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矢岳駅:旅情駅探訪記
1999年8月(ぶらり乗り鉄一人旅)
JR肥薩線・矢岳越え。
鉄道の旅が趣味の人であれば、恐らく誰もが羨むであろうこの峠越えの鉄道は、明治以来の歴史を刻む、日本の鉄道史でも特筆すべき山岳路線である。
サミットを越える矢岳トンネルの前後に、大畑、真幸のスイッチバックを伴い、大畑に至ってはループ線も伴うという峠越えの旅路は、矢岳トンネルを越えた真幸側に展開する霧島盆地と霧島連山の絶景とも相まって、比肩するもののない旅情を約束してくれる。
今は、定期旅客の需要もわずかで、観光路線としての性格が強くなった肥薩線だが、かつては幹線の鹿児島本線を名乗っていた時代もあり、明治維新で開国した日本の富国強兵政策の一端を担った路線でもあった。
肥薩線の路線選定の経緯については、大畑駅の旅情駅探訪記の中で、文献調査記録としてまとめたのでそちらもご一読頂きたい。
私自身は、この肥薩線を1998年1月に初めて訪れている。
その時は、南九州を自転車で旅して周った後、えびの駅から吉松、隼人、都城、吉松と霧島連山の周りを一周し、矢岳越えを経て大畑駅で途中下車した後、人吉、八代と抜けて、そこから寝台特急「なは」に乗車して帰京したのだった。残念ながら、停車したはずの矢岳駅の写真は残っていない。
この肥薩線矢岳越えの区間の最高所にある矢岳駅で初めての途中下車をしたのは、1999年8月のことだった。
この年は、鹿児島で学会が開かれており、学生時代の私もそれに参加したのだが、その帰路、南九州の鉄道路線の旅を楽しむことが出来たのである。前夜を大畑駅の駅前野宿で過ごし、朝の吉松行始発で真幸駅に降り立った後、折り返しの人吉行で矢岳駅に引き返して途中下車、次の吉松行で吉松方に抜けるという行程だった。
隣接する大畑駅や真幸駅と比べて、スイッチバックを伴わない矢岳駅は地味な印象もあるが、静かな高原の一角にある重厚な駅舎は矢岳越えの雄というに相応しく、念願の途中下車だった。劣化したネガフィルムから起こした質の悪い画像しか残っていないが、この旅の記録を振り返ってみたい。
既に廃車となったキハ31系気動車に揺られて降り立った矢岳駅には、鉄道ファンの姿が見えただけで、他に利用者や観光客の姿は無く、夏空の下、静かに落ち着いた佇まいで一人旅の旅人を迎えてくれた。観光列車としてキハ31系気動車が掲げていたのは「しんぺい」のヘッドマークだった。
当時の矢岳駅は、下り線のホームも残っており、交換可能駅だった時代の面影を伝えていた。
往時の矢岳駅は、現在も残る単式ホームの向かいに島式ホームを備えた2面3線構造で、その他に、貨物用の側線も備えた駅だったという。明治以来の歴史を刻む駅舎は、渋みある重厚な佇まいで、本物のみが持つ威厳を感じさせる。
駅の開業は1909年11月21日。旅客駅としての歴史は隣接する大畑駅や真幸駅よりも古く、矢岳越えの各駅の中では最も長い歴史を持つ。
既に述べたように、開業当時は、この矢岳越えが鹿児島本線と呼ばれていた。一方、現在の肥薩おれんじ鉄道の路線は川内本線などと呼ばれていたが、一部開業の区間に対して、肥薩線の名称が与えられていた時代もある。
1927年10月17日、海岸ルートの全通に伴い本線の座を明け渡し、肥薩線と改称された後、1932年12月6日には、隼人~鹿児島間が日豊本線に編入され、肥薩の名を冠しながら薩摩に至らぬ路線となっている。
駅舎は、取り付き道路から一段上がった所に、植込みの緑に囲まれて静かに佇んでいる。集落側から眺めると、取り付き道路の向こうに佇む駅の重厚な姿が見える。古き良き時代の面影。かつて、この駅は集落の玄関口として、人々の往来を見守っていたのだろう。
この日は、乗り継ぎの合間を利用して、矢岳高原付近まで散策してみた。
高原の駅から矢岳方面に延びる舗装路を辿っていくと、矢岳駅を少し高い位置から遠望することができた。肥薩線を踏切で渡った道は180度転向して、矢岳駅の東側の方に続いていく。
