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ちゃり鉄24号:旅の概要
- 走行年月
- 2025年1月~2月(9泊10日)
- 走行路線
- JR路線:山陽本線(和田岬)線
- 私鉄路線等:神戸電鉄粟生線・神戸高速線・有馬線・三田線・公園都市線、神戸市営地下鉄北神線・西神・山手線・海岸線、神戸新交通ポートアイランド線・六甲アイランド線、北条鉄道北条線
- 廃線等:JR鍛冶屋線、国鉄高砂線・有馬線、別府鉄道土山線・野口線、三木鉄道三木線、淡路交通鉄道線、篠山鉄道鉄道線
- 主要経由地
- 岩座神棚田、六甲山系、布引の滝、淡路島一帯
- 立ち寄り温泉
- 加古川温泉みとろ荘、三木竹乃湯温泉、由良増田湯、三原温泉、洲本東光湯、慶野松原荘、松帆の湯、湊河湯、有馬温泉金の湯、有馬温泉銀の湯、福知山温泉
- 主要乗車路線
- 自宅発着
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:906km/総累積標高差+16810m/-16813m
- 1日目:自宅-鍛冶屋=西脇市-北条町=網引-加古川温泉みとろ荘-網引
(140.0km/+2030m/-2023m) - 2日目:網引=粟生=鈴蘭台-谷上=新神戸=西神中央-三木城跡
(106.9km/+2212m/-2199m) - 3日目:三木城跡-三木=厄神-加古川=高砂港-野口=別府港=土山-明石港~岩屋港-生石公園
(106.1km/+1122m/-1121m) - 4日目:生石公園-熊田海岸-土生海岸-亀岡八幡神社-三原温泉-諭鶴羽山-土生港~沼島港-沼島おのころ園地
(73.3km/+2276m/-2276m) - 5日目:沼島おのころ園地-上立神岩-沼島港~土生港-福良=洲本-中浜公園
(69.5km/+1604m/-1604m) - 6日目:中浜公園-柏原山-由良海岸-洲本城跡-鮎屋の滝-福良-慶野松原
(85.7km/+2016m/-2016m) - 7日目:慶野松原-伊弉諾神宮-ヒヤリ峠-摩耶山-江埼-岩屋港
(79.6km/+1459m/-1459m) - 8日目:岩屋港~明石港-新長田=三宮・花時計前-三宮=神戸空港-マリンパーク=住吉-和田岬=兵庫-新開地=湊川-会下山公園
(87.8km/+708m/-709m) - 9日目:会下山公園-湊川=有馬温泉-有馬=三田=有馬口-有馬温泉
(61.6km/+1785m/-1378m) - 10日目:有馬温泉-横山=ウッディタウン中央-篠山口=篠山町-おおたわ峠-福知山温泉-自宅
(96km/+1598m/-2027m)
- 1日目:自宅-鍛冶屋=西脇市-北条町=網引-加古川温泉みとろ荘-網引
- 総走行距離:906km/総累積標高差+16810m/-16813m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄24号:走行ルート


ちゃり鉄24号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
3月21日 | 各駅停車「ちゃり鉄号」の旅にコンテンツ追加 →北条鉄道北条線、神戸電鉄粟生線・神戸高速線・有馬線・三田線・公園都市線、神戸市営地下鉄北神線・西神・山手線・海岸線、神戸新交通ポートアイランド線・六甲アイランド線、JR山陽本線(和田岬線)・鍛冶屋線、国鉄高砂線・有馬線、別府鉄道土山線・野口線、三木鉄道三木線、淡路交通鉄道線、篠山鉄道鉄道線|ちゃり鉄24号 のダイジェスト。6日目~10日目(全10日) |
2025年3月9日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄24号:ダイジェスト
2025年第1回目の「ちゃり鉄」は地元福知山の自宅発着で丹波・播磨・神戸・淡路を巡る9泊10日の旅とした。
2024年3月~4月に実施した「ちゃり鉄23号」では現地1日目の走行距離5㎞に満たない地点で後輪のスポークが破断した上に、何とか誤魔化しつつ走った現地2日目に至って、かねてから不調が続いていたリアディレイラーの変速不良まで悪化し、走行中の変速でチェーン逸脱と後輪ロックを生じる極めて危険な状況となったため、やむなく自転車での旅を中止したのだった。
更に、乗り鉄の旅に切り替えた翌3日目には撮影用のデジタル一眼レフカメラが故障し撮影も不可能な状態に。
結局、乗り鉄の旅も諦め、購入した青春18切符も使い切れないまま、旅そのものを中止して帰宅するという前代未聞の「ちゃり鉄」となった。
あれから1年弱。
初代「ちゃり鉄」号は引退させることとして、これまでのトラブルの経験を踏まえて二代目「ちゃり鉄」号を購入した。当初はオーダーメイドも考えたが、納期や予算の関係もあって残念ながら既製品を購入することになった。
とはいえ、購入価格は初代の3倍。ディスクブレーキ搭載のグラベルロードを選択したので、カンチブレーキのクロスバイクだった初代と比較すれば、かなりのアップグレードとなった。
この間、会社の業務量が増加してきたこともあり執筆活動にも支障を生じるようになっていたが、何はともあれ旅そのものを再開するのが第一目標。
キャリアやGPSなども含めた装備・携行品も大幅に更新し、ようやくこの日を迎えることが出来たのは幸いだった。
復帰第一号は慣れないディスクブレーキ車での真冬の走行という事もあって、丹波・播磨から神戸・淡路島を走るコースを選んだ。輪行が不要となるように自宅発着できることや、積雪雨天といった悪天候のリスクが少ないこと、いざという時に自宅や実家に戻りやすい場所であること、などを重視した。
昨冬の「ちゃり鉄22号」では備讃地域と瀬戸内海島嶼群を巡ったので、意図せず2年続けて同じ地域を走る事になったが、それはそれでよしとする。
日程も「ちゃり鉄」にしては短い9泊10日。
真冬は日照時間が短いこともあって、1日の行動距離を100㎞前後に制限する形で、比較的余裕のある行程計画とした。
ちゃり鉄24号:1日目:自宅-鍛冶屋=西脇市-北条町=網引-加古川温泉みとろ荘-網引
初日は福知山にある自宅から丹波北播を南進し、北条鉄道北条線の網引駅を目指す行程。途中、榎峠、播州峠という二つの峠を越えるとともに、岩座神棚田を訪れるルートとした。
走行対象はJR鍛冶屋線跡と北条鉄道北条線。
この辺りは「ちゃり鉄7号」の旅で既に走行済みだが、今回は逆から走る形での再訪となった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図では50㎞までの前半に顕著な3つのアップダウンが表れているが、スタートから順に榎峠、播州峠、岩座神集落となる。こうしてみると、岩座神集落付近が最も標高が高く前後の勾配も厳しい。この集落には棚田があるのだが、棚田は一般的に急傾斜地に構成されることが多く、重積載の「ちゃり鉄」号で訪れるのは大変なことが殆どだ。
中半以降は播磨路に入り、加古川水系に沿って緩やかに降っていくが、途中、JR加古川線沿線から北条鉄道沿線に向かうための丘陵越えがあり、これが断面図にアップダウンとして現れている。標高差が小さいので前半のアップダウンと比較して楽なように見えるが、小刻みなアップダウンはむしろ負荷が高い。
その丘陵に滝野温泉「ぽかぽ」があるのでこの日の立ち寄り温泉としていたのだが、現地に行ってみると訪問の数日前から工事で臨時休業となっていた。そのため「初日から温泉無しか」と悄然としつつも予定より1時間以上早く網引駅に到着したのだが、片道10㎞の先に加古川温泉「みとろ荘」があることが分かったので、往復20㎞という遠距離ではあるが足を延ばすことにした。
結果的に、110.7㎞の計画距離だったところ140㎞の実走距離となり、行動終了時刻も予定より1時間ほど遅くなった。初日であるにも関わらず、日の出前から日の出後まで走るハードな一日であった。
自宅出発は夜明けの1時間半ほど前の5時20分過ぎ。真っ暗な中で前照灯5灯の効果確認などを行いながら榎峠を越えて兵庫県の青垣町に降った。降った頃には黎明を迎えており、澄み切った冷気が峠越えで熱を帯びた体を冷却してくれる。
榎峠は400番台国道らしい狭隘な峠だが、現在、山麓をぶち抜くトンネル工事が進められており、いずれは旧道となる運命だ。道路として維持されるのか廃道化するのかは分からないが、交通量僅少の積雪地の狭隘な峠道。やがては廃道化していき自転車で越えるのも難しくなっていくのだろう。
その未来予想図のような峠が播州峠で、ここもかつての国道でありながら、山麓のトンネル開通に伴い現在は廃道化が進んでいる。峠の出入り口は封鎖されているものの、登山の歩行者などが通り抜けられる空間が開いており通行止めの表示もなかったので、計画通り播州峠を越えて青垣町から加美町に抜ける。
峠に残された町域界の表示が往時を偲ばせる。



播州峠で加古川本流水系の青垣町から杉原川水系の加美町に入る。この杉原川を降っていくとJR鍛冶屋線の終着駅があった鍛冶屋に達する。そのまま鍛冶屋線の廃線跡に沿って降っていけば西脇市街地を経て西脇市駅に達しJR加古川線と合流するのだが、そのJR加古川線は加古川本流に沿っている。
こうしてみると杉原川も加古川水系であることが分かるのだが、加古川水系の鉄道網は、元々は、私鉄の播州鉄道に起源を持っており、播州鉄道は加古川水系の水運を置き換える形で敷設された鉄道だった。
鍛冶屋線は杉原川に沿っているが、今日、この後で走る北条鉄道北条線は万願寺川・下里川に沿っており、2日目に走る予定の三木鉄道三木線は美嚢川に沿っている。
また、加古川駅から高砂港までの間は高砂線が結んでいた。更に、高砂線の中間駅である野口駅と山陽本線の土山駅からは別府鉄道が分岐して、別府港までの間を結んでいた。
JR加古川線・鍛冶屋線、北条鉄道北条線、三木鉄道三木線、国鉄高砂線は、いずれも、播州鉄道に起源を持った路線であるが、播但鉄道時代に戦時買収によって国有化された後、それぞれにJR化、三セク化、廃止と命運を分け今日に至る。
幹となっていた加古川線ですら、西脇市~谷川間においては、存廃議論が発生するような状況である。
今回は「ちゃり鉄7号」に引き続きこの地域を走る事になるが、日程的に制約のあった前回とは異なり、沿線での「途中下車」にも重点を置くことにした。
その手始めに、播州峠から杉原川沿いを最短で降るのではなく、途中で岩座神集落に立ち寄り、棚田や集落の神社を訪れることにした。
この登りは殊の外厳しかったが、小雪舞う冬枯れの山里の風景の中を一人静かに走る事ができた。
五霊神社に立ち寄った後は一気に山を降るのだが、向かい風が強くて降り勾配なのに押し返される。
案外疲労感を抱きながら、「ちゃり鉄24号」最初の「ちゃり鉄」区間であるJR鍛冶屋線の終点駅、鍛冶屋駅には9時18分着。52.4㎞を約4時間で走ってきた。


JR鍛冶屋線は野村駅(現在の西脇市駅)から鍛冶屋駅までの間を結んでいた13.2㎞の路線だった。加古川線沿線の中核都市である西脇市の中心部を通る路線だったこともあり、北条線、三木線、高砂線と比較して最も輸送密度が高い路線ではあったが、結果的には第三セクターに転換されることもなく、JR化後すぐに廃止されている。輸送密度向上に貢献したのが野村~西脇間の1駅間だけだったことも災いしたが、地元自治体や沿線住民の意識の問題もあったのだろう。
ただ、鍛冶屋線の廃線跡は鉄道記念館や記念公園、サイクリングロードとして比較的痕跡を留めており、地元から見放された路線という印象も受けない。
鍛冶屋駅跡、市原駅跡では旧駅舎を転用した鉄道記念館とキハ30のの静態保存が往時の面影を色濃く伝えてくれるし、中村町駅跡、曽我井駅跡、羽安駅跡にも、駅跡であることを示す標識などが残されている。唯一、沿線随一の中核駅であった西脇駅跡だけは、再開発が進んで駅の面影は消え失せていた。
鍛冶屋線沿線でも「途中下車」を楽しみ鍛冶屋駅跡付近では大歳金刀比羅神社、西脇駅跡付近では童子山界隈の神社や為祥小学校跡などを訪れた。
また西脇市街地で予定通り昼食とした。播州ラーメンというB級グルメを食したが、やや甘みのある独特のスープで初めて食べる味わいだった。
昼食を食べた後、西脇市駅まで走ってJR鍛冶屋線跡の走行は終了。11時37分。71.3㎞であった。
野村(現・西脇市)駅の手前で加古川線と合流するが、加古川線の野村~谷川間の開通は鍛冶屋線の野村~鍛冶屋間の開業よりも遅いため、合流地点の線形を見ていると、直線の鍛冶屋線が本線格で曲線の加古川線が支線格であるように見える。
国鉄時代の存廃議論は実際の旅客動線などを考慮せず線路名称単位で議論されていたので、鍛冶屋線が廃止され加古川線が存続したのだが、もし、鍛冶屋線が加古川線と称し、野村~谷川間が「谷川線」や「北播線」のような名称を付されていたとしたら、この地域の鉄道の現状も変わっていたことだろう。













西脇市駅からは加古川に沿って少し南進し、滝野駅付近から進路を西に転じ、丘陵を越えて北条町に向かう。途中、加古川の名勝である闘竜灘を再訪するとともに、丘陵越えの区間では滝野温泉「ぽかぽ」に立ち寄る予定だ。
闘竜灘は昨年の同時期に走った「ちゃり鉄22号」の旅でもJR加古川線の「ちゃり鉄」で訪れている。川の名勝に海の難所を表す「灘」という表現が使われているのが面白い。
この辺りの加古川は河床の岩盤が露出した低落差の滝状を呈しており、加古川水運にとっては難所の一つであった。船の通行に支障があったため荷揚げや荷積みを行う必要があり、河畔にはそういった舟仕事人を相手にした宿も設けられて水運が盛んだった近代は賑わったらしい。
明治時代に入ってダイナマイトによる河床掘削工事が行われて、この難所を船で通行できるようになったが、大正時代に播州鉄道が開通すると加古川水運は衰退の一途を辿り、以降、闘竜灘は観光地としての役割に舵を切った。
今日ではその観光も下火ではあるものの、河畔には今でも旅館があり、付近の町並みとともに往時の賑わいの面影を偲ぶことが出来る。
闘竜灘の最寄り駅が滝駅であり、少し離れたところに滝野駅がある。この両駅や周辺地名が持つ「滝」はもちろん、闘竜灘に由来するものだ。
滝野駅付近から加古川本流に別れを告げ、播磨中央公園のある丘陵地帯に入っていく。
ここまでの前半ルートで榎峠、播州峠、岩座神集落の急登を越えてきたにもかかわらず、この丘陵越えの登りは体に応える。
大きな峠は気持ちの準備ができているが丘陵越えではそうでもない、といった精神的なものも影響するのだろうが、細かなアップダウンの繰り返しはランニングで言えばインターバルトレーニングのような負荷を体に与えることになるので、実際に見た目以上に強度が高いのではないかと思う。
そんな中で辿り着いた滝野温泉「ぽかぽ」は何と、訪問の数日前から工事のための臨時休業に入っていた。事前に営業日の情報は調べてきたのだが、営業カレンダーに載らないような臨時休業という事だったのかもしれない。駐車場が見えてきた段階で車が駐車されていなかったので、最初は営業日を間違えたのかと思ったが、そうではなかった。
この先、北条町から北条鉄道沿線に入ると、駅の近隣には目ぼしい温泉・入浴施設がないため、これで初日から風呂無し野宿となった。
悄然としつつも仕方ないので先に進むことにし、余裕があれば訪問しようと目星をつけていた北条町の羅漢寺など、幾つかの寺社を訪問しつつ、今夜の駅前野宿地である網引駅に向かうことにした。
羅漢寺は敷地にある羅漢像が有名で寺の解説板によれば459体で構成されているという。
小さなお寺ではあるものの、私が訪問した時にも前後して1~2組の訪問者があった。
若者が大挙して押し寄せるような「観光地」ではなく、「ちゃり鉄」の旅で訪れる場所としてはむしろ好ましい。
羅漢寺では窓口の方が私の「ちゃり鉄」号をご覧になり、「凄い荷物ですねぇ」と話しかけてこられた。福知山からきて淡路島などを走る旅をしていることを伝えたが、「今日これから、淡路島まで行くんですか?」と至極まっとうなご質問もいただく。
既にお昼を回っているので、この時間から淡路島に向かうのは現実的ではないし、実際、淡路島入はこの翌々日のお昼。経路は複雑なので割愛したものの、色々回ってから明後日淡路島に渡ることなどを伝えた。
近年はブームもあってロードレーサーに乗っている人を多く見かけるようになったが、私のようなスタイルの旅人はむしろ少なくなっている印象があるし、大学のサイクリング部などの団体もすっかり見かけなくなった。
そんなこともあってかえって目立つのか、時折、話しかけられることがあり、一人旅に彩りを添えてくれる。
羅漢寺の窓口の方に「すぐそこに住吉神社もありますから、是非、お参りください」と勧められたので、住吉神社にも立ち寄っていく。
この住吉神社は播磨国三宮であり旧縣社でもある。それだけ格の高い神社という事になるだろう。
私自身は神社の格式の高低には興味がなく参拝作法の詳細も知らないが、神社そのものが湛える雰囲気には惹かれるものがあり、「ちゃり鉄」の旅でも多くの神社を訪れるようにしている。
旧懸社らしい風格ある佇まいの住吉神社を辞して北条鉄道北条線の北条町駅には13時27分着。91.4㎞であった。



今回の北条鉄道訪問では五能線から転入してきたキハ40系の営業運転と巡り合えるかどうかも楽しみにしていたのだが、生憎、北条町駅に姿は見えたものの営業運転には就いていなかった。
だが、北条鉄道は厳しい経営環境の中で法華口駅に列車交換設備を復活させるなど、精力的に設備投資も行っており、「ちゃり鉄」としても応援したい鉄道路線である。
北条町駅では駅員が出迎える中、粟生からやって普通列車が到着した。
近年は駅の無人化が加速しており、ローカル線やローカル鉄道でこうした風景を見ることも少なくなってきたが、これも旅情ある鉄道風景だ。
列車の到着と入れ替わりに一足先に北条町駅を出発。
駅の西の岡に鎮座する金刀比羅神社を参拝してから播磨横田駅、長駅、播磨下里駅、法華口駅と進んでいく。
播磨横田駅は播州鉄道時代の1916年6月3日に横田村停留場として開業するも、播但鉄道時代の1934年4月5日に廃止されており、国有化に際しても復活することはなかった。その後、1961年10月1日に至って横田仮乗降場として復活した後、同年12月20日に駅に昇格したという歴史を持つ。
今日では篤志家の寄付を受けて駅舎が改修されるとともにギャラリーとなっており、小洒落た駅舎に合わせるように駅前にもピザレストランがオープンしている。
続く長駅は風格ある佇まいの木造駅舎が残っているが、この駅本屋とプラットホームが2014年4月25日に登録有形文化財の指定を受けている。構内には交換可能だった時代の名残ともいえる旧ホームも残っており、北条線の歴史を偲ばせる。




長駅から播磨下里駅に向かう道中では、線路の向こうに一見して分かる神社の社叢林が目に入ってきた。こじんまりとしたその社叢林の雰囲気は好ましく、事前にピックアップしてはいなかったものの、参拝していきたい気持ちが湧いてきた。
ただ、線路の向こうにあるので迂回が必要となりそう。というのも、神社の周りの線路に踏切が見当たらなかったからだ。迂回距離も長くなるので、場合によっては線路のこちら側から向こう側を撮影して終わるかもしれない。参道は線路の向こう側にあるのだろう。
そうこうしているうちに、播磨下里駅を出発した普通列車のヘッドライトが遠くに見えてきた。
愛らしい神社の社叢林とその脇を行く北条鉄道の気動車の姿を写真に収め、ふと神社の方を見ると、何と鳥居が線路の側を向いている。
とすると、線路を渡ってアクセスするという事になるのだが、そこに踏切はなく何やら標識が経っているだけだ。
ローカル線などではよく地元の方が勝手踏切を設置しており、鉄道会社が「渡るな」という趣旨の警告標識を立てているのを目にする。ここでも、神社に向かう人が勝手に線路を渡るので、北条鉄道側が注意標識を立てているのだろうと思いきや、そこには「地蔵踏切」の文字とともに、列車の通過時刻が表示されていた。
現地ではここが「地蔵踏切」でいわゆる第四種踏切なのであろうと判断。線路の向こうの大歳神社を参拝したのだが、帰宅後によくよく調べてみると、地蔵踏切は大歳神社から見て長駅側に見えている踏切を指しており、この大歳神社前の標識の位置には、やはり正式な踏切は無いようである。
実際、現地に設置されていた標識の写真を後から確認したところ、「北条鉄道」の社名はなかったことから、やはりこれは勝手踏切の類だろう。線路脇の標識だけに北条鉄道側も認識しているだろうが、大歳神社は鉄道敷設以前からこの地に鎮座していたはずで、黙認状態にあるのかもしれない。
ちなみに、ここは北条鉄道の撮影スポットでもあるらしく、ネット上ではそれなりに情報が見つかったが、神社の由来などについてまとめたものは見つからなかった。
播磨下里駅の手前では線路沿いを歩く男性ハイカーのグループを追い抜く。
駅に着いてみると、駅前の飲食店や待合室に人影があり、それぞれに北条鉄道沿線の休日散歩を楽しんでいるようだった。
撮影しているうちに先ほどのグループも駅にやってきて列車待ち。既にホームのベンチに腰かけて列車待ちをしていた女性と談笑などしている。
経営という観点では厳しい利用実態になるだろうが、それでも利用者の姿が見られることにホッとする。
播磨下里駅到着は14時33分。98.2㎞であった。



播磨下里駅も長駅と同様、駅本屋とプラットホームが登録有形文化財である。更には隣接する法華口駅も同じ文化財登録駅で、連続3駅が文化財としての価値を認められているという事になる。
ところで、この播磨下里駅は播州鉄道の開業当時は播鉄王子駅と称していた。法華口駅の旅情駅探訪記では、1926年8月30日発行の旧版地形図を掲げているが、そこには「ばんてつわうじ」という駅名が記されている。「わうじ」は「おうじ」の旧仮名遣いだ。更には周辺が「下里村」であったことも記されている。
今日の地形図を見ても「下里」の地名が見えないのに「播磨下里」と名乗っていることが不思議だったのだが、歴史的には「播鉄王子」駅として開業したのち、播但鉄道時代の1943年6月1日、戦時買収による国有化を契機に当時の自治体名を採って「播磨下里」駅と改称されたのである。「播磨王子」駅とならなかったのは、既に国鉄に存在した「王子駅」や「王寺駅」との混同を避けることや、下里村の玄関口であるということを示すためだったのではなかろうか。
その後、下里村は1955年1月15日に北条町に吸収合併されて自治体としては消滅、大字としても残らなかった。結果的に下里の地名がない場所に「播磨下里」駅として残っているのである。
ちなみに、この播磨下里駅の北東に旧郷社の王子神社がある。播鉄時代の駅名を今に伝える王子神社は今回、訪れたい神社の一つだったので、法華口駅までの最短距離を進まずに寄り道して参拝した。
「ちゃり鉄」は歴史を走る旅でもある。


王子神社を出た後は小径を縫うようにして走り、一旦、北条線の線路を北から南に渡って法華口駅に到着した。14時53分。101.2㎞。この1区間で100㎞を超えた。
法華口駅は「ちゃり鉄7号」での訪問の際に駅前野宿を実施した思い出のある駅で、旅情駅探訪記もまとめている。駅に関する詳細はそちらもご覧いただきたいが再訪はそれ以来。「ちゃり鉄」以前の乗り鉄の旅で北条鉄道を往復乗車した際の車窓越しの訪問も含めれば3度目の訪問という事になる。
前回の訪問時との大きな違いは、名物となっていたボランティア駅長が退任されたことと、撤去されていた列車交換設備が移設再設置され当時のホームは利用者通路となって乗降用途での使用が停止されたことであろう。また、直接は関係ないが駅の近くにあったコンビニエンスストアが閉店していた。
駅前野宿での訪問となった前回は日没後に到着し夜明け直後に出発したので、明るい時間帯の法華口駅をじっくり眺める機会はなかった。今回は既に夕方めいてはいるものの、青空の下に佇む新生・法華口駅と対峙することが出来た。
駅舎内に入っているパン工房は健在だったが、この日は営業時間外。軽食にパンを頬張っても良かったのだが、それはまたの機会にする。
この駅は駅名が示すように、西方の山中にある法華山一乗寺への最寄り駅であるが、最寄というには離れており5㎞ほどの距離がある。徒歩なら早歩きでも1時間程度かかる距離だし、直通する公共交通機関もない。
そんなこともあってか、北条鉄道を利用して一乗寺を訪れる人は多くはない。
かく言う私も前回の訪問では一乗寺を訪れる時間を取ることが出来なかった。
今回の「ちゃり鉄24号」でも、当初の計画では17時前の訪問計画となっていて、閉門時間が気になっていたのだが、不幸中の幸いか、滝野温泉に入ることが出来なかったおかげで、15時台前半には一乗寺を訪れることが出来る。閉門時間の心配もないし、明るいうちに訪れることが出来そうだ。
しかも、今回は、一乗寺を訪れた後、田原駅に直行せず、鶉野飛行場跡も訪れることにしているのだが、その飛行場跡の訪問まで含めて明るいうちに終え、網引駅への到着を日没時刻くらいに早めることが出来そうだ。
法華口駅滞在時間中は列車の往来がなかったので、今回は11分の滞在で駅を出発。
まずは駅西方の法華山一乗寺を訪れ、山中の古刹を20分ほどかけて散策した。
若者が大勢訪れるような場所ではないのだが、途中の山道ではママチャリで坂道を登る若い男性2人組の姿もあった。到着した一乗寺の門前では、バイクでやってきた同年代と思われる中年男性のグループが場違いな大騒ぎをしている。エンジンを空ぶかししたり、大声で猥談を繰り広げて爆笑したり、実に騒々しい。大騒ぎと言えばハロウィンの若者の醜態などを思い浮かべて顔をしかめる中高年も多いが、実際には中高年も騒がしいことが少なくない。列車の中で大声で電話を掛けたりしているのも、案外、中高年が多くはないだろうか。
この五月蠅いグループを避けて自転車を駐輪し本堂への長い階段を登るうちに、足元の谷間から暴走族のような爆音が響き始めた。先ほどのグループが走り去っていったのだろう。
ようやく山寺らしい落ち着きを取り戻した一乗寺には、中高年のご夫婦やグループの姿がちらほら見えた。
20分ほどで本堂や三重塔などを見て周り一乗寺を辞したのち、法華口駅の西から東へと移動して、鶉野飛行場跡も訪れた。冬枯れの夕方の風景の中に広がるだだっ広い滑走路跡は、戦争の記憶を今に伝える遺構でもあり、戦時中には北条線の線路脇に不時着した軍用機が列車転覆事故を起こしたという知られざる歴史も秘めている。
こちらにも記念館があるようだが、時刻の都合もあってここでは広い空き地となった滑走路の跡を見るだけにして先に進むことにする。
訪れたかった2か所を晴天の明るい時間帯に訪れることが出来たのは幸いだった。



