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初田牛駅:JR根室本線|追憶の旅情駅探訪記

JR根室本線・初田牛駅(北海道:2015年12月)
旅情駅探訪記

初田牛駅:調査記録

文献調査記録

主要参考文献リスト

  • 「北海道鉄道百年史 上(日本国有鉄道北海道総局・1976年)」(略称:「百年史」)
  • 「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」(略称:「建設概要」)
  • 「鉄道省告示第112号・鉄道省告示第113号(官報第2475号・1920年10月30日)」(略称:官報)
  • 「停車場変遷大事典 Ⅱ(石野哲・JTB・1998年)」(略称:「停車場事典」)
  • 「釧路鉄道管理局史(釧路鉄道管理局・1972年)(略称:「管理局史」)
  • 「JR釧路支社 鉄道百年の歩み(北海道旅客鉄道株式会社釧路支社・2001年)」(略称:「百年の歩み」)
  • 「北海道鉄道各駅要覧(札幌鉄道局・1923年)」(略称:「各駅要覧」)
  • 「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」(略称:「初田牛百年」)
  • 「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」(略称:「各駅停車」)
  • 「ばく進の記録 : 蒸気機関車 (NHKブックスジュニア ; 5)(市川潔・壇上完爾・日本放送協会・1972年)」(略称:「ばく進の記録」)
  • 「駅名の起源(札幌鉄道局・北疆民族研究会・1938年)」
  • 「駅名の起源(日本国有鉄道札幌地方営業所・1950年)」
  • 「北海道 駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・鉄道弘済会北海道支部・1973年)」
  • 「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」
  • 「北海道の駅878ものがたり駅名のルーツ探求(太田幸夫・富士コンテム・2004年)」
  • 「写真生活30年の軌跡 黒白写真の世界(根室本線編)(仁木てるお・2010年)」
  • 「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)」(略称:「北海道の地名」)
  • 「角川地名大辞典 1 北海道上巻(角川書店・1987年)」(略称:「地名大辞典」)
  • 「根室市史 上巻(根室市・1968年)」(略称:「根室市史」)

初田牛駅周辺の路線建設史

初田牛駅は根室本線の厚床~別当賀間の旅客駅であった。

根室本線自体は滝川~根室間443.8㎞を結んでいた時代もあり、道内は勿論、全国屈指の長大路線であったが、建設史を紐解いてみると旭川、釧路を拠点として部分開通と延伸を繰り返しつつ敷設された路線であった。

「百年史」の記述によれば、旭川~帯広間は十勝線、釧路~帯広間は釧路線、滝川~下富良野(現・富良野)間は下富良野線、釧路~根室間は根室線という名称で建設工事が進められ、路線全体としては釧路線、釧路本線、根室本線という形で線路名称の統合が行われてきた路線である。

最終的には滝川~根室間の路線であったが、歴史的には旭川~釧路間の釧路線時代を経て、滝川~下富良野(現・富良野)間の開業に伴って起点が滝川に変更されるとともに釧路本線に名称変更がなされ、根室開通によって晴れて根室本線となったのである。

今日、その内の富良野~新得間が廃止され、滝川~富良野間と、新得~根室間に分断されてしまったことは記憶に新しい。また、釧路本線の成立時に分離された旭川~下富良野間は富良野線となっている。

このうち初田牛駅が属した根室線区間については「百年史」に以下のような説明がある。

本線は明治29年の「北海道鉄道敷設法」による第1期線として、敷設するべく選定されたもので、明治30年以降12年間の継続工事として第10回帝国議会の協賛を経たところ、その後本道拓殖進展の都合により第2期線に繰り下げられ、明治45年3月に至りようやく釧路を起点として雪中調査を始め、次いで翌4月から実測に着手したものである。

建設工事は全区間を8工区に分け、大正3年8月に着手した。

…中略…

釧路と根室の国境を縫って厚床停車場を設け、なお国境に向い東進して右に転じ再び厚岸郡に入り、別当賀川橋りょうを渡り南東に進んで再び国境に向かい、次第に東進して国境を越えて初田牛停車場を設けた。

以下略…

第2編 第4章 第1節 第10 根室線(現・根室本線)
「北海道鉄道百年史 上(日本国有鉄道北海道総局・1976年)」

この根室線としての第1期開業区間は釧路~厚岸間で1917年12月1日、次いで第2期開業区間は厚岸~厚床間で1919年11月25日、第3期開業区間は厚床~西和田間で1920年11月10日、第4期開業区間は西和田~根室間で1921年8月5日との記載がある。

根室本線への線路名称の変更は、この1921年8月5日のことであった。

また、この根室線の敷設に当たって現在の釧路駅の位置に2代目の釧路駅が設けられ、釧路本線時代の初代釧路駅は浜釧路駅と改称されている。

この浜釧路駅について「建設概要」には「海陸連絡貨物専用の駅」として残したという経緯が記されている。

路線敷設の経緯から見ても、利用実態からみても、運行形態から見ても、本文で触れた宮脇俊三氏の言葉のとおり、「釧路本線と根室線」というのが的を射た線路名称の付け方ということになるだろう。

とは言え、そのような線路名称の付け方がなされていたら、国鉄末期にいち早く根室線が廃止されてしまっていたかもしれない。

以下に示すのは「建設概要」の総説である。

「百年史」の記述の原典となった書籍として重要なので、記述内容が重複する部分もあるが画像として引用する。なお、原稿は2頁に渡っているので、引用に当たり各頁を集成し修正部分に黒い区切り線を入れた。

引用図:総説「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」
引用図:総説「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」

「百年史」には記述されていない部分として、「根室線が第1期線から第2期線に繰り下げられたのは、網走線や留萌線を第2期線から第1期線に繰り上げた結果である」という点、「厚岸以東の区間は、釧路~厚岸間と比べて工事は簡易と思われていたものの、時局の影響によって物価や賃金の高騰に見舞われて事業遂行に苦心を生じた」という点を、特記しておきたい。

留萌線は港湾都市留萌と空知・石狩とを結ぶ路線として、網走線は十勝から北見地方に至る路線として、それぞれ重要視されていた路線であるが、根室線はそれらの路線と比して、相対的な重要性が低いと位置づけられていたことが分かる。

しかし、前者は留萌本線として、後者はちほく高原鉄道としての営業を最後に、いずれも全線が廃止されてしまっており、根室本線に組み込まれた根室線は廃止の検討俎上に乗りながらも、一先ず存続しているのは歴史の妙である。

また、「第3期開業区間は厚床~西和田間で1920年11月10日」と先にまとめたが、1920年は大正9年であり、これは、第一次世界大戦が終了した後の世界的な戦後恐慌が勃発した年でもあった。「時局の影響」とはこうした情勢を示すものであろう。

続いて以下に示すのは「建設概要」の「工事ノ槪況」の記載中、厚床根室間について記述した部分と工区別工事数量等の一覧表である。これも原稿は3頁に渡るので集成している。

引用図:工事ノ槪況「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」
引用図:工事ノ槪況「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」

これによると、根室線は第一工区から第八工区に分かれて工事が行われており、厚床根室間は第七工区、第八工区に含まれていた。うち厚床~西和田間が第七工区に該当すると思われるが、「概して容易」だったことが記されている。既にまとめた総説の記述と少し食い違いがあるが、社会情勢を背景とした困難はあったものの、技術的な面での敷設工事自体は「概して容易」なものだったのだろう。

また、「釧路起點六十哩ノ釧路根室ノ國境付近ニ於テ築堤ノ最高四十呎餘ニ達スルモノアリシ」とあるように、釧路起点60マイルの地点に釧路と根室の国境があった。

これは工区で見ると第七工区に含まれることになるが、より具体的には、厚床駅と初田牛駅の間に当たる。というのも60マイルは㎞換算で約96.5㎞であり、現在の釧路駅を起点とした営業キロ換算で見た時、厚床駅は90.5㎞地点、初田牛駅は97.6㎞地点に当たるからだ。これは「百年史」の記述として引用した「国境を越えて初田牛停車場を設けた」という部分とも整合する。

ということは、第六工区の終点であった厚床駅は、旧釧路国の東端にあたる国境の終着駅であり、そこから国境を越えて根室国に入り、更に東進していく工区が第七、第八の二工区だったということになる。

ただ、この一覧表の竣工年月に関しては、第七工区が(大正)八年十一月、第八工区が同九年九月となっており、他の工区の竣工年月も合わせて疑問がある。

続いて以下に示すのは釧路本線の厚床~西和田間延伸開業を告げる鉄道省告示を掲載した「官報」である。

引用図:「鉄道省告示第112号・鉄道省告示第113号(官報第2475号・1920年10月30日)」
引用図:鉄道省告示第112号・鉄道省告示第113号
「(官報第2475号・1920年10月30日)」

ここでは釧路本線の区間の修正・施行と、新たに開業した停車場の位置や里程が、それぞれ告示されている。

これによると、先の考察と一致して、初田牛駅から西和田駅までの各駅は全て根室国根室郡和田村が所在地となっている。

当たり前と言えば当たり前なのだが、その辺の一致を確認する作業も「ちゃり鉄」として楽しい作業だ。

また、国境というのは地形的に特徴のある場所に設けられることが多く、特に、稜線が国境を成す事例は多い。

以下には「建設概要」に戻って「釧路根室線線路縦断面図」を引用する。

引用図:釧路根室線線路縦断面図「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」
引用図:釧路根室線線路縦断面図「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」

この断面図は横長の付録図で釧路から根室までの縦断面を一覧図示したものだが、引用したのは厚床停車場~別当賀停車場付近を示した部分である。

この図の中央よりやや左に寄ったところに初田牛停車場が記されており、駅の標高はフィート単位で259.47と記されている。メートル換算では79.1m弱であるが、これは現在の地理院地形図での計測と概ね一致する。

また、初田牛停車場のすぐ左に釧路国厚岸郡浜中村と根室国根室郡和田村との境界が記されている。

この断面図を辿っていくと引用図幅外の浜中停車場がフィート単位で257.0、引用図幅内の別当賀停車場が250.32であり、根室線区間の停車場としては初田牛停車場が最高地点に位置していたことが分かるほか、路線全体としての最高地点が初田牛~別当賀間にあったことも分かる。

