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坪尻駅:更新記録
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2024年10月26日 | コンテンツ更新 →2022年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)の追加 →文献調査記録の加筆修正 |
2021年7月29%A77日 | コンテンツ更新 →文献調査記録の追加 |
2021年5月4日 | コンテンツ公開 |
坪尻駅:旅情駅探訪記
2000年3月(ぶらり乗り鉄一人旅)
大学時代。春休みには、四国・高知県の春野にある複合スポーツ施設で所属陸上競技部の春合宿に参加するのが、私の恒例行事だった。
部員の大半は、徒歩やバイク、自動車に乗車して、今は亡き「大阪高知特急フェリー」で大阪と高知の間を往復するのだが、大学3回生、4回生になった時、私は鉄道で四国を往復することにした。
1993年3月。大学3回生の年の合宿では、その帰路、高知から予土線、予讃線、高徳線、徳島線などを回った後、阿波池田駅から土讃線に入り、この坪尻駅で駅前野宿の一夜を過ごした。
日没後に到着し夜明け前に出発する日程となり、残念ながら、露出を間違えて撮影した3枚の写真は何が写っているのかほとんど分からない失敗作であったが、訪れるものも居ない山峡の旅情駅で過ごした一夜は思い出深く再訪を心に誓ったものだった。
翌2000年3月。
私はその思いを叶えて、合宿の往復経路を利用して再び坪尻駅に降り立つことにした。今回は日中の途中下車で駅前野宿はしない。前回とは異なり琴平駅側からのアクセスとなった。
阿讃国境の猪ノ鼻トンネルと続く坪尻トンネルを抜け、右車窓の一段下に坪尻駅が佇む姿を眺めつつ一旦駅を通り過ぎる。そして、ポイントを渡る音を床下から聞きながら、引上線に入ってゆっくりと停車した後、スイッチバックしてホーム側の停車線に滑り込むと、程なく列車のドアが開いた。
本線より一段低い坪尻駅に停車した列車を降り、深い谷間の無人境に開かれた坪尻駅のホームに立つと、古色蒼然とした木造駅舎が一人旅の旅人を迎えてくれた。
ホームに佇んでいるとエンジン音が山峡に響き賑やかな印象であったが、駅前を散策しているうちに普通列車が出発していくと、駅は近くの滝から響いてくる轟音だけに包まれた。それは、意外と「静寂」を感じさせる音風景だった。松尾芭蕉が「岩にしみ入る蝉の声」に「閑さ」を感じたのはこういうことなのかもしれない。
駅の周辺には朽ちかけた廃屋が1軒あるのみで他に民家は見当たらず、どうしてこんなところに駅があるのだろうか?と疑問を抱くが、実際、この駅は、元々、運転の都合上、列車の行違いを可能にする目的で設置された信号場を起源としている。
詳細は調査記録にまとめ直したが、簡単に記載しておくと、信号場としての開業は1929年4月28日。駅としての開業は、それから遅れること21年後の1950年1月10日のことだった。
Wikipediaは信号場としての開業を4月23日とし、その根拠として「鉄道停車場一覧. 昭和9年12月15日現在」を引用しているが、前後の「鉄道停車場一覧」や「鉄道要覧」の各号を参照すると、土讃線が全通した4月28日に坪尻信号場が設置されたことが分かる。
これについては調査記録の中でまとめることにしよう。
信号場開設から旅客駅への昇格までの経緯の詳細については具体的な記述は少ないが、信号場勤務の国鉄職員の官舎が付近に存在していた時代には、職員の家族の便乗乗車などもあったと思われる。そういう状況下で、近隣住民からの請願を受けて旅客駅への昇格が行われるとともに、集落住民の手でそれぞれの集落への取付歩道が開削されたようだ。請願に関しては地元自治体の長が運動を指揮したことが、池田町史に記載されている。
坪尻駅に滞在していると、通過する2000系特急「南風」や「しまんと」を見ることが出来るが、いずれも、駅には見向きもせず、駅のホームより一段高い本線を高速で通過していく。
私が滞在していた間にも、高松駅方面に向かう特急「しまんと」が通過していった。車中の乗客の大半は、ここに駅が存在することなど、全く、気がついていないだろう。
次に到着した列車で駅を出発するまでの僅かな滞在時間であったが、その間、誰一人として駅を訪問するものも居らず、深い山峡の旅情駅で一人静かな時間を過ごすことができた。
やがて、坪尻トンネルを抜けた気動車が、引上線でスイッチバックして駅に進入してきた。
次に訪れる時は駅前野宿の一夜を過ごしたいと思いながら、この旅情駅を後にした。
2016年4月(ぶらり乗り鉄一人旅)
再訪問は2016年4月のことだった。
実に16年ぶりに、乗り鉄の旅で四国の全ての鉄道路線を巡る旅をした。その中で、この旅情駅・坪尻駅も再訪し駅前野宿の一夜を過ごしたのである。この旅では、土讃本線にもう一つ残るスイッチバック駅・新改駅でも駅前野宿の一夜を過ごすことができた。その探訪記もご覧いただきたい。
土讃線の普通列車に乗車して、阿讃国境の猪ノ鼻トンネル、坪尻トンネルを越えると、右下に坪尻駅を眺めつつ、スイッチバックの引上線に車両が引き込まれた。変わらぬこの感じにホッとする。16年もの歳月が流れれば、スイッチバックが廃止されてしまうということも十分考えられる。実際、この間に、幾つかの駅のスイッチバックが廃止されてしまった。
しかし、土讃線に残る坪尻駅、新改駅のスイッチバックは、廃止されることなく残っていてくれた。
この時は車内から引上線の様子を撮影することができた。
坪尻駅に到着した大歩危駅行きの普通列車から下車すると、懐かしい坪尻駅の風景が、以前と変わらぬ佇まいで、旅人を迎えてくれた。ホームに植えられたツツジの鮮やかな花が、新緑から深緑へと移り変わりつつある駅周辺の緑に彩りを添えて印象的だ。
坪尻駅ホームに引き込まれた線路は、琴平駅側の山腹に突き当たって、そこで果てている。
隣に見えるトンネルは坪尻トンネルだ。
停車した普通列車はヘッドライトを消灯し、すぐに出発する気配はない。ここで通過待ちをするのである。その時間を利用して、途中下車をせずに「途中下車」することも可能だが、この日はホームに降りてくる乗客は他には居なかった。
もし、この列車を定期的に利用するとなれば、この長時間停車はまどろっこしくも感じられるだろう。
しばらくすると、坪尻トンネルに轟音が響き、トンネルの中から2灯のヘッドライトがレールに煌めきを落として接近してきた。
特急「南風」である。
国鉄時代であれば、客車の鈍行列車とキハ181系「南風」の風景となるのであろうが、今は普通列車も特急列車も新しい形式に置き換わっている。
坪尻駅の佇まいを考えると、国鉄時代の風景の方が似つかわしい気もするが、公共交通機関の使命を考えれば、新型車両に置き換えられて高速化や快適化が図られるということは、むしろ望ましい。
シーサスクロッシングが改良された坪尻駅を、特急「南風」は高速で通過していった。
程なくして、普通列車にもヘッドライトが灯る。いよいよ、出発の時が来たようだ。
山峡に響いていたエンジンのアイドリング音が高まり、天井からガスを排気しながら加速していく普通列車がカーブの向こうに消えると、山峡の旅情駅には滝の水音だけが残った。
車両は置き換わり、人びとの往来も絶えて久しいが、滝の水音は、きっと、駅の建設当時から変わらないだろう。
構内信号や中継信号が「停止」を指示する中、しばらく、「滝音だけが響く静寂」を味わった。
ホームのツツジの鮮やかさが、終始、印象に残った。
ホーム付近を散策しながら写真撮影などをしていると、今度は、阿波池田駅方から列車の走行音が近づいてくる。普通列車の到着時刻ではないため、特急が通過するのだろうとカメラを構えていると、特急「しまんと」が現れ、そして、一瞬で駆け抜けていった。
駅舎を通り抜けて駅前に出てみると、そこは、湿り気の多い草むらとなっていた。マムシに注意との看板もある。隅の方をうろつくのは、少々、注意を要した。
駅舎は窓のサッシなどがアルミ製に交換されているものの、下見張りの本体構造は開業当時のままで、非常に好ましい。
将来的には、安全上の問題から取り壊され、簡素な構造物に置き換えられてしまうのだろう。もしかしたら、観光列車の運行に合わせてレトロ調の駅舎に改築されるかもしれない。しかし、レトロ調の建物と本物のレトロとでは雲泥の差がある。大切に維持管理して、少しでも長くこういう味わい深い駅舎が残って欲しいと思う。
駅の阿波池田駅方には構内踏切があるが、この旅の当時は、警報機は勿論、遮断器も設けてられていなかった。
構内踏切を渡ると、国道を経て落集落に至る山道が伸びており、その入口付近に、かつての商店の廃屋が残っている。この廃屋は1963年に発生した連続強盗殺人事件の犯人が逃げ込み、強盗を働いたという歴史があることでも知られている。その後すぐに廃業したらしく、既に、廃屋となってから半世紀近く経過しているようだ。
探訪しているうちにホームの照明が灯り、夕暮れの気配が漂ってきた。
坪尻トンネルの上側には、周辺の廃歩道から斜面をよじ登って達した。
見下ろす谷間の駅の風景は、おそらく、開業当時からあまり変わっていないのであろう。しかし、この狭い谷間に人が生活するスペースがあったようにも思われない。
とすれば、国鉄職員の宿舎などはどこにあったのだろうか?