矢岳の名を冠する矢岳山は、標高739.2m。駅の南南東2.5㎞弱の位置にある。「日本山岳ルーツ大辞典(村石利夫・竹書房・1997年)」によると、矢岳山の山名由来は「山の周辺で矢竹を産したことによるとみられる」とある。
矢岳山の東麓に広がる高原状台地が矢岳高原で、標高700m前後の高原にキャンプ場などの施設が広がっている。
高原まで足を延ばすには時間が足りなかったため、付近を散策して駅に戻ったのだが、踏切から線路に沿って少し谷を遡れば、矢岳トンネルの坑口が口を開き、肥薩線建設当時の逓信大臣・山縣伊三郎による「天險若夷」の扁額が掲げられているはずだ。
この矢岳トンネルの真幸側の坑口には、 鉄道院総裁・後藤新平による「引重致遠」との扁額が掲げられているという。私が乗車してきた「しんぺい」号は、この後藤新平に因むものである。
列車の到着時刻に合わせて矢岳駅に戻る。
今は単線の棒線駅となった矢岳駅ではあるが、駅の構内を見て回ると、明治以来の歴史が随所に残されており、峠越えの幹線時代の面影を偲ぶことができる。
初めての矢岳駅訪問は、乗り継ぎの合間を利用した、僅かな時間。
次にやってきた吉松行に乗って駅を後にする。やってきたのは、「いさぶろう」のヘッドマークを掲げたキハ40系気動車だった。
次に訪れる時は、駅前野宿でじっくりと滞在してみたい。
そんな高原の旅情駅だった。
2016年12月(ちゃり鉄9号)
矢岳駅への再訪は、1999年8月の初訪問から17年余り。2016年12月になってからのことだった。「ちゃり鉄9号」の旅で、南九州の鉄道路線を巡る旅の中、肥薩線も隼人から八代に向けて全駅の探訪を行うことができた。
中でも、真幸駅、矢岳駅、大畑駅の連続する3駅には、全て、駅前野宿で訪れる計画としていたのだが、これらの各駅に順番に駅前野宿しようとすると、一日の行程が停滞することになるため、複雑な経路を描きながら、数日かけて目的を果たすことにした。
肥薩線初日は桜島を出発し、隼人から肥薩線に入って真幸駅を訪問後、矢岳駅まで達して駅前野宿。翌日は、大畑駅を経由して八代まで抜けた後、上田浦駅で駅前野宿。次の日に水俣から山野線跡を辿って、吉松から吉都線に入り京町温泉駅で途中下車、真幸駅まで上って駅前野宿。その後、吉都線沿いに都城まで達し、都井岬、宮崎交通鉄道線跡、妻線跡、横谷峠、くま川鉄道と数日かけて巡ったのち、大畑駅で駅前野宿。久七峠を越えて薩摩大口に至り、そこから宮之城線跡に至る…という経路だった。
矢岳越え3駅の駅前野宿第一夜に選んだ矢岳駅へは、夕刻の真幸駅からの厳しい道のりを経てたどり着く。
以下に示すのは、国土地理院地形図の真幸~矢岳間の図幅であるが、この区間の営業距離は7.3㎞であるから、鉄道がスイッチバックを駆使する山岳路線とは言え、大した距離ではないように感じる。
しかし、この辺りでは鉄道に並行するような道路はなく、滝下山や矢岳山の辺りを抜けていくような林道もない。その為、真幸駅を出た「ちゃり鉄9号」は、一旦付近の国道447号線(地図上の黄土色の線)に沿って山を下り、その後、県道408号線(地図上の灰色の線)に沿って吉田温泉付近から矢岳トンネル東方の矢岳高原を越えて、駅の北側から西の眼下に駅を見下ろしつつ南側に回り込み、肥薩線を踏切で渡った後、北向きに転じて西側からアクセスするという、迂回ルートをたどることになる。
結果としての走行距離は20㎞前後になり、うち、半分強が急な登り勾配である。灰色の線が、高山、昌明寺の地名の辺りでウネウネと描く九十九折りは、急勾配の様をそのまま表しており、矢岳トンネルの東側で太線から細線に変わった後、矢岳駅の周辺に細線が描く軌跡が、「ちゃり鉄9号」の軌跡となるわけだ。
これから山の上の高原に向かうというのに、真幸駅から最初の6㎞余りは延々と山を下り、盆地の底に降り切ったところから、登り始めるのだから泣けてくる。自転車での下りは楽しいものだが、こういう下り方は勘弁して欲しくなる。