現在の地理院地形図で見ると、概ねその位置付近に88mの独標があるのだが、この独標付近が根室線区間の最高地点ということになる。

「稜線」とは言い難い緩やかな起伏の最高地点であるから、国境は根室線区間の最高地点から少し西にずれた位置に設定されていたことになるが、この付近が国境となって、工区の中継地点になっていたことも興味深い鉄道建設史と言えよう。

このように初田牛駅が根室線区間の最高所の駅であったことが、軍事的にも重要な意味合いを持ったことがあるのだが、それについては後述する。

なお、根室線区間に乗車して旅を楽しむと、寧ろ、別保~上尾幌間で「峠越え」をする実感がある。

ここは釧路郡と厚岸郡の郡界にあたり、尾幌隧道で山稜線の下を抜けていくので、峠らしい峠ではあるが、釧路から向かって峠を越えた先の上尾幌停車場の標高はフィート単位で128.76と記されており、初田牛停留場の半分にも満たない。それも意外な発見であった。

初田牛駅の沿革

続いて初田牛駅の沿革を振り返ってみよう。

まずは駅の開業だが、これは既に前節でも述べた通りで、根室線厚床~西和田間の延伸開業に伴うもので1920年11月10日。「停車場事典」の記述等も相違ない。

石積みの見えるホームが物語るように、いわゆる仮乗降場由来の駅ではなく、一般駅としての開業。末期のプレハブ型の待合室の敷地には基礎のコンクリートが残っていたが、開業当時は木造駅舎で駅員も配置された有人駅だった。「百年の歩み」や「初田牛百年」には初代駅長「竹田一」氏の「大正9年11月」から第16代駅長「仁木清」氏の「昭和39年2月」までの記録が記されている。

既に述べたように、根室線としての建設当時、この路線は、釧路~厚岸(1917年12月1日)、厚岸~厚床(1919年11月25日)、厚床~西和田(1920年11月10日)、西和田~根室(1921年8月5日)という形で順次開業しており、東釧路、昆布盛、東根室の各駅以外は、開業当初から旅客の他に荷貨物も扱う一般駅として設置されている。

開設当時の情報として「各駅要覧」に記載された駅の記述も確認してみよう。

引用図:初田牛駅「北海道鉄道各駅要覧(札幌鉄道局・1923年)」
引用図:初田牛駅
「北海道鉄道各駅要覧(札幌鉄道局・1923年)」

この要覧には地方誌も簡単にまとめられているが、それによると、明治6年に青森から玉熊重吉氏が移住してきて牧畜業に従事したのが当地開発の嚆矢とされている。

玉熊氏の牧場は、その後、根室の碓氷酒造が買い受けて現在まで碓氷牧場として経営されているが、これは「ちゃり鉄18号」での訪問記として本文でまとめたとおりである。これについては、後ほど、改めて「初田牛百年」の記述を引いてまとめなおすことにしたい。

また、痩せた土壌や濃霧の影響によって農耕には不適で、住民の多くは薪炭業や漁業従事者であることが記され、戸数19戸、人口93人。主要産物は木炭や薪、昆布及び鱈で、販路は根室であることが記されている。

駅での旅客貨物取り扱いに関しては、大正十年度の統計として乗車人数1045人、発送貨物593トン(内木炭348トン)、到着貨物73トンであることがまとめられている。

今日の初田牛地区は酪農集落で、その嚆矢も牧場経営にあったのだが、当初は薪炭・漁業を中心とした集落だったのである。

もう一つ、開業当時の貴重な情報をまとめた資料を引用掲載しよう。

以下に示すのは「建設概要」に掲載された「停車場」の一覧表である。

引用図:停車場「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」
引用図:停車場「根室線建設槪要(鐵道省北海道建設事務所・1921年)」

この引用図中、冒頭の「停車場ハ門静茶内姉別初田牛及花咲ノ簡易停車場幷ニ 以下略…」という記述が目を引く。

初田牛駅は所謂仮乗降場のようなものではなかったのだが、「簡易停車場」であったという。この「簡易停車場」という用語は手元の鉄道辞典などには掲載されておらず、この「建設概要」での便宜的な呼称であるが、他の停車場と比して構造や駅施設が簡便なものだったということになるだろう。

実際、この一覧表を見てみても、簡易停車場として名前が挙げられた各駅は、門静駅を除いて概ね同じ規模であり、退避側線の最短有効長や側線延長がどれも短い。

更に初田牛駅に関して特筆すべきは乗降場に関する部分で、上下の乗降場の区別が記されていないことである。

本文でも触れたように、初田牛駅付近の線路は駅構内の前後にポイントの痕跡となる屈曲部分を残しており、かつては行き違い可能な構造を持っていたことが分かるのだが、末期は待合室側にホームがあるだけの1面1線の棒線駅となっていた。

現地の構造から察するに、元々は相対式2面2線の交換可能駅だったと思っていたのだが、「建設概要」の記述を素直に解釈するなら、停車場としての開設当初からホームは1面しかなく、列車交換用の待避線を備えた構造の駅だったということになる。

これに関しては「管理局史」に、1950年1月1日に「初田牛駅の上下本線の区別を廃し2番線を副本線とした」という記述が見られるのが興味深い。

この時に2番線が廃止されたのであるならば、それまでは2番線が存在しいわゆる相対式2面2線構造だったということになる。島式ホームだったのかということも考えてみたが、末期の初田牛駅の構造を考えてみればそれは否定される。

「建設概要」でもこれ以上の駅施設の詳細や平面図などは記載されておらず、設置当時の初田牛駅の施設がどのようなものであったかのか、資料的な根拠は見つかっていないが、読者の方からこれに関する貴重な情報もご提供いただいたので、後述することにする。

また、「百年の歩み」には1944年12月2日に駅舎が改築されたという記録がある。この時に改築された木造駅舎が廃止後の案内看板に掲載されている旧駅舎であったと思われる。

この旧初田牛駅舎の写真は少ないが、「初田牛百年」にも同じ写真が掲載されているので、以下に引用掲載しておきたい。

私の生まれる前には末期のプレハブ駅舎に建て替えられていたので、この旧駅舎時代の初田牛駅は記録写真で眺めるだけだが、この旧駅舎当時の初田牛駅を訪れてみたかったと思うのは私だけではないだろう。

なお、「百年の歩み」によると、最後の駅舎への改築は1977年10月24日のことであった。

引用図:旧初田牛駅舎「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:旧初田牛駅舎
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

これ以外の所蔵図書で初田牛駅の写真を収めたものは2冊あったが、いずれも、改築後の最後のプレハブ駅舎時代のものであった。

既に述べたように最後の改築が1977年10月24日だったために、これらの書籍の編集・出版時点では、既に木造時代の旧駅舎は失われた後であった。

また、「各駅停車」には配線図も掲載されているが、これも、1面1線駅化された後のものであり、待避線が利用されていた当時の配線の様子を図面を通して知ることは出来なかった。

以下には、これらの写真や図面を引用掲載しておく。

引用図:根室本線・初田牛駅 「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:根室本線・初田牛駅
「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:根室本線・初田牛駅 ~落石駅「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:根室本線・初田牛駅 ~落石駅
「国鉄全線各駅停車 1 北海道690駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)」
引用図:初田牛駅「JR釧路支社 鉄道百年の歩み(北海道旅客鉄道株式会社釧路支社・2001年)」
引用図:初田牛駅
「JR釧路支社 鉄道百年の歩み(北海道旅客鉄道株式会社釧路支社・2001年)」

初田牛という北海道らしい駅名は地名に由来する。

それは「各駅要覧」の中の記述が既に、所在地として「字初田牛」としていることからもはっきりしている。だが、その地名としての「初田牛」はどういう謂れなのかというと、それはありがちなことだが、諸説あって定かではない。

以下には、駅名の起源に関する鉄道関連の解説を古いものから順に5つ紹介しよう。

アイヌ語「ハッタ、ウシ」から出たもので、(葡萄を採る澤)の義を有してゐる。蓋しこの地方は昔野葡萄が多かったので、斯く呼ばれたものと思はれる。

「駅名の起源(札幌鉄道局・北疆民族研究会・1938年)」

アイヌ語「ハッタラ・ウシ」(山葡萄を採る澤)から出たものであるといわれているが、「ハッタラ・ウシ」(淵のあるところ)から出たものではないかと思われる。

「駅名の起源(日本国有鉄道札幌地方営業所・1950年)」

アイヌ語の「ハッタラウシ」、すなわち「オ・ハッタラ・ウシ(川口にふちのある所)から出たもので、現在も川口が深いふちとなっている。

「北海道 駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局・鉄道弘済会北海道支部・1973年)」

オ・ハッタラ・ウシ(川口が淵になっているところ)の音訳と言われる。

「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」

アイヌ語の「ハッタラウシ」、すなわち「オ・ハッタラ・ウシ」(川口にふちのある所)からでた。

「北海道の駅878ものがたり駅名のルーツ探求(太田幸夫・富士コンテム・2004年)」

こうしてみると、葡萄説と川淵説とがあり、次第に川淵説に集約されてきているようにも見える。

「ちゃり鉄18号」で訪れた海岸沿いには、初田牛川と和田牛川のそれぞれの河口付近に漁業集落が残っており、うち、和田牛川の河口の集落には「ヲワッタラウシ」の地名表記がなされていることを既に述べた。

草地が広がる現状だけで見るとこの地に葡萄があったとは想像しがたいが、開拓期以前の北海道は原生林に覆われた未開の土地であり、そこにつる性植物が繁茂していた可能性はゼロではない。

これについては、後ほど節を改めてまとめることにしよう。

初田牛駅周辺の集落動向は小学校の生徒数の推移から窺い知ることが出来るが、「初田牛百年」の記述によれば、小学校の生徒数は「昭和三十四年~三十五年生徒数五十九名をピークとして以降減少をたどる」とある。西暦では1959年~1960年ということになる。

それに呼応するかのように、以降、初田牛駅の業務範囲も縮小していくことになる。

まず、1962年12月9日付で「車扱貨物及び集荷配達の取扱廃止」という情報が「停車場事典」や「百年の歩み」に記載されている。続いて「百年の歩み」の記述によれば、1964年4月1日に業務委託駅に変更、1971年10月2日に無人化された。

この1971年10月2日の無人化は「停車場事典」の記述によると「旅客手荷物小荷及び小口扱貨物(不配)→旅客」という変更で、貨物や荷物の取り扱いの廃止を伴うものであったが、その背景については「初田牛百年」の記述が手掛かりになる。