夕日が照らし出す田原駅を経て網引駅には16時50分に到着した。計画では日没時刻を過ぎた17時59分の到着予定だったのだが、滝野温泉に入ることが出来なかった分、予定よりも1時間強の早着となり、網引駅での郷愁溢れる日没風景を撮影することが出来そうだ。
この日は網引駅での駅前野宿としていたが、網引駅前は民家が立ち並び、南の丘陵地帯に展開する工業団地に勤める労働者の通勤利用も見られることから、明るいうちに駅前野宿の支度をするのは憚られる。
そこで着替えなどを済ませた上で、撮影や近隣散策で時間を費やそうかとも思ったのだが、調べてみると10㎞ほど離れたところ数か所に温泉施設がある。そのうち、加古川温泉みとろ荘はまだ訪れたことがない温泉だったこともあり、気持ちは温泉往復に転じた。
往復で20㎞。
温泉での入浴も合わせて2時間程度の追加行程となるが、やはり冬場の旅で風呂無しというのは疲れを溜め込むし、初日からというのも気が滅入る。
丘を越えて行くことになるのでアップダウンも予想されるが、幸い大きな峠越えではないので走行に支障はないだろう。この後、雨が降り出すような心配もない。
そうと決まれば早々に網引駅を出発し加古川温泉みとろ荘に向かいたくもなるが、網引駅は印象的なトワイライトタイムを迎えている。この時間帯に1往復の列車の発着があるので、それを見送ってから出発することにした。
網引駅でトワイライトタイムを迎えるのは実は2回目。
前回2017年の「ちゃり鉄7号」でも日没のタイミングで網引駅を訪れていた。
その時は郷愁溢れる日没の風景の中、法華口駅方に続く直線の向こうからヘッドライトを灯した列車がやってくる情景を撮影したくてホームで待機していると、列車到着の10分ほど前になって地元の若い女性がホームに現れた。
構図としとしても申し分なく、ホームの粟生駅方の末端から列車の到着を待つ。勿論、個人が特定できるようなズーム撮影などは控え、あくまで女性一般の人影というレベルでの構図としたことは言うまでもない。
そして遠方の踏切が作動し列車のヘッドライトが煌めき始めた瞬間、車でやってきた中高年夫婦が私の構図のど真ん中に入ってきて法華口駅方のホームの末端に立ち、到着列車の撮影を始めたのだった。
夫人の方は撮影に夢中になるあまり、列車が駅構内に隣接する踏切に差し掛かっても、ホーム末端から線路側に身を乗り出しての撮影を止めなかったため、結局、けたたましい警笛を鳴らされていた。私が撮影を諦めたのは言うまでもない。
今回、そのリベンジもあって同じ位置でカメラを構えて待機していたのだが、列車の到着時刻間際になって待合室に居た鉄道ファンがホームに現れ、私が撮影しているのを一瞥した後、前回同様、法華口駅側の末端に立って撮影を始めた。
私を一瞥した後で、その前に立って撮影を始める心理が理解できないが、こういうことはよく経験する。また、後から来た人が私に対して「邪魔だからどけ!」と遠くから怒鳴ってきたことも、過去に何度か経験している。
いずれにせよ、あえなく敗退。網引駅は中々に撮影が難しい。
私の構図に割り込んできた鉄道ファンは、そのまま粟生駅に向かう列車に乗車して駅を立ち去った。駅からは人影が消えたのだが、それも束の間。折り返しやってくる北条町駅行きの普通列車に乗車するらしい、勤め帰りの人影が駅の周りに現れる。一部は列車ではなく駅にやってきた迎えの車で去っていったが、数名の男性が駅に残り、間もなくやってきた普通列車で北条町駅方面に向かって去っていった。
北条鉄道沿線ではこうした路線内利用者の姿を見かけることが少なくない。短距離故に経営に資する程度は微々たるものではあろうが、地元の人による通勤通学利用があるのは鉄道としては好ましい状況である。



列車の出発を見送ったら、私も加古川温泉に向けて出発。
途中のルートは予想通り大きなアップダウンはなかったものの、日が暮れた山中で道を間違えたため、往路は随分と遠回りして加古川温泉に到着。17時17分に網引駅を出発して11.9㎞を走り、17時56分に到着。130.6㎞であった。
それでもこの日の温泉にありつけたことには満足。40分ほど滞在して疲れを癒し18時33分発。
復路は往路とは違う経路で9.4㎞を走って19時12分に網引駅に戻ってきた。日走行距離は140㎞となった。

帰り着いた網引駅はすっかり暮れており、駅の周辺には人の姿も見えなくなっていた。
まだ、温泉の余韻を体に感じるうちに着替えや解装・野宿の準備を終える。タイトな走行着からルーズなテント着に着替えてようやく心身が緩む。テントや駅舎での野宿とは言え、このスタイルで30年以上も旅を続けてきたこともあって、馴染みの「旅の宿」に投宿した心地がする。
以前は一日に150㎞前後の距離を走る「ちゃり鉄」もよく行っていたが、近年は「途中下車」に重点を置くようになったので、100㎞前後の走行距離に抑えることが多い。この日は意図せず140㎞も走る事になったが、天候に恵まれていたことも功奏した。もし、雨や雪が降っていたら、加古川温泉まで足を延ばす気にはならなかっただろう。
北条鉄道の拠点駅は北条町駅であるため、列車は北条町駅から出発して粟生駅に到着し、直ぐに折り返して北条町駅に戻る、という運転形態となっている。網引駅は粟生駅の隣駅なので、北条町駅からやってきた列車は直ぐに粟生駅から引き返してくる。その後、1時間前後の間隔が開き、次の粟生駅行きがやってくるといった仕業だ。
列車の発着時間帯には駅利用者の乗降があることが予想されるので、その前後の時間帯を避けて手早く夕食を済ませ、就寝までのひと時を撮影に費やすことにした。
網引駅での乗降者数は多くはないものの、各列車には数名ずつの乗降があり、車内にもそこそこ乗客の姿が見られた。
待ち時間には付近を散策したり、待合室に設けられたミニ文庫の漫画本を読んだり、一日の出費の精算をしたり、案外色んなことをして過ごすうちに就床予定の時間を迎える。
訪れる者も絶えてひっそりと静まり返る網引駅と暫し対峙した後、少々ハードだった初日の余韻を噛み締めつつ、駅前野宿の眠りに就くことにした。




ちゃり鉄24号:2日目:網引=粟生=鈴蘭台-谷上=新神戸=西神中央-三木城跡
2日目は網引駅を出発したのち、粟生駅から神戸電鉄粟生線に入って鈴蘭台駅まで走り通し、その後、有馬線の谷上駅から分岐する神戸市営地下鉄北神線に入って六甲山系を越える。
新神戸駅からは神戸市営地下鉄西神・山手線に入って西神中央駅まで走り通し、最後に西神丘陵を走って昼間に通過した三木市に戻り、三木城跡公園の東屋で野宿とする予定。この日は、三木城跡公園の近くにある三木温泉竹乃湯で入浴する予定なので野宿場所のロケーションはよいのだが、六甲山系越えと西神丘陵横断を含むアップダウンの激しいコースで、到着予定時刻も日没後。
昨日に引き続き、ハードな行程になることが予想される。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


ルート図はこの日の行程の特徴をよく示しており、序盤に通過した三木市に中盤以降で逆戻りしており、あたかも、三木市に忘れ物でもして取りに帰ったかのような軌跡を描いている。もちろん、実際にはそうではなく、3日目に入って三木鉄道三木線などを走るためのルート設計なのだが、こういう行程の旅に付き合わされたら普通の神経の持ち主は辟易するのかもしれない。
断面図では行程半ばの57㎞付近にこの日のピークが見えるが、ピーク前後の勾配の様子は非常に興味深い。一見して分かるように、前半行程ではピークに向けてアップダウンを繰り返しつつも緩やかに登り続け、ピークからは10㎞程度の間で一気に降ってしまう。
これは六甲山系の地形を如実に物語っており、地理学的には「傾動地塊」と呼ばれる山体構造を表している。関西地方では同様の顕著な傾動地塊が他にもあり、生駒山地なども有名な事例だ。
傾動地塊は断層活動による地殻変動の結果、字面の通り、地塊が傾いて動いたことを物語っているが、六甲山系では北西側に緩斜面、南東側に急斜面が展開しているため、北西から南東に抜ける「ちゃり鉄25号」ではこのような断面図が現れるのである。
西宮付近から六甲山最高峰を経由して鈴蘭台に降り神鉄粟生線に入った「ちゃり鉄7号」では逆パターンの断面図が見られるが、この方向で六甲山系にアクセスし重積載の「ちゃり鉄」を漕ぎ登るのはかなりの負担となる。
今回のルート取りは単に前回とは逆方向からアクセスする意図だったので特に勾配緩和を意識したものではなかったが、結果的には、六甲山系の急登を避けるルート取りとなった。
とは言え重積載の「ちゃり鉄」号でこのルートで走るのがきつかったことには変わりない。更に、後半の西神丘陵のアップダウンは、自動車専用道のような構造の車道の走りにくさも手伝って心身の疲労感が強く、正直、何度も走りに行きたくなるようなルートではなかった。
酔狂なものだが、そこに神戸市営地下鉄西神・山手線が走っているのだから、例え走りにくい道であったとしても「ちゃり鉄」としてはその鉄道路線に沿って走ることにはなる。
この時期の夜明けは7時頃だったので、ルート計画を作成する段階では毎日の出発時刻を7時としていた。冬場は日照時間が短いため、走行距離を稼ごうとするなら夜明け前から日没後まで走る必要があるが、近年はそういう余裕のない「ちゃり鉄」からは離れている。
この日も出発予定時刻は7時。
ただ、駅前野宿の際は、朝の始発列車が到着する少なくとも30分前までには野宿の撤収を行うのがマイルール。この日も5時には起床して手早く朝食や後片付けを済ませた。
晴天で明けたこの朝は放射冷却で一段と冷え込んでおり、辺りには霜が降りている。
出発時刻まではまだ時間があるので、寒さを避けて待合室で過ごしつつも時折外に出て、黎明の澄み切った大気の中で眠りの中にある網引駅の撮影を行った。
網引駅の朝は早く粟生駅に向かう始発列車は5時58分発。折り返し北条町駅行きの始発列車が6時15分発。粟生駅に向かう始発列車の乗降客は居なかったが、北条町駅行きの始発列車からは1名の男性が降りてきて、駐輪場の自転車に乗って走り去った。工業団地の労働者だろうか。
昇り始めるには少し早かったが、辺りが十分に明るくなった6時56分。網引駅発。






網引駅からは網引集落の八幡神社にお参りした後、1駅間を走って粟生駅に到着し、ここから神戸電鉄粟生線に入る。7時16分着。3.9㎞。
粟生駅は北条鉄道、神戸電鉄、JRの3路線が交わる交通の要衝だが、町の規模は小さい。粟生駅が位置する小野市の中心地は加古川右岸側ではなく加古川左岸側のやや内陸寄りにあって、粟生駅付近からは離れている。加古川線が小野市中心部を走り、そこから神戸電鉄や北条鉄道が分岐する線形となっていれば、もう少し各路線は繁栄していたのかもしれないが、既に見てきたとおり、この付近に鉄道を敷設した播州鉄道にとっては加古川水運との関係性が重要であり、河畔から離れた小野の中心部に鉄道を敷設するという考えや需要はなかったのであろうし、勿論、その当時、神戸との間を直達するような鉄道路線は存在しなかった。粟生線が粟生まで到達したのは播州鉄道の敷設からずっと降った1952年4月10日のことである。
ここから先の神戸電鉄粟生線も経営難から路線存続問題が取り沙汰されている。
その詳細をダイジェストで述べることは避けるが、沿線に大きな観光地を持たず、小野市や三木市という市制都市があるとはいえ新開地での乗り換えが必要となる神戸電鉄は、県都神戸への通勤需要を満たす機能においても直通バスに太刀打ちできない。
地元自治体などでも活性化のための協議が行われているようだが、こうした問題は自治体や事業者のみで根本的に解決するのは困難で、粟生線に限らず地方鉄道の前途は決して明るくない。
私自身にも妙案はないし、莫大な資金を捻出できるような経済力もないが、自身に出来ることとして「ちゃり鉄」を通して沿線を走り、その記録を残していきたいと思う。
早朝の粟生駅には到着したばかりの北条鉄道の普通列車と、加古川線の到着・接続待ちをする神戸電鉄粟生線の列車が停車しており、加古川線ホームには加古川方面への列車の到着を待つ通勤・通学客の姿が見られた。
規模は小さいとはいえ団地も隣接したちょっとした市街地を形成しているので、列車待ちの利用者の姿は少なくはない。
やがて到着した加古川行きの普通列車からは少数の降車客があり、代わって大勢が乗車していく。
降車客は北条鉄道や神戸電鉄に少数が乗り換え、また、少数がこの駅で下車するようだった。
加古川線列車の出発を見送って「ちゃり鉄24号」も出発。7時19分発。

粟生駅を出発した神戸電鉄粟生線はまずは小野市の中心地域を抜けていき、樫山~大村間で峠を越えて三木市域に入る。この峠は大村坂越といい、現地では意外なほどの高低差がある。
三木駅までの中間駅は、葉多駅、小野駅、市場駅、樫山駅、大村駅の5つ。
この間、粟生駅付近の田圃に島のように浮かぶ八柱神社や、小野駅~市場駅間の県道18号加古川小野線沿いにある、旧縣社の住吉神社などにもお参りしていく。
路線の存廃議論があるとは言え、沿線はニュータウン開発なども行われたベッドタウンが点在しており、過疎地のローカル線のような雰囲気はない。実際、県道18号線も交通量が多く「ちゃり鉄」で走るには緊張を要する道路だ。
惜しむらくは粟生線の線形の悪さだ。
もし、三木市から鈴蘭台に向かっていくのではなく西神中央の方に抜けていたなら、神戸市営地下鉄との相互直通運転によって三宮に乗り換え不要で到達することができ、高速バスにも十分に対抗できただろう。三木駅と西神中央駅との間は直線距離で10㎞程度しかないし、鈴蘭台駅に抜けていくよりも地形が穏やかである。
ただ、粟生線の前身にあたる三木電気鉄道が鈴蘭台駅から三木福有橋駅(現・三木駅)までの区間を開通させたのは1938年1月28日のことで、神戸市営地下鉄西神・山手線が西神中央まで延伸開業した1987年3月18日から50年も遡る。
三木電気鉄道の当時、西神丘陵地帯にこれだけの大規模なニュータウンが造成され、県都に直結する高速鉄道が敷設されることを予見するのは困難だっただろう。
実は、この延伸構想は私の勝手な妄想にとどまらず、実際に運輸政策上も検討机上には載せられているのだが、莫大な設備投資を行ったところで十分な費用対効果が得られるとは限らない上に、粟生線鈴蘭台方の一部区間やバス事業者との競合が発生するなど実現は困難で、実際、具体的な検討対象にも入っていない。
そんな想像・妄想を抱きつつ、大村坂越のアップダウンに喘いで、三木駅には8時46分着。17.9㎞であった。







神戸電鉄粟生線の三木駅は2018年に近隣火災によって下り線側駅舎が消失しており、現在の駅舎は2022年に竣工・使用開始された新駅舎だ。2016年実施の「ちゃり鉄7号」はこの火災の2年前に実施したので、期せずして消失前の三木駅の姿を写真に収めた貴重な記録となった。
三木市内にはかつては三木鉄道三木線もあったが、神戸電鉄粟生線の三木駅とは接続しておらず、両駅は離れていた。市内には美嚢川が東から西に向かって流れ降っており、この左岸側に三木城とその城下町が広がっている。播州鉄道による三木線の敷設はこの旧城下町のある左岸側に対して行われており、三木駅の開業は1917年1月23日のことであった。
対する三木電気鉄道による右岸側への駅設置は1938年1月28日のことで、この当時の開業駅名は三木福有橋駅であった。その後、鉄道会社の変遷に伴って1952年10月1日に電鉄三木駅、1988年4月1日に三木駅と改称している。粟生線側が三木駅に改称する3年前の1985年4月1日には国鉄三木線が廃止となり三木鉄道三木線が発足しているので、粟生線三木駅の改称は三木鉄道時代のことだった。
城下に2つの鉄道路線が敷設されたにもかかわらず、播州鉄道の路線は美嚢川水運を置き換える目的で敷設されたため加古川本流を指向して厄神駅に向かっており、三木電気鉄道の路線は山越えで鈴蘭台駅に向かっていたことが、この城下町での鉄道の命運を決定づけたことになる。既に述べたとおり県都・神戸に向かう都市間輸送で鉄道は高速バスには太刀打ちできない。
そんな交通体系の栄枯盛衰の物語を、これまた戦国の栄枯盛衰を象徴する三木城跡が見下ろしている。
三木城跡には今夕になって舞い戻ってくるので、この段階では三木駅を撮影するにとどめて先に進むことにした。
三木駅を出た粟生線は三木市域を南東に進み、恵比寿駅と志染駅との間で小さな丘陵を越えて行く。志染駅はこの駅発着の区間運転列車もある運行上の要衝で鈴蘭台方に留置線も備えている。
この辺りは粟生線の周辺にニュータウンが展開しており、広野ゴルフ場前駅から緑が丘駅にかけての線路西方には廣野ゴルフ場の敷地が広がっている。ゴルフ場名は「廣野」となっているが、駅名は「広野」と記載されている。地名表記は「広野」だ。
細かな詮索をするとすれば、駅名は「廣野ゴルフ場」の「前」を意味するのではなく、「広野」の「ゴルフ場前」を意味しているのだろうか。
続く緑が丘駅までが三木市域で押部谷駅まで進むと神戸市西区域になる。
三木市と神戸市との市域界は緑が丘駅のすぐ南にあり、駅東に広がるニュータウンは三木市側が緑ヶ丘町、神戸市側が北山台と名乗っている。
押部谷駅付近からは明石川流域に沿って緩やかな登り勾配に転じ、川池信号場と藍那駅との間で神戸市西区から北区に入る。
川池信号場は山間部にある信号場だが敷地に通じる道は立ち入り禁止となっており、手前の第4種踏切から遠望するのみだ。この踏切付近の北側に木津の摩崖仏があり、旧街道沿いの露岩に仏像が刻まれているので見物していく。
なお、川池信号場から藍那駅までの間には線路沿いに進む道がないため、川池信号場付近から一旦木津駅まで戻り、そこから小河集落を通る急勾配で山一つ越えて行く必要がある。
この区間のアップダウンは厳しく、粟生線も有馬線に負けず劣らず山岳鉄道であることを体感する。
山間に佇む藍那駅には11時21分着。39.6㎞であった。




藍那駅は神戸市北区に位置し、鈴蘭台のニュータウンから山一つ隔てた山間に位置する。
粟生線随一の山駅で駅前の県道52号小部明石線の交通量は多いものの、集落は高台や山向こうに点在することもあって、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
初めて訪れた時はクロスバイクもどきのママチャリでのサイクリングだった。
当時は川西市に住んでおり、そこから西宮経由で須磨海岸を訪れ、山を越えて藍那駅付近から鈴蘭台、裏六甲、有馬温泉と辿り、更には宝塚まで山を越えて川西の自宅に戻る100㎞あまりの日帰り旅だった。
自宅まで遥かな距離があるにもかかわらず藍那駅で夕刻を迎えたのだが、明かりの灯る藍那駅の佇まいは好ましく、それでいて、「藍那」という駅名に「キャバクラの姉ちゃん」を夢想した思い出の駅でもある。そういう私は「キャバクラ」なるものに行ったことは一度もない。
駅の東には七本卒塔婆や紫式部の墓と称する宝篋印塔まであり、ここから南に登った丘には和泉式部の墓と称する宝篋印塔もあって、何だか謎めいた地域でもある。
この藍那駅周辺での駅前野宿も行ってみたいのだが、駅前は直ぐに交通量の多い県道に面しており、駅の近隣にも公園などがないため「駅前野宿」は難しい。
この藍那駅から一登りし、阪神高速7号北神戸線の下を抜けると、忽然と街が開けて西鈴蘭台駅に達する。ただ、この付近の地名は北五葉、南五葉となっており、「西鈴蘭台」という地名があるわけではない。駅の開業自体も1970年6月5日なので、鈴蘭台地区の造成に合わせイメージ重視で命名されたようである。
続く駅は鈴蘭台西口駅。駅がある場所の地名は鈴蘭台南町で、直ぐ近くに鈴蘭台西町があるが駅は鈴蘭台西町にはない。そして粟生線の起点であり「ちゃり鉄24号」の粟生線の旅のゴールとなる鈴蘭台駅は鈴蘭台北町に、有馬線の北鈴蘭台駅は甲栄台にあるというややこしさだ。
アップダウンの激しい鈴蘭台のニュータウンに苦労しながら鈴蘭台駅には12時着。43.8㎞。





この鈴蘭台駅付近でお昼時を迎えるため、駅近傍で幾つかの飲食店をピックアップし昼食とする予定だったのだが、この日訪れたお店は開いておらず昼ご飯を食べ損なった。
鈴蘭台駅からは一旦神戸市営地下鉄北神線の谷上駅まで向かう。そこから引き返して小部峠経由で六甲山系に登り返すので、その道中の適当なところで昼食を摂ることにして先に進む。
鈴蘭台付近のアップダウンやルート錯綜に悩まされつつ谷上駅には12時44分着。50.8㎞。
谷上駅には神戸市営地下鉄経由で新神戸へ8分、三宮へ10分と記されているが、「ちゃり鉄24号」では新神戸までの1駅間に2時間13分を計画していた。とんぼ返りといった風情で谷上駅を出発。12時46分発。
谷上駅を出発して今来たばかりの道を引き返しつつ、途中で見つけた神戸市民には知られたご当地ラーメンのチェーン店で昼食を済ませ小部峠まで登り返していく。
この辺りの国道428号線有馬街道は交通量が非常に多い上に急な登り勾配が続くので「ちゃり鉄」号での走行は苦行が続く。
小部峠に達すると交通量の多い国道から分かれて六甲山横断道路である県道16号明石神戸宝塚線に入る。交通量は減るものの、ここからしばらくは勾配が一層きつくなる。
五辻交差点の西に427mの独標がありこの場所がこの日の最高到達地点。そこから降りに転じて程なく五辻交差点に達しここで県道から神戸市道神戸箕谷線に入る。途中に顕著なアップダウンがあるものの、降り基調の道路は心地よい。神戸市側からアクセスするとビーナスブリッジを越えて急登を登り詰めてくることになるが、軽装のロードバイクのライダーが複数、ヒルクライムをしてくるのにすれ違った。
再度山山腹に佇む大龍寺には14時14分着。60.2㎞。昼食を挟んだこともあり谷上駅からの9.4㎞に1時間28分を要した。
大龍寺は再度山山腹に鎮座する古刹で、768年に和気清麻呂が開山したと言われる。学問僧として唐に渡った空海が、渡航の前後、二度に渡ってこの山を訪れたことから「再度山」という山名がつけられたのだとも言う。
私自身は六甲山全山縦走路の経由地点として再度山を訪れているが、縦横に車道や道路が張り巡らされて賑やかな六甲山界隈にあって、ひと際静かな佇まいの山域であり、古刹と霊山の雰囲気が心地よい。
山門から本堂を巡って再度山山頂までを往復するとそれなりの時間を要するのだが、この日も本堂までは往復してから出発することにした。14時30分発。





この大龍寺山門前からは神戸市道神戸箕谷線とも分かれ、再度東谷に向かって降っていく舗装路を進んでいく。この道は実は神戸市道布引大竜寺線なのだが、この先、生田川上流の布引谷付近で舗装路から登山道に変貌し、布引谷左岸側に階段箇所があることは把握済みである。というのも、この部分が六甲山全山縦走路と重複しており、これまでにもトレイルランニングで通行しているからだ。
今回のルートでは自転車の解装が必要になる箇所が2箇所あり、その内の1箇所目がこの先の布引谷越地点、そして2箇所目が9日目の神戸電鉄有馬線沿線の石井ダム付近だった。
この1箇所目に現れる障壁はごく短距離の階段区間なので、状況によっては押し登りで解装せずにクリアできるかもしれないと思って臨んだのだが、階段脇に車輪をスムーズに転がす余幅がなく、結局、解装して荷物と自転車とを担いで階段を越えた。そんな私の様子を見ていた河原キャンパーの男性が手を貸してくださったのはありがたかった。
この階段手前にある車道末端から河畔までの登山道部分と生田川を渡る簡易橋の部分は自転車を押して通過出来るし、階段を登り切った後は茶屋の管理車両が通行する車道である。僅か50m程度の階段部分だけが自転車を押しての通行も難しい区間だったので、新神戸駅にダイレクトに出るルートとして敢えてこのルートを選んだのであるが、傍から見れば自転車では走れないことを知らずに突っ込んできたように見えるだろうと、何やら気恥ずかしくもあった。