西日の真幸駅を出発し矢岳高原に辿り着く頃には日も暮れ始め、携行食が切れていたこともあって、厳しい登坂路に苦しんだが、視界が開けてくると、日本三大車窓とも称される矢岳越えの車窓を目の当たりにすることができ、疲れが癒される。
この日は、遠く、今朝出発してきた桜島の影を望み、栗野岳、韓国岳、高千穂峰といった霧島連山の山並みも、残照の空を背景に、シルエットとなって浮かぶ絶景が広がっていた。
草原が広がる矢岳高原を越えて熊本県側に入れば、一帯は茶畑。この辺りからようやく下り始めて、矢岳駅まで、とっぷり暮れた山中の隘路を駆け抜けた。真幸駅を16時20分過ぎに出発、矢岳駅到着は18時過ぎだった。
各地点の標高の概算値は、真幸駅が385m、霧島盆地の最低所が220m、矢岳高原の最高所が705mで、矢岳駅は駅施工基面高536.1mとされている。これを桜島から100㎞程走ってきた後に、20㎞の行程で克服するのであるから、荷物満載のツーリング車での行程としては、かなり厳しいものであった。
18時過ぎに到着した矢岳駅は、既に、残照も消えかけていて、夜の帳に包まれ始めていた。南九州とは言え、一年で最も日照時間が短いこの季節。18時はもう、夜の範疇である。
20㎞の行程の半分ほどは急勾配の登りで汗水垂れ流しながらの進行であったが、矢岳高原にある県境を越えてからは、高原の寒気の中を急勾配で降り続けることになる。登りで携行食と補給水を切らしてしまった上に、降りで汗で濡れた衣服を通して体温を奪われ、駅に到着する頃には、ハンガーノックも合わさってフラフラになっていた。
それでも、この高原の旅情駅で過ごせる一夜は、何にも替え難い楽しみで、衣服を着替えてホッと人心地ついた後は、カメラを携えて、駅の探索をすることにした。
19時前になると、人吉に向かう単行気動車が到着する。矢岳越えでは、朝、始発が吉松から人吉に向かい、夜、最終が人吉から吉松に向かうという運行の流れになっており、19時前のこの列車が、矢岳越えを行く人吉行の最終列車でもある。
吉松駅以降、真幸駅を越えて続く急勾配を終えて、ホッと一息つくという感じで停車した普通列車。年の瀬のこの日、通勤通学の利用者の姿は無く、日も暮れたこの時間、青春18きっぷなどを利用した旅人の姿も見られなかった。
乗客の姿もなく、乗り降りする人も見られない中、気動車は律儀にドアを開閉し、そして、定刻になると、エンジンを吹かせて出発していった。
去り行くテールライトを彼方に見送る。山峡に響いていた気動車の走行音は、やがて、大川間川が刻む谷の奥に消えていった。
束の間の喧騒の時間が終わると、再び、静寂のひと時がやってくる。夜の帳と寡黙な駅舎が孤独な旅人に寄り添ってくれる。
前回訪問した時から、17年もの歳月が過ぎ、かつて存在していた島式ホームの付近は、すっかり整地され、広い草地になっていた。
そちら側に回り込んで眺める駅舎は、木枠の窓も心地よく、そこから漏れ出る暖色系の明かりが、温かい雰囲気を醸し出す。明治以来の歴史を刻む駅舎は黙して語らないが、かつて、この駅を舞台にして繰り広げられたのであろう幾多の人間ドラマが脳裏に浮かぶ。
明かりの灯る駅務室に駅員の姿が見え、待合室に乗降客が集う、そんな時代があったのだろう。
駅のホームは、かつての客車時代の記憶を今に留める長大なものだが、短編成のディーゼル気動車に置き換えられてからは、無用の長物と化し、今では、かさ上げされた部分しか使用されていない。
この高原の旅情駅を行く客車列車を見てみたかったと思う。
ホームに戻り、駅舎を間近に眺めてみる。
黒光りする柱や漆喰の塗壁には、明治以来の汽車の息遣いが染み込んでいるようだった。
照明は蛍光灯中心に切り替えられていたが、やがて、それらもLED照明になっていくのだろう。だが、この駅では、昔ながらの裸電球が似合うようにも感じる。
待合室に入ってみると、暖色系のお洒落な照明が灯されており、何となく、大正ロマン風の気品を感じた。記憶にあったプラスチック製のベンチは無くなり、革張りのソファや木製の机が置かれていたが、味気ないプラスチックのベンチより、こちらの方が、雰囲気はよい。
維持管理をされている地元の方が提供したものではなかろうか?