詳しくは周辺地誌の節でまとめることにするが、初田牛地区の発展のきっかけとなった酪農業の産物である乳製品の出荷が、鉄道輸送から自動車輸送に切り替えられたことが、駅営業範囲の縮小の直接的な原因の1つであった。

ただ、このように鉄道から自動車への変化は1960年代に始まっていたものの、周辺集落の子供たちの通学においては、依然として鉄道が重要な手段でもあった。

初田牛には小学校も設置されてはいたが、集落に学校がない中学生たちは鉄道に乗車して厚岸の中学校に通う日常生活を送っていたのである。

この生活に関して興味深い情報があったので以下に引用する。

引用図:赤字のローカル線 "通学貨物列車"「ばく進の記録 : 蒸気機関車 (NHKブックスジュニア ; 5)(市川潔・壇上完爾・日本放送協会・1972年)」
引用図:赤字のローカル線 “通学貨物列車”
「ばく進の記録 : 蒸気機関車 (NHKブックスジュニア ; 5)(市川潔・壇上完爾・日本放送協会・1972年)」

これによると、駅が無人化された後の1972年4月から、毎朝7時40分に釧路行き貨物列車が臨時停車し、厚床の中学校に通う9人の男女中学生が、貨物列車の車掌室に乗り込んで通学したというのである。そのために、「通学生貨物列車便乗承認証」が発行され、それを携帯して厚床までの1駅間を通学していたというのであるから、大らかなものである。

しかも、その背景の記述も興味深い。それによると「従来は毎朝6時22分の旅客列車で通っていたものの、その場合、8時10分の授業開始まで1時間半もの間、火の気のない教室で待つことになる。それを不憫に思った子供たちの親が教育委員会に相談し、その教育委員会が国鉄に頼んでこうした便宜措置が実現した」のだという。

世の中が「合理的」になったはずの今日では考えにくい出来事ではあるが、却って「合理化」とは何なのかを考えたくなるエピソードでもある。

なお、この便乗乗車の便宜措置がいつ頃まで続けられたのかは、資料がなく確認できていない。

無人化から廃止への流れについては、初田牛駅に限らず、私が「旅情駅探訪記」として取り上げる多くの駅で共通の出来事であるが、初田牛駅についてはここで是非とも取り上げておきたい話がある。

2026年6月のことだが、当サイトの問い合わせフォームから、初田牛駅に関しての情報提供のご連絡をいただいた。

ご連絡主は「百年の歩み」等の文献にも記された第16代駅長「仁木清」氏の御子息。初田牛駅最後の駅長さんのご家族からのものであった。

ご連絡には「初田牛駅、最後の駅長」という表題とともに、「私の父は、長い鉄道員生活の最後を、初田牛駅の駅長として終えました。当時の鉄道員の定年は55歳でした。わたし達家族も同行しました。当時、初田牛は鉄道保線員の家族も住んでいました。木造の駅舎の前で、愛犬と微笑む写真があります。その後、無人駅になるまで、父は委託を受けていました。」というメッセージが添えられていた。

その後、メールでのやり取りを経て、当時の思い出を綴った手記と写真をご提供いただいたので、ここにその全文を引用紹介したい。

根室本線初田牛駅は、私の父が最後の駅長を務めた駅である。

父は長い国鉄勤務を、実に多くの小さな駅を職場とした。最後をこの駅で迎え、それは昭和39年であった。その後委託駅員となり、委託駅の廃止まで10年ほど旅客を扱う駅員として働いた。

今日、巷の鉄道趣味bookには“秘境“度の高い駅として記載されているが、当時の初田牛には鉄道官舎が4,5軒、駅前に民家、商店、小学校もあった。過ぐる日、訪れたその地は、往時の建物の跡もなく、自然に還っていた。戦時には米軍機の監視塔も備えた木造の大きな駅であったが、いつのときか解体され、小さなプレハブの駅舎に替わっていた。そしてその駅舎も朽ち始めていた。

主のいない駅は寂しいものである。このような駅を無人駅と称するが、いつの頃からであろうか、このような駅が多くなったのは。かっては、乗降客がいなくても駅員がいるのが普通のあり様であった。

小さな町には小さな駅、大きな町には大きな駅、実に多くの駅があった。それらの駅には必ず駅員が配属されていた。春には駅員の異動が新聞に掲載され、子供心に、それらの駅を追うようにして見た。西和田駅、落石駅、別当賀駅、厚床駅・・・、高島駅、利別駅、仙美里駅、喜怒哀楽が混交する異動辞令であった。今はすべて無人駅、あるいは廃線廃駅になった。

異動は必ず家族を伴い、単身赴任ということはあり得なかった。異動は家族をも巻き込むドラマなのである。見知らぬ町、見知らぬ駅、どのような人が住み、どの様なドラマが展開されるのだろうか。私は父の異動に伴い、高校を卒業するまでに、実に7回の移動をした。鉄道員の生活はその様なものであった。

「写真生活30年の軌跡 黒白写真の世界(根室本線編)(仁木てるお・2010年)」
引用図:初田牛駅 1964年「写真生活30年の軌跡 黒白写真の世界(根室本線編)(仁木てるお・2010年12月)」
引用図:初田牛駅 1964年
「写真生活30年の軌跡 黒白写真の世界(根室本線編)(仁木てるお・2010年12月)」

私が「旅情駅」という言葉に託して記録に残し、記憶に留めたいと願うもの。

それが、この手記には満ち溢れているように感じる。

駅とはその語源が示すように、元々は、交易路にあって人馬を中継するために、制度的に等間隔に置かれた施設であり、律令時代にまで遡る古い歴史を持っている。

北海道においては開拓期に「駅逓」が制度化され施設が置かれたが、この初田牛でも、開拓者の嚆矢として入植した玉熊氏が駅逓を営み、その公用馬を育成した牧場が今日の碓氷牧場に引き継がれてきたことは既に述べたとおりである。

そういった中継地であったため、駅には人の集散離合があり、宿場町を形成して発展したところも少なくない。

明治期に入ると、それまでの人馬水運に変わって鉄道が交易の主体を担うようになり、従来の交通体系は大きく変貌を遂げることになったが、「駅」という古来からの呼称が「Station」の訳語として用いられ、文明化以降も現代に至るまで用いられているのは、「駅」の本質的機能を理解する上で重要な事実であるように思う。

しかし、今日、その鉄道もまた自動車と道路網の発達によって衰退の一途を辿っており、「駅」の機能は変貌を遂げつつも全体的には低下、衰退しつつある。無人化を経て廃止に至る例は枚挙に暇がない。

勿論、一部大都市圏の鉄道網や新幹線といった中枢系の鉄道インフラは強固に維持されているが、地方路線のような末梢系の鉄道インフラは合理化の名のもとに消滅の一途をたどっており、「本線」の名を冠した路線ですら分断され、廃止されている現状は私が指摘するまでもない。根室本線もその例に漏れず、富良野~新得間が廃止されてしまっている。

私はその道の専門家ではないので、こうした変化を論じて否定することも肯定することも出来ないが、末梢系を失って中枢系だけになりつつある社会システムには、一抹の不安を禁じ得ない。

私が「ちゃり鉄」の旅で訪れ、「旅情駅」として取り上げる駅も無人駅が多い。

それは駅としての末期の姿であり、人が集う場所としての駅の姿からはかけ離れているが、それでもなお、駅として存続している限りは維持管理され、夜になれば明りも灯る。

寂しく孤独な情景ではあるものの、どこか温もりも感じられるのは、駅が本来持っていた「人が集う場所」としての機能故ではないかと思っている。

その駅を守った大勢の鉄道員や、その駅を利用した大勢の人々の思いは、無人化されてもなお、駅が存続する限りその場所に残っているように感じるのである。

それを私は「旅情」と表現している。

だが、それもまた、駅が廃止されてしまうと急速に薄れ朽ち果てていく。亡骸が体温を失って冷たくなっていくように、駅に漂っていた温もりも失われ思い出を経て歴史の領域へと遠ざかっていく。

それは残念でならないが、人に生死があるように、人の集まる集落やその玄関としての駅にも盛衰があるのは自然な事なのかもしれない。

願わくば、その記録を少しでも多く残し、記憶に留めておきたい。

初田牛駅の廃止は2019年3月16日のことであった。

仁木さんからはこの他にも初田牛駅に関する重要な情報をご提供いただいたので、ここでそれらも紹介しておきたい。

1つ目はこの節で既に触れてきた交換可能時代の初田牛駅の構造に関してである。

それによると「父が初田牛に赴任になった時は2番ホーム(上り)の跡が存在していました。縁石・側壁は外されていましたが、交換駅仕様でした。上り線は撤去されていましたが、一部は保線用の待避線として残されていました」とのこと。

後ほど、空撮画像での確認も行うが、確かに、1948年撮影の古い空撮画像には上り線側のホームや待合所らしい構造物が写り込んでいるので、1950年1月1日にこれらの上り線構造物が廃止され、暫くは退避用の副本線として利用されつつ、後年には一部が撤去された上で横取り用の側線として残されていたということになりそうである。

この旧上り線の跡は、今日でも、本線の南側の草むらの中に残っている。

2つ目は戦争と初田牛駅との関係である。

「駅は戦争末期に 根室市方向への米軍飛行機の監視所としても使用されたと記憶しています、比較的大きな駅舎でした」とのこと。

既に述べてきたように、初田牛駅は根室線区間において最高所の駅であったことから、軍事用途でも利用がなされており、「初田牛百年」の中にも「初田牛駅は日本有数の小さい駅と云われたが、戦時非常時には対空監視場として活躍した」ということが記されている。

根室地域の大正期までの旧版地形図には凡例が記載されていないのだが、それも軍事機密扱いだったためで、当時の日露戦争の影響を受けたものであった。

日露戦争や太平洋戦争とも関係があったという、初田牛駅の知られざる歴史の一面である。

3つ目は貨物列車への便乗通学と駅前集落の様子についてである。

これについては、本節中で「朝の釧路行き貨物列車」への便乗乗車に関する情報を文献引用で紹介したが、このほか、「下校を特例で 貨物列車に併設している荷物車に乗車していました(夕方 16:20頃)」、「鉄道職員の官舎3、4棟 浴場等がありました。駅前にはお店もありました」ということであった。