階段の上には休憩所があり、この付近の渓谷や山を歩く人たちの数が格段に多くなる。
六甲山全山縦走路は休憩所から谷の上流に向かい稲妻坂を経て摩耶山に登っていくが、「ちゃり鉄24号」は谷の下流に向かい布引の滝から新神戸駅に降っていく。
布引谷は神戸市民の憩いの場となっていて散策を楽しむ人も多い。布引谷の入り口は新神戸駅付近。神戸布引ロープウェイに乗れば、布引谷を眼下に見下ろしながら山腹にあるハーブ園などの観光施設にも労せずアクセスできるので、トレッカーだけではなく軽装のカップルや若者の姿も見られる。
布引大竜寺線沿いにあるこれらの観光施設への分岐を見送り、急勾配とヘアピンカーブを降っていくと、次第に展望が開けるようになり、布引の滝への上側からの入り口になる見晴らし展望台に到着。一気に訪問者の数が増えた。
14時55分。63.1㎞。途中で解装と着装を行ったにもかかわらず、大龍寺から25分で布引の滝まで降ってくることが出来た。
ここで自転車をデポして布引の滝(雄滝)を往復。
布引の滝は学生時代に訪れて以来、何度か訪問しているが、神戸市から間近い距離にありながらも幽谷の雰囲気も湛えており、谷から山の上に上がれば眼下に市街地と瀬戸内海が見えるとあって、神戸を魅力ある街にしている。
見晴らし展望台に戻って出発。15時10分。
新神戸から西神中央までは、神戸市営地下鉄西神・山手線の全線を走り切る上に、アップダウンが激しい区間を40㎞以上走る。
15時過ぎて西日に日没の雰囲気が漂い始めている。先を急ごう。


急勾配とヘアピンカーブでどんどん山を降って、生田川谷口の狭隘地に設けられた新神戸駅には15時14分着。64.4㎞。
ここはJR山陽新幹線と神戸市営地下鉄西神・山手線、北神線とが交錯する要衝であるが、新幹線の駅とは言えJRの在来線とは接続していない。用地買収や建設工事の都合上、神戸市街地を迂回して六甲山地の下を抜ける線形としたものの、県都神戸に新幹線の駅を設けないなどという事はあり得ない、といった背景事情を踏まえての苦肉の策だったのだろう。
現在こそ神戸市営地下鉄が連絡して神戸市中心部や裏六甲へも鉄道でアクセスできるようになったが、市営地下鉄が新神戸駅まで延伸したのは新神戸駅開業の1972年3月15日から13年あまり後の1985年6月18日のことだ。そしてこの付近を通っていた神戸市電の布引線は新幹線開業前の1969年3月23日に加納三丁目~熊内一丁目間が廃止されているため、新神戸駅開業当時は接続する鉄道路線がなかったという事になる。
「ちゃり鉄24号」はそんな歴史を秘めた新神戸駅を出発し、神戸市内を横断したのち、三木市に戻る。ここからの行程はまだまだ長いが、既に日は傾きかけているので先を急ぐことにする。15時15分発。
神戸市営地下鉄西神・山手線は新神戸駅から西神中央駅までの間、22.7kmを結ぶ地下鉄路線で、駅の総数は16駅である。第一期開業区間は新長田~名谷間で1977年3月13日開業、その後、1983年6月17日に新長田~大倉山間、1985年6月18日に大倉山~新神戸間と名谷~学園都市間、1987年3月18日に学園都市~西神中央間が開業し、現在の路線が全通した。
新神戸駅から板宿駅までの間は神戸市街地の平野部を行き、板宿駅から西神中央駅までの間は西神丘陵のニュータウンを繋いでいく区間だ。
この鉄道路線に沿った「ちゃり鉄」は交通量や信号が多い道路を走ること、後半に入ってアップダウンが続くこと、駅の数が多いこと、日没後走行になることなど、計画段階から厳しいことを想定していたが、実際、板宿駅以降の後半区間は特に厳しかった。
新神戸駅から板宿駅までの間は眩しい西日を受けながら沈みゆく太陽を追いかけるように西進していく。この区間は交通量や信号機が多いものの、概ね平坦地を行くので身体的な負担は強くない。




しかし、板宿駅から西神丘陵への登りが始まると、交通量が多い上に道幅が狭くなり「ちゃり鉄」には不向きな道路環境になる。このルートは六甲山全山縦走路が横切っているし、神戸市に住んでいた頃に何度かランニングで走ったこともあるので環境の悪さは承知の上だが、地形と鉄道ルートの制約から代替ルートがないため仕方がない。
妙法寺駅を出た辺りから地下鉄は半地下構造になり、その両脇を車道が挟むような形になる。ニュータウンの縦貫道路らしく道幅は広くなるのだが、自動車専用道路のような構造になるのでやはり自転車での通行には不向きだ。
脇には歩行者向けの通路も見えているが、道路に沿って真っすぐに伸びているわけではなく側道が合流してくる場所で途切れたりしているのが見えるので、見るからに走りにくそうだ。
また、大きなアップダウンを繰り返しながら丘陵を越えて行くが、谷に降りると高架橋があり、丘に登るとトンネルがあったりするので、その都度、緊張しながら路側帯を走らなければいけない。
脇を通り抜ける車はどれも高速で、決して法定速度では走っていないし、時折、異常なくらい接近して追い抜いていく車がいる。いわゆる煽り運転に近いが、こういう車に追い抜かされた後は巻き風に煽られて車道側に降られるので極めて危ない。
私は色々試行錯誤した結果、不格好だがヘルメットにバックミラーを装着している。できれば自転車でもドライブレコーダーを装着したいが、電源問題があるので実現には至っていない。
伊川谷駅から西神南駅への登りなど消耗する走行を経て、西神中央駅には18時18分着。93.4㎞であった。17時30分発の総合運動公園駅付近で日没時刻を迎えているので、勿論、西神中央駅に到着する頃にはとっぷり暮れていた。
残り15㎞弱の行程があるので長居せずに出発。18時20分発。




西神中央駅から先は神戸電鉄粟生線の志染駅付近を経由して三木城跡公園の東屋に向かうが、既に暮れていることもあり忍耐の行程が続く。
ハンドルバーにマウントしたGPSでルートをナビしながら進むものの、日が暮れて遠くを見通せない状況では、予想しない急登に出くわした場合などに精神的な疲労感の蓄積が大きくなる。
ただ、神戸市街地から西神丘陵までの行程のような交通量の多さからは解放されたので、焦らず進むことが出来た。
後半行程に苦労したこともあり、予定時刻より30分ほど遅れた19時26分になって三木城跡に到着。
予め調べておいた東屋で荷物を解装し野宿の準備と着替えを済ませたら、ようやく人心地がついた。
城下には銭湯の竹乃湯温泉があるので夕食は後にして先に入浴に出かける。自転車で5分ほどの距離にあるので野宿のロケーションとしては上級。一日の疲れを癒すことが出来た。
三木城跡公園は三木市街地と美嚢川を見下ろす高台にある。眼下に夜景を見下ろすロケーションだが、夜景スポットにありがちなカップルや若者の来訪はなく、落ち着いて野宿をすることが出来た。
遅い夕食を済ませた後、腹が落ち着くまで美嚢川橋梁を行き交う神戸電鉄の列車の撮影を行い、体が冷え切らないうちに眠りに就くことにした。



ちゃり鉄24号:3日目:三木城跡-三木=厄神-加古川=高砂港-野口=別府港=土山-明石港~岩屋港-生石公園
3日目は三木城跡を出発し播磨南東部の鉄道路線後を巡った後、ジェノバラインに乗船して明石港から岩屋港に渡り、淡路島東岸を南進して生石公園まで走る。いよいよ淡路島に渡ることもありこの日の行程は楽しみだった。
川西市に住んでいた頃、自宅から淡路島の北部を巡る日帰りのサイクリングを行ったことがあるが、「あわいち」とも称される淡路島一周の旅を行うのはこれが初めてだ。
1日で淡路島を一周するロードレーサーも多いが、私は淡路島島内で合計5泊を予定しじっくりと周る計画としている。うち1泊は沼島での野宿。
知られざる淡路交通鉄道線の廃線跡を巡ることが淡路島渡航の主目的だが、おのころ島伝説の地を巡ることも楽しみである。
ルート図と断面図は以下のとおり。




この日はジェノバラインの乗船を挟んで大きく2区間に分けられるので、ルート図と断面図もそれぞれに作成した。
1日目や2日目の行程とは異なり、この日は顕著なアップダウンはなく行程的には楽なことが予想される。
播磨南東部では三木鉄道三木線の他、国鉄高砂線、別府鉄道野口線・土山線といった廃線跡を巡ったのち、瀬戸内海沿岸を東進して明石港に向かう。
海岸沿いを走る区間が多く魅力ある一日となりそうだが、残念なことに天気予報は下り坂を示唆しており、生石公園に到着するまでに降り出す可能性があるのが心配だ。
神戸電鉄粟生線の始発列車が往来する音を聞きながら静かな一夜を過ごした東屋で野宿装備を畳み、まだ夜が明けないうちに出発する。淡路島の岩屋港に到着する予定時刻が15時前で、そこから東岸を一気に南下して由良集落まで行き、そこで銭湯に入ってから生石公園に向かうので、残念ながらこの日も日没後走行の予定。手前の洲本で野宿にすることも考えたが、淡路島内でのルート計画の都合上、この日のうちに由良海岸まで達しておきたかった。
美嚢川橋梁と河畔はまだ明かりが灯って眠りの中にあったが、6時46分には三木城跡を出発。
城跡内の神社にお参りして今日一日の安全を祈願したのち、美嚢川左岸側にある旧市街地に降って三木鉄道三木線の三木駅跡に到着。6時57分。1.3㎞であった。


ここからは三木鉄道三木線の跡を走るが、この路線跡もここまでの路線と同様、「ちゃり鉄7号」での訪問時とは逆方向に走る。
三木駅舎の跡は三木鉄道ふれあい館という施設に転用されており駅前のバス乗り場は今も健在だ。駅構内も鉄道記念公園として整備されており、ホーム上屋などが往時の面影を残していた。
既に述べた通り、この路線も播州鉄道の手によって開業しており1916年11月22日に厄神~別所間、1917年1月23日に別所~三木間が開通して全線が開業した。同じ播州鉄道系列の路線の中では路線延伸の開始が最も遅かった。
播州鉄道全線がそうであったように、この路線も美嚢川水運を置き換える目的で敷設された路線だったため、加古川本流沿いの厄神駅を中継して加古川駅を目指しており、旅客・物流動線の変遷に伴って路線の存在意義は低下。それでも第三セクター化して2008年4月1日まで営業を続けていた。
私が学生だった頃には営業していたはずだが、乗車した記憶も記録もない。
当時は青春18切符やワイド周遊券を使った「乗り鉄」の旅が中心で、それらの切符では乗車することが出来ない私鉄や第三セクター鉄道にはあまり乗車することが出来なかった。三木鉄道に限らず近畿圏の私鉄路線も殆ど乗車したことがなかったのだが、致し方ないという思いと無念の思いが交錯する。せめて「ちゃり鉄」で沿線を走り、在りし日の鉄道の面影を偲びたい。
この三木鉄道三木線の跡は厄神~下石野間を除けば概ねサイクリングロードとして再整備されており、路線跡を辿ることは容易だ。途中駅があった場所にも案内看板や記念公園があって、地元の愛着を感じられるのは嬉しい。
早朝の三木駅跡を訪れる人も殆ど居なかったが、犬を連れて廃線跡のサイクリングロードを歩く人の姿があった。7時発。
三木鉄道三木線の駅は両端を含めて9駅あり、路線延長は6.6㎞。これだけの短距離路線なので沿線探訪はすぐ終わるが、サイクリングロードとなった線路跡を辿りながら、遺構を残る駅跡を繋いでいくのは楽しい。何となく往時の車窓風景を思い浮かべて、電車ごっこさながらに走り抜ける。
「ちゃり鉄7号」での訪問時にはサイクリングロードの整備途上で駅のホームも残っていた高木駅跡は、すっかり整地され駅跡を示す案内標識だけになっていた。
沿線では別所駅跡と石野駅跡に駅舎を模した記念公園が整備され、線路やホームの一部が残されている。駅舎は現役当時のものではなく建て直されたものだが、案内標識に示された往時の写真と比較してみても雰囲気をよく留めている。
下石野駅跡と宗佐駅跡の間で小さな丘陵を越えて行くが、ここでサイクリングロードは終わり。それまでの雰囲気とは異なり、宗佐駅跡や国包駅跡は未整備の路盤や踏切施設などが遺構として残るだけだ。
何故、この2駅跡だけサイクリングロードや案内標識の設置が行われていないのか不思議だったが、地図で確認してみると、その理由は一目瞭然だった。
即ち、下石野駅跡と宗佐駅跡との間に三木市と加古川市の市域界が走っており、廃線跡の管理主体が異なるのがその理由だ。そして、三木鉄道の名の通り、三木市にとっては愛着のある鉄道路線ではあったものの、加古川市にとっては僅かな区間に2駅だけが存在した鉄道で、三木市と一体で跡地をサイクリングロードに整備するほどの愛着はなかったのだろう。
JR加古川線の厄神駅には7時56分着。9.3㎞。「ちゃり鉄号」でも1時間足らずの短い旅を終えた。






厄神駅からは加古川河川敷を一気に走り降ってJR加古川駅に達した後、国鉄高砂線と別府鉄道野口線・土山線の廃線跡を巡る。厄神駅付近から交通量の多い県道18号加古川小野線を跨ぎ、加古川河川敷のサイクリングロードに降りる。対岸は見土呂地区。初日に網引駅から10㎞の丘越えを経て辿り着いた加古川温泉・みとろ荘がある地区だ。
加古川河川敷を走り降っていく手にJR山陽本線の橋梁が見えてきたら、河川敷から堤防道路に登り、そのまま加古川駅に向かう。
加古川駅到着は8時30分。18.1㎞であった。
ここからは国鉄高砂線を行くのだが、この高砂線も既に述べた通り播州鉄道に起源を持つ路線。加古川駅から高砂港駅までを結んでいた路線が、加古川水運を代替して運んだ物資を高砂港から海運に委ねることを目的としていたことは言うまでもない。
末期の経営主体から判断すると、個々の路線の敷設理由が見えず「無駄な鉄道」のように見えもするが、播州鉄道による敷設当時にまで遡ってみれば、ここまで辿ってきた鍛冶屋線、北条線、三木線の各支線が加古川線を幹線として集約され高砂港に至る鉄道網を形成していたという事や、加古川水運を代替する目的で敷設されたものだったという事がよく分かる。
国鉄高砂線は1913年12月1日に播州鉄道の手によって加古川町(現・加古川)~高砂口間が開業。続いて1914年9月25日に高砂口~高砂港間が開通し、全線が開業した。播但鉄道時代の1943年6月1日に他の系列路線ともども国有化された後、1984年12月1日に第三セクターに引き継がれることなく廃止されている。
加古川市街地を南北に縦貫していた加古川線の廃線跡は、市街地に飲み込まれながらも車道化して残っている。この路線が存続しなかったのは、旅客区間で6.3㎞という短距離の路線だった上に、市街化が進む加古川市内にあって国道を横切る線形を持っていたことから、交通渋滞を招くという事情もあったのだろう。
途中駅としては別府鉄道野口線が分岐していた野口駅と山陽電鉄本線尾上の松駅に隣接していた尾上駅の跡に、動輪のモニュメントと記念碑が置かれた小公園がある他、山陽電鉄本線高砂駅にY字状に隣接していた高砂北口駅の跡は駐輪場に転用されながらも、周辺の建物や駐輪場の敷地の特徴ある曲線に往時の面影を色濃く残していた。
また、延伸工事の間の短期間、終着駅となっていた高砂口駅の跡は、山陽電鉄本線に沿った小公園となっていたが、ここは延伸の段階で廃止されたこともあり、駅跡を示すような構造物は何も残されていなかった。
終点の高砂駅跡は行き止まりの車道ロータリーとなっており、ここにも動輪のモニュメントがあったが記念碑はなかった。
このロータリーに隣接して東側に「高砂銀座商店街」のアーケードがあるが、すっかりシャッター通りと化した商店街には、高砂駅が営業していた頃の栄華の残り香が僅かに残っているだけだった。
高砂駅跡からも遊歩道となった廃線跡が続いており、そこを進んでいくと臨海工業地帯の雰囲気が出てきて狭い入り江に面した高砂港貨物駅跡に到着。9時39分着。9時44分発。27.3㎞であった。




高砂港貨物駅の跡からは高砂神社や尾上神社、今福八幡神社を経由して、別府鉄道野口線が分岐していた野口駅まで戻る。10時22分着。34.5㎞。
ここは既に述べた通り高砂線の野口駅跡であることを示す記念碑と動輪や車止めが展示された小公園になっているのだが、レプリカの駅名標を見ても、そこに別府鉄道野口線の隣接駅だった藤原製作所駅の駅名表示はなく、石造りの記念碑に記載されているのも旧国鉄高砂線野口駅跡という記載のみだ。
別府鉄道が会社としては現在も存続している民間企業だったためなのかもしれないが、この扱いは野口線にとって気の毒な気もする。
今日2度目の訪問となった野口駅跡は10時25分発。
これから走る別府鉄道は播州鉄道とは異なる私鉄で、元は別府軽便鉄道という軽便規格の鉄道だった。野口線と土山線という2つの路線を持っていたが、野口線は1921年9月3日、土山線は1923年3月18日の開業である。野口線は野口~港口間、土山線は土山~別府港間を結んでいたが、別府港~港口間は両線で共用する形で港湾まで貨物輸送を行っていた。
この鉄道が播但鉄道(元の播州鉄道)の国有化に際し、一体的に国有化されなかった理由は未調査である。あくまで短距離の別の鉄道会社であり、播州鉄道の買収で事足れりという事だったのかもしれない。実際、野口線は戦時中に不要不急路線の烙印を押されて休止していた期間もある。
高砂線廃線跡に沿ってもう一度高砂方面に南下し安田北交差点に達すると、向かって左側に特徴ある曲線を描いて東向きに分岐していく遊歩道があり、これが別府鉄道野口線の廃線跡である。廃線跡探訪の場数が多くなってくると、予備知識がなくても曲線の具合から廃線跡ではないかと感じることがあり、それは結構な確率で当たるようになる。
もちろん、この場所においては事前に把握済みなので確信できるわけだが、もし、何も知らなかったとしても、廃線跡探訪の経験が深くなってくるとこの曲線にはピンとくるだろう。
松風こみちと命名された遊歩道を進んでいくと、近代的な高層マンションの脇を通り抜けていくような区間もある。鉄道廃止前の写真を見ると、このマンションの下を荷台付きの単行気動車であるキハ2が駆け抜けていて、そのちぐはぐな情景の中にもどこか懐かしさを湛えていたのだが、廃線となった今日では、マンション敷地の遊歩道と言ってもおかしくない情景になっている。
円長寺駅跡付近では小公園の中にキハ2の車両が静態保存されていた。加悦鉄道のキハ101と同様の荷台付き車両で、子供の頃に眺めた鉄道図鑑の中でもとりわけ印象に残る車両だった。
かつてはかなり傷みが激しくなっていたようだが、クラウドファンディングで資金を集め綺麗に修繕されたらしく、こういう用途にクラウドファンディングが使われるというのは好ましいように感じた。
私が生まれた後も暫くは活躍していたはずの車両だが、願わくば、こんな車両が全国を行き交っていた時代に戻って、気ままな鉄道の旅を行ってみたいものだ。
別府港駅跡付近では今も会社として残る別府鉄道の看板があり、その先に続いていた線路跡は民間企業の敷地に吸い込まれていく。この民間企業は多木化学や多木建材で別府鉄道とは関係が深い。
港口駅跡付近、10時58分着、10時59分発。38.4㎞。
港口駅跡付近から引き返し、今度は土山駅に向かう土山線の跡を辿る。
土山線跡は別府港駅方の半分くらいが車道転用されていて、路盤が拡幅された部分に痕跡は残っていないが、社名の入った貨物車両が路肩に物置のように残っていたりする。
そして大中遺跡公園の播磨町郷土資料館に隣接して、土山線で活躍したDCと客車が静態展示されていた。
この大中遺跡公園付近からは廃線跡が遊歩道としてJR山陽本線の土山駅付近まで続いている。
土山駅には11時28分着。42.9㎞であった。






土山駅では駅に併設された複合施設の飲食店で昼食を摂り12時1分発。
「ちゃり鉄24号」序盤の鉄道路線巡りはこれで終了し、ここからは淡路島周遊がメインの中盤行程となる。その中盤行程では淡路島に存在した淡路交通鉄道線の廃線跡を巡る。
淡路島には明石港からジェノバラインの旅客船に乗船して渡る。淡路島側の着岸港は岩屋港だ。
土山駅からは一旦南西に向かって直進し、明石海岸付近に向かう。
その後、海岸沿いに南東に向かい明石港に達するのだが、この明石海岸沿いには、江井島海岸、藤江海岸、松江海岸、林崎海岸と、風光明媚な海岸が続く。
その途中、魚住付近では海岸沿いにある縣社・住吉神社にも参拝。ちょうど七五三祝いの家族連れがカメラマンを従えて子供の写真撮影に興じているところだった。
こうした光景もよく見かけるようになった。
生憎、この日は下り坂で彩度の低い海岸風景だったが、須磨海岸から明石海岸にかけての海岸風景は好ましく、また、平坦なサイクリングロードが続いており走りやすい。
昨年、今年と続けて瀬戸内を走る事になったが、いずれも1月~2月の走行。
この地域は盛夏も含めて、太陽が輝く青空の季節に走りたいものだ。
漕ぎ進むほどに明石海峡大橋の姿が近づいてきて、最後に明石港旧灯台を眺めたら、ジェノバラインの明石港に到着。
13時20分。62㎞であった。





計画上の到着予定時刻は13時48分で出港予定時刻は14時30分だったのだが、13時20分に到着したおかげで13時30分の便に乗船できそうだ。
1時間早い便で淡路島に渡ることができれば、目的地への到着時間も1時間早く、19時8分から18時8分に切り上げることが出来る。
岩屋港周辺で撮影をする時間的な余裕はなくなるが、淡路島からの戻りでもう一度岩屋港に来るので、撮影はその時に回すことが出来る。
この日は西から雨域が接近してきていたので、できる限り早く一日の行程を終えたいという事もあり、ここは迷わず13時30分の便に乗船することにして手早く手続きを済ませた。
休みの日の朝の便などであれば、淡路島に渡るロードレーサーで行列ができることもあるが、平日の昼過ぎとあっては自転車で淡路島に渡る人の姿はなく、私の姿を見た甲板員が驚いた様子で慌てて後部甲板のハッチを開けているのが印象的だった。もちろん、積載されたのは我が「ちゃり鉄号」1台のみ。
自転車を運び込んで船員に固定してもらったら船室に向かうが、私の常で船室でじっとすることはなく、階段を登って展望甲板に出るとそこで岩屋港到着までの時間を過ごすことにする。
明石港発13時30分。
展望甲板に出ているのは私だけで、20名ほどの乗客は皆、船室内で過ごしているようだった。
ジェノバラインの乗船時間は僅か13分。
その間に海上交通の要衝である明石海峡を横断しつつ明石海峡大橋の下を潜り抜けていくので、ダイナミックな光景が広がる。
前方には大型貨物船がジェノバラインの高速船の進路を塞ぐように航行しているが、こちらはお構いなしにその脇腹目掛けて突っ込んでいく。
このまま進んだらぶつかると思うが、勿論、そんなことはなく、海上交通のルールに則ってしっかりと安全に交差していくのだが、貨物線の船尾を間近に眺める光景はたまらない。
やがて明石海峡が頭上に迫る。
その下を潜り抜ける瞬間、スマホや一眼レフで忙しなく撮影を行う。
真冬の明石海峡を行く高速船の甲板で、おっさんがただ一人、あたふたと写真を撮影しているのは、傍から見たら滑稽なものだろう。
やがて右舷前方に港湾施設が見えてきて、赤白2基の灯台が守る岩屋港に入港。
他の乗船客が一通り降りるのを待って最後に桟橋を渡り、淡路島岩屋港に上陸した。13時43分。







今日はこの後、淡路島東岸の東浦を一気に北端から南端まで走り抜けて、諭鶴羽山地が紀淡海峡に落ち込む生石鼻に向かう。生石鼻には生石公園があり幾つかの屋根付き展望台があるので、その下で野宿とする予定だ。
この先の行程は47.5㎞の計画。
「途中下車」も少なく、一気に走り抜ける計画だが、南端の由良集落では銭湯の増田湯に立ち寄る予定なので計画時間は4時間15分。まだまだ先は長い。
岩屋港でGPSを再セットしたらすぐに出発することにした。
この岩屋港には4日後に戻ってきて近くの東屋の下で野宿の予定だ。
淡路島は主に東岸、南岸、西岸で構成される雫型の形状をしているが、地形的な特性から東岸が最も反映しており、津名、洲本といった淡路島の主要都市も東岸に面している。
淡路島島内には国道28号線が縦貫しているが、この国道28号線も岩屋から津名・洲本までは東岸を経由し、そこから諭鶴羽山地の北麓の平野を横断して西岸の福良に至る線形を持っている。
現在では高速道路の神戸淡路鳴門自動車道が島の中央部を縦貫し、明石海峡大橋と大鳴門橋とで本四連絡の使命を担っているが、かつては本四間を結ぶカーフェリーが就航しており、その当時は海岸沿いの国道28号線が文字通り、淡路島の動脈として機能していたのであろう。幅広い道路の構造にはその時代の名残が感じられる。
ちなみに、現在の高速道路も国道28号線である。
本四連絡の使命は高速道路に移ったとはいえ、島内交通は今でも海岸沿いの国道28号線が中心となっており、岩屋からの国道も交通量は多い。
その交通量の多い道を南進しながら、久留麻集落付近では淡路国三宮の伊勢久留麻神社に参拝して道中の安全を祈願する。