その答えは、国土地理院の地形図や旧版の空撮画像を閲覧することで判明する。
調査記録にまとめ直すことにするが、この坪尻駅は付近を流れる鮎苦谷川の流路を導水トンネルで変更した上で、猪ノ鼻トンネルなどをはじめとする付近の隧道などの掘削残土を用いて旧河道を埋め立てて造った人工の平地に設けられている。
そして、坪尻駅から鮎苦谷川に至る旧河道上の平地に、かつての官舎などがあったのである。
詳しくは文献調査記録をご覧いただきたい。
駅前の空き地に戻って湿っぽい草むらにテントを張る。マムシがテントの周りにとぐろを巻いてしまうと厄介なので、空き地の隅っこは避けることにした。本体設置後、フライシートを被せれば今夜の宿が出来上がる。使用するテントはアライテントのエアライズ1だが、自転車や鉄道の旅の時は、デラックスフライを使用して前室を拡げるのが私のスタイルだ。
「四国まんなか千年ものがたり」という観光列車が坪尻駅に停車するようになってから、この駅前の草むらは砂利などが敷き詰められ、以前のような湿った雰囲気はなくなっているようだが、湿っぽいのは谷間にあったからだけではなく、元々河道だったところを埋め戻したという駅の歴史にもあったのである。
宿の中で夕食などを済ませると、あっという間に駅はトワイライトタイムを迎えていた。群青色に染まった空は少しずつその明度を落とし、紺色へと近づいていく。
やがて、山峡にエンジン音が響いてくる。琴平駅方面に向かう普通列車がやってきたようだ。
ほっと一息、という感じで停車した普通列車の車内は寥々たる有様で、乗客は5人も居なかった。
時折、こうした列車から駅寝目的の鉄道ファンが降りてきたりするのだが、途中下車するものは勿論、ホームに出る乗客も居なかった。
この普通列車も、下りの特急の通過待ちをするため坪尻駅で長時間停車する。
やがて、坪尻トンネルに轟音が響き、光陰を残して下り特急「南風」が駆け抜けていった。
特急が通過すると、上りの普通列車は、一旦、スイッチバックして引上線に戻っていく。そして、加速を付けて坪尻トンネルに進入していった。
列車の走行音が聞こえなくなると、再び、独り孤独な時間がやってくる。
郷愁に満ちた駅のホームで過ごす静かなひと時は至福の時間である。
気がつけば、空に残っていた残照の青みは消えて、駅は夜の帳にすっかり包まれていた。
やがて、坪尻トンネルから下りの普通列車がやってきた。先ほどとは逆に、下りの普通列車が上りの特急列車を待つ。テールライトの光陰を残して上り特急「南風」が走り去ると、下りの普通列車も出発していった。この普通列車は、今日、坪尻駅に発着する最終でもあった。
時刻は21時前。
あとは21時半頃に下りの特急が駅を通過していくだけなのだが、この日は一仕事残っていた。最終の下り特急の通過を、坪尻駅を俯瞰する国道付近の高台から見下ろしてみようと思ったのである。
国道までは片道15分程度。
見た目ほど遠い距離でもないのだが、辺りは既にとっぷり暮れており、ヘッドライトを灯して歩くには厳しい山道でもある。
しかし、高台から夜の坪尻駅を撮影した写真を目にした記憶はない。折角の駅前野宿の一夜である。ここは、何としても、目的を果たしたい。準備を整えて駅を出発した。
途中の山道は、勿論、真っ暗だったが、幸い、天候も良かったので、思ったほどの苦労もなく想定通りの15分程度で、高台まで歩いていくことができた。
望遠レンズ越しに遠望した坪尻駅は闇の中にポツリと浮かんでいた。
今夜は、これだけ隔絶した場所で、一人、夜を過ごすのである。
特急が通過していく正確な時間が掴めないため、列車の走行音でその接近を察知するしかなかったのだが、やがて谷間に走行音が響き出した。猪ノ鼻トンネルを越えて坪尻トンネルに特急が進入したのであろう。
坪尻トンネルを抜ける特急の雰囲気を感じると同時に、バルブ撮影を開始して思い通りの光陰を捉えることができた。
ほんの一瞬でショータイムは終わり、特急の走行音は谷間に遠ざかっていく。
これだけのために暗い山道を往復するというのも酔狂なものだが、満足して夜道を下り、22時前には坪尻駅に戻った。
今夜ここを通過する列車はもうない。
私も駅前の宿に戻り、寝袋に潜り込んで、駅とともに眠りについた。
一夜明けた坪尻駅は山間の駅独特の嵐気に包まれていた。
駅は深い谷間にあり日が差す時間はわずかだが、周囲の山並みに日が当たると、それが反射して駅の周辺も明るくなる。日が長いこの時期、早朝の坪尻駅も、少しずつ、明るみを増していくように感じた。
昨日、駅に降り立って以来、この駅を訪れる人の姿は一人もなかった。
時折、近隣集落の住民の方が駅の清掃に来られているような跡が残ってはいたが、定期の利用客は勿論、一般の利用者も滅多に現れることはないだろう。
そんな坪尻駅に、毎日、朝一にやってくるのは、下りの特急「しまんと」である。勿論、この駅に停車することはなく通過していくのだが。
この旅の当時は坪尻駅の歴史なども詳しくは知らなかったので、鮎苦谷川の流路変更跡や導水トンネルを見に行くということもなく、駅周辺の散策に時間を費やした。
この旅情ある駅が何時までも残って欲しい…。
しかしそれは、企業経営の観点からすれば、全く話にならない感傷だと言えるのかもしれない。
もし、秘境の旅情をネタにこの駅を観光資源化しようとすれば、皮肉にも肝心の旅情が失われることになるのだろう。それは秘境と喧伝される全国各地の「観光地」の有様を見れば、明らかだろう。
旅情駅を訪れる度にそういう思いが脳裏をよぎる。
7時前、特急「しまんと」が坪尻駅を見下ろしつつ通過していく。これを境に、夜明けの余韻が消え去り朝の空気に入れ替わった気がした。
始発の普通列車は7時過ぎに到着する。駅で過ごす時間も残りわずかだ。
構内踏切の写真などを撮影しているうちに山峡に普通列車の走行音が響きだして、下り方向のカーブの向こうからヘッドライトが姿を現した。
朝一で駅の訪問者が降りてくるのではないだろうか?と予想していたが、結局、誰も降りてくることはなく、私が乗車しただけであった。
早朝のこの時間、普通列車は交換待ちもなく、到着すると直ぐに出発する。
私は、スイッチバックする列車の最後尾に立ちながら、引上線に入っていく普通列車の窓から、坪尻駅の名残を惜しんだ。
また駅を訪れ、一人静かな駅前野宿の一夜を過ごせることを願いつつ、坪尻駅を後にした。
2022年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年の12月、久しぶりに青春18きっぷを使った「乗り鉄」の旅を行った。
行先は福岡周辺と四国で、小倉~松山航路を使って初めて九州と四国との間を船で移動した。
この旅でのメインは四国中西部。伊予鉄道やJR予讃線、予土線、土讃線をターゲットとしていたのだが、寒波の影響による運休が少ない地域だと考えていたからだ。
しかし、松山観光港から上陸した四国は時ならぬ寒波の襲来を受けており、予讃線の下灘駅が吹雪に見舞われるような気象条件だった。続いて予土線に入って打井川駅での駅前野宿としたのだが、この段階で土讃線の高知~窪川間は、土佐久礼~影野間の積雪障害によって運休となっていた。
強い冬型の気圧配置の中でも北海道や東北上越の各路線が通常運行しているにもかかわらず、四国西部の土讃線の僅か1区間がピンポイントで運休となっており、私はそこを通過する予定だったのである。「そんなことある?」と言いたいところだが、「そんなことがよくある」のが私の天気運である。
さすがに翌日には運転再開するだろうと打井川駅から窪川駅に向かったのだが、結局、窪川駅に着いた段階で終日運休が確定。窪川から高知方面に抜けるバス便も探したのだが、利用できる便がなかったため、土讃線経由で新改駅、坪尻駅と駅前野宿で巡る計画が台無しになった。
たった一駅間が通り抜けられないために、結局、窪川から宇和島、松山、多度津を回って1泊かけて坪尻駅に向かうルートで移動することになったのだが、怪我の功名というべきか、予讃線の串駅で予定外の駅前野宿を楽しむことが出来た。
この翌日は快晴に恵まれ、同じく予定外だった予讃線の伊予北条駅や箕浦駅で途中下車。多度津駅からは、一旦、阿波池田駅に抜けてから引き返す形で、6年半ぶりの坪尻駅に降り立つことが出来たのだった。阿波池田駅まで乗り越したのは、食材などを仕入れる目的もあったのだが、阿波池田駅のすぐ近くにある三好市中央図書館で郷土史を調べるためでもあった。
途中、讃岐財田駅から坪尻駅にかけての猪ノ鼻越えでは、車両最前部に立って猪ノ鼻トンネルや洲津川橋梁、坪尻トンネルなどを確かめた。
猪ノ鼻トンネルを抜けて鮎苦谷川を渡る地点に架かる橋は「洲津川橋梁」となっている。川の名前と橋の名前が一致しないのだが、鮎苦谷川が吉野川と合流する地点にあるのが洲津で、元々は、洲津川と称したところ、「鮎が遡行するのも苦労するくらいの険しい谷」という意味を込めて「鮎苦谷川」と通称されるようになったようだ。なお、「鮎苦谷」は「あいくるしだに」という読みが各種文献に見られる。
当時の時刻表によると多度津発13時58分の4239Dで坪尻駅は14時54分発。坪尻駅では列車の通過待ちで長時間停車することも多いのだが、この列車は一つ手前の讃岐財田駅で対抗する南風「16号」と行違っており、後続の特急列車に追い抜かれることもないので、坪尻駅ではスイッチバックするだけで直ぐに発車する。
阿波池田駅には15時9分着。
阿波池田市街地の散策や三好市中央図書館での調査を終えて、16時45分阿波池田発の232D琴平行きに乗車。この232Dは12時44分高知駅始発であるが、阿波池田駅には15時47分に到着しており、ここで58分も停車する。
坪尻駅には17時0分着。この列車も坪尻駅での交換はなく、私と入れ違いに乗り込んだ愛好家が1名居たものの、直ぐに出発していった。
普通列車の運転本数が少ないこともあって乗車率は少なくはなかったが、この列車は坪尻駅に発着する一日の最終列車でもあるので下車する旅人は他にはいない。降り立った坪尻駅にはここ数日来の雪が残っていて底冷えがする。
引上線に入った列車はやがて停車し尾灯が消灯。明かりの灯る車内で人の動きが見える。
そのうちに駅の中継信号は先ほどまでの制限表示から停止表示に変わり、ほどなく列車のヘッドライトが灯った。
やがて遠くでエンジンを噴かせる音が響き、列車の天井から青灰色の排気ガスが噴出するのが見えると、スイッチバックした普通列車はゆるゆると動き出す。
ポイントを渡って本線に入ると列車は加速して坂道を駆け上り、駅を見下ろして通り過ぎた後、テールライトの軌跡を残して坪尻トンネルに消えていった。
構内照明が灯って夜を迎えつつある駅に、今日もまた一人、ポツンと残る。少し物寂しくも味わい深い駅前野宿の一夜が始まろうとしていた。
