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保津峡駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2021年2月4日 | コンテンツ公開 |
保津峡駅:旅情駅探訪記
2002年1月(ぶらり乗り鉄一人旅)
京都盆地の西側山麓を流れる桂川を亀岡盆地に向かって遡ると、京都西山と愛宕山の山並みの間に車道も通じない深い峡谷を刻んでいる。
保津峡である。
保津川下りと嵯峨野観光鉄道とで全国的な観光地ではあるが、蛇行を繰り返しつつ流れる保津川の河畔には、護岸で固められた車道や歩道が存在しない部分も多く、京都市内から鉄道で1時間もかからない場所だとは思えないほど、峡谷は奥深い。
そんな峡谷の只中に、前後をトンネルに挟まれた橋上駅である保津峡駅がある。
京都市内で学生生活を送った私にとって、保津峡は近くて遠い場所でもあり、山陰本線に乗って旅する機会は何度かあったものの、初めて途中下車して訪れたのは、学生生活も残り3ヶ月あまりとなった、2002年1月のことだった。
山陰本線の早朝の普通列車から降り立った保津峡駅の周辺は、折からの降雪で薄っすらと雪化粧しており、川下りやラフティング、紅葉狩りなどで賑わう季節とは違い、川のせせらぎの音しか聞こえない静かな雰囲気で旅人を迎えてくれた。
保津峡駅の沿革を少し振り返ってみる。
駅の開業は、1929年8月17日、松尾山信号場としての開設に遡ることができよう。その後、1936年4月15日に、駅に格上げされて、保津峡駅として開業した。
当時の国鉄山陰本線は、現在の嵯峨野観光鉄道の路線を通っており、同鉄道の「トロッコ保津峡駅」が、元々の「保津峡駅」である。
保津川に沿った風光明媚な路線ではあったが、園部、亀岡から京都市内への通勤列車も走る幹線としてみれば、蛇行する保津川に沿う単線非電化の線形には改良の余地があり、1989年3月5日に、保津峡付近を含む嵯峨駅(現嵯峨嵐山駅)~馬堀駅間が複線化され、翌1990年3月10日には、京都駅~園部駅間が電化された。
この複線化に伴い、単線非電化の旧線は廃止され、保津峡駅は現在線の位置に移転したのだが、駅舎の移転開業は1990年11月8日のことであり、複線化からの1年余り、旧保津峡駅の駅舎が暫定的に利用されていた。
この間は、旧駅舎から、廃止された旧線上を500m歩いて、現在駅の東端にある連絡通路から出入りしていたため、今も、その通路が残っている。
旧線は廃止されたものの、嵯峨野観光鉄道として再生し、旧駅舎は、1991年4月27日に、トロッコ保津峡駅として、再開業した。
保津峡駅の駅名は、保津峡に由来するが、この「保津」という地名については、「大堰川舟筏の安らかな津、保津という意による(角川日本地名大辞典26 京都府)」、「保津の保は、50戸の集落の意。津は川港。佳字地名である(JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版)」といった様な解説がある。大堰川は「おおいがわ」で保津川、桂川の別称である。
国土地理院地形図で保津峡駅付近を東西で切り出してみたのが以下の図である。
上の図は、保津峡駅から東部、京都市側を切り出したものであるが、小倉山の西麓河畔を保津峡に沿って走っていた旧線は、小倉山直下の小倉山トンネルと、京都西山の北端部を貫通する第一保津トンネルに置き換えられている。
保津峡駅に達する車道は、主要地方道50号線(京都日吉美山線)のみであるが、この道は六丁峠から書物岩付近の急勾配のヘアピンカーブを経て壁岩の下を通り抜けており、運転に不慣れなドライバーなら、通行をためらうような狭い道である。
下の図は、保津峡駅から西部、亀岡市側を切り出したものであるが、現在線の保津峡駅付近で新線・旧線がクロスし、そこから上流に向かって、W字を描いて蛇行する保津川に沿うのは旧線のみ。車道は、保津峡駅付近から、支流水尾川に沿って北西に向かい、嵯峨水尾、嵯峨樒原、嵯峨越畑といった、隠れ里のような山里を縫ってゆく。樒原や越畑は、日本の里百選にも挙げられた山里だ。