岩屋から洲本までのルートは概ね平坦路で走行に大きな支障はない。天候も予報通りに下り坂ではあるが、幸い、雲の密度を見る限り、降り出すにはもう少し余裕がありそうだった。
津名、洲本の2都市は大きな市街地を構成しているが、これらの都市と都市を繋ぐ区間は漁村が繋がる風光明媚な海岸風景が続き、長い行程ではあるものの漕ぎ進める足は軽い。
福良に向かって内陸に転じていく国道28号線を右手に見送り洲本川を渡ると、稜線に鎮座する洲本城が印象的な洲本の市街地に到着する。ここは、明後日5日目の行程で戻ってきて野宿予定としているので、この日は野宿予定地を下見する程度であっさりと走り抜け、桟道となって海岸を回り込んでいく。
周り込んだ先は入り江状の地形となっており小路谷集落がある。ここには洲本温泉郷があり「ホテルニューアワジ」などの温泉旅館が立ち並んでいる。関西に住んでいたらテレビCMで馴染みのある、あの「ホテルニューアワジ」である。
古茂江港という漁港もあるのだが、一体は埋め立て地になってリゾート施設や観光施設が立ち並んでいる。
観光客の姿も見られる一画ではあったが「ちゃり鉄24号」では「車窓」に眺めるだけで通過。その先の掛牛岬を回り込んで由良町域に入ると、遠くに成ヶ島の島影が見えてきて、ゴールが近づいてきたことを実感する。
成ヶ島は由良の市街地の対岸に浮かぶ南北に細長い島であるが、標高52mの独標が描かれた成山がある北端部と高埼灯台がある南端部との間が砂州で結ばれた独特の地形を持っている。
無人のこの島には観光渡船が就航しているが、就航日は週末に限られており「ちゃり鉄24号」での淡路島滞在期間中には就航日の縁がなかった。しかも、島での野宿は禁止されているので日帰りしなければいけないし自転車は由良側に置いておく必要もある。
色々とルート計画を画策してみたものの、この島を訪れる計画を組み込むことは出来なかったので、それは次回の淡路島訪問に委ねることとして今回は渡船場の横を素通りした。
この由良集落にあるスーパーで夕食を仕入れたのち増田湯に向かって入浴。この頃になってポツポツと雨が降り始めたが、雨脚の強さから、本降りになる前にはゴールできそうだと予想する。
増田湯は事前に位置を調べておかなければ絶対に気が付かない地元の銭湯だった。番頭のおばあさんに「おいくらですか?」と尋ねると400円との答えが返ってきたが、生憎、財布には500円玉しかなかった。「500円しかなくて済みません」と渡すと50円が返ってきた。
50円をちょろまかされたのかと思ったが、料金表には450円との記載があったので、小銭がないなら定額払えという事と理解してそのまま入浴した。地元の人が使う銭湯だけに釣銭が必要となるような客は居ないのだろう。
洲本にも公衆浴場はあるが、時間的にも場所的にも、ここで銭湯に立ち寄ることが出来たことには感謝したい。
増田湯着16時33分、発17時。101.6㎞であった。

外に出ると小雨模様になっていたが、生石公園の登り口に当たる波切不動明王に立ち寄って、今側口の水道越しに成ヶ島南端の灯台と対岸の友ヶ島を眺める。雲の切れ間からは夕日が照らすような天候だったこともあり、紀淡海峡には虹が立っていた。
生石公園までの最後の区間は登り一辺倒。薄暗い道は急勾配で覚悟していたとは言え、1日の最後としては少々厳しい。それでも雨が本降りになる前には目的地の展望台に到着することが出来た。
17時34分着。106.1㎞。
岩屋港に1時間早く到着することが出来たおかげで、雨も日没も辛うじて避けることが出来たのは幸いだった。
既に薄暗くなってきていたので、解装は後回しにして先に生石鼻灯台と出石神社を訪れる。要塞跡が残る生石公園は戦争の歴史を今に伝える場所でもあるが、かつて要塞が威嚇した海峡の交通安全を見守る寡黙な灯台と神社の姿が印象的だった。
展望台に戻り屋根の下で野宿の支度を終える頃には本降りとなった。
1時間後の船に乗っていたら、真っ暗な中で本降りの雨に降られて急勾配を登ってくることになったのだろう。晴天には恵まれなかったものの、雨が予報される中でそれを逃れたのは運が良かった。
紀淡海峡越しに和歌山市街地の街の灯を眺めつつ3日目の眠りに就くことにした。




ちゃり鉄24号:4日目:生石公園-熊田海岸-土生海岸-亀岡八幡神社-三原温泉-諭鶴羽山-土生港~沼島港-沼島おのころ園地
4日目は生石公園から淡路島南岸を走り抜け、内陸の三原から諭鶴羽山を越えて土生港に降り立ち、そこから沼島に渡って野宿とする行程。
この日の最終目的地は沼島で、南岸灘浦の土生港から沼島汽船で渡ることになるが、生石公園から土生港に直行しそのまま沼島に渡ると時間的にはかなりの余裕を生じる。
その分を沼島探索に費やしてもよかったのだが、それにしても時間が余る上に、この区間に目ぼしい集落や温泉施設がないため、食材の調達や入浴が困難だった。また、由良に戻って成ヶ島に渡ろうにも、この日は渡船の休航日で叶わない。
また、南岸から諭鶴羽山をピストンすることも考えられるが、身軽なロードレーサーやMTBならまだしも、重積載の「ちゃり鉄24号」で直登するには厳しい勾配が待っている。できれば単純なピストンは避けたい。
そういう諸々の条件を勘案して、南岸沿いの小集落を訪ねながら一旦は土生港を通り過ぎ、内陸の三原方面に向かってそこで昼食、食材買い出し、入浴などを済ませ、海岸側よりは緩い勾配の内陸側から諭鶴羽山地を越えて土生港に降り、夕刻に沼島に渡るルートを設計した。
諭鶴羽山には幾つかのルートがあるのだが、徒歩での登山ならともかく、重積載の「ちゃり鉄24号」でのルート取りとしては、これが正解と思えた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。



沼島では沼島港からおのころ園地までの短距離を走って野宿をするだけの行程になるが、もちろん、沼島の探索はこの翌日に組み込んだ。
断面図には諭鶴羽山の片勾配の様子がよく表れている。
内陸の三原側からの登り起点は概ね52㎞付近にあり、そこから目指す最高峰諭鶴羽山が65㎞付近。地図のログでは600m未満となっているが、これは自転車での到達地点の標高を示しており、実際の山頂標高は608mである。
そこからは一転して急勾配で降っており、土生港は72㎞地点。
三原付近が標高40m程度で土生港が0mであることも合わせて考えても、顕著な方勾配となっていて、ここに大きな断層が走り傾動地塊となっていることが推察されるのだが、これは実際その通りで諭鶴羽山地と沼島との間に中央構造線が走っているのである。
そんなルートを行く一日なので昨夜来の雨天の回復度合いが気になるところだったのだが、幸いにも夜が明けてみれば天候は晴天で今日一日、雨に降られる心配はなさそうだった。ただ、岬の上の展望台付近には強烈な風が吹き抜けており、テントを空にすると吹き飛ばされそうだった。
低気圧通過後の冬型の気圧配置となっていて寒冷な季節風が吹いているのである。となると西寄りの進路で進む南岸灘浦のルートは向かい風に悩まされることになるだろう。実際、眼下の瀬戸内海沖合には白波が立っており、向かい風だけではなく沼島汽船の欠航も心配される、そんなスタートとなった。
生石公園7時3分発。

生石公園は岬の上に幾つかの展望台を持っており、それぞれの間は遊歩道で結ばれている。
私が野宿した展望台は一番高いところにあるが、遊歩道の入り口に当たる一番低いところの展望台には公衆トイレがあることも把握していたので、立ち寄りついでにここでも紀淡海峡の風景を撮影する。
対岸には和歌山から大阪にかけての海岸線をバックに友ヶ島が浮かんでいるのが遠望でき、手前には成ヶ島の南端と高埼灯台が見える。
紀淡海峡も海上交通の要衝で行き交う船の数が多い。志布志航路や宮崎航路で九州入りする際は、この海峡をフェリーで越えて行くことになる。
友ヶ島は現在は観光解放されているが、かつてはやはり要塞の島であった。
風光明媚なこの一帯にも戦争という愚かな歴史の影が刻まれている。
生石公園から山を降った後は、降った分を登り返して南岸灘浦に抜けていくのだが、その前に熊田海岸に立ち寄ることにした。
この熊田海岸は今でこそ行き止まりの隠れ浜のような場所になっているが、かつてはここから海岸沿いに中津川集落までを繋ぐ車道が通じており自動車が行き交っていた。現道はその道を山越えの道として付け替えたものである。
「ちゃり鉄」は廃道探索を主目的とはしていないので、この区間にあった廃道を踏破することは計画には組み込まなかったが、道路末端にバリケードとして設置されたガードレールの隙間から道の跡を辿って海岸線に出てみると、海岸線に沿った視線の彼方に沼島が横たわる他は、ここに車道があったとは信じがたい急傾斜の斜面となっていた。
廃道探索の先達が書いたレポートを見ていると、この先にも道の跡が続いているようだが、もちろん自転車を伴って通行できるような状況にはない。この区間の廃道探索を行う「ちゃり鉄」を計画する時があれば踏破してみたいとは思うが、それはかなりの危険を伴うものであり、相応の覚悟と準備、経験、知識を要するだろう。



熊田海岸を辞した後は現道に戻り、「アワイチ」最大の難所と言われる峠を越えて行く。
この道は兵庫県道76号洲本灘賀集線。通称・南淡路水仙ラインである。
通称名だけだと穏やかな水仙郷を行く快走路のようなイメージを受けるが、実際には中央構造線の断層面を行く険路で、熊田海岸で見たように激しい崩壊によって廃道化し消失しつつある区間も存在する。
由良側から取り付いた峠越えの道は、立川水仙郷跡を眼下に見送りつつ中津川集落に向かっていくのだが、由良~立川間と、立川~中津川間に2か所の峠を控えている。
また、その途中で柏原山に向かう林道が分岐しているのだが、この時は、その林道分岐を見落としていた。
6日目の行程では由良側から柏原山を越えて洲本に抜けるルートで、できれば避けたい諭鶴羽山地南面からの登りを計画していたため、分岐地点を探っておくことは重要だったのだが、登り坂に必死で確認を忘れていた。
立川水仙郷の廃墟の跡を眼下に見送って中津川集落には8時20分着。11.4㎞。
ここから先、海岸沿いには諭鶴羽山地から流れ降ってくる小渓流が刻む谷ごとに小さな集落があり、それらの集落の奥には集落を見守るような鎮守社が鎮座しているので、それぞれを訪れていく計画としていた。
この中津川集落にも谷奥に白髭神社があるので参拝していく。
アクセス路は中津川の谷沿いにあるとはいえかなりの急傾斜で、所々、押し登りを要した。
中津川集落発、8時26分。





既に述べたように熊田海岸から中津川集落までの海岸沿いには廃道と化した旧道が残っているが、現道沿いに海岸に出て来し方を振り返っても、そこに道があったということは想像もできない。
僅かに、手前の断崖の一画にガードレールの痕跡を見るばかりであるが、それとて、そうと知らねば旧道の一部と認識することは不可能だし、実際、私自身も、そこに車道があったという事を知ったのはこの紀行の執筆を始めてからであって、現地では、地形図通りの徒歩道の残骸があっただけだと認識していた。立川水仙郷を挟んで両側の集落に、遊歩道でも整備されていたのだろうと考えていたのだ。
この中津川からは土生海岸に至るまでの全区間に渡って、県道は海岸線を行く。
天気は快晴で遠くに見える沼島が旅情を誘うが、予想した通りこの海岸線に出ると強風が吹き荒れ、平坦路であるにもかかわらず時速15㎞を維持して前進するのも困難な状態になる。沖合も白波が立っている場所が目立ち、小型船で渡ることが出来るのか不安になる。
真冬の平日という事もあって、これだけ気持ちのいい天候ではあるものの、自動車の通行は皆無。向かい風さえなければ最高の「ちゃり鉄」日和なのだが、そう簡単には事は運ばない。
立ち寄り計画を立てた途中集落は例外なく急勾配で谷を登った場所にあったが、これは海岸沿いの厳しい環境を避けてのことであろう。
今でこそ消波ブロックや護岸によって強固に守られてはいるが、熊田海岸付近で眺めたように上からは崩落、下からは浸食で、自然の猛攻を受ける断層面の直下だ。住居を建てての安定した生活など望むべくもなかったに違いない。
それでも諭鶴羽山地から流れ降ってくる小渓流沿いの谷間に石垣を積み上げて平坦地を設け、半農半漁の自給自足生活を送った人々の暮らしがあったことは記憶に留めておきたいし、衰退の一途を辿りながらも今日まで存続しているそれらの集落の存在は記録に値するものだろう。
今日、国土地理院の地形図を眺めても、生石鼻から潮崎に至る淡路島南岸の海岸集落に学校記号は描かれていない。唯一、沼島に小中学校があるのみだが、これは沼島在住の小中学生が通うもので、淡路島本土の小中学生は、スクールバスで内陸の小中学校まで通っているのだろう。
古い地図を見てみると上灘村の相川、灘村の土生にそれぞれ学校記号が描かれており、現地にも廃校の建物が用途転用されて残っている。このうち、上灘村の相川集落にあった上灘小学校跡は、当初の訪問予定にはなかったが現地で古い看板を見つけたこともあって訪問することが出来た。
現在は洲本市役所の上灘出張所の庁舎として使われているようである。
強風と急勾配に悩まされて思い通りには進まぬ中、土生港は一旦通過するのだが、沼島汽船の運行状態を確かめに汽船乗り場を訪れてみると、幸い、欠航の案内は出ていなかった。夕方までに天候が悪化することもなさそうなので、この分だと、予定通り沼島に渡ることが出来そうでほっとする。
土生集落を出た後は阿万町に向けて急勾配で峠越え。降った先からは概ね北東よりに進路を取る。
北西の季節風を真横から受けるので向かい風がましになるだろうと思いきや、地形の影響からか、結局向かい風は変わらず、相変わらず進むのに難渋することになる。
途中、旧郷社の亀岡八幡神社に立ち寄り、三原地区で昼食や買い出しを行った後、三原温泉の南あわじクア施設さんゆ~館には13時3分に到着した。51.9㎞であった。
三原温泉は淡路島の温泉らしく弱アルカリ性のヌルっとした泉質で、美肌の湯といった感じ。
温泉で休むには早い時間帯である上に、ここから諭鶴羽山地越え20㎞余り、2時間40分弱の行程を控えているだけに、休息モードには入れないのだが、ここまでの行程が始終向かい風や急勾配に悩まされてきただけに、既に結構な疲労感もあり、峠越えの前に一浴するのはよいタイミングだった。
13時39分発。









三原温泉の出発予定時刻は13時34分としていたので、ここまで、ほぼ計画通りに走ってきているのだが、むしろ、強風と急勾配に悩まされ続けて余裕が全くなかったという方が正しい。
ここからの諭鶴羽山越えも厳しいことが予想さるのだが、土生港への到着予定時刻は16時12分。出港予定時刻は16時30分であまり余裕はない。
先を急ぐ気持ちもあるのだが、ようやく追い風になった反面、ここからは登り一辺倒だ。
山麓を緩やかに登り始めて程なく、上田集落付近では郷社の上田八幡神社が立派な佇まいで鎮座しているのが目に入った。予定にはなかったのだが、焦る気持ちを抑える意味も込めてこの郷社にお参りし、山越えの安全を祈願する。
その後、近代土木遺産の上田池堰堤までは急登。
堰堤に達した後は池の奥までしばらくは水平になるものの、小さな貯水池は直ぐに尽きて渓流になり、廃屋を見送ったら本格的な登りが始まる。
概ね照葉樹林に覆われた林道は視界が開けず黙々と登り続けることになるが、GPSで現在地を確かめつつ、少しずつ高度を増していく。
そしてこうした山越え林道の常で、谷沿いの道を離れるヘアピンカーブをきっかけに、山腹に取り付いて一段と急勾配になるのだが、それと同時に徐々に視界が開けてくる。時折空が開けて行く方遥かな高みに諭鶴羽山山頂付近の電波塔が見えている。
これから登らなければいけない高さに唖然とするが、休むことなくひたすら登り続ける。やがて林道は諭鶴羽山地の支尾根に乗るのだが、この付近から未舗装路も現れるようになり一向に楽にならない。
上田川の源流を詰めて主尾根に達した後も、諭鶴羽川の源流域のアップダウンが連なる尾根筋を行くので、諭鶴羽山の山頂は見えるとは言え予想以上の距離感や高度感があって、結構、疲労を感じるが、眼下には煌めく瀬戸内海が展開するようになり、疲れを癒してくれる。
最後は諭鶴羽神社と諭鶴羽山山頂とを分ける分岐を経て押し登りで電波中継施設前に到達。ここで自転車をデポして徒歩で諭鶴羽山山頂に達した。
15時32分。64㎞。予定よりも27分の延着となってしまった。







山頂からの展望は360度とまではいかないものの素晴らしく、南には太平洋に繋がる瀬戸内海の出口が雄大に横たわっている。北には洲本から福良にかけての平野が広がり、東西は諭鶴羽山地主稜線の山並みが続いている。
午後に入って強風は収まってきたようで、山頂ではあるものの序盤のような強い風は吹いていなかった。
山頂は広い裸地となっており、案内標識や一等三角点、頂上社などが設置されている。
時間に余裕のある日中であれば、ここでのんびりと昼食にするのもよいだろうが、この時点で土生港出港まで60分を切っており、残り距離は8㎞程ある。ゆっくりしているわけにもいかず、直ぐに山頂を辞してデポした自転車に戻って15時42分発。
少し下ったところにある諭鶴羽神社に参拝し、ここまでの道中の安全に感謝した後、神社も4分ほどで辞して土生港に向かう。残り39分で7㎞弱。結構際どくなってきた。
この諭鶴羽神社からの降りは簡易舗装の急勾配で、路面状況が良くないため、豪快に降っていくことが出来ず、始終、制動をかけながらの慎重な降りとなった。
途中集落にある神社にも立ち寄る予定にしていたがそれらは割愛し、土生港には16時18分に到着。72㎞であった。


既に着岸していた沼島汽船のしおかぜ丸にはぽつぽつと徒歩の乗船客が乗り込んでいく。
この船に自転車を原形積みできるかどうかが分からなかったのだが、幸い、輪行する必要はなくそのまま積載できるとのことで、手早く乗船手続きを終えて桟橋に向かった。
この後の便となると18時5分出港で沼島到着が日没後になる。強風は止んだとはいえ、諭鶴羽山からの降りで体が冷えたこともあって、日の指す時間帯に沼島に渡れたことは幸いだった。
沼島汽船のしおかぜ丸は後部に自転車を積載するスペースがあったのだが、この日は波が高く潮を被るしお客さんも少ないからという事で、船員さんの好意で「ちゃり鉄号」は船室積みにしていただけた。
この季節のこの時間帯にこんなスタイルの自転車がやってくることは滅多にないようで、船員さんたちも一様に驚いていたが、船室内に収まった「ちゃり鉄号」もどこかホッとした様子だった。
土生港は定刻16時30分に出港。
晴天だが荒れた海を行く小型船は大いに揺れ、窓の外は海面が見えたり空が見えたり思いっきり潮を被ったり、不安になるくらいの航海だった。それでも10名ほどの乗客は皆、慣れた様子で過ごしていたので、この程度の荒れ方は大したことないのだろう。
10分の航海を終えて沼島港には16時40分着。
他の乗船客が降りたのを確認して、一番最後に自転車を押して桟橋に出ると、先に降り立った乗船客は皆、直ぐに港から立ち去っていった。
昨年も瀬戸内の離島を幾つか巡ったが、島の暮らしは船が日常の交通手段であり、港は駅のようなものである。
到着した沼島汽船は1時間後の17時40分に土生港に向けて引き返していく。暫しの休息という感じで、船員は港の中で釣りをしていた顔なじみと談笑しながら、釣りに興じていた。



この日は沼島港周辺の神社にお参りしてからおのころ園地に向かい、目星をつけていた東屋の下で野宿をする予定だったのだが、沼島も結構気温が低く、先に着替えを済ませてしまって徒歩で神社を参拝してもいいと思い始めた。
それでおのころ園地に直行したのだが、目星をつけていた東屋は付近の小中学校や道路からも見える位置で、まだ、放課後の活動に興じる子供たちの歓声も響いていたので、直ぐに野宿の支度をするのは憚られた。
そこで園地の隅にあった公衆トイレを借りて着替えを済ませ、少し薄暗くなるのを待ってから野宿の準備を終えたのだが、そうなるともう、温かい夕食を食べて冷えた体を温め、寝袋に潜り込みたい気持ちが勝ってしまう。
翌日は、出港までの間に沼島をグルっと一周する予定だったので、神社の参拝はその時に追加することにして、野宿の宿で寛ぐことにした。
園地横の車道は沼島随一の観光スポットである上立神岩の展望地に繋がっているが、薄暗くなりはじめたこの時刻になってこの道を行く人もおらず、学校の明かりも20時過ぎには消えて、落ち着いた野宿となった。
沼島は海上の小島であり、おのころ園地は風が吹き抜ける地形にあったため、空の状態だとテントが吹き飛ばされる状況ではあったが、荷物類をテント内に格納することで対処することが出来た。
東屋の下はコンクリートで舗装されていることが殆どなので、多くの場合、テントを張ってもペグは打たない。
そもそも、公にはキャンプが認められているわけでもないだろうから、ペグを打ち込まずに済むならそうするのをマイルールにしている。
強風や急登、寒さに悩まされた一日だったが、晴天には恵まれ、計画通り沼島に渡ることが出来たことに満足して4日目の眠りに就いた。
ちゃり鉄24号:5日目:沼島おのころ園地-上立神岩-沼島港~土生港-福良=洲本-中浜公園
5日目は沼島探索を終えてから福良に向かい、そこから淡路交通鉄道線の廃線跡を辿って洲本までを走る行程。事前の調査で鉄道廃線跡はほとんど残っていないことは把握済みだったが、この淡路島に鉄道が走っていた時代を偲びながら沿線を走りたいと思う。
淡路島自体がそうであるが、その中でもこの5日目の行程で巡る沼島やおのころ島神社などは、国生み伝説の物語の地を行く興味深い行程でもある。
「ちゃり鉄」は鉄道沿線を巡ることが主目的ではあるが、その鉄道は人々の暮らしと密接に結びついており、駅はその結節点である。
駅を中心として展開した人々の暮らしを追うことで、鉄道沿線の旅は一段と深く味わい深いものになるのだが、その人々の暮らし・民俗には、必ず小学校や神社が登場するという事もあって、近年は鉄道沿線の神社や小学校跡なども訪れることが多い。
その神社の系譜を辿った源流に国生み伝説があることは言うまでもない。
私は教義的な意味での神社神道に深い造詣があるわけではないし、その信者でもないが、もっと素朴な信仰心で自然を畏れ敬った人々の暮らしに対する興味から、その象徴として集落ごとに祀られた神社にも興味を抱くようになった。
その意味でもこの5日目は楽しみな行程だった。
ルート図と断面図は以下のとおり。



序盤は沼島島内を巡る行程で島の外周山地に沿って一周する。
事前調査でこのルートを車両通行できることは確認済みだったので、押し登りを要する区間が多いことは分かっていたものの、徒歩やトレランではなく自転車で走破することにした。
中盤は土生港から福良港までのアップダウン区間。南岸から西岸にかけての地域を行くが、入り江と岬が連なるハードな区間となる。
終盤は淡路交通鉄道線に沿って福良~洲本間の平野部を横断する。淡路島における経済活動の中心地を行くだけに交通量も多いエリアだが、地形的には比較的穏やかである。
なお、断面図はGISソフトのバグで沼島が区間2となってしまっているが区間1と区間2は本来逆配置となる。
この日の沼島港出港は9時50分。沼島探索はそれまでの間に行う計画としていた。前日、自凝神社や沼島八幡神社の参拝を割愛したので、今日はそれらも予定に組み込んでいく。そういうこともあって、おのころ園地の出発は6時27分。夜明け前となった。
沼島探索は反時計回りに行うことにして、まず最初に沼島の西の山腹に鎮座する自凝神社に参拝。「自凝」とかいて「おのころ」と読む。「おのころ」の語源なども文献調査記録執筆の際にはまとめたいと思うが、「おのころ島」を象徴する神社として訪れておきたい場所だった。
夜明け前という事もあり参道も拝殿も薄暗い中での参拝となったが、旅の道中の安全を祈願した。
自凝付近から奥に向かう登山道を進めば外周道路に達することが出来るようだが、「ちゃり鉄」の自転車を抱えて参道を登ってくるのは困難なので、沼島海水浴場側から回り込むことにした。
ここは通行止めになっているという情報もあり、実際フェンスで囲まれていたが、偶然にもフェンスに隙間が空いており、そこから自転車を通して先に進むことが出来た。これは偶然だったのか外周道路を歩く人の為に僅かに開放していたのかは分からないが、ネットでは通行止めという情報も多いの、徒歩で巡るなら自凝神社側からアクセスするのが順当かもしれない。
ただ、車両も通れるくらいに整備された外周道路側には通行止めの表示はなかったように思うので、時計回りに一周してくると、最後にフェンスに阻まれてしまうという事になる。観光案内のパンフレットには通行止めの記載はないので、周辺の土木工事に伴う一時的な通行止めのようである。
最初は林道然とした道を行くが、そのうち、路傍に石仏が現れるようになる。
沼島灯台付近には石仏山という山もあるが、沼島に見られる石仏群は明治時代の厄災に際し、その慰霊の為に八十八体の石仏を設置して沼島八十八ヶ所霊場としたものだという。その全てを回るのは割愛するが、道すがら登場する石仏を都度撮影しながら先に進んだ。
地蔵様や道祖神というのも旅とは密接に結びついた神仏信仰の対象で、私も気になった時には手を合わせて行くことにしている。
途中、後ろから軽トラが来て驚かされる。先方もキャリア装備の自転車に驚いたことだろう。その軽トラをやり過ごした後、おのころ山への分岐地点付近に達すると道の先に、追い抜いて行った軽トラが停まっており、人の話し声が聞こえてきた。
私は分岐点で路傍に自転車をデポし、徒歩でおのころ山山頂を往復。山頂には石仏群と案内標識、東屋があった。ここには三角点もあったはずだが、沼島の三角点は石仏山の方にあると勘違いしていたので、三角点を探さずに素通りしてしまったのが悔やまれる。
自転車に戻って出発の準備をしていると先ほどの軽トラが前からやってきたのでやり過ごす。
軽トラが停まっていた辺りには何かの観測装置が設置されていたので、彼らは研究者なのかもしれない。
おのころ山周辺には海岸に向かう幾つかの分岐がある。
外周道路自体は海岸線には出ずに内陸側を通っているので、海の気配を感じるというよりも山道に近い様相だが、分岐から枝道を辿っていくと浜や岬があるようだ。
おのころ山でも見落としがあったことだし、次回、沼島を訪問する時は、トレッキングスタイルで枝道も探りながら、一日かけて周ってみたいと思う。
急勾配を降っておのころ園地からの道に合流した後、その道を登り詰めて海岸線に出ると上立神岩の展望台となる。7時51分。4.2㎞。
自転車で周ってきたものの徒歩と変わらぬくらいの速度だったのはアップダウンの激しさゆえに押し登り区間が多いためである。
上立神岩は沼島随一の名勝と言ってもよいだろう。
国生み伝説で登場する「天沼矛」は、この上立神岩を指すという説もあるようだ。
生憎、この朝は曇天で、すっきりと晴れ渡った海に突き立つ奇岩を眺めることは出来なかったが、それはそれで、国生み伝説の謎を感じさせる風景でもあった。
「上」立神岩というくらいなので、「下」立神岩もあるのだろうと調べてみると、少し西の海岸沿いに「下」立神岩があるようだ。そちらは断崖と岩礁に阻まれて陸路でのアクセスが難しく観光化はされていない。
季節外れの早朝にこの名勝を訪れる人はいない。一人静かに国生み伝説の地で過ごしたのち出発。8時発。




