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塩狩駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2024年8月20日 | コンテンツ公開 |
塩狩駅:旅情駅探訪記
1997年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
京都で学生時代を過ごした私にとって、北海道は憧れの旅の舞台だった。
時間はあれどもお金はない学生時代のこと。
北海道の旅と言えば、新日本海フェリーに乗船するかワイド周遊券を使用するかの2択だったのだが、そういう経路だったこともあって、道内の移動手段は専ら鉄道。他にヒッチハイクを行ったこともあったが、自転車での道内の旅は経験がなかった。
初めて北海道に足を踏み入れたのは1996年12月。大学1年生の冬のことで、青春18切符2枚を携えて本州一周の旅を行う道中、北海道の函館、九州の博多、四国の高松に寄り道をして、それぞれの地域の初上陸を果たしたのだった。
その翌年の1997年7月から8月は、陸上部の対校戦と夏合宿が北海道で行われた関係もあって、その後のオフの期間を利用して道内を巡る一人旅をした。この時は対校戦や夏合宿も併せてひと月近くを北海道で過ごしたのだが、JR北海道の鉄道路線全線に乗車することが出来た。
その道中で塩狩駅も通過していた。
停車列車の車窓から撮影した駅名標1枚のみで、途中下車もできずただ通り過ぎただけだったが、比布原野の各駅や蘭留駅からの登り坂を越えて辿り着いた峠の旅情駅は、涼しげな樹林に囲まれた高原風情が好ましく、三浦綾子の小説の舞台となっていたこともあって、途中下車の欲求を掻き立てるものだった。
宗谷本線は大きくは名寄以南の宗谷南線と名寄以北の宗谷北線とに分けられるが、天塩・石狩という分け方をするなら、この塩狩駅がその名のとおり旧国境に当たり、いよいよ宗谷本線の核心部に入っていくという高揚感を感じる場所でもある。
この旅でもそんな期待に胸を膨らませ、峠の旅情駅を車窓に見送ったのだった。
2001年6月(ぶらり乗り鉄一人旅)
その後、1998年2月から3月にかけても大学の実習の関係で北海道に行く機会があり、真冬の北海道に3週間ほど滞在したことがあった。この時も宗谷本線を旅したのだが、塩狩駅は夜行急行「利尻」の車中で寝ながら通り過ぎただけ。明かりの灯った駅舎や駅名標が車窓に流れていったはずだがその記憶もない。
初めて塩狩駅に降り立ったのは2001年6月。
通常、6月に長旅をすることはなかったのだが、この年の6月いっぱいで、宗谷本線と石北本線のそれぞれで3駅ずつ、合計6駅が廃止されることになっていた。そのため、山口県で行われた学会に参加した後、部活動の合間を取って渡道し、廃止される6駅で駅前野宿をする短い旅を行ったのだった。
その際、塩狩駅でも短い時間ではあったが、途中下車することができた。
この時の途中下車では、上り列車の乗り継ぎの合間を利用して、駅の周辺も含めて6枚の写真を撮影していた。フィルムで撮影していた時代なので多くの写真は残せなかったのだが、それらをチェックしていると今はなき塩狩温泉の写真もあった。
この塩狩温泉は1921年に牛飼いが偶然に発見したものと言われており、歴史的には比較的新しい。
塩狩駅自体の開業が1916年9月5日のことで、この段階では「駅」ではなく「信号所」であったのだが、1922年4月1日に「信号場」と改称された後、1924年11月25日に「駅」に昇格し、旅客・手荷物等の取り扱いを開始している。
ちょうど温泉発見の時期と昇格の時期が重なっているが、もちろん、入植者の増加などに伴う措置であったという。
塩狩温泉は三浦綾子の小説「塩狩峠」の舞台となったこともあって一時は大勢の観光客も迎えたようだが、利用者の減少などを理由に2005年に閉業。2015年に和寒町が跡地を取得して、現在は「わっさむ塩狩峠公園」として一般に開放されているものの、この地にあった温泉ホテルや旧ユースホステルの建物は現存していない。
この時の旅では廃止対象となる6駅での駅前野宿を目的としていたので、塩狩駅も途中下車のみで駅前野宿は実施しなかった。乗り継ぎの合間時間も短く塩狩温泉には入らず仕舞い。結局、これが温泉営業当時最後の訪問となったこともあり、塩狩温泉での入浴は叶わなかった。
駅に戻れば後は旭川方面に向かう普通列車を待つのみ。
千鳥式に配置された相対式2面2線の駅構内の様子は、2001年当時から2024年現在に至るまで殆ど変化していないが、この時撮影した写真を見ると、駅の取付道路沿いに2013年6月に開館した塩狩ヒュッテ・ユースホステルの建物は当然ながら姿がない。
駅の背後の丘の上に三浦綾子の旧宅を移設して設けられた塩狩峠記念館が見えたくらいで、緑多い夏の訪問だったこともあり、駅は樹林に囲まれた寂寞峡のように感じられたものだった。
