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名鉄瀬戸線・広見線・各務原線、明知鉄道明知線|ちゃり鉄8号

明知鉄道明知線・野志駅(岐阜県:2016年12月)
各駅停車「ちゃり鉄号」の旅
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ちゃり鉄8号:旅の概要

  • 走行年月
    • 2016年12月(前夜泊1泊2日)
  • 走行路線
    • 私鉄路線等:名鉄瀬戸線・広見線・各務原線、明知鉄道明知線
    • 廃線等:名鉄瀬戸線(東大手=堀川)
  • 主要経由地
    • 名城公園、鬼岩公園
  • 立ち寄り温泉
    • 柿野温泉
  • 主要乗車路線
    • 近鉄難波線・大阪線・名古屋線、JR東海道本線
  • 走行区間/距離/累積標高差
    • 総走行距離:183.5km/総累積標高差+2206m/-2198m
      • 0日目:自宅≧近鉄名古屋-名城公園
        (3.8km/+17m/-15m)
      • 1日目:名城公園-東大手=堀川-栄町=尾張瀬戸-明智=飯沼
        (87.5km/+1413m/-944m)
      • 2日目:飯沼=恵那-鬼岩公園-御嵩=犬山=名鉄岐阜-岐阜≧自宅
        (92.2km/+776m/-1239m)
  • 見出凡例
    • -(通常走行区間:鉄道路線外の自転車走行区間)
    • =(ちゃり鉄区間:鉄道路線沿の自転車走行・歩行区間)
    • …(歩行区間:鉄道路線外の歩行区間)
    • ≧(鉄道乗車区間:一般旅客鉄道の乗車区間)
    • ~(乗船区間:一般旅客航路での乗船区間)

ちゃり鉄8号:走行ルート

ルート図:ちゃり鉄8号全図
ルート図:ちゃり鉄8号全図
断面図:ちゃり鉄8号全図
断面図:ちゃり鉄8号全図

ちゃり鉄8号:更新記録

公開・更新日 公開・更新内容
2024年5月29日 コンテンツ公開

ちゃり鉄8号:ダイジェスト

2016年12月に実施した「ちゃり鉄8号」では、前夜泊1泊2日の短い行程で、濃尾東濃地域にある名鉄の支線と明知鉄道を巡ることにした。駅前野宿は明知鉄道の飯沼駅である。

名鉄の路線は広域に広がるものの、この当時は全路線が未乗車。明知鉄道も同様に未乗車であった。

鉄道趣味としてはまずは乗車という気持ちもあるのだが、「ちゃり鉄」の旅を始めてからは「乗り鉄」と「ちゃり鉄」の両方を楽しむことができるようになったので、「完乗」に拘る気持ちは少なくなった。もっとも、「ちゃり鉄」も「乗り鉄」も果たせないまま、路線や駅が廃止となることも多いので、「もっと旅の頻度や執筆の時間を確保できれば」、という思いもあるが、会社勤めをしながらの「ちゃり鉄」である以上、これは致し方ない。

2016年当時は仕事が終わってからの前夜泊1泊2日や前夜泊2泊3日という短い期間での「ちゃり鉄」が多く、走行できる路線も限られ「途中下車」もままならなかったのだが、関西から週末の休みでサクッと走ってくることができる地域としては中京飛騨北陸辺りが東の境界であった。

今回はその中で中京地域を選んだのだが、東濃地域の路線としては明知鉄道明知線、名鉄広見線、濃尾地域の路線としては名鉄瀬戸線・各務原線を対象とすることした。

これら以外にもこの地域には複数の小路線・小私鉄が存在した時期があり、その廃線跡が点在している。また、恵那山など魅力ある山もあるので、いずれ再訪してじっくりとこの地域を旅することにしたい。

ちゃり鉄8号:0日目:自宅≧近鉄名古屋-名城公園

前夜泊となる0日目は移動メイン。

仕事が終わってから近鉄の大阪難波駅に向かい、そこから近鉄特急「アーバンライナー」で名古屋入り。名古屋駅で自転車を組み立てて旅をスタートするのだが、深夜に到着することになるので、勿論、本格的に走行を開始することはできない。

そのため、名古屋駅からほど近い名城公園に移動し、適当な東屋の下などで寝袋マットでの野宿とする予定だ。

ルート図と断面図は以下のとおり。近鉄名古屋駅から名城公園までの移動だけなので、ルート図、断面図というほどのものではないが、参考のために掲載しておこう。

ルート図:ちゃり鉄8号0日目
ルート図:ちゃり鉄8号0日目
断面図:ちゃり鉄8号0日目
断面図:ちゃり鉄8号0日目

近鉄の特急は全列車座席指定なので入線後の行動には余裕が持てる。

特急に限らず、自由席の列車では場合によっては座席の取り合いが発生するし、私は自転車を抱えて乗り込むので混雑した車両では他の乗客の迷惑になりかねない。これまでトラブルになったことは一度もないが、他の乗客から苦情を言われたとか邪魔されたとか、そういう情報はたまに見かけるので気を遣う。

その点、全座席指定の列車の場合、座席キャパシティを越えた数の乗客が乗り込むことはないので安心できる。尤も、自転車の設置可能場所と座席が遠く離れることがあり、それには気を遣うことになる。理想は車両後端の座席を確保して、そのシートと壁の間の隙間に自転車を置くスタイルなのだが、指定席はこの位置から埋まっていくことが多いので、直前に指定席を購入しようとしても確保できないことが多い。

近鉄特急はインターネットの予約で座席位置を指定して購入できるのだが、この当時、私が持っているデビットカードは使用できなかった。クレジットカードは持たないようにしているので、座席は大阪難波駅の窓口で確保。理想通りの座席は取れず自転車はデッキに固定する形となった。

大阪から名古屋への鉄道移動となれば新幹線を利用するのが一般的ではあるが、近鉄特急は新幹線の登場によっても敗退することはなく、むしろ、独自の地位を保って繁栄している。この日も20時半頃の乗車だったものの大阪難波駅の出発段階で座席はほぼ満席だった。

大阪難波駅は島式単式2面3線の狭い構造にも関わらず列車の発着は頻繁なので、特急列車も長居はしない。写真を撮影する余裕はあるものの、先頭車と後端車を行き来するほどの余裕はなく、後端から写真を撮影したら乗り込んで出発。

終業後に大阪難波駅から近鉄特急「アーバンライナー」に乗車して名古屋入り
終業後に大阪難波駅から近鉄特急「アーバンライナー」に乗車して名古屋入り

かつてのアーバンライナーは難波、上本町、鶴橋に停車した後、名古屋までノンストップで運転されていたものもあったが、現在は全列車が津駅に停車するようになり、速達特急としての使命は薄れている。また、一部列車は奈良県内の大和八木駅、名張駅、桔梗が丘駅、伊賀神戸駅、三重県内の白子駅、近鉄四日市駅、桑名駅にも停車しており、奈良県内や三重県内の利用者への便宜を図る運用となっている。

私が乗車したのもこうした停車駅が多いタイプの列車だったので、大阪難波、大阪上本町、鶴橋で乗客を満載した後、奈良県内、三重県内の中級駅で仕事帰りらしき乗客を降ろしていき、名古屋に到着する頃には空席が目立つようになっていた。