夕方にも荷物車への便乗乗車があったというのは驚くべき情報であるが、初田牛と厚床の間は鉄道の営業キロでも7.1㎞あり、学校への通学路となると8㎞前後の距離となる。しかも、当時はか細い徒歩道に過ぎなかった。

今日世の中を騒がせている熊害は当時も発生しており、そんな道を子供たちが2時間前後かけて往復することへの不安は想像に難くない。

過疎や合理化が進む時代にあって、こうした「特例」が行われていたことには、どこか、心温まるものも感じられる。

鉄道官舎や浴場、駅前商店の存在も、現在の初田牛駅前集落跡の様子からは想像もつかないが、「初田牛百年」や空撮画像の情報からは、そこに存在した集落の賑わいや様子が、しっかりと読み取れる。

これについては次節以降で改めてまとめよう。

今回、「初田牛駅の沿革」を締めくくるに相応しい手記を寄せてくださった仁木さんには、心から感謝申し上げ、この節を終えることにしたい。

初田牛駅周辺の地誌

この節では初田牛駅周辺集落の地誌にも視野を広げて、幾つかも文献調査記録をまとめることにしよう。

まずは、前節でも触れた地名の由来について、改めてまとめておくことにする。

以下には所蔵する地名関連の書籍の記述を2件取り上げた。

根室市と釧路国浜中町の境を和田牛川が流れていて、そのすぐ東(根室市側)を初田牛川が並流してる。明治のころはその川口に近い処に初田牛駅(駅逓所)があった。現在の根室本線初田牛駅はこの二つの小川の水源の丘陵上である。

永田地名解は「ハッ タウシ。葡萄を取る処。厚岸村アイヌ村田紋助云ふ。ハッタウシは葡萄を取る処の義なりと、今此説に従ふ。根室郡穂香村アイヌ村田金平はハッタラウシにて淵の義なりと云ふ」と書いた。

前説はハッ・タ・ウシ・イ「hat-ta-ush-i 葡萄を・採る・いつもする・処(川)」で、後説の方はハッタラ・ウシ・イ「hattar-ush-i(淵が・ついている・もの(川))」と解されたのであろうか。

どっちが正解なのか今となっては分からない。古い松浦図はハッタウシなので、それが原形だとするならば前説に従うべきか。

和田牛川の方は、上原地名考ではヲワタウシ(高岩の有ると訳す)、松浦図でもヲワタラウシ、永田地名解もオワタラウシ(岩処)、明治30年5万分図も同名である。オ・ワタラ・ウシ・イ「o-watara-ush-i 川尻に・岩が・ある・もの(川)」であったろう。

ところが現在の5万分図を見るとその和田牛川下流の地名はオワッタラウシと「ッ」が入っているし、また北海道河川一覧で見ると、和田牛川の名はワツタラウシガワでこれも「ツ」が入っている。ワッタラ(wattar)はハッタラと同じで「淵」である。そんな意味があって今の名が残ったのか、あるいは単に言葉の調子で「ツ」を入れたのかは分からない。

和田牛川と初田牛川は僅か2キロから3キロの間隔で並行している小流であるので、この二つの似た名は混合もされそうだ。ワタラがワッタラとなると同様に、ハッタがハッタラ(淵)と読まれることもありそうなことである。

初田牛川・和田牛川
「北海道の地名(山田秀三・北海道新聞社・1984年)」

〔近代〕
昭和42年~現在の根室市の行政字名。もとは根室市大字落石村・原別村の各一部、初田牛・チリチャラベツ・ガガラハマ・ガッカラハマ・オワッタラウシ・落石・初田牛・別当賀。
地名アイヌ語のハッタウシまたはハッタラウシにより、ハッ・タ・ウシ・イ(葡萄を・採る・いつもする・所の意)あるいはハッタラ・ウシ・イ(淵が・ついている・ものの意)に由来する(北海道蝦夷語地名解・北海道の地名)。昭和40年代は酪農の機会化が進み、国有林の払下げもあって酪農基盤は増大された。道道落石厚床線も整備され、鉄道の利用者減少、国鉄合理化のため初田牛駅は同46年から無人化された。同47~48年、駅から浜中の海岸に通じる産業開発道路(道道初田牛浜中線)が建設された。同58年チッチャラベツ2番地に孵化場落石収容場が落石漁協によって設けられた。昭和44年の昆布漁家数2。世帯数・人口は、同45年27・123、同50年28・109。

「角川地名大辞典 1 北海道上巻(角川書店・1987年)」

いずれを見ても、やはり、葡萄説と川淵説の両方が紹介され、結論としては、どちらが正しいのか、或いは、どちらも間違いなのか、分からないというところであろう。

なお、「地名大辞典」の中に見られる「原別村」は「厚別村」の誤記と思われる。

郷土史を紐解いてみても、結局は同じ資料を参照していて記載内容は大同小異だが、それぞれに加えられている考察には特徴があるのでまとめてみよう。

まずは、根室市史の記述を以下に引用する。

引用図:根室地名解 厚岸郡界より納沙布までの海岸地名 初田牛「根室市史 上巻(根室市・1968年)」
引用図:根室地名解 厚岸郡界より納沙布までの海岸地名 初田牛
「根室市史 上巻(根室市・1968年)」

まず、冒頭。「もとは海岸の地名」と書かれていて、内陸部の初田牛が、元々は海岸部の地名であったことが明記されている。これは、玉熊牧場の牧場主である玉熊氏が、海岸沿いの旧道において駅逓を営んでいたという史実と一致するし、上記引用中に記載のある「明治三十年代の最初の五万分地図」でも、(初田牛駅)の記載と建物記号が、初田牛川河口付近の旧道沿いに描かれていることと一致する。

となれば、この「ハッタウシ」は海岸部において意味のある地名だった可能性もある。

「根室市史」では後段において、「然し葡萄は昔の生活にそれほど重要なものではなかったから、それが地名になるということの方がうたがわしい。現在は勿論この川岸は放牧地になって一本の葡萄もないし、昔から葡萄なんてみたことがないと村人はいう」と記載しているが、現地を見ると私も同じ感想を抱く。

本文において「ちゃり鉄18号」での訪問記をまとめた際、この海岸集落付近の写真も収めたが、一面の草地が広がっていて、つる性植物の山葡萄が育つような場所はない。

もちろん、これは開拓の影響を受けた現状であるから、開拓以前は針広混交林の原生林が広がっていたとしても不思議はないが、「根室市史」が触れている「明治三十年代の最初の五万分地図」を見ても、初田牛川の下流部には荒れ地や笹薮の記号が付されており、それ以前から、この付近の植生は大きくは変化していないと考えられる。

また、日当たりの良いところで育つ山葡萄が、冷涼な気象条件の根釧原野において、地名となるほどの生育地を形成したとも考え難いのである。

であれば川淵説が正しいのかというと、「根室市史」は永田方正の地名解の解説にある「未タ『ハッタラ』ノ下ニ『ウシ』ノ詞ヲ加ヘタルヲ聞カズ」という記述を引いていて、この説も、信憑性が高いとは言えない状況である。

私は「ちゃり鉄18号」でこの地を訪れた際、両河川の河口を調べたわけではないが、「根室市史」に記されたように、河口付近に岩に挟まれた深い淵が存在するなら、もしかしたら「川淵説」を裏付ける証拠になるかもしれない。

続いて「初田牛百年」の記述を確認してみると以下のようであった。

「ハッタウシ」古書によると、厚岸村アイヌ村田紋助氏はアイヌ言葉でぶどうを採る場であると伝えられています。

…中略…

文化五年頃、厚岸から落石を経て根室に通ずる南海岸線道路が開かれた時に、和人の番屋が建てられ春から秋にかけての漁期間だけ出稼ぎに来て、漁期が終ると内地に帰り番人だけが残っていた所が、ぶどうの採れる沢が川口の砂浜であり、後の明治十二年に逓送通路が内陸路は泥湿地帯が多く曲りくねっていて不便なため廃止となり、新たに南海岸線を通ずることになり、厚岸町榊町より霧多布を経て落石駅に達する道路の中間に人馬継立所が出来た。この地が地名発生の地である。

又野付及び目梨地方を経由して北見郵政路との分岐点であった厚別駅が廃止になり、路線を南に伸ばして初田牛継立所を分岐点としたため、風蓮湖、初田牛浜間における幹線道の沿線に明治中期後半頃牧畜地として厚別地区の山林使用の認可により牧畜業者が入り始めたのが此の地の開拓の起こりといわれている。

浜初田牛に於ては、玉熊氏が駅逓を営み公用馬の牧場を経営して明治三十二年頃には、峰ひとつ西に越えた所のワッタウシ沢の浜辺に海草加工業者が住み始めて昆布を採取し、沃度の生産を始めた。

昆布採取の先住者として佐川岩太郎氏等が沃度工場を営んでいたといわれている。
浜の方も此の頃より今日の海草産業に開拓の鍬がおろされたといえる。

山林地域の牧畜業には岡本牧場、成田牧場、近藤牧場等が先住者として伝えられている。

以下略…

初田牛百年のあゆみ(由来・沿革のあらまし)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

「初田牛百年」の記述の方は、既に引用した部分も含んでいるが葡萄説を採っている。

そして、その葡萄説を採用しつつ、元々は海岸に存在した漁業者の番屋集落が明治十二年になって開削された交易路の人馬継立所となり、地名発生の地になったのだと記している。これは今の地形図で言う「初田牛川」の河口の方を指すことになるだろう。

また、海岸の漁業集落では昆布をはじめとする海草採取を行っていたようだが、これは沃度(ヨード)の生産のためだったことが記されている。

こうしてみると、初田牛地区の黎明は海岸集落(浜初田牛)にあったように思える。

以下、暫くは「初田牛百年」の記述を引用しながら、地区の盛衰の物語をまとめてみたい。

大正時代に入り、浜初田牛は落石村として、又、山林地北部は和田村として自治行政が進められてきたのである。

…中略…

現在の国道四十四号線も当時は人馬が通う程度の刈分け道路であり、すべての荷物は駄馬で根室迄運搬されていた。

大正九年鉄道が厚床から根室迄開通し同時に現在の初田牛駅が開業した。以来浜初田牛駅逓が閉鎖され、これより鉄道駅を中心として、部落が形成され地域の発展も急激に進んだ。