僅かな滞在時間ではあったものの、この駅での途中下車を果たすことが出来て満足したことを覚えている。
なお、この2か月後の8月にも、学生時代最後の長旅で東北・北海道を3週間ほど巡ったのだが、その際の宗谷本線ではこれまでに途中下車したことのない駅を中心に訪問したため、塩狩駅は再訪していなかった。
まだ、道内の旅客駅の大量廃止が始まる前のことだった。
2016年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
塩狩駅の第三訪は15年程を隔てた2016年1月のことだった。
この15年間の間に道東の釧路に赴任して暮らしていた時期もあったが、仕事の都合や生活環境の変化もあって一人旅や鉄道趣味からは遠ざかっていた。道東から自動車で道央道北に出かけることも何度かあったものの、塩狩峠は深夜にマイカーで通り過ぎたことが1度あっただけで、もちろん、塩狩駅にも立ち寄って居ない。
第三訪を果たした時には再び関西で生活するようになっており、北海道は遠い場所に戻ってはいたものの、この間に自身の環境も大きく変化し、社会人という立場で北海道を旅することが出来るようになりつつあった。
この2015年12月~2016年1月にかけての時期は、就業先の業務カレンダーと自身の転職に伴う有給消化との都合で3週間ほどの休みを取ることが出来たので、真冬の北海道を野宿で巡る旅を行ったのである。
冬の北海道を野宿で旅するのは、釧路在住時の車中泊での旅を除けば、1998年2月以来のこと。
学生時代の旅では氷点下5度~10度が限度水準の装備で氷点下29度の夜を体験し、全身を貫く痛みに似た寒気で眠れなかったのだが、この旅では新たに氷点下25度が限界水準の装備を整えて旅を行ったので、前回のような苦しい夜は避けられた。
塩狩駅は駅前野宿の計画では訪れていない。仮にそういった計画で訪れたとしても、除雪作業員が24時間体制で常駐している時期ということもあり、駅前野宿は諦めて別の駅に移動していたかもしれない。
実際、豊清水駅では最終列車から降り立った駅に除雪作業員が詰めており、彼らの詰め所に声をかけるも無視され続けたため、待合室での駅寝はもちろん駅前野宿も諦めた。除雪作業の邪魔になるからだ。
そのため、深夜にも関わらず隣の天塩川温泉駅まで移動することになったのだが、吹雪の中、1時間ほどをかけて隣駅まで移動するのは、なかなか辛いものがあった。
一方、同じような条件であっても、函館本線の銀山駅では作業員の方の温かい心遣いもあって、待合室で穏やかな駅寝の夜を過ごすことが出来た。
もちろん、駅前野宿にせよ駅寝にせよ「黙認」されているに過ぎない。これが自分の旅のスタイルとは言え、不可能となれば素直に諦めるのは当然のことと思うし、そうなった場合の代替手段は用意して旅に臨んでいるのは言うまでもない。
さて、列車乗り継ぎの合間を利用して途中下車したこの日、塩狩駅は1mを越える積雪に見舞われていた。古豪のキハ40系気動車から降り立った駅に一般利用者の姿は見えなかったが、乗降客が利用するスペースは除雪されており、駅舎前の車寄せスペースには作業用の軽トラが3台も駐車してあった。無人のはずの駅務室の中には電灯が灯っていて作業員が詰めているということは直ぐに分かった。
気動車のエンジン音と走行音が和寒方に消え去ると、駅には静寂だけが残る。
3週間ほどの旅の期間中、道東を旅した数日を除けば、道内は始終風雪に見舞われていた。道内初日には函館本線の嵐山トンネルで火災も発生し、これによって時計回りから反時計回りへと旅程を大幅に変更する必要が生じたのだが、その日も函館本線沿線は吹雪だった。
塩狩駅の訪問は旅程後半。この日も風雪は激しく鉄道が運休にならないのが不思議なくらいだったが、幸い、塩狩駅付近は風も弱く、雪は降り続いていたが吹雪という状況ではなかった。
駅の周辺は除雪されているとはいえ、それは保線作業員や駅の利用者の動線に限られる。列車が停車しないホーム末端部は未除雪で、もちろん、駅の山手にある開拓地跡も深い積雪に覆われている。駅から塩狩ヒュッテ方面に続く線路脇にはきれいな除雪路があったので、不思議に思いながら辿ってみると、何のことはない、ポイント保守のための作業路であった。
登山靴を着用していたとはいえ、腰丈の積雪をラッセルして周辺を歩き回るのも難しく、行動できる範囲は限られていたが、真冬の塩狩駅の訪問には心躍るものがあり、不要な荷物を待合室にデポした上で、基本的には屋外で過ごしていた。
駅に降り立ったのは13時過ぎだったが、到着時に深々と降り積もっていた雪も次第に弱まり、14時前には薄日が差すくらいの小康状態になってきた。
除雪作業のタイムスケジュールがどうなっているのかは分からないが、このタイミングでは列車の往来もなかったので、詰め所から除雪作業員が出てきて作業に従事していた。