新線は、トンネルと橋梁を連続させて、W字を串刺しにして一気に貫通している。この区間を行く列車の車窓からは、トンネルの合間に、ほんの一瞬、人の気配のない保津川の景観を見ることができる。
渓谷沿いの旧線がトンネルと橋梁による新線に付け替えられ、その区間に駅があるという経緯は、同じ関西にある、JR福知山線・生瀬駅~道場駅間の通称武庫川渓谷と武田尾駅も同様であるが、あちらの旧線は、廃止・遺棄されてしまい、今では、関西でも知られたハイキングルートとなっているのと、対照的である。
そんな歴史を思いながら、観光とは無縁の季節に降り立った保津峡駅で、眼下の保津川を眺める。シーズンには観光船が下っていくのを見ることができるが、この日は、無人の峡谷にせせらぎの音だけが響いていた。
保津峡駅の駅舎は、第2保津川橋梁の亀岡方の上り線側にあり、下り線ホームにクセスするには、橋梁の下の連絡通路を通ることになる。
駅前から保津川に沿って下流を眺めると、向かいの山腹の低い所を行く、嵯峨野観光鉄道の線路が見えた。
かつては、この峡谷沿いの旧線を、DD51に牽引された寝台特急「出雲」などが、駆け抜けていた。その時代に、訪れてみたかったな…と思う。
この日は、朝早くに京都を出発し、山陰本線に乗って、鎧駅を訪れるのが目的だった。宮本輝の小説・「海岸列車」を読み、鎧駅で下車してみたくなったのだ。
山峡の無人駅でのひと時を過ごした後、下り普通列車に乗って、駅を後にした。
2002年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
前回の訪問から、約半年。
2002年8月に、保津峡駅を再訪問した。この時は、「駅前野宿」である。いや、正確には、「駅前車中泊」というべきか。というのも、この日は、車での訪問となったからである。
社会人となって北海道に赴任していた当時、夏休みに帰省して、四国一周のドライブに出かけていたのであるが、そのレンタカーを返す前夜、保津峡駅前で車中泊をしたのである。
前回の訪問以来、機会があれば、保津峡駅で駅前野宿をしようと思っていたのだが、丁度、この夏休みに、その機会を作ることが出来たのである。
到着した時間には数台の自動車が駅前に駐車していたので、水尾集落付近の住民が通勤等で利用していると思われるが、それでも、駅まで直線距離で3km程度あり、実際の車道は、1車線の隘路である。
それらの車が走り去った後は、列車の到着に合わせて、時々、迎えの車が来る以外、駅の周辺に人が訪れる気配はなかった。
翌朝は、車の外を通る人の気配で目が覚めた。
やけに多くの人が通り過ぎる気配に違和感を感じて窓の外を見ると、地元の消防署の職員が水難救助の訓練に向かうらしく、大勢が車の脇を通って保津川に向かっていた。
保津川は、川下りで有名だが、最近では、ラフティング事業者も活動している。
私自身も参加したことのあるRESQUE 3 JAPANの水難救助訓練の講習会も、この保津川流域で行われているのだった。
起き出して、駅周辺を散策することにした。
前回は、雪化粧した山並みを眺めながらの保津峡であったが、真夏のこの日は、緑も鮮やか。朝もや漂う駅周辺は、真夏とは言え、涼しいくらいの気温だった。
一般的なレジャーには早い時間でもあり、保津峡駅周辺に観光客の姿は見えなかった。嵯峨野観光鉄道はまだ始発前であるし、山陰本線の保津峡駅前は、保津峡の観光施設からは外れている。駅自体は近代的な作りなのだが、山峡の旅情駅の佇まいであった。
駅前から府道にある壁岩の下辺りまで足を伸ばすと、眼下に、保津川の峡谷と保津峡駅を見下ろす地点に出る。その奥には、嵯峨野観光鉄道の線路が、保津川の河畔に近い所を走っているのが見える。
かつては、この保津川を下った船を、嵐山から亀岡まで引き綱で引っ張りながら戻っていたと言う。今では、その道は痕跡となって残っているに過ぎないが、いずれ、歩いてみたいと思う。
駅前に戻り、大阪市内の店舗にレンタカーを返すため出発する。