ここからは沼島東側の外周道路を周ることになるが、その取り付きの登りは斜度20%超はあろうかという急坂で押し登りを要する。
この東側の外周路に沿って、山ノ大神社、沼島灯台、石仏山などがある。
石仏山は沼島灯台付近にあって島の最高峰でもある。ここにも三角点があるのだが、私が携帯していたGPSのマップではおのころ山にしか三角点記号がなく、石仏山には三角点が表示されていなかったので、こちらも素通りしてしまった。この他、島の北端にも三角点があったがここも訪れていない。どうも準備不足ではあるがそれは再訪を促す天啓なのだろう。
沼島灯台から先に進んだ区間で、僅かばかり、紀淡海峡の風景が開けるところがあった。朝日を受けた紀淡海峡は冬型の不安定な天候の下にあって雲も多かったが、彼方には生石鼻から友ヶ島にかけての陸影が見えていた。
北端の岬を周り込んで沼島港に戻ってくる。ちょうど、外周道路の東側の入り口に当たるところに神明神社があるので、最後に参拝して道中の安全に感謝をささげ、外周道路の探訪を終えた。
この後、沼島港に戻って島の鎮守社である沼島八幡神社にも参拝。
島の集落道を辿ったり、厳島神社から沼島港を撮影したりした後、沼島汽船乗り場に到着した。9時19分。9.4㎞。
2時間52分で9.4㎞を周ってきたことになるが、押し登りが多かったことを考えても、徒歩で周って十分間に合う行程だったように思う。
沼島港から眺める港外は今日も白波が立っており、淡路島本土側には冬型の天候を思わせる雲や雨域が広がっているようだった。風も相変わらず強く今日の行程も風に悩まされそうだ。
それでも、冬の静かな沼島を訪れることが出来たのは幸いなことで、再訪の思いを新たにする。
沼島発、9時50分。









土生港には10時着。沼島から見えていたとはいえ、僅か10分の航海を経て辿り着いた淡路島本土は今にも降り出しそうな暗い雲に覆われていた。
今日はここから福良まで走り、その後は、淡路交通鉄道線の廃線跡を行くのだが、廃駅とは言え駅の数が比較的多いため、洲本で落ち着くのは日没後になる見込みだった。
相変わらず北西の季節風が強く、福良までの行程の大半は向かい風の中を行くことになる。
本格的な天気の崩れはないと分かっているものの、上空を覆う暗い雲から逃げるように、直ぐに土生港を出発する。10時10分発。
ここから土生海岸付近までの行程は昨日と重複する。そこに急登があることも承知しているが、2度目の通過になると1度目より楽に感じるから不思議なものだ。この先どれくらいの傾斜でどれくらい続くのかという見通しが立っているからなのだろう。見通しが立とうと立つまいと、これから越えて行く道の傾斜が変わり急勾配が短くなることはない。それでも、実際に軽く感じるは事実である。
これは些細なことではあるが、人生の教訓としても使えそうな話で、不安の正体はそういうものなのだろう。
土生海岸付近まで来ると上空の雲が吹き払われたのか、昨日と同じような晴天が広がってきた。
土生海岸から登り切ったところで県道76号線からは別れ集落道に入る。
この先、淡路島西南端の潮崎に向かって小径が続き、幾つかの集落があるので、今日はそちらを丹念に巡りながら阿万海岸に出るルートで走る。
このルートは一般的な淡路島周回のルートにも入らず、アップダウンも激しい難路である。
途中、地野、仁頃の2集落があり、それぞれに皇大神社があるので集落の鎮守社としてこれらにも参拝していく。
仁頃には11時4分着。17.3㎞。
ここは生石鼻と対をなす淡路島南岸の中央構造線断層面一端に当たり、生石鼻~熊田海岸~中津川集落付近と同様、やはり海岸沿いを行く道が断崖で途絶している。地形は更に険しく、元あった道が消失したというよりも元々道はなかった場所で、仁頃漁港まで降ってきた道は、そこで断崖に阻まれて行き止まりとなっている。
仁頃集落の少し東の道路上には118mの独標があるが、当然、仁頃漁港は0m付近まで降ってくる。この先は行き止まりなので、今しがた降ってきた分を登り返さなければならない。
淡路島南岸の各集落はいずれもそういう厳しい地形の中に立地している。
「ちゃり鉄」の旅ではそれらの集落を一つ一つ丹念に巡ることが出来て良かったと思うが、重積載の自転車での行程は体力の限界を試す行程でもある。
勾配途中の皇大神社に参拝しつつ、高台からの風景に癒されて仁頃出発。11時7分。






ここから潮崎付近にかけては地理院の地形図上では道が続いているように描かれているが、実際に現地に行ってみると分岐地点は藪となっており事実上の廃道である。目の前の藪を突っ切ればその向こうに道型が復活するのかもしれないが、ここは強行突破することなく一旦阿万海岸に降り、そこから引き返して潮崎方面に向かった。
ただ、潮崎自体は道なき陸の突端で灯台もない。54mの独標が描かれているが、西と南は断崖に阻まれ、北と東は小径が刻んだ谷に隔てられた、小丘状の地形である。
また、潮崎温泉という記載もあるが、温泉旅館や入浴施設があるわけではなく、源泉施設があってお金を払って温泉を汲んでいけるだけのものなので、ここで温泉に入ろうとしても叶わない。
この岬手前の車道末端に近年になって洋食屋もオープンしたようだが、「ちゃり鉄」の旅で訪れるには少々敷居の高い料金、雰囲気だったので、昼食には良い時間帯だったが立ち寄らずに引き返した。
特に展望が開ける場所もない潮崎周辺だったが、僅かに風景が開けた場所で、遠くに大鳴門橋と鳴門海峡が見えてきた。
潮崎から阿万海岸、吹上浜を経て押登岬を要する大見山を越えて行く。
ここにはホテルニューアワジ系列の大きなホテルが建っており、遠くからでもその姿がよく目立つが、実際に横を通り過ぎると、オフシーズンの昼間という事もあって、廃業したのかと感じるほど人の気配がなかった。
大見山のある一帯は、こういった観光施設が点在しており、その拠点は福良の街にある。
ここに来て鳴門海峡の風景が「車窓」を彩る中、バランスを崩すような強風に難渋しつつ福良に到着。12時47分。35.2㎞。







この福良から洲本までの間は今でも淡路島の経済活動の中心地となっているが、1966年10月1日までは淡路交通鉄道線も走っていた。廃止の理由はもちろんモータリゼーションの進展に伴う経営難であったが、それにしても淡路島に鉄道が走っていたという歴史は余りにも影が薄いように感じる。
この鉄道は1922年11月26日に淡路鉄道として誕生しており、当初は洲本口(後の宇山)~市村間が第1期開業区間であった。その後、1923年11月22日に市村~賀集間、1925年5月1日に宇山~洲本間、1925年6月1日に賀集~福良間が開業して、全線開業に漕ぎつけた。
1943年7月1日に経営統合されて淡路交通となったのは戦時体制下での交通統制の影響を受けたものである。
廃止時期が1966年10月1日ということもあって、道路転用された区間が多いこの鉄道の遺構は少ないが、既に多くの先人が廃線跡探訪を実施し、僅かに残る路盤や橋台の跡を見つけては記録に残しているようである。
私の「ちゃり鉄」の取り組みでも、そういう個々の鉄道施設にスポットを当てて旅をすることはあるが、この「ちゃり鉄24号」では福良から洲本までを往時の車窓風景を偲びながら走る「ちゃり鉄」に重点を置くことにした。
福良では今もバスターミナルとして残る駅の跡を訪れて出発。12時58分発。
路線跡はここから東の洲本を目指して車道転用されながら続いているが、私は一旦福良港の観光施設に向かい、そこで鳴門海峡の観光船が発着する様子を眺めつつ「生しらす丼」の昼食を摂った。
昼食の後、一路、洲本に向けて出発。
沿線は南あわじ市域と洲本市域に跨っており、南あわじ市域は三原川水系、洲本市域は洲本川水系に含まれる。この分水界が淡路長田駅跡と淡路広田駅跡の3.4㎞の区間にあり、現在の国土地理院地形図上では県道125号洲本松帆線に59mの独標が記されている。分水界と市域界は一致しておらず、南あわじ市域は若干洲本川流域にまで入り込んでいる。
いずれにせよ、沿線の最高地点で60m弱という事になるので、ここ数日続いた登り急勾配からは解放される。北西の季節風が吹く中で東向きに進むので、風も追い風になるだろうと思いきや、地形の関係があるのか、何故か向かい風になっている区間も多く、洲本に到着するまで案外風に振られたり押し戻されたりする場所も多かった。
沿線の鉄道遺構は少なく、また、駅の跡も記念公園などに転用・整備されているところはないので、そうと知らなければ廃線跡を辿っていると認識することは困難ではあるが、転用された車道の緩やかな曲がり具合などに鉄道時代の面影を感じながら走る事ができる。
御陵東駅跡付近には淳仁天皇陵があり、自凝島駅跡付近にはおのころ島神社もある。この他、沿線の地名には神代國衙、神代地頭方、倭文委文、倭文神道といったものもあり、国生み伝説も相まって日本創世の歴史を感じさせる一帯でもある。
自凝島~掃守間の鉄道廃線跡は自転車道として往時の雰囲気を色濃く残しているが、そんな自転車道は地元の中学生の通学路になっているようで、ヘルメットを被った中学生たちが大挙して下校する車列に出会った。
男子はバラバラに足早に走り去り、女子は数名ずつのグループになって走り、交差点ごとに数名ずつが別れて行く。その様が微笑ましくもあるが、追い抜くに追い抜けず、後ろからずっとついていく形になったのが、変質者のようで恥ずかしかった。
この通学路が鉄道の廃線跡だと知っている中学生はどれくらいいるのだろうか。
三原川流域の廃線跡は、田畑の中に集落を結ぶ車道としてその線形に面影を残しているが、洲本川流域の廃線跡は住宅地の中に飲み込まれてしまい、再開発などもあって道路としても辿ることが出来ない区間が多くなる。
古い地図を参考にしながら、駅があったと思われる場所をポイントデータとしてGPSに取り込んでいったのだが、実際に現地に立ってみても、そこに鉄道が走っていたとは想像できない場所が殆どだった。
それでも往時の鉄道の車窓は、遠くに諭鶴羽山地を眺めつつ、田園と集落の中を行く長閑なものだったのだろうと想像できた。
鉄道ターミナルだった時代の面影を今も色濃く残す洲本駅跡には16時36分着。64.6㎞であった。







洲本では大浜海岸辺りで適当な東屋を探して野宿しようと思っていたのだが、3日目に生石公園に向かう道中で走り抜けた際に下見した限りでは、野宿に適した東屋は見当たらなかった。
この日も改めて大浜海岸を流してみたが、やはり、これという場所は見つからない。
一層のこと、洲本城跡の方に登ってもいいかと思いつつ、一先ず、洲本八幡神社や厳島神社にお参りして、この日の行程の無事に感謝。洲本八幡神社では小雪が舞ってきて驚かされるが、そういえば昨年同時期に「ちゃり鉄22号」で訪れた小豆島でも、寒波に見舞われて降雪や凍結があったのだった。
日が暮れ始めて体も冷えてきたので、野宿場所の結論は後で出すことにして、目星をつけていた東光湯に立ち寄った。
ここは温泉ではなく街中銭湯だが、観光客向けの施設ではなく地元の人が通う施設なので、旅の情感としてはこちらの方が好ましい。
昔ながらの佇まいの銭湯に浸かって体を温めた後、脱衣場の横にある休憩室で周辺の公園などを調べ、大浜海岸の北にある中浜公園に良さげな東屋があるのを見つけたので、今夜の目的地はそちらに変更。
18時14分。中浜公園着。69.5㎞。
序盤は沼島の探索に充てていたこともあって行程は短かったが、福良から先も風に悩まされる区間が多く、意外と疲労感のある一日だった。
洲本港に面した公園には、時折ドライブの車がやってくる様子があったものの、誰かに眠りを妨げられることもなく静かな夜を過ごすことが出来た。街明かりで煌めく洲本港の水面の向こうにライトアップされた洲本城が佇む姿が印象的だった。




ちゃり鉄24号:6日目:中浜公園-柏原山-由良海岸-洲本城跡-鮎屋の滝-福良-慶野松原
旅も後半となった6日目は再び淡路島東部から西部へと向かい、鳴門海峡に沿って北上して慶野松原までを目指す行程である。
昨日は福良から洲本に向かって淡路交通鉄道線の廃線跡を辿ってきたのだが、この日は諭鶴羽山地の東の盟主である柏原山を周ってから、洲本城経由で諭鶴羽山地の北麓を進み福良に戻る。
その後、大鳴門橋の淡路島の起点である門崎を訪れて、西淡に入って海岸沿いを北上していくことになる。連日、北西の季節風が吹く中で、今日行程も概ね向かい風になるだろう。
序盤は柏原山越えのルートであるが、当初、このルートは洲本からの時計回りで計画していた。
しかし、4日目の行程で諭鶴羽山南麓を走った結果、重積載の「ちゃり鉄24号」で南側から柏原山にアプローチするのは「労多くして実のり少なし」と判断。洲本側から南行する形で登り、3日目とは逆向きに、由良から洲本に戻ってくるルートで走る事にした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


序盤の顕著なアップダウンが柏原山を示しているのだが、柏原山は登りも降りも大きくは2段階の勾配を持っていることが見て取れる。
いずれも標高250m付近を境にしており、洲本側からの登りは250m以上、由良側への降りは250m以下で勾配が増している。
よく見ると、登りでは550m付近から500mにかけて、降りでは450mから420m付近に登り返しがある。
このうち、550m付近から500mにかけての登り返しは、柏原山森林公園展望台付近から柏原山北展望台にかけての降りで、事前にこの両展望台の標高差まで詳細には調べていなかったので、現地では意外な降りに驚いた。
また、450mから420m付近の登り返しは、逆向きに登ってきた時には山頂が近付いてきたところで、降らされてしまうことになるので、心身疲労するパターンだ。
その後は、30㎞付近から67㎞付近まで標高差100m内外の小刻みなアップダウンが続いている。
淡路島西岸は大きなアップダウンはないのだが、福良から門崎を越えて阿那賀に出るまでの辺りに海岸沿いの峠越えを控えているので、それが断面図に現れている。
中浜公園は観光客やカップルが訪れるような場所ではないため、人の出入りは殆どなく静かな一夜ではあったが、港湾関係者や釣り人らしい軽トラが時々来訪した。
明け方もまだ暗いうちから起きだしてテント内でホットコーヒーを沸かしながら朝食を摂っていたのだが、テントの外には1台の車がやってきて停車している気配があった。もっとも、テントを張った東屋は車道からは1段高い位置にあるので、直接見えないのは安心できる。
出発準備を済ませた頃にはすっかり朝の気配が漂い始めていたが、対岸の水平線付近には厚い雲がかかり、日の出はまだ少し先になりそうだった。
柏原山の登りは諭鶴羽山と同様に急登となるのは分かっていたので、日の出を待たずに出発。6時49分。
当初予定はここから洲本城経由で由良に向かって海岸沿いを進む予定だったが、昨夜検討したとおり先に柏原山を越えることにするので、内陸側に進んでいく。途中、昨夕にも立ち寄った厳島神社に立ち寄って一日の安全を祈願した。


この日のルートは洲本市街地に向かって南から流れ込んでくる千草川にそって千草集落に向かい、竹原川と千草川の間に降りてくる尾根に乗って林道を登り詰めていく。この林道は千草集落の南端から尾根に取り付いているのだが、登り始めが結構はっきりとしていて、里山の中の農道風情の道が山腹に取り付くや否や、一気に林道の様相を呈して勾配が増していく。
ただ、山頂に3箇所の展望施設が整備されていることもあって、林道ではあるものの路面状況はよく、先日の諭鶴羽山への登路よりも登りやすい。登るにつれ林道にも朝日が差し込むようになり、周囲の山の稜線が近付いてくる。時折、眼下遠くに視界が開ける場所もあって、望遠レンズで覗くと洲本城の天守閣がこじんまりと佇んでいるのが見えた。
廃寺となった淡路西国4番札所の瀧本寺の跡を訪れて程なく、道が尾根に達して柏原山森林公園展望台に到着したのだが、私は北展望台も訪れる予定にしていたので、先にそちらに向かう。
ところが、この北展望台は先の森林展望台よりもかなり低い位置にあったため、思いもかけず長い距離を降ることになった。これは事前調査を平面的に行っていたための誤認であった。
展望台自体も、前もって調べていた通り樹林の成長によって展望が開けなかったので、ここは直ぐに辞した。その帰路、柏原山山頂までの徒歩道の案内標識があったので、その地点に自転車をデポして5分程度のトレッキングで柏原山山頂を踏んでいくことにした。山頂も展望は開けないが、その分、樹林に囲まれた静かな雰囲気があり、それはそれで、心地よいものだった。
北展望台から登り返して森林公園展望台には8時48分着。12.8㎞であった。
この展望台は標高568.9mの柏原山と標高552m独標との間の鞍部地形にあるので、先日来の季節風が風鳴りを伴って吹き抜けていた。南北方向の尾根の鞍部に当たるので、展望は主に東西方向に開ける。
望遠レンズから覗くと紀淡海峡や友ヶ島、沼島の姿が見えたが、靄がかかっていてすっきりとした展望は開けなかった。
訪れる人も居らず吹き付ける風で体を冷やされることもあって、そうそうに展望台を後にする。なお、南展望台もあるのだが今回は訪問しなかった。8時53分発。






展望台から南に向かって降り始めると、もうその入り口付近から路面状況が変わる。いわゆる酷道とか険道などという表現もあるが、それに類する感じで舗装は簡易舗装になり、路面を堆積物が覆い、通行車両の車輪幅の分だけ、路面が見えている。
この状況だと豪快に軽快に降っていくというのは難しい。というのもスリップや転倒の恐れがあるからだ。場合によっては落石・落枝に衝突したりする可能性もある。コーナーもタイトな場所が多く、スピードを出しても30㎞未満という状況でゆるゆると降っていく。
途中、登り返しがあったりして意外とすんなり降っていかないが、展望が開ける場所では遠く紀伊半島方面まで眺めることが出来た。
降り中盤以降はヘアピンカーブも描きながら急勾配で降る。途中、伊張山展望台から紀淡海峡を眺め、県道76号線に合流。この合流は4日目に通り過ぎているのだが、柏原山方面からの林道が合流している地点と気が付かずに通り過ぎてしまった地点だ。もし気がついていたら、その段階で、こちら側からの登高を諦めていたであろう、そんな雰囲気を漂わせていた。
ここからは由良海岸を北上して洲本城に向かうのだが、山を降ってくると天候が回復してきたので、3日目に小雨の中で訪れた波切不動明王を再訪問し、ここで「ちゃり鉄24号」の自撮りも行った。自分自身の撮影はあまり好きではないのだが愛車は撮影したくなる。そんな自撮りに興じていると、ビッグスクーターでやってきた男性が居て、同じように乗り物を自撮りしていた。
9時38分着、9時52分発。20.9㎞であった。






由良海岸を辞して淡路島東岸を北上、洲本温泉街に入ると観光客の姿が多くなるが、私の姿は目立つのか視線が追いかけてくることが増える。近年、ロードレーサーに乗る人は増えたように思うが、キャリア装備のロングツーリストを見かけることは少なくなった。ランニングや登山でもそうだが、SNSの影響なのだろう。
温泉街の中ほどで左折し洲本城跡に向かう。この道は三熊山ドライブウェイと呼ばれる観光道路で洲本城跡の他、三熊山公園なども整備されている。かつては、この一画に競馬場もあったらしい。
洲本城跡には10時47分着。31.8㎞。
昨夜、中浜公園から見上げた模擬天守が青空の下に映える。その天守に登ってみれば、今度は、洲本市街地が一望できる。最寄りの駐車場からも歩く必要があるので、模擬天守からの夜景は雰囲気も良いだろう。
天守がある一画にはカフェがオープンしていたので、ここでホットコーヒーをいただいていくことにした。
天守のある三熊山の北側山腹には八王子神社もあるので足を延ばす。岩窟に小さな祠が祀られており、こじんまりとしながらも神聖な感じのする一画であった。
洲本城跡には予定時間よりも長く滞在し11時17分発。
ここからは諭鶴羽山北麓の丘陵地帯を西進して福良に向かう。途中、鮎屋の滝に立ち寄って福良には13時12分着。55.2㎞。アップダウンと向かい風に体力を試されながらのルートだった。4日目以降、向かい風に体力を奪われる日が続いているが、晴天が続いているのは幸いだ。これで雨天ともなれば、心身車体ともにダメージが大きい。





この日も昨日同様福良で昼食。今回は市街地にあるとんかつ&喫茶ママンという店で、名物のロースとんかつ定食をいただく。ご夫婦で切り盛りされている小さなお店だが、とんかつのボリュームが多くて、旅では不足しがちな野菜もたっぷり。満足のいく昼食だった。「ちゃり鉄」では、できればこういうお店で昼食を摂るようにしたい。
昼食の後、福良八幡神社や住吉神社に参拝して大鳴門橋の袂にある門崎を目指して出発。14時10分。
途中、福良湾口の付近からは大園島から押登岬にかけてを遠望することが出来る。今回は福良周辺で野宿することはなかったが、風光明媚な一帯でもあり、次回訪問の際は一夜を過ごしてみたいものだ。
門崎に落ち込む尾根に乗り神戸淡路鳴門自動車道を跨いで細長い岬に入っていくのだが、この辺りから淡路島西岸に入り、岬の上は相変わらずの強風。眼下の鳴門海峡も至る所で白波が立っていた。
この岬の先端に門崎があるのだが、何と岬周辺は道の駅の工事中で立ち入り禁止。入り口付近のロータリー部分に門衛が居て関係者以外の立ち入りを防いでいた。
仕方ないので引き返し、少し戻った地点から大鳴門橋と鳴門海峡を撮影して門崎を後にする。
白波を立てて川のように流れる鳴門海峡をひっきりなしに貨物船が行き交っており、ここが海上交通の要衝であることを実感する。
淡路島は北の明石海峡で本州と、南の鳴門海峡で四国と隔てられいるが、それぞれに架橋されているので自動車なら一続きに本州から淡路島経由で四国まで走り抜けることが出来る。元々は新幹線を通す構想もあったこれらの橋だが、2025年現在、それは実現する方向にはない。
一方、自転車交通はというと、北の明石海峡はジェノバラインで本州と結ばれているものの、南の鳴門海峡を渡る旅客船はなく、辛うじて一部の高速バスに自転車を積み込んで四国と行き来することが出来る程度だ。実際、門崎の袂にある淡路島南IC付近には自転車ライダー向けのバス乗り場の案内標識もある。
ただ、「ちゃり鉄」のような形態の旅では自転車の積み込みにも不便が生じるので、計画には組み込みにくい。
そう思っていたところ、2025年現在、この大鳴門橋では新幹線用に設けられていたスペースを活用して、自転車・歩行者用通路の設置工事が行われているらしく、徳島県のWebサイトでの説明だと2027年度の開通を目指しているという。
完成の暁にはアワイチならぬセトイチのルートが開けることになる。「ちゃり鉄」としても淡路島島内を縦貫して本四連絡をする計画線ルートを含め、しまなみ海道と一体的に巡るコースで走ることになるだろうが、サイクリストにとっては朗報である。
淡路島再訪はその時までのお預けという事になるだろうか。
門崎着14時45分、発14時49分。62.1㎞。





門崎から先は西淡から北淡にかけての海岸線を北上していく旅となるが、一気に岩屋まで走り通すのではなく途中の慶野松原で1泊挟む。
連日の季節風がこの日も吹き荒んでいたので、西淡の海岸は風浪逆立ち、所々、越波が道路を濡らしていた。その風景だけを切り取ると、何処か、北海道道東の太平洋沿岸を思い出させるような荒涼とした雰囲気がある。
南淡で見たような青い海の風景は素晴らしいが、それに負けず劣らず、こういう荒涼とした海の風景も素晴らしい。
自転車走行が前提となる「ちゃり鉄」では難しいことも多いが、真冬の吹雪の日本海なども、個人的には大好きな海岸風景。ディスクブレーキ車にアップグレードしたこともあって、今後は、そういうシチュエーションでの「ちゃり鉄」にもトライしたいと思っている。
相変わらず風は強くて走行には難儀するし、飛散する波しぶきを浴びるので露出部分はパサパサになる。車体にも錆びを生じる条件ではあるので事後のメンテナンスは欠かせないが、幸いにも天候は晴れているので慶野松原からは瀬戸内海の夕日を眺めることが出来そうだ。
この付近は旧阿那賀村域で阿那賀志知川、阿那賀西路といった具合に、旧阿那賀村の字名に阿那賀を冠した地名が多い。
現在は西淡町域に含まれているが、松帆村・湊町・津井村・伊加利村・志知村と阿那賀村が合併して西淡町が発足したのは1957年7月1日のことである。
慶野松原までの西淡町域では岬基部に広がる漁村を海食崖の下を行く県道が繋ぐ区間が続く。この付近の県道は県道25号阿万福良湊線である。
沿線には南側から丸山、津井、湊といった漁港が並んでおり、うち、三原川の河口に開けた湊集落と湊漁港がこの地域では最も規模が大きい。
丸山には漁港の弁天島があるが老朽化のため歩道橋が閉鎖されていて渡ることは出来なかった。また津井にある雁子岬一帯は民間事業者がリゾート開発を行っており私有地と化しているので、近くを通りかかったものの岬まで立ち入る気にはならず素通りした。
この雁子岬と湊集落との間にあるおじんば磯と登立明神の佇まいは好ましく、事前にチェックしていなかったのだが、「臨時停車」して明神様にお参りすることにした。
慶野松原には17時25分着。85.7㎞。
この日は前半の柏原山登降や洲本城跡の滞在に時間を要した上に、洲本から福良までも向かい風で遅延したため、福良の段階で1時間半ほど遅れていたのだが、門崎への訪問が出来なかったこともあって、慶野松原到着は50分程度まで遅れを圧縮することが出来た。
日没時刻も17時25分頃だったので、慶野松原の前の浜から印象的な日没を眺めることが出来た。
風が強かったことや雲が多かったこともあり、浜には他に1組のカップルの姿があるのみだった。
この夜は松原の中にある休憩所の軒下で野宿。近くに国民宿舎慶野松原荘があるので、日が暮れてからヘッドライトを頼りに国民宿舎に向かい、つるつるの泉質の温泉に浸かってこの日の疲れを癒した。
温泉には高齢のご夫婦が数組宿泊しているようではあったが、季節外れという事もあり、温泉も1人2人程度しか人の姿はなかったので、のんびりとお湯に浸かることが出来た。
「ちゃり鉄」の旅としては、野宿場所から徒歩圏内に入浴施設があるのが最上。
この日も温まった体で「我が家」に帰り、湊集落で購入した総菜などをつまみながら夕食とした後、眠りを妨げられることもない静かな夜を過ごすことが出来た。