風も止んでいたが、時折、木立の間を思い出したように風が吹き抜け、木の枝に積もった雪を払い落としていく。その瞬間、木立の間にベールのように白い帯が広がり、陽光を反射してダイヤモンドダストのように煌めく。
寒さを忘れて見惚れる瞬間だ。
ホームから山手の方を眺めると、電波反射板が設置された和寒山の山頂付近も見えていた。和寒山は740.6mで塩狩駅は約255m。比高は500m弱であるが、その高距が積雪には大きく影響するらしく、和寒山の山頂付近は真っ白に雪化粧していた。
その和寒山から手前に下ってきた山麓には、1軒の山荘風の廃屋が見える。近くまで行ってみたいと思わせる佇まいではあったが、ツボ足では雪が深くて断念せざるを得なかった。
14時半過ぎには稚内行きの特急「サロベツ」が塩狩駅を通過していく。
蘭留駅からの登り坂を終えた特急は、塩狩駅の構内をホッと一息といった風情で駆け抜けていき、和寒方のポイントを渡ると、エンジンを噴かせて峠を降っていった。
列車が通過した後は積雪で隠れていた線路も露わになる。
この足幅ほどしかない2本のレールが列車の運行を文字通り支えていることには、ある種の驚きを感じるのだが、同時に、近代日本において道路交通網の整備に先立って全国に鉄道交通網が敷設されたことの理由が分かるような気がする。
特急通過の束の間の喧騒が過ぎ去ると、駅は再び静寂のひと時を迎えた。
下り線ホームの末端には雪に埋もれた駅名標がある。この駅名標は学生時代からここにあって、旅人の往来を見守っていたように思う。
1m近い積雪を屋根に乗せた塩狩駅舎は、大きな氷柱をぶら下げて静かに佇んでいる。木製の大きな表札が架かっており風格ある佇まい。こうした駅舎も全国的に取り壊しが進んでおり、今や貴重な存在だ。
この日は詰め所に作業員が常駐しており、入り口には除雪用のスコップやスノーダンプが並べてあった。無人化されて久しいが有人時代の面影を偲ぶことが出来た。
この日の滞在は約2時間。下り列車2本の乗り継ぎ時間を利用した短時間の途中下車ではあったが、真冬の塩狩駅の姿は印象に残るものであった。
鉄道を利用した長旅であれ「ちゃり鉄」での訪問であれ、山スキーやスノーシューを持参するというのはなかなか敷居が高いが、機会があればそういったスタイルで訪れて雪の塩狩駅を堪能してみたいものだ。
駅舎の軒下にぶら下がった長い氷柱に気候の厳しさを感じるうちに、蘭留駅の方から列車がやってきた。
この後は名寄方面に向かい、夜は北星駅での駅前野宿。
いつかこの塩狩駅でも駅前野宿をしてみたいと思いつつ、再び雪が降り始めた峠の旅情駅を後にした。
なお、この2日後、宗谷本線の旅を終えて、札沼線の豊ヶ岡駅に向かう道中で、もう一度、冬の塩狩駅を眺める機会があった。
この時は、列車の車中から眺めただけでで通り過ぎたが、昨夜来の風雪が止んで晴れ間が広がった塩狩峠は新雪を纏って真っ白に輝いており、塩狩駅も新たに積もった40㎝程の雪に埋もれていた。
そんな中でも列車は定時に運行しており、駅では上下列車が行違う。相方の下り普通列車は、足回りに雪がこびりついていた。
この日も除雪作業員の方々が使用する軽トラが3台。厳しい冬の保守保線作業に頭が下がる思いで、塩狩駅を見送った。
2020年10月(ちゃり鉄14号)
2020年10月の「ちゃり鉄14号」では塩狩駅で念願の駅前野宿を行うことが出来た。
2021年3月のダイヤ改正で、JR北海道では一気に18もの駅が廃止となったのだが、宗谷本線では南比布、北比布、東六線、北剣淵、下士別、北星、南美深、紋穂内、豊清水、安牛、上幌延、徳満と、12駅が廃止されており、衝撃的な出来事であった。同時に日高本線の災害不通区間も復旧することなく廃止となっている。
その廃止を控えた2020年はコロナ禍もあって春先から夏場にかけて2度も旅を延期したのだが、ノーマルタイヤで安全に走ることが出来る最後のチャンスとなった10月に何とか仕事の都合をつけて、3週間近い日程の「ちゃり鉄14号」を実施することが出来たのである。
この時は小樽港から道内入りし、羽幌線、宗谷本線、士幌線、広尾線、日高本線と巡って、苫小牧西港から離道。連日走りづめの旅となったが、宗谷本線や日高本線を走ることが出来たのは幸いだった。
宗谷本線内では、雄信内、抜海、糠南、豊清水、北星、塩狩の各駅で駅前野宿を行った。行程の都合で、廃止対象の駅としては豊清水、北星の2駅での駅前野宿となったのだが、沿線を走ることが出来ただけでも良かったと思う。
塩狩駅での駅前野宿に関しては、廃止対象となっていた東六線駅での駅前野宿と比較検討することになったが、翌日、一気に三国峠まで進む必要があったため、この日のうちに塩狩峠を登り詰めて塩狩駅を駅前野宿地とすることになった。
日の短い道北の晩秋。和寒駅を出る頃には暮れ始めており、18時を過ぎて到着した塩狩駅はすっかり暗くなっていた。
