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ちゃり鉄24号:旅の概要
- 走行年月
- 2025年1月~2月(9泊10日)
- 走行路線
- JR路線:山陽本線(和田岬)線
- 私鉄路線等:神戸電鉄粟生線・神戸高速線・有馬線・三田線・公園都市線、神戸市営地下鉄北神線・西神・山手線・海岸線、神戸新交通ポートアイランド線・六甲アイランド線、北条鉄道北条線
- 廃線等:JR鍛冶屋線、国鉄高砂線・有馬線、別府鉄道土山線・野口線、三木鉄道三木線、淡路交通鉄道線、篠山鉄道鉄道線
- 主要経由地
- 岩座神棚田、六甲山系、布引の滝、淡路島一帯
- 立ち寄り温泉
- 加古川温泉みとろ荘、三木竹乃湯温泉、由良増田湯、三原温泉、洲本東光湯、慶野松原荘、松帆の湯、湊河湯、有馬温泉金の湯、有馬温泉銀の湯、福知山温泉
- 主要乗車路線
- 自宅発着
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:906km/総累積標高差+16810m/-16813m
- 1日目:自宅-鍛冶屋=西脇市-北条町=網引-加古川温泉みとろ荘-網引
(140.0km/+2030m/-2023m) - 2日目:網引=粟生=鈴蘭台-谷上=新神戸=西神中央-三木城跡
(106.9km/+2212m/-2199m) - 3日目:三木城跡-三木=厄神-加古川=高砂港-野口=別府港=土山-明石港~岩屋港-生石公園
(106.1km/+1122m/-1121m) - 4日目:生石公園-熊田海岸-土生海岸-亀岡八幡神社-三原温泉-諭鶴羽山-土生港~沼島港-沼島おのころ園地
(73.3km/+2276m/-2276m) - 5日目:沼島おのころ園地-上立神岩-沼島港~土生港-福良=洲本-中浜公園
(69.5km/+1604m/-1604m) - 6日目:中浜公園-柏原山-由良海岸-洲本城跡-鮎屋の滝-福良-慶野松原
(85.7km/+2016m/-2016m) - 7日目:慶野松原-伊弉諾神宮-ヒヤリ峠-摩耶山-江埼-岩屋港
(79.6km/+1459m/-1459m) - 8日目:岩屋港~明石港-新長田=三宮・花時計前-三宮=神戸空港-マリンパーク=住吉-和田岬=兵庫-新開地=湊川-会下山公園
(87.8km/+708m/-709m) - 9日目:会下山公園-湊川=有馬温泉-有馬=三田=有馬口-有馬温泉
(61.6km/+1785m/-1378m) - 10日目:有馬温泉-横山=ウッディタウン中央-篠山口=篠山町-おおたわ峠-福知山温泉-自宅
(96km/+1598m/-2027m)
- 1日目:自宅-鍛冶屋=西脇市-北条町=網引-加古川温泉みとろ荘-網引
- 総走行距離:906km/総累積標高差+16810m/-16813m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄24号:走行ルート


ちゃり鉄24号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
2025年3月9日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄24号:ダイジェスト
2025年第1回目の「ちゃり鉄」は地元福知山の自宅発着で丹波・播磨・神戸・淡路を巡る9泊10日の旅とした。
2024年3月~4月に実施した「ちゃり鉄23号」では現地1日目の走行距離5㎞に満たない地点で後輪のスポークが破断した上に、何とか誤魔化しつつ走った現地2日目に至って、かねてから不調が続いていたリアディレイラーの変速不良まで悪化し、走行中の変速でチェーン逸脱と後輪ロックを生じる極めて危険な状況となったため、やむなく自転車での旅を中止したのだった。
更に、乗り鉄の旅に切り替えた翌3日目には撮影用のデジタル一眼レフカメラが故障し撮影も不可能な状態に。
結局、乗り鉄の旅も諦め、購入した青春18切符も使い切れないまま、旅そのものを中止して帰宅するという前代未聞の「ちゃり鉄」となった。
あれから1年弱。
初代「ちゃり鉄」号は引退させることとして、これまでのトラブルの経験を踏まえて二代目「ちゃり鉄」号を購入した。当初はオーダーメイドも考えたが、納期や予算の関係もあって残念ながら既製品を購入することになった。
とはいえ、購入価格は初代の3倍。ディスクブレーキ搭載のグラベルロードを選択したので、カンチブレーキのクロスバイクだった初代と比較すれば、かなりのアップグレードとなった。
この間、会社の業務量が増加してきたこともあり執筆活動にも支障を生じるようになっていたが、何はともあれ旅そのものを再開するのが第一目標。
キャリアやGPSなども含めた装備・携行品も大幅に更新し、ようやくこの日を迎えることが出来たのは幸いだった。
復帰第一号は慣れないディスクブレーキ車での真冬の走行という事もあって、丹波・播磨から神戸・淡路島を走るコースを選んだ。輪行が不要となるように自宅発着できることや、積雪雨天といった悪天候のリスクが少ないこと、いざという時に自宅や実家に戻りやすい場所であること、などを重視した。
昨冬の「ちゃり鉄22号」では備讃地域と瀬戸内海島嶼群を巡ったので、意図せず2年続けて同じ地域を走る事になったが、それはそれでよしとする。
日程も「ちゃり鉄」にしては短い9泊10日。
真冬は日照時間が短いこともあって、1日の行動距離を100㎞前後に制限する形で、比較的余裕のある行程計画とした。
ちゃり鉄24号:1日目:自宅-鍛冶屋=西脇市-北条町=網引-加古川温泉みとろ荘-網引
初日は福知山にある自宅から丹波北播を南進し、北条鉄道北条線の網引駅を目指す行程。途中、榎峠、播州峠という二つの峠を越えるとともに、岩座神棚田を訪れるルートとした。
走行対象はJR鍛冶屋線跡と北条鉄道北条線。
この辺りは「ちゃり鉄7号」の旅で既に走行済みだが、今回は逆から走る形での再訪となった。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


断面図では50㎞までの前半に顕著な3つのアップダウンが表れているが、スタートから順に榎峠、播州峠、岩座神集落となる。こうしてみると、岩座神集落付近が最も標高が高く前後の勾配も厳しい。この集落には棚田があるのだが、棚田は一般的に急傾斜地に構成されることが多く、重積載の「ちゃり鉄」号で訪れるのは大変なことが殆どだ。
中半以降は播磨路に入り、加古川水系に沿って緩やかに降っていくが、途中、JR加古川線沿線から北条鉄道沿線に向かうための丘陵越えがあり、これが断面図にアップダウンとして現れている。標高差が小さいので前半のアップダウンと比較して楽なように見えるが、小刻みなアップダウンはむしろ負荷が高い。
その丘陵に滝野温泉「ぽかぽ」があるのでこの日の立ち寄り温泉としていたのだが、現地に行ってみると訪問の数日前から工事で臨時休業となっていた。そのため「初日から温泉無しか」と悄然としつつも予定より1時間以上早く網引駅に到着したのだが、片道10㎞の先に加古川温泉「みとろ荘」があることが分かったので、往復20㎞という遠距離ではあるが足を延ばすことにした。
結果的に、110.7㎞の計画距離だったところ140㎞の実走距離となり、行動終了時刻も予定より1時間ほど遅くなった。初日であるにも関わらず、日の出前から日の出後まで走るハードな一日であった。
自宅出発は夜明けの1時間半ほど前の5時20分過ぎ。真っ暗な中で前照灯5灯の効果確認などを行いながら榎峠を越えて兵庫県の青垣町に降った。降った頃には黎明を迎えており、澄み切った冷気が峠越えで熱を帯びた体を冷却してくれる。
榎峠は400番台国道らしい狭隘な峠だが、現在、山麓をぶち抜くトンネル工事が進められており、いずれは旧道となる運命だ。道路として維持されるのか廃道化するのかは分からないが、交通量僅少の積雪地の狭隘な峠道。やがては廃道化していき自転車で越えるのも難しくなっていくのだろう。
その未来予想図のような峠が播州峠で、ここもかつての国道でありながら、山麓のトンネル開通に伴い現在は廃道化が進んでいる。峠の出入り口は封鎖されているものの、登山の歩行者などが通り抜けられる空間が開いており通行止めの表示もなかったので、計画通り播州峠を越えて青垣町から加美町に抜ける。
峠に残された町域界の表示が往時を偲ばせる。



播州峠で加古川本流水系の青垣町から杉原川水系の加美町に入る。この杉原川を降っていくとJR鍛冶屋線の終着駅があった鍛冶屋に達する。そのまま鍛冶屋線の廃線跡に沿って降っていけば西脇市街地を経て西脇市駅に達しJR加古川線と合流するのだが、そのJR加古川線は加古川本流に沿っている。
こうしてみると杉原川も加古川水系であることが分かるのだが、加古川水系の鉄道網は、元々は、私鉄の播州鉄道に起源を持っており、播州鉄道は加古川水系の水運を置き換える形で敷設された鉄道だった。
鍛冶屋線は杉原川に沿っているが、今日、この後で走る北条鉄道北条線は万願寺川・下里川に沿っており、2日目に走る予定の三木鉄道三木線は美嚢川に沿っている。
また、加古川駅から高砂港までの間は高砂線が結んでいた。更に、高砂線の中間駅である野口駅と山陽本線の土山駅からは別府鉄道が分岐して、別府港までの間を結んでいた。
JR加古川線・鍛冶屋線、北条鉄道北条線、三木鉄道三木線、国鉄高砂線は、いずれも、播州鉄道に起源を持った路線であるが、播但鉄道時代に戦時買収によって国有化された後、それぞれにJR化、三セク化、廃止と命運を分け今日に至る。
幹となっていた加古川線ですら、西脇市~谷川間においては、存廃議論が発生するような状況である。
今回は「ちゃり鉄7号」に引き続きこの地域を走る事になるが、日程的に制約のあった前回とは異なり、沿線での「途中下車」にも重点を置くことにした。
その手始めに、播州峠から杉原川沿いを最短で降るのではなく、途中で岩座神集落に立ち寄り、棚田や集落の神社を訪れることにした。
この登りは殊の外厳しかったが、小雪舞う冬枯れの山里の風景の中を一人静かに走る事ができた。
五霊神社に立ち寄った後は一気に山を降るのだが、向かい風が強くて降り勾配なのに押し返される。
案外疲労感を抱きながら、「ちゃり鉄24号」最初の「ちゃり鉄」区間であるJR鍛冶屋線の終点駅、鍛冶屋駅には9時18分着。52.4㎞を約4時間で走ってきた。


JR鍛冶屋線は野村駅(現在の西脇市駅)から鍛冶屋駅までの間を結んでいた13.2㎞の路線だった。加古川線沿線の中核都市である西脇市の中心部を通る路線だったこともあり、北条線、三木線、高砂線と比較して最も輸送密度が高い路線ではあったが、結果的には第三セクターに転換されることもなく、JR化後すぐに廃止されている。輸送密度向上に貢献したのが野村~西脇間の1駅間だけだったことも災いしたが、地元自治体や沿線住民の意識の問題もあったのだろう。
ただ、鍛冶屋線の廃線跡は鉄道記念館や記念公園、サイクリングロードとして比較的痕跡を留めており、地元から見放された路線という印象も受けない。
鍛冶屋駅跡、市原駅跡では旧駅舎を転用した鉄道記念館とキハ30のの静態保存が往時の面影を色濃く伝えてくれるし、中村町駅跡、曽我井駅跡、羽安駅跡にも、駅跡であることを示す標識などが残されている。唯一、沿線随一の中核駅であった西脇駅跡だけは、再開発が進んで駅の面影は消え失せていた。
鍛冶屋線沿線でも「途中下車」を楽しみ鍛冶屋駅跡付近では大歳金刀比羅神社、西脇駅跡付近では童子山界隈の神社や為祥小学校跡などを訪れた。
また西脇市街地で予定通り昼食とした。播州ラーメンというB級グルメを食したが、やや甘みのある独特のスープで初めて食べる味わいだった。
昼食を食べた後、西脇市駅まで走ってJR鍛冶屋線跡の走行は終了。11時37分。71.3㎞であった。
野村(現・西脇市)駅の手前で加古川線と合流するが、加古川線の野村~谷川間の開通は鍛冶屋線の野村~鍛冶屋間の開業よりも遅いため、合流地点の線形を見ていると、直線の鍛冶屋線が本線格で曲線の加古川線が支線格であるように見える。
国鉄時代の存廃議論は実際の旅客動線などを考慮せず線路名称単位で議論されていたので、鍛冶屋線が廃止され加古川線が存続したのだが、もし、鍛冶屋線が加古川線と称し、野村~谷川間が「谷川線」や「北播線」のような名称を付されていたとしたら、この地域の鉄道の現状も変わっていたことだろう。