15分くらいすると下りの特急「南風」が坪尻駅を通過していくはずなので、荷物の整理や夕食は後回しにして、駅舎周辺の撮影を行うことにした。
待合室の壁面には「停 待合所1号」と書かれた標識が打ち付けられている。木の板に手書きされた標識はかなり年季の入ったもので、この駅が有人だった頃からのものだろう。
駅舎のホーム側の柱には花飾りがつけてある。
駅の周辺に民家はないし、周辺集落の住民が坪尻駅を定期利用している様子はないので、この飾り付けが付近の住民の手によるものか、駅を訪れる愛好家の手によるものかは分からない。
ただ、最近になって花が差し替えられた様子もあり、この飾り付けの主の駅に対する愛着が感じられる。
10分ほど待合室の中で過ごしたのち、特急の通過を撮影するためにホームに出てみると、すっかり暗くなっていた。山間部の谷間の駅ということもあり夜の帳に包まれるのも早い。
日中は晴天もあって緩み始めていた雪は、再び表面が凍結し始めていた。
長時間露光を試すには残照が明るすぎる感じもしたので、通過していく特急「南風」は坪尻トンネルから出てくる瞬間を短時間露光で切り取り。待ち時間に比して撮影時間はほんの一瞬だが、新型気動車がレールに落とす煌めきが印象的だった。
特急の撮影を済ませた後は駅舎を正面から撮影。訪問者が作ったらしい雪だるまが、温かみのある明かりの下で静かに佇んでいた。
構内踏切から坪尻トンネル方を眺めると25‰の勾配を実感する。ほぼ同じくらいの高さにあるホーム側の引込線と本線との高さの差が、ホームの末端付近に達すると既に1mくらいにはなっているのだ。
25‰というのは1000mで25mの高度差を生じるから50mでは1.25m。確かに50mくらい先の高さの差はそれくらいありそうだ。
車道の勾配としては2%と表されるのだが、この2%は車ではあまり実感しないものの、「ちゃり鉄」で自転車のペダルをこいでいると、はっきりと実感する勾配でもある。
土讃線は特急列車の往来が比較的多い。上り、下り、のそれぞれは概ね1時間間隔くらいで運転されているが、上下の特急列車は坪尻駅付近の前後数駅の間で行違ってくることが多く、どちらかに向かって列車が通過していくと、20分~30分の内には対向する列車が通過していくため案外忙しい。
今回は、17時20分頃に下りの南風「17号」を撮影したが、対向する上り「南風22号」は撮影せず夕食を済ませる。続く撮影は下りの南風「19号」でこれは18時19分頃に坪尻駅を通過。既にとっぷり暮れた後だったので今回は長時間露光にしてヘッドライトの軌跡を捉えることが出来た。
坪尻駅は猪ノ鼻峠の徳島県側にあることから、もし通勤通学利用があるとすれば、朝に阿波池田に降って夕に坪尻駅に登ってくる動線となるだろうが、実はそういう旅客動線は全く想定されていない。
2022年12月当時の坪尻駅付近の普通列車のダイヤは以下のとおりである。
下りは6時58分琴平発の4221D普通列車から始まるが、この列車は7時47分阿波池田着であるものの、坪尻駅は通過してしまう。続く普通列車は何と午後で4229D普通列車が12時33分に坪尻駅発着。これが下りの始発列車なのである。その後、14時54分に4239D、16時51分に4247Dが発着し、これが坪尻駅に停車する下りの最終列車。琴平18時21分発の4253Dと、19時40分発の4255Dは坪尻駅を通過してしまい、この4255Dが猪ノ鼻峠を越える下り普通列車の最終である。
上りは阿波池田6時12分発の4210Dから始まるが、この列車も6時51分琴平着であるものの、坪尻駅は通過してしまう。始発は4212Dで7時2分発。続く4220Dが8時29分発で午前中はこれで終わり。続いて午後の4230Dが13時52分発、232Dが17時1分発で、これが坪尻駅に発着する上りの最終列車である。その後、高知15時32分発の4240Dがあるが、これは坪尻駅を通過してしまう。
結局、坪尻駅に停車する普通列車に限ってみれば、下り3本、上り4本の3.5往復となるのだが、阿波池田に向かう下り普通列車の始発が12時33分なのであるから、阿波池田への通勤通学需要は全く考慮されていないのである。
一方、上りは朝に2本の普通列車が停車するので、意外にも坪尻駅の通勤通学需要は琴平方面を志向しているのかと思いきや、これも戻りの足となる普通列車の最終が16時51分であるから、通勤通学需要を意識したものではない。
結局、この駅は実態が物語るように、一部の観光客や愛好家と数少ない地元民の不定期の利用以外は、全く想定されていないのである。
今日はもう、この坪尻駅に発着する普通列車はない。明日の朝の始発列車の到着まで、この坪尻駅に鉄道員以外の人が現れる可能性は限りなく低いことになる。それは私にとっては気楽で好ましい環境。
特急「南風19号」の通過を皮切りに、18時54分頃には上り普通列車4240D、19時24分頃には下り特急「南風21号」の通過を撮影。列車の灯光の軌跡が坪尻駅での駅前野宿の夜を彩ってくれた。
この日も夜の坪尻駅を俯瞰するために、落集落にある展望台までの山道を歩くことにする。19時30分頃に坪尻駅を出発。ヘッドライトとカメラ、貴重品などを身に着けて幅員1.5m~2mほどの山道を歩くこと30分ほどで、落集落の外れにある展望台に到着。
真冬の夜ということもあってじっとしていると身を切る冷え込みが厳しいが、眼下の谷間遠くにポツンと佇む坪尻駅の姿は印象的だ。望遠レンズで覗くと、ホームの明かりを反射した雪が白く輝いており、無雪期とは異なる姿で静かに佇んでいた。
列車が通過する正確な時間は分からないが、前後の駅を出発する時刻から坪尻駅の通過時刻を予想し、谷間に響く列車の走行音を聞きながらシャッターを押すタイミングを見計らう。
しかし、長時間露光で撮影を開始した瞬間に風が吹き抜けてカメラがブレてしまい、最初の列車であった20時過ぎの特急「南風26号」の撮影には失敗。この列車は讃岐財田駅で下りの普通列車4255Dと行違うので、15分ほど経つと猪ノ鼻峠を越えてきた4255Dが坪尻駅を通過していった。
更にその7分後くらいには下りの特急「南風23号」が坪尻駅を通過。この列車は箸蔵駅で先ほどの4255Dを追い抜き阿波池田駅には先着する。
展望台では通過列車の軌跡写真を撮影したかったのだが、高台にあるために終始風が吹き抜けていてカメラに微妙なブレが発生したため、スローシャッターでの軌跡写真の撮影は諦めて駅に戻ることにした。
下りは15分ほどで20時40分過ぎには坪尻駅に戻った。
駅の周辺には風は吹いていないものの、冷気が溜まっていて冷え込みは一層激しい。
寝袋に入ってしまいたい気持ちもあったが、この日は上下であと3本の特急列車が通過する。最後の下り特急「南風27号」は23時前になってしまうが、21時半頃に通過する下り特急「25号」と、22時過ぎに通過する上り特急「しまんと8号」の通過は見届けておきたい。
凍てつく駅の周辺を歩き回って体を温めつつ時間を潰し、目的の2本の特急の通過まで撮影。
残すところ「南風27号」の通過を待つのみとなったが、23時前の通過まで1時間ほどある。翌朝は6時過ぎに坪尻駅を通過していく特急「しまんと2号」を撮影できる時間帯には起床しておきたいということもあり、「南風27号」の通過を待たずに寝ることにした。
翌朝は5時過ぎには起床。
鉄道員も含めて人が来ることは無いだろうが、特急「しまんと2号」を撮影をするために5時過ぎには起床。サッと駅前野宿の後片付けや朝食を済ませてしまう。
この日は早朝から行動を開始するものの、坪尻駅は13時58分発の4230Dで出発する予定。
その間の半日以上を駅構内で過ごすのかというとそうではなく、周辺にある木屋床、入体、込野、落の4集落と坪尻駅とを結ぶ集落道を踏査する。距離にして16㎞前後、獲得標高差は±1500m程度となるので、そこそこ本格的なレベルの踏査だ。
歪んだ8の字状に踏査して最終的には坪尻駅に戻ってくるので、野宿装備一式は駅にデポし、踏査に必要な道具と貴重品のみをサブザックに携行して出かける。装備がバックパックごと盗まれてしまう心配もあるのだが、ザックにとある仕掛けを施していくことで盗難予防をしている。半日、駅に置きっぱなしだった相棒と再会すると「待たせたね」という気持ちになるが、当たり前のように朝置いた場所にあるのを見ると、つくづく、日本は平和な国だと実感する。
準備を済ませて朝一の特急「しまんと2号」の撮影から開始。この列車は高知駅を4時51分に出発し高松駅に7時2分に到着するダイヤで、特急としてはかなり珍しい時間帯に出発する列車だ。
ガチガチに凍結した坪尻駅は、寒気の底で静まり返っていたが、やがて、山間部に足早な列車の走行音が響きだし、程なく、LEDの4灯ライトも誇らしげに、特急「しまんと2号」が坪尻駅脇の本線を駆け登っていった。
この列車の通過をきっかけにして土讃線の朝が始まるのだが、谷間にある坪尻駅はまだ眠りの中。始発列車の出発は7時2分なので、その発着を見届けてから周辺探索に出かける予定だが、それまでの間に、上り、下り、それぞれ1本ずつ、合計2本の列車が更に坪尻駅を通過していくので、その撮影も行う。
当たりはまだ暗く冷え込みも厳しいので、待合室で過ごすうちに列車の通過時刻を迎え、6時26分頃には琴平に向かう上り4210D普通列車が通過、6時54分頃には中村まで足を延ばす特急「しまんと1号」がそれぞれ通過していった。
6時半を過ぎた頃には空に青みが差してきて夜明けの気配が漂い始めた。駅前は溶け残りの雪が再凍結しており、足を踏み入れるとサクサクとした感触が心地よい。
この時間に坪尻駅と対峙できるのは至福と呼ぶに相応しい楽しみだ。
7時頃になると再び谷間に列車の走行音が響き始める。
複数車両で編成される特急と単行の普通列車とでは明らかに走行音のテンポが違うので、音だけでやってくる列車が普通列車だと分かる。
やがてカーブの向こうから黄色味を帯びたヘッドライトが現れ、ポイントを渡った普通列車が静かにホームに滑り込んできた。
青春18きっぷが使える季節でもあるので、愛好家が下車してくることを予想していたのだが、それに反して車両前面に立っている人の姿がなく、停車した列車のドアが開いても誰も降りてこなかった。
行き違い運用のないこの普通列車は、直ぐにスイッチバックして出発していく。
逆行して引上線に入った後、本線側を加速して猪ノ鼻峠に向かっていく姿を見送れば、朝の坪尻駅でのイベントは終了。
私も準備していた踏査用の装備を装着して集落道の踏査に出ることにした。
この踏査の状況については調査記録の中で別途まとめることにするが、ここではダイジェストで簡単に触れておこう。
坪尻駅の周辺集落としては鮎苦谷川の西(右岸)側に北から込野、木屋床、入体の3集落があり、東(左岸)側に落集落がある。