到着直後には旭川方面への普通列車がやってくる。
とっぷり暮れた駅にポツンと佇む単行の気動車に、一人旅の自分の姿を投影する。
この時刻、塩狩駅で乗降する利用者の姿はなく、自動放送の音声とエンジン音が駅の構内に孤独に響き渡っていたのも束の間、行く手の信号が青に変わると不意に自動放送が途切れ、少し遅れてエンジン音が高まると、列車はゆっくりと動き出して蘭留駅に向かって峠を降っていった。
遠ざかる列車の走行音が消えれば、駅に残るのは自分一人。晩秋の旅情駅は夜の帳と静寂に包まれていた。
前回は1月の訪問だったこともあり駅には除雪作業員が常駐していたが、今回は10月。
宗谷本線沿線は既に初冬の不安定な天候で連日雨に見舞われていたものの、まだ積雪には早く除雪作業員が常駐する季節ではなかった。この塩狩駅も無人駅の姿。
連日の雨はこの日も続き、北剣淵駅付近で驟雨に見舞われたが、幸い、終盤には天候が回復。和寒駅からの最後の登りも、日は暮れたものの雨に降られることはなかった。駅の周辺も乾いている。
先ほど出発していった旭川行きの普通列車は、峠を降った蘭留駅で下りの快速「なよろ」とすれ違う。その快速「なよろ」は入れ違いで塩狩駅に登ってくる。間隔は20分ほど。
そんなこともあって、旅装を解くのは後回しにして、そのまま夜の塩狩駅を楽しむことにした。
駅舎がある下り線ホーム側の末端まで歩いていくと、見覚えのある駅名標が明かりに照らされている。照明設備を備えた駅名標は少なくないが、今日ではコスト削減の目的もあるのか、点灯しないものも少なくない。
かつて夜行列車で旅をしていた頃は、明かりの灯る駅名標が窓辺を通り過ぎていくのを目にすることもあった。それは「夜汽車」の旅に相応しい、旅情ある情景だった。
宗谷本線からも「夜汽車」は消えて久しいが、この峠の駅の片隅に設置された駅名標に明かりが灯っているというのは、物寂しくもどこか懐かしい情景だった。
しばらくすると蘭留駅側の遠くから列車の走行音が聞こえてきた。快速「なよろ」が峠を登ってきているのであろう。
程なく駅にやってきたのはキハ40系単行の気動車。
この車両は私が子供の頃からローカル線の普通列車の主役として目にしていた記憶があるが、非電化路線に行くと当たり前のように見ることが出来たこの車両も、今日では随分と貴重なものになった。特に北海道では冬季の気象環境が厳しいこともあり、車体の痛みも激しいという。
そんな古き良き時代の名残を留める普通列車からは1名の男性が降りてきた。スマホを取り出して何か調べ物をしているようにも見える。旅行者らしい雰囲気ではあったが荷物は軽装なので、塩狩ヒュッテに泊まりに来た旅行者かもしれない。
そう思っているうちに、男性は駅舎の方に引き上げていき、快速「なよろ」も出発の時を迎える。
時刻は18時30分を回っていた。
駅舎に戻ると先ほどの男性は既に立ち去ったのか姿は見えなかった。
次は約1時間後の下り普通列車。少し間隔があくため、このタイミングで解装や駅前野宿の準備、夕食などを済ませることにしたのだが、1時間で一通りの作業をこなすと丁度良い頃合いで、コーヒーを飲み終わって一息つく頃には、次の列車がやってくる時刻になっていた。
駅舎で撮影の準備をしていると、先程とは別の若い男性がやってきた。カメラなども持たず軽装だったので、付近の施設のスタッフのようにも思えたが、特に会話もなかったので分からない。
駅舎を出て上り線ホーム側に移動して待ち構えていると、今度はキハ54形単行の列車がやってきた。
先ほどの男性はこの列車に乗車。再び、駅に一人残ることになった。
いつものことながら、少し寂しいような嬉しいような、駅前野宿のひと時である。
この塩狩駅では上下とも23時台まで列車の発着がある。
ただ、「ちゃり鉄」の旅の朝は早く、翌朝は4時過ぎには起床して行動を開始する予定なので、23時過ぎまで起きているのは厳しい。
20時台、21時台にはそれぞれ特急の通過もあるので、21時過ぎに通過するはずの札幌行き特急「宗谷」の通過までを撮影して眠ることにした。
19時台の普通列車に男性が乗車して以降、駅に他の利用客が来ることはなかった。
翌朝はまだ暗い4時頃には起きだして出発の準備を始める。
夜の内に人の往来はなかったが、朝の始発列車を前に人が来ることがあるので、それまでには駅前野宿の後片付けをしておきたい。
野宿の片付けを済ませ、目覚ましがてらホームに出てみると、構内の照明は落とされており駅舎の周辺は黎明の青い大気に包まれていた。
遠くに構内信号機が赤色点灯して進路を守り、他には駅舎の照明だけが灯っている。
塩狩駅はまだ眠りの中にいるようだった。
駅前野宿が明けた早朝の静謐な空気と旅情駅の佇まいは、何時見ても見ても、何処で見ても、印象に残る。
構内踏切を隔てた下り線、上り線、それぞれのホームの末端付近まで歩いて、まだ眠ったままの駅の姿を撮影して戻る。
