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飯沼駅:旅情駅探訪記
2016年12月(ちゃり鉄8号)
岐阜県東濃地方の恵那から明智に至る明知鉄道は、元々は、1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法別表第63号「静岡県掛川ヨリ二俣、愛知県大野、静岡県浦川、愛知県武節ヲ経テ岐阜県大井ニ至ル鉄道 及大野付近ヨリ分岐シテ愛知県長篠ニ至ル鉄道 並ニ浦川付近ヨリ分岐シテ静岡県佐久間ニ至ル鉄道」の前段部分、即ち、「掛川より大井に至る鉄道」の一部として、国によって敷設された明知線を起源に持つ第三セクター鉄道である。
当初の構想では「掛川と大井(恵那)を結ぶ」予定であったが、実現したのは、現在の明知鉄道の恵那~明智間25.1㎞と、天竜浜名湖鉄道の掛川~天竜二俣間26.3㎞ほか、JR飯田線の一部のみであった。
2016年12月、「ちゃり鉄8号」の旅の中で、この鉄道沿線を訪れたのだが、その時、駅前野宿の一夜を過ごしたのが、飯沼駅であった。
名古屋を出発して名鉄瀬戸線各駅を探訪し、東濃の山並みを越えて明智にたどり着いた後、明知鉄道沿線に各駅停車しながらたどり着いた飯沼駅は、18時前というのにすっかり暮れており、まるで、深夜のような雰囲気だった。
駅の周辺は、無人境というわけではないのだが、民家は密集しておらず山間部に点在しているため、一見すると、人里離れた山奥の印象も受ける。この日は日が暮れてからの到着だったから、尚更だろう。
駅の付近は標高470m程度で、周辺の山並みは700m前後といったところ。駅の東方には、名峰・恵那山(2191m)があり、距離は15㎞弱。駅の周辺は、この恵那山の前衛にあたる山地に囲まれている。わずかに残照が残り星が瞬く空を背景に、それらの山並みのシルエットが浮かんでいたが、写真に落とし込んでみると、ほとんど判別できなかった。
約25㎞の路線は、標高270m程度の恵那駅から、標高500m程度の岩村駅まで、概ね上り勾配が続く。その後は、標高450m程度の明智駅まで、下りとなっている。岩村駅までの営業キロは、恵那駅起点で15㎞であるから、全路線の中ほどを境にして、逆への字型の上り下りがあることになる。
飯沼駅は、そんな路線の中にあって、恵那から岩村に向かう上り勾配の中に設けられた駅である。
この日は、明智駅・岩村駅側からアクセスすることになったため、飯沼駅には下り勾配の中で到着することになった。この駅のロケーションについては、後ほど、特に、取り上げることにするが、33‰という急勾配の途中に設けられた飯沼駅は、設置当初、駅の設置地点の勾配としては日本一だった。
この程度になると、自転車での走行では、しっかりと、勾配を感じることになるし、そこに鉄道を走らせるということも、なかなか、大変なことだろうというのが実感できるものだ。
到着して旅装を解いていると、恵那に向かう普通列車が到着した。この時間、鉄道利用者の動きとしては、恵那から沿線各地への帰宅者の利用が多く、明智側からの利用者は多くはない。わずかな利用者も、明智、岩村、恵那といった主要駅間を往来するようで、乗降客の姿は見られなかった。
駅には、「駅前」というほどでもない車寄せと駐車スペース、駐輪場があり、駐車スペースには、軽トラが1台駐車していた。こういう無人駅で過ごしていると、通学・通勤の迎えに車がやってきて、到着時刻まで停車していることもあるのだが、誰も乗っていなかったので、鉄道利用者のものなのだろう。
車があるなら車で移動した方が速いような気もするが、鉄道経営の観点で言えば、こうして、駅までやってきて、そこから鉄道に乗車する地元の方が居るというのは、好ましい状況である。
しばらくすると、山峡に列車の走行音が聞こえだした。
「タタン、タタン」という一定のリズムを刻むその音は、単行列車の走行を暗示している。