近鉄名古屋駅には23時前に到着。駅前の空きスペースでサッと自転車を組み立てるのだが、大都会だけあって人通りも多く、時間が時間なだけに好奇の視線を向けてくる人も居る。

小一時間で組み立てと積荷の積載を終え、名城公園までひとっ走り。目星をつけていた東屋を見つける頃には日も変わっていたので、すぐに野宿を開始し眠りに就いた。

日も変わる頃になって名古屋市街地で野宿場所を探す
日も変わる頃になって名古屋市街地で野宿場所を探す

ちゃり鉄8号:1日目:名城公園-東大手=堀川-栄町=尾張瀬戸-明智=飯沼

1日目は名城公園を出発した後、名鉄瀬戸線の旧線跡を辿ってから現在線全線を走り切る。その後、愛岐県境を越えて岐阜県に入り明知鉄道沿線を明智駅から飯沼駅まで辿る予定だ。途中、柿野温泉や花白温泉にも立ち寄る予定としている。

ルート図と断面図は以下のとおり。

ルート図:ちゃり鉄8号1日目
ルート図:ちゃり鉄8号1日目
断面図:ちゃり鉄8号1日目
断面図:ちゃり鉄8号1日目

今日、これから辿ることになる名鉄瀬戸線は他の名鉄路線とは直接接続しない孤立した路線だ。

複数の路線を経営する鉄道の中には、こういう孤立路線が存在することがあるが、それは取りも直さず、該当の鉄道会社の路線網が形成される過程において鉄道会社間の吸収合併が繰り返されてきた歴史を物語っている。瀬戸線もまた、名鉄直系の路線ではなく独立した私鉄であった瀬戸電気鉄道を起源に持つ路線である。

ここでは詳細に踏み込まないが、瀬戸電が名鉄と合併した背景には戦時中に行われた国の陸上交通事業調整法の制定の影響もある。

一方、盲腸線となった明知鉄道の線形は何となく恵那駅から愛知県方面を指向しているように見えるが、その起源を辿ると大正時代の改正鉄道敷設法別表第63号線「静岡県掛川ヨリ二俣、愛知県大野、静岡県浦川、愛知県武節ヲ経テ岐阜県大井ニ至ル鉄道 及大野付近ヨリ分岐シテ愛知県長篠ニ至ル鉄道 並ニ浦川付近ヨリ分岐シテ静岡県佐久間ニ至ル鉄道」(通称遠美線)があり、現在の恵那市付近にある岐阜県大井地区と静岡県掛川地区とを結ぶ計画の元に敷設された鉄道なのであった。

もし、改正鉄道敷設法の計画通りに掛川に至る路線が開通していたとしても、この区間もまた人口の少ない山岳地域を縦貫していく線形。沿線人口の少なさや線形の不合理さから、とても今日まで存続することはできなかったように思われる。

実際、現在のJR飯田線本長篠駅から三河田口の間を結んでいた豊橋鉄道田口線は遠美線の一部に並行する線形を持った小路線であったが、1968年という比較的早い時期に廃止になっている。

名鉄瀬戸線の終点である尾張瀬戸駅から明知鉄道の終点である明智駅までの区間は鉄道空白地帯ではあるが、現在のJR中央本線と競合することになるので、昭和前期までにこの区間を結ぶ具体的な鉄道計画が立案され実現することはなかったし、今後もないであろう。

ただ、明智付近と尾張地方とを結ぶ路線の敷設計画がなかったのかというそうではなく、同じ改正鉄道敷設法別表第69号線では「愛知県千種ヨリ挙母ヲ経テ武節ニ至ル鉄道」を定め、第63号線の通過予定地であった愛知県武節から分岐して挙母経由で千種に至る路線を予定していた。

そして、明知までの開通後、延伸工事が頓挫する中で、地元明智町では明知線延長期成同盟会(明智町・昭和40年頃)を結成。明知線を豊田まで伸ばそうという動きや、現地視察の為に国会議員を招くというような動きもあった。

もちろん、歴史が示すように、それらの動きは実を結ぶことはなかったが、この予定路線の一部は名鉄三河線の廃線区間や豊田線、名古屋市営地下鉄鶴舞線などと重なっており、部分的にではあるが実現している。

この日はそんな二つの鉄道路線の間を結ぶ「ちゃり鉄8号」の旅である。

名城公園は6時13分に出発。かつて名古屋城の空堀の中を走っていた瀬戸線の旧線を辿るため、土居下駅跡付近から堀川駅跡付近までを進む。小一時間走って堀川駅跡には7時8分着。3.8㎞。

早朝ということもあって街中に人の姿は少なかったが、堀川駅跡に到着する頃にはすっかり朝の雰囲気に変わり、道路を多くの車が行き交う状況となっていた。

この名鉄瀬戸線の象徴的な存在だった旧線の廃止は1976年2月15日。再開発が難しい名古屋城の空堀の中の廃線跡だけあって、大津町駅跡の階段など、往時の面影は随所に残っていたが、そもそも、鉄道当局がこの場所に鉄道敷設を認める決定を下した背景については文献調査で掘り下げてみたい課題である。

名鉄瀬戸線の旧線跡と新線が分岐する清水駅付近から一旦旧線跡を堀川駅跡まで辿る
名鉄瀬戸線の旧線跡と新線が分岐する清水駅付近から一旦旧線跡を堀川駅跡まで辿る
東大手駅付近から旧線は名古屋城の空堀の中に入っていた
東大手駅付近から旧線は名古屋城の空堀の中に入っていた
大津町駅跡には駅に向かう階段の跡が残されていた
大津町駅跡には駅に向かう階段の跡が残されていた
大津町駅跡には駅に向かう階段の跡が残されていた
大津町駅跡には駅名鉄瀬戸線旧線の起点駅であった堀川駅跡

堀川駅跡からは現在線の起点駅となった栄町駅まで移動する。7時15分発。

この栄町への新線の開業によって名鉄瀬戸線は名古屋市街地中心部への乗り入れを果たし、今日では名古屋市営地下鉄の名城線や東山線との接続が行われている。

地下駅なので地上の入り口付近で名古屋テレビ塔を背景に写真を撮影しただけで出発。7時35分。6.0㎞であった。

続く地下駅の東大手駅を過ぎると名古屋城北東角に達し、瀬戸線が地上に出てくるとともに、進路を東に転じながら旧線跡と合流。高架に入ってほどなく清水駅に辿り着く。7時54分。8.8㎞。

この清水駅から大曽根駅までは高架区間。各駅を地上から撮影しつつペダルを漕ぎ進め、沿線の中核駅の一つである大曽根駅には8時17分着。11.1㎞。

大曽根駅はJR中央本線、名古屋ガイドウェイバス、市営地下鉄名城線が交錯する交通の要衝となっており、地上部分では3路線の高架が離合集散するダイナミックな光景が広がる。

車の交通量や人通りも多く、典型的な都市の鉄道路線に変貌を遂げた瀬戸線を象徴するような駅だ。

名鉄瀬戸線現在線の起点となった栄町駅から瀬戸線の旅を始める
名鉄瀬戸線現在線の起点となった栄町駅から瀬戸線の旅を始める
東大手駅を出た現在線が地下から高架に出てくる地点
東大手駅を出た現在線が地下から高架に出てくる地点
地上に出て最初の駅が高架の清水駅
地上に出て最初の駅が高架の清水駅
名鉄瀬戸線、JR中央本線、名古屋ガイドウェイバスが交錯する大曽根駅
名鉄瀬戸線、JR中央本線、名古屋ガイドウェイバスが交錯する大曽根駅

