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ちゃり鉄22号:旅の概要
- 走行年月
- 2024年1月~2月
- 走行路線
- JR路線:加古川線・本四備讃線・宇野線
- 私鉄路線等:高松琴平電鉄長尾線・志度線・琴平線、水島臨海鉄道水島本線、岡山電気軌道東山本線・清輝橋線
- 廃線等:高松琴平電鉄市内線・志度線、三蟠鉄道線、岡山臨港鉄道線、下津井電鉄線、玉野市電鉄線、改正鉄道敷設法別表第90号線(倉敷=茶屋町)
- 主要経由地
- 小豆島、本島、直島、豊島、姫路城、岡山城、屋島、庵治半島、金刀比羅神社、飯野山、金甲山、鷲羽山、王子ヶ岳
- 立ち寄り温泉
- 加古川温泉ぷくぷくの湯、クア温泉屋島、かざし温泉、四国健康村、オリーブ温泉、サンオリーブ温泉、たまの湯、ふれあいセンター桑の湯、
- 主要乗車・乗船路線
- 神戸電鉄三田線、JR福知山線
- 小豆島フェリー(姫路~福田)・(土庄~高松)、国際両備フェリー(新岡山~土庄)・(池田~高松)、四国汽船(高松~直島)・(直島~宇野)・(宇野~本村)、本島汽船(丸亀~本島)、むくじ丸海運(本島~児島)、小豆島豊島フェリー(宇野~唐櫃)・(家浦~土庄)、ジャンボフェリー(坂手~神戸)、沖島渡船(小江~沖島)
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:970km/総累積標高差+17590m/-17728m
- 1日目:自宅-谷川=加古川-小赤壁公園
(112.2km/+991m/-1014m) - 2日目:小赤壁公園-姫路港~福田港-星ヶ城山-寒霞渓-四方指展望台
(43.7km/+1598m/-892m) - 3日目:四方指展望台-池田港~高松港-瓦町=長尾-志度=琴電屋島-屋島展望台
(65.6km/+979m/-1469m) - 4日目:屋島展望台-琴電屋島=潟元-長崎鼻-竹居岬-八栗寺-潟元=瓦町=公園前=高松駅前-高松築港=琴平-琴平金山寺山展望台
(108.5km/+1802m/-1932m) - 5日目:琴平金山寺山展望台-飯野山-宇多津=坂出-沙弥島-瀬居島-丸亀城ー丸亀港~本島港-笠島-観音寺-屋釜海岸
(85.5km/+1533m/-1669m) - 6日目:屋釜海岸-本島港~児島観光港-児島=茶屋町-清輝橋=岡山駅前=東山-国清寺=三蟠-新岡山港~土庄港-高見山展望台
(61.1km/+531m/-384m) - 7日目:高見山展望台-エンジェルロード-小江~沖島~小江-大部-吉田海岸-福田海岸-大角鼻-草壁-地蔵崎-釈迦ヶ鼻園地
(84.4km/+2355m/-2473m) - 8日目:釈迦ヶ鼻園地-戸形崎-土庄港~高松港-玉藻公園-高松港~宮浦港-本村-鷲ノ松公園…宮浦港~宇野港~本村港…鷲ノ松公園
(47.8km/+1085m/-1136m) - 9日目:鷲ノ松公園-宮浦港~宇野港-宇野=岡山-岡山城-大元=岡山港-児島大橋-金甲山
(90.1km/+1106m/-796m) - 10日目:金甲山-渋川海岸-下津井-通仙園-倉敷貨物ターミナル=倉敷市=茶屋町=下津井-鷲羽山東屋展望台
(115.2km/+1589m/-1861m) - 11日目:鷲羽山東屋展望台-王子ヶ岳-玉遊園地前=宇野-宇野港~唐櫃港-神子ヶ浜-家浦-唐櫃-壇山岡崎公園展望台
(57.1km/+1881m/-1652m) - 12日目:壇山岡崎公園展望台-家浦港~土庄港-重石-城山-地蔵崎-田浦-オリーブ公園
(83.2km/+2000m/-2288m) - 13日目:オリーブ公園-坂手港~神戸港-新開地≧三田≧福知山(自宅)
(15.6km/+140m/-162m)
- 1日目:自宅-谷川=加古川-小赤壁公園
- 総走行距離:970km/総累積標高差+17590m/-17728m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄22号:走行ルート
ちゃり鉄22号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
3月10日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト10日目~13日目公開 (ダイジェスト完結) |
3月7日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト7日目~9日目公開 |
2月26日 | コンテンツ更新 →ダイジェスト4日目~6日目公開 |
2024年2月24日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄22号:ダイジェスト
2024年1月~2月の厳冬期。旅の舞台に選んだのは「瀬戸内」だった。
前回の「ちゃり鉄21号」では宗谷本線を軸として道北の鉄道路線跡を巡ったのだが、11月~12月の旅とは言え「最強寒波」が襲来する中での旅路は、最低気温が氷点下10度くらいで行程の大半が凍結・アイスバーンという状況だった。
2024年の3月にはJR北海道のダイヤ改正があり、これまで「ちゃり鉄」や「駅前野宿」で訪れたことのない駅が幾つか廃止になる予定。根室本線の富良野~新得間の区間廃止も決まっている。
それらを「ちゃり鉄」と「駅前野宿」で訪れたい気持ちも強く、装備を更新して改めて厳冬期の北海道を走ることも考えたのだが、対象が広範囲に分散していて行程的に無理が生じることと、廃止直前の混雑が予想されたこともあり、この時期に訪れることは見合わせた。
その代わりというわけではないのだが、むしろ「温暖な地域を自宅発着で周る」という計画に方向転換し、かねてから候補に挙がっていた瀬戸内の鉄道路線と島々を巡ることにしたのである。
ここに至るまでの検討候補としては、「備讃地域の鉄道や廃線跡」と「しまなみ海道と中国地方山間部の鉄道路線」の2つがあった。後者は、しまなみ海道に加えて、呉線、芸備線、姫新線を走行するという計画である。
いずれも甲乙つけがたい魅力あるルートなのだが、四国本島内の鉄道路線が「ちゃり鉄」では未走行だったこともあり、今回は「瀬戸内」に焦点を絞り「備讃地域の鉄道や廃線跡」を対象としたのである。
京都府福知山市の自宅から備讃地域に自転車で辿り着くためには、途中1泊を挟むのが適当だ。そして、瀬戸内海を渡って備前讃岐を往来するために利用する航路は、幾つかの候補が考えられる。
計画の検討段階では笠岡~多度津の航路連絡も考えたのだが、このルートは真鍋島~佐柳島間の航路の運航日が限られていることや、西側への迂回が大きくなることもあり、肝心の備讃地域の「ちゃり鉄」の行程を圧迫することになった。
そんなこともあって、かつての下津井~丸亀航路を偲ぶ本島経由での連絡航路を西端とし、東へ直島、豊島、小豆島を中継点とした幾つかの本四連絡航路を取り入れながら、岡山県側の児島半島と香川県側の讃岐平野の鉄道路線・廃線跡の幾つかをピックアップして走る計画としたのである。
今回が「ちゃり鉄」としては22号になるが、実は、過去の「ちゃり鉄」の中で、北海道・本州・四国・九州を結ぶ長距離航路を除き、離島での宿泊を伴う本格的な島旅は実施したことがなかった。
「ちゃり鉄2号」では英虞湾周辺の航路、「ちゃり鉄3号」では東京湾フェリー、「ちゃり鉄4号」では青函航路、「ちゃり鉄10号」では大阪湾岸の市営渡船などに乗船しているものの、いずれも、島に渡って野宿をするという行程は含んでいなかった。
「ちゃり鉄」以前に取り組んでいた日本一周の自転車の旅では、佐渡島、粟島、飛島、奥尻島の4島に渡って、それぞれに宿泊しているが、この試みは3回に分けて天橋立から札幌までの日本海沿岸を走ったところで中止となってしまった。
そんなこともあり、この「ちゃり鉄22号」では、瀬戸内海の諸島のうちの幾つかを選んで、それらでの野宿も計画の中に組み入れた。
結果的に合計15回も船に乗船することになり、今までの「ちゃり鉄」とは異なる特色ある旅を楽しむことができた。
気象条件としては期待した「温暖」な日が少なく、逆に「寒冷」な日が多くなってしまった。想定していなかった氷点下5度まで経験したほか、海辺の風景もパッとしない日が多く、残念な思いもしたのだが、それはそれで、貴重な経験でもある。
また、予定していた13日目、14日目の行程は、雪混じりの天候の中での交通量の多い六甲越えという悪条件を勘案して、走行は中止し輪行での帰宅に切り替えた。結果的に12泊13日で1日短縮して帰宅。
最後は割愛・短縮となったものの、12日目までの行程のほとんどで、本格的な降雨には遭遇しなかったのは、全体的な気象状況を考えれば、むしろ、幸運であった。
ちゃり鉄22号:1日目:自宅-谷川=加古川-小赤壁公園
旅の1日目は備讃地域にアクセスするための移動行程。小豆島を挟んで高松入りする計画だった。
四国初の「ちゃり鉄」は高松から始めたかった。これは、鉄道ファンなら理解できる人も多いかもしれない。
自転車を携えて高松入りするためのルートは複数考えられるが、本四備讃線や宇野線は今回の「ちゃり鉄」で初めて走行する路線でもある。そのため、私なりのルールを適用して、鉄道での高松入りは最初から検討対象外だった。
「ちゃり鉄」では航空機や自動車は使わない。となると、船で高松入りするのが唯一の手段である。
歴史的な経緯を踏まえれば、岡山から宇野線を走行して宇野に向かい、宇野港から高松港へ渡るのが最も似つかわしい。しかし、かつての宇高連絡船を彷彿とさせる宇野~高松航路は既になく、直島での乗り継ぎが必要となる。
これ以外に、自宅から神戸に出てフェリーでダイレクトに高松に向かうルートも考えられる。
だが、それらのルートを検討しても自分なりに納得のいく結果を導き出せなかった。
日程全体の制約があるため肝心の備讃地域での行程に無理が出たり、フェリーに乗船するために4時前に行動を開始する必要が生じたりしたためだ。
そこで最終的に導き出したのが、姫路港から福田港経由で小豆島に渡り、翌日、池田港から高松港に渡るという形での高松上陸ルートである。