西脇市駅からは加古川に沿って少し南進し、滝野駅付近から進路を西に転じ、丘陵を越えて北条町に向かう。途中、加古川の名勝である闘竜灘を再訪するとともに、丘陵越えの区間では滝野温泉「ぽかぽ」に立ち寄る予定だ。
闘竜灘は昨年の同時期に走った「ちゃり鉄22号」の旅でもJR加古川線の「ちゃり鉄」で訪れている。川の名勝に海の難所を表す「灘」という表現が使われているのが面白い。
この辺りの加古川は河床の岩盤が露出した低落差の滝状を呈しており、加古川水運にとっては難所の一つであった。船の通行に支障があったため荷揚げや荷積みを行う必要があり、河畔にはそういった舟仕事人を相手にした宿も設けられて水運が盛んだった近代は賑わったらしい。
明治時代に入ってダイナマイトによる河床掘削工事が行われて、この難所を船で通行できるようになったが、大正時代に播州鉄道が開通すると加古川水運は衰退の一途を辿り、以降、闘竜灘は観光地としての役割に舵を切った。
今日ではその観光も下火ではあるものの、河畔には今でも旅館があり、付近の町並みとともに往時の賑わいの面影を偲ぶことが出来る。
闘竜灘の最寄り駅が滝駅であり、少し離れたところに滝野駅がある。この両駅や周辺地名が持つ「滝」はもちろん、闘竜灘に由来するものだ。
滝野駅付近から加古川本流に別れを告げ、播磨中央公園のある丘陵地帯に入っていく。
ここまでの前半ルートで榎峠、播州峠、岩座神集落の急登を越えてきたにもかかわらず、この丘陵越えの登りは体に応える。
大きな峠は気持ちの準備ができているが丘陵越えではそうでもない、といった精神的なものも影響するのだろうが、細かなアップダウンの繰り返しはランニングで言えばインターバルトレーニングのような負荷を体に与えることになるので、実際に見た目以上に強度が高いのではないかと思う。
そんな中で辿り着いた滝野温泉「ぽかぽ」は何と、訪問の数日前から工事のための臨時休業に入っていた。事前に営業日の情報は調べてきたのだが、営業カレンダーに載らないような臨時休業という事だったのかもしれない。駐車場が見えてきた段階で車が駐車されていなかったので、最初は営業日を間違えたのかと思ったが、そうではなかった。
この先、北条町から北条鉄道沿線に入ると、駅の近隣には目ぼしい温泉・入浴施設がないため、これで初日から風呂無し野宿となった。
悄然としつつも仕方ないので先に進むことにし、余裕があれば訪問しようと目星をつけていた北条町の羅漢寺など、幾つかの寺社を訪問しつつ、今夜の駅前野宿地である網引駅に向かうことにした。
羅漢寺は敷地にある羅漢像が有名で寺の解説板によれば459体で構成されているという。
小さなお寺ではあるものの、私が訪問した時にも前後して1~2組の訪問者があった。
若者が大挙して押し寄せるような「観光地」ではなく、「ちゃり鉄」の旅で訪れる場所としてはむしろ好ましい。
羅漢寺では窓口の方が私の「ちゃり鉄」号をご覧になり、「凄い荷物ですねぇ」と話しかけてこられた。福知山からきて淡路島などを走る旅をしていることを伝えたが、「今日これから、淡路島まで行くんですか?」と至極まっとうなご質問もいただく。
既にお昼を回っているので、この時間から淡路島に向かうのは現実的ではないし、実際、淡路島入はこの翌々日のお昼。経路は複雑なので割愛したものの、色々回ってから明後日淡路島に渡ることなどを伝えた。
近年はブームもあってロードレーサーに乗っている人を多く見かけるようになったが、私のようなスタイルの旅人はむしろ少なくなっている印象があるし、大学のサイクリング部などの団体もすっかり見かけなくなった。
そんなこともあってかえって目立つのか、時折、話しかけられることがあり、一人旅に彩りを添えてくれる。
羅漢寺の窓口の方に「すぐそこに住吉神社もありますから、是非、お参りください」と勧められたので、住吉神社にも立ち寄っていく。
この住吉神社は播磨国三宮であり旧縣社でもある。それだけ格の高い神社という事になるだろう。
私自身は神社の格式の高低には興味がなく参拝作法の詳細も知らないが、神社そのものが湛える雰囲気には惹かれるものがあり、「ちゃり鉄」の旅でも多くの神社を訪れるようにしている。
旧懸社らしい風格ある佇まいの住吉神社を辞して北条鉄道北条線の北条町駅には13時27分着。91.4㎞であった。



今回の北条鉄道訪問では五能線から転入してきたキハ40系の営業運転と巡り合えるかどうかも楽しみにしていたのだが、生憎、北条町駅に姿は見えたものの営業運転には就いていなかった。
だが、北条鉄道は厳しい経営環境の中で法華口駅に列車交換設備を復活させるなど、精力的に設備投資も行っており、「ちゃり鉄」としても応援したい鉄道路線である。
北条町駅では駅員が出迎える中、粟生からやって普通列車が到着した。
近年は駅の無人化が加速しており、ローカル線やローカル鉄道でこうした風景を見ることも少なくなってきたが、これも旅情ある鉄道風景だ。
列車の到着と入れ替わりに一足先に北条町駅を出発。
駅の西の岡に鎮座する金刀比羅神社を参拝してから播磨横田駅、長駅、播磨下里駅、法華口駅と進んでいく。
播磨横田駅は播州鉄道時代の1916年6月3日に横田村停留場として開業するも、播但鉄道時代の1934年4月5日に廃止されており、国有化に際しても復活することはなかった。その後、1961年10月1日に至って横田仮乗降場として復活した後、同年12月20日に駅に昇格したという歴史を持つ。
今日では篤志家の寄付を受けて駅舎が改修されるとともにギャラリーとなっており、小洒落た駅舎に合わせるように駅前にもピザレストランがオープンしている。
続く長駅は風格ある佇まいの木造駅舎が残っているが、この駅本屋とプラットホームが2014年4月25日に登録有形文化財の指定を受けている。構内には交換可能だった時代の名残ともいえる旧ホームも残っており、北条線の歴史を偲ばせる。




長駅から播磨下里駅に向かう道中では、線路の向こうに一見して分かる神社の社叢林が目に入ってきた。こじんまりとしたその社叢林の雰囲気は好ましく、事前にピックアップしてはいなかったものの、参拝していきたい気持ちが湧いてきた。
ただ、線路の向こうにあるので迂回が必要となりそう。というのも、神社の周りの線路に踏切が見当たらなかったからだ。迂回距離も長くなるので、場合によっては線路のこちら側から向こう側を撮影して終わるかもしれない。参道は線路の向こう側にあるのだろう。
そうこうしているうちに、播磨下里駅を出発した普通列車のヘッドライトが遠くに見えてきた。
愛らしい神社の社叢林とその脇を行く北条鉄道の気動車の姿を写真に収め、ふと神社の方を見ると、何と鳥居が線路の側を向いている。
とすると、線路を渡ってアクセスするという事になるのだが、そこに踏切はなく何やら標識が経っているだけだ。
ローカル線などではよく地元の方が勝手踏切を設置しており、鉄道会社が「渡るな」という趣旨の警告標識を立てているのを目にする。ここでも、神社に向かう人が勝手に線路を渡るので、北条鉄道側が注意標識を立てているのだろうと思いきや、そこには「地蔵踏切」の文字とともに、列車の通過時刻が表示されていた。
現地ではここが「地蔵踏切」でいわゆる第四種踏切なのであろうと判断。線路の向こうの大歳神社を参拝したのだが、帰宅後によくよく調べてみると、地蔵踏切は大歳神社から見て長駅側に見えている踏切を指しており、この大歳神社前の標識の位置には、やはり正式な踏切は無いようである。
実際、現地に設置されていた標識の写真を後から確認したところ、「北条鉄道」の社名はなかったことから、やはりこれは勝手踏切の類だろう。線路脇の標識だけに北条鉄道側も認識しているだろうが、大歳神社は鉄道敷設以前からこの地に鎮座していたはずで、黙認状態にあるのかもしれない。
ちなみに、ここは北条鉄道の撮影スポットでもあるらしく、ネット上ではそれなりに情報が見つかったが、神社の由来などについてまとめたものは見つからなかった。
播磨下里駅の手前では線路沿いを歩く男性ハイカーのグループを追い抜く。
駅に着いてみると、駅前の飲食店や待合室に人影があり、それぞれに北条鉄道沿線の休日散歩を楽しんでいるようだった。
撮影しているうちに先ほどのグループも駅にやってきて列車待ち。既にホームのベンチに腰かけて列車待ちをしていた女性と談笑などしている。
経営という観点では厳しい利用実態になるだろうが、それでも利用者の姿が見られることにホッとする。
播磨下里駅到着は14時33分。98.2㎞であった。



播磨下里駅も長駅と同様、駅本屋とプラットホームが登録有形文化財である。更には隣接する法華口駅も同じ文化財登録駅で、連続3駅が文化財としての価値を認められているという事になる。
ところで、この播磨下里駅は播州鉄道の開業当時は播鉄王子駅と称していた。法華口駅の旅情駅探訪記では、1926年8月30日発行の旧版地形図を掲げているが、そこには「ばんてつわうじ」という駅名が記されている。「わうじ」は「おうじ」の旧仮名遣いだ。更には周辺が「下里村」であったことも記されている。
今日の地形図を見ても「下里」の地名が見えないのに「播磨下里」と名乗っていることが不思議だったのだが、歴史的には「播鉄王子」駅として開業したのち、播但鉄道時代の1943年6月1日、戦時買収による国有化を契機に当時の自治体名を採って「播磨下里」駅と改称されたのである。「播磨王子」駅とならなかったのは、既に国鉄に存在した「王子駅」や「王寺駅」との混同を避けることや、下里村の玄関口であるということを示すためだったのではなかろうか。
その後、下里村は1955年1月15日に北条町に吸収合併されて自治体としては消滅、大字としても残らなかった。結果的に下里の地名がない場所に「播磨下里」駅として残っているのである。
ちなみに、この播磨下里駅の北東に旧郷社の王子神社がある。播鉄時代の駅名を今に伝える王子神社は今回、訪れたい神社の一つだったので、法華口駅までの最短距離を進まずに寄り道して参拝した。
「ちゃり鉄」は歴史を走る旅でもある。


王子神社を出た後は小径を縫うようにして走り、一旦、北条線の線路を北から南に渡って法華口駅に到着した。14時53分。101.2㎞。この1区間で100㎞を超えた。
法華口駅は「ちゃり鉄7号」での訪問の際に駅前野宿を実施した思い出のある駅で、旅情駅探訪記もまとめている。駅に関する詳細はそちらもご覧いただきたいが再訪はそれ以来。「ちゃり鉄」以前の乗り鉄の旅で北条鉄道を往復乗車した際の車窓越しの訪問も含めれば3度目の訪問という事になる。
前回の訪問時との大きな違いは、名物となっていたボランティア駅長が退任されたことと、撤去されていた列車交換設備が移設再設置され当時のホームは利用者通路となって乗降用途での使用が停止されたことであろう。また、直接は関係ないが駅の近くにあったコンビニエンスストアが閉店していた。
駅前野宿での訪問となった前回は日没後に到着し夜明け直後に出発したので、明るい時間帯の法華口駅をじっくり眺める機会はなかった。今回は既に夕方めいてはいるものの、青空の下に佇む新生・法華口駅と対峙することが出来た。
駅舎内に入っているパン工房は健在だったが、この日は営業時間外。軽食にパンを頬張っても良かったのだが、それはまたの機会にする。
この駅は駅名が示すように、西方の山中にある法華山一乗寺への最寄り駅であるが、最寄というには離れており5㎞ほどの距離がある。徒歩なら早歩きでも1時間程度かかる距離だし、直通する公共交通機関もない。
そんなこともあってか、北条鉄道を利用して一乗寺を訪れる人は多くはない。
かく言う私も前回の訪問では一乗寺を訪れる時間を取ることが出来なかった。
今回の「ちゃり鉄24号」でも、当初の計画では17時前の訪問計画となっていて、閉門時間が気になっていたのだが、不幸中の幸いか、滝野温泉に入ることが出来なかったおかげで、15時台前半には一乗寺を訪れることが出来る。閉門時間の心配もないし、明るいうちに訪れることが出来そうだ。
しかも、今回は、一乗寺を訪れた後、田原駅に直行せず、鶉野飛行場跡も訪れることにしているのだが、その飛行場跡の訪問まで含めて明るいうちに終え、網引駅への到着を日没時刻くらいに早めることが出来そうだ。
法華口駅滞在時間中は列車の往来がなかったので、今回は11分の滞在で駅を出発。
まずは駅西方の法華山一乗寺を訪れ、山中の古刹を20分ほどかけて散策した。
若者が大勢訪れるような場所ではないのだが、途中の山道ではママチャリで坂道を登る若い男性2人組の姿もあった。到着した一乗寺の門前では、バイクでやってきた同年代と思われる中年男性のグループが場違いな大騒ぎをしている。エンジンを空ぶかししたり、大声で猥談を繰り広げて爆笑したり、実に騒々しい。大騒ぎと言えばハロウィンの若者の醜態などを思い浮かべて顔をしかめる中高年も多いが、実際には中高年も騒がしいことが少なくない。列車の中で大声で電話を掛けたりしているのも、案外、中高年が多くはないだろうか。
この五月蠅いグループを避けて自転車を駐輪し本堂への長い階段を登るうちに、足元の谷間から暴走族のような爆音が響き始めた。先ほどのグループが走り去っていったのだろう。
ようやく山寺らしい落ち着きを取り戻した一乗寺には、中高年のご夫婦やグループの姿がちらほら見えた。
20分ほどで本堂や三重塔などを見て周り一乗寺を辞したのち、法華口駅の西から東へと移動して、鶉野飛行場跡も訪れた。冬枯れの夕方の風景の中に広がるだだっ広い滑走路跡は、戦争の記憶を今に伝える遺構でもあり、戦時中には北条線の線路脇に不時着した軍用機が列車転覆事故を起こしたという知られざる歴史も秘めている。
こちらにも記念館があるようだが、時刻の都合もあってここでは広い空き地となった滑走路の跡を見るだけにして先に進むことにする。
訪れたかった2か所を晴天の明るい時間帯に訪れることが出来たのは幸いだった。



夕日が照らし出す田原駅を経て網引駅には16時50分に到着した。計画では日没時刻を過ぎた17時59分の到着予定だったのだが、滝野温泉に入ることが出来なかった分、予定よりも1時間強の早着となり、網引駅での郷愁溢れる日没風景を撮影することが出来そうだ。
この日は網引駅での駅前野宿としていたが、網引駅前は民家が立ち並び、南の丘陵地帯に展開する工業団地に勤める労働者の通勤利用も見られることから、明るいうちに駅前野宿の支度をするのは憚られる。
そこで着替えなどを済ませた上で、撮影や近隣散策で時間を費やそうかとも思ったのだが、調べてみると10㎞ほど離れたところ数か所に温泉施設がある。そのうち、加古川温泉みとろ荘はまだ訪れたことがない温泉だったこともあり、気持ちは温泉往復に転じた。
往復で20㎞。
温泉での入浴も合わせて2時間程度の追加行程となるが、やはり冬場の旅で風呂無しというのは疲れを溜め込むし、初日からというのも気が滅入る。
丘を越えて行くことになるのでアップダウンも予想されるが、幸い大きな峠越えではないので走行に支障はないだろう。この後、雨が降り出すような心配もない。
そうと決まれば早々に網引駅を出発し加古川温泉みとろ荘に向かいたくもなるが、網引駅は印象的なトワイライトタイムを迎えている。この時間帯に1往復の列車の発着があるので、それを見送ってから出発することにした。
網引駅でトワイライトタイムを迎えるのは実は2回目。
前回2017年の「ちゃり鉄7号」でも日没のタイミングで網引駅を訪れていた。
その時は郷愁溢れる日没の風景の中、法華口駅方に続く直線の向こうからヘッドライトを灯した列車がやってくる情景を撮影したくてホームで待機していると、列車到着の10分ほど前になって地元の若い女性がホームに現れた。
構図としとしても申し分なく、ホームの粟生駅方の末端から列車の到着を待つ。勿論、個人が特定できるようなズーム撮影などは控え、あくまで女性一般の人影というレベルでの構図としたことは言うまでもない。
そして遠方の踏切が作動し列車のヘッドライトが煌めき始めた瞬間、車でやってきた中高年夫婦が私の構図のど真ん中に入ってきて法華口駅方のホームの末端に立ち、到着列車の撮影を始めたのだった。
夫人の方は撮影に夢中になるあまり、列車が駅構内に隣接する踏切に差し掛かっても、ホーム末端から線路側に身を乗り出しての撮影を止めなかったため、結局、けたたましい警笛を鳴らされていた。私が撮影を諦めたのは言うまでもない。
今回、そのリベンジもあって同じ位置でカメラを構えて待機していたのだが、列車の到着時刻間際になって待合室に居た鉄道ファンがホームに現れ、私が撮影しているのを一瞥した後、前回同様、法華口駅側の末端に立って撮影を始めた。
私を一瞥した後で、その前に立って撮影を始める心理が理解できないが、こういうことはよく経験する。また、後から来た人が私に対して「邪魔だからどけ!」と遠くから怒鳴ってきたことも、過去に何度か経験している。
いずれにせよ、あえなく敗退。網引駅は中々に撮影が難しい。
私の構図に割り込んできた鉄道ファンは、そのまま粟生駅に向かう列車に乗車して駅を立ち去った。駅からは人影が消えたのだが、それも束の間。折り返しやってくる北条町駅行きの普通列車に乗車するらしい、勤め帰りの人影が駅の周りに現れる。一部は列車ではなく駅にやってきた迎えの車で去っていったが、数名の男性が駅に残り、間もなくやってきた普通列車で北条町駅方面に向かって去っていった。
北条鉄道沿線ではこうした路線内利用者の姿を見かけることが少なくない。短距離故に経営に資する程度は微々たるものではあろうが、地元の人による通勤通学利用があるのは鉄道としては好ましい状況である。



