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ちゃり鉄7号:旅の概要
- 走行年月
- 2016年11月(前夜泊1泊2日)
- 走行路線
- 私鉄路線等:阪神電鉄武庫川線、阪急電鉄線甲陽線、神戸電鉄粟生線、北条鉄道北条線
- 廃線等:三木鉄道三木線、JR鍛冶屋線、国鉄篠山線
- 主要経由地
- 六甲山
- 立ち寄り温泉
- 白雲谷温泉ゆぴか
- 主要乗車路線
- 自宅発着
- 走行区間/距離/累積標高差
- 総走行距離:276.1km/総累積標高差+4511m/-4500m
- 0日目:自宅-武庫川団地前=武庫川
(22.1km/81m/-94m) - 1日目:武庫川-夙川=甲陽園-六甲山-鈴蘭台=市場-白雲谷温泉-市場=粟生=法華口
(92.3km/+1822m/-1788m) - 2日目:法華口=北条町-厄神=三木-野村=鍛冶屋-篠山口=福住-自宅
(161.7km/+2608m/-2618m)
- 0日目:自宅-武庫川団地前=武庫川
- 総走行距離:276.1km/総累積標高差+4511m/-4500m
- 見出凡例
- -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
- =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
- …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
- ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
- ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)
ちゃり鉄7号:走行ルート
ちゃり鉄7号:更新記録
公開・更新日 | 公開・更新内容 |
---|---|
2023年11月21日 | コンテンツ公開 |
ちゃり鉄7号:ダイジェスト
2016年11月。当時住んでいた川西市の自宅から、北播丹波と総称される兵庫県中北部の鉄道路線や廃線跡を巡る旅を行った。
この地域にも、かつては多くの中小路線が運行されていたのだが、今ではその多くが廃止され、幹だけが残った樹木のように枯細っている。
特に、JR加古川線を軸として張り巡らされていた鉄道網は、元々は私鉄の播州鉄道が加古川水系の水運に取って代る形で発展させたもので、「播州」の社名のとおり播磨一円に路線を持っていたものを、播但鉄道への譲渡を経て戦時買収で国有化した経緯がある。
水運から陸運へと人や物の流れが変わる中で、水運に取って代った鉄道自身もまた、自動車に取って代られるのは、全国各地で見られる栄枯盛衰の物語の一幕であろうか。
これらの路線は、大正期の改正鉄道敷設法にも取り込まれながら、一部は国鉄路線に鞍替えしてJRの時代まで存続してきたが、勿論、計画線に組み込まれただけで着工に至らなかった区間もある。
この「ちゃり鉄7号」の旅では、前夜泊1泊2日という短期間の行程だったこともあり、それらを十分に回り切ることは出来なかったが、この先、2度3度とこの地域を巡りながら深く味わうことにしたい。
ちゃり鉄7号:0日目(自宅-武庫川団地前=武庫川)
この旅で北播入りするためのルートは複数考えられた。
当時の居住地だった川西市は北摂に当たり、北に向かえば能勢方面、西に向かえば宝塚方面、南西に向かえば神戸に出る立地だった。
今回の取材対象地域は主に加古川流域にあるのだが、一番楽なアクセスルートは神戸周りの海岸ルートであろう。
交通量が多いことがネックではあるが、瀬戸内海沿岸の平地を走るので殆どアップダウンがない。
宝塚経由のルートは宝塚から有馬に出て、裏六甲を西進する形になるが、そこそこにアップダウンがあるルート。そして、交通量も意外と多い。
能勢経由のルートは、直達するというよりも篠山経由で北側から北播地域に入る迂回ルートとなる。交通量はそれほど多くは無いが、能勢付近を筆頭に大きなアップダウンが複数ある。
そんな複数の行程の中で私が選んだのは、神戸周りと宝塚周りの狭間にある、六甲山経由のルートだった。
海岸付近の低地から一気に駆け上がって標高1000m弱の六甲山最高峰を経由し、そのまま尾根付近の車道を西進して鈴蘭台に降るルートで、断面図を制作してみるとかなりハードなことが窺える。
北播に達するのに何を好き好んで六甲山に登るのかと呆れられそうなルートではあるが、そこをわざわざ走るというのが面白いし、山上道路から眺める神戸・須磨の海岸風景は、関西きっての絶景である。