大曽根駅を8時22分に出発し、地平に降りてきた瀬戸線と並行しながら矢田駅には8時33分着。12.6㎞。

高架の近代的な鉄道路線も悪くはないが、やはり線路が見える地平路線の方が「ちゃり鉄」らしさを実感する。

近鉄奈良線の駅と同駅名の瓢箪山駅などを経て地平区間を東進していくが、瀬戸線は全線が複線電化で各駅は相対式2面2線が基本構造となっている。駅の前後に踏切があるところも多く、駅構内を間近から眺めることができるのは楽しい。

矢田駅付近で地上に降りてくる名鉄瀬戸線
矢田駅付近で地上に降りてくる名鉄瀬戸線
近鉄奈良線にも同名の駅があるが、こちらは名鉄瀬戸線の瓢箪山駅
近鉄奈良線にも同名の駅があるが、こちらは名鉄瀬戸線の瓢箪山駅
小幡駅では上下列車が行違うところだった
小幡駅では上下列車が行違うところだった

途中、幾つかの廃駅跡も通過していく。

都市化の只中にあって、廃駅の痕跡が明瞭に残っているところは少ないが、1969年4月5日にまとめて廃止された駅の中には、霞ヶ丘駅跡のようにホームの一部が残存しているところもある。

大森・金城学院前駅と印場駅との間で、名古屋市域から尾張旭市域に入り、三郷駅と水野駅との間で瀬戸市域に入る。

愛知環状鉄道との接続駅である新瀬戸駅を出ると、瀬戸市役所駅を経て終点の尾張瀬戸駅。11時1分着。29.2㎞であった。

かつてのホーム跡が辛うじて残る霞ヶ丘駅跡
かつてのホーム跡が辛うじて残る霞ヶ丘駅跡
緩やかな曲線に位置する瀬戸市役所前駅
緩やかな曲線に位置する瀬戸市役所前駅
名鉄瀬戸線の終点である尾張瀬戸駅に到着した
名鉄瀬戸線の終点である尾張瀬戸駅に到着した

ここからはしばらく鉄道沿線を離れて走ることになる。

この途中で愛知県瀬戸市から岐阜県土岐市に県境を越え、土岐市の柿野集落にある柿野温泉で一浴。

12時27分着、13時28分発。46.4㎞。

入浴には少し早い時間帯ではあったが、予定ではこの後、花白温泉にも立ち寄ることにしていたので、サッと汗を流して先に進むことにした。

柿野温泉からもひたすら東進。瑞浪市域を越えて恵那市域に入り、山間の盆地に降って明智駅には14時32分着。65.9㎞であった。

尾張瀬戸駅からは38.6㎞。途中、柿野温泉に立ち寄ったものの他はノンストップで走り続けた。この当時の「ちゃり鉄」は日程が限られていたので、あまり「途中下車」を組み込むことができず、ただただ、路線に沿って走り続けることが多かったが、近年はこうした短期の「ちゃり鉄」はあまり行っていない。

明知鉄道明知線の明智駅というのは、実に不思議な名称不一致であるが、歴史的に見ると、1889(明治22)年7月1日の町村制施行に際し明知町が発足した後、1954(昭和29)年7月1日に合併によって明智町が誕生してきた経緯がある。更に降った2004年(平成16)年10月25日には合併によって恵那市に吸収されており、自治体としての明智町は消滅しているが、現在も地名は明智となっている。

これらの歴史的な経緯の中で国鉄時代の1934(昭和9)年6月24日に明知線明知駅が開業したのだが、1985年(昭和60)年11月16日の国鉄明知線廃止、明知鉄道明知線開業に際し、明知駅が当時の町名に合わせて明智駅に改称されている。

そんな明智駅ではあるが、駅舎の周辺には観光客の姿もあり、車両基地のある駅構内も含めて、それなりの賑わいがあった。駅の近くに日本大正村といった観光施設もあるので、そういった施設を訪れた人が明智駅にも立ち寄っている様子だった。

ここで18分の長休止を挟み、明知鉄道明知線の「ちゃり鉄」に入る。14時50分発。

初冬の山間ということもあって、既に、夕方の雰囲気が漂い始める中での出発となった。

明知鉄道明知線・明智駅(岐阜県:2016年12月)
明知鉄道明知線の明智駅に着く頃には西日の時間帯となっていた

明知鉄道明知線は明智~岩村間、岩村~恵那間に、それぞれ峠を持っており、恵那駅の側から見ると岩村駅に向かって登った後、明智駅に向かって降る形となっているが、各駅間にも小刻みなアップダウンが繰り返される。

国土地理院の地形図で図上計測したところ、明智駅は444mだが隣の野志駅は500m。その後、山岡駅から花白温泉駅にかけて480m付近で推移し、530m弱の峠を越えて岩村駅に達して500m。

そこからは緩やかに降り、極楽駅が480m強、飯羽間駅が470m強、阿木駅が445m弱。

続く飯沼駅に向かって再び峠を越え、飯沼駅は470m強。ここからは一気に下り東野駅が310m強、恵那駅が270m弱という具合だった。

国鉄に起源をもつ路線の場合、幹線から分岐していく支線は、一般的には低地にある幹線の分岐駅から山間部に分け入っていく線形を持つことが多い。幹線の間を連絡する支線であれば、途中で峠を越える線形となるが、行き止まりの盲腸線であれば山間部に分け入った高いところに鄙びた終着駅があることが多く、終着駅側からアクセスすると「山を降って」分岐駅に向かうことになる。

明知鉄道の場合は、途中に最高地点があり、終着駅に向かってやや降っているので、明智駅側からアクセスするとすぐに登り勾配が始まって一瞬違和感を抱く。

野志駅には14時59分着。67.8㎞。

田圃の中に設けられた1面1線の棒線駅で明智駅からも1.9㎞しかない。

国鉄由来の路線にしては駅間距離が短いし駅の構造も新しいので、明知線時代の駅ではなさそうだと調べてみると、やはりその通りで、開業は明知鉄道移管後の1994年12月15日。明知鉄道の中では2008年12月25日に開業した極楽駅に次いで二番目に新しい駅なのであった。三セク移管に当たって、地域住民の利便性向上のために増設された駅の一つが、この野志駅である。

ここから峠を越えて山を少し降って山岡駅には15時18分着。72㎞。

到着列車を撮影したり駅舎に併設された「かんてんかん」などに立ち寄ったりして過ごしているうちに、アジア系の若い女性から片言の日本語で話しかけられる。英語の方がコミュニケーションを取れるとのことなので英語で話を伺うと、彼女は名古屋の大学に通う留学生。「おばあちゃんの・・・」に行きたいという。調べてみると地区の西部に「道の駅・おばあちゃん市・山岡」があるので、どうもそこに行きたいようだが、残念ながら駅からの公共交通機関がない。

そこで彼女を連れて「かんてんかん」に戻り、店のスタッフに事情を話すと「あぁ、さっきの人」とつれない返事。日本語で上手くコミュニケーションが取れないこともあって、「ここでは分からない」と追い返したようだが、私が彼女の要望を話してバスか何かがあるかを尋ねると、駅前にタクシーがあるからそこで聞いてくれ、とのことだった。

