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尾盛駅:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
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2023年5月22日 | 尾盛駅の旅情駅探訪記のコンテンツ更新 (2023年3月~4月の探訪記の追加、既存の記事の構成変更) →尾盛駅:旅情駅探訪記「2023年3月~4月(ぶらり乗り鉄一人旅)」 |
2022年2月23日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ修正 (「接阻峡遊歩道」に関する情報の修正) →大井川鐵道井川線・尾盛駅の旅情駅探訪記 |
4月6日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ修正 (文献調査記録(間組百年史、本川根町史)の追加) →大井川鐵道井川線・尾盛駅の旅情駅探訪記・文献調査記録 |
3月29日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ修正 (旧版空撮画像の追加、記載の修正・追加) →大井川鐵道井川線・尾盛駅の旅情駅探訪記 |
3月25日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ修正 (文献調査記録(井川発電所工事誌)の追加) →大井川鐵道井川線・尾盛駅の旅情駅探訪記・文献調査記録 |
2021年2月14日 | 旅情駅探訪記のコンテンツ修正 (引用図や地形図の追加・差替と記述の追加) →大井川鐵道井川線・尾盛駅の旅情駅探訪記 |
2020年12月17日 | コンテンツ公開 |
尾盛駅:旅情駅探訪記
2017年6月(ちゃり鉄12号)
大井川鐵道井川線に「尾盛」という駅がある。
この駅は、鉄道に乗っていく以外、駅にたどり着く「道」がないのだと言う。
JR室蘭本線の小幌駅やJR飯田線の小和田駅などとともに、ある種の鉄道趣味を持った人々の間では聖地のように扱われてもいる尾盛駅だが、駅があるということは、そこに、駅と結びついた人々の生活があったということでもある。
今は住む人もなく訪れる道もない。
そんな駅に秘められた歴史やドラマに思いを馳せ、地図を読みながら、道なき道を辿ってかつての姿を偲んでみたい。
そこで、「ちゃり鉄12号」の旅では、この尾盛駅を含む大井川鐵道沿線を訪れることにした。
計画作成のために情報を調べてみると、噂通り、この駅にたどり着く「道」はない。
しかし、駅の上流側にある関の沢や大無間山から派生する枝尾根には、沢登りや渓流釣り、登山の記録が多数ある。駅そのものを目指して徒歩で到達したという記録も散見される。
下の図は「日本登山大系[普及版]9 南アルプス(2016年1月20日・白水社・柏瀬祐之他編)」に掲載されている「大無間山周辺概念図」であるが、この図の中に尾盛駅から大無間山に至る登山ルートが示されている。
また、同書の「大無間山を巡る沢」の章の概略の中で、「大無間山と大井川鉄道の尾盛駅間のコースも踏跡は比較的はっきりしている」との記述がある。
「日本登山大系」はアルパインクライミングや沢登りを対象としたバリエーションルート集なので、一般的な登山者が登るようなルートはほとんど掲載されていない点や、初版発行が1982年で情報としてはかなり古い時代のものであることにも留意が必要であるが、かつては、尾盛駅から大無間山に至るルートが「比較的はっきりしている」ルートとして存在していたのである。
とは言え、この図を注意深く見ると、尾栗峠に上がった後、大無間山に至るまでの稜線ルートには、「道迷い」の表記がある。「比較的はっきりしている」の「比較」対象は、クライミングルートや沢登りのルートなのであって、有名山域の標識完備の登山道ではない。その点には注意すべきである。
それはともかく。
整備された道はなくとも、地図を読んで歩くことができ、難所を越える技術や体力を持っているならば、尾盛駅は到達不能の地ではない。まして、この駅は、現役の鉄道路線の営業駅である上に、国土地理院の地形図を調べてみると、駅の近傍まで歩道を示す破線が伸びている。
もっとも、その破線が駅に達していないという点に、この駅やそこに通じる道が辿った運命が垣間見られるのだが、恐らく、消えた破線の先に、そこにあったはずの「道」の痕跡があるはずだ。
ネット上の情報や地図に示された地形から判断して、破線の先、等高線に沿って進めば、いくつかの難所はあるものの、駅にたどり着くことが出来ると読んで、隣駅の接岨峡温泉駅からアクセスする計画で、現地を訪れることにした。
なお、「角川日本地名大辞典22 静岡県」で「接阻峡」の解説を読むと、「右岸側の閑蔵、尾盛(おもり)、左岸側の海久保・栗尾などではその上にごく最近まで小集落をのせていた」とあり、尾盛に小さな集落があったということが分かる。この巻の発行は昭和57(1982)年10月8日のことである。
前夜を過ごした川根小山駅を朝、5時過ぎに出発し、営業開始前の接阻峡温泉駅には、6時過ぎに到着した。集落はまだ眠っているかのようだ。
なお、この集落は大字「犬間」にあるが、かつては長島と呼ばれており、駅名も川根長島であった。川根長島駅時代の旧線には犬間駅も存在したが、今は長島ダム建設によって生まれた接岨湖に沈んでいる。
駅名の改称は1990年10月2日のことであるが、この改称は、川根市代(現アプトいちしろ)駅付近に建設中であった長島ダムによる路線付替の一環であり、昭和末期から平成黎明期のこの時代、長島ダム建設に付随した各種開発事業により、当時の本川根町内で多数の観光開発事業が行われている。
それらについては文献調査記録で詳述することにしよう。
さて、この尾盛駅探訪は駅そのものの滞在時間に比べて、駅に辿り着くまでの往復の行程が非常に長くなった。
元々は、それを含めて尾盛駅の旅情駅探訪記としていたのだが、記事の更新に際し、駅までの往復の行程は現地調査記録にまとめ直すこととして、この探訪記では概略のみを記すことにする。詳細を確認したい読者は是非、現地調査記録「2017年6月:接阻峡温泉駅~尾盛駅(接阻峡遊歩道跡)」をご覧いただきたい。
尾盛駅に至る旧道は隣接する接岨峡温泉駅付近から始まる。
草むらを搔き分けた先に開けた作業道風情の廃道を進んでいくと、「対向車あり」という看板が唐突に現れる。文献調査記録で調べたとおり、このルートを三輪自動車が通った時代があるのは確かだが、この看板がその時代から設置されているとは思えないし、設置意図が良く分からない看板ではある。ただ、このルートを探索しようとする訪問者にとって、印象に残る看板であることは確かだ。
そのまま遊歩道時代の名残を残す旧道を進んでいくと、等高線に沿って進む道と、斜面に沿って下っていく道とが分岐する地点に出るのだが、遊歩道はここで旧車道から分岐して斜面を下りはじめる。
下りの途中には日影山展望台があり、更に下り続けると、井川線の路盤の高さにまで降りて、小さな沢を立て続けに二つの吊り橋で越えて行く。奥の吊り橋には「くりぞうりさわばし」の銘板が付いている。
「くりぞうりさわばし」を越えると斜面を登り返し、先ほど分岐した旧車道と合流する。この旧車道側は復路で踏査することにして先に進むことにするが、尾根地形を回り込んだあたりで第一陥没地点に出る。
ここは事前調査で把握していた場所であるが、現地で目の当たりにすると写真で見るよりも高度感があり、クライミング用具無しではとても岩壁をへつれるような場所ではない。
高巻きも難しいため、ここは下巻きをして通過するが、間髪入れずに第二陥没地点が現れる。
ここも事前に把握済みであるが、やはり、直接通り抜けることは出来ないので、下巻きで突破することにして、その後は、斜面に沿って線路脇に出るルートを採った。
不明瞭になった道型を辿っていくとやがて井川線の線路脇に合流し、線路の路盤から石垣を隔てて一段下がった山側を進むようになる。
緩やかなカーブを回り込んで左手に大きな石垣の跡を眺めつつ、枯れ沢を渡る樽沢橋梁を越えれば、尾盛駅に到着する。
6月中旬の南アルプス深南部の山中。訪れる者もいない寂寞境に、旅情駅は静かに佇んでいた。
接岨峡温泉駅付近から55分の道のりであった。
改めて、尾盛駅の歴史を振り返ってみる。
駅の開業は1959年8月1日。
路線自体は1935年3月20日の大井川専用軌道(千頭~大井川発電所)開業にルーツを持ち、その後、1954年4月1日に中部電力専用鉄道として堂平まで開業した後、尾盛駅開業と同日に大井川鐵道井川線となった。
即ち、中部電力の専用鉄道が、大井川鐵道という一般鉄道に引き継がれた際に、尾盛駅も開業したのである。ただし、「井川発電所工事誌(中部電力・1961年)」の記述によると、駅の施設自体は1954年4月30日に竣工しており、旅客営業駅としての開業が1959年だということである。