車での来訪で、鉄道の旅とは勝手が違ったが、この駅前野宿の一夜は、思い出深いものとなった。
2015年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2014年11月には、京都市内から徒歩で保津峡に達し、トロッコ保津峡駅の裏から、嵐山に続く西山縦走を行ったのだが、保津峡周辺の写真を撮影しておらず、トロッコ保津峡駅の写真も撮影していなかった。山陰本線の保津峡駅も訪れていないが、トロッコ保津峡駅の裏から稜線に上がる踏み跡をたどる途中で、樹林越しに、保津峡駅を遠望することはできた。
保津峡駅の第三訪は、2015年8月のことだ。前回の訪問から、12年の月日が流れていた。
保津峡駅に降り立ったこの日は、九州北部のJR各線に乗車する旅の1日目で、仕事を終わってから兵庫県内の自宅を出発し、20時半頃に、保津峡駅に降り立った。通勤客が多く混雑した普通列車から、保津峡駅に降り立ったのは私一人だった。窓越しに、一部の乗客の好奇の眼差しを浴びる。
兵庫県から京都府に向かうのは、九州への旅としては、逆向きになるのだが、私は、目的地に直行しない、こういう回り道の旅が好きである。
この旅では、九州入りするのに、山陰本線、播但線、姫新線、芸備線、山陽本線と右往左往して、保津峡駅、内名駅で2泊した。帰路は、福知山までひたすら山陰本線を鈍行・快速列車で東進する。途中、木造駅舎時代の宇田郷駅で駅前野宿をしたが、かつて存在した、門司発福知山行き824を偲ぶ旅になった。
列車が出発し、静かな時間が訪れる。
ホームには、常に、保津川のせせらぎの音が聞こえてくるから、無音というわけではないが、せせらぎの音しか聞こえないという状況が、却って、静寂感を生み出していた。
近代化された複線電化区間の駅であり、都市間輸送の長編成列車も頻繁に往来するため、駅のホームは長く、上下線の末端から末端まで散歩していると、結構な時間がかかる。
駅舎は、トイレなども併設されているが、山小屋風で瀟洒な造りとなっており、観光駅としての一面が感じられる。
保津峡観光の拠点駅としては、嵯峨野観光鉄道のトロッコ保津峡駅の方が需要があると思われるが、両駅間を結んで、のんびりと保津峡観光を楽しんだり、愛宕山登山の発着地点としての利用したり、それなりに観光利用もあることだろう。
上下線のホームを連絡する通路は、片側が橋台部分の壁となっており、一見、地下通路のようにも見える。
すっかり暗くなった駅前から、ヘッドライトを灯して、壁岩の展望地点まで足を伸ばしてみる。
こういう場所・時間に車が来ると、大体、驚かれるのだが、21時半を過ぎたこの時間に、険路の府道に入ってくる車はなく、往復する間にすれ違うことはなかった。
壁岩の真下の府道から見下ろした保津峡駅は、一面の闇の中に、そこだけが明るく浮き上がっていた。遠く、亀岡市街地の上空には、街明かりを反射した雲が、薄っすらと浮かんでいた。
駅前に戻り、植え込みの陰に張った「我が家」で眠りにつく。旅路の夜は、旅情駅で過ごす「駅前野宿」が一番だ。
遅くまで列車の往来があったはずだが、終電の通過は記憶になかった。
翌朝は、5時前に起床する。保津峡駅は、黎明の青紫の嵐気の底で、まだ、眠りの中に居るかのようだった。
5時過ぎに壁岩の下まで足を伸ばし、まだ照明の灯る駅に到着した、始発の上り普通列車を見送る。レンズ越しに眺めた車中には、乗客の姿はほとんどなく、保津峡駅での乗降客も居なかった。
5時半頃になると、東の空に日の出の気配が漂い始めた。京都市街地と保津峡とを隔てる、書物岩付近の稜線の空は、金色に眩しく輝いている。稜線のすぐ下には、「あんな所に」と思うほど高い位置で、唯一のアクセス車道である主要地方道のラインが見て取れる。
東に面した保津川下流の川面も、空の輝きを反射して明るく色づく。しかし、下り線ホームから眺めた保津川の上流は、まだ、明け方の気配が残っており、この付近の谷の深さを感じる。
谷沿いの嵯峨野観光鉄道の線路を眺めている内に、園部駅に向かう普通列車が到着した。まだまだ、旅の2日目。これからの長旅に期待を抱きながら、山峡の旅情駅を後にした。