列車の出発を見送ったら、私も加古川温泉に向けて出発。
途中のルートは予想通り大きなアップダウンはなかったものの、日が暮れた山中で道を間違えたため、往路は随分と遠回りして加古川温泉に到着。17時17分に網引駅を出発して11.9㎞を走り、17時56分に到着。130.6㎞であった。
それでもこの日の温泉にありつけたことには満足。40分ほど滞在して疲れを癒し18時33分発。
復路は往路とは違う経路で9.4㎞を走って19時12分に網引駅に戻ってきた。日走行距離は140㎞となった。

帰り着いた網引駅はすっかり暮れており、駅の周辺には人の姿も見えなくなっていた。
まだ、温泉の余韻を体に感じるうちに着替えや解装・野宿の準備を終える。タイトな走行着からルーズなテント着に着替えてようやく心身が緩む。テントや駅舎での野宿とは言え、このスタイルで30年以上も旅を続けてきたこともあって、馴染みの「旅の宿」に投宿した心地がする。
以前は一日に150㎞前後の距離を走る「ちゃり鉄」もよく行っていたが、近年は「途中下車」に重点を置くようになったので、100㎞前後の走行距離に抑えることが多い。この日は意図せず140㎞も走る事になったが、天候に恵まれていたことも功奏した。もし、雨や雪が降っていたら、加古川温泉まで足を延ばす気にはならなかっただろう。
北条鉄道の拠点駅は北条町駅であるため、列車は北条町駅から出発して粟生駅に到着し、直ぐに折り返して北条町駅に戻る、という運転形態となっている。網引駅は粟生駅の隣駅なので、北条町駅からやってきた列車は直ぐに粟生駅から引き返してくる。その後、1時間前後の間隔が開き、次の粟生駅行きがやってくるといった仕業だ。
列車の発着時間帯には駅利用者の乗降があることが予想されるので、その前後の時間帯を避けて手早く夕食を済ませ、就寝までのひと時を撮影に費やすことにした。
網引駅での乗降者数は多くはないものの、各列車には数名ずつの乗降があり、車内にもそこそこ乗客の姿が見られた。
待ち時間には付近を散策したり、待合室に設けられたミニ文庫の漫画本を読んだり、一日の出費の精算をしたり、案外色んなことをして過ごすうちに就床予定の時間を迎える。
訪れる者も絶えてひっそりと静まり返る網引駅と暫し対峙した後、少々ハードだった初日の余韻を噛み締めつつ、駅前野宿の眠りに就くことにした。




ちゃり鉄24号:2日目:網引=粟生=鈴蘭台-谷上=新神戸=西神中央-三木城跡
2日目は網引駅を出発したのち、粟生駅から神戸電鉄粟生線に入って鈴蘭台駅まで走り通し、その後、有馬線の谷上駅から分岐する神戸市営地下鉄北神線に入って六甲山系を越える。
新神戸駅からは神戸市営地下鉄西神・山手線に入って西神中央駅まで走り通し、最後に西神丘陵を走って昼間に通過した三木市に戻り、三木城跡公園の東屋で野宿とする予定。この日は、三木城跡公園の近くにある三木温泉竹乃湯で入浴する予定なので野宿場所のロケーションはよいのだが、六甲山系越えと西神丘陵横断を含むアップダウンの激しいコースで、到着予定時刻も日没後。
昨日に引き続き、ハードな行程になることが予想される。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。


ルート図はこの日の行程の特徴をよく示しており、序盤に通過した三木市に中盤以降で逆戻りしており、あたかも、三木市に忘れ物でもして取りに帰ったかのような軌跡を描いている。もちろん、実際にはそうではなく、3日目に入って三木鉄道三木線などを走るためのルート設計なのだが、こういう行程の旅に付き合わされたら普通の神経の持ち主は辟易するのかもしれない。
断面図では行程半ばの57㎞付近にこの日のピークが見えるが、ピーク前後の勾配の様子は非常に興味深い。一見して分かるように、前半行程ではピークに向けてアップダウンを繰り返しつつも緩やかに登り続け、ピークからは10㎞程度の間で一気に降ってしまう。
これは六甲山系の地形を如実に物語っており、地理学的には「傾動地塊」と呼ばれる山体構造を表している。関西地方では同様の顕著な傾動地塊が他にもあり、生駒山地なども有名な事例だ。
傾動地塊は断層活動による地殻変動の結果、字面の通り、地塊が傾いて動いたことを物語っているが、六甲山系では北西側に緩斜面、南東側に急斜面が展開しているため、北西から南東に抜ける「ちゃり鉄25号」ではこのような断面図が現れるのである。
西宮付近から六甲山最高峰を経由して鈴蘭台に降り神鉄粟生線に入った「ちゃり鉄7号」では逆パターンの断面図が見られるが、この方向で六甲山系にアクセスし重積載の「ちゃり鉄」を漕ぎ登るのはかなりの負担となる。
今回のルート取りは単に前回とは逆方向からアクセスする意図だったので特に勾配緩和を意識したものではなかったが、結果的には、六甲山系の急登を避けるルート取りとなった。
とは言え重積載の「ちゃり鉄」号でこのルートで走るのがきつかったことには変わりない。更に、後半の西神丘陵のアップダウンは、自動車専用道のような構造の車道の走りにくさも手伝って心身の疲労感が強く、正直、何度も走りに行きたくなるようなルートではなかった。
酔狂なものだが、そこに神戸市営地下鉄西神・山手線が走っているのだから、例え走りにくい道であったとしても「ちゃり鉄」としてはその鉄道路線に沿って走ることにはなる。
この時期の夜明けは7時頃だったので、ルート計画を作成する段階では毎日の出発時刻を7時としていた。冬場は日照時間が短いため、走行距離を稼ごうとするなら夜明け前から日没後まで走る必要があるが、近年はそういう余裕のない「ちゃり鉄」からは離れている。
この日も出発予定時刻は7時。
ただ、駅前野宿の際は、朝の始発列車が到着する少なくとも30分前までには野宿の撤収を行うのがマイルール。この日も5時には起床して手早く朝食や後片付けを済ませた。
晴天で明けたこの朝は放射冷却で一段と冷え込んでおり、辺りには霜が降りている。
出発時刻まではまだ時間があるので、寒さを避けて待合室で過ごしつつも時折外に出て、黎明の澄み切った大気の中で眠りの中にある網引駅の撮影を行った。
網引駅の朝は早く粟生駅に向かう始発列車は5時58分発。折り返し北条町駅行きの始発列車が6時15分発。粟生駅に向かう始発列車の乗降客は居なかったが、北条町駅行きの始発列車からは1名の男性が降りてきて、駐輪場の自転車に乗って走り去った。工業団地の労働者だろうか。
昇り始めるには少し早かったが、辺りが十分に明るくなった6時56分。網引駅発。






網引駅からは網引集落の八幡神社にお参りした後、1駅間を走って粟生駅に到着し、ここから神戸電鉄粟生線に入る。7時16分着。3.9㎞。
粟生駅は北条鉄道、神戸電鉄、JRの3路線が交わる交通の要衝だが、町の規模は小さい。粟生駅が位置する小野市の中心地は加古川右岸側ではなく加古川左岸側のやや内陸寄りにあって、粟生駅付近からは離れている。加古川線が小野市中心部を走り、そこから神戸電鉄や北条鉄道が分岐する線形となっていれば、もう少し各路線は繁栄していたのかもしれないが、既に見てきたとおり、この付近に鉄道を敷設した播州鉄道にとっては加古川水運との関係性が重要であり、河畔から離れた小野の中心部に鉄道を敷設するという考えや需要はなかったのであろうし、勿論、その当時、神戸との間を直達するような鉄道路線は存在しなかった。粟生線が粟生まで到達したのは播州鉄道の敷設からずっと降った1952年4月10日のことである。
ここから先の神戸電鉄粟生線も経営難から路線存続問題が取り沙汰されている。
その詳細をダイジェストで述べることは避けるが、沿線に大きな観光地を持たず、小野市や三木市という市制都市があるとはいえ新開地での乗り換えが必要となる神戸電鉄は、県都神戸への通勤需要を満たす機能においても直通バスに太刀打ちできない。
地元自治体などでも活性化のための協議が行われているようだが、こうした問題は自治体や事業者のみで根本的に解決するのは困難で、粟生線に限らず地方鉄道の前途は決して明るくない。
私自身にも妙案はないし、莫大な資金を捻出できるような経済力もないが、自身に出来ることとして「ちゃり鉄」を通して沿線を走り、その記録を残していきたいと思う。
早朝の粟生駅には到着したばかりの北条鉄道の普通列車と、加古川線の到着・接続待ちをする神戸電鉄粟生線の列車が停車しており、加古川線ホームには加古川方面への列車の到着を待つ通勤・通学客の姿が見られた。
規模は小さいとはいえ団地も隣接したちょっとした市街地を形成しているので、列車待ちの利用者の姿は少なくはない。
やがて到着した加古川行きの普通列車からは少数の降車客があり、代わって大勢が乗車していく。
降車客は北条鉄道や神戸電鉄に少数が乗り換え、また、少数がこの駅で下車するようだった。
加古川線列車の出発を見送って「ちゃり鉄24号」も出発。7時19分発。

粟生駅を出発した神戸電鉄粟生線はまずは小野市の中心地域を抜けていき、樫山~大村間で峠を越えて三木市域に入る。この峠は大村坂越といい、現地では意外なほどの高低差がある。
三木駅までの中間駅は、葉多駅、小野駅、市場駅、樫山駅、大村駅の5つ。
この間、粟生駅付近の田圃に島のように浮かぶ八柱神社や、小野駅~市場駅間の県道18号加古川小野線沿いにある、旧縣社の住吉神社などにもお参りしていく。
路線の存廃議論があるとは言え、沿線はニュータウン開発なども行われたベッドタウンが点在しており、過疎地のローカル線のような雰囲気はない。実際、県道18号線も交通量が多く「ちゃり鉄」で走るには緊張を要する道路だ。
惜しむらくは粟生線の線形の悪さだ。
もし、三木市から鈴蘭台に向かっていくのではなく西神中央の方に抜けていたなら、神戸市営地下鉄との相互直通運転によって三宮に乗り換え不要で到達することができ、高速バスにも十分に対抗できただろう。三木駅と西神中央駅との間は直線距離で10㎞程度しかないし、鈴蘭台駅に抜けていくよりも地形が穏やかである。
ただ、粟生線の前身にあたる三木電気鉄道が鈴蘭台駅から三木福有橋駅(現・三木駅)までの区間を開通させたのは1938年1月28日のことで、神戸市営地下鉄西神・山手線が西神中央まで延伸開業した1987年3月18日から50年も遡る。
三木電気鉄道の当時、西神丘陵地帯にこれだけの大規模なニュータウンが造成され、県都に直結する高速鉄道が敷設されることを予見するのは困難だっただろう。
実は、この延伸構想は私の勝手な妄想にとどまらず、実際に運輸政策上も検討机上には載せられているのだが、莫大な設備投資を行ったところで十分な費用対効果が得られるとは限らない上に、粟生線鈴蘭台方の一部区間やバス事業者との競合が発生するなど実現は困難で、実際、具体的な検討対象にも入っていない。
そんな想像・妄想を抱きつつ、大村坂越のアップダウンに喘いで、三木駅には8時46分着。17.9㎞であった。







神戸電鉄粟生線の三木駅は2018年に近隣火災によって下り線側駅舎が消失しており、現在の駅舎は2022年に竣工・使用開始された新駅舎だ。2016年実施の「ちゃり鉄7号」はこの火災の2年前に実施したので、期せずして消失前の三木駅の姿を写真に収めた貴重な記録となった。
三木市内にはかつては三木鉄道三木線もあったが、神戸電鉄粟生線の三木駅とは接続しておらず、両駅は離れていた。市内には美嚢川が東から西に向かって流れ降っており、この左岸側に三木城とその城下町が広がっている。播州鉄道による三木線の敷設はこの旧城下町のある左岸側に対して行われており、三木駅の開業は1917年1月23日のことであった。
対する三木電気鉄道による右岸側への駅設置は1938年1月28日のことで、この当時の開業駅名は三木福有橋駅であった。その後、鉄道会社の変遷に伴って1952年10月1日に電鉄三木駅、1988年4月1日に三木駅と改称している。粟生線側が三木駅に改称する3年前の1985年4月1日には国鉄三木線が廃止となり三木鉄道三木線が発足しているので、粟生線三木駅の改称は三木鉄道時代のことだった。
城下に2つの鉄道路線が敷設されたにもかかわらず、播州鉄道の路線は美嚢川水運を置き換える目的で敷設されたため加古川本流を指向して厄神駅に向かっており、三木電気鉄道の路線は山越えで鈴蘭台駅に向かっていたことが、この城下町での鉄道の命運を決定づけたことになる。既に述べたとおり県都・神戸に向かう都市間輸送で鉄道は高速バスには太刀打ちできない。
そんな交通体系の栄枯盛衰の物語を、これまた戦国の栄枯盛衰を象徴する三木城跡が見下ろしている。
三木城跡には今夕になって舞い戻ってくるので、この段階では三木駅を撮影するにとどめて先に進むことにした。
三木駅を出た粟生線は三木市域を南東に進み、恵比寿駅と志染駅との間で小さな丘陵を越えて行く。志染駅はこの駅発着の区間運転列車もある運行上の要衝で鈴蘭台方に留置線も備えている。
この辺りは粟生線の周辺にニュータウンが展開しており、広野ゴルフ場前駅から緑が丘駅にかけての線路西方には廣野ゴルフ場の敷地が広がっている。ゴルフ場名は「廣野」となっているが、駅名は「広野」と記載されている。地名表記は「広野」だ。
細かな詮索をするとすれば、駅名は「廣野ゴルフ場」の「前」を意味するのではなく、「広野」の「ゴルフ場前」を意味しているのだろうか。
続く緑が丘駅までが三木市域で押部谷駅まで進むと神戸市西区域になる。
三木市と神戸市との市域界は緑が丘駅のすぐ南にあり、駅東に広がるニュータウンは三木市側が緑ヶ丘町、神戸市側が北山台と名乗っている。
押部谷駅付近からは明石川流域に沿って緩やかな登り勾配に転じ、川池信号場と藍那駅との間で神戸市西区から北区に入る。
川池信号場は山間部にある信号場だが敷地に通じる道は立ち入り禁止となっており、手前の第4種踏切から遠望するのみだ。この踏切付近の北側に木津の摩崖仏があり、旧街道沿いの露岩に仏像が刻まれているので見物していく。
なお、川池信号場から藍那駅までの間には線路沿いに進む道がないため、川池信号場付近から一旦木津駅まで戻り、そこから小河集落を通る急勾配で山一つ越えて行く必要がある。
この区間のアップダウンは厳しく、粟生線も有馬線に負けず劣らず山岳鉄道であることを体感する。
山間に佇む藍那駅には11時21分着。39.6㎞であった。