地名についても、駅が開設され和田村としても正式に初田牛の名が記されるようになった。

翌十年には、鉄道貨物も扱うようになり日本通運会社の派出所が設置され、請負管理者として井上長蔵氏が存在するようになった。

従って地域の薪炭生産も急激に盛んになり、各所に炭小屋が点在するようになり、駅土場には木材や薪炭が搬入され活況を呈していた。

初田牛百年のあゆみ(由来・沿革のあらまし)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

大正時代に関する記述の要所は上記のとおりである。

大正九年の初田牛駅開業はこの地域にとっては大きな出来事で、それまでの駄馬による交易は完全に置き換えられ、駅を中心とした集落へと変化していったことがまとめられている。大正十年になって鉄道貨物の取扱も始まり、日本通運の派出所が設置されたというのも象徴的な出来事であろう。

なお、この部分は既にまとめた「停車場事典」などの記述と若干相違があるが、駅が一般駅の位置づけで開業した後、それに対応する事業者が地域に入ってきたことによって、実際の貨物取り扱いが開始されたと理解することが出来るだろう。

ところで、私自身は「鉄道」を中心にものを見ているので、昨今のローカル線廃止の現実に寂しさを禁じ得ないのではあるが、その鉄道自身も、明治以前の人馬水運による交易体系にとっては「破壊者」であり、鉄道敷設によって衰退した街道や宿駅も少なくない。

この初田牛でも浜初田牛の駅逓は廃止され、以後、浜初田牛が大規模に発展することはなかった。

また、この時期は薪炭や木材の生産が活況を呈したことが記されているが、これは先に「各駅要覧」を概観した際の記述と一致している。

鉄道敷設によって海岸から内陸台地に開拓の手が加わるようになったが、まずは、駅周辺の原生林を切り開くところから作業が開始されたはずであり、その副産物として薪炭や木材を産出したということになるだろう。

この時期の記録は乏しいが、和田村誌なども閲覧することが出来れば情報は更新していきたい。

続いて昭和初期の記述を眺めてみる。

斯くして昭和の初期に入り海産物に於ては佐川栄助氏が鱒の缶詰工場を営んでいたといわれている。

畜産に於ては既に大正の末期に岩手県より安藤大輔氏が浜の初田牛沢に入植して牛飼いを始めたのに続き、昭和四年に成田栄五郎氏が成田牧場より独立をして牛飼いを始め、翌五年頃から安藤氏と共に牛乳を生産するようになり馬産と並んで酪農が芽生えたのである。

昭和十年頃には駅前市街地も二十戸位になり、列車の乗降客も増えてきた。貨車積み込みのため他方からも人が入り駅は部落の中心的存在となった。そのため駅は、部落集会や連絡等文化的機関としての役割を務めて来たともいえる。

…中略…

更に、畜産関係は玉熊牧場の用地を買受けて根室の碓氷酒造が牧場を経営するようになり、その初代場長として戸田不次郎氏がその任にあたり地域馬産の振興に大きな発展をもたらしたことである。

昭和十九年には酪農においても酪農振興会を組織して牛乳の生産対策に務めるようになり今日の酪農基盤作りの足掛かりとなったことは見逃す事が出来ない事実である。

昭和二十年代に入り、終戦時の食糧難に耐え得るための生活をめぐって特に薪炭生産が盛んになり附近の国有林に製炭業者が進出して炭焼小屋が点在した。又、浜には昆布、魚介採取のため漁家も六戸位あった。

このため部落の戸数も鉄道宿舎を含んで四十戸位になった。

昭和二十一年には酪農者の働きかけによって雪印の集乳所が建設され、地域の酪農に新しいシステムが生まれ、朝早く搾った牛乳を駅前の集乳所迄馬車で運び受け入れをしてもらい、自らの手で温ため分離機にかけ牛乳を分離してクリームを作ったこと等忘れることの出来ない歩みの一頁でありましょう。

教育関係については、小学生も厚床に通学していたので、汽車時間に遅れた時等厚床、初田牛間を歩いて通った事もしばしばであったという苦労話も沢山ある。

昭和二十二年に、地域の人口増加も頂点に達した時でもあり、これに基づき住民の強い陳情活動と住民の奉仕により、特に青年会等の力強い奉仕活動によって厚床小学校初田牛分校として誕生し三年生迄収容する事が出来た。

初田牛百年のあゆみ(由来・沿革のあらまし)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

ここに記されるように、昭和初期に入ってこの地域に酪農が芽生えて、次第に人口も増えていった。

昭和10年頃には20戸くらいであった駅前市街地は、昭和20年頃には40戸位になっており、その中には鉄道官舎も含まれていたことが分かる。

また、「駅は、部落集会や連絡等文化的機関としての役割を務めて来た」という一文もある。

これは既に述べたように、「人が集う場所」としての駅の機能を象徴している。

碓氷牧場の経営も始まり、この時期に酪農の基盤整備が大きく進んだことが伺い知れるが、それを端的に示すのが雪印の集乳所の建設であろう。

そして、昭和22年に至って念願の小学校が、厚床小学校初田牛分校として誕生した。

ここでは述べられていないが、これに先立つ昭和13年には初田牛神社も造営されている。

神社と小学校の建設は、こうした開拓部落にとっての念願であり、希望であった。この時期の人々の喜びは如何ほどであったろうか。

続いて昭和中期にかけての記述を引用してみる。

戦後、農地法の改正により当地区の、和田屯田用地が緊急食糧対策として開拓地に適用され、地元住民で二十二年四月に開拓期成会を組織した。二十三年、二十四年の二ヵ年に亘って二十戸の開拓者が入植をし、既存の農家を加えて二十三戸の農家が生まれた。そして笹原に火を入れて焼き払い、鍬を振りかざして開墾に精魂を燃やして初田牛農業の尽きることのないドラマがスタートした記念すべき年でもあった。

又、この時代には、道路愛護組合、森林愛護組合、防災組合等の諸組織が発足して地域の自治活動の運営に努めるようになってきた。特に、道路愛護組合の活動により二十五年に農道本線四枡が出来た。

又、二十七年には東一号線農道が一・五枡出来たのである。

工事請負者は、厚床の高木建設でした。但し道路といってもバラスの入らない路形だけの道路であり春先の運搬等には大変困難を極めていたので、愛護組合より村役場へ強い要請を行い、二十九年、三十二年、三十五年の各年度に亘り救済事業として部落住民の出役により道路に山バラス敷きの工事を行って道路の保全に努めたので北海道庁より表彰されました。又、三十四年には墓地道路の工事を愛護組合事業で行い、駅前一号線五三〇米を青年会の事業として村より請負い工事を行い地域の発展に大きく貢献した。その当時の青年活動はスポーツ大会等を通して他村との交流も盛んに行われた。

又、駅前市街地は、鉄道関係の住宅も含めて十七戸余あり、煙草、菓子類を売る店もあり、高橋さんという老人夫妻が、魚や、日用品を扱っていた。

三十五年には、駅前の民家に鉄道より電気を導入することが出来て、初田牛の中央部である一号線沿いに外灯がともり、学校にも明るい電灯が輝くようになり、子供達も電化の有難さを胸に深く感じとったものと思われる。
地域の産業形態も三十年代に入ってからは従来の主産であった馬産が演少し、開拓者が入植して約十年の間に畑作から酪農に転換し、経営の基盤としての草地の造成も行われた。

そして、搾乳牛も一戸あたり六頭位に達して、若い開拓者の胸に酪農の将来性に対して大きな期待を抱くようになってきて、三十一年には、本格的な地域酪農基盤を拓く事を目的として、部落の北西に位置する国有林七百四十町歩の払い下げを道に要請したのが認可となり、立木の伐採事業が始まり木材が駅土場に搬出され、初田牛駅が最も賑わった時代でもあった。この時代はまだ交通運搬、農耕等すべて馬の力であり、馬は生産や生活に欠かす事の出来ない重要な動力源であり活動源でもあった。

三十四年頃ともなると、和嶋清武氏が小型トラックを導入して橋のない別当賀川を渡り、悪路をうねり歩いていたのが当地の機械化の第一号である。

三十八年五月には、立石貢氏、山下信明氏、佐藤松太郎氏が各々一台づつトラクターを初めて導入した。

機種はフォードデキスター三十九馬力であった。これが機械化酪農の第一歩である。昭和三十二年に根室町と和田村の合併により根室市が生まれ、市の行政下に変わったのである。目まぐるしく変る社会の諸情勢の中で、森林産業等は、一応の終結に達した関係もあり、人口の過疎的な状況をたどりながら、昭和四十年代を迎えたのである。三十年代初期からの強い要望であった、国有林の農地払い下げの第二次要請を行い、四十年に地元農家の増地として七百四十町歩の国有林が、農地払い下げが認可となり、期成会を組織して事業の諸対策に取りくみ、酪農基盤拡大がなされたのである。このような産業開発にともない道路の整備などもさらに進められ、四十年に別当賀川に永久橋が架かり、国道四十四号線より二杆の区間が農免道路施設として工事が進められた。引き続き四十三年までの四ヶ年の期間で全長七杆の道路改良施設がなされ東厚床をへて、厚床に通ずるようになったのである。このような交通状況の進歩により、鉄道を利用する事がまったくなく、少なくなるに至り、尚又、地域産業の状態も漁業についても二戸ぐらいになり、酪農のみと言う観点によりさらに過疎化が進み、国鉄の合理化等により、昭和四十六年十月に、駅員が無配置になり無人駅となりました。しかし人口は過疎になったけれど酪農においては草地基盤の整備、大型農業機械の導入などにより、酪農生産が大きく向上するとともに、乳牛の改良についても、能力検定事業の推進等により大きな成果が実り、地域経済の充実を担うに至ったと言えよう。海産物の搬出状況についても昭和四十七年、四十八年において、駅より海岸へ向けて四杆の区間を浜中海岸に通ずるべく産業開発道路として新設されたため、将来性に明るさが漲ってきたといえよう。

三十九年四月に、市政の指導下において部落の諸組織が合併して新しい部落会を発足して以来、さらに地域住民が一丸となり、住みよい郷土作りをめざして、部落戸数三十一戸が前途に豊かな発展をねがい、五十二年十月二日、新しくなった会館において、開拓八十周年、並び開校三十周年記念祝賀会を催し、先人達の開拓の御苦労に感謝し新たなる発展を誓い合ったのです。

