的地でもないので、慎重かつ迅速に行動して崩壊地を横断する必要がある。
しかし、結構な距離があり時間を要したように感じたのである。
尤も、予定時間をオーバーしたなら後の日程を割愛すればいいと考えて、まずは高瀬橋を往復することに意識を注いでいたし、地形的に考えて、ほぼ水平トラバースを続けていけば、やがて道型に復帰できることは分かっていた。
そうしたこともあって、幸いにも、この探索の時の私は、そういう致命的な状況には陥らなかったが、先の分からない崩壊地の中で現在地を見失い、距離と時間の感覚が狂ったことは事実だ。このことは、GPSログを確認してみて、一層、明らかになった。今後の教訓にしなければと思う。
さて、この大崩壊地を越えると「61」と記した標識が現れる。3.2km。12時20分着発。
これは新しい標識で、明確に川の方を向いているので河川管理上の標識だと思われるが、設置主体や設置目的は分からない。浚渫工事などが行われているので、その為の目印となる標識なのではないかと考えている。
大崩壊地の先も道型は比較的明瞭だが、路面上の堆積物は多くなりランニングで通過していくには足元の条件が悪くなるため、速歩を意識して先に進んで行くことにする。
林道の石垣はすっかり苔生して昭和の構造物とは思えない表情を醸し出しているが、長い年月の内には、この石垣も崩壊に飲み込まれて消失していくのであろう。
驚くのはこのようなところにも新しい国土調査の標柱が設置されていたことだ。
道なりに進んで行くと、やがて第一途中隧道と初見隧道との間の落石覆いが頭上に見えてくる。
そして短い初見隧道の出口辺りに達すると、行く手の道が消失し、斜面に断面の小さな隧道が現れる。勿論、地形図には表示されていない。
この辺りに発電施設や取水施設がある訳でもなく、かつての車道隧道という訳でもないので、この隧道の出現にはいささか戸惑う。断面の小ささから考えて水路隧道であることは間違いなさそうだが、目的が分からない。ただ、この付近では旧道も橋台部分を残して、桁が消失していた。
さらに進むと、初見隧道と上山隧道との間の比較的大きな沢地形に出る。3.6km。12時28分着発。
ここはコンクリートで固められた水路状になっており沢の上流側は飯田線の橋梁を挟んで砂防堰堤が続いている。水路部分とその前後の旧道は完全に消失している。以下に地形図と旧版旧札画像をそれぞれGPSログ有、無で重ね合わせて再掲しておこう。
地形図上では「飯田線」の表示の左側にある沢地形の「!」の地点である。この沢には飯田線よりも上流側に堰堤の記号が入っており、現地の現状と一致する。GPSのログはここで多少錯綜するのだが、それは、水路状の部分を通過するために適切な場所を探した軌跡である。
この橋梁、現地で橋梁名称を撮影していなかったのだが、「建設概要」で調べてもここに橋梁が存在するとは書かれていない。
「建設概要」に示された付近の橋梁は小和田側から河内川橋梁、途中橋梁、炭小屋澤橋梁の3ヵ所なのだが、河内川橋梁はその名の如く河内川に架橋されていたもので、炭小屋澤橋梁は既に見てきたように第二途中隧道と第三途中隧道の間にある橋梁だった。「建設概要」の記述でもそうなっている。残るは途中橋梁だが、「建設概要」よると、その位置は、丁度、第一途中隧道と第二途中隧道の間に当たる。
そうすると「建設概要」に書かれていなかった橋梁がここに存在したという事になるが、明瞭な堰堤や水路は三信鐵道の時代からのものとは思われないし、橋梁の橋台もコンクリート製である。
「建設概要」には「橋梁表」や「隧道表」があり、それには橋梁や隧道の位置も詳しく記載されているのだが、これ以外に、「溝橋表」という一覧があり、ここでは位置は省略されているものの、小和田~満島((現)平岡)間に、開渠が一箇所、函渠と疎水隧道が三箇所あったと記されている。