これまで自動車のドライブや空身でのサイクリングでは何度か走ったことがあるし、須磨から宝塚までの全山縦走のトレイルランニングも単身で達成したことがあるので、「ちゃり鉄7号」の軌跡をそこに加えておきたかった。
となれば、自宅を早朝に出ても十分に間に合うのだが、六甲山の東麓までの移動区間は先に済ませておきたい思いや、夜の阪神電鉄武庫川線を取材したい思いもあって、仕事が終わってから出発する前夜泊の行程で20㎞余りを走り、阪神電鉄武庫川駅下の武庫川河川敷にテントを張ることにして出発した。
この日のルート図と断面図は以下のとおりである。
終業後の出発ということもあって、この日は1~2時間の走行にとどまる。走ろうと思えば夜通しで100㎞以上走ることも可能だが、レースや大会でもないのでそんな無理をする必要もない。
幸い、阪神武庫川線が分岐する武庫川駅付近までで15㎞程度であるから、起点終点を含めて4駅、営業キロにして1.7㎞の武庫川線全線の取材を行ったとしても、2時間程度で事足りよう。
そこで、計画上は19時頃に出発する予定としたのだが、残業などの影響もあって自宅出発は20時18分となってしまった。
そこから交通量の多い国道171号線に沿って南西に走り、武庫川に出たら武庫川沿いを南下する。やがて阪神電鉄阪神本線の武庫川駅が見えてくるが、ここは一旦通り過ぎる。
武庫川団地前駅には21時46分着。17.7㎞。
駅名が示す通りの大規模団地が控える武庫川団地前駅は、専ら団地居住者の通勤通学のための機能を果たしているが、1979年に入居が始まったこの団地は、高度経済成長期に各地に誕生したニュータウンの盛衰を今に伝える。
僅か1.7㎞の支線の終着駅は1面1線の小駅で、夜も遅いこの時刻ともなると、家路を急ぐ通勤通学客の姿も多くはなかった。
武庫川線と言えば当時は赤胴車が健在の頃だったが、私が小学生だった頃の鉄道図鑑には更に旧型の3301型が単行運転しており、大都市圏を走る単行電車の独特の風貌が印象深かったものだ。
しかし、既に赤胴車は引退しており、現在はスタイリッシュな5500系に置き換わっている。この路線の印象も異なっている事だろう。引退した赤胴車は故郷とも言える武庫川団地内に静態保存されているらしい。
この旅では廃線跡も含め、武庫川線の歴史については殆ど何も知らないままの訪問となったので、いずれ再訪の機会を得て、この路線沿線の旅も深堀したいものだ。
ここから、洲崎駅、東鳴尾駅を経て武庫川駅には22時48分着。22.1㎞。累積標高差は+81m、-94mであった。
途中、コンビニに寄り道をして翌日の朝食などを手に入れ、河川敷の橋の下に設営した我が家に帰り、旅路としては遅い眠りに就いた。
ちゃり鉄7号:1日目(武庫川-夙川=甲陽園-六甲山-鈴蘭台=市場-白雲谷温泉-市場=粟生=法華口)
「ちゃり鉄7号」の実質的な初日は、ここ、武庫川駅から始まる。
一旦、阪急電鉄神戸本線の夙川駅まで移動。そこから阪急電鉄甲陽線を走り、甲陽園駅から一気に六甲山最高峰まで詰め上がる。縦横に登山道や道路が切り開かれた六甲山系だけあって、六甲山最高峰は頂上付近まで自転車で登ることが出来る。
この区間は標高差はもちろんだが斜度がきつく、ツーリング装備を積載した「ちゃり鉄7号」の行程は厳しいものになるだろう。
そして緩やかなアップダウンを繰り返しつつ西麓の鈴蘭台に降り、神戸電鉄粟生線、北条鉄道北条線と辿って沿線の播磨横田駅付近まで進む予定だ。
この日のルート図と断面図は以下に示す通り。
一夜を過ごした我が家を撤収し、武庫川駅を出発したのは5時37分だった。
この付近の国道は交通量が多いとはいえ、早朝のこの時間は通行量も少ない。軽快に西進して夙川駅には6時10分着。7.1㎞。夜明け前ということもあり、駅の周辺はまだ薄暗かった。
ここから阪急電鉄甲陽線に入る。
この路線も昨日の阪神電鉄武庫川線と同様、短距離の支線である。営業キロは2.2㎞。起点終点を合わせて駅数は3駅。途中駅は苦楽園口駅のみだ。
路線の敷設は1924年10月1日まで遡り、それなりに歴史の長い路線ではあるが、開業期から現在と変わらず夙川~甲陽園間を結ぶ短距離の路線で、神戸本線との直通運転が実施されたこともないという。
神戸本線の夙川駅ホームに立ってみると、上り線ホーム側にほぼ直角に甲陽線の線路が入ってくる様子が見て取れるが、そのまま本線に合流することも出来ず、ホームを介して分断されている。一見したところ本線と接続すらしていないようにも見えるのだが、ほぼ90度の直角カーブを描く連絡線が、上り線ホームの西側から甲陽線ホームの北側に延びており、ここを通って車両回送が行なわれているようだ。