小豆島観光が目的ならいざ知らず、関西から高松に向かうのに、このルートを選ぶ人はかなり少ないに違いない。
だが、今回の計画が構想された当初から、小豆島と本州・四国を繋ぐ航路は全て乗船するつもりでいたので、往路か復路のいずれかで、姫路~福田の航路に乗船する必要があった。
復路で乗船するなら往路は神戸~坂手の航路に乗船することになるのだが、これは、神戸港を出港する時刻の関係で却下。自ずと往路で姫路~福田の航路に乗船することで固まった。
そのために姫路入りする行程が1日目の主体となるのだが、1日で姫路に到着しても小豆島に渡るフェリーの時刻には間に合わないため、途中で1泊を挟むことになる。
これまた色々なルートが考えられるが、ちょうど、「ちゃり鉄」では未走行だったJR加古川線に沿って加古川に出た上で姫路を目指すのが具合がよかった。
加古川線は初めての「ちゃり鉄」ということもあり、線内で駅前野宿も考えたのだが、翌朝に姫路港から小豆島行きのフェリーに乗船するという制約条件が付くと、加古川線内での駅前野宿は難しく、また、そもそも駅前野宿には適さないロケーションの駅が多かった。
そんなこともあり、結果的には、姫路市郊外の小赤壁公園まで一気に走り切る計画とした。初日から目的地到着が日没後となってしまうのだが、旅の主目的が備讃地域だったのでこの点は妥協した。
ルート図と断面図は以下のとおり。
ルート前半に峠を越えているが、これは柏原~谷川間にある奥野々峠である。実際には地形上の峠を通過せず奥野々トンネルで峠直下を抜けているので、ピーク標高はもっと低い。
それ以降は加古川線に沿い、加古川を下り続けている。
最後に小赤壁公園までの20m程度の急登があるが、大きな問題にはならない。
加古川線全線を「ちゃり鉄」で走りきるにも関わらず、走行距離が100㎞を越えるので日没後走行が長くなった。この点について妥協したのは既に述べた通りである。
この出発日は大雪の予報も出ていたので、朝の段階で積雪が深ければ出発も危ぶまれるところではあったのだが、幸いにも薄っすらと雪化粧する程度で走行上の支障はなかった。また、積雪以上に危険なのが路面凍結だったが、これについても路面は乾燥しており問題はなかった。7時17分発。
自宅からJR加古川線の分岐駅である谷川駅までは、概ねJR福知山線に沿って走ることになる。
計画上は40㎞弱で10時前に谷川駅に到着する予定だったのだが、実際には柏原八幡宮に立ち寄ったり、中央分水嶺の水分れ交差点で写真を撮影したり、途中でGPSの電池交換が必要になったりして、谷川駅到着は10時17分。GPSのログ上の走行距離は計画距離と全く同じ38.2㎞を示していた。
GPSに関しては登山でも使用するためGARMINのMap64sを利用している。購入して10年近くになるし、落下させてディスプレイにヒビが入ってしまい、フィルムと接着剤で補修した跡もある。そろそろ買い替え時ではあるが、「ちゃり鉄」での使用条件を考慮するとスマホ搭載のGPSアプリに移行するのは適策ではなく、やはり、同モデルの後継機種に乗り換えたい。ただ、価格が高価なことと電池が交換式ではなくなったことがネックで、目下、検討中だ。
充電池も長い間同じものを使っているので、充電済みであってもすぐに残量不足を起こすことが増えた。この日は、走り出して10㎞行かないうち、塩津峠を越えた直後に、もう電池切れになってしまった。面倒だがログの取得は重要なので電池交換を行う。ところが、交換した電池が既に残量25%レベルの表示になってしまう。出発前に全て満充電にして携行しているのにこの状態。結局、このまま終日使うことができたのだが、それはそれで、電圧不足が懸念される。そろそろ充電池も総入れ替えの時期である。
谷川駅からはJR加古川線の「ちゃり鉄」に入る。10時23分発。
この加古川線は元々は私鉄の播州鉄道を起源に持っており、かつては幾つもの支線を分岐していた。私は「ちゃり鉄7号」でそれらの支線の幾つかを走ったのだが、その当時既に北条鉄道北条線しか現存しておらず、それ以外の支線は全て過去帳入りしていた。
加古川線はそれらの路線網の「幹線」としての位置にあり、私鉄から国鉄時代を経て現在のJR路線に落ち着いているものの、西脇市~谷川間の路線存続には黄色信号が灯っている。「ちゃり鉄」としても未走行だった。
そのため、今回の「ちゃり鉄22号」の実施にあたって、備讃地域までの往路として加古川線沿線を選び、走行することにしたのである。
加古川水系の水運を置き換える交通手段として発展した播州鉄道が起源となるだけに、多くの駅が旅客・貨物取扱駅として開業した歴史をもつのだが、経営合理化の流れもあって、駅舎が取り壊され、簡素な待合スペースに置き換えられてしまった駅も少なくない。こうした駅の見た目の印象は停留場である。
行き違い設備が撤去され、かつての駅施設が痕跡として残るだけの棒線駅も多くなったが、黒田庄駅などのようにかつての面影をとどめ、周辺に歴史の香りが感じられる駅も残っていてホッとする。
黒田庄駅の隣にある日本へそ公園駅では公園内にある洒落たレストラン花屋敷で昼食をとることにした。到着が11時58分でちょうどお昼時だったというのもあるし、何となくレストランの佇まいに惹かれたというのもある。距離的にも52.6㎞地点。行程の半分弱の地点でちょうど良かった。
レストランは内装もお洒落な感じで、平日の昼間ということもあって、近在のマダムや悠々自適のご夫婦といった方々が、それぞれにランチを楽しんでいる様子だった。
「ちゃり鉄」の旅は野宿に自炊のスタイルだが、貧乏旅行をしたいわけではないし、肉体的にはハードな面があるので、食費を無意味に削ることはしない。とは言え、自転車やバックパックで旅をする場合、オートキャンプのように大量のキャンプ道具を携行して優雅なソロキャンプを演出するということもできない。
そんなこともあって、自炊の風景や内容は山中泊登山の場合と同じような状況だが、限られた条件の中で工夫をして、食事の満足感や栄養バランスを満たしていくのが楽しい。
日中は走ることが主体となるため自炊は行わない。携行食を頬張りながら休むことなく走り続けることも少なくないが、沿線の振興という目的もあって出来るだけ地域の飲食店などを利用するようにしている。特に事前のリサーチなどは行わず、偶然に任せて店を探すのだが、地元の人しか行かないような大衆食堂などでは、店先に停めた自転車と私の風体を見て、興味を持って話しかけてくる人も少なくない。そういうひと時は旅の楽しみの一つでもある。
この日は唐揚げ定食を注文してランチを楽しんだ。
12時40分発。
沿線の中核駅である西脇市駅には13時14分着。59㎞。この西脇市駅付近が、概ね、今日の予定の中間地点である。
計画では11時40分の到着予定だったので、1時間34分の遅れということになるが、焦っても仕方がないのでのんびりと先に進むことにする。
途中、滝という小駅を通る。駅名の由来は容易に想像が付く通り、近くに著名な滝があるからで、加古川本流にある闘竜灘がそれである。滝を竜になぞらえるのは「滝」という字の成り立ちからも分かり易いが、ここは「闘竜滝」ではなく「闘竜灘」という呼称が用いられているのが特徴的だ。
「灘」というのは通常は海の難所に用いられる表現で、この旅で訪れる備讃瀬戸も「播磨灘」と「燧灘」との間にある狭隘な海峡部分である。川の狭隘部分に「灘」という表現が用いられた背景については文献調査の対象としたいが、加古川水運に関わる往時の人々にとって、加古川は母なる海のような存在だったのではなかろうか。
この隣接駅が滝野駅で周辺地名も滝野であるが、勿論、加古川に由来。「滝づくし」といった地域であるが、加古川水運によって発展してきたこの地域の歴史が滲みだしているように感じる。
ところで「滝」という駅はJR烏山線にもある。
烏山線の滝駅については既に旅情駅探訪記でも取り上げたが、あちらも同じように近くにある龍門の滝が駅名の由来となっていた。
国鉄時代には加古川線の滝駅、烏山線の滝駅が同時に存在していたことになるが、いずれも旅客営業のみの小駅だったため、特に問題にはならなかったのだろう。さもなくば、いずれかの駅名が旧国名を冠したものになっていたことだろう。
滝駅には13時38分着、13時42分発。60.5㎞。滝野駅には14時3分着、14時8分発。64.7㎞。この間、闘竜灘にも立ち寄った。
水運の難所故に荷役の中継点として栄えた周辺集落は、鉄道の登場とそれに伴う水運の衰退によって観光へと舵を切ったが、観光そのものの在り方の変化によってそれもまた衰退の流れの中にある。だが河畔に立つ旅館には往時の賑わいの名残が感じられた。そして、そんな感傷の中を加古川は変わることなく流れ下っていた。
加古川は西脇市駅の北で支流の杉原川を合流し、水量や川幅を増した状態で播磨平野に流れ下る。滝駅や滝野駅はその流出口に当たる部分だが、更に走り降って青野ヶ原駅や河合西駅辺りまで来ると、氾濫原も随分と広がり、駅の周辺は長閑な田園風景が広がるようになる。
短い冬の日は既に西日の時刻。河合西駅には鉄道通学の小学生が指導員に見送られて集まっていた。年少の女子児童が転倒して膝を擦りむいたらしく、年長の女子児童がその面倒を見ながら、指導員が消毒薬を持ってきて応急処置をしたりしている。
「帰ったらお母さんに薬を塗ってもらうんだよ」。「分かりました」。「大丈夫。痛くないよね」。
そんな微笑ましいやり取りの中で、子供たちが乗る列車が到着する。
「は~い。みんな気を付けて帰りなさい」。「さようなら~」。
そんな光景を懐かしく思いながら写真を撮影する私に、「見慣れない人」という視線を送りながらも、「こんにちは」と挨拶をしてくれる子供たちに答える。
何かホッとする冬の日暮れの一コマだった。
粟生駅では北西に向かって分岐していく北条鉄道の線路を見送る。
国鉄時代は加古川への直通列車も運行されていた北条線の鉄路だが、今日、加古川線との連絡に用いる渡り線は撤去されており、列車が直通することはできない。