単線非電化のローカル線でも、通勤通学時間帯には、2両以上の列車が運行されることも少なくはない。その場合、走行音は「タタン、タタン」ではなくなる。「タタン、タタンタタン、タタン」なら2両編成。「タタン、タタンタタン、タタンタタン、タタン」なら3両編成という具合だ。ローカル幹線なら、多両編成の特急などが走っていることもあり、そういう時は、「タタン」の間隔が短かったりする。
山峡や原野に響く音から、接近する列車の編成を予測するのは、無人駅で過ごすひと時の、小さな楽しみでもある。
程なくヘッドライトの煌めきとともに、予想通り、単行気動車がやってきた。
その時間を見計らうように、数台の車が駅にやってきたので、降車客があることもわかる。
束の間、駅に賑わいが訪れるが、降車客は足早に迎えの車に乗り込み、列車の出発と前後して、駅から居なくなる。駐輪場には、パンクした自転車しかなく、駅まで自転車でやってくる利用者はいないのだろう。確かに、駅からの帰路は、どこも登りで、毎日の通勤通学に自転車を使うにはきつい環境である。
やや遅れてエンジン音がかかり、先ほどの軽トラが走り去ると、駅には、私一人が残った。
少し寂しくもほっとする時間。
孤独な旅人に、駅はそっと寄り添ってくれる。
列車の運行は概ね1時間に1本ずつであるが、車両基地は明智駅にあり、一日の車両運用で見ると、明智から出発した列車が明智に戻って終わるという形になっている。
20時を過ぎれば、駅の周辺には車の往来もなくなり、20時半過ぎには、恵那行きの最終が駅を出発。わずかばかりの乗客の姿が見えたが、飯沼駅で下車する客は居なかった。
残すところ、21時台、22時台にそれぞれ1本ずつ、明智に向かう普通列車が駅に発着するのみである。21時台には、恵那行きが運行されているのだが、その列車は、飯沼駅を通過する。
それらの発着や通過を撮影しようと思いながら、駅前野宿のテントの中で寝転がっているうちに、いつの間にか眠ってしまい、列車の走行音を、テントの中で、夢うつつで聞いた、微かな記憶だけが残っている。
ここで、飯沼駅の沿革について、少し振り返ってみる。
駅の所在地は、岐阜県中津川市飯沼字市之坪。開業は1991年10月28日で、明知鉄道時代になってからのことである。構造としては、単式1面1線の棒線駅で、ホーム上に待合室がある。
「JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)」によると、「中津川市飯沼にできた新駅名。イイは米を作る土地。沼地のある耕作地」と解説されている。
「角川日本地名大辞典 21 岐阜県(角川書店・1980年)」の記述で掘り下げてみようとしたが、こちらは、「地名の由来は、「飯沼旧記」に元禄12年以前は飯妻村と書くが、以後は深沼が多く飯沼村と書く、と記すが不詳」となっていて、詳らかではない。
ただ、飯沼駅の所在地が「市之坪」である他、以下に示す国土地理院地形図でも、飯沼駅の南南東に、鞍坪、梨坪といった地名が見える。「坪」は、条里制の名残をとどめる、平地の区画を示す地名で、米作と関連があるようだ。
実際、飯沼駅から明智方面に向かって2駅隣には、「飯羽間駅」があるが、こちらの「飯」もやはり「米」を表している。
前述の「角川地名辞典」の記述では飯羽間の「地名の由来は米(いい)の取れるはざまの意によるという」とある。
山間の地域ではあるが、古くから、豊富な水資源を生かして、稲作が行われていた地域なのであろう。
駅の東北東には恵那山がある。登山口というには離れているし、公共交通機関もないため、明知鉄道を利用して恵那山にアクセスする登山者は居ないだろう。
私自身、恵那山に登ったことはないが、周辺の小私鉄の廃線跡を巡るちゃり鉄の旅の中で、登りたいとは思っている。その際には、この飯沼駅で、再び駅前野宿の夜を過ごしたいものだ。
ところで、この飯沼駅付近の線路勾配については、既に触れたように、駅設置地点の勾配としては、日本一の急勾配だった時期がある。