ちゃり鉄24号:7日目:慶野松原-伊弉諾神宮-ヒヤリ峠-摩耶山-江埼-岩屋港
7日目は慶野松原から淡路島西岸を北上し北淡の岩屋港までの行程。途中、伊弉諾神宮やヒヤリ峠、淡路摩耶山などに立ち寄って淡路島の内陸部も少し走る事にする。
2015年、当時住んでいた兵庫県の川西市から須磨海岸を経由して淡路島北部をサイクリングしたことがあったが、その時に島を横断するのに使ったのが、淡路摩耶山付近を越える県道463号室津志筑線だった。
軽トラ規格の細い急勾配の道だった記憶があるが、今回は、西淡の室津集落から東淡の生穂集落を往復する形で、行きは県道123号生穂育波線、帰りは県道463号線を通ることにした。
岩屋港まで達するのでこの日のうちに明石海峡を渡ってもよいのだが、明石海峡を眺めながら淡路島最後の晩を楽しむことにした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図は途中に顕著な二つのピークを持っているが、これらが室津~生穂間の淡路島脊梁山地越えを表している。
前半がヒヤリ峠越えで、後半が淡路摩耶山越である。
それ以外の区間では概ね平坦で、所々、岬地形を越えるアップダウンがあるくらい。最後に現れる小さなピークは温泉施設の松帆の湯に向かうためのアップダウンである。
慶野松原の出発は7時を予定していたのだが、少し離れたところにコンビニがあったので、軽食の購入とトイレを兼ねて、ヘッドライトで松林を照らしながら暗い松林の中をコンビニに向かった。途中、何度か松の根に引っ掛かってこけそうになったりしながらコンビニについてみると、胸ポケットが開いていて財布が無くなっている。
何度かこけそうになったのでその際にポケットから落ちたのだろうが、真っ暗な松林の中を右往左往してショートカットしてきただけに、何処をどう歩いたものか分からない。
焦る気持ちを落ち着けながらトイレだけ済ませて元来た道を戻る。
凡そ当たりを付けて松林の中を戻っていくのだが、何の特徴もなく目印になるようなものもない松林の中。しかもヘッドライトが照らす範囲で歩きやすいところをショートカットしたので、途方もない探索に思えた。
辺りはまだ薄暗く、ヘッドライトの明かりが頼りとなると照射範囲だけしか探索できないし、落とした財布は目立たない黒色である。
朝早くから最悪の事態になったと思いつつ、地面を舐めるようにして確認しながら歩いていくと、奇跡的にも松林の中にポツンと残された財布を見つけることが出来た。時間にしてみれば僅かなことではあるが、本当に泣きそうな気持ちになった。落下防止用のコイルカラビナを付けているのにこれだから困る。
そんなこともあって慶野松原の出発は少し遅れたが、人の姿もない浜辺に出て標識灯などを撮影したのち出発した。7時13分発。13分遅れで済んだのは幸いだった。
慶野松原には事代主神社があるので、出発早々、松原の中の神社を参拝。天気はやや下り坂で神社の本殿の向こうに朝日が一瞬顔を覗かせたが、直ぐに雲間に隠れてしまった。



この日の主要訪問地は各地の神社となった。
慶野松原を出た後、五色浜や五斗崎を経て明神岬で西濱神社に参拝。その後、江井の光長龍王大明神を訪れてから郡家川沿いに少し内陸に入って淡路国一宮である伊弉諾神宮に参拝した。
9時7分着。22.8㎞。
この伊弉諾神宮は淡路国一宮であるとともに、私の地元・京都府福知山市の大江山山麓にある元伊勢外宮(豊受大神社)、滋賀県・伊吹山の麓にある伊夫岐神社、三重県・伊勢の伊勢神宮、和歌山県・熊野本宮にある熊野本宮大社(大斎原)の5か所の聖地を結んで形成される近畿五芒星の一画なのだという。更に、出雲大社、元伊勢、伊夫岐神社、富士御室浅間神社内宮とを結んだ一直線のラインがご来光のレイラインというらしい。
これは元伊勢に設置された看板やWebサイトでもしっかりと説明されている。
その五芒星が古代人の叡智の賜物なのかどうかは分からないが、文明生活にどっぷりと浸かった現代人と比べて、文明以前の人々の方が自然に対する感性に優れているのは事実で、我々には到底会得できないような次元で自然現象を把握していたのは概ね間違いないだろう。
それはさておき、「ちゃり鉄24号」での訪問時は、近畿五芒星の話などは知らなかったので、淡路国一宮として参拝した。確かに、淡路島で訪れた多くの神社の中でも別格を誇る神社で、この日も早朝というのに既に複数の参拝者の姿があった。
9時29分発。
その後、枯木集落付近では海岸沿いに佇む枯木神社を参拝。この神社は事前に計画していなかったのだが、横の県道を通り過ぎる際に、瀬戸内海をバックにした佇まいに惹かれたので、一度は通り過ぎたものの引き返してきて参拝したのだった。
ちょうど、地元の方が境内や拝殿の清掃活動を行っていらっしゃるところで、そうした手入れのおかげもあって、小綺麗な姿を保っているという事がよく分かる。
枯木集落から少し北上すると神戸淡路鳴門自動車道が西海岸をかすめる区間があり、そこに北淡ICが設けられている。この北淡ICがある育波集落付近から、生田畑集落、ヒヤリ峠を経て東海岸の生穂集落に降り、踵を返して、淡路摩耶山、長澤集落を経て西海岸の室津集落に戻ってくる。




この淡路島脊梁山地越えのルートは、往路の県道123号生穂育波線のヒヤリ峠で標高250m、復路の県道463号室津志筑線付近の淡路摩耶山で360mなので、ここまでに登ってきた諭鶴羽山や柏原山と比較すれば、楽な峠越えである。
往路では生田畑集落付近で棚田群を「車窓」に眺めつつ穏やかな高原状の大地を行く。生田畑集落手前の山手には五斗長垣内遺跡もあって、古くから人の生活があったエリアではあるが、少雨の瀬戸内にあって高原状の大地での稲作ともなれば、水資源の確保には苦労もあったに違いない。
伊勢ノ森神社に参拝した後、直ぐ近くのヒヤリ峠には10時56分着。38.6㎞。
このヒヤリ峠の「ヒヤリ」だが、現地にあった案内看板によると「ヒヤリハット」の「ヒヤリ」とか、「ひんやり」の「ヒヤリ」ではなく、「日遣り」だそうで、「一日を遣り過ごすほど越えるのが大変だった」というのがその由来だという。
峠があって神社がある。
古くからの人の往来を感じさせる小さな峠だった。10時57分発。
ここからは生穂に向かって降っていくのだが、このルートは生穂側の方が勾配がきつく、一気に降っていく感じだ。ヒヤリ峠で写真を撮っている際にお爺さんが原付で追い抜いて行ったが、実にゆっくりと降っていくので、すぐに追いついてしまう。
と言って、抜き去るのも気が引けて、10mくらい後ろをゆっくりと降っていく。
しばらくは民家もない生穂川の谷間を降っていくのだが、やがて谷口が開けて棚田状が広がる集落に出る。この集落内の道を降っていくと左手に賀茂神社の立派な鳥居が見えてきたので、予定にはなかったが立ち寄ることにした。
11時7分着、11時12分発。42.8㎞。
それなりに名前の知られた神社なのか、私が参拝している最中にも、車で乗り付けたご一家がいらっしゃった。





この生穂集落で昼食の予定だったのだが、目星をつけていた飲食店が見つからなかったので、諦めて登り返しに入ることにした。携行食としてシリアルを持っているので2日くらいは補給が出来なくても何とかなるし、道中で良さそうな店があればそこに立ち寄ればよい。最近は山間部でも古民家や農家を改築したカフェや飲食店が多くなったので、案外、飛び込みでよい店が見つかることもある。
「ちゃり鉄」は「時刻表を走る旅」でもあるので、基本的には計画を全うしていくことになるが、現地の状況に応じてアドリブを加えつつ、当初計画を満たしていくところに旅の妙味がある。そしてそのアドリブを適切に加えるためには、事前の十分な計画と検討が欠かせない。それがないと単なる行き当たりばったりになる。
もちろん、そういう旅を否定するつもりはないのだが、鉄道沿線に沿って1駅ずつ順番に停車していくという「ちゃり鉄」のルールを守ろうとすると、行き当たりばったりでは上手くいかないことも多くなる。
その辺は自由度と自分の拘りとのバランスの問題で、それこそ、千差万別。人それぞれのスタイルがあってよいと思う。
淡路摩耶山への登り返しは、網の目のように入り組んだ集落道から始まるが、その登り初めで八幡神社に参拝。県道463号線に出るまでの道のりが案外曲者で、意外な急勾配にエネルギーを消耗する。
県道463号線に出ると少し勾配が緩和するが、ルートとしては復路のこちらの方が路面状況が悪く道幅も狭い。400番台というのは県道でも国道でも規格が低いことが多い。
途中、貯水池の脇を通り抜け行く手に峠の気配が感じられるようになると長谷川原の集落に付く。現住民家もあるが廃屋も目立つ。峠は4差路になっているのだが、ここでは右手に折り返すように分岐する道に入る。こちらにも幾つかの民家が点在するが、更に進んでいくと今度は左に折り返すように分岐する道が現れ、ここには「淡路西國第二十七番」、「摩耶山鷲峰寺」との案内標識も出ている。
この最後の区間は自転車を漕いで登ることが出来ず押し登り。
淡路摩耶山・鷲峰寺には12時11分着。49.2㎞であった。
ここでは神戸の摩耶山と区別するため淡路摩耶山と記載しているが、国土地理院の地形図では摩耶山の表記。その山体が鷲峰寺の霊場となっているようで一帯に小祠が点在している。
津名港や津名市街地方面を遠望する展望台から三角点のある山頂を踏み、鷲峰寺本堂にお参り。ぐるりと一周する形となった。小さな駐車場もあるので、タイミングによってはそれなりの訪問者もあるようだが、平日のこの日は他に人の姿はなく、鷲峰寺も無人のようである。
12時32分発。







淡路摩耶山からは降り基調で西海岸を目指す。
県道123号線はヒヤリ峠という名称が与えられた峠があったが、県道463号線の峠は地形的には明瞭なものの地形図上に固有名詞は与えられていない。だが、地元の郷土史などを調べてみると、慣用的に用いられている地名があったりするので、本文や調査記録執筆の際には調べてみたい。
長澤集落から生田田尻集落にかけても棚田が広がっており、生田集落では棚田に囲まれた志筑神社に参拝した。この手前の田圃の脇に、1本の樹木と道祖神が佇む感じの良い一画があったのだが、降りで加速していたので止まることも出来ず、だいぶ降ってしまったので登り返しもしなかった。降りでは時々、こういう見落としや見過ごし、見残しがある。
更に降って室津集落まで来ると田畑の中に島のように浮かぶ大歳神社が見えてきたので参拝。
社叢林を伴った神社は遠くからでも目立つので見分けやすいことが多い。
室津集落からは海岸沿いのルートに戻るが、北淡に入ってから観光客向け、特に若者向けの飲食店や施設が増えてきた。北淡ICが近いことも影響するのだろう。
ただ、私自身はこういう飲食店にあまり食指が動かないこともあって、漁港集落を繋いで走りながらも、これといった店を見つけられないまま北に向かって進んでいく。
室津から先の海岸沿いには「淡路牛」の焼き肉屋もあって食指が動いたのだが、生憎、店の前まで行列が延びていたので立ち寄らずに素通りした。
そういえば、淡路島に入ってから、ご当地グルメの「淡路ビール」と「淡路牛」の看板をよく目にしていたが「淡路牛」は食べていない。私はアルコールは飲まないので「淡路ビール」の方はあまり興味が湧かない。
この他「焼きあなご」の店も目立つようになり、屋台風の店先で濛々と煙を上げている香ばしい匂いに惹かれる店もあったが、そこはテイクアウトだったので自転車では食べにくいし、何処かに腰かけて食べるにしては薄ら寒い天候だった。
そんな風にこれといった店が見つからないまま富島集落に入ったところで牛丼の幟を掲げた飲食店の看板を見つけた。そこで案内看板に導かれて路地に入ると、蔵のような作りの瀟洒なお店があったので、ここで昼食を摂ることにした。
「あわ路飯店・真心」というお店らしく牛丼が名物らしいので餃子を追加して注文。
私は「ちゃり鉄」以外で外食をすることは少ないが、「ちゃり鉄」で外食する時はかつ丼がお決まりのメニューである。この旅ではラーメン類が多かったが、夜はパスタを茹でることが多いので、外食となる昼は出来ればご飯ものを食べたい。
牛丼は普段から食べることが少ないが、室津から先の海岸沿いで香ばしい焼き物の匂いを嗅いできたので、今回は食指が動いた。
お店はマスターのご家族経営という感じで、顔見知りのお客さんの他に、私のような立ち寄り客が一組居た。少し甘味のある牛丼と餃子は満足いくもので、空腹も満たすことが出来た。
13時24分着、13時58分発。63.2㎞であった。




遅い昼食とはなったが腹を満たして北上を続ける。
この富島集落の北から野島蟇浦、野島轟木といった具合に、野島を冠した地名が登場するようになる。これは旧阿那賀村域でも見られたように、この辺りに旧野島村があったことの名残である。
そして淡路島の野島と言えば野島断層で知られており、富島漁港の東には野島断層の露頭があって震災記念公園が整備されている。「ちゃり鉄24号」ではこの記念公園を訪問していなかったが、次回、淡路島を訪れる際には訪問することにしたい。
この旧野島村域に入ると、左手の瀬戸内海に大型貨物船やカーフェリーの船影が目立つようになる。瀬戸内海航路を行く船舶だ。そして行く方彼方の水平線には朧げながらも本州の海岸線が浮かび上がってくる。
3日目に淡路島に渡って以来、島内4泊。5日目にして淡路島を一周してきたのを実感する。
野島集落では貴船神社に参拝。
その後、県道から行く手の右カーブ越しに、対岸明石市街地の高層ビルがはっきりと見えるようになってきた。ただ、この日は下り坂で海峡の風景も靄がかかっていたのが残念だ。
淡路島北端に当たる江崎では国指定重要文化財でもある江埼灯台に立ち寄る。
白亜の灯台が高台から明石海峡を行き交う船舶の安全を寡黙に見守っている。
「ちゃり鉄」の旅では灯台を訪れることも多いのだが、灯台守が居た時代の物語などもあって、無人化された今でも旅情ある旅の舞台だ。
ちなみに、国土地理院の地名表記では江崎、灯台名称は江埼となるのが通例で、実際、灯台を管轄する海上保安庁の情報も江埼灯台という表記を使っているのだが、国土地理院の地形図では江崎灯台と表示されている。これは国土地理院地図の誤植と思われる。
そういうことを見つけて喜ぶ自分に、どこか偏執や変質の気を自覚する。
江埼灯台14時46分着、14時58分発。72.6㎞。
ここからは松帆浦を進み一旦海岸線に出て明石海峡大橋を間近に眺めて撮影してから、高台にある松帆の湯を訪れて一浴とした。
15時15分着。75.2㎞。
松帆の湯では湯上りに土産物屋を物色した。
旅の最中は携行できる荷物量に限りがあるので、通常、土産は買わないのだが、旅先の地域での消費活動を通してその地域の観光振興に貢献したいというのも、「ちゃり鉄」の旅の目的の一つである。
そういうこともあって、両親伴侶への土産物を購入し地方発送を頼むことにしたのだ。両親伴侶の好みを考えて、淡路島ビールのセットや海苔の佃煮、玉ねぎスープ、藻塩などを購入。
松帆の湯は16時40分発。
ここから岩屋港の東屋までは5㎞もないので、ゆったりと過ごせる。
ところで、松帆浦は百人一首にも登場する。小倉百人一首の選者でもある権中納言定家によるもので
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ」
という歌がそれである。
この歌を思い浮かべたというわけでもないが、松帆の湯の土産物屋では淡路島産の藻塩も買っていた。
今日の松帆浦は近代的な明石海峡大橋の姿も相まって歌に詠まれた当時のような松並木の海岸風情は失われているが、夕凪の松帆浦に佇んで来ぬはずの恋人を待ち焦がれた平安時代の恋乙女に思いを馳せるのも、何ともロマンチックである。
道の駅あわじの敷地から淡路海峡を間近に眺め、岩屋集落に入ると旧道に銭湯があるのを見つけた。
この丸吉湯というこの銭湯は事前にリサーチしていなかった。今回は既に松帆の湯に入ってきたので後ろ髪惹かれつつも入浴は割愛したが、次回訪問時には是非訪れてみたい。
こうして一度旅するごとに行きたい場所が増えるのは、旅の楽しみの一つである。
岩屋集落のスーパーマーケットで夕食用の食材を手に入れた後、一旦、目的の東屋がある岩屋港を通り過ぎ、岩屋神社に参拝した。
この岩屋神社は淡路島初日となる3日目の行程でも通り過ぎたところだったが、あの日は雨が迫る中、生石公園到着を急いでいたので、訪問を後回しにしていたのだ。
こうして雨に降られることもなく、無事、淡路島一周を終えることが出来たことに感謝を捧げる。
その後、港の波止場の脇にある目的の東屋に到着。17時35分着。79.6㎞であった。
淡路島滞在中、始終、北西の季節風が吹いており、最終日のこの日もそれなりに風が吹き抜けていたが、野宿に支障を生じるほどではなく、また、天候悪化の前触れで気温はやや上昇していたので、ライトアップされた明石海峡大橋を撮影したりして、淡路島最後の夜を穏やかに過ごすことが出来た。








ちゃり鉄24号:8日目:岩屋港~明石港-新長田=三宮・花時計前-三宮=神戸空港-マリンパーク=住吉-和田岬=兵庫-新開地=湊川-会下山公園
8日目は岩屋港から明石港に渡り、須磨海岸を経て神戸市街地の鉄道路線を行く。とは言え、神戸市営地下鉄海岸線と、神戸新交通全線がメインとなるので、「鉄道路線」のイメージからは少し遠い。
また、最終的に六甲アイランドから六甲山最高峰付近までヒルクライムする予定だったが、天気予報ではこの夜から明朝にかけて寒冷前線が通過する見込み。降り出すタイミングは夕方になりそうだったが、六甲山のヒルクライムの最中に降られる可能性が高かった。
山麓で銭湯に入るとはいえ、雨の中の登りともなれば、もうそれだけで内外からずぶ濡れになるのは必至だし、1000m近い六甲山最高峰付近の東屋野宿は強風で吹きぶる可能性も高く夜景は望めない。
そういう事情もあって昨夜の段階でルート変更を検討しており、六甲山には登らずに、六甲アイランドからJR和田岬線、神戸電鉄神戸高速線経由で有馬線内に進むことにしていた。野宿予定地は有馬線の湊川駅と長田駅との間にある会下山公園に目星をつけた。
結果論ではあるがこの予定変更は正解で、公園到着直前の新開地駅付近で雨が降り出したので、辛うじて本降りの雨には避けられた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


六甲山最高峰付近まで登る計画を変更したおかげで、最終到達地点の標高は100未満。当初予定の10分の1程度となった。
行程的にもほぼ海岸付近をうろうろするだけなので、高低差は殆どなく比較的楽なルートではある。
但し、神戸市中心部を行き来するので交通状況は良くはない。交通量の多い幹線道路には緊張を強いられることになるし、自然海岸の風景を楽しめる区間は前半で終わりだ。
この日は7時に岩屋港を出港して明石港に向かう予定。野宿場所の東屋からジェノバラインの岩屋港まで自転車で3分の距離なので、朝は比較的余裕がある。
ジェノバラインの明石行き始発は平日なら5時20分。その後、6時、6時40分、7時と続く。しかし、この日は土曜日で始発が6時、その次が7時であった。
この日の行動を考えるなら、6時の始発便に乗船するのも一考ではあったが夜明け前の乗船は避けることにした。やはり、明石海峡は明るい時間帯に渡りたい。
港に発着する高速船の汽笛を聞きながら東屋の下で出発準備を行い、夜が白み始めた6時23分に出発。岩屋港の旅客ターミナルには6時26分に到着した。移動距離は0.6㎞。
既に始発便の発着があったはずだが、土曜日の桟橋付近に人の姿はなく、岩屋港はまだ眠りの中に居るようだった。しかし、岩屋ポートターミナルの建物に入ってみると、そこには乗船を待つ人の姿が見える。中学生の団体も集まっていて、顧問の先生が生徒に何やら訓示を垂れている。これから部活動で明石港に渡り、更に鉄道に乗って移動するようだった。
規模の大きい淡路島は、昨年訪れた塩飽諸島や小豆島などと比較しても、島内で生活が完結する部分が多くなるに違いないが、それでも船で島外に出るという機会も少なくないのだろう。若者にとっては明石や三宮の繁華街に出かけるために、電車に乗る感覚で船に乗るという感じなのかもしれない。
明石港からの船は6時45分前には着岸。これが折り返し7時発の明石港行になる。
釣道具を携えた数名の若者や観光客、一般客ら数名が降り立った後、程なくして乗船開始のアナウンスが流れてきたので、一般旅客に交じって私も乗船する。
往路と同様、この日も自転車の積載は私だけ。後部のデッキから乗り込んで自転車を固定してもらったら、船室を経由して2階の解放甲板に登って出発を待つ。
やがて先ほどの中学生の団体も乗り込んできたが、出港間際になっても解放甲板に出てくる人は居なかった。
7時、岩屋港出港。5泊6日で訪れた淡路島に別れを告げる。
まだ夜明け前ではあったが既に空は白々と明けており、薄紫から紺色のグラデーションを描く空の下、明石から神戸にかけての海岸線や六甲山地の西端も見えている。
ダイナミックな明石海峡大橋の下を潜り抜け、阪神地区のフェリーターミナルに向かう瀬戸内航路の長距離フェリーを見送りながら、13分の短い船旅を終え、明石港に着岸。
上陸直後に日の出の時刻を迎え、高層マンションが見下ろす明石港の向こうから、眩しい朝日が昇り始めた。今のところ、雨予報が外れたのかと思うくらい、すっきりと晴れ渡った空が広がっている。
荷物のチェックや明石港の撮影を行って7時17分出発。








明石港からは大蔵海岸や舞子海岸、須磨海岸を経て神戸市営地下鉄海岸線の新長田駅を目指す。
この付近の海岸は明石海峡大橋を間近に眺める遊歩道が続いていて、ランニングやサイクリングで訪れるのが気持ちよい。
この日の天気は下り坂で夕方には雨が降り出す予報だったが、この段階では快晴となっていて天気予報が外れたのかと疑うくらいだった。接近しているのが南岸低気圧で進路が南寄りにそれたこともあって、低気圧前面の温暖前線や暖湿流の影響が小さかったためだろう。
大蔵海岸から舞子公園、須磨海岸を経て、2日目以来で現役鉄道路線沿線の「ちゃり鉄」再開となる新長田駅には8時49分着。19.6㎞であった。





ここからは神戸市営地下鉄海岸線に沿って走る。2日目に神戸市営地下鉄北神線、西神・山手線の沿線を走っているので、この日の海岸線の「ちゃり鉄」をもって、神戸市営地下鉄全線の「ちゃり鉄」を終えることになる。
とはいえ、地下鉄沿線の走行は地上部分に設けられた駅入り口部分を繋いでいくだけで、鉄道沿線の情感に乏しいのも事実。しかも、都市部を走る事になるので走行には気を遣うし、あまりキャンプ装備の自転車で走るような場所でもないので場違い感が伴う。駅の入り口の写真を撮影していると「こんなところで何を撮影しているのか?」と怪訝な眼差しを向けられることもある。
そんな都市部の「ちゃり鉄」は中々進捗しない。
新長田駅発8時55分。
神戸市営地下鉄海岸線はその名の通り神戸市街地の海岸沿いを行くのだが、起点終点は少し内陸側に入っているし、海岸そのものを行く訳ではない。そもそも、この付近の海岸線は人工海岸に港湾施設や大規模な工場が林立する私有地が多いので、文字通りの海岸線に出られない場所も多い。
内陸の新長田駅から海に向かって進んで駒ヶ林駅のある交差点に出ると、ここから神戸市道の西出・高松・前池線に沿って概ね東進していく。
苅藻駅と御崎公園駅との間で長田区から兵庫区に入り、続く和田岬駅でJR山陽本線の和田岬支線の駅が左手に見えてくる。地下鉄の駅は入り口だけだが、JRの和田岬駅に隣接して駅の入り口階段が地下に降りている。
この和田岬駅の向かいには三菱重工造船所があり、駅名の由来となった和田岬は造船所の敷地内にあるので、予約なしで立ち入ることは出来ない。
土曜日という事もあって付近には人影も少なく、また、鉄道ファンの姿もなかった。
今日一日でJR和田岬線も走る事にしているので、夕方にはもう一度ここに戻ってくる。
和田岬駅、9時14分着、9時17分発。22.8㎞であった。