夙川駅発6時16分、甲陽園駅着6時51分。9.3㎞。
途中、苦楽園口駅では上下列車の交換の様子を撮影したり、軽食を補給したりしたため、6時19分着、6時46分発で27分の停車となった。
頭端式ホームを持つ甲陽園駅でも暫し列車の発着を撮影する。
僅かな距離の路線ではあるが、沿線人口も多く、通勤通学をはじめとする旅客需要が大きいため、列車の運行も頻繁だ。
甲陽園駅では実際には7分間しか停車しなかったが、この間に、列車の到着があった。
6時58分発。
さて、ここから一気に六甲山山頂まで登り詰める。
この「六甲山」に関しては、固有名詞としての「六甲山」が存在するのかしないのか、諸説あるようだが、実際に「六甲山系」で最も標高の高い通称「六甲山最高峰」に据えられた一等三角点(931.25m)の名称は「六甲山」なのであるから、「六甲山最高峰」が「六甲山」であり、固有名詞としての「六甲山」が存在すると見るのが妥当とも思える。
むしろ、世界に名だたる「富士山」の山頂付近には「八神峰」と呼ばれる岩峰が聳えており、その中のいわゆる「富士山最高峰」に当たる岩峰の名称は、「富士山」ではなく「剣が峰」であることなど、意外と知られていないのかもしれない。
単一のピークの名称をもって山の名称を決めるとすれば、「富士山」という山は存在せず、「富士山系」が存在するだけで、それこそ、「富士山最高峰(剣が峰)」が存在するだけと言えるのかもしれない。
この辺は文献調査でもう少し調べてみることにして、ここでは深入りしない。
いずれにせよ、甲陽園口駅付近の標高は概ね40m。行く方、六甲山は三角点の標高が931.3m。
この間、計画距離が11.7㎞であったので平均勾配は約7.6%となるが、勿論、その間に緩急があるので、最急勾配は10%以上となるだろう。
私自身の経験則では、ツーリング装備の自転車で旅をする場合に足を地面に着けずに登り続けられる限界勾配は10%強というところなので、この区間は結構厳しいことが予想された。
果たしてこの登りでは足を攣りそうになりながら喘ぐことになる。
途中、身軽なロードレーサーに追い抜かれるが、それは当然と言えば当然。
当時は一日通しで同じ平均速度でルート計画を立てていたので、この登りは50分程度で克服する計画だったが、勿論、オバーフローして結局2時間弱かかった。実績ベースの平均速度は5.8㎞であった。
六甲山頂着8時55分。20.7㎞。
山上からの風景を堪能した後は、尾根筋の快走路を西進し少しずつ山を降る。
小部峠に出たら山上道路の旅路は終わり。市街地を南下して鈴蘭台駅に至り、ここからは神戸電鉄粟生線沿線の旅に入る。
鈴蘭台駅には9時59分着。40.6㎞。
鈴蘭台駅は神戸電鉄の有馬線と粟生線が分岐する交通の要衝であり、神戸市北区に属する山上都市でもある。鈴蘭台の名の通り丘陵地帯となっており、市街地全体にアップダウンが広がっている。目的の粟生線は鈴蘭台駅から粟生駅までの間、29.2㎞の路線で、駅数は20である。
10時7分、賑やかな鈴蘭台駅を辞して、駅構内北部の分岐地点を渡った後、小刻みな登り降りを経て、鈴蘭台西口駅、西鈴蘭台駅と進む。
鈴蘭台駅は鈴蘭台北町、鈴蘭台西口駅は鈴蘭台南町、西鈴蘭台駅は北五葉に存在する。更に有馬線には北鈴蘭台駅があるが所在地は甲栄台。国土地理院の地形図を見ると、西鈴蘭台駅の辺りには鈴蘭台南町の地名表示がある。なかなか、ややこしい。
しかし、この山上都市も西鈴蘭台駅の西側で果てており、そこからは六甲山系を脱し西神丘陵に入っていく。
西鈴蘭台駅は10時27分着、10時29分発。43㎞であった。
藍那駅まで来るとすっかり山間路線の趣。
神戸電鉄は有馬線にしろ粟生線にしろ、意外と山深いところを走るので驚かされる。
藍那駅には10時33分着、10時43分発。44.9㎞。
この辺りまでは自宅からの日帰りサイクリングでも訪れたことがある範囲。後輪6段変速のシティサイクルで自宅から須磨海岸を経由して裏六甲に入り、宝塚に抜けて走ったのも懐かしい。
その時に藍那駅も通りかかったのだが、「キャバクラの姉ちゃんみたいな名前だ」とSNSに書き記した記憶がある。
前回の訪問は夕刻だったが、「ちゃり鉄7号」での訪問は午前中。
駅の印象も随分異なり、午前中の駅の姿には「キャバクラの姉ちゃん」を想起させるものはなかった。
この先、木津駅、木幡駅、栄駅を経て、西区の中核駅である押部谷駅に達するのだが、この間、藍那駅と木津駅の間には川池信号場が、木津駅と木幡駅の間には見津信号場があるので、それらにも立ち寄っていく。
押部谷駅は12時25分着、12時30分発。58.7㎞。