ローカル線の廃止は殆どの場合、地元の廃止を押し切って実行される。それでも鉄道を維持したければ地元で何とかしろというのが強者の論理で、弱者の地元は泣き寝入りということも少なくない。
実際に直通することがなくても、別会社への経営移管後に錆びついた渡り線が残されていることは少なくないが、ここではその設備が撤去されている。
管理責任の問題があるのだろうが、それだけではなく、独立した鉄道会社としての誇りや矜持を感じるのは、感傷に過ぎるだろうか。
小野町駅は現在は小野市に属する駅となっている。駅周辺の地名は下来住町で、何故、小野市駅ではなく小野町駅なのかという疑問も浮かぶが、勿論これは、開業当時の周辺自治体名が小野町だったことに由来する。
そんな事に疑問を抱く人は少ないし、小馬鹿にしながら「で?」という反応を返されることもあるが、地名の変遷を辿ることは鉄道沿線の郷土史に対する理解を深める上で欠かせない。
「ちゃり鉄」の旅を通してそういう楽しみが見つかったのは、我田引水ではあるが、幸運である。
三木鉄道が分岐していた厄神駅を過ぎて日岡神社を参拝した後、日岡駅に到着した辺りで日没時刻を迎えた。
日岡駅は加古川駅に隣接する市街地辺縁の小駅で、古い木造駅舎が残る交換可能駅だが、既に無人化されて久しい。
JR加古川線を走り切って加古川駅に到着したのは17時29分。ここまで97.6㎞であった。予定より2時間遅れである。
ここから目的地の小赤壁公園までは15㎞弱。時間にして1時間程度である。
しかし、この日の入浴はまだ済ませておらず、この後、加古川温泉ぷくぷくの湯に立ち寄る計画だった。更に、当初の予定では山陽電鉄大塩駅付近で食材を買い出す時間も取っている。
それらを合わせると、まだ2時間強の時間を要する。
となると、小赤壁公園到着は20時前となり、それから野宿や夕食の支度にとりかかるとなると、就寝時刻は22時前になってしまう。
そのため、夕食については加古川駅にあった外食チェーンで済ませてしまうことにして、就寝時刻が遅くなり過ぎないように調整した。
夕食を済ませて加古川駅を出発したのは17時57分。
その後、加古川温泉ぷくぷくの湯には18時過ぎに到着。99.7㎞。あんまりのんびりもしていられないが、しっかり温まって疲れを癒し、18時53分発。
山陽電鉄大塩駅近くのスーパーマーケットで翌朝分の食材を購入し、とっぷり暮れた中、最後の急登を押し登りで克服して小赤壁公園の東屋に着いたのは19時58分。112.2㎞であった。
私は駅前野宿でなければ公園の東屋を野宿場所に選ぶことが多い。
テントを携行しての旅であるから、必要なら吹きさらし雨ざらしの場所でも野宿は可能だが、雨風の中でのテント設営と撤収は、気乗りしないものでもある。
そんなこともあって、多少の雨風なら濡れることなく凌げる東屋の下にテントを張ることが多いのである。季節や天候次第ではテントを張らずにマットと寝袋だけで寝ることもある。
但し、目的の東屋が必ずしも期待通りであるとは限らず、構造によっては屋根の下にテントを張ることができなかったり、ゴミや野生生物の糞尿で汚れていたり、屋根が雨を防ぐ構造になっていなかったりすることもある。
最悪、野宿場所の変更が必要になることもあるため、できる限り明るいうちに現地に到着しておきたいのだが、日の短い季節は行程の都合もあってそれが難しいことも多い。かと言って、到着が早すぎても良くない。キャンプ場ではないこともあり、人が居る時間帯に野宿を開始するのは避けたいからだ。
この日もそうだったのだが、20時前ということもあり真っ暗な公園に人の姿はなく、目的の東屋は野宿には差支えのないもので天候も安定。夕食を済ませてきたこともあり、手早く野宿の支度を済ませ、すぐに休むことができた。
西には姫路の港湾地域、東には高砂の工業地域を眺める海食崖の上の展望台は眺めも良い。沖合を行く船舶の軌跡を眺めながら写真撮影や行程整理を済ませた後、21時頃には就寝することにした。
ちゃり鉄22号:2日目:小赤壁公園-姫路港~福田港-星ヶ城山-寒霞渓-四方指展望台
2日目は大きく3つの行程に分けられる。
まずは、野宿場所の小赤壁公園から小豆島フェリーの乗船場所となる姫路港までの走行区間。続いて小豆島フェリーの乗船区間。そして、小豆島フェリーの下船場所となる福田港から野宿場所の四方指展望台までの走行区間である。
この旅を実施した2024年1月下旬は、小豆島フェリーが船員不足を理由に減便運航しており、朝の始発便は9時45分の出港だった。
小赤壁公園から姫路港に直行する場合、8時過ぎに出発しても余裕をもって姫路港に到着できる位置関係にあったが、7時過ぎに出発すれば姫路城や播磨総社を訪れることも出来そうだった。この時期の日の出は概ね7時頃だったので、走行開始にも無理がない。
そこで、小赤壁公園は7時に出発し、姫路市内を少し回って、姫路港には9時9分到着という計画にした。
姫路港の出港は9時45分。福田港の着岸は11時25分。船旅の長さや小豆島の到着時刻も、ちょうど具合がよい。
福田港から星ヶ城山、寒霞渓を経て四方指展望台に至る区間は、海岸から一気に標高800m前後の地点まで登り詰めていくので、かなりハードな行程になることが予想される。着岸時刻を考えても、福田港周辺で昼食は済ませておきたかった。
計画時点で日没後の目的地到着となっていた1日目と異なり、この2日目は16時26分には目的地に到着する計画。日没は17時30分頃。天候や野宿場所の状況によっては、最悪、山を降る必要も生じるため、その余裕を見込んで日没の1時間前には行動終了できる計画としたのだが、そういう事情がなくとも、目的地への到着は、日没時刻の1時間前から30分前くらいに収めるのが、最も都合がよい。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
小豆島に入ってからの第3区間は、断面図を見ると明らかなように、極めてハードな行程だ。しかも、山麓にある吉田温泉の営業開始時間が15時だったこともあり、入浴を済ませてからヒルクライムを始めることができない。
仮に昼過ぎに入浴できたとしても、その後のヒルクライムで汗まみれになることは変わりないのだが、やはり、一日に一度は入浴しておきたい。しかし、福田港から小豆島入りし、吉田側から山の上を目指すとなると、入浴は諦めざるを得なかった。
勿論、山頂での野宿を諦めて山を降ってしまうことも考えられるが、初めての小豆島での野宿を島の最高所付近で過ごすのも魅力的。その魅力が入浴の魅力を上回った。
行動開始は夜明け前の5時。朝食と写真撮影、撤収などを手際よく済ませ、公園の敷地内にある木庭神社にお参りしてから出発する。7時の日の出を撮影してから出発となったので、予定より少し遅れて7時22分となった。
平日の朝とあって、姫路の町は通勤通学の人並みや自転車、自動車で混雑している。
そんな中をツーリング装備の自転車で駆け抜けていく。
天気は良いが放射冷却で冷え込み、この冬一番と思われるくらいの厳しい寒さが町を包んでいた。
一旦、姫路市街地を内陸に迂回し、播磨国総社の射楯兵主神社には8時16分着。8時26分発。10.1㎞。姫路城には8時30分着、8時43分発。11.4㎞。姫路港には9時15分に到着した。19.1㎞。
この間、姫路市街地でこの日の夕食と翌朝の朝食、そして、1泊分の水を仕入れていく。
調達が早過ぎるようにも思えるが、事前調査段階では、小豆島に到着した後、福田港から四方指展望台に至るまでの区間で、食材や水の購入が出来そうな商店が見つからなかった。寒霞渓の土産物屋で調達することは可能だろうが、恐らく、満足できるものが手に入らない。
姫路市内で調達してしまうと、その追加分の荷物を加えて福田港からのきつい登りを走ることになるのだが、満足な食事や水を確保できないことの方が大問題なので、姫路市内で予め仕入れる計画としていたのだ。
姫路城は播但線や中国地方東部の陰陽連絡線を走った「ちゃり鉄16号」の旅で訪れたことがあったのだが、当時は大改修工事が行われていて、その姿を見ることができなかった。
まじまじと姿を眺めたのは今回が初めて。
開城前ということもあり周辺から眺めただけではあったが、青空に映える「白鷺城」の姿は幾多のお城の中でも、やはり印象に残るものだった。
「ちゃり鉄16号」では播但線の支線であった通称・飾磨港線の跡も辿った。今回は、そのルートは通らないが、乗船するフェリー乗り場は飾磨港の近くにあり、廃線跡や飾磨港駅の跡を遠目に見ながら辿り着いた。
出港は9時45分なので出港30分前。少し遅くなったと思ったが、乗船するフェリーはまだ入港しておらず、時間的には余裕があった。
乗船券を購入し、乗船ゲート付近で待機しながら写真を撮影しているうちに、遠くの方にフェリーの姿が見えてくる。着岸は9時30分。
15分の待ち合わせで、車両や貨物も含めた乗下船が完了するのだから手際よいものだ。
この日乗船待ちをしていたのは乗用車が10台弱。徒歩の乗船客も数名見かけたが自転車やバイクの乗船客は居なかった。甲板員に導かれて乗船し「ちゃり鉄22号」は車両甲板の壁面の手摺部分に固定される。
解体せずに車両甲板に自転車を積載することを原型積みと言い、ばらして船室内に持ち込むことを輪行と言うことが多いが、最近は、いずれを選んでも料金が同じということが多く、基本的には原型積みでフェリーに乗船する。
学生時代などは、大学のサイクリング部の団体などが、料金の安い輪行で大量の自転車を船室内に持ち込んでいる姿を見ることがあったものだが、近年、そういう光景に出会うことはなくなった。そもそも、そういう団体に出会うこと自体、ほとんどなくなった気がする。
ロードレーサー乗りはかなり多くなったし、自転車の楽しみ方のジャンルも広がったが、その分、ジャンル間にサイクリストが分散していき、私のような古いスタイルのツーリストは減ったのだろう。それは登山やランニングでも同様に見られる現象だ。SNSなどに触発された新規参入者はお洒落で手軽、軽快なジャンルに集まる傾向がある。
フェリーは定刻の9時45分に出港した。