1959年と言うと、全国の鉄道建設史の中では、それ程、昔のことではない。
その頃から、現在のように、住む人も辿り着く道もなかったのか?と言えば、勿論、そんな訳もなく、既に述べたように、開業当時は、この駅付近まで通じる車道があったようである。
その辺の経緯は、「鉄道ファン」Webサイト内の「鉄道イベント」コーナーに掲載された、大井川鐵道の記事に簡潔にまとめられている。
それによると、上述のように中部電力による1954年の井川延伸の際に尾盛駅ができたらしく、その理由は、この駅の周辺に、井川ダムや井川線の建設作業員宿舎があったためと説明されている。
最盛期は1955年頃で、4つの建設会社による17~18軒の宿舎に、200人くらいの住人が居たようだ。井川線の車内放送では、病院や小学校もあったという話も紹介されている。実際、鉄道以外のまともな道がないこの地にあって、ダム建設に携わる労働者の家族が生活していたとなれば、生活に必要な各種の施設も建設されていたことであろう。
しかし、井川ダムの建設のために発生した尾盛の集落は、1957年の井川ダムの完成によって存在意義を失い、住む人は居なくなった。
存在意義を失った駅は、廃止されて当然であるが、尾盛駅には「廃止できない理由がある」のだという。
それは、林業とダム建設に関する補償問題の存在である。
大井川上流部は、元々、豊富な森林資源を利用して林業が発達した地域であり、公共交通機関や道路網が整備される以前は、大井川を利用した水運、通称「川狩り」が盛んに行われていたのだと言う。尾盛駅の周辺でも、既に見てきたとおり、森林施業が行われていた。
以下に引用するのは、「本川根町史 通史編4 民俗(本川根町・1998年)」に掲載された「川狩り」の写真である。
引用図:バラ狩り「本川根町史 通史編4 民俗(本川根町・1998年)」
引用図:川狩の光景 大正期「本川根町史 通史編4 民俗(本川根町・1998年)」
しかし、ダム建設に伴い川狩りができなくなると、森林資源の搬出に対する代替手段を確保する必要が生じ、ダムの建設主体である電力会社に補償義務が生じたのである。
そこで登場する補償手段が鉄道であった。川狩りに代えて、鉄道による搬出を行うことにしたのである。ここ尾盛駅でも周辺の植林地からの積み出しが行われていたと言う。
これについては、「本川根町史 資料編5 近現代ニ(本川根町・2000年)」に掲載された、「大井川鉄道千頭・堂平間鉄道敷設免許申請について(昭33・11・28)」の記載が参考になる。
それによると、「現在の中部電力株式会社大井川専用鉄道は電源開発工事のため、その資材の運搬ならびにこの工事によって止水区域となった区間の林産物当の流送権補償のため敷設されたものである」とある。
しかし、日本の林業自体が、輸入外材との競争に負けて衰退するのと軌を一にして、大井川流域の林業も廃れていった。
尾盛駅での木材の積み出しは1970年2月が最後だと、前記Webサイトには書かれている。
結局、ダム建設と林業補償という、2つの異なる目的のいずれをも失ったにもかかわらず、補償契約の条文だけが生き残り、現在も、尾盛駅が「営業」されている根拠となっているのである。
さて、その尾盛駅前。
かつての集落跡地は随所に残っている。地図で見れば、確かに、この辺りではここにしかないといった具合に、小さな沢の上流に緩傾斜地が広がっており、今も残る小屋の跡や駅舎代わりの保線小屋も描かれている。
線路から一段下がった窪地には、作業員宿舎のような建物が残っていた。
中を覗いてみると、板張りの床の半分ほどが朽ち果てており、壁も崩れて自然に帰ろうとしているところであったが、なぜか、時代を感じさせる古いエロ本が一冊、投げ捨てられていた。集落に人が居た当時からのもの、とは思われないが、そうだとすれば、訪問者が捨てていったものということだろうか。
小屋の裏には作業用具が散乱していたが、風呂場と思われる構造物もあった。
駅前に戻って、山中の寂寞境・尾盛駅の全景を眺めてみる。
駅は、かつて、交換可能だったようで、現在の線路側にあるバス停や花壇のような低いトロッコ用ホームの他、「駅舎」側にもホームの跡が残っている。
「駅舎」側と現在のホームとの間を通行するには、線路を渡らねばならないが、踏切は勿論、歩行帯も設けられていない。
ここでは、堂々と、線路歩きをしなければいけない。
駅舎代わりに使われている保線小屋などを覗いてみる。
この小屋は、元々は、保線作業員の詰所であって、一般開放はされていなかったのであるが、駅周辺で熊の出没が相次いだことにより、避難場所も兼ねて開放されるようになったのだと言う。
本来の「待合室」は小屋に併設してその軒下に設けられているが、吹きさらしなので逃げ場にはならない。
現状ではこの保線小屋が尾盛駅舎と言えようが、中は作業事務所のような作りになっており、緊急電話の他、事務机などが置かれていた。訪問者の駅ノートも数冊置いてあった。
以下に示すのは、前掲の旧版空撮画像(1976年10月7日)の尾盛駅付近の拡大画像である。
これを見ると、駅周辺の宿舎等は既に大半が消失しているが、駅南側の樽沢付近に、いくつか、施設が残っているように見える。
また、尾盛駅西側の山腹は、伐採された後に植林された痕跡が明瞭である。
ここから大無間山に至る廃登山道は、線路に沿って閑蔵駅側にしばらく歩いた後、斜面に取り付いて急登を上り詰めていくようだが、駅にその案内はない。
駅のホームには、神尾駅でも見かけた狸が鎮座して、旅人を迎えてくれる。
他には、タヌキ物語第七話の看板があるが、この看板の内容は、駅の由来などではなく、昔話風の創作物語である。
奥大井接阻峡を謳う観光案内板もあったが、現在の尾盛駅に一般向けの観光地としての機能はない。
駅の近傍まで整備されていた「接阻峡遊歩道」は、日影山展望台などを経て大井川を渡り、対岸の接阻峡温泉に至る構想もあったようだが、その構想の中に、尾盛駅までの整備が含まれていたとは思われない。
近年は、こうした駅も有名になり、遠来の客も訪れるようになったようだが、かと言って、経営改善に資するほどの数ではなく、大井川鐵道でも、この駅の扱いに苦労している様に思われる。
少ないながらも乗降客が居るのであれば、旅客扱いをする必要が生じるが、その乗降客が会社にとって好ましい客とは限らず、ここでも、開放された小屋の中に、ゴミを捨てていく者が少なからずいるようである。
私は、したり顔にマナーを訴えようとは思わないが、「旅先でとるのは写真だけ、持って帰るのは思い出だけ」にしておきたいと思う。
この訪問では、朝の始発列車が到達する前に駅を往復することになったため、他の訪問者もいない中、静かな時間を過ごすことができた。
この後、井川線を終点井川まで進み、更に、その先の廃線跡を堂平駅跡まで踏破した後、草薙ダムから奥の林道を二軒小屋辺りまで往復する予定で時間的にタイトな行程であったため、尾盛駅での滞在も短時間で切り上げることになった。
いつか、この尾盛駅から大無間山に登ってみたい。
そんな思いを胸に駅を後にした。
7時36分発。10分の滞在であった。
帰路に関しても詳細は現地調査記録にまとめることとして、ここでは概略を記そう。
樽沢橋梁を渡ってすぐの右手には大きな石垣が見えている。
ここが何の跡なのか信頼できる情報はないのだが、ネットの情報では学校跡とするものがあった。
線路の路盤と旧車道跡とは一段分の石垣で区画されているのだが、山側に設けられた旧車道跡は落石や電柱で塞がっている場所も多く、既に、車道としての痕跡は残っていない。
5分ほど歩いて右手に勾配標が出てくると、旧車道跡は線路脇の石垣の上に上がっていく。石垣の上は堆積物に覆われて傾斜地となっており車道跡には見えないが、道型を追っていくと、確かに斜面に沿って少しずつ高度を上げていく線形が見えてくる。
道のレベルとしては登山道よりも不明瞭で、獣道よりも明瞭という程度。
所々に設置された中部電力の境界杭や、様々な放置物の存在が、ここに人の往来があったことを今に伝えている。
やがて第二陥没地点に出るが、逆側からアプローチしても壁伝いに通り抜けられないのは変わりなく、下巻きによって突破する。続く第一陥没地点も同様だ。
そして遊歩道跡の分岐を過ぎてそのまま旧車道を直進すると、数棟の小屋が残る造林作業地跡を通過。その後、道型は「くりぞうりさわ」に呑まれて消失している。かつては架橋されていたと思われるが、既にその痕跡はない。
「くりぞうりさわ」とその隣接沢の間には崩落瓦礫に覆われたザレ斜面のトラバースがある。この部分の崩壊は岩盤にまでは及んでおらず、斜面上は瓦礫に覆われているが、足元から崩れる斜面は歩きにくい上に、今も崩落は続いているようで、斜面上部からの落石が木に激突して停止していたりする。
緊張する斜面を越えて程なく、下流側の隣接沢を渡る地点に出るが、こちら側の沢は土石流でも出たのか、堆積物や流木で荒れていた。それでも沢の中には山葵田もあったらしく、監視小屋の残骸もある。