どうして、そのような状況が発生したのかといえば、大正時代に定められた地方鉄道建設規程第十五条において、「停車場及停留場ニ於ケル本線路ノ勾配ハ二百分ノ一ヨリ急ナルコトヲ得ス但シ特別ノ事由アル場合ニ於テハ百分ノ一ニ至ルコトヲ得」とあり、最急勾配は特別の理由があっても10‰以下と定められていたからである。同条では「本線ノ勾配ハ三十分ノ一ヨリ急ナルコトヲ得ス」ともあり、これによって、鉄道線路の最急勾配は約33‰を上限としていたのだが、この勾配がまさに、飯沼駅周辺の線路勾配であった。
即ち、飯沼駅は、国鉄による建設当時、規程上の限界勾配で登り続ける区間にあり、駅の設置をするためには、ループ線やスイッチバックを設けて、その勾配を緩和するしかなかった。だが、ループ線は勿論、スイッチバックを設けるにも十分なスペースがない飯沼駅周辺にあって、駅の設置は現実的ではなかったのであろう。
結局、国鉄時代には、飯沼駅は設置されなかった。
飯沼駅の開業は、既に述べたように、1991年10月28日のことであるが、これには、国鉄時代から続いていた地元の誘致活動の他、国から切り離された明知鉄道による車両新造などの努力が結実したものともいえる。このあたりの経緯については、後の文献調査記録にて、詳細にまとめることにして、ここでは、先に進むことにしよう。
一夜明けた飯沼駅は、氷点下5度以下の厳しい冷え込みに包まれていた。山間部の谷あいでもあり、溜まった冷気の流出口にあたるという地形的な特質にもよるのだろうか。駅の周辺には霜が降り、駅前野宿の寝袋から出るのが辛い朝だった。
しばらく寝袋の中でウダウダした後、意を決してテントの外に出て、出発の支度をしつつ、朝の始発列車を待つ。
時刻は6時前だが、冬の朝はまだ明けず、照明の灯る駅は、まだ眠りの中にいた。東の空は明け始めており、空は既に紺色から群青色に転じている。
旅情駅で過ごす駅前野宿の夜明け前。この黎明の青い大気の中で迎える、凛と張り詰めた時間は、何にも代え難い至福のひと時である。
やがて、阿木駅の方から列車の走行音が聞こえ、まだ眠りの中にある山峡に、踏切の警報音が響き始めた。6時過ぎ。恵那に向かう始発列車の到着である。
ヘッドライトを照らして到着した単行気動車には乗客の姿もわずかばかり。飯沼駅で下車する客は勿論、乗車する客も現れぬまま、足早に、恵那に向かって下って行った。
夜明け前の旅情駅は、一日の中では最も森閑とした雰囲気だ。
日没後のトワイライトタイムとは違って、人の気配が希薄な時間帯だからかもしれないが、空気に緊張感が漂っている。気温も、一日の中で最も下がることが多く、冬場の駅前野宿では、厳しい冷え込みに、なかなか、寝袋から抜け出せなくなる。
だが、駅には照明が灯っていることが多く、その明かりには、なんとなく温もりを感じる。
こうした感覚は廃駅からは感じることがないし、営業駅であったとしても、タイマーなどで夜間の照明が落とされる駅だと、感じられない。
その理由を掘り下げて考えたことはないのだが、明かりが人の生活と結びついたものだからなのではないだろうか。
日没後の暗闇の中をドライブしている時や、下山が遅れて暗くなってから山道を下っている時に、遠くに、街灯りを見つけると、ホッとすることがあるが、それに通じるものがある気がする。
夜明け前の空の色は、濃紺から群青へ、群青から青紫へと、ドラマティックに移り変わってゆく。空の雲には、少しずつ赤みが差し、夜明けが近づいていることを実感する。
体の節々に寒気の痛みを感じる中、朝日が待ち遠しくもなるが、旅情駅で過ごす夜明け前のひと時を堪能したく、駅の周辺を歩き回って、体を温める。
駅のホーム上には、小さな待合室がある。その横には、駅名標があり、飯沼駅の顔となっている。この駅名標の横に階段があって、駅前から見ると、そこが正面口ということになる。
6時過ぎには青い大気に包まれていたが、7時前になると、空に浮かぶ雲の赤みが強くなり、深紅に染まり始める。