ここで登場した疎水隧道と言えば、先ほど見てきた水路隧道が思い浮かぶ。そう思って先の写真をよく眺めてみると、これは確かに三信鐵道建設時代のものとみても違和感がない。
結局、こういう事ではなかろうか。
元々、ここには三信鉄道建設当時に疎水隧道が掘削され、沢の水は隧道を通って逃がされていた。もしかしたら、開渠や溝渠も存在していたかもしれない。いずれにせよ沢地形の部分に橋梁は架橋されなかった。
その後、佐久間ダムの建設に伴って旧龍東線が水没したため龍東線が付け替え工事で開削され、飯田線に沿って開通した。この付近では、疎水隧道の吐き出し口付近に、小橋を掛けて沢水をやり過ごしていた。
しかし、その後、この沢で土石流が発生。まずは疎水隧道を通して溢れた水が旧道の小橋の桁を流失させ、その後、隧道の流入部が土砂で埋没するに至って閉塞し、逃げ場を失った水流が飯田線の路盤と線路、そして付近の旧道を押し流した。
その復旧工事の為に、沢の上流に砂防堰堤を設けるとともに、沢地形を掘り込んでコンクリート張りの水路とし、飯田線は架橋されることになった。旧道はこの段階で既に廃道化していた為、復旧されることはなく三信鐵道時代の疎水隧道と共に遺棄された。
土石流の発生は、恐らく、沢の上流部に位置する林道天竜川線の開通が契機となっているだろう。旧版空撮画像で林道の位置に見える裸地が、土石流の発生源と思われる。
以上が私の推測だが、当局や村の資料を調べれば、事実は明らかになるだろう。文献調査で判明すれば追記したい。
さて、砂防堰堤と水路付近で道型は消失するが、現地にはピンクテープが残置されており、獣道状の線形が何となく浮かび上がる。そこを辿ると石垣が見えてきた。
ピンクテープの位置には旧道が存在していなかったことを悟りながら、その石垣に登って旧道に復帰したのだが、旧道は思った以上に高い所を通過しており、その延長線上を水平に辿った先に、地面が存在しない。この付近の地形は大きく変わっているのである。
そのことも先ほどの推測を裏付ける手掛かりである。
水路・堰堤部を通過し、旧道に復帰した後も右手眼下に天竜川を感じながら、荒廃気味の道を歩いていく。そして地形に沿ってゆるく左に回り込みつつ、眼前の樹林越しに視界が開け河内川の合流を感じて程なく、忽然と、高瀬橋の主塔が目に飛び込んできた。
4.1km。12時37分着。4.1㎞に1時間4分を要した。廃道を歩いてきたことを考えれば、まずまずの進捗であった。
以下には、まず地形図を新旧比較でGPSのログ有、ログなしを重ね合わせて表示しよう。
地形図上の比較で言うと、旧版地形図に描かれた旧龍東線や旧高瀬橋は、ほぼ一貫してGPSログよりも斜面下側を通っており、現在の地形図と対比してみれば、その大半は確実に水没していることが分かる。
旧高瀬橋付近でも、GPSログが示す高瀬橋の主塔の位置から50mほど天竜川よりに旧橋が存在したことが分かるが、現地ではこれまでの写真で見てきたように、旧道の横は直ぐに断崖絶壁となっており、50mも川側に移動すれば水面に達してしまう。
旧版地形図では、高瀬橋の位置に建物記号が描かれており、「土場」という地名表示もある。
これについては小和田駅の旅情駅探訪記でも詳しく触れたのだが、「天竜川における流出材木の流通と下流域沿岸住民の対応(山下琢巳・歴史地理学・2004年)」という論文の中に記述があるので、以下に引用する。なお、元の文書に含まれている引用注釈や論文の副題については、ここでは省略した。
この説明のとおり、ここは河内川が天竜川に合流する場所であり、「土場」という地名はここで筏組が行われていたことを暗示するものである。
実際、旧版地形図の「土場」の地名付近を眺めると、分かりにくいが、建物記号が描かれている。
これはこの付近で筏組や筏師相手の宿を生業として生活していた人々の住居を示すもので、小和田の最後の住民として知られた宮下さんご夫妻も、元々は、高瀬橋の信州側でそういった仕事をされていた。