その後は、旧遊歩道分岐を経て往路を逆行する形で進む。
旧遊歩道が日影山展望台や二つの吊り橋を経て斜面を上り下りする線形を取っているのは、二つの沢やその間の崩壊地を避ける意味合いがあってのことだろうと思われるが、この遊歩道の整備事業の実施計画書などが入手できないので、正確な理由は分からない。
荒れた沢や崩壊地のトラバースがあった関係で、往路よりも5分ほど長く、61分の行程で接岨峡温泉駅に帰着。
井川線の運転開始時間前であり、駅の周辺はまだ、ひっそりと静まり返っていた。
この日は、ここから井川線を井川駅まで走り通した後、堂平までの廃線跡を辿り、そのまま南アルプスの山麓奥深く、二軒小屋までを往復する行程。先はまだまだ長いので、付近にデポしていた自転車に跨って直ぐに出発することにした。
2023年3月~4月(ぶらり乗り鉄一人旅)
尾盛駅の再訪は2023年3月~4月にかけて。念願の駅前野宿での再訪となった。
実は、この再訪は2022年秋に計画していたのだが、同年9月に襲来した台風15号によって大井川鐵道が全線に渡って被災・運休したため延期していたのだ。
2023年3月末の段階でも、大井川本線の家山~千頭間は運休しておりバス代行となっていたが、経営難の大井川鐵道が自力で全線復旧する目処が立たず廃止も視野に入ってきただけに、井川線が全線開通したこの機会を利用して「ぶらり乗り鉄一人旅」として再訪することにしたのである。
もちろん、乗り鉄の旅で沿線を訪れて大井川鐵道の復旧を支援する意図もあった。
この再訪の主目的は前回10分程度の滞在時間しか取れなかった尾盛駅で駅前野宿を行い、周辺探索を十分に行うことと、田代~尾盛駅のバリエーションルートで大無間山を登山することだった。
田代~大無間山~尾盛駅のルートは、荷物を極限まで絞ったトレランスタイルであれば一日での踏破も可能だが、単独行かつ徒歩と公共交通機関のみを利用して移動する私の場合、入山地点と下山地点で野宿をする必要があり、その装備を背負って一日で踏破するのは現実的なプランではなかった。
せっかく大無間山に登るのであるから、出来るなら山中泊もしたい。その分、大装備になるものの、入山口と下山口が異なる今回のルートであれば、荷物をデポして軽量化・高速化を図るより、むしろ装備一式を担ぎながら、途中にテント泊を挟んで行程に余裕を持たせる方が合理的でもある。
そんなこともあって、田代側から尾盛駅に抜けるルートを、田代、大無間山山頂、尾盛駅のそれぞれで野宿する3泊の行程として、じっくり味わうことにした。加えて、4日目は尾盛駅に井川行きの始発列車が到着するまでの時間を利用して、横坑探索や本流までの踏査を中心とした周辺探索を行うこととしたのである。
全編は非常に長い探訪記になるので、大無間山登山の行程と尾盛駅周辺探索の詳細については別途現地調査記録に取りまとめることとして、この旅情駅探訪記の中では概略のみを記すことにする。
井川駅~田代集落
この再訪の起点は大井川最上流部の田代集落だが、その田代集落には大井川鐵道と井川地区自主運行バスを利用して到着した。
当初の予定では旅の一日目は土本駅までの予定としていたのだが、この期間の天気予報は不安定で、大無間山登山中や下山後に雨に降られる可能性もあった。そこで、初日の予定を変更して一気に田代まで移動して野宿することにして、入山期間を1日早めることとした。仮に雨天となったとしても、大無間山から尾盛駅までの下山中ではなく、尾盛駅に下山した翌日の周辺探索日に当たるようにしたのである。
当初予定していた土本駅には、下山後に訪れて駅前野宿することにした。
こうしたアドリブでの予定変更で、旅の目的を果たしつつ臨機応変に対応していくのは楽しいが、事前の十分な検討あってのことでもある。
前回の訪問時はちゃり鉄12号の旅の道中だったこともあり自転車で田代集落に到達したのだが、今回は大井川鐵道と井川地区自主運行バスという公共交通機関を利用して田代入りする。
井川地区自主運行バスはバスと言ってもライトバン。
駅に降り立った数組の観光客のうち、幾らかは本村や田代方面に向かうだろうと思いきや、定刻になっても他の乗客の姿は無く、田代集落まで他の乗降客は居なかった。
田代の停留所は集落の入り口にあり、目の前はキャンプ場が広がっているのだが、前回の旅と同様、今回もキャンプ場は営業期間外で、敷地に人の姿は無かった。
キャンプ場脇の空きスペースで野宿をする事にして、カメラや貴重品だけを持って田代集落を散策する。
集落の外れには井川大井神社や諏訪神社が鎮座しており、その入り口には諏訪の霊水が湧いている。ここは大無間山への登山口にもあたり、多くの登山者がここで口を潤したことだろう。明日からの登山の安全を願い井川大井神社にお参りした後、霊水を一口いただいた。
ここが大無間山の登山口だとは言え、3月末の山里はまだ行楽シーズンには遠く、集落の中には人の姿も疎らだった。キャンプの客は勿論、釣り人や登山者の姿も見られなかった。
この田代集落を含む井川村の歴史については未調査ではあるが、大井川最上流のこの村落は接阻峡の険谷に阻まれて大井川中下流の地域と交流することは難しく、本村の南側にある大日峠や富士見峠を越えて安部川流域に下り、直接、静岡市街地と結びついていたようだ。元々は独立した井川村として存在していたが、その井川村が1969年1月1日に静岡市に編入された歴史は、そういった交易の歴史を物語る。
一方で、井川村は大井川の電源開発事業を通して、中下流の地域とも結びつくようになった。特に、井川ダムの建設や、それに付随する各種補償工事の実施によって、1950年代~60年代初頭にかけては、村の人口もピークに達した。
その電源開発が終了した今日ではその賑わいもすっかり消えて、静かな山村に戻っている。尤も、今日では、リニア中央新幹線の静岡工区の工事拠点が大井川源流部に計画されており、その計画の是非を巡って関係自治体とJR東海との間で協議が難航していることは周知のとおりである。
ところで、私が2022年の晩秋や2023年の早春に尾盛駅への再訪を企画したのは、ヤマヒルの出現時期を避けるためでもあった。元々、ヤマヒルの多いことで知られた山域である上に、私が歩くのはバリエーションルートや廃道、沢筋などである。実際、6月の踏査となった前回の訪問では、ゲイターを装着したトレランシューズの中に、1匹紛れ込んでいた。
山中泊で周る行程でヤマヒルに集られたくもないのでこの時期を選んだのだが、それはそれで、2000mを越える稜線部分の積雪量が気になる状況でもあった。
積雪が多いならワカンやスノーシューが必要となるし、凍結が著しければアイゼンやピッケルも必要になるだろうが、大井川鐵道沿線の取材の一環で大無間山にも登山する今回はそういう装備は携行しない。積雪の状況は下調べしたが、実際に上がってみて無理があるなら、大人しく引き返すつもりだった。
さて、大無間山は200名山の中でも難関と謳われた山で登山者の数はそれほど多くはない。それに加えてオフシーズン。
その分、静かな集落を散歩することが出来たのだが、カメラを抱えて集落内の彼方此方を歩き回る私の姿が気になったのか、地元の方から「こんなところで何か撮影するようなものありますか?」と話しかけられた。
私にとってはどこか懐かしさを感じさせる田代集落の佇まいであったが、地元の方にとっては当たり前の日常の姿であり、その光景が写真の被写体になろうはずもないのかもしれない。
まだ桜も咲き始めといった感じのキャンプ場脇に戻り、明日の出発に備えて19時過ぎには就寝することにした。
田代集落~大無間山
田代集落~小無間小屋
翌日、田代集落から大無間山までの登山に臨むことにした。
早朝の田代集落は霧に包まれていたが、上空には青空の気配が漂い、この日一日の晴天を予感させる。
田代からの大無間山登山ルートは古い時代の書籍にも掲載されているが、モノによっては「一日では到達できない」と書かれている。
途中に鋸のようなアップダウンがある上に大崩壊地が存在するため、現代でも、難所手前の小無間小屋に荷物をデポして軽装で山頂をピストンし、翌日、小屋から下山するような行程で登山する人が多い。
田代からのピストンにせよ、各所からの周回コースにせよ、大無間山を日帰り登山している人の大半は、夜明け前に登り始め、夕方遅くか日没後に下山している。
計画段階で色々調べてみたが、私のように、尾盛駅での駅前野宿が主目的なのに、わざわざ田代から大無間山を越えてアプローチするという人は見つからなかった。そりゃ無理もない。
さて、この日の行程の全体図と断面図を以下に示しておこう。
大無間山2329.6m、出発地点は666.8m。単純標高差は1662.8mとなるのだが、GPSログを元に計算した結果、累積標高差では登りが2466m、下りが803.2mとなり、山頂の標高を越える高距を登りながら、実にその三分の一に及ぶ降りもあるというハードなコースである。全区間の沿面距離は13.126㎞となっているが、これには大無間山山頂に到着後、GPSの電源を切るまでの測定誤差が含まれており、実際の沿面距離は11.8㎞程度であった。