和田岬駅付近から進路は北向きに転じ中央市場前駅などを通過していく。なお、この中央市場前駅に面した市道東側に中央市場の大きな建物があり、更にその東側一帯が築地町である。中央市場と築地ということで東京の築地市場を思い浮かべたのだが、築地というのは埋立地を指す言葉で築地市場も埋立地に立地しているのだった。
さらに進んでハーバーランド駅やみなと元町駅があるが、この辺りから少しずつ内陸に転じており、旧居留地・大丸前駅を経て三宮・花時計前駅に達する。
9時52分。27.4㎞。
なお、この旧居留地・大丸前駅付近には都会の高層ビル群に埋もれるように三宮神社が鎮座している。
もちろん、この界隈が現在のように開発される以前からこの地にあり、開発によって取り壊されたり移転されたりすることもなかったわけだが、そういう心意気は日本人や日本企業の美徳・矜持として保ち続けたいものだし、その辺を軽んじる風潮が席巻する社会は凋落の途にある気がする。
三宮・花時計前駅からは、一旦、三宮駅に移動する。9時53分発。
三宮界隈はJRが三ノ宮駅、神戸新交通や神戸市営地下鉄が三宮駅、阪急電鉄や阪神電鉄が神戸三宮駅となっており、大阪市街地ほどではないにせよ統一感がない。これには歴史的な経緯があると思われるが、ここでは深入りしない。
神戸新交通ポートアイランド線の三宮駅はJR三ノ宮駅南側に隣接し、直角カーブの高架となって南に進んでいく。下から見上げる高架は子供の頃に見た近未来都市の交通機関のようだ。
とは言え、自分が居る地上は人通りと交通量の多い車道。長居する場所でもないので、写真を撮影したらすぐに出発する。
三宮駅、9時58分着、10時発。27.6㎞であった。


神戸新交通のポートアイランド線はその名の通りポートアイランドと三宮とを結ぶ基幹的な公共交通手段として敷設されたが、神戸空港の開港に伴って2006年2月2日に神戸空港との間を結ぶ区間が延伸開業している。
ポートアイランド内は中公園駅を端点としてループする線形を持っており、このループが初期の開業路線で1981年2月5日の開業だった。
こういう特殊な「鉄道」なので「ちゃり鉄」でのルート設計も一筋縄ではいかず、三宮駅から中公園駅、市民広場駅、南公園駅経由の左回りで中公園駅に戻った上で、市民広場駅から神戸空港駅に抜ける設計とした。
途中、貿易センター駅とポートターミナル駅との間ではみなとのもり公園を通り過ぎていくが、ここには神戸港駅があってJR山陽本線からの貨物線が分岐・到達していた。現地には記念碑とモニュメント的なレールが設置されているようだが、私は、公園内を走るランナーたちに気を取られて、これらの鉄道遺構を見過ごしてしまった。
その後、ポートターミナル駅~中公園駅間を神戸大橋で渡ってポートアイランドに入る。神戸大橋は三宮界隈とポートアイランドとの間を行き来する歩行者や自転車も通行できるように、広い歩道が併設されている。
このポートターミナル駅周辺は、神戸から九州や四国、小豆島などに向かうカーフェリーのターミナル埠頭があり「ちゃり鉄22号」では小豆島の坂手港からジャンボフェリーに乗船してこの一画に下船したのだった。
あれから約1年で再びこの界隈を「ちゃり鉄」訪れることになった。
中公園駅には10時21分着。10時22分発。30㎞。
ここからポートアイランド内をぐるりと一周して、再び戻ってきたのが、10時44分で33.4㎞。再出発は10時45分という具合だった。
途中、中埠頭駅付近では車両基地に向かう引込線と本線が並行する区間もある。但し、大型トラックの交通量が多いので車道走行には気を遣った。






ループ線から分岐して神戸空港方面に進むと、居住地区からは脱して医療センターや理化学研究所などの集う研究施設地区に入る。ここに、医療センター駅と計算科学センター駅があるが、周辺は空き地も多い。
計算科学センター駅は理化学研究所計算科学研究センターの最寄り駅で、スーパーコンピューター富岳が稼働しているようだが、地震などに際して液状化現象や津波の被害を受けやすい人工島内にそういう研究施設を設置することの合理性や安全性はどうなのだろうか。
この先、神戸スカイブリッジと名付けられた空港連絡橋で大阪湾を俯瞰しながら神戸空港駅に達する。
この空港連絡橋も歩行者自転車用の通路が確保されており、数組のランナーの姿も見かけた。三宮側から神戸空港までを走るランナーも少なくないのだろう。
神戸空港駅、11時13分着。39.3㎞。
当初予定では、ここで昼食を摂りつつ、飛行機の発着の様子を眺められればと思っていたのだが、空港施設内に入らないと見通しの良い場所はなさそうだった。それに、ここに来てはっきりと天気が下り坂に転じ、空一面が靄に覆われ始めた。空港施設に入るには自転車を施設前に置いたままにする必要もあるので予定変更して先に進むことにした。
11時14分発。


帰路は車道からポートアイランド住宅内に転じて、住宅前の遊歩道を走行した。
街路樹が植えられた歩道の雰囲気は悪くなかったが、団地の1階に設けられたテナントスペースは活気に乏しく、各地のニュータウン同様に、高齢化が進んでいるような印象も受けた。
神戸大橋を渡り終える頃には本格的に曇天に転じ始めていたが、直ぐに降り出す気配はない。
ここからは六甲アイランドまで灘区の海岸道路を走っていくのだが、やはり交通量が多いのに滅入る。
神戸空港での昼食を割愛したので、この道中で適当な店を物色して昼食にするつもりで走っていると、天ぷら定食の看板を掲げたお店があったので、ここに入ることにする。店の名前は「えびのや」で飲食チェーン店であった。この日はあなご天丼を温玉天ぷらのトッピング付きで頼み、食べ放題の辛子明太子を欲張って山盛りにした。
隣の席では若いカップルが「食べる速度が早すぎる」、「お前が遅すぎる」という下らない喧嘩を大声で繰り広げている。お互いにスマホを見ながら片手間に喧嘩。食事も値段もそれなりだったが、都会の飲食チェーンらしいと言えばらしい雰囲気だった。
手早く昼食を済ませて先に進み、六甲大橋を渡って六甲アイランドに入るのだが、神戸新交通六甲アイランド線の南魚崎駅から運河と港を渡るルートは事前の下調べがないと迷いやすい。
私は六甲大橋の入り口などは下調べして把握していたが、南魚崎駅の南にある運河を渡る人道橋があって、エレベーターで昇降することで自転車も渡れることを把握していなかったので、西側の車道橋を迂回する手間をかけてしまった。
神戸新交通六甲アイランド線は六甲アイランド内にある終点のマリンターミナル駅側から探訪を始める。
13時5分着、13時8分発。58.3㎞だった。神戸空港からの区間距離が19㎞もあり、交通量の多さやルート選びの煩雑さもあって、意外と疲労感があった。




この神戸新交通六甲アイランド線は全線の開通が1990年2月21日で、先ほど巡ったポートアイランド線よりも9年程遅い。
そして、ポートアイランドと六甲アイランド自体も、先行したのがポートアイランドで1966年~1981年の第1期、1986年~2009年の第2期の造成。神戸市のWebサイトによると「第1期は近代的な港湾施設の建設と、神戸の都市機能を充実させることを目的」としており、「第2期は第1期と一体となった都市空間形成を図ることを目的」としたのだという。そして、第2期中に発生した阪神・淡路大震災を経て、震災復興を先導する拠点として「医療産業都市構想」が推進されているのだという。
先に私は、計算機科学センターのスーパーコンピューターがポートアイランドにあることに対して、「地震などに際して液状化現象や津波の被害を受けやすい人工島内にそういう研究施設を設置することの合理性や安全性はどうなのだろうか」と記したが、むしろ、震災復興を目的とした「医療産業都市」をポートアイランドに設けることが目的だったという事になる。
しかし、空き地が目立つポートアイランドの現状を見ると、この「医療産業都市構想」はそれほど上手くいっていないようにも感じられる。
対する六甲アイランドは、1972年~1992年の造成で、「ポートアイランドに次ぐ第2の会場文化都市を目指し」たものだという。それはポートアイランドでの経験を踏まえたもので、「周辺部には船舶の大型化等に対応した港湾施設や産業用地を、中央部には高度情報化・国際化に対応した住宅・商業・レクレーション機能等を一体として備えた魅力ある多種機能型複合都市や、リバーモール等の潤いある都市空間が整備された」という。
そうと知ってか知らずか、私は「ちゃり鉄24号」での走行の際に、ポートアイランド線と六甲アイランド線との間に趣の違いを感じており、六甲アイランド線の方がよりお洒落なレクレーション空間の創出と一体化している印象を受けていた。
その典型的な場所が、アイランドセンター駅周辺の親水空間である。
この日は生憎の曇天でぱっとしない空模様となっていたが、親水空間にはそれなりに人の集いがあり、ポートアイランド線で感じた閑散とした雰囲気とは異なっていた。とは言え、統計データの数値を見ると、六甲アイランドもポートアイランドと同様、計画人口には達することなく、少子高齢化による人口減少に晒されているようだ。
往路とは逆の東側から六甲大橋を渡り、南魚崎駅からは住吉川沿いに出て北上する。この住吉川沿いでは、河畔の遊歩道に入って北上しようとしたが、歩行者専用だったようで、途中で歩行者から「ここは自転車あかんよ」と注意を受ける。道理で遊歩道入り口ですれ違ったランナーが喧嘩腰だったわけだ。魚崎駅では阪神電鉄本線と交錯。JR山陽本線と接続する住吉駅には13時56分着。65㎞であった。







この住吉駅からは元々は六甲山最高峰を目指す予定だったが、昨夜検討したとおり、六甲山へのアプローチは中止して、神戸電鉄有馬線沿線に入るため、一旦、和田岬駅まで戻ることにする。
13時58分発。
住吉駅の近隣にある元住吉神社にお参りしたら、後は和田岬駅まで「快速急行」になるが、途中、メリケンパークに回り道していく。
私は神戸市に住んだことがあるが、その際、このメリケンパークには仕事の都合もあって足繁く通った。
当時と比べてインバウンド観光客の姿が目立つようになり、BEKOBEのモニュメント前は、撮影待ちの長蛇の列で大混雑していた。
和田岬駅には14時59分着。79㎞。
朝に通り過ぎたのが9時17分発で22.8㎞であったから、5時間42分かけて、56.2㎞を走ってきたことになる。




和田岬駅は関東地方の鶴見線の終点各駅と似た性格を持っていて、沿線の工場通勤者の需要に偏重している。
そのため、休祝日は閑散ダイヤになっており、この日も土曜日だったこともあって、私の訪問中に列車の往来はなく、鉄道マニアの姿もなかった。
「ちゃり鉄」での訪問はこれが初めてだったこともあり、今回は沿線を重点的に回ることが出来たが、現在の営業キロ数で2.0㎞の短距離路線とは言え枝状に分岐した貨物支線は多く、その跡を含めた探訪は今回では完結しなかった。
沿線にある川崎車両への専用線がそうであるように、和田岬線自体が専用貨物線としての性質が強いため、路線・廃線跡の末端部分は工場敷地内にあって立ち入りできないことも多い。
和田岬駅自体も、当初の和田岬駅は現在の川崎重工の工場敷地内にあったようで、今日では許可がなければ立ち入ることは出来ないのである。
そんな和田岬線であるが、見どころは多い。
まずは和田岬駅そのものを撮影したが、15時9分に出発した後、北に隣接した和田神社に参拝した。
その後、かつての鐘紡工場跡地を再開発して作られた御崎公園を通り過ぎたところ、神戸市電の車両が展示されていたので撮影していく。この付近に神戸市電の和田・高松線があって、その車庫があったことから、路線で走っていた車両が旧神戸市電和田運輸事務所の跡地に「里帰り」したのだという。
この鐘紡工場に向かって分岐する専用線があったが、今日、その痕跡は残っていない。
ただ、分岐地点の手前にあった鐘紡前駅の廃駅跡は、今もホームの基礎と言われる構造物が残っており、沿線の歴史を今に伝えている。
更に進んで兵庫運河を渡った付近では、3本くらいの専用貨物線が分岐していたようだ。
うち、現在の川崎車両の工場に繋がる専用線は現役であり、工場敷地内を横切る道路を行くと、専用線踏切があるのだが、鉄道ファン対策が厳しく、ここで立ち止まったりカメラを取り出したりすると、係員に注意される。
工場に隣接した川崎車両神戸本社ビルの敷地には特急「こだま」号と新幹線「ひかり」号に使用された車両の先頭車が展示されており、こちらはフェンス外からではあるが自由に撮影できる。
なお、和田岬線から川崎車両工場内へ専用線が分岐する地点も普通にアクセスすることが出来るが、こちらも敷地内の撮影は禁止されている。
安全上の理由もあるだろうが、工場の機密保持という目的もあるのだろう。更に言えば、ある種の人々による迷惑行為を防ぐ目的が一番強いかもしれない。
短距離ながらも意外と見どころの多い和田岬線の「ちゃり鉄」を終えて兵庫駅には、15時46分着。84.1㎞。
夕方の雰囲気が漂い始めた兵庫駅は、雨が降り始める間際という事もあって薄暗く、既に明かりが灯り始めていた。
15時47分発。





ここから、阪急、阪神、神鉄各社の神戸高速線が集う新開地駅に向かい、神戸電鉄線の「ちゃり鉄」に入るのだが、新開地駅に到着した段階で、ポツポツと雨脚が地上に降りてきた。
15時55分着。85.4㎞。
この付近の鉄道路線は神戸市電を置き換える目的で設立された神戸高速鉄道を第3種鉄道事業者とし、阪急、阪神、神鉄などの各社が第2種鉄道事業者として乗り入れ運転を行っているため、地下鉄の形態を取っている。
これから行く神戸電鉄も湊川駅を出て長田駅に向かう途中で地上に出てくるが、新開地~湊川の神戸高速線内1区間は地下路線である。
15時56分発。
湊川駅、15時59分着、16時発。85.9㎞。
目的地の会下山公園に辿り着く頃には、雨脚が小雨程度に強まってきていたが、幸い、ギリギリの際どいところで本降りは免れることが出来た。
小雨に煙る会下山公園から湊川付近を見下ろして写真を撮影したのち、事前に目星をつけていた東屋に向かったところ、高校生くらいの若者数名が屯していた。直ぐに居なくなる様子もなかったので、少し場所を変えた人目に付かない所の東屋に移動して終了。16時25分着。87.8㎞であった。
到着時刻が早かったこともあり辺りはまだ明るいが、傘が必要なくらいに雨脚が強くなってきたので、散歩の人影も途絶える。人目に付きにくい場所だったこともあり、解装した後、テントを張り、麓の東山商店街にある湊河湯に向かうことにした。神戸は銭湯が多く、また、こうした小公園も少なくないので、場所と時間の選択を誤らなければ、案外、都会野宿が出来る。
この旅の前に新調したアウターウェアは本降りの雨で濡れてしまったが、レインウェア代わりの機能テストでもあったので良しとする。
湊河湯を出る頃にはとっぷりと暮れ、隣接する東山商店街も意外と早く店じまいを始めている。どうやら、18時で営業終了するようだった。湊川は以前住んだこともあるので勝手知ったる街ではあるが、こうして野宿の旅で訪れると、案外旅情を感じるのが不思議である。
商店街の店は閉まり始めていたので、少し下ったスーパーで食材を仕入れて「宿」に帰り、夕食を摂ることにした。先ほどの若者たちは、この雨の中、まだ、東屋に屯していたが、あろうことか、そこで何かを燃やして騒いでおり1mほどの火の手が上がっていた。こちらの野宿に気が付いてちょっかいをかけてきたら厄介だと思いはしたが、少し離れていたことや雨が降っていたこともあって、騒ぎ声が聞こえてくることもなく静かに眠りに就くことが出来た。






ちゃり鉄24号:9日目:会下山公園-湊川=有馬温泉-有馬=三田=有馬口-有馬温泉
9日目は会下山公園を出発して神戸電鉄有馬線に沿って有馬温泉を目指す行程。
但し、会下山公園から神戸電鉄有馬温泉駅に達したら、一旦有馬温泉を通り過ぎて国鉄有馬線の廃線跡を辿ってJR福知山線・神戸電鉄三田線の三田駅に向かう。そこから、神戸電鉄三田線に沿って有馬口駅まで戻っり、再び有馬温泉に抜けてゴールとなる。
当初予定では六甲山最高峰から山を降り、JR和田岬線を巡るところから始めることにしていたので、三田以降の工程は日没後走行になる見込みだったが、昨日のうちに会下山公園まで進んだので、明るいうちに有馬温泉に到着することが出来そうだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


この日は会下山公園から有馬温泉駅までの区間と、有馬温泉駅から三田駅を経由して有馬温泉の野宿地である瑞宝寺公園に至る区間とに大別できる。その分かれ目が27㎞付近のピークにあって、標高400m前後の有馬温泉駅付近が周辺地域と比べると高い位置にあることが分かる。
実際には、有馬口駅と有馬温泉駅との間の県道51号線有馬街道にはカタ峠があり、神戸電鉄は峠の下をトンネルで抜けている。地理院地形図での簡易計測では有馬温泉駅が標高360m程度で、カタ峠には396m、有馬口駅付近には292mの独標がある。これは断面図には正確に表れている。
前半区間は神戸電鉄有馬線の沿線であるが、こうしてみると神戸電鉄有馬線はアップダウンの激しい山岳鉄道としての性格をもっていることが一目瞭然。
有馬温泉駅に達するまでの間の2つの顕著なピークはそれぞれ、北鈴蘭台駅付近、大池駅付近にあり、裏六甲に入ってから、W字型の断面を描いて有馬温泉駅に向かっていることが分かる。
また、北鈴蘭台駅までの区間はほぼ登り一辺倒だが、この区間のうち、鵯越駅から菊水山駅跡を経て石井ダム堤上に出るまでの区間は、押し登りや解装・担ぎ上げが必要となる箇所が複数含まれている。
計画段階では、菊水山駅跡から石井ダムに向かわずに、東の国道428号線旧道の旧有馬街道を経由して天王谷を越えることも検討したのだが、このルートは交通量が極めて多い登り勾配。雨が降っている可能性もあったので「ちゃり鉄」での通行は避けることにした。また、石井ダム付近に神戸電鉄有馬線の廃線跡が残っており、車道転用された廃線跡を走りたいというのも、天王谷周りを回避した理由の一つだった。
さて、昨夜来の雨であるが、夜明け前には上がっており、地面は濡れているものの降り続く気配はない。天気予報の雨雲レーダーを見ても、西に雨域がないので心配はなさそうだ。
今回は3日目、8日目に同じような状況となったが、いずれも野宿場所についてから本降りとなり、翌朝の出発前には上がっている状況だったので、天候には恵まれたと言えるかもしれない。やはり、冬の「ちゃり鉄」での雨は辛い。
会下山公園の出発は7時18分。湊川の街並みを見下ろして、一路、有馬温泉を目指す。

神戸電鉄有馬線は湊川駅を出た直後から急勾配で六甲山地西麓を駆け上がっていく。会下山公園から長田駅にかけても早速急勾配の登りが続くので、朝一の体には負担も大きい。
こういう負荷に耐性を持たせるため、普段から早朝にトレーニングをするようにしているのだが、それが健康に結びつくのか負担の累積になるのかは、正直分からない。ただ、早朝に起きてトレーニングする生活リズムが整う時は一日が順調に進むことが多いので、一定の効果はありそうだ。
長田駅付近では復刻塗装を纏った古豪の1151編成と行違う。
更に急勾配を登って丸山駅に到着すると、既に眼下遠くに瀬戸内海が広がり、神戸市街地の高層マンションよりも高い位置に達していた。
義経伝説にもゆかりのある鵯越駅には8時14分着。4.9㎞。丸山駅からの行程の一部が六甲山全山縦走路にも重なるが、押し登りを要する急登で、全山縦走の時も足に堪える舗装路の登りが続く。
ここでは神戸電鉄の列車から高齢女性ハイカー2人連れが降りてきて、菊水山方面のトレイルに入っていった。入り口には鳩に餌をやるオッサンが居て女性らに何やら声をかけていたが、無視されていたところをみると、しょうもないことを話しかけていたのだろう。
駅の写真を撮影したのち、私もそのトレイルに向かうが、オッサンは私には話しかけてこなかった。
8時18分発。



ここから菊水山駅跡、石井ダム、神有耶馬駅跡を経て鈴蘭台駅に達するまでの区間が、この日最大の難所である。
鵯越駅の手前から石井ダムの手前までが六甲山全山縦走路と重なり地山の登山道を行く区間も長い。
私は全山縦走で2度訪れているので、グラベルロードなら押し登りも交えて突破できると分かってはいたものの、階段も混じる場所だけに簡単ではないし昨日来の雨で地面はぬかるんでいた。
それでも鵯越駅から神戸市水道局手前の舗装路に出る地点までは、数か所を押してクリアする必要があったものの大きな支障なく抜けることが出来た。
そこからはしばらく舗装路を行く。先行していた女性ハイカー2人連れや単独行の男性を追い抜き、神戸市建設局の施設脇のゲートを自転車を持ち上げて越えると、そこから菊水山駅跡を経て石井ダム手前の分岐点に出るまでが、階段の登り降りが続く難所であった。
キャリアに重積載していることもあって、階段の降りはともかく、登りがかなりきつい。
ハンドルとサドルに手を添えながら押して登っていくのだが、体幹が捻じれることもあってここで軽く腰を痛める。20代前半で腰椎椎間板ヘルニアを患って以降、腰には大きな弱点を抱えている。
この数か月前にはいわゆる腰抜け状態になるほど酷い腰痛に見舞われたこともあるので、「ちゃり鉄」の最中に腰痛が生じると致命的なのだが、幸い、立てなくなるような酷い状況は免れた。
菊水山駅は学生時代の2001年12月に一度だけ下車し、菊水山から布引の滝に抜けるトレッキングをしたことがある。残念なことに、それが最初で最後の菊水山駅訪問だったにもかかわらず、駅の写真は撮影していなかった。
当時、ハイカーにも利用されるこの駅が廃止されるとは思っていなかったからだが、2005年3月26日に休止された後、2018年3月23日に廃止されている。
駅施設の撤去が困難なことから、今もホームなどが残ってはいるものの、駅に上がる階段は途中で閉鎖されており、ホームに立ち入ることは出来ない。
ここから進んで菊水山に取り付いていく全山縦走路を見送り、左手に分岐して石井ダムに向かっていくと、そこに壁のようなダムの堤体が見えてくる。
神戸電鉄有馬線もこのダムの建設に前後して路線を付け替えており、菊水山駅付近から左に向かってカーブをしていた旧鳥原トンネルの廃隧道とその延長の線路跡が残っているが、線路跡は途中から歩道に吸収され、そのままダムの堤体部分に消えている。
ここはどうやっても押し登りは出来ないので、一旦自転車を改装し、荷物を小分けにして階段を担ぎ上げ、最後に自転車本体を担ぎ上げて越える必要がある。
女性ハイカー2人連れは菊水山方面に向かったらしく姿は見えなかったが、単独行の男性はここで鵯越方面から来た仲間と合流するらしく、「自転車でどうするの?」などと話しかけてきた。
8時50分着。7.5㎞。
出発から1時間32分で7.5㎞しか進んでいないのだから、ここまでの行程の厳しさがよく分かる。
堤体の下でリアキャリアの荷物をばらし、まずは横積みしているリュックと内部に収納しているテントポールなどを担ぎ上げる。階段の上層には先ほどの男性とそのグループが居て私が登ってくるのを眺めていたが、荷物だけ持って登ってきたので、ここでも「自転車どうしたの?」と聞かれる。どうやら、上から自転車で下まで来たのを眺めていたらしい。
「荷物見といてやるから置いていきな」と言われたものの、車道に出るにはもう一段上がる必要があったので、そこまで担ぎ上げた。
続いて、リアのサイドバックの片割れを担ぎ上げ、最後は、もう一方のサイドバックを取り付けた状態で自転車を担ぎ上げたが、ここは無理せず、4往復にしてもよかったかもしれない。腰にはかなりの負担がかかり、真っすぐに伸ばせないくらいだった。
それでも懸案の石井ダムを越えることが出来たし、思ったほどのタイムロスは生じなかった。
堤体の上で涼みながら休憩していると、男性グループは鈴蘭台の方に向かって歩いていった。
私は、ダムの堤体の上から下流方向、上流方向を眺めて新線と旧線を写真に収めてから出発。ここは実家からも日帰りで訪れることが出来る場所なので、徒歩で廃線跡を重点探索しに訪れてもよいと感じた。
9時9分発。






最難関の石井ダムを無事に越えてこの日の懸案事項はクリアすることが出来たが、腰には過大な負担をかけてしまった。幸い、自転車に跨ってペダリングする上で支障は感じられなかったので旅を続けることが出来たが、これが人里離れた山中での行動不能という事になれば、直ちに遭難に結びつく状況。「挑戦」と「無謀」の適切な境界を事前に知るのは難しいところだが、今後の為にも十分に反省すべき出来事だった。
鈴蘭台駅までの区間には、菊水山駅跡の他に神有耶馬駅跡も存在しているが、1932年8月1日開業、1939年2月15日廃止というこの駅に関する情報は乏しく、現地の勾配の変化に辛うじて駅が存在した痕跡を留める程度だ。
2日目以来の鈴蘭台駅には9時55分着。10.6㎞。
この鈴蘭台。開発は神戸有馬電気鉄道時代の1928年に始まっており、「関西の軽井沢」のキャッチフレーズで別荘地分譲が開始されたのだという。ただ、鈴蘭はイメージ先行であってこの地が「スズラン」の文字通りの名所だったわけではないようだ。1928年11月28日に駅が設けられた際の駅名は小部で、今日、2日目に通過した国道428号有馬街道の小部峠にその地名の名残を留めている。
鈴蘭台駅への改称は1932年8月1日。
先に触れた神有耶馬駅の開業日と同一だが、勿論、その背景には、当時の神戸有馬電気鉄道による一帯の観光開発の目論見があったことだろう。
今回の「ちゃり鉄」では2回目の鈴蘭台駅であるが、1回目の訪問時から「鈴蘭台駅ってこんな感じだったかな?」という違和感を持っていた。
実際、2016年11月に実施した「ちゃり鉄7号」で訪問した当時の写真と比較すると、随分と駅前の様子が変わっている。
それもそのはずで、鈴蘭台駅付近は2018年から2020年にかけて再開発が行われ、複合施設となった駅ビルも生まれ変わっていたのだった。これは旅の間中、解消することはなかったのだが、このダイジェスト執筆に当たって情報を整理している際に、違和感の正体を突き止めることになった。
鈴蘭台駅、9時56分発。