押部谷駅を出ると小さなアップダウンを経て緑が丘駅に達する。この緑が丘駅の50mほど南に市界があり神戸市西区から三木市に入る。
この辺りは神鉄粟生線の東~北側に緑が丘、自由が丘といった新興住宅地が広がり、西~南側にゴルフ場が広がっている。
ゴルフ場は廣野GCで、緑が丘駅の次が広野ゴルフ場前駅だ。だが、ゴルフ場の利用者がこの駅を使うようにも思えない。
この新興住宅地域の西端に志染駅があり、島式単式2面3線の中核駅となっている。
緑が丘駅は12時39分着、12時43分発。60.3㎞。
志染駅は12時56分着、13時発。63.1㎞であった。
志染駅のある高台から丘を降っていくと、恵比須駅を経て三木市街地に入る。
三木上の丸駅は美嚢川の左岸に位置し三木城跡に隣接。美嚢川を渡った右岸側には三木駅があり、市街地は美嚢川の両岸に展開している。
なお、翌日に走行予定の三木鉄道三木線にも三木駅があったが、こちらは左岸側に設けられており、神鉄粟生線の三木駅とは直接連絡していなかった。
歴史的には三木鉄道の三木駅が播州鉄道時代の1917年1月23日開業、神鉄の三木駅が三木電気鉄道時代の1938年1月28日開業で、神鉄の三木駅は20年も後輩に当たる。
そして、三木鉄道の線形が美嚢川の水運との関係から下流の加古川方面を指向していたのに対し、三木電気鉄道の線形は神戸方面を指向していた。
市街地の中心地が右岸側にあったことや、三木鉄道の三木駅が市街地の外れに位置していたこともあって、両駅の間の接続は考慮されなかったのであろうが、もし、この両駅が接続していたなら、三木鉄道の運命も変わっていたかもしれない。
この辺りの歴史的事情は文献調査の課題で掘り下げる興味が湧く。
なお、この神鉄粟生線の三木駅は、2018年3月4日に発生した近隣火災によって全焼消失しており、現在は新駅舎に建て替えられている。「ちゃり鉄7号」は、旧駅舎の往時の姿を記録に収めた貴重な旅となった。
三木駅着13時32分、発13時45分。68.1㎞であった。
三木駅を出発すると三木市街地の北西に位置する大村駅を経て小野市に入り、樫山駅、市場駅と辿る。
大村駅と樫山駅の間に峠があり、国土地理院の地図には大村坂越と記されている。
市場駅には14時12分着。72.7㎞。
ここで神鉄粟生線沿線から離れて加古川右岸に渡り、JR加古川線の市場駅を越えた先にある白雲谷温泉ゆぴかに立ち寄ることにした。
「ちゃり鉄」の旅の楽しみの一つが沿線の温泉探訪である。
特に、行程の終盤から終点付近に温泉があると、一日の疲れを癒した上で、心地よい眠りに就くことが出来る。
白雲谷温泉からこの日の目標である播磨横田駅までは20㎞程度あるが、2時間弱の行程であるから、悪くはない。ただ、この日は、六甲山頂までの行程で予定をオーバーしていたこともあり、もう少し手前で打ち切ってもいいように感じ始めていた。
市場駅、14時14分発。白雲谷温泉には14時24分着。75.2㎞。
ここで1時間以上、長逗留し出発は15時36分であった。
一旦、市場駅に戻り「ちゃり鉄7号」の旅を再開する。
小野市の中心駅である小野駅を経て、葉多駅を通過し、いよいよ、本日最後の取材路線である北条鉄道北条線との分岐駅となる粟生駅に到着。16時26分。86.1㎞。
粟生駅はJR加古川線、北条鉄道北条線、神戸電鉄粟生線の3路線が交わる交通の要衝である。
しかし、小野市街地の中心地は小野駅付近にあり、加古川右岸の粟生駅付近は、地形的に鉄道が分岐してはいるものの集落人口は小さい。
既に晩秋の夕日はかなり高度を下げており、辺りは金色に煌めいている。
列車の往来もないタイミングで粟生駅を訪れたため、侘しさもひとしお。
そんな中で北条鉄道沿線の「ちゃり鉄」に進むことにする。行く方北条町駅までは13.6㎞。駅数は8である。
16時28分発。
北条鉄道の沿線は途中までは万願寺川に沿って進むことになる。
既に述べたように、ここに鉄道を敷設した播州鉄道は、水運に代わることを意図していたのであった。
里山と田園の風景が西日の中に浮んでいて郷愁を掻き立てる中、16時40分には網引駅に到着。89.5㎞。
ここで日没の時刻と列車の到着時刻を迎えたので、撮影の為にしばし停車することにした。
駅には地元の方らしい若い女性が列車待ちをしており、その姿が絵になるので、個人が分からないくらいの距離から、到着する列車を背景に撮影しようとしていたのだが、車で乗り着けたらしい中年カップルも居て駅の周辺の撮影に余念がない。
このカップルは私がカメラを構えているのを確認した上で、その前に割り込んで撮影を始めたので、狙った構図に彼らの姿が入り込む。絵になる若い女性とは違ってどうやっても絵にならなかったので、記録写真と割り切って撮影することにした。