藍那駅は神戸市北区に位置し、鈴蘭台のニュータウンから山一つ隔てた山間に位置する。
粟生線随一の山駅で駅前の県道52号小部明石線の交通量は多いものの、集落は高台や山向こうに点在することもあって、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
初めて訪れた時はクロスバイクもどきのママチャリでのサイクリングだった。
当時は川西市に住んでおり、そこから西宮経由で須磨海岸を訪れ、山を越えて藍那駅付近から鈴蘭台、裏六甲、有馬温泉と辿り、更には宝塚まで山を越えて川西の自宅に戻る100㎞あまりの日帰り旅だった。
自宅まで遥かな距離があるにもかかわらず藍那駅で夕刻を迎えたのだが、明かりの灯る藍那駅の佇まいは好ましく、それでいて、「藍那」という駅名に「キャバクラの姉ちゃん」を夢想した思い出の駅でもある。そういう私は「キャバクラ」なるものに行ったことは一度もない。
駅の東には七本卒塔婆や紫式部の墓と称する宝篋印塔まであり、ここから南に登った丘には和泉式部の墓と称する宝篋印塔もあって、何だか謎めいた地域でもある。
この藍那駅周辺での駅前野宿も行ってみたいのだが、駅前は直ぐに交通量の多い県道に面しており、駅の近隣にも公園などがないため「駅前野宿」は難しい。
この藍那駅から一登りし、阪神高速7号北神戸線の下を抜けると、忽然と街が開けて西鈴蘭台駅に達する。ただ、この付近の地名は北五葉、南五葉となっており、「西鈴蘭台」という地名があるわけではない。駅の開業自体も1970年6月5日なので、鈴蘭台地区の造成に合わせイメージ重視で命名されたようである。
続く駅は鈴蘭台西口駅。駅がある場所の地名は鈴蘭台南町で、直ぐ近くに鈴蘭台西町があるが駅は鈴蘭台西町にはない。そして粟生線の起点であり「ちゃり鉄24号」の粟生線の旅のゴールとなる鈴蘭台駅は鈴蘭台北町に、有馬線の北鈴蘭台駅は甲栄台にあるというややこしさだ。
アップダウンの激しい鈴蘭台のニュータウンに苦労しながら鈴蘭台駅には12時着。43.8㎞。





この鈴蘭台駅付近でお昼時を迎えるため、駅近傍で幾つかの飲食店をピックアップし昼食とする予定だったのだが、この日訪れたお店は開いておらず昼ご飯を食べ損なった。
鈴蘭台駅からは一旦神戸市営地下鉄北神線の谷上駅まで向かう。そこから引き返して小部峠経由で六甲山系に登り返すので、その道中の適当なところで昼食を摂ることにして先に進む。
鈴蘭台付近のアップダウンやルート錯綜に悩まされつつ谷上駅には12時44分着。50.8㎞。
谷上駅には神戸市営地下鉄経由で新神戸へ8分、三宮へ10分と記されているが、「ちゃり鉄24号」では新神戸までの1駅間に2時間13分を計画していた。とんぼ返りといった風情で谷上駅を出発。12時46分発。
谷上駅を出発して今来たばかりの道を引き返しつつ、途中で見つけた神戸市民には知られたご当地ラーメンのチェーン店で昼食を済ませ小部峠まで登り返していく。
この辺りの国道428号線有馬街道は交通量が非常に多い上に急な登り勾配が続くので「ちゃり鉄」号での走行は苦行が続く。
小部峠に達すると交通量の多い国道から分かれて六甲山横断道路である県道16号明石神戸宝塚線に入る。交通量は減るものの、ここからしばらくは勾配が一層きつくなる。
五辻交差点の西に427mの独標がありこの場所がこの日の最高到達地点。そこから降りに転じて程なく五辻交差点に達しここで県道から神戸市道神戸箕谷線に入る。途中に顕著なアップダウンがあるものの、降り基調の道路は心地よい。神戸市側からアクセスするとビーナスブリッジを越えて急登を登り詰めてくることになるが、軽装のロードバイクのライダーが複数、ヒルクライムをしてくるのにすれ違った。
再度山山腹に佇む大龍寺には14時14分着。60.2㎞。昼食を挟んだこともあり谷上駅からの9.4㎞に1時間28分を要した。
大龍寺は再度山山腹に鎮座する古刹で、768年に和気清麻呂が開山したと言われる。学問僧として唐に渡った空海が、渡航の前後、二度に渡ってこの山を訪れたことから「再度山」という山名がつけられたのだとも言う。
私自身は六甲山全山縦走路の経由地点として再度山を訪れているが、縦横に車道や道路が張り巡らされて賑やかな六甲山界隈にあって、ひと際静かな佇まいの山域であり、古刹と霊山の雰囲気が心地よい。
山門から本堂を巡って再度山山頂までを往復するとそれなりの時間を要するのだが、この日も本堂までは往復してから出発することにした。14時30分発。



この大龍寺山門前からは神戸市道神戸箕谷線とも分かれ、再度東谷に向かって降っていく舗装路を進んでいく。この道は実は神戸市道布引大竜寺線なのだが、この先、生田川上流の布引谷付近で舗装路から登山道に変貌し、布引谷左岸側に階段箇所があることは把握済みである。というのも、この部分が六甲山全山縦走路と重複しており、これまでにもトレイルランニングで通行しているからだ。
今回のルートでは自転車の解装が必要になる箇所が2箇所あり、その内の1箇所目がこの先の布引谷越地点、そして2箇所目が9日目の神戸電鉄有馬線沿線の石井ダム付近だった。
この1箇所目に現れる障壁はごく短距離の階段区間なので、状況によっては押し登りで解装せずにクリアできるかもしれないと思って臨んだのだが、階段脇に車輪をスムーズに転がす余幅がなく、結局、解装して荷物と自転車とを担いで階段を越えた。そんな私の様子を見ていた河原キャンパーの男性が手を貸してくださったのはありがたかった。
この階段手前にある車道末端から河畔までの登山道部分と生田川を渡る簡易橋の部分は自転車を押して通過出来るし、階段を登り切った後は茶屋の管理車両が通行する車道である。僅か50m程度の階段部分だけが自転車を押しての通行も難しい区間だったので、新神戸駅にダイレクトに出るルートとして敢えてこのルートを選んだのであるが、傍から見れば自転車では走れないことを知らずに突っ込んできたように見えるだろうと、何やら気恥ずかしくもあった。




階段の上には休憩所があり、この付近の渓谷や山を歩く人たちの数が格段に多くなる。
六甲山全山縦走路は休憩所から谷の上流に向かい稲妻坂を経て摩耶山に登っていくが、「ちゃり鉄24号」は谷の下流に向かい布引の滝から新神戸駅に降っていく。
布引谷は神戸市民の憩いの場となっていて散策を楽しむ人も多い。布引谷の入り口は新神戸駅付近。神戸布引ロープウェイに乗れば、布引谷を眼下に見下ろしながら山腹にあるハーブ園などの観光施設にも労せずアクセスできるので、トレッカーだけではなく軽装のカップルや若者の姿も見られる。
布引大竜寺線沿いにあるこれらの観光施設への分岐を見送り、急勾配とヘアピンカーブを降っていくと、次第に展望が開けるようになり、布引の滝への上側からの入り口になる見晴らし展望台に到着。一気に訪問者の数が増えた。
14時55分。63.1㎞。途中で解装と着装を行ったにもかかわらず、大龍寺から25分で布引の滝まで降ってくることが出来た。
ここで自転車をデポして布引の滝(雄滝)を往復。
布引の滝は学生時代に訪れて以来、何度か訪問しているが、神戸市から間近い距離にありながらも幽谷の雰囲気も湛えており、谷から山の上に上がれば眼下に市街地と瀬戸内海が見えるとあって、神戸を魅力ある街にしている。
見晴らし展望台に戻って出発。15時10分。
新神戸から西神中央までは、神戸市営地下鉄西神・山手線の全線を走り切る上に、アップダウンが激しい区間を40㎞以上走る。
15時過ぎて西日に日没の雰囲気が漂い始めている。先を急ごう。


急勾配とヘアピンカーブでどんどん山を降って、生田川谷口の狭隘地に設けられた新神戸駅には15時14分着。64.4㎞。
ここはJR山陽新幹線と神戸市営地下鉄西神・山手線、北神線とが交錯する要衝であるが、新幹線の駅とは言えJRの在来線とは接続していない。用地買収や建設工事の都合上、神戸市街地を迂回して六甲山地の下を抜ける線形としたものの、県都神戸に新幹線の駅を設けないなどという事はあり得ない、といった背景事情を踏まえての苦肉の策だったのだろう。
現在こそ神戸市営地下鉄が連絡して神戸市中心部や裏六甲へも鉄道でアクセスできるようになったが、市営地下鉄が新神戸駅まで延伸したのは新神戸駅開業の1972年3月15日から13年あまり後の1985年6月18日のことだ。そしてこの付近を通っていた神戸市電の布引線は新幹線開業前の1969年3月23日に加納三丁目~熊内一丁目間が廃止されているため、新神戸駅開業当時は接続する鉄道路線がなかったという事になる。
「ちゃり鉄24号」はそんな歴史を秘めた新神戸駅を出発し、神戸市内を横断したのち、三木市に戻る。ここからの行程はまだまだ長いが、既に日は傾きかけているので先を急ぐことにする。15時15分発。
神戸市営地下鉄西神・山手線は新神戸駅から西神中央駅までの間、22.7kmを結ぶ地下鉄路線で、駅の総数は16駅である。第一期開業区間は新長田~名谷間で1977年3月13日開業、その後、1983年6月17日に新長田~大倉山間、1985年6月18日に大倉山~新神戸間と名谷~学園都市間、1987年3月18日に学園都市~西神中央間が開業し、現在の路線が全通した。
新神戸駅から板宿駅までの間は神戸市街地の平野部を行き、板宿駅から西神中央駅までの間は西神丘陵のニュータウンを繋いでいく区間だ。
この鉄道路線に沿った「ちゃり鉄」は交通量や信号が多い道路を走ること、後半に入ってアップダウンが続くこと、駅の数が多いこと、日没後走行になることなど、計画段階から厳しいことを想定していたが、実際、板宿駅以降の後半区間は特に厳しかった。
新神戸駅から板宿駅までの間は眩しい西日を受けながら沈みゆく太陽を追いかけるように西進していく。この区間は交通量や信号機が多いものの、概ね平坦地を行くので身体的な負担は強くない。




しかし、板宿駅から西神丘陵への登りが始まると、交通量が多い上に道幅が狭くなり「ちゃり鉄」には不向きな道路環境になる。このルートは六甲山全山縦走路が横切っているし、神戸市に住んでいた頃に何度かランニングで走ったこともあるので環境の悪さは承知の上だが、地形と鉄道ルートの制約から代替ルートがないため仕方がない。
妙法寺駅を出た辺りから地下鉄は半地下構造になり、その両脇を車道が挟むような形になる。ニュータウンの縦貫道路らしく道幅は広くなるのだが、自動車専用道路のような構造になるのでやはり自転車での通行には不向きだ。
脇には歩行者向けの通路も見えているが、道路に沿って真っすぐに伸びているわけではなく側道が合流してくる場所で途切れたりしているのが見えるので、見るからに走りにくそうだ。
また、大きなアップダウンを繰り返しながら丘陵を越えて行くが、谷に降りると高架橋があり、丘に登るとトンネルがあったりするので、その都度、緊張しながら路側帯を走らなければいけない。
脇を通り抜ける車はどれも高速で、決して法定速度では走っていないし、時折、異常なくらい接近して追い抜いていく車がいる。いわゆる煽り運転に近いが、こういう車に追い抜かされた後は巻き風に煽られて車道側に降られるので極めて危ない。
私は色々試行錯誤した結果、不格好だがヘルメットにバックミラーを装着している。できれば自転車でもドライブレコーダーを装着したいが、電源問題があるので実現には至っていない。
伊川谷駅から西神南駅への登りなど消耗する走行を経て、西神中央駅には18時18分着。93.4㎞であった。17時30分発の総合運動公園駅付近で日没時刻を迎えているので、勿論、西神中央駅に到着する頃にはとっぷり暮れていた。
残り15㎞弱の行程があるので長居せずに出発。18時20分発。




西神中央駅から先は神戸電鉄粟生線の志染駅付近を経由して三木城跡公園の東屋に向かうが、既に暮れていることもあり忍耐の行程が続く。
ハンドルバーにマウントしたGPSでルートをナビしながら進むものの、日が暮れて遠くを見通せない状況では、予想しない急登に出くわした場合などに精神的な疲労感の蓄積が大きくなる。
ただ、神戸市街地から西神丘陵までの行程のような交通量の多さからは解放されたので、焦らず進むことが出来た。
後半行程に苦労したこともあり、予定時刻より30分ほど遅れた19時26分になって三木城跡に到着。
予め調べておいた東屋で荷物を解装し野宿の準備と着替えを済ませたら、ようやく人心地がついた。
城下には銭湯の竹乃湯温泉があるので夕食は後にして先に入浴に出かける。自転車で5分ほどの距離にあるので野宿のロケーションとしては上級。一日の疲れを癒すことが出来た。
三木城跡公園は三木市街地と美嚢川を見下ろす高台にある。眼下に夜景を見下ろすロケーションだが、夜景スポットにありがちなカップルや若者の来訪はなく、落ち着いて野宿をすることが出来た。
遅い夕食を済ませた後、腹が落ち着くまで美嚢川橋梁を行き交う神戸電鉄の列車の撮影を行い、体が冷え切らないうちに眠りに就くことにした。