船内は客室フロア両サイドやフロントの窓側に座席区画、通路を挟んだ真ん中部分に絨毯敷きの区画があり、全体の中央付近に売店がある。このクラスのフェリーの標準的な客室装備だと思えたが、雑魚寝の絨毯敷きの区画は船旅ならではで旅情をくすぐる。
尤も、時代の流れもあって、こうした開放的な居住空間は敬遠されるようになり、乗船時間の長い長距離フェリーなどでは、雑魚寝の二等船室が姿を消していることが多い。学生時代、所属していた陸上競技部の春合宿は高知県で行うのが恒例だったのだが、その際には、夜行の大阪高知特急フェリーに乗船することになっていた。あのフェリーは雑魚寝の二等船室があった記憶だが、既に、航路そのものが廃止されている。
この日はオフシーズンの平日ということもあってほかの乗客の姿も疎らではあったが、さっそく絨毯に寝転がって昼寝に入っている人の姿もあった。
展望甲板に出て港湾風景を眺めているうちに出港。海上保安庁の巡視艇が繋留されている姫路港を後にした。
左舷に見える飾磨東防波堤の赤灯台を越えると、いよいよ姫路港外に出て瀬戸内海に滑り出す。港の出入り口にある灯台の色と灯光色は決まっていて、港内から港外に向かって左舷側が赤色灯台で赤灯、右舷側が白色灯台で緑灯となっている。そんなことを確かめながら爽快な船出を楽しむのだが、気が付くと甲板に出ているのは既に自分一人だった。
右手には姫路から赤穂、日生に続く海岸風景、左手には家島諸島を眺めながら進む。
家島諸島は4つの有人島の他にも大小様々な島や岩礁が点在している。
フェリーは東端の有人島である男鹿島側から、家島、坊勢島の北方沖を西南西に進み、西端の有人島である西島の沖合で南西に舵を切って、院下島をはじめとする大小の無人島との間にある水道部分を縫うようにして進んでいく。
この頃には進路前方に大きな島影が迫ってきている。小豆島だ。
それと同時に、周辺の海には白波が立ち、時折、船首で大きく砕けた波しぶきが船主側の展望室の窓を洗うようになった。穏やかな瀬戸内海のイメージとは違う、少し荒れた姿だった。
それでも、この多島海の風景は瀬戸内海の船旅の楽しみの一つ。今回は、何回も瀬戸内海を渡ることになるが、初日が晴天に恵まれて幸運だった。
結局、1時間40分の乗船時間のほとんどを、展望甲板で過ごして福田港11時25分着。
到着した福田港で走行準備をしたり写真撮影をしたりしているうちに、フェリーは姫路行きとなって出港していく。11時40分。福田港でも僅か15分の接岸時間だった。
港の近くを自転車で周ると、木原食堂という大衆食堂を見つけた。営業中なのを確認してここで昼食とをとることにした。地元の人たちが訪れる食堂という感じで、私は一人場違いではあったが、いただいたかつ丼は美味しかった。12時8分発。
その後、福田港の周辺をのんびり走りながら数枚の写真を撮影し、吉田集落との間を隔てる岬に向けての登りに取り掛かる。断面図にも現れている通りの小さなアップダウンを越えると吉田集落。
ここで海岸沿いを進む道路から分岐して脊梁山脈に向けての登りに入るのだが、車線数が減るとともに分岐した直後から急登が待ち構えているのが目に入る。この形で始まる登りはかなりきついことが多い。事前に調べていたので覚悟は出来ているが、ここから延々と登り続けることになる。
初っ端から押し登りになりそうな低速で喘ぎ登っていくと、5㎞手前で吉田ダムに達し、一旦、急勾配から解放される。眼下に吉田集落と瀬戸内海を望み、ボトルのリンゴジュースで乾いた喉を癒す。行く方は遥か高みに稜線が続いている。
吉田ダムの先は1㎞ほど湖畔の平坦路を走るが、すぐに小さな峠地形を越え、福田集落から駆け上ってくる県道246号線と合流。ここからは急勾配が復活し、行く手にはヘアピンカーブに高架橋を伴った空中回廊のような区間が見えている。
これから登っていくのかと先が思いやられるが、風景のすばらしさが疲れを癒してくれる。
しかし、標高500mを越えた辺りから小雪が舞い出し、路肩の湧水が厚く凍結しているのが目に入るようになった。
14時過ぎに草壁からの県道と合流。標高は600mを越えた。
ここからも登り基調だが県道は星ヶ城山の肩を巻いていくので、今までのような急勾配は少なくなる。それも束の間、星ヶ城山への分岐に達すると、目的の道はまたもや急勾配。更に、路面に流れ出した表流水が凍結していたりして、スリップの危険もあった。
星ヶ城山登山口には14時22分着。34.7㎞。福田港からでは15.6㎞だが、2時間14分を要した。
ここで自転車からトレッキングに切り替え、星ヶ城山の東峰、西峰と、それぞれに鎮座する阿豆枳島神社にお参りする。14時30分発。
「阿豆枳島」は「あずきじま」。「小豆島」は「しょうどしま」だが「あずき」の読みが島内に散見される。この辺りの地誌は文献調査で調べたい。
14時を回っているので既に西日の気配が漂う中、まずは東峰に登ったのだが、瀬戸内海は一望できたものの空の半分くらいを雪雲が覆っており、その下に雪足が伸びて沈んだ感じになっていた。
中世の城郭跡がある星ヶ城山山頂は標高816.1mあり、小豆島の最高所である。
条件が許せばゆっくり滞在したい場所だったが、この日は非常に寒冷で小雪が舞っていたこともあり、程々で山頂を辞して西峰に向かう。
東峰、14時44分着。14時57分発。35.4㎞。登山口からは0.7㎞だった。
東峰を降って登山口に分岐する鞍部を越え、西峰には遠回りの西側から周りこんで15時10分着。36.6㎞。東峰から1.2㎞。ここでも神社にお参りし15時17分に出発。
登山口には15時25分に戻ってきた。37㎞。
1時間弱。2.3㎞のミニトレッキングだった。
星ヶ城山を出た後は、寒霞渓に向かって一旦下りに入る。寒霞渓は脊梁山脈の鞍部にあって、東に星ヶ城山、西に四方指が位置する。星ヶ城山が既に述べた通り816.1m、四方指が776.1mで、寒霞渓はロープウェイの山頂駅付近が概ね標高600m。鞍部の最低点には独標があり568mである。
降り勾配の途中で左に大きな駐車場と施設群が見えてきて寒霞渓に到着。15時32分。38㎞であった。福田港からは18.9㎞ということになる。
季節外れの平日ということもあり、寒霞渓には殆ど人の姿がなく、ただ、ロープウェイの発着を知らせるアナウンスが聞こえてくるだけだった。僅かに数組の家族連れが見られたがアジア系の外国人観光客らしい。最近、観光地でこうした光景を見かけることが多くなったように思う。
寒霞渓では周辺園路を散策する時間を取っていたのだが、その前に、土産物屋にも立ち寄ってみる。
小豆島らしい土産物が並んでいるのだが、やはり、予想した通り「ちゃり鉄」の夕食や朝食には向かないものが多く、事前に購入しておいて正解だった。
冬枯れの上に上空の雪雲は愈々分厚く、全天を覆い始めていたので、見下ろす内海湾、瀬戸内海の風景も彩度の低い沈んだ印象を受けるものだった。
園路の途中にある東屋が野宿に使えそうだと、風景とは別のところに注目したりもしながら、散策を終えて寒霞渓を出発する。16時10分。
目的の四方指展望台付近での野宿が難しそうであれば、ここまで引き返してきて目星をつけた東屋で野宿をしようと思ったのだが、独標から四方指展望台までの登り勾配がかなりきつく、戻ってしまうと明日朝の登り返しが思いやられる。しかも、ここにきてGPSの電池切れ。もっと低温だった前回の北海道の「ちゃり鉄21号」と比べても、今回の「ちゃり鉄22号」では格段に充電池の電池切れトラブルが多かった。
四方指展望台には16時42分着。43.7㎞。福田港から24.6㎞であった。
四方指展望台は大きなコンクリート製の展望台なので、到着して早々に展望台の上に上がってみたのだが、展望台周りが樹林になっていることや折からの天候不良もあって、残念ながら眺望はあまり優れなかった。
この四方指展望台から3分ほど歩いたところには大観望展望台がある。こちらは寒霞渓に向かって落ち込む断崖の縁にあるため、苗羽集落から内海湾、田浦半島などの風景が広がる。勿論、その向こうに瀬戸内海と四国が遠望できる。
四方指展望台や大観望展望台付近に東屋がないことは事前に把握していた。雨風が強い場合、野宿は諦めざるを得ないのだが、先ほど見てきたように寒霞渓付近まで降って東屋で野宿すると翌日の登り返しがきつい。
幸い、この日は雪模様ではあったが、大きな天気の崩れはなく風も比較的弱かったので、四方指展望台の下のコンクリート部分を使って野宿をすることにした。この部分であれば展望台が屋根の代わりとなって、吹きぶらない限りは直接雨や雪に濡れることはない。
キャンプ場以外の場所で野宿することの是非について、世の中には様々な議論があることは承知しているが、私はその議論に参加するつもりはない。
たまにキャンプ場を使うこともあるが、キャンプ場ではない場所で野宿をすることの方が多く、また、テントを使わずにマットと寝袋だけで寝ることも多いので、私は自分のスタイルを「キャンプ」ではなく「野宿」と表現している。
もしキャンプ場以外の場所で野宿をしている際に、その場所の管理者から退去を求められたら、それには素直に従う心づもりだが、30年来の野宿の経験の中で、幸いなことに、そのような場面は一度も経験したことがない。
人の目に付かないように時間帯や場所、行動に気を付けているからということもあるが、地域の方と出会う場面でも、ご好意に接してきたのが大半で、それ以外でも注意を受けたことはない。
学生時代には、駅での野宿を終えて出発前の掃除をしている際に、地元の管理者の方がお見えになり話しかけられたことがあった。その方は開口一番、「ここで寝たんか?」と仰ったので、注意されるのだと悟ったのだが、「お宅みたいにマナーを守って綺麗に使ってくれる人ばっかりやったら、全然、寝泊まりに使ってもらっても構わないが、壁板を剥がして焚火をしたり、宴会をして騒いだり、ゴミを残して行ったりする人が居るから、寝泊まり禁止にしている」という話しだった。
その後、しばらく近くの集落の盛衰や駅への思い入れなどのお話を伺ったのだが、別れ際に「また、泊まりにいらっしゃい」と仰ってくださった思い出は今も忘れられない。