待合室の正面は、引き違い戸になっており、開け閉めすると、ガラガラと懐かしい音がする。私にとっては、小学生時代の記憶を呼び起こす、そんな音だった。
駅前の取り付き道路に降りて一段高い駅舎を見上げると、照明に照らされた木立の奥に温もりある明かりが漏れ出ていて、何か、ホッとさせられる情景だった。
見上げれば、空にはオリオン座が光り、この高原の旅情駅を見守っていた。
20時半過ぎ、大畑方の谷あいから、単行気動車の走行音が聞こえだした。いよいよ、本日の最終列車の到着である。
こういった無人駅では、列車の到着時刻前になると、通勤通学の利用者の家族が迎えの車で駅にやってきて、待機していることも多いのだが、この時刻になっても、それらしき車は見当たらない。利用者のものとみられる車やバイク、自転車等もなく、恐らく、降りてくる人はいないだろう。もし居るとすれば、駅寝で旅をする旅人くらいだが、近年は、そういう旅人の姿も少なくなった。
到着したのはキハ40系の単行気動車で、車内には数名の乗客の姿が見られたものの、矢岳駅で下車する様子の乗客はいなかった。勿論、矢岳駅から乗車する人も居らず、高原の寂寞境にディーゼルエンジンのアイドリング音だけが響いていた。
旅情駅の夜には、テールライトが似合う。
やがて、そのテールライトの軌跡を残して、吉松行の最終列車が出発していった。
列車の走行音と少し離れたところにある踏切の警報音がしばらく続いていたが、それも束の間、列車が矢岳トンネルに入った後、ディーゼルエンジンの排気ガスが微かに残る矢岳駅を静寂が包み込んだ。
厳しい行程だったこの一日。駅前野宿の我が家に帰り、ゆっくりと疲れを癒すことにしたのだが、自炊中にガソリンバーナーからガソリンが漏れ、テントの床に垂れたところに引火して、危うく、テント火災を引き起こすところだった。
幸い、テントの床に30㎝ほどの大穴を開けてしまっただけで全焼は免れたが、元々、ガソリン漏れの欠陥が指摘されていたSOTO MUKAストーブ。この事故は、後年、その使用を中止する判断に結びつく、最初の事故となった。
ところで、矢岳の地名について、先に、矢岳山の山名由来を引用したのだが、ここで、駅名や地名についても引用をまとめておくことにしよう。
まず、駅名については、「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によると、「宮崎県の矢岳山の名を採った矢岳トンネルの熊本県側のトンネル入り口駅」とある。ただ、この記述からははっきりとした由来が読み取れない。矢岳山由来なのか矢岳トンネル由来なのか、分かりにくい。
そこで地名を調べてみると、駅の現在の所在地は熊本県人吉市矢岳町で、なるほど、矢岳山が近くにあるから、山名に因んで矢岳町があるのかと思うが、矢岳山は熊本県ではなく宮崎県にあるという奇妙な関係だ。
以下に示すのは、国土地理院の公開している空撮画像で上は、1976年10月6日撮影、下は2004年以降撮影のものである。それぞれ、地形図も重ねてあるので、マウスオーバーやタップ操作で切り替えられる。
これをみると、他にも面白いことに気が付く。たとえば、駅の周辺には、駅の西側に「東」という地名があり、東側に「西」という地名がある。普通に考えれば、駅の西側が「西」、東側が「東」となりそうなものだが、逆である。
集落の様子などは、この2枚の空撮画像で大差ないようにも見えるが、実際には、駅の取り付け道路沿いの民家などが、1999年の訪問から、2016年の訪問までの間になくなっており、過疎化が少し進んでいるようである。
「角川地名辞典 43 熊本県」を紐解いてみると、矢岳町に関して「昭和17年~現在の人吉市の町名。もとは藍田村大畑(おこば)の一部」とある。矢岳町という地名は案外新しいのである。矢岳駅の開業は既に述べたように1909年11月21日のことで、これは、明治42年にあたるから、その当時、この付近は、藍田村大字大畑であった。