駅前には聞いた通りタクシーの事務所があり、ちょうど、運転手がタクシーで待機していたので、道の駅を訪れた後は名古屋に帰るという彼女の希望と、概算のタクシー代や彼女の所持金について確認した上で、ここから道の駅経由でJR瑞浪駅に抜けるルートで彼女を送ってもらうように依頼し見送った。

その後の顛末は分からないが、無事、異国の地の旅を楽しんでもらえていれば幸いだ。

私も予定時間を過ぎて15時44分、山岡駅を出発した。

明知鉄道明知線・野志駅(岐阜県:2016年12月)
山間の田んぼに面した野志駅は駅前野宿で訪れてみたい旅情駅の佇まい
明知鉄道明知線・山岡駅(岐阜県:2016年12月)
山岡駅手前のカーブを降ってきた単行気動車

花白温泉駅には15時49分着。73.7㎞。

ここで花白温泉にも立ち寄る予定ではあったが、山岡駅での滞在が長くなったことや、日没後走行が長くなるのを避けるため、この日2回目の入浴は割愛し先に進むことにした。いずれ再訪する機会があるので、その時には入浴したい。15時54分発。

交換駅の岩村駅に達する頃には日没時刻。その後、極楽駅、飯羽間駅と進むうちにすっかり残照の時刻となり、阿木駅に到着する頃にはとっぷりと暮れていた。

冬の野宿旅は玄人向きではあるが、夏の野宿に付きまとう害虫や不快な高温多湿がないという点において、寧ろ快適である。寒さは確かに厳しいが、それは衣類や寝袋の調節で対応できるからだ。高温多湿は対応に限界がある。ただし、日が短く一日の行動時間が大きく制限されてしまうのは大きな欠点ではある。

阿木駅17時20分着、17時26分発。83.7㎞。

花白温泉の最寄り駅である花白温泉駅に到着
花白温泉の最寄り駅である花白温泉駅に到着
明知鉄道明知線・岩村駅(岐阜県:2016年12月)
岩村駅で上下列車の行き違いを遠望する
明知鉄道明知線・飯羽間駅(岐阜県:2016年12月)
残照の中に浮かび上がる飯羽間駅
17時半を過ぎて阿木駅に到着する頃にはすっかり暮れていた
17時半を過ぎて阿木駅に到着する頃にはすっかり暮れていた

最後の峠を越えてこの日の目的地の飯沼駅には17時42分に到着した。87.5㎞であった。

飯沼駅については旅情駅探訪記にも別途記事を書いたのでそちらも参照いただきたい。

到着は18時前ではあったものの、既に駅の周辺は深夜のようにひっそりと静まり返っていた。

駅は飯沼川に沿った山間の小盆地にあり西側は小さな峠を隔てて阿木川流域の阿木川ダム湖へ、東側は飯沼集落を経て恵那山周辺の大きな山域へと続いている。

そして手前の阿木駅と飯沼駅の2駅は恵那市域から出て中津川市域に含まれる、そういう複雑な立地関係にある。

この飯沼駅も開業は1991年10月28日で、明知鉄道への移管後の事。

阿木駅と東野駅との間の駅間距離が7.3㎞にも及び、飯沼地区の住民にとって不便だったことから、明知鉄道移管後に駅が設けられたのだが、駅間7.3㎞というのは国鉄時代の標準からしても長い距離で、古くから駅設置の要望はあったという。

それが実現しなかったのは、この飯沼駅前後の勾配が33‰にも及ぶために、地方鉄道建設規定15条の「停車場の勾配は一、〇〇〇分の一〇以下」という規定に抵触するからであった。

駅設置が実現したのは、地元の要望を受けた明知鉄道が、33‰の勾配の途中でも安全に停発車できる新型車両を開発し運輸省の許可を得たからで、これは国鉄やJRでは実現し得ない地元密着の成果であろう。

ホームに設けられた待合室の明かりが、無人の山野に漏れる
ホームに設けられた待合室の明かりが、無人の山野に漏れる
星空が瞬く谷あいに静かに佇む飯沼駅
星空が瞬く谷あいに静かに佇む飯沼駅
恵那に向かう列車が到着したが、乗降客の姿はなかった
恵那に向かう列車が到着したが、乗降客の姿はなかった

到着時刻は通勤通学者の帰宅時間帯だったこともあり、旅客動線としては恵那から明智に向かう移動が卓越する。

程なくして、恵那駅に向かう普通列車が到着したが旅客の乗降は無かった。

恵那に向かって急勾配を降っていく列車を見送りつつ、駅前野宿の支度を済ませてホッと一息つく。

野宿で旅する時はテントが我が家となる。現在使用しているテントはアライテントのエアライズ1で10年目。旅先でテントを張る環境自体は毎回異なるものの、テント内の居住環境やスペースの作り方はほぼ確立しているので、テントに帰ると我が家に帰ったような落ち着きを感じるようになった。

夕食なども済ませて次の列車の到着を待つうちに、駅の周辺の撮影なども行なう。

後発の駅で開業当初から無人駅だったこともあり、駅舎などはなく、付随施設や駅前のスペースは最低限だ。

時折、近隣住民が車で通りかかるが、列車の到着時間以外に駅に訪れる人はいない。

駐車スペースには軽トラが一台停まっているが、中に人の姿は無く、迎えの車ではないことが分かる。駅まで車でやってきて、駅からは列車で出掛けているのであろう。車社会の中でこうした利用者が居るということは、鉄道経営にとっては望ましいことだ。

程なく、山峡に鉄道の走行音が響き始めた。「タタン、タタン」と一定のリズムを刻むその音は、単行列車の接近を暗示している。明智駅に向かう列車が坂を登ってきているのであろう。それに前後して、駅前に数台の車がやってきたので、この列車からは降車客があるようだ。

やがて線路の彼方に眩しいヘッドライトの光の玉が現れ、ゆっくりと飯沼駅に接近してきた。

列車が到着しドアが開くと、数名の降車客の姿がホーム上を移動してそれぞれの迎えの車の方に消えて行った。しばらく、自動放送の音が聞こえていたが、それが消えると、一瞬の間を置いてエンジン音が高まり、列車は急勾配を登って明智駅に向かっていく。

踏切の遮断機が上がると、迎えの車のうちの数台は踏切を渡って飯沼集落方面に消えて行き、それに前後して西の山手に消えて行く車もあった。先ほどの軽トラの持ち主も帰ってきたらしく、後で確認すると軽トラも居なくなっていた。

駐輪場もあるがパンクした自転車が数台棄てられていただけで、自転車での利用者の姿は見られなかった。どこに向かうにしても坂道が多いので、この地区で自転車を日常的に使う人は少ないのかもしれない。

束の間の喧騒が過ぎ去ると、駅には夜の帳と私だけが残った。

駅前野宿の夜に付き物の少し侘びしいひと時だが、そんな侘びしさに、明かりの灯る駅が静かに寄り添ってくれる。

駅前にはわずかな駐車スペースと電話ボックス、駐輪場などがある
駅前にはわずかな駐車スペースと電話ボックス、駐輪場などがある
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
恵那からの急勾配を上って、明智行の普通列車がやってきた
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
利用者が四散すると、駅には夜の帳だけが訪れる