ちゃり鉄24号:3日目:三木城跡-三木=厄神-加古川=高砂港-野口=別府港=土山-明石港~岩屋港-生石公園
3日目は三木城跡を出発し播磨南東部の鉄道路線後を巡った後、ジェノバラインに乗船して明石港から岩屋港に渡り、淡路島東岸を南進して生石公園まで走る。いよいよ淡路島に渡ることもありこの日の行程は楽しみだった。
川西市に住んでいた頃、自宅から淡路島の北部を巡る日帰りのサイクリングを行ったことがあるが、「あわいち」とも称される淡路島一周の旅を行うのはこれが初めてだ。
1日で淡路島を一周するロードレーサーも多いが、私は淡路島島内で合計5泊を予定しじっくりと周る計画としている。うち1泊は沼島での野宿。
知られざる淡路交通鉄道線の廃線跡を巡ることが淡路島渡航の主目的だが、おのころ島伝説の地を巡ることも楽しみである。
ルート図と断面図は以下のとおり。




この日はジェノバラインの乗船を挟んで大きく2区間に分けられるので、ルート図と断面図もそれぞれに作成した。
1日目や2日目の行程とは異なり、この日は顕著なアップダウンはなく行程的には楽なことが予想される。
播磨南東部では三木鉄道三木線の他、国鉄高砂線、別府鉄道野口線・土山線といった廃線跡を巡ったのち、瀬戸内海沿岸を東進して明石港に向かう。
海岸沿いを走る区間が多く魅力ある一日となりそうだが、残念なことに天気予報は下り坂を示唆しており、生石公園に到着するまでに降り出す可能性があるのが心配だ。
神戸電鉄粟生線の始発列車が往来する音を聞きながら静かな一夜を過ごした東屋で野宿装備を畳み、まだ夜が明けないうちに出発する。淡路島の岩屋港に到着する予定時刻が15時前で、そこから東岸を一気に南下して由良集落まで行き、そこで銭湯に入ってから生石公園に向かうので、残念ながらこの日も日没後走行の予定。手前の洲本で野宿にすることも考えたが、淡路島内でのルート計画の都合上、この日のうちに由良海岸まで達しておきたかった。
美嚢川橋梁と河畔はまだ明かりが灯って眠りの中にあったが、6時46分には三木城跡を出発。
城跡内の神社にお参りして今日一日の安全を祈願したのち、美嚢川左岸側にある旧市街地に降って三木鉄道三木線の三木駅跡に到着。6時57分。1.3㎞であった。


ここからは三木鉄道三木線の跡を走るが、この路線跡もここまでの路線と同様、「ちゃり鉄7号」での訪問時とは逆方向に走る。
三木駅舎の跡は三木鉄道ふれあい館という施設に転用されており駅前のバス乗り場は今も健在だ。駅構内も鉄道記念公園として整備されており、ホーム上屋などが往時の面影を残していた。
既に述べた通り、この路線も播州鉄道の手によって開業しており1916年11月22日に厄神~別所間、1917年1月23日に別所~三木間が開通して全線が開業した。同じ播州鉄道系列の路線の中では路線延伸の開始が最も遅かった。
播州鉄道全線がそうであったように、この路線も美嚢川水運を置き換える目的で敷設された路線だったため、加古川本流沿いの厄神駅を中継して加古川駅を目指しており、旅客・物流動線の変遷に伴って路線の存在意義は低下。それでも第三セクター化して2008年4月1日まで営業を続けていた。
私が学生だった頃には営業していたはずだが、乗車した記憶も記録もない。
当時は青春18切符やワイド周遊券を使った「乗り鉄」の旅が中心で、それらの切符では乗車することが出来ない私鉄や第三セクター鉄道にはあまり乗車することが出来なかった。三木鉄道に限らず近畿圏の私鉄路線も殆ど乗車したことがなかったのだが、致し方ないという思いと無念の思いが交錯する。せめて「ちゃり鉄」で沿線を走り、在りし日の鉄道の面影を偲びたい。
この三木鉄道三木線の跡は厄神~下石野間を除けば概ねサイクリングロードとして再整備されており、路線跡を辿ることは容易だ。途中駅があった場所にも案内看板や記念公園があって、地元の愛着を感じられるのは嬉しい。
早朝の三木駅跡を訪れる人も殆ど居なかったが、犬を連れて廃線跡のサイクリングロードを歩く人の姿があった。7時発。
三木鉄道三木線の駅は両端を含めて9駅あり、路線延長は6.6㎞。これだけの短距離路線なので沿線探訪はすぐ終わるが、サイクリングロードとなった線路跡を辿りながら、遺構を残る駅跡を繋いでいくのは楽しい。何となく往時の車窓風景を思い浮かべて、電車ごっこさながらに走り抜ける。
「ちゃり鉄7号」での訪問時にはサイクリングロードの整備途上で駅のホームも残っていた高木駅跡は、すっかり整地され駅跡を示す案内標識だけになっていた。
沿線では別所駅跡と石野駅跡に駅舎を模した記念公園が整備され、線路やホームの一部が残されている。駅舎は現役当時のものではなく建て直されたものだが、案内標識に示された往時の写真と比較してみても雰囲気をよく留めている。
下石野駅跡と宗佐駅跡の間で小さな丘陵を越えて行くが、ここでサイクリングロードは終わり。それまでの雰囲気とは異なり、宗佐駅跡や国包駅跡は未整備の路盤や踏切施設などが遺構として残るだけだ。
何故、この2駅跡だけサイクリングロードや案内標識の設置が行われていないのか不思議だったが、地図で確認してみると、その理由は一目瞭然だった。
即ち、下石野駅跡と宗佐駅跡との間に三木市と加古川市の市域界が走っており、廃線跡の管理主体が異なるのがその理由だ。そして、三木鉄道の名の通り、三木市にとっては愛着のある鉄道路線ではあったものの、加古川市にとっては僅かな区間に2駅だけが存在した鉄道で、三木市と一体で跡地をサイクリングロードに整備するほどの愛着はなかったのだろう。
JR加古川線の厄神駅には7時56分着。9.3㎞。「ちゃり鉄号」でも1時間足らずの短い旅を終えた。






厄神駅からは加古川河川敷を一気に走り降ってJR加古川駅に達した後、国鉄高砂線と別府鉄道野口線・土山線の廃線跡を巡る。厄神駅付近から交通量の多い県道18号加古川小野線を跨ぎ、加古川河川敷のサイクリングロードに降りる。対岸は見土呂地区。初日に網引駅から10㎞の丘越えを経て辿り着いた加古川温泉・みとろ荘がある地区だ。
加古川河川敷を走り降っていく手にJR山陽本線の橋梁が見えてきたら、河川敷から堤防道路に登り、そのまま加古川駅に向かう。
加古川駅到着は8時30分。18.1㎞であった。
ここからは国鉄高砂線を行くのだが、この高砂線も既に述べた通り播州鉄道に起源を持つ路線。加古川駅から高砂港駅までを結んでいた路線が、加古川水運を代替して運んだ物資を高砂港から海運に委ねることを目的としていたことは言うまでもない。
末期の経営主体から判断すると、個々の路線の敷設理由が見えず「無駄な鉄道」のように見えもするが、播州鉄道による敷設当時にまで遡ってみれば、ここまで辿ってきた鍛冶屋線、北条線、三木線の各支線が加古川線を幹線として集約され高砂港に至る鉄道網を形成していたという事や、加古川水運を代替する目的で敷設されたものだったという事がよく分かる。
国鉄高砂線は1913年12月1日に播州鉄道の手によって加古川町(現・加古川)~高砂口間が開業。続いて1914年9月25日に高砂口~高砂港間が開通し、全線が開業した。播但鉄道時代の1943年6月1日に他の系列路線ともども国有化された後、1984年12月1日に第三セクターに引き継がれることなく廃止されている。
加古川市街地を南北に縦貫していた加古川線の廃線跡は、市街地に飲み込まれながらも車道化して残っている。この路線が存続しなかったのは、旅客区間で6.3㎞という短距離の路線だった上に、市街化が進む加古川市内にあって国道を横切る線形を持っていたことから、交通渋滞を招くという事情もあったのだろう。
途中駅としては別府鉄道野口線が分岐していた野口駅と山陽電鉄本線尾上の松駅に隣接していた尾上駅の跡に、動輪のモニュメントと記念碑が置かれた小公園がある他、山陽電鉄本線高砂駅にY字状に隣接していた高砂北口駅の跡は駐輪場に転用されながらも、周辺の建物や駐輪場の敷地の特徴ある曲線に往時の面影を色濃く残していた。
また、延伸工事の間の短期間、終着駅となっていた高砂口駅の跡は、山陽電鉄本線に沿った小公園となっていたが、ここは延伸の段階で廃止されたこともあり、駅跡を示すような構造物は何も残されていなかった。
終点の高砂駅跡は行き止まりの車道ロータリーとなっており、ここにも動輪のモニュメントがあったが記念碑はなかった。
このロータリーに隣接して東側に「高砂銀座商店街」のアーケードがあるが、すっかりシャッター通りと化した商店街には、高砂駅が営業していた頃の栄華の残り香が僅かに残っているだけだった。
高砂駅跡からも遊歩道となった廃線跡が続いており、そこを進んでいくと臨海工業地帯の雰囲気が出てきて狭い入り江に面した高砂港貨物駅跡に到着。9時39分着。9時44分発。27.3㎞であった。




高砂港貨物駅の跡からは高砂神社や尾上神社、今福八幡神社を経由して、別府鉄道野口線が分岐していた野口駅まで戻る。10時22分着。34.5㎞。
ここは既に述べた通り高砂線の野口駅跡であることを示す記念碑と動輪や車止めが展示された小公園になっているのだが、レプリカの駅名標を見ても、そこに別府鉄道野口線の隣接駅だった藤原製作所駅の駅名表示はなく、石造りの記念碑に記載されているのも旧国鉄高砂線野口駅跡という記載のみだ。
別府鉄道が会社としては現在も存続している民間企業だったためなのかもしれないが、この扱いは野口線にとって気の毒な気もする。
今日2度目の訪問となった野口駅跡は10時25分発。
これから走る別府鉄道は播州鉄道とは異なる私鉄で、元は別府軽便鉄道という軽便規格の鉄道だった。野口線と土山線という2つの路線を持っていたが、野口線は1921年9月3日、土山線は1923年3月18日の開業である。野口線は野口~港口間、土山線は土山~別府港間を結んでいたが、別府港~港口間は両線で共用する形で港湾まで貨物輸送を行っていた。
この鉄道が播但鉄道(元の播州鉄道)の国有化に際し、一体的に国有化されなかった理由は未調査である。あくまで短距離の別の鉄道会社であり、播州鉄道の買収で事足れりという事だったのかもしれない。実際、野口線は戦時中に不要不急路線の烙印を押されて休止していた期間もある。
高砂線廃線跡に沿ってもう一度高砂方面に南下し安田北交差点に達すると、向かって左側に特徴ある曲線を描いて東向きに分岐していく遊歩道があり、これが別府鉄道野口線の廃線跡である。廃線跡探訪の場数が多くなってくると、予備知識がなくても曲線の具合から廃線跡ではないかと感じることがあり、それは結構な確率で当たるようになる。
もちろん、この場所においては事前に把握済みなので確信できるわけだが、もし、何も知らなかったとしても、廃線跡探訪の経験が深くなってくるとこの曲線にはピンとくるだろう。
松風こみちと命名された遊歩道を進んでいくと、近代的な高層マンションの脇を通り抜けていくような区間もある。鉄道廃止前の写真を見ると、このマンションの下を荷台付きの単行気動車であるキハ2が駆け抜けていて、そのちぐはぐな情景の中にもどこか懐かしさを湛えていたのだが、廃線となった今日では、マンション敷地の遊歩道と言ってもおかしくない情景になっている。
円長寺駅跡付近では小公園の中にキハ2の車両が静態保存されていた。加悦鉄道のキハ101と同様の荷台付き車両で、子供の頃に眺めた鉄道図鑑の中でもとりわけ印象に残る車両だった。
かつてはかなり傷みが激しくなっていたようだが、クラウドファンディングで資金を集め綺麗に修繕されたらしく、こういう用途にクラウドファンディングが使われるというのは好ましいように感じた。
私が生まれた後も暫くは活躍していたはずの車両だが、願わくば、こんな車両が全国を行き交っていた時代に戻って、気ままな鉄道の旅を行ってみたいものだ。
別府港駅跡付近では今も会社として残る別府鉄道の看板があり、その先に続いていた線路跡は民間企業の敷地に吸い込まれていく。この民間企業は多木化学や多木建材で別府鉄道とは関係が深い。
港口駅跡付近、10時58分着、10時59分発。38.4㎞。
港口駅跡付近から引き返し、今度は土山駅に向かう土山線の跡を辿る。
土山線跡は別府港駅方の半分くらいが車道転用されていて、路盤が拡幅された部分に痕跡は残っていないが、社名の入った貨物車両が路肩に物置のように残っていたりする。
そして大中遺跡公園の播磨町郷土資料館に隣接して、土山線で活躍したDCと客車が静態展示されていた。
この大中遺跡公園付近からは廃線跡が遊歩道としてJR山陽本線の土山駅付近まで続いている。
土山駅には11時28分着。42.9㎞であった。





土山駅では駅に併設された複合施設の飲食店で昼食を摂り12時1分発。
「ちゃり鉄24号」序盤の鉄道路線巡りはこれで終了し、ここからは淡路島周遊がメインの中盤行程となる。その中盤行程では淡路島に存在した淡路交通鉄道線の廃線跡を巡る。
淡路島には明石港からジェノバラインの旅客船に乗船して渡る。淡路島側の着岸港は岩屋港だ。
土山駅からは一旦南西に向かって直進し、明石海岸付近に向かう。
その後、海岸沿いに南東に向かい明石港に達するのだが、この明石海岸沿いには、江井島海岸、藤江海岸、松江海岸、林崎海岸と、風光明媚な海岸が続く。
その途中、魚住付近では海岸沿いにある縣社・住吉神社にも参拝。ちょうど七五三祝いの家族連れがカメラマンを従えて子供の写真撮影に興じているところだった。
こうした光景もよく見かけるようになった。
生憎、この日は下り坂で彩度の低い海岸風景だったが、須磨海岸から明石海岸にかけての海岸風景は好ましく、また、平坦なサイクリングロードが続いており走りやすい。
昨年、今年と続けて瀬戸内を走る事になったが、いずれも1月~2月の走行。
この地域は盛夏も含めて、太陽が輝く青空の季節に走りたいものだ。
漕ぎ進むほどに明石海峡大橋の姿が近づいてきて、最後に明石港旧灯台を眺めたら、ジェノバラインの明石港に到着。
13時20分。62㎞であった。