矢岳町の地名が矢岳山に因むのであれば、昭和ではなくもっと古い時代から発生していたと考えるのが妥当だが、実際には、昭和17年という時代になって出来た新しい地名で、それ以前に、この辺りに矢岳という字名が存在した痕跡はない。
なお、同書の小字一覧も調べてみたが、「東」、「西」という小字は掲載されておらず、これについては、要調査である。
元は大畑という地名であったとあるが、大畑駅の旅情駅探訪記にも書いたとおり、大畑とは焼き畑を表す地名で、大畑駅は地名由来の駅名である。となれば、この付近を「上大畑」と名付けてもよさそうな位置関係であるが、わざわざ矢岳という駅名にしたのは、矢岳山というよりも矢岳トンネルに由来すると考えられるようにも思う。
トンネルの名称自体は、矢岳山に由来するとしても、明治の鉄道建設史において特筆すべき矢岳隧道が貫通した時、その矢岳隧道に間近い大畑の奥地に設ける駅の名前に、「上大畑」ではなく「矢岳」の名を冠したいと考える鉄道マンの矜持は、何となく、理解できまいか。
そうして、矢岳駅が設けられると、大川間川上流の無人地帯だったこの地に、農林業などを中心とした人々が入り込み、集落が発生していく。その中で昭和の時代になって矢岳町という町が誕生したのである。駅を中心として発生した町に、後付けで駅名由来の地名が授けられた珍しい事例と言えよう。
さて、駅名や地名に関するうんちく話はこの辺にして、旅情駅探訪記に戻ることにしよう。
燃料漏れと引火でテントの床に穴を開けてしまうトラブルはあったものの、幸い、テント本体は無事だったので、そのまま、駅前野宿の一夜を過ごし、ぐっすりと眠って目が覚めた。
真冬のこの時期、九州南部の矢岳駅周辺の朝は遅く、5時過ぎの起床ともなると、辺りはまだ深夜の様相だった。厳しい冷え込みの中では寝袋から這い出すのも苦労するが、意を決して外に出て手早く朝食を済ませ、駅の利用者が来る前には駅前野宿を畳むのが流儀である。
吐く息が凍り付きそうな中、かじかむ手を温めつつ撤収作業を終え、始発列車の到着間際には、ホームに立って夜明け前の駅の姿を撮影する。人吉に降る一番列車の到着は6時45分過ぎ。早朝というよりは朝の範疇に入る時間帯だが、駅に人が来る気配もなく、辺りは静まり返っていた。
やがて、彼方の踏切の警報音が響きだし、それに遅れて、谷間に、列車の走行音が響きだした。やがて、彼方のレールにきらめきを落として、人吉行の普通列車が到着する。キハ40系の単行気動車だった。
平日なら利用客がいるのかもしれないが、年の瀬のこの日、利用客の姿は見られず、鉄道ファンの姿も見かけなかった。
赤色灯を灯して律儀に停車する普通列車。ワンマン運転の車内アナウンスの自動音声が、無人のホームに漏れ聞こえてくる。
やがて、静かにドアが閉まりエンジン音が高まると、気動車はゆっくりとした足取りで動き出した。
見送る車内に乗客の姿は無かった。
始発列車が去ったあと、南の空を見上げると、いくらか空が明けている。
夕方とは逆に、黒から紺に、紺から群青に、次第に明けていく朝の空は、凛とした緊張感の中で、静謐な雰囲気を醸し出し、旅情駅の姿を引き立ててくれる。
始発列車が出発したとはいえ、照明の灯る駅は、まだ、眠りの中にいるようだ。
待合室の周りに入れば、まだ、暖色系のライトに照らされた待合室が、夜の表情をしている。じっとしているとキーンと冷え込んでくる寒気の中でも、明かりの灯る待合室には温もりが満ちている気がする。
待合室の中で少し温まったのち、再び、駅の周辺の散策を始める。
今日はここから、肥薩線の八代駅までを走破した後、肥薩オレンジ鉄道の上田浦駅まで進んで駅前野宿の予定である。日が昇った後の時間帯に滞在することができないため、出発までの1時間ほどで、駅周辺の探索を済ませることになる。
外に出てみると、空は、群青から青紫に変わりつつあった。浮かぶ雲に赤みが差し始めると、日の出も近い。