それは私にとっての旅の原点だし、そういう「野宿」で旅をするのが自分なりのスタイルだ。
野宿準備を手早く済ませたら、暗くなる前に大観望展望台に行って写真撮影を行う。残念ながら、この日は雪雲に覆われて風景は今一つではあったが、遠く男木島、女木島の島影の向こうに沈む夕日や、眼下の苗羽集落、田浦半島と内海湾、瀬戸内海の風景を眺めることができた。
気温の低下も著しかったので写真撮影も程々に野宿地に引き上げ、夕食やデータ整理を済ませる。その後、もう一度、大観望展望台を訪れて夜景を撮影し、早めに寝ることにした。標高500mを越えた辺りからは始終寒冷で凍てつくような寒さと急登のダメージが大きかったが、行程自体は概ね予定通りにこなせたので満足のいく一日だった。
ちゃり鉄22号:3日目:四方指展望台-池田港~高松港-瓦町=長尾-志度=琴電屋島-屋島展望台
3日目も2日目同様に3つの行程に分けられる。
四方指展望台から山を降り中山千枚田を経て池田港に出るまでの走行区間。続いて両備国際フェリーの乗船区間。最後に高松港から高松琴平電鉄の長尾線と志度線を巡り屋島に至る走行区間である。
この日も野宿予定地を屋島に決定したため、到着が日没1時間後の18時36分となる計画で、出来は良くなかった。屋島には複数の東屋があるので野宿には不自由しないし、屋島山上からの夜景を期待してのことだが、結果的に、行程の最後に長い登りを要求されるハードなものになった。
高松港に渡るためには、坂手港、池田港、土庄港の3つの港を候補とすることができた。もう一つ草壁港もあったが、残念ながら航路休止となっており再開の目途は聞かない。
この中で池田港経由としたのだが、それは四方指展望台から中山千枚田を経て港に出る際に、最も合理的なルートだったからだ。既に述べたように、この旅では小豆島からの本四連絡航路は全て乗船するという計画にしていたので、池田港では必ず乗船か下船をする必要があり、この日のルートに充てて池田港から乗船するのが具合がよかった。
高松側では琴電の長尾線、志度線を巡る。この順序にしたのは野宿場所の選定上の理由で、長尾線側よりも志度線側の方が、野宿欲をそそる場所が多かったからだ。
時間的な問題で言えば、房前駅付近の適当な場所で野宿できればよかったのだが、適地が見つからなかったことと、翌日行程に無理が生じることもあって、屋島まで進むことにした。それでも完璧なものを作るのは難しく、結局、いずれの日程にも少々無理が生じたことは否めない。
ルート図と断面図は以下のとおり。
断面図はもうはっきりとこの日のルートの性格を表しており、きつい行程なのは一目瞭然だ。
走行区間の計画距離は57.8㎞で決して長くはないものの、途中、2時間の乗船・待合せ時間があるために実走行時間が短くなることと、私鉄である琴電の駅数の多さもあって、高松側の行程はタイト。
それを乗り越えた後に、屋島に向けてかなりの急勾配で登り続けることになる。結果的に、初めての四国本島内の「ちゃり鉄」だったにもかかわらず、琴電沿線での「途中下車」の時間は、あまり確保できなかった。
四方指展望台下での野宿は、寝袋の口周りが凍結するなど、真冬の北海道で野宿しているかのような厳しさであった。温度計の示度は氷点下5度。この時に使用したシュラフは氷点下15度仕様なので、寒くて眠れないということはなかったが、快適温度で考えるとギリギリの気温まで下がっていた。
深夜に目覚めた時は本格的に雪が降っていたので、一夜明けたら銀世界になっているかもしれないと、むしろ期待したのだが、実際には厚い雲に覆われた無彩色の風景の中で、どんよりと夜明けを迎えた。寒気だけは相変わらず厳しいが、雲に覆われている分、放射冷却の冷え込みは抑えられているようだった。
荷物を片付けて出発準備を終えた後、大観望展望台を訪れてみた。
天気が良ければ、眼下には絶景が広がるだろうし、印象的な日の出を眺めることもできようが、この雲の厚みでは望むべくもない。モノトーンに沈んだ瀬戸内海が寒々と広がっているのを眺めて、四方指展望台の姿を写真に収めて出発することにした。
7時2分発。
四方指展望台からは長い降り勾配が続く。途中、降り車線の左路肩に逆勾配のスロープが設けられた箇所が数か所現れる。これは、長い降り勾配をもつ道路に時々見られるもので、ブレーキが故障した際に突っ込んで強制的に停車するための緊急避難所である。
自動車の性能が向上した今日、この緊急避難所が実際に使われることも少なくなっただろうが、全国的な観光開発や自動車の普及が一気に進んだ、高度経済成長期の名残を感じる。
ルートは山麓の集落までひたすら降り続ける。銚子渓を過ぎたところで鋭いヘアピンカーブを抜け、その先の銚子洞門を越えたところから肥土山集落に向かって急勾配の林道を降った後、今度は中山千枚田に向けて登り返し、冬枯れの棚田を訪れる。
池田港には8時44分に到着した。17.9㎞。
フェリーの出港時間は9時50分で、まだ、入港していない。港で待っている人の姿も車も、ほとんど見られなかった。
港近くの物産店に立ち寄って醤油煎餅を購入。バリバリと煎餅を頬張りながら港付近を散策するうちに、乗船する国際両備フェリーの船体が池田港外に見えてきた。
着岸は9時35分。この船も出港時刻15分前の着岸だ。巨大な船体を狭い港内で転向させ、定位置にピタリと着岸させる操舵技術に、「職人技」を感じる。
昨日の小豆島フェリーと比べると、車両も旅客も数が多く、高松から仕事で渡航してきたと思われる人の姿が目立った。少数の観光客も混じっていたが、ここもやはり、外国人観光客の割合が高い。
着岸と前後して乗船予定の車両や旅客もターミナルに集まってきており、到着時とは打って変わって賑わっている。乗船予定者の顔ぶれを見ると、こちらも一定数の外国人観光客が混じっていた。
オフシーズンの観光がインバウンド需要に下支えされていることを実感する。
出港10分前には乗船開始。車両甲板に「ちゃり鉄22号」を固定してもらい客室に向かうと、既に売店前に陣取った観光客のグループが居て賑やかだ。
定刻9時50分に出港。展望甲板からその様子を眺める。
「ちゃり鉄」での初めての離島泊は24時間に満たない滞在時間で、天候も思わしくはなかったが、予定通りに走れていることに満足感を覚えるものだった。この小豆島には、後日、再び渡ってくる。その際に天候が回復していることを願おう。
この日は薄曇りの天気で瀬戸内海も鈍色。
航路は小豆島から庵治半島沖、屋島沖を経て高松に入るので、四国本島沖にある大小の島々の間を縫うように進む。天気が良ければ、多島海の風景が一際美しかろうと思うのだが、それは望むべくもない。
だが、曇天で持ってくれているのは幸いで、雨に降られることはなさそうだった。
20分ほどで小豆島は船尾後方に遥か遠ざかり、代わって船首前方に四国本島がはっきりと見えてくる。左舷前方に見える特徴的な山並みは屋島や五剣山だ。
その手前の海上をこちらに向かって航行してくるのは僚船の池田港行である。
庵治半島沖では左舷間近に無人島の稲毛島を眺め、程なく右舷前方に有人島が見えてくる。ハンセン病隔離の歴史を秘めた大島だ。
瀬戸内海にはこうした差別的隔離政策の歴史を秘めた島や、有害物質の精錬等による公害を避けるために隔離された島、そして秘密裏に軍事目的で利用された島などが、幾つも存在している。今回私が渡航した中では、直島や豊島が、精錬所や産業廃棄物の不法投棄で知られている。
風光明媚な多島海の風景は美しいが、その美しい風景の中に秘められた歴史に目を向けることもまた、「ちゃり鉄」の旅では忘れないようにしたい。
屋島山麓の長崎の鼻を回り込む頃には、右舷側に男木島や女木島の姿も見える。
今回はこれらの有人島に渡航することはできなかったが、いずれ、季節やルートを変えて渡航する機会を設けたいと思う。
曇天で風景はパッとしなかったが、それでも1時間の航海はあっという間。
定刻より少し遅れて10時50分過ぎには高松港に着岸、下船した。
ここからは高松琴平電鉄の「ちゃり鉄」が始まる。既に述べたとおり、四国初の「ちゃり鉄」でもある。
ルート的には高松築港駅から走り始めることができる琴平線の旅から始めるのが理想的ではあるが、丸亀から本島経由で児島に渡るルートの位置関係や航行ダイヤの関係で、長尾線、志度線、琴平線の順番に走ることにした。高松築港駅から瓦町駅までは僅か2駅。収まりは少し悪い気もしたが、琴電の歴史を遡ると、むしろ瓦町駅が琴電の高松駅としての発祥の地でもある。
そんなこともあり、高松築港駅は素通りして瓦町駅に向かうことにした。
高松港発11時2分。瓦町駅着、11時13分。通算距離19.8㎞であった。
現在の瓦町駅は琴電の全路線が分岐する要衝である。志度線は1994年の改良工事によって長尾線、琴平線との直通が廃止され、現在のような独立した路線になった。それ以前は瓦町駅でスイッチバックして高松築港駅まで直通していたのであるから、利用者にとっては乗り換えの不便が生じることになるが、瓦町駅が琴電高松駅を名乗っていた時代があることからも分かる通り、市街地の中心地は瓦町駅付近にあるため、志度線沿線から高松築港方面に直通する旅客需要は多くはなかったのだろう。
そうした歴史については本文や文献調査執筆の際にまとめることとして、このダイジェストでは深入りはしない。
近代的な駅ビルを伴った瓦町駅を出発して長尾線に入る。11時17分発。
瓦町駅の次の駅が花園駅であるが、現在の長尾線の起源に当たる高松電気軌道時代の線路は、この花園駅の前身である御坊川駅付近から北に向かって迂回しており、志度線の瓦町駅付近にあった出晴駅を基点としていた。現在の花園駅自体は高松電気軌道時代からの駅ではなく、100mほど南東の御坊川河畔にあった御坊川駅付近の拡張改良工事に伴って、現在位置にあった花園信号場を改良して駅として移転開業したものである。
いずれにせよ、出晴駅からの第一期開業区間は明治時代にまで遡ることができる。市街化の進んだ現在の様子からは往時を偲ぶことは出来ないが、ここには、四国の鉄道の黎明期の歴史が秘められている。それらは本文や文献調査で詳しく調べたい。