「高瀬」の名前の由来は詳らかではない。ただ、「瀬」が川が白波を立てて流れ下る急流であることを鑑みれば、白波が高々と立つ難所を指したことは想像できるし、実際、ここは河内川との合流地点で難所であった。
それを示す記述を幾つか引用してみよう。
まず、「天竜川(小島烏水)」の中に以下のような一文がある。少し長いが、一段落を引用する。
小島烏水が天竜川を訪れたのは1908年のことで、これは、その時の紀行を後にまとめたものであるが、佐太から粟代に抜ける辺りの天竜川の蛇行と、そこから下流の激流の様子が、見事に描写されている。上流の天竜峡とは異なり、この付近の蛇行が観光名所となったことはないが、小島烏水が、短い紀行の中に、わざわざ、それを描写するほど、この付近の急流は顕著なものだったのだろう。
福島は信濃南端、現在の鶯巣集落の対岸にある集落名で、高瀬は勿論、高瀬橋のある付近。この辺りには旅館もあったという。佐太と粟代の二回の屈曲の間に高瀬があるという描写は、外来者の紀行にありがちな、位置関係の錯誤のように思われるが、集落地名を意図したものではなく、蛇行部に存在した荒瀬を高瀬と表現したのかもしれない。
一連の地名の連なりについては、「天竜川交通史」の中に関連した記述がある。それは、1778(安永7)年に飯田の正木屋清左衛門が鰍沢の船乗りを招いて、天竜川の川吟味をした時の記述である。川吟味というのは、即ち、工事見積のことで、川普請の実施に先立って、工事必要箇所を現地調査したものだ。鰍沢は、同じく急流で名を馳せた富士川流域の鰍沢集落を指す。
この川吟味は、上流から下流に向かって調査されているのだが、高瀬周辺の記述としては、「一 さぶんど村よし 一 たか瀬よし 一 下タ高瀬よし」と続いており、さぶんど村の下流にたか瀬や高瀬があったということが分かる。
さぶんど村は佐太村を示しており、小和田駅のやや下流右岸側に存在した集落であった。
小島烏水が描写したように、佐太を越えて下った先に高瀬があったという訳で、この高瀬は、集落地名ではなく、川下りの難所に名付けられた地名なのであろう。
また、「天竜川交通史」には、満島の源五左衛門が幕末か明治初年に記した「天竜川丈難所附(天龍村花田家文書)」を引いて、高瀬橋付近では東側に塩沢戸・上高瀬下高瀬・粟代前二ヶ所難所、西側に佐太村猿壁・忠左衛門前・大荒・大輪・長持小冷といった難所が記載されていることを記述している。
「天竜川交通史」によれば、滝は白波を立てて流れ下る場所、戸は支流が入る場所、輪は川が大きく半円を描いて回る場所を指すと言い、それらはいずれも難所であったとする。塩沢戸という時の「戸」は、先に触れた「土」でもあり、難所であると同時に筏師の作業場でもあった。河内川はその流域に塩沢集落を持つので、塩沢戸は河内川と天竜川の合流点にあった土場を指すとみて間違いない。
そうすると、地図上にある土(戸)場という地名は、集落を示す地名ではなく、特徴ある地形や機能を示す地名だったのかもしれない。
以下の引用図は、「飯田線60年」に掲載された「3県が接するところ(昭和12年)」という見出しの写真だが、この写真の長野県、静岡県県境に河内川が谷を刻み、その谷口の所、彼岸と此岸に集落があった様子は、写真に家屋が映っていることからも分かる。
そして高瀬の名の通り、天竜川は白濁した瀬となって流れ下っており、川船の難所となったであろうことは、想像に難くない。
引用図:3県が接するところ(昭和12年)
「飯田線の60年(郷土出版社・1996年」
続いて、空撮画像の時系列比較をしてみよう。以下に3枚の旧版空撮画像を示した。上から順に、1948年3月2日、1976年10月7日、2018年5月30日の撮影である。
1948年の空撮画像は佐久間ダム竣工以前のものであり、激流で名を馳せた時代の天竜川の姿を伝える貴重なものだ。高瀬橋の位置には旧橋が映っている。中井侍方の橋の上方の斜面中腹や上山隧道の出口付近には民家も写っている。遥か山腹の上方にあったはずの旧道は判別できない。
