上総川間駅:旅情駅探訪記
2016年7月(ちゃり鉄3号)
千葉県の房総丘陵を走る小湊鐵道は、長閑な田園や里山の風景の中を行く、単線非電化の私鉄である。
東京湾岸の五井から、房総半島中程の上総中野までを結んでおり、上総中野ではいすみ鉄道に接続して、太平洋岸の大原に至る。
社名の由来は太平洋岸にある「小湊」の地名にあり、内房から外房を目指して免許を取得した鉄道会社であった。
大正時代に制定された改正鉄道敷設法別表第47号には、「千葉県八幡宿ヨリ大多喜ヲ経テ小湊ニ至ル鉄道」という予定線が掲載されているが、これは、小湊鐵道の路線計画と概ね一致している。
改正鉄道敷設法の制定は1922(大正11)年4月11日のことであり、小湊鐵道が五井~小湊間の鉄道敷設免許を得たのは1913(大正2)年11月26日のことであるから、小湊鐵道の免許取得の方が法律の制定よりも早かった。となると、国が建設すべき鉄道路線を定めた改正鉄道敷設法に、既に小湊鐵道が免許を取得しているこの区間が予定線として組み込まれたのは、国による将来的な買収なども視野に入れた動きがあったものと推察される。
改正鉄道敷設法の予定線149路線の選定に際して、そういう動き・想定があったことは、当時の帝国議会の議事録などの中でも確認できるのだが、小湊鐵道に関連する 別表第47号の予定線に関しての具体的、直接的な議論の過程となると、まだ、資料調査は出来ていない。今後、調査していきたい課題である。
また、同法の規定とは異なり、現実の小湊鐵道の起点は五井になり、小湊は勿論、大多喜まで至ることもなく上総中野で路線は途絶えている。
同じく、同法別表第48号では、「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」も計画され、一部が、JR久留里線、いすみ鉄道として営業されている。いすみ鉄道は、元々は、国鉄木原線であり、木更津の「木」と大原の「原」に由来する路線名であった。
結局、計画が実現することなく、小湊鐵道といすみ鉄道が上総中野で接続しただけで、久留里線に至っては盲腸線のまま、延伸の見込みもなくなったわけだが、いずれの路線も、単線非電化で、東京近郊とは思えない、長閑な風景の中を走っている。
上総川間駅は、そんな小湊鉄道沿線にある、里の旅情駅である。
開業は、1953年4月1日。1面1線の棒線駅だ。
小湊鐵道の第一期路線である五井~里見間が開通したのは、1925年3月7日であるから、駅の開業は、路線の開業から28年後のことである。「小湊鉄道の今昔(遠山あき・崙書房出版・2004年)」によると、 「近くの台地に県立市原園芸高校が開校した昭和二十八年四月に、通学生のために新しく設置された駅である。通学性の生徒のほかは乗客があまり無い」 とある。
その市原園芸高校は、2005年には鶴舞商業高校と統合され鶴舞桜ヶ丘高校となった上で、2019年で閉校し、現在は、市原高校となっている。元の市原園芸高校の跡地は、特別支援学校つるまい風の丘分校として転用されている。高校生の通学の為に設けられた駅ではあったが、現在は、特別支援学校に通う生徒が僅かに利用するだけのようだ。
駅の所在地は千葉県市原市下矢田。地形図を見ても、下矢田という地名が表示されているだけだが、「角川日本地名大辞典 12 千葉県(角川書店・1984年)」の小字一覧を調べてみると、市原市大字下矢田に含まれる小字の中に、「川間」の名前があった。他に、「川間口」の名も見える。
小字であるから地形図にも登場しないが、上総川間駅は周辺の小字に由来する駅名と思われる。
以下に、地形図と空撮画像の新旧比較を掲載してみる。
これを見ると、上総川間駅周辺は、地形図でも空撮画像でも、あまり、変化が無いように感じられる。市街化が進むわけでもなく、かと言って、過疎化が進むわけでもなく、変わらぬ里山風景が広がっているという事であろう。勿論、先述のように、高校の統廃合が行われている事を鑑みれば、地域全体としては緩やかに人口減少が続いているものと思われるが、上総川間駅周辺では、その変化の振幅は比較的小さいように見受けられる。
駅は、国道や県道からも離れた水田地帯に、風景に溶け込むように佇んでいる。少し離れたところから駅を眺めると、それと知らなければ、そこに駅があると気付かないかもしれない。
駅の周辺は、民家が点在するといった感じで、上総牛久駅までの沿線と比べても、一気に、里山風情が強くなる。丘陵地帯に囲まれるようになったという事もあるし、民家の密集度が低くなったという事もあろうが、駅の周りに、民家が1軒もないという立地環境によるところもあるだろう。
駅前は、農道のような道が通じるだけで、長閑な風景が心地よい。
ホーム上にある簡易な待合室が駅舎であり、植え込みに埋もれるような木製の駅名標も味わいがある。この駅名標をよく見ると、「かづさかわま」と書かれている。
この駅だけを取り上げてみれば、「上総川間駅」なのだから「かづさかわま」と書かれていても何らおかしくないように感じられるが、「ちゃり鉄3号」でここまでに辿ってきた駅のうち、「上総」の旧国名を冠した駅名の振り仮名は、全て、「かずさ」であった。
「かづさ」は古い書き方であり、ここにきて、それがそのまま残っているという事なのである。 そのように演出したという事ではなく、単に、そのまま残っているという事であろうが、それはそれで、「いい味」でもあるように思う。こういうのを意図的にやってしまうと、どこか、しっくりこない。
駅自体は昭和に入ってからの開設で決して古い駅ではないのだが、駅名標には大正時代の面影も残っているように感じられた。
この他、ホームの上には、簡素な待合室が設けられている。
当初から無人駅として設置された経緯もあり、駅務室もない小屋であるが、田んぼに囲まれた駅の立地を考えると、こうした簡素な待合室も、かえって、似つかわしい。
駅の敷地には、数本の桜が植えられており、7月のこの旅では、緑が鮮やかだったが、桜の季節であれば、また、違った印象を与えてくれるだろう。
「ちゃり鉄3号」で訪れたこの日は、夏空が爽やかで、駅や水田の緑と、空の青のコントラストが印象的だった。
ちゃり鉄3号では、小湊鉄道、いすみ鉄道、JR久留里線の全線と、これらの路線とともに計画されていた未開通区間を走った。ちゃり鉄ならではの旅路だ。
上総川間駅は、旅程の都合上、10分ほどの停車で出発することになったが、次に訪問する時は、駅前野宿の一夜を過ごそうと思う。
駅から少し東に進んだところで、踏切を渡ったのだが、そこから見ると、もう、上総川間駅は周辺の風景の中に溶け込んでいた。
この先の里山風景の展開に心躍らせながら、次の駅に向かって出発した。