駅はまだ照明が灯っており、訪れる人もいないため、眠りから覚めていない。
真冬の朝とあって、鳥のさえずりなども聞こえず、静まり返っている。
飯沼駅の勾配については、既に述べたところであるが、駅のホームと待合室を眺めると、この勾配を感じることができる。
というのも、待合室の床面は水平を保っているのに対し、駅のホームは線路の勾配と平行に作られているため、待合室の基礎部分で、その傾斜を相殺しているからである。
黄色く塗られたコンクリートの基礎は、明智側に尖った三角形の楔形をしており、勾配33パーミルという表示も張られている。
駅名標のとなりにも、飯沼駅の勾配が日本一であることを示す看板が立っている。
日本一の座は、1996年11月16日、移設によって40‰勾配中の駅となった、京阪電鉄京津線の大谷駅に明け渡した格好になっているが、今も、明知鉄道の小さな観光資源として、同じく、全国で第三位の勾配駅として知られる野志駅とともに、活用されている。
7時になると駅の照明が消えた。そして、この時刻を境に、夜の名残の青い大気がスッと消えて、駅が目を覚ました。
程なく、明智に向かう始発列車が到着する。
勾配区間に伸びた直線の彼方から、ヘッドライトを灯して走ってくる気動車の走行音が、朝を迎えた山峡に響く。
飯沼駅のホームには、まだ、乗客の姿はなく、到着した列車から降りてくる客の姿もなかった。
時刻的に、次の恵那行きが、朝の通勤通学列車なのかもしれない。
列車の出発を見送った後、珍しく、駅前で自撮り写真を撮影して、出発することにした。
飯沼駅:文献調査記録
明知線の60年(荒巻克彦・郷土出版社・1996年)
明知鉄道は、本文でも触れたとおり、国鉄起源の第三セクター会社で、その開業は1985年11月16日のことであった。しかし、国鉄時代からの歴史を紐解いてみれば、1933年5月24日の大井(現恵那)~阿木間9.9㎞の開業にまで遡ることができる。
国鉄明知線は、その後、1934年1月26日岩村開業(15㎞)、1934年6月24日明知開業(25.1㎞)と続いて、現在の明知鉄道の形となった。明知線の開業当初、明智駅は「明知駅」を称しており、「明智」への改称は、1985年11月16日、つまり、明知鉄道開業の日である。
鉄道名と駅名を敢えて違うものにしたのには、第三セクターの鉄道として、駅名を町名に合わせる意図があったのだが、明智町自体は、明知線の開業当時、明知町であった。それが、静波村の合併によって明智町と改称(1954年7月1日)し、2004年には、明智町が恵那市に吸収合併されて、自治体名としては消滅している。
普段、地名の変遷を意識する機会は少ないものだが、こうして紀行を書き、駅と地名の関係を調べてみると、むしろ、移り変わりが当たり前なのだ、ということに気づかされる。そしてまた、こうした、一見すると疑問を抱くような不一致に出会うことも多い。
さて、この明知線と明知鉄道についてだが、「明知線の60年(荒巻克彦・郷土出版社・1996年)(以下、「60年史」と略記)」が、最もまとまった文献と思われるので、この中の記述を中心にまとめていきたい。
国鉄明知線は、本文でも触れたとおり、1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法別表第63号「静岡県掛川ヨリ二俣、愛知県大野、静岡県浦川、愛知県武節ヲ経テ岐阜県大井ニ至ル鉄道 及大野付近ヨリ分岐シテ愛知県長篠ニ至ル鉄道 並ニ浦川付近ヨリ分岐シテ静岡県佐久間ニ至ル鉄道」の前段を根拠として、建設された鉄道で、「60年史」によると、「昭和二年の第五二回帝国議会では、その第一段階として大井ー明知(現明智)間の敷設が具体化し、昭和四年着工、同一〇年完成と決定された」とある。
ただ、全国どこでも見られたことであるが、予定線繰り入れの段階で誘致合戦があり、予定線に繰り入れた後も誘致合戦があり、結局、大局的な観点での鉄道敷設計画は、地元の利益優先の建設議論へとすり替わってしまう。「60年史」には以下のような記述がある。