1976年になると佐久間ダムが竣工し、天竜川はダム湖のように変貌を遂げている。天竜川林道が顕著に姿を見せ、途中集落の畑地と民家もはっきりと見える。高瀬橋も明確に姿を見せているが、橋の周辺にあった民家は姿を消している。植生の違いから、辛うじて畑地が存在したことを推定できる程度だ。
2018年になるともはや高瀬橋の姿は判別し難いほどになっている。一方で周辺の山林は樹勢が増していて緑が深くなったようにも感じられる。山林伐採が盛んだった1970年代に比し、2010年代ともなると、植林地や薪炭林の樹木も樹齢40年以上が経過して成長しているからなのかもしれない。
ここまで、旧版地形図や書籍の記述、旧版空撮画像を引きながら、高瀬周辺の地誌について述べてきた。詳細については天龍村史なども入手して調査を進め、新たな事実が判明すれば、記事を更新することにしたい。
旅に戻ることにする。
高瀬橋の中井侍方の主塔は、急な斜面を背に、狭い所に孤独に佇んでいた。対岸にあるはずの主塔は灌木に遮られて見通すことが出来ず、かつてこの谷を渡っていたであろう吊橋の踏板も、遥か先の虚空に僅かにぶら下がっている程度であった。
この翌日には小和田方から対岸の主塔にアプローチする予定であるが、そのレポートは小和田駅の旅情駅探訪記に記したので、合わせてご覧いただきたい。
比較的アプローチが容易な小和田方とは異なり、中井侍方から高瀬橋にアプローチした記録はあまり多くは無い。途中の崩壊や駅からの距離を考えれば安易に立ち入るべき場所ではないし、人が立ち入らないということは自然なことではあろう。
こちら側の主塔は漢字表記となっており、「昭和三十二年一月竣工」という銘板もはっきりと見える。
周辺の山体には、主索や耐風索を支えるアンカーが残っており、もはや用をなさないケーブルを、孤独に支え続けていた。
この探索では橋の袂に到達するまでを課題としていたので、ここから沢に下り対岸を登って小和田方の主塔に辿り着くという探索は実施しなかった。時間的にも無理だっただろう。また、高瀬橋付近から尾根筋に登り廃屋跡を通って途中集落に通じる廃道もあるようだが、現地では気が付かなかった。
かなりの準備と地形の見極めが必要となる探索ではあるが、今後、この周辺の旧道を巡る踏査を行う際に、その探索も課題として実行したいと思う。
私の前に人がここを訪れたのは、一体いつの事だろうか。
そんな事を思いつつ、携行食を補給した後、帰路につくことにした。12時46分発。9分程の滞在時間であった。
帰路も旧道の様子を見ながら戻っていく。同じ道であっても、進行方向が逆になると、全く違った風景に感じられることがある。そういう事もあって、「ちゃり鉄」の探索では、同じ道を逆行する形で何度か現地を訪れることもあるし、ルートの都合上、一度の探索で往復することもある。
この時も、今しがた通って来たばかりの道ではあるものの、往路と復路では印象が異なる所が数か所あった。
再び上山隧道と初見隧道間の砂防堰堤付近に戻ってきた。
逆から辿ってみても道型が消失していることには変わりなく、この付近で大きく地形が変わったことは明らかとなった。
水路部分の前後には灌木にピンクテープがついていたが、これは、元の道型を示すものではなく、ここを歩いた人が付けた目印に過ぎない。
飯田線の橋梁と水路部分との高低差を考えると、随分掘り込まれたように見受けられるが、飯田線の下を潜った上流側の様子を探索したわけではないので、三信鐵道時代の地形を把握することはできなかった。この付近は、今後も探索することがあるので、その際に、水路隧道の部分も含めて詳細に調査したいと思う。
水路隧道付近の崩壊地を越えて道を戻る。
落石や倒木で荒れた様相の区間もあるが、全体としては道型ははっきりとしており歩きやすい。勿論、復路になって余裕が出ているからという事もあろう。
程なく「61番標識」の地点に辿り着いた。