20時を回ると車の通行量もめっきり減って、深夜のような雰囲気になった。辺りは盆地特有の冷え込みでグッと気温が下がってきた。

旅客動線を反映して飯沼駅から恵那駅に向かう列車は20時半過ぎが最終。その後も、明智駅から恵那駅に向かう列車の運行はあるが、飯沼駅は通過してしまう。

一方、恵那駅から明智駅に向かう列車は21時台、22時台にそれぞれ1本ずつ設定されている。

20時半過ぎの恵那行き最終列車を撮影した後、明智行きの列車を待つ間、寝袋に潜り込んで寒さをしのいでいたのだが、いつの間にか寝てしまっていて、この後の2本の列車の発着は、朧げな記憶の中に残っているだけだった。

明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
20時半を回り、既に、眠りに就いたかのように静まり返る飯沼駅
恵那方面への最終列車のテールライトを見送る
恵那方面への最終列車のテールライトを見送る

ちゃり鉄8号:2日目:飯沼=恵那-鬼岩公園-御嵩=犬山=名鉄岐阜-岐阜≧自宅

2日目は飯沼駅から恵那駅まで明知鉄道沿線を走り切った後、瑞浪市北部の鬼岩公園を経由して名鉄広見線の御嵩駅に向かい、そこから、広見線・各務原線の2路線を走ってJR岐阜駅で「ちゃり鉄」の旅を終える予定だ。

ルート図と断面図は以下のとおり。

ルート図:ちゃり鉄8号2日目
ルート図:ちゃり鉄8号2日目
断面図:ちゃり鉄8号2日目
断面図:ちゃり鉄8号2日目

飯沼駅から恵那駅までは山を降ることになるが、その後、鬼岩公園を経て御嵩駅に至る区間で3つほどの峠越えを控えている。その後は濃尾平野に入ることもあり、全体的に緩やかに降りながら岐阜市街地に向かうことになる。

全体としては昨日の行程とは対照的に西向きのルート。途中の峠は小さなものなので、行程に大きな影響は及ぼさない。

ただ、天気は下り坂で後半は雨に降られる心配もあった。

一夜明けた飯沼駅は厳しい冷え込み。携行している温度計の示度は氷点下5度となっており、寝袋から出るのを躊躇う。しばらく寝袋の中でウダウダしていたが、始発列車が来るまでには野宿の後片付けを済ませておく必要もあり、朝食を済ませて撤収を始める。

時刻は6時前。駅には明かりが灯り、まだ眠りの中に居たが、東の空は紺色から群青色に転じていて、黎明の凛とした空気が辺りを包み込んでいた。

旅情駅で迎えるこのひと時は、至福と呼ぶに相応しい。

やがて、阿木駅の方から山を降って来る列車の走行音が聞こえるようになり、踏切が作動し始めた。明智駅から恵那駅に向かう始発列車がやってきたのである。

時刻は6時過ぎだが、真冬のこの日は夜明けの1時間以上前で、駅の周辺はまだ夜の佇まい。

列車の到着に先立って駅に人が来ることもなく、到着した列車の車内にも僅かな乗客の姿しかない。

それでも列車は律義に停車し、ドアの開閉を行った後、恵那駅に向かって出発していった。

夜明け前の黎明に包まれた中、恵那に向かう始発列車が到着した
夜明け前の黎明に包まれた中、恵那に向かう始発列車が到着した
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
飯沼駅で降車する客は勿論、乗車する客の姿もなかった
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
黎明の青い大気の底で、凛とした佇まいの飯沼駅
紺色の空が群青から青紫へ移りゆく夜明け前のひと時
紺色の空が群青から青紫へ移りゆく夜明け前のひと時

夜明け前の旅情駅は一日の中では最も森閑とした雰囲気だ。

日没後のトワイライトタイムとは違って、人の気配が希薄な時間帯だからかもしれないが、空気に緊張感が漂っている。気温も一日の中で最も下がることが多く、冬場の駅前野宿では、厳しい冷え込みに、なかなか、寝袋から抜け出せなくなる。

だが、駅には照明が灯っていることが多く、その明かりにはなんとなく温もりを感じる。

こうした感覚は廃駅からは感じることがないし、営業駅であったとしても、タイマーなどで夜間の照明が落とされる駅だと感じられない。

その理由を掘り下げて考えたことはないのだが、明かりが人の生活と結びついたものだからなのではないだろうか。

日没後の暗闇の中をドライブしている時や、下山が遅れて暗くなってから山道を下っている時に、遠くに街灯りを見つけるとホッとすることがあるが、それに通じるものがある気がする。

夜明け前の空の色は、濃紺から群青へ、群青から青紫へと、ドラマティックに移り変わってゆく。空の雲には少しずつ赤みが差し、夜明けが近づいていることを実感する。

体の節々に寒気の痛みを感じる中、朝日が待ち遠しくもなるが、旅情駅で過ごす夜明け前のひと時を堪能したく、駅の周辺を歩き回って体を温める。

明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
群青から青色へと少しずつ明るみを増す大気の中で、駅はまだ眠りの中にいるよう
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
夜明けが近づくと、大気は青紫色に染まり始めた
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
ホーム上にはこじんまりとした待合室と駅名標が並んでいる
飯沼駅の駅名標
飯沼駅の駅名標
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
空に浮かぶ雲が深紅に染まり始めると日の出も近い

駅のホーム上には小さな待合室がある。その横には駅名標があり、飯沼駅の顔となっている。この駅名標の横に階段があって、駅前から見るとそこが正面口ということになる。

6時過ぎには青い大気に包まれていたが、7時前になると、空に浮かぶ雲の赤みが強くなり、深紅に染まり始める。

駅はまだ照明が灯っており、訪れる人もいないため、眠りから覚めていない。

真冬の朝とあって、鳥のさえずりなども聞こえず、静まり返っている。

飯沼駅の勾配については既に述べたところであるが、駅のホームと待合室を眺めるとこの勾配を感じることができる。

というのも、待合室の床面は水平を保っているのに対し、駅のホームは線路の勾配と平行に作られているため、待合室の基礎部分でその傾斜を相殺しているからである。

黄色く塗られたコンクリートの基礎は、明智側に尖った三角形の楔形をしており、勾配33パーミルという表示も張られている。

駅名標のとなりにも、飯沼駅の勾配が日本一であることを示す看板が立っている。

日本一の座は、1996年11月16日、移設によって40‰勾配中の駅となった、京阪電鉄京津線の大谷駅に明け渡した格好になっているが、今も、明知鉄道の小さな観光資源として、同じく、全国で第三位の勾配駅として知られる野志駅とともに、活用されている。

明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
この時刻になっても、駅に利用者の姿は見られなかった
33‰の勾配である事を示す、ホーム上待合室の基礎
33‰の勾配である事を示す、ホーム上待合室の基礎
明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
すっかり明るくなったが、夜の余韻を残す青い大気が、まだ、残っていた

7時になると駅の照明が消えた。そして、この時刻を境に、夜の名残の青い大気がスッと消えて、駅が目を覚ました。

程なく、明智に向かう始発列車が到着する。

勾配区間に伸びた直線の彼方から、ヘッドライトを灯して走ってくる気動車の走行音が、朝を迎えた山峡に響く。

飯沼駅のホームには、まだ、乗客の姿はなく、到着した列車から降りてくる客の姿もなかった。

時刻的に、次の恵那行きが、朝の通勤通学列車なのかもしれない。

列車の出発を見送った後、珍しく、駅前で自撮り写真を撮影して出発することにした。7時12分発。

明知鉄道明知線・飯沼駅(岐阜県:2016年12月)
明智に向かう始発列車が、急勾配を登ってきた
明智行の始発列車を見送って「ちゃり鉄8号」も出発することにした
明智行の始発列車を見送って「ちゃり鉄8号」も出発することにした