初田牛百年のあゆみ(由来・沿革のあらまし)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

この中期の記述については、やや冗長ではあるが全文を引用した。

通じて言えることは、この時期に集落周辺の道路網が整備され始め、それによる機械化が進展するとともに、電化も始まったということであろう。集落の近代化が始まり、進展した時期ということが言える。

そして「駅前市街地は、鉄道関係の住宅も含めて十七戸余あり、煙草、菓子類を売る店もあり、高橋さんという老人夫妻が、魚や、日用品を扱っていた」というように、駅前は文字通り集落の中心地として発展していた。この駅前市街地は「駅前一号線五三〇米」に沿って発展した市街地と思われる。

しかし、こうした道路整備が早くも「過疎」を呼び込み始める。

それが「このような交通状況の進歩により、鉄道を利用する事がまったくなく、少なくなるに至り、尚又、地域産業の状態も漁業についても二戸ぐらいになり、酪農のみと言う観点によりさらに過疎化が進み、国鉄の合理化等により、昭和四十六年十月に、駅員が無配置になり無人駅となりました。」という記述に如実に表れている。

最後に、昭和後期から平成にかけての記述を見ることにする。

昭和五十年代に入ると、酪農に於いては、国の新酪農村計画のもと国費が投入され大型経営化が一気に進んだのです。一戸当り牛の飼養頭数も増え、昭和五十二年十二月よりそれまで牛乳缶での出荷がバルククーラーになり、ミルクローリーでの隔日集荷が始まり、農家の三点セットと云われたパイプラインミルカー、バルククーラー、バルククリーナーが各農家に導入されたのも五十二年前後である。これを機に経営規模も段々と拡大し、作業機械もハーベスターやロールベーラーといった機械も大型化し、トラクターも六十馬力代が主流だったものが七十〜八十馬力と大きくなり、それに伴って、四十年に出来た農免道路も幅不足と老朽化で春先など大型車の運行に支障が出るようになり、昭和五十六年に根室市へ拡幅舗装化を陳情し、五十八年六月より総事業費六億二千万円でスタートし、現在の舗装化された道路となったのは平成二年である。五十年代後半になるとトラクターも四輪駆動に、キャビン付トラクターが導入され始め一戸で二〜三台の保有が主流となり、より機械化、大型化が進んでいったのである。一方漁業に於いても五十二年に二〇〇カイリ規制により、獲る漁業から育てる漁業へと変って行く事になる。

時代が一寸前後しますが、昭和二十年隣村浜中村の食塩不足対策として、オワッタラウシ海岸で製塩事業が実施され、煮沸製塩法にて着手されたが資材不足のため非能率的にて翌二十一年に停止されている。戦後、漁家も増えて落石漁協加入者が九戸になった。

昭和三十二年に漁家九戸で現在の相馬誠三氏の干場の少し海側に正一位稲荷神社を造営して、十月十日にお祭りが行われていたが、その後、転出者が多くなり三十九年をもって合祀されました。一時期二戸まで減っていた漁家も四戸となり船も木造船からプラスチック船に変り、船の巻上げも馬から人力、人力からウインチへ。コンブ干しも干場が砂から砕石に変り乾燥機の導入により無砂コンブとして製品の質がおおいに向上され、機械化、省力化が進んで来ました。

昭和六十三年三月に地域の教育・文化の発展を築いてきた小学校が、校舎の老朽化と生徒の減少で厚床小学校へ統廃合される事となり、四十年間歴史に幕が引かれたのは痛恨の出来事であった。

時代は平成となり、平成二年、農免道路初田牛二号線の改良工事が終了し舗装された道路は、町内を通る三本の幹線道路は全て舗装道路となる。

平成四年、初田牛神社の造営と、待合所を建築費二百七十二万円で建設し八月三十日、大祭に厚床獅子舞保存会による獅子舞を奉納し落成を祝った。この年に道々厚床落石線にスノーシェルター(神社裏)が出来、冬期間雪による通行止される事が無くなり益々交通網が整備された。

又、駅前地区に学校廃校以来二戸となっていた戸田直之氏が現在の川口へ移転し竹内正幸氏一戸となっていたが平成六年一月不幸にも家が全焼し、竹内氏も焼死するといった開拓以来初めての不幸な出来事であり、この事により駅前に民家が無くなり、昭和二十年から三十年半ばまでは二十戸以上有った駅前も現在はゼロとなった。

又、この年十月四日北海道東方沖地震(M八・一)に襲われたが大きな被害こそは出なかったものの、農業用水の断水があり三日間は農家が大変苦労した年でもあった。

二十一世紀も間近となった本年、先人達が開拓の鍬を入れて百年、一次産業を基盤として発展をしてきた初田牛、過疎化の波は避けることはできなかったものの、現在、漁家四戸、農家十五戸、一丸となった今日、町会員二十一戸が一体となり、豊かな郷土、豊かな生活を目指し、又、先人達の御苦労と勇気に感謝し、ここに開拓百年の記録とする。

平成十年三月三十一日

初田牛百年のあゆみ(由来・沿革のあらまし)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

ここには、初田牛地区全体では機械化、省力化による大規模経営化が進む一方で、人口の過疎化が更に進展し、昭和六十三年三月に小学校が閉校となった事実が象徴的に記されている。

これは、経営合理化ということであろうが、それによって若年人口は減少して小学校が閉校になり、地域としての新陳代謝は停止したということである。

一方、平成に入って初田牛神社が造営されたという記述もある。

これは昭和十三年に造営された初田牛神社の建て替え、改築工事と思われるが、詳細は分からない。

ただ、現存する初田牛神社とその待合所が、この時に造営されたものであることは間違いないようだ。

その後、平成六年に至って、駅前集落最後の住民が火災で焼死されるという痛ましい事件を経て、遂に、初田牛の駅前集落は無人化した。

これは1994年の出来事だったことになるから、初田牛駅の廃止は、駅前集落の無人化から25年後のことだったということになる。

以下には「初田牛百年」に収められた図面や写真を幾つか紹介しつつ、酪農や神社、小学校等に関する記述もまとめていこう。。

まずは、明治期から平成期に至る期間の初田牛集落の様子を示した「初田牛地区形成図」である。

引用図:初田牛地区形成図(草創期)(明治30年~昭和20年)「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:初田牛地区形成図(草創期)(明治30年~昭和20年)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:初田牛地区形成図(居住繁栄期)(昭和21年~昭和40年)「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:初田牛地区形成図(居住繁栄期)(昭和21年~昭和40年)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:初田牛地区形成図(現在)(昭和41年~平成10年)「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:初田牛地区形成図(現在)(昭和41年~平成10年)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

この3枚の図面中、特に昭和21年から昭和40年にかけての(居住繁栄期)と題した時期の集落地図は興味深い。

この時期は駅前集落も、海岸集落も、複数の居住者の名前が記されており、駅前集落には、既に触れてきた雪印集乳所の他、明治集乳所もあったことが記されている。

そして、小学校や神社、鉄道官舎があったことも合わせて示されており、文字通り、最もこの地区が繁栄していた時期を示している。

「初田牛百年」には、この時期のヲワッタラウシ浜の集落の様子がモノクロ写真で収められているので、これを以下に引用しよう。

引用図:ヲワッタラウシ(昭和27~28年頃)「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:ヲワッタラウシ(昭和27~28年頃)
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

この写真の撮影時期は(昭和27~28年頃)と記載されているので、先の「初田牛地区形成図(居住繁栄期)に当たるが、この時期には「ワッタラ浜」に5戸の居住者があったことが記されていて、写真の建物数とも概ね一致する。

この浜では海草による沃度生産などが行われていたとの記述があることは既に見てきたとおりで、写真にもそういった海草(昆布)が写り込んでいるようにも見えなくはない。

また、以下に示すのは初田牛神社の写真である。

引用図:初田牛神社「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:初田牛神社
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

この写真に写っている初田牛神社がいつの頃の撮影なのかは記載がないが、恐らくは、昭和13年に造営された初代の初田牛神社であろう。

というのも、現在の2代目の初田牛神社と異なり、神社の周りに社叢林がなく、鳥居や拝殿の形・構造も少し異なるからだ。

この時期の初田牛駅前地区は薪炭業が主体で酪農は始まったばかりであり、原生林を切り開いたばかりの原野に神社を造営し、その落成を祝った時の写真のように思われる。

2代目の初田牛神社は既に引用したように平成四年の造営とある。

初代と2代目との関係性については特に記述がないが、旧版地形図を確認した限りでは、初代は道路の西、2代目は道路の東に、それぞれ記号が付されている。だから移転造営したのかとも思ったのだが、地形図を時系列比較すると、この間に道路の改修があって道路側がやや西寄りに変更されている。

つまり、神社は初代造営時から今の位置にあり、集落道がやや西寄りに移設されたことによって、道路との位置関係においては西から東へと変わったというのが正解のようである。

これらは次節で旧版地形図を基に確認する。

初田牛地区の酪農については「初田牛百年」の中にまとめられているが、その一部を以下に引用しておく。

初田牛の酪農の始まりは昭和五年に成田栄五郎氏、安藤大助氏の二戸で、牛乳を成田氏宅で分離クリームにして厚床の乳業工場に持ち込んでいた。

両家ではそれぞれ四頭乃至五頭位搾乳していたと云われている。

クリームでの出荷は昭和六年迄の二ヵ年で、それ以降は原乳で出荷するようになり、十二年頃迄各自馬搬で橋のない別当賀川を越えて国道に出厚床の雪印工場に持ち込んでいた。

昭和十三年から搬出を鉄道に切替え各自が客車に背負い込んで厚床工場へ運んだ。駅迄の運び役は小学校五・六年の児童で登校・下校時に行っていたと云われている。此の頃は酪農家も五戸位になっていた。

この客車利用の運搬は昭和十八年頃迄続けられた。

…中略…

酪農家の数も七〜八戸になり組織の機運が話し合われるようになって来た。そして十九年には、佐藤庫松氏を会長として乳業会社や鉄道に交渉が行われ、貨物として正式な鉄道輸送が行われるようになりこれが、酪農振興会の始まりでもあった。