塩狩駅は千鳥配置の相対式2面2線構造の駅であるが、上下ホームはそれぞれの端部が構内踏切で結ばれている。この踏切の中ほどで構内を眺めてみると、上下線の間が妙に広いことに気が付くが、かつてはこの空間に待避線が敷かれており3線構造だったという。
駅舎に戻ってサッと朝食を済ませ、片付けた荷物を自転車に積載して出発準備を整えた後、駅周辺を軽く探索することにした。
この間、20分程度のことではあったが、駅舎の外に出てみると、空はずいぶん明るくなっていた。
取付道路側から眺めると塩狩駅の構内の広さがよく分かる。
千鳥式配置のホームや退避用の中線があったことも含め、この駅にそれだけの有効長を必要とする列車が発着していたということを物語るもので、かつての宗谷本線を行き交った列車の長さを偲ぶことが出来る。
構内踏切を渡って上り線側に移動。
ホーム後背の山手側にもかつては集落がありその痕跡が今も残っている。
前回の訪問は真冬だったこともあり、こちら側に足を踏み入れることは出来なかったのだが、今回は出発前の時間を利用して、少しだけ散策してみることにした。
上り線ホームの後背には一目千本桜と称される植樹公園が整備されている。塩狩ヒュッテの向かい側には未舗装の林道が奥地から延びてきている。この林道は駅から見ると緩やかな登り勾配となって奥地に向かっているが、かつてはこの周辺にも集落が広がっており農場や入植者の民家が点在していた様子が古い地図に示されている。詳細は文献調査記録にまとめることにしよう。
開拓跡地は今日では植林地となっており、居住者の居ない消滅集落となっているが、奥地に続く林道は和寒方、蘭留方のそれぞれに道として続いているようで、2024年現在の国土地理院地形図にもそれが示されている。
林道を少し奥まで歩いてみたが、間もなく塩狩駅に朝の始発列車がやってくる時刻だったことと、ヒグマの気配もある地域だったこともあって、5分くらい歩いた地点で引き返すことにした。
千本桜の敷地から駅を眺めると、その後背の丘の上には三浦綾子の旧宅を移設した塩狩峠記念館が木立の中に見え隠れしている。
三浦綾子氏がこの地に住んでいたわけではないが、瀟洒な建物は周辺の雰囲気にも溶け込んでいる。
晩秋のこととあって千本桜は既に葉も落としており冬支度を始めている風情だったが、こちら側も蘭留方に向かって小高い丘となっており、登っていくと塩狩駅を俯瞰することが出来る。
敷地は時折草刈りが行われているらしく熊笹も刈り払われていたが、雑草に付いた朝露でシューズが濡れる。
再び構内踏切を渡って駅舎に戻る。
自転車は既に積載を済ませており出発準備は整っているが、朝の塩狩駅では始発の普通列車同士が交換するので、そのシーンを撮影してから出発することにしたい。
時刻は6時を過ぎておりすっかり明るくなっているが、朝の営業時間が始まったということもあり、いつの間にかホームの照明が灯っていた。
そう言えば、待合室の撮影をしていなかことを思い出したので、一旦駅舎に戻って待合室内の様子を撮影する。
塩狩駅は1924年11月25日に信号場から駅に昇格し、以来、1984年11月10日に駅員無配置駅となるまでの60年間を有人駅として過ごした。運転要員の配置も終了し完全無人化となったのは1986年11月1日のことである。
駅舎は当時の駅務室のスペースと利用客の待合室とに分かれており、駅務室と待合室との間にあった窓口部分は、板張りになって閉鎖されているものの、カウンターなどが残っていて、何となく当時の面影が偲ばれる。
駅務室側が保線作業で活用されているのは前回2016年1月の第三訪でも確認したとおりだ。
駅舎の入り口はかつては妻面にあったというが、今日手はホーム側と妻面の両方に出入り口がある。
数脚の長椅子と角部分の据付のベンチが置かれた待合室は、一人で過ごすには持て余す広さだが、かつては利用者で賑わった時代もあるのだろう。今は、愛好者の写真ギャラリーのようにも使われている。
列車の出発時刻が来たのでホームに向かう。
この時刻は上下列車が塩狩駅で行違うシーンを見ることが出来る。
気が付くと自動車が1台停まっており、愛好家が写真を撮影しようとカメラを構えていた。
私は上り線ホーム側に立って行違う列車を撮影しようと待ち構えていたのだが、列車はほぼ同時に塩狩駅構内にやってきて千鳥式のホームに停車した。上り旭川行きは3両編成、下り名寄行は2両編成。この名寄行は列車番号を変更しながら、結局、稚内まで足を延ばす長距離ランナーだ。
上り線ホーム側から両列車を撮影しようとしたのだが、このタイミングの旭川行きは3両編成だったため、ホームの末端部近くまで停車しており下り線側は見えなかった。
停車中の上り列車の陰からひときわ高いエンジン音が聞こえて、先に下り普通列車が出発。入れ違いで上り列車が出発していき、朝の列車行き違いが幕を閉じる。