鉄道ファンというよりもドライブの途中で駅に立ち寄り、たまたま鉄道写真を撮り始めたらしい。網引駅前に生えている銀杏は、晩秋のちょっとした撮影名所でもある。
件のカップルは列車が20mくらい手前まで接近しているというのに白線の外側で線路側に身を乗り出して撮影を続けているものだから、とうとう、けたたましい警笛で注意され、列車を緊急停止させる始末。
晩秋の旅情駅には不釣り合いな情景ではあったが、網引駅の姿そのものは好ましく、住宅地に隣接しているとは言え、駅前野宿で訪れたくなる雰囲気だった。
16時58分発。
日没や列車到着の撮影で18分停車したため、田原駅を出て法華口駅に到着する頃には、すっかり残照の時刻を迎えていた。
法華口駅はパン工房が駅舎を利用しているが、この日は、駅前に客待ちタクシーが居るだけで、パン工房は営業していなかった。駅前は住宅地に面しており、気楽に駅前野宿が出来る雰囲気でもなかったが、撮影の為に駅周辺を歩いていると、旧線ホーム側には散策路が整備され、あまり人目にも付かないスペースがあることに気が付いた。
既に薄暗くなりかけていたし、残照の法華口駅の姿は旅情駅と呼ぶにふさわしい。直ぐ近くにコンビニもあって便利も良さそうだし、雨天の心配もなかったので、予定を切り上げ、ここでこの日の行動を終了することにした。
17時11分着。92.3㎞であった。
この法華口駅での一夜については旅情駅探訪記として別にまとめたので、そちらもご覧いただきたい。
夜遅くまで駅には乗降客の姿があり、中には、ここから北条町方面の列車に乗り込む人の姿もあった。
こうして、地域住民の足として活躍している姿を見るのは嬉しいものだ。
なお、法華口駅は長らく旧ホームの営業を廃止して、1面1線の棒線駅として営業していたが、2020年6月28日から、北条町駅側に新設したホームを利用して2面2線構造が復活するとともに、同年9月1日のダイヤ改正により、当駅での列車交換も実現した。
一旦廃止・撤去された交換設備が復活するケースは珍しい上に、北条鉄道はJRから譲渡されたキハ40系気動車も営業運転についている。
この路線の奮闘を「ちゃり鉄」としても応援したいものだ。
ちゃり鉄7号:2日目(法華口=北条町-厄神=三木-野村=鍛冶屋-篠山口=福住-自宅)
翌朝は、夜明け前から行動を開始する。
この日は、北条鉄道北条線を終点の北条町まで走った上で、三木鉄道三木線、JR鍛冶屋線、国鉄篠山線の跡を巡り、自宅まで帰る。この日の計画は何故か距離計算を間違えて80㎞強の設計距離としていたのだが、実際には160㎞オーバーの走行距離となっており、夜明け前から夜までガッツリ走ることになった。2倍も距離計算を間違えているのだから粗末なものである。
この行程であれば、鍛冶屋駅~篠山口駅間の川代渓谷付近で野宿するか、篠山まで進んだ上で、篠山市街地のどこかで適当に野宿するくらいが丁度よいだろう。
ルート図と断面図は以下のとおりである。130㎞以上走ってきて、摂丹国境の峠越えとなる行程なので、距離もさることながらアップダウンの負荷も強いものとなった。
法華口駅での行動開始は夜明け前。出発時刻を6時頃に設定していたので、5時前には行動開始する。
北条鉄道の列車動線は北条町駅から始発が動き始め、最終が北条町駅に戻るダイヤで組まれており、この日の始発列車も当然、北条町駅からやってくる。
北播丹波は秋から春にかけての盆地霧が多い地域だけあって、この朝も霧に覆われていた。
濃紺の大気の底で駅は眠りの中にあったが、6時前になると、始発列車のヘッドライトが辺りの霧にも反射して、ベールのような光輪となって法華口駅に近付いてきた。
駅には乗客の姿は無かったが、車内には朝の早い利用者の姿が数名見られた。
この列車は粟生駅で折り返してきて6時半頃には再び法華口駅を通る。
当初の予定では始発列車を見送ったら出発するつもりだったのだが、辺りはまだ薄暗いし、折返し列車が来る頃には、もう少し明るくなっているだろうということもあり、折返し列車を待ってから出発することにした。
その折返し列車は30分程でやってきた。
こちらも早朝なので乗客の姿は疎らだろうと思いきや、全面貫通窓の所に数名の人影が見える。
駅で下車する利用者ではなく鉄道ファンであることは、窓越しにカメラを構えている姿で一目瞭然。
この駅で途中下車する様子はなかったが、沿線を往復しつつ旅を楽しむのだろうか。
当時、法華口駅にはパン工房に勤める女性が観光駅長として就任していたこともあり、それ目当ての男性客が大勢訪れ、列車の発着時にホームに立つ女性観光駅長に向かって、カメラの砲列を作っているのを見たことがある。