かく言う私は、この取材で使用する各種機材などの装備一式約25㎏を背負って山頂まで登り、そこで一泊する予定。山中では使う予定のない装備一式を担いで登ることになるので、携行食や水は最小限にしたのだが、結果的にこれは失敗。翌日の下り行程では水不足の中で体調不良に見舞われ、難渋することになった。
そんな行く末はいざ知らず、この日の私は雪の具合によっては登頂断念もあり得る想定の中、厳しい登路に挑むことにした。
ルートは、田代~小無間小屋までの登り区間、小無間小屋~小無間山までの小ピーク群、小無間山~大無間山までの緩傾斜区間に大別できる。
そのうち、最初の田代~小無間小屋までの登り区間では、標高666.8mから1796.3mまで一気に登り詰めていく。傾斜が緩い部分もあるが、基調は登り勾配で、一部、かなり急傾斜となる部分がある。先に掲げた断面図でもそれは明確に表れている。
6時8分に田代を出発し、途中、諏訪神社に立ち寄りながら、雷段の廃小屋を左手に見送り、小無間小屋には9時24分着。距離は5.3㎞であった。
小無間小屋~小無間山
小屋裏の水瓶に氷が張るくらいの冷え込みだったが、天候は晴れで心地よい。
小休止を挟んで9時40分発。ここからは、いよいよ核心部に入っていく。
以下に、断面図を再掲するとともにこの区間の地形図を掲載しておこう。
小無間小屋のある1796.3mピークはP4と通称され、ここから小無間山2149.7mまでの間に、P3~P1の3つの小ピーク群が屹立する。地図上で1898mの独立標高点が描かれているのがP2。断面図でもこの区間のアップダウンと各小ピークは明瞭だ。
P1は1917mあり、そこから1865mのコルに下った後、2149.7mの小無間山に登るのだが、その斜面が大崩壊地となっている。
こうした小ピークが続く尾根筋を行く場合、山域によってはピーク毎に巻き道が付いていて山頂のアップダウンをパスして進むことが出来るのだが、大無間山のルートに関しては行く手に聳えるピークの一つ一つを丹念に乗り越えていくことになる。
安全に巻けないほど斜面の傾斜がきついということだが、その傾斜を登降するのであるから当然ルートは厳しくなる。
そうして4つの小ピークで疲弊したところで、小無間山手前のコルと取り付き斜面の大崩壊を越えて行くので、不安定な足場や重装備も手伝って中々に消耗する。
そして登り切って急傾斜から解放されたと喜ぶのも束の間、小無間山山頂の手前付近から残雪が多くなり始めツボ足では難儀するようになる。
積雪は20㎝から50cm程度。深いところでは1mくらい吹き溜まっており、腐れ雪に足を取られて歩みも捗らない。
とは言え、日向斜面は露出している箇所も多く、見通した限り、大無間山山頂までの間で大幅に残雪が増えることもなさそうなので、このまま登頂することにした。
小無間山には12時6分着。距離は7.9㎞であった。
小無間山~大無間山
小休止を挟んで12時17分発。最終区間に入る。
小無間山から大無間山までは標高差179.9m。これを約4.0㎞程度で上っていくので、これまでとは一変して緩傾斜の穏やかな尾根道となる。はずだったのだが、実際には、2109mの中無間山を越えて大無間山の北東尾根に入ったあたりから、残雪に足を取られてかなり苦労する行程となった。
ここも断面図と地形図を掲載しておこう。
ルートは尾根筋を行くので日向斜面では積雪もなく歩調も軽快に捗るのだが、中無間山から大無間山までの行程は北東に伸びる尾根上を行く関係もあって日影斜面が多いことが災いした。
山頂に到着する時刻によっては、今回の踏査ルートから外れる大根沢山まで空身でピストンすることも考えていたのだが、ここまでの行程でも計画より遅延していたこともあって、大無間山に到着したら行動終了することにして腐れ雪の尾根を忍耐強く歩き続けた。
大無間山は展望に恵まれた山ではなく、崩壊した沢の源頭など、幾つかの地点で視界が開けるに過ぎない。小無間山を越えてからも、唐松沢の頭から関ノ沢の源流域越しに大無間山の山頂を眺めたり、中無間山を越えたあたりから、北方の南アルプス主稜線・赤石岳方面を眺めたりすることはできたが、全体的には針葉樹林帯を黙々と歩く行程だ。
意外と時間を要して大無間山登頂。14時58分。11.8㎞の行程だった。
山頂は雪に覆われテントを張るのによいスペースが少なく、山頂標識の傍らに見付けた僅かな草地にテントを張った。
どうにかツボ足で登頂できるくらいの状況ではあったが、25㎏の重荷を背負いながら雪に足を取られる状況で疲労感も強く、また、登山靴の消耗も激しかった。古いトレッキングシューズを使用していたこともありソールに剥離の兆候が見られる。
翌日の下り行程に不安を残すこととなったが、行程そのものには余裕を持たせたので、明るいうちにテントの設営と夕食を終え、日没前には就寝することにした。
大無間山~尾盛駅
大無間山~風不入
翌日は尾盛駅までの下り行程。距離が長く下りの傾斜がきついことも下調べ済みだった。
昨日、鋸歯のアップダウンや小無間山から先の積雪に苦労しただけに、この日の疲労の蓄積が気になったのだが、意外にも体感するような筋肉痛や疲労は無く体は軽かった。
さっと朝食を済ませて野宿装備を撤収し下山準備に取り掛かる。
昨日の日中は腐れていた雪も、夜の間に凍結して固く締まっており、足を取られる状況からは開放されそうだ。
出発は6時45分過ぎ。一夜を過ごした大無間山の山頂を辞する。
ここもまず、GPSログを元にした全体の行程図と断面図を示しておこう。
地図上の計測では、大無間山2329.6mから尾盛駅527.7mまで高度差は1801.9m。尾盛駅が田代集落よりも低い所にあるので高度差も大きい。のみならず、GPSの累積標高で見ると、登りが866.62m、降りが2633.73m。やはり、大無間山の標高を越える降りの中でその三分の一程度の登り返しがある。沿面距離は12.966kmとなっており、これはほぼ実距離なので、登り行程よりも降り行程の方が距離も高度差も大きいということになる。
加えて、このルートは一般的な登山ルートではない、いわゆるバリエーションルート。この区間の踏査が主目的ではあったが、かなり厳しい行程は予想された。
この降り行程も、大無間山~風不入までの前半戦、風不入~尾盛分岐までの中半戦、尾盛分岐~尾盛駅までの後半戦の3行程に分けて考えることが出来る。
そして、大無間山~風不入~尾盛分岐の前半・中半は、全体として急勾配で降りながらも、小ピーク毎に登り返しを要する難行程。そして、その後に、尾盛駅付近までの急な下りが続くのである。
急登の方が急降よりもきついイメージを抱きがちだし、実際、体感的にも急登の方が厳しく感じることが多いが、肉体的なダメージが大きいのは急降の方で、遅発性筋肉痛などを生じるのは降りの負荷である。いわゆる伸張性収縮というやつで、筋肉が伸ばされながら収縮するパターン。肉離れなどの原因にもなりやすい。
箱根駅伝では小田原~芦ノ湖の5区山登り区間が「山の神」などと喧伝されるが、実際に厳しいのは6区の山下りなのである。
さて、出発してそうそうから、この日の行程を暗示するような難儀に見舞われる。
というのも、一夜のうちにクラストして締まった雪は、沈み込みの煩わしさからは解放してくれたものの、スリップの危険をもたらしたからだ。
真冬のガチガチの凍結ではなかったので、ヒールの固い登山靴ならヒールステップで難なく下れそうではあったが、この旅で履いていたのはソールの柔らかいトレッキングシューズだったので、ヒールステップが効かない。
加えて急勾配の積雪斜面とあって、スリップや転倒は大きな滑落に結びつく危険性があった。
そのため、一歩一歩、慎重に足運びをする必要が生じるし、大腿に大きな負担がかかることになった。
ただ、この先は南向きの斜面を下っていくことになるので、昨日の行程よりも積雪限界は高い位置にあり、大無間山と前無間山の間にある2281mのコルに降りる頃には、危険のない程度まで融雪していたのは助かった。
その後、前無間山、P2098、三ツ合山、P1917と降っていくのだが、ピーク毎に登り返しを要求され、その後は決まって急な降りとなるため、筋肉には大きな負担がかかるのを感じていた。加えて残りの携行水が1Lほどしかなかったため、水分補給が思うに任せない。シューズはソールがいよいよ本格的に剥がれ始めていたので、雪が消えてからも足運びは慎重にならざるを得ず、遅々として進まない印象があった。
結局、風不入には9時49分着。沿面距離3.9㎞。予定よりも50分程度余計に要することになった。
風不入~尾盛分岐
風不入から先のルートは、初日の小無間小屋~小無間山を逆向きにしたような急勾配降り基調のアップダウンが続く。
特に、風不入直下の2段階の急降は激しく、大きな荷物を背負って下るのには骨が折れるし、積雪期や氷結期はかなり困難を伴うだろう。
この降下の途中の小ピーク群には名称問題が存在するようで、黒枯山の位置やP1612mに付けられた抜ヶ谷山の名称の是非などを巡って議論がある。