戦後、昭和二十一年八月から初田牛駅前に雪印乳業の集乳所を開設して分離作業を行いクリームにして輸送された。

集乳所初代の受入立会人が成田新一氏であった。

集乳所の建設作業は牛乳生産者の奉仕で行われた。冷却処理用水は当時は天然の湧水を利用していた。その後入植者の増加により生産者の数も十五戸位になった。乳牛も六〇頭位に達したと云われる。

二十七年頃には二十戸位に増加した。

二十九年には乳業メーカー価額情勢などにより四名の生産者が明治乳業根室工場に出荷するようになった。
三十二年には明治乳業が厚床に工場を建設したので半数位の生産者が明治の工場に出荷するようになった。
そして、新しく明治酪農同志会が発足し安藤大助氏が初代の会長となり更に三十五年には明治乳業の集乳所が出来たのである。

両メーカーとも厚床工場より職員が出向し受入業務を行っていた。

輸送も三十八年五月迄は貨車輸送で厚床に送っていたが、三十八年六月以降は両メーカー共に集乳所よりトラックで輸送を始めた。

四十一年四月より牛乳の出荷機構が変わり一括ホクレンの窓口販売となり路線集荷となり生産者は各自道路の傍に集荷台を作って集荷するようになった。

従って乳業会社と生産者の関係も比較的間接化され、雪印振興会は酪友会と改称し活動も親睦団体へと移行していった。
このような状態が五十年六月迄続き、七月集送乳の合理化により雪印乳業厚床工場が閉鎖となり各組織の生産者が一括明治乳業厚床工場に出荷するようになった。

従って雪印酪友会は五十年七月二十七日に解散した。又、明治酪農同志会も五十年九月七日解散に至った。

以下略…

初田牛酪農振興会
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

ここに記された初田牛酪農の草分けである成田、安藤両氏の牧場は、「初田牛地区形成図(草創期)(明治30年~昭和20年)」によると、駅の北と南に隔たったところにあり、初代初田牛神社造営時には、まだ、初田牛駅前集落に酪農産業の関連施設は登場していなかった。

それが神社造営の「昭和十三年から搬出を鉄道に切替え各自が客車に背負い込んで厚床工場へ運んだ」という変化が起こり、「駅迄の運び役は小学校五・六年の児童で登校・下校時に行っていたと云われている」と記されている。

そして「この客車利用の運搬は昭和十八年頃迄続けられた」後、「十九年には、佐藤庫松氏を会長として乳業会社や鉄道に交渉が行われ、貨物として正式な鉄道輸送が行われるように」なったのだという。

そして雪印集乳所は昭和二十一年八月、明治集乳所は昭和三十五年にそれぞれ設置されたことが述べられている。

この時期が初田牛駅前集落が最も賑わった時期だと思われるが、その後、道路網の整備によって「輸送も三十八年五月迄は貨車輸送で厚床に送っていたが、三十八年六月以降は両メーカー共に集乳所よりトラックで輸送を始めた」ため、鉄道貨物での輸送は廃止され、以降、酪農の近代化、合理化と引き換えに、駅前集落の衰退と過疎が始まっている。

なお、四十一年四月に路線集乳が始まったことにより、駅前集落にあった集乳所も役目を終えている。

最後に初田牛小学校の貴重な写真を引用する。

引用図:閉校当時の校舎「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」
引用図:閉校当時の校舎
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

この写真は「閉校当時の校舎」というキャプションが付されており、末期の校舎の様子を捉えたものになる。

今の初田牛会館の東側に隣接した場所に校舎と校庭があった様子は、古い空撮画像でもはっきりと判別できるが、校舎そのものを撮影した写真は、確認できているうちでこの1枚のみである。「初田牛百年」には他に、学校に関連するものとして3枚の集合写真が収められている。

初田牛小学校に関する本文の記述は以下のような内容である。

一、昭和二十二年九月二日 厚床小学校初田牛分校の設置
従来当地域の児童は汽車通学にて、厚床小学校へ通っていたのであるが、終戦後の交通事情の悪化は就学に著しく困難と障害を与えた。
特に冬期間の低学年は就学不能の状態となったので、現校庭の一部にあった民家の一部を改良し十二坪の教室に一年(一〇名)二年(七名)三年(八名)計二十五名を以って厚床小学校初田牛分校として開校された。

二、昭和二十五年一月一日 初田牛小学校として独立
分校設置以前より独立校舎として新築するべく再三企画され、建築資材の寄贈(成田牧場厩舎)もあったが現実をみるに至らなかった。
ついで、分校設置の頃より村議、P・T・A会長、駅長の各位が中心となり、学校建築期成会が結成され、部落一般より約十二万円の寄付、初田牛地区の国有林より約四百石の建築用材の払下げ、硝子、釘などの建築資材、原木の伐採、搬出、移動製材による約二百四十石の用材の確保など二年間わたって物心両面に涙ぐましい程の努力が続けられた。

この頃、初田牛地区が入植開拓地となり、学校は開拓補助学校として許可となり、補助金として七十万円が決定し、これ迄に準備されたもの一切を寄贈の形をもって村当局に移管し、新たに工事の計画がたてられた。

工事は入札制により根室町高岡請負人により十月半ばより始められたが、校舎の建築は従来のゆきがかり上、根室町大田豊作氏が下請負の形で良心的な工事を行い、十二月末工事完了したので、昭和二十四年十二月二十七日付総第一千二百九十号をもって小学校一級認可となり、昭和二十五年一月一日開校とし、ここに厚床小学校より独立して和田村立初田牛小学校と称した。

昭和三十二年八月一日町村合併により根室市立初田牛小学校となる。

昭和三十四年〜三十五年生徒数五十九名をピークとして以降減少をたどる。

昭和五十五年校舎の老朽化により危険校舎に認定される。

昭和六十三年根室市立厚床小学校に統合され閉校となる。

以下略…

学校
「初田牛年輪百年(初田牛開基百年記念誌編集委員会・1998年)」

こうして「旅情駅探訪記」を書くようになって集落史を調べていると、集落の形成から発展の過程で、まずは神社が建てられ、ついで小学校が建てられるという流れが非常に多い。

小学校と言っても、この事例が示すように、それは「分校」であったり「教授場」であったりして、正式に独立した小学校となる前の形態をとっていることが多いが、それにしても、教育当局への再三の要請や、資金資材の供出などの逸話に事欠かず、子息の教育機関を集落に設けるということが、集落の住民にとって如何に悲願であったかが感じられるのである。

だが、そんな悲願も僅か40年ほどの歴史で幕を閉じ、今は、その痕跡を現地の草叢に偲ぶばかりである。

初田牛駅周辺の地形図や空撮画像の変遷史

この説では地形図や空撮画像を時系列に切り出して並べ、これまで調べてきた地誌と対比しながら、地図表現の変遷を辿ってみることにする。

各地図や空撮画像は重ね合わせ図にしてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。

まず、初田牛駅付近から浜初田牛付近にかけてのエリアを広域地形図として取り出して、その変遷を辿ってみる。旧版地形図は1897年測量の地図から始めて2003年11月発行までの5万分の1地形図7枚を用いており、重ね合わせた現在地形図の情報は2026年7月5日に取得したものである。

旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1897年測量)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1897年測量)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

まず最初はこの付近の地形図として最も古い1897年測量の5万分図で、ここまでの調査編の中でも「明治三十年代の最初の五万分地図」として何度か触れてきたものである。

これを見ると、初田牛駅付近には行政区域界が入っている程度で、笹薮や照葉樹林に覆われた未開の台地である。

図幅右上に僅かに破線の道型が描かれている程度だが、これは、「初田牛百年」で「後の明治十二年に逓送通路が内陸路は泥湿地帯が多く曲りくねっていて不便なため廃止となり、新たに南海岸線を通ずることになり、厚岸町榊町より霧多布を経て落石駅に達する道路の中間に人馬継立所が出来た」と記載されていた、廃止前の逓送通路、若しくは、その痕跡ではなかろうか。

この時、海岸沿いには開削された新しい道も表現されている。

この図幅には凡例がないので海岸沿いの道と内陸の道の規格差は分からないが、大正時代の地図の凡例から類推すると、内陸の道は幅2m以下の町村道、海岸の道は主要府県道の規格だったのではないかと考えている。とは言え、この時期の「道」はあくまで徒歩道であり、表示から想起されるような立派な道だったわけではない。

地名としては和田牛川沿いに「オワタラウシ」の記載があり、初田牛川の河口付近に「初田牛駅」の記載があって、ここには建物記号も描かれている。これが初田牛の駅逓と思われる。

この地図で見ると初田牛川の河畔は概ね笹薮で、台地付近は照葉樹の混じった笹薮だったようであるが、果たして、霧深いこの地にあって、葡萄が採れたものであろうか。

旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1923年7月30日発行)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1923年7月30日発行)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1946年11月30日発行)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1946年11月30日発行)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

続く2枚は1923年~1946年に発行された図幅で、大正期から昭和前期のものになる。

特徴としては根室本線が全通し初田牛駅が設置された後のことなので、それが明示されていること、玉熊牧場が開かれていること、そして、駅付近から浜初田牛方面に向けて、2本の道が開削されていることなどが目に付くだろう。

この時期には初田牛駅逓は廃止されるとともに、海岸沿いの道も衰退していったはずだが、道としては消失しておらず、それなりに交易はあったのか、地図上でも記載は残ったままである。

また、1946(昭和21)年の図幅になると初田牛神社が描かれている。

神社は1938(昭和13)年の造営なので、それが漏らさず反映されている。

旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1966年9月30日発行)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1966年9月30日発行)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1977年10月30日発行)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1977年10月30日発行)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

続いて初田牛の最盛期から衰退期にかけての2枚で、1966年、1977年の発行の図幅である。

まず注目したいのは1947年に分校として設置された初田牛小学校が地図に現れている点である。

また、この時期は初田牛駅前集落が最も発展した後、一転して、道路網の整備によって過疎化が進展した時期でもあったのだが、それは駅前集落内の道路の改修工事の様子と建物記号の減少に明確に表れている。

元々は駅前集落から北側に向かう破線道の西側にあった初田牛神社は、10年ほどの間に、新しく出来上がった道の東側に位置するようになり、旧道は消失した。この道は駅前集落が軒を連ねる本通りに直行して初田牛駅と集落北の道路とを結んでいる。私はこの道を本文で「駅前通り」と表現してきた。