落集落付近をかつての国道32号線、現在の県道5号観音寺池田線が通っていて落集落に坪尻駅の俯瞰ポイントがあることもあって、坪尻駅から歩いて集落まで達したという人の記録の多くは、この落集落までの山道を扱ったものとなっている。
実際googleマップを参照してみても、描かれているのはこの落集落への道だけだ。
しかし、実際には現存する歩道としては木屋床、込野集落への2つの歩道があり、また、かつては入体集落とを結ぶ道もあったという。
それらの集落道は記録も少ないのだがインターネットで記録を集めつつ踏査計画を立てた。
特に、入体集落との間を結んでいたかつての集落道は、この駅を通学で使っていた地元の方の話として「線路脇を歩いて帰った」という逸話が紹介されているだけで、はっきりとしたことは分からないし、線路際を歩く道だったとすれば、今日ではそのままの踏査は不可能である。
それらを含めて調べるのが今回の目的だった。
以下に示すのは踏査結果のGPSログとそれに基づく断面図である。一部、導水トンネルの探索地点で衛星信号をロスしたこともありログが乱れていたので、修正を加えている。
この踏査は標高200m程度の坪尻駅から400m以上の山腹に展開する木屋床集落を経て徐々に降りながら入体集落を経て坪尻駅に戻り、その後、標高300m内外の山腹を込野集落から落集落にかけて歩いて回り、最終的に坪尻駅に戻ってくるルートを採っている。
ログ上の踏査距離は16.7㎞で累積標高は±1300m強といったところだ。
これらの集落道の正式な名称の有無は分からないが、便宜上、「集落名+道」という形式を用いて「木屋床道」など表現しよう。
まずはその木屋床道を辿って坪尻駅の後背山腹にある木屋床集落を目指すのだが、この道の入り口は坪尻駅前から「裏口」側に当たる山手の方向に進んでいったところにある。標識も立っているので見落とすことは少ないだろう。
出発は7時20分。
ルートは整備されているわけではなく、所々、崩土に覆われて道型が不明瞭になっているところもある。また、電光を切ってジグザグに山腹を登っていく形なので切り返し地点もあり、未整備の山を歩く経験が少ないと道迷いに陥る場合もあるだろう。安易な行動は慎みたい。
6分ほどでかつての耕地跡と思われる立派な石垣が現れ、その間にある水道に桟道が渡されている。
この感じがとても心地よい。
更に登っていくと12分ほどで再び石垣が現れ、そこに手製の小さな標識も置かれていた。
空が明るくなっていくのを感じながら更に登っていくと、15分ほどで国土地理院の地形図にも記された未舗装の林道に出るが、木屋床道はこの林道をクロスするだけで直ぐに山腹に取り付き登り続ける。
7時35分。0.6㎞であった。
林道を横切った後も登り続け再び手製の標識が見えてくると、俄かに空が開けて木屋床集落の最下部にある墓地に出る。
ここからは簡易舗装の道となるが、この朝は濡れた路面が凍結しており、着用していたノーマルのトレッキングシューズでは滑りまくった。
墓地から集落内の舗装道路に出ると、辺りの斜面が切り開かれていることもあり眼下に展望が開ける。
今まさに夜明けの太陽が吉野川の峡谷を力強く照らし始めたところで、鮎苦谷の向こうに池田の町並みが霞んでいる。手前側には箸蔵山の尾根があり、その中腹あたりに落から中尾にかけての傾斜地集落が箱庭のように見える。
「雲上の別天地」。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
もちろんそれは部外者の浅薄な感傷に過ぎず、実際に生活する上での労苦は都会生活の比ではないだろう。それは過疎化の現実が如実に物語っている。
木屋床集落の家屋は切り開かれた斜面に点在しており、数軒で構成される斜面上部の一画がこの集落の中心と言えそうだった。
年の瀬の早朝とあって人の活動の気配が少ない。
誰にも出会うことなく集落内の舗装路を登り詰めていくと集落間を繋ぐ基幹林道に出る。この辺りは北側斜面で標高も500m程度あるので道路に雪が残って凍結していた。
木屋床集落には8時着。1.5㎞であった。
木屋床集落の上部で基幹道路に出る地点が2.4km 。8時13分。直ぐ近くに標高466mの四等三角点木屋床があるようだが、この踏査の際には素通りしてしまっていた。次の機会には三角点も訪れていきたい。この道路の位置づけは調査未完了である。市道なのか林道なのか調査が付いたら記事を更新するとして、ここでは便宜的に「基幹道路」と表現したことを断っておく。
基幹道路に入ってからは緩やかに高度を上げつつ南進していく。502m独標を越えた辺りから左手前方に谷が迫ってきて、道路は山腹を巻きながら谷奥に向かって進路を西寄りに転じる。
その谷奥に「宮の谷橋」があるのでこの谷は「宮の谷」ということが分かるが、谷の下流には神社記号があり、これは後ほど訪れる入体集落の諏訪神社である。つまり、諏訪の宮の谷ということだ。
この「宮の谷橋」の手前から分岐して降っていく細い道型が我が行く方。
なんとも不安になるような薄暗く狭い急勾配の降りだが、下りながら左寄りのヘアピンカーブを曲がると直ぐに取水施設が現れる。この取水施設はここから下の斜面に展開する集落のための取水施設であろう。
ここからは宮の谷にそって未舗装となった林道を降っていくが、路面の雪に車の通行痕が残っていないところを見ると、この先で通行不能区間がある可能性がある。
道型自体は手入れされている様子もあるので徒歩には支障なく降っていくと、果たして倒木が道をふさいでおり、その先まで登ってきた車の轍がそこで途切れていた。
ここから先も急勾配を降っていく。左手の廃屋を見送った後、ヘアピンカーブが現れるのでここで左折。更に降っていくと入体集落の最上部付近に達する。
その先で凄まじい電光を切って降るとやがて左手に神社の鳥居が見えてきて、入体の諏訪神社に辿り着いた。4.9km。8時56分。
この入体の諏訪神社は対岸の落集落との結び付きがあり、集落名の「入体」もそれと関連している。
詳しくは調査記録でまとめるが、この諏訪神社に祀られている神が降臨したのが「落」集落であり、宣託を受けて移し祀ったのが「入体」集落なのだという。
その伝承を今に伝えるのが諏訪神社であり、古い地図を見ると、鮎苦谷を渡って落集落と入体集落との間を結ぶ杣道が描かれている。当時はそれぞれの集落の人々の往来があったのだろう。
諏訪神社を出ると更に山腹を降る道が続き、入体集落の中心地に出る。
眼下には集落の家々を前景に遠く吉野川や池田の町並みが見渡せるのだが、木屋床集落で見た時よりも随分近づいていることを実感する。
鮎苦谷の対岸には落集落が同じくらいの高さにあって、この両集落の間で交流があったということは、なるほど理解しやすい。
入体集落も年の瀬ということもあって人の姿を見ることは無く、家々の間を縫うようにして降りながら集落を通り過ぎた。
ここからは未舗装の林道に入って北進する。この道は坪尻駅から木屋床集落に向かう途中で横断した林道の続きだ。
この入体集落から坪尻駅までの道に関して具体的な情報は事前入手できていない。そのため、現地を踏査しながらそれらしい痕跡があれば踏み込んで調べてみるという予定だった。
そして実際に歩きだしてみると、林道から脇に入って降っていく痕跡のような道が見つかった。6.1㎞。9時28分の地点であった。
この地点が入体道の入り口だという保証はなく、現地にもそれらしい標識などはない。否、恐らく、入体集落の小学生が坪尻駅まで通っていた当時から、その道に標識などはなかったに違いない。
ただ、場所と方向と道型の規模とを考えて、「どうもそれっぽい」という目星で踏み込んでみることにしたのである。植林地の作業路などであれば途中で道型は消失するだろうから、その場合は引き返すなりトラバースするなり付近を探索するなりして、次の一手を探ることになる。
そうやって半信半疑で踏み込んでみたものの、途中、古い石垣を伴った道型や小さな水路橋、耕作跡地の石垣が残っていたことから、次第にこの道が入体道であろうという確信を抱くようになった。作業路にしては道型の構造物がしっかりしていたからである。地図とコンパスで探ってみても、道型は坪尻駅の方向に伸びている。
ところが、調子よく進んでいくうちに灌木や藪に覆われて道は途絶えてしまった。私の見立ては外れてしまったのだろうか。
一旦、立ち止まって付近の様子を観察してみる。道型が途絶えるとすればその付近が目的地だったはずなので何らかの痕跡が残っていると思われるからだ。
しかし、現地にそれらしいものは何もない。
そこに至るまでの道型の様子と途絶えた地点の様子とを考えると、道型がそこを目指してやってきたものとは考えられず、平場の向こうに続いていることが予想された。実際、ここまでの道型の延長方向を注意深く観察してみると、草むらや倒木の中に辛うじて獣道のような筋が見える。草むらを掻き分けてその筋を辿ってみると、一旦は消えた道型が再び目の前に姿を現した。
こういう探索は楽しくもあり怖くもある。
少なくとも精神的な余裕を持っていないと、現地で動揺してしまい致命的なミスを犯しかねない。試行錯誤の経験によって精神的な余裕を身に着けることも出来るが、命に係わる錯誤を犯してしまうと一度の試行で終わってしまうこともあるだろう。
そのためにも、山岳雑誌や書籍に取り上げられている遭難事例を研究したり、リスクマネジメントの方法を学んだり、或いは、実践的なレスキュー講習会などに参加したりすることは有意義だ。謙虚に先人の経験に学ぶ姿勢は持ち続けたい。
再び明瞭になった道型を進むと視界が開ける地点に出て、その向こうに土讃線の路盤が見えてきた。
入体集落の小学生が「線路際を歩いて帰っていった」という地元の方の話がネット上で紹介されているが、そのことと照らし合わせて考えるとこの道が入体道と考えて間違いないだろう。
7.3km。9時52分であった。
土讃線の線路が見えてきたのは良いのだが、線路には保線作業員の姿も見えていた。路盤までは50mほど隔てているので危険はないが、普段、人が立ち入る場所ではないだけに、あまり望ましい状況でもない。
この道型の終端がどうなっているのかも気になるし、この付近の地下には導水トンネルがあるはずなので、その探索も試みてみたかったのだが、生憎、道型を外れた谷側は草むらがうるさい。
入体道の踏査は成功したことであるし、今回はこれ以上深入りするのは避けて、線路際まで降ってきている尾根筋を登り返して坪尻駅に向かうことにした。
この尾根筋の末端付近には古い石垣が残っており、かつてはここまで耕作の為に人が立ち入っていたことが分かる。
その石垣を乗り越えて尾根筋を登っていくとのだが、ここは明らかに山の斜面で道型は全くない。
ただし、土地の境界杭が埋設されており、その目印のピンクテープや赤テープが所々にあるので、それらを注意深く見落とさないように登っていくと、やがて木屋床道が見えてきて合流した。