鈴蘭台駅を出た後、北鈴蘭台駅までは登り勾配が続き、そこで標高360m前後に達する。この北鈴蘭台の東にある小部峠には369mの独標が記されている。
北鈴蘭台駅からは一転降りに入り山の街駅を経て箕谷駅を越えた辺りで最低地点に達する。阪神高速の箕谷JCT付近には224.4mの水準点がある。
ここからは谷上駅、花山駅を経て大池駅までが登り勾配。大池駅付近には古々山峠の地名表記があり、標高は350m前後である。実はこの古々山峠付近で加古川水系から武庫川水系に変わる。そういう意味では結構大きな分水界なのだが、現地では交通量の極めて多い県道15号有馬街道で越えて行くので、あまり実感がない。
この途中、谷上駅と花山駅との間では、ラーメンチェーンの來來亭神戸六甲店が開店したところだったので、少し早めの昼食を摂ることにした。ラーメンだけでは腹持ちが良くないこともあって、天津飯をセットで注文。コテコテのハイカロリーとなった。「ちゃり鉄」ではラーメンと飯物の組み合わせも結構多いが、理想を言うならもう少し栄養バランスは考えなければいけない。
大池駅からは降りに転じて神鉄六甲駅、唐櫃台駅を通過していく。この両駅の間に六甲有料道路の入り口があり、その途中から裏六甲道路が六甲山上に通じている。自転車で登ることが出来るルートの一つだが、私はまだ走ったことはない。
292m独標のある有馬口駅まで降って、三田線、有馬線の分岐点を訪れる。
この付近、有馬温泉方面と三田方面との道路が合流するので、交通量は結構多く駅前も渋滞の車列が連なっていた。
この有馬口駅からカタ峠を越えて有馬温泉駅に向かうのだが、この途中にも新有馬駅跡がある。ここは神有耶馬駅とは異なり、1928年11月28日の路線開業当初からの駅であったが、1975年6月15日に営業休止となった後、2013年2月28日に廃止となっている。
長らく休止となっていたのは開発計画があったからだというが、それが陽の目を見なかったことは結果が示している。廃止になるまでホームも残っていたようだが、廃止と同時にそれらも撤去され、今では山中に忽然と現れる空き地にその面影を偲ぶばかりである。
有馬温泉駅には12時51分着。27.3㎞。
日本の有名観光地の例にもれず、ここもインバウンド観光客が多く混雑していた。
今夜は有馬温泉の奥にある瑞宝寺公園の東屋で野宿の予定だが、その前に、国鉄有馬線と神戸電鉄三田線の「ちゃり鉄」を行うので、ここは一旦通過。12時56分発。









国鉄有馬線は1915年4月16日に有馬鉄道として開業した三田~有馬間の鉄道路線を、1919年3月31日に国有化して生まれた路線だが、1943年7月1日に戦時下の不要不急路線として路線休止となり、そのまま復活することなく現在に至る路線で、正式に廃止とはなっていないようである。
今日の有馬温泉の繁栄を見れば、福知山線に接続して有馬温泉に至る鉄道路線に存在価値はあったと思えるのだが、終点の有馬駅が温泉街から離れていたこと、運転本数が少なかったこと、三田駅では大阪方面から見てスイッチバックとなる線形だったことなど、不利な要素が多くあり、後発の神戸有馬電気鉄道との旅客競争に敗れたのであった。
その有馬駅跡は有馬川を少し下ったところにある乙倉橋の東側にあり、橋から路地を進んだ突き当りの空き地にそれとなく「駅前」の残り香があるが、それもそこに鉄道の駅があったという事を知っているからそう感じるだけなのだろう。但し、乙倉橋の欄干には鉄道の記録が記されている。
有馬駅、13時3分着、13時5分発。28.1㎞。
ここからの国鉄有馬線の廃線跡は、鉄道廃線跡としての痕跡は皆無に等しい。
所々に橋台跡が残っていたりもするようだが、「ちゃり鉄」での廃線探訪ではそれらの一つ一つをくまなく探索することは目的としていない。それよりも、自転車の機動性を活かして、鉄道在りし日の風景に思いを馳せながら、沿線を走ることを目的としている。
そういうこともあって、遺構の乏しい有馬線の跡は殆ど見つけられなかったのだが、こうしてダイジェストを執筆するにあたって調べてみれば、ごく近くを通りながらも見過ごしていた遺構があったりするので、そういうところは再訪してみたくもなる。
途中、有馬口駅跡付近の公智神社、塩田駅跡付近の塩田八幡宮に立ち寄り、福知山線合流地点付近の線路跡は太陽光発電の敷地になっているのを眺めて三田駅に到着。
14時18分。42.4㎞であった。



古豪の3000系が出発待ちをする三田駅からは踵を返すようにして神戸電鉄三田線の沿線に向かう。14時19分発。
神戸電鉄の三田線は有馬線の開業から遅れること1か月弱後の1928年12月18日に全線が開業した。既に周ってきた国鉄有馬線の前身である有馬鉄道の開業が1915年4月16日であったから、それからは13年半ほど時代を降ることになる。
開業当時の交通事情を考えれば、やはり頻発の神戸電鉄が有馬線と一体となって神戸方面への旅客輸送を担うことに優位性があり、国有鉄道では太刀打ちできなかっただろう。
三田線内にある五社~三田間の各駅は1929年10月10日開業の三田本町駅を除いて、全て路線開業時に同時開業している。
三田線はその名に反して三田市域を走る区間は短く、三田本町駅、横山駅の2駅を経て神鉄道場駅との間で神戸市北区との市域界を越える。それ以降、有馬口駅までの全区間が神戸市北区域になる。
神戸市北区は六甲山の北に広がる広大な里山地域を市域に含めているが、域内に山陽自動車道や中国自動車道、阪神高速北神戸線などの基幹交通網が通っているほか、三宮地域との間も新神戸トンネルが短絡しているので、近年はプチ田舎暮らしを指向する人々の間での人気も高いという。
確かに、神戸市というよりも三田市、三木市といった隣接市域に含まれる印象が強い地域である。
三田線沿線もこうした高速道路と交錯する部分が多い。
国鉄との競争には勝利した神戸電鉄も、高速道路を介した高速バスとの競争には破れており、2日目に走った粟生線ともども経営は苦しいようだ。神戸市営地下鉄北神線や西神・山手線と谷上駅を介して相互乗り入れすることによって、三田・有馬方面の旅客需要を喚起することも出来そうな気がするが、そうは簡単にいかないからこそ実現しないのだろう。
三田市内の横山駅までの区間はここで分岐していく公園都市線の列車の往来もあるため都市型の複線区間となっているが、横山駅を出た後は単線になり沿線にも田畑が多くなるため、郊外路線の趣が強くなる。
この付近は駅周辺の丘陵地を中心に新興住宅地が開発されている場所が多く、それに合わせて、駅も改築されたり高架化されたりして、近代的な構造のものに置き換わっている個所が多いが、二郎駅や五社駅のようローカルムードのある駅も残っている。
尤も、この2駅はいずれも、高速道路の高架が間近にあり、景観としてはややちぐはぐな雰囲気もある。
岡場駅と五社駅との間には有間神社があるので参拝していく。この「有間」と「有馬」の関係については詳らかではないが、「有馬」の古い表記が「有間」なのだという。この付近は旧有馬郡域、旧有野村域に当たり、有野村史によると「有間」とは山間の開けたところを意味するらしい。
私は「有間」と言えば、えちごトキめき鉄道にある「有間川」駅を思い浮かべるのだが、地名の由来は同義なのかもしれない。いずれ調べてみたい課題である。
2015年11月に乗り鉄の旅で訪れて駅近くの駐輪場で野宿したことがある五社駅を経て、有馬口駅には16時8分に戻ってきた。57.1㎞。
有馬線の「ちゃり鉄」での通過が12時31分発で24.5㎞だったので、3時間37分をかけて32.6㎞を走ってきたという事になる。
ここからカタ峠の急登降をこなして有馬温泉に戻る。
目的地の瑞宝寺公園は温泉街の最奥の瑞宝寺谷口にあるのだが、有馬温泉駅が360m前後の地点にあるのに対し、瑞宝寺公園の入り口は450m付近にあって、90mの標高差がある。
この標高差が意外と厳しく、観光客がそぞろ歩く温泉街を好奇の眼差しを浴びながら押し登りで通り過ぎ、瑞宝寺公園には16時41分着。61.1㎞であった。





温泉街は大勢の人で混雑していたものの、ここまで登ってくる観光客は居らず瑞宝寺公園はひっそりと静まり返っていた。この瑞宝寺公園のある瑞宝寺谷から六甲山最高峰に登るルートもあるものの、オフシーズンの日暮れ時という事もあって、下山してくる人の気配もなかった。
瑞宝寺公園には数か所の東屋があるようだったが、そのうちの一つで野宿の支度を整え、温泉街の押し登りだけでびしょびしょになったウェアを着替えたらホッと人心地がついた。
私は東屋にインナーテントだけを設置するスタイルで野宿をすることが多い。東屋の下なのでペグは使わずスリーブにポールを通したテントを「置く」だけのスタイルだが、余程の強風が吹き荒れていない限り、中に荷物を入れて自分も寝ている状態で吹き飛ばされるようなことはないし、そもそも、そんな状況なのであれば、場所を変更するかテント泊を諦める。
テントはアライテントのエアライズ1を使っているので、夏場であればカヤライズに置き換えての野宿となるが、文字通り「蚊帳」のような機能を発揮してくれる。東屋であっても風雨で吹きぶる場合やキャンプ場を使う場合に備えてアウターも持参するが、使わないことの方が多い。
こういうスタイルなので「キャンプ」とは言わずに「野宿」と表現しているのだが、中学生の時に初めて野宿の自転車旅を行って以来30年あまり、野宿中にトラブルに見舞われたことなく過ごしてくることが出来たのは、運の良さもあろうが、場所とタイミング、現地での過ごし方に気を遣ってきたからでもある。
今後も、トラブルに見舞われることなく、野宿の旅人としての人生を全うしたいものだ。
入浴セットや貴重品、カメラを携えて温泉街に降る。
有馬温泉は関西圏での生活が長い私にとっては身近な場所ではあるものの、実は、ここで温泉に入ったことは一度もなかった。
浪人時代から大学院を卒業するまでの7年間は京都市に住んでいたが、寺社巡りは殆どしたことがなかったのと同様、生活圏という意識があると観光で訪れる意欲が湧きにくいものだし、有馬温泉には気楽に立ち寄ることが出来る入浴施設がないと思っていたのも事実である。
今回は、温泉街にある金の湯、銀の湯の2つの公衆浴場を梯子する。
薄暗くなりかけた温泉街に降りていくと、まだまだ、卒業旅行らしい若者の集団や一目でそれと分かるインバウンドの観光客の姿が多く、瑞宝寺公園の静けさが嘘のようにも感じられる。
有馬温泉のランドマーク的な金の湯も観光客で混雑している上に、外国人が多くて受付で手間取っている。券売機での発券方法が分からないらしく、スマホで母国語に翻訳しながら操作をしているので、随分と待たされる。
脱衣場も浴室内も芋の子を洗うような混雑で、情緒を味わうどころではなかったが、お湯自体は特徴のある赤茶色のナトリウム塩化物泉で、温泉らしいお湯だった。
温泉を辞して建物の外に出ると、そこにも大量の若者が地面に座って喫煙したり飲食をしたりしているのだが、どうもアジア系の外国人の団体のようで、文化風習の違いを感じながらも、やや辟易する。
それでも観光地の常で、人が集まる場所は決まっているので、そういう場所を避けると案外静かな温泉地の情緒がある。そんな場所にひっそりと現れるのは決まって日本人の若いカップルだった。
コンビニで夕食の食材を仕入れたり、夜の有馬温泉駅を撮影したりした後、金の湯で温まった体が冷えてきた頃合いを見計らって、高台にある銀の湯を訪れると、こちらは癖のないラジウム泉だからというわけでもなかろうがガラガラだった。
それでも温泉に居たのはやはり外国人の観光客で、インバウンド需要とはよく言ったものだと思う。
銀の湯で体を温めなおした後は、人通りもない暗い坂道を登って瑞宝寺公園の「宿」に戻り、ホッと一息。いつもの通り「ちゃり鉄24号」最後の夜を少し豪華なデザート付きの晩餐会で楽しみ、腹が朽ちたところで眠りに就いた。







ちゃり鉄24号:10日目:有馬温泉-横山=ウッディタウン中央-篠山口=篠山町-おおたわ峠-福知山温泉-自宅
最終日の10日目は、鉄道路線としては神戸電鉄公園都市線と篠山鉄道廃線跡を巡るのみ。いずれも短距離の路線なので走行がメインとなる。
有馬温泉からは神戸電鉄三田線の横山駅まで降った後、三田西部の丘陵地帯を行く公園都市線に入り、そこから福知山線沿線を辿って篠山口に向かう。
篠山口からは少し遠回りになるが篠山市街地を結んでいた篠山鉄道の廃線跡に沿って走り、おおたわ峠を越えて三和町に抜け、東側から福知山の自宅に帰るというルートだ。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図で60㎞過ぎに現れる鋭いピークがおおたわ峠であるが、「たわ」は峠を意味する言葉なので、「おおたわ」が即ち「大峠」を表している。
ここは多紀連山と呼ばれる篠山市北部に連なる山地を越えて行く標高512mの峠で、西には西ヶ嶽727m、三嶽793.2m、東には小金ヶ嶽725mが聳えている。三嶽、小金ヶ嶽の鞍部に在るのがおおたわ峠だ。
それほど高い山地ではないが、尾根通しに縦走できることもあって関西のハイキングガイドには必ず乗っている山域でもある。
ここは一度自動車で北から南に抜けたことがあるのだが、意外なほどに高度感のある峠越えだった。
峠から北に降ったところには草山温泉があり、まだ、入浴したこともないので、今回、遠回りにはなるがわざわざこのルートを通ることにしたのだった。
最終日のこの日は走り続ける区間が多い。列車で言えば「各駅停車」ではなく「快速」という感じになるので、100㎞近く走るにしては時間的に余裕がある。
だが、野宿場所の瑞宝寺公園に人がやってくる可能性もあるので、遅くまで野宿しているわけにはいかず、夜明け前には片付けをはじめ、早朝、明るくなりだした頃には出発する。6時45分発。
有馬温泉内には幾つかの神社があるので、そのうち、有馬稲荷神社と温泉神社に立ち寄る予定にしていた。有馬稲荷神社は温泉街南側の射場山山麓にあるため、車道から長い参道を登っていく必要がある。早朝という事もあって他に参拝客の姿はなく、灯火の灯る境内は、まだ眠りの中にあった。
温泉街や三田北神の盆地を見下ろした後、境内を辞して山麓に戻り、温泉神社への入り口を探ったのだが、ホテルの敷地に立ち入る感じの歩道があるばかりで、その先が温泉神社に通じているのかどうかが分からず。結局、温泉神社は割愛して進むことにしたのだが、温泉神社、水天神社、有馬天神社を合わせた有馬三社のいずれも参拝しなかったことになる。
今回は有馬稲荷神社に参拝したので良しとして、次回、有馬温泉を訪問した際には、三社巡りをしてみたい。
有馬稲荷神社6時51分着、7時3分発、1.0㎞。


有馬温泉街は早朝という事もあって、昨夜の賑わいは嘘のように静まり返り、まだ、宿泊客も動き出してはいない。
インバウンド観光客の生態がどのようなものなのかは分からないが、早朝に起きだして、朝食前に温泉街を散策したり神社を訪れたりするような人は殆ど居ないのだろう。もちろん、若者の姿も見かけなかった。
ここからは神戸電鉄三田線、公園都市線の分岐駅である横山駅まで降るのだが、道場付近までは有馬川に沿った国道176号線を走り、途中から丘を越えて神鉄沿線に入るルートで走った。三田盆地に出た頃には朝の通勤時間帯になっており、国道は交通量も多かった。
横山駅には7時56分着。15㎞。
駅前には三田学園中学・高校もあって、駅前には横山駅で下車してきた通学生の列が続いていた。
その様子を写真に収めて出発するが、昨今は、こういう場面でカメラを向けるのにも気を遣う。
横山駅発、7時58分。
神戸電鉄公園都市線は、1991年10月28日に横山~フラワータウン間、1996年3月28日にフラワータウン~ウッディタウン中央間が開通して全線が開業した新興路線。
この「ちゃり鉄24号」の旅の中では、2日目に走った神戸市営地下鉄の西神・山手線の西神地区の沿線とよく似た景観が広がる。
路線は県道720号三田幹線を両脇に従えた複線規格をもった高架半地下の単線で、丘陵地帯を切り開いて造成されたフラワータウン、ウッディタウンを縦貫している。ウッディタウンの西にはカルチャータウン、北にはテクノパークといった新興造成地があって、ウッディタウン中央駅から更に延伸する構想もあるようだが、今のところ、計画の具体化は進んでいない。
兵庫県においては播磨内陸鉄道という名称で粟生までの延伸構想もあるというが、粟生線が高速バスとの旅客競争に敗れて存廃協議の俎上にある今日となっては、その構想が実現する見通しは限りなく低いように感じられる。
とはいえ、この公園都市線は横山駅から三田駅を指向し、三田駅でJR福知山線に接続して大阪方面に直達する意図をもって設計されている。三田駅付近の線形を考えると相互乗り入れは難しいものの、大阪から直通する路線が開業すれば旅客需要も喚起できそうに感じるのは、素人の浅知恵であろうか。
丘陵地帯を貫いていく路線はやはりアップダウンが激しい。自転車歩行者向けの幅広い通路も確保されているのでその点では西神・山手線沿線よりも走りやすいが、アップダウンは如何ともし難く、この朝多数行違った通学生は、全員、例外なく電動自転車に乗っていた。重積載の「ちゃり鉄号」では、平地や降りはともかく、登りとなると電動自転車には敵わない。
ウッディタウン中央駅には8時41分着。21.7㎞。
これで残すは篠山鉄道廃線跡の探訪のみ。ここから丘陵を降り、JR福知山線に沿って篠山口駅を目指すことにする。8時43分発。




ウッディタウン中央駅からも県道720号線を進み、テクノパークを越えて相野集落に降ったところでJR福知山線沿線に入る。
ここから、相野、藍本、草野、古市、南矢代の5つの駅を通り過ぎて篠山口駅まで、計画距離で20.6㎞。
沿線は武庫川上流域に当たり、南矢代~篠山口駅間に分水界があるようだが、地形的にも地図標記的にも不明瞭な分水界になっている。ここを越えた先は加古川水系の篠山川流域だ。
途中、古市~南矢代間では福知山線の線路脇に波賀野神社の鳥居が建っていて印象的な景観だったので撮影していく。
神社の方が古くからこの地に鎮座していたのであろうが、鳥居の方向に進んでいくと線路の路盤に突き当たってしまう。その先も田んぼになっていて、そこにあったであろう参道は跡形もない。
南矢代駅付近では、SNSで有名になったミニスカポリスの速度違反取締オブジェがあり、リアルなオブジェやパトカーは、遠目には本物の速度違反取締に見えた。自転車で走る私ですら自身の走行速度を気にしたくらいだ。
長閑な丹波路の里山を快走して篠山口駅には10時着。42.9㎞であった。



篠山口駅からは篠山鉄道の廃線跡を行く。
この篠山鉄道は「ちゃり鉄7号」で走った国鉄篠山線の前身となった鉄道で、1915年9月12日に篠山軽便鉄道として篠山(現・篠山口)~篠山町(初代)間を開業させたのち、1921年2月15日に岡野~篠山町(二代目)間を路線付け替えによって延伸開業した。
全線の廃止は1944年3月21日のことで、それと引き換えに国鉄篠山線が同日開業。篠山口~福住間を結んだが、園部方面への延伸計画も頓挫したまま1972年3月1日に廃止された。
なお、国鉄篠山線は篠山鉄道の路盤を利用した路線ではなかったため廃線跡は一致しておらず、それぞれの線形は異なる。
国鉄篠山線は昨日訪れた国鉄有馬線とも関係が深く、戦時中の不要不急路線として休止された有馬線の資材を転用して建設された路線なのだが、そういった歴史的経緯もあるため篠山鉄道に関する記録は多くはなく、また、現地にも篠山鉄道を明示した鉄道遺構は存在せず、路盤を転用して設けられた車道の様子や、水路を跨ぐ箇所に残っている橋台の遺構などに微かに痕跡を認める程度である。
篠山鉄道の開業当時は弁天駅と称した現在の篠山口駅を出発。10時3分。
住宅地の中を右に転じながら篠山市街地に向かっていた篠山鉄道の跡は、車道のカーブとして残っている。この日辿った廃線跡としては、この部分が一番「鉄道らしい」面影を残しているようにも見えた。
篠山市街地の西に設けられていた初代の篠山町駅跡、篠山城郭の北西端にあったという魚ノ棚駅跡などを巡り、篠山城北東の住宅地の中にあったという2代目の篠山町駅跡付近には10時37分着。48.6㎞。
駅跡付近には空き地もあってそれらしい感じはするが正確な場所は特定できなかった。
篠山町駅跡発10時39分。



これで今回の「ちゃり鉄24号」での全ての「ちゃり鉄」が終了した。
この後は自宅に戻るのみであるが、既に述べたとおり、篠山から福知山まではおおたわ峠越えのルートを走ることにしているので、篠山市街地からは一旦福知山市とは離れる方向に進んでいく。
その前に、篠山城跡と春日神社を訪れ、昼食を摂っていくことにした。
篠山城跡はドライブでも訪れたことがあるが、「ちゃり鉄」での訪問はこれが初めて。天守などは現存していないが、城郭内に青山神社があり、また、篠山市街地が一望できる展望台でもある。
その後、篠山市街地にある春日神社にもお参りし、事前にリサーチしておいた飲食店に行ってみたのだがどうやら定休日。そこで、隣接する蕎麦屋の弐拾六に立ち寄って鴨蕎麦と鯖寿司の単品を頼んで昼食とした。
里山を周ることが多い「ちゃり鉄」では蕎麦屋さんで昼食という事も多いのだが、腹持ちという観点ではご飯ものを追加したくなる。
この篠山でもその例に漏れず鯖寿司の単品1貫を頼んだのだが、内陸の篠山で鯖寿司が名物になるのは、若狭から京都まで鯖街道が通じていたというのと通じるものがある。
昼食を終えた後、近くのスーパーによってシリアルを買い足しておく。今日の残り行程での携行食である。
篠山市街地を出発しおおたわ峠に向かう道中、新荘集落では冬枯れの田圃の中に印象的な佇まいのお地蔵様が祀られていた。この一帯は秋にはコスモスの花畑になるらしく、撮影の名所ともなっているようだ。
奥畑集落の最終民家を通り過ぎて畑川を渡った地点から、県道301号本郷東浜谷線の通行規制区間が始まり、酷道・険道マニアにはお馴染みの規制標識などがお目見えする。
自動車では運転に緊張を要する区間に入るが、自転車の場合は勾配がきつくなるのを体感するものの、道幅の狭さなどはそれほど気にならない。但し、対向車が音もたてずに現れることがあるので、そういう緊張感は伴う。
車で通行した時よりも体感的には短く感じた登りを終えておおたわ峠には12時55分着。61.5㎞であった。







おおたわ峠にはフィールドアスレチックの施設や展望台、駐車場もあって意外と開けているのだが、アスレチックは冬季閉鎖期間中。駐車場には工事関係者らしい車が停まっていて中に人の気配もあったのだが、平日だったこともあり他に人の気配はなかった。
展望台にはトイレがあり、アスレチック施設の管理者によって、ぽっとん便所であることの説明書きなどがされている。便所の水洗化が進んだ今日、アスレチックを訪れる都会の子供たちにとって、ぽっとん便所は生まれて初めての体験ということも少なくないのだろう。
かく言う私も、小学生時代に遠い親戚の家で初めてぽっとん便所や五右衛門風呂を体験した時には驚いたものだ。
丹波高地の山並みは決して高いものではないが、重畳たる有様で続いている。ここから滋賀・福井県境辺りまでの近畿北部は、紀伊半島に匹敵するくらい山深い地域でもある。
そんな山並みを遠望しておおたわ峠を出発。12時59分発。
県道はここから北側の方がやや路面状況が良くなる。
眼下に豪快なヘアピンカーブを見下ろしながらぐいぐいと降っていき、本郷集落まで降ったら高台にある春日神社にお参りした。
府県境ということで言うとおおたわ峠が兵庫県と京都府の境目になりそうにも感じるが、実は峠を降った本郷北側の集落も篠山市域に含まれている。水系としては瀬戸内海に流れ込む加古川水系から日本海に流れ込む由良川水系に変わっているので、この辺りが篠山市に含まれていることには、歴史的な経緯がありそうだ。
本郷集落から友淵川沿いに降って遠方集落まで来ると、道路左手の小高い丘の上に草山温泉がある。
予定通り立ち寄ってみると、何と、工事で休館。
事前に調べたはずなのだが、今回はどうもこういう臨時休業が多かった。そういえば、初日の滝野温泉もそうだった。
仕方ないのでそのまま自宅で風呂に入るつもりで先に進む。
この篠山市遠方集落の北縁が京都府との府県境となっており、道端にある境界標識を越えて京都府三和町友淵集落に入った。
今回の「ちゃり鉄24号」では、初日の榎峠で京都府から兵庫県に入って以来、ここで京都府に戻るまで、ひたすら兵庫県内を走ってきた。9泊10日の行程だったことを考えれば、結構珍しいパターンではある。
この日は朝から曇りがちだったが、福知山市域に入り兎原集落で国道9号山陰道に入った辺りから、小雨がぱらつき始めた。最後の最後に雨に降られるのかと、少し憂鬱な心持で走るうちに、福知山市郊外にある福知山温泉に立ち寄っていこうという気持ちになる。
実は福知山温泉は自宅から自転車でも行ける場所にありながら、これまで訪れたことがなかったからだ。
幸い、小雨は降ったり止んだり。大して濡れることもないうちに福知山温泉着。14時34分。89.3㎞。
旅館のような古風な佇まいの温泉でひと風呂浴びて、程よく茹った後、15時14分発。
福知山市街地に入って一宮神社に参拝し、道中の安全に感謝を捧げる。それでも16時頃には自宅に到着できそうな時間帯だったが、今夜は外食になるということもあって家に帰る前に近所の丸亀製麺に寄って夕食を済ませていくことにした。
15時台ということもあって、お店には高校生のカップルが一組だけ。
静かな店内でうどんと天ぷら数種を欲張って、旅の最後のご飯とした。
自宅には16時12分着。96㎞。
昨年、トラブルで中断した「ちゃり鉄23号」以来の久しぶりの旅は、トラブルに見舞われることもなく無事に終了した。