いずれの列車にも人の乗り降りはなく、停まっていた車も列車が出発すると同時に居なくなった。
私も「ちゃり鉄14号」で塩狩駅を出発。
この日の目的地である三国峠に向かって峠を降っていく。駅の周辺はそれほどでもなかったが、国道に出ると周辺には朝霧が立ち込めていた。
蘭留駅に向かって続く緩やかな坂道を豪快に降っていく途中、ふと立ち止まって振り返ると、塩狩峠の山並みは朝霧を纏って姿が見えなくなっていた。
2023年11月(ちゃり鉄21号)
2023年11月から12月には「ちゃり鉄21号」で再び宗谷本線を走った。比較的短い間隔で宗谷本線を再訪したのは、翌春に幾つかの駅が廃止される予定だったからで、道北に存在する鉄道廃線跡の探訪を交えながらの第五訪となった。
渡道2日目以降は氷点下7度以下の寒気が入り込んで積雪・凍結が予想されていたので、ノーマルタイヤで渡道し途中でスパイクタイヤに履き替える計画。実際、道内初日は南風が入って冬用装備では暑いくらいの天候だったが、その翌日2日目の午後から吹雪となり、3日目以降は最終日に至るまで完全に凍結した冬の大地だった。スパイクタイヤへの換装は2日目の夜、瑞穂駅での野宿の際に行った。
タイヤ交換の手間を考えれば、一層のこと、最初からスパイクタイヤを履いておけばよい気もするが、オンロードをスパイクタイヤで走るとスパイクピンの損耗が激しくなる上に、路面抵抗が大きいためペダリングに影響が出る。もちろん、行程の大半が凍結路面となるので、ノーマルタイヤだけで走り切ろうとするのは極めて危険で無謀かつ完走も覚束ない。
京都府内にある自宅から新日本海フェリーの発着港である舞鶴港までの往復や、渡道初日の旭川駅~塩狩駅間はオンロードを長く走ることになるので、手間や積載増加のデメリットはあっても、ノーマルタイヤとスパイクタイヤの2本立てで走ることにしたのである。
渡道初日は予報通りに南風が入る悪天候だったが、幸いなことに、私の走行地点は辛うじて雨域から外れており、激しい雨が降った痕跡は随所に残っていたものの、直接雨に降られることは殆どないまま、塩狩駅まで到達することが出来た。
前回とは異なり、今回は、旭川駅からのアプローチ。
この時期の北海道は15時過ぎには暗くなり始める。
国道の塩狩峠を越えたのが16時15分頃だったが、雨天曇天だったこともあり既にヘッドライトが必要なくらいの明るさ。塩狩駅に到着する頃にはすっかり暗くなっていた。
この日は直接雨に降られることは殆ど無かったとは言え、比布駅を出た辺りからは激しい雨の跡が随所に残っており、路面が川のようになっている個所もあった。塩狩峠の登りも交通量の多い国道40号。車や自転車が跳ね上げる水しぶきが掛かるので、足元を中心に結構濡れている。そして翌朝からは氷点下7度の真冬並みの寒気流入との予報。路面や自転車・装備の凍結が気になる状況だ。
到着したばかりではあるが、列車接近のアナウンスが流れ始めたので、着替えもそこそこにカメラのみを携えてホームに出る。時刻表を見る限りこの時刻に停車する列車はなかったので、通過列車があるのだろう。安全な場所で三脚をセットし軌跡写真を撮影する余裕はなかった。
程なくしてやってきたのは旭川行きの特急「サロベツ」。既に駅の周辺は紺色の大気の底にあったので手持ち撮影はブレる恐れもあったが、幸い、使用しているカメラがCanon EOS6Dだったこともあり、高感度撮影で何とか手持ちで撮影することが出来た。
雨の中の自転車走行は辛く危なく侘しいが、雨の旅情駅は様になる。
ホームの照明や列車のヘッドライトがレールや地面に反射し、満足のいく一枚を撮影することが出来た。
特急「サロベツ」の通過を見送ったら、一旦、駅舎に戻って解装し濡れた衣類の着替えも済ませる。
直接降られることは無かったものの、路面の濡れが激しかったこの日のようなコンディションでは、車輪が跳ね上げる水を浴び続ける足回りはどうしても濡れが浸透してくる。手入れをした登山靴を履いてカバーを装着していたものの、毛管現象による吸水を100%防ぐことは難しいので、これで半日なり終日なりを走り続けると、ジワッと雨が染み込んでくることは避けがたい。
明日以降は氷点下の気温に下がる予想なので、早速、靴の内部に濡れが染み込んできていたのは心配ではあるが、一先ず、乾燥した靴下やウェアに履き替えて落ち着いた。
改めてホームに出て撮影を行う。
3年余りを隔てて同じ時期に再訪したということもあって、駅の周辺の雰囲気に大きな変化はないが、雨で濡れた地面やレールが照明を反射するので、前回よりも輝いて見える。
17時16分頃になって下りの329D普通列車名寄行がやってきたのだが、ここで宗谷本線の変化を実感した。というのも、到着した車両が新しく北海道各地に導入された新型の電気式気動車H100形だったからだ。
そういえば、前回の「ちゃり鉄14号」の旅でも同形式車両の試運転を何度か見かけたが、老朽化したキハ40系を置き換えるために、宗谷本線では2021年3月13日のダイヤ改正から本格的に導入されていたのだった。