7.6㎞。10時4分。
坪尻駅から登ってきた木屋床道は、この付近で山腹の巻道から尾根道へと乗り換えて尾根筋を登っていく。一方、境界杭の巡視路は木屋床道との分岐地点に目印を設けて尾根筋を降っており、降った先が概ね入体道の末端部ということになる。巡視路と言っても道があるわけではないのは、見てきたとおりである。
ここから坪尻駅までは朝方登ってきた道なので迷うことは無い。
見覚えのある石垣と桟橋を渡り、切り返しを降って、坪尻駅に戻ってきた。8㎞。10時12分。坪尻駅からは2時間52分の行程だった。
坪尻駅に戻ってきたが今日の踏査はまだ半分。これから込野道と落道を続けて踏査するので、駅にデポした荷物を確認したらすぐに出発する。
構内踏切を渡る際に眺めるとスイッチバックの引上線付近では保線作業が行われていて、多くの作業員の姿があった。
込野道は構内踏切を渡ったところ直ぐで柵に沿って左に折れる。線路側は柵で路盤と隔てられ山側は落石防護工が施された急崖となっているのだが、その間に幅員1.5mほどの地道が続いている。
その先に「マムシ注意」の標識があり、その付近で線路脇から離れて鮎苦谷の方に曲がっていく。
この付近は元の河道を埋め立てて造った平場となっておりかつては官舎があった場所だが、今は藪に覆われていてそれらしい痕跡は見当たらなかった。
さらに進むと行く手にコンクリートの擁壁の頭が見えてきて、鮎苦谷のせせらぎの音が聞こえてきた。
擁壁の上に立つと右手には導水トンネルが見えている。高さがあるのでこの地点から降るにはロープが必要だが、生憎ロープは持参していないので、少し上流側を探って下降地点を探し河床に降りることが出来た。
そのまま川岸を伝って導水トンネルの前まで向かうと、トンネルの中には石垣で補強された狭い通路が続いているように見える。ヘッドライトは駅に残してきてしまったのだが、導水トンネルは出口も見えているので、足元の安全が確認できる場所まで内部を探索することにした。
8.4㎞。10時22分。
この導水トンネルの中に入ってみると、入り口と出口付近が擁壁で補強されている他は素掘りとなっていることが分かった。素掘り部分も岩を伝って少しばかり進むことが出来たものの、ヘッドライトなしでは足元が覚束ない。このまま無理して進むと転倒する恐れもあるので、今回は引き返すことにした。
入り口側に戻ろうとするとこちらは外からの明かりで比較的視野が明るかったのだが、擁壁が尽きて素掘りに転じる部分の天井に穴が開いており、そこからも光が差し込んでいた。長年の内には浸食が進んで穴が広がっていくだろうし、導水トンネルが閉塞してしまうこともあり得るだろうが、そうなった場合、溢れた水は元の河道があった坪尻駅の方に溢水するはずである。差し迫った危険があるとも思わないが、管理上、気になるところではある。
導水トンネルの探索を終えて込野道に戻る。
復帰地点の目印というわけではないのだが、私が復帰した地点には路傍に巨木があり、その下に道祖神のような石柱が設置されていた。
ここからの込野道は坪尻駅に達する各集落道の中でも最も整った道という印象を受ける。
斜面を切り開いて開かれた道であることには変わりないのだが、道型を維持するための谷側の石垣などが、相当にしっかりした構造を持っているのだ。また、線形も山腹を巻きながら登っていく形で、尾根筋の直登や斜面での切り返しがない。
途中、土留め工が施された地点や沢の源頭を桟橋で渡る地点などがあるが、オフロード装備の自転車なら問題なく走行できるし、官舎に人が居た頃、車は無理だとしても原付や車幅の狭いトラクターくらいは走れたのではないかと思われる。
斜面の上側に林道の擁壁が見えてくると林道に合流。合流地点の手前には道の真ん中に杭が打たれて、朽ちたカラーコーンが置いてあった。車両通行止めの標識替わりであろう。
合流した林道は、今回、木屋床道で横切り、入体道で分岐してきた林道の続きだが、この付近は舗装されていた。この道を少し南に戻ったところに不動尊が祀られているようなので、その付近までは舗装されているのかもしれない。
分岐地点で振り返ると、林道の脇には坪尻駅を示す標識が設置されており、距離は1000m、車両通行不可と記されていた。
9.6km。10時55分であった。
込野の集落はこの林道に入って北西に200m程度歩くと見えてくる。この付近の他の集落と同様の傾斜地集落で、切り開かれた斜面上部に石垣で築かれた平地に民家があった。
ただ、谷奥にある北寄りの斜面なので、木屋床や入体、落といった集落と比べて民家の数は少なく、古い地図で見てもまとまった集落は形成していない。
そんな小集落ではあるものの、かつてはこの方面からも小学生の通学があったようだ。
9.6㎞。11㎞であった。
この込野集落にはもう一つ特筆すべき点があって、それは国道32号のジャンクションが設けられているところである。
現在の県道5号観音寺池田線はかつての国道32号線で、猪ノ鼻峠の下を抜ける新猪ノ鼻トンネルの開通により県道に格下げになるとともに、新道が国道32号線・国道319号線に重複指定された。
その新国道・新猪ノ鼻トンネルは自動車専用の高規格道路であるが、そのジャンクションが込野集落付近に設けられており、山間部の小集落の中に両側をトンネルに挟まれた近代的な施設が忽然と現れるのである。道路標識には鮎苦谷川の上流にある野呂内地区やその奥の稜線上にある雲辺寺が示されている。
入体、木屋床、込野と集落を結んできたか細い林道は、このジャンクションから分岐する県道6号込野観音寺線の枝道と合流し野呂内集落や雲辺寺方面へと向かっていくが、元々の本線は県道5号線から分岐しており直ぐに三叉路に出る。ここで10.8㎞。11時12分。
この三叉路に出たところで困った事態に遭遇した。というのも、ここから県道5号線との間を繋ぐ区間が、法面工事の為に時間通行規制となっていたのである。
ここで県道5号線に抜けられないとなると、込野道を引き返して坪尻駅に戻ってから落集落に向かうしかない。
三叉路にはカラーコーンが置かれ、今まさに通行規制の真っ最中であったが、居合わせた係員に確認すると、あと15分ほどで数分間の規制解除になるという。
解除時間は滞留した車を通すだけの長さしか確保されていないが、素早く歩いていけば再度規制がかかるまでには規制区間を抜けられるだろうということだったので、ここで暫く待機したのち、解除を待って工事区間を歩き抜けることが出来た。
規制区間を通り抜けた先の路肩には大きな記念碑があり「野呂内街道」などと掘り込まれている。他に「陸上自衛隊」などという記載も掘り込まれており、この道が、陸上自衛隊などの手によって開削された道だということを示している。
県道5号線との合流手前には込野橋が架橋されており、この橋を渡れば県道5号線になる。
この橋上から来し方の木屋床集落と込野集落が一望できた。手前の斜面中腹には耕作跡地らしい平場も開けており、その奥に吊り橋の残骸のようにも見える2本の架空線が鮎苦谷を渡っているのも見えた。この平場については県道5号線沿いの348.9m水準点の南西に広がる荒れ地記号が付された平地として表現されている。以下には参考までに地理院地形図を示したが、これについては調査記録でも扱うので心に留めておきたい。
橋を越えた先の県道5号線との合流地点にはやはり係員が居て通行規制を行っており、橋上で写真撮影しているのをみて、「こんなところで写真に撮るようなもんあるか?」などと話しかけてきた。感性は人それぞれだ。
13.0㎞。11時49分であった。
県道5号線に入ると緩やかな降り勾配となるが、程なく桟道状の橋梁が見えてくる。銘板を見ると「坪尻橋」とあり「昭和40年3月竣工」となっている。
13.6㎞、11時55分。
「坪尻」という地名がどこを指したものなのかは、はっきりとしたことが分からないものの、「箸蔵村誌」などの文献を渉猟してみると、かなり古い時代から「つぼしり」といった地名が存在することは分かっている。駅が設けられたことによって地名が出来たわけではなく、地名に基いて駅名が決められたのであろうことは間違いない。
当初、坪尻駅のすぐ近くに滝壺があることから、「滝壺の尻」という意味で「坪尻」という地名が生まれたのだろうと考えたが、「つぼしり」という地名は鉄道敷設前から存在しており、その頃、坪尻駅付近に滝はなかったはずである。というのも、坪尻駅付近の滝は鉄道敷設に伴う鮎苦谷の流路変更に伴い、導水トンネルの落ち口に人工的に生じたものだからだ。
別途調査記録にまとめるが、「坪尻」の「坪」は「窪地」の「窪」に由来するという説や水田があったところにつく地名であるという説もある。実際、この付近には山腹に点在する平地や緩傾斜地に「窪」や「久保」を伴った地名が付いていることが多いし、そういう場所に石垣で平地を築いて宅地や田畑を設けた集落が点在しているのは既に見てきたとおりだ。
池田町馬路には井ノ久保や水之久保という地名があるし、隣接する東みよし町には滝久保という地名もある。いずれも山腹斜面中の緩傾斜地である。先ほど踏査してきた入体集落に隣接して峰ノ久保集落があり、その西にある西山集落にも久保という小字がある。これらも入体集落と同じように山腹斜面の緩傾斜地であった。
坪尻橋は鮎苦谷川の左岸側にあるが、先ほど込野橋から木屋床集落や込野集落を遠望した時に、鮎苦谷手前の左岸側山腹に小さな平場があることに気付たことには既に触れたとおりだ。
この平場には樹木が生育しておらず、比較的近年まで人為的に利用されていた痕跡がある。古い空撮画像を見るとこの平場には民家らしい建物が見えるので、恐らくは傾斜地集落がありその田畑として利用されていた跡だと思われる。
とすれば地名が付せられるはずだが、この地方の地名の特徴を鑑みれば、その平場に注目した地名が付せられるのは自然なことで、それ故、この付近が「つぼしり」になったのではないだろうか。文献調査が出来た範囲では、かなり古い時代から「つぼしり」だったようだが、これはもしかしたら「くぼしり」が転じたものかもしれない。
そんな地名詮索も楽しいものだが、この坪尻橋からは眼前に木屋床集落を望み、その遥か下の谷底に坪尻駅の末端や導水路の擁壁が僅かに顔を覗かせていた。
坪尻橋を渡った後は道なりに降り、坪尻駅への分岐標識を見送って落集落の坪尻駅展望台に到着した。
14.5km。12時19分。
この展望台に明るい時間帯に到着するのは実は初めて。そういうのも珍しいかもしれない。
この展望台が出来たのは古いことではなく、2016(平成28)年のことという。元々展望台があったわけではなく、私が2016年4月にここから夜の坪尻駅の写真を撮影した時には、モルタルの急な法面があるだけだった。その年にこの地点で撮影しようとした人の転落事故があったことをきっかけに、地元管理の下で展望台が整備されたらしい。