また古い書籍を調べていると、尾盛からの登路の途中、尾栗峠と黒枯山との間に、黒枯山から60m低い樫代山という地元呼称の山があることが記されているのだが、地図で調べてみたものの詳細が不明だ。この辺りは、別途、文献調査記録で述べることにしよう。
風不入は元々風も吹かないような針葉樹林の密林だったことが山名の由来となっているが、現地を歩くと、黒枯山を過ぎたあたりから、栗代川に面した西向き斜面が樹齢の浅い二次林に置き換わるようになり、稜線に森林施業で使われたワイヤーの残骸が放置されているのが目に付くようになる。
栗代川と稜線との間には、崩壊して廃道となった栗代林道があるが、この一帯は、かつては1700mに達する稜線付近まで伐採の手が入っていたのだろう。
そのため風不入の山頂付近も、以前と比較すると疎林になってきているようだ。
この日は日射がなく気温も低かったが、登り返しの多さ故に頻繁な水分補給が必要となり、携行水の不足はダメージを大きなものにした。加えて、重量物を背負っての急勾配にソールが耐えきれず、左足の土踏まずから先は完全に剝離、右足も剥離の兆候が出る状況となった。今回は、最近使っていたトレランシューズを避けてトレッキングシューズを使用したものの、長らく使っていないシューズだったので接着部分が劣化してしまっていたようだ。
ソールの剥離はそのままでは致命的な事故に繋がりかねないので、テーピングテープなどを用いて応急処置を施したが、ソールが覆われるのでグリップが緩くなる。それらの障害もあって、尾盛分岐に到着したのは13時1分。沿面距離8.1㎞で、予定より2時間遅れとなった。
この日は、ここから尾栗峠と関ノ沢導水橋に立ち寄りながら尾盛駅を目指す計画だったのだが、関ノ沢導水橋の方の探索は諦め、尾栗峠から大小屋戸山まで足を延ばすだけにして、尾盛駅に下る事にした。
尾盛分岐~大小屋戸山~尾盛駅
尾盛分岐からは尾栗峠経由で大小屋戸山まで空身で往復することにした。休憩は後回しで13時5分発。
予定より2時間遅れているとは言え、元々、行程には余裕を持たせていたので、下山時刻に支障が生じることはない。脱水症状やソールの剥離もあるので急勾配の降りは捗らないが、尾栗峠は是非とも訪れておきたかった。
ここも尾盛分岐からの下りはじめはかなりの急勾配。杉の植林地の降りなので足への当たりは柔らかいが、後ほど登り返すことを考えると気が滅入る。一層のこと、装備一式を担いで降り尾栗峠から尾盛駅へのトラバース道に入っても良かったのだが、尾盛ルートを全うすることを重視して空身の往復を続けることにした。
急勾配の下りを終えた後は緩やかに降りながら森林施業資材の残骸などが散乱する尾栗峠に辿り着く。
その名の通り、尾盛と栗代とを結ぶ峠道だが、いずれも無居住地帯となっている上に栗代側は林道の崩落で往来も途絶えており、峠道としての役割を終えている。尾盛側は尾盛ルートの再整備に合わせて標識が取り付けられ、過ぎの植林地の中に道が分け入っているのが見える。この辺りは、尾盛(東)側は杉の植林地となっており、栗代(西)側は皆伐後の二次林となっている。
ここから緩やかに登り返し、ピークという印象に乏しい大小屋戸山1280.3mを踏む。三角点データベースの記録では1280.05mとなっている。13時20分。8.9㎞。
ここから尾根を南下していけば、栗代山を経て井川線のひらんだ駅付近に出ることが出来るが、今回はここで引き返し、尾盛分岐の急勾配を登り返した上で、いよいよ最終行程の尾盛駅への降りに入った。13時46分発。9.8㎞。
この下降もひたすら急勾配である。
ソールの剥離は両足に及んでおり、脱水症状に伴う大腿部の虚脱感もあって、かなり慎重な降りとなった。
途中、ランドマークとなる造林小屋を過ぎ、関ノ沢の導水橋付近に延びるらしい作業路跡を見送って、尾根の末端にある三本柱の電柱まで下る。ここから巡視路に沿って井川線の脇まで達してみると、線路の路盤が高速道路のように感じられた。
途中、小森沢付近で水を汲みようやく水分補給ができた。ここまでくれば、駅はもうすぐである。荷物の総量や季節を考えて4Lを携行したのだが、6Lは必要だったと反省しきり。線路内を歩くわけにもいかず、路盤脇などを選んで歩いているうちに井川に向かう最終列車が到着。
もし、尾盛駅から乗車する予定だったら焦るところだが、私は駅前野宿なので、悠然と見送った。
16時1分。尾盛駅到着。予定より2時間10分の遅れ。13㎞。尾盛分岐からの降りでかなり時間を要したにもかかわらず、尾盛分岐到着の2時間遅れと比較して、追加10分の延着だった。勿論、関ノ沢導水橋付近の探索を割愛したことによる時間短縮が、降りの遅延を相殺したのである。
課題は次回に残ることになったのだが、文献調査によると、元来の尾盛ルートは現在のように線路脇を歩くのではなく、駅の北側から斜面に取り付いていたようなので、次の現地調査の際に、その旧ルート探索を行ってみたいと思う。
尾盛駅周辺
概略にしては随分長い前置きになった。ようやく尾盛駅に到着である。
出発していく井川線の列車の後ろ姿を見送り、車輪の軋む音が峡谷の向こうに消えた頃、ズシリと重い荷物を下ろした。この旅の全行程5泊6日分の荷物を背負っていたのだから、普通の登山というよりも歩荷のトレーニングのような登山だった。
前回、「いつか歩いてみたい」と思いながら後にした尾盛駅で、今夜は駅前野宿のひと時を過ごせる。体は消耗が激しくちゃり鉄の旅の中では最も厳しい状況になってしまったが、気持ちは満たされていた。
一先ず衣類を着替え足元をサンダルに履き替えると、多少、体が解放された心地がしたので、クールダウンがてら駅の周辺をブラブラ散歩することにした。
前回は6月半ばの探訪で、尾盛駅は鮮やかな緑色に包まれていたが、今回は早春。
落葉樹は芽吹きの萌黄色で、所々に咲いている山桜が淡い色彩を添えていた。
この日は終日曇天だったので、谷間に位置する尾盛駅周辺も風景の彩度は低かったが、こうして時期を変えて同じ旅情駅を訪れるのは楽しい。
ホーム上で駅名標や待合室を撮影した後、千頭方にある小屋の跡まで足を延ばして、駅を眺めてみた。
このアングルから眺めると、駅の後背の二次林はまだまだ芽吹きも疎らで枯色の風景。その背後には、来し方、大無間山から派生する枝尾根が遥か高い所にスカイラインを描いている。
尾盛駅から大無間山に登ろうとすれば、あの高みに達する必要があるのだが、実際にそこに立っても前途遼遠。風不入や前無間山をはじめとする稜線上の起伏が連なり、延々と登り続ける稜線が目に飛び込んでくることになる。肉体的には勿論、心理的にも厳しいルートであることを実感した。
しかし、尾盛駅から大無間山への登山客が少なくなかった時代は、今日とは異なり鉄道で登山に向かうスタイルが主流だった。鉄道駅は目標とする山の登山口から離れていることが多く、登山者は駅から登山口まで歩くかバスなどの公共交通機関を利用していた。当然、歩く距離は今よりも長かっただろうし、装備も今よりも重く嵩張るものだっただろう。最寄駅から登山口に着くのに1日かかるというような山域も決して少なくは無かった。
マイカー登山が主流となることによって登山者は歩かなくなった。出来るだけ楽に高い所に登れるように車で行ける所まで行くし、逆に、アプローチが長く楽に登れない山は敬遠されるようになった。その矛盾を自問自答する登山者はかなり少ないように思う。
「映え」という言葉が象徴するように、今日の登山者にはSNSに投稿するために山に登っている人が多く、そういう人々にとって、今回私が歩いたような「映え」ないルートは登山の対象にはなりにくいかもしれない。
キャンプ然り、ランニング然り、サイクリング然り、一人旅然り…。
底辺人口が増えて、お洒落でファッショナブルなウェアやシューズ、装備が充実するようにはなったが、表層的な楽しみ方が増えたような気がするのは私が時代についていけないせいだろうか。
登山が好きで自然が嫌いという人はあまり居ないだろうが、そんな登山者でも藪山を嫌う人は多い。藪の刈払いや支障木の撤去、道標の設置など、有名山域になるほど登山道の整備を求める声は大きく、整備不良の登山道で事故が起れば、遭難者が整備者の管理責任を問うケースもある。
しかし、自然の山に本来登山道などはない。あるのは獣道であり微かな踏み跡でしかないはずで、そういう僅かな痕跡を頼りに、地形や植生を見極めながら辿るべきルートを見出していくのが、自然に親しむということの本質であるように感じる。それは楽しいことであると同時に危険な事でもあるが、危険を排除しようとすればするほど、本来の自然の姿からはかけ離れていく。
今回歩いたのは、勿論、そんな未開の地ではないから、私自身も尊大ぶるのは慎みたいが、脱水症状を起こして身体的なダメージが大きかったこともあり、改めて、登山や自然の本質について考えることになったし、自身の身体能力の低下を痛感することにもなった。
自然はいつも偉大な恩師である。
線路脇の小屋跡は荒れるに任せているが、尾盛駅周辺に残る居住施設跡としては最も原形を保っている。