花園駅には11時24分着。11時30分発。21.6㎞であった。
この花園駅から長尾駅までの区間は1912(明治45)年4月30日の開業である。元山駅本屋は近代化産業遺産に指定されており、予備知識なく現地を訪れた私でも、一見して、その佇まいに魅力を感じたものだった。
続く水田駅は前後区間の高架化事業に伴って高架駅となっている。ローカルな琴電沿線にあって、近代的な佇まいが特徴的で、高架の駅上からは特徴的な屋島の姿が一望できる。
長尾線は線内に車両基地を持たず、琴平線の仏生山駅に隣接した仏生山車両所がその役割を担っているが、平木駅には留置線があり1編成が留置されていた。
白山駅では駅に隣接した白山神社の鳥居に招かれて同神社にもお参りした。
讃岐平野は屋島や五剣山、五色台のほか、飯野山など平地に忽然と立ち上がる円丘状の地形が散在しており特徴的だが、これらの多くが神社を伴って居り信仰の対象となっている。地形学的には火山の痕跡でもあるわけだが、今日の瀬戸内からは火山を想起しにくいため、神秘的な印象も受ける。
この白山もまた、そうした円丘の一つで、山頂には石鎚神社と龍王社が祀られている。山麓の白山神社は、この白山全体をご神体としていることは明らかだ。
今回は神社の参拝のみで先に進んだが、次にこの地を訪れる際は、白山山頂も訪れてみたい。
地名の由来に興味が湧く公文明駅を過ぎれば、終点の長尾駅。1面1線に留置線1線を備えた終着駅は、車止めの向こうに通りを挟んで住宅が建て込んでおり、「これ以上進むことはできません」といった風情で佇んでいる。
14時29分着。39.7㎞。高松港からは21.8㎞、3時間27分の行程だった。
歴史的な詳細は別にまとめることとするが、長尾線が走る東讃岐は、金刀比羅神社を擁して古くから栄えていた西讃岐と比べて、交通の便に遅れをとっていた。その遅れを挽回すべく、高松~長尾間で計画されたのが高松電気軌道という前身会社であった。
長尾駅が四国霊場第八十七番札所である長尾寺に突き当たる線形で設けられているところを見ても、この路線が長尾を終着駅として定めたのは、この長尾寺詣での便宜を図る意図があったのだと私は理解していた。
金刀比羅神社の門前町である琴平と丸亀との間を結ぶ讃岐鉄道が、四国全体で2番目に開業した鉄道だったこと、この後巡る志度線もまた、志度寺という札所に至る線形で敷設されていることからも、上記の類推は強ち的外れではない。
しかし、この長尾駅の位置に関しては、長尾地区の東町、西町の間で争いがあったことが、琴電の社史「60年のあゆみ」に記載されている。詳細には踏み込まないが、駅の設置位置を巡る争いの妥協の産物として現在位置に長尾駅が設けられ、その結果、地区の住民全体にとって鉄道利用が不便なものとなった上に、東方への路線延長が難しくなったのだと言う。
こうした事例は全国各地で見られたが、歴史的な物語にとどまらず、今日に至っても繰り返されている。ヒトは自らの歴史に学ぶことができない生き物なのかもしれない。
長尾駅発14時33分。
この後、駅の近傍にある長尾寺にも立ち寄った。大型観光バスが停車しており、お遍路の団体がガイドの案内を受けている最中。その人だかりを避けて写真を撮影し、一路、志度駅へと向かうのだが、その前に第八十六番札所である志度寺にも立ち寄る計画としている。
こうした旅程を自由に設計できるのは「ちゃり鉄」ならではの楽しみだ。
長尾寺、14時35分着、14時39分発。40㎞。
長尾駅から志度駅までの計画距離は7.2㎞であったので、徒歩の旅人であれば、2時間弱の距離である。我が「ちゃり鉄22号」では長尾寺から志度寺の間を7.6㎞、29分で結んだ。
志度寺には15時8分着、15時21分発。47.6㎞。
ここでも、先ほどとは別のお遍路さんの団体がガイドの案内を受けており、寺を辞して出た辺りで、先ほど長尾寺に居た団体がやって来るのに遭遇した。
琴電志度駅には15時23分着。15時28分発。48.2㎞。
ここからは琴電の志度線に入る。
この志度線も、元々は東讃岐電気軌道という独立した会社で今橋~志度間の第一期区間を1911(明治44)年11月18日に開業させている。既述のとおり高松電気軌道による出晴~長尾間の開業が1912(明治45)年4月30日であったので、東讃岐電気軌道は約半年早く開業したことになる。
この東讃岐電気軌道は、元々は琴平~志度間を結ぶ讃岐電気鉄道という社名で鉄道敷設免許申請を行ったのが始まりだ。当時の国鉄讃岐線と並行することを理由にこの免許申請は許可されなかったが、その後、東半分の高松~志度間で再度免許申請を行いこれが認可。会社設立の段階で、同名他社が存在する事から社名を東讃岐電気軌道と改めたのだという。
この鉄道は終点の志度を越えて現在の大川町田面付近まで延伸する計画を持っていたようであるが、それは実現することなく、長尾線と同じように志度寺の門前で終着駅を設けて落ち着いた。
沿線には屋島、八栗寺といった著名な観光地を擁していることもあり、それらの観光開発も早くから画策していたようで、今でも海岸風景が美しい塩屋~房前駅間では、当時、房崎海水浴場が開かれていたと言う。
この房前駅付近での野宿も検討したのだが、翌日以降の行程に大きく影響してしまうので、今回は見送った。下見もかねて周辺環境はある程度確認できたので、次回、この付近を訪れる際には、房前駅付近での野宿も計画してみたい。
八栗駅付近にあるクア温泉屋島でひと風呂浴び、琴電屋島駅には17時49分着。57.6㎞。
ここで上下列車の交換風景を撮影。志度行きの普通列車からは家路を急ぐ多くの利用者が下車してきた。
17時57分発。
既に日が暮れてしまったが、ここから屋島山上まで一辺倒の登り坂を克服。山上の園路とGPSデータのルート計画とが不整合を起こしており、暮れた山上でしばらく右往左往し、目的の東屋には19時21分に到着。65.6㎞であった。
雪が舞い厳しい寒さに見舞われた昨日とは異なり、屋島の夜は穏やかだった。
山上園地までは車で上がってくることもできるが、そこから先は一般車両が通行できない園路なので、私が野宿先に選んだ東屋にも人がやってくる気配はなかった。
野宿の準備や夕食を済ませた後、カメラを担いで屋島山上の南側を小一時間散策。
かつての屋島ケーブルの山上駅の跡を訪れたり、西尾根からの夜景を撮影したりした後、21時半頃には野宿地に戻って眠りについた。
ちゃり鉄22号:4日目:屋島展望台-琴電屋島=潟元-長崎鼻-竹居岬-八栗寺-潟元=瓦町=公園前=高松駅前-高松築港=琴平-琴平金山寺山展望台
4日目は屋島展望台を出発し琴平の金山寺山展望台までを走る。この途中で長崎の鼻や庵治半島を周回する計画としたので、琴平線の走行時間帯が遅くなり「ちゃり鉄」の計画としては、あまり良いものにはならなかったのだが、そこは妥協した。
この旅では、四国本島内での野宿日数は2日。本州岡山県の児島半島での野宿日数も2日で、あとは本島、直島、豊島で各1日、小豆島3日、姫路の小赤壁公園1日という配置。
四国本島内での滞在日数が少ないが、走行対象としたのが私鉄の高松琴平電鉄だったため、停車駅の数が多く各路線の走行には時間を要した。その分、「途中下車」が少なくなってしまったので、志度線沿線にあるこれら二つの小半島を周遊することとして沿線探訪を楽しむことにした。この他、5日目には瀬戸大橋の四国側に位置する沙弥島・瀬居島も巡る計画としている。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
比較的平坦な讃岐平野を走る中にあって、43㎞~49㎞辺りに鋭いアップダウンが見えている。
これはルート図でも記した庵治半島の八栗寺へのアップダウンだ。
屋島山上への登降と同じくらいの標高差があるものの、山麓からの距離はかなり短いので、ここは直登できないくらいの急勾配であることが予想された。現地では行程の遅れの影響もあって一旦はスルーしようと思ったのだが、結局は予定通りに急登を越えて訪れることにした。
その分、後行程を圧迫したのだが、お昼頃からは天気が回復傾向だったこともあり、この日全体のルート設計が良くなかった割に満足のいく行程となった。
朝は屋島山上探訪から始まる。
後行程がタイトなため、夜明け前に行動を開始して、野宿地がある南嶺から瀬戸内海を望む北嶺に向かい、周回路を周ってから山を降る計画だ。5時53分発。
夜明け前の行動なので、日中の瀬戸内海を見下ろすことは出来ないが、逆に夜明けの瀬戸内海の姿を眺められる。北嶺側にも幾つかの展望台があるのでそれらの下見も兼ねていた。
屋島山上には各所に展望台が設けられており、それらの間を舗装された周回路が結んでいるので、気楽に散策する分には支障はない。但し、南嶺と北嶺の間は屋島隧道上の鞍部を挟んで急勾配のアップダウンがある他、ところどころ、唐突に階段が出現するので、そこは自転車を担いで乗り越える必要がある。
北嶺の北端には遊鶴亭と呼ばれる展望台があり、瀬戸内海が一望だ。眼下には長崎の鼻の岬が突き出し、釣り人のヘッドライトが動いている。時折、その話し声が意外な近さで響いてくる。
正面の海上には男木島、その左手には女木島が横たわっている。どちらも有人島なので、島の明かりが明け行く空の下で明滅している。両島の間の遠くに見えるのが直島、男木島の右手奥は豊島だろう。
山頂では山座同定という楽しみがあるがここでは島座同定。
遊鶴亭は屋根付きの展望台なので、気象条件が良ければのんびりと滞在するのにもよさそうだ。山上の駐車場からも遠く、夕方から早朝にかけては訪れる人も少ない。
遊鶴亭、6時35分着。6時39分発。3.8㎞であった。
こんな時間に訪れる人は居ないだろう思っていたが、北嶺東側を辿るうちにヘッドライトを装着したトレッカーとすれ違った。地元の方だろうが、屋島山上まで車で来て、夜明けの瀬戸内海を眺めに歩いてきたのかもしれない。私ならお決まりのランニングコースとして使うだろう。
この後、北嶺東側の展望台にも立ち寄り、青紫色に色付いた空をバックに佇む五剣山の威容を眺める。岩稜の下の高いところに見えている照明が八栗寺。現在地とほぼ同じ高さだが、前後の登降の距離は向こうの方が短いので、かなりの急勾配が予想される。