飯沼駅から東野駅にかけては、飯沼川が刻んだ峡谷をグイグイと降っていく。

実際には5.2㎞の走行距離で160mほどを降ったので、平均勾配としては3.1%程度。並行する明知鉄道明知線のこの区間の勾配が33‰に達するのと一致している。

冷気を割いて高速で降っていくので、身体の末梢部分に痛みを感じ始めた頃、朝日が眩しい東野駅に到着。7時22分。降り一辺倒だったこともあり、この区間の平均速度は31.2㎞/hに達した。

高齢者専用の賃貸マンションが併設された東野駅ではあるが、この時間、列車の発着はないため駅の周辺に利用者の姿は見られない。

ここまでは寒気の中を降るのに備えた装備を身に付けていたが、ここからは平坦路に出ることもあり、防寒装備を脱ぐなどして10分間滞在。7時32分発。

明知鉄道の起点駅である恵那駅には7時41分着。8.1㎞であった。

恵那駅の東側で中央本線の複線と並行する区間があるが、渡り線は撤去されており、列車の相互乗り入れは出来ない構造となっている。

ポイントを撤去してしまうのは管理上の問題なのであろう。

朝日に輝く鉄路が印象的な東野駅
朝日に輝く鉄路が印象的な東野駅
明知鉄道の分岐駅である恵那駅までやってきた
明知鉄道の分岐駅である恵那駅までやってきた
恵那駅の当方で複線の中央本線(左)と単線の明知鉄道(右)が分岐
恵那駅の当方で複線の中央本線(左)と単線の明知鉄道(右)が分岐

恵那駅から次の目的地である鬼岩公園までは30㎞近い距離があるので、恵那駅出発前に携行食の補給などを行い8時2分に出発。

恵那駅からしばらくは中央本線に沿った河岸段丘上を進むが、釜戸駅と瑞浪駅の間にある白狐温泉付近から山手に入り、里山風景の中を鬼岩公園に向かって登って行く。

鬼岩公園は可児川上流域にあり、松野ダムの直下に位置する。巨岩がゴロゴロ転がる峡谷で、所々に祠が設けられている。山麓には幾つかの温泉旅館もあり、古くから、この自然の造形に畏敬の念を感じ、信仰の対象とされるとともに、観光名所とされてきたようだ。

今回は上流に当たる松野ダム側からのアクセスとなったため、一旦ダム湖畔の周回路から峡谷に沿った急勾配を降り、山麓の温泉街に入って自転車をデポしてから、徒歩で峡谷散策を楽しむことにした。

9時42分着、36.5㎞。

花崗岩質の巨岩がゴロゴロ転がる渓谷は圧巻で、谷底から稜線付近に登れば、柵もない岩場が展望台のように開けている。周囲はなだらかな丘陵地帯。波打つ山野が遥かに続いている。

峡谷を挟んだ向かい側にも巨岩の岸壁が続いており、その崖の上で佇む人影が遠望できる。

足を滑らせたら転落死亡事故間違いないような状況なので、見ていてハラハラするが、向こうから眺めた私もまた、同様に見えるのだろう。

「途中下車」の少ない日程での旅だったが、鬼岩公園では40分弱の散策を楽しみ10時20分発。

中央本線沿線を離れて瑞浪市の山間部を鬼岩公園に向かって登る
中央本線沿線を離れて瑞浪市の山間部を鬼岩公園に向かって登る
巨岩がゴロゴロ転がる可児川源流の鬼岩峡
巨岩がゴロゴロ転がる可児川源流の鬼岩峡
可児川が刻む深い峡谷に巨岩がせり出している
可児川が刻む深い峡谷に巨岩がせり出している

ここから可児川に沿って緩やかに降り、名鉄広見線の御嵩駅には10時44分に到着。43.8㎞。

ここから犬山駅までは名鉄広見線に沿って走る。

この名鉄広見線は地図で沿線を概観すると不思議な点が二つある。

まず、広見線という名称をもっているものの、沿線に広見という駅や自治体が存在せず、可児市にある大字広見にも駅が存在しないこと。そして、JR可児駅に隣接した新可児駅でスイッチバックする線形となっていることだ。

これらの事実は広見線の歴史と密接に結びついている。

新可児駅でスイッチバックする線形となっていることが如実に表しているように、広見線は、犬山~新可児間と、新可児~御嵩間で異なる出自を持っており、歴史的には新多治見~広見(現・可児)間を1918年12月28日に開業させていた東濃鉄道が、続く1920年8月21日に広見~御嵩(現・御嵩口)間を開業させたことがこの路線の始まりである。

東濃鉄道の手による新多治見~広見間は、その後、1926年9月25日に国有化され国鉄太多線となった。広見駅は時を隔てた1982年4月1日に至って可児駅に改称されている。

一方、犬山~新可児間に関しては名古屋鉄道が1925年4月24日に、犬山口~今渡(現・日本ライン今渡)間を今渡線として開業させたことに端を発する。その後、今渡~広見(現・新可児)間を1929年1月22日に開業させたことによって、犬山~御嵩間の現在の広見線の原型が完成した。

その後、犬山、御嵩の末端部分や、広見周辺の接続部分で駅移転や路線延長、線形変更などが行われるとともに、東濃鉄道の路線が東美鉄道を経て名鉄に吸収合併されることによって、最終的には1952年4月1日に、現在の広見線が出来上がったのである。

そして、歴史上、広見駅が存在したことが暗示するように、1889年7月1日に誕生した広見村は、1924年1月1日に町制を施行して広見町となり、以後、1955年2月1日に合併によって可児町となるまでの期間、この地に存在した。現在の新可児駅や可児駅は岐阜県可児市下恵土にあるが、可児川右岸にある下恵土に対し左岸側に大字広見があり、広見駅が存在していた当時の周辺自治体は広見村若しくは広見町であった。

駅の移転や市町村合併によって路線名や駅名の関係性が分かりにくくなっているが、歴史を紐解いていくことによってその関係性が明らかにしつつ、現地を旅するというのは、「ちゃり鉄」の旅ならではの楽しみである。

御嵩駅は集落の中にある風情ある終着駅。1面1線の小さな駅で無人化されているが、駅舎には観光案内所が入っており、好ましい佇まいである。

なお、町名や駅名は御嵩であるが、観光としては中山道御嶽宿として知られている。地名表記の違いなどは文献調査の課題として興味が湧く。

駅到着時には列車の姿は無かったが、構内には乗客の姿もあり、程なく、特徴ある名鉄の真っ赤な列車が緩い勾配を登ってやってきた。

到着した列車からは地元の利用客らしき人の他、多少の観光客が降りてきて、代わりに列車待ちをしていた数名が列車に乗り込んでいった。

しばらく駅の周辺でその様子を撮影した後、列車の出発前に御嵩駅を出て、少し離れたところにある踏切から新可児に向けて出発していく列車を撮影した。御嵩駅10時57分発。