内部を覗いてみると、何十年もその位置にとどまっているのであろう様々な生活物資が散乱していたが、野生生物の侵入や乾湿寒暖差によって、少しずつ損壊腐朽が進んでいるように見えた。
ところで、この小屋の正体については正確な事が分からない。ネットでは「保線作業小屋」とする記事が散見されるし、私もそう解釈してきたが、文献調査や現地調査を重ねるにつれ、この小屋は鉄道の関連施設ではなく森林施業関係者の作業小屋だったのではないかと思うようになってきた。
文献調査編で取りまとめた内容だが、「井川発電所工事誌」に掲載された「大井川専用鉄道関係建物一覧表」の中にある「停留場建物」の一覧によると、尾盛駅は「木造トタン板葺平屋建」で延床面積が「6.75坪」の建物が「1棟」と記されている。竣工年月日は「29.4.30」、つまり1954年のことだ。他に付随施設の記載はない。
この建物は坪数から考えて紛れもなく、現在も活用されている待合室兼用の保線小屋である。勿論、こちらは保線作業小屋として改修作業も行われているから、当時の建築物そのままではない。
そして、井川ダムの竣工は1957年。
既に本文でも述べてきたように、尾盛駅周辺には当初、中部電力専用鉄道や井川ダム、関ノ沢導水橋の建設工事の拠点として、多数の建設会社の作業員宿舎などが設けられていたが、井川ダムの完成に伴ってそういった仮設宿舎の類は撤去されたらしい。
というのも、この翌日に行った現地調査では、駅周辺の2棟の廃屋を除いて建物は残っておらず、工事用の仮設宿舎撤去後に植林されたらしい杉林の中に残っているのは、多数の竈跡だけだったからだ。
ダム建設は既に70年ほど昔の出来事となるが、その当時の痕跡が苔生した竈以外にほぼ原形をとどめていないのと比べて、2棟の廃屋は明らかに新しい。
この尾盛駅周辺は、井川ダム建設工事の拠点の他、森林施業や長島地域の住民の焼き畑地として活用されていたことは本文や文献調査記録で述べた通りが、その森林施業に伴う木材搬出は既に述べたように1970年まで続いていた。つまり、50年ほど前までは、ここで森林施業に携わる人々の生活があったはずなのである。
実際、尾盛分岐から尾盛駅までの最終行程の途中に森林施業小屋が残っていたことを見てきたが、損壊腐朽の程度は似たり寄ったりである。尾盛駅の脇の小屋を覗いてみたが、そこには保線作業に使う道具類は無く、むしろ、杣小屋のような雰囲気がある。
また、現在の尾盛駅は棒線駅となっているが、待合室側に明確なホームが残っているように、かつては、少なくとも三線をそなえた交換可能駅であった。Wikipediaにはホーム跡が川狩りの補償によって設けられた木材積み出し用のホームであったことが書かれているが、その根拠を示していないので真偽のほどは分からない。
但し、1972年に尾盛駅で乗降した方の個人ブログによると、当時の旅客列車は現在のホーム跡に停車するのではなく現行ホーム側を通過していたようだし、ホーム跡側に敷かれていた線路は既に赤錆びて使われていない様子だった。
そんな一連の状況を踏まえて考えると、ここで森林施業を行っていた事業者の作業小屋だったとするのが、正しいように思える。
そこで、尾盛駅にまつわる情報について、関係する数社に問い合わせも行ったのだが、残念なことに、個人への情報提供拒否の他、既存文献以外の情報なし、災害によって散逸し不明、といった回答で、目ぼしい成果は無かった。
往時の事情を知る方がいらっしゃれば、是非とも、ご連絡をいただきたいものである。
さて、大井川本流までの探索や横坑の探索は明日の予定なので、この日は、樽沢を渡った所にある石積みの敷地を訪れることにした。ここも信頼できる情報があるわけではないが、学校跡だという情報がある。確かに、造りを考えると、そう見えなくもない。
苔生して崩れかけた階段を登った所は平地になっており、疎らに灌木が茂っている。周囲を取り囲むように桜が植えられているところを見ると、確かに、居住地や飯場というよりも学校の跡という方がそれらしい。
敷地をざっと見渡すと、線路側には傾いた看板が残っており、山側には何やら石碑のようなものが見えている。これらを確認すれば正体が分かるかと思いきや、看板には47.5.12というペイントがあるだけで設置主を示す表示などは消失していた。これは1972(昭和47)年5月12日ということだろうが、駅開業の1959年8月1日、尾盛駅での最後の木材積み出しの1970年2月という情報と比較すると、既に尾盛駅周辺の無人化が進んだ後のことと思われる。小屋近くの山裾には、この辺りで森林施業を行っていた駿遠林業の看板があるので、それと同じく事業主の看板だと思ったのだが、詳細は不明のままだ。
山側の石碑らしきものを確認しに行くと、これは、石碑ではなかった。近付いて確認すると、付近には苔に覆われた竈の跡があった。この一画はここに在った施設の炊事場の跡だったのだろう。
石碑に見えた構造物には、何ら手掛かりとなるものは無く、結局、何の施設だったのかは分からないが、竈に隣接しておりコンクリート製の水槽のようなものを伴っていたので、水回りの施設だったように思われる。
これらの構造物は空き地の南側に固まっており、北側は桜が植えられた平地だから、南側に校舎があり北側に運動場があったのかもしれない。
敷地に植えられた桜はここに集う人々の癒しだっただろう。数十年前の同じ春先、もしかしたら、工事関係者やその家族子息が集まって、花見の宴を催したりしたこともあるのかもしれない。翌日、この一帯を探索してみたが、人為的に桜が植えられているのはこの一画だけだったから、この尾盛で暮らした人々にとっては、特別な一画であり、安らぎの場所だったと思うのだ。
無人となった尾盛の地で人知れず咲き誇る桜の木々は、かつてここに集った人々の記憶を静かに物語っているようだった。
石段を下り、駅に戻ることにした。
内臓も疲労が強く食欲は無かったが、回復のためにもそろそろ夕食の準備に取り掛かる必要がある。
駅に戻る道すがら、改めて来し方の尾根を遠くに眺めた。いやはや、厳しい降りだった。
駅を正面から眺めると、タヌキの置物と待合室の背後には、栗代山に続く尾根が屏風のように立ちはだかっている。その山腹や山麓には植林地の他、焼き畑後の二次林、横坑工事に伴うらしいズリ山などが広がっている。ズリ山は灌木に覆われて自然に回帰する過程にあるようだ。
現行ホームと旧ホームを見比べてみると、その差は歴然。何故、構内配線の整理の時にホームらしい方を廃線にして、こちらを残したのかと思うが、井川線の車両の構造を考えると、高さが合わないということなのだろう。
待合室の裏手は灌木が茂るズリ山の斜面になっている。もちろん、この斜面がズリ山だという根拠はないのだが、周辺山林の林床と比べて駅後背部の斜面は角の荒い瓦礫が多く明らかに土壌の質が異なる上に、植生も疎らだ。表層に有機物の堆積があまり見られないところを見ても、この山体が形成されたのはそれほど古い時期ではないし、地形的に近年になって地滑りやがけ崩れが起こったような場所でもない。
横坑が山中に導水トンネルを掘削する工事のために設けられたことを考えれば、その掘削残滓を堆積した場所だろうということは、容易に想像されるのである。
一帯の探索は明日にするが、比較的明瞭な作業路跡が見えていたので、途中まで上がってみた。
道型は斜上しながら奥へと続いており、新しいピンクテープが付けられている。駅の探索者が付けたものか横坑の管理者が付けたものかは分からなかったが、翌日探索したところ、このテープは横坑付近まで付けられており、付近には中部電力の敷地境界標が設置されていた。
この日は奥まで足を延ばさず、待合室を見下ろすところで写真を撮影して戻ることにした。17時前だったので、駅に到着してから2時間弱を軽い探索に充てたことになる。
夕食と片づけを済ませると18時を過ぎていた。
尾盛駅には照明設備は無く、駅の周辺には夜の帳が降り始めている。写真を撮影しながら付近を散策しているうちに、ヘッドライトが必要となるくらい薄暗くなった。
もちろん、山中泊や駅前野宿に備えて、そういった装備はしっかりと携行しているので困ることはない。
ただ、とっぷり暮れる中で写真を撮影しても暗闇と稜線の影が写るだけなので、待合室の中にヘッドライトを点したままで残して数枚の写真を撮影することにした。
夜の尾盛駅を撮影した写真は、これまで、見たことはない。ライトが無ければ暗闇が広がるだけではあるが、夜の尾盛駅の姿と対峙できることは幸運な事だった。
ただし、熊が出る地域であるし、実際、大無間山からの降路でも樹幹に残った熊の爪跡を見た。こういった場所で興味本位に野宿をする事は勧められるものではないし、そもそも、無人駅周辺での野宿は黙認されているに過ぎない。周到な準備と知識・経験が必要であることは勿論、事故や事件に際しての責任は全て自分に生じることを理解した上で、管理者や周辺住民に迷惑をかけないよう、自分の行動には十分に注意したい。
この夜は、肉体疲労が過剰だったこともあって眠りが浅く、深夜には尿意を催して目が覚めた。