鉄道マニアが集合することの是非は兎も角として、駅は元々人が集う場所だった。
今日ではそうした機能を発揮する駅も少なくなったが、鉄道のみではなく沿線地域も含めた活性化という観点で、駅に何らかのテナントが入り営業しているというのは、好ましいように思う。
法華口駅発6時35分。
法華口駅からは、播磨下里駅、長駅、播磨横田駅を経て北条町駅に到着する。
播磨下里駅には6時46分着。3.0㎞。
駅の時刻表を眺めると、粟生駅行きの列車の到着まで20分弱。この列車は法華口駅から北条町駅に向かう朝の始発列車が折り返してきたものではなく、北条町発粟生行きの二番列車である。
一駅進んで長駅でその列車を迎えても良かったのだが、場合によっては到着時刻が遅れて、列車の発着を見逃す可能性もあった。
そこで、停車時間が長くなるが、ここで普通列車の発着を見送ってから出発することにした。
そんな間にも播磨路に朝日が昇り始め、趣のある播磨下里駅の佇まいと相まって、印象的な風景が広がった。そしてタイミングよく粟生駅行きの普通列車が到着し、排気を噴き出しながら出発していく。
この旅情あふれる風景に、一人、満足する。
播磨下里駅、7時4分発。
続く長駅は7時9分着、16分発。4.8㎞。
ギャラリーが併設された播磨横田駅には7時22分着。6.6㎞。
ここでも、北条町駅行きの普通列車の発着を撮影することにしたので出発は7時42分。
計画間違いからこの日の行程は非常に長いものとなってしまったが、焦っても仕方ない。寧ろ、腹を括ってのんびりと行くことにしたのである。
北条町駅には9.3㎞を走って7時56分着であった。
北条町は加西市の中心都市で、北条町駅はその玄関口である。西側へ峠一つ越えていくとJR播但線の福崎駅に達するのだが、播州鉄道時代にはそのような鉄道敷設計画はなく、改正鉄道敷設法でもその方面への接続は盛り込まれなかった。
その代わり、姫路から北条町を経由してJR加古川線と福知山線が合流する谷川までの敷設計画が盛り込まれていたが、こちらも実現することはなかった。
時の流れで加西市には中国自動車道が整備され、加西ICや加西SAも設けられている。
阪神圏に向かう人や物の流れは、完全にそちらに移行しているが、北条鉄道は域内のローカル輸送の足として奮闘している。
さて、この日の行程ではJR鍛冶屋線や国鉄篠山線を巡る計画を含んでいるので、ここから西脇市方面に向かって走るのが順当なところであるが、我が「ちゃり鉄7号」は、ここから一旦南下してJR加古川線と三木鉄道三木線が分岐していた厄神駅に至る。
そこから三木鉄道の廃線跡を巡って三木鉄道の三木駅に達し、昨日通った神戸電鉄粟生線を横切った上で西脇市方面に北上することになる。
この辺、もう少し綺麗な計画の立てようもあっただろうが、実質1泊2日で周る行程の制約と、野宿地は北条鉄道沿線に計画したいという希望もあって、迂回の多いルート計画となってしまった。
北条町駅発8時。厄神駅着9時7分。32.6㎞でこの間、23.3㎞であった。
因みに、ルート計画では何故かこの間を0.8㎞で設計してしまっていた。致命的なミスではあるが、ルート設計は累積距離から区間距離を算出しているので、単一の累積距離のみを見てしまうと、その値の異常に気が付かないのである。
厄神駅からは三木鉄道三木線の廃線跡に入る。三木駅までは6.6㎞。駅数は9である。
厄神駅発9時17分。
この鉄道の廃止は2008年4月1日であるから、「ちゃり鉄7号」の訪問当時で廃止から8年余りを隔てており、沿線の鉄道遺構は撤去や整理が進んでいた。
国包駅、宗佐駅、下石野駅と進んでいくが、元々簡易な構造で作られた駅が多かった区間だけに、駅の構造物はほぼ撤去されて残っておらず、僅かに地形や周辺構造物から、それとなく駅の存在が感じ取れる程度であった。
下石野駅付近からは廃線跡が「別所ゆめ街道」と名付けられた自転車道に転用されており、かつての前面展望を想像しながら走ることが出来る。軽快に走り進んで石野駅跡には9時45分着。36.2㎞。
ここには、小さな記念公園が整備されていた。
往時の石野駅は木造駅舎を伴っており、現在の小公園に整備された建物は、一見するとそれを模したようにも見えるが、実際の作りは二つ隣の別所駅と同じで、元の建物のレプリカというわけではない。
それでも、レールの一部が残された周辺には色濃く鉄道の残り香が立ち込めており、廃線跡の探訪を楽しいものにしてくれる。
9時51分発。
踏切施設の跡から駅の位置を推定できるだけの西這田駅を経て、別所駅には10時8分着。39.6㎞。