この後、屋島山上の駐車場に戻り、車道を経由して屋島を降る。
屋島山上と山麓とを結ぶ車道は屋島スカイウェイとも呼ばれる観光道路で、かつては有料道路でもあった。それ以前の屋島観光は屋島ケーブルを利用していたが、ドライブウェイの開通とともに観光客は自動車に移り、更には、屋島観光そのものが衰退したこともあって、2004年10月16日に営業休止の後、2005年8月31日に正式に廃止となっている。また、屋島スカイウェイ自体も、屋島の観光活性化を目的に、それまでの民営有料自動車専用道路から無料市道化の取り組みが進められ、社会実験などを経た後の2018年5月26日に、歩行者や自転車も含めた無料での一般供用が始まっている。
こうした流れは全国各地で見られるが、それは、高度経済成長期の大規模観光開発の残滓が一掃され、新しい時代の観光へと転換していくプロセスのように思われる。
降り途中で停車して五剣山の写真を撮影したりしながら、山麓では屋島神社にもお参りした。昨日の登りでは日没後だったこともあって素通りしたためだ。
その後、琴電屋島駅に降って「ちゃり鉄」を再開する。7時23分着。7時26分発。10.4㎞。
土曜日ということもあって琴電屋島駅に人影はない。駅前から屋島を見上げると、山麓の登山口駅から延びていたケーブルカーの軌道跡が、今でもはっきりと刻まれているのが目に入った。今回の探訪予定には含んでいなかったのだが、この後、長崎の鼻と庵治半島を周回して再びこの付近を通過することになるので、その際に、山麓の登山口駅跡を訪れてみようと思う。
琴電屋島駅からは一駅隣の潟元駅まで「ちゃり鉄」。ここで「途中下車」して長崎の鼻と庵治半島を周回する。
潟元駅からは屋島の西麓を進み、長崎の鼻には8時8分着。16.4㎞。
遊鶴亭から見下ろした際には、この山麓に道路があるようには見えなかったが、樹林に隠れるようにして県道150号屋島屋島公園線が半島を一周している。長崎の鼻へは県道から脇に入り未舗装の林道を少し進む。
行き止まりに広場があり、その手前の丘の上に木里神社が鎮座している。
広場には数台の車が停まっていた。山の上から釣り人らしき人影と話し声が聞こえていたのでその車かと思うが辺りに人影は見えない。ところが自転車を停めているうちに車から若い男性らが降りてきた。どうも車中泊をしていたらしい。これから釣りを始めるのかもしれないが、釣りの装備を持っているようには見えなかった。
広場からは遊歩道を伝って岩礁の先端付近まで降りることができる。この岩礁の上に登って瀬戸内海の水面を間近に感じながら、沖合に浮かぶ女木島、男木島、大島を眺める。薄曇りでスッキリとはしなかったが、やはり海辺の風景は心地が良い。釣り人の姿はなく、いつの間にか、広場の方からほら貝を吹く音が響きだした。
このままのんびりと過ごしたい気持ちを抱きつつも、今日の行程は始まったばかり。先に進むことにする。振り返れば屋島北端の遊鶴亭がこちらを見下ろしていた。
広場に戻る途中でほら貝を吹く男性の姿が目に入るが、先ほど車から降りてきた男性達とは違う人だった。広場に戻ると件の男性達はウォーターサーバーを車外に持ち出して、「これ、何の音?」などと言いながら顔を洗っていた。
少し戻って木里神社にお参りした後、長崎の鼻を出発。8時26分。
長崎の鼻から先は屋島半島の東側を進み立石港の入り江を回り込む。その後、今度は庵治半島の西側に沿って再び北進し、庵治半島北端の竹居岬を目指す。ここは、庵治半島北端であると同時に、四国本土の最北端でもあるという。
半島北西端の蛭子神社に立ち寄ってから竹居岬を目指すのだが、この手前にあった庵治集落内の皇子神社は姿は見えどもアクセス路に入ることができず断念。GPSに示されたルートの位置に道がなく、錯綜した集落内の小道で正しいルートにたどり着けなかった。昨夜の屋島でもそうだったが、今回の旅では2度目の不整合である。
半島北側に入ると江の浜が広がり、少し雲が薄れてきたこともあって、海の色が鮮やかになってきた。
国土地理院の地図上で見る四国本土最北端は竹居集落西側の漁港付近の岬で17.2mの水準点が記された付近だ。その東南東に位置する竹居観音寺付近の岩場には、「竹居観音岬」という地名が記されている。
「竹居岬」という時に、どちらを指すのが正確なのかはよく分からないが、少なくとも竹居観音のある岩礁が四国最北端である、というのは、不正確であろう。
私はこのいずれも訪れてみた。水準点のある岬には恵比須神社が鎮座している。目の前は岩礁で、その先には無人島の稲毛島が横たわる。昨日、国際両備フェリーで稲毛島の沖合から眺めた風景を、今度は逆に眺めていることになる。
ここには観光を意図したものは何もないが、却ってそれが好ましい。
竹居観音岬は岩礁に桟道が設けられ、窟屋に観音が祀られている。線香も炊かれていたので中に入ろうとしたら、奥の暗がりで一心にお経を唱える男性の姿があったので、入り口を覗くだけにした。
天候が回復してきたこともあって、穏やかな瀬戸内海の風景に心が和む。
時刻表に沿って定刻に出発するのが惜しくなるような、そんなひと時だった。
竹居観音岬9時52分着、10時2分発。32.6㎞だった。
竹居岬を出た後は庵治半島東岸を進み半島基部に戻る。左手には高島が浮かび、その奥には小豆島の三都半島付近が大きな影を横たえている。高尻集落付近では山手に突兀とした威容を誇る五剣山が顔をのぞかせる。
そのまま海沿いを進めば昨日通った塩屋駅から房前駅方面に出るが、途中で半島基部の丘陵地帯を抜けて西進する。
竹居岬の出発予定時刻は8時52分だったため、岬付近で既に1時間10分の遅れ。
八栗寺への登りがかなりの急登となることは分かっていたので、この日の後半行程への影響を考えて、一旦は、八栗寺を訪れずにこのまま高松方面に進もうとしたのだが、右手に横たわる山並みを見ていると気が変わった。
斜度が恐らく20%前後に達するであろうルートに挑むのであるから、気の変わり方としては突飛ではあるが、この日は天気も良いし突兀とした山並みを、八栗寺の境内から間近に眺めてもみたかった。
八栗寺に到着する頃には天候もすっかり回復しており、山岳霊場の厳かな雰囲気の中にも、柔らかな日差しの心地よさがあった。
この日は土曜日だったこともあり、境内にはケーブルカーで訪れたらしき大勢の観光客の姿がある。子供連れやカップルの姿も多く見かけた。
この八栗寺も昨日訪れた長尾寺や志度寺と同じく、四国霊場八十五番札所だ。昨日訪れた屋島山上には屋島寺があり、こちらは四国霊場八十四番札所。従って、この周辺にはお遍路道が設けられており、ところどころで車道を横切っている。
私は南南東の源氏ヶ峰方面の県道145号線側からアプローチし、南西の県道146号線側に降ったが、八栗寺の参道で言うと、裏参道から表参道に抜ける形となった。
なお、この八栗寺に至るルートが厳しいことは予想していたが、実際、登りの裏参道側は最大斜度21%、降りの表参道側は最大斜度27%であった。「ちゃり鉄」の旅としては「ちゃり鉄10号」で越えた大阪奈良府県境の暗峠の最大斜度31%に次ぐ急勾配のルート。ケーブルカーが並行するのであるから、それは当然である。
表参道側からはこの27%を登り切った最後に数十段の階段があるため、自転車で抜けるなら裏参道側からアプローチし、階段部分は担いで降るのがよいと思われる。ツーリング装備の自転車なら尚更だ。
八栗寺着、11時18分。発11時42分。46.1㎞であった。
八栗寺を出発した後は、朝、考えていた通り、予定を変更して屋島ケーブルの屋島登山口駅跡を訪れ、その後、潟元駅に戻って「ちゃり鉄」を再開。
高松市街地の中を走り抜けながら、東讃岐電気軌道時代の起点駅でもあった今橋駅を過ぎ、頭端式構造となった瓦町駅には13時4分に到着した。57.3㎞。
志度線の旅はこれで終わりなのだが、このまま高松築港駅には向かわずし、市内に存在した廃線跡を辿りながら高松築港駅に向かう。13時6分発。
瓦町駅付近から志度線の旧線が栗林公園まで伸びていて、そこに公園前という駅があった。更に、公園前駅から路面電車の市内線が高松駅前まで伸びていたのだが、いずれも、市街地の再開発などに伴って一切の痕跡を留めていない。
想定される線形通りに走ることはできないし、駅があったと比定される場所を訪れても、往時を偲ぶことは難しいが、一通りそのルートを走り、町行く人々に怪訝のまなざしを向けられながら、写真を撮影して周った。
その後、高松築港駅に到着。13時53分。63.2㎞であった。
予定では12時59分着だから54分の遅れ。八栗寺を経由したにもかかわらず、竹居岬での遅れを若干挽回できていた。
さて、高松に来ると讃岐うどんを食べることにしているのだが、この日はJR高松駅前で行列の出来ているお店があったので、そこで手早く食べることにした。しかし、店の前に自転車を停めようとすると、ちょうど通りかかった店員が「店員の通行の邪魔になるからそこに置くな」と言ってきた。他の場所に置こうにも、店の前に乱雑に置かれた他の客の自転車が邪魔でまともに置けない。その自転車を片付けようとするが、店員は見ているだけで知らん顔をしている。
その態度を見ていると、この店で食べようという気持ちも失せてしまったので、「結構です」と断って高松築港駅まで来た。うどんを食べそこなったが、何処かで代わりに食事を調達して、走りながら頬張ってもよい。
高松築港駅は13時57分発。駅の近くの踏切から駅構内を望遠撮影して、次の片原町に向かおうとしたのだが、道中のビルの1階に別のうどん屋を見つけた。
幸い、こちらは混雑していなかったので、ここで食べていくことにした。
うどんで腹を満たし満足して出発。
片原町駅には14時22分着。64.4㎞。食事を済ませたにもかかわらず高松築港駅から25分で到着することができた。