「しかし、大井には矢作水力電気軌道が走っている。むしろ起点を瑞浪に、いや中津町(現中津川市)にと、誘致合戦が激しく行われた。このため、大井ー明知間の町村は、愛知県三河地方の町村と結集。大井選出の古屋慶隆衆議院議員を中心に、必死の陳情活動を展開した」
即ち、予定線に繰り入れられた後、「どこに鉄道を通すか?」という具体的な議論を展開する中で、地元町村の誘致合戦が繰り広げられたのである。
以下に示すのは、「第52回帝国議会衆議院請願委員第四分科会議事録第2号」で、この中の赤枠で囲んだ部分が、国鉄明知線に関して議論されている箇所である。ここでは、「中央線大井驛、明知町間鐡道豫定線中一部變更ノ件」が議論されており、分科会のタイトルからも分かるように、ここで扱われているのは請願である。
冒頭、今井健彦議員によって請願の要旨が述べられているのだが、それによると、「明知より中津川町に連絡するように変更していただきたい」と言うのである。その理由としては、「東濃地方の中心地である中津川を経由し、そこから、既設の北恵那鉄道を活用しつつ、予定線にも含まれる中津川~下呂間の連絡路線を建設して、東海地方と飛騨地方を結ぶ鉄道路線網を建設するのがよい」というものであり、確かに一理ある請願と思われる。
この分科会の中では、中村政府委員から「追加新線の費用を議会に提出済みだから、政府としては、変更する意思はない」との回答が出されており、その後、今井健彦議員から再度、請願の趣旨説明がなされ、採択されてはいるものの、最終的には、政府決定は覆らなかった。
政府決定に影響したのは、計画の妥当性や予算上の問題もあるだろうが、「60年史」の記述として、先に引用した通り、「大井ー明知間の町村は、愛知県三河地方の町村と結集」という政治的な戦略が、より大きな影響を与えたのではないかと思う。
いずれにせよ、こうした議論がなされる中、現在の明知鉄道のルートが決定されたのだが、それは、この請願委員会の中で、今井健彦議員が、中津川迂回ルートの優位性を説く根拠ともなった、「四十分ノ一位ノ勾配」を克服して路線を敷設するということでもあった。
ところで、先に引用した中で「しかし、大井には矢作水力電気軌道が走っている。むしろ起点を瑞浪に、いや中津町(現中津川市)にと、誘致合戦が激しく行われた。…(以下略)」とあったように、明知鉄道沿線は、国鉄明知線が初めての鉄道路線だったわけではなく、元々、別の鉄道が運行されていた。
以下に示すのは、この地域の鉄道史を概念的に表した図である。
現在の明知鉄道、JR中央線のほか、かつて存在した北恵那鉄道大井線、矢作水力電気軌道と、明知線建設当時の中津川接続の比較検討線も記してある。中津川から北に延びていた北恵那鉄道の路線については、図幅内に殆ど載らないため、割愛している。なお、比較検討線は、実際に、ここが想定されていたとする根拠はなく、地形図からの私の推測であることを付記しておく。
さて、この図中に記した、「矢作水力電気軌道」は「岩村電気軌道」として1906年12月5日開業、1920年4月1日、矢作水力電気軌道に社名変更した後、1935年1月30日に廃止されるまで、この地域の足として、大井~岩村間を結んだ。
既に述べたように、国鉄明知線の大井~岩村間開通が1934年1月26日のことであるから、廃止は、国鉄明知線の開通による輸送量減少に伴うものであったことが、容易に推察できる。
この矢作水力電気軌道(岩村電気軌道)について図では、阿木川ダム湖の西岸に沿った路線のように描いているが、鉄道運行当時、阿木川ダムは存在しておらず、鉄道は阿木川に沿った渓谷を走っていたようだ。また、鉄道名が軌道というように、この鉄道は、いわゆる路面電車だった。
以下に示すのは、「60年史」に掲載された岩村電気軌道時代の写真であるが、写真中にもあるように馬車も並走するのんびりしたものだったようだ。