高瀬橋からのアプローチとなると、この標識は大崩壊地の開始点を示すランドマークとなる。標識を越えてすぐに、その大崩壊地に入るのだが、復路ともなると自分の感覚も修正されており、往路と比べると余裕をもって大崩壊地を越えることができた。
大崩壊地を越えた先の斜面脇には、往路では気が付かなかった、キロポストらしき標識の残骸が転がっていた。付近には「工」という刻印が入った杭もポツンと残っている。
鉄道絡みで「工」の刻印が入った杭が存在するとなれば、明治前半に存在した工部省が思い浮かぶ。今でも鉄道廃線跡に関する文献などを見ていると、「工部省の境界杭が残っている」という風に、明治鉄道史を今に伝える遺構として注目されることも多いが、明治18年に工部省は廃止されており、三信鐵道の国鉄飯田線や三信鐵道時代には直接関与しないはずだ。
鉄道の線路脇という訳でもないので、どうしてこれらの構造物がこんなところに存在するのか、明確な理由は分からない。ただ、付近には鉄道の架線用と思われる碍子が転がっていたりもするので、飯田線の改良工事や災害復旧工事に際して、遺棄されたり残置されたりしたものなのかもしれない。
文献調査も進めてみたいが、詳しい読者の方が居られたら、情報提供をお願いしたい。
そのまま道なりに進みむと電柱が現れる。ここまで来ると旧道の探索も終わりは近い。
状況の分からない旧道探索には事故の危険も付きまとうため、一先ず、安全な場所まで戻ってきてホッとする。
旧道と村道の分岐点には13時29分着。6.8㎞地点であった。
高瀬橋と分岐点との間は2.7㎞。往路は47分、帰路は43分。平均時速は約3.8㎞だったという事になる。
さて、ここからは、一旦駅とは逆方向の平神橋に立ち寄ることにする。7.1㎞、13時33分着。
旧道分岐から300mの距離だが、この間、25mほど下っている。8.3%の勾配という事になり、なかなかの急勾配である。
平神橋の左岸側には村道崩落の復旧工事にかかる現場事務所が置かれており、右岸側の県道分岐部分はバリケードで閉鎖されていた。年末年始のこの時期、工事は休工中で辺りに人影はなかった。
橋の銘板も撮影したのだが、竣工年月日を記した方を撮影し忘れていた。「天龍村60年のあゆみ(広報天龍別冊・天龍村・2016年)」によると、1977(昭和52)年9月竣工とある。
橋の中ほどから天竜川の上流、下流を眺めてみた。天神橋は天竜川に架かる長野県内の橋としては最南端にある。
上流からの激しい土砂流入によって堆積物に覆われた天竜川にかつての激流の面影はなく、緑色に淀んだ水に清流の爽やかさはない。
辺りを取り囲む山々の奥深さはダム以前の時代からそう大きくは変わらないが、ダム建設の補償で道が整備されても、皮肉なことに人の繋がりは希薄になり、村落は次々と消滅している。
何となく、「国破れて山河在り」という心地がした。
さて、この平神橋に関しては、既に軽く触れてきたところではあるが、その中で、空撮画像で見る限り、少なくとも3回、その位置が変わっているという事を述べてきた。
ここで改めて、その3枚の空撮画像を並べて比較してみよう。以下に同じ図幅で切り出した3枚の旧版旧札画像を示す。上から、1948年3月2日、1976年10月7日、2000年5月30日の撮影である。また、4枚目には、この付近の地形図を再掲した。
比較情報として佐久間ダムや高瀬橋の竣工が1956年10月である。
こうして時系列で比較すると、平神橋は、時代とともに上流に移設されていることが分かる。
1948年の空撮画像に映った平神橋は、1936年に架橋された当時の位置にあると思われるが、地形図と対比して見ると、この架橋位置は対岸の坂部部落に至るための最短距離に当たる。
恐らくは、当時の交易路だった左岸側の旧龍東線から、右岸側にある坂部部落に渡るために架橋された吊橋だったのだろうと推測している。