片原町駅は商店街の中にあって、アーケードの下を車両が走り抜ける独特の風情がある。こういう駅の姿も悪くないと思いつつ、手早く撮影は済ませて次に進む。琴平線の途中で日が暮れることは分かっているし、元々、沿線各駅の取材時間を5分でルート設計していたので、各駅の停車時間にはあまり余裕はない。14時23分、片原町駅を出発した。
琴平線の線路はこの先車両基地のある仏生山駅まではほぼ一直線に南南西に進んでいくが、仏生山駅の先で西北西に転じる。
空港通り駅では行く手に御厨富士の別名を持つ六ッ目山を眺めながら一直線に伸びる線路を行く琴平行きの普通列車を見送る。
空港通り駅には15時47分着、15時52分発、75.5㎞。
この付近から西向きに進むことになるが、既に太陽もかなり西に傾いており、郷愁溢れる田園風景の中を進むことになる。
戦前には琴電経営の遊園地があったという岡本駅を過ぎ、丘陵地帯のアップダウンを過ぎると、挿頭丘駅に到着。16時42分。83.5㎞。
駅のホームは改修工事中で重機も入っていたが、この日は休工中。愈々強くなった西日は讃岐平野を金色に染める。その中を二条の軌道がまっすぐに伸びている光景が印象的だった。
ここでいったん「途中下車」し、1㎞ほど北にあるかざし温泉に立ち寄る。挿頭丘駅を16時47分に出発し、かざし温泉には16時55分着。84.5㎞。
かざし温泉は古き良き銭湯といった感じで、地元の人々が三々五々集まってきていた。
今日の目的地の琴平にも温泉街があり、少々値が張るものの日帰り入浴を受け付けている旅館もある。しかし、いずれも日帰り入浴の受付終了時間が早く、「ちゃり鉄22号」の旅程では、受付時間内に入浴することができなかった。
野宿地が温泉街というのが野宿のロケーションとしては好ましいのだが、なかなか、思い通りにはいかない。
琴平温泉で温泉に入れないとなると、そこまでの経路で入浴することになるのだが、沿線で探してみて見つけたのがかざし温泉だった。
琴平までは20㎞ほどあり、残りの駅数も10駅と、前途は長いのだが、ひと風呂浴びるとその夜の疲れの取れ方が違うように感じる。
この日は、手早くといった風情で入浴を終え、17時39分にはかざし温泉を出発。既に日没時刻を過ぎており、辺りには夜の帳が降りてきていた。
ここからは琴平への「家路」を急ぐ。
旅先の夜なのだから「家路」と表現するのはおかしいが、テントや野宿に慣れ親しんだ身としては、その日の目的地に到着して野宿の体制に入ると、「家」に帰った心地になるのである。
暮れなずむ讃岐路を残照を追いかけるようにして西進するが、駅ごとに空に残る残照は赤みを失っていく。
ヘッドライトを灯して走行するが、街中では対向車のヘッドライトで眩惑し路面状況が読みづらいため、走行速度は上がらない。
夜遅くなるため外食してしまうことも考えたが、あまり食指が動く店もなく、走り続けることとなった。
琴平線随一の名駅舎をもつ滝宮駅には18時27分着。92.5㎞。
すっかり静まり返った駅に人の姿はなかったのだが、バイクで訪れたらしいライダーが、自慢のバイクを駅前に置いて撮影に余念がない。
こちらはその姿がなくなるのを待って駅舎の撮影を行う。18時35分発。
ここからも意外と距離を感じながら進み、丸亀市とまんのう町との境にある峠の羽間駅には19時30分に到着した。101.7㎞。
ここは琴平線最高所でもある。
羽間駅は19時35分発。
ここから降りに転じ、途中のスーパーで食材を入手した後、終点一つ前の榎井駅に19時54分着。104.7㎞。先を急ぎたいところだが、間もなく列車がやって来る時刻だったので、その発着を待つ。
駅には若い男性が一人列車待ち。高松方面に向かうのかと思いきや、やってきた琴電琴平行きの普通列車に乗り込んでいった。
誰も居なくなった榎井駅を、月が明るく照らしていた。そんな駅の姿を眺めて暫し憩う。
昼間は何でもないような駅も、夜になるとハッとするような姿を見せてくれることがある。
20時1分発。
JR土讃線の琴平駅を経由して、琴電琴平駅には20時13分着。106.6㎞であった。
昼間は観光客の姿が多い琴電琴平駅前も、この時刻は、すっかり静まり返っていた。
今日の目的地はこの琴平温泉街を見下ろす高台の金山寺山展望台である。琴電琴平駅からは2㎞ほどの距離があるので、駅の撮影も程々に出発する。20時16分。
琴平温泉街では浴衣で散策するする人の姿も見かけたものの、季節柄もあって人通りは少ない。
金倉川沿いの歓楽街にはソープランドのネオンサインが輝いている。金比羅詣でと遊郭。廃れつつあるとはいえ、昔から変わらぬこの町の佇まいなのであろう。
温泉街からの急登を克服し、最後の最後に待ち構えていた階段は、荷物をばらして3往復して克服。
温泉街を一望する展望台の東屋には20時40分着。108.5㎞であった。
かなりハードな一日ではあったが、天候に恵まれたこともあり、総じて満足のいく旅路となった。
野宿の支度を済ませたら手早く夕食。東屋にはベンチや椅子があるので、そこに腰掛けて温泉街の夜景を眺めつつ、疲れた体に栄養を取り込んだ。
この夜も穏やかで、寝袋に潜り込むとすぐにやってきた睡魔に誘われ、心地よい眠りに落ちたのだった。
ちゃり鉄22号:5日目:琴平金山寺山展望台-飯野山-宇多津=坂出-沙弥島-瀬居島-丸亀城ー丸亀港~本島港-笠島-観音寺-屋釜海岸
5日目は四国本島の「ちゃり鉄」を終えて、かつての丸亀~下津井航路を偲ぶ船旅で本島に渡る計画だ。
昨日で高松琴平電鉄沿線は全て走り終えており、今日はJR本四備讃線の四国側駅である宇多津駅、坂出駅を訪れた後、瀬戸大橋のたもとにある沙弥島、瀬居島を巡りながら、本四備讃線のデルタ線部分を走る。
瀬戸内海の海上部分は走ることができないので、その部分は航路で繋ぐ計画である。
琴平から丸亀、坂出に至る地域は四国の鉄道黎明期にいち早く鉄道網が築かれた地域で、今日残っているJR土讃線、予讃線、高松琴平電鉄琴平線以外にも、複数の鉄道が運行されていた。琴平と坂出を結ぶ琴平急行電鉄や、琴平と丸亀を結ぶ琴平参宮電鉄がそれである。
今日、それらの路線は廃止されており、廃線跡を訪ねることしかできない。
今回の「ちゃり鉄22号」では、これらの鉄道の廃線跡を辿る計画は無理に取り込まず、またの機会に委ねることとした。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。
前半部分の断面図には2㎞付近、16㎞付近に、それぞれ、鋭角のピークが現れているが、これらはいずれも徒歩の区間。2㎞付近のものは金刀比羅神社の参道往復で、16㎞付近のものは飯野山の登山だ。
後半部分は本島の島内探索でのアップダウンが出ている。最後、100mを越える部分があるが、これは観音寺を訪れた時のもので、ここも自転車での直登を諦め徒歩で往復した。
1日目から4日目まで、行程の最後に急登をこなして展望台に上がって野宿するというスタイルが続いたが、この日は本島北部の矢釜海岸で野宿したので最後は降りだった。
この日の行程の鍵を握ったのは本島汽船のダイヤである。丸亀港から本島港に渡る場合、フェリーを利用するとなると丸亀港10時40分発、本島港11時15分着の便か、丸亀港15時30分発、本島港16時5分着の便のいずれかを選ぶことになる。これ以外にも数便運航されているが、いずれも、時間帯が合わない。
また、牛島にも寄港する小型旅客船も運行されており、こちらは丸亀港12時10分発、本島港12時30分着というダイヤのものがあるのだが、二輪車は積載不可とある。船体写真を見る限り自転車は積み込めそうだが今回は候補から外した。ゆっくりフェリーで船旅を楽しみたかったからである。
フェリーに絞るとなると、上記いずれを選ぶかという問題が生じるが、午前便は四国側での行動に余裕がなく、入浴を済ませていくこともできない。本島には日帰り入浴施設はないので、四国側で済ませておく必要があるのだ。
そういう事もあって、本島での行動時間に余裕がなくなるが、午後便に乗船する計画、ほぼ一択という状況であった。
そこから逆算して四国本島内での行動計画を立てることになるため、この日の出発時刻は6時の予定となった。勿論、夜明け前。それも1時間前である。6時に出発するなら起床は4時頃になるが、昨日が遅くなったので、さすがに眠たい。
うたた寝したい気持ちを抑え込んで行動開始した。展望台発5時58分。
この日は、夜明け前に行動開始してまずは金刀比羅神社を参拝する。神社の開門は6時とあるので、その直後に参拝することにしたのである。
参道は長大な階段なので自転車では上がれない。車道も通じてはいるが、一般向けに解放されているかどうかが分からないし、ここは参道を歩いて参拝したい。
そこで、参道脇のトイレ横に自転車を駐輪して徒歩で参拝することにした。6時6分着。6時9分発。0.8㎞。
展望台から山を降っている間に、開門を告げる太鼓の音が山の上の方から響いてきた。
私は2022年12月に乗り鉄の旅で四国を訪れた際、JRの琴平駅から金刀比羅神社を参拝しようとしたことがあった。その際は、乗り継ぎの40分間で、駅から本殿を往復するという無理のある計画だったため、往復とも小走りで参拝したものの本殿までは辿り着くことができず、書院付近で引き返した。
今回はその心配はないが、真っ暗な夜明け前。土産物屋が立ち並ぶ参道はひっそりと静まり返り、人の姿はなかった。
大門を越えると神社の境内に入るが、朝の早い地元の人や観光客が、本殿参拝を終えて降って来るところだった。開門前から大門前まで上がり、開門と同時に参拝してきた方々であろう。自分が一番乗りかと思っていたが、上には上がいる。
その数名とすれ違った後は、降りてくる人の姿はなく、勿論、追いついてくる人もなく、灯りに照らされた境内を静かに登って本殿にたどり着いた。
6時30分着。1.8㎞。途中で写真を多数撮影してきたので、意外と時間がかかった。
折角だから奥宮も参ろうと進んでみると、こちらは猪害多発のため9時まで閉鎖とある。
残念ではあるが仕方ない。別の機会、日中に訪れて参拝することとして、今回はここまでで引き返すことにする。6時38分発。
降りに入り大門を抜けた辺りでは随分明るくなっていた。参道の登り口には7時に到着。3.1㎞。ここでトイレを済ませて出発。7時7分発。