既に触れたように、この別所駅も風格ある木造駅舎を伴っていたが、廃止後は鉄道施設を活用した小公園として再整備されていた。
10時15分発。
別所駅付近でサイクリングロードは途切れるが、続く高木駅は再整備から取り残される形で、現役時代の姿のままで放置されていた。
10時17分着。40.3㎞。
ホームの上にはベンチも残っており、高齢男性二人が腰かけていた。
写真を撮影する私に「邪魔なら場所を空けましょうか?」などと話しかけてこられたので、暫し談笑する。地元の人たちも、晩年は三木鉄道を利用することは殆どなかったようだ。
なお、この区間は、その後、「別所ゆめ街道」としての再整備の手が及んでおり、2023年現在では、既に駅の設備も撤去されてしまい、駅跡を示す標識のみとなっている。
10時22分発。
終点の三木駅には10時26分着。41.3㎞であった。
三木駅は随分と風格のある建物であったが、廃線となった後は記念館として再整備されるとともに、バスの停留所として、今も活躍していた。構内は公園となっており地元の方々が集まっている。
神戸電鉄粟生線の三木駅との間は直線距離で700m程度空いており、三木鉄道沿線から神戸電鉄に乗り換えて神戸市街地に出るには乗換えの便が悪すぎるし、厄神駅周りで各地に向かうのも大回りだ。
神姫バスに乗れば、三木市街地と三宮との間を乗り換えなしの1時間程度で行き来できるのだから、鉄道が存続する余地はなかったと言えるのだろう。寧ろ、第三セクターとしてよく持ちこたえたと言うべきなのかもしれない。
それでも一部再整備されて、鉄道の記憶を留める小公園となっていたのは、どこかホッとする思いもあった。そこには、鉄道に対する地元の人々の思いが感じられるからだ。
「ちゃり鉄7号」は結ばれることのなかった三木鉄道と神戸電鉄の二つの三木駅の間を繋ぐようにして進むことになる。
三木駅発10時30分。
ここからは一気に北上して鍛冶屋線が分岐していた野村駅、現在の西脇市駅を目指す。
行程的には神戸電鉄粟生線の小野駅までの区間が、昨日の行程と重なる。
ここも計画段階で距離を誤って算出しており、何故か、区間距離5.4㎞としていたのだが、実際は、22.9㎞走っている。
西脇市駅着、11時42分。64.2㎞であった。
ここから分岐していたJR鍛冶屋線は、加古川線から分岐していた旧播州鉄道系列の路線としては、最も輸送密度が高い路線であった。実際、野村(現・西脇市)~西脇間の利用者数は比較的多く、加古川線との直通列車もあって、実際には、西脇~加古川間を加古川線と呼んでもよいくらいの輸送実態であった。
しかし、線路名称単位での廃止基準が適用されることによって廃線候補となり、JR化されて間もない1990年4月1日に廃止となっている。第三セクター化されずに廃止されたのは、地元自治体や住民の意向もあったのだろうが、鍛冶屋線内での旅客需要が、西脇~野村の一区間に集中しており、バス転換の方が合理的だったのかもしれない。
この辺りの事情は文献調査課題としたい。
野村(現・西脇市)駅発、11時49分。
西脇市駅を出た後、駅の北側に進むとJR鍛冶屋線の跡は直線的に遊歩道として伸びていき、JR加古川線が新西脇駅方面に向かって右折していく地点に出る。この線形を見ても、この付近のメインの動線は鍛冶屋線側にあったように思える。
実際、播州鉄道時代の開業史で言うと、加古川駅から西脇駅までの開業が1913年のことであり、更に鍛冶屋駅までの延伸が1923年。野村駅(現・西脇市駅)から谷川駅までの区間の開業は1924年のことであるから、西脇線と谷川線というのが実態であった。
廃線跡は遊歩道から車道へと転じて、以降、そのまま車道転用されて続いている。
西脇駅には12時5分着。66.5㎞。
駅跡は大規模な再開発が行われており、往時の面影は全く残っていない。
ここで昼時となり、この後、目ぼしい集落もないため、付近にあった定食屋で昼食にする。
店主は店の前に留めていたツーリング装備の自転車を見て話しかけてきた。ご本人もロードレーサーに乗るのだという。近年はこういう会話が増えたが、ロードレーサー人口は増加しているものの、ツーリング人口は寧ろ減っているように感じる。
鍛冶屋線の話なども伺いながら、暫し談笑。
こうしたひと時は「ちゃり鉄」の旅ならではの楽しみだ。
店を辞し、西脇駅12時33分発。
この後、市原駅、羽安駅、曽我井駅、中村町駅を経て、終点の鍛冶屋駅には13時33分着。77.7㎞。
沿線はほぼ全線が車道転用されていて、鉄道時代の線路の痕跡は消えているが、全ての駅の跡に記念施設が設けられている。特に、市原駅と鍛冶屋駅には旧駅舎や駅ホームと共にキハ30系が静態保存されている。