私の「ちゃり鉄」も踏査で危ない場所に踏み込むことは多い。事故を起こして地元や鉄道会社に迷惑をかけないよう注意したいものだ。
展望台ではまず12時21分頃に下り特急「南風7号」を撮影。
続いて下り4229D普通列車が12時26分頃にやってきてスイッチバックして坪尻駅に停車した。望遠レンズで撮影していると2人が駅に降り立ったのが見える。
この列車は12時33分発。坪尻駅で上り特急「南風12号」と行違うので暫し停車。その行き違いの様子を撮影するために、先ほど降り立った二人が普通列車の運転席横のホームでカメラを構えて待機している様子までよく見えている。
しばらくすると鮎苦谷の下流から特急の走行音が聞こえてきて、眼下の坪尻駅の本線を駆け抜けていく姿が見えた。12時32分。特急が通過していくのを見送った後、12時33分には4229Dがゆっくりと動き出し峠道を阿波池田駅に向かって降っていった。さながら、鉄道ジオラマのように展開するこの風景は1900年代の雑誌にも登場しており、古くから知られた鉄道名所だったようだ。
イベントの撮影を終えた後は、展望台で昼食を採り、集落の写真を撮影したりして駅に戻ることにした。落集落に入体の諏訪神社の御神体が降臨したという謂れについては既に述べたとおりだが、この旅の当時はそういう歴史も知らず、長閑な傾斜地集落の様子を撮影するにとどまっていた。
落集落、入体集落には小学校の分校があったことも分かっているが、この時はそれらの訪問も行っていなかった。次の機会には、更に探索に深みを入れていきたいと思う。
14.7㎞。13時発。
駅に戻る途中、県道沿いで先ほど駅に降り立った2人連れとすれ違ったが、どうやら親子らしかった。県道5号線からの降り口まで来たところで、路傍に置かれた杖を見て展望台に三脚を忘れてしまったことに気が付き引き返す。
この途中で再び先ほどの親子とすれ違ったのだが、私の三脚を回収している様子もなかったので、そのまま展望台に戻ると、私の三脚が寂しげに主の帰りを待っていた。忘れたお詫びを入れて連れて帰る。
この三脚とも10年以上の付き合いになった。忘れて帰るわけにはいかない。
4集落道の最後は今日の坪尻駅のメインルートともいえる落道。
3度目の踏査なのに昼間はこれが初めてなので、道の様子をじっくり眺めながら降る。道型はしっかりした登山道といった感じで、歩行に不安はない。
県道5号線に掲げられた標識では坪尻駅まで600mとなっているが、途中、導水トンネルの落ち口によったり、駅前の商店跡を探索したりしつつ、全ての探索を終えて坪尻駅に戻ってきた。
16.7km。13時30分であった。
駅に戻ってくると先ほどの親子が込野道の入り口の側道付近でカメラを構えていた。間もなく上りの特急「南風14号」がやってくるので、それを待っているのだろう。
駅舎の前に回り込んでみると雪は大分解けてた。駅舎内に戻りデポしていたザックを回収。勿論、何かが無くなっているというようなこともなかった。
特急「南風14号」が阿波池田駅を出発するのは13時22分なので、頃合いを見計らってホームに出ると、程なく谷間に特急の走行音が近づいてきた。谷間の向こうのカーブから姿を現した特急が、本線を足早に猪ノ鼻峠に向かって駆け抜けていく様子は坪尻駅ならではの光景だ。
坪尻駅の出発は13時52分の4734Dを予定している。坪尻駅での滞在時間も残りわずかになってきた。
列車の到着時間までを利用して、明るい坪尻駅構内を眺めて回る。昼過ぎの坪尻駅を訪れるのは学生時代以来。あの頃と殆ど変わらない佇まいに感慨深いものがある。
今日の探訪で訪れた木屋床道、込野道の入り口付近ももう一度散策。構内踏切の遮断機は無動力の工作物で、作業員の知恵と経験の賜物といった感じ。手作り感が溢れるがそれがむしろ好ましい。
構内踏切から下り方を眺めると、まだ、保線作業が続いていた。私が入体道の端部に出た10時前には作業が始まっていたので、既に3時間半ほどにはなる。こうした地道な保守作業のおかげで世界的にも稀な定時安全運行が行われていることには感謝したい。
ホームに戻る。
先ほどの親子も次の列車で出発するらしくホームで列車待ちをしているが、子供は飽きてしまったのか、溶け残った雪で小さな雪だるまを作って遊んでいる。
駅舎の入り口の飾り付けを眺めたり、ホームの駅名標を絡めて写真を撮影したりしているうちに、単行気動車が谷を登ってくる音が峡谷に響き始めた。
これまでになく長い時間を坪尻駅で過ごした今回の旅は、また一つ、思い出深いものとなった。
鮎苦谷の踏査や阿波箸蔵から讃岐財田にかけての稜線沿いの古道、猪ノ鼻峠の古道など、坪尻駅の周辺には一日かけて探索したい課題もたくさんある。
いずれまたそれらの探索の為に訪れてこの坪尻駅で過ごすこともあるだろうし、「ちゃり鉄」で訪れることもあるだろう。「ちゃり鉄」での再訪時は込野道でのアクセスになるだろうか。
そんなことを考えているうちにカーブの向こうから4230Dが姿を見せて坪尻駅に滑り込んできた。
乗車客は私と親子2人の合計3名。入れ替わりに鉄道ファンらしき2名が下車してきた。
この列車は坪尻駅での行き違いがないために直ぐに発車する。13時51分にホーム上から最後の1枚を撮影して乗車し、進行方向後端からスイッチバックの様子を撮影。列車がスイッチバックする関係で、私自身も撮影位置をスイッチバックする形となる。
引上線に入っていくと、保線作業員が線路脇で待避しているのが見える。本線と引上線との分岐ポイント付近には、かつて通票授受を行う際に係員が使用していたらしい小さな作業ホームが残っているのが見えた。同種の構造物は同じ土讃線のスイッチバック駅である新改駅でも見ることが出来る。
ここで運転士が再び上り方の運転台に移動してくるので、私は逆に下り方の運転台の方に移動して、後部展望を楽しみながら坪尻駅を見送ることにした。
列車が引上線からポイントを渡って本線に入ったのを合図に保線作業員は作業を再開し、ホームへの引込線のポイントを越えた列車は坂道を登り始める。
見送る車窓に坪尻駅が遠ざかっていく。ホームには先ほどの二人連れがカメラを構えて、普通列車を見送っていた。
坪尻駅:調査記録
ここでは坪尻駅やその周辺集落等に関する調査記録をまとめていくことにする。調査は文献調査と現地調査に分かれるが、まずは文献調査の記録からまとめることとする。主要参考文献はリストアップし、文中での略称を示した。それ以外の引用文献等は、適宜、文中で示すことにする。
文献調査記録
主要参考文献リスト
- 日本国有鉄道百年史 9(日本国有鉄道・1972年)(略称:「百年史9」)
- 停車場変遷大事典(石野哲・JTB・1998年)(略称:「停車場事典」)
- 鉄道辞典上巻(日本国有鉄道・1958年)(略称:鉄道辞典上)
- 国鉄全駅ルーツ大辞典(村石敏夫・竹書房・1978年)(略称:「ルーツ辞典」)
- 角川日本地名大辞典 36 徳島県(角川書店・1986年)(略称:「地名辞典」)
- 池田町史上巻・中巻・下巻(池田町史編纂委員会・池田町・1983年)(略称:町史上・中・下)
- 箸蔵村誌(田村左源太・川人猪之八・1916年)(略称:「箸蔵村誌」)
- 国鉄全線各駅停車 9 山陽・四国670駅(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1983年)(略称:「各駅停車」)
- 全線全駅鉄道の旅 9 山陽・四国3000キロ(宮脇俊三、原田勝正・小学館・1982年)(略称:「全線全駅」)
坪尻駅周辺の路線建設史
坪尻駅を含む区間の土讃線の建設工事記録に関しては「百年史9」の中にまとめられている。
以下、その既述を引用しながら、坪尻駅周辺の線路敷設に関しても、とりまとめることにしよう。
まず、土讃線全体の既述についてであるが、それについては、以下のようにまとめられている。少し長いが引用する。なお、この部分の記述は新改駅の旅情駅探訪記でも共通して記載した部分が多いのでご了承いただきたい。
これらの記述によれば、坪尻駅は、土讃北線としての建設工事線に含まれていたことが分かる。
以下に示すのは、同書に掲載された「土讃線線路図」の引用図である。幾つかの駅名が現在とは異なっている他、坪尻駅は新改駅とともに信号場と表示されている。
このうち、土讃北線に関しては、同書によると14の工区に分けられていたようだ。
坪尻駅に関しては、第5工区と第6工区の境界に当たる。続けて同書の既述を引用する。
ここで示されたように坪尻駅周辺の建設工事は直轄工事となっている。
この他、同書によれば、第3工区(荒戸・奥ノ内間)、第4工区(財田村地内)も第5工区の猪ノ鼻トンネルの付帯工事として直轄で施工されたとなっている。第4工区の記載を調べると「盛土の不足は猪ノ鼻隧道の碿を流用した」とあるが、付帯工事というのは、主に、掘削碿の流用という事であったのであろう。
土讃線建設に際して直轄施工されたのはこれらの工区だけで、如何に猪ノ鼻隧道を含むこの区間の工事が重要なものであったのかが分かる。
なお、直轄以外の請負工事区間に関しては、「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇(日本鉄道建設業協会・1978年)」の記述によれば、西松組・松浦伊平・西本組・坂本組が請け負ったとある。
坪尻駅の沿革
坪尻駅は本文でも触れたように信号場起源の駅であるという。「であるという」という表現を使った理由は後ほど明らかにするが、一先ず、ここでは「信号場」由来なのだとしておこう。
「停車場事典」によると信号場としての開業は1929年4月28日のことで、駅としての開業はそれから遅れること21年後の1950年1月10日のことだった。そして旅客駅に昇格した際の所在地名は三好郡箸蔵村大字西山、JR化の段階では三好郡池田町字西山立谷となっている。この際の付帯条件に関しては「日本国有鉄道公示第5号」で定められているので、その官報告示を以下に引用しておこう。
記載のとおり、旅客、手荷物、小荷物は扱うが、貨物は扱わず配達取次も行わないとある。坪尻駅の立地条件を考えれば当然と言えよう。
信号場の設置から駅昇格までの期間が21年も空いているが、その21年間にこの周辺に多くの民家が出来たわけではなく、周辺集落の住民の要請を受けた自治体長が動いて、昇格するよう請願活動を展開したのである。これについては「町史下」に以下のような記述がある。
この坪尻駅も信号場時代は信号場勤務の職員とその家族だけが生活する場所だったに違いないが、鉄道の恩恵に属さない周辺集落の住民からは、谷底に設けられた鉄道施設の存在は魅力的に見えたことであろう。鮎苦谷を見下ろす山腹の道を池田の市街地に出るにせよ、猪ノ鼻峠を越えて讃岐に出るにせよ、徒歩と鉄道とでは雲泥の差がある。自動車交通などはまだ姿を現さない時代だった。