名鉄広見線の御嵩駅はのんびりとした風情ある終着駅だ
名鉄広見線の御嵩駅はのんびりとした風情ある終着駅だ
駅の西にある踏切から御嵩駅を遠望する
駅の西にある踏切から御嵩駅を遠望する

広見線の旧東濃鉄道区間は、可児川に沿った田園地帯をのんびりと走る路線だ。

かつては、途中の明智駅から八百津線が分岐していたが、2001年10月1日に廃止されてしまった。

中間駅となった明智駅はちゃり鉄8号での訪問当時は広見線の新可児~御嵩間で唯一の交換可能駅として機能していたが、2024年5月現在では、旧2番線のみが残された1面1線の棒線駅となっている。

なお、ここに明智駅があることもまた不思議で、明知鉄道の明智駅との関係が気になるが、この名鉄広見線の明智駅は駅の南にある明智城に由来する。

そして、明智城自体は戦国の名将・明智光秀の一族に関係が深い。

私が住んでいる京都府福知山市も明智光秀ゆかりの地であるので、何処か、親近感を覚える。

明智駅には11時25分着、11時31分発。48.7㎞であった。

名鉄広見線には明智駅があるが明知鉄道の明智駅とは全く違う場所にある
名鉄広見線には明智駅があるが明知鉄道の明智駅とは全く違う場所にある

広見線の要衝である新可児駅には11時44分着。52.3㎞。

この日は雨予報だったのだが、この辺りまで来ると、空模様が怪しくなってきた。

新可児駅はJR太多線の可児駅と隣接しており、駅前の空間は共用されている。

歴史的に見るとJR太多線の多治見~可児間と名鉄広見線の新可児~御嵩間が同じ系統に属することは既述のとおりだが、既に渡り線は撤去されており、名鉄とJRとの間で列車が行き来することはない。

列車の発着時間帯ではなかったこともあり、駅前は閑散としていた。

新可児駅11時50分発。

名鉄広見線の新可児駅とJR太多線の可児駅は隣接して設けられている
名鉄広見線の新可児駅とJR太多線の可児駅は隣接して設けられている

ここから犬山駅までは名鉄の手による開業区間。沿線風景も一層市街化が顕著となる。

途中、日本ライン今渡駅付近で比較的木曽川に近いところを走るが、そのまま木曽川右岸を進んでいくと可児市と犬山市の境界付近で険崖に行く手を阻まれる。この辺りの木曽川は「日本ライン」の名称が示す通りの景勝地で、「木曽川下りの」観光船が流れ下っている。

名鉄はかような箇所に鉄路を開けないので、山一つ隔てた内陸側を大きく迂回していく。

西可児駅と善師野駅との間で可児市から犬山市に入り、市域境界の山野が途切れて再び市街地に降りてくると犬山駅に達する。13時15分。68.3㎞。

犬山駅は名鉄路線の要衝で小牧線、犬山線、広見線の3路線が交わる。本線格は犬山線であるが、この地に他の鉄道路線がないこともあって、名鉄の独壇場といった感じだ。3面6線構造の大型駅で要衝にふさわしい作り。駅の北側の踏切から眺めた構内の様子も壮観だ。

広見線の旅を終えた「ちゃり鉄8号」は、この後、新鵜沼駅に移動して、そこから名鉄各務原線を走って終了。天候が思わしくないこともあって、先を急ぐことにする。13時22分発。

名鉄3路線が交わる要衝の犬山駅に到着
名鉄3路線が交わる要衝の犬山駅に到着

この先、名鉄は沿線の観光名所である犬山遊園や犬山城をかすめて木曽川を渡っていく。

この木曽川にかかるのが犬山橋だが、鉄道ファンにはよく知られているように、かつては鉄道道路併用橋で自動車が行き交う横を名鉄特急パノラマカーの長大編成が渡る撮影名所でもあった。

この併用橋の廃止と専用橋への分離は2000年3月28日。

私は2001年9月に高山駅から新名古屋駅までの名鉄特急「北アルプス」に乗車したことがあるが、その当時既に併用橋は廃止されており、この鉄道名所を生で眺めたり鉄道で渡ったりした経験はない。

「ちゃり鉄8号」でも車道橋を渡ったが、鉄道風景は変わったものの、木曽川の流れと犬山城の織り成す風景は変わらず印象に残るものだった。

新鵜沼駅には13時31分着。70.5㎞。

犬山城を眺めながら木曽川を渡る
犬山城を眺めながら木曽川を渡る
JR高山本線の鵜沼駅と名鉄各務原線の新鵜沼駅もY字型に隣接した構造を持っている
JR高山本線の鵜沼駅と名鉄各務原線の新鵜沼駅もY字型に隣接した構造を持っている

ここからは名鉄各務原線に沿って名鉄岐阜駅まで走り通し、JR岐阜駅前に移動して「ちゃり鉄8号」の旅を終える。計画距離と時間は20㎞強、4時間強である。20㎞で4時間というのは時間がかかりすぎているように感じるが、駅数が多いことと、各駅の停車時間を10分で計画したことが理由である。

新鵜沼駅への到着予定時刻は13時41分、出発予定時刻は13時51分であったが、実際の到着時刻は13時31分。飯沼駅の出発が予定より1時間12分遅かったことを考えると、ここまでの行程はかなり順調である。

さて、この新鵜沼駅も新可児駅と同様、JRの鵜沼駅と隣接している。そして、かつては名鉄犬山線からJR高山本線に乗り入れるための短絡線が新鵜沼駅の東側に設けられており、特急「北アルプス」がここを通って高山線内に乗り入れていた。

この特急は富山地方鉄道にまで乗り入れていた時代もあり、鉄道ファンにとっては興味深い列車であり車両であったが、今では、短絡線とともに過去帳入りしている。

さて、ここから西進する名鉄各務原線は全線に渡ってJR高山本線と並行している。

岐阜~鵜沼間の主要部分の開業は、高山本線では岐阜~各務ヶ原で1920年11月1日、各務ヶ原~鵜沼間で1921年11月12日。岐阜~鵜沼間の駅数は両端駅を含めて6駅で、区間距離は17.3㎞なので、平均駅間距離は3.46㎞という計算になる。

対する名鉄各務原線は安良田(廃駅)~補給部前(現・三柿野)で1926年1月21日。補給部前~新鵜沼までの延伸開業で1926年10月1日。長住町(現・名鉄岐阜)~安良田間の延伸開業で1928年12月28日。現状での駅数は両端駅を含めて18駅で、区間距離は17.6㎞なので、平均駅間距離は0.98㎞という計算になる。

この数値の比較からは国有鉄道の高山線が開通した後、路線に並行する駅間集落の住民から鉄道駅設置の要請が高まり、その代替として民間資本による鉄道建設が模索され、各務原線の開業に漕ぎつけたというシナリオが描かれるが、これは実際、その通りである。

但し、各務原線は名鉄による敷設ではなく各務原鉄道という別の鉄道会社を起源としており、この鉄道会社が敷設したのは鉄道ではなく軌道であった。これはイメージとしては路面電車ということになる。

普通鉄道である国有鉄道と同規格の普通鉄道であれば、競合路線として免許されなかったのであろうが、位置付けを軌道とすることで競合関係を免れ、高山線を補完するものとして免許されたのであろう。