計画上の到着予定時刻は13時48分で出港予定時刻は14時30分だったのだが、13時20分に到着したおかげで13時30分の便に乗船できそうだ。
1時間早い便で淡路島に渡ることができれば、目的地への到着時間も1時間早く、19時8分から18時8分に切り上げることが出来る。
岩屋港周辺で撮影をする時間的な余裕はなくなるが、淡路島からの戻りでもう一度岩屋港に来るので、撮影はその時に回すことが出来る。
この日は西から雨域が接近してきていたので、できる限り早く一日の行程を終えたいという事もあり、ここは迷わず13時30分の便に乗船することにして手早く手続きを済ませた。
休みの日の朝の便などであれば、淡路島に渡るロードレーサーで行列ができることもあるが、平日の昼過ぎとあっては自転車で淡路島に渡る人の姿はなく、私の姿を見た甲板員が驚いた様子で慌てて後部甲板のハッチを開けているのが印象的だった。もちろん、積載されたのは我が「ちゃり鉄号」1台のみ。
自転車を運び込んで船員に固定してもらったら船室に向かうが、私の常で船室でじっとすることはなく、階段を登って展望甲板に出るとそこで岩屋港到着までの時間を過ごすことにする。
明石港発13時30分。
展望甲板に出ているのは私だけで、20名ほどの乗客は皆、船室内で過ごしているようだった。
ジェノバラインの乗船時間は僅か13分。
その間に海上交通の要衝である明石海峡を横断しつつ明石海峡大橋の下を潜り抜けていくので、ダイナミックな光景が広がる。
前方には大型貨物船がジェノバラインの高速船の進路を塞ぐように航行しているが、こちらはお構いなしにその脇腹目掛けて突っ込んでいく。
このまま進んだらぶつかると思うが、勿論、そんなことはなく、海上交通のルールに則ってしっかりと安全に交差していくのだが、貨物線の船尾を間近に眺める光景はたまらない。
やがて明石海峡が頭上に迫る。
その下を潜り抜ける瞬間、スマホや一眼レフで忙しなく撮影を行う。
真冬の明石海峡を行く高速船の甲板で、おっさんがただ一人、あたふたと写真を撮影しているのは、傍から見たら滑稽なものだろう。
やがて右舷前方に港湾施設が見えてきて、赤白2基の灯台が守る岩屋港に入港。
他の乗船客が一通り降りるのを待って最後に桟橋を渡り、淡路島岩屋港に上陸した。13時43分。







今日はこの後、淡路島東岸の東浦を一気に北端から南端まで走り抜けて、諭鶴羽山地が紀淡海峡に落ち込む生石鼻に向かう。生石鼻には生石公園があり幾つかの屋根付き展望台があるので、その下で野宿とする予定だ。
この先の行程は47.5㎞の計画。
「途中下車」も少なく、一気に走り抜ける計画だが、南端の由良集落では銭湯の増田湯に立ち寄る予定なので計画時間は4時間15分。まだまだ先は長い。
岩屋港でGPSを再セットしたらすぐに出発することにした。
この岩屋港には4日後に戻ってきて近くの東屋の下で野宿の予定だ。
淡路島は主に東岸、南岸、西岸で構成される雫型の形状をしているが、地形的な特性から東岸が最も反映しており、津名、洲本といった淡路島の主要都市も東岸に面している。
淡路島島内には国道28号線が縦貫しているが、この国道28号線も岩屋から津名・洲本までは東岸を経由し、そこから諭鶴羽山地の北麓の平野を横断して西岸の福良に至る線形を持っている。
現在では高速道路の神戸淡路鳴門自動車道が島の中央部を縦貫し、明石海峡大橋と大鳴門橋とで本四連絡の使命を担っているが、かつては本四間を結ぶカーフェリーが就航しており、その当時は海岸沿いの国道28号線が文字通り、淡路島の動脈として機能していたのであろう。幅広い道路の構造にはその時代の名残が感じられる。
ちなみに、現在の高速道路も国道28号線である。
本四連絡の使命は高速道路に移ったとはいえ、島内交通は今でも海岸沿いの国道28号線が中心となっており、岩屋からの国道も交通量は多い。
その交通量の多い道を南進しながら、久留麻集落付近では淡路国三宮の伊勢久留麻神社に参拝して道中の安全を祈願する。


岩屋から洲本までのルートは概ね平坦路で走行に大きな支障はない。天候も予報通りに下り坂ではあるが、幸い、雲の密度を見る限り、降り出すにはもう少し余裕がありそうだった。
津名、洲本の2都市は大きな市街地を構成しているが、これらの都市と都市を繋ぐ区間は漁村が繋がる風光明媚な海岸風景が続き、長い行程ではあるものの漕ぎ進める足は軽い。
福良に向かって内陸に転じていく国道28号線を右手に見送り洲本川を渡ると、稜線に鎮座する洲本城が印象的な洲本の市街地に到着する。ここは、明後日5日目の行程で戻ってきて野宿予定としているので、この日は野宿予定地を下見する程度であっさりと走り抜け、桟道となって海岸を回り込んでいく。
周り込んだ先は入り江状の地形となっており小路谷集落がある。ここには洲本温泉郷があり「ホテルニューアワジ」などの温泉旅館が立ち並んでいる。関西に住んでいたらテレビCMで馴染みのある、あの「ホテルニューアワジ」である。
古茂江港という漁港もあるのだが、一体は埋め立て地になってリゾート施設や観光施設が立ち並んでいる。
観光客の姿も見られる一画ではあったが「ちゃり鉄24号」では「車窓」に眺めるだけで通過。その先の掛牛岬を回り込んで由良町域に入ると、遠くに成ヶ島の島影が見えてきて、ゴールが近づいてきたことを実感する。
成ヶ島は由良の市街地の対岸に浮かぶ南北に細長い島であるが、標高52mの独標が描かれた成山がある北端部と高埼灯台がある南端部との間が砂州で結ばれた独特の地形を持っている。
無人のこの島には観光渡船が就航しているが、就航日は週末に限られており「ちゃり鉄24号」での淡路島滞在期間中には就航日の縁がなかった。しかも、島での野宿は禁止されているので日帰りしなければいけないし自転車は由良側に置いておく必要もある。
色々とルート計画を画策してみたものの、この島を訪れる計画を組み込むことは出来なかったので、それは次回の淡路島訪問に委ねることとして今回は渡船場の横を素通りした。
この由良集落にあるスーパーで夕食を仕入れたのち増田湯に向かって入浴。この頃になってポツポツと雨が降り始めたが、雨脚の強さから、本降りになる前にはゴールできそうだと予想する。
増田湯は事前に位置を調べておかなければ絶対に気が付かない地元の銭湯だった。番頭のおばあさんに「おいくらですか?」と尋ねると400円との答えが返ってきたが、生憎、財布には500円玉しかなかった。「500円しかなくて済みません」と渡すと50円が返ってきた。
50円をちょろまかされたのかと思ったが、料金表には450円との記載があったので、小銭がないなら定額払えという事と理解してそのまま入浴した。地元の人が使う銭湯だけに釣銭が必要となるような客は居ないのだろう。
洲本にも公衆浴場はあるが、時間的にも場所的にも、ここで銭湯に立ち寄ることが出来たことには感謝したい。
増田湯着16時33分、発17時。101.6㎞であった。

外に出ると小雨模様になっていたが、生石公園の登り口に当たる波切不動明王に立ち寄って、今側口の水道越しに成ヶ島南端の灯台と対岸の友ヶ島を眺める。雲の切れ間からは夕日が照らすような天候だったこともあり、紀淡海峡には虹が立っていた。
生石公園までの最後の区間は登り一辺倒。薄暗い道は急勾配で覚悟していたとは言え、1日の最後としては少々厳しい。それでも雨が本降りになる前には目的地の展望台に到着することが出来た。
17時34分着。106.1㎞。
岩屋港に1時間早く到着することが出来たおかげで、雨も日没も辛うじて避けることが出来たのは幸いだった。
既に薄暗くなってきていたので、解装は後回しにして先に生石鼻灯台と出石神社を訪れる。要塞跡が残る生石公園は戦争の歴史を今に伝える場所でもあるが、かつて要塞が威嚇した海峡の交通安全を見守る寡黙な灯台と神社の姿が印象的だった。
展望台に戻り屋根の下で野宿の支度を終える頃には本降りとなった。
1時間後の船に乗っていたら、真っ暗な中で本降りの雨に降られて急勾配を登ってくることになったのだろう。晴天には恵まれなかったものの、雨が予報される中でそれを逃れたのは運が良かった。
紀淡海峡越しに和歌山市街地の街の灯を眺めつつ3日目の眠りに就くことにした。




ちゃり鉄24号:4日目:生石公園-熊田海岸-土生海岸-亀岡八幡神社-三原温泉-諭鶴羽山-土生港~沼島港-沼島おのころ園地
4日目は生石公園から淡路島南岸を走り抜け、内陸の三原から諭鶴羽山を越えて土生港に降り立ち、そこから沼島に渡って野宿とする行程。
この日の最終目的地は沼島で、南岸灘浦の土生港から沼島汽船で渡ることになるが、生石公園から土生港に直行しそのまま沼島に渡ると時間的にはかなりの余裕を生じる。
その分を沼島探索に費やしてもよかったのだが、それにしても時間が余る上に、この区間に目ぼしい集落や温泉施設がないため、食材の調達や入浴が困難だった。また、由良に戻って成ヶ島に渡ろうにも、この日は渡船の休航日で叶わない。
また、南岸から諭鶴羽山をピストンすることも考えられるが、身軽なロードレーサーやMTBならまだしも、重積載の「ちゃり鉄24号」で直登するには厳しい勾配が待っている。できれば単純なピストンは避けたい。
そういう諸々の条件を勘案して、南岸沿いの小集落を訪ねながら一旦は土生港を通り過ぎ、内陸の三原方面に向かってそこで昼食、食材買い出し、入浴などを済ませ、海岸側よりは緩い勾配の内陸側から諭鶴羽山地を越えて土生港に降り、夕刻に沼島に渡るルートを設計した。
諭鶴羽山には幾つかのルートがあるのだが、徒歩での登山ならともかく、重積載の「ちゃり鉄24号」でのルート取りとしては、これが正解と思えた。
この日のルート図と断面図は以下のとおり。



沼島では沼島港からおのころ園地までの短距離を走って野宿をするだけの行程になるが、もちろん、沼島の探索はこの翌日に組み込んだ。
断面図には諭鶴羽山の片勾配の様子がよく表れている。
内陸の三原側からの登り起点は概ね52㎞付近にあり、そこから目指す最高峰諭鶴羽山が65㎞付近。地図のログでは600m未満となっているが、これは自転車での到達地点の標高を示しており、実際の山頂標高は608mである。
そこからは一転して急勾配で降っており、土生港は72㎞地点。
三原付近が標高40m程度で土生港が0mであることも合わせて考えても、顕著な方勾配となっていて、ここに大きな断層が走り傾動地塊となっていることが推察されるのだが、これは実際その通りで諭鶴羽山地と沼島との間に中央構造線が走っているのである。
そんなルートを行く一日なので昨夜来の雨天の回復度合いが気になるところだったのだが、幸いにも夜が明けてみれば天候は晴天で今日一日、雨に降られる心配はなさそうだった。ただ、岬の上の展望台付近には強烈な風が吹き抜けており、テントを空にすると吹き飛ばされそうだった。
低気圧通過後の冬型の気圧配置となっていて寒冷な季節風が吹いているのである。となると西寄りの進路で進む南岸灘浦のルートは向かい風に悩まされることになるだろう。実際、眼下の瀬戸内海沖合には白波が立っており、向かい風だけではなく沼島汽船の欠航も心配される、そんなスタートとなった。
生石公園7時3分発。

生石公園は岬の上に幾つかの展望台を持っており、それぞれの間は遊歩道で結ばれている。
私が野宿した展望台は一番高いところにあるが、遊歩道の入り口に当たる一番低いところの展望台には公衆トイレがあることも把握していたので、立ち寄りついでにここでも紀淡海峡の風景を撮影する。
対岸には和歌山から大阪にかけての海岸線をバックに友ヶ島が浮かんでいるのが遠望でき、手前には成ヶ島の南端と高埼灯台が見える。
紀淡海峡も海上交通の要衝で行き交う船の数が多い。志布志航路や宮崎航路で九州入りする際は、この海峡をフェリーで越えて行くことになる。
友ヶ島は現在は観光解放されているが、かつてはやはり要塞の島であった。
風光明媚なこの一帯にも戦争という愚かな歴史の影が刻まれている。
生石公園から山を降った後は、降った分を登り返して南岸灘浦に抜けていくのだが、その前に熊田海岸に立ち寄ることにした。
この熊田海岸は今でこそ行き止まりの隠れ浜のような場所になっているが、かつてはここから海岸沿いに中津川集落までを繋ぐ車道が通じており自動車が行き交っていた。現道はその道を山越えの道として付け替えたものである。
「ちゃり鉄」は廃道探索を主目的とはしていないので、この区間にあった廃道を踏破することは計画には組み込まなかったが、道路末端にバリケードとして設置されたガードレールの隙間から道の跡を辿って海岸線に出てみると、海岸線に沿った視線の彼方に沼島が横たわる他は、ここに車道があったとは信じがたい急傾斜の斜面となっていた。
廃道探索の先達が書いたレポートを見ていると、この先にも道の跡が続いているようだが、もちろん自転車を伴って通行できるような状況にはない。この区間の廃道探索を行う「ちゃり鉄」を計画する時があれば踏破してみたいとは思うが、それはかなりの危険を伴うものであり、相応の覚悟と準備、経験、知識を要するだろう。



熊田海岸を辞した後は現道に戻り、「アワイチ」最大の難所と言われる峠を越えて行く。
この道は兵庫県道76号洲本灘賀集線。通称・南淡路水仙ラインである。
通称名だけだと穏やかな水仙郷を行く快走路のようなイメージを受けるが、実際には中央構造線の断層面を行く険路で、熊田海岸で見たように激しい崩壊によって廃道化し消失しつつある区間も存在する。
由良側から取り付いた峠越えの道は、立川水仙郷跡を眼下に見送りつつ中津川集落に向かっていくのだが、由良~立川間と、立川~中津川間に2か所の峠を控えている。
また、その途中で柏原山に向かう林道が分岐しているのだが、この時は、その林道分岐を見落としていた。
6日目の行程では由良側から柏原山を越えて洲本に抜けるルートで、できれば避けたい諭鶴羽山地南面からの登りを計画していたため、分岐地点を探っておくことは重要だったのだが、登り坂に必死で確認を忘れていた。
立川水仙郷の廃墟の跡を眼下に見送って中津川集落には8時20分着。11.4㎞。
ここから先、海岸沿いには諭鶴羽山地から流れ降ってくる小渓流が刻む谷ごとに小さな集落があり、それらの集落の奥には集落を見守るような鎮守社が鎮座しているので、それぞれを訪れていく計画としていた。
この中津川集落にも谷奥に白髭神社があるので参拝していく。
アクセス路は中津川の谷沿いにあるとはいえかなりの急傾斜で、所々、押し登りを要した。
中津川集落発、8時26分。