これが架け替えられて2代目になった時期は、現段階では調査を終えていないが、空撮画像から明らかなように1948年から1976年の間に架け替えが行われている。その間に佐久間ダムの竣工や高瀬橋の架け替えがあったことや、空撮画像を見る限り吊橋だったと思われることを考え合わせると、旧龍東線の水没に伴って、高瀬橋と同じ1956年頃に架け替えられたのだろう。
そして、橋の老朽化や旧龍東線の廃道化、車社会の到来に伴って、1978年になって現在の平神橋に架け替えられたのであろう。高瀬橋と同規格の吊橋だったとすれば、自動車の通行は困難だったと思われるからだ。
この辺りの事実については天龍村史にも詳しい記載はなかった。
詳細を調べようとすれば、天龍村役場を訪れて道路台帳を調べる必要がありそうなので、今後、そういった調査を実施する予定である。
13時34分、天神橋を辞して駅に戻ることにした。
落ち葉が堆積した道を登り詰めて、旧道分岐には13時36分着。7.4㎞。
そのまま先に進み、崩壊地を越えて中井侍駅の南西口に到着する。8.6㎞。13時50分。
駅の南西口と言っても、何も知らなければそれとは気づかないだろう。
この地点は村道天龍左岸線に村道不生沢線と中井侍駅への取付道路が合流する四叉路となっている。
平神橋方向からアクセスすると右手に登っていく村道不生沢線がはっきりと分岐していくのは分かるのだが、左手に降っていく中井侍駅への取付道路が、それとは分かりにくい。フェンスに沿った狭い歩道は、何となく、林業用の作業路のようにも見える。
村道不生沢線の方に少し登って四叉路を見下ろしてみると、更に取付道は分かりにくい。
だが、よく見るとフェンスの所に「中井侍駅 下る→」と書いた看板が固定してある。これが案内標識という事になる。
それを確認して小道に入ってみると結構な下り勾配で、尚且つ、この日は小雪が降っていたこともあって、苔生した路面は滑りやすかった。トレイルランニング用のシューズを履いていたものの、湿った苔路面にはあまり効果はなく、時折転倒しそうになりながら、ゆっくりと降っていく。
やがて視界に民家の屋根と天竜川が飛び込んできた。中井侍集落の最下端に位置する民家で、「茶むらい」という屋号で茶店としても営業している時期があるようだが、年末年始のこの時期は、駅を見下ろしながら静かに佇んでいた。
これまでのレポートでも分かるように、この民家に辿り着く車道はない。
令和の時代になっても、車でたどり着けない生活が、ここでは営まれている。
写真を撮影していると、民家の住民の方が出てこられたが、作業中のようだったので軽く会釈してホームに降りる。
中井侍駅に戻ってきた。
8.8km。13時57分着。11時33分に出発してから、2時間24分の行程だった。
中井侍駅:文献調査記録
資料収集中
中井侍駅:旅情駅ギャラリー
2001年11月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2021年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
中井侍駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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9月19日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ更新 (高瀬橋~中井侍駅までの記録の追加) →JR飯田線・中井侍駅の旅情駅探訪記 |
8月14日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ更新 (中井侍駅~高瀬橋までの記録の追加) →JR飯田線・中井侍駅の旅情駅探訪記 |
2022年6月13日 | 旅情駅探訪記にコンテンツ追加 →JR飯田線・中井侍駅の旅情駅探訪記 |