また、これに直交して旧集落市街地を貫いていた道を「駅前本通り」と、本文で記してきたが、「初田牛百年」の記述の中に、1959(昭和34)年に「駅前一号線五三〇米」が整備された記録があったことをここで思い出したい。

1966年の図幅で学校前付近から駅の少し西側までの道が整備された様子が分かるが、これは地図上計測で概ね530m程度の距離であるので、私が「駅前本通り」と称していた道は、「駅前一号線」という名称だったと思われる。

初田牛駅の南側においては、駅のすぐ南から南下していた道に整備が入り、和田牛川を渡った辺りまで改修されている様子が示されている。

そこから西、及び、初田牛川を渡って東に伸びていた旧逓送道は破線道となっているが、恐らくは既に廃道化し痕跡となっていたように思われる。

なお、碓氷牧場の敷地に神社記号が現れるのも1966年の図幅からである。

旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1992年8月1日発行)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(1992年8月1日発行)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(2003年10月1日発行)
旧版広域地形図:初田牛駅周辺(2003年10月1日発行)
広域地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

最後の2枚は1992年、2003年の図幅である。

初田牛小学校の廃校は1988(昭和63)年のことであったから、1992年の図幅ではまだ建物表示も学校記号も残っているのだが、2003年の図幅ではこれらのいずれもが消えて、初田牛会館の建物を示す記号のみになっている。

「初田牛百年」の中に「昭和五十五年校舎の老朽化により危険校舎に認定される」という記述があったくらいだから、廃校後、数年の内には解体されてしまったのであろう。

また、駅前の四差路北東角に描かれていた建物記号も2003年までに消失している。

現地を歩くとこの付近から初田牛会館までの間の草叢に倒壊した建物の屋根などが横たわっているのが見えるので、この建物記号はそれを意味しているのかもしれないが、位置の照合などは行っていない。

駅から南下していく今日の道道142号根室浜中釧路線の道型は1992年頃には完成しており、微妙な違いではあるが、2003年までに和田牛川を越えた西側の地点から先にかけて、拡幅が行われたように見える。

この道は元々は道道初田牛浜中線で、他の幾つかの道道と統一されて1993年5月11日に根室浜中釧路線として主要地方道に指定されているので、1992年は初田牛浜中線時代、2003年は根室浜中釧路線時代の道路ということになる。

以下に続く4枚は2万5千分図を使って、初田牛駅周辺にフォーカスして時系列表示したものである。2万5千分図は最も古いものが1952年版で、以降、1977年、1989年、2003年の図幅を並べてみた。

旧版地形図:初田牛駅周辺(1952年10月31日発行)
旧版地形図:初田牛駅周辺(1952年10月31日発行)
地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版地形図:初田牛駅周辺(1977年8月30日発行)
旧版地形図:初田牛駅周辺(1977年8月30日発行)
地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版地形図:初田牛駅周辺(1989年1月30日発行)
旧版地形図:初田牛駅周辺(1989年1月30日発行)
地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版地形図:初田牛駅周辺(2003年6月1日発行)
旧版地形図:初田牛駅周辺(2003年6月1日発行)
地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

1952年と1977年の間に、5万分図でも見てきたように、集落内の道路が改修されており、神社と道路の位置関係が変わっているのが読み取れるほか、集落の北側にある道道1127号初田牛厚床線に該当する道路も新たに整備されたことが分かる。

この道は5万分図の1966年の図幅には掲載されていなかったので、それ以降の整備ということになるのだろう。

学校記号はやはり2003年の図幅に至って消えており、駅前集落も1952年版では鉄道官舎なども含めて多数描かれていたものが、1977年の図幅ではほとんどが消失している。

なお、駅前1号線の西端付近の建物記号は2003年の図幅でも残っている。2018年の「ちゃり鉄18号」で訪れた際も空き家となっていたものの民家が1軒残っていた。

記号に示されるような建物群は残っておらず、残っているのは民家だけであったが、ここも酪農家の居住地だったのだろう。

最後に空撮画像の時系列比較を行ってこの節を終わる。

撮影画像は1948年から2021年までの6枚を選んだ。

旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1948年4月29日撮影)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1948年4月29日撮影)
詳細地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1965年8月9日撮影)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1965年8月9日撮影)
詳細地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

最初の2枚は1948年、1965年撮影のもので、1977年にプレハブ駅舎に建て替えられる前の、木造駅舎時代のものである。

いずれの画像を見ても、立派な木造駅舎のが写り込んでおり、駅の北側を中心に鉄道官舎や鉄道施設と思われる建物が幾つも立ち並んでいる。今では防霧林や草地となっている一帯である。

なお、1948年の空撮画像をよく見ると、「建設概要」の記載とは異なり、駅南側の上り線側にもホームがあるように見える。また駅舎南西角の位置から上り線側に、構内通路のような細い線も見えている。

そう思ってみると、ホームと思しき部分には待合室のような小さな建物まで見えている。

建設当時の駅の平面図が手に入れば、実際はどうだったのか、一目瞭然なのだが、空撮画像の解像度の限界もあり確かなことは断定できなかった。

ただ、これについては「父が初田牛に赴任になった時は2番ホーム(上り)の跡が存在していました。縁石・側壁は外されていましたが、交換駅仕様でした。上り線は撤去されていましたが、一部は保線用の待避線として残されていました」との情報提供をいただいたことは既に触れたとおり。

「建設概要」の記載とは一致しないのだが、実は建設概要は冒頭の緒言で「本書編纂當時ハ工事未ダ完成ニ至ラズ隨ッテ費額ノ確定セザルモノアリシヲ以テ書中揭記スル數字ノ如キ後日精算ノ上ハ多少ノ差違アルヲ免レザルベシ」という但し書きもあるので、初田牛駅に関しても或いはホームが1面完成したのみで、上り線や上り線ホーム側の新設は開業後のことだったのかもしれない。

なお、この2枚では他に、初田牛小学校の建物の変化も読み取れる。

1948年の画像には1947年に分校として開校した直後の学校らしい建物が写っているが、初田牛小学校の校舎は1949年12月に竣工し、1950年1月1日に和田村立初田牛小学校として開校しているので、1965年の画像に映っているのは新校舎。隣接して校庭も見えている。

この他、初田牛神社の東側を集落道が通っていた時代の様子が、1948年の空撮画像からは読み取れる。

旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1978年10月9日撮影)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1978年10月9日撮影)
詳細地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1985年9月3日撮影)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(1985年9月3日撮影)
詳細地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

続く2枚は衰退期の1978年、1985年の空撮画像である。

この2枚で顕著なのは官舎などの鉄道施設の消失であろうか。

駅の周辺に多数あった大きな建物が姿を消して空き地と化している様子が見て取れる。

一方で集落の建物には大きな減少傾向はみられず、学校周辺には比較的多くの建物が残っている様子が分かる。

初田牛小学校の廃校は1988(昭和63)年であったから、この2枚の空撮画像の時代には学校は閉校しておらず、児童が通学していたはずだ。

特に解像度のよい1978年の空撮画像では、野球場のようなグラウンドと校庭の隅の遊具が辛うじて判別できる。

旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(2005年10月27日撮影)
旧版詳細空撮画像:初田牛駅周辺(2005年10月27日撮影)
詳細地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)
詳細空撮画像:初田牛駅周辺(2021年6月10日撮影)
詳細空撮画像:初田牛駅周辺(2021年6月10日撮影)
詳細地形図:初田牛駅周辺(2026年7月5日取得)

そして最後の2枚は集落消滅期とも言える2000年代の2枚。

学校の跡は既に原野に還りつつあり、校舎の北側にあった樹木の位置から、校舎の場所を推定する他ない。

敷地一帯には幾つかの電波塔が現れており、その取り付け道が新たに刻まれたりもしているが、校舎や建物の跡を踏査するには笹薮に入らなければならず、中々に骨が折れそうだ。

四差路付近に多数存在した民家も跡形なく、鉄道官舎跡地は完全に樹林帯に置き換わっている。

集落西側に唯一残っていた民家付近も、酪農施設は取り壊されており、その跡地には建物の基礎だけが残っているようである。

2021年の空撮画像では初田牛駅そのものも既に消えており、いずれは、ここに駅があったということも忘れられていくのかもしれないが、「ちゃり鉄」の取り組みとしては、忘れずに記憶に留めておきたいし、この根釧原野には標津線を始め幾つかの簡易軌道も走っていた時代もあり、それらの廃線跡を巡るために再訪する機会もある。

その折には、改めて駅周辺や浜初田牛周辺の踏査を行ってみたい。

2001年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)

道東の夏は海霧に覆われ視界は100mに満たないことも多い
道東の夏は海霧に覆われ視界は100mに満たないことも多い
かつての栄華の跡を偲ばせる線路の跡が草むらに眠る
かつての栄華の跡を偲ばせる線路の跡が草むらに眠る
初田牛駅のホームの向かい側には広い空き地が広がっている
初田牛駅のホームの向かい側には広い空き地が広がっている
濃霧の中、青白い大気の底にひっそりと佇む初田牛駅
濃霧の中、青白い大気の底にひっそりと佇む初田牛駅

2015年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)

初田牛駅付近の長い直線路
初田牛駅付近の長い直線路
ルパン三世のラッピングを施されたキハ54系単行気動車
ルパン三世のラッピングを施されたキハ54系単行気動車
開業当初から一般駅だったことを物語るホーム
開業当初から一般駅だったことを物語るホーム
依然と変わらない未舗装路の先の駅の風景
以前と変わらない未舗装路の先の駅の風景
静まり返った原野にポツンと佇む初田牛駅
静まり返った原野にポツンと佇む初田牛駅
滞在時間中、誰も訪れることのない静かなひと時を過ごした
滞在時間中、誰も訪れることのない静かなひと時を過ごした
郷愁感あふれる初田牛駅の暮景
郷愁感あふれる初田牛駅の暮景
この駅で駅前野宿の一夜を過ごしてみたかった
この駅で駅前野宿の一夜を過ごしてみたかった
西日にきらめく原野にキハ54系のヘッドライトが光る
西日にきらめく原野にキハ54系のヘッドライトが光る
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初田牛駅:コメント・評価投票

5.0
平均 5.0 / 5(評価数 3 件)
5:最高
4:高
3:普通
2:低
1:最低

No Title

2023/05/03

Anonymous

No Title

2022/10/11

Anonymous

No Title

2021/12/07

Tetsu