この矢作水力電気軌道の軌道を国鉄明知線の路線に転用しなかった理由は、同書の中では記載されておらず、今後の調査課題であるが、結果として、明知線は阿木川から尾根一つ隔てた飯沼川沿いに谷を遡ることになり、大回りが必要となった上に、33‰に達する勾配を登ることになったわけである。
「60年史」では、この明知線建設工事について以下のように記している。
「大井ー明知間を一区(大井ー阿木)、二区(阿木ー岩村)、三区(岩村ー明知)の三つの工区に分け、順次南進していった。明治二九年以来の長い敷設運動がようやく実を結んだのである。一区開通するたびに、開通祝賀会が盛大に開催された。沿線各町村の喜びはひとしおで、花火の打ち上げ、旗行列、提灯行列、手踊り、郷土芸能などが昼夜にわたって繰り広げられた」
こうして地元の歓迎の下で、明知まで全通し、掛川まで結ぶ構想のスタートを切った明知線であったが、全国各地のローカル盲腸線の例に漏れず、時代の流れとともに赤字化し、国鉄末期には国鉄再建法による第一次廃止対象路線に指定されてしまう。
「60年史」には、一時期、明知線延長期成同盟会(明智町・昭和40年頃)を結成し、明知線を豊田まで伸ばそうという動きがあったことや、国会議員を招いて、現地視察を受けた時の様子(岩村町・昭和56年4月6日)なども、写真付きで掲載されている。
しかし、地元の存続運動も甲斐なく、1985年11月15日、国鉄明知線は廃止された。
尤も、翌11月16日に、第三セクターの明知鉄道が開業しているわけで、路線そのものが廃止された他の鉄道と比べても、地元の存続にかける情熱が強かったと言える。廃止バス転換を取らなかった理由として、「60年史」には「バスでは当地域の積雪と凍結に対応できないからだ」という、山岡町長山内章裕氏の述懐が掲載されている。
この後、第三セクター鉄道として、従来の国鉄にない地元密着型の経営戦略をとり、車両も国鉄末期のキハ52型から、自社新造のアケチ型レールバスに変更されているほか、多くのイベント列車を運行するようになった。例えば、地元特産の寒天を用いた料理列車「ヘルシートレイン」などの運行である。
そして、このアケチ型車両の導入によって、飯沼駅開業の可能性が開けたのである。
それについて「60年史」の記述を引用する。
「明知鉄道が開業する以前から、東野ー阿木間に新駅を設置してほしいという要望はあった。ところが、この区間は、一、〇〇〇分の三三勾配が連続する途中にあり、「停車場の勾配は、一、〇〇〇分の一〇以下」という地方鉄道建設規程一五条に抵触してしまう。そのために立ち消えになっていたのだが、昭和六三年三月、地元の熱意に応えるべく、富士重工の協力を得て独自に試験を実施した。その結果、安全性に問題なしと分かり、運輸省に停車場建設を陳情。平成三年三月、現地で車両の性能試験を実施することになった。アケチ1型はこの厳しい試験にも耐え、同年一〇月二八日、ついに日本一の急勾配駅・飯沼駅が誕生することになる。アケチ1型に限り許可されたもので、非常に名誉なことだ」
前明知鉄道技術部長太田重徳氏によるこの述懐は、鉄道技術者としての矜持と愛着を感じさせるものだ。
飯沼駅開業時には、新駅開業を祝賀する記念列車が、ヘッドマークを掲げて運行された。
以下に示すのは、「60年史」に掲載された、国鉄時代、駅設置前の飯沼付近の様子である。現在もこの踏切は現役であり、丁度、蒸気機関車の向こう辺りに、現在の飯沼駅がある。通過しようとする蒸気機関車は、限界勾配の中を、必死になって登り続けているところだろう。
私が生まれる数年前に、蒸気機関車は営業運転から引退したため、こうした光景を、生で見たことはないのだが、鉄道原風景として、記憶に留めたい。
私が見た飯沼駅の光景は、この当時と、大きくは変わっていない。
経営環境の厳しさは、変わらぬどころか、一層強くなっていることと思うが、私としても、ちゃり鉄のプロジェクトを通して、こうしたローカル線沿線の地域振興に、わずかながらの貢献が出来れば、幸いである。