この坪尻信号場の開設時期についてWikipediaでは「鉄道停車場一覧 昭和9年12月15日現在」の記述を根拠に1929年4月23日としている。以下にその根拠とされている文献を引用する。
これを見ると、確かに1929(昭和4)年4月23日であるかのように見えるのだが、これは読み間違いである。この図をよく見ると、善通寺駅や琴平駅が「明治22年5月23日」開業となっているが、この両者をよく比較すると、善通寺駅や琴平駅が23日であるのに対し、坪尻信号場や箸蔵駅は28日であるとも読み取れる。8の字の左側が印刷の具合でかすれてしまった結果、3の字に見えているだけのように感じられるし書体も微妙に異なる。
そこで「鉄道停車場一覧 昭和12年10月1日現在」も調べてみた。以下にその画像を引用する。
解像度の関係で明瞭とは言い難いが11月28日や10月28日に開業した阿波池田以南の各駅の記述と比較してみると、坪尻信号場や箸蔵駅の記述は、明らかに「28」を示しており「23」ではないことが分かるだろう。
念のため「鉄道要覧」も参照して確認してみると更に興味深い事実が分かる。以下に鉄道要覧の記述を引用する。
「鉄道要覧」は年度毎に発刊されているのでここでは昭和50年度版を参照したが、それを見ると、1929(昭和4)年4月28日に讃岐財田~阿波池田間が新線開業し佃駅と坪尻信号所が設置されたとある。更に、1934(昭和9)年11月28日に三繩~豊永間が新線開業して土讃線が開通するとともに坪尻信号場が設置されたとある。
「信号所」と「信号場」が出てきてややこしいが、これは誤植ではなく、両者は国鉄の鉄道施設について定めた「建設規定」によって明確に区別されている。ここでその詳細に踏み込むことは避けるが「鉄道辞典上」に両者についての解説があるので参考に引用しておく。
このように「信号所」と「信号場」には構造上の明確な差があり、それはもちろん「建設規定」によって定義づけられているのであるが、この「建設規定」自体も改訂を重ねており「信号所」と「信号場」の定義づけも変遷している。実際、当局も運用上は両者を同一に扱っている。
そのため坪尻駅が信号所として開設され、その後、信号場となった経緯については、構造の変更を伴うものだったのか、位置づけの変更によるものだったのかを確認したいのだが、鉄道要覧等の史料を見てもそこまでの記述はなかった。
なお、「町史中」でも坪尻駅に関する記述があるので以下に引用しておく。
このように「町史中」での記載は「信号所」となっており「鉄道要覧」の記述と一致する。
そうすると「停車場事典」の記載にあった「昭和4年4月20日付達307号」を確認してみたくなるのだが、これについては通達ということもあって現段階で原典を確認できていない。新しい情報が入手出来たら追記・改訂したい。
さて、坪尻駅のスイッチバック構造は信号場としての開業当初から改良されている。以下に示す2枚の写真を見るとこの改良の状況が分かる。
2枚のうちの上の写真は「鉄道ジャーナル別冊38・懐かしの国鉄客車列車(鉄道ジャーナル社・1999年)」に掲載されていた1984年当時の坪尻駅の俯瞰写真である。
坪尻駅に停車しているDE10ディーゼル機関車に牽引された客車3両の普通列車と、坪尻駅を通過するキハ181系特急「南風」が写っている。
通過中の「南風」号は6両編成であるが、編成が途中で折れ曲がっており、ここで、転線している事が分かる。丁度、平行に走る2本の線路の間に設けられたX字状の渡り線を介して、通過や停車、引き上げといった運転が行われていた。このような線路構造を「シーサスクロッシング」と言い、現存するシーサスクロッシング・ポイント併設のスイッチバック駅としては、JR木次線の出雲坂根駅やJR豊肥本線の立野駅辺りが有名であろう。同じ土讃本線にある新改駅も坪尻駅と兄弟のような駅であり、シーサスクロッシング・ポイントが現役で使われている駅として知られている。
ただ、この配線は写真の「南風」号が転線している様子からも分かるように、一般的には転線に伴う減速が必要となるため、高速化工事が施され線形改良されることがある。坪尻駅はこのパターンである。
2枚のうちの下の写真は、2022年12月の訪問時に落集落の展望台から撮影した坪尻駅の遠景であるが、真ん中を貫く本線が直線状に改良され、そこから引上線などが分岐する構造になっている。この改良は民営化された後の高速化工事に伴うものだと言う。
JR四国の発足は1987年4月1日であり、高速化工事の完了に伴う振り子式気動車2000系の投入と多度津駅~阿波池田駅間の最高時速の120kmへの引き上げが1989年3月11日であるから、高速化工事による坪尻駅の線形変更はこの2年余りの間に施工されたのであろう。
なお新改駅のスイッチバックは、シーサスクロッシングの変形型で、本線が直線化されていて通過列車は減速する必要がない。
また、以下には「全線全駅」、「各駅停車」に掲載された坪尻駅の俯瞰写真と構内配線図、及び「国鉄の車両 17」に掲載された坪尻駅の写真を掲げた。
時代的には1980年代頃のものと思われるが、スイッチバックの配線が旧来のシーサスクロッシング型だったことは勿論のこと、坪尻駅の箸蔵方に側線があったことが分かり大変興味深い。
この側線の位置は現在では「駅前広場」となっているが、当時はここに車両が留置されることもあったのだろう。貨物扱いはなかったようなので保線車両の留置側線だったのかもしれないが、客車で運用されていた普通列車の情景も含めて旧き良き国鉄時代を思い出させてくれる。私にとっては心の中のローカル線原風景だ。
続いて坪尻駅周辺を取り上げた紀行のうち、古い時代の駅を描写した文献を以下に引用しよう。
上段は「専売協会誌(1929年7月号)」に収められた「琴平まゐり」という紀行の一節である。引用に際して元画像を修正したことを断っておく。画像中の黒線が集成部分を示している。
この引用画像で興味深いのは坪尻信号所時代の官舎や旧河道の埋め立てに関する記述があることだろう。
中段は「運輸と経済(1981年5月号)」に収められた「ローカル線と子どもたち」の一節で坪尻駅に降り立った小学生が恐らく木屋床道を集落に帰っていく様子が描かれている。
下段は「高知県警察史 昭和編(高知県警察史編さん委員会・高知県警察本部・1979年)」に記載された「香川県坪尻駅前雑貨商宅の強盗事件」の記述である。坪尻駅前に唯一残る廃屋が雑貨商宅の跡で、かつて強盗事件が発生した場所であることは知られているが、その詳細についてまとめられた記事として入手できたものを引用している。
この事件は単なる強盗事件にとどまらず、「殺人鬼森吉事件」としてまとめられた一連の広域連続強盗殺人事件の一部であったのだが、高知県警の警察史だけに、この一連の事件に関しては2ページに渡って詳しく述べられているので、事件の背景を知る意味でも全体を引用した。
これらの情報はネット上では散見されるものの、はっきりとした根拠が分からないものが多かっただけに、こうした書籍の記述によって裏付けられたことは嬉しい。
坪尻駅周辺の地誌
駅名の由来についても詳しいことが分からない。
本文でも述べたように、私自身は「滝壺の尻」という予想を立てたのだが、これは全くの見当違いで、坪は窪と通じて山中の平地を指す地名であるということを本文でも述べていた。確かに「坪」という漢字そのものが「土が平である様」を表している。
基礎資料として確認した「ルーツ辞典」での解説は以下のとおりである。
しかし、この地方に多い「クボ」という地名が谷間の窪地につけられているのではなく、山腹の平地につけられている点については既に述べたとおりだ。
駅の所在地は2024年10月現在のWikipediaで徳島県三好市池田町西山立谷とされている。「停車場事典」の記載では、旅客駅に昇格した際の所在地名は三好郡箸蔵村大字西山、JR化の段階では三好郡池田町字西山立谷となっている。これらの地名のどこにも坪尻の名はない。
ここで「地名辞典」を紐解いてみると「坪尻駅」の記載があったので以下に引用する。
この記載中の所在地名は小字のレベルで他の書籍と異なっているが、こちらにしても「坪尻」という地名が登場しない。
坪尻駅は元々鮎苦谷の流路だったところを鉄道隧道や導水トンネルの掘削屑で埋め立てて設けた平場に設けられたという経緯もあり、地名は多分に便宜的なものだったのだろうと思うが、それにしてもはっきりとしない。ただ、大字のレベルでは西山地内に含まれるのは確実なようだ。
そこで「西山」についての記述も調べてみると以下のようであった。
この記述を見る限り明治22年までで既に「坪尻」という字は存在していたように見えるのだが、字がどのエリアに広がっているのかを示す図面などは入手できていないため、この「坪尻」という字と坪尻駅との位置関係の詳細は分からない。ただ、google mapや登記情報提供サービスの地番検索サービス地図で確認する限り、「坪尻」は鮎苦谷の左岸側にあり「立谷」は鮎苦谷の右岸側にあることは間違いなく、小字が坪尻ではなく立谷であることは間違いなさそうだ。それは県道5号線の坪尻橋が左岸側山腹にあったことでも裏付けられる。
そうすると、右岸の立谷にあるにも関わらず左岸の坪尻を名乗った経緯が気になるが、信号所起源ということもあって設置当時の情報はなく詳細は分からない。今後調査で判明したら追記していきたい。
更に古い時代の文献調査を実施するには史料に限りがあるが、幸い「箸蔵村誌」を閲覧・調査することが出来たので、以下にはその画像引用をまとめながら、この地域の地名についてもう一段掘り下げてみることにする。なお、画像は元画像を集成して作成した。画像中の縦線が集成の境界を示している。
「箸蔵村誌」は1916(大正5)年の発行なので、主として明治期以前のこの地域の様子を知るのに有用な資料であるが、その冒頭で「名稱の由來」の一節があり「西山の部落名」として「本名、洞草、入躰、落、船原、中尾、下野呂内」を「西山七名」として挙げている。
この中に集落名称の由来についても書かれている。残念ながら「坪尻」に関する記述はないが、入体、落の二つの集落に関しては本文でも触れたとおり、「傳說に曰く昔神樣が天より落名の落久保に天降りたれば、社殿を建てゝ祭りしに「入躰したい」との託宣あり、よりて入躰名に移し祀れり、今の諏訪神社是なり、其天織りたる落久保地方を落、神社を祀れる地方を入躰というとぞ。」という伝説を伝えている。
他に注目したいのは「込野:落谷沿の平地」、「木屋床:開拓の際小屋を建てし地方」、「峯の久保:山の峯にある窪地」といった地名と由来解説であろうか。ここでは、「久保」は「窪地」とされているが、実感としては平坦地とか段地といった感じがする。