トイレのために寝袋から外に出てみると、辺りは満月の青白い光に照らされてヘッドライトが要らないくらい明るかった。
尾盛駅は月光に照らされて印象的な姿を見せてくれた。それは、苦労して訪れた旅人への、ささやかなプレゼントだったのかもしれない。
翌朝は、すっかり明るくなってから目が覚めた。
無人駅での駅前野宿の場合、通常は、始発列車の出発時刻の1時間前くらいまでには野宿装備を片付けることにしている。管理委託を受けている駅周辺の住民の方が清掃に来られることもあるし、朝早い利用者が訪れることもあるからだ。そんな時に、テントを張って鼾をかいた野宿者が居るというのは、気持ち良い状況ではないだろう。
しかし、尾盛駅の場合、この訪問時の朝の始発列車は井川行で10時37分。
周辺に住民も居らず保線作業が行われる状況でもなかったので、疲れていたこともあって12時間近い睡眠時間を取ることになった。
それでも6時半頃までには野宿装備を片付けて周辺探索に移ることにした。
既に後背山地の山麓まで朝日が差し込んでいたが、東側のオモレ山に日光を遮られる尾盛駅付近は、まだ、夜明け前の名残を残していた。
この日は、尾盛駅後背の山中にあるはずの横坑の探索と、文献調査記録で述べた曲流切断によって生じた大井川旧河道の探索を目的としている。
まずは、駅に近い横坑の探索から始めるのだが、実は、この段階で横坑の正確な位置は把握していなかった。横坑が存在することは把握していたものの、位置がどこなのかを記した情報が見つからなかったからである。
そのため、場合によっては藪漕ぎになることを覚悟の上で、後背山麓を探ってみるつもりだったのだが、昨日既に見たように、尾盛駅の北側を山中に向かう作業路の跡がある。恐らく、その先に、工事関連施設の跡や横坑が眠っているはずである。
以下に示すのはこの日の探索のGPSログである。
探索の詳細は、別途、現地調査記録にまとめることとして、ここでは概略を述べるにとどめるが、田代~大無間山~尾盛駅間の踏査に比べると、距離も短く楽な踏査だった。早朝から列車の到着までの探索として、時間的にも適切なものであった。
但し、ログ上で繋がっているように見える樽沢と小森沢の大井川本流合流点付近は、多少の高巻きをしている。水量その他の状況によっては高巻きをせずに、尾根末端部の40m程の断崖の下を通り抜けられるだろうが、この日は水に浸からなければ通り抜けることは出来なかった。
高巻き自体も、慣れなければ降りでザイルが必要になる高さである。
また、横坑付近も整備された登山道などはないし、不明瞭な個所や崩壊地もある。
その点は注意が必要だし、探索は全てにおいて自己の責任に帰することを、肝に銘じておく必要があるだろう。
横坑に関しては合計二個所の入り口を見つけることが出来た。一個所は小森沢付近。もう一個所は尾盛駅背後の樽沢と小森沢の間の山麓に存在した。小森沢側を北坑口、山麓側を南坑口と呼ぶことにしよう。当初、一個所しかないと思っていただけに、これは意外な発見だった。
いずれの横坑も施錠され、もちろん、中に立ち入ることは出来ない。外から中の様子を覗き見るだけだが、奥の方からは導水トンネルを流れる水の音が聞こえていた。また、坑口付近には掘削残滓による盛土場が形成されており、その上に何らかの構造物の跡が残っていた。とりわけ南坑口付近は、苔生した作業施設の基礎らしい苔生したコンクリートの構造物が多数残っている他、熊除けのドラム缶を被せた養蜂箱も残っており、かつての生活・作業の跡が色濃かった。
今回の尾盛駅探索での主要目的の一つだっただけに、好天に恵まれたこともあって、気持ちの良い探索となった。
6時35分頃に探索に出掛けて、尾盛駅に戻ってきたのは7時25分頃。踏査距離は1.5㎞程度だった。
ここからは、尾盛駅東方の樽沢の谷に沿って大井川本流まで下る。その後、小森沢に移って遡行し、尾盛駅まで戻る。尾盛駅の訪問記は少なくないが、大井川本流まで下った記録は見つからない。尾盛駅自体が大井川の旧河道跡に存在する駅だということも、ほとんど知られては居ないだろうが、この駅の周辺に人々の生活があった当時、大井川本流との間にも、恐らく生活上の結びつきがあり、その痕跡があると思われる。
それを辿るのが目的である。
まずは、駅裏をそのまま歩いていくことにした。
この辺りまでズリ山の裾が延びてきており、所々に、森林施業用のものと思われるワイヤーの残骸が放置されている。
待合室の南側軒先の下には小さな休憩スペースがありベンチも置いてある。元々は、この一画が尾盛駅の待合室だったようだが、熊の出没を受けて建物を開放したのだという。谷間にある尾盛駅には、この時刻になっても日が差し込んでいないが、奥に連なる尾根は、既に陽光を浴びて輝いている。今日も一日、天候には恵まれそうだ。
作業小屋も向い側から眺める。入り口は線路側を向いており背後は植林地となっているが、1969年に撮影された空撮画像を確認すると、尾盛駅周辺は尾根を越えた先の栗代側やオモレ山付近を含めて広範囲で皆伐された直後で、ネットで掲載されている当時の写真を見ると草原に近い状況だったことが分かる。別途、調査記録でもまとめることにするが、この時の皆伐による材木の搬出が、尾盛駅が貨物駅として活用された最後の機会だったということになる。
作業小屋の南側には地続きで何らかの構造物の跡がある。
竈の跡は明瞭なのだが、その隣の水槽のような構造物が何なのかは分からない。
竈があるからには水が必要なはずで、尾盛駅付近には水道施設もないことから、この水槽は生活用水を溜めた貯水槽ではないかと思われる。
近くに樽沢があるものの、この沢は平時は枯れ沢となっているから、沢水を引いて生活用水とすることは出来なかったのではないだろうか。
線路脇の小屋から一段下がった所に、もう一棟の小屋が残っている。
こちらは外壁なども崩れ始め内部の荒れ方は激しい。2017年6月の前回の訪問時と比べても、荒廃が進んでいる様子だった。
この小屋は中央部の通路を挟んで両側に板間が並ぶ画一的な造りである。
裏に浴室の跡や竈跡があるところを見ると、宿泊所として使われていた建物ではないだろうか。
浴室跡は既に僅かな壁面と浴槽などを残すのみではあるが、タイル張りの壁と浴槽、その裏の竈は、明らかにここが浴室であったことを物語っている。前回の訪問時は、まだ、屋根が残っていたが、今回は既に浴槽の上に崩れ落ちていた。
この敷地には、作業に用いたと思われるトロの車輪が転がっていたり、門扉を思わせるようなコンクリートの塀の跡があったり、様々な廃棄物が転がっていたりして、生活の跡が色濃い一画だ。
ここから更に階段状になった杉の植林地を樽沢の下流に向かって踏査していったのだが、随分と下の方まで階段状の造成地が続き、所々に竈の跡が点在していた。
この一帯は、今でこそ大きく育った杉林に覆われて苔生した一帯となっているが、かつては開けた居住区で、井川発電所の工事に携わる工事会社の飯場や宿舎が、階段状の敷地のそれぞれに設けられていたのだろう。
更に下っていくと、やがて階段状の地形も樽沢とオモレ山に挟まれる形で終わり、そこから先は枯れ沢となった樽沢の河床を下っていくことになる。
枯れ沢の中に灌木が育っており、そこそこ大木になっているものもあるので、出水は滅多にないのだろう。
しかし、沢伝いに下っていくうちに、湧水の如く伏流水が表出する場所があり、それより下流では立派な沢となって流れ下っていた。
そして驚くことに、水流が復活して程なく明瞭な石堤が左岸側に現れた。苔生した石堤の目的や設置年代については、現段階では分からないが、予想通り、尾盛駅周辺の施設跡と大井川本流付近との間には人々の往来があったのである。
石堤に沿って下ると、程なく、大井川の本流に出た。2.5㎞。7時58分であった。駅周辺の探索をしながらであったので、1㎞の距離を約30分ほどかけてゆっくりと降ってきたことになる。
大井川本流の深い谷間は、今日では、ダムに堰き止められて堆砂が進み、昔日の面影はない。大井川は丁度、昨年来、頻繁に現地調査に訪れた天竜川と同じ境遇に置かれている。
この日は、中州部分を歩き進めることが出来たので、下流の行ける所まで歩いてみた。
丁度、尾盛駅南方のP777m尾根の末端が大井川に落ち込む地点で、尾根の末端は急崖になっている。
2017年に既に踏査したように、この尾根を北側に回り込んだ地点で旧接阻峡遊歩道は二個所にわたって桟道が崩落している。通過は困難なのだが、尾根を下巻こうとしても、尾根末端に達するとこの状況であるから進退窮まることになろう。
ここで引き返して上流側に向かえば、関ノ沢の流域に聳える無名峰の頂が林間に顔を覗かせていた。GISソフトのカシミールで調べてみたところ、これは昨日辿った大無間山南方のP1612m(抜ヶ谷山)の南から派生する支尾根だと分かった。地形図上では、P1323m、P729mが記された支尾根である。
ネットの情報の中には、尾盛駅付近から風不入が見えるとする誤った情報もあるが、前衛の尾根に阻まれて、奥地のピークは見ることは出来ない。