少し遅れてやってきた対向の326D普通列車旭川行きも、遠目に見たヘッドライトの特徴から直ぐにH100形だと判断できた。
変わらぬ峠の旅情駅で、最新鋭の車両同士が行き交う。
時刻表は同じ17時19分発。
ディーゼルエンジン搭載の気動車ではあるので、出発の時には同じようなエンジン音の高まりがあるが、長年親しんだキハ40系のそれとはやはり異なるのを感じつつ、列車の行き違いを見送った。
この撮影のタイミングで塩狩駅付近に雨域がやってきた。雷鳴も轟いていたので激しい雨が接近してきていることは察知していたのだが、列車の行き違いをファインダーで覗いているうちに本降りになり始めた。
幸いずぶ濡れになる前には撮影を終えることが出来たので、急いで駅舎に引き上げる。
駅舎に引っ込んだ数分後には土砂降りの雨。
私は天気には恵まれないのだが、今日は珍しく、土砂降りの方が私を避けてくれていた。
次の列車は旭川行きの328D普通列車で発車時刻は18時16分。1時間ほどの間隔があるので、この間に夕食や野宿の用意を済ませる。
この間も断続的に雨が降り続いていたが、18時16分の328D普通列車旭川行きと、18時31分発の3325D快速列車「なよろ5号」名寄行きは、ちょうど雨の止み間に発着したので、撮影を行うことが出来た。
いずれもH100形だった。
この後、下りでは19時21分の331D、22時14分の333D、23時8分の335D普通列車が塩狩駅に発着し、20時35分和寒駅発の特急「サロベツ3号」と、21時15分和寒駅発の快速「なよろ7号」が通過していく。
対する上りでは20時13分の330D、21時42分の332D、23時7分の334D普通列車が発着し、21時和寒駅発の特急「宗谷」が通過していく。
2本の特急の通過時間が近接しているので、そのタイミングまでは撮影を続けたいが、雨は降ったり止んだりの状態が続いていた。
雨の止み間にはホームや駅前に出て撮影を行うものの、19時過ぎから21時頃にかけては断続的に強い雨が続いており、駅舎の軒下で発着列車の様子を伺うことしかできなかった。
特急「サロベツ3号」や特急「宗谷」は辛うじて撮影を行うことが出来たが、雨の中での撮影となったので、カメラも体も結構濡れてしまった。
この日は駅の到着前に通りかかった塩狩ヒュッテにも人の気配はなく、到着後も人の往来はなかった。
特急「宗谷」を見送った後も雨は降り続いており、外に出ての撮影は難しそうだったので、駅舎の中で翌日以降の行程の計画を再検討しながら過ごし、普通列車の発着を駅舎から眺めつつ見送る。
最終列車の発着を待って眠りについたのだが、その間、駅には訪問者も利用者も現れず、ただ、そぼ降る雨と夜の帳だけが駅を包み込んでいた。
翌朝は5時過ぎに起きだして行動を開始する。
この日から氷点下7度以下の寒波が予想されていたが、早朝の段階ではまだ寒気の流入はなく、駅の周辺は昨夜来の雨の名残を留めていた。
塩狩駅の出発は8時前を予定しており少し遅い。
始発列車の発着は前回と変わらず上りが6時46分の320D普通列車旭川行き、下りが6時44分の321D普通列車名寄行きで、321Dは名寄駅と幌延駅で列車番号を変えつつ、最終的に稚内駅まで行く長距離ランナー。両者は塩狩駅で行違う。
この始発列車の次は7時37分発の322D普通列車旭川行きが発着するのだが、この間の時間を利用して、塩狩神社跡などの探索を行う予定にしている。
この日の目的地は名寄駅手前の瑞穂駅で、一日の行程距離はぐっと抑えた。積雪や凍結が予想されるのでオンロード前提の計画とはせず、図書館での文献調査を挟んだ余裕ある行程としていたのである。
朝食や片付けを済ませたら駅の撮影に向かう。時刻は6時過ぎ。夜間は消灯している構内の照明が既に点灯していた。
空は一面にどんよりと雲が広がっており、このまま冬型の気圧配置の強まりとともに雪交じりの悪天候に向かうことになりそうだが、まだ、本格的に崩れるまでには余裕がありそうだった。
ホームの撮影をしているうちに1台の車が駅にやってきた。愛好家の車かと思ったのだが、これは保線作業の方の車だった。
自転車などが停まっているのを見て「自転車の旅ですか?」、「駅で泊ったんですか?」などと、話しかけられる。
保線作業は列車の往来を避けて行われるので、こうした早朝や深夜に作業員の方が駅に来られることも少なくない。
昨夜来の雨のことや今日この後の天候のこと、稚内まで数日かけて走ることなどを話したのち、「お気をつけて楽しんでください」と労いの言葉までいただく。こちらこそ、保線作業ありがとうございますという気持ちになる。
上り線ホーム側に移動して列車の到着を待つことにする。保線作業員の方々は列車の発着を待ってから作業に着手するようで、一旦、車に引き上げられた。