これは国土地理院地形図を確認すると一層分かりやすい。以下上段図に示すように地形図で確認しても窪地ではなく傾斜地である。また、下段図では坪尻駅北北西でJR土讃線が洲津川橋梁で鮎苦谷川を跨いでいる地点の北側、県道5号線沿いにある348.9m水準点の西南西に荒れ地記号が付された平坦地がある。
ここが本文でも触れた2022年12月の踏査の際に込野橋から見下ろした左岸側の平坦地である。地形図では県道からアクセス路が下降している様子も描かれているが現在は廃道と化しているようではある。国土地理院の地形図には表記がないものの、この一帯が「坪尻」地区でありこの平場が「坪」という地名の由来になったのではないだろうか。
「箸蔵村誌」の中で最初に「坪尻」の地名が登場するのは、平安時代に関して概括的に記述した第一章第三節である。
この説の主要な記述は箸蔵寺の創建に関するものだが、節末に「四國名所誌金毘羅の條に」として箸蔵寺への参詣道についてまとめてあり、その中に「雲邊寺より野呂内谷に沿ふて下り登り尾より坪尻船原を經て方丈に達するものあり。」とあり、雲辺寺と箸蔵寺を結ぶ古くからの街道が、鮎苦谷左岸の坪尻、船原を経由していたことが記されている。
ただ、ここでいう「坪尻」が平安時代から存在した地名かどうかは記されていない。以下には該当部分の引用図を示す。
歴史的にいつ頃から「坪尻」という地名が存在していたかを探る手掛かりは、「箸蔵村誌」に収められた検地帳の記録である。
同書に収められた検地帳の記録のうち、最も古いものは「第一章沿革 第六節桃山時代」に収められた「慶長の検地」に関するもので、「慶長九年霜月三日附州津村御検地帳」となっている。西暦で言うと1604年の記録だ。
これによると当時の州津村には68の字があることが記されているが、後の箸蔵村は州津村と西山村が合併して成立した村で、坪尻や落、木屋床、入体といった興味対象の字・名は西山村に含まれるため、この検地帳の記録では追うことが出来なかった。
続く検地帳の記録は「第一章沿革 第七節徳川時代」に収められた「寛保の検地」に関するもので、「寛保二年西山村検地帳」となっている。西暦で言うと1742年の記録だ。
ここに「つぼしり」が「入體名」の字として登場する。この他、「たつ谷」、「木屋床」、「宮の谷」、「峯のくぼ」、「おち」、「中尾」、「船原」、「西の岡」という具合に、この地域の興味対象の地名が網羅されていて、少なくとも江戸時代には「つぼしり」という字が存在していたことが確認された。
坪尻駅周辺の地形図や空撮画像の変遷史
以下では坪尻駅周辺の地形図や空撮画像による検証作業を行ってみよう。
まずは1933年12月発行の旧版地形図と2024年10月22日画像化の国土地理院オンライン地形図との比較である。地図は重ね合わせになっているので、マウスオーバーやタップ操作で切り替え可能である。
旧版地形図中、「坪尻」の地名は表示されていないが、「込野」、「小屋床」「入体」、「峰ノ久保」、「船ノ原」、「落」、「中ノ尾」といった地名が見える。
特筆すべきは「入体」、「落」に学校記号があることだ。
この学校については「地名辞典」の記述を引用して既に述べたが、「箸蔵村誌」にも同様の記載があり、1879(明治12)年に創立された西山小学校入体分教場と落分教場が示されている。児童数の推移は1904(明治37)年、1909(明治42)年、1914(大正3年)のそれぞれで、各61、58、55及び33、28、32。児童数は集落の規模を表しているが、これを見ると入体集落の方がやや規模が大きく、いずれも、児童数は微減若しくは横ばいというところである。
また、「町史中」の記述によると、この分教場はいずれも1915(大正4)年度末までは西山尋常小学校の分教場であったが、1916(大正5)年4月1日に箸蔵尋常高等小学校の分教場となり、他に同じ位置づけであった下野呂内分教場は独立して下野呂内尋常小学校となったことが記されている。
2022年12月の踏査の際は文献調査が未了だったため、これらの分教場跡の探訪は行っていなかった。次の訪問の際には探訪してみたいと思う。
続いてこの地域の旧版空撮画像を比較してみよう。
3枚の空撮画像は、上から順に、1947年11月7日、1975年3月2日、1992年10月28日に撮影されたものである。また、各空撮画像は、マウスオーバー若しくはタップ動作で、国土地理院地形図が表示されるようにしてある。
この内、一番上の1947年11月7日の空撮画像を見ると、坪尻駅の北側の僅かな平地に3棟ほどの建物が写っている。また、国土地理院の地形図では同じ位置に2棟の建物が図示されている。
これが国鉄職員の官舎だったのである。
既に述べたように、坪尻信号場の開設は1929年4月23日、坪尻駅の開業は1950年1月10日であるから、この空撮画像の時代は駅への昇格以前であり、信号場勤務の国鉄職員のみが駅周辺に住んでいた。
この空撮画像を後の年代の空撮画像と比較してみると、駅の西方の木屋床集落、駅の南東方の落集落には、あまり大きな変化は見られないが、落集落付近の道路の状況は大きく変わっており国道が整備されている。
また、国鉄官舎については、1975年3月2日の段階では、既にその姿が見えなくなっている。ただし、樹木は生育しておらず、おそらく荒れ地のような状態だったのだろうということが画像の色合いから判別されよう。
坪尻駅の無人化は1970年10月1日。無人化すると直ぐに官舎も取り壊されたのであろう。
1992年10月28日の空撮画像になると、この荒れ地にも樹木が繁茂し始めており、もはや、痕跡は分からない。
なお、現在、坪尻駅に徒歩で到達しようとする人の大半は、国道側から地図に示された破線の歩道を辿って駅にアクセスすることであろうし、駅から坪尻駅を俯瞰するお立ち台にアクセスしようとする人も、同じ破線の歩道を辿ってアクセスすることだろう。
実際に現地を歩けば登山道と言って差し支えない山道であるが、これが実質的には唯一のアクセス路となっている。
しかし、地図には駅の西方にある木屋床集落に通じる道も描かれており今も道型が残っている。また、地図には載っていないが、かつての官舎前を通り尾根を回り込んで込野集落に向かう道もあり、同じくその道型が残っている。
詳しくは別途現地調査記録としてまとめるが、この坪尻駅付近の旧版空撮画像を見ると、駅に至る4つの集落道が比較的明瞭に見えているので、以下に掲載する。画像は重ね合わせとしてあるので、マウスオーバーかタップ操作で切り替え可能である。
それぞれの集落道とその途中にあった棚状の耕作地がはっきりと見えて興味深い。参考図はGPSログのデータと画像とを比較しつつ、道型らしいところをなぞったものなので、細部で位置のずれがあるかもしれないが、概ねこの通りの場所を歩いたことになるだろう。
ところで、この坪尻駅周辺の国土地理院地形図や空撮画像を見て、違和感を感じたり驚いたりする人がいるとすれば、かなり地図読みの能力の高い人だと思う。
改めて、以下に示す国土地理院地形図を眺めてみて欲しい。
「あれ!?」と思うことはないだろうか?
この地形図には明確に3ヶ所、興味深い事実が示されている。
地図をマウスオーバー若しくはタップしてもらうと分かるように、それは、坪尻駅の周辺を流れる川の流路が、3箇所でトンネルを通過しているということである。
自然発生的に川がこの様にトンネル化するということはなく、これは人為的に流路変更の工事を行ったということを示しているのであるが、何のために、わざわざ、トンネルを掘ってまで流路を変更したのであろうか?
その答えは「ここに鉄道を通すため」ということである。
もう一度地形図をよく見ると、坪尻駅周辺には明らかに周辺の傾斜とは異なった平地が広がっており、坪尻駅やかつての職員官舎はその平地に設けられている。そして、坪尻駅の東側の尾根の下に導水トンネルが掘られている。
つまり、坪尻駅やその周辺の鉄道施設は、駅の近くを流れる鮎苦谷川の流路を導水トンネルによって変更した上で、旧河道を埋め立てて人工的に設けた平地に設けられたのである。
マウスオーバー画像に示すように、導水トンネルと旧河道は駅の北西、南東にもそれぞれ1箇所ずつあり、それぞれで線路や橋梁などが敷設されている。
鮎苦谷川というのは元は洲津谷と呼ばれた。「箸蔵村誌」には以下のような記述がある。
ここに書かれたように、州津谷の別称が鮎苦谷であり「両岸に少許の平地を作り地層の弱点を求めて南に折れ、屈曲蛇行、落入體間の深谷をなし、樫の諸、大釜、小釜、上蛇、大蛇、ドンドロ、丸砥、鮎返等の深潭急流を作り、初夏鮎魚の遡ることを苦しむるを以て鮎苦谷と稱すとの傳説あらしむるに至る」という急流であった。
しかし、讃岐から財田川の支流を登り詰め、猪ノ鼻峠で阿波の国に入った後に、鉄道を敷設できるとすれば、この鮎苦谷川に沿った谷間以外には適地は存在しない。それ以外は全て山の斜面である。
現在の技術であれば、10km以上の長大なトンネルで一気に讃岐山脈をぶち抜いて阿波池田駅まで短絡させることであろうが、この区間が開通したのは1929年4月28日のことで、その当時は全長3845mの猪ノ鼻トンネルの開削を行うことでさえ一大事業であった。開通当時の猪ノ鼻トンネルは四国最長の鉄道トンネルだったのである。
流路変更の後、旧河道を埋め戻すための大量の土砂は、この猪ノ鼻トンネルや坪尻トンネルの開削の際に出た残渣が用いられたという。
坪尻駅:旅情駅ギャラリー
2000年3月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2016年4月(ぶらり乗り鉄一人旅)
2022年12月(ぶらり乗り鉄一人旅)
坪尻駅:コメント・評価投票
2024.9.27
多度津から坪尻へ。
数時間滞在して散策予定でしたが、
私以外誰も降りそうにない。
駅はがらん。
何かあって叫んでも誰も来てくれないだろうし、トイレ行きたくなったらどうしようと不安…。
女性1人坪尻駅で数時間過ごすには危険を感じ、急遽、途中下車を諦め、阿波池田まで行きました。
ミステリーツアーですよ、ここで下車するのは。
ここで野宿とか、女性1人では無理!
なので羨ましい限り。
朝の空気は格別でしょうね。
ちゃり鉄.JP
コメントありがとうございます。
確かにこういう場所に女性一人で、というのは難しい面もありますね。
それでも深夜から早朝にかけての駅の姿は仰るように格別です。
駅の周辺にはよく知られている落集落への山道以外にも、実は幾つかのアクセス路があるので、十分な準備は必要ですが仲間連れで歩いてみるのもいいかもしれません。
近いうちに、それらのアクセス路の探索を行った時の探訪記もアップしますね。