駅の敷地には、人吉市のSL展示館も併設されているが、この時間はもちろん閉館中で、その姿を見ることはできない。入り口の標識には8時開館とあったが、年末年始でもあるから、休館かもしれないし、そもそも、8時だと出発してしまっている。今回は、残念だが、中は見ることが出来そうにない。
駅前の方に戻ってみると、昨夜は駅舎の明かりだけが闇夜に浮かんでいたが、朝の空をバックに、付近の山並みがシルエットとなって浮かび上がっていた。
正面から眺めた待合室は、郷愁あふれる佇まい。日常生活の中に、こんな空間が無くなって久しい気がする。観光資源として、こうしたレトロ感を演出しようという試みもあり、それはそれで、よかったりもするのだが、やはり、本物のもつ情感にはかなわない。
矢岳駅とて、観光列車が走る今日となっては、観光客目当ての演出とは無縁ではないが、時期や時間帯を外せば、落ち着きのある静かな佇まいで迎えてくれるものだし、そうした機会を得られるのは、ちゃり鉄の旅、駅前野宿の旅ならではだ。
7時を過ぎると、空は高曇りに転じた。今日は、午前中から雨の予報も出ており、この先の天気が気になるが、早くも崩れ始めたのだろうか。青紫から紫灰に変化した空の下、それでも、白っぽくなった空には、朝の気配が濃厚になってくる。
駅名標を撮影した後、かつての貨物線跡を眺めに行く。
往時は、ここから木材の積み出しなども行われていたのであろうが、今では、草生した空き地となっており、保線車両が留置されたりすることもないようだ。
鉄道敷設というと、専ら、旅客を運搬する目的のためだと思われたりするが、それに引けを取らず、貨物輸送の用途でも利用されており、かつては、鉱山鉄道や森林鉄道のように、人よりも貨物を主たる運搬対象とする鉄道も多くあった。また、人を運搬する鉄道でも、同時に、貨物輸送に利用されても居り、各地で、旅客列車の合間に貨物列車が運行されたり、貨客混合列車が運行されたりしていた。
しかし車社会の現代、貨物輸送は、自動車輸送に完全に移行している。
鉄道での貨物輸送を見直す動きもあるが、林業や鉱業での大口の貨物輸送が鉄道に戻る見込みはなく、小口輸送となると、ローカル線では、採算が立たないことは目に見えている。
草地となった貨物線跡を見ていると、栄枯盛衰という言葉を思い出さずにはいられない。
同じく、かつては島式ホームが残っていた下り線側も、すっかり整地され、ひろい芝生広場のようになっていた。観光列車を意識しての整備事業ではないかという気もするが、すっきりときれいになったという見方もできるかもしれない。
待合室に戻り、少し休む。
シャンデリア風の照明に付け替えられた待合室は、明治というよりは大正のイメージがあるが、昔は必ずあったゴミ箱などが撤去されており、その分、雰囲気がよくなった。
しばらくすると、地元の方が見えた。話しかけられてしばらく談笑するが、その方がSL展示館の管理もされていて、7時半頃ではあったが、鍵を開けてくださった。
現在は、D51170が展示されているだけだが、かつては58654も並んで展示されていたという。D51170は矢岳越えで、58654は湯前線で活躍した蒸気機関車で、D51170が矢岳駅で展示されているというのは、相応しいようにも感じられる。
並んで展示されていた58654はその後、SLあそBOYや、SL人吉で復活運転し、修繕修復を重ねながら、現役で活躍している。
幸いなご厚意に預かり、SLとの対峙を果たした後、いよいよ、「ちゃり鉄9号」も出発の時を迎えた。
まだ、辺りの山に遮られ、日が差さない時刻だったため、明るい陽光の下の矢岳駅を眺めることはできなかったが、17年ぶりに訪れた高原の旅情駅での一夜は、去り難い思い出を与えてくれた。
最後に、もう一度、下り線跡から駅をぐるりと眺め、凍てつく冷気の中、大畑駅に向けてペダルを踏みこみ、この旅情駅を後にした。