既に述べたように熊田海岸から中津川集落までの海岸沿いには廃道と化した旧道が残っているが、現道沿いに海岸に出て来し方を振り返っても、そこに道があったということは想像もできない。
僅かに、手前の断崖の一画にガードレールの痕跡を見るばかりであるが、それとて、そうと知らねば旧道の一部と認識することは不可能だし、実際、私自身も、そこに車道があったという事を知ったのはこの紀行の執筆を始めてからであって、現地では、地形図通りの徒歩道の残骸があっただけだと認識していた。立川水仙郷を挟んで両側の集落に、遊歩道でも整備されていたのだろうと考えていたのだ。
この中津川からは土生海岸に至るまでの全区間に渡って、県道は海岸線を行く。
天気は快晴で遠くに見える沼島が旅情を誘うが、予想した通りこの海岸線に出ると強風が吹き荒れ、平坦路であるにもかかわらず時速15㎞を維持して前進するのも困難な状態になる。沖合も白波が立っている場所が目立ち、小型船で渡ることが出来るのか不安になる。
真冬の平日という事もあって、これだけ気持ちのいい天候ではあるものの、自動車の通行は皆無。向かい風さえなければ最高の「ちゃり鉄」日和なのだが、そう簡単には事は運ばない。
立ち寄り計画を立てた途中集落は例外なく急勾配で谷を登った場所にあったが、これは海岸沿いの厳しい環境を避けてのことであろう。
今でこそ消波ブロックや護岸によって強固に守られてはいるが、熊田海岸付近で眺めたように上からは崩落、下からは浸食で、自然の猛攻を受ける断層面の直下だ。住居を建てての安定した生活など望むべくもなかったに違いない。
それでも諭鶴羽山地から流れ降ってくる小渓流沿いの谷間に石垣を積み上げて平坦地を設け、半農半漁の自給自足生活を送った人々の暮らしがあったことは記憶に留めておきたいし、衰退の一途を辿りながらも今日まで存続しているそれらの集落の存在は記録に値するものだろう。
今日、国土地理院の地形図を眺めても、生石鼻から潮崎に至る淡路島南岸の海岸集落に学校記号は描かれていない。唯一、沼島に小中学校があるのみだが、これは沼島在住の小中学生が通うもので、淡路島本土の小中学生は、スクールバスで内陸の小中学校まで通っているのだろう。
古い地図を見てみると上灘村の相川、灘村の土生にそれぞれ学校記号が描かれており、現地にも廃校の建物が用途転用されて残っている。このうち、上灘村の相川集落にあった上灘小学校跡は、当初の訪問予定にはなかったが現地で古い看板を見つけたこともあって訪問することが出来た。
現在は洲本市役所の上灘出張所の庁舎として使われているようである。
強風と急勾配に悩まされて思い通りには進まぬ中、土生港は一旦通過するのだが、沼島汽船の運行状態を確かめに汽船乗り場を訪れてみると、幸い、欠航の案内は出ていなかった。夕方までに天候が悪化することもなさそうなので、この分だと、予定通り沼島に渡ることが出来そうでほっとする。
土生集落を出た後は阿万町に向けて急勾配で峠越え。降った先からは概ね北東よりに進路を取る。
北西の季節風を真横から受けるので向かい風がましになるだろうと思いきや、地形の影響からか、結局向かい風は変わらず、相変わらず進むのに難渋することになる。
途中、旧郷社の亀岡八幡神社に立ち寄り、三原地区で昼食や買い出しを行った後、三原温泉の南あわじクア施設さんゆ~館には13時3分に到着した。51.9㎞であった。
三原温泉は淡路島の温泉らしく弱アルカリ性のヌルっとした泉質で、美肌の湯といった感じ。
温泉で休むには早い時間帯である上に、ここから諭鶴羽山地越え20㎞余り、2時間40分弱の行程を控えているだけに、休息モードには入れないのだが、ここまでの行程が始終向かい風や急勾配に悩まされてきただけに、既に結構な疲労感もあり、峠越えの前に一浴するのはよいタイミングだった。
13時39分発。







三原温泉の出発予定時刻は13時34分としていたので、ここまで、ほぼ計画通りに走ってきているのだが、むしろ、強風と急勾配に悩まされ続けて余裕が全くなかったという方が正しい。
ここからの諭鶴羽山越えも厳しいことが予想さるのだが、土生港への到着予定時刻は16時12分。出港予定時刻は16時30分であまり余裕はない。
先を急ぐ気持ちもあるのだが、ようやく追い風になった反面、ここからは登り一辺倒だ。
山麓を緩やかに登り始めて程なく、上田集落付近では郷社の上田八幡神社が立派な佇まいで鎮座しているのが目に入った。予定にはなかったのだが、焦る気持ちを抑える意味も込めてこの郷社にお参りし、山越えの安全を祈願する。
その後、近代土木遺産の上田池堰堤までは急登。
堰堤に達した後は池の奥までしばらくは水平になるものの、小さな貯水池は直ぐに尽きて渓流になり、廃屋を見送ったら本格的な登りが始まる。
概ね照葉樹林に覆われた林道は視界が開けず黙々と登り続けることになるが、GPSで現在地を確かめつつ、少しずつ高度を増していく。
そしてこうした山越え林道の常で、谷沿いの道を離れるヘアピンカーブをきっかけに、山腹に取り付いて一段と急勾配になるのだが、それと同時に徐々に視界が開けてくる。時折空が開けて行く方遥かな高みに諭鶴羽山山頂付近の電波塔が見えている。
これから登らなければいけない高さに唖然とするが、休むことなくひたすら登り続ける。やがて林道は諭鶴羽山地の支尾根に乗るのだが、この付近から未舗装路も現れるようになり一向に楽にならない。
上田川の源流を詰めて主尾根に達した後も、諭鶴羽川の源流域のアップダウンが連なる尾根筋を行くので、諭鶴羽山の山頂は見えるとは言え予想以上の距離感や高度感があって、結構、疲労を感じるが、眼下には煌めく瀬戸内海が展開するようになり、疲れを癒してくれる。
最後は諭鶴羽神社と諭鶴羽山山頂とを分ける分岐を経て押し登りで電波中継施設前に到達。ここで自転車をデポして徒歩で諭鶴羽山山頂に達した。
15時32分。64㎞。予定よりも27分の延着となってしまった。







山頂からの展望は360度とまではいかないものの素晴らしく、南には太平洋に繋がる瀬戸内海の出口が雄大に横たわっている。北には洲本から福良にかけての平野が広がり、東西は諭鶴羽山地主稜線の山並みが続いている。
午後に入って強風は収まってきたようで、山頂ではあるものの序盤のような強い風は吹いていなかった。
山頂は広い裸地となっており、案内標識や一等三角点、頂上社などが設置されている。
時間に余裕のある日中であれば、ここでのんびりと昼食にするのもよいだろうが、この時点で土生港出港まで60分を切っており、残り距離は8㎞程ある。ゆっくりしているわけにもいかず、直ぐに山頂を辞してデポした自転車に戻って15時42分発。
少し下ったところにある諭鶴羽神社に参拝し、ここまでの道中の安全に感謝した後、神社も4分ほどで辞して土生港に向かう。残り39分で7㎞弱。結構際どくなってきた。
この諭鶴羽神社からの降りは簡易舗装の急勾配で、路面状況が良くないため、豪快に降っていくことが出来ず、始終、制動をかけながらの慎重な降りとなった。
途中集落にある神社にも立ち寄る予定にしていたがそれらは割愛し、土生港には16時18分に到着。72㎞であった。


既に着岸していた沼島汽船のしおかぜ丸にはぽつぽつと徒歩の乗船客が乗り込んでいく。
この船に自転車を原形積みできるかどうかが分からなかったのだが、幸い、輪行する必要はなくそのまま積載できるとのことで、手早く乗船手続きを終えて桟橋に向かった。
この後の便となると18時5分出港で沼島到着が日没後になる。強風は止んだとはいえ、諭鶴羽山からの降りで体が冷えたこともあって、日の指す時間帯に沼島に渡れたことは幸いだった。
沼島汽船のしおかぜ丸は後部に自転車を積載するスペースがあったのだが、この日は波が高く潮を被るしお客さんも少ないからという事で、船員さんの好意で「ちゃり鉄号」は船室積みにしていただけた。
この季節のこの時間帯にこんなスタイルの自転車がやってくることは滅多にないようで、船員さんたちも一様に驚いていたが、船室内に収まった「ちゃり鉄号」もどこかホッとした様子だった。
土生港は定刻16時30分に出港。
晴天だが荒れた海を行く小型船は大いに揺れ、窓の外は海面が見えたり空が見えたり思いっきり潮を被ったり、不安になるくらいの航海だった。それでも10名ほどの乗客は皆、慣れた様子で過ごしていたので、この程度の荒れ方は大したことないのだろう。
10分の航海を終えて沼島港には16時40分着。
他の乗船客が降りたのを確認して、一番最後に自転車を押して桟橋に出ると、先に降り立った乗船客は皆、直ぐに港から立ち去っていった。
昨年も瀬戸内の離島を幾つか巡ったが、島の暮らしは船が日常の交通手段であり、港は駅のようなものである。
到着した沼島汽船は1時間後の17時40分に土生港に向けて引き返していく。暫しの休息という感じで、船員は港の中で釣りをしていた顔なじみと談笑しながら、釣りに興じていた。



この日は沼島港周辺の神社にお参りしてからおのころ園地に向かい、目星をつけていた東屋の下で野宿をする予定だったのだが、沼島も結構気温が低く、先に着替えを済ませてしまって徒歩で神社を参拝してもいいと思い始めた。
それでおのころ園地に直行したのだが、目星をつけていた東屋は付近の小中学校や道路からも見える位置で、まだ、放課後の活動に興じる子供たちの歓声も響いていたので、直ぐに野宿の支度をするのは憚られた。
そこで園地の隅にあった公衆トイレを借りて着替えを済ませ、少し薄暗くなるのを待ってから野宿の準備を終えたのだが、そうなるともう、温かい夕食を食べて冷えた体を温め、寝袋に潜り込みたい気持ちが勝ってしまう。
翌日は、出港までの間に沼島をグルっと一周する予定だったので、神社の参拝はその時に追加することにして、野宿の宿で寛ぐことにした。
園地横の車道は沼島随一の観光スポットである上立神岩の展望地に繋がっているが、薄暗くなりはじめたこの時刻になってこの道を行く人もおらず、学校の明かりも20時過ぎには消えて、落ち着いた野宿となった。
沼島は海上の小島であり、おのころ園地は風が吹き抜ける地形にあったため、空の状態だとテントが吹き飛ばされる状況ではあったが、荷物類をテント内に格納することで対処することが出来た。
東屋の下はコンクリートで舗装されていることが殆どなので、多くの場合、テントを張ってもペグは打たない。
そもそも、公にはキャンプが認められているわけでもないだろうから、ペグを打ち込まずに済むならそうするのをマイルールにしている。
強風や急登、寒さに悩まされた一日だったが、晴天には恵まれ、計画通り沼島に渡ることが出来たことに満足して4日目の眠りに就いた。
ちゃり鉄24号:5日目:沼島おのころ園地-上立神岩-沼島港~土生港-福良=洲本-中浜公園
5日目は沼島探索を終えてから福良に向かい、そこから淡路交通鉄道線の廃線跡を辿って洲本までを走る行程。事前の調査で鉄道廃線跡はほとんど残っていないことは把握済みだったが、この淡路島に鉄道が走っていた時代を偲びながら沿線を走りたいと思う。
淡路島自体がそうであるが、その中でもこの5日目の行程で巡る沼島やおのころ島神社などは、国生み伝説の物語の地を行く興味深い行程でもある。
「ちゃり鉄」は鉄道沿線を巡ることが主目的ではあるが、その鉄道は人々の暮らしと密接に結びついており、駅はその結節点である。
駅を中心として展開した人々の暮らしを追うことで、鉄道沿線の旅は一段と深く味わい深いものになるのだが、その人々の暮らし・民俗には、必ず小学校や神社が登場するという事もあって、近年は鉄道沿線の神社や小学校跡なども訪れることが多い。
その神社の系譜を辿った源流に国生み伝説があることは言うまでもない。
私は教義的な意味での神社神道に深い造詣があるわけではないし、その信者でもないが、もっと素朴な信仰心で自然を畏れ敬った人々の暮らしに対する興味から、その象徴として集落ごとに祀られた神社にも興味を抱くようになった。
その意味でもこの5日目は楽しみな行程だった。
ルート図と断面図は以下のとおり。