塩狩駅の広い構内に往時の賑わいを偲びながら、ホームで待機していると、まず、下りの321D普通列車がやってきて停車。ヘッドライトを消して行き違い待ちの体制に入った。
この列車は前回同様、キハ54形とキハ40系の2両編成でやってきた。最終的に稚内駅まで行く列車だが、名寄で2両目のキハ40系は切り離すので稚内まで行くのは先頭のキハ54形のみだ。
相前後して和寒方から相方の320D普通列車がやってくる。こちらは前回同様の3両編成だが、キハ54形1両とキハ40系2両で運用されていた前回とは異なり、3両ともにH100形となっていた。
大正時代に開業した塩狩駅に昭和と令和の車両が集い、そして行違う。変わりゆく鉄道風景がそこにあった。
一足先に321D普通列車が出発していき、少し遅れて320Dが出発。
変わらない塩狩駅の朝が過ぎていった。
列車の出発を待って保線作業員の方々も作業に取り掛かる様子。
私も塩狩神社の探索に向かうことにする。
続く塩狩神社跡や塩狩小学校跡の探索は、調査記録に詳細をまとめることにするが、ここでは簡単にダイジェストで述べておこう。
塩狩神社に関しては殆ど情報はないが、限られた情報を頼りに、塩狩駅東側の丘の上に鎮座していたと目星をつけて訪れた。
現地には参道があったはずだが既にその痕跡はなく、地形的に分かりやすい部分を選んで東側から回り込み、背丈を越える熊笹を掻き分けて丘の頂上付近に達すると、倒壊した神社の跡が地面の上に僅かに屋根の部分を覗かせていた。
明治時代に創建された塩狩神社は、最盛期には比布からも人が集まって賑やかな祭りが行われたようだが、昭和40年代には既に参拝客も居なくなり、集落の消滅とともに神社も消えた。
この神社跡のある塩狩駅東部の和寒山山腹には国設塩狩スキー場も存在したが、こちらも既に閉鎖されて久しく、現地でゲレンデの痕跡を探すのも困難だ。
山頂付近からは駅に向かってダイレクトに斜面を降っていく。
こちら側にも参道があったのではないかと思うのだが、それらしい痕跡を見つけることは出来なかった。降り切った山麓には古い廃車が眠っており林道を渡った先には廃屋が1軒ある。この廃屋は以前から気になっていたものだが、今回初めて近くで眺めることが出来た。
建物は時折手入れがなされているようで、敷地は刈り払いが行われた跡があり、ガラス窓の破損などもなく綺麗な状態を保っていた。
林道を駅の方に向かっていくと、丁度、塩狩ヒュッテが真正面に見える。ヒュッテの傍らには三浦綾子の小説「塩狩峠」の主人公、長野政雄氏の顕彰碑が見えている。そのまま進んで線路際まで出ると、塩狩駅には旭川行きの322D普通列車が停車していた。
保線作業員の片側は車で和寒方に移動されたらしく、そちらの方で作業している姿が見えた。
かつて営林署の官舎などがあった一目千本桜の丘も訪れてみる。強い冬型の気圧配置が予想されてはいたが、この時刻は束の間の穏やかな天候で、塩狩駅のすぐ後ろの丘の上に朝日が差し込んでいた。
少し高い位置から駅を見下ろすと別の車が1台停まっており、こちらは愛好家のものらしく駅の撮影などを行っていたが、暫くすると走り去っていった。前回の訪問でも朝の始発列車を撮影する愛好家の姿があったが、近隣の方が通勤途上などに立ち寄って撮影しているのかもしれない。
最後に構内踏切の位置から塩狩駅の広い構内を撮影して、この日の「ちゃり鉄21号」の旅路に出発。5回目の訪問となった塩狩駅を後にした。
ここから和寒駅に向けては国道40号線を降れば早いが、私は塩狩第二集落跡を迂回し、かつてこの地にあった塩狩小学校の跡などを訪れた。
小学校跡は正確な位置が分からず、恐らくここだろうと思われる広い空き地を見つけただけだが、現地にあるはずの看板などを見つけられなかったので、もしかしたら、違う場所を訪れていたのかもしれない。
いずれにせよ、剣淵川の源流域に広がっていた開拓地は既に原野に帰しており、二次林の奥にぽつりと残された幾つかのサイロの跡が、辛うじてこの地に人々の暮らしがあったことを物語っているだけであった。
この訪問に関しても、簡単に現地調査記録としてまとめることにする。
この日はこの後、和寒、剣淵、士別と巡って瑞穂駅に向かったのだが、和寒盆地に出た辺りから小雪がちらつき始め、士別市街地で本降りとなった。
湿雪だったためブレーキの制動も著しく低下。士別神社の坂道では制動が聞かず、降り坂で肝を冷やした。タイヤもノーマルだったためスリップすることもあったが、幸い、700x40Cでブロックパターンの深いシュワルベのマラソンプラス・ツアーを履いていたので、何とか転倒せずに瑞穂駅まで到着することが出来た。
ここでタイヤはスパイクタイヤに換装したが、ブレーキはカンチブレーキのままで旅を続けたので、時折、制動不足を感じることもあり、本格的に冬の北海道や積雪地を走るなら、ディスクブレーキ搭載でタイヤクリアランスの広いグラベルバイクにした方がよいと実感した。