廃線の状況は千差万別ではあるが、こうして施設や車両が良好な状態で残されているのは、嬉しいものである。
なお、四国には鍛冶屋原線というローカル路線があり、徳島線の板野駅から鍛冶屋原駅との間を結んでいた。路線距離は6.9㎞で、鍛冶屋線を一回り小さくしたような路線であったが、国有鉄道時代の1972年1月16日に廃止されている。
鍛冶屋線と鍛冶屋原線との間を繋いで「ちゃり鉄」を走らせてみたいものだ。
さて、鍛冶屋駅に達して77.7㎞。時刻も13時半を回っていたので、通常なら、旅も終盤に差し掛かる所なのだが、この日は、この先90㎞余りを走ることになり、まだ、半分も走っていない。
鉄道路線跡の取材としては国鉄篠山線跡を残すだけなので、残り区間の平均速度は設計速度の15㎞を上回って走れそうだが、それにしても、残り6時間弱は要することになる。
帰宅は20時頃になるのかと気を引き締めて鍛冶屋駅を出発する。13時39分発。
ここから、JR福知山線の篠山口駅までんお区間距離は実走32.1㎞。到着は15時50分。109.8㎞であった。これを何故か、区間距離2.7㎞としてしまっていた。この日の一連の計算ミスは、振り返ってみても原因が分からない。
途中、JR福知山線の下滝~丹波大山間では、川代渓谷沿いを走りながら特急「こうのとり」を撮影して進む。
さて、最終路線の国鉄篠山線であるが、廃止は1972年3月1日。
先に述べた四国の鍛冶屋原線と同様、国鉄諮問委員会が1968年9月に提出した意見書記載の所謂「赤字83線」に含まれており、実際に廃止された路線の一つであった。
営業キロは17.6㎞で駅数は6駅。
私鉄開業の三木鉄道や鍛冶屋線とは異なり、国鉄路線だったこともあって、駅間距離は比較的長い。
なお、この国鉄篠山線の開業は1944年3月21日のことであったが、それ以前には、1915年開業の軽便鉄道・篠山鉄道が篠山(現・篠山口)~篠山町間を結んでいた。篠山鉄道の廃止は1944年3月21日で国鉄篠山線の開業に伴う廃止であったが、篠山鉄道が篠山市街地に達していたのに対し、国鉄篠山線は市街地の外れをショートカットして敷設されたため、利用者が伸び悩み廃止の一因ともなった。
これは、国鉄篠山線が篠山市街地と福知山線とを結ぶ目的以外に、山陰本線の園部駅との間を連絡する意図を持っていた事にも起因する。
しかし、軍事的な意味合いを含んでいた園部連絡の構想は終戦と共に目的を失い、結局、中途半端な路線だけが残ってしまったのである。
戦時中は各地で不要不急路線の廃止や休止、内陸迂回路戦の建設、鉄材供出による線路の撤去などが行われたが、こうして振り返ってみれば、その当時の国内情勢が如何に異常だったかが分かる。
篠山口発、15時51分。
途中、篠山、八上、丹波日置、村雲の各駅跡を経て、福住駅跡に達する。16時56分。127.6㎞であった。
廃止から半世紀を経ていることもあり、沿線に残る鉄道遺構は少ない。特に丹波日置駅までの間は路盤が車道や農道に転用されているため、その線形に鉄道の跡を偲ぶくらいで、明確な構造物はほとんど残っていない。
しかし、篠山市街地の開発から逃れた丹波日置~福住間では、築堤の跡が残っている箇所があるし、村雲駅と福住駅の跡地付近には、記念碑も設置されている。
鉄道が現役だった当時を知る人も少なくなっており、薄れる記憶と共に記録も散逸し始めてはいるが、「ちゃり鉄」の取り組みとしては、こうした記憶をしっかりと記録に留めていきたいものだ。
福住駅発16時59分。ここから自宅までは、更に40㎞程度の距離があり、その間に摂丹国境の峠越えが控えている。
福住駅付近で日没時刻も過ぎており、天王峠への登りに差し掛かった頃には、残照の時刻となっていた。
遥か高いところに架かる国道橋は福住大橋。
照明の灯るその高みを目指して登る行程は、最後のひと踏ん張りという所ではあるが、国道の峠ということもあって最急勾配は比較的緩く、天王峠までの5.9㎞を平均速度10.1㎞で登り切った。
摂丹国境は、天王峠と「はらがたわ」の二つの峠を越えていく。「たわ」は「乢」とも書き、中国地方によく見られる峠の別称である。
その先は、自宅のあった川西市街地に向かって降り続けるので、距離の割には行程が捗る。
天王峠を出る頃にはとっぷり暮れていたが、CatEyeのVolt800を2灯装備しているので前照灯の明るさに不足はない。
帰宅が遅くなることもあり、川西市内に入ってからルート上で見つけた「王将」に入って夕食を済ませ、21時前になろうかという頃合いに帰宅した。
この日の距離は川西能勢口駅付近で161.7㎞。19時42分であった。