序盤は沼島島内を巡る行程で島の外周山地に沿って一周する。
事前調査でこのルートを車両通行できることは確認済みだったので、押し登りを要する区間が多いことは分かっていたものの、徒歩やトレランではなく自転車で走破することにした。
中盤は土生港から福良港までのアップダウン区間。南岸から西岸にかけての地域を行くが、入り江と岬が連なるハードな区間となる。
終盤は淡路交通鉄道線に沿って福良~洲本間の平野部を横断する。淡路島における経済活動の中心地を行くだけに交通量も多いエリアだが、地形的には比較的穏やかである。
なお、断面図はGISソフトのバグで沼島が区間2となってしまっているが区間1と区間2は本来逆配置となる。
この日の沼島港出港は9時50分。沼島探索はそれまでの間に行う計画としていた。前日、自凝神社や沼島八幡神社の参拝を割愛したので、今日はそれらも予定に組み込んでいく。そういうこともあって、おのころ園地の出発は6時27分。夜明け前となった。
沼島探索は反時計回りに行うことにして、まず最初に沼島の西の山腹に鎮座する自凝神社に参拝。「自凝」とかいて「おのころ」と読む。「おのころ」の語源なども文献調査記録執筆の際にはまとめたいと思うが、「おのころ島」を象徴する神社として訪れておきたい場所だった。
夜明け前という事もあり参道も拝殿も薄暗い中での参拝となったが、旅の道中の安全を祈願した。
自凝付近から奥に向かう登山道を進めば外周道路に達することが出来るようだが、「ちゃり鉄」の自転車を抱えて参道を登ってくるのは困難なので、沼島海水浴場側から回り込むことにした。
ここは通行止めになっているという情報もあり、実際フェンスで囲まれていたが、偶然にもフェンスに隙間が空いており、そこから自転車を通して先に進むことが出来た。これは偶然だったのか外周道路を歩く人の為に僅かに開放していたのかは分からないが、ネットでは通行止めという情報も多いの、徒歩で巡るなら自凝神社側からアクセスするのが順当かもしれない。
ただ、車両も通れるくらいに整備された外周道路側には通行止めの表示はなかったように思うので、時計回りに一周してくると、最後にフェンスに阻まれてしまうという事になる。観光案内のパンフレットには通行止めの記載はないので、周辺の土木工事に伴う一時的な通行止めのようである。
最初は林道然とした道を行くが、そのうち、路傍に石仏が現れるようになる。
沼島灯台付近には石仏山という山もあるが、沼島に見られる石仏群は明治時代の厄災に際し、その慰霊の為に八十八体の石仏を設置して沼島八十八ヶ所霊場としたものだという。その全てを回るのは割愛するが、道すがら登場する石仏を都度撮影しながら先に進んだ。
地蔵様や道祖神というのも旅とは密接に結びついた神仏信仰の対象で、私も気になった時には手を合わせて行くことにしている。
途中、後ろから軽トラが来て驚かされる。先方もキャリア装備の自転車に驚いたことだろう。その軽トラをやり過ごした後、おのころ山への分岐地点付近に達すると道の先に、追い抜いて行った軽トラが停まっており、人の話し声が聞こえてきた。
私は分岐点で路傍に自転車をデポし、徒歩でおのころ山山頂を往復。山頂には石仏群と案内標識、東屋があった。ここには三角点もあったはずだが、沼島の三角点は石仏山の方にあると勘違いしていたので、三角点を探さずに素通りしてしまったのが悔やまれる。
自転車に戻って出発の準備をしていると先ほどの軽トラが前からやってきたのでやり過ごす。
軽トラが停まっていた辺りには何かの観測装置が設置されていたので、彼らは研究者なのかもしれない。
おのころ山周辺には海岸に向かう幾つかの分岐がある。
外周道路自体は海岸線には出ずに内陸側を通っているので、海の気配を感じるというよりも山道に近い様相だが、分岐から枝道を辿っていくと浜や岬があるようだ。
おのころ山でも見落としがあったことだし、次回、沼島を訪問する時は、トレッキングスタイルで枝道も探りながら、一日かけて周ってみたいと思う。
急勾配を降っておのころ園地からの道に合流した後、その道を登り詰めて海岸線に出ると上立神岩の展望台となる。7時51分。4.2㎞。
自転車で周ってきたものの徒歩と変わらぬくらいの速度だったのはアップダウンの激しさゆえに押し登り区間が多いためである。
上立神岩は沼島随一の名勝と言ってもよいだろう。
国生み伝説で登場する「天沼矛」は、この上立神岩を指すという説もあるようだ。
生憎、この朝は曇天で、すっきりと晴れ渡った海に突き立つ奇岩を眺めることは出来なかったが、それはそれで、国生み伝説の謎を感じさせる風景でもあった。
「上」立神岩というくらいなので、「下」立神岩もあるのだろうと調べてみると、少し西の海岸沿いに「下」立神岩があるようだ。そちらは断崖と岩礁に阻まれて陸路でのアクセスが難しく観光化はされていない。
季節外れの早朝にこの名勝を訪れる人はいない。一人静かに国生み伝説の地で過ごしたのち出発。8時発。




ここからは沼島東側の外周道路を周ることになるが、その取り付きの登りは斜度20%超はあろうかという急坂で押し登りを要する。
この東側の外周路に沿って、山ノ大神社、沼島灯台、石仏山などがある。
石仏山は沼島灯台付近にあって島の最高峰でもある。ここにも三角点があるのだが、私が携帯していたGPSのマップではおのころ山にしか三角点記号がなく、石仏山には三角点が表示されていなかったので、こちらも素通りしてしまった。この他、島の北端にも三角点があったがここも訪れていない。どうも準備不足ではあるがそれは再訪を促す天啓なのだろう。
沼島灯台から先に進んだ区間で、僅かばかり、紀淡海峡の風景が開けるところがあった。朝日を受けた紀淡海峡は冬型の不安定な天候の下にあって雲も多かったが、彼方には生石鼻から友ヶ島にかけての陸影が見えていた。
北端の岬を周り込んで沼島港に戻ってくる。ちょうど、外周道路の東側の入り口に当たるところに神明神社があるので、最後に参拝して道中の安全に感謝をささげ、外周道路の探訪を終えた。
この後、沼島港に戻って島の鎮守社である沼島八幡神社にも参拝。
島の集落道を辿ったり、厳島神社から沼島港を撮影したりした後、沼島汽船乗り場に到着した。9時19分。9.4㎞。
2時間52分で9.4㎞を周ってきたことになるが、押し登りが多かったことを考えても、徒歩で周って十分間に合う行程だったように思う。
沼島港から眺める港外は今日も白波が立っており、淡路島本土側には冬型の天候を思わせる雲や雨域が広がっているようだった。風も相変わらず強く今日の行程も風に悩まされそうだ。
それでも、冬の静かな沼島を訪れることが出来たのは幸いなことで、再訪の思いを新たにする。
沼島発、9時50分。









土生港には10時着。沼島から見えていたとはいえ、僅か10分の航海を経て辿り着いた淡路島本土は今にも降り出しそうな暗い雲に覆われていた。
今日はここから福良まで走り、その後は、淡路交通鉄道線の廃線跡を行くのだが、廃駅とは言え駅の数が比較的多いため、洲本で落ち着くのは日没後になる見込みだった。
相変わらず北西の季節風が強く、福良までの行程の大半は向かい風の中を行くことになる。
本格的な天気の崩れはないと分かっているものの、上空を覆う暗い雲から逃げるように、直ぐに土生港を出発する。10時10分発。
ここから土生海岸付近までの行程は昨日と重複する。そこに急登があることも承知しているが、2度目の通過になると1度目より楽に感じるから不思議なものだ。この先どれくらいの傾斜でどれくらい続くのかという見通しが立っているからなのだろう。見通しが立とうと立つまいと、これから越えて行く道の傾斜が変わり急勾配が短くなることはない。それでも、実際に軽く感じるは事実である。
これは些細なことではあるが、人生の教訓としても使えそうな話で、不安の正体はそういうものなのだろう。
土生海岸付近まで来ると上空の雲が吹き払われたのか、昨日と同じような晴天が広がってきた。
土生海岸から登り切ったところで県道76号線からは別れ集落道に入る。
この先、淡路島西南端の潮崎に向かって小径が続き、幾つかの集落があるので、今日はそちらを丹念に巡りながら阿万海岸に出るルートで走る。
このルートは一般的な淡路島周回のルートにも入らず、アップダウンも激しい難路である。
途中、地野、仁頃の2集落があり、それぞれに皇大神社があるので集落の鎮守社としてこれらにも参拝していく。
仁頃には11時4分着。17.3㎞。
ここは生石鼻と対をなす淡路島南岸の中央構造線断層面一端に当たり、生石鼻~熊田海岸~中津川集落付近と同様、やはり海岸沿いを行く道が断崖で途絶している。地形は更に険しく、元あった道が消失したというよりも元々道はなかった場所で、仁頃漁港まで降ってきた道は、そこで断崖に阻まれて行き止まりとなっている。
仁頃集落の少し東の道路上には118mの独標があるが、当然、仁頃漁港は0m付近まで降ってくる。この先は行き止まりなので、今しがた降ってきた分を登り返さなければならない。
淡路島南岸の各集落はいずれもそういう厳しい地形の中に立地している。
「ちゃり鉄」の旅ではそれらの集落を一つ一つ丹念に巡ることが出来て良かったと思うが、重積載の自転車での行程は体力の限界を試す行程でもある。
勾配途中の皇大神社に参拝しつつ、高台からの風景に癒されて仁頃出発。11時7分。






ここから潮崎付近にかけては地理院の地形図上では道が続いているように描かれているが、実際に現地に行ってみると分岐地点は藪となっており事実上の廃道である。目の前の藪を突っ切ればその向こうに道型が復活するのかもしれないが、ここは強行突破することなく一旦阿万海岸に降り、そこから引き返して潮崎方面に向かった。
ただ、潮崎自体は道なき陸の突端で灯台もない。54mの独標が描かれているが、西と南は断崖に阻まれ、北と東は小径が刻んだ谷に隔てられた、小丘状の地形である。
また、潮崎温泉という記載もあるが、温泉旅館や入浴施設があるわけではなく、源泉施設があってお金を払って温泉を汲んでいけるだけのものなので、ここで温泉に入ろうとしても叶わない。
この岬手前の車道末端に近年になって洋食屋もオープンしたようだが、「ちゃり鉄」の旅で訪れるには少々敷居の高い料金、雰囲気だったので、昼食には良い時間帯だったが立ち寄らずに引き返した。
特に展望が開ける場所もない潮崎周辺だったが、僅かに風景が開けた場所で、遠くに大鳴門橋と鳴門海峡が見えてきた。
潮崎から阿万海岸、吹上浜を経て押登岬を要する大見山を越えて行く。
ここにはホテルニューアワジ系列の大きなホテルが建っており、遠くからでもその姿がよく目立つが、実際に横を通り過ぎると、オフシーズンの昼間という事もあって、廃業したのかと感じるほど人の気配がなかった。
大見山のある一帯は、こういった観光施設が点在しており、その拠点は福良の街にある。
ここに来て鳴門海峡の風景が「車窓」を彩る中、バランスを崩すような強風に難渋しつつ福良に到着。12時47分。35.2㎞。







この福良から洲本までの間は今でも淡路島の経済活動の中心地となっているが、1966年10月1日までは淡路交通鉄道線も走っていた。廃止の理由はもちろんモータリゼーションの進展に伴う経営難であったが、それにしても淡路島に鉄道が走っていたという歴史は余りにも影が薄いように感じる。
この鉄道は1922年11月26日に淡路鉄道として誕生しており、当初は洲本口(後の宇山)~市村間が第1期開業区間であった。その後、1923年11月22日に市村~賀集間、1925年5月1日に宇山~洲本間、1925年6月1日に賀集~福良間が開業して、全線開業に漕ぎつけた。
1943年7月1日に経営統合されて淡路交通となったのは戦時体制下での交通統制の影響を受けたものである。
廃止時期が1966年10月1日ということもあって、道路転用された区間が多いこの鉄道の遺構は少ないが、既に多くの先人が廃線跡探訪を実施し、僅かに残る路盤や橋台の跡を見つけては記録に残しているようである。
私の「ちゃり鉄」の取り組みでも、そういう個々の鉄道施設にスポットを当てて旅をすることはあるが、この「ちゃり鉄24号」では福良から洲本までを往時の車窓風景を偲びながら走る「ちゃり鉄」に重点を置くことにした。
福良では今もバスターミナルとして残る駅の跡を訪れて出発。12時58分発。
路線跡はここから東の洲本を目指して車道転用されながら続いているが、私は一旦福良港の観光施設に向かい、そこで鳴門海峡の観光船が発着する様子を眺めつつ「生しらす丼」の昼食を摂った。
昼食の後、一路、洲本に向けて出発。
沿線は南あわじ市域と洲本市域に跨っており、南あわじ市域は三原川水系、洲本市域は洲本川水系に含まれる。この分水界が淡路長田駅跡と淡路広田駅跡の3.4㎞の区間にあり、現在の国土地理院地形図上では県道125号洲本松帆線に59mの独標が記されている。分水界と市域界は一致しておらず、南あわじ市域は若干洲本川流域にまで入り込んでいる。
いずれにせよ、沿線の最高地点で60m弱という事になるので、ここ数日続いた登り急勾配からは解放される。北西の季節風が吹く中で東向きに進むので、風も追い風になるだろうと思いきや、地形の関係があるのか、何故か向かい風になっている区間も多く、洲本に到着するまで案外風に振られたり押し戻されたりする場所も多かった。
沿線の鉄道遺構は少なく、また、駅の跡も記念公園などに転用・整備されているところはないので、そうと知らなければ廃線跡を辿っていると認識することは困難ではあるが、転用された車道の緩やかな曲がり具合などに鉄道時代の面影を感じながら走る事ができる。
御陵東駅跡付近には淳仁天皇陵があり、自凝島駅跡付近にはおのころ島神社もある。この他、沿線の地名には神代國衙、神代地頭方、倭文委文、倭文神道といったものもあり、国生み伝説も相まって日本創世の歴史を感じさせる一帯でもある。
自凝島~掃守間の鉄道廃線跡は自転車道として往時の雰囲気を色濃く残しているが、そんな自転車道は地元の中学生の通学路になっているようで、ヘルメットを被った中学生たちが大挙して下校する車列に出会った。
男子はバラバラに足早に走り去り、女子は数名ずつのグループになって走り、交差点ごとに数名ずつが別れて行く。その様が微笑ましくもあるが、追い抜くに追い抜けず、後ろからずっとついていく形になったのが、変質者のようで恥ずかしかった。
この通学路が鉄道の廃線跡だと知っている中学生はどれくらいいるのだろうか。
三原川流域の廃線跡は、田畑の中に集落を結ぶ車道としてその線形に面影を残しているが、洲本川流域の廃線跡は住宅地の中に飲み込まれてしまい、再開発などもあって道路としても辿ることが出来ない区間が多くなる。
古い地図を参考にしながら、駅があったと思われる場所をポイントデータとしてGPSに取り込んでいったのだが、実際に現地に立ってみても、そこに鉄道が走っていたとは想像できない場所が殆どだった。
それでも往時の鉄道の車窓は、遠くに諭鶴羽山地を眺めつつ、田園と集落の中を行く長閑なものだったのだろうと想像できた。
鉄道ターミナルだった時代の面影を今も色濃く残す洲本駅跡には16時36分着。64.6㎞であった。






洲本では大浜海岸辺りで適当な東屋を探して野宿しようと思っていたのだが、3日目に生石公園に向かう道中で走り抜けた際に下見した限りでは、野宿に適した東屋は見当たらなかった。
この日も改めて大浜海岸を流してみたが、やはり、これという場所は見つからない。
一層のこと、洲本城跡の方に登ってもいいかと思いつつ、一先ず、洲本八幡神社や厳島神社にお参りして、この日の行程の無事に感謝。洲本八幡神社では小雪が舞ってきて驚かされるが、そういえば昨年同時期に「ちゃり鉄22号」で訪れた小豆島でも、寒波に見舞われて降雪や凍結があったのだった。
日が暮れ始めて体も冷えてきたので、野宿場所の結論は後で出すことにして、目星をつけていた東光湯に立ち寄った。
ここは温泉ではなく街中銭湯だが、観光客向けの施設ではなく地元の人が通う施設なので、旅の情感としてはこちらの方が好ましい。
昔ながらの佇まいの銭湯に浸かって体を温めた後、脱衣場の横にある休憩室で周辺の公園などを調べ、大浜海岸の北にある中浜公園に良さげな東屋があるのを見つけたので、今夜の目的地はそちらに変更。
18時14分。中浜公園着。69.5㎞。
序盤は沼島の探索に充てていたこともあって行程は短かったが、福良から先も風に悩まされる区間が多く、意外と疲労感のある一日だった。
洲本港に面した公園には、時折ドライブの車がやってくる様子があったものの、誰かに眠りを妨げられることもなく静かな夜を過ごすことが出来た。街明かりで煌めく洲本港の水面の向こうにライトアップされた洲本城が佇む姿が印象的だった。




~続く~