また、地名についても「各務原」、「各務ヶ原」、「かかみがはら」、「かがみがはら」、「かがみはら」、「かかみはら」と混在していてややこしい。自治体としての正式名称は「各務原(かかみがはら)」であるが、実のところ、こうした読みや表記の混在については、正確な理由は分からないようだ。沿線の北側には「各務」という地名も存在しており、標高170mの各務山もある。

書き間違い、読み間違い、その他の偶然が重なって、それぞれに慣用されるようになったというのが正直なところなのであろうが、これらは文献調査を実施してみたい。

JR高山本線に直角に交わる形で儲けられて名鉄の新鵜沼駅であるが、西進する各務原線の線路は90度転向して高山本線に並行する形で西に向かうことになる。

高山本線は単線非電化、名鉄各務原線は複線電化ということもあり、日中の運転本数でJRは名鉄には叶わないが、駅が少ないこともあって所要時間はJRの方が短く運賃も安い。両社の駅が近接する地区などでは、行き先によって乗り分けるという使い方もされているかもしれない。

鵜沼・新鵜沼駅の西側からそれぞれの駅構内を遠望する
鵜沼・新鵜沼駅の西側からそれぞれの駅構内を遠望する

各務原線の沿線は濃尾平野北縁の平野内にあり起伏は殆どない。全線が複線電化されており多くの駅が相対式2面2線の構造を持っている。

日中は概ね15分ヘッドで列車が運行されていることもあり、30分ヘッドのJR高山本線と比べても、列車との行き違い頻度は高い。

駅毎に列車の姿を見かけるという印象であった。

各務山の南麓にはJR高山本線の各務ヶ原駅と名鉄各務原線の名電各務原駅とが、一区画を挟んだ100mほどの距離を隔てて近接している。

各務山は各務原の象徴的な山のようにも思えるが、実際には山の東西を採土場に蚕食されており無残な姿を晒している。

二十軒駅から各務原市役所前駅にかけての沿線南部には航空自衛隊の岐阜基地があり、三柿野駅が最寄り駅となっている。

前身の各務原鉄道が当初安良田~補給部前間で開業したことは既に述べたとおり。当初の開業位置と現在の三柿野駅の位置とは異なるが、補給部前駅が三柿野駅の前身である。

高山本線と各務原線はそれぞれに役割が異なっていることもあってか、後発の各務原線はあまり高山本線の駅との接続を考慮していない。唯一、新那加駅が隣接しているものの、それ以外では隣接したところに駅を設けていない。

ある意味、それ故に両社が共存出来ているのかもしれない。

濃尾平野北部を淡々と西進する各務原線の羽場駅
濃尾平野北部を淡々と西進する各務原線の羽場駅
列車の運行間隔は短く駅毎に発着列車とすれ違う。各務原線二十軒駅。
列車の運行間隔は短く駅毎に発着列車とすれ違う。各務原線二十軒駅。
各務原市域の中心部に当たる各務原市役所前駅
各務原市域の中心部に当たる各務原市役所前駅
新境川の橋梁越しに望む市民公園前駅
新境川の橋梁越しに望む市民公園前駅

市民公園前駅の西側には新境川が流れており名鉄とJRが隣接した橋梁でこの川を渡っている。「境川」を名乗るくらいであるから、ここに自治体の境界があるのかと思いきや、特にそういうことはなく、大字界となっているだけだ。

各務原市と岐阜市との市域境界はここから二駅進んだところにある新加納駅と高田橋駅の間にあり、その高田橋駅の東側直ぐを流れるのが境川。そして区画整理等で入り組んではいるものの、この付近に市域境界がある。

面白いのは境川と新境川の関係で、境川はその名が示す通り、古くからの地区境界であり、遥か西に流れ降った後で長良川に合流していく。高田橋駅の少し上流側で水門を通して新荒田川を分流しているが、この新荒田川は境川の北側を流れながら幾つかの支流を受け入れ、長良川に合流する前に再び境川に合流している。

一方、新境川は境川の途中から人為的に開削された短絡水路で木曽川に合流する。そして、この付近の旧河川は勾配の少ない平地を西に向かって流れ下り、全体としては長良川水系を成すものが多いのだが、新たに開削された新境川はそれらの川の上を跨いで木曽川に短絡して流れ出している。

いわゆる天井川というやつで、川が川を跨ぐという面白い地形が所々にある。

こうした水路の開削は、治水目的の場合もあるし灌漑目的の場合もある。木曽川や長良川、揖斐川の流域の治水地形としては、下流域にある輪中集落が有名だが、濃尾平野北部でも近代以前は水害が多発したはずで、近年の農地・宅地開発に先立って、治水工事は重要な土木事業であったことだろう。

一方で治水を進めることによって従来の氾濫原は干害を受けることにもなり、それが灌漑の必要性にも結び付いていく。愛知県で言えば、知多半島の愛知用水や渥美半島の豊川用水が有名であるが、愛知用水の水源地は先ほど通過してきた明智駅の上流、八百津町付近の木曽川に設けられた兼山ダムの取水口である。そこから地下の水路トンネルを介して遥々と知多半島の先端付近まで灌漑用水を提供しているのだ。

その開削や設計にはかなり綿密な計画と精密な測量が必要となることだろう。

境川や新境川はそれらと比べると小規模なものではあるが、濃尾平野の地誌を象徴する風景の一つと言えよう。

岐阜市内に入ると高層ビル群の間を進むようになる。

かつて岐阜市内線の一翼を担った田神線が分岐していた田神駅などを経て、ビル群に突っ込むようにして設けられた名鉄岐阜駅に15時51分着。91.4㎞であった。名鉄岐阜駅は既に述べたように各務原鉄道の手によって開業した当初の駅名は「長住町」であった。現在の所在地名は大字神田町にあり、ここでも不一致が見られるが、言うまでもなく駅の移転の影響である。

その辺りは別途、本編や文献調査の中で詳細にまとめていきたい。

ビル群に突っ込むような形で終わる名鉄各務原線の名鉄岐阜駅
ビル群に突っ込むような形で終わる名鉄各務原線の名鉄岐阜駅

岐阜からの帰路はJRを利用することになるので、ここから岐阜駅まで移動し16時1分着。92.2㎞。

計画では18時7分到着の予定だったので、かなりの早着となったが、お陰で雨を避けることに成功。岐阜駅に到着した直後に驟雨に見舞われたのだった。

駅前で雨を避けながら自転車を畳み、輪行の準備や夕食を済ませてホームに上がる頃には既にとっぷりと暮れていた。

当時住んでいたのはJR福知山線沿線だったので、ここからは普通列車や快速列車を乗り継いでの帰宅となるが、ちょうど雨に濡れたホームには大阪行きの特急「ひだ」が停車していた。キハ85系で運行されていた当時の特急「ひだ」には数えるほどしか乗車したことがなく、早めに帰宅できることもあって迷ったが、区間乗車になることもあり列車の撮影だけを行って見送る。

結局、岐阜~大垣~米原~大阪~最寄り駅という、この辺りを普通列車で乗り継ぐ人には馴染みある列車の乗り継ぎで21時を回って自宅に帰り、「ちゃり鉄8号」の旅を終えたのだった。

キハ85系で運行されていた時代の大阪行き「ワイドビューひだ」を見送る
キハ85系で運行されていた時代の大阪行き「ワイドビューひだ」を見送る
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