ここからオモレ山末端の岸壁を高巻いて小森沢と大井川本流の合流地点に降り立ち、そこから小森沢を遡行していく。尾盛駅からの距離は3.0㎞。時刻は8時11分だった。
小森沢も小さな沢ではあるが、合流地点はちょっとしたゴルジュを形成しており、意外な光景に驚く。
この小森沢側も古い生活の痕跡が点在していた。尤も、こちら側の痕跡は薄く、樽沢川と比べて古びたものが多かった。樽沢側が井川発電所の工事や周辺山林の森林施業のために、1950年代から70年代にかけて築造された居住施設群だとすると、小森沢側の痕跡は、それ以前の焼き畑の出作り小屋の跡のような印象がある。
ただ、一部には、森林施業施設の基礎と思われる苔生したコンクリート塊もあったので、オモレ山を取り巻くように、人々の生活があったことが確かめられた。
小森沢は大井川合流付近と井川線第二尾盛橋梁下付近では水流があるが、その中間では伏流しており枯れ沢となっている。歩きやすい場所を選んで右岸側と左岸側を行き来しながら、最終的には右岸側の植林地内の窪地に入り登り詰めていくと、こちらにもトロの車輪が放棄されているのが目に入る。
そこから井川線の路盤に上がれば、丁度、尾盛駅のホームの末端付近に出た。3.9㎞。8時40分。
尾盛駅を起点とすると、2.4㎞、1時間15分で、樽沢と小森沢の踏査を終えることが出来た。
時間があればオモレ山の山頂を探索するか、接岨峡温泉までの遊歩道跡を探索したかったのだが、昨日までの疲労が強かったことや、穏やかな天候で少しのんびりと過ごしたかったこともあり、この日の主要な探索はこれで終了として、後は、列車の到着時刻まで、駅の周辺をブラブラと散歩することにした。
なお、尾盛駅付近の二つの沢は、南側が樽沢、北側が小森沢だと認識している。南側は井川線の樽沢橋梁から、北側は古い山岳図書中の記述から、それぞれ把握したものであるが、それに関しては、別途、文献調査編でまとめることとする。
少し時間があるので小屋周辺を再探索する。小屋の北側はまだ見ていなかったので、こちらも確認しておく目的だ。
小屋は線路に面した西向きに入り口があり、北側にはトイレと思われるスペースや寝室らしき一画がある。寝具などは残されておらず、雑多な生活用具やポリタンクが転がっているだけだが、この一室には押し入れもあるので間違いないだろう。
一段下に残っている小屋が作業員宿舎だとすると、こちらは幹部宿舎だったのだろうか。
小屋の確認を終えた後、もう一度、植林地の宿舎跡に足を踏み入れてみた。先ほどの探索で少し離れた場所に檻のような構造物が見えた気がしたので、それを確かめる目的だったのだが、該当の場所に行ってもそれらしき構造物はない。どうやら灌木の茂みが、遠巻きにすると害獣捕獲用の檻のように見えたものらしい。
駅まで戻る道すがら、苔生した竈の跡の幾つかを撮影した。
ここで生活した経験のある人々も、今日では多くが亡くなり、存命の方と言えども仕事で滞在していた方となると、80代、90代を超えた方ばかりだ。尾盛に集落が形成されていた時の記憶は、記録にまとめられることもないまま、消えて行こうとしている。
そういった記憶を発掘し記録に残していく作業を行いたいのだが、個人での調査には限界や壁があり思うようにはいかないのが歯痒い。
探索を終えて駅の構内に戻ると、9時前になっていた。
谷間の尾盛駅にもようやく朝日が差し込み始めている。前回の探索時も天候は良かったが、早朝に接岨峡温泉側から往復したこともあり、駅には朝日が差し込む前だった。
旅情駅の探訪は、夕方から朝方の滞在となることが多いが、日が差す明るい時間帯の駅の姿と対峙できない日程になることが多いのが欠点ではある。
今回は幸い、駅を出発する時刻の制約もあって、日が差す尾盛駅の姿と対峙することが出来た。植林された針葉樹は深緑であるが、天然の落葉樹は新緑で、枯色の中に心地よい萌黄色を添えている。
この尾盛の地から、人々の生活の火が消えて既に50年余り。
その果てしなく長い時の流れの中で、尾盛の自然は、誰に誇るでもなく、誰に見せびらかすでもなく、毎年同じように芽吹きの季節を迎え、付近の野生生物と共に、春の喜びを享受してきたのだろう。
出発までまだ少し時間があるので、接岨峡温泉側の旧道跡を少しだけ見に行くことにした。
線路の路盤と周辺山地との間は一段の低い石垣で区分されており、斜面との間には1車線分くらいの平地がある。接岨峡温泉側から伸びてきた旧道跡の延長上に車道としての道型を探るとすれば、この部分以外にはあり得ないし、駅までの僅かな距離を残して車道が途絶していたとも考えられない。何故なら、旧道跡の道幅を考えた時に、そこまでやってきた車両が転回して引き返すスペースがないからだ。
往時の写真や資料がなく、確実なことは言えないが、私はこの部分がかつての車道跡だと考えている。
所々、落石や電柱、崩土に覆われて、道がはっきりしないところもあるが、勾配標が現れる付近から山側の断崖脇に石垣を設けて敷設された旧道の路盤跡が続いている。
もちろん、それと分かって見ているからそこが路盤跡と分かるだけで、何も知らずに現地を見ても、崩れかけた急崖の斜面にしか見えない。
かつてはこんな際どい所を、オート三輪が行き交っていたのだろう。
こちら側の探索はここまで。
井川線は今回の旅の初日の行程で全線を乗り通しているので、このまま接岨峡温泉までの旧道跡を再探索するのも興味をそそられたが、それをするには疲労が強かったし、閑蔵駅で途中下車して閑蔵集落を探索する予定もある。
これで尾盛駅の探索は二度目となったが、今回割愛した関ノ沢付近の探索のために必ず訪れることになるし、かつての大無間山登山道は線路沿いを歩く今のルートではなく、尾盛駅の北側から小森沢を渡って造林小屋付近に登っていたはずで、その痕跡を踏査する課題も新たに発見している。
そういった機会を利用して、ここから接岨峡温泉までの旧歩道の現況調査は改めて訪れる実施することとして、駅まで戻ることにする。
駅まで戻ると、すっとぼけた表情のタヌキ達が、風変わりな旅人を迎えてくれる。
すっかり明るくなった尾盛駅の姿に、印象を新たにする。
私のように同じところを何度も旅していると、時折、「一度行けば十分だろ」ということを言う人がいるが、私はそうは思わない。
一度会っただけで他人の全てが分かる訳ではないし、その人の印象を決めつけるのも良くないが、それと同様に、自然も、たった一度の対峙で、その全てを知り尽くすことなどできない。否、恐らく、一生をこの尾盛駅で過ごしたとしても、全てを見切ることなど不可能だろうと思う。
初夏の鮮緑をまとった前回の尾盛駅と、早春の萌黄をまとった今回の尾盛駅とでは、随分と印象が異なるし、真冬の積雪に見舞われた夕刻の尾盛駅ともなれば、その寂寥感や如何ほどかと思ったりもする。
そういった四季折々の駅の姿と対峙することが出来る。
そんな日がいつまでも続いて欲しいと思うのは、私の率直な願いである。
もちろん、こういう駅であっても維持管理費は少なくは無いし、大井川鐵道は経営難にある。
自力での災害復旧が困難であるとして沿線自治体との協議に入った今、尾盛駅は勿論、井川線の存続そのものも、再び問われることになるだろうし、そもそも、大井川鐵道全体をどうするかという議論が起っても居る。
利益を求める株主や鉄道など一切使わないという沿線住民らの立場からすれば、自身の利益に資することのない鉄道など廃止するのが当然で、税金や経費の無駄遣いだということになろうが、そういう利益主導の考え方が全てを席巻する風潮には一抹の不安を感じるし、成熟した社会のありようとしては聊か惨めなものにも思われる。
有名人の芸術には、何億円、何十億円という価格がついたりすることがある世の中。
こうした風景にもまた、それだけの価値があると感じるのは、私だけだろうか。
そんな事を考えているうちに、遠くの谷間に車輪を軋ませて走る列車の音が聞こえてきた。
朝の尾盛駅で井川行の始発列車を待つ。かつての尾盛駅では当たり前に見られたそんな光景が、今日の尾盛駅に現れるというのも珍しいことに違いない。
この日は、ここから一駅だけ乗車して閑蔵駅で下車し、閑蔵集落を探索することにしている。その後、接岨峡温泉駅まで引き返し、そこでも途中下車して、温泉に浸かって疲れを癒すつもりだ。
一浴した後は土本駅まで移動して、そこで駅前野宿の予定である。
翌日は、土本駅周辺を広く探索してから奥大井湖上駅まで戻り旧線探索を行ったのち、千頭、川根温泉経由で神尾駅まで戻って駅前野宿。
乗り放題のデジタルチケットを最大限利用して、大井川鐵道の旅と駅前野宿を楽しむ予定だ。
やがて列車が到着し、車掌にデジタルチケットを見せて車両に乗り込む。その車両に、他の利用者の姿は無かった。
途中、関ノ沢橋梁上では、観光徐行の合間を利用して、引き込み線や導水橋、関ノ沢等を写真に収める。他の乗客が居ると気恥ずかしいが、誰も居ないのをいいことに、あちこち移動しながら、子供のようにはしゃぐ気持ちで写真を撮影した。
実に清々しい車窓風景の中、閑蔵駅に向けて旅は続くのだった。